Title ドストエフスキイとレスコフ : その関わりについての覚 - HERMES-IR

Title
Author(s)
Citation
Issue Date
Type
ドストエフスキイとレスコフ : その関わりについての覚
書
岩浅, 武久
一橋論叢, 87(6): 785-794
1982-06-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/13044
Right
Hitotsubashi University Repository
(99)研究ノート
ドストエフスキイとレスコ
岩 浅
ーその関わりについての覚書−
はじめに
武 久
フ目ードル・ドストエフスキイ︵一八二一−一八八一︶と二
にはプリフリトクードワが、一九七五年にはブィドサェッカヤ
が、それぞれ﹁ドストエ7スキイとレスコフ﹂と題する論文を
︵伍︶
発表している。また一八八○年代におけるレスコフとドストエ
︵7︶
フスキイの関係を見るうえでは、ボガエフスカヤの論文も見落
とせない。ボガエフスカヤは未発表資料等を合めて検討するこ
とにより、主としてドストエフスキイ死後のレスコフの発言に
両作家の関係について重要な指摘をおこなっているトローイッ
的をしぽって、これを紹介している。そのほか、部分的ながら
︵昌︶
に加えれぱ、回シヤおよぴソ連における研究のほぼすべてをあ
キイとストリャ回ーワの著書、そして両作家の関係についての
︵o︶
諸研究を備鰍して研究課題を整理したチューホワの論文をそれ
フの関係を間い直すために、まず両者がたがいに相手を意識し
らためてロシヤ文学の文脈のなかでドストエフスキイとレスコ
ておこなった発言などの事実関係にしぼって光を当ててみたい。
げたことになる。本稿では、こうした研究に助けられつつ、あ
われている。レスコフに関する最初のモノグラフィー的批評を
両作家の比較をおこなうときに、両者と他の同時代作家の諸作
〇ライ・レスコフ︵一八三一−一八九五︶という二人のロシャ
公にしたヴォルインスキイをはじめとして、作家レスコフの
作家を比較する試みは、すでに幾人かの研究者によっておこな
息子アンドレイ・レスコフの評伝﹃ニコライ・セミ目ーノヴィ
品の詳細にわたる検討がその出発点になるぺきことはよく承知
^2︶ ︵3︶
︵1︶
チ・レスコフ﹄においても、グロスマンの著作でも、すでに両
︵ 4 ︺
者の関係に触れられており、ドルーゴフの著書にも、わずかな
え書きである。
しているが、本稿は、そうした予備作業のひとつとしてのおぽ
がらこれに関する指摘があるが、両者の本楕的な比較研究はブ
︵5︶
イノグラードフの著作︵一九六一︶ーを待たねぱならなかった。
う。レスコフのすぐれた小説﹃ムツェンスク郡のマクペス夫
最初に一八六〇年代における両作家の関係に目を向けてみよ
ヴィノグラードフは、とくに両作家の創作方法やスタィルの基
争に光を当てた。ヴィノグラードフのあと十年を経て、逆に両
人﹄がドストエフスキイ兄弟の雑誌﹃エポーハ﹄︵一八六五年
盤の違いに目を注ぎ、その視点から両作家の一八七〇年代の論
作家の共通点に光を当てようとした論文が登場し、一九七一年
785
フ
第六号 (ユ00)
第八十七巻
一橋論叢
シャの移住昆と政治経済委員会について﹂という論文を寄せ、
スコフはすでに一八六一年の﹃ヴレーミャ﹄誌十二月号に﹁口
しかし両者の関係はさらに数年をさかのぼることができる。レ
一月号︶に掲載されたということは比較的よく知られている。
いる。レスコフはここで医者の立場と待遇の改善を呼ぴかけ
しではやってゆけないでいる状態などが、暗い色調で描かれて
れて治療や研究に専念できず、また報酬が少ないために賄賂な
感を抱き、医療も受けずに死んでゆぐ有様、医者が雑務に追わ
もので、ここでは、一般民衆が死亡率の高い病院や医者に不信
察医﹂の論旨にそって、あらためてロシヤの医療問題を論じた
︵10︶
