第22回(2015年2月28日)

§61. 伝統的な生気論への「否」:(非)有機的生気論へ
第三にして最後の「否」に移ることにしよう。伝統的な生気論への批判である。「目的性を粉
末に砕いても通りがいいようにはしてやれない。生命に内在する目的性という仮説をごっそり
と捨て去らねばならないか、それともその修正が必要として、これを私の信ずるようにまったく
別方向に行なうべきかである」(EC 44/531-532)。予定調和的な急進的目的論を排して創造
的な目的論を立て(第一の否)、超越論的な統制理念の暗黙の 外在的支援(deus ex
machina!)を受ける内的合目的性を排して内在的な目的論を創設しよう(第二の否)とした
後で、なおも辿るべき段階、おそらくは最も厳しい段階が残されている。というのも、「真実の
ところは、自然界には純粋に内的な合目的性もなければ、絶対的に切り離された個体性もな
いという事実が生気論の立場をきわめて難しくしている」のであり、まさに「ここに生気論的な
諸理論の躓きの石がある」(EC 42-43/530-531)のだ、と。ベルクソンにおいては、認識論が生
命論と一体であり、切り離しえないものであったように、目的論もまた生気論と一体となってい
る。そうでなければ、目的論に関する長い議論の果てに突如「これこそがすべての生気論に
とっての躓きの石である」という断定が現れることは理解しがたいであろう。「目的論の方向の
一つを目的論を超えてさらに進む」とベルクソンは言っていた。そのとき、新たな生気論が見
えてくる。個体概念に縛られた目的論を超えて、個体化や傾向といった生成変化の本質を捉
えた生気論的目的論を実現するために要請された概念、それがエラン・ヴィタルである。次章
以降で、ベルクソンの(非)有機的な――私たちはここで、ドゥルーズの「〈存在〉と〈非-存在〉
を同時に告発するのは、〈(非)存在〉であり、〈?存在〉である」という理念的=差異・微分的
=問題的な観点を採用している――生気論の根本特徴を見ていくとして、ここでは、最も重要
なものと思われる特徴をただ一つ指摘しておきたい。それは、このきわめて特異な生気論は、
ただ単に生命体にのみ関わるだけではなく、エラン・ヴィタルたる「大いなる生の息吹き」はそ
の射程にあるあらゆる物質を「器官=機関」(organe)に変容させてしまうということである。
その力〔生命に内在する力〕は、有機組織化された道具(instrument organisé)を自分の
ために制作し、それで仕事をして直接的にそうした作用を生み出すことができる。あるいはま
た、ある有機体(organisme)によって間接的に働きかけることもできる。この場合、その有機
体 は 必 要 と さ れ る 道 具 を 自 然 に 備 え て い な い 代 わ り に 、 無 機 的 な 物 質 ( matière
inorganique)を細工して、自分で道具を作るであろう。(EC 142-143/615)
エラン・ヴィタルは生物界にのみ関わるものではなく、手に触れるものを何でも黄金に変えて
しまうミダス王のように、あらゆる物質に触れ様々な度合いで生の息吹を伝えていく。私たち
は、次章以降で、『創造的進化』における「手」のモチーフに注目しつつ、器官=機関や技術
に特別な地位を与えるベルクソンの特異な生気論の根本特徴を見ていくことになる。
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§62. 二つの生気論:超越論的生気論と内在的生気論(ベルナールとベルクソン)
先に(§60)、カントとベルクソンの二つの目的論を見た。カントの超越論的目的論は、ベル
クソン的な内在的目的論と決定的に対立する視点を提供しつつ、ある究極の理念型を形成し
ている。これらの目的論はどちらも今なお効力を失っていない。二つの目的論の極限形があ
るのであれば、生気論にも相即する二つの極限形があるのではないか?ベルクソンの生気
論の特徴については、ごく簡単にではあるが、今しがた(§61)指摘したところである。では、カ
ント的な生気論とはどのようなものであろうか? ドゥルーズは、ガタリとの最後の共著『哲学
とは何か』の結論で、生気論について常に二つの解釈が可能であったと述べている。
一つは、作用するが存在はせず、したがって外的で脳的な認識の観点からのみ作用する
≪理念≫という(カントからクロード・ベルナールまでの)解釈である。もう一つは、存在するが
作用はせず、したがって内的で純粋な≪感覚すること≫として存在する力という(ライプニッツ
からリュイエまでの)解釈である。
この極度に凝縮された生気論の類型論を理解するのは容易ではないが、我々の論旨に引き
付けて解釈していけば、大略整合性のある解釈ができるであろう。ベルクソンをライプニッツ
からリュイエへと続く系譜に数え入れることにはさほど異論は出るまい。問題は、カントからク
ロード・ベルナールに至るとされる生気論はいかなる内実をもつものであるのかということで
たいえい
ある。岩波文庫に収められているクロード・ベルナール『実験医学序説』の訳者・三浦岱栄は、
「クロード・ベルナールの生哲学は、穏和な生気論だと言ってよいだろう」と述べている(391
頁)。ベルナールの「穏和な生気論」とベルクソンの急進的でない目的論(私たちが「(非)有機
的な生気論」と呼ぶことを提案しているもの)との間には、どのような関係がありうるのか。ベ
