●時:2015 ●時:2015 年2月 22 日 ●題:「あなたは神に仕えるために造られた:忠実な管理者として#2」 ●聖書: ●聖書:マタイ 書:マタイ 25 章 14-26節、 26節、第一コリント4章1-2 節、第一コリント4章1-2節 第一コリント4章1-2節 序 論 本 論 ●私たちはこの数週間、リック・ウォーレンが、その著書、「人生を動かす 5 つの目的/Purpose Driven Life」で挙げている 5 つの目的の第四番目の目的を学んできた。 ●その目的とは、「私たちは神に仕えるために造られた」である。 ●「仕える」人生とは、「与える」人生である。 ●イエス様の 30 年にわたる地上の人生の目的と意義は、私たちに人として生きる道の模範を教え、そ れを生きたサンプルとして、その生き様を示すことであった。 ●そのイエス様が、私たちに言われたことは: 1.私は、仕えられるためにではなく、仕えるために来たのである。 2.受けることより、与える方が幸いである。 ●言い換えるなら、これが人間の生きる道であり、幸せの道であるとイエス様は言われるのである。 1.イエス様は、それを、弟子たちの足を洗って表され 2.十字架で、私たちに命まで与えて示されたのである。 ●私たちは、神に仕えるために造られたのである。 1.神様から何からもらうため、受けるために造られたのではない。 2.神様から何かをしてもらうために造られたのではない。 3.神様に仕えるためである。 ●聖書で言う罪とは、そのように造られた人間が、いつの間にか、自分に仕えるために生きているのだ と勘違いして、自分に仕えることを第一にして生きることである。 1.だから救いとは、そのような意味で罪人である人間が、神に仕える人間に戻ることである。 2.だから、リック・ウォーレンは言う(以下はすべて、「29 日目、邦訳 297-305 からの引用): (1)あなたは奉仕したから救われたのではありませんが、奉仕をする為に救われたのです(298)。 (2)クリスチャンにとって、奉仕とはオプションでもなければ、スケジュールの合間に押し込ん でしまえば良いものでもありません(302)。 (3)「奉仕しないクリスチャン」と言うのは矛盾しているのです(300)。 (4)あなたが教会という家族に結びついていなければならない理由の一つは、そうしなければ他の クリスチャンに仕えるという召しに具体的に応えていくことができないからです(301)。(私、西郷は、 後半を少し変えて、もう一言言いたい。「そうすることによって、他のクリスチャンたちと力を合わ せて、教会外の人々に仕えるという召しに具体的に応えていくことができるからです」と。 (5)人は皆、自分の人生を何かに捧げています。・・・奉仕こそ、真の人生の意義に通じる道で す。私たちが人生に意味を見出すのは、奉仕を通じてなのです(304)。 ●今日は、先週に続き、イエス様が語られたマタイ 25 章のタラントの譬から、神様に仕えるしもべと しての私たちのあり方を学びたい。 Ⅰ.神に仕える人生において、大切なことの一つは、自分が神様から預かっているタレントに対して「忠実」である ことである。 A. ここで、主人がしもべたちに求めていたものは何であったか? それは、「忠実」という資質であった。 1.21と23節を見たい。この主人は、2 タラントのしもべにも、5 タラントにも、「よくや った。よい忠実なしもべだ」と、まったく同じ言葉でほめ、更には、まったっく同じ褒賞を 与えた。これは、驚くべきことである。 (1)会社で言うなら、一人の人物が 3 億円(1デナリを一日の労賃1万円とし、1タラント= 6000 デナリで計算したときいの 5 タラントの日本円相当額)の儲けを会社にもたらした とする。一方で、これまた高額とは言え、その半分以下である1億 2000 万円の人がい たとする。その差は 1 億 8000 万円である。どんなに積極思考の上司でも、この二人を まったく同じように褒められるか?! 