さらに翌六二年二月号には﹁国民の健康問題とロシヤの医者階
︵1 1 ︺
エワ女史は、﹃ヴレーミャ﹄誌でのこうした問題のとり上げか
の日々をもっぱらドストエフスキイ研究に打ちこんだネチャー
ているのである。この医療間題は、同じ年の五月号、翌一八六
︵旭︶
二年九月号の﹃ヴレーミャ﹄誌でもとり上げられている。晩年
級の利益﹂という論文を寄せている。レスコフが文筆活動を開
その翌年ないし翌々年、すなわちレスコフがベテルブルグに移
始したのは一八六〇年のことで、これらの論文が書かれたのは、
レーミヤ﹄九月号に声︸の署名で掲載された﹁植民問題﹂
り住んで一年足らずの時期のことである。前者の論文は、﹃ヴ
︵ u ︶
に掲鮫されるにいたった経緯は明らかでないが、レス目フ自身
︵蛆︺
が論文のなかで、これを﹁手紙﹂と呼んでいることなどから判
体的かつ肯定的に述ぺられている。この論文が﹃ヴレーミャ﹄
問魑をめぐる討論への反省とともにシペリヤ移住民の問題が具
れており、ことに一八六二年の二月号に掲載された﹃死の家の
る。おそらくその指摘は正しい。ネチャーエワはさらに、同じ
の問題に特別の注意を払わずにいられなかったのだと述べてい
し、貧民病院の医者の家庭に育ったドストエフスキイ兄弟はこ
トエフスキイにとってとくに身近なものであったことを指摘
断すると、これは投稿形式で編集部へ寄せられた論文であるか
記録﹄第二部の第二章、第三章︵﹁病院﹂︶のなかで、ほかなら
︵π︶
ぬこの問題がとり上げられていることを指摘している。ネチャ
たに触れて、医者と民衆の相互関係のテーマがこの時期のドス
と思われる。ドストエ7スキイは編集者の脚注のかたちでこの
という論文に対する論評として書かれたもので、ここではレス
諭文を評個し、ロシヤの植民問屈吹ついて、この分野に詳しい
て、こうした事実を並列的に記述しているにすぎないが、ドス
ーエワは、当時のドストエフスーキイの関心の在処の間題とし
コフ自身も参加したロシヤ地理協会・政治経済委員会でのこの
人達の執筆を歓迎すると述ぺている。この脚注の言葉の背後に
とは誤りではないだろう。後者の論文は、レスコフがすでに一
レーミャ﹄誌の同じ号に掲載されているという点に注目せずに
しては、レスコフの論文と﹃死の家の記録﹄の該当個所が﹃ヴ
トエフスキイとレスコフの関係の追求を課題とするわれわれと
この時期の﹃ヴレーミャ﹄誌に小説﹃死の家の記録﹄が連鮫さ
︵旭︺
シベリヤ流刑体験者としてのドストエフスキイの視線を見るこ
の医者について数言﹂﹁ロシヤの警察握について﹂﹁ロシヤの警
八六〇年にキエフの新聞﹃現代医学﹄に執筆した論文﹁徴兵局
786
(101)研究ノ■ト
︵朋︶
否かをたずね、もしも採用されないならぱ、それを返却してく
に対するレスコフの関心の深さを物語っている。その原稿は四
れるようにと頼んでいる。こうした経緯は、ドストエフスキイ
はいられない。つまり﹃死の家の記録﹄の文脈を辿るとき、医
療間題に対する両者の共通の関心という枠をこえて、明らかに
月三十日にレスコフに返却されたとのことだが、原稿の内容に
編集者ドストエフスキイのレスコフ論文に対する反応をそこに
︵珊︶
ついては不明のままである。
読みとることができる。このことは、かりに﹃死の家の記録﹄
に話を限定するにせよ︵もっとも、筆者はそうした限定の必要
ーリエフ等の勧めにしたがって、ストラーホフ経由で﹃わが郡
レスコフは、当時すでに故人となっていたアポロゾ・グリゴ
のマクペス夫人﹄の原稿を編集部へ送り、これが早速﹃エポー
わる問題を提出していると言えよう。
なって、リーネフあての手紙のなかで、小説﹃ムツェンスク郡
性を認めないが︶、ドストエフスキイの創作方法そのものに関
ここから二人の関係は一八六五年の﹃エポーハ﹄誌への小説
︵旭︶
﹃わが郡のマクベス夫人﹄の掲繊へと続くわけだが、この間に
のマクベス夫人﹄の監獄生活の描写は、現場を観察することな
ハ﹄の一月号に掲載された。レスコフは、のちに一八八八年に
