法然上人行状絵図

法然上人行状絵図
法然上人行状絵図
絵伝の成立と古筆研究家小松茂美
その1( 第1-8)
キーワード;
法然、念仏、浄土宗、日本仏教の分水嶺
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はじめに
法然(1133-1212;法然の 79 歳の生涯での天皇在位は 75 代崇徳天皇、76 近衛天皇、
77 後白河天皇、78 二条天皇、79 六条天皇、80 高倉天皇、81 安徳天皇、82 後鳥羽天皇、
83 土御門天皇、84 順徳天皇で、なんと 10 代にわたっている)は、岡山美作のうまれ。
没年が 1212 年、壬申の年は順徳天皇の建暦 2 年で、今年、2012 年で、没後 800 年に
あたる。
映画を制作しておくべきだ。道元の映像化は無意味であるが、法然は映像が必要だ。
また、鴨長明の『方丈記』が成立して、800 年でもある。
いま、何故法然なのか、なぜ、『方丈記』なのか。
東北大震災から 1 年すぎたが、方丈記には災害についての古典的記載が多いために、
これを見直す作業がおこなわれている。
法然の方も、彼の驚異の努力によって、末法思想から抜け出して日本独自の専修念
仏を原典とする浄土宗を弘めて、800 年になる。
すなわち、日本に仏教が伝来し、最初は、東大寺、法隆寺、唐招提寺などの南都六
宗(法相宗、華厳宗、律宗、三論宗、倶舎宗、成実宗)として弘められた。
その後、最澄により天台宗が、空海により密教の真言宗が弘められて、複雑怪奇な
思想形態となり、混乱をきわめていた。
法然は、これらから決別し、単純に称名により、すべての衆生らが悟りをひらき、
浄土に向かうことができるとし、日本独自の仏教の成立を果たしたのである。
よって、法然は日本仏教の分水嶺といわれ、その後、日蓮、禅宗がおこるのである。
この天才的発想で、800 年後のいまでも、とくに震災津波の自然破壊という、巨大
エネルギーに遭遇すると、仏教徒でなくても、平成の時代であっても、日本人は思わ
ず、南無阿弥陀仏と称名し、念仏を称えてしまうのである。
このような震災津波のことは、だれも予測していなかったが、法然については、知
恩院では、予定どうり、昨年から大遠忌の記念事業がおこなわれていて、いまや、専
修念仏のおしえの大切さを再確認し、インド仏教、中国仏教、日本仏教の再考から、
未来日本に何が必要かを静思、聞思する時期となっている。
さて、法然は、こどものころは勢至丸とよばれていて、諱を法然房源空、慈光菩薩、
華頂尊者、通名国師といい、吉水(東山の麓)というのも法然のことである。
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天皇勅による大師号については、円光大師法然といわれているが、実は、法然には
大師号が八ッつもあって、円光大師は 113 代東山天皇が 1697 年に勅したのを皮切りに、
以後、500 年遠忌の 1711 年に 114 代中御門天皇が東海大師、
550 年遠忌の 1761 年に 116 代桃園天皇が慧成大師、
600 年遠忌の 1811 年に 119 代光格天皇が弘覚大師、
650 年遠忌の 1861 年に 121 代孝明天皇が慈教大師、
700 年遠忌の 1911 年に 122 代明治天皇が明照大師、
750 年遠忌の 1961 年に 124 代昭和天皇が和順大師、
800 年遠忌の 2011 年に 125 代平成天皇が法爾大師の大師号を贈っている。
次ぎは 850 年忌で、そのときまで、日本は持ち堪えているだろうか。
法然は、比叡山四明で天台宗をまなび、修行したが、悟りひらけず、25 歳で南都に
向かい、ここで善導大師の観経疏にであい、称名重視での浄土教にあう。そして、比
叡山に帰り 18 年間の修行の結果、ついに浄土宗を開祖するのである。
43 歳にして、日本仏教の分水嶺といわれ、南無阿弥陀仏と称えれば、浄土に行ける
と説く浄土宗は、当時は、迫害、法難を繰り返していたが、 800 年後の現代では、真
宗とともに、日本仏教の最高峰となっている。
したがって、この時期に際し、法然の人生、全般をあげた『法然上人行状絵図』(法
然上人絵伝、四十八卷伝)の前文をあげて、現代解釈を載せる。すべてを訳すのは無理。
法然上人絵伝
法然の伝記には、源空聖人私日記、法然上人伝記など、室町時代以前のものでも 15
種類もあり、その中で、もっとも有名なのが『法然上人行状絵図』で、これは、絵と
詞とで卷 48 からなっている、長い絵巻物である。
この法然上人の絵伝記である、『法然上人行状絵図』は、その正本は、浄土宗総本
山知恩院(正式;知恩教院大谷寺)に所蔵されており、詞書と絵図を交互に 235 段の詞
書、232 枚の絵図からなる、全 48 巻で、全長 548 メートルに及ぶ、日本最大部の絵伝
である。この副本の方は、奈良県当麻奥院に所蔵されている。いずれも国宝であるが、
副本がなぜ、当麻にあるのか不明である。
『法然上人行状絵図』は、法然没後 100 年遠忌事業での作品で、93 代後伏見上皇の勅
で舜昌(1255-1335;知恩院 9 代別当)の編纂と考えられている。
法然の死後で百年忌は、1312 年で、正和元年、95 代花園天皇の世で、1318 年、文保 2
年より、96 代後醍醐天皇が在位された。
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通常、考えられるのは、花園天皇の勅により、作成されるが、制作に着手したのは、
かなり以前からと考えられ、発起人が 93 代後伏見上皇であろうが、しかし、『法然上
人行状絵図』の正確な制作開始年時、製作者は不明である。
古筆学の小松茂美氏(私のもっとも尊敬する人物; 1942-2010; 山口県岩国の柳井高
校卒、国鉄勤務中に上京し、古筆学を創始)の『勅修吉水円光大師御伝縁起』によれば、
法然上人行状絵図は、18 人の絵師により、詞書は 17 人での共同制作であろうとされ
ている。
絵師軍団は遠藤広実(住吉広行きの門人)、山名広政、土佐吉光、土佐邦隆、土佐光
顕、姉小路長章、飛騨守惟久などで、その他の 11 名は不明。
詞書は後伏見上皇(1288-1336)、後二条天皇(1285-1308)、伏見法皇(1265-1317)、尊円
法親王(1298-1356)、三条実重(1259-1329)、姉小路済氏、世尊寺行尹、世尊寺定成の 8
人の寄合書きで、その他、名前は不明であるが、10 人以上と考えられている。
さて、この四十八卷の題目についてであるが、『法然上人行状絵図』が正式名で、
文章の詞書と主要場面の絵図が載せられているが、岩波文庫からでている大橋俊雄校
注の『法然上人行状絵図』では、その題目は『法然上人絵伝』となっている。
元本の「行状」の文字が省かれていて、かわりに絵図が「絵伝」になっている。
なぜなのか、その理由は分からない。
『法然上人伝記』という醍醐本はあるが、法然上人絵伝という巻物は存在しない。
また、行状と伝は同じ意味で、伝記のことであるので、法然上人行状絵図で行状を
省くのであれば、法然上人伝絵図というのが正しい略し方で、法然上人絵伝という表
現は、やはり、おかしい。
また、上人を聖人とし、法然の諱での源空をつかって、『源空聖人私日記』という
のがある。
ここでの聖人というのは親鸞がこのようにかいていたので、浄土真宗では法然聖人
と書き、浄土宗では法然上人と書く。
