○故郷を知る。 *西宮とは、尼崎、難波、泉 *甲(神戸)山・神呪(伽之)寺、武庫(向)、チヌ(血沼・金jin)海 *広田、岡田・高木・瓦木・芦原・伊丹 ○広田社創建の神功皇后とは誰か? ○明石、五色山古墳は何か? ○17条憲法:ヒトに党あり、また覚れる者少なし ∴ 論語→以和為貴 ⇒半島より5派:伽耶の伽 羅、阿羅、多羅、伊(忌部・高霊)。新羅の王 ◎邪馬台国の所在と別に、①半島南と列島との鉄技術格差と交易関 係、②記紀の赤石豪族関係の記載から以下を結論付ける 年代画期:漢書BC100の百余国。57奴国(倭国極南界)、107帥升。147~189倭大乱;青銅 器分布より三分(北九、瀬戸内、近畿)、 239邪馬台29国連合vs南の狗奴。 4C後半統一、391半島進 出。5C河内朝、半島経営、経済発展(471ワカタケル銘)、豪族争。6C産鉄新羅台頭、663半島撤退 ○記紀。天照;①出雲に武雷(伊伽津地・槌)を降臨、武御名(那)方を諏訪に下し、日 立・常陸に鎮守。②ニニギ降臨時、補佐は中臣祖・天児屋根、忌部祖・太玉。 皇別:③須佐男(鉄王)娘・宗像3神末豊玉姫+山彦第二子は赤石国造武位起(御木)、子棹 根津彦は神武東征(対倭大国主)功で大倭社司祭、倭国造(=中央有力豪族)。 ④ 10崇神時東山道将軍は8孝元・子大彦・子河淳分、子彦安が平安来兵庫津北風家祖。 ⑤11景行時、倭武、熊曾西征、伊勢・熱田から東征。 ⑥竹内長子波多矢代、神功朝征補佐、豊浦遷都、応神産、山戸帰朝時、14仲哀子忍熊・ 赤石待伏、紀淡入りし討伐、子ツネジは赤石国造、兵庫津域支配。 ○結1:倭朝成立を示す東征。半島・瀬戸の交易を支配し鉄優位の北 九派と其他の利害対立が生じ、統一戦=東征で倭王朝成立 ○結2:三分立時、赤石族は海峡と瀬戸内を支配(→多羅族)、東征功で中 央豪族;大倭氏、平群氏、波多氏等⇒展開; 10崇神期に天照と大倭を 分置(伽・伊>多)。17履中皇子(播磨風土記は市辺天皇)は21雄略(平群ツク大臣)に殺さ れ、2子東播避難、後23仁賢・24顕宗。平群真鳥は武烈~大伴に敗。平 群神手が物部討伐。壬申乱で太政大臣・高市皇子(天武長子、母宗像徳善 (紀;宗像は大国祖の三輪族(須佐娘宗像神と同)。高市天皇説有)。桓武(母高野新笠)・ 平安京へ。宗像は道主神→流通で市イチを付ける(高市;多賀市) ○結3:赤司国造は後に海峡・兵庫津域を支配する白藤・北風家に続く ○結4;5族。天孫派;ニニギ随伴の伽(中臣)と伊(忌部)。国神派;支えた多(宗像)、敗 れた王(大国)、阿;吉備①温羅(那)、②大吉備津彦、③12径行~16仁徳妃。東征時、加勢で 功。 景行に支えた熱田、仲哀に討たれた熊曾、神功・応神に背いた押熊 ○推論; *押熊が赤石待伏、南海道・紀淡からチヌ海入;吉備・阿波を阿が支配、多主導で奪い、 4社 建:広→王、生→伊、長→伽+住吉(→多)は竹内街道で境の津守家(伽、多、王の雑種?)へ *近畿以東の社(諏訪、日立)を武雷降臨で示唆。→神武入倭時、西からの中臣(今来の那)と、東 からの狗那族(在りし日の那=加羅=蘇我・曾伽)。 *神后=気(息;記)長垂姫とは? 火土姫~崇神来の王系を切断し、紀(伊)、那伽、多羅之師へ代える? ◎山戸周辺の初代国造;山戸=大倭(多)、河内・和泉・摂津・背山=汎 河内(王)、伊勢=中臣(伽)、紀伊=伊、阿波=粟汎直(阿) → 五派;山戸が多 (多は瀬戸内航路を支配)、西部が元いた内物部(王、服従派)、紀州地・四国 から伊(ここから入山戸)、東側は伊勢地から伽(クナ)、四国東に阿。 *凡河内国造 (河内・和泉・摂津 ) 神武時、天津彦根命の裔孫の彦己曾コソ 保理が初。山背国造は同族、天津彦根裔孫彦曽能振が成務朝に任、後裔に摂 津広田神社年預家。汎河内後裔は現播磨国飾磨郡広峰神社祠官家 *伊勢国造(伊勢・伊賀・志摩)、本姓中臣氏、天御中主の12世孫・天日別(天 日鷲)。神武東征時、伊勢津彦を追って伊勢国平定、その娘弥豆佐々良比売 を娶って彦国見賀岐建与束(伊勢神宮外宮摂社・度会国御神社の祭神)を生。 伊勢中臣氏、姓は直、747年連、764年朝臣 *紀伊国造、紀氏、日前・國懸神宮祭祀。紀伊続風土記;神武平定で紀伊国 造の天道根嫡流。*倭最古の家系;天皇、出雲、阿蘇、宇佐宮司、隠岐国造・ 億岐、籠海部、熱田千秋、住吉津守、諏訪 *持統、18家譜を提出させる。古事記完成に数年、紀40年。欽明時に帝記、推 古時に国記、編集。 *注;古田「国造制の史料批判」;出雲風土記中の「国造と朝廷」の用語は「出雲国造と大和朝廷」の意とされたが、 「(八世紀の「郡」程度の)一国造と出雲朝廷(杵築宮)」との関係をしめす。 Q; 4C末五色塚古墳194mは臨海峡・築山・葺石・無棺! 大和朝・多族 のチヌ海防御、権威付。淡路島産葺石、富山産もある。 Q;竹内長子・波多矢代は神功朝征随伴、子都弥自ツネジは赤石国造。その 始祖は豊玉姫子・武位起、子棹根津彦は神武を導き大倭祖。 Q:記紀「五色塚古墳は神功凱旋時、仲哀皇子・忍熊が偽墓造る」と は? 磯城崇神系から婚外天子・応神=天照系へ切替! Q:播磨風土記曰:17履中皇子・市辺天皇を21雄略(~平群ツク;多)惨殺、東播避 難2子が23仁賢・24顕宗。その後の多族;武烈~大伴に敗、神手は物部 討伐、壬申乱後の高市大臣(天皇か?、井上)、桓武(母高野新笠)・平安京へ Q;海神社史(岡田編)はなぜ祭神を阿波・淡路側の神社から海神安曇族 とする。だが、伽耶出各派は自己の輸送部と海上ルートを持ち、競った。 阿波は阿場、赤石族=多羅族と対立した。度会説(豊玉姫等)を拒否。 Q;北風家祖は8孝元・子大彦・孫河淳分東山道将軍・曾孫彦安、兵庫津支 配→北風は赤石国造と同じ~多族!? Q;長田社=事代(王)、広田社=神功(王)、生田社=伊、住吉社= 伽、 海(=天)社=多。阿~吉備(加古川西岸から尾道まで)、阿波、 芦屋、赤穂・赤松、安芸まで。 ○吉備。①阿宗神社、②吉備津神社(中山北麓北面;大吉備 津彦、玉依。備中一宮)、③吉備津彦神社(備前一宮)。 ○阿。弥生・温羅(浦)期→倭大乱時に王支配→東征時、王を 追出し覇(景行~仲哀、仁徳の妃)、神功・応神で伽・多連合に 敗=葛城朝。 ◎結;漢末の楽浪支配衰退、大移動のなか、各国自立化。楽 浪・百済と近く米作(テグ)と産鉄の統一新羅が強力となる。倭 介入で180倭大乱→王が多と組み磯城朝(卑弥呼;半島交易独 占)。4C高句麗圧迫・交易抑止の伽耶・百済、倭内4派(多・寝返、 阿・吉備支配打破)が350連合東征→葛城朝 4世紀末、奈良大王墓(佐紀古墳群;阿)と同規模の五色塚 古墳は多・赤石国造族の奥津城、勢力圏は加古 川・高砂~尼崎の灘(那多)筋。対吉備・海峡の拠点(or吉備 の拠点、吉備滅で破壊(忍熊の偽装)? ○赤石族始祖。天照子三代目山彦+綿津見子・豊玉彦・ 娘豊玉姫の二男武位起(~ムイキ三木:orイザイザ子豊玉子振魂子)、子棹 根津 (宇津)彦は神武先導で大倭国造祖。末市磯スクネの長子 五十野は大倭社祭司、二男矢代・子都弥自は赤石国造・大和赤 石連姓。他方、前ッ君の中央豪族となる竹内スクネ長子・波多矢代 は神功外征を勤め波多氏祖⇒両者を同定。 *国造本紀(先代旧事本紀):15応神期、大倭直と同祖・八代の子都彌 自、明石国造始。 ○本貫赤石は統一政権下で交易拠点が住吉大社となり重要性 が低下、木と鉄の三木が中心に。17履中の皇子「市辺天皇」(播磨 風土記)を21雄略~木免(津狗)が惨殺、2子東播逃れ、戻り23仁賢・ 24顕宗(阿;吉備463滅)~真鳥(25武烈・26継体~大伴に敗北)。 律令制下、明石郡司。室町期、赤松重臣、江戸期、廻船。武位 起は保久良社祭神、灯台「灘のひとつ火」 * 神功皇后。記:息長帯姫、紀:気長足姫。父は開化 玄孫・息長宿禰、母は天日矛裔・葛城高顙ヌカ媛、彦 坐王(開化3子)の4世孫。夫仲哀が住吉神託を疑い急死、 懐妊し三韓征伐。帰路、筑紫・宇美で応神出産。畿内 帰還時、仲哀皇子・香坂、忍熊が明石入り時(墓と欺く) に反乱、武内宿禰・難波根子武振熊(和邇祖→春日 (春日に移る(→後、藤原が占拠);4~5C佐紀盾列ナミ古墳 群;阿)が平定。紀は神功紀から中朝文献を多様する、百済王即位を干 支を残し120年繰り上げると、比定した卑弥呼239+120=359で勘定が合う。 評。息長帯→伊城・那伽・多羅師、即、伊・伽・多の 連合。3派で、磯城の王族を破る(東征)。記紀では、 神武の東征と神功の三韓征伐に二分。神武の伴は太 玉・伊と児屋根(伽)、棹根津彦(多)が瀬戸を導く。神功 三韓征伐の補佐は竹内長子波多矢代、山戸帰朝時、 14仲哀子忍熊が赤石で待伏、紀淡入りし討伐、子ツネ ジは赤石国造、兵庫津域支配。 ○10崇神~14仲哀は、磯城朝(王族)に当る(四道将 軍、倭健の阿退治)。神武東征で葛城朝へ変り、神 功ー竹内で朝鮮半島出兵を語る。神功は仲哀死後、 住吉神託で懐妊、即王朝変化を象徴させる。 