神秘−89 あれか、これか 18:39−19:7

 信仰の神秘−89 「あれか、これか」 2015.3.22
ヨハネ 18:39-19:7、ロマ 5:12-21、ゼカリヤ 6:9-15
39 ところで、
過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。
あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」40 すると、彼らは、
「その男ではない。バラ
バを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。 1 そこで、ピラトはイエスを捕
らえ、鞭で打たせた。 2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまと
わせ、 3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。 4 ピ
ラトはまた出て来て、言った。
「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そ
うすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」5 イエスは茨の
冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、
「十字架につけろ。十字架につけろ」と
叫んだ。ピラトは言った。
「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたし
はこの男に罪を見いだせない。」 7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があ
ります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
Ⅰ.悪魔の選択
きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はヨハネ福音書
18章39節以下です。この段落は、ピラトの下で行われた、主イエスを十字架に上げるための裁判の第二
場面です。わたしたちはここで、聖書以外の資料には確認できない、ある不可解な慣例、過越祭の度に囚人
を一人釈放するという記事を読みます。 このような慣習があったということは、「歴史的には」証明されていません。これに似た制度に、「恩赦」
があります。古くは君主の権限であり、国家的な慶弔の機会に君主の仁愛により特典として減刑ないし釈放
されたのです。わたしはこの恩赦が、主イエスの死の意味を説き明かす比喩として、イエスか、バラバか、
どちらを釈放して欲しいのかという二者択一の物語ができ上がったのではないかと考えています。物語は次
のように展開します。 ピラトは、総督官邸の前で待っている「ユダヤ人たちの前に出て来て」こう言ったのです。「わたしはあ
の男に何の罪も見いだせない。」ピラトの裁判の第一場面を結ぶこの言葉は、第二場面で二度くり返されま
す。一度目は 4 節、兵士たちが主イエスを鞭で打ち、茨の冠を冠らせ、紫の衣を着せ、侮辱の限りを尽くし
た後に、
「ピラトはまた出て来て、言った。
『見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、
........................
わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう 。』」次が 6 節、主イエスを見た祭司長や下役たちが、
「十字架につけろ」と叫び続ける中、ピラトはこう言ったのです。「あなたたちが引き取って、十字架につ
................
けるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない 。」こうして罪のない主イエスが、「神の小羊」(1:36) とし
て、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29) として十字架に上げられるのです。 このようにピラトは三度くり返し、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と断言したのです。しかし、
過越祭の慣例に従い、祭司長たちや下役たちが解放を求めた囚人はイエスではなく、
「強盗」バラバでした。
このバラバは、マルコでは「暴動のとき人殺しをして投獄された暴徒」とあります。またマタイでは「評判
の囚人」、そしてルカでは「暴動と殺人のかどで投獄された」とあります。そのバラバをヨハネは、「強盗」
と説明したのです。 ヨハネはバラバを「強盗」とすることで、「殺人」とした共観福音書記者たちに比べて、より軽い罪とし
1
たのでしょうか。実は、ヨハネにとって「強盗」はある特別な意味を持っています。それは主イエスが語ら
れた〈羊飼いの譬え〉です。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り
越えて来る者は、盗人であり、強盗である。・・・盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする
ためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは
良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる!」 つまり、このとき祭司長たちや下役たちは、羊のために命を捨てる〈良い羊飼い〉イエスではなく、〈強
盗〉バラバの釈放を求めたのです。この選択がいかに常軌を逸した選択であるかは、エレミヤが語った次の
言葉を見ると歴然です。
「一体、どこの国が、神々を取り替えたことがあろうか。しかも、神でないものと。
ところが、わが民はおのが栄光を、助けにならぬものと取り替えた。天よ、驚け、このことを。大いに、震
えおののけ、と主は言われる。まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、
無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」(2:11-13)。