平成 17 年、2005 年には、中井真孝氏が、『法然絵伝を読む』を思文閣から出版され
て、現代訳で非常によみやすくなっている。
しかし、岩波文庫の『法然上人絵伝』の冒頭部の仏教、仏陀の説明文が省略されて
いて、不足である。また、全卷ではなく、一部分のみの記載である。
中井真孝氏によると、法然の伝記の最もふるいのは、『本朝祖師伝記絵詞四巻』(善
導寺本)であり、これは、久留米の善導寺が所蔵していて善導寺本といい、躭空の詞、
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観空の絵の作であり、1237 年四条天皇嘉禎 3 年の作とされている。
この『本朝祖師伝記絵詞四巻』については、岩波文庫 の大橋俊雄校注の『法然上人
絵伝』の解説にはでていない。
善導寺本以外に、浄土宗出版から、大遠忌事業の一環として、法然上人絵伝集成シ
リーズが刊行されていて、法然上人伝絵詞(妙定院本)、拾遺古徳伝絵(常福寺本)、法
然上人行状絵図(勅修御伝)の計四つが発売されている。
『本朝祖師伝記絵詞四巻』が最古で、妙定院は東京芝の院で、常福寺は茨城県那珂
郡瓜連町にある。
それでは、本文に移るが、第 5 を一部省略する。第 5 は、法然の伝記ではなく、空
海の十住心論の考察であるので。また、ここでは長くなるので第 8 までとする。
法然上人絵伝の本文
第一
序文、誕生、勢至丸、小矢児、父の死
夫以 我 本 師 釈 迦如 来 は 、あ ま ねく 流 浪 三界 の 迷
徒をすくはむがために、ふかく平等一子の悲願を
おこしましますによりて、忽に無勝荘厳の化をか
くして、かたじけなく娑婆濁悪の国に入給しより
このかた、非生に生じるを現じて無憂樹の花ゑみ
をふくみ、非滅に減をとなへて、堅固林の風ここ
ろをいたましむ。
夫以我(それおもんみれば)、本師釈迦如来は、すべての、三界(迷いの世界、欲界、
色界、無色界;欲界、欲望の世界で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人のいる世
界、色界、物質的条件にとらわれた世界、無色界、精神的世界)を彷徨う、迷える衆生
を救わんとし、その対象をすべての人々、衆生として、極めて平等に我が子を救うよ
うな気持ちで、忽ちに、たちまち、すみやかに、無勝荘厳(浄土)での教化をはなれ、
すなわち、浄土をはなれ、ありがたいことに、娑婆濁悪(しゃばじょくあく)の国に戻
られた。
誕生するはずがない人(釈迦)が母摩耶夫人(無憂樹;むうじゅ)から微笑みながら(釈
迦が)生まれ、死ぬはずがない釈迦が死に、堅固林(けんごりん;沙羅双樹の別名、白
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鶴がとまったので、鶴林ともいう、涅槃の場所)の風は、わわれわれの、こころをいた
める。
在世 八十箇 年、 慈雲ひ としく 群生に おほひ 、滅
後二千余廻、法水なを三国にながる。
教門品異に、利益これまちまちなり、そのなか
に聖道の一門は穢土にして自力をはげまし、濁世
にありて得道を期す。
但をそらくは、とき澆季にをよびて、二空の月
くもりやすく、こころ塵縁にはせて、三悪のほの
をまぬがれがたし。
煩悩具足の凡夫、順次に輪廻のさとを出ぬべき
は、ただこれ浄土の一門のみなり。
釈迦の在世八十箇年、その慈雲、慈悲にみちた教えは、ひとしく群生、衆生を被い、
滅後二千余廻(かい)にして、その法水(仏教の教え)は、三国(インド、中国、日本)に
まで達している。
その教門品(様々な教典)異(こと)で、利益これまちまちではあるが、教えを受ける
もの、すなわち、聖道門である穢土(えど;けがれた者の世界、この世)の者であって
も、その教典で自力をつけることが出来、濁世であっても得道(悟り)をえることがで
きるのである。
澆季(ぎょうき;人情のうすい乱れた)時代になり、二空(人・法の空なる世界、精神
世界)の月くもりがちになると、こころはすぐに塵縁(じんえん;六塵;色、聲、香、
味、触、法)におよび、三悪(地獄、餓鬼、畜生)の炎をまぬがれがたし。
しかし、煩悩具足の凡夫であっても、順次に輪廻の里の門をでて向かう道は、ただ
これ浄土門のみである。
これにつきて、諸家の解尺蘭菊美をほしきまま
にすといへども、唐朝の善導和尚、弥陀の化身と
して、ひとり本願の深意をあらはし、我朝の法然
上人、勢至の応現として、もはら称名の要行をひ
ろめ給ふ。
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和漢国ことなれども化導一致にして、男女・貴
賤信心を得やすく、紫雲異香往生の瑞すこぶるし
げし、念仏の弘通(ぐつう;)ここに尤(もとも)さ
かむなりとす。
このように、各教典の諸家の解釈は蘭菊ように美しくはあるが、弥陀の化身ともい
われる唐朝の善導和尚が、ただひとり、念仏で、その本願の深意をあらわす。我朝と
しては、善導和尚の念仏称名を重視し、これを弘めた法然上人こそ、勢至菩薩の再来
で、もはら(もっぱら)、称名の要行をひろめたのである。
和漢、国は異なれども、教化、導きは一致していて、男女・貴賤をとわず、信心を
得やすく、紫雲、慈悲にみちた教えは、異香(すぐれたよい香)として、往生の瑞、非
常に、良好に弘教されるようになり、念仏の弘通(ぐつう)ここに尤(もとも)さかんに
なったのである。
しかるに上人遷化ののち、星霜ややつもれり。
教誡のことば利益のあと、人やうやくこれをそ
らんぜず。もししるして後代にとどめずば、たれ
か賢をみてひとしからむことをおもひ、出離の要
路ある事をしらむ。
これによりて、ひろく前聞をとぶらい、あまね
く旧記をかんがへ、まことをえらび、あやまりを
ただして、粗始終の行状を勒するところなり。お
ろかなる人のさとりやすく、見むものの信をすす
めむがために、数軸の画図にあらはして、万代の
明鑑にそなふ。往生をこひねがはむ輩、たれかこ
のこころざしをよみせざらむ。
このように法然上人の時代は遷化(うつりかわり)して、(百年という時がたち)、星
霜ややつもれり。
法然上人の教誡のことばの利益(りやく)など、人々は、すぐに忘れてしまう。もし、
記述して後代に(これを)とどめれば、だれか賢人が出て、この史料をみて法然とひと
し、同じように考え、出離の要路(出家)することがあるであろう。
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したがって、ひろく前聞をたずね、すべての旧記を再考し、正しきをえらび、あや
まりをただして、ほぼ、法然の行状の全体を統御するところとなった。おろかなる人
がさとりやすく、見むものの信をすすめんがために、数軸の画図にあらわして、万代
の明鑑にそなえる。往生をこひねがわむ輩、たれかこのこころざしをよみせざらむ。
抑上人は、美作国久米の南条稲岡庄の人なり(岡山)。
父は久米の押領使、漆の時国(うるまのときくに)、母は秦氏(はたうじ)なり。
子なきことをなげきて、夫婦こころを一つにして仏神に祈申すに、秦氏、夢に剃刀をの
むとみて、すなはち懐妊す。
時国がいはく、「汝がはらめるところ、さだめてこれ男子にして、一朝の戒師(この天皇
の代で出家をのぞむものに戒をさずける法師)たるべし」と。
秦氏そのこころ柔和にして身に苦痛なし。かたく酒肉五辛をたちて、三宝(仏・法・僧)
に帰する心深かりけり。
