怖い国と言われたミャンマー

怖い国と言われたミャンマー
―ミャンマーバッシングとその背景―
(一社)日本ミャンマー友好協会専務理事
ミャンマー経済・投資センター理事
中小企業診断士
都築
2015.6.5
治
ミャンマー連邦共和国
インド
カチン州
中
ミッチーナー
国
バモー
ムセ
ザガイン地域
ナムカン
ラショー
シュエボー
バングラ
デシュ
ティーボー
チン州
モンユワ
マンダレー
ピンウールウィン
マンダレー地域
シャン州
バガン
チャイントン
タウンジー
マグウェー地域
ネーピードー
マグウェー
ラカイン州
ラオス
カヤ州
CHIAUG MAI
ピィ
タンドゥエー
バゴー地域
バゴー
カイン州
パテイン ヤンゴン地域
エーヤワディ地域
タ
イ
パーアン
モン州
ヤンゴン
ミャワディ
モーラミャイン
人口:5,148 万人
面積:67 万 8 千 k ㎡
首都:ネーピードー
ダーウェー
行政: 7 州 7 地域
民族:過半数のバマー(ビルマ)族他 134 民族
宗教:上座部仏教
89%
キリスト教
5%
イスラム教
4%
国境線:中国:2,204km
タイ:2,107km
印度:1,600km
タニンダーイ地域
BANGKOK
1
怖い、物騒と喧伝された国
(1)国際輿論に翻弄されたミャンマー
ア 88 年バマー式社会主義経済崩壊
社会主義経済の行き詰まりにより、1988 年中立を標榜し孤高的な政策を執
っていたバマー式社会主義政権が崩壊した。同政権は、唯物論のマルクス・レ
ーニン主義に依らない独自な社会民主主義的政策を掲げ、西側諸国にとっては
共産主義への防波堤の役割も果たしていた。従って、日本政府はかつての同国
侵攻への負い目もあり、多大な経済支援を行っていた。
1962 年ネウィン将軍はクーデターを敢行し、バマー式社会主義政権を樹立
した。政権発足当初は、社会主義経済は順調に滑り出したが、いつしか機能不
全に陥り、結果的には同国の経済は困窮を極めることとなった。世界の最貧国
の一つまで転落したのである。
抑え続けていた国民の不満は爆発し、ついに騒擾事件にまで発展した。それ
により 1 千人以上の死傷者が出た。事件の発端は若者の些細な喧嘩で、それが
大きな反政府運動にまで発展してしまったのである。この事件はフォーエイト
(88 年 8 月 8 日)事件と言われ、一般的には民主化運動とされているが、凶
行事件等もあり評価が一様ではない。
丁度この時、イギリス在住のアウンサンスーチー(1945 年生れ、幼少からキ
リスト教系の学校に通う、1969-71 年国連勤務、1985-86 年京大客員研究員)が、た
またま母親の病気看護のために帰国しており、反政府闘争に駆り出されて民主
化運動のシンボルとなった。
西洋式民主主義の思想を身に着けた一途なスーチーを、欧米のグローバリズ
が後押した。これに対して国家社会主義的な政権側は強く反発した。然し、経
済破綻の現実には抗しきれず、89 年 3 月社会主義のイデオロギーを放棄し市
場経済を容認することとなった。
相次ぐスーチーの言動に焦燥感を抱いた政権は、スーチーの活動に制限を加
え、同年 7 月自宅からの外出を禁止させた。
イ 90 年総選挙
ようやく国情が安定を取り戻し、1990 年 5 月、世界の輿論もあり公明な総
選挙が行われた。旧政権側、スーチー側双方は、お互いに選挙後の体制づくり
を深く考えていなかった。
政権側はよもや選挙に惨敗すると考えていなかったが、投票率 72.5%の選
挙結果、スーチー側(得票率 60.38%、議員数 80.8%)が圧勝した。にもかかわら
ず、経験不足や諸々の要因が重なり首班指名がなかなかできないでいた。
ぐずぐずしている間にも、国内に不穏の動きが見られるようになった。この
ため、治安維持の名目で旧政権側がそのまま居座ってしまった。アウンサンス
ーチーに期待を掛けていた欧米や国際メディアは、これに強く反発した。ミャ
ンマーバッシングの始まりである。
