帰って行く姉を追って 近藤 洋子(長野市) ジリジリジリー…。発車を知らせるベルの音が鳴りひびき、姉を乗せた電車は、ゆっ くり動き出しました。私は母の手を強く握って引っぱり、 「姉ちゃん行っちゃやだよう!」と 泣きながら後を追いました。あっという間に、車窓の向こう側で、心配そうに…それでも 微笑んでくれていた姉は見えなくなり、電車の後姿が小さく消えて行きました。あきらめ きれずに、いつまでもだだをこねる私を母は叱りもせずに抱き上げて、ホームから駅前 広場に出ると、 「金魚がいるぞう。見て行くかあ」と言いながら、噴水の有る池の所に連 れて行ってくれました。私は噴水も金魚も珍しくて、大喜びで流れ落ちる水の下で、スイ スイ泳いでいる沢山の金魚を夢中になって見つめていました。さっきまで泣いていた子 どもが、嘘のように元気になって。 「姉ちゃんまた帰って来るからなあ。泣かないでくれや なあ」そう言って、母は長い時間その場から帰ろうともせずに私を見ていてくれました。 いつの間にか、涙と鼻水のあとは、カラカラに乾いて白い筋になり、それがなんだかむ ずがゆくて、袖口でゴシゴシ擦って痛かった気がします。 長野駅前広場は、出稼ぎに行ってくれた姉との別れの寂しさを慰めてくれた場所でも あり、ぐずる子を黙らせるためにたたいたり叱ったりするような事を、一度もしたことが 無かった今は亡き、やさしい母を思い出させてくれる場所でもあります。 長野駅の、その姿形が大きく変わろうとしています。 しかし、私が小さかった頃に見たあの金魚がいる美しい風景は、50年以上経った今 でも色あせることのない、一枚の写真となって私の心の部屋に大切に飾ってあります。 時々出かけた折には、駅の一角に立ち止まって、写真を部屋から取り出し、眺めて みます。
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