1 2016 年 5 月 15 日 聖書:ヨハネ 聖書:ヨハネ 21章 17-23 節 タイトル:復活の主とペテロ タイトル:復活の主とペテロとの 復活の主とペテロとの対話 との対話( 対話(その 3):主の働き人になるための最後の資質 序 論 ●同じキリスト教信仰でも、カソリックには様々な特別な記念日が設けられている。プロテスタントで は、その数はズ~ッと少ない。その主なものは、イエス様の誕生を祝うクリスマスであり、イエス様 が十字架に掛かられたことを記念するグッド・フライデーであり、イエス様が死人の中から甦られた ことを記念するイースターであり、それらの結果として、ご聖霊なる神様が、弟子たちの上に下った ことを記念する。ペンテコステなど ことを記念する。ペンテコステなどである。 などである。 ●実は、今年は、今日がそのペンテコステの日である。イエス様は、復活されて 40 日間、地上に残ら 日間、地上に残ら れ、幾度も弟子たちに現れ、様々なことを語られ、教えられ、 れ、幾度も弟子たちに現れ、様々なことを語られ、教えられ、その後、弟子たちの見ている目の前で、 天に昇られた。それから 10 日後に、即ち復活後 50 日目の日曜日、ペンテコステと呼ばれる日に、 ご聖霊が弟子たちに上に注がれたのである。 ご聖霊が弟子たちに上に注がれたのである。 ●聖書が記しているように、この日に、教会が誕生し、その内外に向けた活動が始まり、やがて、世界 へとキリスト教が広がって行くのである。 ●本来なら、そのペンテコステについて、本日はメッセージを取り次ぐべきであるが、その準備として、 本来なら、そのペンテコステについて、本日はメッセージを取り次ぐべきであるが、その準備として、 始めた、ヨハネの福音書21章が記す、復活後のイエス様とペテロの対話の学びが予定より一回延び たので、今日はそれを済ませ、来週ペンテコステのメッセージを取り次ぎたい。 ●イエス様がペテロとのこの対話を通して目指されたこと、即ち対話の目的は、言うまでもなく、ペテ イエス様がペテロとのこの対話を通して目指されたこと、即ち対話の目的は、言うまでもなく、ペテ ロを代表として、弟子たちに、これからの彼らの生涯を、何のために、どのように生きるかについて 明確に教示するためであった。 ●私たちクリスチャンは、皆キリストの弟子である( 私たちクリスチャンは、皆キリストの弟子である(使徒 11 章 26 節)。即ちこのペテロとイエス様の 。即ちこのペテロとイエス様の 対話は、唯にそこにいた弟子たち全員へのメッセージであっただけでなく、私たちを含めて、その後、 彼らの言葉と宣教によってクリスチャン、キリストの弟子となった者たち全員へのメッセージである。 ●もし、それを信じないなら、今日、皆様がここに座ってメッセージを聞くことは、時間の無駄である だけでなく、皆様は、その部分の聖書を、私には関係の無い所として破り捨てるべきである。 ●しかし、私は信じる。そして皆様にも信じて頂きたいことは、そこには、イエス様からあなたへの愛 と信頼の私信と祝福の約束が と信頼の私信と祝福の約束が秘められていることである。 と祝福の約束が秘められていることである。 ●さて、ここまでのこの対話の学びから、イエス様は、ペテロを代表とする弟子たちに、ひいては、私 さて、ここまでのこの対話の学びから、イエス様は、ペテロを代表とする弟子たちに、ひいては、私 たちに、次の3つのことを確認しておられることを学んだ 1.第一は、 1.第一は、私たちの罪が「完璧に」赦されていることを確信すること 第一は、私たちの罪が「完璧に」赦されていることを確信すること。 私たちの罪が「完璧に」赦されていることを確信すること。 (1)ここに出て来る「 (1)ここに出て来る「3 ここに出て来る「3 回」という質問の回数が、3 回」という質問の回数が、3 回イエス様を拒絶すると言う罪を犯したペ テロの罪の完全な赦しを示唆していることを思い出して テロの罪の完全な赦しを示唆していることを思い出して戴きたい。 (2)クリスチャン生涯、キリストの弟子に取って (2)クリスチャン生涯、キリストの弟子に取って大切なことは、「私の罪が赦されている なことは、「私の罪が赦されている」と言 」と言 うことが、単なる漠然とした希望や期待ではなく、「 ではなく、「確信」 確信」となることが となることが必要である。 (3)その確かさは、あなたの (3)その確かさは、あなたの心の持ち方から来るのではなく、 から来るのではなく、「イエス様の ではなく、「イエス様の十字架 「イエス様の十字架」への信仰か 十字架」への信仰か ら来るのである 来るのである。 のである。 2.第 2.第二は、私たちの愛を、 は、私たちの愛を、妻が夫を愛するように、 を愛するように、イエス様に向けることである。 (1)イエス様は、ペテロに (1)イエス様は、ペテロに尋ねられた。「あなたはこれらのものに勝って私を愛するか?」と。 (2) これが、イエス様が私たちとイエス様との間に期待しておられる関係である。愛の関係である。 (3)あの (3)あの著名な聖徒マザーテレサの最後の言葉は、「イエス様、私はあなたを愛します/Jesus, Jesus, I love you」だったそうである。 (4)私たちも、私たちのためにすべてを (4)私たちも、私たちのためにすべてを投げ捨て、命までも捧げて私たちを愛してくださったイエ ス様をま ス様をまず、何にも勝って愛したい。そのとき、本当の意味で人々を愛することができる。 3.第 3.第三は、私たちの人生の使 は、私たちの人生の使命が、イエス様 が、イエス様の イエス様の羊である全世界の である全世界の人間 全世界の人間の 人間の「羊飼い」となることを認 となることを認 識することである。 することである。 (1)人々の「 (1)人々の「羊飼い」になるとは、羊飼いが羊にするように、人々を愛し、 にするように、人々を愛し、その霊的、 愛し、その霊的、肉体的必要 に関心を持ち、気にかけ、必要な助け、守り、導きを与えることである。 えることである。 (2)実は、それを完璧にで (2)実は、それを完璧にできるのは、私たちの 実は、それを完璧にできるのは、私たちの真の牧者、究極の牧者イエスさまだけである。 2 (3)聖書は、そのイエス様を、「 (3)聖書は、そのイエス様を、「大牧者」と呼んでいる( 者」と呼んでいる(Ⅰペテロ 5 章4節)。 (4)私たちは、「 私たちは、「小牧者」としてそのお手伝いをする使命を頂いているのである。 (4) ●さて、今日は、イエス様が、このように、 さて、今日は、イエス様が、このように、ペテロに このように、ペテロに、 ペテロに、「あなたは、人間の「 「あなたは、人間の「牧者」になるんだ」 者」になるんだ」と になるんだ」と言 う使命を与えられた後、牧者に必要な二つの資質について語られたことからメッセージを頂きたい。 つの資質について語られたことからメッセージを頂きたい。 本 論 Ⅰ.第一の資質は、自分の生涯を全部神様に任せること、捧げることである。 A,イエス様は、ペテロのこれからの生涯についてこのように言われた。 1.「あなたは、若かったときには、自分で帯を締めて、自分の歩きたいところを歩きました。 しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯をさせて、あなた の行きたくない所に連れて行きます。」(1 れて行きます。」(18) 2.聖書は続ける。「これは、ペテロがどんな死に方をして、神の栄光を現すかを示して言われ たことであった。」(1 たことであった。」(19)と。 B.「神様に自分の生涯を捧げる」と一言で言うが、実は、「二種類」のタイプの捧げ方がある。そのことが、こ のイエス様の言葉に表されている。 1.一 1.一つは、イエス様がペテロに言 つは、イエス様がペテロに言われた「あなたは、若かったときには、自分で帯を締めて、 自分の歩きたいところを歩きました。」と言う言葉に表されている きました。」と言う言葉に表されている。 表されている。 (1)これも「神様に (1)これも「神様に捧げ、神様のために生きる」生涯であるが、自分のやりたい方法、自分 の考え、自分のプラン、自分の得意とする方法で、それをする道を象徴している。 している。 (2)これは (2)これは大事なことである。神様は、それぞれに得意の分野と才能を下さっている。私た ちが、それを用いて神の栄光を現すことは、神様の を現すことは、神様の御心であり、ご計画である。 (3)私たちは、「 (3)私たちは、「牧者となれ」と言う 者となれ」と言うイエス様の と言うイエス様の命に従い、神様のために い、神様のために生きるべく、もっ ために生きるべく、もっ と積極的に自分の得意とする分野、才能をもってプランを立てて生きるべきである。 (4)具体的には、卑近な例を挙げるなら、 ●音楽が得意、或いはできる人は、歌なり、楽器演奏の賜物を用いるべきである。 ●コンピューター等の技術や知識を用いることもできる。 ●子どもの好きな人々、得意な人々はチャイルドケア—をすることもできる。 こともできる。 ●皆さまが持っている社会的立場・地位、人間関係、人脈を用いることもできる。 神様に仕え、ることもできる。 (5)これらが、 (5)これらが、周囲の人々、また世界の果てにいる人々に、 の人々、また世界の果てにいる人々に、牧者としての働きに直接的に役 に立つことも、また、間接的に、即ち牧者としての働きをしている人々を助ける意味で、 貢献することもある。チームワークである。チーム伝道、チーム牧会である。 (6)ある (6)あるアメリカの大教会の牧師が、ある時、その教会の日曜礼拝中のチャイルドケアの奉 仕者たちに言った。「あなたがたがいるから、あなたがたの奉仕があるから、私が牧者 として皆さんにみ言葉のご奉仕を十分にすることができる。それなくして、私は私の牧 者としての務めを果たすことはできない」と。 2.しかし、もう一つの 2.しかし、もう一つの道がある。それは、 がある。それは、「 それは、「年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人 があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」 れて行きます」と言うイエス様の言 葉に表されている。 葉に表されている。 (1)それは、同様に、神様に (1)それは、同様に、神様に仕える道であるが、自分では好まない、好きじゃない、できれ ば、やりたくない、いやな方法と状態で、それを果たす で、それを果たす道を象徴している。 している。 (2)そして、その (2)そして、その究極は「死」であると聖書は言うのである。即ち「これは、ペテロがどん な死に方をして、神の栄光を現すかを示して言われたことであった」(1 れたことであった」(19)とある。 (3)「死」と言うと、 (3)「死」と言うと、多くの人は、ビックリして引くか、ただ一つの極端な表現として、聞 き流してしまうのではないか? (4)しかし、死と言う言葉は、聖書の中で、クリスチャン生涯の何たるかを表す言葉、また (4)しかし、死と言う言葉は、聖書の中で、クリスチャン生涯の何たるかを表す言葉、また 事実として極めて重要な言葉である。例を挙げるなら、 ●マタイ 16 章 24 節「誰でも、私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十 字架を追い、・・・」これは、明らかに死を意味している。 3 ●ローマ 6 章4節「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリスト と共に葬られたのです」 ●同 6 節「私たちの古い人がキリストと共に十字架に付けられた」 ●ガラテヤ 2 章(19/20 節「私はキリストとともに十字架に付けられました。もはや 私が生きているのではなく」 ●使徒の働き 1 章 8 節に「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け ます。そしてエルサレム、ユダヤ全土、サマリヤ、地の果てまで私の証人となる」と ある。この「 ある。この「証人」と言う言葉からキリスト教界の 人」と言う言葉からキリスト教界の「 キリスト教界の「殉教者」と言う言葉が生まれた。 ●なぜか? それは、初代キリスト教界において信仰者として証人となろうとするなら 「死」を覚悟しなければならなかったからである。証人=死を意味していたのである。 (5)しかし、だからと言っ (5)しかし、だからと言って、それはいつでも、 しかし、だからと言って、それはいつでも、肉体的な文字通りの死、殉教を意味しては いなかった。それは、本質的には、象徴的、霊的な死を意味していた。 ●即ち、先に読んだローマ 6 章6節に「私たちの古い人がキリストとともに十字架につ けられた」とあるように、 ●私たちの「古い自分」に死ぬこと。即ち、まだイエス様を受け入れ、信じ、従がう前 の「私」「自分」に対して死ぬことである。それは、どんな人であったか? ●それは:自分が好きなことはやる、自分のやりたいことはやる、自分の良かれとおも うことをやる、それ以外はやらない。 ●あるいは、人が進めたこと、 めたこと、事情が許すことをする、人が反対すること、事情が許さ ないことはやらない。これが私たちの古い人の生き方である。 ●しかし、イエス様を信じて始まった新しい人生、新しい人の生き方は、神様の御心で あればする、御心でなければしない。 ●たといそれが自分の嫌いで、好まない、不安定な人生を意味していたとしてもである。 (6)これがもう一つの (6)これがもう一つの道である。自分の好きな、思い通りの道と方法で神様に仕えられる時 もある。しかし、それが許されない時が来る。そのときにも、自分に死んで、神様のご 分に死んで、神様のご 計画に委ねて、神様 て、神様の 神様の栄光を現すようにとイエス様は、ペテロに を現すようにとイエス様は、ペテロに求められたのである。 C.これが、人間の牧者として生きる者の持つべき最初の資質、「神様に、すべてを捧げ、任せる生涯」である。 1.人生が、 1.人生が、順境であれ、逆境であれ、うまく行っているときでも、うまく行かないときでも、 自分に死んで、いつでも、それにこだ 分に死んで、いつでも、それにこだわらず、それを言い訳にせず、イエス様にすべてを 捧げ、任せて、イエス様に仕えるのである。 2.自分の好きな方法で、自分のやり方で、神様に仕えるだけでなく、自分の苦手な道であれ、 自分の嫌いな道で、神様に仕えることが神様の御心であることもある。しかし、 であることもある。しかし、 3.それは、ペテロがそうであったように、私たちが 3.それは、ペテロがそうであったように、私たちが「死」を 私たちが「死」を経験するべきことを意味している。 4.しかし、その死とは、必ずしも肉体の死を意味しない。現に、使徒たち全員が殉教した訳で はない。ヨハネもその一人である。ましてやクリスチャン全員が殉教したのではない。 5.私たちクリスチャン全員が経験すべき死は、霊的死である。古い自分に死ぬことである。 Ⅱ.人間の「牧者」として生きるクリスチャンの持つべき第二の資質は、「自分の生涯を人と比べない」ことである。 A,ペテロは、自分の生涯をヨハネの生涯と比べた。 1.「ペテロ 1.「ペテロを ペテロを振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあ り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあ の晩餐の時、イエス様の右側にいて、『主よ。あなたを裏切る者は誰ですか』と言った者 である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうですか』」(20,21)。 21)。 2.ペテロは、自分の殉教の運命をイエス様から告げられた。それは、まるで癌で死の宣告を受 けたようなショックであったであろう。 3.その衝撃と動揺を克服しようとする中で、彼はヨハネ しようとする中で、彼はヨハネの人生と ヨハネの人生と自分のそれを比べた。 べた。 (1)ペテロは、前からヨハネが (1)ペテロは、前からヨハネが気になっていた。彼より若く、いつもイエス様に愛されてい く、いつもイエス様に愛されてい ると自負している男であり、あの晩餐のときも、イエス様に一番近く座っていた。 (2)当然のこととしてペテロは、殉教、『死ぬ』ということを聞いて動揺した。『でも、イ エス様のため、信仰のためなら、それも仕方がないか』と自分に言いきかせたであろう。 4 (3)「 (3)「しかし、それにしても他の人はどうなのか? 死ぬのは私だけか? もし皆 もし皆が死ぬな ら、私も納得できる。特に、 できる。特に、いつも何かイエス様に いつも何かイエス様にえこひいきされているように見える イエス様にえこひいきされているように見える あのヨハネ あのヨハネはどうなのか」とペテロは思ったのである。 ヨハネはどうなのか」とペテロは思ったのである。 (4)それで、彼はイエスさまに (4)それで、彼はイエスさまに尋ねた。『主よ。この人はどうですか』と。イエス様の答え は、22 は、22 節あるように「私の来るまで、彼が生きながらえるのを私が望むとしても、そ れがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは私に従いなさい」であった。 B.ここで明らかなことは、イエス様が、ペテロが自分の人生を他人のそれと比べることを嫌われたことである。 なぜ、イエス様は、私たちが人と比べることを嫌われるのか? 1.第一 1.第一の 第一の理由は、人と自分を比べることは、ネ べることは、ネガティブな結果こそあれ、そこから何のプラス も生まれないからである。 も生まれないからである。 (1)人と (1)人と比べることは、人の人生を見て、そこから べることは、人の人生を見て、そこから何かを 、そこから何かを学 何かを学ぶこととは違う。 ●私は、最近、ある人の強烈な奨めもあってTVジャパンを入れた。以来、そのドキュ メンタリー的番組で沢山の人の人生について見るようになった。 ●そして、そこから沢山のことを学び、チャレンジを受け、励まされて来た。 しかし、 それは、私の人生とその人の人生とを それは、私の人生とその人の人生とを比べているのではない。 ●他の人生を見ながら、学んでいるのである。これは の人生を見ながら、学んでいるのである。これは大いなる益である。 (2)しかし、 (2)しかし、他人と比べることは、比べることによって、変に安心して成長や努力を怠るよ うになったり、傲慢になったり、逆に僻んだりするという んだりするというネ いうネガティブな結果を産みだす。 だす。 (3)だから、イエス様は、神様のしもべである私たちが人と (3)だから、イエス様は、神様のしもべである私たちが人と比べることを嫌われるのである。 2.第 2.第二の理由は、神様は、それぞれ一人一人に最善・最高の人生を備えておられるからである。 (1)私たちの人生は、それ (1)私たちの人生は、それぞれ皆違う。 ●世界に 70 億の人がいるなら、70 の人がいるなら、70 億の違った人生を神様は備えておられる。一つと して同じ人生はない。 ●現に、同じキリストの使徒でありながら、ペテロは 現に、同じキリストの使徒でありながら、ペテロは殉教し、ヨハネは 100 才を超え るまで長生きすると言うような、地上的な運命から言うと から言うと全く違っている。 ●この地上には、 この地上には、丁度マタイ 25 章の5、2、1 タラントのしもべたちのように、持っ て生まれたもの、環境、境遇において、格差、差別、不公平は一杯ある。 ある。 (2)しかし、聖書は、その (2)しかし、聖書は、その違いを地上的にだけ見てはならないと強調する。 する。なぜなら人生の 結論と最終的祝福はこの地上では見られないからである。天 的祝福はこの地上では見られないからである。天国まで待たねばならない。 ●だから、上述のマタイ 25 章のタラントの譬えでも、地上的には違う結果を産み出し たしもべたちに、天国に相当する主人からの報奨は全く同じであった。また、 は全く同じであった。また、 ●ルカ 16 章に記されている金持ちと貧乏人ラザロの立場は天国で完全に で完全に逆転している。 (3)イエス様が、ペテロを始め、私たち (3)イエス様が、ペテロを始め、私たちに、 イエス様が、ペテロを始め、私たちに、「 に、「比べてはならない」言われる理由は、 ●この地上の不幸が不幸ではないからであり、 ではないからであり、この地上の からであり、この地上の幸せが幸せではないからである。 ●神様は、天 神様は、天国での私たちの での私たちの永遠の幸せのために、一人一人の地上の人生を、「 せのために、一人一人の地上の人生を、「不幸」 をも含めて、 をも含めて、愛と知恵による最善の計画をもって導いておられるからである。 ●即ち、イエス様の御目の前には、どの人生も同じように最善、最高の人生なのである。 ●だから、比べて「どうの、こうの」と言って欲しくないのである。 ●殉教するペテロの人生も最高、流刑され、長生きしたヨハネの人生も最高なのである。 (4)だから (4)だから他人の人生と 人の人生と比べることは、神様への挑戦であり、不信であり、不服従である。 結 論 ●10 才で病気から、瞬きすること以外のすべての運動機能を奪われ、体を動かすことは かすことは勿論、話すこ ともできなくなった水野源三さんが、8 歳で全盲になろうとしていた少年に贈った励ましの言葉: 「他人と比べないで生きて下さい」。「人と べないで生きて下さい」。「人と比べないで、自分の人生を生きる」これが秘訣である。 である。 ●「人間の牧者」として生きる者が として生きる者が持つべき必要な二つの「資質 つの「資質」を復 資質」を復習しよう。 ①自分の生涯を、 分の生涯を、神様の手に委ね、死ぬことも含めて、命と人生の全部を神様に捧げること ②他の人と自分の人生を絶対に比べないで、 べないで、自分は自分の人生に与えられた人生を生きること えられた人生を生きること ペテロはそれを実行した。それゆえ祝福された。あなたも・・・・ え祝福された。あなたも・・・・‼
© Copyright 2024 ExpyDoc