悪役令嬢の兄に転生したので何とかしてみる

悪役令嬢の兄に転生したので何とかしてみる
安澄星下
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︻小説タイトル︼
悪役令嬢の兄に転生したので何とかしてみる
︻Nコード︼
N3963CN
︻作者名︼
安澄星下
︻あらすじ︼
妹と王子が婚約するという話を聞かされた主人公は、前世の記憶
を思い出す。
ここって、前世の妹が好きだった乙女ゲームの世界だ!
しかも今世の妹、このままだと悪役令嬢まっしぐらで家ごと破滅エ
ンド!
そうはさせまいと努力する兄の話。 1
1 兄、妹の行く末を憂う︵前書き︶
初めての投稿になります。
歴史転生モノが読みたくてこのサイトに来たのですが、悪役令嬢モ
ノにも良作が多くはまってしまいまして、自分も書いてみたいと思
いましたが女性主人公は自分には難しい、なら兄を主役にしよう、
という流れで始めてみました。
どうぞよろしくお願いいたします。
2
1 兄、妹の行く末を憂う
これは死んだな、と思った。
仕事帰りに青信号の交差点を直進したところ、真横から凄まじい
衝撃に襲われた。
多分トラックだったのだろう。
運転していた軽自動車は潰されて回転しながらとび、そのまま電
柱にめり込んでいた。
エアバッグは作動していたが、気休めにもなっていないことは真
っ赤な視界からも明らかだ。
幸いなことに痛みは感じない。
ドライブレコーダーがあるので向こうの過失については証明して
くれるだろう、と益体もないことを考える。いや、家族への保険金
がしっかり払われるから意味はあるか。
家族。
いまわのきわに考えるのは、やはり妹のことだった。
人柄が悪いわけではないのだが、どうにも要領が悪いのか高校で
いじめられているという妹。
週末には実家に帰って、相手をしてやる予定だったのになぁ⋮⋮。
薄れゆく意識のなか、それだけが気がかりだった。
という前世の記憶を思い出したのは、妹の婚約話を父から聞かさ
れたのがきっかけだ。
﹁ミシュリーヌとエドワーズ王子との婚約が成った。マルセル、お
まえはゆくゆくは王子の義兄だ﹂
父、アルダートン公爵は満面の笑みで言う。
﹁ああ心配するな、お前の相手も引く手数多でな、しっかりと厳選
しておるから︱︱﹂
3
それからの父の言葉は俺の耳を素通りしていった。
ミシュリーヌ・アルダートンとエドワーズ王子。
そして、マルセル・アルダートン。
これって前世で妹がはまってた乙女ゲーの﹃光のコンチェルト﹄
の世界じゃないか!
俺はどうにか平静を装うと、自室に戻った。
ベッドに寝転がると、様々な知識や記憶が湯水のように溢れてく
る。
現状を整理しよう。
﹃光のコンチェルト﹄はもはやお約束である中世ヨーロッパ風と
いう、世界史をまともに学んだ者ならばそのあまりのアバウトさに
頭を抱える世界観がベースである。
キャラ名が英独仏語ごちゃまぜな時点で、制作側もある程度開き
直っているのかもしれない。
ヨーロッパ風なのに言語が日本語だったり髪の色がバラエティ豊
かなのはまあそういう様式だとして、中世風なのに学園物。
なおかつ魔法要素ありのファンタジー物。
前世の妹の話で聞いていた時はなんという欲張りセットだと思っ
たものだ。
まあ、部分的に近代っぽいのは魔法技術のおかげと解釈すれば一
応整合性はとれるのかもしれない。
学園についても、貴族の子弟を中心に魔力がある者が通っている
という話だし。
おっと、世界観はさておき内容をできる限り思い出そう。
そもそも、妹があまりにすすめてくるから自分も何ルートかやっ
てみたのだが、正直わりと片手間にプレイしたので詳しいところは
4
曖昧なのだ。押し付けられた設定資料集も気になるところをパラパ
ラと眺めて終わりだったし。
とりあえず、平民にも関わらず魔法︱︱しかも非常に希少な聖属
性に目覚めた主人公が学園に入学する所からゲームは始まる。
当初主人公は平民ということで周囲からは白眼視されて針のムシ
ロ状態。
ここから攻略者達とイベントをこなして好感度を∼といかないの
がこのゲームの特徴らしい。
この﹃光のコンチェルト﹄は通好みとされているそうで、まずは
女性キャラの好感度を上げないと
いけないそうなのだ。
各攻略対象についている令嬢と、級友、学園職員と、乙女ゲーム
なのに異様に女性キャラが多い。
この女性陣を味方に引き入れないと、攻略対象とのイベントが発
生しなかったり、発生しても上手くいかなかったりする仕様なのだ。
妹が熱く語っているのを聞いて、妙にリアルだと思ったものだ。
⋮⋮妹はあまり友達がいなかったので、友情も育めるこのゲーム
にハマったのかもしれない。
おっと、湿っぽくなるのはやめよう。
さて、この﹃光コン﹄、敵役の令嬢も味方にできる。
どういうことかと言えば、通常は当然その令嬢の相方である攻略
対象を狙うときは敵となる。
しかし、他の攻略対象を狙う際には進め方によっては味方になっ
てもらえるのだ。
なので一度あるキャラのエンドを見たあとで他のキャラを狙うと、
前回のプレイで敵だったキャラが味方となり意外な一面が見られる
という仕様である。
さらに、令嬢との友情度を限界まで高めると、彼女達を味方にし
た上で相方を攻略できるシナリオまで存在する。
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この情報だけを聞くと寝取りじゃねえかということなのだが、実
は令嬢と相方は家同士が決めただけでお互いはそれ程、とか令嬢は
他の男に身分違いの恋をしていて等の理由付けがしっかりしており、
納得できる流れになっているそうだ。
そんな微妙な関係のライバル令嬢と攻略対象のペアが複数あり、
進め方によっては二人の間を取り持つ仲人プレイも可能というのだ
から凄い。
シナリオに相当こだわったつくりになっているのだ。
そんな中、どのルートでも変わらない立ち位置のキャラがいる。
我が妹、ミシュリーヌ・アルダートンである。
他の令嬢達がライバル令嬢と呼ばれるのに対し、ミシェリーヌだ
けは悪役令嬢と呼ばれる。
これはどのルートであろうと一貫して主人公に敵対することに由
来する。
どうしてこうなったかといえば、﹃光コン﹄の珍しさを自覚して
いた開発会社が、チュートリアル的に作ったルートとキャラだから
らしい。
まずはテンプレ的な悪役を、味方を作って攻略し、このゲームの
感覚をつかんでくださいというわけだ。
そのような宿命の元に生まれたキャラなので、ミシェリーヌの最
後は酷い。
苛烈な貴族至上主義にして差別主義であり、子爵や男爵ですら下
級風情と見下す。
当然平民など塵芥同然と考える。
エドワーズ王子ルートでは当然、あらゆる手を使って主人公を攻
撃する。
最終的には実家の公爵家の力を使って主人公を亡き者にしようと
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し、家は没落本人は処刑という有様である。
他のキャラのルートでもぶれない悪役として活躍し、没落からの
処刑放逐餓死エンドである。
攻略対象を放置して女性キャラ全員と好感度を上げまくった果て
の友情エンドですら、他国の中年変態貴族の側室にされるという悲
惨な末路だ。
ゲーム内でやったことを思えば当然なのだろうが、今の自分にと
ってミシュリーヌは実の妹であり、まだ8歳の可憐な少女だ。
親の影響のせいで我儘さと、使用人を見下す態度が育ち始めては
いるが、今からなら軌道修正できるだろう。
前世の最期の時まで、妹を心配していた俺だ。
今世ではしっかりと、妹を幸せにしてやらなければ。
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2 兄、己の道を定める︵前書き︶
2話目です。ブックマークしてくださった方、ありがとうございま
す。励みになります。
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2 兄、己の道を定める
﹁しかし、丸豚か⋮⋮﹂
ゲームにおける自分の立ち位置を思い出し、俺はため息をつく。
妹を悪役令嬢にさせないために頑張りたいのだが、それよりも先
に片付けなければならない問題があった。
実は俺もゲームに出ていたのだ。
⋮⋮ミシュリーヌの馬鹿でキモい兄として。
ゲーム内の自分は妹と同じく公爵家の権威を己のものと勘違いし
た典型的なアホ貴族の坊っちゃんで、主人公やライバル令嬢を無理
やり自分のものにしようとしたり実家が格下の攻略対象に嫌がらせ
をしたりと、とにかく最悪であった。
アルダートン家があっさり没落するのは妹だけでなくこいつにも
原因があったわけだ。
その上容姿が残念
贅沢三昧でろくに運動もしていないという設定なので醜く肥え太
り、名前のマルセル・アルダートンから
﹁マルダートン﹂
﹁マルトン﹂
﹁丸豚﹂
と呼ばれ作中の人物には嫌われプレイヤーには馬鹿にされていた。
こんな奴が兄貴風を吹かせて説教しても聞く訳がない。
実際ゲームでも、ミシュリーヌはマルセルを忌み嫌っていたし。
まずは自分をどうにかしなければ⋮⋮。
﹁けどまあ、これも今からならどうにか修正がききそうだな﹂
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部屋の姿見に自分を写し、ほっと一息。
確かにややポッチャリ系ではあるが、まだ10歳なのだ。これか
ら縦に伸びるだろうから、偏らない食事と適度な運動をしていけば
体型は問題あるまい。
そして嬉しいことに、顔立も悪くはなかった。
両親と妹が造形的には良いのだから、遺伝的にはおかしなことで
はない。
ゲームでのキモいキャラという印象は、体型と言動行動に起因し
ていたようだ。
ふむ、とりあえずああならなければ、外見で損をすることはない。
現在のところ、妹から外見のことで嫌われた記憶はまだないので、
大丈夫だろう。
いや、どこどこの令嬢のお兄様はかっこいいのに、とかぼやかれ
たことがあるかも⋮⋮。
くっ、頑張ろう!
続いては性格だ。
正直、これは結構まずい。
駄目両親の影響を思いっきり受けており、使用人に対する態度が
最悪だった。
⋮⋮親のせいにばかりしていたけど、ミシュリーヌの性格がああ
なったのは兄の影響もあるなこれ。
幸い殺人や消えない傷をつけるまではいかないものの、侍女や従
者に無茶な命令を出してできない時は容赦なく打擲していた。
10歳のガキとはいえ鞭で打ち据えるものだからたちが悪い。
前世の常識と感覚を思い出した今となっては、自分がしたことな
がら最悪である。
今すぐ従者や侍女に詫びを入れねばならないところだが、今まで
の糞餓鬼っぷりを振り返るにいきなり改心しましたと言っても違和
感しかない。
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高熱や重傷を負ったことがきっかけで前世を思い出したのならば、
そのせいで人格に変化がとの主張もできるのだが、妹の婚約話じゃ
あな⋮⋮。
﹁ん、まてよ⋮⋮。たしかここに﹂
俺はあるものの存在を思い出し、部屋の本棚を探した。
1冊の本を取り出すと、部屋の光の魔道具に明かりを灯す。
ぱらぱらとめくってしばらく読み進み、目当ての内容を見つけて
ほっと安堵のため息がもれる。
﹁よし、これで行こう﹂
俺は今後の方針を決めるとベッドに入って明かりを消し、眠りに
ついた。
軽やかなノックの音で、俺は目を覚ました。
﹁マルセル様、おはようございます。お目覚めの時刻です﹂
起床を促す呼び掛け。
そうか、毎朝こうやっていたのか。
今までの俺の場合、直接揺り起こされるまで起きなかったから気
づいていなかった。
﹁ああ、入ってくれ﹂
扉の向こうで驚愕したような気配が起きる。
まあそれも無理はあるまい。普段絶対に起きていない主人が起き
ていた上に、普通の態度で入室を促したのだから。
﹁失礼いたします﹂
入ってきたのは従者のロイだった。背後には部屋掃除担当の侍女
のカナも控えている。
ロイは流石に平静を装っているが、カナについては驚きの表情を
隠せていない。まあ、ロイは18歳なのに対してカナはまだ15歳
だ。経験の差というものだろう。
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﹁おはようロイ、それにカナ﹂
ベッドから降りた俺は二人に朝の挨拶をする。
ロイの表情にも驚きが浮かび、カナに至っては手にしていた掃除
道具を取り落とした。
⋮⋮挨拶しただけでこれか。
いや、昨日までの我が身を振り返れば当然だが。
っと、これはチャンス。
﹁耳障りな音を立てるなこのくっ、いや、ちがうちがう、落ち着け。
⋮⋮カナ、道具を落とさないように気をつけるのだよ? お父様や
お母様の前だと叱られてしまうからね﹂
道具を落としたカナをいつものように屑呼ばわりして叱責しよう
とし、それを無理やり押さえましたというていで俺はやんわりと話
しかける。
﹁も、申し訳ありませんっ!﹂
カナは慌てて頭を下げると、落とした道具を拾う。
﹁いや、いいんだよ。それよりも二人とも、思い返せば今まで、ず
いぶんと酷い仕打ちをしてしまった。すまなかった。他のみんなに
も機会をみて謝るけど、二人からも伝えておいてくれ﹂
突然の俺の謝罪に今度こそロイは全面に驚きと疑念の表情を出し、
カナは再び道具を取り落とした。
﹁うるさいと言っているだろうこの無能︱︱ま、まったく、カナは
あわてんぼうだな、あははー﹂
﹁ご、ごめんなさいごめんなさい!﹂
混乱も手伝ってか、カナは素の言い方に戻って涙目で謝りながら
床に這い蹲るという何とも惨憺たる有様になっていた。
これ、以前の俺なら間違いなく鞭で10回は打ってたんだろうな
⋮⋮。
﹁マルセル様が我々に詫びることなど何もございません。ですが、
お望みでしたらお言葉を他の使用人たちにも伝えます。⋮⋮ところ
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で、無礼を承知でお尋ねしたいのですが、何か変わったことがござ
いましたか?﹂
驚きから立ち直ったロイが聞いてくる。
俺に対して質問をするというのは彼にしてみればかなりのリスク
のはずだが、突然の変貌の理由が全くわからない方が危険と判断し
たのだろう。
さらに言えば、今の状態の俺ならば答えてくれるという読みもあ
るようだ。なかなか有能だな。
﹁うむ、我が妹、ミシュリーヌがエドワーズ王子と婚約したのは知
っているか?﹂
﹁はい、誠に喜ばしい限りです﹂
﹁となれば、ゆくゆくは俺は王子の義兄になるわけだ。となると王
の兄だ。王の兄と言えばこの方だろう!﹂
俺は枕元に置いておいた一冊の本を手に取るとドヤ顔を意識して
二人に突きつけた。
﹁これは、﹃王兄ライヒアルト伝﹄でございますか?﹂
﹁そうだ! 王の兄といえばライヒアルト殿。俺は今日より、彼の
人を目指すのだ!﹂
高らかに宣言する俺に、ロイは事情を飲み込み、カナは相変わら
ず混乱していた。残念な子だなぁ⋮⋮。
﹃王兄ライヒアルト伝﹄これはこの国の偉人伝記の一つだ。
800年ほど前、第一王子ながらも側室の母から生まれたため王
太子になれなかったライヒアルトという王子がいた。
彼は自身の境遇に不満を言うことなく、弟の王太子を献身的に支
えて様々な国難を共に乗り越えたと伝えられている。
想像だけれど、正室側室があるため王位継承でもめることが多い
この国の性質上、王になれない王子はかくあるべしという訓戒を込
めた話なのだろう。
王侯貴族の子女の必読書レベルで読まされるため王の兄といえば
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この人という共通認識はあった。
子ども向けの伝記だというのもあるが、ライヒアルト王子は明ら
かに盛っていると思われる内容が多い。
曰く、誰にでも分け隔てなく慈悲深い。
曰く、常に鍛錬を怠らず、剣術と魔術を極めていた。
曰く、学問にも熱心で知らぬものはない。
⋮⋮露骨すぎる。
ここまで盛られると実際は暗殺されて怨霊になって王家に祟りを
なしたので、鎮魂のためにこんな話を作って王侯貴族の必読書に制
定したんじゃないかと疑うレベルである。
ともかく、王の兄といえば完璧超人というイメージがある。
単純な俺は義兄と実兄の違いを気にせずそれを目指すことにした、
という設定で前世の記憶を得たことによる変化を隠蔽しようと考え
たわけだ。
ちなみに、エドワーズ王子は第三王子なので別に王になるのが確
定ではない。
まあ、世の中は自分の都合のいいように動くと信じきっていた今
までの俺なので、その辺はスルーされるだろう。
ロイは俺がライヒアルトを目指し始めたということと、その為に
今までの行いを変えようとしている事を理解し、それを他の者にも
伝えると言った。
おそらく、坊ちゃまが気まぐれを起こしたけど、自分たちの利に
なりそうだから持ち上げておけ的な形で情報を回してくれるだろう。
こちらとしても動きやすくていい。
さて、初めのうちは無理してる感を出して、徐々に本物になって
いかないとな。
調整は大変そうだが、頑張ろう。
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3 兄、妹の道行きを示す︵前書き︶
評価や感想、ブックマークありがとうございます。頑張ります。
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3 兄、妹の道行きを示す
﹁ところで、ミシュリーヌはもう朝食を済ませていたか?﹂
着替えをしながらロイに尋ねる。
﹁はい、先ほどお済ませになられておりました﹂
﹁そうか。俺が食事を終えてしばらくしたら会いに行くと向こうの
侍女に伝えておいてくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
﹁では行くとしよう﹂
アルダートン公爵家では、家族揃っての食事は夕食のみで、朝食
と昼食はそれぞれでとる。
当然従者達は別なので、広い食堂室とテーブルに一人なわけだ。
それにしても︱︱
﹁多いな⋮⋮﹂
大きな白パンに、鳥肉と思われる焼き物、ハムとソーセージがど
っさり、スープにも肉が入っている。
対して野菜はあまりない。スープに玉葱と人参が見える程度だ。
これでは太るのも当たり前、というか健康に悪いだろう。
前世の感覚を得た今では異常に思えるが、そもそもこのメニュー
は自分自身が言い出したことに思い当たり額を押さえる。
そうだ、はじめは野菜も出ていたのに、どうせ食べないから出す
なと言いだしたのだった。
﹁ロイ、厨房にすぐ出せる野菜料理があったら出すように言ってく
れ。あと、コックを呼んでくれ﹂
﹁はい、直ちに﹂
ロイが厨房に向かってしばし、サラダの乗った皿を手にしたキッ
チンメイドと、コックの女性が姿を表した。
﹁⋮⋮マルセル様、朝食に何か不手際がありましたでしょうか?﹂
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不安げな様子でこちらを見ている。
そういえば、料理に文句をつけたことが一度や二度ではなかった
な。
我ながら、自分の口に入るものを作る人にあんな態度をとってい
たとは頭が痛くなる。
﹁いや、そういうわけではない。コック、名前はなんと言ったか?﹂
﹁ヘレンでございます﹂
名を問われ、更に表情が暗くなる。
﹁それではミセス・ヘレン、今後、今日の昼食から俺の食事のメニ
ューを変えて欲しいのだ。まず量だが、パンと肉類は今までの半分
の半分でいい。代わりに野菜と豆を使った料理を増やしてくれ﹂
﹁それは、勿論仰せの通りにできますが、よろしいのですか?﹂
﹁ああ、ライヒアルト殿は決して大食はせず、時には庶民と同じよ
うなものを食べていたそうだからな。俺も見習わねば﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
﹁そうだミセス・ヘレン。今までずいぶんと俺の我儘で困らせてし
まっていたな。すまない﹂
﹁ええ!? いえ、そんなもったいないお言葉を⋮⋮﹂
ヘレンは俺の豹変ぶりについていけてないようで、慌てている。
料理を持ってきたキッチンメイドも呆然としているようだ。
﹁では、神と、料理を作ってくれたミセスヘレンに感謝をして頂く
としよう﹂
俺は祈りを捧げるとまっ先にサラダを口に運んだ。
別に不味くはないのだが、わざと口をしかめて食べる。
﹁おい、もう少しなんとか︱︱! ⋮⋮いや、何でもない。美味い
ぞ、野菜。王兄たるもの野菜くらい食べなければな﹂
思わずまた文句をといったていでヘレンの方を睨みつけた後、慌
てて野菜を頬張る。
その後、今までの自分と比べると極めて控えめな量のパンと肉を
食べると俺は食事を終えた。
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礼を言って食堂室を出ると、奥の厨房から喧騒が起きたよう気配
がした。
間違いなく、俺の変わりようについての話をしているはずだ。
館で働いている使用人達からさりげない視線を感じるようにもな
ったので、侍女のカナから話が伝わり始めたのだろう。
いい傾向だ。
これで話が浸透すれば、いちいち変わった理由を説明する手間が
省けるというものだ。
部屋に戻った俺は再び本棚を探す。
既に持っているはずだが、こういうのは贈られるということに意
味があるのだ。
目当ての本を見つけた俺は暫しページをめくって食休みをする。
迎え入れる方は準備があるから、余裕を持って訪ねるのがマナー
だ。
さてそろそろと思ったが、ふと考えが浮かぶ。
もう使うことはあるまいと思っていたが、一応アレも持って行く
か。
﹁さて、行くとしようか﹂
ロイに告げると、俺はミシュリーヌの部屋に向かった。 ﹁マルセル様がお嬢様にお会いになられます﹂
妹の部屋をロイがノックし、訪いを告げる。
﹁準備はできております。どうぞマルセル様﹂
部屋の中から侍女が招きいれ、それを受けてロイが扉を開ける。
⋮⋮面倒くさい。
単に兄が妹に会いに来だけなのだが、まあ仕来りというものだか
ら仕方がないか。
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﹁いらっしゃいませお兄様﹂
ミシュリーヌはにっこりと笑って歓迎の意を伝えてくれる。
さらさらの金髪に深紅の瞳。
悪役補正のせいなのかやや釣り目がちだが、そんな事は何の問題
にもならない美少女である。
うーむ、この妹が将来的には悪逆非道な令嬢になり、破滅の道を
転げ落ちていくとは到底思えん。
﹁⋮⋮何をしているの、早くお兄様をこちらへご案内しなさい﹂
﹁す、すみませんお嬢様! マルセル様、どうぞこちらへ﹂
叱責された侍女が慌てて俺を招き、椅子を引く。
⋮⋮いや、そんなに遅く無かったと思うよ? 多分、ミシュリーヌが俺に話しかけたから、その返事を受けて案
内しようと思ってたんじゃないのかな。
さりげなく軌道修正と行きたかったけれど、もう少し強めに干渉
する必要がありそうだ。
﹁やあミシュリーヌ、王都はどうだった?﹂
妹は1週間前から王都に行っており、昨日帰ってきたのだ。
﹁王都はいつも通りでしたわ。それよりもお兄様聞いてください!
エドワーズ様って本当に素敵なのですよ!﹂
先ほどの侍女への厳しい態度はどこへやら、デレまくりでのろけ
る我が妹。
ゲームでのミシュリーヌも王子への愛が凄かったもんなぁ。
残念だったのは、それが重荷としてしか伝わらなかったことだけ
ど。 そこからかなりの間、俺は妹のエドワーズ様トークに相槌を打ち
続けるのだった。
﹁さてミシュリーヌ、エドワーズ王子の事はよく分かった。今日は
俺から婚約祝いを贈ろう﹂
﹁まあ、何かしら!﹂
笑顔の妹に、俺はロイから受け取った本を渡す。今から考えれば
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包装くらいするべきだったかも。
﹁これは︱︱本ですの?﹂
﹁そう、﹃王妃リディアーヌ伝﹄だ﹂
﹁お兄様、私、もうこの本は持っていますわよ?﹂
にわかにつまらなそうな表情になる妹。
﹁うむ、それは分かっている。本そのものではなく、心構えを贈り
たいのだ﹂
﹁心構え?﹂
﹁そうだ。昨日ミシュリーヌとエドワーズ王子の婚約を父上から聞
いて俺は決意したのだ、王兄ライヒアルト殿の
ようになってみせると﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
﹁なのでミシュリーヌ、お前はリディアーヌ様のような淑女を目指
すのだ!﹂
﹁ええっ?﹂
いきなり高テンションの俺についてゆけず、ミシュリーヌは目を
白黒させる。
﹁お前のエドワーズ王子を慕う想いはよく分かった。だがな、お前
が想うだけでは駄目だ。王子にも同じように想ってもらえなければ
嫌だろう?﹂
﹁そ、それは勿論ですわ!﹂
そんな事は想定もしていなかったのだろう。ミシュリーヌは慌て
て首肯する。
﹁ならばお前も、王子に愛される淑女になるのだ。そのための目指
すものがリディアーヌ様だ﹂
俺は鷹揚と頷く。
妹付きの侍女達は突然の話の方向に唖然としている。
よし、行けそうだ。
﹁俺は王子の兄としてライヒアルト殿を目指す。共に頑張っていこ
うではないか﹂
20
ミシュリーヌに向けて笑いかけると、俺は席を立った。
﹁さて、それでは王兄らしく、剣の修練をするとしよう﹂
そのままつかつかと扉へ歩いていき、止まる。
あまりにも咄嗟の行動。
﹁この部屋に入った時もそうだが、ミシュリーヌ付きの侍女は職務
怠慢のようだな﹂
言わんとすることに気づき、侍女が慌てて寄ってくる。が︱︱
﹁せっかく我ら兄妹が新しい道を歩む門出だというのに、水を差す
か﹂
俺は腰に差しておいた鞭を取り出し、振るう。
空を切る鋭い音が響き、侍女は身をすくませる。
﹁無能め、たっぷり鞭をくれてやった後は剣の試し斬りに使ってや
る﹂
﹁ひっ、ひいぃ﹂
絶望し、呻く侍女。
そこに、
﹁お、お待ちになってお兄様! 王兄たるもの、みだりに侍女を傷
つけてはいけませんわ!﹂
善し。
予想通り、我が妹は兄の暴虐を止めに入った。
侍女に多少意地悪な態度はとっていても、殺されるのを無視する
ほどではまだない。
﹁おっと、そうだな、その通りだ﹂
憑き物が落ちたかのような態度を見せると、俺は鞭をしまう。
﹁ありがとうミシュリーヌ、危うく王兄への道が遠のくところだっ
た。お前はむしろ近づいたのではないか? 使用人をかばうその優
しさ、まさにリディアーヌ様だ﹂
俺は愉快そうに笑う。
﹁では今度こそ行くか。そこの侍女、ミシュリーヌに許されたのだ。
自分の仕事をするがいい﹂
21
﹁はっ、はいっ!﹂
我に返った侍女が扉を開け、俺は妹の部屋を後にした。
22
4 兄、運動と勉学に励む︵前書き︶
ブックマーク・評価が凄い数になっていて驚きました!
感想・評価ありがとうございます、がんばります。
23
4 兄、運動と勉学に励む
﹁マルセル様、先程の振る舞いはもしや﹂
ミシュリーヌの部屋から戻る途中、ロイが話しかけてくる。
従者が主人に自分の興味で質問するとは、中々度胸がある奴だな。
﹁ほう、気づいたか。そう、あれは演技だ。ミシュリーヌは微妙な
年頃だから、ただ侍女を大事にしろと言っても素直に聞くまい。だ
から俺がわざと厳しく責めることで、自分からそうするように仕向
けたのだ﹂ ここでとぼければ、ロイは俺に違和感を持つだろう。
ならばむしろ得意げに披露した方が自然だ。
﹁マルセル様の深いお考え、感服いたしました﹂
﹁おお、そうか! あえて悪役を演じるというのはライヒアルト殿
もされていたからな。おおそうだ、こういうのはさりげなく真実が
伝わるものだからな⋮⋮。ロイ、折を見てあの侍女に俺の真意をは
話しておけ。あくまで自分から言った事にしておくのだぞ﹂
調子に乗ってみる。
﹁承知しました﹂
ロイは苦笑を隠しながら首肯した。
﹁さて、それでは昼食まで運動するか。あとロイ、剣術指南のロイ
ドに明日からまた来てくれるよう使いを出しておいてくれ。やはり
ライヒアルト殿といえば剣の腕だからな。これは外せん﹂
9歳から貴族の嗜みとして剣の修練が始まっていたのだが、運動
嫌いなかつての俺は怠けに怠けた。その上、己の職務を全うしよう
とする指南役に暇を出す始末である。
これに関しては俺も悪かったが、そんなんを許可する親も親だ⋮
⋮。
24
部屋に戻り動きやすい服装に着替えると、俺は館の東の庭に出た。
﹁まずは走るか﹂
鍛錬場として使われているこの東の庭、一周はおおよそ100メ
ートルくらいだろう。
﹁よし、目標は30周だ。俺は走っているから、濡らしたタオルと
果物を用意しておけ﹂
ロイに指示をすると、俺は走り始める。
初日から飛ばしてもつらいので3kmくらいからいこう。
﹁はー、はー﹂
10周を過ぎた段階で、俺はへろへろになっていた。
ダメだこの体、まるで体力がない!