つゐに崇徳院の御宇、1133年、長承二年四月七日午の正中に、秦氏なやむ事なくして
男子をうむ。
時にあたりて紫雲天にそびく(たなびく)。
館のうち家の西に、元、二股にして末しげく、高き椋(むく)の木あり。
白幡二流れ、飛び来たりて、その木末にかかれり。
鈴鐸、天に響き、文彩(様々ない色彩)日にかがやく。
七日を経て、天に昇りて去りぬ。見聞の輩、奇異のおもひをなさずといふことなし。
これより彼の木を、両幡(ふたはた)の椋の木と名づく。星霜重なりて、かたふき倒れに
たれど、異香、常に薫じ、奇瑞たゆることなし。
ひと、これを崇めて、仏閣をたてて誕生寺と号し、影堂をつくりて念仏を修めせしむ。
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昔、応神天皇御誕生の時(神功皇后が宇美神社で出産されたとき)、八つの幡くだる。
正見、正語等の八正道(原始仏教にいう悟りへの道八つ;正見、正思惟、正語、正業、
正命、正精進、正念、正定)に住したまふ、しるしなりといへり。
いま上人、出胎の瑞、ことの儀あひ同じ。さだめて、深き心、あるべし。
所生の小児、字を勢至と号す。竹馬に鞭をあぐる齢(よはひ)より、その性、かしこくし
て、成人のごとし。
や やもすれば、西の壁に向かひいる くせあり。天台大師(中国の智顗;ちぎのこと)童
稚の行状にたがはずなん侍ける。
かの時国は、先祖をたづぬるに、仁明天皇の御後西三条右大臣の後胤、式部大輔源
の年、陽明門にして蔵人兼高を殺す。
その科によりて美作国に配流せらる。
ここに、当国久米の押領使神戸の大夫漆の元国が、むすめに嫁して男子をむましむ。
元国男子なかりければ、彼の外孫をもちて子として、その跡をつがしむる時、源の姓
をあら ためて、漆の盛行と号す。盛行が 子、重俊。重俊が 子、国弘。国弘が子、時国
なり。
これによりて、かの時国、いささ か本姓に慢ずる心ありて、当庄稲岡の預所明石の源
内武者定明、伯耆守源長明が嫡男、堀川院御在位の時の滝口也をあなづりて、執務に
したがはず、面謁せざりければ、定明ふかく遺恨して、保延七年の春、時国を夜討にす。
この子(勢至;法然)ときに九歳なり。逃げ隠れて、物の隙間より見給ふに、定明庭にあ
りて、箭(や)をはけ(射る)てたてりければ、(この子が)小矢をもちてこれ(定明)を射る。
定明が目の間にたち(あたる)にけり、この疵かくれなくて、事あらはれぬべかりければ、
時国が親類のあだを報ぜん事をおそれて、定明逐電(逃げる)してながく当庄にいらず。
それよりこれを小矢児(こやちご)となづく、見聞の諸人、感嘆せずといふことなし。
(しかし)、時国ふかき疵をかぶりて死門にのぞむとき、九歳の小児(の法然;勢至丸)
にむかひていはく、「汝さらに会稽の恥(勾践、夫差のたたかい)をおもひ、敵人を恨むる
事なかれ、これ、ひとえに先世の宿業なり。もし遺恨をむすばば、そのあだ、世々につ
きかたるべし。しかじはやく俗をのがれ、家を出で(出家して)、我菩提をとぶらひ、みづ
からが、解脱を求むには」といひて、端座して西にむかひ、合掌して仏を念じ、眠るが
ごとくして息絶にけり。
第二
母心、菩提寺入寺、上洛、
定明逐電ののち、隠居の心しづかにして、已造の罪(過去の罪)を悔ひ、当来の苦を悲
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しみ、念仏怠らずして往生の望みを遂ぐ。その子孫みな法然上人の余流をうけ、浄土の
一行を旨とせり。
小児ただ人にあらず、豈怨敵を恨むる心あらんや。
定明疵を被るによりて、痕をかくし、往生を遂げ、子孫浄土門に入る。
権化の善巧なるべし(衆生の前にあらわれて、巧みな善い方法で処理され)、迷情あへ
てあやしみをなす事なかれ。
当国に菩提寺といふ山寺あり。かの寺の院主観覚得業といいけるは、もと延暦寺の学
徒なりけり。(しかし、)大業の望を達せざることを恨みて、南都(奈良)にうつり、法相(南
都六宗の一つ;法相宗、華厳宗、律宗、三論宗、倶舎宗、成実宗)を学して、所存をと
ぐ。ひさしの得業とぞ申しける。
秦氏が弟なりければ、小児(法然勢至)の叔父なるうへ、父遺言のことありければ、童
子、かの室(観覚の菩提寺)にいりぬ。
(法然;勢至の)学問の性、流るるが水よりも速やかにして、一を聞きて十を悟る。聞く
ところのこと億持して、さらに忘るることなし。
観覚小児の器量を見るに、いかにも、ただ人にはあらず、おぼえければ、いたづらに
辺鄙の塵に混ぜん事を惜しみて、はやく、台嶺の雲に送らむことぞ支度しける。然るべき
事にやありけん。
小児そのおもむきを聞きて、旧里にとどまるこころなく、花洛(花の都;京都に行くこと)
をいそぐ思いのみあり。
観覚よろこびて此の稚児を相具(連れて行く)して、母の所にゆきて、ことのよしを語る。
児童母儀をこしらへて曰く、「うけがたき人身をうけ、あひがたき仏教にあふ。眼のまへ
の無常(無情ではない)をみて、夢の中の栄耀をいとふべし。就中に亡父の遺言、耳の底
にとどまりて、心のうちにわすれず、はやく四明(比叡山)にのぼりて、すみやかに一乗を
まなぶべし。但母よにいまさん程は、晨昏の礼(朝夕の礼)をいたし、水菽の孝(すいしゅ
くの孝;貧しさにあまんじ親の老病を看る)をつとむべしといへども、有為をいとひ無為に
いる は、真実の 報恩なりといへり、一端の離別をかなしみ、永日の悲歎をのこし給う事
なかれ」と再三なぐさめ申す。
母堂理に折れて承諾のことばを述ぶ といへども、袖にあまる悲しみの涙、小児の黒髪
を潤す。有為のならひ、忍びがたく、浮生のわかれ、惑ひやすくて、かくぞおもひ続け
る。
かたみとて
はかなきを親のとどめてし
このわかれさへ
またいかにせん
さてしもあるべきならねば、叡岳西塔の北谷持宝房の源光がもとにつかはす。観覚が
状云く、「進上大聖文殊像一体」と。これ(法然勢至の)智慧のすぐれたる事をしめす心な
りけり。
童子十五歳、近衛院御宇久安三年春如月十三日に、千重の霞をわけて九禁の雲に入
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る。
造り道(鳥羽の新道、バイパス)にして法性寺殿(藤原忠通)の御出にまいりあひたてまつ
る。
小児、馬より降りて道の片腹に侍る に、(法性寺殿は)御車をとどめら れて、「いづくの
人ぞ」と御尋ありければ、おくの僧、ことのよしを申しあぐ。
(忠通が)御礼儀ありて過ぎさせ給ふ。供奉の人々存外におもひをなす。
のちに(忠通が)仰せられけるは、「路次にあふ所の小童、眼より光を放つ。いかにもた
だものにあらざることをしりぬ。これによりて(だから)、礼をなしき」とぞ仰られける。
月輪殿(九条兼実)の御帰依あさからざりけるも(まだ生まれていなかったが)、彼の御物
語を御耳の底に留められける故にや、ありけむ、とおぼつかなし。
第三
受戒、法然、源空、修学
童子入洛の後、まづ観覚得業が 状を、持宝房(の源光)につかはす。源光、観覚が状
を披覧して、文殊の像をたづぬるに(文殊菩薩像はどうしたのかと訪ねたら、使者は像は
ない、小児だけだという)、ただ小児のみ上洛せるよし使者申しければ、源光はやく、児
童の聡明なる事をしりぬ。
すなはち、児のむかへにつかはしければ、同十五日に登山す。
独木(まるき;きりだしたままの丸木)かけはしあやうく、九花(九華山;中国)いろ(色)め
つらし(珍し)、持宝房にいたり給ぬ。試みにまづ四教義(維摩経玄疏の智顗の撰)をさづく
るに、籤をさして、不審をなす。