1 (2)学校の成績を考えても、二人の生徒(子供)がいて、いくら両方が、それぞれそれなりに一 生懸命頑張ったとは言え、結果が通信簿5(A)の子と、2(D)の子を褒めるとき、まった く同じに褒めることは、どんな積極思考の教師、母親でも不可能に近いであろう。 (3)しかし、それがここで起こったのである。 2.なぜか? それは、この主人が、目を付けるところが、普通の人、世の中の基準とは違って いたからである。 (1)普通の人はどこに目を付け、期待するか? ●それは、成果であり、結果である。何ができたか? 何が成し遂げられたかである。 ●即ち、成績がよかったかであり、金がいくら儲かったかであり、地位や名誉が得られた かであり、或いは、どれだけそれが人に、社会に役に立ったかという「結果」である。 ●そのような生き方、社会のあり方、親のあり方、即ち、彼らの結果主義、成果主義、能 力主義偏重が、どのくらい人を、子供を苦しめているか?! ●「できなかったらどうしよう」「叱られる」「笑われる」「馬鹿にされる」「失敗者・敗北者・ 負け組みのレッテルを貼られる」等々の心配と恐れである。 ●韓国の例:「全国1位」の成績を取るよう受験勉強を強要し、体罰を振るい続けた母親 を殺害したとしてソウル市内の高校3年の男子生徒(18)が逮捕され、韓国社会は大 きな衝撃を受けている(ロイター、2011 年)。 (2)しかし、この主人は違った。彼が目を留めていたこと、しもべたちに求めていたものは、 それらとは全く違っていた。 ●それは、結果や、成果ではなかった。 ●もし、そうだったら、5タラントのしもべと2タラントのしもべの二人を同じように褒 め、同じ報酬を与えることはしなかった。二人は、3 タラント、1 億 8000 万円も、 結果と成果において違っていたのであるから。 ・ ・ ・ どころではない、全く同じに褒め、全く同じ報酬を ●ところが、彼は、二人を同じように 与えたのである。 3.彼が目を付けていたのは、むしろ、彼らの「忠実」さであった。 (1)二人に「よい忠実なしもべだ」と言ったように、彼が求めていたのは「忠実」さであった。 (2)彼ら二人が能力と成果は大きく違っても、どちらも「忠実」さにおいて同じだったので、 彼はそれを評価して、同じように褒め、同じように報酬を与えたのである。 (3)これが私たちの神様であり、私たちにも同じことを求め、期待しておられるのである。 1.神に仕える者としての私達に神様が「忠実さ」を期待している代表的な2つの例を挙げたい。 (1)マタイ 24 章 45 節「主人から、・・・任されて、・・・ような忠実なしもべ」 (2)Ⅰコリント4章 1-2 節「私たちをキリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えな さい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます」 (3)これらの聖句からだけでも、神様が私たちに仕える者として「忠実」さを求めていること は明かであるが、更に、 2.信仰生活における「忠実さ」faithfulness の重要性はそれがキリスト教教理において最も重 要な言葉である「信仰」faith と同じギリシャ語原語” から来ていることからも言える。 3.旧約聖書においても、誠実、真実、忠実、信仰、アーメン、等の言葉や概念は、みな「アー マン」と言うヘブル語から来ている親戚の言葉(派生語)である。 4.これらの事実から言えることは、この「忠実」と言う言葉と概念は、決して聖書の教える教理 と私達の信仰生活において、決してマイナー、或いはペリフェラル(周辺的、付帯的)なこと ではない。 5.むしろ、「信仰」と「忠実さ」とが重なりあって私達の信仰と人生が形作られて行くのである。 6.私が、アズベリー神学校で勉強していたとき、私の信仰人生に最も大きな影響を与えたと言 える中国への偉大な宣教師Jハドソン・テーラーの 4 代目と一緒に学ぶ特権が与えられた。 