政策準備不足のミャンマー新政権

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アジア
2016 年 2 月 18 日
政策準備不足のミャンマー新政権
アジア調査部上席主任研究員
当面は前政権の政策を踏襲する見通し
03-3591-1379
小林公司
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○ミャンマーでは、昨年11月の総選挙に基づく新政権が4月から正式に発足。過半数を占めたアウン・
サン・スー・チー党首の国民民主連盟は、対立してきた国軍との協調に努めて円滑な政権発足へ
○新政権は経済発展に取り組む方針だが、長期ビジョンと具体策を欠く。むしろ、農地と環境に関し
ては保全を重視するリベラルな方針であり、今後の具体化次第では投資が抑制される恐れ
○新政権は、当面は前政権の政策を踏襲し、1年程度かけて独自策を具体化する見通し。日本として
は、今後の新政権の独自政策の形成に対し、支援を行っていくことが重要
1.はじめに
2月1日、ミャンマーで昨年11月の総選挙に基づく国会が初召集された。総選挙ではアウン・サン・ス
ー・チー党首の国民民主連盟(NLD)が前政権を破ったことから、今国会では大統領の選出などNLD政権
を樹立する所定の手続きが行われる見通しである。NLD政権に対しては、前政権に引き続き経済発展に
向けた取り組みが期待される一方、経験不足であることや前政権からの政策変更の可能性も不安視され
ている。そこで本稿では、NLD政権の経済政策を取り上げる。
2.政権交代は円滑に進む見通し
ミャンマー国会は上下両院の664議席で構成され、このうち4分の1の166議席は無投票で軍人議員に
割り当てられる。昨年11月の総選挙では、残りの498議席から、少数民族との紛争で投票が中止された7
議席がさらに除かれ491議席を巡る争いとなった。その結果、NLDは390議席を獲得し、両院において軍
人議員議席を含めた過半数を上回った。
ミャンマーでは、1962年の国軍によるクーデター以降、軍事政権が続いていた。その軍事政権が民政
移管に舵をきって2010年に実施した前回総選挙では、NLDは公正な選挙が見込めないとしてボイコット
し、連邦団結発展党(USDP)が勝利して、軍事政権トップのタン・シュエ国家平和開発評議会(SPDC)
議長に代わり、テイン・セイン大統領が国家元首となった。しかし、USDPは国軍を支持基盤としていた
上、テイン・セイン大統領は退役軍人であったことから、この時の民政移管は名目的なものとの見方が
あった。
その後、2012年に実施された補欠選挙にNLDは参加し、45議席中の43議席を獲得して国政参加を果た
したものの、野党の座にとどまっていた。今回の総選挙でNLDが勝利したことは、実質的な民政移管が
1
半世紀ぶりに実現することを意味する。
今後のプロセスとして、3月中に議員の投票で大統領が選出され、4月から新大統領の下で新政権が正
式に発足すると見込まれる。NLDが議会の過半数を制したことから、大統領の選出はNLD主導で行われる
見通しである。
NLDは対立してきた国軍との協調に努めており、大きな混乱なく政権交代は進みそうだ。現地報道に
よれば、スー・チー党首が総選挙後に国軍の最高司令官や長老と会談し、国軍の行った民主化運動弾圧
などを訴追しない方針を伝えたという。国軍の指導者も、和平後のカンボジアでポル・ポト派が訴追さ
れたような事態は避けられる保証と引き換えに、NLDへの政権移譲を支持する取引に応じたとみられて
いる。
ただし、外国籍の子供を持つスー・チー党首は、軍事政権期に制定された憲法の規定により大統領に
就任できない。憲法改正には国会議員の4分の3以上の賛成が必要であり、4分の1を占める軍人議員の協
力が不可欠となる。しかし、国軍は政権移譲に協力する姿勢であるものの、憲法改正に対しては否定的
である1。NLDは、大統領に関する憲法の規定を改正するのでなく、一時停止する代替策を模索している
との報道もあるが、国軍の態度を踏まえると先行きは不透明である。もっとも、スー・チー党首は、自
