SURE: Shizuoka University REpository http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/ Title Author(s) Citation Issue Date URL Version IC-1 登呂の時代の生態 : 森と水田の生態 (『人間と地球環 境』プロジェクトメンバー研究中間報告 : 環境変動と生 態系・人間(生活)への影響) 佐藤, 洋一郎 静岡大学学内特別研究報告. 1, p. 42-43 1999-06 http://doi.org/10.14945/00008229 publisher Rights This document is downloaded at: 2015-04-20T15:49:25Z C-1 登呂 の 時代 の生態 一森 と水 田 の 生態 ― 農学部 佐藤 洋 一郎 研究 の概要 一 般 に、昔 の 出来事 を研究す るのは歴史学 の 仕事 である。そ して記録 のな い時代 の 出来事 を 研究 す るのは考古学 の 仕事 とされて きた。 だが 最近 にな り、 いくつ もの学問分野 を総合 した い わ ゆ る学際研究 が さか んに行わ れ るようにな り つつある。記録 のなか つた時代 ので きごとにつ いて も、 自然科学 を含 めた多 くの研究分野 との 共同研究 が進んで きた ことで、今 までには分 か らなか つた新事実 が相次 いで発見 され るように な ってきた 。 私 はも ともと植物 の遺伝学 を専攻 し、植物 の DNA(デ オキ シ リボ核酸)を 分子遺伝学的 に解 析す る研究 を行 つて きた。あ るとき、 この技術 を、発掘 され る植物 の遺体 に適用 す る ことを考 ぇつ いた。幸 い遺跡 か ら発掘 され る遺体 には分 析可能 なDNAが わず かなが ら残 されて いる。 こ れ らか らDNAを 回収 し、PCR法 (ポ リメラーゼ 連鎖 反応)と いう方法 で増幅 して分析す れば、 当時 の植 生や栽培種 の種名、さ らには品種 の様 子な どを明 らか にす る ことがで きると期待 され る。 これが私 の基本的 なアイデ アであ つた。 私 はまず 、登 呂の 時代 のいくつかの遺跡 か ら 出土 した植物 の遺体 か らDNAを とり、以下 に述 べ るような分析 を行 つた。 1.水 田の景観 当時 の景観 はどのよ うなものだ ったのだろう か。そ の生息地で あつた水田の生態 やその景観 も、今 と昔では大 き く違 つて い た と考え られ る。よ く博物館な どに展示され て いるジオラマ には、弥生時代 の 水 田の風景な どが展示 されて いるが、それ らは どこまで当時 の風 景 に忠実で あろうか。結論 か らい うと、現在 のジオラマは あま りに水田の部分 が広す ぎて、周囲 にあった であろう森や空 き地 が少なす ぎるよ うである。 1995年 春 、静岡市 の郊外 にある曲金北遺跡 か ら1万 枚 に及ぶ水 田 のあとが見 つか つた。 1枚 あた りの区画面積が数平方 メー トル とい う典型 的な 小区画水 田で あつた。ほ とん どの水田面 か -42- らは稲 の葉 に蓄積 したケイ酸 の塊 ―プラン トオ パール ーが 出た ため、最初 はそ の 1万 枚 の 全体 が水田であ つた と考 え られ た。 しか しそれ だけ の面積 の水 田 を誰 が耕 し田植 え し草 をとった の だろうか 。 こ うい う疑間が 生 じたため、私 は、 そ の 1万 枚 の 中か らラ ンダム に選 んだ 100枚 の水 田面か ら雑 草 の種子 を取 り出 して生態 系 の 復元 を試み た。 プラン トオパールはケ イ酸 の 塊 で あって 化学 的 、物理的 、生物的 に安定 で、千 年 の単位 で土 壌中 に残 る。 したがつて プ ラ ン トオパール のデ ー タは積算的 で、過去 の土地 使用 の平均 を示す 傾向がある。 一 方種子 は耕作 中 に分解 され てな くなるため、廃絶 の直前 の 1、 2年 の生態 を反 映す る。 出土 した雑草 の種類 の 同定 は、種子 の形態 と、必要な場合 にはDNA分 析 によった。 雑草種 子 の多 い 区画 は一箇所 に 固 まる傾向があ り、 し か もそ うい う区画 ではさまざ まな種類 の雑 草 が 生息す る傾向 にあった。 またそ の数 は水 田中 の 雑草 と言 うにはあ ま りに 多 か った。例えば ある 区画 ではタデ の種子が 1平 方 メー トル あた り 40000個 に達す るケー ス も見 られたが、 これは 個体数 に換算す ると 1平 方 メー トルあた り60か ら120株 とな り、区画全体 が タデで覆われて い た とさえ考 え られる密度 で ある。 