EW クラークの New-York Evangelist 投稿記事 (その 2)

SURE: Shizuoka University REpository
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E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その2)
刀根, 直樹; 今野, 喜和人
翻訳の文化/文化の翻訳. 6, p. 75-89
2011-03-31
http://dx.doi.org/10.14945/00005753
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Eo W.ク ラー クの
ル レ yorλ Eυ αんgθ JJsf投 稿記事
(そ の 2)
刀根直樹訳・ 今野喜和人監修
は じめ に
前 号 に引 き続 き、明治初 期 の静 岡学 問所 に赴 任 した 御 雇 い 米 国人教 師 E.W.
ク ラー ク
Eυ η
(Edward Warren Clark,1849-1907)が 母 国 の 新 聞 Arθ け Иνヵ
騰 ′に送 つ た 投稿 記 事 を翻訳 す る。1の 記事 は前号 に翻 訳掲載 した 1(同
紙 1872年 2月 22日 付 け)よ りも時 間的 に前 の も ので あ るが、 そ の後 の 刀根 の調
いずれもクラークの著書 々ル απ″∠あθ
査 で新たに入手できたので掲載 した。
π′
%″
グ
%.れ ク
απ(1878)(飯 田宏訳『 日本滞在記』講談社、1967年 )の ため の材料 とな っ
た記事 で、重複 もあるが、著作 に採用 されなか つた細 かい事情 も読み取れて興
味深 い。なお、挿絵 は同書掲載 の もので ある。
1日
M9レ y術 甍 Eυ αngθJJsf第 2181号
(1872年 1月 11日 )
日本通信
〔
当記事 の寄稿者 (オ ルバニー在住 の神学博 士ル ー フ ァス・W・ クラー ク [Rufus
W.Clark]師 の ご令息)が 横浜へ航 つたのは去 る10月 のこ とである。日本か ら
の打診 に魅力を感 じた彼は、 自然科学、 フランス語、英語 を教 えるため、 化学
器具な ど様 々 なもの を携 えて 出向いたので あ った。 ところが着任 にあた つて契
約書 に署名 しよ うとした ところ、その 中 に宗教教育 を禁止す る条項 が盛 り込ま
れてい る こ とが発覚 したので ある。条項 は帝国政府 の起草 した もので、抗 議 し
て も意 味 がない と告 げられ た。 しか し彼 は何 を言われ よ うと、そ の よ うな取 り
決めに署名す ることを断 固拒否 した。そ して最終的には、 クラー ク氏 と雇い主
の大手柄 とい うことにな つた。 クラー ク氏 の勇 ま しい抗議 は実 り、信教 の 自由
が保障 されたのだ。
「男子 たるもの立つべ きときは
かの ビーチ ャー博士 が こ う述 べ たことがある。
-75-
断固 として立た ぎるべ か らず」。今回 の一件 は、文明化 とキ リス ト教 に貢献 した
とい う点 で、書 き伝 えてお くべ き事例 で ある。 日本人 の とある名士はクラー ク
氏 にこ う伝 えた とい う。「先 生は、 日本 の強固な壁 を打ち破 られた のです」。〕
横浜 にて一一 つい さっきまで、私 はある飾 り気 のない小 さな
部屋 に行 っていた。そ こが私 たちの 「教会」、外国人が集まる場所 なのだ。今 日
11月 12日 (日
)、
は私 にとつて 日本 で初 めて の聖餐式 であ り、おそ らく長 きにわた って最後 の聖
餐式 の 日とい うことにもなる。なぜな ら私 はこの先、一人 の キ リス ト教徒 もい
ない場所 に旅 立たねばな らないか らだ。式では、 中国北部 の宣教師 ヒュース ト
ン牧師 より素晴 らしい説教 を賜 つた。われ ら主 のお約束を信ず る者 は、キ リス
トの御許 にて全 き死後 の安寧 を得 るであろ う、 とい う内容 で ある。礼拝 の喜び
が増 せば増す ほど、ある感情が私 の胸 に切 々 と迫 って きた。それは、 これか ら
自分 は聖なる信者 の集 いか ら一切引き離 され、キ リス ト教徒 の絆 が もた らす心
強 さや福音 の声 を思 い焦 がれ るばか りなの だろ う、 とい う喪失 の感情である。
キ リス ト教 の国を離れ、異教 の様子 を初 めて 目にした新参者の胸 中は、なか
なか想像 して もらえな いか も しれない。異教 について長 い 間耳 にしてはいたも
のの、実際に見 るの はま った く初めての ことだった。安息 日が存在 しない どこ
ろか、十戒が記 された とい う事実 さえも無か ったかの よ うで ある。 日曜 日にも
あらゆる方向か ら労働 の音 が 聞 こえて きて、人 々の悪 しき振 る舞 いには罪 と退
廃 がはび こっている。教会 の鐘 の代わ りに、異教 の寺 の鐘 の音 が時お り聞 こえ
た。 巨大な鐘 の音 は重 々 し く長 く響 き、また一 人、偶像 にひ ざまず く者が参詣
に訪れ た こ とを知 らしめて い るか の よ うに鳴 り渡 る。教会音楽が聞 こえない代
わ りに、近 くの 中国人墓地 か らは爆竹 の音 が聞 こえてきた のだが、何 とそ こで
は死 者 の霊 を拝んでいるのである。先 日江戸 で寺院 を回 つた際 に目にした のは、
何百人 もの人間が偶像 の前 にひれ伏 して、彼 らの神 々 に祈 りを奉 げてい る様子
で あ つた。それは、私 が今まで に見 た もののなかで最 も痛ま しい光景 に映 つた。
そ して、 日本 の首都 に住 む、キ リス トの御名を聞 いた こともない大衆 の 中に立
ち入 つてみる と、 事 があま りに重 大す ぎて、現実 とは思 えな くな つて くるので
ある。 こ とによる と私 も次第 に異教 の信仰 と習俗 とに慣れ、そ の現実 の痛ま し
さを感 じな くなるか も しれない。それで もしか し、虚妄に迷 う哀れな魂 を改悛
に導 こ うとい う真剣な情熱 だ けは決 して失わない はずだ。機会 があ って 日本人
生徒向け に開 いたバ ラ師 [Jahes H.Ballagh]の バ イ ブル・クラスを見学 した
のだが、その光景 には大 いに興味 をかきたて られた。学生たちがたいへ ん真面
- 76 -
購に、集 中 して、意 欲 的
に学 んでいたか らでお碁。
11月 14日 ‐
―一先 澤プ ラ
イ ン夫 入
[Mary
●
.
