日本の加速器:最初の 20 年 1 加速器前史 2

日本の加速器:最初の 20 年
る。その翌年には、中性子の発見、ローレンスのサイクロ
トロン加速成功、コッククロフト・ウォルトンの加速陽子
−第2次世界大戦をはさむ 1930 年∼1950 年の歴史−
ビームによる原子核破壊と重大成果が相次いで発表され
v. 2015-08-23
る。仁科研究室と長岡研究室は共同でいくつかの直流高電
圧発生装置を試作していたが、コッククロフト・ウォルト
1 加速器前史
ンの論文に詳述された多段昇圧型加速器は研究室の人々に
大きな衝撃を与えたようである [3, p.17]。
エミリオ・セグレの著書「X 線からクォークまで」[1]
同じ理研の西川研究室でも大きな動きがあった。菊池が
は 20 世紀に始まった素粒子物理学とそれを支え、ともに
1933 年 4 月に設立間も無い阪大へ赴任し原子核研究を始
める頃、西川研究室も重点を原子核研究に移してゆく [2,
p.96]。そして 1935 年に長岡・仁科・西川の 3 研究室は共
発展した粒子加速器科学の歴史を辿っているが、日本にお
いてける状況も規模はともかく、ほぼ同時代的に同様な発
展が見られた。
同で原子核実験室を設立し [2, p.61]、コッククロフト・
先ず日本における X 線についての本格的な研究は、1912
ウォルトン型加速器とサイクロトロンの建設を本格的に開
年にラウエらによる単結晶からの回折像観測の論文に触発
始する。仁科は帰朝後、量子力学の講義、講演などで北大、
されて回折実験を行った寺田寅彦をもって嚆矢とする [2,
京大、台北大と研究者のネットワークを作っていたが、こ
p.35]。その結果は 1913 年の Nature に投稿された2編の
論文となるが、ブラッグ父子による同じく Nature に投稿
の頃をさかいに往復書簡の数が急速に増えてゆく [4]。海
外に広く知己をもつ仁科を中心としたこの連携関係が、日
された回折実験の論文より2ヶ月早いものであった。寺田
本各地における同時的な加速器建設に決定的な役割を果た
の方法は回折 X 線を蛍光板で可視化しそれを撮影すると
した。まさに 1935 年は日本の加速器元年と言ってもよい
いう、その時点では独創的なものである。
であろう。
X 線回折の研究は寺田に勧められた西川正治に引き継が
なお理研でコッククロフト・ウォルトン型加速器以前
れ、いくつかの結晶の電子配列が明らかにされる。その後
に作られていた直流高電圧加速器は次のようなものであ
西川は 1921 年創設されて間もない理研に移り、菊池正士
る。1932 年には自家製ヴァン デ グラーフ式静電圧発生
とともに電子線回折の実験も始める。1927 年に Davisson-
器が 600 kV を出した。しかし湿気に弱く更なる開発は見
Germer が 100 eV 電子ビームの単結晶金属表面からの散
送られた。400 kV インパルス ジェネレータも試験された
乱パターンを Nature に報告する。これは Max Born によ
が、インパルス点火時刻が不安定かつパルス幅もマイクロ
りドブロイの仮説を裏付けるものであるとされる。西川・
秒以下で、原子核実験用装置には不向きとされた。さらに
菊池は追試を試みるが、未熟な日本の真空技術では成功し
300 kV グライナッハ型加速器も作られ、1933 年ごろから
は d − d 反応による中性子源として使われた。コッククロ
なかった。しかし 20 ∼ 30 keV という、当時としては高エ
ネルギーの電子ビームを使うことで雲母の結晶からの回折
フト・ウォルトン実験の追試となったのは、通常の 100 kV
像を得ることに成功し、1928 年の Nature に発表した。こ
強の高電圧発生器で加速した陽子をリチウムに当て、発生
れは Davisson-Germer の実験とともに電子の波動性を証
