WIJC160424復活の主とペテロ

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2016 年4月24日
24日 聖書:ヨハネ
聖書:ヨハネ 21章 15-節 タイトル:復活の主とペテロ
タイトル:復活の主とペテロとの
復活の主とペテロとの対話
との対話(
対話(その1)
その1)
序 論
●復活された後、
復活された後、イエス様は、どのような
後、イエス様は、どのようなお方として
イエス様は、どのようなお方として弟子たち
お方として弟子たちに現れた
弟子たちに現れたか、ど
に現れたか、どのようなことを弟子たち
か、どのようなことを弟子たち
に教えられたかについて学び始めて、今日で4回目となる。
に教えられたかについて学び始めて、今日で4回目となる。
●先週は、イエス様の復活後、一週間ほどして、弟子たちは
先週は、イエス様の復活後、一週間ほどして、弟子たちは、かつて彼らとイエス様の活動の本拠地
イエス様の復活後、一週間ほどして、弟子たちは、かつて彼らとイエス様の活動の本拠地で
、かつて彼らとイエス様の活動の本拠地で
あったガリラヤ湖畔
あったガリラヤ湖畔付近
ガリラヤ湖畔付近(
付近(ここではテベリヤ湖と呼ばれている)
ここではテベリヤ湖と呼ばれている)に戻った。その
に戻った。そのときの話であった。
。そのときの話であった。
●そこでも
そこでも、イエス様は、
、イエス様は、弟子たちに再び現れ、大切なことを教え、経験させられたのであった。
弟子たちに再び現れ、大切なことを教え、経験させられたのであった。
●そのときは、弟子たち
のときは、弟子たちがそこに
弟子たちがそこに 7 人いたのであるが、ペテロの掛け声で、
人いたのであるが、ペテロの掛け声で、底をついていた
、ペテロの掛け声で、底をついていた日用の糧を
底をついていた日用の糧を
得るために『漁』に出かけた。
●ガリラヤ湖での『漁
ガリラヤ湖での『漁』は、ペテロを始め、沢山の弟子たちに取っては、
は、ペテロを始め、沢山の弟子たちに取っては、『昔取った杵柄
ペテロを始め、沢山の弟子たちに取っては、『昔取った杵柄(
『昔取った杵柄(きねづか)
きねづか)』
として、一番得意とする仕事であった。
として、一番得意とする仕事であった。
●しかし、彼らのようなベテランが何人も寄ってたかって、一晩中、
しかし、彼らのようなベテランが何人も寄ってたかって、一晩中、努力したにもかかわらず、『一匹
も釣れない』で朝を迎えた。
●そこにイエス様が現れ(
そこにイエス様が現れ(もっとも、始めはそれがイエス様だったとは気が付かなったのであるが)
もっとも、始めはそれがイエス様だったとは気が付かなったのであるが)、イ
エス様の言う通りにしたら、
エス様の言う通りにしたら、153
ら、153 匹の大漁を経験しただけでなく、陸に上がってみると、『
匹の大漁を経験しただけでなく、陸に上がってみると、『153
陸に上がってみると、『153
匹』の魚とは別に、既にBBQで料理された魚とパンが、弟子たちの食事のためには準備されていた。
●私たちが、それらの出来事から学んだことのいくつかを、復習として簡単に羅列すると:
私たちが、それらの出来事から学んだことのいくつかを、復習として簡単に羅列すると:
1.イエス様は、
1.イエス様は、私たちの『日用の糧』
は、私たちの『日用の糧』(
私たちの『日用の糧』(必要)
必要)をいつも満たしてくださるお方であるから、『生活』
をいつも満たしてくださるお方であるから、『生活』
のために心配
のために心配してはならな
心配してはならない
してはならない。
2.しかし、だからと言って、人間
2.しかし、だからと言って、人間(
しかし、だからと言って、人間(私たち)
私たち)が何もしないで良いと言う意味ではない。
が何もしないで良いと言う意味ではない。ペテロが『
ペテロが『さ
あ、漁に行こう』と言って、あの晩、
