信玄・家康の駿遠分割案と駿遠国境 小和田 ﹁遠州棒原郡小杉郷即心寺﹂といった記載があったりで、 ζとはいうまでも左い。 国もともに静岡県であり、 そ う い っ た 点 で の 国 境 線 は 意 味 を も た くなっていた .下江留付・西島村・宗高村・上小杉村・下小杉村・藤守村・中島 近世の村でいえば、上泉村(善左衛門新田)・相川村・上新田村 ) 、尾張の橘狭間の合戦で、今 い た 今 川 氏 は 、 永 禄 三 年 ( 一 五 六O 戦 国 期 、 駿 河 ・ 遠 江 は も と よ り 三 河 K まで大名領国制を展開して いで、東会よび北からは甲斐の武田信玄、西からは徳川家康によっ e て 領 国 を 次 第K蚕 食 さ れ は じ め て い っ た 。 そ し て 、 つ い に 永 様 十 一 ζと に な る o大井川の向う側の棒原郡という意味で向榛原の名でよばれてい 年 ( 一 五 六 人 ) 、 信 玄 と 家 康 と の 間 K密 約 が 成 り 、 大 井 川 を 境 K、 駿河を信玄が、遠江を家康が切りとるという、今川氏真領国の分割 領有の約束がとりかわされたのである。 実際の流路と国境とはかけはなれた位置になったまま長い歳月を経 ニ依テ、信玄、駿州ア略セント欲シテ、兵フ率シテ甲州ヲ発 十二月小六日、今川氏真ガ家臣等、志ア武田信玄ニ通ズ、是 たとえば、﹁家忠日記増補﹂三は、 て、ようやく明治十二年(一八七九)に左って、いわば、現実の流 ス、大神君、武田信玄ト、大井川ヲ堺トシテ、遠州ア領セン 路K あ わ せ 国 境 の 線 引 き を し 左 の結果、前述の近世まで向棒原とよばれた村々は遠江国榛原郡から こ と を 伝 え て い る o 友会、﹁浜松御在城記﹂一は、 と あ り 、 他 の ﹁ 三 河 物 語 ﹂ 二 ゃ 、 ﹁ 創 業 記 考 異 ﹂ 一もほぼ同様の (1) ト約ヲ成シ給フ、 h uす ζと が 行 な わ れ た の で あ る 。 そ 流 路 を も っ て 国 境 線 と し た が 、 そ の 後 の 大 井 川 流 路 の 変 遷 K より、 古代、 は じ め て 国 境 を 設 定 し た と き 、 大 井 川 の そ の と き の 主 た る たのである。 た o つまり、大井川の流路がイコール駿河と遠江の国境では左かっ 遠江国榛原郡に所属しながらかつ大井川以東の地域という 川義元が織田信長の奇襲に倒れて以降、子氏真は領国を支えきれ左 ことにしよう。 る。以下、この信玄、家漢による駿遠分割案について検討してみる 信玄と徳川家康の駿遠分割の密約のときでは左かったかと考えられ が最も鮮明な形であらわれたのが、ほかなら応戦国末期の、武田 さて、大井川の実際の流路と、古代に設定された国境線との乗離 2 村・吉永村・吉永利右衛門分・吉永高新旧・飯淵村・飯淵新田が、 く人も少左︿左い。 それら地域が大井川以東の地であるとととあわせ、奇異の念をいだ ったり、 中世文書をみていくと、 たとえば﹁遠江田臨時原郡羽淵之内﹂とあ 男 分 か れ 、 あ ら た に 駿 河 固 と 左b、 志 太 郡K編 入 さ れ た 。 今 日 の 志 太 郡 大 井 川 町 が ζ の地域である o も っ と も 、 近 代 で は 、 遠 江 田 も 駿 河 -25- 哲 一、同年(水様ト二、信玄卜大井川ヲ為境、駿州ハ武田、 すれば、この文書を翌年の一永藤十二年のものと解釈する 年十二月に一向者ともに約諾によって行動をなこしてい山るところから、 f 解ずることが最も妥当というこ ず、やはり、永様十一年二月十六日 i一 ζと は で き 遠州ハ権現様御切取被成候様ニ卜、国キりノ御約信御沌候、 とすれば、すでに、永様十年(一五六ヒ)の末には、 C} とに左ろう 此取持ハ、信長公、甲州ヨリノ御使一一、山由一小三郎兵衛頼実 来ト申説御座候、日限使者ノ名未詳、爪一テ考可申上候、頼 事実、永様十年という年は、今川氏真と武田信玄の断交の年だっ であろう。 