珀ruy菫 ]と 私 は、宣 教 師 の
一 行 ととも に 日本 舎 /1Nさ
な 蒸 気船 を仕 立 て、 広 く
美 しい 江戸 湾 へ と繰 り畠
した 。湾 で は各 国 の総 に
行 き合 っ た。 江 戸 へ の進
入路 を監視す ゐ堡塁 [晶 り 台場 ]に は大砲 もかな りの数が据 えて■ つたがt包
│‡
囲攻撃 に持 ち こた えられそ うもなかった。 国にしてみ て驚 くの は、 圏本人メ立
派な帆総や蒸気機 な数多 く所有 してい る とい う事実 であ
周 りを開むぼる舟
`。の衝角艦 「ス ーン
や ジャ ンク船 と比べ る と奇妙 なほ ど対照約 で あ つた。 甲鉄
ト
ウォール ・ ジ ャクソン」 の姿 もみ った力式
、 通れ な もと 賭 北戦争時 に]南 部連
合軍 の所有 で あ った ものが、の ちアメ リカ政府 か ら日本 は贈 られたので あ 41。
市衛地 の ほ うへ近 づ くと、数多 くの家 々や /11屋 や竹垣な どが茫洋 と広が って
い た。 ここには ドックも埠頭 もない し、倉庫群 もなけれ ば舗装路 も歩道 もない
―またわれわれメ家 と呼ぶ よ うなもいはす軒 としてない。 しか し背 Φ低 い革
一一
茸 き屋根 の住居だけはそ の数 も多 く、見渡 ― 限 リー面 に広が ってい た。 とこ乙
t‐
どころ高 い建物が見 え悪のは仏教 の寺 で、 本 々 に国まれ て絵画飾な極 を塁 して
い る。 街 の 中′
か部 は土地メー鍛高 く、始 通に位置 を占める母が江戸城である。
域 の周 りは 自壁 に国まれ ているが、 場 の光 を浴 びた冶 の壁 は、細 い筋 の よかに
き もきわ輝 いて見 えた。
も つ一つの高台 はか惨 て大君 Φ墓所でお つた土地で、 途 Φ降 にある勢は最大
な芝 の寺 [贈 上 寺]で あ碁。また 選を転 じれ は、かつて大君 の進興地でわった
土地 [浜 離宮]も 見 え 4。 そ これは本 々や章花 が植 えられ、遊歩道や層ヽさを池
もあ って、 ど進かセ ン トラル 。パ ー クを思わ燈 た。 路域 といい大路 といい江戸
の道 は限 りな く四方八方 に張 り巡 らされて い
また頑丈な本橋 な渡 した水路
`。 乱 立
が数多 く見受 けられ た。海端 に 国下建設 中の建物ξ
官 海軍学校 とな 4予 定、
さらに始 の 内 逸 う僕じには丸屋根 を備 えたホテル [築 地ホテル館 ]が あ
:「 ス
トー ン ウォ ール ・ ジャ ク ソン」号 はお そ ら く「ス トー ン ウォール 」号 の誤 り。
= 77 =
われ
`。
われ の上 陸地点は広 い川 の ち ょうど河 口部分 だ つたが、 この川が市街 を抜 けて
江戸湾へ と注 ぐ形 にな つてい る。川 には様 々な種類 の粗末 な小舟が行き来 して
いた。地 面 を見る と、 二年近 く前 に爆発事故 を起 こ したボイラーの破片 が落 ち
て
鷲二;レ [『 1lFに 言倉 2「 警 霜急│ま 壼 :警 業 ガ皇薯繁理とえ i:こ i壮 大
な建物 には違 い ないが面 白み に欠 け、 ぽつ ねん とした様子 は納屋 の よ うであっ
た。移動 の際は一 人ひ とリジシ リカ シヤ [入 力車 ]に 乗 つた。入力車 とい うの
は乳母車 を大 き くした ようなもので、半裸 の 日本人 が一 台一 台牽 く。速度 はか
な り速 く、ま こ とに愉快な乗 り物 である。江戸滞在 の最終 日には20マ イ ル以上
乗 りとお した。
ある晩、ホテル のプ ライ ン夫人 の部屋 で祈祷会 が 開かれた。 聞 くところによ
ると、 この壮大なる異教 の都市 にあ つて祈祷会な るものが 開かれた の は全 く初
めてなのだ とい う。会 には17人 が集 っていたが、うち 4人 は 日本人 の紳士 であら
た。その 中の一 人が翌 日にな つて訪ね て きて、 とある高官 の娘 をプライ ン夫人
の 「ホーム」 に受 け入れ て もらえないか と打診 してきた。 (「 アメ リカ ン・ ミッ
シ ョン・ ホ ーム」はニ ュー ヨークの婦人一 致伝道協会 の管理下 にある。)
「ホー ム」を運営す る婦 人たちが、特定 の教育事業 のみ にとどま らず、 より
幅広 い感化を与 えつつ ある こ とは太鼓判 を押 して もよい。後者 については実際
の ところ、 どんなに評価 して もし過 ぎる ことはい。毎週 「ホーム」 で開 かれ る
祈祷会 は宗教的な影響力 の 中核 を形づ くるであろ う。またプ ライ ン夫人はた ぐ
い稀な る品性 を示 し、あらゆ る面 で 自ら模範 とな り善行を喚起 しているのであ
る。
2.ル ″″yorλ
Eυ α4σ θ
JJsι 第 2209号
(1872年 7月 25日 )
日本
陸 の旅・ 海 の旅
エ ドワー ド・ ワ レン・ クラー ク
1872年 5月 16日 、 日本、静 岡 にて
ふだん の平穏な 日常 の繰 り返 しとは うつて変わ つて、 ここ数 日とい うもの大
事件 に引 きず り回 されていた。予期せぬひ どい歯痛を抱 えた私 は飛ぶ よ うにし
て横浜へ 行 き、 ク ロロフォルム治療 を立て続 け に受け、帰 りはアメ リカ領事や
- 78 -
旗艦 「コロラ ド」 の将校 一 行 と一緒 に静岡まで船旅 を して きた のだか ら、 日常
も脅か され る とい うものだ。全体 を通 してなか なか劇的な 出来事 だつたので、
今 また ここで一 人振 り返 ると、あれはつ か の間 の夢 だ ったに違 い な い とさえ思
えて くる。
5月 4日 の こ と、
私 は午後 の間ず っ と歯 の痛み に苦 しめ られていた。晩 になつ
て、二年 ほ ど前、[ス イス の]イ ン ター ラー ケ ン にただ一人取 り残 された時 と全
く同 じよ うな状況 に陥る に違いない とい うこ とが分 かつた。眠 りが この悲 しみ
を紛 らわ して くれ ることを祈 りなが ら、家 中すべ て締 め切 つて「ク ロー ラル」[鎮
静剤 ]を 大 さじ二 杯服用 し、ベ ッ ドに入らた。 しか し 「願 いむな し く」 とでも