した α 粒子の多数の飛跡を霧箱で観測したもので、1934
明するものとして有名である。
年 5 月のことである [5, p.304] [4, I - p.326]。
これらの回折実験に使われた数十 kV 級の高電圧発生装
置での経験が、直後に始まる加速器開発に大いに役立つこ
3 コッククロフト・ウォルトン型加速器
とになる。同時に基盤となる日本の電力技術も、1923 年
には商用 150 kV 送電を実施するという、世界第一級のレ
コッククロフト・ウォルトンのものと同等な整流回路
ベルに達していたことも見逃せない。
を建設しようと準備を始めた仁科が行き当たった困難は、
2 加速器事始め
400 kV もの耐圧をもつコンデンサが当時の日本では入手
困難なことであった。1933 年 1 月には直接コッククロフ
1917 年から 1919 年にかけてラザフォードは α 線源に
トに問い合わせの書簡をだしている。同時期にまた高圧コ
よる原子核破壊事象の発見と確認を続けたが、この研究
ンデンサーとともに日本では入手できない真空シール用パ
をさらに進展させるべく高エネルギー陽子ビーム発生の
テ、拡散ポンプ用オイルを含めて見積もり、納品の依頼状
ための装置、加速器を開発しようとする気運が欧米で高
を送っている [4, I - p.275] [4, I - p.276]。台北大でコック
まった。
クロフト・ウォルトン型加速器を建設しようとしていた荒
日本においてもこれらの動きには少なからず関心が持た
勝文策も、トランス類はX線装置のものが流用できるが、
れていた。特に 1929 年にヨーロッパから帰国した仁科芳
やはりコンデンサー入手については難しく、仁科への相談
雄は理研長岡研究室に属し量子論を研究テーマとした。し
の書簡を認めている [4, I - p.321]。
かし 1931 年に仁科研究室をもつようになると原子核、宇
理研ではその後サイクロトロン建設が優先となり、コッ
宙線、高速度陽子線の発生の研究に重きをおくようにな
1
ククロフト・ウォルトン型加速器の方はペースが鈍る。一
れた。電子を加速してエックス線を発生させ、鉄板内部欠
方、台北大では建設が進み 1934 年 9 月には 150 kV の陽子
陥の非破壊検査にも使われた。
ビームが得られ [4, I - p.349]、1935 年初頭には重水素どう
しの衝突による陽子発生の確認をしている [4, I - p.366]。
5 重イオンリニアック
阪大に着任した菊池は先ずコッククロフト・ウォルトン
スローン・ローレンスによって 1931 年に作られた重イ
型加速器を設置した。200 kV× 3 段の会社製であったが、
オンリニアックに相当するものが、1937 年に東京電気(現
350 kV しか出なかった。その問題を解決することが助手
熊谷(旧姓 青木)寛夫の最初の仕事となる [6, p.49]。モ
東芝)で完成している [10]。これは 14 個の電極を持ち、
6.4 MHz の高周波でアルゴンイオン A+ を ∼ 450 keV まで
デル実験で、ビーム以外にコロナ放電で大気中に逃げる分
加速した。Li から Pb までの 17 種の元素にビームを照射
も入れた全電流に対応できるようにコンデンサー容量を大
して発生する特性 X 線が観測された [11]。使用された真
きくするべきであることが判明した。熊谷によれば、それ
空管は国産水冷式 3 極管 SN209 [12, p.596] 1 本である。
を聞いた菊池は直ちに「予算の裏付けなく」実物の大容量
コンデンサーを発注した。それは住友電機工業(旧 住友電
6 サイクロトロン
線製造所)が世界に先がけて開発した OF (oil-feeding) 式
の信頼性の高いものである [7]。「最初にわたくしどもの装
理研でサイクロトロン建設計画が本格化した 1935 年、
置を会社の人が設計するときにはまだ製品がなかったのだ
