ぐるり散策 大月風土記の巻10

ぐるり散策 大月風土記伝説の巻 井上文次郎
大月風土記伝説
十三、【樹木に関する物】
【矢下のサクラ
(笹子町)】
笹子町原の国道二〇号
線川向の杉林の中に立っ
ており、北向きの急傾斜
地で環境は良好でない。
根廻り二・八九メートル、
根元の北側は朽ちていて
はっきりしないが、復元
した根廻りは五メートル
以上もあったと思われる。
枝三本はひこばえである
が、非常に旺盛で花も数
多くつけている。この樹
は相当な古木で、保元の
乱に敗れた源為朝は伊豆
大島に流されたが、たま
たま大島を脱出し滝子山
に陰住した。春たけなわ
の或る日のこと、為朝は
西の丸の崖上に立ち南を
向いて、淡紅にひときわ
咲き競うこの櫻樹をめが
け、得意の強弓で一矢を
放った。矢はあやまたず
この樹の梢をかすめて落
ちた。それより里人は矢
下の櫻と呼んだ。このと
き西の目標が矢立の杉で
あったという。
【浅利与一手植のムクロ
ジ(賑岡町)】
浅利上平部落の朱塗り
の橋を渡って旧道から東
北へ稚児落としに至る道
を進む、道は狭く茨が多
い。約三〇〇メートル
入った左手に岩壁がそそ
り立つ。この岩壁はとこ
ろどころに大きな横穴を
作りその一つに「マセ穴
」があり、この穴のすぐ
前に立っている。部落で
はこれをムクゲンジと呼
んでいる。建久年中浅利
与一義遠 手植えによる
と伝えられている。根元
の周囲一・四メートル、
樹高約八メートル、昭和
九年に童児がこの樹を切
り倒してしまった所、そ
の年は部落に凶事があい
つぎ、村人はこの樹のた
たりとして恐れた。その
後この二児も戦死してし
まった。以来部落の人達
はこの樹にかかわり合う
ことを忌みきらうように
なった。
【上人屋敷の逆竹
(富浜町)】
島沢円福寺より北に約
一キロ程入った所に上人
屋敷があり、その東南端
に伝説の竹藪がある。伝
える所によると彼の木食
上人の弟子木食大秀白道
比丘が臨終の際に遺言と
して「竹を墓上に逆に植
えよ、然して芽を出さば
発掘せよ」と、その後竹
に芽が出てきたが発掘後
の因縁を恐れて誰も発掘
しようとはせず今日に
至っている。
【鎌倉山の松
(大月町)】
真木の部落と間明野部
落の境にかかる遊仙橋の
南、市道真木線の西に真
木川を挟んで鎌倉山と呼
ぶ丸山がある。その山裾
には粘板岩に石英の貫入
した露頭が見られる。そ
れは恰も白蛇の谷に下る
ような幻覚を誘う。この
山頂に「鎌倉山の松」と
呼ばれる老松が聳えてい
たという。
昔、この山に胴廻り数
尺の白蛇が棲み付いてい
たが、或る夏の日数日来
の干天にたまらずこの松
樹勢旺盛である。
昔は、この樹の下に道
祖神を祀った小祠があっ
たが、今は角状の石だけ
が残っている。部落の人
達はみみだれ(中耳炎)
にかかると、この祠に全
快を祈念し、霊験すこぶ
るあらたかで、全快後は
漆塗のお椀の底を糸で結
び、この木の枝につるし
(これを「吊鐘を上げる
」と、呼ぶ)本快のお礼
とした。近隣の人達が伝
え聞いて祈念する者が絶
えず、十数個の吊鐘の絶
えることがなかったとい
う。昭和初期まではこの
風習が残っていたといわ
れている。
の幹に尾を七廻り半巻き
【小和田のサクラ
つけて眼下の真木川に下
(七保町)】
葛野川に面して東を向
り三日三晩の間この清流
いていた傾斜地に立つ樹
を飲み干したという。こ
種はエドヒガン、花は淡
の松は目通り幹囲五メー
紅色で三月下旬から四月
トルあり、昭和の初期に
上旬ソメイヨシノに先
枯れ、太平洋戦争中航空
立って拓き遠方からも美
機代用燃料の松根油精製
しく望まれる。樹高約一
の原料として抜根された
五メートルでサクラの巨
が、此の時の根塊がト
樹として本市は勿論県下
ラック一台に積みきれな
でも有数のものである。
かったといわれている。
昔はこの櫻のすぐ上に鉱
【桑西道祖神のみみだれ
泉が湧出し、村人たちは
松(大月町)】
この泉を神経痛、胃病等
真木の桑西と間明野の
の治療に利用していた。
境近くの畔、西を向いた
その泉はいつも櫻の樹の
斜面に立っている。根元
根元をうるおしていたた
の周囲二・四メートル、
めに、この櫻樹はいちは
樹高約六・五メートルあ
やく春の訪れを知り、淡
る。樹形は平凡であるが、
紅の美しい花を梢いっぱ
いにつけ、人々と共に春
を謳歌した。村人はこの
樹を湯の木と愛称し鉱泉
と共に憩いの象徴的存在
であった。この鉱泉には
いつとはなく大きいすき
透るような白蛇が住みつ
いているのを知った村人
は、神の化身として大切
に保護していた。
ある日のこと、いたず
ら好きの農夫が酒の勢い
をかりて、汚れた肥柄杓
でこの泉をかきまわした。
すると白蛇はものすごい
勢いで躍り上がり、風を
呼び雲にのって北方へと
飛び去った。それ以後こ
の泉は涸れ、みるみる櫻
樹も衰弱した。驚いた村
人達は早速熊野神社を創
建し、白蛇を祀ったが泉
は再び湧き出さなかった。
ほどなく冨士道(小菅方
面から七保を経て冨士に
向かう街道)を往来する
旅人から、峠向こうの小
河内に鉱泉が湧いたとの
話が聞かれるようになり、
櫻樹も次第に回復の兆し
を見せてきた。この神社
の祭りは毎年一月十七日
で、この日は白蛇にちな
んで粥を作って子どもに
与える習慣が残されてい
た。
【ゆるぎの楓(七保町)】
市道、田無瀬 林線を入
り口から、三百メートル
程歩くと、小俣督光宅下
の崖うえにある、樹齢数
百年をへた楓が、往時か
ら「ゆるぎの楓」と、言
われ、小和田のサクラと
共に、大月市の名所とし
て、村人から珍重された
紅葉の喬木で、秋の紅葉
は、現在も美しく見事な
ものである。
註一、かって大月市の広
報で、大月の名勝として
伝えられていた、小和田
サクラも、近くに廃棄物
処理場が出来、煙害で今
は無残に立ち枯れてし
まって見ることが出来な
い。市の文化財に対する
管理の不備が悔やまれて
ならない。
註二、矢下のサクラも今
は、近隣の人さえ見覚え
がないという。
註三、浅利与一は、甲斐
八代郡浅利に興った豪族、
無辺寺に予一の碑文があ
る。
参考文献
甲斐国志
北都留郡誌
大月市の石像物Ⅱ
執筆者 井上 文次郎
八月号へつづく…