第Ⅰ部 経験主義国語教育の摂取 第1章 戦後新教育の出発―教育内容・教育方法の模索― 1945(昭和 20)年 8 月 15 日、戦後の新教育が始まる。すでに戦争終結前、アメリカは 占領政策の一環として対日教育政策を準備していた。一方、わが国の文部省は終戦後直ち にポツダム宣言に基づく教育改革に着手、自主的改革を開始する。 教育法令にはじまる一連の戦後教育改革は、どのような教育理念を基にどのような教育 内容・教育方法を選択するのか、アメリカ側と日本側の双方が教育の内実に対する認識の 差異を調整する過程であったといってよい。占領という特殊な状況下、日本側の意志や価 値観をアメリカ側が修正し主導したことはいうまでもない。しかし教育が人間の人間に対 する内的形成に資するものであり、そこに主体の如何が問われるならば、真に内なる改革 であったのかという問題は改めて検証されなければならない。 以下、①戦前のアメリカの対日教育基本構想を概括し、②文部省および教育現場による 自主的改革と GHQ による四大教育改革指令の関連を検討した上で、③「第一次アメリカ教 育使節団報告書」および「新教育指針」が目指した新教育の方向性について検討していく。 第1節 アメリカの対日教育基本構想 アメリカ側は 1943 年時点から政府部内のさまざまな部局で対日教育政策についての立 案1を進めていた。その中で「日本・軍政下の教育制度」 (JAPAN:THE UNDER MILITARY EDUCATION SYSTEM GOVERNMENT)は内容の継承性から戦後のGHQの指令や政策、CIEによる改 革案、「第一次アメリカ教育使節団報告書」に大きな影響を与えたとされる文書である。 1「日本・軍政下の教育制度」(CAC-2381944(昭和 19)年 7 月 15 日/PWC-278a:1944 (昭和 19)年 11 月 6 日) 同文書はE.H.ドウマン、H.ローリー、F.A.ガリック、R.ターナーが起草し、第四次ま での改訂、その後のG.T.ボールズによる検討および戦後計画委員会の政治的検討を経て承 認された 2 。日本の教育を「専制政治の精神的支柱であり、個性の伸長よりも国家目的に 重点がおかれていた」 3 ととらえ、教育の非軍事化と民主化を教育政策の二大方針とする 立場を提示している。周到に準備された占領教育改革構想であり「この時点での教育政策 文書としては、包括的・体系的でまとまりのあるもの」4と評価されている。 同文書においては戦後教育改革の柱となる超国家主義・軍国主義の排除は徹底されてい たが、日本の自主的教育改革を期待する方針が強く、例えば修身、歴史も占領初期の廃止 のみならず教科目としての改訂と存続が示唆されていた。同時期は日本の教育に介入して いくことへの慎重論も展開されており、リベラルな層の日本人への自主的改革への期待が 土台にあった。修身、歴史を除き、教科レベルについての改革の方向性はまだ具体化され ていない段階ではあるが、以下、①自発的教育改革への期待、②教科課程および教育内容 の方向性について確認しておきたい。 12 (1)自発的教育改革への期待 同文書は「占領軍は、専門スタッフの調達可能性、時間的余裕などから考えて、日本で 完全な教育改革を実施することは不可能である。しかし日本の教育の非軍事化の方向づけ だけは可能であろう」5と述べ、外発的な教育改革の限界を明示している。 日本人への内発性や自律性への期待は、大正期の教科書内容が一つの根拠であった。 「勧 告」には「日本の軍国主義と神話を注入する教科書は、できる限り早く改訂すること。最 初の手立てとして、大正期の教科書を昭和期の教科書に代用することも考えてよい」 6 と 記述されている。大正期教科書への回帰は、当然のことながら大正デモクラシー期に作成 された教科書内容を穏当とする評価の表れであり、修身教科書については「大正修身」に 戻すことが示された 7 。また占領軍が新教科書を作成するという提案はガリック女史の反 対により却下され、あくまで日本人の手による教科書作成が基本となっている。 以上の方針は教師教育の方向性としても具体化した。軍国主義・超国家主義的な教師の 追放、教師の再教育、教員養成制度の徹底的な改革の重要性が指摘されたが、なかでも急 務とされたのは師範学校の改編であり、 「新しい教育理念を持つ教授陣を創出することが大 変重要なので、師範学校のカリキュラムと監督には特別の配慮を払うこと」 8 と示されて いる。占領軍が新しい教育の理念や内容を日本の青少年に啓蒙しようとしても、それを実 践する教師が戦前の価値観や教育観にとどまっては真の改革にならないとする認識は当然 であろう。 以上の自主的な教育改革への期待は、同文書に一貫したものである。