言お うか、 身 も心 も鉛 の よ うに重いのに痛みは増 してい くばか り、結局 一睡 も
で きな い。 夜通 しあち こち歩 き回 った り瓶 をひ っ くり返 した りして過 ごし、 夜
が 明ける と学校 に人 をや って発電装置や エ ーテル を取 り寄せた。電 流 で少 しは
楽 にな つた ものの、それ も長 くは続 かなかった。昼 ごろにな つて、 この上はす
ぐにで も横浜へ行 かな くてはな らない もの と心を決めた。そ うす るより他なか つ
た のだ。一 時 間 も しない うち に馬車や荷 ごしらえが調 い、ほ どな くして気づい
て みる と、通訳 と護衛 一 人 を伴 った私 はひた走 る草 中 に旅 の人 とな っていた。
この界 隈 の道 は決 して馬車 が通 るよ うにはで きて い ない し、ま して この時 の ょ
うな速度 に堪 え うるものではない。 とはい え、特 に道の悪 い ところでは降 りて
歩 くな どして切 り抜 け、思 いのほか速 く進 んだ結果、 日暮れ頃には出発 点 か ら
約 25マ イル [約 40キ ロメー トル ]の 位置 に達 していた。
'日
その
は 日本間 の畳 の上で転 げ回 り、不快な一夜 を過 ごした。宿では私 が快
適 に過 ごせ るよ うに最大限 の配慮 を して くれ たが、結局 は翌朝まで眠れず、ま
た気分 も大 して休 ま らない まま寝床 を出る こ とにな つた。 さらに日の 中では痛
む と最 も困る部分 まで もが少 しずつ腫れ上がって きて、そ のせいで圧迫 された
日はほ とん ど動 かせな くな って しまった。話す こともままな らなければ食事 を
とるな ど問題外 だ。せ いぜい 出来 る こ ととい えば、付 き添 いの者 たちが持参 の
うまそ うな食料 を旺盛 な食欲でぱ くついてい るの を、 もの ほしそ うに眺めてい
る こ とだ けだ つた。 ど うにか少 しで も米を口に突 っ込 も うとは してみたが、結
局それ も徒労 に終わ り、われわれ は再 び先 へ進む ことになったのだった。
ここか らもまた馬車 を使 つた。箱根 の峠 に差 し掛 かるまでは馬草 で行 けるが、
そ こか ら先 は馬草 の代わ りに人間が肩 で担 ぐ「カ ゴ」に乗 り換 えねばな らない。
この 日は見事な空模様 とい うか、夜明け前 なが らそ うな りそ うな気配 が あ った。
あた りは一 面穏や かな様子 で、第 二の「ベ ウラの地」[キ リス ト教 で憩 いの地 と
- 79 -
され る]を 思わせ る。やが て近 くの丘 の 向 こ うか ら朝 の光 が ゆ っ くりと這 い上
が り、灰 色 の霧 を押 しの けなが ら天空 に鮮や かな縞模様 を描 き出 した。そ して
つい に東 の空か ら太陽 の黄 金色 した光彩 が山の頂 を縁取 ったか と思 うと、今度
は 目も眩 む ような閃光へ とそ の姿 を変 え、か くして妙 なる海 を従 えたお天道様
が とうとうお出ま しにな ったので ある。 もの珍 し く美 しい 光景 も手伝 って、 こ
の早朝 の道行き にはささやかなが ら浮世離れ した情緒 があ り、歯 の痛み さえ気
にな らな けれ ば どれだけ楽 しめた ことか と悔や まれるほ どだ った。 ここか らは
富士山の 山裾近 くを進 んでい くので、なだ らかで均整 の とれた斜面 か ら純 自の
笠雲をかぶ つた 山頂 に至 るまで、そ の雄姿が余す ところな く目に入 つて くる。
ヤ ンキー少年 が富士山の近 くに連れて こ られ た として、真 っ先 に目を惹 くもの
とい えば、上か ら下まで冬 の ソ リ遊 び のために作 られたか の よ うな この斜面 で
あろ う。実際 この斜面 は何かそ うい う目的 があ つて削 られ た感 さえあ つて、お
ま け に漆 塗 りの箱や茶箱 の意匠にもぴ った り合 いそ うである。随一の大街道 で
ある東海道 の 中で も、 この辺 リー帯 の様子 とい うのは 目だ つて美 しい。道 の両
側 には美 し く雄大な松 がず らりと並 んでい るのだが、その張 り出 した枝 は幾世
紀 にもわた って、 この道を行 き交 った数知れ ぬ旅人 たちに葉陰 をお として きた
に違 い ない。こ うした老 樹 の姿 は (少 な くとも私 にとってみれ ば)、 この界隈 で
最 もゆか し く興味 を弓│く 景物 の うち に数え られ る。木 々の間を吹 き抜 け る風 の
音 に心引かれ て耳を傾 けれ ば、今では知 る由 もない よ うな昔 の不思議な場景 を
追悼 して いるかの よ うに思 えて くるのだ。今ま さにわれわれ が差 し掛 か った こ
の周辺 とい うのは、静 岡 と比べ てず っ と肥沃 でまた手入れ も良 い土地である。
ただ何せ 日本 の農地 とい うの は どこも同 じよ うな様子 で、土地は一々区分 けさ
れ、年 中水を張 つた 田がほ とん どである。この地方 で育 てている野菜 は数多 く、
私 の今まで見 てきた どの土地 をも しの ぐ種類 だ。私 はこの前 日、作物 の詰 ま っ
た巨大な袋 を担 いで静 岡へ 向か う人 々の姿 を目にして いたのだが (静 岡 は駿河
の国の中心地である それはわれらが大参事の課 した税を納めに行 くところな
のだつた。われわれのようにこうも朝早く通り過ぎると、村々のたたずまいも
)、
一風変わ つて見 える。 どの家 もすべ て表 を立て切 つていて、風雨 にさらされて
きた雨戸 を互 いにぴつた りと嵌 め合わ せて あ るので、村全体 が窓のない納屋 の
連な りの よ うに映 るので ある。たま にお婆 さんが朝 の散歩 をするの に出 くわ し
たのだが、走 り過 ぎる馬車 に驚 くあま り立 ちす くんで しま つた。今 日もきっ と
このお婆 さんは、長れ る村人 たちを相手 に、不可思議な異 形 の もの に度肝 を抜
かれた明け方 ので き ごとを語 り聞 かせ るの に忙 し くしてい ることだろ う。そ う
… 80-
こ うする うち に沼津 の町、箱根峠 の玄関 攣にた どり着 いたも ここでカ ゴの層意
