政治と芸術の狭間で:ベルリナー・フェストシュピーレ・テアタートレッフェ ン 2015 評 【はじめに】 テアタートレッフェン(以下 TT)とは、毎年 5 月にベルリンで行われる演劇祭である。 審査員たちがドイツ語圏の劇場から選定した 10 作品が、3 週間程の間に集中的に上演され る。メインの 10 作品以外にもオフ作品が上演され、またその年ごとのテーマに関連する シンポジウムやテアトロテークなども開催される(2015 年のテーマはライナー・ヴェルナ ー・ファスビンダーを振り返る、というものだった)。その他の特徴や重要性については、 昨年の TT50 周年記念について書かれた以下のページを参照されたい (http://www.goethe.de/ins/jp/ja/lp/kul/mag/the/11143797.html)。ここでは、TT(およ びその他の劇場)において上演されたいくつかの作品を取り上げ、その傾向と喚起される 問題意識について述べたい。 【難民問題が抱えるジレンマ:『庇護にゆだねられた者たち』と『ヨーロッパお宅訪問』】 TT2015 のオープニングを飾ったのは、エルフリーデ・イェリネク作、ニコラス・シュテ ーマン演出の『庇護にゆだねられた者たち』( Die Schutzbefohlenen /ハンブルク・タリ ア劇場制作)だった。ドイツ、オーストリアだけではなく西ヨーロッパ全体で大きな問題 となっている難民問題を直接的に風刺したこの作品は、実際に難民である人たちを俳優と して舞台上に上げるというラディカルな手法をとった。舞台上に置かれた文字盤は数字を 映しており、それは時間の経過と共に増加する。恐らく、難民の数を示しているのだろう。 舞台上の難民たちは、大きな有刺鉄線の壁によって舞台奥に押しやられ、実際の彼ら自身 の体験について語り始める。 「ヨーロッパ」あるいは「ドイツ」を表現する俳優たちも舞台 上にいるが、難民側の俳優が喋るほとんど完璧なドイツ語を彼らは理解せず、拙い英語で 会話しようと試みるが、ディスコミュニケーションに終わる。 このような演出は、作品に用いられているイェリネクのテクストとやや趣向を異にする。 というのも、この演出では、実際の難民が登場してしまっていることもあり、難民受入に 賛成する感情(それは同情かもしれないが)を誘発し易い。だがイェリネクのテクストは、 この問題に対する反対と賛成、双方の意見をアイロニカルに反映していた。難民問題は、 やむを得ない事情で移住して来た人々に対する同情と、彼らを受け入れることで生じる負 担とのジレンマゆえに解決困難となっている。ドイツにおいて事情はより複雑である。と いうのも、WW2 後のドイツは人種主義的イメージを避けるべく、受入に対しては比較的 寛容だったからである。だが近年、そのような対応を続けることが難しくなってきた。イ ェリネクのテクストがそのジレンマを鋭く描写していたのに対し、シュテーマンの演出は、 喚起される問題に対して、観客がやや感傷的になりかねないものだったと言えるだろう。 だが、それはシュテーマンによる演出だけの問題ではない。本フェスティバルにおいて上 演された作品すべてのカーテンコールにおいて、 「My Right Is Your Right」というレイシ ズム反対キャンペーン(https://myrightisyourright.de/de/home)に関するアナウンスが なされ、観客は大きな拍手と歓声で賛同の意を示した。筆者含む観客の多くはレイシズム という不正義に対して、感情的に反応していたのである。だが、問題は心だけでは解決で きない。イェリネクのように、一歩下がった所から、双方の意見を冷静に見つめる姿勢が 必要なのではないだろうか。 フェスティバル外ではあったが、この問題に関連して興味深い作品があったので述べた い。日本にも度々招聘されているリミニ・プロトコルの新作『ヨーロッパお宅訪問』 ( Hausbesuch Europa /ベルリン・HAU)である。本作品の上演形式は特殊で、観客が ベルリン市内の一般人(ボランティア)の家を訪ね、そこであるゲームに参加する。前半 では、渡された機械のボタンを押し、プリントアウトされる紙を読み上げてその指示に従 う。後半では二人一組になり、それぞれ渡された端末でクイズに挑戦する。どれも程度の 差はあれ、 「ヨーロッパ」というものにまつわる指示や問題が出され、指示通りにすると最 後にはチョコレートケーキが焼き上がり、それをチームの点数によって配分する。 作品の性質上、参加した回と場所によって上演はかなり異なるものになっていただろう。 筆者が参加した回では、難民問題と関連し得る、面白い展開が見られた。そのひとつが、 国境を消せという指示である。