ピラトが提示した「バラバか、イエスか (=あれか、これか)」の二者択一は、天が震えおののくほどの「悪
魔の選択」なのです。何人も並び立つ者のいない、比較を絶した方イエスと、強盗バラバが同列に置かれた
だけではなく、イエスが捨てられ、バラバが選ばれたのです。「天よ、驚け、このことを。大いに、震えお
ののけ。わが民はおのが栄光を、助けにならぬものと取り替えた。」
痛恨に耐えないのは、この天が震え戦くほどの「悪魔の選択」を現代のキリスト者も行っていることです。
「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」
(ホプキンス)のです。贖い主キリストは
慈悲深い賢い教師に、あるいは霊的天才で、人類の宗教的なさまざまな能力が十分に開花された者になって
しまったのです。モルトマンの言葉が心に迫ります。
「『キリスト者の神』は必ずしも常に『十字架につけら
れた神』ではないし、むしろそうであるのは極めてまれである・・・。」わたしたちは十字架のキリストへ
の信仰を取り戻せるでしょうか。取り戻したいと思います。
Ⅱ. 茨冠と金冠
祭司長たちや下役たちが、〈良い羊飼い〉イエスではなく、〈強盗〉バラバを選ぶと、「ピラトはイエスを
捕らえ、
(裸にして)鞭で打たせ」ます。全身に鞭の痕が残る主イエスに、
「兵士たちは茨で冠を編んで頭に
載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、
『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った」のです。
そしてピラトは、茨の冠を冠り、紫の衣を着たイエスを人々の前に連れ出してこう言ったのです。「見よ、
この男だ!」 このピラトの発言について、
「それは、人となった、この惨めな人間になった、この弱い肉となった、言、
に対するこの福音書著者の素晴らしい信仰告白である」と言った人がいます。ヨハネ福音書には、共観福音
書が伝える、十字架で息を引き取ったイエスを、
「本当に、この人は神の子だった」
(マルコ 15:39)と告白する
、、、、、、、、、
百人隊長の記事はありません。その代わり、ローマの総督ピラト が、「見よ、この男だ」と言っているので
す。わたしは、このピラトの発言は、洗礼者ヨハネが主イエスを指して言った言葉、「見よ、神の小羊だ」
に呼応すると考えています。主イエスはこのとき、茨の冠を冠り、紫の衣を身にまとい、民衆の前に立たれ
たのです。洗礼者ヨハネが見た「世の罪を取り除く神の小羊」が、今、ここにいるのです。 ところで、ヨハネがここで描いた場面は、ゼカリヤ書6章がその背景にあるのではないか、と言った人が
います。そこには次のようにあります。「銀と金を受け取り、冠をつくり、それを・・・大祭司ヨシュアの
頭に載せて、宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足
もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直し、威光をまとい、王座に座して治める」(6:11-13)。 2
ゼカリヤは金の冠を冠る大祭司ヨシュア、即ちイエスを「見よ、この人だ」と言い、「彼は主の神殿を建
て直し、威光をまとい、王座に座して治める」と言ったのです。ヨハネがピラトを通して語った「見よ、こ
の男だ」の背景にこのゼカリヤの記事があるというのです。 それにしても、ピラトが「見よ、この男だ」と言った人物と、ゼカリヤが「見よ、この男だ」と言った人
物はあまりにもかけ離れていないでしょうか。一人は、全身鞭打たれ、茨の冠を冠り、紫の衣を着たイエス
であり、一人は、文字どおり金の冠を冠り、威光をまとい、王座に座すヨシュア(イエス)なのです。ゼカ
リヤはこの幻で何を語ったのでしょうか。
ゼカリヤの預言は、神ヤハウェの近い到来とその直前に起こる王国建設が中心です。神殿再建がヤハウェ
とその王国到来にとっての必須条件と考えたのです。イザヤおよびエレミヤにはこのような表象はありませ
ん。その差異は、預言者たちが遣わされた相手の立っていた状況から説明できます。イザヤやエレミヤは、
政治的同盟かヤハウェへの信頼かの二者択一に直面しており、それが信仰告白的な状況となっていたのです。
それに対してゼカリヤの時代は、神殿再建の問題が信仰告白的状況でした。神殿は、ヤハウェがイスラエル
に語り、イスラエルの罪を赦し、イスラエルのために現臨する場所だからです。しかし人々はこの場所に対
する関心をほとんど失っていました。経済的困窮のゆえに神殿再建を先に延期せざるをえなかったのです。
言い換えますと、人々は「諦めの安全さ」の中で経済的成長を求めて生きていたのです。
「今はまだその時ではない」(ハガイ 1:2) と。まずは生活、その後に信仰であると。ハガイはこの順序を逆
転したのです。終末論的イスラエルが宗教的中心であり、この中心からのみイスラエルの存続が可能である
と確信していたからです。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
のであると。
このように語るゼカリヤは論争的な鋭さを含む預言の中で、人間的、政治的権力が新しいエルサレムを守
るであろうという考えを完全に拒否します。ゼカリヤは言います。「武力によらず、権力によらず、ただわ
が霊によって、と万軍の主は語われる」(4:6)と。
Ⅲ. 権力闘争の彼方へ
ゼカリヤはハガイと共に、バビロン捕囚後、エルサレム神殿の再建に尽力します。その使信の内容は、神
ヤハウェが直ちに来るというものでした (2:14、8:3)。特に、ゼカリヤにとって特徴的なことは、その時の
しるしを正しく理解するように、人々を指導することでした。ゼカリヤが生きた時代、それは禍いに充ちた
時代、祭儀的にはまさに断食期間でした。バビロン捕囚のとき、神の栄光はエルサレムを去ったのです (エ
ゼキエル 10−11 章)。それは裁きの時代であり、何もかもはうまくいかない時代でした。しかし、今からは救い
の時であるとしたのです (8:11)。この今の正確な決定が、この預言者の救済史的思考の現実性の特徴なので
す。 世界を見回してもまだ何も起きていません。諸国民は自信をもって生活していたのです。その時代にゼカ
