宿題をまとめる候に

霊降臨後 第11主日
礼拝説教 (2015年8月23日) 飯川雅孝 牧師
聖書
ヨハネ6章11-15、25-29節
主題
『 宿 題 を ま と め る 候 に 』
(説教) 毎年8月の下旬になると、どこの家庭でも、子どもさんが9月の学期初めに
提出する宿題に追われております。しかし、フランスなどでは宿題がないと聞いて
います。その方が健全であると思います。でも、先生と生徒の約束を守ることには
共同体における信頼関係の維持の原則が働いています。
ビジネスの世界では営業目標の達成は企業の死活の問題です。でも、日本の伝統
的な企業と外資系での考え方は幾分異なるようです。日本では状況を国民性から斟
酌する。しかし、代表的な外資系企業の営業責任者がアメリカの本社に行った時、
日本国内の達成率がほんのわずか目標に届かなかったので、アメリカ本社の重役陣
からお前は信用できない人物だと言われた。アメリカでは目標達成は「約束」を守
ったかどうかである。アメリカのみならずキリスト教国では「契約」という観念が
聖書に基づいているからと言われております。すなわち、神との「契約」の背後に
はとてつもない出来事があったことを聖書は伝えています。申命記は “神が栄光を
示され、人がその御声を火の中から聞いても生きている。」ということが一体ある
のか。と民の驚きを伝えます。「啓示」の後、一千年以上に渡って神はイスラエル
の民を導かれました。主イエスがご自分の父と言われる時、人の命まで支配される
神のこの力が背景にあります。
今日の聖書の初めの部分は群衆が病人を直した奇跡に驚き、山の上に5千人が付
いて来た。ところが食べる者がない。イエスは弟子たちにこんな時どうすればよい
かを聞いた。しかし、弟子たちはどうしてよいか分からない。そこでイエスは弟子
たちの無理解を叱責しながら、少年が持っていたパン5つと魚2匹から5千人がお
腹いっぱい食べれるようにした。群衆はイエスにますます期待し、自分たちの都合
のよいように王にしようとした。彼らはイエスの思いやり、神のカリスマに目をや
ることなく、自分に何をしてくれるかの打算だけを持つ。イエスはそれを知り、そ
こを去ります。そして、次の日彼らに会って言います。あなた方はパンに満足し
て、わたしに感心した。そうではなくわたしが神から与えられて持っている「永遠
の命」に目を止めなさい。イエスは神からこの世に遣わされたご自分の意味をわか
らせようとして語られます。「父である神が認証された。」 とは先ほど述べた絶対
的な権威を持った方がイエスを認められているのです。しかし、群衆は世俗の欲を
満足させようとする。ここには神への無理解という以上に、暗闇にいる民とそれを
照らすために来られた光であるイエスという本質的な違いがあります。その違いが
わかるのは真剣に光を求めた人だけでしょう。宗教改革の時、マルテイン・ルター
と並んで有名なジャン・カルヴァンがおります。彼は「予定説」という考え、つま
り「その人が神に救われるかは神があらかじめお決めになっていることである。こ
の世で善行を積んだから救われると言うことではない。神のみ心を個人の意思や行
動で左右することはできない。」と言っております。当時のカトリック教会は貧し
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い人に喜捨したり、教会へたくさん寄付すれば天国に行ける、酷いことにはカトリ
ック教会の売る免罪符を買えば行けると考えましたからそれを正そうという考えで
もあります。カルヴァンは、人間は神を理解できない罪深い存在だから、神が憐み
によってご自分を人間にお示しになる、つまり神の啓示によってしか救いはないと
いっているのです。内村鑑三は真剣であったが故にカルヴァンのこの考えを前に
「自分は本当に救われるのか。」と大層悩んだと言っております。ヨハネが「神が
お遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とは、人間にイエスを
信じさせることが出来るのは神しかいないという厳粛な事実を言っております。
先ほど古代イスラエルの民に神が「啓示」されたことは重いと申し上げました。
今日の物語を書いた同じヨハネは別の言い方で語っております。「初めに言があっ
た。」とは万物の創造主の人間への啓示であります。神は神の本質を持つご自身の
独り子イエスを地上に遣わされました。イエスは人間を照らすまことの愛の光であ
った。しかし、この世の暗闇は光に照らされるのを恐れ、神の子イエスを認めなか
った。群衆はパンを欲しいからイエスを王として自分の都合のよいように利用しよ
うとした。イエスは神の「啓示」によって、わたしが示した業が神からの者である
ことを理解しなさい。神の子の資格を得、溢れる恵みに満たされなさい。と語って
いる。
ある大学のキリスト教の関係者が集まる場で指導的な研究者が「キリスト教会の
中でも本当に啓示に与ったクリスチャンは少ないのではないだろうか。」厳しい言
葉です。キリスト者の信仰生活の中で、ルターのように雷に打たれるような強い啓
示体験をした人もいれば、長い時間をかけてそういう体験をする人もいます。しか
し「少ない」という発言は「あなたは本当にキリストを信じていますか。確信を持
って生きていますか。」との問いかけとして受け止めなければならない。
若い頃、牧師の説教からこんなことを聞きました。クリスチャンになったという
ある若者の父親が「あいつは表面的なクリスチャンだよ。」と言った。自分の息子
がクリスチャンになった。先祖代々ありえないことであり、違和感があったが、ク
リスチャンとは高い倫理を持った者という認識があった。だから、「表面的な」と
言ったわけです。しかし、その若者はその後、キリストに出会った体験を次のよう
に示しています。その村でキリスト教を伝道する者が村人に石を村人に投げつけら
れて、村はずれの水場で顔に付いた血を洗っているのを見た時「お前は本当のクリ
スチャンだなー。」とその伝道者に語りかけた。
多くの村人たちは暗闇にいたからキリストに照らされるのを嫌って石を投げつけ
た。しかし、神は伝道者が村人に抵抗せず石を投げられるままに血を流した行為を
通して、その若者にご自身を啓示された。石を投げつけられた伝道者は神がお遣わ
しになった者、若者にその者を本当のクリスチャンだと言わせたのは神の業であり
ます。それは、自分が正しいと思っている限り絶対に見えない。自分が涙を通して
罪人であることを自覚した時に初めて「キリストを受け入れることができ、キリス
トの名を信じ、神の子となれる。」そう考えます。
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