ができ藉まで少 しの間体憩 した。 同行 の者 は軽 く食事 をとったが、私 は畜
『屋 の
制 にある地 を泳 いでい卜大 きな金魚 にバ ンのか l-9み を投 げてや って慰め とした。
この時はま だ何 も食べ られない状態 だ つたので、 自分 の 間を満 たす より魚 め霧
を満た してや るほ うが手軽 い よ うだった。 進の地 を最後 に属車は返す 通とにし
たのだが、 しか しみの気 の毒な老薦は二一電光石火 の旅立ちがず いぶん酷醐
激 とな った のだろ う、静 岡 に戻 つた翌 関に力尽 きて しまった。 日本 の馬 はあま
り頑強 とはい えな い。 ことは願者 が歯痛 に苦 しむ時 に ■なれのこ とだ
l―
I
あの
馬 が燕 麦 と青草 の広 がる天圏 に召 され、書良な馬 たち と暮 らさん こ とを願 いた
い。推れだけの働 きをして くれ たのだか い。
ところで このカ ゴ と
い うもの は、風変わ り
な乗 り物 で ある。籐椅
子 の脚 を外 した よ うな
もの を しっか りと太 い
本 の棒 で 轟 り、始 の 中
に人 間が しゃがむ よ う
に座 りさえすれば出来
上が りだ。乗 る者 の政
り ,昏 道は、天丼 で首
を傷めゐか床で脚 を折
格か、二 つ に一つ で あ悪。 この乗 り込む方法 とい うのが、 未 だによ く分 か ら蹴
い。私 はふだん体 を放 り出 して転 膠 り込み、正 しく乗れ るか どうかな運 任せ に
してい 譜。 通の次 に驚籠 で旅 -9
る
時 は、箱 に入 って 「ワレモ ノ注意」 の札を難
り付 ける進とにしよ うか と思 つてい ゐ。駕驚 か きたちの揺 さぶ り回す 進 とといっ
た ら凄 ま じ く、例 0小 竜 リカ`
始ま卜 と乗 った人間はも ,生 きたふ地が しない6
ただ、彼 らが υ
まな い し、また二、三
晏うた りと歩 いてい 昏時であれ ば全 く支障ま
時間ず う と足 を結わ えつ けられて い る進とに一旦慣れ て しまえば、そ して 同時
に首 も強張 つた状態 に させ られ て講 めンつ けば、ま おか な り快適 にな櫂だろ う
し、 を の うち揺 りか ごで寝 か しつ けられ ているよ うな気持 ちになれ 4ま まず だ。
苦力 は一定の調子 で担 いで行 くが、五分 ご とにそ の場 で立 ち止ま っては太 い竿
を竹製 の杖 の上 に乗せて一 患つ き、す ぐに遊側 の肩 に担 ぎなわ して、またそれ
まで と同 じよ うに歩 き始 め
男 たちの裸体 に光 ゐ汗 は背 中か ら滴 り落 ちそほ
`。
‐81―
どだが、彼 らはた い した疲 れ も見 せ ず に相 当な距 離 を担 い で 行 く。 山道 の途 中
にはい くつ か小屋 が あ つて 休 め る よ うにな つてい る のだが 、裸 男 の一 群 が火 の
周 りを跳 ね 回 りな が らめ い め い 片手 に湯気 の 立 つ 飯碗 を持 ち、 も う一 方 の 手 に
箸 を持 つて い る様 子 は 見 る もおか しな 光景 で あ っ た。 空 腹 が十 分満 た され る と
彼 らは茶 を一 杯飲 み 、 た つぷ り平 らげた飯 を腹 に流 し込 む ので あ る。
す つ か り山 を越 えて しま うまで、 お よそ八時 間 を要 した。 道 中 は 見事 な景 観
で、 山 々 に取 り囲 まれ た可 憐 な箱根湖 [芦 ノ湖 ]は 、 あ らん限 りの 魅 力 をた た
えて い た。 峠越 え の 道 を行 く途 中で一人 か二人 、裸 で 走 る人 に行 き会 っ た。 こ
れが郵便 配達 夫 で、 広 いつ ばのあ る帽子 をかぶ り、棒 のつ い た小 さな挟 み箱 を
肩 に担 い で い る。私 がふ だ ん以上 の興 味 を も っ て 彼 らに視 線 を送 つ た の にはわ
けが あ っ て、 静 岡 を出 る とき に国許 か らの 手紙 を今 か 今 か と心待 ち に して いた
ので 、 も しか した らそ.の 手紙 が 今 ここで ま さに 目の 前 を通 り過 ぎて い くので は
な いか と気 に掛 か つたか らな ので あ る。後 にわ か っ た こ とだ が、 そ の 手紙 とは
実際 にあの 山道 で すれ違 ってい た の だ っ た。 手紙 が静 岡 に着 い た の は、 出立 の
ま さに翌 日だ つた ので あ る。山頂 を越 えてか らの下 り坂 は大変 険 し く岩 が ちだ つ
たが、 苦 力 た ちはそ の 急坂 をわれ われ を担 いで 早足 で 下 つて い く。 そ の速 さた
るや 大胆 極 ま りな く、 け っ して 安 全そ うには見 えなか つ た。 彼 らは大 層 な健脚
ぶ りで、 そ の助 け が な けれ ば私 は 幾度 とな く崖 か ら転 が り落 ち、 頭部 損 傷 の 危
機 に見舞 われ て い た に違 い な い 。
山 を越 えて か らは、 駕籠 を人 力車 (人 間 の 牽 く車 )に 乗 り換 え、 日い つ ぱ い
の速度 で 突 き進 んだ。 ほ どな く して海端 に さしかか り、 そ こか らは何 マ イ ル も
岸辺 の道 が続 く。 道 は砂 地 で、 あた リー 帯 の村 々 はひ らけて い て、数 もなかな
か多 か った 。「人 力」車 の動 力 が尽 きる とす ぐに新 しい 偉 を雇 い 、道 中な るべ く
時間 を無駄 に しな い よ う心 が けた。行 く先 々で 日 に した数 多 くの 印象 的 な物事 、
ことに川越 えの話 な どを こ こで お伝 えす る の も悪 くな いのだ が、 全行程 中で 他
の何 に も増 して心 嬉 し くま た何 よ り慕 わ しか っ た の は、 真新 しい電 信 の 架線 で
あ つた。 江戸 か ら静 岡 まで の 全線 が 開通 したの はつ い 先 頃 の こ とで あ る。 出掛
け に東海 道 で 出 くわ した一 本 き りの この導線 が、 一 路私 を文 明 へ と文 字通 り繋
いで くれ る存在 に見 えた。 また厳 か にす っ く と立 った 電信 柱 の一 本 一 本 が、通
り過 ぎる私 を一 歩 ず つ 19世 紀 へ と導 いて くれ る よ うに見 えた の だ っ た。 そ うし
てつ い に、 懸命 の 車旅 の結 果 、 フ シガ マ [藤 沢 か ]と い う ところ に到 着 した。
ここで われわ れ は しば し休 息 を と り、 そ の 先 の最 善策 を思 案 した。 時す で に夜
の九 時 で あ り、日も とっぷ りと暮 れ てい る。朝 四時す ぎに宿 を発 った とき には、
- 82 -
そ の 日の うち に横 浜 へ 着 こ うな どとい う見通 しは立 ててい なか っ た。 しか し私
は、 も うこれ以 上 道半 ばで 昨夜 の よ うな時 間 を費 や しは しな い と心 を決 め た。
横 浜 まで まだ18マ イ ル [約 29キ ロ]あ る と言 われ は したが 、何 があ ろ うと間 の
中 を突 き進 も うと思 い 定 め、 また 新 たな人 力車 と提灯 を用 立 て た。 言 わ せ て も
らえば、 歯痛 ほ ど人 を行 動 に駆 り立 て る もの は他 にない だ ろ う !
も し信 じ ら
れ な いの な ら、折 を見 て 試 して み る こ とだ。 私 は車夫 た ち を急 き立 て 、 素 早 く
用 意 を させ た。や が て われわ れ はガ タガ タ音 を立 て なが ら全速 力 で 山道 を下 り、
悪 路 を走 つてい た の だ っ た。 曇 り空 で 月 明 か りもな く、星 のひ とつ も見 えは し
な い 。 ひ つ そ りと静 ま り返 っ た 闇 の 中、 身 の 回 り三 尺 で す ら見 える もの は何 一
つ なか った。私 は偉 の幌を顔 まで引き下 げて 目を閉 じ、今度は溝 に落 ちるか今
度 は土手 を転がるかな どと一々気 に しない こ とにした。事実 一度 か三度 は危 う
い場面 もあ ったが、空腹 と眠気です っか り憔悴 しきって疲労 と痛み に苦 しんで
いたか ら、 自分 の置 かれた立場 に気を払 う余裕 がなか つた。
東海道 が横浜 に差 し掛 か った ところで進路 を右 に取 うた。急な下 り坂 をい く
つ も通 って湾 のほ とりにさしかか る と、そ こは も う神奈川 の港 である。伸 の幌
か らそ つ と覗 くと、港 に浮 かぶ船影 の 向 こ うか ら淡 い光 が海 を渡 つて くるのが
かす か に見 えた。砂浜 に打ち寄せ る単調な波 の さぎめきの ほか に何 の音 も聞 こ
えは しない。夜半過 ぎに立派な橋 を渡 ると往来や家 々の様子が見えて きて、横
浜 にや つて きた の だ とす ぐに実感できる。衿 の厚 い上 着を羽織 つた夜回 りがす
れ違 い ざまに鋭 い視線 を投 げか けてきたが、 耳障 りな音で拍 子木 を打 ち鳴 らし
て異常な しを告 げていった。市 中に足 を踏み入れ ると懐 か しさが さらに深 ま っ
た のだが、 自分 が この地 にい るとい うの は何 とも不思議な感覚 で ある。六 ヶ月
ほ ど前 にこの地 を離れた時 には、 馬 の背 に揺 られ、五 日間をか けて静 岡 にた ど
り着 いたのだ った。そ して今回は (歯 痛 の おか げをもって)同 じ道の りをわず
か一 日半 でや って きた のだ。 護衛 と通 訳 には旅籠屋 へ 行 って もらい、私 は新 た
に人 力車 を雇 つて「山手48番 地」にあるプ ライ ン夫人 の家 を目指す こ とにす る。
道すが ら見 えた横浜 の姿 は、わずか六 ヶ月 の間 に驚 くべ き発展 を とげていた。
丘 に登 り、門を くぐりなが ら時計 に 目をや る と、針 はも う二 時近 くを指 してい
る。 ここまで上 り坂 を牽 いて きて くれた 「人 間 の馬」 に提灯 を返 してや って奥
に進み、 バル コニーの窓を叩いて何 とか入れて もらお うとした。バル コニ ーの
ところ どころに家具 が置 いて あるの は、 き っ と 「大掃除」が 日中に行われ たか
らだろ う。
しばらく窓 を叩いてい るとカーテ ンが揺れ、天使 の よ うな ロー ブ姿 で 「どち
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ら様 ?」 と誰何 の声。人影 の主が誰 かはす ぐに分 か つた。ほ どな くして私 は、
この夜更 けにも関わ らず、た つぷ りの新鮮 な ミル クと一 片 のケ ー キを前 にして
座る ことに相成 つた。一― この ミルタ こそ、かつ て横浜 を離れ た とき以来 はじ
めて口にした本物 の ミル クであ り、そ してまた ここ三 日間で唯 一満足 に口にで
きた食物だ つたので ある。
そ の夜 はお よそ三時間 の睡眠 をとつた。翌 日の記憶 はあま りは づ き りしない
のだが、鉗子 とク ロロフォル ムに よる治療 の後、結局 の ところは五時間 にお よ
ぶ頭部 の神経痛 に襲われね ばな らなか つた。 これが他 の痛み をはるか に上回る
辛 さなのだった。苦 しいひ と時であ つただ けに、「ホ ーム」に滞在 で きた ことが
どれだ け幸 いだったか、周 りの人たちの母 の よ うないたわ りと同情 が どれだけ
有難 かつた こ とか、皆 さんにも深 くご理解 いただ けることだろ う。
そ の 日は折 よくグ リフイス [W.E.Griffis]氏 も江戸か ら下 つて きて いたの
で、あ くる晩 は二人で一緒 に眠 つた。懐か しいあの頃 と何 も変わ らな かつた。
それ にしても何 の暗合 か、かつ て二 人 で枕 を並べ て寝 た最後 とい うのが、実は
今回 と同じよ うにインター ラーケ ンで歯痛 に見舞われた翌晩 の こ とだ つた ので
ある。 しかもスイスでお互 い離れ離れ になる前 日の出来事 だ った。三度 も こ う
して 「痛み」 が絡 めば、い くら二年越 しの 出来事 とはいえ、また一 万 三千 マイ
ルも離れ た土地 の こととはい え、何か因縁があ つて も決 しておか し くはない と
思 うのだ。
3.ハ 診″‐yorλ
.
