神秘−92 十字架の下の闇と光 19:23−27

 信仰の神秘−92 「完全な家族」 2015.4.19
ヨハネ 19:23-27、エフェソ 2:11-22、申命記 16:9-12
23
兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に
一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下ま
で一枚織りであった。24 そこで、
「これは裂かないで、だれのもになるか、くじ引きで
決めよう」と話し合った。それは、
「彼らはわたしの服を分け合い、
わたしの衣服のことでくじを引いた」
という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
25
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラの
マリアとが立っていた。26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 27 それから弟子に言われた。
「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引
き取った。
Ⅰ. 神の家族の時
きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はヨハネ福音書
19章22節以下です。ここには「ナザレのイエス」が「ユダヤ人の王」として十字架に上げられた、その
十字架の下で繰り広げられた二つの物語が伝えられています。四人の兵士たちによる主イエスの衣服の分配
と、主イエスの愛弟子が主イエスの母を家に引き取るという物語です。
主イエスの着衣を兵士たちが分け合ったという話は共観福音書にもありますが、愛弟子が主イエスの母を
自分の家に引き取ったという話はヨハネにしかありません。そもそも囚人の関係者が、十字架刑という極刑
に処せられた囚人の側近くに立つことが出来たのでしょうか。共観福音書では、婦人たちは「遠くから見守
っていた」(マルコ 15:40) とあります。しかもその婦人たちの中に主イエスの母マリアの姿はないのです。
共観福音書でわたしたちがマリアの姿を最後に目撃するのは、郷里ガリラヤで主イエスの評判が広まり、
大勢の群衆が押しよせ、食事をする暇もないほどになったときです。「身内の者たちはこの事を聞いて、イ
エスを取押えに出てきた」のです。
「この事を聞いて」とは、
「あの男は気が変になっている(狂っている)」
という評判です。イエスの母と兄弟たちが来て外に立っていると、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、
姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と知らせる者がいました。すると主イエスはご自分を取り囲
んで座っている人々を見回し、まことに衝撃的な事を話されたのです。
「ごらんなさい、ここにわたしの母、
わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マ
ルコ 3:20 以下)。主イエスは血肉を超えた家族を指し示されたのです。
共観福音書では、ここでマリアは姿を消し、その後わたしたちがマリアの姿を目撃することはありません。
そうであるのにヨハネ福音書では、マリアは主イエスの公生涯の頂点、十字架刑の場面でその姿を現わすの
です。ある研究者は、歴史性を主張しえないこの場面は間違いなく象徴的な意味をもっている (ブルトマン)
と言います。 ヨハネはこの象徴的な物語で何を描いたのでしょうか。これとの関連で注目したいのは、カナの婚礼で交
わされた主イエスと母マリアとの会話です。婚礼の途中でぶどう酒が足りなくなったことを告げた母に、息
子イエスは、まことに厳粛な態度でこう言われたのです。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。
1
..............
わたしの時はまだ来ていません 。」
わたしは、この象徴的な物語を読み解く鍵がここにあると考えています。どういうことかと言えば、あの
とき主イエスが母に言われた、「わたしの時はまだ来ていません」の「わたしの時」が、今まさに来た!の
です。人の子は十字架に上げられた!のです。救いの時が始まったのです。今まさに始まっているのです。
ヨハネはここで、全く新しいことの到来に対する驚きの感情、神の新しい時の中に置かれているという感情
の高揚が表現しているのではないのか。そもそも〈婚礼〉は、古くから救いの時を示すのによく用いられた
比喩の一つです。今まさに、イエスの時が来たのです。
主イエスが十字架上から発した言葉、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「見なさい。あなたの母
です」は、主イエスの時が来たこと、即ち神の救済行為の全く新しい地平が開ける始まりに人々が置かれて
いるという圧倒的な自覚を表現しているのです。それは、ヨハネがロゴス賛歌で語った「彼を受け入れた者、
すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによら
ず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれた」(1:12-13) 神の家族が誕生した瞬
間です。
Ⅱ. ぬけがら家族
「ナザレのイエス」が「ユダヤ人の王」として十字架に上げられる時、それは「すべての人を自分のもと
へ引き寄せ」
(12:32)て神の家族とする時である! この溢れんばかりの喜び、終末論的な喜びを黙想してい
たとき、心を過る言葉がありました。それは〈フロイトの予言〉と言われているものです。フロイトは『文
化とその不安』でこんなことを言っています。「人間の心理的エネルギーには限界があり、それをどうふり
わけるかで、最も古い共同体の『家族』と、その後にうまれた文化的共同体である『社会』との間で対立が
うまれ、しだいに激しさをましている」と。そしてフロイトはいいます。 かつて、家族は唯一の共同体であった。しかし今、産業社会が力を増している。それは、家族よりも強力