教育改革の基本目 標で示した「原則」において「島国根性を脱し、閉鎖的慣習を破壊することによって知的 交流発展の基礎条件を創出し、知的自発性発展の土着の運動を助長すること」と述べ、慣 習や知的交流、知的自発性といった言わば意識下の部分をも「土着の運動を助長すること」 9 で発展させていくとしている。民主主義、平和主義、国際主義といった理念を形成して いく上でも、条件や環境を整え、地に足をつけた内からの改革が目指されていることに注 目しておきたい。 (2)教科課程の改訂案―「読み書き」・国語科の位置づけー 次に教科課程および教育内容の方針について確認しておこう。H.ローリーによる第一 次草案(1944(昭和 19)年 7 月 11 日)では戦後のカリキュラム改造につながる教科課程 の大幅な改訂は指示されず、各教科の独立が前提となっている。国語科に関するところで は「読み方や書き方」が外国語、数学、自然科学と同様、「事実に関する情報 (factual information)を提供する教科目」に位置づけられ、戦後初期の存続が示されている。改訂 を経た最終案(同年 7 月 15 日:CAC-238 文書)では、国語という教科目としてその存続が 明示されている。 8 カリキュラムから軍国主義を排除するため、教練、修身、国史を廃止すること。た とえ民主主義的なやり方であっても、これら教科目の中で、何かを教えることは、軍政 13 初期の段階では、何の効果もないこと。初期の段階では、国語、数学や自然科学や他国 の文化と歴史を教え、余った時間は、職業訓練やスポーツにふり向けること。(下線は 引用者による。以下断りのない限り同じ) 9(省略)/10 ラジオ、映画等のマスメディアを利用し、 「島国根性」を打破したり、 生徒に世界の歴史や世界観を得させたりすること10。 国語が修身、歴史に比べ穏当な扱いであったのは、読み書きを「事実に関する情報を提供 する教科目」と位置づけた点と関係しているとみてよい。 2 占領教育政策の形成 1944(昭和 19)年 11 月 29 日、第二次世界大戦が終末に近づくにつれ、国務省、陸軍省、 海 軍 省 は 相 互 の 調 整 体 制 の 確 立 を 要 望 さ れ る よ う に な り 、 SWNCC ( State-War-Navy Coordinating Committee )が発足する。 ここで「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」の作成が着手された。同文書は「日本 軍政下の教育制度」に示された基本方針を継承しつつ、より政策的な配慮がなされた内容 として改訂が重ねられていく。1945(昭和 20)年 7 月 19 日案では「国際的安全の脅威と ならぬよう、日本人の再教育と新しい方向について着手することが、日本軍政の機能の一 部として、望ましい」(SWHCC−162/D) 11 と述べ、日本の占領教育が政策的施策の一環に 位置づくものであり、その枠組みにおける民主主義的教育の提案であったことを記述して いる。 同年 7 月 26 日、アメリカ・イギリス・中国は日本政府にむけてポツダム宣言を発する。 同宣言に相応する教育改革案としてボールズによる「降伏後の日本帝国の軍政:軍国主義 を 廃 止 し 民 主 主 義 的 傾 向 を 強 化 す る た め の 方 策 : 教 育 施 策 」( The post-Surrender Military Government of the Japanese Empire :Measures to Abolish Militarism and Strengthen Democratic processes :The Educational System)がある。アメリカの対日教 育政策の集大成とされる文書であり、連合国の最高決定機関である極東委員会に提出され た公式教育政策文書の基本となった。戦後発令される四大教育改革指令の、国家神道指令 を除く三指令の基本原則も提案、修身に替わる公民(Civics)の導入、暫定教科書の編成 等も具体化していた。 日本側はアメリカの予想に反して直ちにポツダム宣言を受諾、以上の占領教育政策は具 体化の段階へと入っていく。 第2節 日本の自主的改革と四大教育改革指令 (1945(昭和 20)年 9 月 15 日)と四大教育改革指 1 「新日本建設ノ教育方針」 令(1945(昭和 20)年 10 月 22 日∼12 月 31 日) (1)「国体ノ護持」と教育勅語擁護の方針 14 1945(昭和 20)年 8 月 15 日の終戦を機に日本側の自主的改革が開始される。文部省に よって最初に公式に発表された戦後教育方針は、1945(昭和 20)年 9 月 15 日の「新日本 建設ノ教育方針」である。終戦後わずか一月の時期に出された正式文書において、日本側 はポツダム宣言第 10 項に基づき、自らの手による軍国的思想の払拭と平和国家の建設を宣 言する。 