長田神社;神功皇后(息長垂→伊+伽+多)摂 政元年201、新羅凱旋時、明石に忍熊(阿)、故 紀伊を廻り、難波は荒れ、兵庫迂回で武庫水門 にて「吾を御心長田の国 に祠れ」と告、事代主 (→王)+長姫(山背根子女、明治まで55代大中 家(ck)が神職)。 注。廣田;天照荒霊+葉山(同じ山背根子→ 那の伽、神呪寺)。 生田;稚姫+海上(神)五狭茅(→伊)。 住吉大社;表中底筒男+神功、天火明末・ 田裳見が祭、子津守豊吾田が宮司(→多)。 本住吉神社(大津渟中倉之長峡に祭れ、天児 屋根・大山津見を配祀→伽or王))。 注;天火明。紀;天照長子・忍耳と高木娘・萬 幡豊秋津子(→多)。先代故事;ニギハヤヒ、播磨風 土記;オオナムチ子→これらは王を含意;王の家伝 を多の方へ組み換えた!)。 多族 大倭国造:綿積豊玉彦第4子振魂、子武位起、孫棹根 津彦は神武東征時、速水戸案内功で大倭国造、本貫大和郷、大和 神社(祭神・倭大国魂)祭司(崇神期、天照と分け市磯イチシ邑に鎮座、斉王・淳名城入)。 :姓氏類別大観、 ○綿津見・豊玉(多族)の4 子;①豊玉姫、②玉依媛、③宇 津志金折(→安曇)、④振魂(布留・ 石上!?)→棹根津彦→→矢代スク ネは竹内長子の羽田矢代。子 都弥自スクネは明石国造~神功 凱旋時、赤石を導く(忍熊破る) ○平群氏。竹内子木免ツク~21 雄略が葛城氏滅、24仁賢~真鳥、 25武烈(26継体)~大伴金村に滅 498。587物部討伐将軍神手以後、 平群古墳群へ⇒多族 ○龍田社;天武期初出、風神=天御 柱・志那都彦(イザイザ子);壬申乱加 勢で葛城から奪う。 五色塚古墳、4C末、194m、大王稜匹敵!? ○国津神・赤石国造の祖は「武位起」(御木~三木(2皇子)~住吉社)、父・豊玉彦、姉・豊 玉姫、子・宇津彦は東征功(瀬戸内を導く)で棹根津彦名、大倭国造祖、大倭 大社宮司。崇神期、大倭大国魂を地祇として天照と分置 →多族、大倭古墳群! 中期に平群谷、壬申乱で龍田社 古墳初期、赤石海峡古墳は瀬戸海路、大和(対王、阿)支配の象徴! ○5C後半、明石族は海アマ神社創建。神功帰還時に綿津見三神祈祷、長・生・ 広・住吉四社と対等、多族の海路神;宗像~宇佐(応神)~海~住吉。 ○清盛は瀬戸・対馬ルートで日宋貿易、京六波羅から大倭田泊へ遷都、秦氏系 の惟宗支族宗氏、対馬の阿比留を滅。 ○北(喜)多風家、伝;大彦孫・彦安を祖、神功従軍功で兵庫浦得、遠方祖墓祈祷。藤 原氏と婚姻・白藤。清盛を招き経浜進出、源氏に敗北も北条下で生延び(海上支配、須磨 浦敦盛塚)、反尊氏・南朝支援、喜多風貞村は赤松家臣山名に敗、藤尼で詫。室町中期 に朝鮮の対倭寇策で貿易独占、平知盛末を称す。 戦国時まで、西宮ー敏馬間を御 神幸、江戸期に廻船・酒で繁盛。北前船代表の辰悦丸の船印は山高、山笠。 御木 海(アマ)神社:綿津見三神、脇神;天照→赤石族の祖社、5世紀後半、明石 国造・海直アタエ族が創建、大和へ入り大倭直;多羅族。延喜式神名帳には海神たる みと振カナ、和名抄に垂見(多留美)郷、得も言えぬ水出る故、垂水の明神おはす(垂水名は多い)。夏 祭は瀬戸内三大船渡御の一、オシャタカ(多賀?)舟神事、弥賀多々ミカタタ(多々?)社等を祭る。 *周辺;五色塚、垂水古墳群(押(勝)部谷、伊川・多聞)421ケ(兵庫県下、日高512、社479、小 野400、山東354)、大蔵谷(明石駅舎)、志深シジミ(二王子)、大海(邑美)郷ー海神族拠点。対岸淡 路阿万郷、阿曇氏が海神の宰ミコトモチ(応神期)・・社史は安曇海神派とする! 多名:多留海、多居幡、太山寺(伝開山鎌足長男定恵、創建は鎌倉)、太寺ー高国寺、高倉、高丸、多 紀~滝、多門、八田(多)部。御木~社。灘=那多、那賀多、生多、広多。丹波・但馬 記紀で海神族は3派。伽耶~北九州から全国へ広がった加羅、阿羅、多羅 族に対応。天神・加羅族は地祇・海神には津津之男の住之江と場所で示す。 豊玉は綿津見=阿とあるが、豊=多で多祖だ。阿族は拠点志賀島を王族卑弥 呼に襲われ北・山間へ逃避。宗像は常に天皇補佐(宗とは天皇家、像~方)。 ①イザナギ禊で成る綿津見(=豊玉彦)を阿曇氏が祭る、祖大浜スクネは海神宰→阿or多 ②筒之男3命は住江坐;摂津住江、播磨賀茂、長門豊浦、筑紫那珂郡、壱岐、対馬下県 →伽 ③宗像3神;誓約で海原支配の須佐男の子→多。 海神族分布。壬申乱の天武支持は物部、海部、尾張で 王族。だが、海部は官制化して、伽(宮津・籠、筑紫)、多(豊 国)、阿(阿波)? 