403 再び「日本百名山」 深田久弥が「日本百名山」を新潮社から刊行した

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再び「日本百名山」
深田久弥が「日本百名山」を新潮社から刊行したのは昭和39年(1964)。
数え切れないほどの山がある日本、そこから百の名山をどうやって選んだのか…。
本人がこの本の後記に書いている。それは3つの選定基準だったという。第1は山の「品格」。人
間にも人格の高下があるように、山にもそれがある」と記し、
「山格のある山でなければならない」
。第2は山の「歴史」
。第3は「個性」で、「顕著なものが注
目されるのは芸術作品と同じである」と述べる。そして筑波山と開聞岳を除いて標高1千5百メ
ートル以上という条件を加えた。
深田久弥は尋常小学校6年のとき、郷里の石川県加賀市にある「富士写ヶ岳942m」に登り山の
とりこになる。文学と登山にのめり込み東京帝国大学を中退する。
彼は小説「津軽の野づら」で文壇に認められ、近代名作と喧伝っされたが、実は伴侶の北畠美代
が書いたものだったことがバレ、作家仲間から敬遠されていた。
そこで作品の方向を山の世界に転換した。昭和9年に「わが山々」を発刊し翌年には日本山岳
会に入会した。昭和15年「山小屋」3月号に百名山の連載を開始した。このときは10回20
座で終わっている。戦後の昭和22年に北畠美代と別れ木庭志げ子と再婚。昭和28年「岳人」
が日本百名山の選定を公募したが、深田久弥はノータッチだった。
その後「ヒマラヤ山と人」
「ヒマラヤ登攀史」を刊行。昭和34年「山と高原」3月号から彼が
すべての山を自身で登り、山の品格を第1の選定基準にして百名山を選び、38年4月まで連載
した。
刊行された「日本百名山」は、当初は山岳関係者よりも文人、作家の間で評価が高かった。
深田の友人だった林房雄は1964年11月、朝日新聞の文芸評で「正確、無償の歓喜に満ちた文章
で百名山を描いた」と書き、
「不朽の文学」と絶賛した。
翌年、読売文学賞を受賞。評論家の小林秀雄は「山格について一応自信がある批評的言辞を得
るのに、著者は50年の経験を要した。文章の秀逸は、そこからきている」と評した。
ところが80年代、中高年の登山ブームで、各地の百名山にどっと登山者が押しかけた。
それに登山旅行会社が拍車をかける。百名山だけが過密となり山が荒れた。
でも当事者の深田久弥は「わが愛する山々」「山があるから」「山岳遍歴」
「瀟洒なる自然」
など心に染み入る至極のエッセイを世に出した。
「日本百名山」だけが彼の著作と思っている人が
多いが、もっと広く彼の山の名作を読むことを勧めたい。
日本山岳文化学会会長の大森久雄さん。彼は当時、雑誌「山と高原」の編集者だった。
大森さんは深田久弥邸に出向き、「もっと長く書いてください」と要望したり、「もっと早く書い
てください」と懇願したり、日本百名山は思い出の深い作品だったという。
大森さんは、
「もうそろそろ百名山の目次リストだけの登山から卒業し、山の登り方を根本から
考え直すべきではないでしょうか」と言う。
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