身が大統領になれなくても、大統領の上に立って政権を運営する意向であり、その場合はNLD幹部のテ
ィン・ウー氏や、同党員でスー・チー党首の主治医でもあるティン・ミョー・ウィン氏らが大統領候補
として有力視されている。
3.新政権に対して入り混じる期待と不安
NLD政権が直面する最大の課題は経済発展である。現地の世論調査でも、新政権への期待として経済
発展と答えた人が50%と最多だった。
1962年に軍事政権が成立して以降、軍事政権は閉鎖的な社会主義政策を行い、欧米からは民主化運動
弾圧を非難されて経済制裁を受けた結果、ミャンマー経済は世界経済の発展から取り残されてきた。
こうした状況を受けて、前回総選挙で成立したUSDP政権は、経済の立て直しに注力し、一定の成果を
収めた。具体的には、外国投資法を改正して税制優遇期間を延長するなど、直接投資の誘致を図った。
また、米国をはじめ先進国との関係を改善し、経済制裁の緩和や経済援助の再開につなげた。
USDP政権の最大の成果の一つは、ティラワ経済特区(SEZ)の開発である。2012年に、日本政府とミ
ャンマー政府は、商都ヤンゴン郊外のティラワに2,400ha(東京ドーム500個分)のSEZを共同開発する
ことで覚書に署名した。396haが優先開発区域に指定され、電力や水の供給など周辺インフラを整え、
外国企業進出の受け皿とすべく産業団地の開発が進められた。2015年9月には開業式典が行われており、
進出企業の一部は既に稼働を始めている。
このようにUSDP政権の政策が奏功し、従来は少なかった製造業分野での直接投資が増え始めるなど、
ミャンマーは他のアジア諸国がたどった経済発展の道に第一歩を踏み出している。特に、日本からミャ
ンマーへの製造業の直接投資は、同じASEAN後発国のカンボジアに対してさえ出遅れていたが、2015年
には逆転した。
もっとも、投資の受け入れに関してASEAN先発国との差は依然として大きい状況にあり(図表1)、NLD
政権には、ミャンマー経済を持続的に発展させるため、外国からの投資をさらに呼び込むことが期待さ
2
れる。国際協力銀行が日本の製造業を対象として2015年に実施した「海外直接投資アンケート」による
と、ミャンマー経済の課題として「インフラが未整備」(66.7%)、「法制が未整備」(54.5%)との
回答が多かったことから、投資を呼び込むためにインフラや法制度を整備して、投資環境を改善するこ
とがNLD政権に求められる。
一方、NLD政権に対する不安もある。今まで政権を担当した経験がないため、不慣れな行政に手間取
る恐れがある。また、USDP政権下での外国との取り決めや投資に関する許認可が、NLD政権によって覆
されるのではないかとの見方もある。実際に、総選挙でのNLD勝利が報じられた直後には、NLD政権に対
する不安を反映して、隣国タイではミャンマー関連ビジネスを行うタイ企業の株価が軒並み下落した2。
こうした期待と不安の交錯するNLD政権がどのような政策の方針を立てているのかについて、次節で分
析する。
4.経済政策は長期ビジョンと具体性を欠き、農地と環境については保全重視の方針
NLD政権は総選挙前にマニフェスト「変化の時が来た」を発表しており、これを手掛かりに政策方針
をうかがい知ることができる。特に経済政策に関する部分をみると、12分野の発展に取り組むことが公
約されている。すなわち、①「経済・金融」、②「農業」、③「エネルギー」、④「自然環境」、⑤「畜
水産業」、⑥「労働」、⑦「教育」、⑧「保健」、⑨「女性」、⑩「若者」、⑪「通信」、⑫「都市開
発」である。以下、これらの中でも特に注目すべき分野のポイント(図表2)について、USDP政権の政
策と比較しつつ整理する。
第1の注目点は「経済・金融」である。インフラ整備、制度透明化、外資誘致に関する記述があり、
USDP政権と同様に経済発展に取り組む方針が示されている。しかし、その内容は教科書的な型どおりの
ものにすぎない。どのような経済の将来像を描いているのかという長期ビジョンは明確に示されておら
ず、そのビジョンを実現するために必要なインフラや制度、外資誘致策は何かという具体的な政策論に
も踏み込まれていない。今後の長期的な投資環境はどうなるのか、不透明感があるといえよう。