自分の今までの生活の記憶を振り返って分かってはいたが、ここ
までだったとは。
そりゃあ没落後、民衆に追われて逃げるもあっさり捕まって殺さ
れるエンドなんてのもあるわけだ。
あー、あの時ミシュリーヌもあっさり捕まってたみたいだから、
明日から一緒に走ろう。勿論ああなる気はないけれど。
﹁マルセル様、あまりご無理はなさらない方が﹂
濡れタオルを手にして戻ってきたロイが、疲労困憊の俺を見て進
言する。果物が入っていると思しき手篭を持ったカナも心配そうに
こちらを見ている。
﹁そ、そうだな⋮⋮、いや、30は無理だがもう1周は走るぞ。何
せ俺は、王兄に、なるの、だから!﹂
結局、根性で更に1周し、合計13周を走った俺は地面にへたり
込んだ。
﹁どうぞ﹂
﹁うむ﹂
差し出された濡れタオルで、汗だくの顔を拭う。
気持ちがいい。
25
そのまま首筋、腕と拭いていく。秋の涼やかな風が火照った体を
冷ましていく。
﹁マルセル様、こちらもどうぞ﹂
カナが手篭を差し出してくる。俺が一息ついたのを察したのなら
上出来だが、ロイが目線で指示をだしていたようだ。
﹁ああ。︱︱おお、オランジェか。これはいい﹂
手篭にはオレンジとみかんの中間のような果物が10ほど入って
いた。
﹁あっ、どうしましょう。ナイフを借りてくるのを忘れてしまいま
した﹂
カナが己の失態に気づき、狼狽する。
それを制すると、一つ手に取り皮を剥いていく。みかんよりは硬
いが、わりと綺麗に剥けた。
﹁うむ、走ったあとのオランジェは美味いな﹂
平民のような所作でオランジェを食べる俺に、二人は驚いたよう
だった。
﹁ふふん、お前たちは知らないか? かつてライヒアルト殿が病で
苦しむ人々にためムラトンの町へ走った時の話だ。え∼と、どこだ
ったかな﹂
俺は持ってきておいた本をぱらぱらとめくる。
﹁ああここだ。お忍びで領地視察をしていたライヒアルト殿はある
行き倒れた男に薬草を託される。これを一刻の間に届けて欲しいと。
それを過ぎれば薬効を失ってしまうのだと。そこからムラトンの
町までは、大人が休まず走り続ければどうにか一刻という距離だ。
お忍び故に騎乗していなかったライヒアルト殿は己の脚で走りに走
り、無事刻限までにムラトンに辿り着き
薬師に薬草を届けたのだ。その礼にと街娘が渡したのがこのオラン
ジェで、ライヒアルト殿はその場で手ずから皮を剥き食したという﹂
俺はもう1つ剥いて、1房口に入れる。
﹁なので走るのとオランジェは相性がいい。厨房に、今後オランジ
26
ェを絶やすなと伝えておけ﹂
﹁は、はいっ!﹂
カナは弾かれたように館の中に入って行った。
﹁ロイ、風呂の用意をするように伝えろ。こう汗をかいたのでは流
石に気持ちが悪い﹂
﹁︱︱承知しました﹂
ロイは一瞬怪訝そうにする。
それもそのはず。これまでの俺は大の風呂嫌いだったのである。
原作ゲームでは成長してもそれは変わらなかったようで、体臭を
誤魔化すために大量の香水を使用していたという
現代日本の衛生観念を思い出した俺から見れば悪夢のような状態で
ある。
でもこれ、史実の中世辺りだと実は普通なんだよな。水が体に悪
いという認識があったそうで。リアル貴族の嗜みが嫌がられるとか
皮肉か。
なおこの世界、結構日本ナイズされているようでトイレも普通に
ある。けっして窓からアレが降ってきたりはしない。
心から良かったと思う。
風呂から上がってさっぱりした俺は自室で本を読んでいた。
もちろん王兄のエピソードを仕込むためである。
この﹃王兄ライヒアルト伝﹄お子様向けの簡略版とは別に、中学
生向け的な内容が濃くなったものも存在する。
今後に備えて何かしら仕込んでおかなければ。
俺は昼食の用意ができるまで読書にふけった。
﹁というわけだミス・マリー。俺に王兄に相応しい知識と礼法を教
えてくれ﹂
昼食後、勉強の開始時刻に学習室に居た俺︵それまでは自室で食
後の昼寝をして起きてこないのが常だった︶に、ガヴァネスのマリ
27
ーが心底驚いた顔をしたので例によって宣言しておいた。
ミス・マリーはとある男爵家の次女なのだが家が没落して働きに
出ることになり、その優秀さが認められて我が家で働いている。し
かしながら、とにかく自分のしたいことしかしないかつての俺が相
手ではその優秀さを発揮することが
できないでいた。
﹁なるほど、大変よい心がけですわ﹂
ようやくやる気になった俺を見て喜んだようだが、目は笑ってい
ない。どうせ3日もあれば元の木阿弥だろうという諦観が漂ってい
る。
﹁ああ、では早速頼む。まずは算術だな。ライヒアルト殿は行列が
出来て難儀をしていた商家の丁稚を手伝い、一度に10人の注文を
正確に計算したという。俺もそれくらいにならねばいかん﹂
先ほど仕込んだネタを披露するが、聖徳太子かよ王兄。
﹁分かりました。それでは商家で買い物をする問題でよろしいです
か?﹂
﹁おお、丁度いいな。そうしてくれ﹂
﹁それでは︱︱これはどうでしょう?﹂
ミス・マリーは帳面にさらさらと問題を書いていく。
﹃1アージェのパンと3アージェの腸詰を買うと合わせて何アージ
ェでしょう﹄
1+3である。
しかしここでまともに答えてはマルセルらしくない。
﹁俺はそんな安い買い物はせん﹂
そもそも公爵家の長男なので買い物自体しないのだが、何故か金
に関する知識はきちんと刻まれていた。俗物である。
﹁⋮⋮では、1ゴルトの紅玉と3ゴルトの碧玉を買うと合わせてい
くらでしょう﹂
﹁おお、それならやる気が出るな。答えは4ゴルトだ﹂
自信満々で答える。まあ、これくらいは正答してもよかろう。と
28
いうか前にもやったから復習だこれ。
﹁正解です。ちゃんと身についておられましたか。では次です﹂
どこまで理解しているかを確認する、いい先生じゃないか。
﹃6ゴルトの青玉と9ゴルトの金剛石、合わせていくらでしょう﹄
﹁これは手を使えば余裕だ﹂
俺は両手を広げて6を数えて指を折り、そこから更に9数えなが
ら指を折った﹂
﹁5だな﹂
またも自信に満ちた顔を見せる。
﹁う∼ん、惜しいです﹂
﹁何だと! ここに指が5本立っているだろう!﹂
納得いかんと手のひらを突きつけると、ミス・マリーはそっとそ
の手を包み込む。
﹁マルセル様、大きい数だと判断して指を使えたのはお見事です。
あとは数え方を少し直しましょう﹂
﹁⋮⋮少しか、ならよかろう﹂
﹁ではいきますね。初めの6、これはその通りです。そこから1,
2,3,4、ここでいくつになりました?﹂
﹁10に決まって︱︱、あっ﹂
﹁ふふ、お気づきになられましたね。そこから5,6,7,8,9
で5本なので︱︱﹂
﹁15だな!﹂
﹁素晴らしい。正解です﹂
ミス・マリーは拍手をしてくる。
先ほどまでの暗い目ではなく、教え子の気づきに喜ぶ明るい目を
していた。
﹁そしてマルセル様、とっておきの方法をお教えしますわ。先ほど
マルセル様は5と答えてしまいましたが、それを間違いだと簡単に
気づける方法がございます﹂
﹁何だと! 教えろ!﹂
29
﹁ふふふ、まず青玉だけで6ゴルトしますよね。そこからもう1つ
買うと6ゴルトよりもどうなるはずですか?﹂
﹁もちろん多くなる。ん、そうか!﹂
﹁そうです。数える前に、答えが6より大きくなるのは実は分かる
のです。よって、5という答えはどこかで間違っていると知ること
ができます﹂
ミス・マリーはにっこりと微笑んだ。
実に丁寧な指導法である。ただ正答を言うのではなく納得できる
よう理屈を教え、おまけとして確かめのやり方も教える。
簡単なことを理解できるように教えるのは難しい。
ミス・マリーにその力があるのか試してみたが、確かな実力を感
じた。
この人ならば、来年からミシュリーヌのガヴァネスになってもら
って間違いはないだろう。
﹁これはいいな! もっと教えてくれ﹂
﹁マルセル様がやる気を出してくださって、本当に嬉しく思います。
では、10のまとまりをつくる練習をしましょう。9に何を足すと
10になりますか?﹂
﹁1だ﹂
﹁では6には?﹂
﹁えーと、7,8,9,10⋮⋮4!﹂
﹁お見事です! それでは︱︱﹂
こうしてミス・マリーとの勉強の時間は過ぎていくのだった。
30
5 兄、師匠にしごかれる︵前書き︶
日間ランキング2位というのを見て変な声が出ました。ありがとう
ございます!
31
5 兄、師匠にしごかれる
勉強を終えた俺は自室で休んでいた。
ミス・マリーは噂に違わぬ優秀な人物だった。
あんなに博識で教えるのも上手な人が家庭教師として付いていた
のにも関わらず明後日の方向に突き進んでしまった原作での俺たち
兄妹って一体⋮⋮。
﹃何を言うかではなく誰が言うかだ﹄などという言葉もあるが、
更に進んで﹃誰が言うかではなく誰が聞くかだ﹄と言った所か。馬
の耳に念仏という諺はまさしくその通りである。
とにかくミス・マリーは算術以外にも明るいようで、歴史や地理、
政治や法につながっていくような内容の入口についても噛み砕いて
教えてくれた。
算術は前世と共通なので演技をするのに骨が折れたが、こちら独
自の人文科学・社会科学的な内容は興味深く聞き入ってしまった。
まあ初日で気合が入っているということでいいだろう。
明日も頑張って3日めで少しだらけ、1週間ほどで元に戻るかと
思いきや持ち直す、というような流れで行こう。
空腹を覚えた丁度その時、ノックの音が響く。
﹁マルセル様、夕食の用意ができました﹂
﹁ああ、今行く﹂
ロイが呼びに来て、俺は食堂室へと向かった。
食堂室にはミシュリーヌが既に来ており席に座っていた。
釣り目気味なのはいつものことだが、どことなく表情が柔らかい。
お付きの侍女の表情も僅かだが明るく、何やらいい雰囲気を感じた。
善きかな善きかな。
﹁お兄様、お昼前にお庭にいらしたそうだけど、一体何をしてらし
たの?﹂
32
席に着くとミシュリーヌが不思議そうに聞いてくる。
﹁ああ実は︱︱、おっとでは問題を出そう。東の庭は体を鍛えるた
めの場所だ、ではそこにいた俺は何をしていたと思う?﹂
ミス・マリーに感化され、ミシュリーヌに問題を出してみる。
﹁う∼ん⋮⋮、さっぱり分かりませんわ、降参です﹂
おいおい、大丈夫かうちの妹。
﹁体を鍛えていたに決まっているだろう!﹂
﹁ええっ!?﹂
驚愕の表情で口元を覆うミシュリーヌ。
﹁お兄様が運動をするなんて、とても思いつきませんでしたわ﹂
大丈夫じゃないのは妹の中の兄像だった⋮⋮。
﹁⋮⋮まあ、昨日までの俺はそうだったな。だが今日からは違う、
心身共に優れた王兄となるべく生まれ変わったのだ! というわけ
だからミシュリーヌ、お前も明日から一緒に走ろう﹂
﹁ええー、嫌ですわそんなの、めんどうだし疲れるし。それに走る
と汗をかくじゃありませんか﹂
とんでもないと首をふる我が妹。
いかん、これでは民衆にとっ捕まるルートに入ったら逃げ切れな
い。
何かいい手はないかと考えていると、父上と母上が食堂室に入っ
てきた。
父上︱︱アルダートン公爵、ロドリグ・アルダートン。
原作ゲームだと名前は出てくるが登場はしない。
外見は、金髪に茶色の瞳。顔の造形は悪くはない。多少中年太り
の気配が漂ってはいるものの、原作の俺と比べたら十分常識の範囲
内だ。
表情も、いかにも悪役ですといったものではなく、俺とミシュリ
ーヌに向ける視線は優しい。
席についた父上の口は、俺に穏やかな口調で話しかけた。
﹁しばらくぶりに家族で囲む夕食だな。昨晩は無能の御者のせいで
33
着くのが遅れ、マルセルには寂しい夕食をとらせたな。ああ、その
屑は昨日のうちに解雇して町から放り出しておいたから安心しなさ
い﹂
満面の笑みで酷いことをあっさりと言う。
﹁︱︱いえ父上、俺ももう10歳です。独りでの夕食を寂しいがる
ような子どもではありません﹂
だから御者への罰をご再考、と言おうとしたが、止めた。
﹁そうか、お前も大きくなったのだなぁ。それが分かったのなら、
あのような無能を雇っておいた意味もあったというものか﹂
満足そうに笑う父上。
﹁ねえあなた、無能な御者の話など止めて、マルセルに王都の話を
聞かせてあげましょう。今回は残念だったけれど、またすぐ訪れる
機会があるでしょうから﹂
母上、アルダートン公爵夫人、ジスレーヌ・アルダートンが何事
もなかったかのように話題を変える。
ちなみに、今回の王都行きの前日、俺は軽い風邪をひいて寝込ん
でしまい同行できなかったのだ。
母上は長い薄茶色の髪に赤い瞳。
自分の親ながら美しいとは思う。しかし父上と同じく、家族に向
ける視線は普通だが、身分の低いものにはどこまでも非情な女性だ。
分かってはいたが、この2人を変えるのは非常に困難だろう。
生き方そのものに、身分が下の存在を認めないという思想が刻ま
れているように思える。
⋮⋮やはり、当初の予定通り自分とミシュリーヌを変えるしかあ
るまい。
﹁おや、マルセルの料理の量が少ない上に野菜もあるではないか﹂
父上はパンパンと手を叩くと、後ろに控えていたハウス・スチュ
ワードのイアンがすっと歩み寄る。
﹁料理長を解雇して町からたたき出せ﹂
﹁かしこまりました﹂
34
即断即決にも程がある。
﹁お待ちください父上、これは俺の望んだことなのです。どうも食
事の好みが変わりまして、また新しい者に伝えるのも面倒くさいの
で、今のままにしていただくようお願いします﹂
俺はあえて、王兄たるもの∼という言での説得を控えた。
﹁ふむ、マルセルが望んだのか。ならばまあ良かろう。ああ、王都
の話だったな。今回は王宮でミシュリーヌとエドワーズ王子の対面
をするために行ったのだが、他にも公爵家の方々の邸宅に招かれて
︱︱﹂
父上は俺の願いをあっさりと聞き入れると、話に戻った。
この使用人の扱いの軽さよ。
⋮⋮ミス・マリーは問題ないだろうけど、うっかり侍女が町から
たたき出されないように気にしてやらないとな。
こうして、一見温かい家族の団欒の時間は過ぎていった。
翌日の午前中、俺は一人で東の庭を走っていた。
ミシュリーヌの部屋を訪れて誘ったのだが、やはり断られた。
準備万端で訪れた俺の姿を見て妹曰く、運動用の服があまりに優
雅さに欠ける、だそうだ。
⋮⋮一瞬公爵家長男のお小遣いを投じて総レースでフリっフリで
リボンまみれな運動着を仕立ててやろうかと思ったが、そうして出
来たモノは最早運動着としての機能を喪失しているであろうことに
気づき、却下する。
確かにこの運動用の服は、男子ならまだしも公爵家の娘が着るの
に適してはいないが、どうにかその気にさせられないものか⋮⋮。
などと考えているうちに昨日よりも多い15周を走りきり、オラ
ンジェをつまみながら休憩していると意中の人物が現れた。
﹁久しぶりだな、ロイド﹂
﹁⋮⋮ご無沙汰しております、マルセル様﹂
35
180cmをゆうに越える長身と、引き締まった体躯、鋭い眼光。
頬と顎にうっすらとはしる向こう傷。
そして四十路を過ぎたからこそ漂う熟達者の風格。
戦士のお手本のようなこの男がロイド、俺の剣術指南役である。
うむ、怖い。
主に表情が怖い。
それはそうだよな、稽古が面倒だから来るなと言っておいて放り
出し、いきなり明日からまた来い、だもの。
流石に敵陣の真っただ中で俺に手を出したりはしないだろう、歴
戦の戦士の経験的に。
だがこのピリピリとした敵意オーラ、辛い。
ええい、このまま縮こまっていてもらちがあかない、突撃だ。
﹁俺のわがままで来るなと言っておきながらいきなり呼びつけた無
礼をまずは詫びる。そしてまた、俺に剣を教えてくれ。俺はライヒ
アルト殿のようになるのだ﹂
俺はぺこりと頭を下げ、今回呼びつけた理由を話した。
ここに来たということは断られはしないだろうけど、渋られるだ
ろうな。
﹁承知つかまつった。それでは早速始めましょう﹂
快諾である。
おいおい、ずいぶんとチョロいぞ歴戦の戦士。
あれか、澄んだ目をしている、とかか。
﹁その前に、私からもお詫びを。マルセル様がこの鍛錬場を駆けて
いる様子、陰から覗いておりました。ご容赦ください﹂
あまりにあっさりと了承されて戸惑う俺に、ぺこりと頭を下げる
ロイド。
﹁なっ、貴様っ! 無様な所を見おって!﹂
丸豚モードで憤慨して見せる俺に、ロイドは小さく笑う。
﹁従者殿に呼ばれた時は正直気が進みませんでしたが、先ほどのお
姿を見て考えが変わりました。ここまでだと思ったところからもう
36
1つ踏ん張るその姿勢がおありならば、今一度私の剣をさずけまし
ょう﹂
流石は達人だった。見るところを見ている。
﹁ふっ、期待しているぞ﹂
俺は鷹揚と頷いた。
﹁それでは、まずはここを10周いたしましょう﹂
﹁じゅ、10周だと! ロイド! さっき自分でも言っていただろ
う! 俺はここまでだというところから更に走ったのだ。それをも
う10周なんて無茶だ! 剣を教えろ剣を!﹂
﹁果物を食べて休んだのならば、あと10周は行けます。それに、
まだまだ剣を使う段階ではありません、さあ走って﹂
有無を言わさず追い立てられ、俺は走りだした。
案の定5周目で力尽きるも、ロイドは俺を時にはなだめすかし、
時に厳しい事を言い、10周完走させた。
﹁流石は王兄となられるマルセル様、見事走りきりましたな﹂
﹁と、当然だろう、これ、くらい﹂
俺は荒い息を吐きながら水分補給にオランジェを食べる。
しばらくして息が整ったところで、俺は立ち上がった。
﹁よし、では剣の修行を⋮⋮﹂
﹁もう10周しましょう﹂
梃子でも方針を変えないという、強い意思を感じる笑顔でロイド
は宣言した。
⋮⋮歴戦の戦士改め鬼軍曹と呼ぼう。
のろのろと鍛錬場を走り始めながら、俺はそう心の中で決めた。
37
5 兄、師匠にしごかれる︵後書き︶
感想をたくさん頂けてとても嬉しいのですが、本来小説内で表現し
たいことや明かしたいことをついつい返信で説明したい衝動に駆ら
れるので、もう少し話が進むまで返信は控えさせて頂きます。ご了
承ください。
38
6 兄、本の館にて困惑す︵前書き︶
温かい感想、的確なご指摘を頂きありがとうございます。
おかげさまで続ける燃料になっております。
39
6 兄、本の館にて困惑す
ロイドとの訓練が終わった後、俺は疲労困憊の状態でどうにか風
呂に入った。
間に何度も休憩を挟んだとはいえ、自主練習を含めると35周を
走ったのは非常に堪えた。
あの鬼軍曹、走り終わってからようやく剣を教えると言ったもの
の、これが木剣での素振りを100本。
まあ基本が出来ていないと教えようがないだろうから、きちんと
順を追って教えてくれているのだろう。
ミス・マリーと同じく良い師であると言える。
風呂から上がった俺は部屋で体を休めた。
流石に今日は本も読まず、ただベッドに横たわっていた。
心地よい疲労からとろとろと眠りに落ちそうになった頃に、部屋
がノックされ、俺は食堂室に向かった。
食堂室で、昨日指示した通りの量の昼食を食べる。
むむ、たくさん運動したからか、もう少し肉が欲しいかなと思っ
てしまう。
基本この体、今までさんざん蓄えてきているので燃費がすこぶる
悪い。いや、いかんいかん、いくらなんでも昨日の今日でもう少し
増やしてくれは我ながら恥ずかしい。
せめてこのむにむにの腹肉がつまめない程度になるまではこの量
でいこう。
﹁あらお兄様、本当にお野菜も食べているのですね。それに量もわ
たしと同じ位﹂
食堂室にやってきたミシュリーヌが目を丸くして言った。
40
﹁ああ、いつも朝起きると腹がもたれて気分が悪かったのだが、今
朝はそれがない。野菜と適度な量のパンと肉というのは体にいいよ
うだ﹂
﹁お兄様は、いつも体全体に詰め込むように食べていらっしゃった
ものね、それもすっごく早く﹂
今までの俺の食べっぷりを思い出したのか、くすくすと笑う我が
妹。
﹁あれは、今思えば我ながら優雅では無かったな⋮⋮﹂
丸豚時は、ミシュリーヌの軽口に反応して口喧嘩という流れが多
かったのだが、俺は素直に今までの自分を省みた。
﹁⋮⋮お兄様、本当にライヒアルト様を目指しているのですね﹂
﹁もちろんだ。エドワーズ王子の兄として恥ずかしくないようにな
らねば。このまま好き勝手に食べて豚のようにふくらんでしまって
は、とてもお近くになど立てん﹂
﹁あら、エドワーズ様は立派な方ですから、体型で人を判断したり
しませんわよ! 王宮でお話した時、見目麗しくても優しさがない
人より、外見はどうあれ他人を思いやれる人の方が立派だと思いま
せんかとおっしゃっていましたもの。わたしも当然、そう思います
と言いましたわ﹂
流石はエドワーズ様∼ととろけそうな笑顔になるミシュリーヌ。
うん、盛り上がってるところ悪いんだけど、お兄ちゃんどういう
状況でその会話がされたのかすっごく心配⋮⋮。
予想だけど、誰かしらを叱責したのを王子に見られて、遠まわし
に咎められたのではなかろうか。
それで我が妹はそれに気づかず一般論として同意したと。
⋮⋮ミシュリーヌに対する王子の第一印象はかなり低いなこれ。
今度王宮にいくまでにどうにか軌道修正しておかなければ。
対策を練りながらミシュリーヌのエドワーズ王子話を軽く聞き流
し、俺は昼食を続けた。
41
食事を終えた俺は部屋でしばらく食休みをしてから、ミス・マリ
ーと勉強をした。
午前の運動で今日は一日動けないかもと思っていたが、入浴休憩
食事休憩で回復したので支障はなく勉強に励むことができた。
午前の運動の途中、ロイドに俺の今日の予定を聞かれたけど、こ
こまで計算して訓練内容を決めたのだとすると凄い。
今日は昨日よりも勉強時間が短い日なので、算術と地理に関する
内容に集中した。
ミス・マリーは手作りと思われる教材教具を用意しており、気合
を入れて教えてくれたので短いながらも濃密な内容であった。本当
に、いい先生だと思う。
勉強を終えた俺は西の庭にある離れに来ていた。
今日は三日に一度の読み書きの日なのだ。
前世の記憶を取り戻してから不思議に思ったのがこの教育システ
ムだ。
基本、勉強はガヴァネスが教えるのだが、読み書きだけはその内
容に含まれていない。
ではどうするのかと言えばこの三日に一度の読み書きの日だ。
俺は離れを見上げる。
二階分ほどの高さのちょっとした塔のような外観だ。
扉を開け、訪いを告げる。
﹁ヴォル爺。来たぞ﹂
離れの内部は、館とはだいぶ趣が違った。
部屋の中央には大量の本が積み上げられた円卓があった。
奥に寝室への扉がある他は、壁が全面全て本棚と、それを取るた
めの梯子になっている。
前世基準でいえば市立図書館とはいかないまでも、学校の図書室
くらいの蔵書は優にあるだろう。
42
天井から魔道具が吊るされており、明るい光を放っている。
﹁おお、いらっしゃいませマルセル様﹂
本の山から声が聞こえた。
大量に積み上げられた本に埋もれれるようにして座っているのは、
この離れの主であるヴォルフラム老である。
このお爺さんだけは、今までのマルセルもどう接していいかよく
分かっていなかった。
祖父というわけではない。
俺とミシュリーヌに読み書きを教える先生ということなのだが、
ただの使用人ではない。
あの両親が一定の敬意を払っていることから、客人とでも言うべ
きだろうか。
どういう身分で両親とはどういう関係なのかもよく分からないの
だが、とても才を見込んでどこかの貴族を教育役として招いたとは
思えない。
機会を見て聞いてみよう。
﹁さあさあ、そこに座って今日の分の字の書き取りをなさい。飽き
たら適当に本を読んでいていいですぞ﹂
俺に指示を出すとヴォル爺は自分の読書に戻った。
時折グラスを傾けている。
ワインだ。
この爺さん、俺が物心ついた時から、ここでこうしてワインを片
手に読書に耽っている。
初めのうちはある程度きちんと読み書きを教えてくれていたのだ
が、ある程度できるようになると後は基本的に自習となった。指示
された分をこなし、あとは読書をして過ごす。
今思えば不思議なのだが、この読み書きの時間だけは、俺の我儘
は一切通らなかった。
いかに飽きたと駄々をこねようと、必ず決められた時間は居なけ
ればいけないのだ。
43
そういえば、何故だろう。
これも確かめる必要があるな。
﹁ヴォル爺、来ましたわよ﹂
ミシュリーヌもやってくる。
いつも一緒にいる侍女も、この時間は居ない。離れまでミシュリ
ーヌに同行すると、あとは館に戻るのだ。
﹁いらっしゃいませミシュリーヌ様。今日の分の書き取りがそこに
ありますのでやってくだされ﹂
﹁分かりましたわ﹂
ミシュリーヌも、ヴォル爺に対しては素直に接する。多分、俺と
同じくどういう存在だかよく分からないので一応敬っておこうとい
ったところだろう。
俺とミシュリーヌは並んで椅子に座り、それぞれの書き取りをこ
なしていく。前世基準で言うと俺が中学一年生の内容、ミシュリー
ヌが小学校高学年の内容だ。
この世界の言語は日本語なのだが、文字も日本語である。
英語ドイツ語フランス語等の言語もあるのだが、こちらは上位古
代語と呼ばれている。
漢字は下位古代語だそうで、これを元に作られたのが現在使われ
ている文字だとのことだ。
人名を中心に固有名詞や一部の言い回しには上位古代語を使われ
ているが、母語として使う国や民族は居ない。
しかしながら、書物としては大量に存在しており、俺も習わされ
ている。
どうやら古代語の習得が貴族の嗜みであるらしく、言語の習得に
はかなりの力を入れているのだ。
今までの俺が曲がりなりにも10才で中学校一年生レベルの漢字
を大体覚えていることから、その熱の入れようが分かるというもの
だ。
44
なのだが、このヴォル爺である。
さっきも言ったが、ある程度基礎ができたらあとは自習という放
任主義。
教えようという気概が感じられない。
ミス・マリーのように今までの俺に失望してというのならば分か
るが、この爺さんは始めからこんな感じであった。
俺は書き取りを終えると、ヴォル爺の元に寄って行く。
﹁ヴォル爺、終わったぞ﹂
﹁おやおや、お早いですな。ではこちらを、上位古代語の基本文字
です﹂
アルファベットの書き取り用紙を渡し、ヴォル爺は再びワインと
読書に意識を集中させる。
これも集中してさっさと終わらせる。
﹁終わったぞ﹂
﹁では、今日の書き取りはおしまいですな。ゆるりと読書をなさい﹂
﹁今度の分はないのか? もっと出来る。次からは量を増やしてく
れ﹂
俺の主張に、ヴォル爺はほっほっほと笑う。
﹁何やら、今日のマルセル様はやる気に溢れておりますな﹂
﹁ああ、ヴォル爺、俺は王兄ライヒアルト殿を目指すのだ。だから、
もっとたくさん教えてくれ﹂
いつもの宣言をする。
﹁王兄、ですか。ああ、ミシュリーヌ様とエドワーズ王子がご婚約
なされたのでしたな。ミシュリーヌ様おめでとうございます﹂
﹁そうなのよヴォル爺! 聞いて聞いて、エドワーズ様はね︱︱﹂
﹁待てミシュリーヌ。ヴォル爺、そういうわけだから俺は今までと
は変わるのだ。だからもっと︱︱﹂
王子トークに花を咲かせようと喜ぶミシュリーヌを遮り、俺は言
い募るが、
45
﹁成ろうと思う者は成れず、成れぬと思う者は成る︱︱、さて、汝
は成るや否や?﹂
ヴォル爺はそれまでのほろ酔いの雰囲気を一変させ、俺を見据え
た。
それは、否定や拒絶に類する雰囲気。
今まで変わることに対し好意的な反応を得ていた俺は、その視線
を受けて腹に痛みを感じる。
﹁﹃歩いて月を目指す﹄、古い諺です。応援しておりますよ、マル
セル様。︱︱さてミシュリーヌ様、エドワーズ王子とのお話を聞か
せてくだされ﹂
再びほろ酔いの好々爺に戻ったヴォルフラムはミシュリーヌに話
を振った。
俺は残りの読み書きの時間中、その言葉の意味を考え続けた。
46
6 兄、本の館にて困惑す︵後書き︶
ヴォル爺のセリフ、実は昔のアニメに元ネタがあります。
47
7 兄、本の館にて敗北す︵前書き︶
ヴォル爺 の 年の功
マルセル は 赤面 した
48
7 兄、本の館にて敗北す
前世の記憶を取り戻してから1月程が過ぎた。
秋も深まって寒くなってきていたが、俺は今日も訓練場を走って
いる。ロイドには距離を増やすよりもできるだけ休まずに走りきる
ことを目標にするよう指導を受けており、完走目指して頑張ってい
る。
おかげで前世の感覚と今の体力とのズレを修正することができた。
ペース配分を間違えなければ、時間はかかるが30周を走りきる
ことができる。1週間前に初めて完走できたときは思わずガッツポ
ーズで叫び、ロイドから不思議そうな目で見られたものだ。
しかしながら完走できたのはそれきりで、ここのところ終盤でペ
ースが崩れて止まってしまうのが常だった。
原因ははっきりしている。
ヴォル爺のあの言葉だ。
俺の変化を、ロイ・カナ等の使用人たちやミス・マリー、ロイド
は好ましく評価してくれている。
はじめのうちはいつまでもつかといった雰囲気も感じてはいたが、
今は俺に対する見方が変わってきたようだ。
ミシュリーヌも、運動にはまだ付き合ってくれないものの俺への
態度が好意的になってきた。
だが、ヴォルフラムだけは違った。 両親にはまだ決意表明をしていないので除外するとして、俺の変
わる宣言を聞いた上で彼だけが、なお今までと対応を変えない。
本の塔では相変わらずワインを片手に自分の白いあご髭を撫で付
けながら本を読み耽り、思い出したように俺達に綴り方の練習や読
む本の指示を出す。
こちらがもっとやりたいとやる気を見せてものらりくらりとはぐ
らかされてしまう。
49
﹃成ろうと思う者は成れず、成れぬと思うものは成る︱︱、さて、
汝は成るや否や?﹄
﹃歩いて月を目指す﹄
あの日から考えているが、答えは出ない。
その次の読み書きの日に、反応を見るつもりで丸豚モードになり
﹁ヴォル爺! この前のあの言葉はどういう意味だ! 教えろ! 父上に言いつけるぞ!﹂と食ってかかってみた。そしたら、
﹁お答えしてもいいですが、一生答えが分からなくなりますぞ? よいですかな?﹂
ときたもんだ。
結局、自分で考えると引き下がったのだが、分かったことがある。
ヴォル爺は父上を恐れてはいない。
俺が本当に言いつけると思っていないのかもしれないが、父上の
事を持ち出されても何の動揺もなかった。
そして、変わると宣言したのにあっさり父上に頼った俺に対して
何の失望もしなかった。
この1ヶ月、俺は勉強と訓練を適度にだらけた。
はじめの2週間は3日に一度、先週は一度だけ、やっぱ止めよう
かなオーラをだして取り組んだのだ。
それだけでもミス・マリーやロイドは寂しさとやるせなさの混じ
った表情を向け、大層心苦しかった。
しかしヴォル爺は違う。
俺が立派な目標を立てようが、それを裏切るような事を言おうが、
変わらない。
試しに、答えを教えろと迫った日の次から3回連続で、ヴォル爺
の課題をこなすだけで特に何も要求しないという良い子っぷりを見
せたが、それでも変化がなかった。
50
急に、息苦しさに気づく。
しまった、考え事をしていたらまたペースが。
いったん意識すると、それまで出過ぎていた速さがみるみる落ち、
脚と心肺が不満を隠さなくなる。 25周の時点で、俺は訓練場の地面にへたりこんだ。
﹁マルセル様、タオルです﹂
駆け寄ってきたカナが渡してくる。
﹁マルセル様、オランジェです﹂
同じく駆け寄ってきたロイが渡してくる。既に皮は剥かれており、
俺は3房まとめて口に放り込んだ。
﹁⋮⋮あり、がとう。用意が、いいっ、な﹂
﹁ロイド様が、もうじき限界が来るから準備しておくようにと仰っ
て。その通りでびっくりしました!﹂
﹁お見通し、か。ん⋮⋮、このオランジェ、昨日までのと味が違う
な。甘味が強い﹂
﹁あああ、そういえばヘレンさんから言付けられてたのをすっかり
忘れてました! ごめんなさい! 今までの種類がもう取れない時
期になったので、今日から別の種類になるそうです﹂
カナのうっかりは相変わらずである。
﹁マルセル様、何かお悩みがあるようですな﹂
ロイドが近づいてきてずばりと言った。
﹁今日は木剣を使っての訓練は行いません。休んであと5周したら、
足捌きの練習をいつもの倍やって終わりにしましょう﹂
﹁あんな地味なのを倍だと! ⋮⋮分かった、木剣とはいえ、集中
しきれていない状態で振っては危険だからな。それに、足捌きは大
事だ足捌きは。ライヒアルト殿は華麗な足捌きだけで10人の賊を
地に伏せさせたと言うしな﹂
こんなエピソードもあるなんて、流石だ王兄!
