§56. 場所学 III:傾向としての存在、意味=方向としての実存(承前) 傾向(tendance)の理論に関しては、『創造的進化』冒頭の一節を想起すればよい。ベルク ソンはそこで、物質的対象(objets matériels)と生命体(corps vivants)を区別しているが、実 際の区別は、物理的対象と生命体の間を走っているというよりは、むしろ潜在的行動としての 知覚と、身体的行動の間を走っている。たしかに、生命体も、物質的対象同様、ある広がりを 有し、その広がりは残りの部分と結びつき、全体と連関している以上、物質全体を統治する同 一の物理化学的な諸法則に服するものである。だが、生命体は、物質に対して、諸々の現実 的・現働的な行動を遂行するべく、潜在的な行動=作用の試みとして知覚を投射する。なま の物体は、言ってみれば「知覚によって自然という生地から裁ち切り取られたもので、知覚の 鋏は行動が通るはずの道を示す点線をなぞる」のである。異質な諸部分が互いに補い合って 組み立てあい、互いに入れ子になったさまざまな機能を営む生物個体の個体性について、ベ ルクソンはこう述べている。 個体性は無数の度合いを許すもので、それは完全にはどこにも、人間においてさえ実現さ れていない。しかしだからといって、個体性に生命の固有な特徴を見ることを拒んでよいわけ ではない。[…]さて、生命の諸特性は決して完全には実現されぬもので、常に実現の途上に ある。それは、状態であるというよりむしろ傾向なのだ。そして傾向が目的を残りなく達成する のは、それに逆らう傾向が一つも残っていないときに限るのである。[…]そこでは相克する 諸傾向が常にもつれ合っている。なかんずく個体性の場合には、個体化の傾向が有機的世 界の随所にあらわれているとすれば、生殖の傾向も随処でそれと闘っている、と言ってよい。 […]してみれば、個体性は己が敵に宿を貸しているわけである。(EC, I, 505/12-13) ショーペンハウアー同様、そしてとりわけニーチェ同様、ベルクソンは個体化原理の“批判 者”(否定論者ではない)であるように思われる。個体をすでに構成されたものとして丸ごと承 認するよりはむしろ、個体化の運動そのものを捉えようと試みる立場を、さらに厳格に推し進 めようとする点において「批判者」だというのである。いわゆる「固有身体」(corps propre)が 存在しないと言おうとしているのではない。ただ、「固有身体」のその「固有性」の意味につい て厳密に問いただすのでない限り、身体論の隆盛は一時の流行で終わるであろうということ が言いたいのである。もしベルクソン哲学の中に固有身体に対するある種の懐疑(これも単 純な否定ではない)が存在するとすれば、それは、身体が彼にとって、デカルトにおけるよう に「機械」(machine)ではなく、ある「器官=機関」(organe)であり、その意味である「道具」 (instrument)であるからにほかならない。『創造的進化』のベルクソンにとって重要なのは、 諸物体間の物理的な因果関係を解明することではないし、魂と身体の結合という困難な形而 上学的問いを解決することですらない。そうではなく、身体が行動の一契機として、生命の現 働化プロセスに組み入れられているのかをプラグマティックなレベルで理解すること、そしてこ の点に関する誤解から不可避的に偽の諸問題が生じてきていると示すことこそが、『物質と 記憶』以後のベルクソンにとってきわめて重要な課題だったのである。 §57. リズム計測 III:「持続のリズム」から「生命の衝迫」へ 持続は多様な緊張の度合いによってそのリズムを刻んでいるが、これらの緊張自体は、諸 エ ラ ン ・ ヴ ィ タ ル 生命体の内にある「生命の衝迫」(pulsation de vie)すなわち「生のはずみ」の諸々の度合い 1 .... を測っている。いくら強調しても足りないことだが、「生のはずみ」は「生命」そのものではない。 ディフェレンシャル 持続のリズムが持続そのものでなく、持続と空間の錯綜した関係を示す差動装置であったよ うに(§19)、生のはずみは、生命と物質の衝突・対立・相互干渉ないし方向転換・転向などな どを示す関係概念である。生のはずみを生命と同一視し、とりわけ生命そのものとして実体 化してしまうことは、差異の哲学としてのベルクソン哲学の賭け金の全てを見失うことである。 さて、この「はずみ」の帝国は、どこまで広がっているのだろうか? 宇宙の果てまで、とベル クソンは答える。一九〇七年に刊行された第三の主著『創造的進化』において彼は実際、宇 宙全体の持続について語る意味が一つあると主張する。 宇宙は持続する。時間の本性を掘り下げるにつれて、持続とは発明を、形態の創造 (création de formes)を、絶対的に新しいものを作り上げる弛まぬ錬成を意味することがい よいよ分かってくる。〔……〕もっとも、宇宙そのものにも相反する二つの運動が区別されねば ならない。一つは「下り」、もう一つは「上り」で、前者はすっかり書き終えた巻物を広げるだけ である。〔……〕ところが後者の「上り」のほうは、成熟あるいは創造の内的作業に対応するも ので、本質的に持続する。そしてそれと切り離せない間柄の「下り」に自分のリズムを押し付 けるのである。(EC, I, 503/11) ベルクソンにとって生命の進化とは、宇宙的な持続が、その固有のリズムによって、物質の上 に刻み込む痕跡なのだ。こうして、諸事物の持続と諸生命体の間の関係について語る可能性 が開かれることになる。持続(意識)/物質、生命一般/生命の特殊個別的な顕現、「行動す ること」(agir)と「知ること」(savoir)などなどにおいて問題となっているのは、要するに、形相・ 形式・形態(forme)/質料・内容・物質(matière)の概念対ではないだろうか? 実際、ベル クソンが、この著作の中でリズムという語を用いる時は絶えず、この意味において用いている。 二つ例を挙げよう。 そうした不協和の深い原因は、埋めようのないリズムの差異に潜んでいる。