あ、漁に行こう』と言って、あの晩、皆で漁をしたように
あの晩、皆で漁をしたように、私たちも働かなければならない。
皆で漁をしたように、私たちも働かなければならない。
3.しかし、人間の愚かさは、人間が努力しさえすれば、自分の力で何でもできると思ってしまうこ
3.しかし、人間の愚かさは、人間が努力しさえすれば、自分の力で何でもできると思ってしまうこ
とである。ペテロたちは、あの晩、ベテラン漁師として一晩中、精一杯働いたのに一匹も獲れな
かったことを通して、人間の無力さを知った。
4.私たちの生活の必要が、毎日満たされると言う事実の背後には、人間の努力を超えた、神様の奇
跡の業があるからであるということをいつも覚えて、神様に
跡の業があるからであるということをいつも覚えて、神様に信頼
て、神様に信頼する祈り
信頼する祈りが必要である。
する祈りが必要である。
5.その神様の奇跡的業を引き出すのは、①
5.その神様の奇跡的業を引き出すのは、①あのとき、ペテロたちが、正直に、私たちは何にも取れ
あのとき、ペテロたちが、正直に、私たちは何にも取れ
ませんでしたと言ったように、自らの無力さを認めることである。②
ませんでしたと言ったように、自らの無力さを認めることである。②そして、
である。②そして、もうひとつ、
そして、もうひとつ、イエ
もうひとつ、イエ
ス様の言われた通りにする、イエス様への服従で
ス様の言われた通りにする、イエス様への服従である。
、イエス様への服従である。
6.そして、
6.そして、最後に学んだことは
そして、最後に学んだことは、『奉仕の生涯・伝道の生涯』と、『一人の信徒として、自分の人
最後に学んだことは、『奉仕の生涯・伝道の生涯』と、『一人の信徒として、自分の人
間としての必要を満たす生涯』とは、二つの別のことではなく、一つであることである。
7.即ち、日用の糧を満たすために漁に出て行った弟子たちは、その努力と労の中で、結果として、
伝道の実を象徴する『153
伝道の実を象徴する『153 匹』が与えられ、かつ、陸に上がってみると、既にイエス様によっ
て、食事は準備されていた。
て、食事は準備されていた。
8.即ち、私たちが、もし
8.即ち、私たちが、もし『日用の糧』と言う
即ち、私たちが、もし『日用の糧』と言う人間としての生活の
『日用の糧』と言う人間としての生活の必要を
人間としての生活の必要を、
必要を、神様に従い、神様に信頼
することによって満たして頂こうとする、その生き様自体が、人々に今も生きておられるイエス
することによって満たして頂こうとする、その生き様自体が、人々に今も生きておられるイエス
様を伝道していることになり、必ず信仰を持つ人々が与えられる。
●さて、今日のメッセージの背景は、今申し上げたように、弟子たちが舟を降りて、陸に上がり、イエ
スさまが準備してくださった朝食を共にした後、イエス様が、他の弟子たちを前にして、ペテロと非
常に印象深い会話をしたことである。
●そこでの主な会話内容は、
1. イエス様が、ペテロに『あなたを私を
イエス様が、ペテロに『あなたを私を愛するか』という質問を三回繰り返されたこと
2. そのたびに、ペテロは『はい。主よ。私はあなたを愛します』と、くさりながらも応えたこと。
3. その応えを得る度に、イエス様が『私の
に、イエス様が『私の羊・小羊を飼いなさい、養いなさい』とペテロに言われ
たこと。
4. 最後に、イエス様が、
最後に、イエス様が、ペテロに、彼の生涯は、ただに神様に仕える生涯
ペテロに、彼の生涯は、ただに神様に仕える生涯と言うだけでなく、
、ただに神様に仕える生涯と言うだけでなく、苦難
と『殉教』を覚
教』を覚悟しなければならない生涯であることを伝えたこと
しなければならない生涯であることを伝えたこと
5. それを聞いてうろたえ、自分をヨハネと比較したペテロにイエス様が言われた言葉などである。
2
●復活されたイエス様が、ここで弟子たちの
