BN2015サハリン逍遥

2000年2月、ユジノサハリンスク空港
写真・文
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片山通夫
1945年8月、ソ連(当時)が日本領・樺太とソ
連領・北樺太との境界を越えて進撃し日本は敗退した。
当時5万人とも6万人ともいわれる植民地朝鮮の出身
者が樺太にいた。いわゆる残留朝鮮人である。ソ連と
韓国の間には長い間国交がなかった。日本も樺太に残
留していた30万人もの日本人の帰国はそれんと交渉
したが、朝鮮人に関しては全く交渉しなかった。
そして半世紀以上が過ぎて2000年2月、ソ連邦
の崩壊を経て、日本と韓国の赤十字社などの尽力で、
残留朝鮮人は韓国へ帰国出来ることになった。
写真は2000年2月ユジノサハリンスク空港で別れを惜しむ祖母と孫
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ユジノサハリンスク駅近くで
しかし諸般の事情で帰国をためらった人たちもいた。
その事情は人によってまちまちなのは当然だ。
病気の家族を抱えている。
配偶者(二人1組でないと帰国できない)がいない。
家族と別れることができない。
などが帰国できない理由だった。
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帰らなかった人々、 若しくは 帰れなかった人々
戦後70年という長い月日が経った。帰国出来た人
もできなかった人も相当な年齢になった。年月という
ものは人間にとって非情なものだ。
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