机の上には、大きなヨーロッパの地図が用意されており、 そこで「どれでも好きな線を消せるとしたら、どれを消しますか?」という問いが出され た。当てられたチームのメンバーは困ってしまい、全部消したい、と答えた。参加者たち は賛同し、地図上のすべての国境を斜線で塗りつぶし始めた。だが、彼らは何を消そうと していたのだろうか。仮に本当に国境を消せたとして、より本質的なもの、例えば人種の 違いは消せないだろう。筆者含む参加者たちの心情は容易に理解できるが、やはりそれが 解決に直接結びついていない。前述したレイシズム反対運動が抱える問題と同じである。 紙の上の境界線は、消そうと必死になるほどに色濃く目立っていった。 【崩壊への 2 つの道のり:『バール』と『何故 R 氏は発作的に人を殺したのか?』】 戦後 70 周年を意識してか、戦争を直接取り上げた作品も見られた。女優たちの演技力 に圧倒された『未婚の女』( die unverheiratete /ウィーン・ブルク劇場制作)、秀逸な映 像技術と一人何役もこなす俳優たちの個性が光った、トーマス・オスターマイアー演出に よる『マリア・ブラウンの結婚』 ( Die Ehe der Maria Braun /ベルリン・シャウビューネ 劇場)がその代表例である。その他にも、WW2 ではないがフランク・カストルフ演出『バ ール』( Baal /ミュンヘン・レジデンツ劇場)が挙げられる。 TT2015 最大の問題作と呼び得る本作品は、著作権上の問題により 、今回を最後に以降 の上演を禁止された。ブレヒトの『バール』を謳いながら、まったく『バール』ではない、 ということが主な理由らしい。確かに、ブレヒトの『バール』を用いてはいたし、その核 を突くような作品ではあったが、そのテクストに忠実ではなかった。ベトナム戦争へ舞台 を移し、俳優が『バール』の台詞を言うことも少なく、中盤からはフランシス・コッポラ の『地獄の黙示録』が投影され、同じ場面をほとんど同時に再現している俳優たちの映像 が重ね合わされる。ヘリコプターと売春宿のような建物が組合わさった舞台装置が回転し、 俳優たちはあちこちへ移動しながら、ひたすら喋り、もつれ合う。セックスの真似事やほ とんど誰彼構わない濃厚なキスシーンなど、過激な描写が延々続く 4 時間は正に混沌であ った。そして作品はカタルシスもなく突然終わった。登場人物たちが舞台上に並び、彼ら 自身も終わるのか否か迷いながら、次々に舞台袖にハケて行く。そして観客が呆然とする 中、カーテンコールとなった。 このカオスに読み取れるのは、激しくも緩慢な自己破壊衝動である。ブレヒトの作品にお ける登場人物バールは、確固たる目的や大義名分を持たず、ただ崩壊への道を突き進む。 その様子と、もはや消耗戦と呼び得る程に悲惨なベトナム戦争下の状況が重なり、アポカ リプスへの自暴自棄な旅路が描かれているのである。膨大な文献、オペラ、映画などの引 用を用いて、脳内をかき回されるような体験を観客に与えた本作品は、アヴァンギャルド を好むベルリンのフェスティバルのフィナーレに相応しく思われ、もう上演されないのが 非常に悔やまれた。 スザンヌ・ケネディ演出『何故 R 氏は発作的に人を殺したのか?』 ( Warum läuft Herr R. Amok? /ミュンヘン・カンマーシュピーレ)もまた自己破壊衝動を描いていたが、こちら はより目に見えない形で表現されていた。本作品はファスビンダーの映画を演劇作品とし てリメイクしたものであり、今注目の若手演出家であるケネディの演出は、途中で席を立 つ人が続出するほどにストイックだった。役が固定ではなく、その時俳優が身に着けてい る無表情なマスクとカツラ、服装によって役が配置される。登場人物たちの台詞は恐らく あらかじめ録音されており(これもまた抑揚がほとんどなく、対話の合間に奇妙な沈黙が 挟まれた不自然なものである)、それに合わせて俳優がぎこちなく動く。言葉で表現するの は難しいのだが、まるでマネキンが人の真似をして動いているかのような、非常に不気味 な上演だった。 そのほとんど非人間的な人物たちによって描かれるストーリーも、自己破壊を描いていた。 主人公の R 氏は裕福で、家族も仕事も充実した幸せな人物だが、ある日突然妻、息子、妻 の友人を殺して自殺する。その理由は明示されない。しかし何不自由ない、そして恐らく 何の目的もない生活の中で次第に高まってゆく R 氏の内面的緊張状態が、限界まで人間性 を削ぎ落としたようなケネディの演出により、いわば一種の「嵐の前の静けさ」となって 表現されていた。最後の殺害シーンも滑稽な程不自然だが、どこか「やっぱり」という感 覚があったのは、その緊張状態が極限に達していたことを感じ取れたからだろう。 