ルナールとベルクソンの生気論を簡潔に比較してみたい。守永直幹は、優れた研究『未知な
るものへの生成 ベルクソン生命哲学』(春秋社、2006 年)において、次のように述べている。
ベルナールのテキストでは、(……)デテルミニスムの概念はつねに揺れ動いている。それは
この概念がもともと形而上学的な含意をもち、生理学・医学の範疇を超え出ているからで、その
内包を明示的に展開し表現したのがベルクソンの生命哲学であった。かくしてベルクソンとベル
ナールの主張の類似性は看過しえぬものだ。思いつくまま挙げてみよう。(……)(6)主導観念
に導かれた創造が生命だと見なすこと。ベルクソンの場合は生命のエランという概念が提起さ
れる(……)――等々である。両者がともに依拠するフランス生命論の伝統を忘れるわけには
行くまいが、端的に言って、ベルクソンは進化論的生物学の知見をも加味しつつ、みずからの
体系にベルナール生命論を巧みに生かしている。それはベルナールの創造概念を形而上学的
に深化させたものだと断じてよかろう(160 頁)。
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たしかに、「生命! それは創造である」というベルナールの有名な一節を思い起こすなら、ベ
ルクソンとかなり近いという印象をもつかもしれない。しかし、事はそう単純ではない。まず、
ベルクソン自身が、『思考と動くもの』の第 6 論文「クロード・ベルナールの哲学」で言っていた
ことを思い出そう。
クロード・ベルナールは生命の本性について意見を述べることも、また物質の構成につい
て意見を述べることも好まなかったのです。この二つのものの関係という問題は、そのまま留
保しています。実を言うと、クロード・ベルナールは、「生命原理」の仮説を攻撃するにせよ、
「指導理念」に訴えるにせよ、両方の場合とももっぱら実験的生理学の諸条件を決定すること
に没頭していたのであります。生命を定義するよりも生命科学を定義することを求めていた
のです。(……)しかし、クロード・ベルナールが生命の形而上学をわれわれに与えず、また
与えようともしなかったとしても、その著作全体には或る一般的な哲学が存在するのであって、
その影響は、おそらくいかなる個別的な理論も及ばないほど永続的で深いものとなるでしょう。
(PM 234-235/1437)
生命の本性を探るよりも、生命体の生理学的な諸条件を探究し、生命の定義より、生命の科
学の定義を追究する。これはきわめてカント的で、超越論的な身振りではないだろうか。実際、
ベルクソンも言及しているベルナールの有名な「指導理念」(idée directrice)に、カントの「統
制的理念」(idée régulatrice)の影を見ないことは難しい。このことは、有名なデテルミニスム
に関するくだりにもあてはまる。通常「決定論」と訳されることの多いデテルミニスムとは、ベル
ナール自身の言葉を借りるならば、「現象の出現を決定する決定原因あるいは近接原因にほ
かならない」ものだ。「現象の存在条件」とも言われている。ベルナールがいわば超越論的な
姿勢で追求しているのは、あくまでも現象を可能ならしめる条件、カント的な「可能性の条件」
なのである。ベルナールが、これらの中心概念があらかた登場する『実験医学序説』第2編第
エンブレム
2章第1節で、有機体(つまり個体)システムの象 徴 として、ウロボロスの蛇――自分の尾を
噛んでいるあの蛇の図像である――を持ち出しているのは決して偶然ではない。フランソワ・
ジャコブも賛同の意を表してこの箇所を引用していることからも分かるとおり、これは現代の
分子生物学にも通用する考えである。だが、単純な現象から複雑な現象へと漸進的に最終
目的に到達しようとする、この有機的に構築されてはいるが、閉じたシステムこそ、まさに先
に見たカント目的論の特徴ではなかったか? ウロボロスの蛇、それは超越論的な生気論の
到達地点を示す象徴でもあるのだ。ウロボロスの蛇の表象がしばしば聖者・賢者の握る杖に
見られるように、閉じたシステムにはその統御者・立法者がつきものである。ベルナール自身
の晩年の遺稿から引いておこう。
生命的部分とその産物とを区別しなければならない。私は化学的現象は、本当に生命的
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な部分にまでは至らないように思う。生物には、その展開を可能にし、形態を与える生命力
が存在すると思う。その形態は物質とは独立である。それは物質の上にあり、それを配列す
る〈立法権〉である。だがその配列の〈行政権〉は完全に物質的で物理・化学的である。それ
はちょうど、建物における立法権が建築家の知性であるが、行政権は、純粋に物理・化学的
な諸特性に応じて機械的に機能する、石にほかならないようなものだ。そう言った特性はより
複雑なものになりうるが、常に同一次元にある。花における立法権は、その花の配列である。
その立法権をそのまま作ることは決してできないだろうが、私たちはその行政権、つまりその
香りや有機物質を作ることはできるであろう。
カントとベルナールをつなぐ線はこの「立法権」を備え、閉じた円環を構成する生気論にある。
ドゥルーズはカントについてこう述べている。「本質的なのは、判断力批判が合目的性の新し
い理論を打ち出しており、この理論は、超越論的観点に対応し、立法(législation)の観点と