今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ 軍国的思想及施策ヲ払拭シ 建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ ヲ篤クシ 科学的思想力ヲ養ヒ 平和国家ノ 平和愛好ノ念 智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメントシテ居ル12 続いて、通牒「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」(同年 9 月 20 日)を発令、いわ ゆる「墨塗り教科書」が文部省の手によって出現することになる。 軍国的思想および施策の払拭に日本側は周到な配慮をみせたはずであった。しかしこの 「新日本建設ノ教育方針」はアメリカ国務省から痛烈な批判を浴びることになる。問題と なったのは「国体ノ護持」に象徴される日本側の教育理念そのものであった。アメリカ側 は「国体ノ護持」を「日本の神聖な起源、天皇の神性、天皇の指導下に世界をおく日本の 使命のような観念を含むもの」13にほかならないと理解し、厳しく批判した。それに対し 日本側にとっての「国体」は、平和国家の建設、科学的思想力の養成とともに新しい教育 の基盤となる思想であった。 この「国体ノ護持」をめぐる日米の認識の差異は、国家の教育基盤に何をすえるかとい う重要な問題であった。ここで言う「国体」とは天皇制と教育勅語に象徴される国の形で ある。日本側は戦前の枠組みと価値観を教育の基盤に残しつつ、戦後の新教育を描こうと したと指摘せざるを得ない。それは戦前の日本の教育がまさに「国体」と一体化したもの として構想された歴史的経緯があり、国家における教育の位置づけが「国体」を切り離し てはとらえられないものとなっていたことを裏づけるものでもある。 戦後歴代の文部大臣である前田多門、安部能成、田中耕太郎らも教育勅語を擁護し、新 教育勅語作成を示唆した。前田多門は「新教育方針中央講習会」 (1945(昭和 20)年 10 月 15 日)における訓示において、道義の昂揚はわが国の肇国の精神に発するとした上で、そ の精神に立脚した教育の革新を遂行するためには、改めて教育勅語を謹読することが必要 である 14 と述べた。一時はGHQ側にも天皇制と教育勅語を擁護して占領の遂行に利用すべ きという方針があり、「新教育勅語発布の計画」が検討されていた 15 という。それだけ日 本側の意志が強固であったとみることができよう。 (2)四大教育改革指令にみる公民教育の重視 日本側の「国体ノ護持」に対し、GHQ が新しい教育の柱においたのは公民の養成である。 その教育理念は以下に挙げた教育改革指令においてすでにその萌芽がみてとれる。 第一指令「日本教育制度ニ関スル管理政策」(10 月 22 日) 15 第二指令「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、許可ニ関スル件」(10 月 30 日) 第三指令「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃 止ニ関スル件」(12 月 15 日) 第四指令「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(12 月 31 日) 第一指令において、①軍事教育学科と教練の廃止、②教師の罷免と復職、③教科書の記述 の削除について具体的に指示した上で、 「議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会言 論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践ノ確立ヲ奨励スル コト」と述べ、また「教育アル平和的且ツ責任ヲ重ンズル公民ノ養成ヲ目指ス新シキ新課 目、新教科書、新教師用参考書、新教授用材料ハ出来得ル限リ速カニ準備セラレ現行ノモ ノト代ヘラルベキコト」 16 とし、「公民養成ヲ目指ス新課目」の準備が教科書、教師用参 考書、教材に至るまで「速カニ」準備されることが指示された。さらに第四指令の附則B には、停止が指示された修身、国史、地理に替わる「代行計画」が次のように示された。 当該代行計画ハ本覚書ニヨリ停止サレタル課目ノ再開ヲ当司令部ガ許可スベキ時期マ デ続イテ実施セラルベキモノトス 当計画ハ社会、経済、政治ノ根本的ナル真相ヲ被教育 者ノ世界及ビ生活ニ関連セシメツツ提示スルコトヲ目的トスベシ 提供資料ニモ立脚シ教室内討論ニ依リ教ヘラルベキコト ニ関連セシムルモノトス 是等真相ハ当司令部 出来得ル限リ討論ハ時事問題 17 ここに GHQ 側の公民養成に関する基本的な考え方をみてとることができよう。