13号-人間が生きていくということ

わくワク塾通信13号( 2011 年 5 月 16 日 )
人間が生きていくということ
前号で写楽が役者絵ではなく、役者を演じている人間を描いたと書いたが 、「人間を描く」という
ことはどういうことであるのか、について、ここで踏み込んでみる。
さいとうじゅうろべえ
能役者の斎藤十良兵衛はどうして写楽として登場することになったのか。斎藤は台詞のない、舞台
の片隅で存在感を消した能役者として人生を終えることに、どうしても納得することができなかった 、
というのが初発の問いである。そのような能役者として生きる定めに、彼は衝突せざるをえなくなる
ように生きていたのだ。彼のような膨大な同種の「能役者」が衝突もせず、葛藤することもなく、収
まるように生きているのに、彼はどうして与えられた生の枠組みをはみだすような生き方を欲したの
か。彼にそのように生きることを衝迫したものはなんであったのか。
能役者の彼は舞台裏で密かに絵を描いていた。能役者として生きることに力が入っていかなくなる
につれて 、「絵を描く」ことのほうに力はますます集中していった。彼の中では、自分にとっての本
当の舞台は「絵を描く」ことであり、思うように絵が描けるようになるにしたがって、自分の本領が
発揮されていく手応えを感じ取ったにちがいない 。もちろん 、それだけなら 、能舞台を勤める一方で 、
「絵を描く」時間を見出してそれに没頭すればよかった。つまり 、「絵を描く」時間が自分に与えら
れているだけで満足すればよかった。
ところが、彼の「絵を描く」ことはそんな状態に調和しなかった。絵さえ描ければよいというもの
ではなかった。自分は絵を描いているのではない、人間を描いている、どこかの人間ではなく、自分
という人間を描いているのだ、という思いが溢れかえっていた。おそらくなにを描いても、自分とい
うものが過剰に流出してくるのを感じていたかもしれない。つまり、彼は「絵を描く」ことにも満足
していなかったと思われる。彼は本当は能舞台でこそ、自分という人間を演じてみたかったのだ。だ
からこそ、「絵を描く」時間にも自分が過剰に流出してこざるをえなかった。
彼が最初に美人画ではなく 、役者絵を多く描いたのは 、彼自身能役者であったからだと推測される 。
自分が流出してくる彼の役者絵がこれまでの役者絵の枠を超えていたように、彼の描く美人画が美人
画になりうるはずがなかった。枠の中で演じている彼が、枠の中で描かれている役者絵に引きつけら
れることはなく、能舞台で自分が演じたいように演じることができなければ、絵では自分が描きたい
ように描く、といわんばかりの描写の迫力は、出版業者の蔦屋重三郎の心に採算を超えて火をつけた
のである。彼の絵に最初に出会った業者が蔦屋であったことは、写楽誕生にとって非常に僥倖だった
し、後世に目に触れることができる私たちにとっても、この上なく幸運だった。
能舞台で存在しないようにさせられ 、「絵を描く」ことのなかで存在しようとしていた彼が、蔦屋
の目に自分の絵がとまるのを望まないはずがなかった。蔦屋に後押しされた彼の絵はしかし、受けな
かった。枠の中の役者絵を求めていた人々は、枠を超える絵の生々しさにそっぽを向いたのである。
後世で評価されても、在世では受け流された。能舞台で無視され、自分が精魂込めた絵でも無視され
た。しかし、能舞台では自分が消去させられていたけれども、絵では自分が過剰に流出していた。客
に受け入れられるかどうかではなく、自分が流出してくる舞台を絵の中につくりだしたことが、彼に
とって生きる意味をもっていたのだ。彼は自分が納得できるように短時間でも生きたのである。
昭和41年6月4日に 、《引退興行をすませて、ただ一人、四国巡礼に旅立つて、投身自殺をした
団蔵 》について、三島由紀夫は「 団蔵・芸道・再軍備」
(『20世紀 』昭和41年9月)で論じている 。
《引退のとき、六代目菊五郎の 、「永生きは得ぢや、月雪花に酒、げに世の中のよしあしを見て」と
いふ狂歌をもぢつて、/「永生きは損ぢや、月々いやなこと、見聞く憂き世は、あきてしまつた」/
といふ一首を作つたが、このパロディーの狂歌が、そのまま辞世になつた。》
物書きの世界を見つめる三島の目を通して、団蔵が 、《歌舞伎界の、人情紙のごとき状態と、そこ
に生きる人間の悲惨を見尽して、この小天地に、世間一般の腐敗の縮図を発見してゐたに相違ない。