91 年 12 月、スーチーにノーベル平和賞を授与した。
ウ 第一次ミャンマーブームの到来
94 年 6 月春名丸紅会長を団長とする経団連ミッションがミャンマーを訪れ
た。95 年 7 月にはアウンサンスーチーが軟禁状態を解除され、ミャンマーへ
の期待が急速に高まった。第一次ミャンマーブームが到来したのである。日本
から多くの経済ミッションがミャンマーを目指し、当時は、ミャンマーかベト
ナムかと言われたほどであった。
観光ブームも起こり、多数のホテルが建てられた。政府は 1996 年を観光元
年として振興策を試みたが、反ミャンマーの国際輿論等の影響があり、怖い国、
物騒な国、治安に問題のある国と世間の人々から見なされ、結局上手く続かな
かった。この時期に建てられた多くのホテルが、2012 年第二次ミャンマーブ
ーム到来まで、宿泊客がほとんどないまま荒れ果てた。
97 年のアジア通貨危機により、ミャンマーブームはまたたく間に終わって
しまった。ミャンマーに進出した日本企業の多くも、撤退もしくは規模の縮小
を余儀なくされた。通貨危機の背景には国際的な利権が絡んでいた。
エ 2003 年ディベイン事件、スーチー襲われる
政権維持に自信を持ち始めた政府は、2002 年 5 月、2000 年 9 月からの 2 度
目の軟禁状態からスーチーを解放した。米欧や国際メディアの支援をバックに
して、スーチーは盛んに各地を遊説し始めた。しかし、彼女に反感を持つグル
ープによって、ザガイン地域(当時管区)モンユワ市近郊のディベイン村で襲
われることになった。事件は、悪意のある謀略者らが主導した可能性が高い。
この事件は謎が多く、政府側、スーチー側双方にダメッジが大きかった。彼
女の安全確保の名目で、政府は 3 度目の自宅軟禁措置を取った。これに米欧は
反発し経済制裁を強化した。日本政府も同調し、すべての ODA を一時中断した。
彼女の軟禁は、一般的に軟禁と考えられる状態とは趣が少し違う。スーチー
邸は極めて広大な敷地内にあり、狭い部屋に閉じ込めるようなものではなかっ
た。彼女の外出の自由を制限するのが目的であった。この間、アメリカからス
ーチーに有形無形の援助があったことは周知のことである。
緒方貞子(クリスチャン、1968 年から国連に関わる。1990-2000 年国連難民高等
弁務官他)
、オルブライト(ユダヤ系、チェコスロバキア生まれ、1997 - 2001 年国
務長官)
、ブッシュ夫人(第 43 代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ)な
どは、スーチーの良き理解者として有名である。彼女らは善意のグローバリス
トである。
また、米欧やそれに呼応する各メディアは、北朝鮮の金正日(キム・ジョン
イル)労働総書記、ジンバブエのムガベ大統領、ミャンマーのタンシュエ国家
平和発展評議会議長を名指しして、世界の三大極悪独裁者として喧伝した。
オ 米欧の経済制裁強化
アメリカのミャンマーへの経済制裁の背景には、著名な投資家某をはじめロ
ビイストの影が大きい。投資家某は経済制裁以前にミャンマー進出の石油会社
に投資しており、ライバルへの参入障壁、既得権益の確保のために、経済制裁
強化を強く世間に訴えたのが実情であると考えられる。彼らはタイとのパイプ
ライン敷設により、莫大な利益を得ている。
経済制裁以前の投資は問題にしないという内約があり、さらには、英米の大
手メディアは金融資本が押さえ、国際輿論の形成を図っている。また、米国の
各議員は、選挙に勝つためには人権、正義、デモクラシーなどの良き理解者を
装わないことには、当選はおぼつかない。ミャンマー、イラン、トルコなどは、
それらに問題のある国として必要以上に口撃された。
この間、中国は 2007 年 1 月、国連安保理で米英が提案した新たなミャンマ
ー制裁案を、ロシアと一緒に拒否権を発動して潰した。ミャンマーはますます
中国寄りの国となった。