仁科はそれに合わせて嵯峨根を同年 9 月から翌年 10 月ま
から、われわれは技術の進歩に助けられたことになる」と
で、矢崎 為一を 10 月、11 月とバークレーのローレンスの
熊谷は感想を記している [6, p.53]。これらの改良の結果、
元に送って情報収集につとめる。
400 keV、数十 µA の安定な d ビームが得られ、中性子源
磁極直径 26 インチ(66 cm)の小サイクロトロン [13] と
として重用された [8, p.53]。
呼ばれるものは、ビーム軌道半径の上限を決める D 電極
理研のコッククロフト・ウォルトン型加速器に戻ると、
半径が 28 cm で、1936 年設計開始、1937 年 4 月 3 日陽子
1936 年に帰朝した西川研究室の篠原健一が建設の仕事を
引き継ぐ。目標の 1 MV は難しかったが、1940 年には数
百 kV の陽子ビームで実験に使用されるようになった。篠
ビーム取り出し成功、中性子発生を確認した [4, II - p.564]。
改善を重ねつつ運転を続けたが、1945 年 4 月 13 日の空襲
で壊滅する [4, III - p.1173]。
原は弗素を衝撃して発生した 6 MeV γ 線が鉛に当たって
磁極直径 60 インチ(152 cm)の大サイクロトロン [14]
発生する電子対や、電子のクーロン電場内での電子対発生
は D 電極半径が 67 cm であり、1939 年に組立完了するも
を観測している [2, pp.152 – 156]。
磁場均一性、真空度、高周波電圧達成に問題があった。そ
こでローレンスの助言を求めるべく矢崎ら 3 名を 1940 年
4 ヴァン デ グラーフ静電圧加速器
8 月米国に送る [4, III - pp.932 – 961]。その結果 1943 年
12 月 8 日に 9 MeV の陽子ビーム取りしに成功、重水素
については内部標的モードでの実験開始、1945 年 8 月 15
大気中に高圧電極を置くヴァン デ グラーフの設計は、
周囲環境との十分な耐電圧を確保することが難しく敬遠
日の終戦当日まで運転を続けた。1 ヶ月後の 9 月下旬に
された。しかし加速器本体を高圧空気タンクに収納する
GHQ による生物・医学にかんしてのみの許可がおりて実
ハーブ方式 [9] が確立されると、日本各地に 1 MV 級のも
験を再開した。
のが数台置かれるようになった。1941 年 11 月に東大で開
阪 大 (菊 池 研 究 室) で は 28 イ ン チ 、京 大 (荒 勝 研 究
かれた物理学研究委員会第 1 分科会では、阪大(菊池正
室) では 39 インチのサイクロトロンの建設が始められ
士)
、東大(嵯峨根遼吉)
、東北大(三枝彦雄)
、九大(篠原
た [15] [16, p.136]。阪大のものは 1937 年 3 月 30 日に
健一)、東京芝浦電気(田中正道)からの建設報告があっ
完成 [2, p.111]、翌年 10 月に d ビームは 4.5 MeV、3 µA
た [4, III - p.1036]。
に達し [4, II - p.749]、実験に使われている。京大のもの
東大での建設は熊谷の担当であったが、そこで直面し
は 1934 年に建設が始まった。1945 年 11 月の時点では
た技術上の問題が文献 [6, pp.96 – 105] にまとめられてい
電源までは完成したものの本体機器は未だしであった [4,
る。ひとつは、真空排気コンダクタンスを上げるために加
III - p.1187]。
速管電極の孔径を大きくしたところ、2 次電子流が増えて
被災しなかったこれら 3 台のサイクロトロンは GHQ に
電圧が上がらなくなったこと、コロナ放電によるベルト表
より原子 (爆弾) 研究機器と見做され、1945 年 11 月中に
面へ吹きつけられた電荷量が一定でなく加速電圧に大き
米軍により破壊され水底深く沈められる。GHQ 側から見