な存在となるであろう。家族は今、崩壊の途にある。 まず、若者たちが家族の束縛から逃れようとしている。 男たちも、家族以外の集団に依存しなければ生きてゆけなくなり、それだけ夫や父親としての任務から遠
ざかりかねない。 とり残された女たちは、その変化に不安と敵意を抱いている。やがて女たちも家庭の外に目を向け、妻と
して母親としての任務から遠ざかりかねなくなる。 そのとき、家族はぬけがらとなるであろう―― わたしたち現代人はなんと貧弱な家族の時代を生きていることか。主イエスが十字架上で語られた言葉、
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、
「見なさい。あなたの母です」は、わたしたちが今、現に生きて
いる、ぬけがらとなった家族の時代の光ではないでしょうか。御言に聞いて、光を見たいと思います。光を
見て、この世の闇に輝く光になりたいと思います。 ヨハネがここで描いているのは、十字架の下に立つ家族の物語である、とは、どういうことでしょうか。
この物語は、四人の兵士による主イエスの着衣の分配の記事と、主イエスが十字架上で、「わたしは渇く」
と言われた記事の間に置かれています。
四人の兵士たちが主イエスの衣服を分配した話は、共観福音書も伝えています。しかしそこでは、この行
為が詩篇 22 篇 19 節の成就であることが暗示されているだけです。それに対してヨハネは、この出来事を「聖
書の言葉が実現するためであった」と明記しています。実は、詩篇 22 篇は衣服の分配だけではなく、ヨハ
2
ネがこの後に記す、主イエスの「渇き」を預言する言葉もあります。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、
舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(22:16)。
ヨハネは十字架上の主イエスで、この死の「渇き」を描いたのです。しかも主イエスの死の渇きを、「聖
書の言葉が実現した」と記したのです。こうしてヨハネは、愛弟子が主イエスの母を自分の家に引き取った
という物語を、「聖書の言葉の実現」で囲い込んだのです。ということは、ヨハネは、愛弟子が主イエスの
母マリアを自分の家に引き取ったというこの象徴的な物語で、聖書の言葉の実現を表現していると理解して
よいのではないでしょうか。 実は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、主イエスが十字架上で発し
た言葉で始まる詩篇22篇は、兵士たちによる衣服の分配と十字架上の主イエスの渇きに言及した後、次の
ように結ばれます。「命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に
身を屈めます。・・・子孫は神に仕え・・・成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでし
ょう。」ここには世代から世代へ、命から命へと、神の恵みの業を告げ知らせる家族がいるのです。ヨハネ
は、愛弟子が主イエスの母を自分の家に引き取ったというこの物語で、この神の家族の成就を描いたのでは
ないのか。 その事を黙想していた時に導かれたのが申命記 16 章、神の民イスラエルの成人男子すべてに義務づけら
れた三大祝祭_過越祭、七週祭、仮庵祭_で語られた次の言葉です。「こうしてあなたは、あなたの神、主
.....
の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷 、町にい
... .. ..
るレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者 、孤児 、寡婦 などと共に喜び祝いなさい!」(11、14)。 申命記の著者は、「主の御前で・・・主がその名を置くために選ばれる場所で」祝う祭りを、つまり神が
イスラエルをエジプトの奴隷から解放された救いを記念する祭りを、
「息子、娘」とだけでなく、
「男女の奴
隷、寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい」と言われたのです。わたしはここに聖書のいう「家族」
の型があると考えています。
聖書が教える家族はどのような共同体なのでしょうか。ギリシア語釈義辞典は、聖書の家族観を、アッテ
ィカの法律が定義した「家族、家族共同体(οικια)」の言葉、「完全な家族(οικια)は奴隷と自由人からな
っている」
( アリストテレス「政治学」)から説明します。アッティカの法律で定義されたこの家族の成員は更に
詳しく主人、妻、子、奴隷であると説明されます。この家族の定義は、七十人訳および新約の「家族」とも
一致すると言うのです。申命記は、奴隷の他に、寄留者や孤児や寡婦をも家族に含めているのです。 ギリシア文明は、奴隷と自由人からなる社会でした。そこで語られた「完全な家族は奴隷と自由人からな
っている」に、わたしは人類の英知が到達した最高の家族を見ます。二千五百年前の人々が家族をこのよう
に捉えていたとは驚嘆です。家族は抜け殻になった、と語るわたしたちの時代は、「精神にせよ、人間性に
せよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降」(ヤスパース) にあるのかもしれません。 Ⅲ. 十字架の下にある家族
人類の英知が到達した「完全な家族」、しかしそこには限界もあります。限界とは、パウロはこう言って
いるからです。キリスト・イエスに結ばれた家族には「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由
な身分の者もなく、男も女」
(ガラテヤ 3:28)もないと。キリストにある家族には、奴隷と自由人の区別はない
のです! 「皆、キリスト・イエスにおいて一つ」なのです。 この家族を最も尖鋭的に表現したのが、主イエスが行なった徴税人や罪人との食事です。それは単に社会
的次元の出来事ではなく、また主イエスのひときわ優れた人間性、人を差別しない心のゆたかさ、踏みつけ
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られている人々への深い同情が表現されているだけではありません。その意味は一層深い次元に及んでいる