﹁ご理解頂けて嬉しく思います﹂
51
そうして走り終えて足捌きの訓練に入った俺はまたしても考え事
をしてしまい派手に転けるという失態を見せ、ロイドを呆れさせる
のだった。
おのれヴォル爺!
﹁あらマルセル様、ここの所、繰り上がりがあるのを忘れています
わ﹂
﹁な、なんだとっ!!﹂
ミス・マリーに指摘されて俺は驚愕の声を上げた。なお、演技で
はない。
今回は間違えるつもりではなかったのだが、考え事をしていたら
素で間違えてしまった。
﹁よくあるうっかり間違いですから、気を付けましょうね﹂
ミス・マリーから見れば大したことはないだろうが、こちらとし
てはかなりのショックである。
うう、顔が赤くなっているのが分かる。
﹁な、なあミス・マリー。﹃歩いて月を目指す﹄というのはどうい
う意味だと思う?﹂
指摘されるのも恥ずかしいので、質問をして誤魔化してみる。
﹁歩いて月、ですか⋮⋮﹂
ふむ、と考え込むミス・マリー。どうやら俺の赤面は気づかれな
かったようだ。
﹁言葉だけ見れば﹃とても叶わないことをやろうとする﹄という印
象ですが、どういう状況で使われた言葉なのかにもよりますね﹂
﹁⋮⋮どういう状況で、か。やはり、自分で考えるべきなのだろう
な。ありがとう﹂
﹁お力になれずに申し訳ありません。ところで︱︱、マルセル様は
意外とお気持ちが顔に出られる性質なのですね﹂
ばっちり気づかれてたー!
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しかも何ですかその﹁結構可愛いかも﹂的な眼差しは。
﹁な、何のことだか分からんなっ! さあミス・マリー、次の勉強
だ次の!﹂
﹁そして今日も、答えが出ないままここに来てしまった﹂
目の前の本の塔がどうにも高圧的に見え、俺は扉を開きかねてい
た。
﹁どうしたんですのお兄様?﹂
そんな所に、ミシュリーヌがやってくる。お付きの侍女も一緒だ。
ちょっとした距離なのだがしっかりと毛皮のケープを羽織ってい
る。白くてもこもこで、いかにも暖かそうだ。
﹁ん、いや別に何でもないぞ﹂
﹁何でもないのに扉の前でうろうろはしませんわ。ああ、エミはも
う戻って良いわよ﹂
﹁承知しました﹂
おお、ミシュリーヌが侍女を名前で呼んでる。
この1ヶ月、さりげなく﹃王妃リディアーヌ伝﹄の一節を教えた
り、使用人に対する接し方を示したりした効果がでてきたようだ。
﹁⋮⋮急ににこにこしだして、変なお兄様﹂
ほのぼのした俺に不審気な眼差しを向ける我が愛しの妹。
兄の心妹知らず、という奴か。
﹁ミシュリーヌ、お前は本当に可愛いな﹂
﹁全く心がこもってない表情と声で言わないでくださいまし!﹂
抗議の声を上げるミシュリーヌ。
うむ、ここ最近いいお兄ちゃん度が高かったから、少し調整して
おくか。
﹁こめているぞ。あー、ミシュリーヌは可愛いなー、本当可愛いー﹂
﹁もう! わたしが何をしたと言うんですの!?﹂
きーきー怒るミシュリーヌ。
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﹁ふふん、少しは自分で考えてみるのだな。俺だってここ最近は連
日考え事で︱︱﹂
ミシュリーヌから逃げようとくるりと背中を向けて、ふと閃いた。
﹁もしや︱︱﹂
﹁えい! えいっ!﹂
ミシュリーヌがポカポカと背中を叩いてくるが、気にならない。
﹁︱︱︱︱!﹂
﹁ちょ、お兄様ー!?﹂
驚きの声を背中に受けつつ、俺は本の塔の扉を開けた。
﹁おやマルセル様、扉が壊れるかと思いましたぞ﹂
ヴォル爺は相変わらずワインを片手に本を開いている。だが、そ
の表情は酔いで曇ってはいない。
﹁ヴォル爺。俺は答えを見つけたぞ。あの言葉そのものに、これだ
という意味はない。その意味を考えること自体に意味があるんだ!﹂
そう、あの問いと言葉自体は、様々な解釈が可能なものなのだ。
そこからこれが答えだというものを選んでも、それは時として容
易く変わってしまう。
何かの答えを気にし、悩み、他のことに集中できない、そんな事
はこの先もあるだろう。
だからこそ、一つの正解に執着し追い求めるのではなく、様々な
可能性を考慮に入れ泰然と構えることこそ重要、そういう事をヴォ
ル爺は教えたかったのだ。
そして問いは、相手に何か1つのことを考えるようにさせるとい
うことは、これ程相手を縛ることができる、その効果もまた、身を
もって体験することができた。
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そんなことをつらつらと言い募る。
すると︱︱
﹁ふむ、99点まで至れたようですが、ここにきて最終的に60点
ですな﹂
ヴォル爺は白い髭を撫でながらワイングラスを傾け、ニヤリと笑
う。
まるで悪の魔法使いのようだ。
﹁な、何故だ!﹂
﹁そう、まさにそれが故に﹂
﹁んん︱︱?﹂
俺の混乱を他所に、ヴォル爺は呵々大笑する。
﹁ハッハッハ、確かに見事気づくことができましたな。居着くこと
の恐ろしさとその対処について。しかしながら、今のご自分の様子
は如何に?﹂
﹁︱︱あっ!﹂
俺は我が身を省みて赤面した。
得意げに、思考が硬直することの危険性に気づいたと言っておき
ながら、今まさに俺は、ヴォル爺の評価の真意を測るという問いに
対して、硬直してしまっていた。
﹁くっ、これは⋮⋮﹂
﹁なお、100点の答えというのは、気づいた上でなおそれを答え
ないこと、でした﹂
答えを見つけて舞い上がるようではまだまだ青いですな、と微笑
みつつヴォル爺はワインをあおる。
﹁お兄様ー! 突然走り出して! さっきのこと、まだ許しており
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ませんわよ! お兄様ー?﹂
遅れて入って来たミシュリーヌに揺さぶられながら、俺は自分の
敗北を噛み締めるのだった。
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8 兄、決意を新たにす︵前書き︶
ひと空回り
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8 兄、決意を新たにす
季節は冬に変わった。
俺は夕食を終えて風呂から上がると、ロイに渡されたタオルで体
を拭きつつ、腹や手脚を見る。
3ヶ月ほど前は丸豚への兆しが見えていたが、今はすっきりと引
き締まってきている。流石にまだ腹筋が主張する程ではないが、腕
や脚にはのびやかな筋肉が感じられる。
いい傾向だ。
あまり自覚はないけど、成長期ということとバランスの取れた食
事を考えれば、身長も伸びてきている気がする。ロイに聞いてみよ
うかとも思ったが、毎日顔を合わせているのだから微妙な変化には
気づかないだろうと思い、止める。聞いて変に気を使わせても悪い
し。
いい感じの肉体を育んでくれた、ここ最近の訓練の内容を振り返
る。
最近は、木剣での素振りや足捌きに加えて、型の動きも組み込ま
れ始めた。
型というのは攻め側と守り側を決め、それぞれが定められた動き
をするというものだ。
習い始めの1週間程は、とてもゆっくりとした動きでお約束的に
剣を振るうこの訓練に何の意味があるのかと疑い、丸豚モードで文
句も言ったが、これが動きを覚えて速くなってくると大変だった。
木剣で、決められた場所に来るとは言っても、速度があればそこ
には破壊力が生まれる。
否が応にも真剣に集中して取り組むため、訓練が終わる頃にはへ
58
ろへろになってしまう。
しかし体力がついていないわけではない。相変わらず準備運動で
30周走っているが、速さが上がり、疲労は少なくなった。
こちらの体力に合わせた訓練内容をロイドは考えているのだろう。
ヴォル爺は相変わらず、決まった量しか読み書きの練習をさせて
くれないし、こちらの決意にもあまり反応を見せない。
基本的に本の虫で、掴みどころのない酔っぱらいである。
けれども、最近どこか関心を持って見てくれるようになった気が
する。
勉強では、前世と変わらない算術はもとより、他の内容について
も覚えがいいと褒められるようになった。
歴史については自国であるアルフェトーゾ王国の成り立ち。
地理については王国内の主要都市や地形についてを少しずつ教わ
っている。
理科的な分野についてはあまり体系的になっておらず、訓練の時
に食べるオランジェの種類が変わったことを皮切りに果物の品種と
収穫時期についての話をしばらくの期間勉強した。
ミス・マリーもはじめは知らない部分があったそうで、朝から書
物で調べたり時には町へ降りて調べたりしてくれた。 というわけで勉強については非常に順調なわけだ。
しかし順調過ぎるとも言えるだけに、この辺りについては、春か
らミシュリーヌの勉強も見てもらう関係上もう少し調整が必要だな。
ミス・マリーならば、ミシュリーヌに対して俺と比べてどうのこ
59
うのと言うことは無いだろう。だが、どうしても態度に出てしまわ
ないとは言い切れない。
そうなるればミス・マリーとミシュリーヌ、ひいては俺とミシュ
リーヌの関係が悪くなる危険がある。
ここはどうにかもう少し手を焼かせなければいけない。
礼儀作法については中々大変だが、新年には王城でのパーティー
に出席する予定なので、きちんと修得しなければ。
パーティーではいよいよエドワーズ王子とご対面である。
原作ゲーム内では公爵家の威を借りるだけでなく将来の王子の義
兄ということまで利用してやらかしていた丸豚ではあるが、今世で
はいい関係を築きたいところだ。原作のエドワーズ王子はチュート
リアル的ルートということもあり、温和で優しい上に悪には毅然と
して立ち向かうというまさに王子様。
こちらがおかしなことをしなければ敵対することはないだろう。
そんなことを考えながら自室へと戻る道すがら︱︱
﹁一体どういうことなの! 今日届くという話だったでしょう!﹂
ミシュリーヌの部屋の中から激昂した声が聞こえた。
最近は使用人への態度が軟化してきたと思っていたが、まだ駄目
か。
相変わらず運動に誘っても来ないし、道はまだ遠いな。
ロイの方を見やるとこちらの意を汲み、ミシュリーヌの部屋のド
アをノックし訪いを告げる。
﹁マルセル様がお嬢様にお会いしたいそうですが、よろしいでしょ
うか?﹂
室内でしばしどたばたとしたが、ややあって入室を促された。
60
﹁お兄様、淑女の部屋に急にお越しというのはマナー違反ですわよ﹂
どうにか気を落ち着けたようだが、まだ怒りの余韻を感じさせる
口調でミシュリーヌが言う。
﹁淑女ならば部屋の外まで響くような怒声は上げないだろう。何が
あったのだ?﹂
﹁⋮⋮お兄様には、関係の無いことですわ﹂
しまった。つい言葉じりをとらえるような言い方をしたせいか、
態度が硬化している。
出直すか、とも思ったが、来月には新年のパーティーなのだ。多
少強く出てでも侍女に対して言葉を荒らげるのは良くないというこ
とをきっちり教えこまなければ。
﹁ミシュリーヌ。俺に関係あるかないかはどうでもよい。さっきの
叫びが聞こえたが、何か届く予定のものが遅れたのだろう? それ
は運ぶ者の問題でこの場にいる侍女のせいではあるまい。悪くない
者に怒声をぶつけるというのは淑女の姿ではないぞ﹂
いささか冷たいかとは思ったが、今後のことを考え、たしなめる
ように言った。
﹁︱︱っ、お兄様の、莫迦ぁ!﹂
ミシュリーヌは目に涙をためてそう叫ぶと、寝室への扉へと消え
ていった。
﹁⋮⋮マルセル様、ご無礼を承知で申し上げますが、今夜はお引き
取りをお願いしたく存知ます﹂
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ミシュリーヌ付の侍女のエミがこちらに頭を下げる。
怒鳴られた当の本人なはずなのだが何故だろう、こころなしか俺
を責めているような雰囲気だ。
﹁分かった。⋮⋮ミシュリーヌの事で困ったら他の者を通じて言う
がいい。兄として話をしておく﹂
一応そう言ってみたのだが、反応は芳しくない。
﹁お心遣い、ありがとうございます。それではお休みなさいませ﹂
エミの言葉に見送られ、いや追い出され、俺は自室へと向かった。
﹁なあロイ、俺は何か間違えただろうか?﹂
弱気になったので聞いてみる。
﹁いえ、マルセル様は正しいことをお教えになられました⋮⋮﹂
そうは言うものの、ロイも何だか複雑そうな顔をしている。何と
いうか、間の悪さを嘆くような感じだ。
何か知ってるのだろうか。
﹁⋮⋮明日、何かミシュリーヌの機嫌を直させるようなことをして
みるか﹂
﹁大変素晴らしいお考えだと思います﹂
一も二もなく賛同するロイ。
こいつ絶対何か知ってるな。でも聞いても言わないだろう、この
雰囲気。
何となく釈然としないものを抱えながら、俺は眠りについた。
62
翌朝。
﹁おお、雪が⋮⋮!﹂
窓から庭を見ると、そこは一面、真っ白な雪で覆われていた。
深夜に降り積もったらしく、今は青空が見えている。
きらきらと陽光が反射し、眩しい。
﹁よし、これで行くか﹂
雪を見た俺はある考えを思いつき、ロイを呼び寄せた。
朝食を済ませた俺はすぐに部屋に戻る。
なお、最近朝食をミシュリーヌと食べることが多かったが、今日
は時間を外し、既に食べ終えたということだった。
まあ予想のうちだ。
俺は早速いつもの運動着に着替える。
普段はそこで終わりだが、今日は防寒着を着こみ、手袋と帽子も
用意する。
丁度こちらの準備が終わったところで、ノックの音。
﹁入ってくれ﹂
﹁失礼いたします。マルセル様、お嬢様の方は準備が整ったとのこ
とです﹂
﹁それはいい。こちらも準備ができたところだ。行くとしよう﹂
﹁お兄様、一体どういうつもりですの? こんな所に連れ出して﹂
63
東の訓練場にエミを伴ってやってきたミシュリーヌは不満げに言
った。
やはり昨日の事が尾を引いているようだ。
だが、こちらの言った通り、できるだけ動きやすいかつ暖かい格
好をしてきてくれていた。
﹁せっかく雪が積もったのでな、一緒に雪人を作ろうではないか﹂
これぞ俺が雪を見て思いついた、一緒に雪だるまを作って仲直り
しよう作戦である。
なお本作戦実行の為、ロイドには今日は訓練を中止にすると伝え
ておいた。
﹁雪人を! できますの?﹂
一転、興味深い表情になる我が妹。
﹁ああ、ヴォル爺の所で読んだ古代語の絵本に描いてあっただろう
? 一人では無理だからな、ミシュリーヌにも協力して欲しいのだ﹂
﹁仕方ないですわね、手伝ってあげますわ。あれは大きいですもの
ね!﹂
目に見えてわくわくしているのが伝わってくる。
やはり子供は雪ではしゃぐものだな。
俺自身も、体の方に引きずられているらしくどこか気分が盛り上
がっている。
﹁ではまず脚の段を作ろう﹂
俺は足元の雪を持って固め、核になる部分をつくる。
幸い固まりやすい雪が降ったため、少し転がすとどんどんまとわ
りついてくる。
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﹁お兄様ばっかりずるいですわ! わたしもやる!﹂
ミシュリーヌが慌てて主張したのでゆずると、意気揚々と転がし
ていく。どんどん大きくなってミシュリーヌの太もも辺りの高さに
なると、動きが鈍くなった。
﹁お兄様ー! 手伝ってくださいませー!﹂
﹁ああ、今行くぞ!﹂
どうやら機嫌は良くなったようだ。
その後、二人がかりで1段目の雪玉を訓練場わきの屋根がかけら
れている下まで動かした。
大きさは俺の胸あたりまでになり、最後のひと押しはロイの手を
借りることとなった。
﹁どうしてここに置くんですの?﹂
﹁屋根があって日差しを防げるからだ。雪や氷は暖かくなると溶け
てしまうからな。少しでも長持ちさせたいのだ﹂
﹁⋮⋮絵本の子もおまじないをかけていましたわね﹂
﹁︽未だ 誰でもない 君よ だから 僕が︱︱︾﹂
﹁︽名前を 贈ろう 僕の 友達︾﹂
俺がヴォル爺の所で読んだ上位古代語の絵本の一節を引用すると、
ミシュリーヌが途中から引き継いだ。
﹁︽それは 冬の 訪れを 知らせる
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それは 春の 目覚めを 告げる だから 季節が 許すまで︱︱︾﹂
歌うように、ミシュリーヌが暗唱する。
﹁︽そばに 居よう 僕の 友達︾﹂
最後の一文には俺も参加した。
﹁絵本とはいえ上位古代語の暗唱がもうできるのか。偉いぞミシュ
リーヌ﹂
﹁いいお話でしたから、すっと心に入ってきましたのよ﹂
これくらい当然ですわ的な反応がくるかと思いきや、しおらしい
事を言うミシュリーヌ。
﹁さあ、お兄様、お腹と頭も作ってあげましょう!﹂
それから俺とミシュリーヌは、雪人に関する童話の暗唱をしなが
ら胴体、頭を作った。
胴体は二人で乗せられたが、頭は高くて大変だったのでロイとエ
ミ、タオルと頼んだ物を持ってやってきたカナに乗せてもらう。
そうして、カナに厨房から持ってこさせた人参を鼻にし、比較的
丸い小石を目にする。頭には古くなった鍋を乗せた。
﹁完成だな!﹂
﹁可愛いですわ!﹂
ミシュリーヌと2人、作った雪人を満足して眺める。
﹁あの絵本のように、動き出したら素敵ですのに︱︱くしゅん!﹂
おっと、いけない。
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﹁ミシュリーヌ、すぐに風呂に入って温まるんだ。結構汗をかいた
はずだからな。そのまま冷やすと風邪をひいてしまう。カナ、用意
を急いでくれ!﹂
﹁かしこまりました!﹂
いつになく俊敏に行動するカナ。やればできるじゃないか。
﹁作っている最中は気づきませんでしたけど、こんなに汗をかいて
いましたのね﹂
﹁結構いい運動になったな。今日は訓練を中止にしたが、同じくら
いは汗をかいたかもしれん。疲れただろう﹂
﹁疲れましたけど、何だか気持ちがいいですわ﹂
すっきりとした表情で、ミシュリーヌは言う。
﹁やっぱりもっと︱︱︱︱﹂
﹁ん? 何か言ったか?﹂
﹁何でもありませんわ!﹂
何事かをつぶやいたようだったが、ミシュリーヌは慌てて否定す
る。
﹁お風呂に入ります!﹂
宣言し、ミシュリーヌは館へと戻った。
俺はミシュリーヌが出るまでただ待っていても冷えてしまうので、
雪中での足捌きの練習に取り組んだ。
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その日の夕食後、俺は部屋でミシュリーヌを待っていた。
向こうから来るのは珍しいが、何やら見せたいものがあるとか。
一体何だろう。
迎える準備の為、ロイとカナが控えている。
ノックの音。
﹁お嬢様がマルセル様にお会いになられます﹂
﹁準備はできております。どうぞお嬢様﹂
ロイが扉を開け、迎え入れる。
﹁なっ!?﹂
入ってきたミシュリーヌの格好を見て、俺は驚愕の声を上げた。
ピンク色に染められてはいたが、紛れも無く俺が使っているのと
同じ種類の運動用の服であった。
﹁ミシュリーヌ、それは⋮⋮﹂
﹁お兄様のお誘いをあんまり断り続けるのも悪いと思ったので、用
意しましたの。流石に剣は振りませんけど、王妃リディアーヌ様が、
国王陛下の危機を知らせる為にその脚でお走りになったという話が
ありましたから﹂
今の格好に慣れていないことも相まってか、頬を染めるミシュリ
ーヌ。
そして、俺の中で昨日の出来事の真相が明らかになった。
﹁すまない、ミシュリーヌ! 昨日怒鳴っていたのはそれが予定通
り届かなかったからなのだな!?﹂
俺は思いっきり頭を下げた。
俺の意をくんで運動に参加する為に取り寄せたものが来ずに怒っ
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ていたのに、それを当の俺に叱られては立つ瀬がないというものだ。
エミも、ミシュリーヌの気持ちを分かっていたからこそあのよう
な態度を取ったのだろう。
ロイもそれを知っていたはずだ。
﹁いいんですのよお兄様。お兄様のおっしゃる通り、何の罪もない
エミを怒鳴ったわたしが悪いんですも⋮⋮っふえっ、ぐっ﹂
ミシュリーヌが泣き出した。
昨日の悲しみを思い出したのと、自分の気持ちを分かってもらえ
た事への安堵なのだろう。
俺もそれにつられて目が熱くなり、気づけばミシュリーヌを抱き
しめて泣いていた。
妹の真意に気づけず、表面的な事を賢しらぶって説教してしまう
とは、俺もまだまだ未熟。
もっと立派な兄になる決意をしながら、俺はミシュリーヌを抱き
しめ続けた。
69
9 兄、妹と訓練に励む/???︵前書き︶
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9 兄、妹と訓練に励む/???
