上城 遺跡 (大島郡与論町東区大字麦屋アマミズ) 位置と環境 遺跡は鹿児島県の最南端の島,与論島の東南部の 赤崎の灯台の西北西約700ⅿにあり,迫状になって いる部 に形成される赤崎鍾乳洞の西側の標高23ⅿ の石灰岩台地の端部にある。遺跡は北西に緩やかに 傾斜する斜面に位置する。 調査の経緯 第1図 上城遺跡の位置 県営畑地帯 合土地改良事業(真正地区)の事前 調査として,1989年5月から6月にかけて,与論町 教育委員会が調査主体となり,県教育委員会の協力 で確認調査を実施した。上城遺跡の南側には,与論 城に先立って存在した城(グスク)跡と伝えられる 上城(ウワィグスク)跡があり,東南部にサンゴ礫 と砂岩礫の積石がみられ,基盤岩を加工して曲輪を 形成した可能性もあり,神山として保存されるとの ことであった。後日再訪したところ初源的なグスク の形を残す可能性のあった東南部の石積部 は,畑 地造成上の都合から直線的に切り取られていた。保 存の有り方を えるうえで重大な教訓としたい。上 城遺跡は,このグスク跡と鍾乳洞との間に形成され た,縄文時代晩期の宇宿上層式,仲原式土器の時期 で,最大19軒の住居跡群である。 式・宇佐浜式土器などに伴って出土していた細沈線 を有軸羽状に施す土器が,完形の壺形土器として2 個体出土し,器形が明確になった(1・2)。出土土 器は,上層と下層に必ずしも明確に たが,壺形土器を手掛かりに,2時期に 離できる 可能性がある。上層,下層を一応の目安としながら, 住居跡の切り合いも検討して 離できた場合は,新 しいほうは仲原式土器(3∼7)に,古いほうが宇 佐浜式土器の時期かもう一段階古い時期にあたる。 石器は磨製石斧(8・9)・磨石等が出土し,夜光貝 の蓋を った打割具(10・11),骨杖状製品(12), 貝小玉(13・14),サメ歯製垂飾品(15∼20),骨製 耳栓(21∼25),骨針(26∼35)等が出土した。獣 骨はイノシシ,ジュゴン,ウミガメなどがみられ,装飾品 遺構と遺物 の材料として,イノシシやジュゴン(肋骨)を っている。 住居跡群のうち,調査中最もはやく検出した6ト 特徴 レンチの10∼19号住居跡の切り合いの多い住居跡に ついて発掘調査を行った。住居跡は,敷石住居跡 (10号住居跡)・中央に石組炉をもち砂層を床とし, 明確な柱 離できなかっ をもつ住居跡(11号住居跡)・石で囲い, 焼土を埋土とした住居跡(16号住居跡・17号住居跡) の3タイプの住居跡が検出された(第2図)。17号 住居跡は,石囲いが長方形プランの15号住居跡に伴 う可能性もあり,タイプとして 離される可能性も ある。切り合い関係から,石囲いの住居跡・敷石住 その地理的位置から,遺構・遺物ともに奄美と沖 縄との関係を捉えるうえで貴重な資料である。土 器・石器とともに骨角器等も出土しており,魚骨や 獣骨等の食物残滓も残されている。現状で保存され ているので,今後明確な目的意識のもとで学術的な 調査も可能である。住居跡群はこの時期に奄美諸 島・沖縄諸島で共通して形成されることが知られて いる。 資料の所在 居跡・石組み炉を持つ住居跡の時期差が確実におさ えられる。ほかの住居跡は,遺構の検出面でしか確 認していないが,石囲いの住居跡が中心で,集落構 造の追求に興味深い遺跡である。 出土遺物は,与論町教育委員会で保管されている。 参 文献 与論町教育委員会1990「上城跡上城遺跡」 『与論町 埋蔵文化財発掘調査報告書』1 出土した土器は,奄美・沖縄地方で,宇宿上層 ― 855― (堂込秀人) 1 4 5 3 7 6 2 10 9 8 14 13 11 12 18 15 33 19 16 29 17 27 31 32 34 20 21 22 23 24 30 28 25 26 第2図 上城遺跡住居跡および出土遺物 ― 856― 35
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