初代から彼に至るまで、みな中国関係の伝道、宣教に携わって来た家系であった。 B. 聖書は、信仰者の人生において、私たちが「忠実」であることの重要性を幾度も強調している。 pistos″ 2 (1)ゆっくり話しがしたくて、彼をあるとき、我が家の食事に個人的に招いた。 (2)そのとき、食事を終えてから、彼に一つの質問をした。 ●「あなたは摂理のうちに、神様を愛し、神様のために全力で生きる素晴らしい家系に生 まれたが、あなたが、そのような系譜の中で、霊的遺産として受けたと感じていること は何か?」と尋ねた。 ●そのとき、彼はほとんど間髪を入れずに「忠実」と応えた。 ●「それは神の忠実さ? それとも人の忠実さ?」と、私も畳み掛けるように質問した。 ●このときも彼は即座に応えた。「両方の」と。 ●神様が私たちのためにしたお約束に対する神様の忠実さと神様に誓った事に対する、私 たちの忠実さが、二つ揃うとき、神様の偉大な業が現れると言うのである。 7.「忠実」とは、このように単に持っていたらいいなと言う程度の重要性ではなく必須である。 即ち、それは、聖書の教えの中心であり、神さまと私たちの関係の中心(丁度夫婦関係の場 合と同様に)であり、神様のみ業と祝福の中心である。なくてならない信仰の資質である。 1.それは必ずしも細かいことにも気を配って、無駄をせず、几帳面に物事をこなして行くこと ではない。 (1)勿論、それも神のしもべとして大事なことであろう。 (2)しかし、それはどこまでも人の性格の要素の問題である。 ●ある人は生まれつき、生い立ち上の人もいるが、クリスチャン、クリスチャンでないに かかわらず細かいし、無駄にしないし、几帳面である。 ●しかし、ある人は、その正反対に、物事に大雑把で、「どんぶり勘定的」な人もいる。 ●それらが調和し、キリスト者の品性として完成してくることは必要であるが、 ●それは所詮、「性格」の問題であって、それが、ここで問題にしている「忠実」ではない。 2.ここで言う忠実とは、むしろ真実、誠実の意味合いが強く出ている「忠誠心」のことである。 (1)どんなに几帳面で、節約家で、細かいことにも忠実であったとしても、それを、主人の ためにではなく、自分に仕えるために使っている人がどのくらいいるだろうか? (2)神様は私たちに、与えられた財産や賜物を、上手に、忠実に、無駄なく使う能力を期待 しているのではない。それを忠実さと呼んでいるのではない。 (3)神様は、私たちが、たとい不器用でも、性格が大雑把で、どんぶり勘定で、抜けだらけ でも、その心が、神様への忠誠心に満ちていたらそれが「良い忠実なしもべ」なのである。 (4)その反対に、器用で、賢くて、自制力があって、やり手で、無駄をしない、「忠実な番 頭」さんを絵に描いたような人物でも、心に神様への忠誠心がないなら、「よい忠実なしも べ」とは呼べないのである。 3.この「真実な心」、或いは、「忠誠心」という言葉は、別な言い方をするなら、「変わらない人」 ということができる。 (1)私の牧師はしょっちゅう私たちに言った:信仰生活で最も大切なことは、「変わらないこ と」だと。 (2)それは、結婚の誓約のときと同じように、一旦約束したらそれを守って行こうとする真 実さであり、忠誠心であり、その意味で状況によってコロコロと約束を変えない人である。 (3)そのことをはっきり言っているのが、詩篇15:4である。ダビデは言う。「立てた誓い は、損になっても変えない」と。これが神の前の忠実さである。 (4)それは、上手にそつなく、無駄なく、財産を生かして使って行く能力のことではない。 それなら、おそらく 2 タラントのしもべは、5 タラントのしもべに到底かなわなかった であろう。要するにここで言う「忠実」とは「行動」のことではなく、心の問題であった。 さて、それでは、最後に、短く、しかし、今日一番大切なことをご一緒に考えたい。 C. それでは、ここで言う「忠実」とはどういう意味か? 簡単に触れたい。 Ⅱ.