カ 2007 年 9 月お坊さん主導?と言われる反政府デモ発生
2007 年、お坊さん主導と言われる摩訶不思議な反政府デモがあった。政府
が燃料を突然値上げしたことに対して、僧侶が困窮する国民を見兼ね、政府へ
の抗議のためにデモ行進を始めたと言うのである。これが大きな事件にまで発
展し、死傷者さえ出た。
私は中小企業診断士で、経営戦略、兵法の本を何冊も読んでいたこともあり、当時、
この行動は実にタイミングが悪く、なんと稚拙なことをしたものかと呆れたものであ
る。私は関係者にインターネットで何度も配信した。このデモ行動には理がないと。
これに対して、日本の各メディアの報道はデモ側に理解を示すものばかりであった。
メディアの見解に同調する人は、私の傍から離れて行った。
デモをするには、誰かが扇動し、人々を動員しなければならない。資金力も必要で
あり、一介の僧侶のなせる業ではない。背後には、大きな支援組織があるものと考え
た方が得心が行く。事件が起きるしばらく前に、米国の組織が 100 台余りのパソコン
を活動家に供与し、資金援助を行っているとの情報があったのを私は知っている。
私は、NPO のザ・コンサルタンツ ミャンマーの会員と、2004 年から 2005 年にかけ
てヤンゴンの有力な IT 関連会社 15 社の実態調査を行っている。ミャンマーのパソコ
ンの普及率も調べている。経済制裁下の当時の状況では、個人レベルではパソコンを
所有することはほとんど不可能であった。
ヤンゴンから遠く離れたパコック町でデモは始まり、治安部隊との衝突がその日の
内に写真付きで東京や世界各国に配信された。このことは通常では考えられないこと
である。前もって意図されたものであると考えない訳には行かない。当時のミャンマ
ーはインターネットが余り普及していなく、業務用に使われている程度であった。地
方のパコックから発するには、前もって準備しておかなければ極めて難しい。
デモの規模が大きくなり、衝突事件にまで発展した。民主派と言われている勢力に
共鳴する日本の知識層の多くは、自分たちの主張が正しかったと喝采を浴びせた。こ
れで国民の反政府活動が高まり、悪逆無道なミャンマー軍事政権が崩壊すると読んだ
のである。しかし、デモ活動は予期に反し、直に萎んでしまった。
余りにも、行動を起こすのにはタイミングが悪かった。パソコンを供与された者た
ちは、パソコンを供与した組織に気に入れられるような情報を選んで流し、またその
組織は、反政府活動家の情報のみが真実と錯覚したに違いない。軍政側の情報はプロ
パガンダと考えたのである。当時、ミャンマー国内では取材活動はほとんど不可能で
あった。そのため、反政府活動の影の主謀者らは、スーチー政権実現の好機到来と読
み違えてしまったのであろう。
この時期私は、自らが講師をする日本語教室のために何度もヤンゴンに通っており、
市民の暮らしが向上しているのを間近に見、
「昔は政府の悪口を言うとすぐ連れて行か
れてしまったが、今はそんなこともなくなった。いい世の中になったものだ。」と言う
声を聞いているからである。2004 年のキンニュン失脚により、情報部局が壊滅的にな
っていた。
実は、デモが始まったのは、私が一か月以上のヤンゴン滞在から日本に帰国した翌
日からである。ヤンゴン滞在中に、反政府のデモを起こすような市民の兆候は全く感
じられなかった。
また、デモ側が言っていた「政府よりも、我々のパソコン技術の方が上だから、決
して邪魔できない。
」の言葉である。上記パソコン供与の情報と不思議に符号する。突
然起きた不可思議なデモの背景には、国外の勢力が明らかに関与していたと言うこと
に他ならない。
この時、山口洋一元駐ミャンマー大使が「週刊新潮」に投稿、またテレビ朝日に出
演した。番組に直接関係がなかったアメリカ贔屓の某防衛評論家が、大使に対するき
つい言葉を発した。当時の日本人知識人のミャンマーに対する理解度を知ることがで
きる。防衛専門家でさえ、ミャンマー国内の実情に少々疎かったのである。