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んJθ JJsι 2210f計 (1872年 8月 1日
)
日本
陸の旅・ 海 の旅
エ ドワー ド・ ワ レン・ クラー ク
1872年 5月 16日 、 日本、静 岡 にて
朝ベ ッ ドか ら起 き上が って正気 を取 り戻す と、 国許 か らの手紙 の東 が飛 び込
んできた。 こち らに来 る途 中で行 き違 いにな つて しまった手紙 が、い った ん静
岡まで行 って送 り返 されてきたのだ。 この 時点 ではも う手紙 を楽 しめるだ け気
分も回復 していた し、 手紙 の存在 が どんな面倒 をも忘れ させて くれ た。
手紙 に 目を通 していると、アメ リカ領事 シェパー ド大佐 [Charles Oo Shepard]
が訪ねて こ られた。役人や様 々 な人 を引き連れ て駿河へ視察 に行 く予定 がある
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ので 、つ いで に清水 (静 岡 に一 番近 い港 )ま で 便 乗 してい っ て は ど うか とい う。
出発 は翌 朝 三 時 との こ とだ。 実 は数週 間前 、私 の も とに大 佐 が立 ち寄 って くだ
さ らな い だ ろ うか と考 えて い た こ とが あ り、 そ の とき、今 回 の 大佐 の旅 の 目的
とい うの が、 駿 河 にお け る茶 の栽培状況や 栽培 方法 の視 察 をす る こ と、 そ して
そ の結果 をア メ リカ政 府 に対 す る公 式報告 書 に取 りま とめ る こ とで あ る と知 つ
た。 この視 察旅 行 には横 浜在住 の茶 商 も二、 二 人加 わ る予 定 で、全 て ま とめ る
とち ょつ と した遠 征 隊 にな る こ とが 予想 され る。 シ ェパ ー ド大 佐 は ア メ リカ の
茶 輸 入 に 関す る興 味深 い統 計 を ご教示 くだ さつ た の だ が、 それ に よれ ば、 ここ
数 年 間 で 日本茶 の 消 費 が 著 し く増加 して きた とい う。 そ の 上、 日本 か ら輸 出 さ
れ る茶 の うち九 割 が 合 衆 国 で 消費 され てい る とい うの だ。た しか大佐 に よれ ば、
サ ン フ ラ ンシス コの 税 関 で は茶 の 関税 だ けで年 間百万 ドル 以上 に達 して い る と
の こ とだ か ら、 この 驚 異 の作 物 の栽培 状況や 今後 の増産 見込 み を把握 す る こ と
は :当 然 わ が政府 に とって 相 当な関心事 で あ ろ う。加 えて、 輸 出 され る茶 の 中
で もかな りの割 合 が 今私 の住 んで い る駿 河 の 国 で産 出 され た も の で、 質 の点 に
お いて も駿 河 の茶 は 日本 第 二 の地 位 を誇 るので あ る。
今 回 の 大佐 の話 は 大 変 あ りがた か つた :船 で 帰 れ るお か げで、 も うめ ちゃ く
ち ゃ に振 り回 され なが ら陸路 を行 か ず に済 む の だ。 とい うわ け で そ の 日の午後
は 「お 買 い も の 」 に 当 て、 また船 で一 緒 に運 んで も ら うた め、 余 分 の 備 蓄用 食
料 を確保 した。 翌朝 三 時半 ご ろ、す さま じい 唸 りをあ げ て エ ン ジ ンが 始 動 し、
わ れわれ の船 は湾 を出て広 い 太平 洋 へ 乗 り出 した 。決 して 大型 で はない この蒸
気艇 [steam yacht]だ が、性能 の は うは折 り紙 つ きだ。舷 側 に四、五 門据 え付
け られ た 大砲 は 真鍮 製 で 美 し く、 この 日は好 天 と良風 とに恵 まれ た こ と もあ っ
て、 船 足 もす こぶ る軽 快 で あ つた 。 この 愛す べ き船 には ち ょっ とした 由来 が あ
る。 実 は この船 、 ビ ク トリア女 王 か ら最 後 の矢箸 [徳 川 慶 喜 ]― ― 今 は静 岡 に
隠居 している一― に贈 られた ものな のだが、 日本で内舌Lが 起 こった際、尊皇派
の手 に落 ちな い よ うに幕府方 が長崎近 くの海 中に沈めて しまった。やや あ って
船 は 日本 政府 か らアメ リカ人 ウォル シ ュ・ホ ール氏2[マ マ ]へ と申 しわ け程度
の価格 で譲 り渡 された。彼 は船 を引き揚 げ、上 海へ 回送 して修 理 させた ので あ
る。何は ともあれ、「愉快な旅仲間」と一緒 になって、これだけの好天にも恵 ま
れれば、 東 の間 の航海 で もち ょっ とした旅行気 分 を感 じる ものだ。それ につ け
て もひ しひ しと感 じ られた の は、 同 じ日本 の海岸線 を目にしてい なが ら、受 け
2ゥ ォルシュ・ホール商 を人物と取り違えたものか。
今
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る印象や感覚が六か月以上前 に初 めて この場 に入港 した時 の経験 と随分異な っ
たもので ある こ とだ つた。
あの時 の私 は異境へ と臨む一 人 の異邦人 に他な らず、胸 の 内 には何 か と不吉
な想像ばか り渦巻 いていた。私 に とつて この海岸線 は知 られ ぎる辺境 の地 の よ
うに映 つた。奇妙な造 りの家 々や野 ざらしのジャ ン ク船 を見れば人食 い人種 の
持ち物 であるよ うな気 が して、 今 に私 はぺ ろ りと食 べ られるか首を勿Jね られ る
か、そんな 目に遭 いは しないか と思 つてい た。それがも う今 ではあたか も地元
にいるかの ように落ち着 ける場所 にな り、こ うしていても「ダニエル・ ドリュー」
号 の船 上でハ ドソン川 を眺 めてい るよ うな心持 ちでい られ る。あ の ときのあ の
海岸 が、今 では世界中の どこ よ りも身近な場所 に変わ ってい る。木立 の 中に寺
院や家 々の姿を認 めて も、私 が ここ数力月間生活 の場 にしている寺院や家 々 と
大差ない もの と感 じられた。古 びたジャンク船 にしても同 じことで、 こちらで
過 ごす ことになつてか ら日々食卓 に上 る美味 い魚 を獲 るの に役立 って くれ てい
る。南西 の方向 に 目を転 じてみ る。初 めは奇妙な ところに見えたそ の一 帯 は、
もはや私 にとつて異郷 の地 な どではない。そ の証拠 に、私 の頭 の 中にはその地
方全体 の様子 が地 図の よ うに思 い浮 かぶ。 とい うの も、あの辺 りはあ らかた巡
りつ くして しまったか らだ。霧深 い 山々 を見た同行者たちは、それがず いぶ ん
私 にとつて は何度 か散策 したことのある山々
奥地 にあるもの と思 つた ようだが、
で、 見分 けがつい た。
夕方近 くになつて、船 は長 く突 き出 した岬 を回 つた。 清水港 に入るにはい つ
たん岬の鼻先を折 り返 さな くてはい けない。そ こか らは針路を北西 にとってま っ
何 とか暗 くな らない うち に港 へ 着 ければ と希望 をかけていた。
す ぐ進 む のだが、
それ に、その夜 は 自宅 に戻 つて眠れ るだろ うと堅 く信 じていたか ら、早 くも夕
食は何 にしよ うかな どと考 え始 めていた。 しか し、 ライ スケー キ と蜂蜜、柔 ら
かなベ ッ ドに羽根枕 とい う私 の算段 もむな し く、 いつ までた って もなかなかそ
こにた どり着 いて くれない。 あ つ とい う間 に夜 の とば りが下 りてきて、湾 の入
口には真 つ黒な雲 の塊 がまるで進入 を拒むか の よ うに伸 び広 が って きた。風 向
きも一変 し、南 の海 か らは猛烈な波 が押 し寄 せて くる。われわれ も負 けず に、
休みな く帆綱 を引 き絞 りなが らじっ くりと船 を進めていったのだが、浅瀬 にた
どりつ く気配 がない。 間 が じわ じわ と差 し迫 つて くる中、果 た して この沿岸 に
は灯台 のひ とつ もな く、針路 を見極 めるには細 心 の注意を要 した。 目的地 の港
を描 いた海図 はプ ロシアの測量 に基づい た小ぶ りの ものが手元 にあ って、それ
によればこの辺 りの海 は次第 に浅 くな つて い るのではな く、岸辺近 くまで深 い
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よ うで ある。 とす る と、われわれは海岸 に接近 している可能性 もあるのだが、
水位 を見 た としても近 づいているか ど うかの判断材料 には全 くな らない とい う
ことだ。
船 上 には 日本人 の水先案 内人が、あるいは少 な くともそ う名乗 る者 が乗 り組
んで いたのだが、 この男 が ま ごま ごす るばか りで何 を言 つていいのか さえ分 か
らな い様子 だ つた。そのため、正 気 に戻すためにち ょっ と帆桁 め端 に乗せて揺
さぶ つてや ろ うとい う話 まで持 ち上が った。私 の通訳 と護衛 の者 はい くらか こ
の港 の ことを知 っていて多少 の助 けにな つたのだが、私 自身 はこ うして海路 で
来 た こ とがなか ったため、大 して情報 を提供す ることもできない。 われわれは
二、三 分おき に水深 を測 りなが ら、できる限 りゆ つ くりと船 を進めてい く。行
くうちに一度 だ け日本 の船 とおぼしき光 がち らっ と遠 くに見 えた こともあった。
何 とかそ の船 に追 いついて水夫 を こち らの船 に乗 せてや ろ うとしたのだが、速
度 を出 しす ぎる危険 を考 えると追いつ くことは出来 なか った。少 しずつ北 に向
かつて進 んで行 くと、突然低 くくぐもった波音 が耳 に届 いた。 隣 に座 っていた
役人 が飛び上がって 「暗礁だ !」 と叫び、す ぐにエ ンジン を逆回転 させ る。経
験 豊 富な船乗 りの 目が暗闇の中を見通 し、まわ りが陸地 で ある こと、そ してわ
れわれが完全 に取 り囲まれた よ うな状態 らしい とい うことを察知 したのだ。 し
か し乗組員たちは、 この位置まで進入 して きた時 と同 じよ うに、 ここか ら脱出
す る方法 も心得て いた。す ぐに船 を逆進 させてそ の場 を離れ、湾 内を全速 力で
後退 して ゆ く ! 結局手探 りで入港 しよ うとす ることはあきらめて錨 を下ろす
場所 を探 してみ たのだが、 それ も見つ か らず、湾 内を後戻 りしている うちに陽
もす っか り沈 んで しまった。私 は船室 に取 つて返 し、 寝台 に倒れ こんだ。次 に
甲板 に戻 つた ときには、船 は前 の晩暗闇 にま ぎれ て 見つ けられなかった地峡部
分 を旋 回 している ところで、 そ の後す ぐわれわれは清水港内に無事錨 を下ろし
た のだった。夜明け頃になる と船 は再び向きを変 え、湾内を奥へ と進 んでい く。
もし暗 い時 にそのまま進み続 けていた とした ら、富士山のふ もとにぶち 当た っ
ていたか、そ うでな けれ ば山 に登 って しまっていたか もしれない
!
