自然はどうなるか

霊降臨後 第4主日
礼拝説教 (2015年6月28日) 飯川雅孝 牧師
聖書
創世記7章1-17節、8章1-8節
主題
『自然はどうなるか』
説
教:本日の証詞のアモス書では、人間の心に敏感な預言者アモスは、世の中の
人の心が神から離れているから、それが自然の荒廃に表れている。悔い改めて神に
戻りなさいと警告しております。旧約聖書によりますと、紀元前1000年頃には、
イスラエルにはライオンも、野牛も、野犬も、熊もいたことが分かります。ヨシュヤ
が渡ったヨルダン川も聖書では水量の豊かな川を思わせますが、今はその跡形もあり
ません。
ノアの洪水物語では、なぜ神は地上に洪水を起こして自然をすべて、またノア以外
の人々を滅ぼされたか。その理由を「主(神)は、地上に人の悪が増し、常に悪いこと
ばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心
を痛められた。」と言っております。実際にメソポタミヤの地には、全世界が洪水で
埋まるような洪水の跡が地質調査で分かっております。人間は罪を犯すものである。
だから洪水によって古い罪を洗い流し、再び生きなければならない。これはキリスト
教の洗礼に当たるものです。
産業革命以後の工業の発達は、自然に暴力的に働きかけ、人間と自然との共存の秩
序を壊して来ました。近代日本の工業化においても明治初期の足尾銅山事件がその始
まりです。日本は世界の有数な銅の産地であることから、ものすごい増産がはじま
り、輸出されます。かつては、栃木県の渡良瀬川(利根川支流:伝承によれば、この
地名は日光を開山した勝道上人による命名である。勝道上人が川を渡ろうとしたとこ
ろ、渡るのにちょうど良い浅瀬があったのでその場所を渡良瀬と名づけたという。)
沿岸の住民30万人の農民と漁民がいました。彼等の生活は、銅山から流される毒物
によって生活を支えてきた恵みの川を死の川に変えられてしまったのです。そして川
に毒が流れるまま政府は10年間鉱も隠し続けました。ここには国家と資本家が利益
を優先し、そのためには弱い国民の生活を犠牲にすることを当然とする国家と資本家
の意志がまかり通っています。漁業で生計を立てる人たちは明治14年に2773戸
あったのに10年も経つと消えてしまう。農業も20年経つと村が3つも消え、農家
は甚大の被害を受けます。10年隠し続けた垂れ流しも明治23年の大洪水で米が実
らないことが発覚し、農家が騒ぎ出し、政治的社会的問題になります。この時、農民
のために政府と資本の暴力に対抗して一生涯を捧げた田中正造という人がおります。
足尾銅山の公害が社会問題化したこの時、国会議員に当選した彼はこの問題を極めて
激しく、追及します。国会で憲法を盾に、「人民の生活の権利を破壊する一企業の利
益追求は許されない」だから足尾銅山は直ちに鉱業を停止すべきであると国会で激し
く抗議します。これ以来、公害問題の解決のために、全生涯を十字架につけた戦いに
献げます。当時は官僚国家の力がとても強く、正造の意見は全く無視されます。すで
に国策として足尾銅山の拡大を決めていた政府は銅山主の住友鉱業と図って、あらゆ
る策略で公害と認定せず、被害民の深刻な困窮を盾に極めて低廉な「永久示談」で、
問題を葬ります。だから毒は流され続け沿岸の田畑は破壊されてしまいました。この
間、地域の村民1万人が2度に渡って上京して国に陳情しようとします。しかし、途
中で妨害されたり、2回目は国の憲兵・警察は無抵抗の農民に、暴力を加えて追い散
らしたのであります。正造は被災地の死亡者数が出生数をはるかに上回っている事態
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を含めて、人民が鉱毒によって殺される事実を直接国家による殺人と考えます。彼は
議員を止めて、死を決して、天皇直訴の挙に出ますが、警官に取り押さえられ、警察
は処理に困って次の日、狂人として釈放します。国会での解決に絶望した正造は64
歳で村に入って、その後10年、人民とともに戦う道を選びます。しかし、正造には
村人への認識の甘さがありました。憲法を盾に村人のために自分は戦う。当然死を覚
悟して、全財産も家族さえも犠牲にせざるを得ませんでしたが、問題解決に当たって
いるのは、自分であるという思いが日記に見えるわけです。しかし、この認識は後で
崩されます。農民たちや正造の抵抗に反して、国や県の施策・銅山の拡張は進み、村
民の窮余を見越し極めて安い保証金で撤収工作を試み、谷中村を鉱毒の履き溜めとす
る方針を決め、450戸、2700名のほとんどの全村民を追い出し去らせます。
さらに法律を定め、「土地収用法」により残留19戸(3戸は借地)の家は強制的
に取り壊されてしまいました。正造はこの時、残留農家のために、新しい住居を斡旋
しようと努力します。しかし、残された村民は国家の暴挙に、人間の尊厳を訴えて、
梃子でも動かなかったのですが、暴力的に排除されます。家が壊されたところへ、何
とその直後豪雨がやってきます。16戸の村民は豪雨の中、老人から赤子まで傘をさ
して野に晒されます。正造他、彼らに同情する有名な「木下尚江」など、ヒューマニ
スト4人が、豪雨の中、泥まみれになって一戸一戸、泥沼と化した村中を見舞いに回
って励まします。村民たちはその温かい心に感激し、抱き合います。その温情は生涯
忘れなかったと述懐しております。しかし、その後人が住むとは言えないような仮小
屋を作って住みついてもこうした無理が祟ってその後まもなく病気で命を断つ者が出
てきます。それにも関わらず彼等は、非暴力をもって行政の非道に抵抗したのであり
ます。正造は重病人が出て、息を引き取る時「事件の解決を見ずに死ぬのが残念」と
語ったと言います。正造は、野ざらしの中で死ぬような危険に晒されれば人間は本当
に真剣になる、と思ったということです。これは「イエスが40日食事もとらず、荒
野の荒野で飢えた」というあのことに「残留民が野に裸体で風雨にさらされた」こと
と同じである。イエスが空腹の誘惑の中、人はパンのみによりて生くるにあらずと語
ったのは、イエスはサタンの誘惑の苦しみの中で救いの神に出会った。生きる神の言
葉に支えられた。だから、残留民とは資本家と行政の非道に対して、野ざらしの仮小
屋の中で、神の正義の行われることを求めている人たちである。死んだ人は聖人とし
て、天に召されて神に出会うのである。正造は自分がその人たちの指導者であると考
えていたことが全く誤りであった。それ以来、村の指導者としての考えを捨て、村民
に学ぶ生き方に変わった。ここに残って村人と共に闘うことは、人々の尊厳を奪う資
本家と国家への抵抗であり、公害問題に対する贖罪としての生き方である。天国に行
くための修業として末期癌の中で共に戦った。明治の田中正造と残留村民の戦いがな
かったら、そのマイナス面の対応は配慮されることはもっとなかったでしょう。公害
病の、熊本県水俣病、新潟県水俣病、四日市ぜんそく、富山県イタイイタイ病はそれ
を想い出すものと言われております。そして今回の福島県原発事故も同じ延長上にあ
ることを意識したいと思います。産業の発展をプラス志向で考えることに慣れてしま
ったわたしたちは、田中正造から学び、自然の保護に真剣に目を向けるように、目を
開いて行きたいと思います。
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