駿遠八万部案が具体的に検討されはじめていたとみなければならまい 信玄と家康の駿遠介割案の取持すなわち仲介の労をとっ 実イニ作日日景、 ( 2 ν とあ一り た の は 織 田 信 長 で あ る と い う 注 目 す べ き 記 載 を し て い る c もっとも、 から、これを幽閉し、ついには切腹させ、その妻(今川義一応の娘) は 実 家 の 今 川 氏 K 送 り 返 さ れ て な り 、 同 T相 駿 三 国 同 盟 と い わ れ た 、 た の で あ る o す左わち一、信玄は嫡田々の義信が親今川派であったこと (3) ζの 点 は 、 高 柳 光 寿 氏 の い わ れ る よ う に 、 信 玄 と 信 長 の 間 で 約 束 が かもしれない 信玄・北条氏政・義元の三者の同盟の一角が、義一冗の死陀よって崩 - 26 成立し、それを家康が承諾した、というのが実際のところだったの それはさてなき、以上の文献は、いずれも信玄・家康の密約がい れたのである o 氏 真 は そ の 報 復 と し て 甲 斐 へ の 塩 荷 留 め を 断 行 し た ζ と忙をっ ) 、 小 山 城 は 松 平 氏 の 領 有 す る と こ ろ と 在 っ た6)G﹂ 冗 年 ( 一 五 七O 平 ( 大 給 ) 左 近 真 乗 に 小 山 周 辺K知 行 地 を 与 え 、 攻 防 の 結 果 、 元 亀 たが、武田家は大井川を越え小山城に入った。一方、認川家康は松 は大井川を境として商を徳川氏、東を武田氏が領有する 信玄 K よ っ て 築 か れ た c こ れ ま で の 通 説 的 理 解 は 、 ﹁ 今 川 氏 没 落 後 吉田町片岡能満寺山に位置し、信玄・家康の駿遠分割密約の直ノ後、 城では左かったかと考えられるのである o小山城は、現在の禄原郡 題に在る。その最も象徴的左あらわれ方が、信玄代よる小山城の築 実際の大井川の流路と、古代以来の国境線との乗離が問 (5) つなされたかについての記述がない。、水一時十一年十二月というのは、 のであった (4) 、 ζζで あ く ま で そ の 密 約K 従 っ て 具 体 的 左 行 動 、 つ ま り 、 信 玄 は 駿 河 に 攻 め入り、家康が遠江に侵出しはじめたときであり、密約がなされた ときをポすものではない。 4 その点で注白されるのは、﹁武徳編年集成﹂巻九に所収されてい る次の 一 月 十 六 日 付 の 信 玄 害 状 で 毛 る V κ、永様十一年の一駿 信玄判 聯師時﹁小及疑心候、程一昌謂之儀所望申候処、則調絵候、祝着 FJ 一上 候、信玄事茂、如案文、書官寸於使者眼前致血判任)才一候、 二一二一 j v v 愈々御入塊所希所希候、恐々謹言 一一月十六日 徳川殿 害状であるから年号の記載はないが、内容的 遠 分 割 案 の と き の も の で あ る と と が わ か る 口 す で K み た よ う K、 同 3 大井川流路の変遷と駿遠国境 図 というものであり、 信 玄 が 、 約 束 し た 国 境 を 械 工 ん 、 遠 江 の 方 に 入 っ たという解釈である o果たしてそうであろうか c むしろ私は、前述 の駿遠分割案が左されたとき¥信玄の側、家康の側で駿遠国境につ いて、考え方が続了されてい左かったとみたい。なそら︿信玄は、 小山城のところまでは駿河国と解釈し、国境線ぎりぎりのところに 支城を築いたものであろうし、家康の考える国境線はもっと南米であ り、従って、信玄K よる小山築城は密約に違反する行為としてうけ でほ、実際の国境線はど乙だったのか o 当時の大井川の流路につ とめたものであったと考えられる c い て 検 討 を し 左 く て は な ら な い c その前に、古代げいないて、国境線 が定められたときの流路について明らかにして公とう。 古代、駿河・遠江の国境が策定されたときの大井川の主流は、現 の名でよばれていたことと、前述のよう花、向橡原とよばれた村々 在り栃山川であ一つえと考えられる o と い う の は 、 栃 山 川 が 別 名 堺 川 が 、 ほ ぽ 栃 山 川 流 域K ま で 及 ん で い た こ と に よ る c も う 少 し 厳 密 に (7) み れ ば 、 現 在 焼 津 市 一 色 の 西 日 田 庵 と い う 寺 の 南K溝 が 現 存 す る が 、 ζの溝が駿遠の境界であった 、 時 代K よ っ て 主 流 が 流 れ る と こ ろ は 変 化 し て い hy ところが、大井川はしばしば乱流をくりかえし、また幾筋にも流 れが分かれて会 った。