時事問題 を取り上げ教室で討論させるという方針は、教育方法としての討論法の提示であり、教育 内容としての社会、経済、政治の「根本的ナル真相」の提示である。そこでは「被教育者 ノ世界及び生活ニ関連セシメツツ提示スルコト」が目的とされ、学習者の世界や生活と関 連させる教育方法もまた同時に示されている。戦後初の公式文書による経験主義教育観の 導入と位置づけてよい。後述するように、同時期、日本側による公民教育への動きも本格 化し、そこで作成される「公民教師用書」が CIE との折衝の過程で歴史、地理、他教科を 総合した社会科の新設につながっていく。 教育に関する四大教育改革指令は、日本側の自主的改革への懲罰的性格を有するもの18 として発令されたが、①「国体護持」にかわる「公民養成」という教育理念、②新課目と しての「公民」、③新しい教育内容・教育方法をもまた提示したとみなすことができよう。 四大教育改革指令はいずれも新聞報道され、各学校へ通牒として発令された。新しい教育 の目指すべき方向性は文部省内外の自主的な改革の動きを加速化させていく。 2 自主的な教育改革の動き 日本側の自主的な教育改革の動きとして、①文部省内への「公民教育刷新委員会」の設 置(1945(昭和 20)年 11 月 1 日)、②教育現場や自由主義的知識人による教育改革の提唱 16 があった。 (1)「公民刷新委員会」 1945(昭和 20)年 10 月の第一教育改革指令の直後、文部省内に「公民教育刷新委員会」 が設置される。委員には東京帝国大学教授戸田貞三、和辻哲郎、文部省学校教育局長のち に文部大臣となる田中耕太郎、同教科書局長有光次郎、同教学官玖村敏雄、同図書監修官 勝田守一、さらに戦前にヴァージニア・プランを紹介した宗像誠也が加わった。 同委員会は「公民教育刷新ニ関スル答申第一号」(1945(昭和 20)年 12 月 22 日)、「同 第二号」 (同月 29 日)を提出する。 「第一号答申」は戦前の公民科を復活させ、修身を公民 科の中に統合することを提唱し、その目標は「公民教育ハ総テノ人ガ家族生活・社会生活・ 国家生活ニに於テ行ツテヰル共同生活ノヨキ構成者タルニ必要ナル智識技能ノ啓発トソレ ニ必須ナル性格ノ育成ヲ目標トスベキデアル」 19 と示した。「第二号答申」では、学校教 育における公民教育に範囲を限定して、その方向性と内容・方法に言及した。 両答申は公表されなかったが、その内容は「日米の差は逆転した」20とも言われるほど に高く評価されている。その要因として、戦前の公民教育の遺産と、委員である社会科学 者の適切な分析があった。そこでは、①教授要目は大綱だけ示して教師と生徒の自発性に まかせる、②社会態勢そのものを民主主義化し、社会を実践的に変革していく主体を形成 する、といった斬新な内容が提唱されたのである。 ただ後年勝田守一が指摘しているように、同答申は教育勅語の立場を遵守するという点 は払拭されていなかった21という。公民教育の内実をどのように構想するか。前田文相は 1945(昭和 20)年 10 月の座談会において、公民科の復活とともに民主主義は天皇制に対 立する概念ではなく日本の国体と矛盾するものではないと述べた。当時の識者においても、 公民、民主化といった内実をいかにとらえるかは定義の分かれるところであった。 (2)教育現場における自主的な改革 四大教育改革指令に呼応するように、民主的な教育のあり方を模索しようとする動きが 教育現場において始まる。三教科目の停止指令に示された討議法を使い、公民的な題材や 討論放送などを取り上げた実践が各地で行われた。1946(昭和 21)年 1 月、東京第三師範 附属小学校は公民科を開始、児童向けの学校放送「今日の問題」を利用し、時事問題につ いての討議学習を実践した22。同時期、討議法についての啓蒙的な著書や論文も次々に刊 行されている23。 他方、自主的な研究会も発足、その中に民主主義教育研究会がある。1946(昭和 21)年 4月に発足、7月には教育雑誌『明かるい学校』を発刊する。第1号は巻頭に「日本教育 の反省―羽仁五郎氏をかこんで」を掲載、実践に低・中・高学年のページを割き「初一・ 二の実際指導」(今井誉次郎)、「Leaning by doing」(大津鉄郎)、「学級委員会をつくれ」 (朝倉秀雄)を発表した。今井誉次郎は「社会の観察」と合科教育を提唱、大津鉄郎は進 歩的教育方法としてデューイを紹介、 「日本の敗戦はいよいよまたわれわれに新教育の機運 をもたらして来た」と述べた。分団学習、問題法、学習の経過の重視、学級の民主化とい 17 った新教育に関する具体的な記述がみえ、戦前からの新教育の遺産が復活した機運がみて とれる。 同第 4 号(1946(昭和 21)年 9 月)では「特集 あたらしい学校経営と教育実践」と題 し、7 月 7 日に実施された東京都四谷第六小学校石橋勝治の公開授業に関する記述を掲載 している。