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歌舞伎の衰退の真因が、歌舞伎俳優の下らない己惚れと、その芸術精神の衰退と、マンネリズムとに
あることを、団蔵は誰よりもよく透視してゐたのであらう》と推測しながら、次のように評する。
《団蔵は、いはば眼高手低の人であつた。眼高手低の悲しみと、批評家の矜持を、心のうち深く隠し
て、終生を、いやいやながら、舞台の上に送つた人であつた。四国巡礼の途次、徳島で、団蔵は記者
にかう語つてゐる。
「今は人形のやうな舞台人生から離れ、生れてはじめて人間らしい自由を得ました」
この言葉は悲しい。何故なら 、「人形のやうな舞台人生」に於て、彼自身は、人形たることに自足
できるほどの天才的俳優ではなかつたからである。
もちろん彼はこのことをよく知つてゐた。
「役者は目が第一。次が声。私はこんなに目も小さい。声もよくない。体も小さい。セリフが流れる
やうに言へない。役者としては不適格です」
といふのが口癖だつたさうである 。(中略)
(… )「人形のやうな舞台人生」をあれほど嫌つた団蔵が、自殺といふやうな人為的な死に方をし、
自ら人生をドラマタイズしたことには、人間性の尽きぬ謎がある。舞台人生の非名優は、人生舞台の
大名優になつた。そしてこの偸安第一の時代にあつて、彼は本当の「人間のをはり」とはいかにある
べきかを、堂々と身を以て示し、懦夫をして立たしむるやうな死に方をした。それは悲しい最期では
ない。立派な最期である。彼の生き方死に方には、ピンとした倫理感が張りつめてゐた。》
「人形のやうな舞台人生」を務めている間は、自由に死ぬこともできなかったが、その「舞台人生か
ら離れ、生れてはじめて人間らしい自由を得」たときに自殺するということは 、「人形のやうな舞台
人生」をいくら嫌っていたとしても、結局のところ、団蔵には舞台人生以外の人生はないことを物語
っていたのだろうか。舞台人生からの引退は彼にとっては、人生舞台からの引退に等しかったのでは
ないだろうか。舞台人生抜きの人生舞台を死を以て演じることになったとき 、「舞台人生の非名優」
だった団蔵は「人生舞台の大名優になつた」と、三島は賞賛する。なぜなら、人生舞台では「死」以
上の演技はないからだ。
《芸は現実を克服するが、それだけの芸を持たなかつた団蔵は 、「芸」がなしうるやうなことを「死」
を以てなしとげた。すなはち現実を克服し、人生を一個の崇高なドラマに変へ、要するに現実を転覆
させた 。》自身も人生舞台の「死」を懸命に考えていた三島は、団蔵の死をこう評した 。「人形のやう
な舞台人生」では団蔵は名優に及ばなかったが、人生舞台で団蔵が「死」を演じたとき、どの名優も
彼には及ばなかった。そして団蔵が演じた「死」にはただ一回かぎりの「本気」があった。
さいとうじゅうろべえ
能役者の斎藤十良兵衛もまた、団蔵と同様に「人形のやうな舞台人生」しかなかった。斎藤は自分
という人間の舞台人生を絵に見出したが、団蔵は引退まで「人形のやうな舞台人生」を務めてきたの
さいとうじゅうろべえ
である 。団蔵は絵を持たなかった斎藤十良兵衛だったのかもしれない 。斎藤ももし絵を描かなければ 、
そして「人形のやうな舞台人生」に折り合いがつかないままであれば、自殺していたのだろうか。「今
は人形のやうな舞台人生から離れ、生れてはじめて人間らしい自由を得ました」と言って引退した団
蔵には 、「人形のやうな舞台人生」以外のどこにも行くところがなかったのだろう。だから 、「生れて
はじめて人間らしい自由を得た」とき、その「生れてはじめて」の自由は「死」にむかっていくほか
なかったのかもしれない。
ベルン・ハルト・シュリンク『朗読者』の文盲であった主人公アンナは、獄中で読み書きができる
ようになったが、仮釈放の日に首を吊って死ぬ。言葉を覚えた彼女は、ナチス時代に自分がしてきた
ことの責任を取って、自分を裁いたのである。言葉を覚えて新しい人生の一歩を踏み出す予定であっ
たのに、文盲時代の自分を問わなければどこにも行けないことを自分に突きつけていたのだ。彼女に
とって言葉を覚えることは、自分の人生の終焉を意味した。団蔵が「生れてはじめて」の自由を手に
入れると同時に、死を受け入れたように、彼女もまた、自分の言葉を手に入れると同時に、死を受け
入れた。写楽は自分が生きるために絵を描いたが、団蔵の自由もアンナの言葉も、自由を生きるため
にこそ、言葉を生きるためにこそ、死を引き受けたのだろうか。
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