ミシュリーヌと雪だるまをつくった日から10日が過ぎた。
あの雪をもたらした寒気は長く居座らなかったようで、訓練場の
地面を覆っていた雪は2日程立つと、日陰にある僅かなものを残し
て消えた。
その間、俺は屋根がかかった所でロイドの指南の元に素振りと足
捌きと型稽古を繰り返していた。
一日怠れば取り戻すのに三日はかかるというのはロイドの言だが、
前世でも同じような言葉があった。
どこの世界も、何かを習得するのは難しいのは同じなのだろう。
さて、地面も乾いた5日前、ミシュリーヌがついに訓練場デビュ
ーを果たした。
例のピンク色の運動用の服に身を包み、エミを伴ってやってきた
ミシュリーヌはやる気に満ち溢れていて思わずほろりとしたものだ。
なお、
﹁似合っているぞミシュリーヌ﹂
と言ったら何故か複雑な表情で睨まれた。
どうやら機嫌を損ねたようだが、一体どうしてなのだろう⋮⋮。
それはともかくとして、俺は早速走ろうと意気込むミシュリーヌ
を抑え、準備運動をさせた。
﹁いいか、走る前はこうして体の関節をほぐすんだ。いきなり走り
出しては足首をくじいたりすじを痛めたりしてしまうからな﹂
屈伸・伸脚・足首回しなどなどのストレッチをミシュリーヌにさ
せていたところ、ロイドが興味深気に尋ねてきた。
﹁ほほう、マルセル様、そのような運動、どこで習われたのです?﹂
しまった、と思った。
71
この世界では、体系化されたストレッチというものはまだ存在し
ていないらしい。
存在はしていないが、ロイドは経験的にその有用性を見抜き、ど
こから学んだのか興味を持ったのだろう。
﹁ああ、これはあれだ。読み書きの時間に読んだ上位古代語の本に
そのようなことが書いてあった﹂
﹁そうでしたか。私もこれからはやってみることにします﹂
深くは突っ込まれなかった。
ありがとう古代の人。
﹁お兄様! もうよろしいでしょう?﹂
﹁おお、そうだな。では始めよう。いきなり飛ばすと辛くなるから、
初めはゆっくり行くぞ﹂
そうして二人走り始める。
速さはごくごく落として、運動を始めた初日くらいに調整する。
ぽっちゃりだった俺でも10周は越えたのだからそれくらいは行
けるだろうと思ったのだが、
﹁はぁっ、ひぃっ、はぁっ﹂
3周走った辺りで、ミシュリーヌの息遣いが荒くなってきた。
﹁本格的に走るのは初めてなのだから無理はするなよ﹂
先導していた俺は並走し、様子を伺う。
﹁まっ、まだ、始めた、ばかりでっ、すわ!﹂
明らかに大丈夫じゃない様子でまだ大丈夫と主張するミシュリー
ヌをエミの元に連れていき、オランジェを食べさせておく。
﹁な、なんでですの⋮⋮、お兄様はあんなにたくさん走れていたの
に﹂
そういえば、ここしばらく俺の訓練の様子をミシュリーヌが見に
72
来ることがあった。
最近は30周を一定のペースで走りきれるようになっていたので、
ミシュリーヌの中ではそれくらいが普通というイメージになってし
まったのだろう。
確かに、前世の記憶を取り戻す前の俺はミシュリーヌよりも明ら
かに鈍臭かった。
俺にできるなら自分も、と思っても不思議はない。
﹁慣れと年齢の問題だろう。俺は3ヶ月以上走っているし、ミシュ
リーヌよりも2歳上で体格もいいからその分体力もある。続ければ、
お前ももっと走れるようになるさ﹂
そう言い、走りを再開しようとすると、
﹁お兄様は、最初の日は、何周走りましたの?﹂
そう聞かれた。
瞳に挑む意思を感じ、俺は嬉しくなる。
﹁13周。ただし休み休みだった。息が落ち着いたら1周ずつ走っ
てみればいい。別に競争ではないんだ、少しずつの積み重ねだよ﹂
そうして俺は走り出す。
ややあって、ミシュリーヌが再び立ち上がった。
最初より速度を落として1周し、休む。また1周して、休む。
俺はその間に30周を完走し素振りに移った。
それから足捌きに入ろうかというとき、ロイドが俺を止める。
﹁マルセル様、お嬢様を迎えてあげてください﹂
見れば、ミシュリーヌが起点に戻って来つつあった。
自分の訓練をしながら見守って数えていたが、ああ、そうか。
﹁おっと、大丈夫か?﹂
俺が居ることを確認し、ゴールと同時に俺に倒れ込むようにもた
れるミシュリーヌ。
73
﹁じゅう、よんっしゅう、しましたわっ!﹂
何かを成し遂げた、いい顔をしていた。
﹁頑張ったな﹂
そのまま抱きかかえると、俺は屋根のかかった所に連れていく。
﹁ブランシュが見ていてくれたおかげですわ﹂
いいつつ、ミシュリーヌは火照った頬をブランシュに寄せる。
﹁なるほど、ありがとうなブランシュ﹂
俺も、妹の恩人の肩を叩く。
正確には肩らしき辺り、だが。
そう、ブランシュというのは俺とミシュリーヌで作った雪だるま
に冠された名前なのだ。
周りの雪は解けたが、日陰に置いたのが幸いしたのかブランシュ
はまだ解けずに残っていた。
というのが5日前の出来事だ。
あの後、運動後のお風呂にいたく感動したこともあり、ミシュリ
ーヌは運動に付き合うようになった。
運動用の服も、ピンクの他に薄紫や水色と、バリエーションがあ
ることが判明。
それはいいのだが⋮⋮。
﹁いくら日陰とはいえ、あんなに解けないものか⋮⋮﹂
ブランシェは、流石に縮みはしたものの、原型は保ってミシュリ
ーヌを見守っていた。
しかも、その表面は名前の通り白く綺麗なままだ。
前世の雪って、時間が立つとざらざら汚れてきた記憶があるのだ
が。
ミシュリーヌは無邪気に喜んでいるが、俺には不思議に思えてし
74
ょうがない。
寒気で凍りついたわけでもないのに何故だろう。
この訓練場に来るロイやカナ、エミ、ロイドも別段気にはしてい
ないようなので、もしかするとこの世界ではありふれた現象なのか
もしれない。
となると水の性質が違うのだろうか。
勉強の時間になったら、ミス・マリーに聞いてみよう。
﹁雪人の解け方⋮⋮、ですか。気温や風向きで様々だと思いますよ﹂
ミス・マリーの回答は極めて常識的なものだった。
﹁そう言った例が他にも無いか、市街に出たら聞いてみますね﹂
ミス・マリーは、いつも通り笑顔だった。
その夜。
俺はどうも寝付けずに、明かりを消した窓から庭を眺めていた。
ふと、視界のすみに何かがちらつく。
小さな、光?
炎とは違う明かりだった。
何だろう? 懐中電灯、であるはずはない。
しかし、明かりを発生させる魔道具は俺の部屋にあるように大型
で、携帯は不可能だ。
光はややあって見えなくなった。
好奇心が疼く。
消えたのではなく、見えなくなったのだ。
あっちは、東の訓練場。
俺は無作法を承知で、寝巻きに上着を羽織るとこっそりと部屋を
抜け出した。
75
いつもの戸をくぐり屋敷から出る。
その途端、一気に寒さが襲いかかる。
屋敷の内部は温度を保つ魔道具により適温が保たれているため、
いっそう身にしみる。
挫けずに、俺は東の訓練場へ進む。
見慣れた屋敷の中だが、夜はまた違った雰囲気だ。
胸が何だか高鳴る。
ああ、星が綺麗だ。
そうしていつも見慣れた屋根がかかっている所に着いて︱︱
俺はいつものように目を覚ました。
身支度を終えた辺りでロイがやってきて、朝食の準備が整ったこ
とを告げる。
食堂室に降り、ミシュリーヌと歓談をしながら白パンとハム・卵
にサラダ、牛乳といった品々を平らげる。
ふむ、もう少し増やしてもらってもいいかもしれない。
そういえばミシュリーヌも、さりげなくパンが1つ増えている。
今日は昨日より2周多く走ってみせますわ、と宣言する我が妹。
後ろで控えていた侍女のエミが控えめに微笑む。
いい光景だ。
しばし食休みをしてから訓練場に行くと、先に来ていたミシュリ
ーヌがしょんぼりとしていた。
どうしたのかと聞いてみると、屋根がかかっているところを見て、
言う。
76
﹁ブランシュが⋮⋮﹂
ブランシュは、その体の殆どが解けていた。
3段あった本体はかろうじて2段に見える程度になり、かぶって
いた鍋は落ち、目も片方外れていた。
﹁寂しいが、仕方ないな。雪人はそのうち溶けてしまうものだ﹂
昨夜は早くに寝てしまい気付かなかったが、夜のうちに横殴りの
風雨でも来たのだろうか。
別に訓練場の地面がぬかるんではいないから、それはないか。
ミシュリーヌと一緒に作った雪だるまだけに、自然の摂理とはい
え寂しいものがある。
昨日まではもっとしっかりしていたのだが、
まるで︱︱
︽この先を考えてはいけない︾
何故だか、急に寒気を感じた。
77
風邪だろうか?
俺は思わず自分の肩を抱いた。
その後、気を取り直した俺たちは訓練を始めた。
やってきたロイドは解けゆくブランシェに気づき寂しいですなと
一言。
ミシュリーヌは予告通り2周多く走り切った。
午後、勉強が一段落したところでミス・マリーにブランシュが解
けた話をした。
街でも、場所や時期によって長く残ったり、かと思えば突然解け
るのはよくある話とのことだった。
本の館。
今日は三日に一度の読み書きの日だ。
ヴォル爺はいつも通り、俺とミシュリーヌに書き取りの紙を渡し、
終わったら読む本を指示すると、ワインを片手に本を読み始めた。
いつも通りの、あまりにもいつも通りの光景。
﹁⋮⋮なあヴォル爺﹂
俺は書き取りのきりがいい所で声をかける。
﹁どうしましたなマルセル様?﹂
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ヴォル爺はいつも通り、何かを隠してそうな笑みで応える。
﹁いや、何でもない﹂
﹁ははは、今日のマルセル様はいつもと少し様子が違いますな﹂
笑われてしまった。
たしかにそうかもしれない。
何だって、ヴォル爺に、昨日どこかで会わなかったかなんて聞こ
うと考えたのだろう。
ヴォル爺と前回会ったのは、三日前の読み書きの日に決まってい
るのに。
﹁もうすぐ王都へ行くのですから、この前のように風邪などひかぬ
ようお気を付けなされよ﹂
﹁そうですわよお兄様、今度は是非お兄様にもエドワーズ様と会っ
て欲しいですわ﹂
ミシュリーヌが書き取りの手を止めて話に入ってくる。
おお、そうだな。
エドワーズ王子といい出会いをするためにも、体調管理を万全に
しなければ。
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この何とも言葉にし難い違和感も、一晩眠れば治っているだろう。
80
10 兄、王都にて好敵手と出会う
王都に着いたのは、新年を迎える3日前。
アルダートン公爵家の中心都市カランドを出てから2日後だった。
加速効果と振動緩和の魔道具が使用された特別製の馬車でも途中
休憩を挟んで1日8時間程かかった。
なお、お付きの者達が乗った馬車はいずれも加速効果のみであっ
たようで、休憩の度に青い顔で外に出ていた。 ミシュリーヌは良いとしても、あの両親とずっと同じ空間に居る
のはさぞかし苦しいかと思ったのだが、意外や意外。
上位古代語の物語について、話が弾んだ。
夕食の時、父は領内の苦労話と平民を蔑む話を、母は館を訪れた
貴族との社交の話とやはり平民を蔑む話ばかりなので身構えていた
が、馬車の中では物語に隠された意味や言葉の謎を純粋に楽しんで
語らう、普通の親子でいられた。
心無しか両親の表情も普段より自然で柔らかいようで、ミシュリ
ーヌも嬉しそうだった。
と、思ったのもつかの間。
一日目に宿をとった、アルダートン公爵領で王都に最も近い町で
あるシーレでは、応対した代官の男爵の僅かな落ち度を責め立て、
即座に解雇してしまった。
目端の利く、だがどこか小悪党的な雰囲気を放つ代官補佐を臨時
で代官に任命すると、すぐさま元代官の男爵を屋敷からたたき出す
という早業である。
ミス・マリーに教わったのだが、このアルフェトーゾ王国におい
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て所謂本物の貴族と言われる、自治領を有するのは子爵まで。
男爵は、公爵・侯爵・伯爵家の領地の代官として仕える立場だそ
うだ。
勿論、失策がなく運もよければ親子何代にも渡ってその都市と地
域を治め、雇い主もおいそれとは解雇できない土地に根ざした貴族
の風格を得ることもある。
だが殆どは所詮雇われの身に過ぎず、雇い主の虫の居所が悪けれ
ば放逐されても何もできないという立場なのだ。
男爵の下につく騎士階級も同様かそれ以下の立場で、いくつかの
村をまとめている。
父上と母上は一家族を路頭に迷わせた事を何ら気にした風もなく
シーレの町で一晩を過ごし、翌朝にはまた馬車の中で俺とミシュリ
ーヌを相手に楽しいお喋りに興じた。
この2人と価値観を共有することの難しさを痛切に感じつつ、そ
れでも安易に切り捨てることのできない親子の情を意識する旅にな
った。
そうしてたどり着いた王都。
我が家の公都カランドも国内屈指の大きさだが、やはり王都は圧
巻だった。
何重にも囲まれた城壁。
それをいくつもくぐり、中心である王城に近づくにつれて街並み
はどんどん華やかになっていく。
大通りは流石に入口から整備されていた。
しかし城壁の外側には浮民のスラムがあるだろうし、壁の内側で
も外縁部に近づくにつれて貧しい暮らしの人は多い。
大通り近くに寄せ付けないようにしているだけで、物乞いや浮浪
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者、孤児はいるのだ。
この王都にも、我が公都にも。
進むに連れて目に入る光景は荘厳華麗になっていくが、俺の心は
曇っていく。
﹁樹が見えてきたので、そろそろお屋敷に着きますわ!﹂
最近来たミシュリーヌは建物を覚えていたのか、声を弾ませる。
俺が最後に来たのは3年ほど前なので、印象がはっきりしない。
だが、屋敷街には不釣合いな程大きいあの大樹は覚えていた。
王城に最も近い城壁の中は公爵及び侯爵家の屋敷街になっており、
意匠を凝らした館がいくつも建っている。
その中には我がアルダートン公爵家の王都別邸も構えられており、
俺達家族はそこで旅の疲れを癒した。
別邸を管理するのはハウス・スチュワードのイウン。
館に着いて初めて迎えられた時、なぜ公都にいるはずのハウス・
スチュワードのイアンがここにいるのかと驚いたが、聞けばイウン
は双子の弟との事だった。
たまに入れ替わっていると言われたら即座に信じるレベルでそっ
くりである。
いくら双子とはいえここまで同じとは、凄いものだ。
前回来たときも居たはずなのだが、当時の俺は違うということに
気付かなかったようだ。
着いたその日はもう夕方だったので、一休みしてから入浴、食事。
自覚はなかったが、いかに魔道具で揺れを抑えているとはいえ馬
車で旅は疲労を蓄積させていたらしい。
ミシュリーヌは食事の時から既に眠そうな目をしていた。
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前日のシーレの町に泊まった時もそうだったが、ベッドに入ると
同時に眠りに落ちた。
翌朝。
やはりかなり疲れていたようで、珍しく朝寝坊をしてしまった。
といっても別に時刻でやらなければいけないことはないので気分
的な問題だが。
俺が起きた気配を察したらしく、ドアがノックされる。
﹁ああ、入ってくれ﹂
﹁おはようございますマルセル様。疲れは取れましたか?﹂
部屋の外に控えていたロイが入ってきた。
自分もあの馬車旅で相当疲れているだろうに、タフである。
同じく同行していたカナはかなり参っていた様子だったが、きち
んと仕事をこなせているだろうか。
﹁こちらは本日のお召し物になります﹂
ロイが服を渡してくる。
﹁ありがとう。朝食の用意は出来ているか?﹂
﹁はい。お着替えをなさって降りる頃にはできるよう、カナを厨房
に行かせました﹂
とりあえず、寝込んでいるということはないようだ。
﹁うむ、それと、この近くで走れるような場所はあるか、別邸勤め
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の者達から聞いておいてくれ﹂
訓練を欠かしたくないので、俺は今回の荷物に運動用の服と木剣
を入れておいたのだ。
しかしながらこの別邸、庭はあるのだが流石に公爵領の館程の敷
地面積はない。
どこかに広場のようなものでもあればいいのだが。
﹁昨晩聞いておきましたが、ここから歩いて15分程度の所にある
大樹の広場が適しているかと﹂
流石はロイ、仕事が早い。出来る従者である。
俺は早速朝食を食べると食休みをし、ロイに木剣を持たせて広場
へ向かった。
訓練用の木剣とはいえ自分の武器は自分で持ちたかったのだが、
ここはそこら中が公・侯爵家という土地柄。
そこで、主人が荷物を持って従者が手ぶらというのは外聞が悪い。
本当は走った後用の果実や飲み物の入ったかごを持っているので
ロイは手ぶらではないのだが、それでもやはり主人に荷物を持たせ
る訳にはいかないのだそうだ。
両親の耳に噂という形で入ったらと考えると恐ろしいので、素直
に運ばせることにした。
なお、そもそも住宅街の広場で剣の訓練をしていいのだろうかと
思い当たってイウンに聞いてみたところ、剣の腕を磨くのは男性貴
族の義務であり嗜みであるので、褒められこそすれ咎められはしな
いとのことだった。
実際、王都に滞在し俺と同じ考えになった貴族が大樹の広場で訓
練をしていることもあるらしい。
85
先達が既に居るというのは心強い。
これで安心して訓練に励めるというものである。
ちなみに、ミシュリーヌは流石に誘わなかった。
公爵家令嬢が息を切らせて走っていいのは、流石に館の訓練場の
ような閉鎖空間だけであろう。
そんなわけで、ミシュリーヌは朝から別邸の上位古代語の本を読
んでいた。
姿が見えなかった両親はそれぞれ、同じく新年祝いのパーティー
のために王都に来た貴族達との茶会に出かけているそうだ。
そうこうしているうちに、大樹が視界に入り、歩を進める度にど
んどん大きくなっていく。
そうして辿り着いたのは、大樹を中心として直径6∼70メート
ル程の円を描いた広場だった。
石畳の歩道が3つ、これも円を描いており、更に八方の入口から
中心の大樹に向けての大きな歩道ができている。
まずは大樹の元に行ってみようと、入ってきた入口から真っ直ぐ
進んでいく。
ちょっとした丘のようになっており、中心への歩道はゆるい上り
坂になっていた。
﹁遠目にも大きかったが、近くで見ると圧巻だな﹂
大樹の幹囲は10メートルはあろうかという程で、樹高は50メ
ートル程。
前世でいうところの御神木と言った雰囲気をまとっていた。
更に根の部分が特徴的だった。
浮き根とでもいうのか、地面から根の部分がまるで地面を持ち上
げるように露出していた。
この木が地面を引っ張って丘が出来たと言われたら信じてしまう
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かもしれない。
この不思議な根は、記憶にあった。
前に王都に来たときも、俺はこの広場を訪れていたようだ。
俺は思わず頭を垂れた。
何だか無性に、ありがたいと思ったのだ。
﹁さて、挨拶も済んだし、始めるか﹂
一番外側の円を描く歩道のところまで戻り、俺は軽くストレッチ
をする。
目算だが、1周200メートル程と仮定し、目標を15周と決め
る。
﹁じゃあここで待っていてくれ﹂
俺はロイにそう言うと、走り出した。
ふむ、石畳というのはやや走りづらいな。
どうしても凹凸があるので、よく見て走らないと引っ掛けて挫い
てしまうかもしれない。
慎重に行こう。
そうして走り続けると、ちょうど反対側の入口の辺りに、貴族の
従者らしき格好の青年が控えているのが見えた。かごと、布に巻か
れた木剣らしきものを持っている。
俺と同じようなことをしている貴族がいるのだろうか。
通り過ぎながら、そんなことを考えた。
だとすれば、走っているうちに会うだろう。
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きちんとした夜会では話しかける順番まで作法で定められている
が、ここは広場でお互い貴族の義務として訓練に励む身、普通に話
しかけても問題はあるまい。
というか、この辺りは公爵家と侯爵家しかいない。
公爵家の人間ならば同格。
領地の規模や実際の力的には侯爵家の方が上だが、礼法上は公爵
家の方が上。
なので、余程おかしな対応さえしなければ相手が誰だろうと大し
た問題にはならないだろう。
俺はそう考えて走るのを続ける。
そこから5周するが、謎の貴族︵仮称︶とは会えない。
背中も見えないし、後ろから来る気配もない。
もしかすると、速度がほぼ同じなのだろうか。
この広場に来たときは走っている人は居なかったようだから、殆
ど同じタイミングで走り始めたのかもしれない。
面白い偶然もあるものだ。
そうして10周目に入って走っていると、視界の端に人影が見え
た。
燃えるような赤い髪。
背丈は遠目でよくわからないが、俺と同じくらいの子供であるこ
とは判別できた。
赤髪の貴族はちらりと後ろを見ると猛然と走り始め、視界から消
えた。
⋮⋮もしかして、勝負と思われたのだろうか。
面倒ごとにしたくはなかったが、習慣とは恐ろしいものできっち
り3キロ走らずに止めることに抵抗を感じた。
88
﹁まあ大丈夫だろう﹂
そう楽観的に考えると俺はそのまま15周を走り終え、スタート
地点で汗をぬぐい、水分補給と果物を食べ始める。
﹁マルセル様、既にお気づきにかと思いますが、反対側を走ってい
る御方がいらっしゃいました﹂
﹁ああ、気づいていた。赤髪の奴だろう?﹂
﹁はい。私はここで控えながら何度も姿を見たのですが、服の紋章
と赤髪から考えるにランベルト侯爵家の御方だと思われます﹂ 赤髪で、ランベルト侯爵家。
王都に来るのだから可能性はあったが、ついに現れたか攻略対象。
ガスパール・ランベルト。
王国でも屈指の領地と兵力を有するランベルト侯爵家の長男で、
原作ゲームでは俺様系キャラだ。 主人公の1つ上の歳なので、俺より1つ下か。
確か、実は小動物好きだがそれを隠しているという設定があった
ような気がする。 捨て猫に餌をやる不良的なイメージだろうか。
とはいえベースは俺様系。
このままでは確実に会う。
しかし慌てて帰るのもおかしいので、俺はガスパールとの接触に
身構える。
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そこに、カーブを回って赤髪の人影が見えた。
来たかっ!
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
中々来ない。
いや、来てはいるのだが、その進みが遅いのだ。
赤髪の少年は、大汗をかき、ふらふらとした足取りで一歩一歩踏
みしめるように進んでいた。
いかにも満身創痍といった様相だが、目だけは強い光を失ってい
ない。
これ、前世の記憶的にはあれだ、限界ギリギリ状態の駅伝のラン
ナーだ。
唖然として見ているとガスパールはついに俺の前に到達し、
﹁おれのっ、はぁっ、勝ち、っだっ!﹂
こちらを向いてそう言うと、ついに膝から崩れた。
﹁ちょ、おいっ!﹂
90
俺は慌てて、タオルを広げてランナーを抱きとめる大学関係者の
ように、ガスパールの体を支える。
﹁ガスパール様あああああああああああああああ!!﹂
中央の道から、従者の青年が大慌てで走ってきた。
これが、俺とガスパール・ランベルトの出会いだった。
91
10 兄、王都にて好敵手と出会う︵後書き︶
10話にしてようやく原作ゲームでの攻略対象が登場しました。
ゆっくりとした歩みですが、よろしくお付き合いください。
※感想を受け、後書きを一部修正いたしました。
修正前 ようやく攻略対象が
修正後 ようやく原作ゲームでの攻略対象が
92
11 兄、己の過去に懊悩す
﹁ロイ﹂
﹁心得ました﹂
名前を呼ばれただけで俺の意図を読んだロイは、こちらに迫って
くるランベルト家の従者の背後に回り、とり押さえる。
﹁離せ! 何をする!﹂
﹁離せばこいつに飛びつく気だろう? そんな事をして体調が更に
悪化したらどうする。頭が冷えるまでそこで黙って見ているのだな﹂
俺はわめく従者をロイに任せて放置し、ガスパールを石畳の歩道
から芝生の丘部分へゆっくりと運び、自分の上着を敷いて横たわら
せた。
この冬にこんなに大汗をかくとは、普段の距離やペースをこえて
無理をしたのだろう。
大分負けず嫌いな性格のようだ。
俺は持ってきた荷物の中から液体の入った瓶を取り出す。
水に塩と砂糖、何種類かの果汁を混ぜた、スポーツドリンクのよ
うな飲み物だ。
﹁大丈夫か? ゆっくりでいい、少しずつ飲め﹂
﹁うっ⋮⋮、訓練、中に、水は、飲まねえっ!﹂
昭和かよ!
93
盛大に突っ込みを入れたくなるが、どうにか耐える。
﹁これはただの水ではないぞ。お前も侯爵家の息子ならば王兄ライ
ヒアルト伝くらい読んだことがあるだろう。長い距離を走り疲労し
たライヒアルト様が乾きを癒したオランジェの汁が入った、由緒正
しき飲料だ。ありがたく飲め!﹂
実のところ、確かに発汗時に水だけを飲むとかえって体に悪いと
いうのは事実である。
運動して発汗すると、水分と共に塩分などのイオンが失われる。
そこに水だけを補給してしまうと更に体液が薄まり、バランスが大
きく崩れてしまうのだ。
というのは前世の世界における人体構造に起因するのだが、俺は
身をもって、今世も同じであることを実証していた。
あれは訓練を始めた秋の初め、残暑がぶり返してきた日にペース
配分を間違えた俺は軽い脱水症状に陥った。
そこで前世の知識でなんちゃって経口補水液を作らせて飲んだと
ころ症状は改善。
体の作りは前世と今世で同じであるということを身をもって体験
することができた。
それ以降、運動をする時はつねにこの飲料を作らせるようにした
が、実に快調に訓練に励むことができた。
そんなわけで、確信をもってガスパールに飲ませる。
﹁うっ⋮⋮﹂
﹁ガスパール様におかしなものを⋮⋮﹂
﹁アルダートン公爵家の厨房が用意したものにケチを付ける気なら
ば、それ相応の覚悟が必要ですよ﹂
94
ロイが淡々と告げる。
これには向こうの従者も黙りこくった。
﹁これは⋮⋮﹂ ぽつりと言い、瓶を自分で持って飲み始めるガスパール。 思ったより素直だ。
急に飲みすぎても体に悪いので適当な所で止め、タオルを濡らし
て渡す。なお、濡らすのに使ったのは持ってきた普通の水だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無言で、顔と首の汗を拭う。
﹁ロイ﹂
﹁はっ﹂
意を汲み、ロイは速やかに拘束を解く。
が、あっちの従者はおろおろとするばかりだ。
﹁主人にタオルを渡さなくていいのか?﹂
指摘すると、慌てて荷物を取りに走った。
う∼ん、やはりロイはかなり優秀な従者らしい。
﹁もう大丈夫なようだが、もう少し飲んでおいたほうがいいぞ﹂
俺は再び瓶を渡そうとする。
﹁⋮⋮これ以上は無用﹂
ぶっきらぼうに言うと、渡したタオルを押し戻してくる。
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﹁ガスパール様、お待たせ致しました!﹂
ゆっくりと体を起こしたガスパールは、従者が持ってきたタオル
で顔を拭いた。
﹁シド、剣をもてい!﹂
﹁はっ!﹂
唐突な命令だが、シドと呼ばれた従者は俊敏に動き、布を解いて
木剣を渡す。
﹁走りでは不覚を取ったが、剣ではそうはいかねぇ。構えろ!﹂ 従者に渡されたタオルを放り投げ、ガスパールはこちらに木剣を
向けて言い放つ。
﹁断る﹂
俺はゆったりとした動作でかごからオランジェを取り出しながら、
あっさりと拒絶した。
﹁なんだと︱︱っ!?﹂
ひょいと、ガスパールの顔めがけてオランジェを放る。
﹁この程度の動きに対応できない程疲労した相手と戦って勝っても、
誉にならないからな﹂
どうにか奴がオランジェを受け止めた時、俺は奴の木剣を押さえ、
胸元に飛び込んでいた。
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﹁︱︱くっ﹂
﹁それは土産にやろう。アルダートン公爵家御用達の商人から仕入
れたオランジェだから、美味いぞ﹂
ふう、なんとか上手くいった。
ロイド直伝のフェイント術がいい具合に決まったので、俺はちょ
っと格好をつけて言った。
これは中だるみ演出の為、丸豚モードで﹁何か格好いい技を教え
ろ﹂と我侭を言ったところ、ロイドが見せた技である。
三歩程離れたところに居たロイドがオランジェを投げて寄越し、
受け取った時には目の前に居た。
まるで瞬間移動のようで、初めてやられた時にはいっそ感動すら
覚えた。
なので必死で練習をし、一応格好がつく程度には修得したのだ。
投擲で注意を逸らすと同時に一気に距離を詰める、足捌き技の一
つである。
﹁アルダートン公爵家⋮⋮だと? 養子を迎えたとは聞いていない
ぞ?﹂
いきなり妙な事を言い出すガスパール。
﹁少なくとも、俺のきょうだいは妹のミシュリーヌだけだが?﹂
﹁アルダートン公爵家のミシュリーヌ嬢の兄だと? まさか、お前
があのマルセル・アルダートンだというのか!?﹂
97
どうしてそんなに遠回りに言うのか。
というかどのマルセル・アルダートンだ。
﹁俺は今も昔も変わらずミシュリーヌの兄でマルセルだぞ﹂
唖然とした表情のガスパール。
⋮⋮あ、もしかして、俺達って初対面じゃないのか?