●復活されたイエス様が、ここで弟子たちの前に現れ、このような対話をペテロとなさった目的は何で
あったか? それは、ペテロを中心に、或いは代表として、弟子たちを皆、これからの生涯の使命の
ため、即ち、『人間を獲る漁師にする』ために、『
ため、即ち、『人間を獲る漁師にする』ために、『心の準備』
心の準備』をするためであった。
●それは、彼らのためだけではない。
それは、彼らのためだけではない。同時に私たちへのメッセージである。なぜなら、私たちクリスチ
ャンは、信徒であれ、牧師であれ、『万人祭司』として、全員が、『人間を獲る漁師』として、イエ
ス様の福音を伝える使命を頂いているからである。
本 論
Ⅰ.第一の『心の準備』は、『自分の罪が赦されていることを確信する』ことである。
A.ここで、イエス様は、言葉使いや表現は少しづつ違っているが、ほぼ同じことを3回繰り返して、ペテロに質
問している。即ち、『あなたは私を愛するか?』である。
1.17節で
1.17節では。
17節では。このように言われている。
は。このように言われている。「ペテロは、イエスが3度『あなたは、私を愛しま
すか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った」と。
2.ペテロだけではない。普通、同じようなことを、こんなに、繰り返して言われたら、『しつ
こいな』『うるさいな』と思い、『俺を信用していないな』と思って、腐ってしまう。
3.それなのに、な
3.それなのに、なぜイエス様は、ここで、あえて
イエス様は、ここで、あえて3回この
、あえて3回この質問を繰り返されたのか?
4.多くの聖書学者、また聖書講解者たちは、ほぼ異口同音に言う:ここで
言う:ここで特にペテロを名指し
でイエス様が、
イエス様が、3回同じ質問を繰り返されたのに
されたのには特別な理由があった。それは、イエス様
があった。それは、イエス様
が捕まった晩に、ペテロが
まった晩に、ペテロが自分も
ペテロが自分も捕らえられるのではないかとの恐れから、イエス様を『知
れから、イエス様を『知
らない』と3回まで裏切ると言う罪を犯した事実が背後に
た事実が背後にある
背後にあると
あると。
B.即ち、イエス様は、この3回繰り返すペテロとの対話を通して、『私の罪はすべて赦されたのだ』と言う確信
をペテロ自身に持たせようとされたのである。
1.勿論、ここには『赦す』と言う言葉は、直接は使われてはいない。しかし
われてはいない。しかし、イエス様の
しかし、イエス様の『私
、イエス様の『私
を愛するか?』と言う質問、『私の羊を養いなさい』と言う任命の言葉は、イエス様が、
は、イエス様が、
ペテロの罪を既に『
を既に『赦しておられる』
しておられる』ことを
ことを前提としての婉曲表
婉曲表現であった。
現であった。
2.現に、それは、
2.現に、それは、丁度イエス様が十字架に付けられたとき、両側に同じように十字架に付けら
れていた犯罪人の一人がイエス様を信じたときと似ている。
ている。
(1)あ
(1)あのときも、その
のときも、その犯罪人に、イエス様は、
人に、イエス様は、『
イエス様は、『あなたの罪は赦された』
された』とは言われなかっ
た。一言、『今日、あなたは私と一緒に天国にいる』と言われただけであった。
(2)しかし、あのときも、『
しかし、あのときも、『罪の赦し』は、当然の前提として、そこに含まれていた。
3.ここでも同じである。むしろここでは。『3回繰り返された』ことに一番意義がある。
4.イエス様は、3回イエス様を
4.イエス様は、3回イエス様を拒んだペテロに、3回対話をすることを通して、『私は、あな
んだペテロに、3回対話をすることを通して、『私は、あな
たが犯したあの3回の拒絶・罪を完全に赦している。だからこそ、今は、それ
している。だからこそ、今は、それ以上に、あ
なたが私を愛することを期待し、あなたを私の仕事のために任命するつもりだ』と言って
おられるのである。もし