紙面には研究協議会記録、文部省の重松鷹康の講演、石橋の署名による「社会 科実践記録『郵便局』」が並ぶ。石橋は研究協議会で次のような発言をしている。 ・ ここで教材を教えることだけが主ではなく、その生活態度、社会人としていかに行 動し生きるかの認識と力を樹立し、自由な人間としての資質を持つた生き方をそだ てあげることが主点である。 ・ 算数、理科、国語などは、新教育の方法によつてこそ本当に力がつくのである。 ・ 子供が、問題を発見し、自分の問題として意識的にとり上げ、研究の対象とする。 −これを問題が構成されたと呼ぶのであるが、この問題を解決するために子供がい ろいろな方法を見出し、つくり、調査し、討論する。また、室の中にいろいろなも のを作つたり、再現したりする。子供は問題を中心として生活する。これが生活構 成であつて、この中にいかに生活を打ち建て生きるかの問題が解決されていく。24 以上は、後に成立が決定する社会科が目指した方向性であり、その施策に先んじて新教育 を具現化する教育実践が試行されていた。先に触れた東京第三師範附属小の実践は、社会 科創設の過程において優れた実践例として文部省および CIE に提案された。四大教育改革 指令の発令は、教育現場の自主的実践の契機となり、それを支えたのは戦前の生活綴り方 や自由主義教育観を体得した教師たちである。 第3節 「第一次アメリカ教育使節団報告書」(1946(昭和 21)年 3 月 31 日)と 「新教育指針」(1946(昭和 21)年 5 月 15 日) 教育改革の針路をどのように具体化するのか。 「第一次アメリカ教育使節団報告書」、 「新 教育指針」はその点を日米が詳述した文書であった。 1 「第一次アメリカ教育使節団報告書」 1946(昭和 21)年3月、「第一次アメリカ教育使節団報告書」が完成する。使節団の人 選は国務省の G・ボールズが行い、当時イリノイ大学総長に就任したばかりであった J・ス タッダード団長ら 27 名らを選出、その中には教育による社会改造をとなえてデューイ左派 と称された G・S・カウンツ、著名なエッセンシャリストであった I・L・キャンデルら気鋭 の教育学者が加わっていた。 (1)報告書の基本的立場 報告書は「序論」の他、全6章から構成されている。 (第1章「日本の教育の目的と内容」 /第2章「国語改革」/第3章「初等及び中等学校の教育行政」/第4章「教育方法と教 18 員養成」/第5章「成人教育」/第6章「高等教育」) 報告書は日本のそれまでの中央集権的な国家制度、特権者のための学校制度、画一的な カリキュラムを批判し、新しい教育は「個人の価値と尊厳」を尊重し、個人のもつ能力を 最大限に伸ばすことを基本的な原理としなければならない25と述べた。さらに報告書は教 師と子どもについて次のように述べる。 教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ十分に現はされる。この空気をつく り出すことが行政官の仕事なのであつて、その反対の空気をつくることではない。子供の 持つはかり知れない資質は、自由主義といふ日光の下においてのみ豊かな実を結ぶもので ある。この自由主義の光を与へることが教師の仕事なのであつて、その反対のものを与へ ることではない。26 以上は個人主義的・自由主義的な教育哲学の提唱であり、デューイらによる新教育の思想 の本格的な導入である。 各章では、民主社会の実現のために「民主的市民」の育成、自由なカリキュラム編成と 教材選択の自主性、地方行政の責任と教育委員会制度の創設、単線型男女共学の採用、子 どもの経験の重視と画一主義的な教育方法の打破等が示唆された。教育改革の問題はイデ オロギーのみに起因するのではないことを示し、教育理論や教育のシステムの面でも根本 的な改革が必要とする立場に立つものであった。 (2)カリキュラムの編成 内容面で特に注目しておきたいのは、カリキュラムの編成は教師にあり、教科書作成に も教師が携わるべきことを認めたことである。これは戦前の教育体制に比して画期的な指 摘であった。報告書は、思考、伝達、及び批判の自由に基づいた公民資格という点を繰り 返し述べ、思考や批判の自由と公民資格とは同一のものであることを主張する。教師にカ リキュラム作成の自由が保障されたことは、教師自身が民主的な態度と批判的な思考力を 有することが前提となっているとみるべきであろう。 このように、カリキュラムや教育方法に関して報告書は進歩的な自由主義理論を基本と している。しかしながら実際の記述では記憶の学習や教師による直接教授を軽視せず、従 来の教科独立型カリキュラムについても完全には否定していない。