兵の家の構造

地域文化
武士の成長と河内①
(0)武士以前
→
2015.6.17
軍団、征夷大将軍
軍団は、7世紀末頃~11世紀まで設けられた軍事組織。国家が人民から兵士を指名・徴兵
して組織。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、
826年に東北辺境を除いて廃止された。この軍団を率いる征夷大将軍は平安初期,蝦夷(え
みし)征討のため臨時に派遣された遠征軍の指揮官。坂上田村麻呂などが任ぜられた。
(注:鎌倉時代以後,幕末まで武士が任命された。)
(1) 武士の登場
1)
武士(ぶし、 もののふ)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、
戦闘を本分とするとされた宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員。古代末に発生した武
士はその武力で古代を終焉させ、中世社会で主導的役割を果たし、近世で完成された社会体
制を築き上げた。同義語として兵者(2)つわもの
)、侍、武者などがある。
A.武士団の成立
(a) 武士団の登場
・国司の腐敗(私欲をむさぼる)
→在庁官人・郡司・名主などは治安の維持、土地の確保のため武装化→武士団の登場
・地方政治の混乱による治安の乱れ→豪族・有力農民・郡司の武装
(b) 武士団の組織化
・もともと武士団は荘園、国衙領で個別に行動
3)
→「 結合者
」の登場
→
大武士団へ成長
※結合者:国司となって地方へ下り豪族の娘と結婚、土着した下級貴族やその子孫
・地方では、家柄が良さが光る
・中央では、摂関政治の下では出世の見込なし
・大武士団の統率者=武士の棟梁…桓武平氏と清和源氏が有名
B.武士団(兵の家)の構造
4)
棟梁
5)
…大武士団の長 (源氏・平氏=賜姓皇族)
首長
|
6)
家子
・郎党…家子(一族の者)、郎党(従者)
家子
|
家子
家子
7)
下人・所従(しょじゅう)…隷属農民
(a) 桓武平氏
8)
・ 桓武
9)
に勢力
郎党
下人 ・ 所従
下人 ・ 所従
下人 ・ 所従
兵の家の構造
(b) 清和源氏
10)
・ 清和
→
郎党
天皇の曾孫 高望王 →「平」の姓を賜う →
上総介に任命→ 下総に土着 → 関東
11)
郎党
近畿
天皇の孫 源経基 →「源」の姓を賜う
方面に勢力
武士の成長と河内②
(2)
12)
承平・天慶
の乱(935~941)…平将門の乱(935~940)+藤原純友の乱(940~941)
A.平将門の乱(935~940)
(a) 平将門(?~940)…平高望(高望王)の孫
(b) 背景…東国武士団の成長
←
朝廷の干渉が少ない、蝦夷征討の基地
(c) 経過
935~938
939
将門父の遺領問題が発端で一族内で抗争
常陸の国府襲撃
→
下野・上野の国府を襲撃
・下総、猿島郡に根拠地を置く
→
将門、伯父国香を殺害
13)
→ 関八州
の支配
(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)
1)
・ 新皇 と自称し、一族のものを国司などに任命(関東に独立国家をつくる意図)
平貞盛(国香の子)、2)押領使
940
の藤原秀郷らが鎮圧(征東大将軍の到着前に)
B.藤原純友の乱(939~941)
(a) 藤原純友(?~941)
…前伊予掾、帰京せず瀬戸内海の海賊の棟梁となる、
伊予日振島(→)が根拠地
(b) 経過
939
淡路、伊予・讃岐の国府、大宰府を襲う(大宰府炎上)
941
清和源氏の租である 3)源経基
らが鎮圧
C.結果
(a) 朝廷の権威失墜←朝廷はなにもできなかった(朝廷派遣軍の到着前に決着が付く)
(b) 貴族は武士の実力を認識(反乱を押さえたのもまた武士)
(3) 朝廷・貴族の武士利用
A.朝廷・政府
(a) 4)滝口 の武士…宇多天皇が設置(9世紀末)、滝口で伺候したことから名がある
※滝口…禁中清涼殿の艮(東北方)の御溝水の落ちるところ
(b) 5)北面 の武士… 6)白河
天皇が設置(11世紀末)、院の 7) 御所
の北面で警備。
※平氏は院に接近して勢力を伸張
(c) 追捕使・押領使…いずれも令外官、治安の維持が職務、武士を任命
8)
・ 押領 使…内乱の際、兵力不足を補うため豪族の私兵を国司の支配下においた
10~11世紀に諸国に常置
9)
・ 追捕 使…地方豪族を任じた臨時の警察官、1000年頃から諸国に設置
→総追捕使(守護)に発展
(d)
10)
11)
刀伊 の撃退(1019)…大宰権帥藤原 隆家 のもとで九州の武士が活躍
→
これを契機に武士団が結成
.中央政府の武士利用
武士の別名
ア貴族・寺社の警護一
侍
(もののふ )←物部(もののべ)
イ宮中の警備に登用-
12)
(さむらい )←侍(さぶらう)者
滝口の武士
ウ館侍・国侍として活用一追捕使・押領使に任命
cf.北面の武士、西面の武士
(武士
)←兵器(うつわ)を扱
う
源氏の進出
a.