このデモは、一般的にはお坊さん主導の、政府に対するささやかな抗議活動
として巷間には流布している。が、大抵のポンジー(比丘、和尚)やサヤドー
(僧院長、大僧侶、長老)はデモには賛同していなかったし、むしろ止めさせ
ようとさえしていた。ましてや兵隊さんからのデモ参加はなかった。
困窮を極めた社会主義末期の時代と大きく違い、ガス田の開発や国境貿易の
利益等に依り、ミャンマー経済は危機を脱していた。それに依り、僧侶は政権
側から多大の援助を受けており、恵まれた地位にあった。連日その様子が国営
テレビで放映されており、僧侶が如何に厚遇されていたかが分かる。多分に、
僧侶に対する懐柔策であったであろう。
居心地の良い地位を自ら投げ出す奇特な人間は、僧侶といえども極めて稀な
ことである。その中でも稀な人は、世間から超越し、世の動きとは違う次元で
宗教活動をしており、デモを扇動することはまず考えられない。本来のミャン
マー仏教は、現世の利益を考えない。
88 年の騒乱の時は多くの僧侶が参加し、一部の兵隊さんさえそれに加わっ
た。今回のデモの主導者はお坊さんと言われているが、参加者の多くは僧籍を
持たない見習い僧(沙弥、コーイン)で、中には偽坊主も沢山いたとの情報も
ある。ミャンマーではコーイン(沙弥)とポンジー(比丘)では、明らかに身
分の違いがある。ましてやサヤドー(僧院長、大僧正、長老)の地位は非常に
高く、彼らの発する言葉は絶対的な重みがある。彼らの賛同がなければ、デモ
は成功する筈がない。
次は日経新聞に記載されたものである。(2007.9.29)
日本のメディアの中で一番中立的で、文化度も高いと言われている日本経済新聞の「春
秋」欄である。同欄は、日経社の最高の教養と知性、及び地位の高い人が執筆している筈
である。にもかかわらず、そのミャンマーについての見識は驚くほどのレベルである。当
時は、メディアのミャンマー国内取材はできなかった。そのためか、多くの点で見当違い
が目立ち、私は記述した春秋子に訂正を求めた。
色々可笑しな点があり意見も少し述べたが、見解の相違で片づけられると考え、
「2 時
間の通電時間」の訂正のみを求めた。ヤンゴンは仮にも 500 万都市である。1 日 2 時間
の通電で市民生活を送ることが可能であろうか。
私はヤンゴンにしばらく滞在していたから、そんな筈がないと述べた。春秋子は「そ
れはあなたの考えだろう」と答えた。事実に見解の相違はないので、誰に聞いたかを問
うた。彼はヤンゴンにいる二人から聞いた話だと返答した。当然、誰かは答えなかった。
私は何度もミャンマーに行っており、その時は 1 か月以上滞在したヤンゴンから帰国し
たばかりである。停電が頻繁にあるのは確かであるが、1 日 2 時間しか電気が通じない
ことは決してなかった。
私がつい文章の書き方がおかしいと彼に言ったものだから、プライドが傷つけられ
たと感じた春秋子が怒り出した。私は「そんなに怒るのなら、日経はもう取らない」と
返答した。彼は、これに対して「どうぞ取らないでください」と答えた。それ以来、私
は 2014 年 1 月まであらゆる日経紙の購読を止めた。末端の拡張員さんらが苦労してい
るのに、上層部の人の考えはこんなもんである。
しかし逆に、2011 年以降日経新聞からは 2 回の取材を受けている。メディアのミャ
ンマー取材の許可が下りる前は、NHK の番組制作会社、関西テレビ、朝日新聞、中日新
聞、地方紙などから色々取材を受けているが、メディアに気に入った内容を話さないも
のだから、記事にしたと言う連絡はない。
上記、日経「春秋」欄には可笑しな点が色々あるが、数点のみ挙げて見よう。
・軍事強権国家にとって日本は主要な経済援助国だ
ネウィンの社会主義国家の時代はともかく、タンシュエ政権になってから米欧の経
済制裁に同調して、日本政府はほとんど経済援助を行っていない。確かにそれ以前は最
大の経済援助国であったが、中国にその地位を奪われており、日本の経済援助は極めて