図表1 日本のASEAN向け直接投資
(製造業、2015年1~9月)
ー
NLD マニフェストの注目分野とポイント
注目分野
123 16
ー
フ
ィ
リ
ピ
ン
ミ
ャ
ン
マ
カ
ン
ボ
ジ
ア
ポイント
経済・金融
・長期ビジョンは示されず
・経済政策の具体性も欠く
農業
・不当な農地の収用を防ぐ
・時代に合致しない農地法を改正
1
エネルギー
・発電ダムは自然環境を最も破壊
・既存ダム改修、小規模発電を支援
ラ
オ
ス
自然環境
・投資が環境破壊につながるか検討
できる法律を定める
728
ー
(億円)
4500 4090
4000
3500
3000
2336
2500
1896
2000
1195
1500
775
1000
500
0
シ タ イ ベ マ
ン イ ン ト レ
ガ
ド ナ
ポ
ネ ム シ
ア
シ
ル
ア
図表 2
(資料)NLD総選挙マニフェストより、みずほ総合研究所
作成
(注)フローベース。ブルネイは除く。
(資料)日本銀行「国際収支統計」
3
第2の注目点は「農業」で、記述の分量は12分野の中で最も多い。人口の7割が居住する農村での生活
向上と貧困削減が必要であるとして、農業主導の経済発展が主張されている。具体的な記述としては、
不当な農地の収用を防ぎ、時代に合致しない農地法を改正するとの文言が目を引く。農民の農地に対す
る権利が確保されておらず、不当な農地収用等で農民の利益は侵害されているとの認識がNLD政権には
あるようだ。USDP政権も農業を重視し、2012年に農地法を改正して、国家による農地収用に際しては相
応の補償が行われることとしていた。その農地法をNLD政権は再改正する方針であり、工場やインフラ
用地の確保に必要な手続きやコストは増える可能性がある。
第3の注目点は「エネルギー」である。ミャンマーでは水力発電が発電容量の7割を占めているが、NLD
はダムが自然環境を最も破壊するものと指摘し、今後は既存ダムの改修と再生可能資源による小規模発
電を支援するとしている。USDP政権は中国主導の大規模ダム開発を凍結した例外はあるものの、大規模
ダムの建設には前向きだったことと対照的である。筆者が面談した現地の投資アドバイザーによると、
NLD政権は大規模ダムの開発を規制する可能性があり、今後の経済発展に必要な電力が供給されるか不
安であるという。
第4の注目点は「自然環境」であり、国内外からの投資が環境破壊につながるか検討できるよう法律
を定めると記述されている。USDP政権も同様の法律を2012年に環境保護法として制定し、同法に基づく
環境アセスメントの手続き規定もドラフト版を公表しており3、実際にドラフト版をベースとした環境ア
セスメントが行われていた。こうしたUSDPの取り組みがなされてきたところに、さらにNLD政権がどの
ような法律を検討しているのか不明であるが、環境規制は今まで以上に強化される可能性がある。
以上を踏まえ、NLD政権の実際の政策運営が、どのようになるのかを次に検討する。
5.当面は前政権の政策を継承しつつ、独自策の具体化を準備する見通し
当面は、NLD政権はマニフェストで独自の政策方針を示しているものの、まだ具体策が整っていない
ことから、USDP政権の政策を踏襲するとみられる。
実際に、各省庁の事務次官をはじめ、公務員を全て留任させると決定しており、このことはUSDP政権
の政策を引き継ぐことを意味すると現地では受け止められている。NLD政権はマニフェストで省庁削減
を公約していたが、各省庁の事務次官を留任させると決定したことから、その公約はひとまず棚上げさ
れたことがうかがわれる。
また、2016年4月からの新年度予算についてNLD政権は、USDP主導の前議会によって承認されたものを
引き継ぐ見通しである。シュエ・マン前下院議長が、経験の乏しいNLDに対して政権交代の準備に専念
できるよう配慮して、1月に任期の終わる前議会に予算策定を促した経緯がある。NLDもシュエ・マン前
議長の提案には反対していなかったため、政権交代後に予算が大幅に修正される可能性は低いとみられ
る。
さらに、USDP政権期の外国との取り決めや、投資に関する許認可などが覆されるのではないかとの不