ふと、広場中央の樹を見やる。
浮き出た根 赤髪の侯爵家の息子 泣いている子供たち ﹁︱︱ああっ!﹂
我ながら間抜けな声が出た。
そうだ、俺とガスパールって3年前にもここで会ってる。
確かここに来た俺が何を思ったか樹の浮き根に登って、この樹は
俺の物だと宣言。
他の登ろうとする子供︵全員年下︶を上から蹴り落とすという行
為に及んだのだった。
そこに現れたのがガスパール。
俺を引きずり下ろすと、蹴り落とした他の子供に謝らせようとし
たのだ。
当時の俺は既にずいぶんと残念だったので、父上に言いつけるぞ
とお決まりの文句を言って逃走したのだった。
うん、どう贔屓目に見ても最悪な第一印象である。
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﹁⋮⋮あー、すまん。色々思い出した。3年前は悪かったな﹂
俺は過去の己の所業を苦々しく思いながら、ガスパールに頭を下
げた。
直接の被害者の子達もこの辺りの貴族の子だろうし、城のパーテ
ィーで会ったら詫びを入れなければ。
ガスパールは限界まで目を見開いてこちらを見ていた。
気持ちは分かる。
それにしても、こいつもこいつで変わったのではないだろうか。
勝手に勝負を始めて勝利宣言するし。
それで倒れたのを介抱されても礼も言わないし。
おまけに木剣とはいえ剣を向けるし。
いや、言い訳ですごめんなさい。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぞ﹂
何事かをガスパールが言った。
のだが声が小さくて聞き取れない。
﹁ん? 何だ?﹂
﹁⋮⋮さっきの飲み物、不味くはなかったぞ﹂
彼なりの礼なのだろう。
そして、謝罪の受け入れ。
99
﹁それは良かった﹂
俺はにっこりと笑った。
﹁明日またこの時間にここへ来い、万全の状態でオレと勝負だ! 行くぞシド!﹂
﹁はっ!﹂
ガスパールは再戦宣言を勝手にすると、返事は聞かないとばかり
に走り出した。
もう走れるようになるとは、大した回復力だ。
﹁あまり覚えていないのだが、ロイは3年前に俺が王都に来た時は
同行していたか?﹂
﹁いいえ、その時は別の者が行きました﹂
﹁公都の屋敷に勤めている者か? 連絡は取れるか?﹂
﹁⋮⋮かつて勤めていた者で、連絡は難しいかと﹂
ロイの表情で、察する。
父上の不興を買って追い出されたのだろう。
3年前の記憶というのは案外あやふやなので、自分が何をやらか
したかを知っておきたかったのだが、やむを得まい。
とりあえずその後、俺は日課の素振りと足捌き・型で汗を流した。
運動でもしない限り結構寒いせいか、他に人は来なかった。
100
別邸に帰って風呂に入り、昼食を食べて食休みをしつつ、俺は明
日の事を考える。
﹁勝負かー。どうしたものか﹂
﹁何の勝負ですの?﹂
同じ部屋でくつろいでいたミシュリーヌが独り言を聞きつけて寄
ってきた。
﹁ああ、広場で訓練をしていたらランベルト侯爵家の長男と会って
な。明日剣の勝負を挑まれた﹂
﹁ランベルト侯爵家の長男というと、ガスパール様ですわね?﹂
﹁知っているのか?﹂
﹁ええ、手紙のやりとりをしているお友達との話題にも、格好いい
同世代としてよく上がりますもの。
赤獅子の異名を持つランベルト家の男子らしく、昨年から剣の修
行も始められたとか。
お兄様が訓練を始めたのはこの秋からですから、無理はしない方
がいいと思いますわ⋮⋮﹂
憐憫の眼差しを向けてくるミシュリーヌ。
お兄ちゃんはなー、そんな御令嬢ネットワークでも評判の奴に走
りで勝って、フェイント技で一本取ったんだぞ!
101
相手の疲労につけ込んだ感が凄いけど!
﹁何とか、痛くないやり方で勝負出来ませんの?﹂
﹁こちらとしてはそうしたいのだが、相手が納得しない︱︱、あ﹂
言って、俺はふと思い当たるものがあった。
うん、いいかもしれない。
問題は素材だが、似たようなものは作れるはずだ。
﹁ありがとうミシュリーヌ、どうにかなるかもしれない﹂
﹁ひゃっ!?﹂
俺はミシュリーヌを抱擁するとロイを呼び、別邸でよく使う木工
細工職人と革職人についての情報を集め始めた。
102
12 兄、好敵手と剣を交わす
﹁来たな、マルセル!﹂
約束の時間に広場に着いた俺を、やる気満々といった様子のガス
パールが待ち構えていた。
やはり、木剣を突きつけてくる。
結構無作法だと思うのだが、教育方針は大丈夫なのか武の侯爵家。
﹁来たぞガスパール﹂
俺は普通に挨拶をすると、膝の屈伸を始めた。
﹁勝負を前に何をおかしな踊りをしている!﹂
﹁ああ、剣の勝負の前に、走りの方の決着をつけねばと思ってな﹂
﹁⋮⋮そうだな。確かにあれは対等な勝負とは言えなかった﹂ 意地で勝利宣言をしてはいたが、本人も負けを自覚してはいたよ
うだ。
﹁それで、何周勝負にする? 前回は15周だったが﹂
﹁10周だ! きりがいいだろ。というか何だよ15周って!﹂
どうやら昨日のガスパールは10周勝負を前提にしていたらしい。
それならペースを崩してバテるはずだ。
﹁いいだろう。では行こう。ああ、お前もこれやった方がいいぞ﹂
足首を回しながら、すすめる。
103
﹁オレにそんな珍妙な真似をしろと言うのか。大体何だそれは!﹂
﹁運動の前の慣らしだ。足首を挫いてこの後の勝負が出来ないなど
と言われたら困るのでな﹂
﹁何だとっ!﹂
ガスパールは憤慨しつつ、俺と同じように足首を回し始めた。
案外素直なのかもしれない。
﹁よし、では今度こそいくか。そこの従者、合図を出せ﹂
俺はガスパールの従者に言う。
﹁お前、人の従者を勝手に使うな!﹂
﹁うちのロイに合図をさせて、後でどうこう言われてはたまらんの
でな﹂
﹁なっ!! そんなみっともない真似などせん! 2人一緒に合図
しろ﹂
面倒な事を言うガスパール。
ロイは何やら嫌そうな顔をしたが、こちらにどうするかと視線を
送ってくる。
﹁そうしてやれロイ﹂
﹁かしこまりました﹂
そうして、ロイと向こうの従者のシドが何度かタイミングを合せ、
スタートが告げられた。
104
まず動いたのはガスパールだった。
一気に走り、たちまち見えなくなる。
センスとしては悪くない。
この広場の歩道は円を描いており、中央に向かって高くなってい
るためある程度離れると姿が見えなくなる。
相手がどの程度先行しているか分からないというのは結構プレッ
シャーだ。
とりあえず、こちらは自分のペースを維持して走ることにする。
前半の5周は慣れ親しんだ3キロを走るときのペースにして、そこ
から余力を投じよう。
そう方針を決めて4周目。
ゴールに控えていた向こうの従者がどこか嬉しげな表情をしてい
た。
と、思ったら背後に気配。
おお、周回差をつけられたようだ。
﹁ずいぶんとのんびりだな、マルセル﹂
俺の姿を捉えてからの加速で無理をしたのか、隣に並ぶガスパー
ルの息はだいぶ荒い。
﹁ああ、何事も始めはじっくりと、飽きずに腰を落ち着けるのが大
事だからな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
105
嫌味が通じないと悟ったのか、ガスパールは黙った。
4周目、5周目はそのまま、並んで走った。
そして6周目。
スタート位置を越え、俺は貯めておいたスタミナに火を着ける。
﹁っ!﹂
ガスパールが食いついてくる。
が、半周程でじょじょに後退し、俺が7周目に入った時には後ろ
に居なかった。
ロイが微笑み、シドは驚いた顔になる。
何を張り合っているんだお前たちは。
俺は快調に飛ばし、9周目の半ばでついにガスパールを捉える。
ちらりと振り返ったあいつは驚愕の表情を見せたが、すぐに前を
向いて走りだした。
逃がしはしない。
俺はここで更に加速。
10周目、最終周に入る手前で抜き去ると、そのまま一気に︱︱
とはならなかった。
ガスパールも意地を見せてついてくる。
わざわざ後ろを振り返りはしないが、足音と息遣いが伝わってく
る。
だがそれも、最後の半周に入ったところで途切れた。
俺はゴールするとロイからタオルを受け取り、深呼吸をしながら
106
付近を歩き、クールダウンをする。
本当は果物と水分補給もしたかったのだが、ライバルのゴールを
飲み食いしながら迎えるのは何か違うと思ったので、やめる。
息が整い出した頃にガスパールがやってきた。
流石に呼吸は荒いが、昨日程大変な状態ではない。
﹁いい勝負だったな﹂
俺は自家製スポーツドリンクをまず自分でコップに注いで飲み、
もう1つのコップにも注いですすめる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁俺は干からびているお前と剣の勝負をするつもりはないぞ﹂
断られそうだったので先手を打つと、ガスパールは無言で受け取
り、それでも飲んだ。
お互いの息が落ち着いた辺りで、ガスパールは再び木剣を取る。
﹁勝負だ﹂
走りで惜敗したせいか、表情が硬い。
﹁待て、今回の勝負ではお互いこれを使う﹂
俺は二振りの棒状の物を手にしてそう宣言した。
107
﹁⋮⋮何だそれは?﹂
ガスパールは怪訝な顔でそう尋ねた。
その正体は袋竹刀である。
木剣で勝負をして万が一にも大怪我をするさせるといった事態に
なってはたまらないので、王都のアルダートン公爵家別邸を出入り
している職人に無理を言って作らせた一品。
別に前世の俺は柳生新陰流を習っていたとかそういう訳ではなく、
歴史ものの漫画を読んで出てきたのを覚えているといった程度の中
途半端極まりない知識だった。しかし、こういう狙いでこういう性
質の道具を作りたいというリクエストに職人が見事に応えてくれた
のだ。
竹っぽい植物が細工素材としてあったので、何種類かの細さに割
ってもらい、それを革職人の所に持ち込んで強度や柔軟性を考慮し
て最適な物を作り上げることができた。
年の瀬だというのに本当に申し訳ないので、餅代の意味を込めて
多めに報酬を弾んだ。
なお、その安全性は身を持って確認済である。
昨晩のこと︱︱
俺は完成した袋竹刀を持ってミシュリーヌの部屋を訪れた。
108
﹁ミシュリーヌ、お前のおかげでいい道具を思いついた。これなら
痛くないとはいかないが、安全に剣の腕を競うことができる﹂
礼を言いつつ、袋竹刀の構造や特性について説明をした。すると、
﹁本当に、これで叩かれても怪我をしませんの?﹂
ミシュリーヌがそれでも心配そうに聞いてくる。
﹁ああ、大丈夫だ。何なら試してみるか?﹂
俺はミシュリーヌに袋竹刀を渡して、叩いてみるよう促す。
﹁そんな、お兄様を叩くだなんて⋮⋮﹂
﹁職人達と試しながら作ったんだ、大丈夫だ﹂
﹁それでは⋮⋮﹂
ぺしっ
叩くというよりは当たったという程度の衝撃。
﹁ははは、もっとしっかり振らないと試しにならないぞ﹂
俺は鷹揚に笑う。
﹁それじゃあ、えいっ!﹂
持ち直し、力を込めて振るミシュリーヌ。
べしっ
109
﹁はは、かゆいくらいだ﹂
﹁えいっ!﹂
べしっ!
﹁うん、まあ多少﹂
﹁えいっ! やあっ!﹂
ばしっ! ばしっ!
﹁あ、えーとそろそろ﹂
﹁それっ! それっ!﹂
バシッ! バシッ!
﹁み、ミシュリーヌ?﹂
﹁はあっ! てりゃあっ!﹂
バジンッ!! バヂッ!!
﹁ちょ! 痛い痛い! そこまでだ!!﹂
何かこう、瞳が厭な光を放ちつつあったミシュリーヌから必死で
袋竹刀を取り返す。
﹁あらっ、やだ私ったら⋮⋮﹂
荒くなった息を恥じ入るミシュリーヌ。
110
何だか、妹の余計な扉をフルオープンしてしまった気がしないで
もない。
どうしよう。
どうしようもないので、俺は強烈な連打を受けてちょっと痛くな
った背中をさすりつつ眠りについたのだった。
翌朝起きると背中に痛みは全く無かったので、袋竹刀の機能は問
題ないことが分かった。
ミシュリーヌが﹁お兄様、昨日のアレもう1回やっていいですか
?﹂と聞いてきたのが大問題ではあるが。
そんな、今後への不安と引き換えに作った袋竹刀である。
ガスパールに文句は言わせん。
﹁子供の力とはいえ、木剣で打ち合って下手をすれば大怪我だ。お
互い、それは不味いだろう。そんな心配をして剣技を十分に発揮で
きないのは詰まらん。その点これならば、気兼ねなく相手を打てる﹂
﹁⋮⋮いいだろう﹂
ガスパールは木剣をシドに渡し、俺の袋竹刀を受け取った。
111
﹁先にしっかりと当てた方の勝ち。かする程度は無視。判定はお互
い。これでどうだ?﹂
俺はロイドに聞いた、騎士団のよくある稽古の条件を提案する。
﹁心得た﹂
ガスパールの方も、これが公的なルールであることを知っていた
ようで受け入れる。
﹁あと、今回突きは禁止とする。この武器でも、突いてしまうと怪
我の可能性があるからな﹂
ガスパールが頷いたのを見て、俺は袋竹刀を中段に構える。
﹁では、始めようか﹂
﹁行くぞ!﹂
互いに戦闘開始を確認。
ガスパールが一気に飛び込んでくる。
速い。
俺は真っ向から打たれた一撃を剣で受けながら、距離を取る。
向こうの性格から、連続して打ってくるかと思いきや、中段に剣
を戻して構える。
意外に慎重だ。
流石は武の侯爵家といったところか。
﹁はあっ!﹂
112
今度は俺が仕掛ける。
こちらも、真っ向から頭を狙って打つ。
向こうは動かず、その場で剣で受ける。
鍔迫り合いになり、俺はタイミングを見て相手の剣を払いながら
下がる。
追撃は無い。
再び距離が空き、互いに中段で構えてにらみ合う。
ガスパールが距離を詰め、一閃。
俺は回避し、距離をとってから反撃。これも防がれる。
何か、引っかかるものがあった。
ガスパールの一撃は確かに速い。
しかし攻めが単調で妙に隙が多い。
こちらを誘う為にあえてなのかと思っていたのだが︱︱。
そんな馬鹿なと思うが、試すことにする。
またもや向かい合い、ガスパールが打ちかかる。
俺は半歩下がって回避すると、ガスパールの剣が振り切られたの
と同時にカウンター気味に打ち込む。
113
俺の一撃は、あっさりとガスパールの頭に当たった。
﹁⋮⋮もう1本﹂
構えを解かないガスパール。
その表情は、凍ってしまったかのようだった。
﹁応!﹂
俺は再戦の意思に応える。
だが、結果は残酷だった。
俺は完全にガスパールの隙を見抜き、打ち終わりに被せてのカウ
ンターを決める。
頭、腕、胴、脚、当たる当たる当たる。
その度に再戦を申し出るガスパール。
10回を越えた辺りで、ガスパールが表情を歪ませて遮二無二に
打ち込んで来る。
ここまでだな。
114
俺はやはりそれを交わしながら、最後の一撃を打ち込んだ。
ガスパールはその場に座り込む。
﹁父上のっ、うそつき⋮⋮﹂
消え入るような声でそういうと、ガスパールはぼろぼろと涙をこ
ぼした。
﹁⋮⋮お前、剣の訓練を受けていないのか?﹂
俺の問いに、ガスパールは頷き、そのまま泣き崩れた。
115
12 兄、好敵手と剣を交わす︵後書き︶
投稿を始めてから1ヶ月になりました。
続けられているのは読者の皆様のおかげです。
今後とも、3∼4日ごとの投稿のペースですが、じっくり続けて行
きたいと思っているのでどうぞよろしくお願いいたします。
116
13 兄、好敵手を啄する
俺が違和感を持ったのは、ガスパールが一撃を打った後の動きだ
った。
初めは慎重な攻め口なのかとも思ったが、何度か繰り返すうちに
これは次にどうしていいか分からない者の動作であるという所に思
い至った。
一撃一撃は鋭く、素振りを真面目に取り組んできたものだと分か
る。
それだけに、その後の動きがいかにもお粗末なのが不思議だった
が、素振りから先の訓練を受けていないのならばさもありなんとい
ったとこだ。
﹁妹の話では、昨年から剣の修行を始めたとのことだったが⋮⋮﹂
俺は狼狽してぽつりと言う。
﹁⋮⋮始めたさっ! 訓練場の、掃除と、武具磨きをなっ!﹂
俺の方をキッと睨むと、ガスパールは絞り出す様に言う。
﹁去年の秋から1年間は、来る日も来る日も掃除と武具の手入れと、
騎士達の休憩の準備だった。今年の秋になってようやく木剣を持つ
ことを許されたけど、できるのは素振りだけ。走る訓練も、決めら
れた距離しか走れない﹂
俺は前世における、伝統芸能の弟子を思い出した。
確か入門したてのころはその芸とは何の関係もない事を延々とや
らされるということだった。
そうして10年20年をかけて一人前に育て上げられるという。
117
武門の侯爵家。
赤獅子のランベルト。
まさか嫡男に、いや嫡男だからこそ、そのような古風な修練を積
ませるのだろう。
﹁初めは、剣の修行ができると聞いて嬉しかった。父上のような騎
士になるのが、俺の目標だから。
でも、実際は掃除や武具の手入れなんていう雑用ばっかりで⋮⋮﹂
親父さんに憧れていたのならば、尚更理想と現実の格差が痛かっ
たことだろう。
我が家の場合、別に武門の家柄ではないし、父上も公爵としての
義務程度にしか剣技は身に付けていない。
俺に関しても、立派な騎士になって欲しいなどと期待していない。
なので完全にロイドに任せっきりで、そのロイドも出し惜しみせ
ずにどんどん実技を教えてくれる。
教育方針の違いという奴だ。
俺の方は普通に公爵家として最低限の技量を求められ、俺個人が
実戦的なものを身につけるのを望んだからロイドが応えてくれてい
る。
いや、かつてロイドに暇を出しても諌めなかった父上のことだ、
最低限の技量すら求めていないのかもしれない。
ロイドは優秀だから俺に合わせて段階的な訓練をしてくれてはい
るが、あくまでもロイド個人の良識によって教育されている。
それに対してガスパールの方は、歴代のランベルト侯爵家に連綿
118
と受け継がれてきた、言わば一族としての教育方針の元に騎士とし
て鍛えられているはずだ。
今は俺の方が剣技としては上だが、それはあくまでも今だけの話。
ランベルト流の育成方法が積み重ねられていけば、俺はあっさり
と負けるだろう。
言わば、与えられた同じ量の砂で、俺は山をつくり、ガスパール
は土台をつくっているようなものだ。
一時を見れば俺の方が高いが、将来を見ればどちらが高くなるか
など明らかである。
﹁言われたとおりにやってきたけど、これで本当に剣の腕が上がる
のか、立派な騎士になれるのかずっと不安だった﹂
暗い表情で語るガスパール。
その気持ちは理解できる。
というか、よく1年間やりきったものだ。
以前の丸豚時代の俺ならば、多分初日で投げ出す。正確には、初
日の半分で投げ出していたはずだ。
まあそれは極端な例だとしても、流石は武門の侯爵家を継ぐ者。
きっとそれまでの育ちで積み重ねられたものもあるのだろう。
﹁それでも、父上を信じて、自分がやっていることには意味がある
と信じてやったきた。でも⋮⋮﹂
俺に、3年前は歯牙にもかけない小物だった奴に走りで敗れ、剣
でも苦杯を舐めさせられた。
それは、足元が崩れるような心境だっただろう。
それで﹁うそつき﹂という言葉が出たのだ。
119
だけどガスパール。
お前の親父さんは嘘つきじゃないぞ。
お前が大きな山をつくれるように、しっかり土台を固めてくれて
いるんだ。
今俺の方が少し高い位置にいることなんて気にするな。
お前は王道を歩いているんだから。
心からそう思った。
だが、言葉にすることは出来ない。してはいけない。
この事は、ガスパール自身で気づかなければいけないことだから
だ。
﹁お前に、よりにもよってあのマルセル・アルダートンに敗れた⋮
⋮。同世代でも、優秀と名高い者達にならば納得できるのに﹂
俺の駄目っぷりは結構貴族社会で広まっているらしい。
どこから漏れたのだろう。
3年前によっぽどやらかしたんだろうか⋮⋮。
もしくは、父上や俺によって放逐された元使用人や男爵・騎士が
他所でその非道を喧伝したのだろうか。
どっちも有りうるなぁ。
しかし、確かにそれならばショックだろう。
不安を飲み込んで耐えに耐えた訓練の成果が、あのマルセル・ア
ルダートンにすら劣る、なんて。
助言をしたくなる気持ちをぐっと抑える。
他人様の家の教育方針に口をはさむのはお互い良くない。
120
しかも武門の侯爵家の伝統的な育成法なのだ。他人が横槍を入れ
るべきではない。
しかし、3年前は正義感溢れる少年だったガスパールが、今はど
うだ。
歩む道を信じきれず、尖って、見ず知らずの同世代にいきなり勝
負を仕掛けるような性格に変貌してしまっている。
これでいいのだろうか。
侯爵家の為というよりも、本人の為に。
今日の敗北で、ガスパールの歪みは確実に加速する、そんな気が
した。
﹁⋮⋮もうオレは、剣は持たない﹂
﹁なっ!? ガスパール様っ!﹂
﹁止めるなシド! オレには才能がないんだ。この1年と数箇月の
訓練で何も得られていない!﹂
成果が得られないのは確かに辛い。
俺自身、少しずつ走れる距離が増えていったり走りきる速度が上
がったり、できる足捌きや型が増えたりという数的変化を観測でき
なければ、続けるのは難しかったのは容易に想像できる。
自分の成長を観測できない修行。
それは本当に辛く、だからこそやり遂げた先に大きな世界が開け
るものだろう。
121
ガスパールはその扉に手をかけつつあるが、それに気づかぬまま
背を向けようとしている。
﹁そんな事はありません! 侯爵様も騎士の皆も、ガスパール様に
期待しております!﹂
﹁もういいんだっ!﹂
かぶりを振るガスパールと、必死に宥めようとするシド。
どうする。
これは確実に、原作ゲームでは無かったエピソードだ。
丸豚だった俺は、王都に来ても広場になど行かないだろうし、よ
しんば行ったとしても走らないので勝負にならない。
原作におけるガスパールは、この停滞期間を自力で乗り越え、自
信溢れる俺様系へと成長を遂げたはずだ。
このままでは、ガスパールの今後に大きな影響が出る。
原作通りには俺がいるので行かないし、させるつもりもないのだ
が、俺の干渉によって他人に悪影響を与えるのは可能な限り︱︱そ
う、ミシュリーヌと俺の生存に関わらない限りにおいては避けたい
ところだ。
今手を出せば、ガスパールは自分で停滞を克服する機会を失う。
手を出さなければ、予測出来ない悪影響を及ぼす可能性がある。
122
どうすればいいっ。
俺は歯を食いしばり、考える。
己の力で殻を破り、次の段階へ至って欲しい。
それは嘘偽りのない想いだ。
莫迦が付くほど真っ正直なこいつを、俺は気に入ってしまったよ
うだから。
だが同時に、今手を差し伸べなくていいのかという迷いもある。
ここで見守る事が、果たしてガスパールの為になるのか。
言い争うランベルト主従を前に俺は悩みに悩み︱︱
﹁すまんガスパール! 俺にはどうしたらいいか分からん!﹂
己の不甲斐なさを謝った。
﹁⋮⋮何故お前がオレに謝罪などする! 情けをかけたつもりか?
それとも憐れみか!?﹂
激昂するガスパール。
﹁違うっ!!﹂
それを上回る怒声を俺は放った。
123
﹁俺ではお前を導くことができない。その事が悔しいんだ!﹂
ガスパールはぽかんとした表情になる。
﹁ガスパール、お前は凄い。何の意味があるのか分からないような
修行を文句も言わずに1年間やり抜くなんて、並大抵の奴じゃあで
きない。俺には絶対に無理だ。そんなお前だから、きっとそのうち
気づいたはずだ。それを、俺が邪魔してしまった!﹂
俺は一気呵成にまくし立てる。
こうなったら呆れられようが変な目で見られようが構わん。
﹁お前がやってきた修行そのものに、きっと大した意味はない。い
や、ないと言ってしまうのは早計かもしれないか⋮⋮。ああとにか
く、その大した意味の無い事を文句も言わずにやり抜いたことにこ
そ、意味があるはずだ。それをやって初めて見える何かがあるんだ
と思う。だから、お前のやってきたことは無駄なんかじゃない! ︱︱だけど﹂
俺はもどかしさに胸を焼かれながら、言い募る。
﹁それを俺が言ってしまってはいけなかったんだ。すまない、俺は
お前が自分で気づく機会を奪ってしまった﹂
ああ、結局ぶちまけてしまった。
俺がヴォル爺との問答で得たものの見方。
これは、自力で発見してこそ血肉となる性質のもの。
その機会を駄目にした俺の、罪は重い。
124
﹁きっとお前はこれから、たくさんの隠された意味に気づくはずだ。
けれど、最初の気づきに手を貸してしまった以上、お前はその後の
気づきを本当に自分のものとは思えないかもしれない。それが、何
より申し訳ない﹂
気が付けば俺は泣いていた。
他人の可能性を奪ってしまった後悔と、それがガスパールという
大いなる可能性を秘めた男だったという事実に。
原作の登場人物だからではない。
俺は実際に競い合い心を晒した目の前のこいつを認め、だからこ
そ己の無様が辛かった。
﹁︽文王馬車を曳く︾か⋮⋮﹂
ガスパールは下位古代語の故事を引いた。
﹁そうだ。いや、そもそもの始まりから意味を暴露してしまってい
るのだ。始めから自力で馬車をひかせなかったようなものだ⋮⋮﹂
俺は意気消沈する。
この故事は前世の世界にもあったもので、周の文王が太公望に馬
車を曳くように言われるというものだ。
言われたとおり自力で馬車を曳いた文王だが、200歩ほどで止
まってしまう。
そこから、部下が手を貸して600歩ほど曳いて止まった時、太
公望がその意味を語る。
200年︱︱つまり自力で曳いた200歩分は周王朝が自力で成
り立つが、残りの600年は他人の手を借りての存続となる。その
ような占いだったのだ。
125
﹁⋮⋮こんな風には考えられないか、始めからそれが国の命数を決
めると知ってていれば、千歩でも二千歩でも馬車を曳けると﹂
ガスパールは、静かな口調でそう言った。
俺は顔を上げる。
そこには、毒気を抜かれたかのような表情のガスパールが俺を見
ていた。
﹁意地の悪い世界のことだ、その場合、国の命数を決めるという前
提を覆しかねない﹂
﹁ははっ、それは反則だな﹂
ガスパールは自然な笑顔を見せた。
﹁何でお前は、そんなにオレの事で必死になっているんだ?﹂
難しい質問をぽんとしてこられた。
まあ最もだよな。
昨日会ったばかりだし、3年前のは俺としては無かったことにし
たいレベルの過去だし。
﹁何でって⋮⋮、何でだろうなぁ?﹂
理由はいろいろあるはずなのだが、いざ面と向かって尋ねられる
とはっきりと言葉にできない。
﹁くっ、ははははっ! 何だよそれは! 変な奴だな⋮⋮﹂
126
ガスパールは大笑いする。
目尻が少しだけ光っていた。
﹁ええー、まあ確かに、変かもしれないな、ははは﹂
俺も自然に笑いがこみ上げ、暫くの間2人で笑っていた。
それから、どちらからというでもなく袋竹刀を手に、型稽古を始
めた。
それは不思議な感覚だった。
俺がいつもロイドと稽古する時とは逆で仕太刀役になり、隙をつ
くる。
そうするとガスパールは、型なんか知らないはずなのに、そこに
剣を振ってきた。
俺はそれを定められた動きで回避し、ガスパールの頭に打ちかか
り、寸前で止める。
自分でも驚くほど、当たる寸前で止める事ができた。
ガスパールは、俺が止めることを露ほども疑わず、泰然不動とし
ていた。
そんな風に、俺達は稽古を続けた。時には打太刀と仕太刀をどち
らから言うともなく交代し、違和感なく続ける。
奇妙な、だけど決して嫌ではない感覚。
127
それから、お互いに引き時を悟り、正対する。
﹁最後に、一本勝負をしたい﹂
﹁望むところだ﹂
それをどちらが言い、どちらが応えたかの記憶は判然としない。
けれど俺とガスパールは構え、互いに呼吸を合わせて勝負の開始
を感知する。
先ほどとは違う、一進一退の攻防。
ほらな、やっぱりお前は凄いだろう。
本当の終わりを、肌と心で感じる。
今この時までは、俺の方に分があった。
先に届くことを確信して打ちかかり︱︱
﹁はぁっ!﹂
﹁せいっ!﹂
俺達の剣は、全くの同時に互いの頭を打った。
﹁いい勝負だった︱︱﹂
心底満足げに、ガスパールは微笑む。
﹁俺はこの引き分けを誇りに思う。そして、明日以降の敗北を﹂
128
俺も満足して笑った。
全く、俺の心配は杞憂に過ぎなかったようだ。
こいつは、他人に教えられたから身に出来ないような狭量な奴で
はなかった。
﹁なら俺は、自分に勝った男はマルセル・アルダートンだけだった
と言える騎士になる﹂
あまりの過大評価に止めてくれと言いそうになったが、踏みとど
まる。
それは誓い。
こいつが、今後誰にも負けないという誓いなのだ。
それを誰が否定できようか。
﹁ああ、楽しみにしているぞ﹂
そうして俺達は別れを告げ、広場を挟んで反対方向へと歩いてい
った。
そうして、俺の新たなる始まりの年は終わりを告げたのだった。 129
130
13 兄、好敵手を啄する︵後書き︶
ミシュリーヌ可愛い・ミシュリーヌ心配の感想をたくさん頂き、あ
りがとうございました。
ガスパールも好意的に受け止められたようで嬉しいです。
131
14 兄、妹の衣装を見立てる
昨日、ガスパールとの快い交流の余韻に浸りつつ一日を終えた俺
は健やかに眠りにつき、爽やかな朝を迎える︱︱はずだったのだが。
﹁お兄様ー! 早く起きてくださいましー!﹂
俺を目覚めさせたのはミシュリーヌの声だった。
レディが朝っぱらからこんな大声とは如何なものか。
しかし何があったのだろう。
俺の部屋の外で控えているであろうロイも、ミシュリーヌ付きの
エミもいるだろうに自分で起こしに来るとは。
﹁今起きたぞ。着替えるから少し待ってくれ﹂
言いつつ、昨日は気付かなかったが、たくさんの服が用意されて
いたことに気づく。
ああ、今日は昼から王城で新年を祝うパーティーだからか。
普段着ている服も上等なものだが、パーティー用の服はそれに輪
をかけて豪華絢爛だ。
これ一着で、平民の家族がどれくらい食べていけるのだろうかと
考える。
だがまあ、こういった凄まじい金をかける貴族がいるからこそ、
服飾技術のレベルが維持向上し文化に結びつくのだと思えば、一概
に無意味な出費と切って捨てることもできない。
文化を担うのは貴族の勤めでもあるのだ。
とはいえこれだけあると流石に目移りするな。
132
とりあえず、うっかり朝食の時に何かこぼして汚れても困るので、
まずは普段の服に身を包む。
さて、一体ミシュリーヌに何が起きたのやら。
﹁着替え終わった。入っていいぞ﹂
言い終わらぬうちに、ロイを押しのけてミシュリーヌが入ってき
た。
﹁お兄様! 今日着ていくドレス、どれが一番いいか一緒に選んで
くださいませ!﹂
簡潔に要件を告げたミシュリーヌは俺の手を取るとぐいぐいと衣
装室へ連れていった。
お兄ちゃん、ご飯まだなんだけどとは言えない気迫であった。
さて、我がアルダートン公爵家の王都屋敷は本宅よりは当然小さ
いのだが、衣装室に関しては本宅よりもずっと広く、衣装も多い。
何故かと言えば、社交の機会が多いのはやはり王都の方だからだ。
父上と母上は年の半分くらいは王都に滞在し、王族貴族との交流
という仕事をしている。
その為には、様々な衣装が必要になるというわけだ。
今回の新年を祝うパーティーは、王城で開かれる催し物の中では
もっともくだけた性質のものである。
厳粛なものではなく、あくまでも楽しいお祝いということで無礼
133
講ということになっている。
だが、勿論文字通りの無礼講ではなく、そういう看板を掲げるか
ら公爵や侯爵はこの辺り、子爵男爵はこの辺りの礼儀のラインまで
で交流しましょうねというお約束があるのだ。
そういうわけで、公爵家の子女である我々兄妹としても、当然与
えられた役割があり、然るべき服装というものが求められる。
が、ミシュリーヌが気にしているのはそういった公爵家としての
云々ではない。
﹁お兄様、殿方目線から見て、どのドレスが一番可愛いと思います
か!?﹂
エドワーズ王子に可愛いと思われたい一心である。
いじらしさも感じるのだが、それ以上に気合が入りすぎていてち
ょっと腰が引けてしまう。
これ、この勢いで行ったらエドワーズ王子も同じく引いてしまい
かねない。
どうにか軌道修正を図りたいものだ。
﹁ミシュリーヌがいいと思っているのはどれなんだ?﹂
﹁わたしの好みとしてはこの辺りですわ﹂
見事に赤主体のドレスばかりである。
うん、原作ゲームでもミシュリーヌと言えば赤だったもんなぁ。
色が与える印象というのはかなり大きい。
そして、着る者の印象により良いイメージを想起させることもあ
134
れば悪いイメージを呼び起こすこともある。
原作ミシュリーヌの場合、釣り目がちな険しい表情と相まって﹁
攻撃的﹂﹁恐怖心を与える﹂﹁怒り﹂と言ったマイナスのイメージ
が強かった。
今のミシュリーヌが赤を着てもそこまで酷いイメージにはならな
いが、本人のエドワーズ王子にベタ惚れ状態を鑑みれば、興奮と積
極性を高める効果が悪い方向に発揮されそうで怖い。
せっかく意見を求められたのだから、違う方向に持っていくよう
にしてみよう。
﹁前回エドワーズ王子とお会いになった時は、どんなドレスだった
んだ?﹂
﹁あの時はこちらのドレスでしたわ。エドワーズ様に綺麗だねと褒
めて頂いたんですのっ!﹂
その時の興奮が蘇ったのか、感情を抑えきれずにバシバシと背中
を叩いてくるミシュリーヌ。
むう、先日の一件のせいで、お兄様は叩いてもいいものという認
識がされてしまったのだろうか。
それは困るのだが⋮⋮、まあ今は仕方あるまい。
そう割り切り、堪え忍ぶ。
ミシュリーヌが指したのはやはり赤のドレスだった。
本人的にも、既にトレードマーク的な位置づけになっているのだ
ろう。
これは恐らく、ミシュリーヌの中では既に決まっているのだろう。
アドバイスと言いつつ、無意識下ではあるが実際は後押しをして
135
欲しいだけなのだ。
このままでは、自分の存在とミシュリーヌの内面の変化はともか
く、記号レベルでは原作と同一の流れになるだろう。
別段、ミシュリーヌが8歳の時の新年を祝うパーティーで何が起
きたというエピソードが詳細に語られたわけではない。
しかし、エドワーズ王子がミシュリーヌに対し、親同士が決めた
婚約者であるという以上の感情を持たなかったというのは動かしが
たい事実である。
それではまずいのだ。
ミシュリーヌ=赤。
この固定観念が構築される前にどうにかしたい。
だが聞いてくれるだろうか。
あれで結構頑固なところがあるから、殿方目線から見て赤以外の
ドレスを薦めても受け入れてくれるだろうか。
思い悩む。
別に服の色位気にしなくていいじゃないかと侮るなかれ。
無意識に継続的に訴えかける記号というのは、気づかないだけに
恐ろしいのだ。
まるで︱︱︽ ︾
⋮⋮何の事を考えたんだっけ?