少額であった。援助国と言うレベルではない。
・ネピドーは「王の都」を意味する
メディアはネピドーと表記するが、外務省やジェトロなどは「ネーピードー」と表記
している。ミャンマー語の英語表記では“Nay Pyi Taw”と表記され、ミャンマー国内
では“nei pji do”と発音されている。Nay は太陽、Pyi は国、Taw は尊敬を表す語で
あり、原意にはどこにも「王の都」と言う意味はない。「太陽の(御)国」が正しく、転
じて「首都」
、
「都」の意味になる。
王の住む場所を強調することにより、タンシュエ国家元首に巨悪な独裁者のイメージ
を植え付ける真意が垣間見える。
・デモ隊には無差別に銃を放つ
「デモ隊には銃を放つ」なら多少容認できるが、無差別と言うことならば、幾らなん
でも悪意に満ちた言葉使いである。無差別に銃を放てば、何千人の人が死んでしまう。
これではいくら政権を擁護する立場の人でも、とうに見放したであろう。言葉の綾では
済まない、軍隊イコール悪という思想が内心にあるからであろう。
・住民と治安部隊が衝突する中で取材者としての身の守り方は十分に心得ていたで
あろう
亡くなった人の悪口は言いたくはないが、長井さんの撮影スタイルは戦場ではない、
たかがミャンマーだとの思いが感じられ、安易に考えていたように思う。木村太郎、鳥
越俊太郎が、地元になじんだ服装であるとテレビでコメントしていたが、私には全く異
様な姿に映った。2015 年の現在ならば違和感はないと思うが、伝統を尊びナショナリ
ズムを信奉するタンシュエ政権下の時代では、考えられないような恰好であった。当時
は、だぶだぶで半ズボンの人間はミャンマーではほとんど見られなかった。
変な恰好の者が、怪しげな行動をしているものだから、瞬間的に引き金を引いてし
まったに違いない。当時のミャンマーは、カイン(カレン)族の一部と戦闘状態が続い
ており、鉄砲を打つことには兵士は慣れている。生死の狭間で戦っている彼らからすれ
ば、考える前に反応してしまったのであろう。横たわっているのが日本人らしいと直に
分かり、ビデオ機器どころではなかったと思う。
また、マハウィザヤ・パヤー(ネウィン・パヤー)の境内で、「お坊さんがいない。
どこへ行ってしまったのでしょうか」と、長井さんが叫んでいるのが放映された。パヤ
ーはお寺ではないので、そこではお坊さんは暮らしていない。パヤー(パゴダ)は僧侶
が居住し宗教的な行事を行う施設ではなく、当然和尚(ポンジー)や見習い僧(コーイ
ン)の姿はない。ミャンマーに入国する前に少し勉強すれば、パヤーには僧侶が居ない
ことは分かる筈である。但し、一般の在家のように、僧侶はパヤーに参拝する。
また、長井さんは観光ビザで入国しており、取材用のビザではない。法を犯してい
るが、一般的な観光客かビジネスマンの服装をしていれば、銃口を向けられなかった筈
である。私は長井さんのために、彼を急遽派遣した某通信社の社長の方にむしろ責任を
問いたい。
首都ネーピードー(2013 年)
春秋子が批判しているネーピードーの最近の写真。国会議事堂の建物は完成し、敷地内に
は 20 棟以上の大きな建物がある。下の写真のパヤーは、ヤンゴンの聖なるシュエダゴン・
パヤーに敬意を表し、幾らか小さく建てられている。兵隊さんを鼓舞するための、偉大な 3
人の英傑王の像も、市内の閲兵式の広場内にある。民主化が進んだ現在、新首都建設は不可
能。ヤンゴンでは天文学的なコストが必要となる。
2005 年パソコン研修
ミャンマー商工会議所連盟に寄贈した中古パソコン。
パソコンの普及状態とそのレベルが分かる。
2007 年 日本語教室
停電が時々あることは確かであるが、電気が通じていなければ教室を開くこと
はできない。受講生の顔や服装を見ても、国内の各地を踏査しても、当時国中全
体が困窮してあえいでいる気配はなかった。
(2)米欧、行き詰まりの経済制裁
ア 2008 年経済制裁に懐疑的になる
米欧諸国の多くは、自らの価値観に近い民主国家に衣替えさすべく、彼ら