のです。徴税人や罪人との主イエスの食事は、その使命の使信の表現であり (マルコ
終りの時の救いの宴の先取りなのです (マタイ
2:17)、終末的な食事、
8:11)。そこではすでに今、聖なる人々の共同体が目の当たり
に表されているのです (マルコ 2:19)。食卓を共にする形で罪人が共同体に迎え入れられているのです。
これは人を救う神の愛の使信を誰の目にも最も印象的な仕方で表現しているのです。食卓を共にする一人
一人が、裂かれたパンの一片を食べることによって、主人がこのパンが裂かれる前に唱えた神への賛美にあ
ずかり、この宗教的行為がそこに共同体を現前させたのです。「教会は・・・聖晩餐を守る集まりという状
況において、最も確信をもって現れ出る」(ボンヘッファー) といわれる所以です。
問題は、主イエスのこの食卓は当時の敬虔な人々から、「大食漢の大酒飲み、徴税人は罪人の仲間」(マタ
イ 11:19) と批判されたことです。申命記の著者は、神の家族には、奴隷はもとより、寄留者や孤児や寡婦も
含まれるとしたのです。なのになぜ主イエスの時代の人々は、その神の家族像を失ってしまったのでしょう
か。
申命記が描いた奴隷はもとより、寄留者や孤児や寡婦を含む家族像は、バビロン捕囚を挟んで、大きく歪
んだのです。捕囚後の祭儀集団の成立に大きな影響を及ぼした二人の人物がいます。エズラとネヘミヤです。
二人とも神学的には厳正主義者であり、断固たる純粋主義者でした。彼らは異民族をその宗団から排除し、
混血の排除にすら努めたのです。 ここにおいてイスラエルは歴史から、すなわちイスラエルが今まで体験してきた歴史から離れたのです。
今からはイスラエルは謎に満ちた歴史の向こう側に生き、その神に仕えたのです。結果、他民族との連帯性
も決定的に取り去られてしまいました。このような急激な分離によってユダヤ人は他の民族にとっては無気
味な存在となり、憎まれ、交わりなき者の非難を受けたのです。 ヨハネは、
「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」の十字架の下に立つ母マリアと愛弟子を家族とすることで、
このユダヤ教という頑強な壁を打ち砕いたのではないでしょうか。交わりなき者に、「もはや、ユダヤ人も
なくギリシア人もない」交わりを提供したのではないでしょうか。 このヨハネの主張と軌を一にしているのがエフェソ書2章11節以下です。エフェソ書の著者は、かつて
は「割礼のない者」で、
「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いた異邦人が、
「もはや、外国
人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」であると語ったのです。さらに一歩踏み出したの
が第一ペトロです。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民!」
(2:9) であると語ったのです。 ここにはユダヤ人と異邦人を隔てるものは何もないのです。ここには、旧約のすべての希望、約束、祝福
をはるかに超えた充足が与えられているのです。何があったと言うのでしょうか。エフェソ書の著者は言い
...........
ます。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意
............
..
という隔ての壁と取り壊し 、・・・双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字
.....
.......
架を通して 、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって 敵意を滅ぼされました!」 然り、今、わたしたちの目の前で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」が十字架につけられたのです。御子
が十字架で流された血によって清められない民族の血に流れる敵意などないのです。十字架の下に立つ愛弟
子がイエスの母を自分の家に迎え入れたこのキリストにある新しい家族は、人類の英知が到達した「完全な
家族」をはるかに凌駕するのです。キリスト・イエスにあって兄弟姉妹とされたことの至福が、溢れんばか
りの喜び、終末論的な喜びがここにはあるのです。それは、主イエスが最後の晩餐で祈られた祈りの成就で
す。「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、
4
あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」
(17:20-21)。 「すべての者が一つとなるために」。ヨハネの信仰によれば、十字架のキリストの下に立つ聖餐共同体こ
そ、「血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれた」神の家族で
す。わたしたちは今、
〈父なき時代〉
〈母なき時代〉という家族崩壊の途にある。聖書的に言えば、創世記3
章、取って食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を取って食べて以来、家族は崩壊の途にあるので
す。一体であるべき男と女の関係は崩れ、この夫婦から生まれた最初の子カインはアベルを殺したのです。
この崩壊の途にある家族に止刃が刺されたのです。神は御子イエス・キリストを十字架に上げることで、聖
餐共同体という神の家族を新たに生まれさせ、〈ぬけがら家族〉の闇の世に輝く光とされたのです。 (祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。
全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
主よ、わたしは知っています。
あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけ、神の家族とされた喜びを生きる
者として下さい。
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