住吉=伽も、支配変遷で変わる;対馬、壱岐、 長門。 出;海神社史、岡田 3世紀半、灘区西求女モメ古墳か ら卑弥呼受領の三角縁神獣鏡 7面出る→磯城朝に赤石多族は 服従、だが神武東征に加勢し、 葛城朝の前ッ君へ *卑弥呼時、山戸~瀬戸ルートは 木津川~淀川~明石。∴神功凱旋 時の4社は摂津。東征後、5C竹 内街道で住吉、又難波津へ。 *阿の吉備、阿波が備讃、また 芸予瀬戸、を抑え、王族卑弥呼 がこれを突破、東征で伽・伊・多 道を開いた多(王~多の連合だった) が突破、 が赤石を抑え、五色塚を建てる。 ○処女塚、灘区。昔、男二人が菟名日ウナイ処女に同時に恋文をだす、 女は生田川のオシドリを射止めた男に従うと言い、二人の矢は同時に 一羽の鳥を射止め、女は悩み川に投身、男も刺違えて死ぬ(宝生の能) 田辺福麻呂;古の小竹田ササダ壮士の妻問し、菟原ウナイ処女の奥城ぞこれ ○大和古墳群、天理市石上社の南大倭 社東の大和(6C前継体皇后陵→3C後~4C前・西 殿塚234) 、柳本(渋谷向山12景行陵310)、纏向(3 C中過、箸墓278;7孝霊娘倭迹迹日百襲姫墓→卑 弥呼、伊予、男王説)。 ○期別巨大前方後円墳14基。1期大和東 南部箸墓、2期西殿塚、3期渋谷向山、五 社神古墳(大和北部)、4期宝来山(同)、5期佐 紀石塚山(同)、6期の仲津山(河内東南部)と百舌 鳥陵山(和泉北部)、7期誉田御廟山(河内東南部)、 8期大仙(和泉北部)と土師ニサンザイ(和泉北部)、 9期岡ミサンザイ(河内東南部)、10期河内大塚山 (河内西南部)、11期見瀬丸山(大和南部) 大倭社 大臣。竹内宿禰=12景行~16仁徳の大臣、 続く5派;①17履中~20安康・葛城、②21雄略・ 平群木菟ヅク(津狗?)・子真鳥、③武烈・大伴、 ④欽明・物部、⑤推古・蘇我→①天智・中臣。 ○竹内の子:①波多八代はたのやしろ(多)、巨勢小柄 おから(多)、蘇我(曾・伽)石川、平群木菟(多)、紀角きのつ の(伊)、久米能摩伊刀くめのまいと、怒能伊呂、葛城襲津 大倭神社、祭神日本大国魂。天照と 彦(伽)、若子(倭伽子・・伽)。 大殿祭祈を崇神分置、天神、地祇を区 ○Wiki;平群氏平群谷古墳群は6C中頃故、新興 別。持統、藤原京造営時、伊勢・住吉・ 在地豪族→4・5C東征で明石族・椎根津彦が倭入、紀伊・当社奉幣。897年正一位。平安 遷都、藤原隆盛で衰退、応仁乱で社 大倭国造、大倭社・龍田社を創。広瀬は元の王! 領全失。 平群の 龍田社 風神! 広重 水神広瀬社。若宇加=宇加・伊 相殿櫛玉姫=長髄彦妹=饒速日妻 社家樋口氏=物部末、私邸で饒速日祭 竹内宿禰; 12景行~16仁徳の大臣、神功を助け新羅討伐、忍熊乱を抑え応神 (磯城派→天照派)へ、気比大神(高霊)を拝す審神 ○父;8代孝元孫、母は紀伊国造宇遅ウジ彦妹・宇遅媛(稲荷祭神は宇賀神) ○妻:①葛媛←葛城国造・荒田彦;伽、②宇乃媛←紀宇豆彦;伊、③豊子媛←壱岐 直・真根子;多 ○子は前ツ君の4派:波多(羽田、幡)矢代(多ー大倭)、巨勢小柄(固城→多、大神神社社家?)、 蘇我石川(旧伽;大化改新後滅)、平群木菟ツク(多)、紀角(伊;ニギ速日伴32神の一・天道根末で東 征後紀伊国造、日前クマ・国懸カカス社司祭)、葛城襲津彦(今来の伽;17履中~20安康の大臣)、若子 (他)。大臣は他28氏。対等の前ッ君・大連は大伴、物部 変遷。当初は大王と葛城氏の両頭政権(直木孝次郎) 、応神(天照・天神系)・仁徳(ソツオ・ツ クが秦・弓月を連帰る、任那設)・17履中400(国政:蘇我満智マチ・物部伊莒弗イコフツ・平群木菟 ツク・葛城円ツブラ)・18反正・19能恭、後継に履中系市辺イチノヘを殺し20安康⇒456眉根乱 で21雄略~ツク(多;国神)・物部、25武烈~真鳥の暴政(紀、記は無)を大伴討ち26 継体(天照系)、512任那4県割譲、物部・蘇我に敗北・29欽明539。稲目vs尾輿・ 鎌子、巨勢が守屋滅→推古592~聖徳→645大化→天智(天照) ○17履中。応神系皇后vs皇妃:黒媛(葛城系or羽田八代(矢代も;神功三韓伴、巨勢と)女)→磐 坂市辺押磐;仁賢・顕宗の父。 ○物部;ニギハヤヒ・・・十千根→五十琴→ ◎巨勢氏。高市郡巨勢郷(御所市古瀬)本拠、許勢・許世・居勢・己西・既洒も、姓は 臣、天武684年八色姓で朝臣。記紀によれば武内宿禰五男、許勢小柄宿禰始祖。