からは人権侵害国に見えるミャンマーに経済制裁を科し、その上政治干渉さ
え行って来た。2007 年の大規模なデモ発生は、ミャンマーにグローバルな民
主化国家実現の絶好のチャンスと捉えたが、目論見通りには事は進まなかっ
た。
ミャンマーは中国、タイ、インドとは長い国境線で接している。西洋民主
主義と価値観の異なる中国は、国益のためミャンマー政権を擁護して来た。
また、タイなどとの国境取引はミャンマー経済を支えて来た。
米欧の経済制裁強化により、中国が影響力を増々高め、さらに経済支援を強
化した。中国主導により、インフラの整備も進み始めた。
そのため、ついに 08 年 6 月米議会調査局は「経済・外交制裁はミャンマー
の体制変更につながっていない」と公表するに至った。
イ 2009 年アメリカ制裁解除の動き
09 年に就任したオバマは、
「政治犯の釈放や、スーチーら野党を政界に参加
させる政治改革をやれば、経済制裁を解除する」と明言するに至った。経済
制裁路線からの軌道修正を考えたのである。
この時から米国は、ミャンマーに強い圧力を掛けることが少なくなった。
ここに、グローバル社会の信奉者らの欺瞞を知ることができる。一般的には、圧力を
掛けたことにより、ミャンマーの民主化、国際化が進行した。ミャンマーが変わって来
たから経済制裁を緩めたとの見解が主力であるが、私は逆に、米欧のスタンスが変わっ
たのが先だと考える。ミャンマー政権は、失脚したキンニュン元首相が 2003 年 8 月に
発表した「民主化ロードマップ」を、淡々と実行しているだけである。
自分たちの方でスタンスを変えたのでは、今までの経済制裁や政治的な干渉は何のた
めであったかと問われかねないので、姑息にも、圧力を掛け続けたからミャンマーの民
主化が進んだ、と言ったのである。その背景には、中国のミャンマーに対する影響が想
定以上に高まったこと、ミャンマー国民の意識が高まって来たことなどが挙げられる。
ウ 2010 年 11 月総選挙
90 年選挙の轍を踏まないため、政権は満を持し、総選挙後の国家づくり承
認のための、新憲法草案承認を求める国民投票を 2008 年 5 月に行った。投票
率 98%、賛成票 92%であった。
総選挙の準備が着々と整い、2010 年 11 月総選挙が実施された。選挙前に
スーチー率いる国民民主連盟 NLD は分裂し、NLD は選挙参加を拒否した。
投票率 77%の選挙結果、連邦団結発展党(USDP)の圧勝で、78.7%の議席
数を得た。少数民族の政党もある程度の議席数を確保し、一部の勢力を除き、
選挙結果に強く異議を唱える組織はなかった。
エ 2011 年 3 月テインセイン政権発足
選挙結果を受けて、正式に USDP(連邦団結発展党)によるテインセイン
政権が発足した。軍人主体の内閣ではあるが、経済界、文化人からも大臣や
副大臣が何人か登用された。
世間は軍政の続きと考えたが、予想以上に政治改革が行われ、世界は同政権
に注目した。
オ 同 9 月ミッソンダム凍結
テインセイン大統領は、中国が莫大な費用を掛けてカチン州で建設中のミ
ッソンダムの建設を、2011 年 9 月突然凍結した。世間はびっくりした。米国
のミャンマー制裁の決議案を、拒否権を行使してまで中国はミャンマーを庇
って来たのにである。また、多大な経済援助までして来た。
凍結の背景には、アメリカや日本などから何らかのシグナルがあったと考
えない訳には行かない。はたして、欧米の有力な財団等から関係改善・支援
の要請が、米政府に送られていたとの情報があった。
ミッソン
2011 年 3 月
聖なるエーヤワディ川の源流ミッソン。後方に建設中のダムが見える。
(3)経済制裁解除へ ―第二次ミャンマーブーム到来―
オ 2011 年 11 月ヒラリー・クリントンミャンマー訪問
世間のミャンマーバッシングが止まったのは、米国の国務長官ヒラリー・
クリントンがミャンマーを訪問した以降からである。彼女の訪問を契機に、