を示す資料は見当たらないにしても、二人にとって相手をつよ
両作家がたがいに相手に関して直接的な言及をおこなったこと
く、いわぱ想像で書いたものだが、これについてドストエフス
ざまな層の女性像を小説に描いてそれを﹃エポーハ﹄誌に提供
えている。レスコフは、当時この作品のほかにもロシヤのさま
︵別︶
キイは現場がじつに正確に再現されていると見ていたことを伝
く意識する機会はいくつかあったと思われる。たとえぱ一八六
︵㎎︶
二年五月末のペテルブルグの火事にまつわるレスコフの筆禍事
して結局検閲当局の許可がおりなかったという体験をもつドス
件は、この火事をめぐる論文を﹃ヴレーミャ﹄誌に載せようと
するプランを持っており、﹃わが郡のマクベス夫人﹄はその第
︵蝸︶
一弾であることをストラーホフあての手紙のなかで述ぺている。
︵別︺
トエフスキイにとって無関心ではいられなかったであろう。ま
ランは大いに実現可能かと恩われたが、しかし結局のところ、
この作品に対するドストエフスキイの反応からすれぱ、そのプ
それは実現されなかった。ドストエフスキイは、レスコフの再
たドストニフスキイの最初の外国旅行のあと、レスコフが旅行
経路こそちがえ、数力月のずれでバリに滞在し、同じくドストェ
︵別︶
フスキイと数カ月のずれでその旅行記録を発表しているという
三にわたる催促にもかかわらず、この作品の原稿料を生涯つい
にひとつの溝が生じることになるのである。
に支払わず、それが原因でドストエフスキイとレスコフの関係
ざるを得ない対象であり続けたと見るのが自然だろう。さらに
レスコフは、一八六三年四月︵つまりパリからの帰国後まも。な
事実を考えれぱ・レスコフにとってドストエフスキイが意識せ
い時期︶に、作家の兄ミハイル・ドストエフスキイに手紙を送
り、自分の原稿がドストエフスキイ兄弟の雑誌に採用されるか
78?
第六号 (102)
第八十七巻
一橋論叢
︵囲︶
と、レスコフはドストエフスキイのそうした態度に一種の狡滑
うと努めていたと回想している。これは、その頃に発表された
ドストエフスキイの書簡を読んだ感想でもあり、文面から見る
このドストエフスキイの手紙が書かれた一八七一年から一八七
コフ評価にそのような二重性があったのだろうか。それとも、
三年の論争にいたるまでの二年間にドストエフスキイのレスコ
さを見ていたようだが、実際のところドストエフスキイのレス
フスキイがマイコフにあてた手紙︵一八七一・一・一八︶に触
れた時期だと言うことができる。それは一八七三年の両者の論
れておかねぱならない。ドストエフスキイは、四年余りにわた
フ評価が変化したと見るべきだろうか。
記﹄の﹁仮装人物﹂の章に克明に読みとることができる。しか
一八七三年の二人の論争は、ドストエフスキイの﹃作家の日
ラジダニン﹄誌第四号に、レスコフの﹃僧院の人ぴと﹄につい
しそれに先立ってドストエフスキイは、同じ一八七三年の﹃グ
コフの﹃封印された天使﹄を批評した﹁受難の顔﹂という文章
ての匿名書評を書き、さらに﹃作家の日記﹄第七章には、レス
フの﹃いがみ合い﹄に触れて、﹁でたらめが多く、わけのわか
らないことが多くて、まるで月世界の出来事のようです﹂と書
これをドストエフスキイの筆になるものと判定したのはヴィノ
を書いている。まず﹁僧院の人ぴと﹂についての匿名書評だが、
ヒリズムが死滅しても、この人物は永遠の記憶に残るでし上う。
︵囲︶
これは天才的です﹂とまで言い切っている。そに続いてドスト
︵野︶
エフスキイは手紙のなかで﹁わが文学におけるステブニツキイ
を筆者確定の論拠としている。この匿名書評でドストエフスキ
意識が当時のドストエフスキイの他の文章と共通していること
果、この文章の語彙の用いかたがドストエフスキイの文体に特
グヲードフである。ヴィノグラードフはテキストを分析した縞
︵5︶
の運命は驚くべきものです。ステブニツキイのような現象は、
んか﹂と述ぺている。レスコフは一八八四年の手紙のなかでこ