6 世紀以降、半島外交・軍事で台頭した新興豪族、武烈後、大伴・物部と男大迹王(継 体)支持、大臣、2娘は安閑妃。磐井乱も金村や麁鹿火と鎮圧に当。欽明の稲持、崇 峻の猿・比良夫、推古朝大摩呂が大夫(議政官)、系譜は明確でない。飛鳥の孝徳朝 の徳陀は左大臣、天智朝人は御史大夫、奈良時代で麻呂と邑治が中納言、奈弖麻 呂大納言、平安初め初代蔵人頭、中納言野足の後、公卿なし、 推;高市にあり、多(狭川出)と同族(固城、小伽耶)。6Cに半島関係従事(固城が主ルート)。 463吉備滅=雄略~多(真鳥)→武烈で断絶、大伴と継体を担ぐ。 奈良盆地の5派 最初、出雲・伯耆→近江 から王が三輪山東裾。大 和川から伽→南(紀ノ川 も)、多→中・北、又大倭 神社、ツグから平群。阿 は南東、また東ルートから 飛鳥入。広瀬社;王→東 征入で伊・多。龍田社;壬 申乱後龍田に(以前は伽、 馬見群まで) 記紀;明石族の功;①東征 誘導、②神功随伴→多派が主 導⇒磯城朝3Cでも、葛城朝 4.5~5.5Cでも多が主役→701律 令→794平安遷都も *イザイザ→綿津見=豊玉彦→姫 →武位起→宇津彦・棹根津賜 (大倭国造祖)・・・矢代(弟巨勢~ 多)・都禰自ツネジ;赤石国造;神功 随伴功、)→室屋(倭連)→林連→ 海直溝長(大和赤石連祖)。 *宇津彦は神武水先案内の 功で紀;椎シイネツヒコ名、記; 槁サオ名を賜う、吉備海部祖。 速吸之門は紀;日向~菟狭(豊 予海峡)、記;吉備~難波。 出:川口陽之 五色塚物語 p79、西摂大 観、 、仲彦三 郎、M44より ○旗;南方系海神族→平氏・赤(赤石→対新羅戦は赤で統一)vs源 氏・白(Shilla)。続日本紀、播磨風土記曰;「白タク衾・新羅国 乎、以丹波ニワ而、将平伏賜 如此教賜」 ○古墳期三層;海方(工、輸送、商業)、土方(弥生;農)、山方(縄文) ○広瀬大社。祭神;若宇加能売-広瀬大忌。社伝:伊勢外宮 の豊宇気比売、伏見稲荷の宇加之御魂と同神、龍田風とも 関係有、元の祭神は長髄彦→元は王、東征で伊、多に 葛城シンポ、3C東亜と倭。卑弥呼は? *森浩一;中心東遷説。非倭国伝、派遣士2名内張政は18年在倭、 邪馬台国へ行く。晋代の作故、伝後半は80年後までを圧縮。短里 説は他部分と不整合。 *中国史・杉本憲司;金属器発見数→九州。呉の影響 *蘇哲;都市的遺跡数→近畿。古墳を含む *菅谷文則(樫原研);巻向遺跡 ○評。 AD56の奴国より、北九州先進、弁韓一体化で各派渡来は異 議無→倭に半島出自の派が形成される。 -1C~1C青銅器は国産で3 勢力圏。鉄素材は半島弁辰輸入故、半島情勢と半島ルート支配が重 要。2C後半、辰台頭・倭内辰派支援・進出で、出雲→近江→山戸で 卑弥呼磯城朝239。この時、宗像・多と同盟して北九州支配、半島 交易独占(除南ルート)。高句麗圧迫化の百済・貿易制限された伽耶の 連合、多の抱込みで半島ルートと北九州を奪還、鉄貿易で誘導し、王 族を分裂させ東征、葛城朝。 鉄。-3.5糸島、板状鉄斧(鍛造)。-1C~1C青銅器国産、九州 北・副葬品;鏡、剣、玉。1C鍛造工房・全国十数所、北九州で は石器代替(全国では3C)。4Cまでは半島半製品の鍛造の み、∴半島からの輸入ルートが重要! 5Cから砂鉄(列島は世界三大産地(NZ,加)) から製鉄;鉱石;吉備、近 江。6C応神期韓鍛治カヌチ、583新羅より鍛冶工・刀剣。 *神武妃・火土蹈鞴五十鈴姫=事代主命姫 ○阿閇アベ→アヘ氏(食、赤石とも読める);8孝元子大彦を祖、阿倍氏、日下、大戸、彦安・田心祖の 伊賀・阿閇間人、他(多)田廣瀬、道公(主)、音太部(王多部、凡(王氏)河内氏祖?)。→阿の貶め! ⇒国津神・海神族でも、尊・多は山彦+豊玉姫、豊玉彦子武位起→宇津彦=大倭国造。卑・阿は、 崇神・東山道将軍・大彦子・武沼川分(多)の末(竹内→蘇我石川も同)と分類! ∴阿族は大彦 末、多・王・伽族末とされ、所属不明、例;安部も彦安も大彦を同祖視→混同し易い! ○播磨国風土記―賀古「阿閇津に到りて、御食アヘを供進りき。故号けて阿閇村といふ」 出 ○喜多風(北(鬼多~丹波)風)氏。8 孝元曾孫・彦安(屋主)を祖(中世に諸説)、末に10 崇神の東 山道将軍・武渟川別(孝元子大彦子)、子は浪速魚網所監督し、家内重大時には遠方の初代古墳 に神意を聞く(所在地不詳⇒五色塚!)。6代彦連、神功新羅出兵功で兵庫浦を得、家宝皇后鐙。 22彦主は藤原氏と婚姻、白藤氏称。平氏福原に迎え会下山から浜方へ。 