な揺らぎが生じたことなどである。初めの問題は加速管電
た破壊直前の状況報告全文の邦訳は文献 [4] に第 1196 書
極の電位を所々で逆転させることで、後の方はベルトの
簡として納められている。またこれに対しては仁科の報告
裏表に対称に帯電させることで解決された。1941 年暮に
書 [4, III - p.1201] の他、文献 [17] のような、当時を知る
450 keV のビームが初めて出て 2 年ほど原子核実験に使わ
日本側研究者からのコメントがある。
2
1944 年に上梓しているが [21] [16]、上のディー電圧の根
7 ローレンスのサイクロトロンと日本の加速器
科学
拠となったベーテらの計算には多少の距離を置いている。
ただ、阪大では山口省太郎らがビーム物理も考慮した上で
1930 年代初頭からの米国の加速器科学の興隆はヨー
サイクロトロンの大改造を行い、「世界一流の性能」[15]
ロッパをはるかに凌ぐものであった。そうして仁科が将来
を達成した。戦後間もなくの 1954 年に出版された阪大グ
性を見据えてローレンスのサイクロトロンを軸に高エネル
ループによる二つの加速器参考書 [22] [23] はそれらの成
ギー加速器を開発したことは、後の日本の加速器科学発展
果が下敷きとなっている。
に大きい影響を残した。
まずビーム動力学から見ると幸運なことに、初期のサ
8 電子加速器とくにベータトロンについて
イクロトロンでは電場、磁場による集束が適度に働らき、
1930 年代の米国では 2 MeV 程度の電子ビーム用ヴァン
10 MeV 程度の陽子であれば定性的な描像にもとづく調整
デ グラーフ静電圧加速器が多数作られた。主にはエック
でほどほどのビーム強度が得られた。従って開発にかか
ス線源としてであるが電子ビーム源としても医療用や産
わった研究者は高度な加速器理論を構築する必要がなく、
業用に広く需要があったからである [24, p.67]。このよう
直ちに核物理実験に専念することが出来た。
な状況のなかでカーストはベータトロンの実用化に成功
もう一つの幸運はサイクロトロンが作られたのがサンフ
した。彼はその論文のなかで、ベータトロンで作られる
ランシスコの近郊バークレーであったことである。大型電
極めて鋭い高エネルギー電子ビームが将来の原子核研究
磁石を作る予算をもたなかったローレンスは、かってサン
に有用になるであろうと述べている [25]。嵯峨根も上述
フランシスコ・ハワイ間の無線通信に使われていたパウル
の参考書ではベータトロンの将来性を高く評価している
ゼン式電弧発生用電磁石 [18] を転用した。日本でも逓信
[16, p.134]。しかし日本での高エネルギー加速器の用途は
省が対米通信を目的にパウルゼン式 400 kW 送信機を磐城
もっぱらイオンビームによる原子核実験のためのもので
無線局原ノ町送信所に設置したが、1924 年に閉鎖し、国
あり、電子ビームへの関心はその分薄かったようである。
産の同型電磁石が使われずにあった [19, p.103]。そこで仁
なおベータートロンの発祥地ドイツではカーストの成功
科もこれを譲り受け、ローレンスと同じ設計にそって小サ
を知り、戦時中ではあったが医療と材料検査を主な目的に
イクロトロンを確実に完成させることが可能になった。過
6 MeV から 200 MeV まで数台の開発を再開している。そ
のうち 1945 年までに完成したのが 6 MeV と 15 MeV の 2
去の遺産が日米双方の加速器科学発展に思いがけずも大き
な寄与を果たしたことになる。
台である。米国占領軍は解体を命ずるが英国軍の介入で事
これらのサイクロトロンからある程度のビームが出始め
無きを得た [26, p.79]。
ると、建設にかかわった研究者はただちに核物理の実験に
バークレー滞在中の嵯峨根や矢崎はスタンフォード大の
向かい多くの論文を発表している。もちろん加速器の調整
