「平高の風 第45号」を掲載します。;pdf

Hirakou
第45号
( H27.3.24 )
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平高の風
島根県立平田高等学校
校長
褒め言葉
言われて嬉しくなるような言葉をさらりと言えるようになりたい
長野
博
~
先週の木曜日に地域の方と本校生徒の挨拶について立ち話をした。私はまだ全ての生徒に挨拶習
慣が浸透していないと思っているので、そんなに良いとは思わないと答えたが、その方は、「妻は、
平田高校の生徒は挨拶が素晴らしく、爽やかだと褒めていた。」と言われた。私の期待するレベルで
はないと思いながらも嬉しい気分になった。
翌日の金曜日、暗くなった校門前の長い坂道を車で下ったときのことである。私は帰宅するとき、
車の窓を開け「さいなら~、気ぃつけて帰れよ~」と声をかけながら坂を下ることが多い。この時
も数人の女子生徒が下っていたのでいつものように声をかけたところ、大きな声で「さようなら」
という声が返ってきた。うちの子もやるじゃないか。とても良い気分で帰路についた。
人を褒めることが上手な人がいる。おべっかのようなものではなく、褒めることの安売りでもな
い、相手が言われて嬉しくなるようなことをさらりと言う人がいる。一方で、褒めることが苦手な
人もいる。おそらく私はこのタイプの人間ではないかと思うのだが、何で苦手なのだろうか。友人
や同僚などの仲間関係の中で人を褒めるときには、自分を抑え相手をたてる必要がある。相手より
自分が勝っていると思えば素直に褒められないし、自己主張が優先しても同様だ。私も自己主張が
強い方だが、こんな人間にとっては友人どうしや同僚などの仲間関係の中で、相手を褒めるという
ことは少なくなる。良くない性格だ。
「平高の風」を書き始めて間もない平成 25 年の秋、学校の駐車場でお二人の保護者の方と雑談を
した。話の中でお二人から読むことを楽しみにしていると言われ、もっと多くの人に読んでもらっ
たらどうかとも言っていただいた。「言われて嬉しくなるようなこと」をさらりと言われた。今では
近隣中学校をはじめとして約 50 部を校外に発送し、遠方の方々にはホームページに掲載したことを
メールでお知らせしているが、そのきっかけがこの日の保護者との雑談にある。
「校長先生、この前の平高の風を読んで私…。」生徒から突然、感想や意見を聞くこともある。生
徒は「良かったです。」のような直接的な褒め方はしてくれない。しかし、「言われて嬉しくなるよ
うなこと」なので、とても嬉しい。
相手を褒めるということは褒め言葉を駆使することではない。素直に良いことを認めることでは
ないかと思う。言い方がどうであれ、言われて嬉しくなる部分に触れるだけで良い。褒めるのが上
手な人は褒め言葉を多く知っているが、それ以上に相手が言われて嬉しくなるような部分を察知し
ている。察知するために相手を良く理解している。理解するために相手の話に耳を傾け、相手のこ
とに関心を寄せている。そして、これらのことを無意識にできる人が、私はとても羨ましい。
今月 3 日の卒業式の後、卒業式の担当者に三年の学年主任が良い卒業式をしてもらったとお礼に
行ったと聞いた。「感謝している。悔いはない。」という言葉だったそうだ。確かに、学年主任が感
動したとおりの良い卒業式だった。担当者は卒業生のために一生懸命準備をした。そして、そのこ
とは三年担任や三年生を取り巻く関係者にも伝わったと思っている。卒業生はおそらく満足したで
あろうし、その様子を見た三年生の保護者や来賓の方々にも喜びは伝わったはずだ。そのようなも
の一切について、学年主任のお礼の言葉はさらりと代弁していたのだろう、卒業式の担当はとても
感動していた。感謝の言葉も褒め言葉と同じだ、心のままに素直に感謝できる人もまた羨ましい。
話は変わるが、この「平高の風」も今号で 45 号になる。自分と違う視点や考え方を感じ、今ひと
つ深く考えてみようという気になってくれたのなら嬉しい。君たちの年頃には様々に思いを巡らす
ことが必要だ。
哲学者のプラトンは多くの時間を思索に費やしたと聞く。そして思索したり弟子達に講義をする
際に好んだ場所が木陰であり、そのときの木を「プラトンの寄り添った木」ということでプラタナ
スと呼ぶようになったとも聞いた。プラタナスが芸術・学術都市に見られるのはそういうことかも
しれない。私が本校に着任したとき、校歌に「…プラタナス 緑の影に 青春の夢は輝く…」と歌
われ、町のシンボルにもなっていることを知った。私がプラタナスと聞いて頭に浮かぶのは、約 40
年前にシューベルツというグループが歌った「風」という曲である。「…プラタナスの枯れ葉舞う冬
の道で、プラタナスの散る音に振り返る…」という一節がすぐに頭に浮かんだ。私の書きたい内容
は諸君に思索を促したいものであったので、「思索」、「プラタナス」、「風」となって「平高の風」と
いう題名はすぐに決まった。
生徒諸君には式典や集会、そしてこの「平高の風」で、私の言いたいことを様々に伝えてきた。
多感な時期だからこそ感じ取れるものがある。この時期だからこそ考えなければならないことがあ
る。楽しいことばかりではない、苦しいことや悲しいこともある。しかし、それらを全て包含して
の高校時代である。何度も言ってきたことだが、今一度繰り返す・・・
入学以後、淡々と進む授業、行事や部活動、課題やテストなどに追われる日々、そんな中で友人
との語らいがある。毎日同じ風景を見ているようで、確実に季節は移り変わり、君たちは成長して
いる。
学校は喜怒哀楽の宝庫である。高校生活は打ち上げ花火じゃない。
【今まで読んでいただいた皆様へ】
「平高の風」はこの 45 号をもって終わります。
稚拙な文章にも関わらず、多くの方々に読んでいただきましたこと、また励ましの言葉をいただき
ましたことに深く感謝申し上げます。
二年間ありがとうございました。