44白藤惟村、支 流21家と後醍醐・新田加勢、1336年北風をつき敵前兵庫~敏馬を参拝、兵庫浦で尊氏肉薄。 尊氏追討将軍・新田義貞から喜多風(→北風)姓、貞名で喜多風貞村。尊氏反撃で正成戦死、一 門敗走、妻・藤尼は新領主赤松氏(阿)に仲裁頼み、尼是文書で奉公を訓く。北風家は代々荘 右衛門名、諸荷物問屋として兵庫津に北風あり、荘右衛門貞幹 (1736~1802)は蝦夷地交易 に着眼、高田屋嘉兵衛後援、ニシンしめかす(干鰯)移入、兵庫津十二浜の問屋、倉庫街を支 配し豪富。幕末、荘右衛門家の婿養子北風正造は尼ぜ文書で勤王志士支援。菩提寺は能福 寺(家紋は平清盛寺と同じ・・・多)。辰馬は1662年、酒創業、海運・金融へ。 ○高田(多方)屋嘉兵衛1769~1827、淡路島五色町農民、18歳兵庫で廻船業者を志し瓦船に 乗る。1790年樽廻船水主、船頭。1795北風家の助けで1700石辰悦丸建造、廻船業、蝦夷地経 営、幕命で択捉航路、1801国後航路発見・択捉島開拓、33歳 ⇒明石国造・明石連→平安;白藤→建武;喜多風→江戸;辰(多津)馬→明治;辰馬財閥 若一ニャクイチ神社、平清盛神社。光仁(桓武の父、母は高野新笠) 御代、唐より威光上人来り、天王寺に住し、紀州熊野に詣で、人々救 わんと御分霊若一王子御神体を安置;772年。異変で土中入、清盛公、 都南東の六波羅から西に50余院ある西八条御所(西大路、大宮名元か?)に 造営、1166年、熊野詣時に御神体を世に出せと御告げ、邸内に掘り当 て、翌年太政大臣、開運出世神、社前の楠大樹は清盛公御手植。出 *祭家家紋は3ツ羽蝶、蝶は平家。大阪、漢那商店名。神戸の能福寺も同(長子曰)。 *祇ギ御前歌碑;萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき;平 家物語史跡 源平籐橘 阿部、 家紋 *中臣鎌足の子不比等が藤原姓を限定、武智麻呂・房前・宇合・麻呂は妹光明子を皇族以外 で初皇后とし藤原氏を確立。平安来、五摂家・清華家・大臣家に分かれた。また、地方に下っ た南家流、北の利仁流・秀郷流など。戦国の伊達、結城、上杉、竜造寺も。 *橘氏。敏達天皇太祖、元明女帝に仕えた県犬養三千代が橘宿禰姓を賜り、子葛城王が臣籍 し橘諸兄、橘朝臣姓を賜与、諸兄の子奈良麻呂が藤原仲麻呂に敗れ衰微した。楠木正成は 橘後裔というが真偽不明、菊水紋(後醍醐賜)。橘紋の井伊氏も先祖出生譚に由来。 *平氏紋;清盛、公家が蝶。板東八平氏の三浦;三つ引、梶原:石畳・矢筈、秩父:桐、上総・千 葉:星、土肥:巴、北条:三つ鱗。清盛流 蝶、 良将流 馬、 良文流 月星/七曜/九曜、 貞衝流 萩、 維将流 鱗、 良兼流 柏、 高棟流 左三巴、三浦; 三引両、 北条; 三鱗、千葉氏;月星。 *清和源氏は笹竜胆というが、源頼朝が笹竜胆紋を用いた確証はない、足利氏が「引両」、武 田氏が「菱」、佐竹氏が「扇に月の丸」、土岐氏が「桔梗」、村上氏が「上文字」。他方、村上源 氏の嫡流・久我氏は「笹竜胆」 *阿部氏。孝元第一皇子阿部大彦後裔といい、大和飛鳥安倍村の阿部氏末三河に土着、中世 は額田郡住、家康が駿河今川人質に付従い、八万六千石、備後福山に十万石封。 志賀海神社;龍の城。綿津見3神と安 曇磯良を安曇氏が司祭(津見→住+ 良?)。志賀島北の勝馬に古くは三社 建、筑前風土記;神功皇后三韓征伐の 砌、志賀島に立ち寄り、磯良が亀に 乗って案内。社伝では“海の民”を統率 し、現在地に2世紀頃、一族は全国に 移り、宮司家は島で阿曇姓を名乗る。 社紋;三つ巴(水を示す)。山の神、磯崎 社;遥拝所と磯良の亀石、半島阿羅を 望むか? 亀角堂;鹿を狩る? *1400人の島に社人、氏子総代、八 乙女の家の表札多い。氏子総代会会 長折居力曽(74);みんなで、びしゃっ とやりよります。阿曇家の宮司が急死、 その復活を願い応援。 *御所内の宗像神社;795、桓武命で藤原冬嗣創。 *祭神;スサ3女神(多紀理、多岐津、市岐嶋) *三代実録;小一条殿で清和天皇誕生、枕草紙;花山院家記、 花山天皇時、皇居を当社に移し、花山院殿の称。 *弊社。①少将井社;クシナダ、八坂御旅所があり、今も弊・ ②金刀比羅社(大物主);讃岐藩主、京極能登守が、参勤交 代時に祭る ③繁盛稲荷(命婦、稲荷社)、白狐、稲荷山から下りて守護。 多羅木、大;葉書の語源 クス、最古。 社務所;高屋定房、娘那津子 敦盛塚;土・水・火・風・ 空、北条貞時造説もあり 村上社;水軍=多羅族 村上神社;須磨区・村上天皇を祀る。