それは、なぜ、ここに記されている5タラントのしもべと2タラントのしもべは、こんなに、「忠実」に、言い換える なら「忠誠心」を尽くして、この主人に、ひいては神様に仕えることができたのか?の問題である。 A. それは、一言で言うなら、彼らには、「主人への愛の信頼」「神への愛の信頼」があったからである。 3 1.それはどこで分かるか? 第一に、彼らの取った行動から分かる。 (1)5タラントのしもべはどうしたか? 16節「5タラント預かった者は、すぐに行って、 それで商売をして、・・・・」 ●「すぐに行って」:商売をするには早過ぎると思われるほどの積極性が感じられる。 ●それは、彼らの中に、信頼して託された主人への感謝と喜び、期待に応えたい興奮。 更には、もっと深いところに主人への愛と安心とも言うべき信頼があったからである。 (2)17 節を見ると、2 タラントのしもべも同じだったとある。 (3)二人が、主人に対してできることにおいては雲泥の差があったが、どちらも等しく主人 に対して忠実、等しい 100%の忠誠心をもって仕えたのは、主人に対して、満腔の愛の 信頼があったからである。 (4)こんなに勇んですぐに出て行った背後には、一生懸命やりさえすれば、たとい失敗する ようなことがあっても、受け入れてもらえると言う安心感・愛されている信頼があった。 2.それはどこで分かるか? それは、第二に、1 タラントのしもべとの比較から分かる。 (1)1 タラントのしもべは、なぜ他のしもべ達のように喜びと祝福の中に入れなかったの か? 或いは、入れてもらえなかったのか? ●彼に能力が足りなかったからではない。彼がもし彼の能力をほかのしもべたちと同様に 100%使ってもう 1 タラントもうけていたら、彼は、「良い、忠実なしもべ」として、 皆と同じ喜びと祝福にあずかれたはずである。 ●また、彼が失敗したからでもない。問題は失敗さえもしなかったことである。即ち、 ●主人に対して忠誠を尽くすべく与えられたものを、結果を恐れて、活用も運用もしよう とせず、ただ畑に隠しておいたからである。 (2)それではなぜ、彼は他のしもべたちのように、「すぐに出て行って」と行動できなかった のか? その理由を彼は 24-25 節で説明している。「・・・・・」と。 ●それは、彼の主人に対する見方であった。 ●彼は、主人を愛の対象としても、信頼の対象としても見ることができなかった。むしろ、 主人をケチで、守銭奴的な、冷たい非情な人物としてしか見れなかったのである。 ●そのような見方は、他の二人のしもべたちのそれとは考えられないほどかけ離れていた。 ●1 タラントのしもべの、そのような僻んだ、曲がった見方、即ち、主人を信頼の対称と 見れなかったことが、彼の人生を他の二人のとは全く違ったものに変えたのである。 3.5 タラント、2 タラントのしもべたちのうち、特に、2 タラントのしもべは、1 タラントの しもべとは、賜物がほとんど同じ、非常に近かった。 (1)それゆえに 1 タラントのしもべのように僻んで主人を批判的に見て、自分の賜物に関し ても消極的に考え、同様に畑に隠しておいてもおかしくなかった。 (2)しかし、2 タラントのしもべが、1 タラントのしもべとは全く違う、忠実なしもべとし ての道を歩めたのは、2タラントのしもべが、主人を信頼できるお方と見れたからである。 1.「EQこころの知能指数」(Emotional Intelligence)というダニエル・コールマン(Daniel Goleman)と言う人が書いた本がある。 ●EQとは、どのくらい人間関係を上手に作り上げ、やっていけるかの能力のことである。 ●人々は、人生の成功のために知能指数IQの高さを求めるが、EQは求めない。でもEQ が低ければ、たといIQが高くても人生で成功することは難しい。 ●そして、そのEQ能力の基礎は、母親がまだ乳をやっている生後 2-3 ヶ月から、主に母 親との関係から始まる。 ●幼い日に、しっかりとした親、特に母親との関係、この人は私を愛している、信頼できる 人であると知っているところ、その安心感から、すべての健全な人間関係の構築が始まる。 ●これがこの本の主旨・主張である 2.それは、丁度、孔子が論語の中で、「信なくば立たず」と言ったように、信頼関係がなければ、 物事は、社会は、国家は成り立たないという教えに通じる。 B. 誰かの愛を信頼できる、或いは、信頼できる人を持つことが、人生の祝福と成功の原点、出発点である。 4 3.即ち、すべての人は、人生において、その愛において信頼できる人をもたなければならない、 決して真の幸せを経験することはできない。 4.しかし、同時に私たちは皆知っている。人間のそのような関係には限界があることを。人間 の世界に完全な信頼関係を見出すことは不可能である。 5.それでは、私たちは、どこにそのような完全な愛における信頼関係を見出すのか? 聖書は 言う、「それは、神様との関係の中である」と。 (1)この譬話から言うなら、それは、この主人の中にである。 (2)それが、5 タラント、特に 2 タラントのしもべが成功した理由である。 ●「この人は私を愛している」という信頼感のゆえに、2 タラントのしもべは、5 タラント のしもべと比べて僻みや妬みにエネルギーを奪われなかった。 ●同時に、この信頼関係のゆえに、1 タラントのしもべと一緒になって、やる気をなくし て、「引きこもり」組みになることもなかった。 (3)この主人への信頼感の欠如こそが、正に 1 タラントのしもべが失敗した理由である。 4.この主人、即ち、神様への「信頼」感こそが、 (1)この物語の中でのように、人生に不公平を感じ、不合理・不条理の扱いや処遇のなかで、 私たちに、喜んで、感謝をもって、「すぐに行って」それで商売をする、前向きで積極的人 生の力を与えるのである。 (2)それは、私たちが様々な苦難、思わない苦境を通るときも同じである。 (3)神様の愛に対する信頼感こそが、私たちに力を与えるのである。 結 論 ●一つのお話をもって、メッセージを閉じたい。 ●シカゴにある学校の若い教授の話。奥さんとの間に小さな男の子が二人いた。働きづめの奥さんに久 しぶりに「たまには実家で羽を伸ばしてきたら。子供たちは僕がその間みるから」と無理やりに奥さん を実家に帰した。その休暇を終えて、愈々奥さんがオーヘア空港に戻るときが来た。お父さんも、二 人の子供たちも、お母さんが、妻が恋しくて、待ちきれない心を持って飛行場に迎えに行った。もう 少しで空港に着くというとき、車から飛行機が空港に降りて行くのが見えた。「あれお母さんの乗って いる飛行機かね」と楽しみにしながら、空港のゲートに急いだ。そのとき、向こうから救急用の担架で 人が運ばれてくるのが見えた。そのとき、お父さんの目に、その担架にぶら下げてある見慣れたバッ グが飛び込んで来た。すぐに分かった。妻のものだった。実は、その飛行機が飛行場に着く、ほんの 30 分ほど前に、心臓発作を起こしたのであった。今まで一度もそのような兆候はなかった。すぐに病 院に運ばれた。しかし、彼女は再び帰ることはなかった。その妻の急死は受け入れ難いものであった。 たくさんの友人、知人が彼を慰めようと、彼を訪ね、声をかけ、手紙を書き、電話をした。しかし、 彼は後にある集会でこう報告した。「みなさん、ありがとうございました。でも、本当の気持ちを告白 させてください。それらは、私を本当に支えることはできませんでした。私をあの悲しみの中で、何 でこんなことが私たちに起こるのかという苦しみの中で、私を支えることができたのは、神様の人格 への信頼以外何もありませんでした。」と。 ●そして、その神への信頼、神の愛への信頼の中心は、十字架のご愛そのものである。ローマ 8 章 32 節「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒 にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」。アーメン 5
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