那須与一(ナスノヨイチ)

那須与一(なすのよいち)ってどんな人?
那須与一(なすのよいち)公
那須与一という人は、源氏と平家の「屋島の戦い」にて、平家が立てた扇の的を、見事射落としたことで有名な源
氏方の武士です。
しかし残念ながら、それ以外のことについては、詳しい記録が無いようです。生没年さえあやふやで、お墓もあち
こちにあります。どんな人物だったのかは、謎の部分も多いです。
・嘉応元年(1169 年)? - 1189 年?の人だったようですが、生没年ともいくつか説があります。平家物語や源平
盛衰記に名前が出てくるのみのため、実在の人物かどうかも厳密には不明です。
・与一とは余一、あまるいち、つまりは今で言う十一男と言う意味の通称ですので、当時は他にも与一が居ました。
本来は那須宗隆(宗高とも。むねたか)、那須氏当主になった後は、父と同じ那須資隆(すけたか)と言う名前です。
・那須氏の居城、神田城(今の栃木県那珂川町三輪)出身と言う説が一般的です。那須と言う名前から那須地方
を想像される方が多いですが、いわゆる「那須」と呼ばれる場所より、少し南東寄りの場所です。
・お墓で比較的有名なのは、出生地に近い栃木県大田原市の玄性寺、京都東山の即成院、神戸市須磨区の北
向八幡神社(那須神社)、岡山県井原市野上町などです。
どうやら、京都の即成院で亡くなり墓が作られ、後に分骨して栃木の玄性寺に墓が作られたと言う説が有力なよう
です。神戸市の北向八幡神社(那須神社)は、こちらで亡くなったと言う別の説から来ているようで、岡山県井原市
(永祥寺)の物は、扇の的を射落とした功績で、この辺りの土地を荘園として拝領したからのようです。
源平の戦い(源平合戦)には有名な戦いは多いですが、特に後期の、直接平家滅亡に繋がる戦いとして、「一ノ谷
の戦い」、「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」があります。
那須与一は「屋島の戦い」の時に、「揺れる舟の上の扇の的を射よ」との平家の挑発に源氏の代表として、この難
しい的を射ることに成功しました。矢が的を射たことで、源氏の武運が勝ると見られ、平家が没落していきます。さら
に、「壇ノ浦の戦い」で平家が決定的な滅亡を迎えます。その「大事な転換点」になったのが、平家物語の「那須与
一の扇の矢」です。
生没年から考えると、屋島の戦い(1185 年)の際には 15~6 歳前後、亡くなったのは 20 歳前後と、実は早く活躍し
て早逝した方のようです。
当時の屋島(今の香川県高松市屋島)は、四国とは浅瀬で離れた島だったようです。江戸時代辺りから埋め立て
がはじまったそうで、現在では四国と地続きになっています。那須与一に関する史跡としては、
・祈り岩:那須与一が祈ったと言われる岩。現在は道端にある、一見普通の岩です。