何かに似ていると思ったのだがド忘れしてしまった。
その代わりに、ふと違うことを思い出した。
136
﹁そういえば、どうして昨日のうちに聞いて来なかったんだ?﹂
ふと疑問を呈する。
ファッションにこだわるミシュリーヌの事だから、俺のように今
朝気づいてどれにしようかと考えたわけではないだろう。
﹁私だって、本当は昨日お聞きしたかったですわ! でも︱︱﹂
﹁でも?﹂
﹁⋮⋮お兄様、なんだか凄く満足そうというか、大事な気持ちに浸
っているような気がして。邪魔してはいけないと思って﹂
ああ、それで昨日は大人しかったのか。
勝負の結果も聞いて来なかったし。
こっちの事情を考える事がちゃんと出来るようだ。
ふっと、俺の肩が軽くなった。
先程までの心配が消えてゆく。
ミシュリーヌはこうして、相手の状況を想像して気を遣う事が出
来る子なのだ。
きっと、俺の助言も無碍にはするまい。
﹁ありがとうミシュリーヌ。そしてすまなかった。勝負の事で心配
をさせたというのに、知らせもしなかったなんて﹂
137
俺は自分の不明を恥じ、頭を下げる。
俺の方こそ、俺を心配してくれていた妹の気持ちを想像できてい
なかったではないか。
﹁いいんですのよ。帰ってきた様子で、大丈夫だというのは分かり
ましたから﹂
微笑むミシュリーヌ。
なんていい子なんだと感動すら覚える。
﹁それで、お兄様は勝ったんですの? あの素敵な武器で、ガスパ
ール様をボコボコに出来たんですの?﹂
興奮気味に拳を握って聞いてくる我が愛しの妹。
えーとね、ボコボコにしたりされたりしない為の素敵な武器なの
だよ⋮⋮。
これはアレだ、赤い服を前にして興奮してしまったに違いない。
きっとそうだ。
だからドレスはやっぱり赤以外にしよう。
そうすれば万事解決だ!
﹁いや、俺の完敗だったよ。だけど、とても嬉しい勝負だった﹂
俺はあの爽やかな一時を、大切な時間を思い出す。
﹁⋮⋮負けてしまいましたのに、⋮⋮嬉しい。つまり、お兄様は打
たれるのが⋮⋮!﹂
違う、そうじゃない。
止めてミシュリーヌ! お兄ちゃんの素敵な思い出から厭な裏を
138
想像しないで!
﹁それで、ドレスの話なのだが﹂
﹁そうですわ! ドレスですわ!﹂
新たな扉の求心力も強かったが、エドワーズ王子への想いの方が
より強力であった。
ありがとう王子!
というわけで、俺は衣装室を見て回り、ある一着の前で足を止め
る。
﹁ミシュリーヌ、こっちへおいで﹂
﹁いいのがありましたの?﹂
俺がミシュリーヌを招いたのは、ピンク色を基調とした可愛らし
いドレスの前だった。
﹁う∼ん、昔はピンクのドレスも着ていましたけど、もう子どもっ
ぽく感じますわ。普段着ならまだしも、王城のパーティーで着るド
レスには⋮⋮﹂
やはり難色を示す。
運動着はピンクだったからと淡い期待を抱いたが、そう簡単には
いかないか。
﹁確かにミシュリーヌはもう立派なレディだが、周りから見ればま
だ子どもだ。無理に大人びた格好をしてると思われてしまうよりは、
子どもらしくて可愛いと思われた方がいいと思う﹂
139
﹁周りの大人の方々より、エドワーズ様がどう思うかですわ!﹂
﹁うむ、そこだな。⋮⋮これは個人差があるのではっきりとは言え
ないのだが﹂
﹁⋮⋮なんですの?﹂
俺が真剣な表情になると、ミシュリーヌの表情にも緊張が走る。
﹁男というものは、優しかったりキリッとしたりしている年上に憧
れる時期もあれば、可愛い年下を好きになる時期もある﹂
﹁ふむふむ﹂
﹁ミシュリーヌとエドワーズ王子は同い年だ。なので年上お姉さん
系か年下可愛い系かを選ぶことになるのだが、男としては本物の年
上のお姉さんには憧れても、お姉さんぶっている同年代にはあまり
惹かれない可能性が高い﹂
﹁そ、そうなんですの!?﹂
﹁男としては、本物の年上になら甘えたいが、同年代の前ではむし
ろ頼られたいものだ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
﹁なので、赤でレディぶるよりは、ピンクで自然に振舞う方がいい
と思う﹂
140
﹁う∼ん、確かに一理ありますわ。⋮⋮ですけど、やっぱり赤も∼﹂
迷い始めたミシュリーヌ。
もうひと押しだ。
﹁それにミシュリーヌ、赤いドレスでは、せっかくのお前の綺麗な
深紅の瞳が目立たないぞ﹂
俺はミシュリーヌの目を見ながら言った。
金の髪、白い肌と相まって、ミシュリーヌの深い紅の瞳はとても
印象的だ。
﹁私の、瞳ですか?﹂
﹁ああ、せっかくの綺麗な赤なのに、ドレスも赤では目立たない。
ピンク色の中に赤があれば、とても目を引くと思うが︱︱﹂
﹁このドレスにしますわ!﹂
即断即決であった。
﹁あんなに迷っていたのに、ずいぶんとあっさり決めたな﹂
思わず口にしてしまう。
﹁ええ、目立てばきっと、エドワーズ様も私の瞳を見てくださいま
すもの!﹂
笑顔で言うミシュリーヌ。
ん?
141
どういうことだろう。
ミシュリーヌは、この前はドレスも赤だったから目立たなかった
んですわね∼と独りごちている。
⋮⋮エドワーズ王子は、前回の婚約の時にミシュリーヌと目を合
わせなかったのだろうか。
第一印象があまり良くなかったのではという懸念はあったが、ま
さかそこまでとは⋮⋮。
しかし、いかに婚約時のミシュリーヌが軌道修正前の我儘娘だっ
たとはいえ、目も合わせないというのはどうなのだ。
兄として引っかかるものを感じつつ、俺はパーティーへの準備を
進めた。
142
15 兄、宴の会場にて協力者を得る
王都グラディオスの中心に、王城はある。
名称は王城であるが、機能と構造から言えば実質的には宮殿だ。
広々とした庭園は、真冬だというのに花が咲き乱れ、気温も春の
暖かさである。
勿論、これらの現象は魔道具によるものだ。
パーティーに向けて華やかにということだろうが、中々に季節感
を失わせる光景である。
そんな庭園の奥には、きらびやかな建築物がどっしりと鎮座して
いた。
前世の記憶からイメージするに、ベルサイユ宮殿をベースに、背
の高い塔をいくつも追加したような外見である。
陽光にきらめくその姿は、天上の光景のようだった。
流石は王の居城。
俺は感心しながら、両親とミシュリーヌと共に王城へと入った。
パーティーは既に始まっていた。
と言っても、正確にはまだ開宴ではない。序列的には下位である
男爵・子爵家の者達が先に会場入りして場を温めておき、徐々に伯
爵・侯爵・公爵家が現われ、揃ったところでいよいよ王族が登場し
て参加者にお言葉を賜り正式な始まりとなるそうだ。
新しい参加者が登場するということは自分と同格か上であるので、
先に参加している者達は同格や下位の者と談笑しつつも常に誰が訪
れたかに意識を向けているとのこと。
新しい参加者は大広間の前側中央にまず行き、それまでそこに居
た者達は場所を譲って徐々に後方外側へと下がるという動きがマナ
ーとしてあるそうだ。
143
我が家の場合公爵家なので、王族の登場まではほぼ中央から動く
ことはない。
同格の爵位でもその中で更に序列が存在するのだが、今回の新年
パーティーのような無礼講を掲げた集まりではその部分はあまりあ
からさまにしない事がマナーとなっているらしい。
なお、俺やミシュリーヌのような公爵家子ども達は最も自由で、
大広間を好きに動いている。
あくまでも公爵家の子ども達は、であり子ども全般ではない。
そもそも男爵家は本人と奥さんのみで子どもは連れてきていない
し、子爵家の場合親のそばから離れさせない。
伯爵家についてはそれなりに動けるが外側への移動のみ許されて
いる。
侯爵家になると、公爵家と同様ほぼ自由となる。
如何に無礼講とはいえ、子ども同士のトラブルは結構根が深くな
るものなので、このような配慮がされているようだ。
貴族の社交というのは、かなり神経を使うものなのである。
大広間への入口。
同行していた家令のイウンが俺達の到着を係の者に知らせる。
﹃アルダートン公爵様御一家の御到着です﹄
決して大音量ではないが、はっきりと聞こえる声。
恐らく、何らかの魔道具で拡声されているのだろう。
大広間の中で参加者にも知らされた後、俺達はゆっくりと大広間
に入った。
大広間はその名の通り恐ろしく広かった。
ざっとした目算だが、100m×200mくらいあるのではなか
ろうか。
144
柱が何本もあり、その1つ1つに立派な彫刻が施されている。
壁には数々の絵画が掲げられ、こちらもまた細緻な彫刻を施され
た大きな窓が並んでいる。
天井も開放感を感じる高さで、ここにも神話の一場面と思しき絵
が描かれていた。
シャンデリアなのであろうか、宝石細工を魔道具で光らせている
と思しき照明がいくつもあった。
いくつものテーブルが並べられ、その上には料理と飲み物。
城の使用人達が数多く優雅な動きで給仕をしている。
大広間に一歩足を踏み入れると、周囲からの注目を感じた。
流石にじろじろとぶしつけな視線を向けてくる者はいないが、さ
りげない視線は皆送ってくる。
立ち位置や服装的に子爵と思しき人が何人か、俺達の進路には当
然入らないものの近づいてきて礼と挨拶をする。
父上はそれに対し鷹揚に頷いて見せるだけで、声をかけたりはし
ない。
アルダートン公爵領の近隣の領主達だろうか。
我が家の領地は規模が大きいので近接する中小貴族の領地が多く、
その分交流の機会も多くなる。
向こうの態度から察するに、大領主なのでこちらが頼られている
事が多いのだろう。
そういえば、思い返せば実家にも結構な頻度で来客があった。
父上は領主としては、別段能力が低い訳ではないようだ。
そのまま歩みを進め、中央前方の集まりに至る。
公爵家の一団だ。
やはり、他の貴族家とは格の違いが感じられる。
ちなみに、男性貴族用の衣装は中世ヨーロッパおなじみのぴっち
145
りとしたタイツっぽい奴ではなく、ひざ下までの裾のズボンである。
膨らんだ肩当てもない。女性用の衣装も、定番のコルセットはかつ
ては使われていたが古い流行であり、現在は使われていないとのこ
とだ。
大分前世における日本の美意識が反映されているなと感じた。
さて、公爵家の皆様方、衣装の豪華さもそうだが、表情や振る舞
いがごく自然だ。
その意味では、自分はどう他人の目に映るのだろうか。
今の俺は前世の記憶が蘇り、それまでの常識と人格に追加統合さ
れたような状態である。
表面上の振る舞いはそれまでの在り方をトレースできているが、
内面は大きく変わっている。
それまでの我儘放題の丸豚よりも、今のマルセルの方が人間とし
て好かれるのは間違いない。
しかし、公爵家の長男としては、あまりに前世の常識のままに行
動しては違和感を与えてしまうだろう。
自然な尊大さ、とでもいうものが必要になってくる。
自然に振舞うというのは誠に難しい。
それは、努力をすればする程に不自然になってしまうからだ。
努力を全くしない事が最大の努力なのだが、努力をしないように
意識することもまた不自然さにつながる。
やってもやらなくても駄目なので考えないのが一番なのだが、そ
れが出来れば苦労はしないという話だ。
⋮⋮どうせ不自然になってしまうのなら、人間として好ましい振
る舞いをしよう。
俺はそう腹を括った。
146
﹁これはアルダートン公。お久しぶりですな﹂
30代半ばと思しき長身の男性がにこやかに話しかけてくる。
﹁おお、ブレンスマイア公。お元気でしたか﹂
父上もにこやかに応じる。
格下には情け無用だが、同格の貴族に対しては極めて常識的なよ
うだ。
母上も、にこやかに挨拶をしている。
﹁そうだ、挨拶がまだでしたな。ブレンスマイア公、私の息子のマ
ルセルと娘のミシュリーヌです﹂
父上に振られ、俺は一歩前に進み出る。
﹁お初にお目にかかれて光栄でございます。ロドリグが一子、マル
セルと申します﹂
俺は礼法に則り礼をする。
﹁お初にお目にかかれて光栄でございます。同じくロドリグが一女、
ミシュリーヌと申しますわ﹂
ミシュリーヌも、きちんと挨拶ができた。
﹁おお、これはご立派な御子息に御息女ですな。我が家の子ども達
にも是非ご挨拶をさせたいのですが、あいにくとどこかに行ってお
りまして、また後程﹂
ブレンスマイア公爵は少し慌てたように言った。
﹁ははは、子どもには子どもの社交がありますからな﹂
﹁お父様、クローデット︱︱ミュレーズ公爵家の御令嬢があちらに
147
いらっしゃるのですが、お話してきてもいいでしょうか?﹂
友達を見つけたらしいミシュリーヌが父上に許可を求める。
﹁おお、文通相手の御令嬢だな。勿論いいとも。行っておいで﹂
父上は相好を崩して薦めた。
ミシュリーヌは結構顔が広いのだろうか。
おっと、俺の方でもやる事があるのだ。
﹁父上、私も何人か挨拶したい方がいるので、行ってきてよろしい
でしょうか。あと、イウンについてきて欲しいのですが﹂
父上がほう、といった表情になる。
一人称を変えたからだろうか。
﹁ああ、行ってきなさい。イウン、こっちはいいからマルセルに付
くように﹂
﹁かしこまりました﹂
﹁ありがとうございます。それではブレンスマイア公爵様、大変申
し訳ないのですが、ひとまず私はここで失礼致します﹂
俺が中座を詫びると、ブレンスマイア公は瞠目した。
﹁⋮⋮本当にご立派な御子息ですな。我が息子にも見習わせたい﹂
﹁いやいや、ブレンスマイア公の御子息は大層才気溢れていると噂
で聞いておりますよ﹂
はっはっはと笑う父上。
148
なるほど、父上があちらの息子の噂を聞いているように、どうや
ら俺関係の噂も飛び交っているのだろう。
情報源は分からないが、恐らく俺が前世の記憶を取り戻す前の丸
豚の時期の噂だろう。
これは、中々に行動しづらいものがあるな。
流石に面と向かってぶっちゃけた話はしてこないだろうけど、驚
きを隠さなければならない相手に申し訳がないなぁ。
俺は再度礼をすると、イウンを伴って外周へ向かって歩きだした。
﹁それではイウン、すまないがよろしく頼む。大体どこに居るかの
目星は付くか?﹂
﹁ご安心ください。きちんと調べておりますので﹂
イウンは穏やかに微笑する。
なんというナイスミドル。
﹁あちらの、深緑色の上着の方がベステル侯爵家のブルーノ様でご
ざいます﹂
﹁おお、では早速﹂
俺は同世代の少年の元にゆっくりと歩み寄る。
﹁失礼、貴方はベステル侯爵家のブルーノ殿で間違いないか?﹂
﹁そ、そうですが、貴方は?﹂
俺の問いかけに、ブルーノ君は少し驚いた様子で答える。
149
むう、普通にしたつもりなのだが警戒させてしまったか。
すぐさま、ベステル家の家令と思しきナイスミドルがブルーノ君
に耳打ちすると、ブルーノ君はびくりとして一歩引いた。
どうやら俺が誰か分かったらしい。
家令というのはどこの家でも相手が誰かを察知する技能を持って
いるようだ。
﹁お気づきの通り、俺はアルダートン公爵家のマルセルだ。3年前、
ブルーノ殿を足蹴にしたこと、誠に申し訳なかった。この通りだ﹂
俺は大げさで無い程度に、だが確実にそれと分かる位に頭を下げ
る。
そう、俺の挨拶したい方というのは、正しくは謝罪相手である。
3年前に働いた悪行とはいえ、放っておくのは良くない。
普通に振舞うだけで驚かれる状態になっている中でこんなことを
すれば目立つというのは分かっているのだが、ここで機会を逃して
しまえば、もはやお互い忘れてしまうだろう。そうして有耶無耶に
してしまうのは避けたかったので、やってしまう。
﹁え、えええっ!?﹂
さっきよりも格段に驚きを示すブルーノ君。
﹁⋮⋮君、本当にあのマルセル・アルダートン?﹂
思わず素に戻ってしまったようで、ブルーノ君は敬称も付けずに
フルネームで呼び捨てる。
150
おお、完璧っぽかったあちらのダンディ家令が凄い焦った顔に。
どうやら、ブルーノ君がこんなミスをやらかすとは予測していな
かったようだ。
﹁一昨日も似たような事を言われたが、俺は正真正銘そのマルセル・
アルダートンだ﹂
気にしていない事を示すべくこっちも言葉遣いを崩すと、ようや
く自分の非礼に重い至ったブルーノ君が慌てて頭を下げる。
﹁⋮⋮虫のいい話で恐縮だが、俺の謝罪を受け入れてくれたという
ことでいいだろうか?﹂
﹁ああっ、それは勿論! あの時は確かに痛かったし怖かったけど、
大した怪我でもなかったから﹂
ガスパールと出会った後、自分の悪行が気になった俺はイウンに
3年前のことを何か覚えていないかと聞いてみたのだ。
初めは言葉を濁していたイウンだったが、新年のパーティーの時
に問題が起きてはいけないからというとついに詳細を教えてくれた。
結論から言えば、ちょっとしたアザや打ち身程度で大きな怪我も
なかったそうで、あの後早々に父上がイウンを通じて相手の家々に
話をつけ、家同士としては解決済みとのことだった。
だがしかし、それではいそうですかという訳にはいかない。
そう、俺は必ず、彼らに謝罪をしなければならないのだ。
心の奥の何かが、必死で訴えている。
なので俺は、自分の過ちは自分で受け入れると主張し、イウンに
当時の被害者を確認してもらったのだ。
151
軽いとはいえ、怪我をしたのはブルーノ君を入れて3人。
あの広場なので公侯爵だけかと思ったが、あとの2人はブルーノ
君の所に挨拶に来ていた伯爵家と子爵家の子ども達だったそうだ。
﹁許しを頂いて感謝する。⋮⋮あと、申し訳ないのだが、残りの2
人への謝罪に同伴してもらえないだろうか。俺だけで行くと、向こ
うを萎縮させてしまいそうでな﹂
﹁ニコラスとエンリオにも謝るの?﹂
かなり意外そうな目で俺を見るブルーノ君。
﹁それはそうだろう、同じく俺の被害者なのだから﹂
俺がそういうと、ブルーノ君は大変に複雑な表情で何やら考え事
をしだした。
﹁⋮⋮やっぱり信じられない。あのマルセル・アルダートンとは思
えない﹂
胡乱気な眼差しでぼそっとつぶやくブルーノ君。
﹁言われても仕方がないとは思うのだが、半年程前に妹がエドワー
ズ王子と婚約してな。それで色々と我が身を振り返ったんだ。具体
的にいうと王兄ライヒアルト様を目標にしているので、相手の家格
で差別などしないことにした﹂
﹁それにしたって、噂を聞いていた身としてはびっくりだよ。相当
凄いって聞いてたもの﹂
俺の耳元に口を寄せ、ひそひそと伝えてくるブルーノ君。
そんな噂が流れていることを当人に知らせていいのだろうかと思
うが、そこは勿論、知らせても大丈夫と踏んだのだろう。
向こうの家令には声が届いたらしく、目を白黒させている。
152
ダンディズムが台無しである。
このブルーノ、大人しげな雰囲気だったが従者のロイと同じく切
れ者の才覚を感じる。
﹁ああ、俺もそれに気づいてな。このまま単独で出向いても怖がら
れて終わりだろうから、是非にお願いしたい﹂
﹁⋮⋮ふうん、いいよ。何だか本物の君は面白そうだ﹂
こっちが彼の素なのだろう。
ブルーノは楽しげに笑うと、俺の要請を受け入れてくれた。
よし、周囲の目が多少気にはなるが、仲介役を得られたのだ。き
っちり詫びを入れてこよう。
153
16 兄、友誼を結ぶ
ブルーノの助力を得ることに成功した俺は、彼に先導されて更に
外側の伯爵家ゾーンへと足を運んだ。
別にどこかに区分けが書いてあるわけではないのだが、何となく
どの辺りで線引きされているのかが分かる。
それは言葉遣いだったり立ち居振る舞いだったり、あるいは身に
付けているものの品質や、組み合わせのセンス等だ。
知識で判別しているのではなく、無意識の感覚で分かるのだろう。
﹁この辺りで少し待ってもらっていいかな? 流石に君を子爵の集
まりの方に連れていくのもなんだから、エンリオの方を連れてくる
よ﹂
﹁ああ、すまないがそうしてもらえると助かる﹂
俺の返事を受けて、ブルーノは外側へ向けて歩いていった。
気遣いの出来る男、ブルーノ。
うん、出会った時の弱々しそうな反応から、心の中でとはいえさ
っきまで君付けで呼んでいたけど止めよう。
何かこう、口に出さなくても気づかれる気がする。
というか、彼を粗略に扱うとまずい事になる予感がする。
何でだろう?
得体のしれない警戒感を不思議に思いつつしばし待っていると、
ブルーノが2人の少年を連れてこちらにやってきた。
﹁お待たせ﹂
154
﹁あ︱︱﹂
俺は思わず声を漏らした。
ブルーノを中心に、右にニコラス・ラヴァン、左にエンリオ・ペ
ンズが並ぶ。
まだ紹介を受けていないが、どっちがどっちかを俺は知っている。
二人とも俺の1つ下のはずだが、既にかつての俺並みのぽっちゃ
り感を出しているニコラスと、長身で痩せ型のエンリオ。
左右にこのコンビを控えさせ、一見にこやかに微笑むブルーノ。
この絵面は!
思い出した。
というか家名が違うから気付かなかった。
ブルーノ・パンタグリュエル。
後のパンタグリュエル辺境伯家の跡継ぎにして、原作ゲームの攻
略対象だ。
属性は、智謀系毒舌眼鏡。
危ない危ない、彼は敵に回したらいかん奴だった。
確か、彼のイベントで侯爵家から母の実家の養嗣子になって云々
という話があったはずだ。
恐らく、それはまだ先の話なのだろう。
今は眼鏡をかけていないが、視力もこれから落ちるのだろうか。
﹁どうかした?﹂
﹁ああ、いや、すまん。何でもない﹂
不思議そうに問いかけるブルーノに俺が返事をすると、両側の凸
155
凹コンビが揃って一歩後ずさる。
﹁⋮⋮聞いたか?﹂
﹁⋮⋮ああ、本当に謝ったぞ﹂
顔を見合わせて囁き合う2人。
いやいや、今の場合のすまんは謝罪に含まれないレベルの日常会
話だと思うんだけど、それでもこの反応かい!