安に対して、NLD政権は見直しをしないと表明している。特に日本との関連では、2015年12月、日本政
府がタイ政府およびUSDP政権と共に出資を決めたミャンマー南部のダウェーSEZ開発の計画は引き継が
れることになろう。ダウェーSEZとは、総計画面積が2万haとティラワSEZの8倍に相当するアジア最大級
のSEZであり、その開発によってティラワSEZ以上の経済効果が期待されている。
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一方、NLD政権の独自策については、外部からの意見を取り入れて具体化を準備している段階である。
たとえば、現地の日本大使館と日本商工会議所は、総選挙前からNLDと数次にわたり政策対話を行って
いる。筆者が現地で関係者から聴取したところ、対話はスー・チー党首の申し入れによるものだという。
テーマは財政政策、投資環境整備、農業振興、金融市場育成、SEZ開発など多岐にわたり、日本での取
り組みの説明や、ミャンマーの現状に合わせた政策の討議が行われている。
政策対話の場には、NLDの政策委員会が参加する。政策委員会は経済や農業、保健、教育などの分野
ごとに設置され、今回の総選挙で当選した議員が委員となっている。NLD議員の大半は新人で、政策に
精通しているわけではないため、政策対話では初歩的な質問が出ることもあるとのことだ。もっとも、
これらの政策委員会が経験を積むにしたがって、ゆくゆくはNLD政権の政策形成に影響力を持つと見込
まれる。
このような状況を踏まえると、NLD政権が独自の政策を打ち出すまでには時間がかかるだろう。筆者
が面談した現地のビジネス関係者によれば、NLD政権は前政権の政策を1年程度は踏襲するとの見立てで
あり、その間にNLD独自策の行方を見極めたいとのことであった。
6.まとめ~政策具体化に向けた日本の支援が重要
このように、当面は前政権の政策が踏襲されるため、NLD政権発足後に大きな政策転換がなされるこ
とはなさそうだ。不安視されていた行政の停滞、前政権による外国との取り決めや投資許認可の解消な
どは、リスクが小さいと思われる。
一方で、今後のNLDの独自政策の形成に対し、日本は支援を行っていくことが重要となろう。これま
でにも、日本政府は「ミャンマー産業発展ビジョン」をとりまとめ、テイン・セイン政権に対して提言
を行っていた。NLD政権との間でも、政策対話などのチャネルを通じて、長期的な経済政策ビジョンの
策定や、個別の政策立案に協力することが考えられる。ミャンマーにとっては長期的な経済発展、日本
にとっては投資機会の創出につながり、双方にメリットがあると期待される。
たとえば、日本はベトナムの投資環境を改善して経済発展を支援するため、2003年の両国首脳の合意
に基づき、日越共同イニシアティブに取り組んできた事例がある。当時のベトナムは、成長のポテンシ
ャルを注目されていたが、投資環境の整備が遅れていたという点で現在のミャンマーに似ていた。同イ
ニシアティブでは、日本の官民やベトナムの政府関係者が参加し、産業振興や規制緩和などについて討
議して行動計画を策定し、実施状況をフォローアップして成果を積み上げてきた。2000年代以降にベト
ナムは直接投資の受け入れを増やし、労働集約型製造業の一大拠点として台頭した背景には、同イニシ
アティブの影響があったとみられる。このような経験を活かし、日本はミャンマーに対しても政策形成
の支援を行うことが考えられる。
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国軍寄りとされるミャワディ紙の論調は、大統領資格に関する憲法の条項を改正すべきでないというものである。
ミャンマーでは株式の取引は行われていない。ヤンゴン証券取引所は総選挙から 1 カ月後の 2015 年 12 月に開所し、2016 年
春からの取引開始に向けて準備をしている状況である。
手続き規定の最終版は、総選挙後の 2015 年 12 月に発表された。
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