むしろ「学校経営の或 る部分については、教師が直接に教育する仕方をとるべきであり、また、学習状態を管理 することが必要である」27と述べ、管理の必要性にも言及している。 また、報告書は、社会生活の実際に即した知識や活動を子どもの興味に基づいた生活経 験として構成していく生活カリキュラムを推奨しつつも、そのようなカリキュラムの生活 化をすべての教科に広げることを勧めてはいない。国語科に関しても「国語の改革」には 触れているが、カリキュラム上の示唆は認められない。以上の点について磯田一雄は次の ように述べている。 19 使節団報告書は「公民教育」の領域ではその生活カリキュラム化の実例を紹介しつつ解 いているが、その他の領域についてはカリキュラム改革の一般原理を説きつつも必ずしも 従来のカリキュラムの性格を根本的に否定しようとしてはいないといえる。/一方、同報 告書はカリキュラムの客観的側面としての文化の体系自身については、とくに何もふれな い。ただ日本の文化伝統について、それを「分析」することが、「日本の教育活動にたず さはってゐるどの人にも課せられてゐる仕事」であると指摘しているにすぎない。28 磯田は、カリキュラムの根本的な改革に関しては報告書は「中途半端なものたらしめるこ とになった」と分析している。しかし視点を変えれば、カリキュラムの編成については日 本側にある程度の選択肢が残されたとみなすことができる。ここで指摘されている客観的 側面としての日本の文化・伝統の分析も日本の教育活動に携わるものに「課せられ」た仕 事であると把握できる。先に示された、教師にカリキュラム編成の自由が保障された点と 考え合わせれば、教育行政や教師自身にその点が任せられたともいえよう。 2 「新教育指針」 一方「新教育指針」はCIEの指導下にはあったが、日本側の手により作成された教師用 のガイドブックである。四大教育改革指令に関係して、第 1 部は新教育に関する一般的な 方針と教師の心構えを示し、第2部は停止された修身・歴史・地理の代行企画を示す予定 であった。実際には 1946(昭和 21)年 5 月から翌 47(昭和 22)年 2 月までの間に5分冊 として発行され、それぞれ 30 万部が全国の訓導や教諭、師範学校生徒に配布された。教 育現場に与えた影響は大きく、GHQ/SQAPに提出されたのみであった「第一次アメリカ教育 使節団報告書」を圧倒していた29。 第 1 部「新日本建設の根本問題」「新日本教育の重点」と第2部「新教育の方法」では 新しい教育理念、教育目的、教育内容の編成について述べている。その中では、使節団報 告書が示した教師の自主的なカリキュラム編成という点を忠実に踏襲した立場がみてと れる。 ここに盛られてゐる内容を、教育者におしつけようとするものではない。したがって、教 育者はこれを教科書としておぼえこむ必要もなく、また生徒に教科書として教へる必要も ない。むしろ教育者が、これを手がかりとして、自由に考へ、ひ判しつつ、自ら新教育の 目あてを見出し、重点をとらへ、方法を工夫せられることを期待する。あるひは本書を共 同研究の材料とし、自由に論議して、一そう適切な教育指針をつくれるならば、それは何 よりも望ましいことである30。 しかしこの「新教育指針」は戦後新教育の方向性を生活教育の推進に大きく舵取りをし 20 た文書でもあった。それはカリキュラムの生活化を学校教育全体にまで広げ、それを民主 主義に対する態度であり「生活のし方」であると述べたことである。 同文書は「つねに児童の生活に結びつけ、生活を通して、生活の中から体得させるやう にすべきである。それには、学校内のすべての生活が、民主主義的な方法で行はれること が根本の条件である」31とし、教科外の活動や、学習における教材の選択においても「児 童の生活と興味に即」すという生活化への推進を明示した。そこでは記憶や直接教授とい った従来の教授法、あるいは日本の伝統や文化といった分析すべき文化の系統性には触れ ていない。また、すでに公民教育刷新委員会等が答申を提出した公民科の教育内容や、い ち早く文部省が打ち出した科学教育の内実の吟味にも取り組んでいない。むしろデューイ の「Learning by doing」の原理に基づき、教育内容に関しては生活化、教育方法として の子ども中心主義に傾斜している。 ここには「新教育指針」作成の中心となった石山脩平の教育観の反映が指摘されている。 それは、戦前の国民学校の教育課程理念を通じて伝えられた生活教育思想の反映32である。 結局、戦前戦後の継承性が日本側によって強調されていくわけであるが、この要因の一つ として「第一次アメリカ教育使節団報告書」と前後して作成された日本教育家委員会の報 告書の内実がある。同報告書は、教科ないし教科課程については「実質的な内容そのもの を捨象したきわめて形式的な取扱い方」33をしたに過ぎず、児童の認識の発展に即した知 育的な教育ではなく、生活活動の教育への転換を志向した。 