アメリカのミャンマーバッシングはほとんどなくなると、世間やメディアは
捉えた。
それ以来、各メディアの主張は従来と全く異なるものとなった。これが同じ
メディアかと疑うほどの変わり様であった。
私は約 20 年間に亘り、ミャンマーバッシングには理がないと主張して来た。
ミャンマーの民主化運動の考え方に共鳴する人たちは、主に反政府活動家の情報に
基づいてミャンマー軍政の非道さを喧伝して来た。また、少数民族のゲリラと共に戦っ
て来た人や、その集落に入って生活を共にして来た人たちの著作も何冊か読んだが、当
然反政府よりの姿勢を示すものだった。そして、これらの主張を必要以上に各メディア
が評価し、世間に広く流布されて国際輿論のようになった。
軍政時代、反政府活動家やいわゆる民主化運動の支援者、文化人、メディア関係者の
ほとんどは、ミャンマー国内へ入ることができなかった。そのため一面的な報道となっ
た。一方で、ミャンマー・ナショナリズムに理解を示す人たちのレポートや著作は、一
部を除き、旧態依然な反動勢力と見なされてほとんど評価されなかった。
私は、実際に現地を見ないことには、ミャンマーの実情はよく分からないと考えた。
特殊な例ではなく、
普通の国民の実態を知ろうと思った。
大都市ヤンゴンやマンダレー、
観光地のバガンやインレー湖だけを見たのでは表面的と考え、地方都市や辺境地帯まで
足を伸ばした。私は冒険家やジャーナリストではないので、少数民族との戦いが続く紛
争地帯の奥までは行っていない。しかし、ガイドブックやミャンマーの概説書などで、
行くことができないと言われていた地域まで足を伸ばしている。
そこでは、
国軍、
州軍、
民兵などが入り乱れ、銃を肩にそれぞれの領域を管理していた。2・30 分車で走る度に、
検問の遮断機がありチェックされた。
国内の各地を見て回った結果、ミャンマーから分離独立を図っている勢力、そしてア
ウンサンスーチーを応援している人たちには軍政は厳しい態度を取っていたが、
一般国
民に対する極悪非道さを見ることはなかった。そのため、ミャンマーの本当の姿を知っ
て貰いたいと思い啓蒙活動を続けたが、最近まで労ばかりであった。
カ 2012 年 4 月補欠選挙実施
2010 年の総選挙で選ばれた議員の内、何人かが大臣や副大臣に就任したり
して欠員できた。そのため、補欠選挙が行われることになった。選挙の結果
NLD が国会議員 43 議席のうち 41 議席を獲得して圧勝した。
このため、アウンサンスーチーの人気が極めて高く、連邦団結発展党 USDP
の人気が全くないように思われ、識者やメディアもそのように報道し、現在
も、その考えを続けている人が多い。スーチーの人気があることは間違いな
いが、この選挙にはカラクリがあったことを忘れてはならない。
民主化が進んだと対外的にアピールするためには、スーチー側が選挙で勝つ
ことが必要であったし、選挙は公正であったとしなければならなかった。テイ
ンセインはスーチー側に勝たせるために、USDP は一切の選挙活動をしてはな
らないと言明した。そのため、スーチーの顔写真や NLD の宣伝カーを街で見る
ことはあったが、USDP 側のものは見られなかった。しかし、USDP 側ももう少
しの当選者を見込んでいたのは間違いなく、この点では思惑違いであろう。
スーチーが当選し NLD の圧勝により、各国のからの経済制裁解除の動きが
本格化した。これにより、企業のミャンマー進出の動きが加速し、ミャンマ
ーブーム再来の動きとなった。ミャンマーバッシングが終了したのである。
NLD の宣伝カー 2012.3
NLD の本部
ミャンマーバッシングの背景には、英米のメディアを傘下に治め、グロー
バリズムを展開する金融資本の影があったことは明らかである。スーチーは
巧みに操られていた様に見える。各界の知識人・文化人にまで、あたかも自
分の考えで意見を述べているかのように信じ込ませるその業は、まさに驚異
的で脅威である。