事実、﹁初倉荘内大井川以東鮎河郷・江富郷・吉永郷・藤守 (8) (H相川)、江官田 (H下 江 留 J 、吉、永、藤守左どの功が、すでに 郷等﹂といった表現から明らかなように、向榛原の地代属する鮎 河 南北朝段晴、﹁大井川以東﹂であっえととは、そのとろ、現大井川 流路が主流の流れていたところだったととを物語っている o -27- j 卦J I I .住 吉 凶 幅 ) ( 1/5方 しかも、現大井川流路よりもさらに西を流れていたという記録も あ る 。 た と え ば 、 永 正 四 年 ( 一 五O 七 ) の 大 洪 水 K よ り 、 主 流 は 現 大井川のい H善 H と考えられてきた。記録の残りぐあいからして 従 来 、 松 平 中 心 史 観 、 あ る い は ﹁ 神 君 ﹂ 思 想K わざわいされて、 すべて家康は 家康側のものが多いので仕方が左い側面もあるが、この小山城築城 (gv く つ か る る 川 筋 で は 最 も 西 端 を 流 れ て い た こ と に 左 る o bそらく、 在 の 湯 日 谷 川 あ た り を 流 れ る よ うK 左ったといわれ 戦国末期、信玄と家康が駿遠分割領有を約した時点での大井川の主 ぃ 。 し か し 、 実 際 K当 時 の 大 井 川 の 流 れ を 考 え て み る と 、 密 約 で 問題 K し て も 、 信 玄 に 一 方 的 左 非 が あ る と さ れ て き た ζと は 否 め 左 をさし、信玄の方では実際のその当時の大井川の流路を考えていた とっての大井川というのは、古代以来の国境、すなわち、駿遠国境 境 と し て 、 駿 河 を 信 玄 ? 遠 江 を 家 康 と 記 し て い る よ う K、 家 康 側 K ている O Kも か か わ ら ず 、 最 後 K あ げ た ﹁ 三 河 物 語 ﹂ が 、 大 井 川 を とあるように、加ずれも﹁大井川を境として﹂という点では一致し (6) ﹃臼本城郭大系﹄ 9、静岡・愛知・岐阜編、 (5) 小 和 田 哲 男 ・ 本 多 隆 成 ﹁ 静 岡 県 の 歴 史 ﹄ 中 位 、 二O 五頁。 (4) 肥 前 回 島 文 書 に も 同 文 の 文 書 が あ る 。 (3) 高 柳 光 寿 ﹃ 三 方 原 之 戦 ﹄ 春 秋 社 、 三 九 頁 。 (2) 同右、一一一四四頁 o (1) ﹃ 大 日 本 史 料 ﹄ 十 の 一 、 = 二 六 頁 。 (静岡大学教育学部) あ る が 、 戦 国 期khvけ る 国 境 と は い か 左 る も の か 再 検 討 し た い 。 松 平 中 心 史 観 を 離 れ て の 歴 史 解 釈 を 歴 史 地 理 学 的K 試 み た 次 第 で 築城 K は 一 理 あ る と い わ な け れ ば な ら な い の で は な い だ ろ う か 。 ﹁大井川を境として﹂だけしかいってい念いとすれば、信玄の小山 左流路は湯日谷川のあたりであったろう o 記録K よ っ て 若 干 の 表 現 上 の ち が い は み ら れ る が 、 ﹁大井川ア為境﹂(﹁浜松御在城記﹂) ﹁大井川ア堺トシテ遠州ア﹂(﹁家忠日記増補﹂) ﹁大井川フ眼リ﹂(﹁創業記考異﹂) ﹁大井川を切て駿河之内をパ信玄の領分、大井川を切て遠江 のでは念かったかと思うのである o だからこそ、信玄は境目の城と (7) 楠田幸昭﹃中世大井国原考﹄二一一員。 注 し て の 小 山 城 を 築 き 、 い っ ぽ う 家 康 の 方 は 、 信 玄 が 遠 江 領K 大幅K (8) 南 禅 寺 文 書 の内をパ某領分﹂(﹁三河物語﹂) 踏 み ζんできたと解し、これを攻撃したのである。 (9) 武 市 光 章 ﹃ 大 井 川 物 語 ﹄ 五 三 頁 口 一三三頁。 栃 山 川 と 湯 日 谷 川 の 間K は さ ま れ た 大 井 川 下 流 地 域 は 肥 沃 な 土 地 である o ﹁ 大 井 川 ﹂ を 栃 山 川 と 解 す る か 、 湯 白 谷 川 と 解 す る か に よ κとっても、家 っ て 、 そ の 広 大 な 土 地 の 帰 属 が 変 わ っ て く る o 信玄 康K と っ て も 、 そ と は 一 歩 も 譲 れ な か っ た 土 地 で あ っ た ろ う 。 -28- 4
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