文責 その後は、時代とともに、地域人口が減 飯塚市立穂波東中学校

文責
その後は、時代とともに、地域人口が減
飯塚市立穂波東中学校
校長
山本
和生
少したことや少子化による子どもの減少で、
平成26年度の卒業生は95名。全校生徒
数301名です。また、平成17年3月に
本校の歴史について紹介します。
1市4町(飯塚市、穂波町、筑穂町、庄内
なお、今後も新しい歴史資料等を加えながら
町、頴田町)が合併し、飯塚市となりまし
訂正も加えていきたいと考えています。
た。
☆
☆
☆
☆
現在の校舎は、昭和51(1974)年に竣工
穂波東中学校は、昭和22(1947)年に新制
し、現在に至っています。また、学校の下
中学として設立され、今年度(2015)で69年
を走っていた旧国鉄の上山田線は、昭和63
の歴史となります。
(1988)年に廃止され、すぐ下にあった平恒
戦後の学制改革によって、昭和22年4月
昭和51年以前の校舎風景
駅もホームの面影を残す程度(ライオンズ
に多くの中学校が開校し、義務教育9年がは
クラブの建物付近)です。
じまりました。
また、校区には炭坑建造物など石炭産業
開校当時は、穂波村立穂波南中学校とよばれ、
に由来する近
碇川・南尾橋付近から見た校舎
穂波村でした。現在の名称、穂波東中学校に
代産業遺産が
は、昭和24年に改称されています。
多く残されて
昭和32年に、町制が施行され、穂波町立
います。平恒
穂波東中学校となりました。
にある三菱飯
開校当時(1947)の生徒数は554名、そ
塚炭鉱の巻き
の後、石炭産業の発展とともに、生徒数が増
上げ機跡なども
加し、昭和31(1956)年には生徒数1313
遺構のひとつです。
校舎から見た旧平恒駅跡
名を記録しています。
しかし、昭和36(1961)年に住友忠隈炭鉱
が閉山。また、平恒にあった三菱飯塚炭鉱も、
生徒昇降口から中庭をみる
巻き上げ機跡
昭和36(1961)年に閉山し、その後それぞれの
採掘権を引き継いだ第2会社の炭鉱も昭和40
(1965)年に閉山しています。
校区における炭坑からの石炭採掘は終了しまし
た。
そのため、炭鉱離職による生徒数の減少があ
り、昭和39年に1154名いた生徒は、わず
昭和46(1971)年ころの運動場
か2年後の昭和41年には、719名となって
(現校舎のある場所)からみたボタ山
います。
現在のボタ山(筑豊富士と呼ばれる)
☞右上へ
楽市小から校舎・ボタ山を望む