自己崩壊への衝動を、カストルフは明白な暴力的表現によって、ケネディはそれが一切 見えないという不穏さによって表していた。まったく異なるように見える以上の 2 作品は、 実は同じコインの表裏だと言えるだろう。無表情な R 氏のマスクの下にバールの顔が潜ん でいるような感覚は、現代社会における凪いだ生活の奥深くに自暴自棄な破壊へのマーチ が潜んでいるという不吉な連想を喚起した。 【政治か芸術か、あるいは…?:『コモン・グラウンド』】 ここまでで取り上げた作品は、もちろん芸術として優れているが、政治色が強かったよう に思われる。筆者の選択にも大いに責任があるだろうが、しかし実際に、フェスティバル の最後に行われた全体を振り返るシンポジウムでも、 「演劇は政治か、芸術か」という問い が浮上していた。フェスティバルの企画のひとつであるインターナショナルフォーラムに 参加した、メキシコやアフリカからの参加者は、そのシンポジウムの場で「TT の作品は ほとんど同じように見える」と鋭い指摘をした。審査員によって選出され、TT に招聘さ れる作品の多くは極めてインテリジェントであり、しかもある程度要求されるリテラシー というのは西洋中心主義的とも言える。審査員のひとりも、TT に招聘されるドイツ語圏 の演劇はとある問題に行き詰まっていると述べた。すなわち、政治的でなければ芸術では ないのか、それとも芸術は芸術として成立するのか、という問いである。 その答えは容易には出せないが、政治と娯楽が見事に融合し芸術として成立していた例 として、ヤエル・ローネンとそのアンサンブルによる『コモン・グラウンド』( Common Ground /ベルリン・マキシム・ゴーリキー劇場)を挙げたい。ローネンはテーマに基づい て俳優を集め、彼らと共に長い時間をかけてワークショップを行い、彼らが彼ら自身とし て登場する舞台作品へと完成させる。今回はユーゴスラビアを中心とする紛争をテーマと して、それを当事者として体験した俳優たちと、前回もアンサンブルに参加した部外者の 俳優たちで構成されていた。当事者のメンバーの中には、紛争の加害者側と被害者側の両 方の立場が存在する。彼らはワークショップの中で共に、当時住んでいた場所を訪ね、被 害者に話を聞きに行く。その中で生じる彼らの内面的葛藤の再現が、映像や歌、モノロー グなどを混ぜながら演劇作品として仕上げられていた。 加害者、被害者、部外者。彼らに「コモン・グラウンド」 (直訳は「共有地」だが一般的に は「議論の土台となる共通の基盤」など)は存在するのだろうか。実際のワークショップ の結果である本作品は、楽観的クリシェも陳腐なお説教も決して提示しない。彼らが旅路 にてぶつかり合い、慰め合い、自己嫌悪に陥ることでなんとかコモン・グラウンドを見つ けようとする様を描き出す。最後には、はっきりとした解答のある結果にはならないが、 紛争の当事者である登場人物たちは不思議な満足感を得る。恐らく重要なのはコモン・グ ラウンドそのものよりも、それを見つけようとする試みの継続だろう。 このように記述すると、極めて政治的な問題を扱った重苦しい作品であるかのような誤解 を受けるだろう。本作品の評価すべき点は、それがユーモア溢れるやり取りと彩り豊かな 演出、そして何よりもチャーミングな俳優たちによってとても楽しげに表現されているこ とである。非常に入り組んだ紛争の歴史と激しい国境の変動、そしてそれに伴う俳優たち の複雑怪奇なアイデンティティの説明がなされるのだが、それがリズミカルかつ愉快な「遊 び」として演じられる。また、部外者であるイスラエル人とドイツ人の俳優の「ズレ」っ ぷりもコミカルであり、喜怒哀楽の激しい退屈しない作品となっていた。 恐らく、これが前述した TT の問題を解決するひとつの糸口になるのではないだろうか。 もちろん、筆者は政治的であること、重苦しい雰囲気になることを批判するつもりは毛頭 ない。そうなるべき作品も沢山あるだろうし、本フェスティバルで鑑賞した作品はどれも (たとえ終始堅苦しい印象だったとしても)素晴らしかった。だが、仮にフェスティバル の審査員たちやシアターゴアーたちが、審査員自身が述べたように、政治であることばか りが重要視される TT の傾向に何らかの限界を感じているのであれば、 『コモン・グラウン ド』のような作品は一筋の光を投げかけ得るだろう。TT のような長い歴史を持つフェス ティバルは、その変化を追うのもまた醍醐味のひとつである。来年以降のラインナップへ の期待に胸が膨らんだ。 寄稿 關 智子 早稲田大学大学院文学研究科 演劇映像学コース 『シアターアーツ』編集部員 Goethe-Institut e.V., 東京ドイツ文化センター 2015 8 月 博士課程
© Copyright 2024 ExpyDoc