伝承:平安時代、琵琶の名人藤原師長は唐に渡って琵 琶の奥義を極めたいと願い都を出て須磨まで来たが、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶 の奥義を伝えたので、入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。この伝承に基 づき土地の人々が村上天皇を祀った 記紀から徹底的に排 除された阿族~阿 宗・阿部・蘇我氏。 *安部氏の出自;8孝 元→大彦→建沼河分 →豊韓分→雷分→阿 加古=安部 *蘇我氏;竹内スクネ子 として河内石川氏= 蘇我氏と出る。 津速産→天児屋根→伊香津臣→中臣・中臣部(鹿島)氏 摂津の社の祭神;最古明石族、記紀に4社、倭5王時は 住吉(5C王朝時に竹内街道の出口に津守氏、葛城→平群・・と中央権力変化) ○海アマ神社(多);綿津見(安曇族)(vs多・宗像)。速水戸を誘導。 ○保久良社(多):椎根津彦、須佐男、大国主、大歳御祖 ○長田社(王);事代主(大国主子) ○生田社(天or伊);稚姫(高天原斎服 殿で織る際中、スサノオが馬皮を いみはた 投込み、機から落ち梭ヒでホト突き亡、天照は岩戸に隠る)、生田長狭国。竹内と難波 根子建振熊(和邇・春日祖)が忍熊と海神五十狭茅(王族、恭順し生田社祭家)を討つ ○広田社(王) ;神功皇后、脇;伊和志豆、地、稲荷、春日 ○本住吉社(多?) ;綿津見三神+神功、脇;天児屋根命(伽)・大山津見命(伊)。 ○住吉大社(多→伽?) :綿津見三神+神功。天火明系の摂津国住吉 郡田裳見宿禰(多?)が祀り、応神期に子津守豊吾団とよあだ(津守氏祖)が宮司 ○敏馬社(王);スサノオ=牛頭王 ◎阿族;阿波&淡路島。阿師屋、淡路、愛宕・嵐山→阿村スカ? 北風家 WIKI。「8代孝元曾孫・彦也須を初代家祖。彦也須が阿閇氏遠祖彦屋主 田心と同一かは不明。北風氏系図は複数有、22代彦主、6代彦連と初代彦也須との 事跡に混乱有。10代 崇神が桑間宮時、彦也須は四道一将軍として東山道出兵の父 に代り天皇近侍、浪速浦魚網所監督、家内重大時には当主が遠方初代古墳へ神意 祈願したが、忘れられ所在地不詳。6代彦連、神功従事、魚介献上、新羅討伐功で兵 庫浦を任される。家宝に皇后の鐙(紛失)。神功帰還の折、阿倍野で吉志舞う阿倍氏と は大変近しい一族。平氏福原京遷都で会下山から浜方に」。 *評。記紀は当時の氏族系譜を8孝元末と述べ、欠史7代以前は天孫系譜を述べる。 国神は天孫を通して統合、孝元末として現存氏族へ再分離する構成を採る。中央豪 族も竹内末と統合する。源平籐橘も皇室末→聖徳17条;一曰、以和為貴、無忤為宗、人皆有 黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成 *尼ぜ文書 尼ぜ御申の事、 浄観寺殿すぐれし強者におはしまつれど、ひととせの浪の上のさわぎの 折、勢い足らざれば、のがすまじい船を取にがいて、果々は、あらぬさまにおのれ落さすらへ給ひぬる。 九 郎左の小さかしき馬鞍にも事をかき、はかばかしき手の者もあらずして、今はたいかがせむにて、はぢをし のび、世にうづまれて、すぐしぬとも、おおん為に思し立ぬる初をわすれず、あ子、まごはさらなり、ひい子 のひい子の末々の世までも たゆみ無う いひつがせて、類ひ詠う人をふやし、物をたくわへ、時をまちてこそ。 人ふゆともわが人となおぼしそ、物ふゆともわが物となおぼしそ。おおん為の人、おおん為のものぞ。 *北風47で宗家・文右衛門、嫡家・荘右衛門、江戸期7家兵庫12浜支配。彦太 郎、1639加賀藩用命・北前船、1600鴻池清酒を馬で江戸へ→樽廻船。63荘 右衛門貞幹、高田屋支援、蕪村保護。66正造、勤皇奉公。 敏馬みぬめ神社、灘区岩屋、式内社、汶売、美奴売、三犬女、見宿女もあり。素盞嗚 を主祭神、天照・熊野坐神を配祀、江戸期まで牛頭天皇称。本の祭神ミヌメ神(美奴売神・ 敏馬神)は水神の弥都波能売神と同神、境内の水神社には弥都波能売神。諸説;閼伽井、三 犬女清水の井戸、女神名を敏馬とする、柿本人麻呂の歌「玉藻刈る敏馬を過ぎて 夏草の野 島の崎へ舟近づきぬ」からの藻塩製造時の海松ミル。 ○歴史 『摂津国風土記』逸文に、神功皇后新羅征伐時、川辺郡神前松原(尼崎市神崎)で戦 勝祈願時、猪名川上流能勢美奴売山(大阪府豊能郡三草山)神がその杉で船を作れば勝利 すると告げた、勝利の帰途、当地沖で船進まず、美奴売山神の意志とわかり美奴売神を祀る。 