﹁だから言っただろ2人とも、安心しろって。マルセル、こっちの
丸いのがニコラスで細長いのがエンリオだよ﹂
何ともざっくばらんな紹介である。
ただ、言いようはあんまりだがそこに悪意は感じられない。
言われた2人も気にしていないようなので、親しみの現われなの
だろう。
﹁わざわざ足を運ばせて申し訳ない。ブルーノから聞いているとは
思うのだが3年前の件でお2人に詫びをしなければと︱︱﹂
﹁あああ、いやいや、それには及びませんよ!﹂
﹁そうですそうです、子どもの時のことなのですから!﹂
俺が一歩近づいて頭を下げようとすると、慌てて止める2人。
﹁いや、しかしけじめとしてこういうのは﹂
﹁マルセル様︱︱﹂
イウンがそっと声をかけてくる。
﹁マルセル様の己の過ちを償おうとする姿勢はご立派です。しかし
156
ながら、それはお相手の立場を慮れなければかえって迷惑になって
しまいます﹂
イウンの諫言にはっと我にかえる。
先程のブルーノの時は、公爵家と侯爵家ということで俺が頭を下
げたところで問題はない。
しかしこの2人は伯爵家と子爵家だ。
いかに子ども同士のやりとりとはいえ、いかに無礼講の宴の席と
はいえ、公爵家の嫡男に頭を下げさせたということが公になるのは
2人と、その実家にとって迷惑以外の何ものでもない。
﹁ありがとうイウン、俺はまたしても過ちを犯してしまうところだ
った﹂
小さく礼を言うと、イウンは深く礼をした。
﹁では2人とも、立場上詫びをできないので代わりといってはなん
だが、今後は親しくしてもらえればありがたい﹂
﹁⋮⋮え∼っと、その﹂
﹁⋮⋮公爵家のマルセル様と親しく、ですか﹂
妥協案のつもりだったのだが、まだまだハードルが高かったよう
だ。
考えてみると俺って友達と呼べる存在がほぼ居ないんだよな。
同年代とまともに会話したのなんて昨日のガスパールくらいだし。
ミシュリーヌは着々と文通したり集まりで友達を作ったりしてい
157
るというのに、お兄様はこの有様である。
﹁寂しいなー、僕のことは誘ってくれないのかい?﹂
固まる2人を置いといて、ブルーノからかうような口調で言って
来た。
﹁いや、ブルーノとはもう友達になれたつもりだったのだが⋮⋮﹂
あれだけ素の状態を見せてくれたから君はもう友達枠に入れてる
んだけど、勘違いだったのだろうか。
だとしたらこっちこそ寂しいのだが。
俺の言葉を受けたブルーノは一瞬驚いた顔をした後、自然な笑み
を見せた。
﹁事が後先になったけど、よろしくねマルセル﹂
ひょいと突き出された手を取り、俺は握手をした。
後のキレ者眼鏡も、子どもの頃は案外普通だ。
﹁というわけで2人とも、僕がマルセルと友達になった訳だから、
ある程度覚悟を決めるんだよ。これからの集まりでも結構顔を合わ
せる事になるだろうから﹂
﹁そ、そんな∼﹂
﹁⋮⋮善処します﹂
ブルーノの言葉に、困惑するニコラスと、諦めたらしいエンリオ。
まあ急にはむりだろうけど、仲良くしてくれると嬉しいのだが。
それから暫し、やはり子ども同士だからなのか間に入ったブルー
158
ノの話術が巧みなのか、俺たちは結構打ち解けることができた。
談笑を重ねていると、ふとニコラスがブルーノに耳打ちする。
ブルーノは話を聞いていたようだが、突然ぶふっと噴き出してか
ら、俺の方に向き直った。
﹁ねえマルセル、君って結構ふくよかだったはずだけど、一体どう
したんだい?﹂
そういうことか。
どうやらニコラスは俺のダイエット法について聞きたかったが、
直に尋ねるのもはばかられるので間を通したらしかった。
﹁半年ほど前から、食事の量を半分程度に減らした。内容も、それ
までは肉類中心だったが、野菜や豆も食べるように変えた。あとは
やはり運動だな。剣の訓練も再開したから﹂
﹁半分っ!!﹂
内容を聞いて、絶望の声を上げるニコラス。
まあ、それまで普通に食べていた量の半分というのはつらいかも
しれない。
﹁いきなりだと続かないだろうから、少しずつ減らすというのもい
いんじゃないか?﹂
﹁あー、それなら出来るかもしれません﹂
俺には敬語だが、一応普通に会話はできるようになった。
と、今度はエンリオがブルーノに耳打ち。
普通に聞いてくれていいのだが、エンリオは子爵家だし、敷居が
高いのだろう。
159
エンリオの話を聞いていたブルーノが、興味深そうな表情になる。
話を聞き終わると、俺の方に近づいて今度はブルーノが俺に耳打
ちしようとしてくる。
周りに聞かれたら不味いネタなんて︱︱、実家及び自分の過去の
所業に山ほどあるな⋮⋮。
一体何を聞かれるのやら。
﹁⋮⋮赤獅子のランベルトの、ガスパールと一戦交えたっていうの
は本当?﹂
王都での出来事だとはいえ、昨日の情報が既に入っているのか。
恐ろしい伝達能力だ。
これなら、俺が改心したという噂ももう少し広まっていてくれて
もいいと思うのだが、世の中ままならないものだ。
﹁ねえねえ、どうなの?﹂
わくわくといった言葉が似合う様子で聞いてくるブルーノ。
さてどう答えるべきか。
一緒に稽古をしただけなので一戦交えたというのは大げさなのだ
が、変に何も言わずにおかしな想像をされて話が広がっても俺とガ
スパールにとって良くないからな。
﹁あの樹の広場で、一緒に剣の稽古をしただけだ。一戦交えたとい
う訳ではないよ﹂
﹁ふうん。僕はまだ剣は習っていないけど、稽古でも打ち合うんで
しょ? どっちが勝ったの?﹂
﹁俺の完敗さ。流石は赤獅子の︱︱、いや、流石はガスパールだ﹂
160
俺はミシュリーヌへの返答と同じく、自分の負けであると教えた。
あの場ではお互いに引き分けと言ったのだが、今後を考えればガ
スパールが俺を相手に引き分けたというのも結構外聞が悪くなる可
能性が高い。本人同士がそう認識していても、問題は周囲がどう考
えるかだ。
ガスパールはあのマルセル・アルダートン程度に引き分けるなん
てと思われるだろうし、俺に関しては大法螺吹き野郎扱いされて終
わるのが目に見えている。
あの日の勝負の真実は、俺達の記憶に刻まれていれば、それでい
いのだ。
と浸っていたところ︱︱。
﹁おお、噂をすれば何とやらだね﹂
﹁へ?﹂
ブルーノが見ている方向をひょいと見やると、当のガスパールが
こっちに向かって歩いてきていた。
﹁おお、そこにいたかマルセル﹂
燃えるような赤髪に、やはりそこかしこに朱色をあしらった服を
びしっときめたガスパールが現れた。
その後方には従者のシドが控えている。
﹁ああ。ガスパール、元気そうで良かった﹂
大きな怪我をしないように設計したとはいえ、何事も完璧ではな
い。
少し心配していたが、ガスパールは大丈夫だったようだ。
161
﹁そういえば、すまない。昨日使わせてもらった例の訓練用の剣、
そのまま持って帰ってしまっていた﹂
﹁気にするな、俺も言われなければ思い出さなかったくらいだ。昨
日の思い出にそのまま持っていてくれ﹂
本気で忘れていた俺はそう応じた。
﹁ありがとう、あれはオレの誇りの象徴となるだろう。お前という
男に敗れ、そして起き上がったという、な﹂
何の屈託もない、晴れやかな表情でガスパールが宣言した。
ブルーノの目が見開かれ、凸凹コンビは大きく口を開け、周囲の
大人達はピクリと反応した。
﹁いや、待てガスパール、あれは勝ち負けとかそういうものではな
いだろう! 第一、今のお前に俺は間違いなく勝てないぞ﹂
俺は慌ててガスパールに迫る。
今のガスパールは、ゆったりと落ち着いた雰囲気を醸し出してい
た。
昨日の勝負をする前までの尖った所が削れた、訳ではない。
自身の刺を覆うくらい、他の部分を大きく成長させたのだろう。
﹁だとしてもだ、オレが一歩進めたのは紛れも無く、お前と出会っ
て戦い、負けることができたからだ﹂
言うなり、ガスパールは片膝をついて、真っ直ぐに俺を見る。
﹁感謝を。これからの私の成すことの半分は、貴公の功だ﹂
俺は唖然とするが、周囲はもっとだろう。
162
これは下位の者が上位の者に対して親愛や忠誠を示す時に姿勢で
ある。
爵位の序列上、確かに公爵家は侯爵家よりも上なので問題は無い。
問題はないのだが、現実的にはむしろ逆というか、実態としては
侯爵家の方が力が強い家が多く、同格であるという意識がある。
なので公爵家としては相手を下に置こうとし、侯爵家としては相
手と並び立とうという意識があるのだ。
厳格な式典などでは流石に規定通りの序列だが、多少崩れた宴等
の場合まず侯爵家は同格としての扱いを求め、そのように振舞うし、
公爵家は序列をつくろうと動く。
そんな、デリケートな問題なのだが我が友よ、なんて事を軽々と
してくれるのか。
周囲は徐々に起きている事態に気づき始め、ざわざわとしだして
いる。
今更なかったことにはできまい。
それならば!
﹁立ってくれ我が友よ﹂
俺はガスパールを立たせると、 ﹁貴公のその言葉こそ我が最大の功だ。そしてここに誓おう。共に
並び立てるだけの男になると﹂
その両手を握って深々と頭を下げた。
163
これは相互礼と言われる、同格の者に対しての礼である。
ガスパールがこちらを格上扱いしてきたので、こちらとしては同
格扱いをする、落としどころとしてはこれで勘弁して頂きたいとい
うところだ。
が、やはり周囲のギャラリーがわいている。
ええい、好きにさせておこう。
﹁そうだガスパール、こちら、お前にも縁がある方々でな。紹介さ
せてくれ﹂
﹁これはお初にお目にかかる︱︱のではないな。ああ、あの時の!﹂
俺と違い、ガスパールはしっかり覚えていたらしい。
﹁ベステル侯爵家のブルーノだよ。3年前は世話になったね﹂
﹁いや、事が起きてからやってきただけだからな、オレは何もでき
ていなかったさ﹂
﹁またまた、あの時は結構胸がすく思いだったんだよ、君があの時
のマルセルを一喝してくれて﹂
﹁⋮⋮本当にすまなかった﹂
﹁あはは、もういいって。過ぎてしまえば思い出だよ。ところでさ、
本当のところはどっちが勝ったの? マルセルもガスパールも自分
が負けたって言うし︱︱﹂
凸凹コンビは格上なので恐縮しているようだが、ブルーノは適応
して会話を弾ませてくれている。
周囲も、俺達の楽しげな様子に多少は毒気を抜かれたのか騒いだ
空気が収まってきた。
164
このままスルーして貰えればいいのになと思いつつ、俺は友人達
との会話を楽しむことにした。 165
16 兄、友誼を結ぶ︵後書き︶
活動報告の方でもお知らせしましたが、今回はお待たせして申し訳
ありませんでした。
今後、多忙でいつも通り投稿できない際も、活動報告にて予定をお
知らせしたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
166
17 兄、王子と出会う 談笑が弾んできた頃、いつの間に現れたのか楽隊が音楽を奏でて
いた。
はじめは気づかないほどさり気ない音だったのが徐々に聞こえる
ようになり、その楽曲に促されるかのように、会場の面々は自分の
本来の場所に移動を始めた。
﹁おっと、そろそろ王族の皆様の御登場だね﹂
﹁そのようだ。オレ達も一度戻るとしよう﹂
子爵家のエンリオは外側へ、伯爵家のニコラスはそのまま横の方
へ戻るのでそこで別れ、俺とガスパール、ブルーノは連れ立って内
側へと移動を始めた。
﹁そういえば、マルセルってエドワーズ様とはもうご挨拶したの?
妹のミシュリーヌ嬢が婚約されたそうだけど﹂
﹁いや、婚約の時に俺は運悪く風邪を引いていて、王都には行けな
くてな。今日が初の対面になる﹂
本当のところ、丸豚だった時に会わずに済んだのは、むしろ幸運
なのだが。
﹁そうなんだ。じゃあお会いしたら、後で感想を聞かせてよ﹂
意味ありげなことを言ってくるブルーノ。
﹁⋮⋮エドワーズ様に何かあるのか? 王族としての自覚を持った、
しっかりしたお方だと聞いているが﹂
167
ミシュリーヌと視線を合わせなかったという件もあるので、俺は
少々不安になって尋ねる。
﹁オレの方でも、良く出来た御仁だという話しか聞いていないが、
ベステル侯爵家の情報網ではどうなのだ?﹂
ガスパールが興味深げに尋ねる。
﹁おや、ウチの耳が早いという事を掴んでいる時点で、ガスパール
の所も中々だね﹂
質問には答えずにこりと微笑むブルーノ。
何か、将来の片鱗を見た気がする。
そうか、貴族ネットワークが凄いのではなくて、ブルーノの所が
特別なのか。
﹁まあ、友達になった誼みで教えるけど、ベステル家の情報網では
なく僕の︱︱パンタグリュエル辺境伯家の情報網だね﹂
出た。後の家名。
この時点でもう決まっていたのだろうか?
﹁すまない、情報関係には疎いんだが、そのパンタグルっ⋮⋮、グ、
リュ、エル辺境伯家というのはブルーノとどういうつながりがある
んだ?﹂
未来知識がある事を誤魔化すつもりではなく、普通に噛んだ。
なんと言いづらい家名か! ﹁あはは、初めてだと言いにくいよね。パンタグリュエル辺境伯家
は僕の母の実家でね。僕の物心着く前に跡継ぎだった伯父上が子ど
もが出来る前に亡くなって、そこから色々といざこざが起きて後継
者不在だったんだよ。そこで僕に白羽の矢が立てられたとそういう
168
わけ。12歳になったら正式に養子に出される予定なんだよ﹂
そういう事情だったのか。
というか、後継にからむいざこざってあまり口外してはいけない
情報なのではないだろうか⋮⋮。
それだけ信頼されているということだろう。多分。
﹁侯爵への陞爵を敢えて辞退した︽万川を渇する者︾の後継とは、
末恐ろしいな﹂
﹁︽赤獅子︾が何を言うのさ。お祖父様曰く、唯一の辺境伯という
肩書きの方が目立つ、だってさ。ただの変わった趣味の家だよ﹂
2人は何やら格調高い遣り取りをしている。
⋮⋮我が家には何か二つ名は無いのだろうか。
うん、あっても多分悪口の類いだろうから、深く追求しないよう
にしよう。
﹁ああそう、エドワーズ王子については、ウチの情報網を使っても
普通と同じ評判なんだ。だから、逆に何だか引っかかってね。まあ
本当にそのまんまだからという可能性もあるけど、マルセルの感想
も合わせて考えたいんだ。︱︱じゃあ僕の家はこっちの方だからこ
こで。また後で会おう﹂
﹁つくられた情報の可能性もある、ということか。おっと、オレも
反対側だから、ここで一度お別れだな。ところで二人とも、動物は
好きか?﹂
別れ際、ガスパールが不思議な事を聞いてくる。
﹁ああ、どちらかと言えば好きな方だ﹂
169
かつてはむしろ嫌いだったのだが、前世を思い出して以降は好き
になってきている。
機会があったら、また犬やら猫やらを撫でたいところだ。
﹁僕も好きだよ。馬なんかは綺麗だし頭もいいし﹂
﹁良かった、それではまた後で﹂
何が良かったのかは分からないが、ガスパールは満足げに頷くと
自分の家の集まりがある方に去っていった。
それからブルーノとも別れ、イウンと2人元居た所に戻ってくる
と、両親がおり、ちょうどミシュリーヌも帰ってきたところだった。
﹁友達とはたくさん話せたか?﹂
機嫌の良さそうなミシュリーヌに聞いてみる。
﹁ええ、文通もいいですけれど、やはり直接お話する方が良いです
わね。持つべきものは友達︱︱﹂
そこまで言って、急に黙るミシュリーヌ。
﹁どうした?﹂
﹁あ、いえ⋮⋮。何でもないですわ﹂
沈痛な面持ちで視線を逸らす我が妹。
⋮⋮あ、そういうことか。
﹁⋮⋮あー、俺の方は先日友達になったガスパールと話してきたぞ。
あとベステル侯爵家のブルーノと、彼の幼馴染でラヴァン伯爵家の
170
ニコラスと、ペンズ子爵家のエンリオとも新たに友達になった﹂
﹁まあっ! お兄様にお友達が!﹂
そんな全力で驚かなくてもいいのではなかろうか。
どうやら先程のミシュリーヌは、友人の居ない俺の前で友達の話
をするのをはばかったようだ。
お兄ちゃん、ありがたいお心遣いに涙が出そうだよ。
﹁お父様、お母様! お兄様についに御友人が出来たそうですわよ
!﹂
うきうきと報告するミシュリーヌ。
いや、この距離なんだから聞こえてるだろというつっこみも野暮
か。
事実を言葉にして確認することで、より強固に認識するという性
質が人間にはあるそうだ。
ミシュリーヌにとって、俺に友達が出来たということは、しっか
りと心に刻んでおきたい慶事ということなのだろう。
嬉しいことじゃないか。
﹁ランベルト侯爵家とベステル侯爵家の子息か。うむ、どちらも名
家だな﹂
﹁これからもいいお付き合いができると良いわね﹂
両親は満足げだが、ニコラスとエンリオについては見事なまでに
スルーである。
まあ、侯爵家も下扱いしてこじれてしまうよりは、名家と認識し
て交友を進めてくれたので善しとしなければならないか。
そんな事を考えている間に、俺達が入ってきたのとは違う、特別
171
に設えられた大きな扉に魔道具の光が集まる。
今はまだ昼のはずだが、窓の外は薄暗くなり、それに伴って会場
のシャンデリアの光も落ち、自然と会場前方の照らされた場所に注
目が集まる。
そして楽隊が新しい曲を奏で始めると同時に扉が開け放たれ、王
族の御方々がお入りになられた。
まず国王陛下と王妃殿下。
続いて第二王妃殿下。第三王妃殿下。
最後に王子殿下・王女殿下。
国王陛下は勿論、最年少の第四王女殿下に至るまで王族の威厳と
いうものを感じさせる見事な立ち居振る舞いだった。
衣装も、あからさまに豪華絢爛というのではなく、落ち着いた中
にも華やかさを感じさせるものが選ばれている。
そうして国王陛下の新年を祝う挨拶が始まったのだが、俺の目は
唯一人に︱︱エドワーズ王子その人に向けられていた。
プラチナブロンドの髪に深い青の瞳。
まだ8歳ながら、その表情には高い知性を感じさせるものがあっ
た。
今はまだ可愛らしいとも言われそうだが、数年後には間違いなく
多くの女性の目を奪う事になるであろう。
ふと、エドワーズ王子が俺と視線を合わせた。
172
偶然かとも思ったが、確かにこちらを見ている。
もしもこの薄暗い所から向けられた視線に気づいたのだとしたら、
気配を察知する鋭さまで持ち合わせている事になる。
俺の居る位置は公爵家の場所なので会場全体としては前側ではあ
るのだが、公爵家内では中程なので、王族の方々との間にはそれな
りに人がいる。
そんな状態でなお気づけるとは、流石にハイスペックだ。
しかしどうしたものか。
このまま視線を合せ続けるのもあらぬ誤解を招きそうで怖いのだ
が、変な逸らし方をするのも失礼だし。
うむ、こういう時は持つべきものである所の友人の技を借りると
しよう。
俺は静かに視線を下に落とすと、ゆっくりとその場に片膝をつき、
視線を上げた。
間にいる人との位置関係的に、見えなくなりはしない事は計算済
みである。
再び、俺とエドワーズ王子の視線が合う。
俺の親愛の情の表明を受けてか、エドワーズ王子は小さく微笑ん
だ。
俺はそこから更に一礼をすると、視線を国王陛下の方に戻して立
ち上がった。
横目でちらりと視線を流すと、エドワーズ王子は俺をしばし見た
173
後、他の方向に視線を移したのが分かった。
どうやら自然な形で視線を外すことが出来たようだ。
﹁⋮⋮お兄様、国王陛下のご挨拶中にどうしたんですの?﹂
俺の行動を見ていたミシュリーヌが小声で尋ねてくる。
これで、エドワーズ王子と視線が合ってなどと正直に話したら、
ミシュリーヌが大声を出してしまう可能性があるな。
﹁いや、大したことじゃない。気にしないでくれ﹂
俺もまたごくごく小さな声で適当に誤魔化しておく。
﹁もう、エドワーズ様に変だと思われないようにしてくださいませ﹂
﹁すまんすまん、もう大丈夫だ﹂
などというやり取りをしている間に国王陛下のご挨拶が終わった。
正直あんまり聞いていなかったのだが、新年のお祝いと神への感
謝を捧げ、今日は大いに交流を楽しんで欲しいという内容だったは
ずだ。
さて、国王陛下の挨拶にて新年を祝う宴は正式に開始となった。
楽隊も楽しげな曲を奏で始める。
それは即ちここで貴族の、社交と言う名の静かな戦いの始まりも
意味する。
まずは公爵家筆頭である大公家が国王陛下と王妃殿下に挨拶に動
174
く。
その近くでは次席にある家が順番を伺い、同格の家々ではさり気
なくどっちが先かを窺い合う。
かと思えば公爵家同士の挨拶も発生し、その順番待ちもと、何と
も面倒くさい光景が繰り広げられる。
第二王妃殿下や第三王妃殿下にも挨拶の貴族が集まり、王子殿下
王女殿下達の所もたちまち人が周囲に集まり始めた。
﹁さあお兄様、エドワーズ様のところへ行きますわよ!﹂
そして現れたのは恋する乙女ミシュリーヌ。
俺の手を取ると、エドワーズ王子の居るであろう辺りを目指して
ぐいぐいと引っ張りだした。
思わず父上の方を見ると、特に気にしていない様子で、
﹁ああ、行っておいで。マルセルもいい機会だからご挨拶してきな
さい﹂
とあっさり許可をだした。
いかに婚約者とはいえ、子どもだけでいきなり王子殿下の所に突
撃をかけていいのだろうか。
色々と段階をすっ飛ばしているような気がしなくもないが、ここ
でミシュリーヌを止めるのは不可能だろう。
それならば、俺がああだこうだ悩んでも事態は進行してしまう。
父上の許可も出ている以上、俺がお目付け役となってミシュリー
ヌが暴走しないか見張るのが最善だ。
﹁分かったミシュリーヌ。俺も一緒に行くから、とりあえず手を引
っ張らないでくれ﹂
175
興奮状態のミシュリーヌを落ち着かせて手を離させると、俺は隣
に並んでエドワーズ王子の所へ向かった。
176
18 兄、妹を餌付けする/???
王族の方々の所へ近づいていくと、挨拶待ちの貴族達で壁ができ
ていた。
国王陛下や王妃殿下、王子王女殿下と挨拶している貴族を中心に、
扇形の弧の様に人垣が形成されており、子どもの背丈ではその壁の
向こうにどなたがいらっしゃるのかは判然としない。
しないのだが、我が妹はとある一点に向けて迷いなく歩を進める。
恋する乙女の能力という奴であろうか。
そうして、ある人垣に到着して横から回り込むと、そこには確か
にエドワーズ王子が居た。
流石だ、恋する乙女の感知性能。
しかしたどり着きはしたものの、第三王子でまだ幼いとはいえ既
に評判のエドワーズ様だ、挨拶待ちの貴族が多い。
イウンがいないので詳しくは分からないが、並んでいる方々の衣
装と紋章を見ればいずれも公爵家であることが分かる。
というか、回り込んだもののこっちが最後尾で合っているのだろ
うか?
見れば他の公爵家の面々は令嬢か子息あるいはその両方と、その
父親もしくは両親という構成だ。
大人が居ればその辺りのルールも分かるのだろうが、俺ではよく
分からない。
一応先客の反応を見ながらどっちに並ぶかを判断するが、やはり
177
父上に来てもらうべきだった。
﹁︱︱ミシュリーヌ?﹂
俺が人垣の端で思案しているのを尻目に、ミシュリーヌは王子の
方へ近づいていく。
あ、これはまずい流れだ。
原作で、ミシュリーヌはエドワーズが誰と︱︱例え同格の公爵令
嬢であろうと︱︱話をしていてもそこに当然のように割って入ると
いうエピソードがあった。
現在の状況を鑑みるに、挨拶の為に他の貴族達はきちんと並んで
おり、その家格は同格であり、むしろ他の面々は公爵その人である
父親が同伴しているため礼儀作法上はあちらが圧倒的に上である。
何せ俺もミシュリーヌも公爵家令息令嬢でしかないのだ。
言ってみれば親の立場がなければ無位無官である。
そんな中、婚約者であるという事だけを武器に最優先権を主張し
て他の貴族の挨拶を邪魔して割り込むのは大変に外聞が悪い。
というか、むしろ婚約者だからこそそれではいけないだろう。
俺はミシュリーヌに追いつくと、後ろから肩を抱いて少々強引に
物理的な軌道修正を行なった。
﹁お兄様!? 突然何をなさるんです! 放してくださいませ!﹂
くうっ、やはり興奮状態にあるらしいミシュリーヌ、声を潜めて
抗議するという配慮はできなかった。
178
エドワーズ王子がどんな反応を示したかは今挨拶をしている貴族
の影になって見えないが、距離的に声は確実に聞こえてしまったは
ずだ。
並んでいる貴族を横目で見れば、明らかにこちらを注視している。
俺はとりあえずエドワーズ王子待ちの人垣の裏側に戻り、更に距
離をとってからようやくミシュリーヌの拘束を解いた。
と言っても急に走り出しては困るので手はつないだままである。
﹁お兄様!! 一体なんなんで︱︱むぐっ!?﹂
また抗議の大声を出し始めたミシュリーヌの口に、俺は近くのテ
ーブルにあった小ぶりなケーキを放り込む。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮!﹂
口をもぐもぐさせながらこちらを見るミシュリーヌは物凄い怒気
を滾らせながらこっちを睨んでいた。
だがしかし、咀嚼しながら喋らないというマナーは感情の衝動を
抑制するレベルで身についている為静かになった。
﹁いいかミシュリーヌ、確かにお前はエドワーズ王子殿下の婚約者
という立場だ﹂
﹁そうですわ! だから︱︱もぐっ!?﹂
次弾は既に装填済み。
俺は第二のケーキを再び抗議の声をあげようとしたミシュリーヌ
179
の口に入れる。
﹁ふむぅ∼∼∼∼∼∼∼!!﹂
悔しげにケーキを食べるミシュリーヌ。
何だろう、前世で見たハムスター的なものがあって思わず微笑ま
しくなる︱︱といかんいかん。ほのぼのしている場合ではない。
﹁まず、大きな声を出さずに俺の話を聞くと約束してくれ。でなけ
れば俺は、お前がまん丸に膨らむまでケーキを詰め込まなければな
らない﹂
第三のケーキを手にして俺がそう持ちかけると、ミシュリーヌは
しゅんとしてケーキを飲み込み、黙った。
﹁約束を受け入れてくれて嬉しいぞ﹂
俺は微笑みながら、ケーキを自分の口に入れる。
しっとりとした食感と広がる甘さ。
流石に新年を祝う宴に出されるだけの事はあると思わせる味だ。
﹁落ち着いてくれた今なら分かってくれると思うので聞くぞ。お前
がエドワーズ王子殿下の立場だったとして、きちんと順番を守って
いる人達を押し退けて婚約者が現れたらどう感じる?﹂
客観的に、事実を告げる。
﹁⋮⋮それは﹂
冷静になってくれたミシュリーヌは俯いて黙るが、やがておずお
180
ずと口を開いた。
﹁はしたないと、思いますわ⋮⋮﹂
俺はほっと安心して微笑んだ。
﹁それを自分で気づけたのならば、俺からはもう何も言わないよ。
きちんと並んで、エドワーズ様にご挨拶をしよう﹂
そう言ってつないだミシュリーヌの手を引くも、我が妹は動かな
い。
見れば、ミシュリーヌはぽろぽろと涙を零していた。
間違った事をしたつもりはない。
これからのミシュリーヌとエドワーズ王子の事を考えれば、これ
は善い事のはずだ。
だがそれでも、妹を泣かせてしまった己の不甲斐なさが哀しかっ
た。
ミシュリーヌをあまり目立たなそうな、背丈の高いテーブルの影
に連れていく。
それから俺は近くの別のテーブルに乗っていたオランジェのジュ
ースを一息で飲み干した。少し苦味を感じたが、文句を言っている
暇はない。
グラスに入っていた氷をハンカチに包んでミシュリーヌに渡し、
そっと当てるように注意をして目を冷やさせた。
目蓋の腫れに対する効果の程は不明だが、気持ちを落ち着かせる
ことはできると思いたい。
181
﹁⋮⋮不安なの﹂
いつもとは違う口調。
﹁⋮⋮私は婚約者になれて嬉しいけど、エドワーズ様はどうなんだ
ろうって﹂
絞り出すような声。
﹁でもどうしたらいいか分からなくて。エドワーズ様に他の誰かが
近づくのが嫌でっ。そんな事をしても、好きになってくれないって
分かっていても⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あまり強く押さえると、かえって目が赤くなる﹂
逃げるように、そんな助言をする。
口惜しいが、こればっかりは下手な慰めは逆効果にしかならない
だろう。
﹁紅い⋮⋮、瞳⋮⋮﹂
地雷を踏み抜いた気分だ。
こうなったら覚悟を決めよう。
﹁ミシュリーヌ﹂
俺は目を押さえているミシュリーヌの手をどけた。
182
涙はもう止まったようだが、深紅の瞳が潤んで揺れている。
﹁いい事を教えよう。男は女の涙に弱いものだ。あと、普段強気で
傍若無人な娘が落ち込んでいると、気になってしまうのだ﹂
全身全霊を込めたドヤ顔で俺は言う。
﹁⋮⋮傍若無人は言い過ぎですわ﹂
ややあって、ミシュリーヌはクスリと笑って言った。
﹁じゃあ行くか。今の自然なお前なら、大丈夫な気がする。根拠は
ないが﹂
﹁こういう時はいい情報だけ伝えるべきですわよ、お兄様﹂
そうして俺とミシュリーヌは、再びエドワーズ王子のもとへ向か
った。
エドワーズ王子待ちの列に戻ると、顔ぶれが変わっていた。
雰囲気から、侯爵家の順番になったように思える。
新たに並んだ侯爵家の家族の後ろについた所、俺達の身分を向こ
うも察したようで、暫し既に並んでいる大人達が何事か視線を交わ
した後に、本来次の順番に居たヒゲの侯爵閣下が、場所を譲ってく
れた。
ここは好意に甘えさせてもらうとしよう。
183
そうして少し待っていると、エドワーズ王子と話をしていた貴族
と令嬢が離れる。
さあ、いよいよだ。
俺たちが進み出るとエドワーズ王子はまず万人用の笑顔を見せた
後、戸惑ったような表情で俺を見た。
⋮⋮やはり、ミシュリーヌは見ないのか。
いい度胸だこの野郎。
俺は王子のこの態度に怒りを覚えたようだ。
体の奥が熱い。
﹁お初に御意を得まして光栄に存じます。ロドリグ・アルダートン
が一子にしてミシュリーヌ・アルダートンの兄のマルセル・アルダ
ートンと申します﹂
俺は国王陛下の挨拶の時にも取った片膝を付いての礼をする。
﹁こちらこそ、会えて嬉しく思います、マルセル貴兄。今日は新年
を祝う宴の席ですから、堅苦しいのはここまでにしましょう﹂
目下の者への敬称でもあるとはいえ、何の抵抗もなく俺を兄と呼
ぶか。
いや、むしろ敬称以外の意味は持たせていない、ということだろ
うか。
おかしいな、考えがまとまらない。
こんな事は珍しい。
相変わらず体の奥が熱く、ふわふわとする。
184
今世では初めてだが、前世では何度かこれに似た感覚になったこ
とがあった気がする。
何だったろう?