ハンセンと単セル高周波加速空洞による電子加速につい
も平行して丹念に行われたが、装置各部分の改良がビーム
ても議論を交わしている [4, I-p.408] [4, II-472]。これは
性能向上へどうつながるかビーム物理の観点も入れて解
嵯峨根の 1941 年の参考書にもランバトロン(クリストロ
析した論文は現れなかった。この点でローレンスやリビン
ン)という項目で簡単に紹介されている [21, p.20]。ハン
グストンらは加速器そのものについての論文を 1930 年代
センはこの加速方式の論文を 1938 年の Journal of Applied
の Physical Review、Journal of Applied Physics、Review of
Physics に発表した [27]。そこでは外部導波管と結合した
Scientific Instruments などの学術誌に多数発表しているの
空洞の等価回路についての重要な公式も導かれている。そ
と大きく違っている。日本では加速器科学の専門家が育つ
のころ (株) 日本無線ではパルス出力 10 kW 前後の S バン
には未だ時期尚早であった。ローレンスのもとでサイクロ
ドマグネトロンの開発が進んでいた [19, p.161] [28]。も
トロンの性能向上に大きな業績を残してきたリビングスト
しも人材に余裕があったなら日本においても電子リニアッ
ンが米国東部の大学に転出したのは、嵯峨根がバークレー
クの開発が始ま可能性はあったと思われる。
に滞在を始める前年である。もしこのすれ違いがなければ
或いは状況は違ったかもしれない。リビングストンの後を
9 終戦から 1950 年ごろまでの復興活動
引き継いだのはマクミランで、矢崎らとは有益な議論を再
三交わしていたことが仁科往復書簡集から読み取れる。し
終戦直後の 1945 年 9 月から 10 月にかけて滞在した米
かしマクミランがシンクロトロン加速の原理を発見し、古
国太平洋陸軍科学情報調査団の一員であるコンプトンは、
典的な加速方式ではディー間の電圧が 1.4 MV にも達する
理研の大サイクロトロンおよび東大のバンデグラーフによ
と考えられた 184 インチ 100 MeV サイクロトロンを周波
る純粋に科学的な研究を許可しない理由はないとの勧告を
数変調方式に変えたのは、戦争も末期のことであり [20]、
GHQ に行った [4, III – p.1166]。しかし占領軍内部の行違
その経緯が日本に伝わる由もなかった。
いにより大サイクロトロンおよび阪大、京大のサイクロト
嵯峨根は加速器にかんする優れた参考書を 1941 年と
ロンは年内に投棄され、核物理研究用の加速器としては阪
3
大のバンデグラーフのみとなった。
20 (1938) 33.
サイクロトロン破壊にたいする米国の科学者からの強い
[12] 濱田, 電気学会雑誌 58 (電気学会, 1938) 589.
[13] Y. Nishina et al., Sci. Pap. I.C.P.R. 34 (1938) 1658.
非難が起った結果、その翌年 1 月 M.I.T の物理学者ケリー
らが科学顧問として来日し、GHQ 経済科学局に着任する。
[14] 新間 他, 科学研究所報告 (旧 理化学研究所彙報) 第 27
輯第 3 号 (1951) 64.
[15] 伊藤 順吉, 物理学会誌 6 (物理学会, 1977) 706.
彼らが科学研究復興のための予算案を管理したが、最悪の
経済状態のなかで原子核実験など基礎科学に使える金があ
るなら国民の食糧確保にまわすべきであるという姿勢で
[16] 仁科 芳雄 監修『量子物理学の進歩 第1輯』: 嵯峨根
遼吉『高エネルギー 粒子 (及び量子) 発生装置』(共立
あった。そのような状況が数年続いたが、1950 年 6 月朝
鮮戦争勃発のころになると経済好転のきざしが見え始め
出版社, 1944) .