く評価する反画、テルモシ目ーノフ、ピジューキナなど、副次
︵㎎︶
的人物が作晶中の欠点に在っていることを指摘している。しか
イは、司祭長トゥベローゾフのタイプが創り出されたことを高
について、個人酌な書摘では貰讃しながら、田刷物で壮けなそ
のドストエフスキイの感想に触れて、ドストエフスキイが自分
有のものであることをつきとめ、さらにこの書評の姿勢や問題
批判的かつもう少しまじめに解明する価値があるではありませ
確なものはなかったと述ぺ、さらに﹁たとえ六〇年代初頭のニ
コソクの描写を絶讃して、ゴーゴリにもあれ以上に典型的で正
きながらも、そこに描かれた個々のタイプ、なかでもブァンス
なり合う時期に同じ﹃ロシヤ報知﹄誌に連載されていたレスコ
ストエフスキイは、﹃ロシヤ報知﹄誌への﹃悪霊﹄の掲載と重
紙でレスコフの長篇﹃いがみ合い﹄の読後感を書いている。ド
る外国滞在の最後の年の一月にドレスデンから投函したこの手
争を指して言うのだが、その論争に話を移す前に、ドストエ
−一八七〇年代は、二人の対照的な発言がもっと鮮明にあらわ
皿
788
(103) {珊3宅ノート
しこれは、全体として見れぱ、﹃僧院の人ぴと﹄に対する好意
は、 ﹃ロシヤ報知﹄誌からも検閲およぴ文芸上の理菌で拒否
不採用になり、その後作者の手に返却された。しかもこの作品
ねぱならなかった。ドストエフスキイがここで﹃魅せられた旅
されて、緒局﹃ロシヤ世界﹄紙上に十八回にわたって掲載され
的な批評だと言うことができる。
フスキイはこのなかで、﹃封印された天使﹄の、イコンをめぐ
クペス夫人﹄の原稿料未払いなどの事情があったにしても、ド
人﹄の掲載を拒否したという事実は、そのうらに﹃わが郡のマ
つぎに﹃作家の日記﹄第七章の﹁受難の顔﹂だが、ドストエ
る分離派教徒達とイギリス人とのやりとりの場面の叙述などを
ストエフスキイとレスコフの文学を考えるうえで、さらに深く
賞讃しながらも、その一方で、イコンから封印がはがれていた
という寄跡を含理的に説明しようと作者が焦り、それによづて
レスコフの論争の背最として、少なくとも以上のことがらをふ
考察されねぱならない。一八七三年四月のドストエフスキイと
まえておかねぱなるまい。論争の時間的な経過をふりかえるな
小説の真実性が失われたことを指摘している。ドストエフスキ
が、奇跡の種が明らかになったあとも正教にとどまったという
イの指摘はもうともなもので、奇跡を見て改宗した分離派教徒
という署名で編集部あての書簡﹁聖歌隊員の制服について﹂が
らぱ、およそつぎのとおりである。
フサoームンチク
詰の展開には多少の無理がある。だがこの文章の後半を読むと、
ドストエフスキイの視線は、もはやレスコフの小説摘写にでは
まず﹃ロシヤ世界﹄紙第八七号︵四月四日︶に﹁読経者﹂
トェフスキイの誤りを指摘している。ドストエフスキイが画家
関して﹂という文章に見られる聖歌隊員の服装についてのドス
掲載された。これは、﹃グラジダニン﹄誌に載った﹁展覧会に
︵肌︶
マイコフあての手紙で書いたレスコフヘの直接的な関心はすで
ているのである。つまりここでは、かつてドストエフスキイが
なく、むしろ当時のロシヤの主教の役割や僧侶の状態に注がれ
に薄れており、レスコフという現象は解明する価値があると述
マコフスキイの描いた読経者の絵に触れて、﹁すぺての聖歌隊
員はこのような制服を礼拝のときのみ身につけており、犬音か
ぺた手紙の熱意は、少なくとも表面上はドストエフスキイから
姿を消している。
シヤ世界﹄紙の記事は、この服装はずっと後になってポーラン
ドから取り入れられた借り物であり、大昔にも家長時代にも、
ら、家長時代からそうされてきた﹂と書いたのに対して、﹃回
七三年三月のメシチェルスキイあての手紙で明らかなように、
聖歌隊員は、それとちがった長い黒の上衣を着ていたのだと説
ドストエフスキイのレスコフ評価の変化︵あるいは評価の複
代表作のひとつとも見られる﹃魅せられた旅人﹄の原稿をメシ
る攻撃文と言ってよい性質の記事である。
明する。文章のスタイルからすれぱ・ドストエフスキイに対す
雑さ︶を示すもうひとつのでき.ことがある。レスコフは、一八
チェルスキイ経由でドストェフスキイ編集の﹃グラジダニン﹄
︵ヨo︶
誌に送っている。しかしこの原稿はドストエフスキイの判断で
oU
78
第六号 (104)
第八十七巻
一橘論叢
スキイの双方にとって重要な指摘を含んでいたのではないだろ
ーリンよりも、これを掲載した編集者ドストエフスキイが攻撃
うのが、この記事の内容である。しかしここでも、作者のネド
中の寺男が歌ったような替え歌は実際には歌われていないとい
シヤの修道院にはいることができるというのは誤りであり、作
正確にとらえられた共通の理念なのだ﹂と書いたうえで、ネド
なく、さまざまの類似した生活現象のなかからするどく洞察し、
である。ドストユフスキイは﹁芸術の課趨は風俗の偶然性では
文章のなかで、かなり真面目にレスコフ批判を展開しているの
かに語っている。それに対してドストエフスキイの方は、この
婆勢は、風俗というものに対するレスコフの視線の一端をたし
よ、修道院の規則にせよ、そうした事実に執着するレスコフの
、 、
もできる。しかし、じつはこの論争は、レスコフ、ドストエフ
か。レスコフがペンネームを使って書いたドストエフスキイ攻
章で、皮肉を散りぱめてレスコフを虚仮にしていると読むこと
ラジダニン﹄誌第十五号∼十六号に載ったネドーリンの小説
職者べ1・カストルスキイ﹂というベンネームの記事﹁妻帯修
︵舶︶
適士に関する独身者的見解﹂が掲峨された。この記事は、﹃グ
撃の文章は余りに単純かとも思われるが、聖歌隊員の服装にせ
ヤ ’ “
^ヴ
っいで﹃回シヤ世界﹄紙第一〇三号︵四月二十三日︶に﹁聖
﹁寺男。友人伸間のあいだでの話。ネドiリン氏作﹂の描写に
︵舶︺
の対象にされている。
ーリン氏の﹃寺男﹄は風俗描写をめざすものではないと述ぺて
見られる修道院規則に関する誤りを指摘している。妻帯者がロ
装人物﹂︵﹃グラジダニン﹄誌第十八号、四月三十日︶でその反
それに対してドストエフスキイは、﹃作家の日記﹄第十章﹁仮
をまじえながら、その領域においてもネドーリン氏の状況が有
いうレスコフ氏の専門領域を侵すつもりはないのだとの皮肉
り得たことを主張し、論争相手には人間の心についての知識が
いる。またドストエフスキイはこの文章で、僧侶風俗の描写と
の手になるものであることをはっきりと見抜いたうえで、逆に
論を展開している。ドストエフスキイは、﹃ロシヤ世界﹄紙に
わざと回りくどい方法を用いて、皮肉たっぷりにレスコフを攻
方法そのものに関わる本質的な議論に話を進めて、レスコフの
欠けているのだと断定する。さらにドストエフスキイは、創作・
異なったペンネームで書かれた二つの文章がいずれもレスコフ
撃している。この論争にいたる過程を知っているわれわれにし
名前を持ち出さないままに︵しかし明らかにレスコフの小説を
てみれぱ、こ・れが呉体的な諭点をめぐっての実りある論争とい
うよりも、むしろ双方が悪口を投げ合う喧嘩の様相を呈してい
あると述ぺ、実際の商人や兵隊は一人としてそんな話しかたを
しないと主張する。典型的杢言葉として作家がノートに書きと
念頭に置いて︶、登場人物がエッセンスで話をするのは偽物で
めるような言葉は、十語のうちでひとこと言われるくらいのも
る理由は理解できる。ことにレスコフにとっ・ては、自作の﹃魅
腹にすえかねる出来事であったにちがいなく、嘘曄にかけては
せられた旅人﹄がドストエ7スキイによって没にされたことは
役者が一枚上手のドストエフスキイが、﹁仮装人物﹂という文
790
(105) 研究ノ・ト
ので、書きとめた特徴ある言葉ぱかりを人物にし牛べらせるや
この論争で見るかぎり、両作家の見解の相違は決定的なもの
り長生きすると考えていることを伝えている。
︵胆︶
りかただと、緒果的に真実から離れてしまうと主張するのであ
