「たのみおく 七字の外も茶のかをり 千鶴」

三代目中村翫雀の妻「こう」の碑について
大須から、「きょうは、少し足を延ばして本町通りを南下してみよう。
」
岩井線を南に越えると、今まで歩いていた大須の喧騒がまるで嘘のように静まりかえる。
明治からここは仏壇屋がずらりとならぶ名古屋随一の仏壇屋ストリートである。
明治37年から昭和5年まで門前警察署があった門前ビルの前を過ぎ、初めての角を左に入るとすぐ左手に天寧
寺がある。今日はお参りする人も無く、静かである。が、このお寺、知る人ぞ知る有名なお寺で、かつてこのお
寺が清須に有った時、かの織田信長も祈願した三宝大荒神が安置されている。日本でも数少ない荒神さんの祈願
所である。
来た道を戻り、再び本町通りに出る。
あっ、そうそう。もう一つ。ちょうどこのありはかつて門前町7丁目と言っていたが、その21番地に神戸直友と
言う方がおられた。神戸直友氏はご自分が70歳を迎える(昭和15年)のを期に今までこつこつと記録した様々の
出来事を一冊の本にまとめて出版されたわけだが、これが「話草(はなしぐさ)」である。今となってみると、
その記録が貴重な存在になっている。氏が出版の序で述べておられるように、「萌え出づるも枯るるも同じはな
し草萌え出るものは以て知新の料たるべく枯るるものは以て温故の資たるべし・・」の思いがかなったわけであ
る。
しかし、氏の存在を知る人はこの近所にはすでに無い。
ペットボトルのお茶で喉を潤し、本町通りを再び南に歩き出す。
道の左右には主に昭和初期に盛んに建てられた今ではもうこの近辺にしか残っていない黒漆喰壁の塗籠造商家
が点在している。貴重な歴史建築遺産として保存されるとありがたい限りであるが。
そのまましばらく進むと右側に日蓮宗妙善寺の山門にたどり着く。このお寺の境内に「こう」のお墓がある。
歌舞伎好きの方ならご存知と思うが、「こう」は三代目中村翫雀の二人目の妻で、京都祇園町の置屋加賀傳の娘
芸子「さと」である。色々あって(ここは省きますが)三代目中村翫雀の前妻との間に出来た実子中村鴈次郎へ
の相続の問題が気になり名古屋のこの地に病身をおして駆けつけた挙句に、この地でなくなることになったわけ
である。
この「こう」のお墓に刻まれた文句が謎だ。お寺のご住職にお聞きしたが、謎はまだ解けない。
どなたか、ご存知の方是非お教え下さいませ。
「たのみおく
七字の外も茶のかをり
千鶴」
この意味がまったく分かりません。
どなたか是非お教えくださいませ。
ところで、この妙善寺にまつわる話がまた興味深いものがあります。
次回このお話をしたいと思います。