うたがふところ(質問したところは)、みな円宗のふるき論議なりけり。「まことに、ただ
人にあらず」とぞ申しあへりける。
この児の器量ともがらにすぎて、名誉ありしかば、源光「これはこれ魯鈍の浅才なり、
碩学につけて、円宗の奥義を極めしめむ」といひて、久安三年卯月八日この児相具して、
功徳院の肥後阿闍梨皇円のもとにゆきて入室せしむ。
彼皇円は、粟田の関白四代の後、参川権守重兼が嫡男、少納言資隆朝臣の長兄、椙
生(すぎふ)の皇覚法橋の弟子、当時、明匠、一山の雄才なり。
闍梨少生の聡敏なることをききて、おどろきていはく、「去夜の夢に満月、室に入ると
みる。いまこの法器に、あふべき前兆なりけり」とぞ、悦(よろこび)、申されける。
同年霜月八日、(勢至丸は)華髪をそり、法衣を着し、戒壇院にして、大乗戒をうけ給
いにけり。
ある時、「すでに出家の本意をとげ侍りぬ。いまにをきては跡を林藪にのがれむとおも
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ふ」よし、師範の闍梨に申されければ、「たとひ隠遁の志ありとも、まづ、六十巻(天台
宗の)をよみてのち、その本意を遂べき」よし、闍梨いさめ給ひければ、「われ閑居をね
がふ事は、長く名利の望をやめて、しづかに、仏法を修学せんためなり。この仰まことに
しかり」とて、生年十六歳の春、はじめて本書をひらく、三箇年をへて、三大部をわたり
たまひぬ。
恵解天然(生まれつきの天才)にして、秀逸のきこえあり、四教五時(蔵経、通経、別経、
円経・華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華涅槃時)の廃立鏡をかけ、三観一心(空
諦、仮諦、中諦)の妙理、玉をみがく。
所立の義勢、殆師の教へに越えたり。闍梨いよいよ感歎して、「学道をつとめ大業をと
げて、円宗の棟梁となり給へ」と、よりよりこしらへ申しされけれども、更に承諾の詞な
し。
なをこれ名利の学業なることをいとひ、たちまちに師席を辞して、久安六年九月十二日、
生年十八歳にして、西塔黒谷の慈眼房叡空の廬にいたりぬ。
幼稚のむかしより成人のいまに至まで、父の遺言わすれがたくして、とこしへに隠遁の
心ふかきよしをのべ給に、「少年にしてはやく出離の心をおこせり、まことのこれ、法然道
理のひじりなり」と(慈眼房は)随喜して、法然と号し(房号)、実名は源光の上の字と、叡
空の下の字をとりて源空(法号、実名)とぞつけられける。
かの叡空上人は、大原の良忍上人の付属、円頓戒相承の正統なり。
瑜伽秘密の法(身に印を結び、口に呪を唱え、意に理を観じる修行方法)にあきらかにし
て、一山これをゆるし、四海これをたうとびけり。
第四
黒谷隠遁、十住心、念仏
上人、黒谷に蟄居ののちは、ひとへに名利をすて、一向に出要(極めて出ていく気持ち)
をもとむるこころ切なり。これによりていづれの道よりか、このたびたしかに、生死をはか
るべきといふことをあきらめむために、一切経を披閲すること数遍にをよび、自他宗の章
疏まなこにあてずといふことなし。恵解天然にして、その義理を通達す。
あるとき、天台智者の本意をさぐり、円頓一実の戒体(すみやかに、確実に悟りをひら
く方法)を談じ給ふに、慈眼房は「こころをもて戒体とす」といひ、上人は「性無作の仮
色をもて戒体とす」とたてたまふ。
立破(主張と反論)再三にをよび、問答多時をうつすとき、
慈眼房(は、)腹立して、木枕をも てう たれけれ ば、上人(が )、師(慈眼房)の前を立た
れにけり。
- 12 -
慈眼房、思惟すること数刻の 後、上人の部屋に来臨して、「御房の 申さるるむねは、
はや天台大師の本意、一実円戒の至極なりけり」とぞ申されける。
仏法にわたくしな きこと 、あはれ にはんべり、かかりければ上人をも て軌範として、師
かへりて弟子となり給にけり。
保元元季、上人二十四のとし、叡空上人にいとまをこひて嵯峨の清凉寺に七日参籠の
ことありき。
求法の一事を祈請のためなりけり。
この寺の本尊釈迦善逝(すべての迷いをたちきった人)は、西天の雲をいで、東夏の霞
をわけて、三国につたはりたまへる霊像なれば、とりわき墾志をはこびたまいけるも、こ
とはりにぞおぼえ侍る。
上人その性俊にして大卷の文なれども、三遍これを見給に、文くらからず義あきらかな
り。諸教の義理をあきらめ、八宗(南都六宗+天台、眞言宗)の大意をうかがひて、かの
宗々の先達にあひて、その自解をのべ給に、面々に印可し(間違いなし)、各々に称美せ
ずといふことなし。
清凉寺の参籠七日満じければ、それより南都へくだり、法相宗の碩学蔵俊僧都の房に
いたりて、修行者のさまにて、「対面し申さん」と申されたりけり。大床におはしけるを僧
都いかがおもはれん、あかり障子をあけてうちへ請じいれたてまつりて、対面し、法談と
きをうつされけり。
(法然が)宗義につきて不審をあげられけるに、僧都返答にをよばざる事どもありけり。
上人こころみに独学の推義をのべ給ければ、
僧都感歎していわく、「貴房はただ人にあらず、をそらくは大権の化現か。むかしの論
主にあひたてまつるとも、これにはすぐべからずとおぼゆるほどなり。智恵深遠なること、
言語道断なり」とて、二字をたてまつり(弟子になる)、一期のあひだ毎年に供養をのぶる
こと、をこたりなかりけるとなん。
醍醐に三論宗の先達あり、権律師寬雅これなり。
かしこにゆきて所存をのべ給いに、律師すべてものいはず。うちにたちいりて、文櫃(書
物箱)十余合とりいだして、「予が法門付属するに人なし。きみすでにこの法門に達し給へ
り。悉く,秘書を付属したてまつる。」とて、これを進ず。称賛讃嘆のことばかたはらいた
きほどなり、進士入道阿性房等御ともして、この事を見聞して、奇特のおもひをなしけり。
仁和寺に華厳宗の名匠あり、大納言法橋慶雅と号す。仁和寺の岡といふ所に居住せる
ゆへに、岡の法橋とぞ申しける。醍醐にもかよひけるにや、醍醐の法橋ともいへり。
かの法橋は、上人の弟子阿性房の知り人なりければ、上人華厳宗の不審をたづねと
はれんために、阿性房をあひぐして、むかひ給へるに、法橋まづ、左右なく、申しいだ
すやうは、「弘法大師の十住心は、華厳宗によりてつくり給へり」。
- 13 -
この旨を御室(守覚法親王)に申されたところに、興あることなり。はやく勘申すべきよし、
おほせをかうぶるあひだ、「このほどかむがへ侍なり」と申すとき、初対面なればさて
もあるべけれども、学問のならひは黙止がたくおもはれけるによりて、上人の給けるは、
「なにしにかは華厳宗にはより侍べき、大日経の住心品のこころをもて、つくられたるに
てこそ侍れ、第六の他縁大乗心は法相宗のこころなり、第七の覚心不生心は三論宗なり。
第八の一道無為心は天台宗なり。第九の極無自性心は華厳宗なり。第十の秘密荘厳心
は真言宗なり」とて、
はじめ、異生羝羊心(悪行し、善を持たない心)より、をはり秘密荘厳心まで、各々偈を
誦し て、一々にその道理を釈し述べたま ひて、浅深をたて、勝劣を判ずることをば、諸
宗各々難をくわへ、不受し申なり。
天台宗に難申やうはなど、くはしく釈しのべられ、また、華厳宗の自解の様をこまかに
申しのべ給に、
法橋これをききて阿性房の縁に侍をよびて、「これはききたまふか、これかやうに心え
てんに、往生し損じてんや」と感歎して、「われこの宗を相承すといへども、かくのごとく
分明ならず。上人自解の法門をきくに、下愚処々の不審をひらく、他宗推度の智恵、自
宗相伝の義理にこえ給へり」とて、随喜感嘆はなはだし。