おられるのである。もし赦していなければ、このような会話を進めることはできない。
めることはできない。
C.なぜ、『罪の赦し』を確信することがそんなに大切なのか? それは、『私の罪は赦されている』という確信こ
そが、『神と共に生きる』というキリスト教信仰の基礎・土台であり、キリスト教宣教の根本動機である。
1.この
1.この罪の赦しの重要さ・必要性に関しては、イスラエル
しては、イスラエル史上最大の王と言うべき『ダビデ』
のことを思い出して戴きたい。
(1)彼は、
(1)彼は、王としての繁栄と成功の頂点で、姦淫と殺人という大罪を犯した。
(2)その
(2)その罪にもかかわらず、表面的、外面的には相変わらず、富と繁栄と快楽を欲しいまま
にすることができた。
(3)しかし内面的には、彼は、最早かつてのような神とともに生きる内側からの喜び・平安
をを持つことができなくなったばかりか、良心の呵責で日夜心は痛み、苦しんでいた。
(4)しかし、その彼がある日、その罪を告白し、その罪が赦されるという経験を
されるという経験をし、喜び叫
んだ。『神様に
んだ。『神様に罪を責められない生涯
められない生涯、
ない生涯、その罪のゆえに最早咎められない生涯、
められない生涯、罪を隠
す必要のない生涯
す必要のない生涯、
生涯、偽りのない生涯は、何と
りのない生涯は、何と幸いなことか』
いなことか』(詩篇32篇1-2節)
2節)と。
(5)今も、どんなにか多くの人がこの罪の赦しの経験、確信を必要としていることか?!
3
(6)ある精神病理学者は言う。『もし人が、自分の罪の赦しを確信することができれば、精
神的病で入院している人の半分が退院できるだろう』と。
2.この『
2.この『罪の赦し』こそがイエス様が
し』こそがイエス様が十字架に掛かられた理由であった。だからイエス様は
であった。だからイエス様は十
字架に掛かられる前の晩、ぶどう酒を取り上げてこのように言われた。『これは私の
このように言われた。『これは私の契約
の血です。罪をゆるすために、多くの人のために流されるのです』(
されるのです』(マタイ26章28節)
タイ26章28節)。
3.『罪の赦し』が福音と宣教の基礎、また中心であるゆえに、イエス様は、ここで、
えに、イエス様は、ここで、何として
、イエス様は、ここで、何として
もペテロ自身に、その罪の赦しを確信させようとされたのである。
(1)自分自
(1)自分自身が『罪の赦しを確信して』
信して』いなければ、その喜びも知らない。その大切さも分
からない。それでは、人に伝えることはできない。
(2)キリスト教における伝道とは、教
リスト教における伝道とは、教義や教えの押しつけでも、宗教団体への勧誘でもない。
それは自分自身が経験した喜びを他の人にもシェアしたいと思う心から始まるのである。
したいと思う心から始まるのである。
(3)18世紀の英国の社会を変え、流血革命から救ったと言われるあのメソジストのリ
ストのリバイ
バル運動の中心テーマは、『救いの確信 Assurance of Salvation』であった。
(4)私たちが、ただ何か宗教の教えを信じている、宗教団体に属している、教会に行ってい
るというのではなく、一人一人が、自らの完全な罪の赦しを経験し、
しを経験し、確信するとき、そ
こから来る喜び、平安を経験するとき、そこから力強い宣教が始まるのである。
教が始まるのである。
(5)有名な『安けさは川のごとく When Peace like a River』 の讃美歌の3番の英語歌詞
に、人生の荒波の真っただ中で味わう『罪の赦し』の確信の幸いが書かれている(
いが書かれている(省略)。
Ⅱ.ペテロがするべき、第二の心の準備は、『イエス様を、何にも、或いは、誰にもまさって愛する』ことである。
A,ここで、イエス様は、3回ペテロに、『あなたは私を愛しますか』と聞かれたが、一番最初のときに、その愛の
内容をもっと詳しくのべられた。