このように、日本側の手による報告書及び指針において何を教えるべきかという点が捨 象され、教育方法への傾斜という傾向が生じていた。教育内容および教科内容の何を批判 し、何を修正しなければならないのか。正式文書による十分な議論を経ずに、具体的な教 科領域における施策の具体化に移っていった状況がみてとれる。 第4節 戦後新教育の出発―教育内容・教育方法の模索― アメリカ側・GHQ 側の教育改革施策にはその基調に日本側の内なる主体的改革を臨む姿 勢があった。戦前の「日本軍政下の教育制度」では土着の運動から民主主義理念を啓蒙し ようと試案し、 「第一次アメリカ教育使節団報告書」はカリキュラムには何よりも教師の認 識や選択が反映されるべきであると主張した。それは教育方法の枠組みにとどまらず日本 の文化や伝統をも視野に入れた教育内容そのものの選択でもあった。 一方、日本側は科学教育や公民教育の刷新をいち早く提唱、自主的な改革の気運は文部 省にも教育現場にも高まっていた。特に教育現場においては、GHQ による三教科停止の教 育指令に呼応するように、戦前の生活綴り方運動、自由主義教育に携わった実践家が討議 法、公民や社会科の実践に着手していった。この点を戦後新教育における経験主義教育の 導入と摂取として位置づけてよい。 その後の日本側による教育施策や文書においては、「国体」や教育勅語にかわる教育の 基本像を描ききれないまま、教育改革が教育方法の一新に傾斜していった側面は否めない。 21 「新教育指針」は学校教育全体におけるカリキュラムの生活化を提唱、公民教育や科学教 育の内実、教科や教育内容の系統性の問題は各教科における施策の段階に委ねられた。 終戦直後の日本人にとって「国体」や教育勅語は教育の基盤であり、日本文化や伝統と 区別して扱えるものではなかったという指摘もある。四大教育改革指令から開始された修 身教科書や雑誌の検閲の実態から「愛国心や伝統文化につながるものを『超国家主義』 『軍 国主義』の名の下に否定したのが、占領下検閲であった」とし、 「日本人の潜在意識の奥深 くにまで、自国の伝統文化に対する自信喪失、罪悪感が浸透」 34 したという分析がある。 事実、日本側が中心となった文書には共通して教科内容や自国の文化への言及がなされて いない。根幹となる教育基盤は「民主主義」 「自由主義」であるという認識が教育内容の捨 象という現象を生じさせた側面があったと推察される。 「第一次アメリカ教育使節団報告書」には次のような記述がある。当時の日本の状況と ともにアメリカ側の認識を端的に示していよう。 彼等(日本人:注は引用者による)は「自由主義」「デモクラシー」「科学」「ヒューマ ニズム」等のことばを知ってはいるが、必ずしもその基本的な意味を感得していないし、 またこれを完成するための苦しい道を切り開けないかもしれないということを、率直に、 述べている。35 しかし報告書は続けて「もし我々が、日本の民主主義的可能性に信を置かず、彼等が健全 な文化を再建する能力のあることを信じなかったら、我々はこの国にやって来なかったで あろうから」と述べ、教育の根幹に何をおくのか、またその概念は教育の実践において具 体的にどのような意味をもつのか、日本人自身による教育理念や教育内容への反省と探求 を期待している。 教育改革は具体的な教育施策の段階へと移行していく。修身、国史、地理に替わる新教 科の構想であり、国語教育改革においては墨塗り教科書の指示、暫定教科書の編纂、新教 科書の作成であった。そこで教育理念や教育内容の認識が改めて問われることになる。 1 「日本の教育・その全般的背景,Education in Japan : General Background」(1943.11.30)、「日本の 教育:日本の教育課程と教育方法、Education in Japan : Curriculum and Pedagogical method 」 (1944.1.10)、 「日本の行政・文部省, Japanese Administration : Department of Education」(1944.3.6)、 「日本・第 15 項・文部省, Japan , Section 15 : Education.M354-15」民事ハンドブック(Civil Affairs Handbook)(1944.6.23)がある。