﹁エドワーズ様、ご機嫌麗しゅう存じます﹂
﹁やあミシュリーヌ嬢、会えて嬉しいよ﹂
エドワーズ王子は優しく微笑んで言う。
それだけ見れば、原作ゲームの完璧な王子様そのものに見える。
だが、そうじゃあないだろう?
先程ミシュリーヌが大声を上げた事に。
そして今目の前にいるミシュリーヌが泣いていたであろうことに。
気付かなかったとは言わせない。
﹁エドワーズ王子、人間の最も魅力的な所とは、どこだとお考えに
なりますか?﹂
不意の質問に、王子は笑顔はそのままに、警戒の気配を発する。
﹁まず貴兄の考えを聞きたい。そのように問うてくるからには、答
えを持っているのだろう?﹂
﹁そうです、まさにその通り。ならば私の答えを述べさせて頂きま
しょう﹂
無礼講だと向こうから言ってくれたのだ。
185
構うことはない。
﹁それは変われる、ということです。己の在り方を省みて改めるこ
とが出来るということ。そのこそが、人間を人間たらしめている!﹂
﹁成程、確かに貴兄の言う通りでしょう。変わるというのは大切な
ことだ﹂
王子は頷いて見せる。
﹁ご理解頂けて嬉しいです。だが、それだけでは足りないのです。
変わるだけでは半分だ﹂
﹁⋮⋮と、言うと?﹂ 興味深げな顔をする王子。俺はニヤリと笑う。
﹁変化を認め、受け入れるということ。それがなければ、変わった
甲斐がないというもの! 己を省み己を変え、他者の変容を認め受
け入れる。その二つが揃ってこそ、在りうべき人の姿と言えましょ
う。どちらかだけでは、所詮半人前に過ぎないのです!﹂
﹁︱︱っ!﹂
王子の表情から余裕が消える。
こちらの真意をしっかりと理解してくれたようで嬉しい。
そうでなくては、未来の義理の弟様?
﹁⋮⋮そうですね。自分が変わるだけでなく他者の変化を受け入れ
る、大切なことだ﹂
186
言外に半人前呼ばわりされたにも関わらずこの落ち着き。やはり
噂に違わぬ人物か。
﹁しかしながら、変化とはそのように容易いものでしょうか? 上
辺だけを取り繕うものの何と多い事か! よしんば変わったとして
も、元の木阿弥になる者は山のように居る。一体何をもって、確か
に変わったと言えるのです?﹂
立て板に水で反論をしてくる王子。
﹁確かに、殿下のおっしゃる通りです。人は善い方に変わることも
あれば悪い方に変わってしまうこともある。であるならば、いや、
であるからこそ、他者を善導し、時には見守ることが度量というも
のではないでしょうか。少なくとも私は、その努力を怠るつもりは
微塵もありません!﹂
﹁︱︱︱︱くっ!!﹂
エドワーズ王子にも、ミシュリーヌが最後に会った時そのままの
ミシュリーヌでない事は分かっているはずだ。
優れた人物なのだから。
だからこそ、俺の言いたいことは伝わる。
器を示せ、と。
﹁お兄様、もうお止めください﹂
ミシュリーヌが俺と王子の間に割って入った。
187
﹁お兄様のお心遣い、本当に嬉しく思います。けれど私もいけない
のです。今までエドワーズ様の前でしでかしたことを思えば、信じ
て頂けなくて当然です!﹂
﹁ミシュリーヌ⋮⋮﹂
﹁ミシュリーヌ嬢⋮⋮﹂
エドワーズ王子は唖然としている。
﹁お兄様が変わって、私も変わることができた。だから、これは私
がお願いしなければいけないことなのですわ﹂
強い意思を瞳に宿し、王子の方を見つめる我が妹。
いいぞ、頑張れ。
﹁⋮⋮エドワーズ様、今まで自分のことしか考えられず、心を痛め
させてしまったこと、深くお詫び致しますわ﹂
﹁ミシュリーヌ嬢、君は⋮⋮﹂
﹁時間はまだかかるかもしれません、ですが私は、必ずエドワーズ
様に相応しい淑女になってみせます。ですから︱︱﹂
ミシュリーヌの深紅の瞳が、エドワーズ王子の顔を見つめる。
真後ろからなのに、はっきりと認識できた。
188
︽︱︱︱︱︾
何だ?
﹁ですから︱︱﹂
︽︱︱︱︱︱︱︱︱︾
なにか 厭な 気配が︱︱
﹁ ︽私の瞳を、ちゃんと見てくださいませ︾ ﹂
その言葉は、無垢なる願いのはずだった。
少女の、他愛もないおねだりのはずだった。
189
事実、その願いそのものは神聖なるものだ。
だがこの空気の重さはなんだというのだ?
泥濘に包まれたような息苦しさは、しかし俺にしか認識できてい
ないようで。
エドワーズ王子は、とびきりの笑顔でミシュリーヌを見つめてい
る。
恐らく、しっかりと視線を合わせている。
ミシュリーヌは王子の変化に感激し、しっかりと抱き合っている。
ああ、めでたしめでたし、だ。
だが、おかしい。
人はこんなにも簡単に、変わってしまえるのだろうか。
これは、こんなものは普通ではない。
まるで︱︱︽ ︾
そこまで考えて、俺の意識は暗転した。
﹃ああ、思い出したこの感覚は﹄
190
﹃そう、ジュースだと思って飲んだアレは、アルコールが含まれて
いたのだ﹄
﹃だからこの違和感は、それが原因なのだ﹄
﹃起きたときに頭痛と共に俺は思うはずだ﹄
﹃くだらない心配などせずに、ミシュリーヌにお祝いの言葉を贈ろ
う、と﹄
191
19 兄、驚く
﹁︱︱様! お兄様っ! 大丈夫ですの!?﹂
ミシュリーヌの声が頭に響く。
止めてくれ、頭が痛いんだ。
俺はぎゅっと目をつむり、そのおかげで更なる頭痛に襲われた。
﹁⋮⋮頭が痛い﹂
言葉に出すことで、気持ちを吐き出そうと試みる。
﹁マルセル様、こちらをお飲みください﹂
イウンの声。
そっと俺の手に冷たい何かが渡される。
恐らくイウンの手が、俺の手の甲を包むように当てがわれ、その
まま手を口元に動かされる。
﹁んっ﹂
唇に当たる、よく冷えた水。
俺はゆっくりとそれを飲む。
それまで頭に重く伸し掛っていたものが消えていくように、すっ
と楽になった。
﹁俺は︱︱、どうしたんだっけ?﹂
記憶の混濁を認識する。
えーと、ミシュリーヌと一緒にエドワーズ王子の所に挨拶に行っ
192
て、ミシュリーヌにつれない様子の王子相手に何だかヒートアップ
して途中で⋮⋮。
駄目だ、思い出せない。
ただ先程まで我が身に起きていた現象については心当たりがある。
飲酒による頭痛だ。
泣いていたミシュリーヌの目を冷やすための氷を取ろうと飲み干
したオランジェのジュース。
あれが恐らく酒だったのだろう。
あの時はさして気に留めなかったけれど、苦味があったのは覚え
ている。
何たる失態か。
それにしても、先程飲んだ水。
前世の二日酔い体験では、水を飲んだくらいでここまで劇的に症
状は緩和されなかったと思うのだが。
何か二日酔いの特効薬のような効果のある水なのだろうか。
とりあえず、この世界においてもアルコールは頭痛を引き起こす
性質を持っているということが判明した。
﹁良かった、目が覚めたかマルセル﹂
﹁お酒を飲んで倒れたと聞いて、肝が潰れるかと思いましたわ﹂
父上と母上も居るらしく、安堵の声が聞こえた。
﹁︱︱ここは?﹂
俺はようやく目を開けると、あの広い大広間ではなく、見知らぬ
部屋に居る事を把握した。
193
どうやら天蓋付きの寝台に横になっていたらしい。
右側にはミシュリーヌと隣に︱︱。その後ろに両親。
左側には何やら高価そうな硝子瓶を抱えたイウン。
前の方には見知らぬ大人達が居るが、王城の医師か薬士だろうか。
﹁王城の客間ですわ。お兄様、急に倒れてしまって⋮⋮、本当に心
配しましたのよ﹂
ミシュリーヌは深紅の瞳を潤ませてそう言った。
ふと、その瞳をじっと見つめる。
﹁⋮⋮普通だな﹂
自分でも分からないのだが、何故だかそのような感想を抱き、口
にする。
﹁何がですの?﹂
きょとんとするミシュリーヌ。
それはそうだよなぁ。
我が妹は平素と変わらない。
﹁いや、何でもない。心配をさせてすまなかったな。ずっと付いて
いてくれたのか?﹂
寝台から窓の外を見やれば、ガラスの向こうの空は青からうっす
らとオレンジ色に変わりつつある。
数時間ほど眠ってしまっていたようだ。
子どもだからというのもあるが、ちょっと効きすぎではなかろう
か。
もしかしたら俺は、アルコールに弱い体質なのかもしれない。
194
前世ではそれなりに嗜む方だったので、そうだとしたら少し寂し
いかも。
などと考えていると、
﹁はい、エドワーズ様も一緒に﹂
はにかみながら、ミシュリーヌは隣を見て言った。
そこにはエドワーズ王子が居て、ミシュリーヌと手をつないでい
た。
うん、まあいいんだけどね。
望み通りであるが一抹の寂しさを感じるのは、俺の中の兄心なの
か父性なのか。
﹁マルセル兄、突然倒れた時は驚きましたが、無事に目覚めて何よ
りでした﹂
⋮⋮何故だろう、音としては倒れる前までと同じく﹁けい﹂だけ
ど﹁貴兄﹂から﹁兄﹂に変わったのが直感で解った。
望み通りだわー。俺って王兄ライヒアルト様目指してるからなー。
まことに望み通りだわー。はっはっは⋮⋮。
﹁これは、エドワーズ王子殿下にご心痛を与えてしまいましたのは
私の不徳の致すところ。このマルセル、猛省しきりであります﹂
俺は深々と頭を垂れる。
うつむいているのだが、エドワーズ王子がちょっと固まったのが
伝わってきた。
ふふん、これくらいの嫌がらせは甘んじて受け入れるがいい、未
来の義弟様め。
195
﹁マルセル・アルダートン様。私は今回の催しの給仕長を務めまし
たディル・ベーヌと申します。私の管理不行届きのせいでマルセル
様を大変な目に遭わせてしまい、お詫びのしようもございません﹂
見慣れない大人も居るなと思ったら、宴の責任者だった。
深々と頭を下げている。
まあ、宴の開場で出された飲食物が原因な以上、立場上責任を問
われてしまうよな。
振り返ってみればあのグラスを取ったとき、泣いていたミシュリ
ーヌを人目から隠そうとコソコソした動きになっていたので、テー
ブルの給仕係の死角からかすめ取る形になっていたかもしれない。
﹁⋮⋮私が何を言ったところで、立場上貴方が責任を問われてしま
うであろうことは誠に申し訳なく思う。だが、こちらの勝手な都合
で給仕係に断りなく飲み物を取ってしまった私にこそ非があるとい
う事実は、然るべき時と場所において証言するつもりである。顔を
上げて欲しい。こちらの方こそ、すまなかった﹂
俺が頭を下げると、給仕長は元より周囲にも驚きが広がった。
﹁⋮⋮有り難きお言葉を賜りましたこと、何とお礼を申したらよい
か﹂
顔を上げさせた給仕長がまた深々と頭を下げる。
正直勘弁していただきたい。
というかこの人、クビになってしまうのだろうか。
原因である身としては非常に胸が痛むのだが⋮⋮。
196
﹁この通り、私の体調には問題ない。なので是非とも貴方を不問に
処して頂けられるよう取り計らって頂くため、行動したいと思うの
だが︱︱﹂
﹁そのお気持ちを頂いただけで十分でございます﹂
思い切りが良すぎる。
一度の失敗でそこまで思いつめないでください本当に!
﹁︱︱エドワーズ王子殿下﹂
少々抵抗があるが、俺はエドワーズ王子を頼ることにする。
﹁マルセル兄、もう少し砕けた呼び方をして頂けると嬉しいのだが
⋮⋮、何です?﹂
﹁不敬を承知でお願いしたいのだが、殿下からこの件をよしなに取
り計らって頂けるように進言して頂くわけにはいかないだろうか﹂
誰に、とは言わない。
そんな事を直接言わないだけの、臣下の息子としての分別はある
のだ。
まあ直接言わないだけで十分無茶をやらかしている自覚はあるの
だけれど。
父上も母上も驚いた顔をしているし。
﹁︱︱マルセル兄、大変心苦しいのですが、それはできない﹂
⋮⋮まあ、そうだろうな。
たかだか給仕長の進退に介入する国王など居ない。
197
そんな事を進言するというのは、いくら心優しい王子様でも難し
いだろう。
ならば、次善の策だ。
﹁父上、こちらのベーヌ殿を、我が家で雇うわけには参りませんで
しょうか? この度の一件は全て私に責任があります。立場上責任
を取らされるのは仕方ないとするのなら、原因たるこの私も責任を
果たすべきです﹂
俺は父上の方を真っ直ぐに見て言った。
﹁︱︱父親である私としては、お前とミシュリーヌの望む事は全て
叶えたいと考えている﹂
父上は微笑んだ。
王族貴族以外は人にあらずな思考なので駄目元で聞いてみたが、
マジか!
﹁では、あのテーブルの給仕係の者もお願いします。このままでは、
彼の者も王城を追われるでしょうから︱︱﹂
と、勢い込んで喋る俺を父上が遮る。
﹁マルセル、先程の言葉には続きがある﹂
やっぱりか!
アレだろうなー、ただし貴族に限る!とかだろうなー。
﹁私はお前とミシュリーヌの望みは全て叶えるつもりだ。だが︱︱、
それは陛下の御心に背かぬ限り、との但し書きが付く。私はお前達
の父である前にアルダートン公爵︱︱王国に仕える臣であるが故に﹂
198
重々しく、父上は宣言する。
俺とミシュリーヌの事をそこまで思ってくれているというのは嬉
しいし、公爵として芯の通った所を見られたのも喜ばしいことだ。
ていうか、疑ってごめんなさいお父様⋮⋮。
感動する展開ではあるが、今の言葉は即ち、国王陛下が直々に給
仕長及び給仕係の再雇用を禁じたという意味だ。
公爵の息子とはいえ、子どもが勝手に酒を飲んでひっくり返った
だけでそこまで大事になるとは⋮⋮。
﹁なるほど、王兄ライヒアルト公を目指すというだけのことはある
な﹂
落ち着いた声が響く。
どっしりとしていて、聞く者を安心させるような、そんなおおら
かな声。
一体いつの間にそこにいたのか。
いや、最初から居た。
ただ、あまりに自然に、柔らかな雰囲気でそこにおられたので気
が付けなかった。
慌ててベッドから降りようとする俺を、優しい声がそっと押し留
める。
199
﹁︱︱そのままでよい。余は病み上がりの子どもに膝をつかせるほ
ど無慈悲な王ではないのでな﹂
宴の大広間で挨拶をした時よりも服装が簡素になってはいたが、
それでも全身から発せられるこの威厳。
無慈悲どころか、慈悲深さにあふれた穏やかな顔付き。
﹁楽にするがいい、未来のライヒアルト公よ﹂
国王陛下は、悪戯を成功させた子どものような表情で笑った。
200
20 兄、王女と出会う
アルフェトーゾ王国国王、コーネリアス・アルフェトーゾ陛下。
年の頃は父上と同年代。こちらが子どもであることを差し引いて
も見上げるような長身の偉丈夫だ。
表情は今は柔和であるが、それでもどこか威厳を感じさせる。こ
の御方が本気で睨みつけたとき、目を逸らさずに済む者は数える程
度しかいないだろう。
﹁さて、先程エドワーズに頼み事をしていたが、せっかくの機会だ。
直答を許す故に申してみるがよい﹂
にこりと笑う陛下。
﹁有り難き幸せに存じます﹂
俺は頭を下げ、考える。
どうお願いするべきだろうか。
そもそも、この一件は主催側の落ち度ということになる。
如何に子どもが勝手にやったこととはいえ︱︱否、子どもの行動
だからこそ、周囲の大人が気を付けなければいけない事案なのだ。
それを結果的に怠った事に対する処罰については王城側の義務で
あり権利だ。被害者とはいえ、それに対して横槍を入れる権利は本
来はない。
と、ここまでは理屈上の話だ。
理屈の上ではそうなのだが、やはり被害者とされた俺が己の不明
を悔いているし、王城側としても明らかな怠慢ではないのだから、
大事にしたくはないというのが人情であろう。
201
ということで、せっかくお許しを頂いたので俺は真っ向からお願
いをする事に決めた。
﹁陛下、この度は宴の開場を無用に騒がせてしまい誠に申し訳あり
ませんでした。これは全て、私めの勝手な行いによるもの。ベーヌ
殿を始め、関わった方々には何卒寛大なる御処分をお願いしたく存
じ上げます﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
俺の願いを聞いた陛下は顎を撫でる。
﹁酒を扱う卓に付いていた係の者には、適切な相手に給仕をする職
責がある。そして、給仕長であるベーヌにはそれらを監督する職責
がな。それらを全うできなかった以上、不問に処すのは正しい裁き
と言えようか? これについてはどう考える?﹂
⋮⋮人情に訴えよう作戦はあっさりと暗礁に乗り上げてしまった。
どうする。
何か失敗した家臣を許す故事でもひいて説得をするか。
いや、陛下の表情を見るに、赦免の意思はあるように思える。
では何故わざわざこんなことを言うのか。
未来の王兄と呼んだくらいだ、ライヒアルト伝から、この状況に
即した逸話でも引けということだろうか。
目的は何だ。
何か聞きたい事があって︱︱、
﹁⋮⋮陛下、私めをお赦しください﹂
﹁ほう?﹂
202
﹁有り体に言います。私めは、自分のせいで誰かが犠牲になるとい
うことに耐えられません。これは私めの我儘です。私めを赦す為に、
関わった方々をお赦しください﹂
俺はああだこうだと考えるのを止めて、直球を放る事にした。
そう、相手は国王陛下だ。
ならば、下手な小細工など無用。自分の非を、弱さをさらけ出し
てしまおう。
﹁ふっ、はっはっはっはっは!﹂
陛下は満足そうに笑った。
﹁うむ、自分の為というのならば仕方あるまい。先刻も言ったが、
余は子どもに対して無慈悲な王ではないのでな。アルダートン公爵
家長子マルセルよ、お前の心を安んじる為、給仕長以下関わった者
達を不問に処す﹂
﹁陛下の寛大なる御裁量に感謝致します﹂
俺は再び、深々と頭を下げるのだった。
﹁ベーヌよ聞いての通りだ。此度のような事故を防ぐように対策を
考えて改善し、今後も職務に励め﹂
﹁ははあっ!﹂
ベーヌさんはその場に膝をつき、俺と同じく深々と頭を垂れる。
どうにか一安心だ。
203
﹁さて、それでは余は戻るとしよう。アルダートン公と奥方、執務
室で話をしたい﹂
陛下は父上と母上を呼んだ。今回の件の話か、ミシュリーヌとエ
ドワーズ王子の件だろうか。
﹁子ども達はここでしばらく待っているがよい。エドワーズ、もて
なしはお前に任せる﹂
﹁陛下、ランベルト侯爵家とベステル侯爵家より、マルセル殿の容
態について問い合わせがありましたがいかがいたしましょう﹂
お付きの、結構偉いと思われる人が陛下に尋ねる。
ガスパールとブルーノだろう。
そういえば、後でまた会おうと言っていたのだ。
あの2人にも心配をかけてしまったな。
﹁何故その二家が?﹂
﹁ランベルト侯爵家のガスパール殿と、ベステル侯爵家のブルーノ
殿とは親しくしております故、心配してくれたのだと思います﹂
俺が言うと陛下は得心した様子で頷いた。
﹁ならば、その2人もこの部屋に招くといい。使いはこちらで出し
ておこう﹂
陛下はお付きの人に指示を出すと、父上母上と共に部屋から出て
いった。
204
﹁マルセル兄は、陛下に気に入られたようだ。あの方があんな風に
笑うのは珍しい﹂
もてなし役に任じられたエドワーズ王子は侍従に何事かを伝える
と俺の所に戻ってそう言った。
﹁お兄様、国王陛下と直接お話しした上に、気に入って頂けるなん
て凄いですわ!﹂
ミシュリーヌは尊敬の眼差しでこちらを見ている。
﹁有り難き幸せではあるけど、緊張した∼﹂
俺は再び、ベッドに寝転んで伸びをする。
﹁ねえお兄様、お酒を飲んだときって一体どうなったんですの?﹂
そういえば、とミシュリーヌが興味深げに聞いてくる。
前世の記憶的には、適量なら気分が高揚して楽しくなれるのだが、
子どもの身では意識が飛んで起きたらあの割れんばかりの頭痛だ。
そんなことは無いと思うが、まかり間違ってミシュリーヌが試し
てみてはいかんからな。大げさに言っておこう。
﹁記憶はなくなるわ頭は痛いわで散々だ。ライヒアルト様は酒豪だ
ったと言うことだが、こればかりは流石に真似はできそうにないな﹂
俺が大げさに頭を抱える。
﹁まだ頭が痛いんですの!? イウン! さっきのお水をお願い!﹂
205
﹁いや、大丈夫だ。思い出して頭を押さえただけだ。それにしても
イウン、さっきの水は何かの薬が入っていたのか? すぐに楽にな
ったが﹂
﹁こちらは、お城の方で用意して頂いた回復薬でございます。なん
でも、二日酔いに効果が出るように調整されているとか﹂
硝子瓶を手にしたイウンがそう説明をした。
そんなものが開発されているということは、この世界の人々も結
構酒好きなのだろう。
﹁宴でお酒が進みすぎて体調を崩す方は結構いるらしくて、この時
期は客間に常備しているそうですよ﹂
エドワーズ王子から補足が入る。
いくら無礼講とはいえ、大人が飲みすぎて王城の客間で休むとい
うのは礼儀作法的にどうなんだろうか⋮⋮。
俺はそこら中の部屋で深酒にやられてうめく貴族が横たわている
様子を想像してげんなりする。
そんな事を考えていると、この部屋のドアが叩かれた。
ガスパールとブルーノだろうか。連絡を受けて来たにしてはずい
ぶんと早い気がするが。
﹁パトリシア王女殿下がエドワーズ王子殿下に御面会をお求めです﹂
違った。
えーとパトリシア王女殿下といえば、エドワーズ王子とは同腹の
姉の第三王女で、原作ゲームではガスパールの婚約者︱︱ライバル
206
令嬢として登場したはずだ。
﹁姉上が? どうしたんだろう﹂
エドワーズ王子は訝しげな表情になる。
確かに、一応とはいえ倒れた公爵家の息子を休ませる客間にわざ
わざやってくるというのはおかしい。
﹁エドワーズ様のお姉さまですの!?﹂
そんなエドワーズ王子とは対照的に、ミシュリーヌは嬉しそうに
驚く。
﹁ミシュリーヌはこの前王城に来たときにお会いしていたのか?﹂
﹁いいえ、今日が初めてですわ!﹂
何やら気合を入れている我が妹。
おおっと、原作ゲームでのミシュリーヌとパトリシア王女の関係
は言うまでもなくかなり冷え込んでいたのだった。
ミシュリーヌの言動に対し弟の婚約者に相応しくないとするパト
リシア王女と、それに反発するミシュリーヌという図式だった。
幸いミシュリーヌはだいぶ丸くなって来ているし、今から初対面
なので何とかなるだろう。
あ、そうか。弟の婚約者の顔を見に来たのかもしれない。
﹁ミシュリーヌ、最初が肝心だからな。失礼のないようにするんだ
ぞ﹂
﹁もう、大丈夫ですわ! ああ、でもちょっと鏡を見て身だしなみ
を整えますわ﹂
あたふたと侍女を伴って客間の鏡の前に行くミシュリーヌ。
207
﹁俺もベッドの上だと失礼だな。ええと、イウン、服を持ってきて
くれ﹂
ベッドに寝せる時に着替えさせられたようで、俺は寝巻きのよう
な楽な服になっていたのだった。
国王陛下とは目覚めからの流れだったので着替えられなくても仕
方がなかったが、これで王女殿下をお迎えするわけにはいくまい。
﹁⋮⋮準備をするので少しお待ちいただいてくれ﹂
てんやわんやの俺達兄妹の様子を見て、エドワーズ王子が気をき
かせてくれた。
ありがとう未来の弟。
どうにか身支度を整えた俺がミシュリーヌを見ると、我が妹は鏡
に向かってにっこりと微笑む練習をした後、目尻を下げようと試み
ていた。
⋮⋮やはり釣り目がちなのを気にしていたか。
﹁準備はいいかミシュリーヌ?﹂
﹁ええ、あまりお待たせしてもいけませんものね﹂
まだ未練があるのか目尻をむにむにと触っていたミシュリーヌだ
が、気を取り直して鏡の前から戻ってきた。
その間に、エドワーズ王子の指示を受けた侍女により客間のテー
ブルにお茶とお菓子が並べられている。
あちらも準備が整ったようだ。
﹁お招きしてくれ﹂
208
エドワーズ王子の言葉を受け、侍従の一人が扉ごしに向こうへ準
備が出来たことを告げ、ややあって扉を開いた。
そうして、侍女達を引き連れたパトリシア王女が客間に入ってき
た。
青みがかった銀髪と、落ち着いた翠色の瞳。
年齢は王子とは年子なので9歳のはずだ。ガスパールと同い年で
もある。まだ幼いが、凛としたたたずまいを感じさせる表情だ。
原作では、俺様なガスパールに対し負けずにぶつかり合うような
激しい面を持っていたのでさもありなん。
﹁突然の訪問にもかかわらず招き入れていただき嬉しいですわ﹂
微笑むパトリシア王女。
ただ微笑んでいるだけなのだが、どこか威厳を感じるのは陛下譲
りなのだろうか。
﹁姉上、一体どうなされたのですか? この客間は体調を崩された
アルダートン公爵子息に静養頂いていたのですが﹂
遠回しにパトリシア王女を諌めるエドワーズ王子。
まあ、実際はもう元気とはいえ俺を寝せる為の客間だから、王女
とはいえ訪ねてくるのは無作法に当たるだろう。
﹁非礼はお詫びしますわ。宴の席では会えなかったので、是非お会
いしたいと思いましたの。弟の婚約者様と︱︱その兄上様に、ね﹂
﹁まあ!﹂
﹁これはこれは、光栄に存じます﹂
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ミシュリーヌは嬉しそうにしたが、俺は品定めをするような視線
を受けて内心冷や汗をかいた。
何か、嫌な予感がするのだが⋮⋮。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n3963cn/
悪役令嬢の兄に転生したので何とかしてみる
2015年4月12日09時25分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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