かくのごとくして、たがひに法談数刻ののち、「この宗の血脈にいり侍ばや」と、上人
の給へば、「慶雅が上にや」と、法橋も うすさる るあひだ、「いかがさることは侍べき。
華厳宗をば、ことさら伝授したてまつらんと存ずるなり」と申すされければ、血脈並びに
華厳宗の書籍、少々わたしたてまつりぬ。
さてかの法橋最後には上人を招請して、戒をうけ二字をたてまつる(弟子になる)、戒の
布施には、円宗文類といふ、二十余卷の文をとりいだして、「慶雅はこのほかは、もちた
るもの侍らず、上人もことものをば、なににかはせさせ給べき」とて、黒谷への送進しけ
る。
上人のたまひけるは、「よき学生になりぬれ ば、かくのごと く帰すべきことには帰する
なり。この法橋は華厳宗にとりてはよき名匠なり。弁暁法印も慶雅法橋の弟子なり」とぞ、
おほせられける、
「みなうけたまはりをきたることなり。色題(あいさつ)その詮侍らず」とて、かさねてし
きりに仰られけれども、なをかたく辞退し申給へば、「さらば念仏のことを学せらるべし。
そのついでに少々談儀侍べし」などおほせられけれども、自然に延引して、月日ををくら
れけるに、後白河法皇最後の御時、上人を御善知識にめされてまいり給けるとき、御室
も御参会ありけるに、そのことおほせられいだして、「このあひだ住京のついでに、素懐
をとげばや、いかが侍べき」とおほせられければ、
「かやうのおりふしは物惣にも侍り、またきとめさるる事も侍らん時は、中間に、もの
- 14 -
申さし侍らん こともあしく侍れば、しづかに参上つかまつるべし」とて、そのついでもむ
なしくやみにき。そののちいく程なくて、御室もうせさせ給いにしかば、つゐにその節を
とげられずといへども、懇切の御こころざしをつくされしも、上人諸宗に達し、たまへる故
なりき。
第五
十住心、この段省略。
上人のたまはく、「学問は、はじめて見たつるは(間引きではなく、原本にあたること)、
きわめて大事なり,師の説を伝習は易きなり。しかるに、我は諸宗みな自ら章疏(まとめ)
を見て心えたり。
戒律にも中の川の少将の上人(律宗の中の川流の祖実範)偸蘭叉(未遂罪)といふ、名目
ばかりぞききつたへたる。さらではみな見いだしたる。
法相宗も 蔵俊にあふといへども法相を学せず、かの人憚りをなして教へず、名目ひと
つぞききとりたる。故慈眼房も分明ならず、小乗戒の事は非学生(学を修めていない人)
なり、わづかに理観(心の中で静かに真理を観ずる)ばかりなり。普通によき学生といふも、
大乗の戒律にをきては、予がごとく沙汰したるものはすくなきなり。
当世にひろく書を披見したることは、たれも覚えず、書をみるに、これはその事を詮に
はいふよと、みることのありかたきことにて侍るに、われは書をとりて、一見をくはうるに、
そのことを釈したる書よみとみる 德の侍るなり。詮(道理を見極める)はまづ篇目(目次)を
見て大意をとるなり」と。
又のたまはく、「自他宗の学者、宗々所立の義を各別にこころえずして、自宗の儀に違
するをはみなひごとと心えたるは、いわれなきことなり。宗々みな各々たつるところの法
門各別なるうへは、諸宗の法門一同なるべからず、みな自宗の儀に違すべき条は勿論な
り」とぞおほせられける。
建仁二年長月十九日談義のとき上人かたりてのたまはく、
弘法大師の十住心論は、義釈によりてつくり給へるに、義釈に達することおほし。かの
義釈は善無畏三蔵の説を一行阿闍梨記せられたるなり。
一行(683-727)はいとまなき人にて未再治にてやみにしを、のちに再治の本おほし。そ
の中に弘法大師再治の本もある也。義釈には、「極無自性心に華厳・般若等の不思議の
境界を摂す」とこそあるを、弘法大師の再治の本には「般若をばすてて、ただ華厳を摂
す」とかかえたり。
又十住心には、華厳宗ぞと釈せられたり。
十住心というは、異生羝羊心、愚童持齊心、嬰童無畏心、唯蘊無我心、抜業因種心、
他縁大乗心、覚心不生心、一道無為心、極無自性心、秘密荘厳心なり。
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始の異生羝羊心は三悪道なり、この中に修羅を摂す。
第二は人道なり。このなかに諸々の受給の仁義礼智信心等を摂するなり。
第三は天道ない、これに老荘の教を摂す。
第六は法相宗、第七は三論宗、第八は天台宗、第九は華厳宗、第十は真言宗なり。
はじめの一をのぞきて、余の九種の住心には外典、内典の種々の諸教、みんそのな
かに摂せり。しかば、弘法大師の御心によらば、内外の典籍みなこれをまなぶすべきか。
これによりて、御室も多聞広学をこのみ、御沙汰あるかとおぼゆるなり。
ただし、この十住心論の義に題なる難あり。義釈にはあるひは唯経を摂すといひ、あ
るひは唯論を摂すともいへるを一宗にとりなして、華厳宗に摂巣、法橋に摂すなどと、ひ
きなされたるひがごととおぼゆるなり。
省略
第六
正定の業、善導、念仏、称名、南無阿弥陀仏、承安五年、四十三、
四明を出る、観経の疏、浄土宗、浄土五祖、重源、東大寺大仏
浄土五祖像、二尊院
上人、聖道諸宗の教門に(には)あきらか(詳しい)なりしかば、法相・三論の碩德、面
々にその義解を感じ、天台・華厳の明匠、一々にかの宏才をほむ。しかれどもなを出離
の道にわづらひて、身心やすからず、
順次解脱の要路をしらんために、一切経をひらき見給ふこと五遍なり。
(釈迦)一代の教跡につきて、つらつら思惟し給に、かれもかたく(難く)、これもかたし。
しかるに恵心(源信;942-1017)の往生要集(は)、もはら善導和尚の釈義をもて指南とせり。
これにつきてひらき見給に、かの釈には、乱想の凡夫、称名の行によりて順次に浄土
に生ずべきむねを判じて、凡夫の出離をたやすくすすめられたり。
蔵経披覧のたびに、これをうかがふといへども、とりわき見給こと三遍。
つゐに、「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に
捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に、一心専念弥陀名
号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の文にいたり
て、末世の凡夫弥陀の名号を称せば、かの仏の願に乗じて、たしかに、往生をうべかり
けりといふことはりをおもひさだめ給ぬ。
これによりて、1175年、承安五年(安元元年;高倉天皇)の春、生年四十三、たちどこ
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ろに余行をすてて一向(ひたすら)に念仏に帰し給にけり。
あるとき上人、「往生の業には、称名にすぎたる行あるべからず」と申さるるを、慈眼
房は観仏すぐれたるよしをの給ければ、称名は本願の行なるゆへに優るべきよしをたて
申たまふに、慈眼房、又、「先師、良忍上人(1073-1132;大原来迎院融通念仏)も観仏す
ぐれたりとこそおほせられしか」との給けるに、
上人、「良忍上人もさ き(恵心は良忍よりさきにう まれている)にこそ むまれ(うまれてい
た)給たれ」と申されけるとき、(それは、そうだがと)慈眼房腹立したまひければ、(上人
は)「善導和尚も上来定散両門の益を説くと雖も、仏の本願に望むれば、意衆生をして、
一向に専ら阿弥陀仏の名を称せしむるにあり、上来雖説定散両門之益、望仏本願意在衆
生、一向専称弥陀仏名、と釈したまへり。称名すぐれたりといふことあきらかなり。聖教