代表的な武家
13)
:桓武天皇の曾孫 高望王の子孫
14)
:清和天皇の孫源 経基の子孫
・ 桓武平氏
・ 清和源氏
b.清和源氏
の進出
ア源経基:藤原純友の乱の鎮圧→源満仲一摂津に土着→源頼光・
15)
源頼信
兄弟
摂関家に接近
16)
イ 平忠常
の乱(1028~31)一
ウ 17)前九年
合戦(1051~62)
源頼信が鎮定→源氏勢力東国ヘ
...
18)
陸奥の豪族安倍氏の反乱→源頼義・ 義家
父子が出羽の豪族清原氏の援助で討滅
19)
エ 後三年
合戦(1083~87)
清原氏一族の争いからおこる。陸奥守の源義家
が
20)
藤原(清原)を助け鎮定
これらの戦いをつうじて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の
21)
棟梁
しての地位を固める。
奥州藤原氏の藤原三代とは?:藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡(平泉で繁栄)→P83
大手町にある「将門の首塚」
今から1700年前(940年、平安時代)の2月14日、
平将門ノ乱が鎮圧された。そして将門の首は平安京へ運
ばれ三条河原に晒された。
晒された首は「我が胴体はどこにある~」と叫び続け
た。と、ある晩その首は空高く舞い上がったかとおもう
と胴体を求めて東の空に飛んでいった。そしてその首が
落ちた神田橋付近に葬られた。
それから数百年経った鎌倉時代末期に、疫病が流行した。これは将門の祟りに違いないと、
1307年にある僧が将門の霊を供養してそこに石塔を建てた。将門塚(しょうもんづか)は大
手町のオフィス街の一角にある。
源氏のルーツ河内源氏
羽曳野市壺井
羽曳野市壺井にある源氏三代の墓
源義家
1039-1106
平安時代中期-後期の武人。
長暦(ちょうりゃく)3年生まれ。源頼義(よりよし)の
長男。前九年の役で父とともに活躍。
のち陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍となり,後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧,東国に源
氏の基盤をきずいた。天下第一の武勇の士とされ,衣川の合戦での歌のやりとり,雁(かり)の
列の乱れに伏兵をみやぶるなど伝説がおおい。嘉承元年7月4日死去。68歳。通称は八幡太郎。
源義家の墓
楠木正成(1294?~1336)河内の土豪。
墓所:河内長野市観心寺
南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯
を本拠地とする。幼名多聞丸。
鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞がな
く権威が失墜。執権の北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧。民
は重税に苦しみ、世の秩序は乱れた。1331年、幕府打倒を目指して後
醍醐天皇が京都で挙兵。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなし
て倒幕勢力に加わる者は少なかった。焦る後醍醐天皇。この時、駆けつけた数少ない武将の
中に当時37歳の楠木正成の姿が。
正成の前半生は不明だが、新興の土豪(地方豪族)。河内地方の商業や輸送の利権をめぐ
って、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあった。天皇に謁見して戦への意見を求
められた正成は「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽
くし策略をめぐらせば勝機もあるでしょう」と答えた。
地元に戻った正成は山中に築いた山城・赤坂城を拠点にわずかに500人で挙兵。これに対し
て幕府は数万の討伐軍を差し向けた。甲冑(かっちゅう)を着て武装した幕府軍に対し、正
成軍の大半は普段農民の地侍であり、兜もなく上半身が裸。粗末な山城を見た幕府軍の武将
からは「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1
日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ」と声が聞こえた。
油断した幕府兵は各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。ところが、兵が斜面
を埋めた瞬間に突然城の外壁が崩れ(二重の塀!)、幕府兵の頭上にドデカい岩や大木が地
響きをあげて転がってきた!1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだ
わらない地侍たちは集団での奇襲を得意とし、この初戦だけで幕府側は700名も兵を失う。
藁人形であざむく、熱湯をかけるなど奇策に翻弄された幕府軍は力押しをやめ、城を包囲し
て持久戦に持ち込んだ(この時、幕府軍の中には足利尊氏もいた。彼は「正成という男は只
者ではない」と感心した)。
兵糧攻めの結果、正成軍は20日で食糧が尽き、そこへ京都で後醍醐天皇が捕らえられたと
急報が入った(天皇は隠岐島に配流された)。正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜
け道から脱出、行方をくらます。
この時、幕府側の武将の誰もが、“正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した”と考え、
「敵ながら立派な最期だった」と言い合ったという。
-->後は映像
映像メモ:
後世に与えた影響: