講座「ところ学のすすめ」 受講記録 グループ名 記録者

グループ名
年月日時間
講師名
受講者
講座内容
講座「ところ学のすすめ」 受講記録
記録者
穂坂 治
C:所沢の伝統と暮らしコース
平成26年11月30日(日) 13:30~16:00
大館 勝治 先生
赤坂、石井、石附、鈴木、相馬、針生、穂坂
玉井(A)、長田(B)、藤脇(B)、齋藤(B)、佐久間(B)
計12名
(配布資料:三富新田の開拓、雑木林に生かされた暮らし)
三富(上富、中富、下富:現在の所沢市富岡地区から三芳町上富にわたる区域)は、まぐさばやか
やが生い茂り、原野でやせた土地だった。
江戸時代に開発がすすめられた。
三富新田開発は1694 年から1699 年にかけて当時の川越城主柳沢吉保(1658~1714)が、家老
の曾根権太夫に命じて行ったものである。
武蔵野台地の原野で水が乏しくなかなか開発の進まない土地であった。
吉保に命じられた曾根権太夫は、計画的に開発を進め、その内容は、4 間(7.2m)と6 間(10.9m)
の道路を縦横に造り、この道路に面して間口40 間(72m)奥行き375 間(681m)面積5町歩(約5ヘ
クタール)の短冊状の地を1戸分として区割りした。
これを道路側から宅地.耕作地.山林の順に区切り1 戸ごとに耕作道を畑の中央につけ、その畦
には「卯木(うつぎ)」を植えて境界とした。
現在国土調査が行われ、境界等も確定しているが、江戸時代より土地の境界に関しては他の地
域より明白に示されていたものと推察される。
埼玉県における境界標は、新田開発の影響からか不明ですが、ウツギ、茶の木、が多く見られ、
雑木林の中ではヒノキ、スギ等が見られる。また非常に区別が難しいが、ウシコロシ(牛殺し)(ク
ロツバラの別名)を山林の境界木としているところもある。
感想
三富新田が、世界農業遺産になるか???
相続の問題や、工場の誘致など、問題がある。
循環型農業
大麦の殻+くず(山から掃いてきた落ち葉:秩父では「しば」という)+カイコのふん、を堆肥として
利用した。
日本は、照葉樹林文化で、従来、樫など、葉が落ちないものが多かった。
カシ、ヒノキ、スギ、ケヤキ、茶を植えた。
川越藩が、『ナラ・クヌギを植えろ』と指導した。
当時の農民が「勝手に」考え出したわけではない。
水がないため、柳瀬川まで水をくみに行った。
サトヤマ
本来は、「ヤマ」とだけ言った。
ジンダンボウ(どんぐり=クヌギの実)は、大舘先生が小学生のころ、学校へ持っていき、あく抜き
をしてもらい、粉にして、食べた。
ヒガンバナは、モグラやネズミを近づかせないために植えた。
本来の「武蔵野」といわれる雑木林では、7年~10年くらいで、ナラ・クヌギは切られていた。
堆肥のほか、炭にも活用した。
※炭は、所沢では記録はなく、マキが利用されていた。秩父では炭焼きの記録がある。
燃料
利根川などでは(ヤマがないため)、嵐で流れてきた材木を、濁流に飛び込んで、拾っていた。
それほど、燃料は貴重だった。
現在は「雑木林」は、暗く、人を入れない場所となってしまった。
ヤマが近くにあると、いろんな勉強ができた。
子どもは、ヤマで遊んですごした。
緑を守るのは、健康にも、これからの子ども達にもいいことだ。
家庭菜園始めた頃、農家に行ったら「ヤマ」という言葉を聞いた。
手入れのされていない雑木林が多い。
下草を刈らないと、風が通らない。
「ヤマ」が身近でなくなっている。
近くにあれば、行ってみたい。