F-11 最初の官寺は? 藤原京に残る大官大寺跡:東三坊*九条に在 *官寺の定義は? 百科事典による解説では私寺・氏寺に対する称で、寺院の造営、経営維持、管理を国家 が行う寺と定義され、天皇が発願し鎮護国家のための寺でもある。 準官寺としては豪族や貴族による建立なるも寺田、出挙(すいこ)稲、食封を国家から 与えられる有食封寺(ゆうじきふうじ)、定額寺(じょうがくじ)がある。 文献での「官寺」の初見は天平元年(729)の近江・崇福寺であるが、天武九年(6 80)条に「今後大寺は二つ三つとし、他は官司治むるなかれ、ただし食封ある者は三十 年を限度とするが飛鳥寺は大寺の範疇に入れよ」の令が出されている。 ここで大寺は官寺とされるが「寺の中の寺」として最高位の寺としての位置付けされる が、天皇による勅願寺も同類とみなす説もある。 従って寺伝では最初の官寺として聖徳太子建立の四天王寺や熊凝道場(平群の定額寺)、 推古朝の飛鳥寺、舒明朝の百済大寺、天智朝の川原寺、天武朝の高市大寺、持統朝の本薬 師寺、文武朝の大官大寺等が挙げられている。 *大官大寺とは? 大王の権威の象徴として巨大古墳を建造していた古墳時代に対して、飛鳥時代となると 大陸・半島から導入されてきた律令制度の影響で国家意識が芽生えてきた。 この鎮護国家のための寺院が本来の「官寺」と呼ぶべきでしょう。当初は大王やそれに 準ずる指導者が創建した寺院を官寺と見做していた様で、推古朝以来各朝廷で認知されて - 41 - いたと考えられ前述の寺院が官寺と見做していた。 この官寺の中でも重要で極めて格の高い寺院を「大寺」と呼び、日本書紀に記されてい るのは百済大寺・高市大寺・大官大寺の三寺のみである。 この大寺の創建と変遷は謎に包まれており現在も解明されておらず定説は無い。 従来文献資料等で「大官大寺」の変遷は熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)→百済大寺→ 高市大寺→大官大寺→大安寺が通説とされてきたが所在地も未定で、新たな発掘調査で 様々な説があり確定していない。 *百済大寺とは? 天平期に編纂された「大安寺伽藍配置幷流記資材帳」によれば田村皇子(舒明)が推古 の命で病の聖徳太子を見舞った時の遺言で熊凝精舎を移設して、舒明11年に着工し皇極 元年に完成したとされているのが百済大寺であり、創建記事が日本書紀にあるが所在地は 百済川ほとりとあるのみで不明であった。 平成9年に天香具山の北東にある吉備池が発掘調査され、池中に基壇と七世紀の瓦が発 見され大規模な寺院跡とみなし「吉備池廃寺」と仮称された。その後の調査で伽藍配置は 法隆寺式で東西180M,南北160Mの巨大寺院跡とされ、平成14年に国史跡に指定 されている。 この寺院跡の調査で当然あるべき建築物の礎石が存在しないことが謎とされ、この推論 として日本書紀による天武2年条の記事に百済大寺を移して高市大寺を造営したとある のを根拠に吉備池廃寺を百済大寺ではないかとし、堂塔が解体され礎石ごと移転された証 拠ではないかとした。 百済大寺の所在地については所在地名を付けた大寺として江戸期より広陵町百済の地 を比定する説が有力であったが考古学資料に欠ける難があり、天香具山の西北地帯に百済 と呼ばれる例証が万葉集や日本書紀に存在することを和田萃氏が提唱しており、木之本廃 寺を百済大寺とする説もあり、吉備池廃寺の同範瓦が纏まって出土していた。 しかし吉備池廃寺の今迄の発掘調査で百済大寺の可能性は高まったが確定されたとは 言えない状況である。 *高市大寺とは? 日本書紀の天武2年条に美濃王と紀訶多麻呂を造高市大寺司に任命したとあるが、この 年は天武が壬申の乱に勝利した翌年であり、父・舒明の三十三回忌、母・斉明の十三回忌 に当たることになる。 「大安寺伽藍配置幷流記資材帳」によれば天武6年に高市大寺を改称して大官大寺とし たとあり天武期大官大寺と考えられるが、所在地は不明でその存在を疑問視する向きもあ るが、この資材帳には平城遷都後創建された大安寺に百済大寺から移された多数の所蔵品 が記されているが、文武朝大官大寺からは大安寺に何も遷されていないことから、百済大 寺を移設したとされる高市大寺は文武朝大官大寺と併存していた事になり天武朝大官大 寺と解釈される。 - 42 - 天武14年には天武の病気平癒を祈願して飛鳥三大寺:飛鳥寺・川原寺・大官大寺で誦 経したと日本書紀に記されているこの大官大寺は高市大寺の事でしょう。 高市大寺の所在地については880年に編纂された「三代実録」に高市大寺の旧地は高 市郡夜部村にあり広さは田十町七段二百五十歩と記されてあり、ヤベ村は飛鳥川を挟んだ 藤原京の北側と想定されており、ヤベの坂は万葉集でも詠まれている。 従来は藤原京の大官大寺跡が最有力地とされていたが、発掘調査の結果この遺構が文武 朝大官大寺であることが確認され、この説は否定された。 現在諸説あるが田中廃寺周辺説や木之本廃寺説もあるが確定されていない。 *藤原京の大官大寺とは? 冒頭写真が大官大寺跡で文武朝に創建された大官大寺の所在地と想定され、藤原京の東 三条*九坊の天香具山の南に位置する。 この遺跡は1973年~1983年の間に十次にわたる発掘調査の結果、中門跡・塔 跡・金堂跡・講堂跡が確認され、回廊で囲む範囲は南北197M,東西144Mと巨大で 中門―金堂―講堂が一直線で並び金堂の東南側に塔を配する一塔一金堂の配置で、中門か ら出た回廊は塔を囲んで金堂前面につながり、東・西回廊はそのまま北に延び、講堂を取 り囲んで北で閉じている特殊な伽藍配置で「大官大寺式」と呼ばれる。 基壇から想定される建物も巨大で、金堂は桁行九間(45M),梁行四間(21M)で 四面に庇が付き、復元された平城宮・大極殿とほぼ同規模でその巨大さが想定される。 金堂の東南前面に建造された九重塔は初層辺長は五十尺(15M)と想定され、現存最 大の興福寺五重塔の初層辺長は8.8Mで、文献上最大とされる東大寺の七重塔の初層辺 長は五十五尺(16.3M)、高さ100Mと復元想定されているが、大官大寺の塔もこ れに匹敵するものだったと想定される。 発掘調査の結果多量の焼土と焼け瓦が出土し、寺院として完成直前に焼失した可能性が あり、造営のための足場穴も残され南大門もまだ建造されていなかったと想定される。 続日本紀や大安寺資材帳には焼失の件は全く記されていないが、「扶桑略記」には平城 遷都直後の和銅四年(711)に大官大寺と藤原宮が焼失したとの記事が在り、従来はそ の信憑性を疑ってきたが、この調査で焼失の事実は確定し大官大寺の歴史を見直す必要性 に迫られて一連の謎が更に膨らんできた。 この調査でも堂塔礎石が殆ど無いので謎とされたが、明治22年からの橿原神宮造営の ためあらかた持ち出されており数個が残されているのみであった。 *平城遷都で大安寺となったの? 官寺の中で最高権威を有するとされた大官大寺は平城遷都で左京六条四坊の地に創建 されたと考えられ、寺域は東西三町・南北五町を有し、伽藍配置として東西両塔は七重で 金堂から離れて南大門の更に南方に建てられている「大安寺式」と称された。 参照 F-2 寺院は遷都で移転 国分寺総本山としての東大寺創建後は「南大寺」の別称を有し、大仏開眼導師を務めた - 43 - インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)や道慈等の高僧が在籍し、900名近い僧が居住し ていた天平仏教の中心的存在であった。 平城遷都での移転年次は続日本紀に記載が無く諸説あり通説では716年とされてい る。寺伝では聖徳太子開基の熊凝精舎から百済大寺、高市大寺、大官大寺、大安寺と移転 されたとあるが、「大安寺伽藍配置幷流記資材帳」によると前述した如く大寺から移され た多数の所蔵品として百済大寺から伝来されたものが記載されているが大官大寺からの 伝来品は無いのは謎である。 特に旧本尊の乾漆造釈迦如来像は天智発願の仏像で秀作とされ、平安末期の大江親通は 薬師寺の薬師三尊以上の作と称賛し、仏師・定朝は本像を摸刻したとされているが現在は 失われて見られない。 大安寺は1017年に火災にみまわれ衰退して再興されることが無く、現在は街中に埋 没し過っての巨大寺院の面影は全くない。 <註> 崇福寺:668年天智の大津遷都で勅願寺として建立され、延暦年間には十大寺に選ばれ ている。 熊凝精舎:三代実録に平群郡に聖徳太子が道場を創建したとあり、これを移したのが百済 大寺とされ勅願寺の最初とされている。 - 44 -
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