をば、よくよく御覧給はで」とぞ、申されける。
上人、一向専修の身となり給にしかば、ついに、四明(比叡山のこと;中国の天台山が
四つの窓があいているような山脈でこれを四明といったので)の厳洞をいでて、西山の広
谷といふところに居をしめ給き。
いくほどなくて東山吉水のほとりに、しづかなる地ありけるに、かの広谷のいほりをわ
たしてうつりすみ給。
たづねいたるものあれば、浄土の法をのべ念仏の行をすすめらる。化導、日にしたが
ひて、さかりに念仏に帰するもの雲霞のごとし。
そののち、賀茂の河原屋(下鴨神社の近く),小松殿(平重盛邸)、勝尾寺、大谷など、
その居あらたまるといへども勧化怠ることなし。
ついに、ほまれ一朝にみち、益四海にあまねし。
これ弥陀の一教、わがくにに縁深く、念仏の勝行、末法に相応するゆへなるべし。
大谷は上人往生の地なり、かの跡いまにあり、東西三丈余、南北十丈ばかり、このう
ちに建てられけん、坊舎いくほどのかまへにかあらんとみえたり。その節倹のほどおもひ
やられて、あはれにたとくぞ侍る。いまの御影堂の跡これなり。
ある時、上人おほせられていはく、
出離の志ふかかりしあいだ、諸の教法を信じて、諸の行業を修す。おほよそ仏教多し
といへども、所詮、戒定恵(戒律、しずかなる思惟、真実をしる智恵)の三学をばすぎず。
所謂、小乗の戒定恵、大乗の戒定恵、顕教の戒定恵、密教なり戒定恵也。
しかるにわがこの身は、戒行にをいて一戒をも保たず、禅定にをいて一もこれをえず。
人師釈して、尸羅(しら;戒)清浄ならざれば、三昧現前せずといへり。
又凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、たとへば、猿猴の枝につたふがごとし、ま
ことに散乱して動じやすく、一心しづまりがたし。
無漏の正智(煩悩にけがされていない智恵)なにによりてか起こらんや。もし無漏の智剣
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なくば、いかでか悪業煩悩の絆を絶んや。悪業煩悩の絆を絶ずば、なんぞ生死繋縛の
身を解脱することをえんや。かなしきかな。かなしきかな。いかがせん。いかがせん。
ここに我らごときはすでに戒定恵の三学の器にあらず。この三学のほかに我心に相応す
る法門ありや、我身に堪たる修行やあると、よろづの智者にもとめ、諸の学者にとふらひ
しに、をしふるに人もなく、しめす輩もなし。
然る間、嘆き嘆き、経蔵にいり、悲しみ悲しみ聖教にむかひて、手自らひらきみしに、
善導和尚の観経の疏(観無量寿経疏)の、一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、
時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順
ずるが故に、一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、
順彼仏願故、という文を見得てのち、
我等がごとくの無智の身は偏に(ひとえに)、この文をあふぎ、専ら、この理(ことはり)を
たのみて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備べし、ただ善導の遺教を信ず
るのみにあらず、又あつく弥陀の弘誓に順ぜり、「順彼仏願故」の文ふかく魂にそみ、こ
ころにとどめたるなり。
恵心の先德の往生要集をひらくに、往生の業には念仏を本となす、といひ、又かの妙
行業記の文にも往生の業には念仏を先となすといへり。
覚超僧都、恵心の僧都にとひての給は く、「所行の念仏はこれ事を行ずとやせん、こ
れ理を行ずとやせん」と。
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恵心の僧都にとひて給うはく、「所行の念仏はこれ事を行ずとやせん、これ理を行ずと
やせん」と。
恵心の僧都こたへての給はく、「こころ万鏡(一切の境界)にさへぎる、ここをもて、我た
だ、称名を行ずるなり。往生の業には称名尤もたれり、これによりて一生中の念仏、そ
の数を勘たるに二十倶胝遍(億)なり」との給へり。
然らば則ち、源空は大唐の善導和尚の教へにしたがひ、本朝の恵心の先德のすすめ
にまかせて、称名念仏のつとめ長日六万遍なり。
死期やうやうちかづくによりて、又一万遍をくはへて、長日七万遍の行者なり、とぞ、
おほせられける。
上の念仏七万遍になされてのちは、昼夜に余事をまじへられざりけり。されば、その
のち、人のまいりて法門をたずね申けるには、ききたまふかとおぼしくては、念仏のこえ
すこしひきくなり給ばかりにておありける、一向に念仏をさしをきたまふことなかりけると
なん。
上人、ある時、語りてのたまはく、「われ浄土宗をたつる心は、凡夫の報土にむまるる
(生まれる)ことをしめさむためなり。
もし、天台によれば、凡夫浄土にむまるることをゆるすに似たれども、浄土を判ずる事
あさし。
もし法相によれば、浄土を判ずる事ふかしといへども、凡夫の往生をゆるさず。
諸宗の所談ことなりといへども、すべて、凡夫報土にうまるることをゆるさざるゆへに、
善導の 釈義により て浄土宗を たつる と き、すな はち 凡夫報土 にむまる る 事あら は るる な
り」。
ここに人おほく誹謗していはく、「かならず、宗義を立せずとも、念仏往生をすすむべ
し。いま宗義をたつる事は、ただこれ勝他(他の説よりまさる)のためなるべし。我等凡夫
むまる る事をえば、応身応土なりとも 足ぬべし、なんぞ強ちに、報身報土の義をたつる
や」と。
この義一往断りなるに似たれども、再往(再考)をいへば、その義をしらざるゆへなり。
もし、別の宗を立せずば、凡夫報土に生ずる義もかくれ、本願の不思議もあらはれが
たきなり。
しかれば善導和尚の釈義にまかせ、かたく、報身報土の義を立す。これまたく勝他の
ためにあらずとぞ、おほせられける。
上人、播磨の信寂房におほせられけるは、「ここに宣旨の二つ侍をとりたがへて、鎭西
の宣旨をば板東へくだし、板東の宣旨をば鎭西へくだしたらんには、人もちいてんや」と
の給いに、
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信寂房しばらく案じて「宣旨にても候へ、とりかへたらんをば、いかがもちい侍べき」
と申すければ、
「御房は道理をしれる人かな。やがて、さぞ、帝王の宣旨とは釈釈迦の遺教なり。宣
旨二つあり、といふは、正像末の三時の教え(教、行、証)なり。聖道門の修行は正像の
時の教えなるゆへに、上根下智(おしえをうけるのがうまいが智恵が少ない)のともがらに
あらざれば証しがたし。
たと へは西国の 宣旨のごと し。浄土門の 修行は末法濁乱の 時の教へなる がゆへ、に
下根下智のともがらを噐とす、これ奥州の宣旨のごとし。しかれば、三時相応の宣旨、
これをとりたがふまじきなり。
大原にして、聖道・浄土の論談ありしい、法門は午角の論なりしかども、機根くらべに
は源空かちたりき。聖道門はふかしといへども、時すぎぬれば、いまの機にかなはず、
浄土門はあさきに似たれども、当根にかなひやすしといひしとき末法万年にして余教、悉
く滅し、弥陀の一教のみ利物偏増の道理におれて、人みな信伏しき」とぞ、おほせられ
ける。
震旦(中国での)の浄土の法門をのぶる人師おほしといへども、上人、唐宋二代の高僧