1.即ち、それは、
1.即ち、それは、新改訳聖書の訳をそのまま使うと『あなたは、この人たち以上に私を愛しま
すか?』であった。
2.後の2回は、『
2.後の2回は、『あなたを私を愛するか』とだけ言われた。しかし、当然ながら、イエス様は
それらの2回でも、繰り返して言うことを避けただけでで、同じ意味で言われたのである。
B.しかし、ここで『あなたは、この人たち以上に私を愛しますか?』と言う訳には問題があることを指摘したい。
1.間
1.間違っているのではない。しかし、ギリシャ語の原文から言うと、このイエス様のお言葉に
は解釈の幅が出て来る。その理由は、
(1)ここで、『これら』
(1)ここで、『これら』(
ここで、『これら』(英語で言うと「THESE」
THESE」)が、指示代名詞として『物』を指すのか、
『人』を指すのか、その形からは見分けが付かないこと。
(2)更には、その同じ『これら』(
『これら』(THESE)が、文章の中で、主語なのか、目的語なのか、
これもまた、上
これもまた、上記同様、その形からは分からないこと
2.それらのすべてを考慮すると、次の3つの解釈の可能性を上げることができる:
ることができる:
(1)あなたは、これらの人々(
あなたは、これらの人々(そこにいる他の弟子たち)
の弟子たち)が私を愛する以上に私を愛するか?
(2)あなたは、これらの物・事(
・事(即ち、漁師としての舟、網、或いは、漁師としての仕事)
いは、漁師としての仕事)、
それらすべてを愛するよりもまさって私を愛するか?
(3)あなたはこれら他の弟子達を、家族、仲間、友人として愛する以上に私を
上に私を愛するか?
3.これらが文法的に可能な解釈であるが、(
であるが、(1)、即ち、『あなたは、他の弟子たちが私を愛す
る以上に、私を愛するか?』と言う、まるで、弟子たち同志で、『誰が一番イエス様を愛
しているか?』と愛の競争をさせるようなことは、聖書
をさせるようなことは、聖書全体のメッセージと符合しない。
4.それゆえ、(
え、(2)と(3)の混合である。即ち、
(1)それが『物』、即ち舟であれ、網であれ、どんな大事な商売道具であれ、財産であれ、
(2)或いは、それが『事』、即ち、仕事であれ、名誉であれ、趣味や愉しみであれ、
(3)更に、それが、ここにいる家族、兄弟、友人、気の合う仲間たちであれ、
(4)どんな物、どんな事、どんな人をあなたが愛するにまさって私を愛するか?である。
5.即ち、あなたの至高の愛を他のどんな物、事柄、人でなく、
、事柄、人でなく、唯イエス様に捧げることである。
ることである。
C,この点で多くのクリスチャンたちがつまずくので、このイエス様への至高の愛について少しだけ説明したい。
1.多くの人はこの正反対をしている。少なくともこのことを
なくともこのことを真剣には考えていない。なぜなら、
4
(1)多くの場合、神様は『愛する者』と言うより、むしろ、慈悲深
慈悲深く、気前の良い、頼りに
なる、いざというときお世話になれる親切な金持ちタイプのお方と言うイメージである。
(2)言い換えると、Som
Somewhat Generous and
and Benevolent Figure であり、足長おじさ
ん(Long
ong-leg
legs-daddy)的存在である。
(3)言い換えると愛する者は別にいるのである。
は別にいるのである。夫、妻、子ども、父、母、兄弟姉妹、友人
たち、仲間達である。神様は彼らを
である。神様は彼らを愛する為に必要な大好きで、優しいおじいちゃんか、
気前の良いおじさんである。
(4)そんな心の広い、好人物だから『私を至高の愛をもって愛せよ』などと言うとは思って
いないし、それをまともに真剣には考えない。
2.しかし、聖書を
2.しかし、聖書を見るとどうだろうか? 明らかにそれは真剣に訴えられ、求められている。
められている。
(1)イエス様は、ヨハネ14章6節で、『私が道であり、真理であり、命である』と言われ