住吉大社神代記にも猪名川の女神と武庫川の女神が住吉大神の気を引くため競った、とある。 摂津国風土記逸文に豊受大神が丹波国遷座の前に摂津国稲倉山に居た、これは猪名川上 流説がある。延喜式の玄蕃寮の項に新羅賓客に生田神社の酒をふるまうとある。難波の鴻臚 館でも酒をふるまう。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 汶売神社」、小社。 都から西国へ船で向かう最初の宿泊港、西国から戻ると生駒山が見え出し、柿本人麻呂、大 伴旅人、田辺福麻呂等が和歌を詠んだ。与謝蕪村も兵庫北風家に立ち寄る度に訪れた。西国 街道(浜街道)に面し、遊戯施設があり、陸、海から参拝者が訪れた。 ○縁切りの神 古来、神社前は離縁を恐れて花嫁行列は通らない、女神が嫉妬するから。縁 切りの様々な方法が言われる(亭主の草履を納める:植田)。 4親王・宮家。皇位継承予定者以外の親王は親王家以外は出家し法親王と なった。応仁乱で朝廷衰退、1654年後光明天皇22歳崩御、後継問題で紛糾、四世襲 親王家の一有栖川宮良仁親王が中継に後西天皇。皇統断絶を危惧した新井白石が 新宮家を建言、1710年、実子秀宮に閑院宮号と1000石所領を下賜、桂、有栖川、伏 見の四親王家となる。中期に有栖川断絶、閑院宮から現在へ。明治22旧皇室典範で 永世皇族制、賀陽、東伏見、竹田、朝香、東久邇の3宮家。大正2年断絶有栖川宮継 ぎ高松宮創立。新典範;秩父宮(大正①→断絶)、高松宮(③→断絶)、三笠宮(④)のみ。 戦後、常陸(親王任国)宮、秋篠、桂宮(三笠②)、高円マド宮(③→男子無く逝去)。 有栖川宮:寛永2年1625、後 陽成天皇第7皇子・好仁親 王が創設、当初高松宮を称 す 。書道・歌道師範、徳川宗 家、水戸徳川、彦根井伊、 長州毛利、広島浅野、久留 米有馬と婚姻、次男以下は 門跡寺院へ法親王・入道親 王。大正2年断絶→高松宮 狗+タラvs大+タラ 太郎 ◎百済;クダラ読みは謎。大国「クンナラ」の転訛、百済への海上交通の要衝・古多津「コタナラ」など。『図書 寮本類聚名義抄』(1081年)の用例・久太良の訓は清音クタラ。 百済は『三国史記』によれば扶余王朱蒙の子・温祚が、B.C.18に河南慰礼城に「十済」を建国した。『北史』『隋書』などは 百済始祖は仇台、公孫度(?~204)が娘を与えたとあるが、『三国史記』に公孫度の記載は無い。『百済本紀』第一巻は 肖古王で終わり、第二巻は仇首王から始まっている。温祚王から肖古王までは、国家の黎明期であり、仇首王から国家と して完成されたと考える。内藤湖南によれば、仇台と仇首は「クド」で同じである。 ◎ダイダラボッチは、日本各地で伝承される巨人、柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』 (1927年で日本各地のダイダラボッチ伝説を考察、「大人(おおひと)」意の「大太郎」に法師を 付加した「大太郎法師」で一寸法師の反対の意味とする。 ◎タタラ;タタラ製鉄、製鉄場所はタタラ場、ダイダラボッチの伝承地が多いか? 製鉄用木材は 大量で禿山にするすさまじさ ○南都7大寺:興福(伽、法相宗)、東大、西大、薬師(天武→王、法相 宗)、元興(阿)、大安(多)、法隆(or唐招提) ○薬師寺;天武、鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺建立を発願、藤原京から平城遷都で現地 移転。 ○大安寺。奈良~平安前半は東大寺、興福寺と並び、南大寺の別称。大安寺伽藍縁起并流記資材帳に よれば、聖徳太子の建てた熊凝精舎を病床太子を見舞った田村皇子(のち舒明)に本格寺院にと告げ、 即位後639年、百済川のほとりに初の国家寺院を建て、百済大寺、高市大寺、大官大寺、大安寺と改称。 ○由岐神社:鞍馬寺の鎮守社、通称靫明神、大己貴と少彦名を主祭 神として由岐大明神と総称。 ○貴船神社;伝説、18反正天皇時、浪花津に黄色い船に乗った「玉依 姫なり、この船の留まるところに社殿を建てて、そこの神様を大事にお 祀りすれば国土を潤し、庶民に福運を与えん」とお告げ、船は淀川、鴨 川をさかのぼって水源地に船を留め社殿を建てた。和泉式部 も詣り、 願いが叶い不和の夫と復縁。
© Copyright 2024 ExpyDoc