で、さらに一八七四年から七五年にかけてのドストエフスキイ
一読して明らかである。しかしこれは、レスコフの側から見れ
ている。﹁私は書くときに混同を恐れます。だから私の町人は
ーイノグラiドフにならって、ドストェフスキイとレスコフは、
一八七〇年代の両作家の発言からすれぱ、つまるところ、ブ
とがわかる。
れ、レ⋮⋮フよ!﹂を見ると、その反目がさらに続いていたこ
︵顯︺
■退屈にして流行おくれ■今度の筆は零落調子/落ちゆくなか
の創作ノートに書かれた寸鉄詩﹁坊主ぱかりを書き続けるのは
る。これがレスコフ文学に対する正面からの批判であることは
ぱどういうことなのだろうか。
.レスコフは、一八七〇年十一月に﹃ロシヤ報知﹄誌の編集者
リュビーモフあての手紙で言葉の典型性について語り、編集部
︵闘︺
が小説のなかの語彙を勝手に変えてしまうことに抗議している
町人ふうに話し、sを曲と菱言したり、ーと一rの区別が不明瞭な
が、さらに友人ファレソフとの会話のなかでこんなことを語っ
貴族はそのように話すのです。⋮⋮民衆語や卑俗杢言葉や気取・
術的基盤も、諸性格の心理解明の方法も、芸術的現実の分析・
評価方法も異なる任拠として位置づけるべきなのだろうか。だ
著作の性格も、芸術性の理解も、描写方法も、創作の思想的芸
でゆくならば、さらに深く両作家の文学を比較検討することの
った言い回しなど、私の仕事の多くのぺージを占める言葉は、
レ・スコフは、人ぴとが言葉のことで彼を非難するのは、自分で
私が作“上げたのではなく、百姓やインテリかぷれ、おしゃべ
︵珊︶
り屋や法律家や僧侶の間で聞きとったものなのです。﹂しかも
必要性が浮びあがってくる。
﹁ロシヤの現実はファンタスチヅクなほど矛盾だらけだ﹂と見
が両者の相違点を確認しつつ、同時に両者の共通性に目を注い
そのように書くことができないからだと述ぺ、多くの批評家か
レスコフの﹃島人たち﹄にはドストエフスキイの﹃虐げられ
︵舳︶
た人ぴと﹄の影響があることがすでに指摘されており、さらに
ファロン﹄にはとくに自信を持っていたらしく、シュピンスキ
ら人工的な文体として非難をうけた﹃夜ふかし﹄を例にあげな
︵ π ︺
がら、叙述の様式化の成果を語るのである。また﹃遺化のパン
イあての手紙でも、﹁この短篇は、私達の見ていない世界の言
スコフが、ドストエフスキイの死後に.、﹃作家の日記﹄に似た
る両者の視点についても、また両作家が描く肯定的主人公がい
︵棚︶
ずれもある種の変人であることも忘れるわけにはいかない。レ
︵鎚︶
薬を作り上げ、その風俗を研究するためとくに時間がかかりま
こと、またこの短篇はさまざまに賞讃された他の多くの作品よ
形式の文章を新聞に連載しようと考え、それを編集者スヴォー
した﹂と述ぺ、これが聖者伝でほのめかされている世界である
791
皿
第六号 (106)
リンに提案している点にも、創作にかかわる両者の姿勢の類似
フの見解で片づけることができないことは明らかだと思われる。
れねぱならないが、少なくとも、両者の関係をヴィノグラード
は、さらに両者の著作を比較検討することによって明らかにさ
︵ 蛆 ︶
キイの葬儀のあとに自分を訪ねてきた女性についての短篇
﹃量匡×只需竃.1︸彗o至.一コooα弟⋮曽↓毛s墨
︵5︶匝﹄.雲=o︷豊畠.員o3o富鼻尋匡寿臭畠二〇−o
=遣.N19き一宅9
︵4︶ 団.き.員でk﹃o回.=‘ρ自o︹宍o回lO’①2︷H国o勺’何o↓困申
目O岬H=尻芭.き■ HO卓伽
−
︵3︶自−コー︷oo⋮豊.=.O.寿o罧畠’美轟・・−畠o?9畠o・
︵2︶>﹄.寿冥畠.美轟亭工買o自竃寿臭o塞−峯1Lo寒
︵1︶ >1芦雰;⋮冥葦.=.O.自o臭畠.Oコα−一畠畠
性を見ることができないだろうか。レスコフは、ドストエフス
︵﹃クロイツェル・ソナタにちなんで﹄︶を書いたほか、レオン
チエ7がトルストイとドストエフスキイの宗教的異端性を非難
︵坐︶
したのに対して、それに反論し、さらにはドストエフスキイに
