随想 父の「お話し」 筑西市・ごとうクリニック 後藤千秋 8月が近づくときまって父のことを思い出す。父の命日は8月9日である。長崎が被爆した日でもある。 私は幼少時から父にはいろいろな「お話し」をしてもらった。おとぎ話、中国の故事、ギリシャ神話、草花 にまつわる逸話、日本の古代史など、毎晩寝ながら、お風呂に入る時に、また山へ出かけた時などに話 してもらった。 父は「お話し」は上手ではない。しかし、とつとつとして静かに独特の抑揚を持って話す話し方に、幼き 私はいつしかいつも引き込まれていった。涙をこぼしたり、怖がったり、喜んだり、笑ったりの幼き私の姿 に、父はやさしく微笑んでいた。私が「お話し」のおねだりをすると、どんな時でも快く何かを話してくれ た。 私がまだ小学低学年のある冬の寒い静まりかえった夜、炬燵に入って本を読んでいた時に、誰に聞か せるでもなく初めて自分の戦争体験談を話した。私が小学校高学年になると、何か機会があると、父は 私に戦争の体験談を話してくれた。 ある夜、家にいると、空襲警報がなって、父母は3人の子どもをつれて防空 壕へ走り、そしてその晩は3度も空襲警報があった話。また防空壕から当時3 歳の兄が出て行っていなくなり、父が探しに行ったら、頭上を砲弾が飛ぶ中で、 真っ赤に燃える街を兄はしゃがんでじっと見ていたとの話。終戦も近づいたあ る夜に、空襲警報と同時に巨大なB29が低空飛行でやってきて、いきなり屋 根を破って焼夷弾が落ちてき、父が必至で布団をかぶせて庭に投げ捨て、一 家が死なずに済んだ話。また父が仕事の帰りに多くの人と一緒に林の中を通 っていると、小型戦闘機が数機飛来し、周りの人がばたばたと目の前で撃た れて倒れ、しかし小型戦闘機は執拗に何度も何度も折り返してきては、父を銃 撃し、木の陰で身をかわして、銃弾をよけながら、何とか父と数人だけが助か った話などを、淡々と話してくれた。そばで聞いていた母は、弟が26歳でガダ ルカナル島で玉砕したこともあって、涙を流しながら「戦争はもう沢山だ」と口癖のように言っていた。 私は戦争を知らない世代である。私は終戦の翌年1946年8月に日立で生まれた。物心がついた頃の 日立は何もない荒涼とした地域であった。艦砲射撃で街が焼け野原になったからだという。上級生たち は2部授業制であった。午前か午後に学校へ行けばあとは休みであった。私は大いにがっかりして、母 に学校へ行くのが厭だと駄々をこねた。母は当惑しながら、私をとても叱った。 戦後62年が経って、「防衛省」ができ、「憲法改正」が声高に叫ばれている。あの戦争で軍人230万人 が死亡し、本土空襲で民間人だけでも50万人が死亡した。この犠牲と反省から現在の「憲法九条」が出 来たのではなかったか。 人はなぜ殺し合うのか。話し合いでなぜ解決できないのか。人類は長い歴史の中でこのことを探し求 めてきたはずだ。平和のうちに共に生きられる道を「民主主義」として探し、作り出してきたのではなかっ たか。この延長線上に現在の憲法があるはずだ。 今こそ命の尊厳を高らかに掲げて、人をして最も非人間たらしめる戦争を憎み、「憲法九条」を日本の 戦後の歴史の誇りとして、平和の大切さを訴えていこうではありませんか。 今年もまた暑い夏が来そうですね。
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