である』と言われ
たとき、道、真理、命の前に付けられた定冠詞
定冠詞から、『私だけが唯一の道、真理、命』
であると言われたことになり、ご自分の唯一絶対的真理の主張と言う、現代社会で最も
嫌われる『狭さ』を表しておられる。
(2)また、イエス様はマタイ22章で何が一番大切な戒めかと問われたとき、『
われたとき、『第一に、神
様を全身・全霊をもって愛すること、第二は隣人を愛すること』と言われた。どこまで
すること』と言われた。どこまで
も、神様を第一にすることを明らかに命令しておられる。
(3)また旧約聖書において、アブラハムの愛しいひとり子イサクを、いけにえとして捧げる
ことを求めたとき、
めたとき、アブラハムにこのように満足されて言われた。『あなたは、自分の
子、自分のひとり子さえ惜しまないで私に捧げた』と。
(4)更には、聖書の中で、最もつまずきを与えているイエス様の言葉、マタイ10章37節
『私よりも、父や母を愛する者は私にふさわしい者ではありません。また、私よりも息
子や娘を愛する者は私にふさわしい者ではありません』と。
(5)私たちは、これらの言葉を味わい、従うべく歩んでいるだろうか?
3.『神へ至高の愛を捧げる』ことには『2
る』ことには『2面性』がある:
』がある:
(1)第一は、人を愛することと、神を愛することは、比べられない二つの別の世界
(Different level of sphere)のことである。
●ある男性:奥さんが一足先に洗礼を受けることになった日、
けることになった日、周囲の人に『僕じゃ、ダ
メだったのか』と何か
メだったのか』と何か神様に
何か神様に愛する人を奪われたかのように
われたかのように寂しく漏らしたと言う。
●そうじゃない。奥さんは、そのご主人を愛するから、もっと愛したいから、神様を愛
する道を選んだのである。
●ご主人も、イエス様も、その婦人には大切な人。その二つの愛は、競争する
(Compete
mpete/C
ete/Confli
/Conflict する)
する)ものではなく、それぞれ二つの別のものである。
●正に神を
に神を愛することが人を愛すること、また人を愛することが神を愛することである。
することである。
(2)しかし、
(2)しかし、同時に、第二は、その二つ
二は、その二つは
の二つは絶えず『競合』しているのである
しているのである。
のである。
●神に対する
神に対する愛、人への愛、物事への愛、それぞれの愛を実際に表そうとすると、し
そうとすると、しば
、しば
しば時間的、経済的、エネルギー的に何を優先するかコンフリクトを起こすのである。
こすのである。
●だからイエス様はどこまでも第一は神様を愛する、第二は人を愛することと言われた。
●まず神の国を求めるように、即ち神を第一に愛することを言われたのである
することを言われたのである。
のである。
結 論
●ここで大事なことは、人を
ここで大事なことは、人を愛することを無
することを無視し、軽んじる神への愛は『カルト』であること
ルト』であること。その
こと。その逆
に、人を愛するために神を後回しにしたり、利用するだけの宗教は結
教は結局「ご利益
「ご利益宗
利益宗教」と同じである。
●両方の愛が大切であるが、私達は、聖書が言う『神を第一に愛する』と言う『
する』と言う『順番』を忘れてはなら
ない。この『順番』、『優先順位』を逆にすると、どちらも結局ダメにする。
●それは丁度『お汁粉』を甘くするとき、砂糖と塩の両方を必要とするが、砂糖 First,
st, then 塩なのに、
その順番を間違えると、絶対に満足いく甘さにはならない。神様への愛 First,
st, then 人への
人への愛である。
●そして、その愛は、ペテロの場合もそうであったが、十字架に命を捨てて、私の罪を赦してくださっ
た神様からの愛への応答として始まるのである。(
として始まるのである。(来週はこのペテロとイエス様の対話の後半を学ぶ)