完全に両立するということである」。また、カンギレムはクロード・ベルナールについてこう書い
ていた。
クロード・ベルナールは、職人として考えられた生命力の観念を、立法者(législateur)あ
るいは導き手(guide)として考えられた生命力の観念で置き換えているのである。それは、
働きかけることなく指導する(diriger)ことができるということを認める一つのやり方であって、
指導(direction)が実行を超越しているということを含意しているから、それは指導の魔術的
な理解(conception magique de la direction)とでも呼びうるものである。
まとめよう。ベルクソンは生命の創造的目的論を職人タイプから芸術家タイプに置き換えてい
た。職人タイプに立法者タイプを置き換えるベルナールは、まさにカント型の生気論者、すな
わち超越論的生気論者に属する。結局、カント=ベルナールの生気論的目的論の中心にあ
るのは、「逃げ水」のように常に遠ざかっていく「統制的理念」(カント)ないし「指導理念」(ベル
ナール)の観念である。カント=ベルナールは、決定論的・機械論的目的論を限りなくたわめ
ることで、生気論・目的論化しようとしている。これに対し、ライプニッツ=ベルクソンの生気論
的目的論の中心にあるのは、内側から押し広がっていくある種の「力」「衝力」(vis a tergo)の
観念にほかならない(エンテレケイア、エラン・ヴィタル)。彼らは、生気論・目的論をできる限り
脱魔術化することで、決定論・機械論化しようとしているのである。
§62. 来たるべき承認のための闘争:哲学と科学
ベルクソンの目的論と生気論の密接な関係についての概観を試みた本章を閉じるにあた
って、ぜひとも我々の論述の「枠組み」とでも言うべきものに注意を喚起しておかねばならな
、、
い。分子遺伝学者フランソワ・ジャコブの代表作は『生命の論理』と訳されているが、原題は
、、
La logique du vivant であって、厳密には「生物の論理」と訳されるべきものだ。実際、ジャコブ
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はこう言っている。
事実、熱力学の誕生以来、生命という概念の操作的な価値は薄められ、その抽象的思弁
としての力は衰えさせられるだけであった。今日、我々はもはや実験室の中では生命を問題
としない。我々は、もはやその輪郭を切り開こうとは努めない。我々はただ、生きている系、そ
の構造、その機能、その歴史を分析しようと努めている。
これこそが、サイエンティストのあるべき、基本的な立場である。つまり生物という計量・計測
可能な「物」についてしか有意味に語ることはできないとする立場だ。生物学者にとって、生一
般について語ることは、抽象的な思弁の領域に属することであり、具体的な生一般について
有意味に語ることができるなどと彼らは思ってもいない。少なくとも科学的な手法に則る限り
無理だと彼らは考えるだろう。ここが哲学にとってのロードス島であることは言うまでもない。
ベルクソンは、「存在の学」たる哲学が存在論的解明に成功することによって、「存在者の学」
にすぎない生物学を包含し領有するのだとも考えていないし、また(時にそう見えるとしても)
哲学と科学が同じ地平で領土を半分ずつ領有しているとも考えていない。彼の本当の答えは、
哲学と科学は、時に交差することがあっても、基本的にはまったく異なる平面で展開される、
というものだ。科学は発見し、哲学は創造する。科学は、概念をいわば職人(artisan)にとって
の日常の生活用品として割り切って使いきる。哲学は、概念をいわば芸術家(artiste)にとっ
ての芸術作品の素材として何度でも再利用する。哲学がいつまでも温故知新を旨とする所以
である。科学研究の重点はいつも実証性におかれているが、その本当の進歩は、研究成果
の量的・一方向的集積によって生じるのではなく、むしろたいていそのような知の体系的組織
化から反作用的に押し出されてくる、それぞれの領域の構成そのものに関する根本的な問い
かけによって生じるものだ。諸科学の本当の「動き」は、その基礎概念に加えられる改訂作業
の中で起こっているのである。これこそが、哲学の平面と科学の平面の切線となるものだ。哲
学と科学は同じ地平で動いているのではないし、かといってまったく絶縁しているのでもない。
異なる地平で共同作業を行なっているのだ。
本章冒頭で(§55)、生物学の日陰者としての目的論を、愛人に譬える警句を引いた。ベル
クソンは、彼女を認知させようとしているのだろうか。ここで認知を既成の法体系に収まるもの
と考えるなら、答えは「否」だ。ベルクソンにとって問題はむしろ、認知という概念そのものを再
検討に付すことにあるだろうからである。ベルクソンは、心霊研究に関して、哲学者や科学者
が務めるべき役割は弁護士でも裁判官でもなく、予審判事だと言っていた。是が非でも被告
の無罪を勝ち取るというのでもなく、高みから判決を下すのでもない。裁判そのものを開始す
べきかどうかを決定するため、基本的な諸事実を徹底的に洗い出すことが求められているの
だ、と。生気論や目的論に関しても事は同様であろう。生気論・目的論の亡霊が今なお徘徊し
ている以上は。(続く)
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