小舟 に乗
り移 って上 陸す る と、す ぐさま私 は人 力車 を飛 ば して静岡へ 向かい、大人数 の
来客 に備 えて家 中の用意 を整 えることにした。大参事 もお招 き してシ ェパ ー ド
大佐 とのデ ィナ ーが開 かれ ることにな り、双方全員 がわが家 に集ま った。 そ の
場 で の話 し合 いで、茶栽 培 の視察 には具体的 に どの地域 を選択す るか とい う段
取 りもつつ がな く決ま った。一 行 の姿 が静 岡の人 々 に強烈な印象 を植 え付 けた
ことは、皆 さんにも容易 にご想像 いただ け るはずだ。外国人が一 ダース近 くも
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や って きて、 そ の うえ一行 中には 目にも鮮や かな軍服姿 もあ ったわ けだか ら、
まさに空前絶後 の光景 だ つたに違 い ない。
率直 に言 つて、静岡 にこれほ ど多 くのア メリカ人を迎 える とい うのは私 自身
にとつて も本 当に新鮮な体験 だ った。彼 らが滞在 したこの三 日間 は確 かに目の
回る よ うな忙 しさで、特 に食事 の面 では大騒 ぎだ つたが、嬉 しさのほ うがはる
かに上回 つていた。大佐一 行 とのディナ ー には大参事 は じめ県 の役人 たちを二
度 ほ ど招待 したのだが、せ つか く合衆国領事 がい ら している機会 だか らとい う
ことで、 先 の大君 ご当人 にもディナ ーの席 にお越 し願 えないか打診 して み た。
しか しさす がに特別 の上 にも特別 な大君殿下 で あるだけに、世 をはばか られ る
こと尋常 ではな く、表 立たぬ よ う身を潜 めてお られ るよ うでくまた流刑 中の相
談役 とな つた方 々が何 かにつ けて ご進言 申 し上 げる とい う状態 で もある ことか
ら、 とうとう彼 を動 かす こ とは一 寸た りともで きなか った。 ど うしてもお出で
にはなれない とい うのだ。人見 [寧 ]氏 とい う役人を通 じて私 は今回のお誘 い
をした のだが、 この人は大君 と極めて親 しい間柄 で、幕府方 が箱館 で必死 に最
後 の抵抗 をした際 にい くつ もの部隊を統括指揮 した人物 である。現在そ の人 見
氏が学校 [静 岡学問所]で 私 と一緒 に働 いていて、大君殿下 がデイナ ーにい らっ
しゃ らな い ことを大変悔 しが っていた。それ で も人見氏 自身 は来て くれ た し、
また向山 [黄 村 ]氏 の姿 もあ った。向山氏 は数年前、 日本 の ご く初期 の遣欧使
節団 [1866年 、徳川昭武 に随行 してパ リに赴 く]で 上席 を務めた経験を持 つて
いる。 この紳 士が今学校 の頭 にな つてい る。ただ彼 は最近 まで漢学部門 にしか
関心 を持 つてい なか つた よ うだ。
シ ェパ ー ド大佐 と役人 の一 行 は、駿河 の旅 を大 いに楽 しんで いた ようだ。特
に私 の家 とそ の周辺 、それ に学校 と新設 の講義 室そ の他 には非常 に感心 した と
言 つて お られた。家 にはベ ッ ドが四床 しかな く、 全員 に寝床 を提供す るには苦
心 したが、それで も板 の間だ けはた つぷ りあ つたので、露営 を覚悟 して きた彼
らには十分快適 に過 ごして もらえた よ うだ。
彼 らは一昼夜 を山村部 で過 ごしたのだが、そ の 目的地 までは 日本 の「乗物」[乗
物駕籠 ]で 担がれて いつた。乗物 とい うのは小ぶ りの家 の よ うな形 をして いて、
これが集団で一斉 に出発 したものだか ら、一 見す ると小 さな村 が移動 している
ような感 じである。一 行 は心行 くまで茶 の産地 を視察 したが、全体 を通 して非
常 に充実 した時間 とな った よ うだ。そ の夜 は大 きな寺 に泊 ま り、布 団で眠 つた
とい う。帰 つて きた彼 らは晴れや かな様子 で、食事 をも りも り食べ 、 とて も楽
しく過 ごせた と報告 して くれた。写真 の器材 を持 って きていた役人がいた ので、
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一緒 に静間の風景 を収壽て 回 った。そ の うちの何葉 かは国許 に送 って もらえ蛉
よ う頼 んでみるう も りでい る。ただ、近い つち に 自前 の写真器材 を手 に入れ よ
うと思 つてい はので、それが時 えばた くさん写真 を送れ ると思 つ。
茶栽培視察 に関す トシ ェパ ー ド大佐 の報告 は、いずれわ始 らくアメ リカ の新
爾紙 上 に掲載 され る逸とだろ う。 また同行 した茶薦 の一 人、 チ ャーチ氏 もどう
ゃ ぃ Fニ ュ_ョ _ク ・ タイ ムズ」紙 に記事 を寄せ ゐらしい。一― ご興味 の 向き
がられ ば、詳 しい 進 とはそち らを参照 され たい。私 膠―行 を帰 りの総 まで粘送
りす ゐと、彼 らは温 かい もでな した感謝 し、視福 の言葉 をか けて くれ た。 日本
の だヽ
舟 に戻 つ た私 は船 軸 を離
れ 、蒸 気艇 の彼 ら と別 れ の し
卜 したわ互 い 拳銃 を空 に放 っ
て大声 で挨拶 を交か し合 った。
彼 ら ■夜 半 に喩 って 出港 、蒸
l―
気 を上 げ て湾 を後 にす ゐ。 一
方 の私 ■雨 と暗 闇 の 中、馬 の
背 にまた 力`って静 間へ と弓│き
l―
返 す の だ った。
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