東南アジアに「ハマる」

1
第
回
東南アジアに「ハマる」
イラスト・題字:長峯亜里
「東南アジア」とかけて、
「地球の 7 割を覆う液体」
と解く、その心は……(本稿末尾へ)
世界をバランスよく見たい
マルコス疑惑の衝撃
大学卒業間近の 1986 年2月、フィリピンの民
衆革命でマルコス政権が崩壊し、日本の ODA が
読者の中には東南アジア全部や特定の国につい
マルコス一族の私腹を肥やしていたのではないか
て、「大好き」
「ファン」
「通」の方もいるだろう。
という疑惑が瞬く間に表面化。その後の日本の
気がつくと、私は 30 年近くにわたりアジアに
ODA 改革を促した一大事である。その疑惑に関
どっぷり浸かってきた。東アジアや南西アジアも
する国会やマスコミなどへの対応を始めたばかり
経験したが、
最も肌に合っていたのは東南アジア。
の総務部に、幸か不幸か配属となる。職場にはピ
生粋の日本人だが、
生活環境の影響を受けたのか、
リピリとした空気が張り詰め、新人研修を受けら
南洋チック(=エキゾチック?)な風貌になって
れるような雰囲気ではなかった。社会人初日から、
しまったようだ。日本人からも外国人からも不詳
夜中過ぎのタクシー帰宅や、オフィス泊まり込み
な「東南アジア人」と見られることが多い。さり
の日々が3カ月ほど続く。体力には自信があった
とて、決して悪い気はしない。
ので全く苦にはならない。だが大学出たての青二
社会人になるまでは、アジア志向を抱いていた
わけではない。小学生の頃から、当時の大部分の
ひ
才には、かなり衝撃的なアジアとの遭遇だった。
戦後アジアの開発独裁を象徴する政治家の1人
ちょうらく
子どもと同様に米国に惹かれ、高校時代は交換留
が凋 落する様を目のあたりにし、ODA や開発に
学生としてウィスコンシン州で生活をする貴重な
ついて否応なしに多様な角度から考えるように
体験をした。
「いつか欧米で仕事を」
との夢も抱き、
なった。ちなみに、この時に大統領に就任したの
欧州の言語もいくつか学んでいた。
が、今のフィリピン大統領であるベニグノ・アキ
だが大学を卒業して最初に就いたのは、発展途
ノ3世の母親、コラソン・アキノだ。
上国のインフラ・プロジェクトに円借款を供与す
疑惑騒動への対応が一段落した後、広報や研修
る政府開発援助(ODA)の仕事だ。当時の自分は
と、役員・部長クラスの会議議事録作成を担当す
知識も意識も欧米先進国に偏っていたので、世界
ることになり、途上国を中心に世界を広く眺める
をバランスよく見たいと何となく思ったのと、大
好機を得た。若造としては、格好の OJT だった。
好きなスペイン語が使える中南米で仕事ができる
新人研修の大部分は逃したが、社会人1年目の修
かも、との淡い期待も抱いていた。
練は貴重な経験だった。大いに感謝!
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2015年1/2月合併号