リヤは、神の国がすでに天において準備されていることを知ったのです。ゼカリヤは神ヤハウェがエルサレ
ムのために熱意をもって、到来の手筈を整えていることを知ったのです。この信仰によってゼカリヤは、バ
ビロンからの帰還民が「諦めの安全さ」の中で経済的成長を求めていたとき、荒れ果てた神殿を再建するこ
とを信仰告白的問題として取り上げたのです。神殿は、ヤハウェがイスラエルに語り、イスラエルの罪を赦
し、イスラエルのために現臨する場所だからです。ゼカリヤは言います。「見よ、これが『若枝』という名
の人である。・・・彼は主の神殿を建て直し、威光をまとい、王座に座して治める」と。その意味はすでに
見たように、イスラエルの再建は人間的、政治的権力によらず、「武力によらず、権力によらず、ただわが
3
霊によって」と言うことです。
預言者における宗教と政治との関係の問題はいろいろな形で論じられています。大きく見て、預言者にお
ける非政治化の過程を否定することはできません。非政治化とは力の行使の否定です。無力の宗教的肯定で
す。それは権力闘争の場の彼方にわたしたちを高めるのです。それは繰り返し政治の世界に、その持ってい
る限界を指し示すのです。ヨハネが、ピラトの裁判で、全身鞭打たれ、茨の冠を冠り、紫の衣を着せられた
イエスを、「見よ、この男だ」と語った意図がここにあるのです。人間的、政治的権力の完全な拒否です。
実は、ヨハネ福音書にとって十字架は、つまり全身鞭打たれ、茨の冠を冠り、紫の衣を着たイエスは、
「上
げられること」、
「栄光を受けること」の中に含めて理解されています。主イエスは十字架に上げられること
を、
「世界が造られる前に」御父の御前で持っていた栄光を現すときであるとしたのです (17:1-5)。言い換え
ますと、黄金の冠を冠るメシアだけが、何人も並び立つことができない至高者ではないのです。十字架の死
に至るまで低きに下るイエスもまた、何人も並び立つ者がいない至高者なのです。
このことは、「同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えてしまった」人々の致命的欠陥を浮彫
りにします。「同情的イエス」なら、つまり慈悲深い賢い教師、あるいは霊的天才で、宗教的なさまざまな
能力が開花された者なら、いくらでも並び立つ者はいるのです。ウィリアム・ジェームズは『宗教的経験の
諸相』の中で、キリスト教と仏教を二大世界宗教と言います。釈迦がたどった宗教的経験は、その広さ、深
さ、高さにおいて決してイエスに劣るものではありません。20世紀を代表する神学者の一人カール・バル
トは、
『ロマ書』の講解の中でこんなことを言っています。
「愛」と純真と峻厳とについては聖フランシスは
イエスに勝ると。
わたしたちの世界には、他者のため命を賭す者がいるのです。しかし、十字架の死に至るまで低きに下る
イエスに並び立つ者などひとりもいません。キリストの十字架は、いわゆる人に道徳的な影響をもたらす自
己犠牲の最たるものではないのです。人類の罪を贖う死!なのです。
ヨハネは、茨の冠を冠り、紫の衣を身にまとうイエスに、大いなる転回の変わり目を見たのです。夜は押
しやられ、日は近づいたのです。イエスが十字架に上げられることで救済の時が開始するのです。「今や、
恵みの時、今こそ、救いの日」なのです。新約聖書を__きわめて根本的な点を見るだけでも__最も遅い
時期に書かれた書に至るまで貫通しているのは、全く新しいことの到来に対する驚きの感情であり、神の救
済行為の全く新しい地平が開ける始まりに人々が置かれているという圧倒的な自覚です。新約の至る所で、
神の新しい時の中に置かれているという感情の高揚が表現されているのです。
結びに、この感情の高揚が表現されたロマ書5章12節以下から聞きたいと思います。ここには一人の人
アダムによって「罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ」と語られま
す。「すべての人が罪を犯した」からであると。そして、そのすべての人の罪が、一人の人の死、すなわち
イエス・キリストの死によって赦されたと語るのです。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされ
たように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」と。「こうして、罪が死によって支配してい
たように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです!」
とパウロは歓喜の叫びを上げたのです。 ところで、わたしたちがこのパウロの歓喜の叫びに聞くのは、主君の仁愛によって行われる恩赦というこ
とではないでしょうか。ここで死人、つまり罪人に永遠の命という恩赦が与えられるのです。神は御子イエ
ス・キリストの死を通して、この恩赦をすべての罪人に公布されたのです。パウロは言います。「恵みの賜
物は罪とは比較になりません。
・・・神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人(す
べての人)に注がれるからです!」 4
ヨハネがピラトの裁判で、全身鞭打たれ、茨の冠を冠り、紫の衣を着たイエスで描いたのは、死人、即ち
罪人に永遠の命を与えるという恩赦、途轍もない恵みの賜物なのです。同情的イエスではなく、十字架の御
傷が刻まれた復活者イエスが現臨する聖餐共同体を形成することこそ、権力闘争を繰り返す現代という時代
の闇の光なのです。わたしたちも、全身鞭打たれ、茨の冠を冠り、紫の衣を着せられたイエスを、「見よ、
この男だ」、「世の罪を取り除く神の小羊は」と言いたいと思います。
(祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。
全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
主よ、わたしは知っています。
あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけ、悪魔の選択を打ち破る者として
下さい。
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