一 方、そ こか ら少 し離 れ た区画群 では 雑 草種子 は現在 の 水田 よ りやや 多 い程度 に しか 出土 して いなか つた。 こうした ことか ら、私 は、少な くとも曲金北遺 跡 では、廃絶 の直前 に、 稲 を栽培 して い た 区画 とそ うでな い区画 があつた もの と考 えた。 彼 らがなぜ 、稲作 を行 つた区画 と行わなかっ た区画 とを作 ったかは不明 で ある。ただ 、 遺跡 の廃絶 の 寸前 に稲作 が 行 われて いなか った 区画 で も、それ以前 の ある時期 には稲作 が行 われて いた ことは、プラン トオ パールのデ ー タか らみ て明 らかで ある。 おそ らく、彼 らの農法 には、焼畑 の よ うな、 栽培 一体耕 の繰 り返 しの システムが あった ので あろう。 当時 の稲作 は、 現 在 のそれ よ りは るか に雑多な環境で行 われて いた と考 え られ る。 4。 今後 の研 究 DNA分 析 は、理 論的 には古代の植生や 農業生 2.多 様だった昔 の品種 大昔の品種が今 の品種 と最 も違 うのは集団内 にお ける多様性で あると思われ る。現在 の水 田 で は、同 じ区画 中 に 2種 類以 上の 品種 を しか も 混 ぜて植 える ことはまれであるが、稲が 日本 に 渡来 して以後明治時代 に至るまで、実 に雑多 な ものが 混 ざっていたよ うである。現 在 のわれわ れ の感覚で言え ば、 複数 の品種 が 混 ざっている の と同 じ状況 とみて いいであろ う。 この こ とは、出土 した種子 の 大 きさや形のば らつ きか らある程度よみ とる ことができ る。 今 、 このば らつ きの大きさを米粒 の 長 さの標準 偏差 で表わす として、縦軸 を この ば らつ きの大 きさ、横軸 を年代 とす るグラフを描 いてみよ う。す るとば らつきの大きさは時代 をさかのぼ るほ ど大きかった ことがわか る。 もっとも、ば らつ きの大きさは 同 じ時代で も遺跡 によって 異 な っている。各時代 のば らつきの 最大地 が、時 間 とともに小 さくな った とい うべ きであろう。 ば らつきの最大値 はどれ くらいであったか。 これ を感覚的 に捉え られるよ うにす るため、 日 本各地 の在来品種 100品 種 の種子 を等量ず つ混 ぜて 作 った擬似集 団 のば らつ きの大 きさを求め た。 弥 生時代 の炭化米 の集団 の 中 には、 図中に 矢印で示 したその値 を超える もの もい くつ か知 られ、当時の稲品種 がかな り大 きな多様性 を維 持 して いた ことが 想像 され る。 ちなみ に この擬 似集 団 の種子 をまいて栽培 してみた ところ、 図 Xの よ うな状態 になった。対照 に示 した現在 の 水 田 と較べればいか にば らつきの程 度 が大き か ったか、容易 に想像がつ くで あろ う。 3.森 はあったか 登 呂 の時代、静岡は平野 も山岳部 も、 まだ深 い森 に覆 われていた と考え られ る。 ここは西の 照葉樹林帯 と東の落葉広葉樹林帯 との境 目にあ た る (安 田Ъ 1980)。 おそ らく平地 には、カ シ、 シイ 、クスな どを中心 とす る照 葉樹林が広 が り、標高の高 い山 岳部 では落葉広葉樹 の森が 広が っていた ことだ ろう。 ただ し静岡平野 の特殊性 として 特記す べ き点 は、 ここが 照葉樹 の森 に覆われなが ら、 同時 に 多量 の スギを有す る地域であ った とい う点であ る。静 岡平野は、スギが照葉樹 と混交す るとい う状態 に あった もの と思われ る。 -43- 態系の復元 に極めて有効な方法 と考え られ る が、それが 力 を発揮するため には ク リアす べ き 条件が 1つ ある。 それは、 当該 の植物種 の現存す る材 料 につ い て充分な DNAの デ ー タが 保存 されて い る こ とで ある。種や 品種 の判定 は、少な くとも現段 階で は現 存系統 の DNA標 本 と遺 体 か ら得 られ た DNAと の 比較 とい う形 をと らざるをえ な い。 し たが つて現 存 系統 の デー タの 量が分析の精 度 を 決めるの は止 む を得な い。 この 条件が満た され た上で、 い ろ い ろな 場所 のい ろ い ろな時代 の遺 跡か らの遺物 を分析するとい う、気 の遠 くなる よ うな作業が待 ち構えている。
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