鈴木英一『日本占領と教育改革』 1983(昭和 58)年 勁草書房P.P.5 ∼11 2 久保義三『対日占領政策と戦後教育改革』三省堂 1984(昭和 59)年 8 月 P.37 3 竹前栄一『占領教育史』 岩波現代文庫 学術 86 岩波書店 P.P.348-349 4 片上宗二『日本社会科成立史研究』風間書房 1993(平成 5)年 4 月 P.59 5 鈴木英一前掲書 原文は国会図書館現代政治史資料室所蔵「 State departments of the Post-War Programs Committee,1944 RG 59,T-1222 4 rolls, The Records of Harley A. Notter, (Notter File). NAUS.State Departments of the Interdivisional Country and RArea Committee,1943-1946,RG 59,T-1221,& rolls,NAUS.(Notter File) 」 6 久保義三前掲書P.34 CAC-238, 15 July 1944. Japan: The Education System under Military 22 Government. 吉田裕久(『戦後初期国語教科書史研究』風間書房 2001(平成 13)年)によれば、国語教科書につい ては修身教科書と同様に大正期教科書への回帰が位置づけられたという指摘もあるが、実際にはその記 述は認められないと指摘している。P.P.17−18 8 片上宗二前掲書P.54 Minutes of the Inter-Divisional Area Committee on the Far East, Meeting No.102,July 13 1944. 9 片上宗二前掲書P.P.54-56 10 片上宗二前掲書P.P.54-56 11 鈴木英一前掲書 P.24 12 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編『戦後日本教育史料集成 第一巻』三一書房 1982(昭和 57) 年 P.122 13 「日本の戦後教育政策」(Japanese Postwar Education Police)(引用は鈴木英一前掲書によるP.63) 14 「新教育方針中央講習会における前田文部大臣訓示」文部大臣官房文書課輯『終戦教育事務処理提要』 第一輯 1945(昭和 20)年 P.78 15 久保義三『昭和教育史 下』三一書房 1994(平成6)年 12 月 P.P.73 16 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 1982(昭和 57)年P.34 17 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 P.P.43-44 「京都勅語草案」に関しては鈴木英一 前掲書(P.P.108-126)に詳述されている。 18 高橋史朗『占領下の教育改革と検閲―まぼろしの歴史教科書―』日本教育新聞社 1987(昭和 62)年 1 月 P.72 19 勝田守一「戦後教育と社会科」『勝田守一著作集』第一巻 国土社P.21 20 片上宗二前掲書P.179 21 勝田守一前掲書P.28 22 室田昴・染田屋謙相『討議法』同学社 1946(昭和 21)年P.P.105-113 23 勝田守一「討議法に就いて」『文部時報』828 号 1946(昭和 21)年 増田勲「討議法の新しい意義と 方法」『学習研究』第一巻第二号 1946(昭和 21)年 大津鉄郎「ディスカッションの問題『明かるい学 校』二号 1946(昭和 21)年 24 日本民間教育団体連絡会(明かるい学校・あかるい教育復刻編集委員会)『明かるい学校・あかるい 教育Ⅰ』教育史料出版会 1979(昭和 54)年 6 月 P.P.6-8 25 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 P.89 26 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 P.87 27 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 P.102 28 海後宗臣監修 肥田野直・稲垣忠彦編著『戦後日本の教育改革 第六巻 教育課程総論』東京大学出 版会 1971(昭和 46)年 執筆は磯田一雄による「第三章」P.123 29 磯田一雄前掲論文P.136 30 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 P.P.130-131 31 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 P.193 32 磯田一雄前掲論文P,140 33 磯田一雄前掲論文P.P.127∼128 34 高橋史朗前掲書P.103 35 「戦後日本教育史料集成」編集委員会編前掲書 P.87 7 23
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