生命一般は動 きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶと受け取るにすぎず、 絶えずそれに遅れている。動きはずんずん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みし ていたがる。進化一般はなるたけ直線的に進もうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。 生物は一陣の風に巻き上げられた埃の渦のようなもので、生命の大きな息吹の中に浮かん だままぐるぐると自転する。したがって生物は割合に安定していて、しばしば動かぬものの真 似までうまくやるので、私たちはついそれを進歩よりはむしろ事物として扱い、その形態の恒 久的なところすら運動を描いたものに他ならぬことを忘れてしまう。(II, 603/128) 序論において確認したことを思い起こしておけば(§13)、ベルクソン的螺旋は、生命の二つの 2 意味=方向からなっているのであった。そして、「仕事と結果の間に驚くべき不均衡 (disproportion)」、リズムの差異が生じてくるのも、まさにこれら二つの運動の間においてで あった。二つ目の例は、意識と、「認識の知性外的な素材」との間のリズムの差異、つまり「身 体と精神という現実=実在の二つのかたち(formes)」に関するものである。 そうすることでカントは新しい哲学に道を開いていたわけである。この哲学は直観の高次 の努力によって(par un effort supérieur d’intuition)、認識における知性外の素材の中に 腰を据えようとする。意識がそのような素材と合致し、それと同じリズム、同じ運動を取り入れ て、自分をかわるがわる高めたり低めたりしながら反対方向の二つの努力(deux efforts de direction inverse)を重ねてゆくなら、現実=実在の両形態、すなわち物体〔身体〕と精神は、 もはや外側から知覚されないで、内側から掴まれるのではないか。この二重の努力は私たち にもう一度、それが可能な範囲で、絶対を生きさせてくれるかもしれない。それにいずれは人 も見る通り、そうした操作の間に知性は自ら起き直り、精神の全体の中に自分を裁ち切り出 すようになるが、その際、知性認識もそのあるがままの制限されたものとして、しかしもはや 相対的ならぬものとして現れることであろう。再興されたデカルト主義に対し、カント主義が方 向を示すことができるとすれば、そのような方向がそれであった。ただしカント自らはその方 向をとらなかった。(IV, 797/357) 私たちが第一部で「内在的感性論」というベルクソンのプロジェクトとして描き出したものが想 起されるであろう。機械論は、「科学が映画的な仕方で事を運ばねばならず、その役割とは、 事物の流れのリズムを刻むことであって、そこに自らを挿入することではない」としていた(IV, 788/346)。ベルクソンの内在的感性論は、逆に、内側から、自らを挿入しつつ、自己と事物の 流れのリズムを刻むものである。 §58. ベルクソン的目的論の四つの根本特徴 繰り返しになるが、具体的な生の持続に迫るため、ベルクソンは生概念を心理学化、すな わち相互浸透化・多様体化したが、これによって個体概念(individualité)がたわめられ、傾 向(tendance)ないし個体化(individuation)概念への移行が準備される。存在するのは個 体ではなく、個体化である。存在とは傾向である(505)。もちろん、ベルクソンによる個体概念 の批判が決してその否定でないことは言うまでもない。「個体性は決して完全ではなく、どれ が個体でどれがそうでないかを述べることはしばしば困難であり、ときには不可能でもある。 それでもやはり生命は個体性の追求を歴然とあらわしており、そこには自然的に孤立し自然 的に閉じた系を構成しようとする努力がある」(EC507)。だとすれば、生の哲学が生命現象の 中心として分析すべき対象は、諸々の生物個体ではなく、個体を貫く進化の流れであり、関 わりあうべき学問分野は生理学であるよりむしろ進化論である、ということになる(511, 513)。 そこで、進化論学説と、その二つの見方としての機械論と目的論が登場するわけで、言って 3 みれば持続の哲学によるこの個体概念の批判(否定ではない)こそがベルクソンの進化論哲 学、さらには生命哲学の端緒を開くのである。 進化を分析する際に、機械論的な立場と目的論的な立場がある、とベルクソンは言う。機 械論的な立場とは、一連の物理化学現象の継起によって進化を説明しようとするものであり、 目的論的な立場とは、最初から目的を措定し、その目的との関係において進化を説明しよう とするものだ。機械論においても目的論においても現象の総体はすでにはじめから与えられ てしまっており、どちらも持続の本質であるところの予見不可能な創造性を無視している点で は同罪である、とベルクソンは指摘し、採るべき第三の道を示そうとするが、この立場はベル クソン自身示唆しているように、目的論ときわめて近い関係にある。 目的因をたてる教説は、決定的に論破されることは決してないであろう。ある形を遠ざけて も、別な形であらわれるであろう。その原理は心理的な本質のもので[Son principe, qui est d’essence psychologique]、柔軟を極めている。それは引き延ばしがきき、だからこそごく広 くもあるので、人は純粋な機械論を斥けるや否や目的論をいくらかは受け入れている始末で ある。したがって、私がこれから本書で述べるテーゼもある程度はどうしても目的論の性質を 持つことになろう。目的論から私は何をとろうとし何を捨てるつもりでいるか、これを正確に示 しておくことが重要になる(528-529)。 目的論の原理が「心理学的」なものであるとはどういうことか。その「柔軟さ」「拡張可能性」 「広がり」を理解するには、上述した「質的多様性」の内実にさらに踏み込まねばならない。 (続く) 4
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