[17] 福 井 崇 時, 技 術 文 化 論 叢 (技 術 文 化 論
叢 編 集 委 員 会 編) 第 12 号 (2009) 59,
る。文部省の予算や民間団体からの寄付にも可能性がでて
きた。1951 年 5 月にローレンスが来日し、サイクロトロ
ンの再建は大掛かりなものではないと力説した。とくに理
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1028580400.
研の場合、小サイクロトロンに使われたパウルゼン磁石に
はかならずスペアがあるはずで予算をかなり縮小できると
[18] L. F. Fuller, Proc. Inst. Rad. Eng. 7 (1919) 449.
[19] 岡村 総吾 他, 『電子管の歴史–エレクトロニクスの生
い立ち–』(日本電子機械工業会 電子管史研究会 編、
示唆した。このような後押しもあり同年 6 月に開かれた朝
永が委員長をつとめる原子核研究連絡委員会で文部省予算
の規模に応じた二三の実行計画案が審議されるまでに到っ
オーム社, 1987) .
[20] E. M. McMillan, Physics Today 12 (1919) 24.
た [4, pp.1460 – 1463] [29, pp.605 – 609]。結局、理研、阪
大、京大の三箇所に 26”レベルのサイクロトロンが建設さ
[21] 嵯峨根 遼吉, 物理学講座, XI. A. 『原子核実験装置』
(岩波書店, 1941) .
[22] 素粒子論研究会 編 『– 素粒子論の研究 IV – 原子核・
れることになる [8, pp.158 – 174]。
サイクロトロンなど加速器の建設に尽力した仁科は
1951 年 1 月に急逝する。その後をついだ菊池、朝永らを
宇宙線の実験』(岩波書店, 1954) .
[23] 菊池正士 他, 岩波講座 現代物理学, IV. F. 『原子核の
実験法』(岩波書店, 1954) .
中心とする若手が次世代の高エネルギー加速器建設に向っ
て進み出す。その結果、東大付置の共同利用研究所であ
る田無の核研が 1955 年に発足することになる。こうして
[24] M. S. Livingston and J. P. Blewett, Particle Accelerators (McGraw-Hill, 1962) .
終戦直後の混乱は終わりを告げ、復興期に入ったわけで
ある。
[25] D. W. Kerst, Phys. Rev. 60 (1919) 47.
[26] R. Wideröe.
The Infancy of Particle Accelerators.
P. Waloschek ed., http://www-
参考文献
library.desy.de/elbooks/wideroe/WiE-BOOK.htm,
DESY, Hamburg, 2002.
[1] エミリオ・セグレ, 久保 矢崎訳『X 線からクォークま
で』 (みすず書房, 1982).
[27] W. W. Hansen, J. App. Phys. 9 (1938) 654.
[28] M. Hobbs, Electronics 10 (McGraw-Hill, May 1946)
114.
[2] 篠原 健一ほか 編『西川正治先生 人と業績』(西川先
生記念会, 1982).
[3] 朝永 振一郎『開かれた研究所と指導者たち』 (みすず
書房朝永振一郎全集 第 6 巻, 1982).
[4] 中根 良平ほか 編『仁科芳雄往復書簡集 I, II, III』(み
[29] 中根 良平ほか 編『仁科芳雄往復書簡集 補巻』(みす
ず書房, 2011).
すず書房, 2006-2007).
[5] 坂井 光夫ほか 編『嵯峨根遼吉記念文集』(嵯峨根遼吉
記念文集出版会, 1981).
[6] 熊谷 寛夫『実験に生きる』 (中央公論社 自然選書,
1974).
[7] 村岡 隆, S E I テクニカルレビュー 176 (住友電気工
業, 2010) 31.
[8] 熊谷 寛夫 ほか 編『菊池正士 業績と追想』(菊池記念
事業会編集委員会, 1978).
[9] R. G. Herb et al., R. S. I. 6 (1935) 261.
[10] 田中・野中, 応用物理 6 (応用物理学会, 1937) 215.
[11] M. Tanaka and I. Nonaka, Proc. Phys. Math. Soc. Japan
4