伝の中より、曇鸞、道綽、善導、懐感、少康の五師をぬきいで、一宗の相承をたて給へ
り。
その後、俊乗房重源(焼却東大寺大仏復元者;1121-1206)入唐のとき、上人仰せられ
ていはく、「唐土に五祖の影像あり、かならずこれをわたすべし」と。
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これによりて、渡唐の後、あまねく、たづねもとむるに、上人の仰たがhず、はたして、
五祖を一舗に図する影像を得たり(1167年、栄西とともに入宋し、天台山から浄土五祖像
をえる、現在までつたわっており、京嵯峨の二尊院に保存されている)。重源いよいよ上
人の内鑑冷然(うちに悟りをひらき、すんで清らかな状態)なることをしる。
かの当麻寺の曼荼羅は、弥陀如来化尼となり、大炊天皇(47淳仁天皇)の御宇天平宝宇
七年にをりあらはし給へる霊像なり。序正三方の縁のさかひ、日観三障の雲のありさま、
人さらにわきまへがたかりしを、後に、文德天皇の御宇天安二年に、もろこしよりわたれ
る善導大師の御釈の観経疏の文を見てこそ、人不審をばひらき侍しか。
天平宝宇七年より天安二年にいたるまでは96年なり。
そのかみ吾朝にてをられたる曼荼羅の、はるかのちにわたれる観経の疏の文に符合せ
るをば不思議とこそ申し伝えて侍れ。
いま上人さきだちて浄土の宗義をひらきたまひ、のちに重源入唐の時、かの影像をわ
たすべき由を命ぜられ、わたすところの影像、上人の仰にたがわはざえること豈奇特にあ
らずや。
されば道俗貴賤、かの五祖の真影を拝して、いよいよ、上人の德に帰し、ますます、
念仏の信をふかくしけり。当時二尊院の経蔵に安置するは、かの重源将来(招来)の真影
なり。
第七
普賢白象、青大将、竜宮の夢、竜樹、夢の善導、法然 66 歳
上人、ただ、諸宗の教門にあきらかなるのみにあらず、修行おほくその証を得給き。
そのかみ四明黒谷にして、法花三昧をおこなひ給しとき、普賢白象にのりて、まのあたり
道場に現じ給ふ。
又、上人ある時、叡空上人ならびに西仙房とともにおこなひたまひけるに、山王影向(日
吉権現;大山咋神あらわる)して納受(祈願)のかたちをあらはし給けり、これ末代の奇特
なり。
上人、黒谷にして花厳経を講じ給けるに、あをき小くちなは(蛇;小口縄)、机のうへに
ありけるを、法華坊信空にとり てすつべきよし、おほせら れければ、かの法華房かぎり
なく、くちなはに、おづる人なりけれども、師の命そむきがたきによりて、出文机の明障
子をあけまうけて、ちりとりにはきいれて、なげすてて障子をたててけり。
さてかへりてみれば、くちなはなをもとのところにありけり。これをみるに遍身(全身)に
汗出で、おそろしかりけり。
上人見給て、「などとりてはすてられぬぞ」と仰せられければ、法蓮房しかじかとこた
- 21 -
へ申さるるに、上人、黙然として、物もの給はざりけり(なにもいわれなかった)。
その夜、法蓮房の夢に、大竜かたちを現じて、「我はこれ花厳経を守護するところの竜
神なり、おそるる事なかれ」といふとおもひてゆめさめにけり。(小蛇は、竜であった)
むかし、この経、竜宮にありて、人間に流布せず。竜樹菩薩、竜宮にゆきて、これを
ひらき見て、人間にかへりて、これをひろめ給き。
そののち、覚賢三蔵(三蔵法師)、震旦(中国)にして、安帝義熙十四年三月十日より揚
州謝司空寺に、護浄花厳法堂をたてて花厳経を訳し給しとき、堂のまへの蓮花池より、
毎日に青衣なる二人の童子、あしたにいでて塵をはらひ、墨をすり、くるれば池の底へ
な向かへり入ける。経を訳し終わりて後は、みえずなりけり。
この経、久しく竜宮にありしゆへに、竜神うやまひて守護をくはへ侍けるにこそ。
上人の披講まこといたりて、竜神を感ぜしめたまひける。ゆゆしくぞ(すぐれて)侍ける。
上西門院(鳥羽天皇皇女統子内親王)ふかく上人に帰しまして、念仏の御志あさからざり
けり。
ある時、上人を請じ申されて七箇日のあひだ説戒あり。円戒の奥旨をのべ給に、一の
くちな はからが きの上に七日の あひだ、はたら かずして聴聞の気色なり。見る 人怪しみ
おもふほどに、結願の日にあたりて、かのくちなは死せり。
そのかしらの中より、一の蝶いでて、そらにのぼると見る人もあり。天人のかたちにて、
のぼると見る人もありけり。
昔、恵表比丘武当山(中国)にして、無量義経を講読せしに、こえおきく青雀歓喜苑に生
ぜり。かの先蹤をおもふに、この小蛇も大乗の結縁によりて、天上にむまれ侍けるにや。
上人秘密の窓にいり、観念の床に坐し給いしに、あるときは蓮花あらはれ、ある時は、
羯磨を見、あるときは宝珠を拝す。観心明了にして瑞相を眼前にあらわし給ふことおほか
りけり。
上人、ある夜夢見らく、一の大山あり、その峰、きはめてたかし。南北長遠にして西
方にむかへり。山のふもとに大河あり。碧水北より出て、波浪南にながる。河原渺々とし
て辺際なく、林樹茫々として限界数をしらず。
山の腹にのぼりて、はるかに裁縫を見たまへば、地よりかみ五丈ばかりあがりて、空
中に一聚の紫雲あり。この雲とびきたりて、上人の所にいたる。
希有の思いをなし給ところに、この紫雲の中より無量の光をだす。
光のなかより、孔雀、鸚鵡等の百宝色の鳥とびいで、よもに散る じ、また河浜に遊戯
す。身より光をはなちて照耀きはまりなし。その後、衆鳥とびのぼり手、本の如く紫雲の
なかにいりぬ。
この紫雲また北にむかひて山河をかくせり。かしこに往生人あるかと、思惟し給ほどに、
又須臾(しゅゆ;しばらく)にかへりきたりて、上人のまへに住す。やうやくひろごりて一天
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下におほふ。
雲の中より一人の僧出で、上人の所にきたり住す。そのさま腰よりしもは金色にして、
こしよりかみは墨染なり。
上人、合掌低頭して申給はく、「これ、誰人にましますぞや」と。
僧、答給はく、「我は是、善導なり」と。
「何のために来給ぞや」と申たまうに、「汝、専修念仏をひろむること貴がゆへに来た
れるなり」との給とみて夢さめぬ。画工乗台におほせて、ゆめに見るところを図せしむ。
世間に流布して、夢の善導といへるこれなり。その画像、のちに唐朝(宋)よりわたれる
影像にたがはざりけり。
(法然の命により、1167年に重源が浄土五祖の画像をもち帰っているので、この夢が11
98年、建久9年のことであれば、すでに法然は浄土五祖の画像から善導大師の姿の図を
見覚えていたことになる)
上人の化導(衆生を教化し善に導くこと)、和尚の尊意にかなへることあきらけし。しか
れば、上人の勧進によりて称名念仏を信じ、往生をとぐるもの一州にみち四海にあまねし。
前兆のむなしからざる、たれの人か信受せざらん。
上人、専修正行としをかさね。一心専念こうつもり給しかば、ついに口称三昧を発し給
き。
生年66、建久9年正月七日の別時念仏(時刻ごとの念仏)のあひだ、はじめにはまづ明
相あらわれ、次ぎに水想影現し、のちに瑠璃の地すこしき現前す。
同二月に宝地、宝池、宝楼を見たまふ。
それよりのち連々に勝相あり、ある時は(法然は)左の眼より光をいだす。
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眼に瑠璃あり、かたち瑠璃のつぼのごとし。つぼにあかき花あり、宝瓶のごとし。
ある時ははるかに西方を見やり給うに、宝樹つらなりて、高下心にしたがひ、ある時は
座下宝地となり、ある時は仏の面像現じ、ある時は三尊大身を現じ、ある時は勢至来現