︵ 軸 ︶
献げる小説﹃貧者の群れ﹄を構想している。この小説は、結局
のところ、ドストエフスキイの言葉﹁わが民衆は信頼できる、
した並並ならぬ関心の深さがうかがわれる。
うした一連の反応を見ると、レスコフがドストエフスキイに示
︹ド一員o3o竃臭葦=ミo冥亮≡o凹完⋮‘き一岩p3p
完名⋮畠毛毒臭買雷島童8⋮⋮窒蔓︶.1ω8毛≡喬
︵6︶両−峯−ξ亭考胃⋮o睾員o胃o富︹⋮=寿冥畠1︵ス
;完毛彗昌⋮91芦一HまH一Spお伽1㎞3
それをもっともよくあらわしているのが、﹃カラマーゾフ兄
o0N1ごoo
自胃︷胃着o−苔♪岩曽一Sp−ミーHミ
=ーコ.雲ξ岬長富.員o實oω田員葦国自g彗pl∼g墨邊
マ長老の生涯における聖なる書物について﹂の章の原型をチー
︵畠o.olo﹃£匡︶一−匝⋮.一当雪↓︷胃老彗o雷ε窪o畠o
︵7︶不目−雰﹃宙畠臭豊‘工.o.so冥畠o員oso畠臭o買
Ol当9ε墨−鼻一一ミOO
=.軍9昌︷o睾申目畠︹墓■書塞富.↓昌?9葛O罧
︵8︶軍δ13畠景葦幕冥o匝・x漬o養責・きしoミ
↓.ooα.峯.一−ミω
ホン・ザドンスキイの説教からとったこと、叙述のナイープな
できる。そうした要素をレスコフの影響として見るぺきか否か
ず、個々の章をつなげてゆく第六篇の構成自体にも見ることが
二とは明白である。しかもその共通性は、叙述形式にとどまら
ている。こうした叙述の作りかたにレスコフとの共通性がある
︵岬︶
調子は修道僧パルフ戸ーニイの遍歴の書からとったことを伝え
老の言葉について、そこに聖者伝的様式化があることがバフチ
︵蝸︺
ンによって指摘されているが、作者自身も手紙のなかで、﹁ゾシ
弟﹄の第六篇﹁ロシヤの修道僧﹂である。このなかのゾシマ長
はうらはらに、さらにレスコフとの関わりを見ることができる。
一方、ドストユフスキイの姿勢にも、論争時の言葉の激しさと
1民衆は信頼に値する﹂を題銘に用いるにとどまったが、こ
第八十七巻
一橋論叢
792
(l07) 研究ノート
’ ,一
︵9︶甲軍↓套o呂.ぎ奏.、員oSo畠臭婁雪幕員冨、、回
8署窒o⋮畠8毘篶匿重蔓H召胃着畠£畠⋮.=宕昌
︵19︶ 拙論﹁レスコフの﹃バリのロシヤ人社会﹄をめぐり
のとき主として文体上の加筆訂正がおこなわれた。
冒竃暮⋮究;k毒≡甲 巾a8⋮毒β二昌勺尭o畠o
︵20︶9・鼻工・﹁ら秦ま⋮彗與当葦号着套冑昌養喀
て﹂︵﹃指﹄第三五五号∼三五七号、第三六〇号︶参照。
︵22︶ 工・O・自oo宍o国lOoα勺.oo’J↓.−o−﹂≦.−]lo㎞oo−∩↓勺.N舳H
﹁パリのロシヤ人社会﹂を発表。前掲の注︵19︶を参照。
は﹃読書文庫﹄誌一八六三年五月、六月、九月の各号に
ミャ﹄誌一八六三年二月号、三月号︶に対して、レスコフ
︵21︶ ドストエフスキイの﹃冬にしるす夏の印象﹄︵﹃ヴレー
。。9声﹂署少昌ラ崖−塞
美着墨畠、、暑而竃、、 当胃召胃毛彗耐雷昌£3回9↓.
曇二;暮so竈員鼻ω彗潟幕⋮秦号轟着gs胃﹃呂
工.ρ寿賃O墨1ξO實しON“SP豪1;
︵10︶=一〇.自何o天o里O勺︸8宍o匡o碧8自何=;;呂o目o自呂↓■
昌p記Iooひ
奏O.賢畠O⋮莞臭畠匿冨胃3冊− 暑何竃1きH♪崖P
︵u︶工・O・亭臭畠−寄︷9。毫・崔星遣毛畠焉呂
き♪富S二︷1里−昌N
⋮篶潟量︷窒8彗﹃o8畠畠蓄回ぎ8彗 暑⑭毫
︵12︶書軍.寄︷昌o香き・嚢月⋮. 暑o重ーき〇一
︵23︶=・O﹄套畠.Oo8二畠−一↓L一三.一−嚢ち、曇ひ
Ho。賢一〇︷・−1旨この論文の筆者は、当時レスコフとと
もに政治経済委員会に参加していたきミ団空δ宍畠と
︵24︶O重・≡婁一寿臭畠二員;‘;亮回¥ ω嚢き
︵”︶ ︹oα勺凹=冒ooo‘==o=崖緕=IO.自o[宍o回“ ↓.H9 ﹂≦−−
嵩♪H8ゴs勺﹂塞ls伽
恩われる。
︵13︶9﹄潟蓄一苔ぶ曇どSo1竃
︵∬︶ O童−胃芦︸一〇1=o’凹o回o錺一美くi=凹自﹂≦−﹄≦.=⇔.﹄≦.
︵14︶↓婁蓋 .