し給。(すなわち、釈迦の経験した観無量寿経の定善十三観を法然が経験し、浄土をみ
られたことを意味している)
すなはち画工に命じて、これをうつしとどめらる。
ある時は宝鳥、琴笛等の種々の声をきく。くはしきむね御自筆の三昧発德の記にみえ
たり。かの記、上人存命日のあひだは披露なし。
勢観房遺跡を相承ののち、これを披見せられけり。高野の明遍僧都(藤原通憲の子)は、
かの記をひらき見て、随喜の涙をながされけるとなん。
第八
眼光、頭光の橋、真影
上人、三昧発得ののちは、暗夜に燈燭なしといへども、眼より光をはなちて、聖教を
ひらき、室の内外を見給。法蓮房も、まのあたりこれを拝し、隆寬律師もことに此事を信
仰せられけり。
あるとき秉燭(へいしょく;油のあかり)のほどに、上人のどかに聖教を披覧したまふ。
をとのしければ(声音がしたので)、正信房、いまだ灯明などたてまつるとも覚えざりつる
にと、 おぼつ かな くて、ひそかに座下を伺うに、左右の 御眼の すみ より光をはな ちて文
の面を照し見給。
そのひかりのあきらかなる事、ともしびにすぎたり。いみじくたうときことかぎりなし。
かやうの内証をば、ふかく隠密することにて侍にと思ひて、ぬきあししてまかりいでぬ。
また、あるとき、更たけ夜しづかにして、深窓に人なし。上人一人念仏し給。御声勇
猛なりければ、よなよな老骨をはげまし、おこたりなき御つとめ、いたはしくも貴くも覚
えて、もし、御要も やいますらんとて、正信房まいりて、やりどをひきあけて見たてまつ
れば、身光嚇奕として坐給へる、たたみ二帖がうへに満てり。
あきらかなること、暮山に望て、夕陽を見るがごとし。身の毛もよだつばかりなり。た
うとしといふもおろかなり。こころづきなくや、おぼすらん。さればとてやがてまかり出む
こともなかなかなり。
進退わづらうふところに、ことのやうみえぬとや思い給いけむ。上人「たれぞ」と等給。
「湛空」と答申されければ、「はやしておのおのをも、か様になしたてまつらばや」など
ぞ、仰せられける。
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慈恩むかし玄奘の門下にありて、眼より光をはなちて、よる聖教をひらきしかば、泗州
大師上座なりしかども、なを其德に信伏してあふぎて師範とし給き。いま辺州にして末代
たりといへども、奇特まことに上古に恥ざるをや。
あるとき上人、念仏しておはしけるに、勢至菩薩来現し、給事ありけり。そのたけ一丈
余なり。画工に命じてそのすがたをうつしとどめられ、ながく本尊とあふぎ、申されけり。
上人あからさまに(しばし)、草庵をたちいでて、かへり給へけるに、弥陀の三尊、絵像
にあらず、木像にあらず、垣をはなれ、板敷にも天井にもつかずしておはしましけり。そ
ののちは拝見し給うふこと、常の事なりけり。
ところどころに別時念仏を修し、不断の称名をつとむること、みなもと上人の在世よりお
これり。
その なかに、上人元久2年正月一日より霊山寺にして三七日の別時念仏をはじめ給ふ
に、灯なくて光明あり。第五夜にいたりて行道するに、勢至菩薩おなじく列にたちて行道
し給いけり。法蓮房、夢のごとくにこれを拝す。
上人にこのよしを申すに、「さる事侍らん」と答えたまふ。余人は更に拝せず。
同年四月五日、上人、月輪殿(九条兼実)にまいり給て、数刻御法談ありけり。
退出のとき禅閣(九条兼実)、庭上にくづれをりさせ給て、上人を礼拝し、御ひたいを地
につけて、ややひさしくありて、おきさせ給へり。
御涙にむせびて、仰られていはく、「上人地をはなれて、虚空に蓮花をふみ、うしろに
頭光現じて出給つるをば見ずや」と。
右京権大夫入道(藤原隆信)、中納言阿闍梨尋玄、二人御前に候ける。みな見たてまつ
らざるよしを申。
池の橋をわたり給ひけるほ どに、頭光現じける によりて、かの橋をば頭光の橋とぞ申
ける。もとより御帰依ふかかりけるに、この後は、いよいよ仏のごとくにぞ、うやまひたて
まつられける。
ある人、上人の念珠を給はりて、よるひる名号をとなふ。ある時あからさまに(ちょっと)
竹釘も、かけたりけるに、一室照耀する事ありけり。その光をただしみるに、上人恩賜の
念珠よりいでたり。珠ごとに歴歴たり。なおなお暗夜に星を見るがごとし。奇異の事なり
といへり。
上人の弟子勝法房は、絵を描く仁なりけるが、上人の真影を書きたてまつりて、その
銘を所望しけるに、上人これを見給て、鏡二面を左右の手にもち、水鏡をまへにをかれ
て、頂の前後を見合わせられ、たがふところえ(間違っているところに)は胡粉をぬりて、
なをしつけられてのち(さらに、胡粉で白く修正したのち)、
「これこそ似たれ」とて、勝法房に賜はせけり。
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銘の事は返答に及ばれざりけるを、勝法房後日に又参て申しいでたりければ、上人の
御まへに侍ける紙に、
我本因地以念仏心、入無生忍。今於此界、摂念仏人、帰於浄土。
十二月十一日
源空
勝法御房
とかきて、授けられければ、これを彼真影に押して帰敬しけり。
これは首楞厳経(しゅりょうごん)の勢至の円通(悟り)の文なり。
『われもと因地(修行中)に、念仏心をもって、無生忍に入る。今、この世界において、
念仏する。人を摂(おさめ)て、浄土に帰せしむ。』
上人は勢至の応現たりといふ事、世あげてこれを称す。しあるに、おほくの文の中に、
勢至の御詞を自賛に用いられ侍る、まことに、奇特の事なり。
いま、かの真影を拝みたてまつるに、胡粉を塗りてなをされたる所多し。これ末代の亀
鏡(手本)たるによりて、彼、御自筆の本を写して、この絵に加え置くところなり。
又ある 人、上人の真影を写して、其の銘を申しけ るにも、この文を書きて賜けり。か
の正本、伝はりて、いまにありとなん申し侍る。
また、讃州生福寺にすみ給し時は、勢至菩薩の像を自作して、「法然の本地身は大勢
至菩薩なり。衆生を度せんがための故に、この道場に顕しおく。」等、置き文に載せられ
けり。くわしき事は、彼配所退の卷にしるすものなり。勢至の垂迹たる条、その証拠かく
のごとし。もっとも、仰ぎ信するにたれり。
諸人感夢のこと、おほきなかに、或人は上人、蓮花のなかにして念仏し給うと見る。
ある人は、天童上人を囲繞して管絃遊戯す、とみる。
あるは又、洛中みな闘諍堅固(保元平治乱)なれども、ただ上人の住所ひとり、無為な
り。これすなはち、念仏するゆへなりとみる。
或は嵯峨の釈迦如来、つげての給はく、「当時、法然房といふ人のひら きたる往生の
道、妙にして、多くの人と、みな、その道より往生すべし」と仰らるとみる。
されば上人、勧化ののち、都鄙に往生をとぐる人おほし。
紫雲音楽ここにもみえ、かしこにも聞こゆ。夢のつげむなしからざる事をしりぬ。極楽
にのぞみをかけむともがら、たれか上人のをしへをあふがざらむ。
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参考文献
1) 大橋俊雄、『法然上人絵伝上下』、平成 14 年、岩波書店、2002 年
2) 玉山成元、『法然上人絵伝講座』、平成 18 年、浄土宗、2004 年
3) 藤堂恭俊、『法然上人絵伝』」、昭和 60 年、大法輪閣、1965 年
4) 中井真孝、『法然絵伝を読む』、平成 17 年、思文閣、2005 年
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