︵26︶号≡・暮§雷婁齪ーコ膏・墨、1“曇9ξ1§
岩負o宅.豊ωIM筆
1い胃
員oso雷實責、。暑o⋮、、一ξH§二亭量
︵κ︶↓彗秦一s勺L竃
︵28︶;Ω寿臭畠198.8・.㌧1−−三JH嚢一ξ一N塞
ls︸
︵η︶ ステプニツキイは初期のレスコフのペンネーム。
峯月o=臭o﹃oko£凹︶は初出では﹃わが郡のマクベス夫人﹄
︵29︶因﹄・昏彗・o豊畠−与o9何毒竃毛§=曇勺⋮
︵〃︶↓竃毒一8o−−3
︵当遣=≧買α雪冨昌雪o溝遣団︶となっていた。現在の題
s彗彗.si1胃血−呂N
︵18︶ ﹃ムツニンスク郡のマクベス夫人﹄︵自oト呂峯凹秀α宵
名に改められたのは一八六七年の作品集収録時であり、こ
793
第八十七巻一第六号 (108)
一橋論叢
︵30︶ 工一〇.自oo宍o甲Ooαマoo‘j↓・−9︹↓?ω㎞“−ω伽oo
︵31︶O目o回’Φo戻尻o冨自=団o①.==︹﹃≡o匝ooト凹宍月彗o㌔コ9自o.
室目−=宍㌔ 、︸o︹宍 = 錺 童 宮 勺 − 苔 o 0 N − H o 0 N ︸
︵32︶ ×o﹄oo↓匡而目o匡3H呂雪 o美o=凹↓o雪童o=凹x①・ω胆;⑭↓宍胆、
○国畠目月 ﹃F ス閨︹↓o勺o罧国ヰ㌧ 勺koo尻国酎 ≡国o・者 ]−op Ho0Nω
︵33︶ グ回スマンは﹃ドストエフスキイの生涯と著作﹄の中
︵39︶ 自=H伺o胆↓k口=o何=四︹白①トo↓匝9↓‘oo少 ﹂≦・’ Ho刈ポ ︹↓勺
ω8.このなかの﹁零落調子﹂ ︵宙ω農︸員竃o竃oo弟︶とい
−うのは、言うまでもなく、レスコフの小説﹃零落一族﹄
︵仰︶ 団一団一団;=o﹁℃顯トo団一﹁■ioα自而⋮與団宙,﹃o勺o↓団與=一〇〇勺=−
︵ω費︸員嘗匡黎ooト︶をもじっているのである。
ト︻o︹Ho①回︹宍国邑国 0koo戻国①=宝︹団↓o自=.﹂≦’ ]・0NH. 0Ho・
︵41︶ 両.﹄≦.コk自﹃xi;↓︸トo匝団− 員o︹H0而国︹宍国# 国 So︹宍o甲
o↓=自価卦.0HiIω山ω
主張し、ヴィノグラ﹁ドフもそのま張を引用しているが、
でこの二つの文章をレスコフの目録に加えねぱならないと
0N
竃
︵一橋大学講師︶
︵〃︶ ⇔1﹄≦1’貝OO↓OO回O天国芦コ国︹﹃冨隼↓・傘 ﹂≦・−−O舳ρ ︹−?
−oひω− o↓i■ ω山#
︵46︶ ﹄≦1靹印xH==ーコ勺oα畠砲竃匡目o0H宝宍=員oo↓o⑭匝o宍o﹃o・﹄≦・−
︵帖︶ ↓凹峯美“o↓o.σoα1αHN
︵44︶工﹄.9罵嚢竃.=−O.当。戻畠。旨⋮竃姜声
⋮尋胃毛彗二§£昌団P↓二9ξ・竃
︵ω︶ ↓芭雪美価−o↓〇一Hωα1−ωN
∼o戻畠畠・︷胃毛団.き卓一§ヅsp曇
︵42︶ =−=. 団雪トkω月戻葭曽− 員oo■oo団︹宍匡匡 ■ 自oo雰o国・
これらはいずれもブイコフが一八九〇年に作成したレスコ
フ著作目録にすでに収録されている。拙論﹁レスコフ文献
︵34︶号.き1暮§竃臭暮・暮畠・責≡§①曽塞峯ω
考﹂︵﹃言語文化﹄第十八巻︶参照。
﹃Oト.く冒O>−弔Ho㎝yコ舳勺=美一︹H?Noo阜−山0N
︵35︶ 工..O.自巾︹宍o田.Ooαo.︹o’・−↓・H9 −≦J H0血o〇一〇↓i・
Nミーミoo
︵36︶>﹄1富層畠.与⋮=而占彗芦O豪・し8♪ξ・
︵η︶ ↓o重u宍o
ミ阜1s伽
︵38︶目君⋮o戻ρ=一E苔彗臭oξ︵68胃劃喀H0.o.N
﹃■︶‘1=.O.自O︹宍O甲OOα?OO‘・−↓・]・ポOH?り阜N−ω占O
794