Title 記憶と忘却の文学論 : 漱石の圏域 Author(s) 山﨑, 正純 Citation 言語文化学研究. 日本語日本文学編. 10, p.1-19 Issue Date URL 2015-03-31 http://hdl.handle.net/10466/14330 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 山 正 純 があったとみなすべきだろう。つまり、国民国家として自決しよ ていた国民国家の概念は、二〇世紀初頭までの間に、西洋列強に いく。一九世紀末頃まではヨーロッパとその周辺地域にとどまっ 民族がそれぞれの運命を自ら決定すべきだという民族自決論 は、フランス革命以降の国民主権概念の広まりとともに定着して ショナリズムとが密接不可分なものであることもまた、こうした し た こ と に 起 因 す る の で は な い か と 思 わ れ る。 レ イ シ ズ ム と ナ ものを厳しく峻別する規制を内包させているらしいことも、そう 構造としてその内部に、外部世界から認知されるものとされない うとする権利を認められる民族になるには、先行する国民国家に よる植民地化の脅威にさらされた地域において、国民国家化を目 ことをその遠因の一つとして数える事ができるのではないかと考 Ⅰ 対抗記念碑と記憶 指すナショナリズム運動となって興隆することになる。特に第一 える。 この民族自決という理念は、 ﹁国家としての独立を主張できる民 異の等価物によって表象される社会的不平等とそれに起因する紛 おそらく今日、日本を含むすべての国民国家はレイシズム的国 家であり、人種的差異、あるいはそれ以上に歴史的・文化的な差 よる暗黙の認知が必要とされるのであって、おそらく国民国家が 次世界大戦とその後の終戦処理の段階は、普遍的理念として民族 族が国民国家を主張できる﹂ 、という論理的なトートロジーでも 争をその内部に抱え込んでいる。しかしまた現代の国家は、平等 自決が国際法の中心に据えられた画期だったといえる。しかし、 あって、これを終戦処理の原則としたベルサイユ体制が﹁勝者に の回復へ向けて、政治的、法的にレイシズムと闘いそれを根絶す 一 よる勝者のための国際秩序だ﹂と批判されることには十分な理由 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 る任務を負っているのであり、レイシズム批判を終わりなき実践 いえるだろう。 ら論理化することが、文学研究に課された一つの大きな課題だと 二 として継続しながら、その成果を問われ続けているといえる。具 トの中で、グラムシの業績からのサバルタン概念の継承が行われ 立ち上げられたサバルタンスタディーズという学際的プロジェク にはいってラナジット・グハらインドの歴史学者が中心となって ラムシが獄中で書き残したノートの中に登場した。一九八〇年代 底した従属性﹂を指す概念として一九三〇年代のアントニオ・グ う術語は、知識人のヘゲモニーのもとに置かれるべき民衆の﹁徹 ルタン研究からその方法論を学んでいるのだが、サバルタンとい レイシズムの理論にはもとめられている。レイシズム研究はサバ 悪の痕跡がそこに隠蔽されつつ露呈してしまうという事態に深い 向き合う時、きわめて個人的な体験によって刻み込まれた他者嫌 者を選別しようとする深い欲望が織り込まれている。人がそれに 記念碑というアイディアには、人間の主体化の過程で生じる、他 はずだ。ジェイムス・ヤングとテッサ・モーリス・スズキの対抗 を張るそうした欲望への主体的抵抗の実践は容易なことではない 思想が介入する可能性があるということであった。主体内部に根 の資格を剥奪し、彼らをこの地上から根絶しようとする、殲滅の 二〇世紀から今日に至る世界規模での歴史的経験から私たちが 学んだことは、人間存在の主体化の過程の一部に、他者から人間 体的には、レイシズム的主体の生成過程を説明する任務が、いま る。このプロジェクトは国民国家の歴史を支配者の視点から記述 羞恥心とともに気づくことになるのだ。 れてはじめて可能になるとみなすべきでしょう。 社会がひとつの事実を忘れさるということは、それを忘れ さろうとするあらわな努力が、宣伝の形をつうじておこなわ の恐れと、それへの警告が倫理的な言葉で述べられている。 殲滅の思想を反復する人間の主体を文学はどう扱うのか。次に 引用する大江健三郎の文章には、自己言及的な愚かしさの反復へ してきた実証史学のエリート性との戦いを歴史学、政治学、経済 学、 社 会 学 な ど の 学 際 的 連 携 に よ っ て 行 お う と 呼 び か け る も の だった。プロジェクト・リーダーのグハが提示した﹁従属性の否 定を通じた自律性の獲得﹂という命題を、レイシズム研究は引き 継いでおり、国民国家の排他的構造の内部で愛国的ナショナリズ に従属することが避けられない状況に人間がおかれた時、心理的 な地平の裂開や喪失をどのように経験し、その経験から人間がど のように否定の契機を経て主体化するのかを、文学作品の内部か いことではないのか? という声が聞こえてくることもあり、 た、それを記憶していることは、君自身にとって、都合の悪 わりをとりまくのを、たびたび感じるではありませんか。ま みんな忘れてしまったのだ、きみひとりが記憶していて、 なんになる? という臆面もない誘惑の声が、われわれのま るのだと警告を発している。 は再びあったことを無かったことにする、忘却の道を行こうとす いがたく、またそれに従うことの安楽さ・心地よさに、われわれ 力として強制されるが、その同化圧力はしばしば個人にとって抗 無かったことにすることが忘却であって、それは常に社会的な圧 二〇〇九年に刊行された﹁水死﹂という小説には、夏目漱石の ﹁こゝろ﹂が何か所にもわたって引用されていて、特に﹁明治の せたエッセーの一節である。この中で大江は、知っていることを それは、より、説得的です。 し か し、 わ れ わ れ が、 き わ め て 孤 独 な 状 態 に お い て で あ れ、自分自身を窮地におとしいれかねない不都合なそれをで 精神﹂に殉死するという先生の言葉を、上演台本として批判的に と並行して、敗戦の年に一〇歳だった古義人少年にとっての﹁時 あれ、絶対に忘れてはならぬ、記憶しつづけねばならぬこと 十五年前、この書物に加えられた不当な仕打ちは、もっぱ ら占領軍にその責を帰すべきことでした。しかし、いま、こ 代の精神﹂が﹁漱石や乃木将軍の﹁明治の精神﹂が比較にならな 演じようとする若い劇団員たちと、地区の教育委員会の職員との こ に 公 刊 さ れ る 体 験 記 を、 も し わ れ わ れ が 再 び 不 当 に あ つ いほどに、﹁神としての天皇、現人神の精神﹂だったのやないで があるはずで、ぼくはそれがあると信じます。 ︵中略︶ かってしまうとしたら、その責はすなわち、われわれにあり すか?﹂という、古義人の父親の水死の理由を熟知しながら、そ 三 軍国主義教育のもとの古義人少年にとって、﹁時代の精神﹂ は、漱石や乃木大将の﹁明治の精神﹂が比較にならないほど つけられることになる。 の後の古義人少年の成育を見守り続けていた一老人の言葉が書き 対立が描かれるというイデオローギッシュな小説の流れと、それ ます。 ︶ ︵大江健三郎﹁なにを記憶し、記憶しつづけるべきか?﹂︵1︶ 一九五〇年に刊行される予定だった﹁原爆体験記﹂がGHQ に よって刊行差し止めとなったという経緯を踏まえて、その一五年 後にようやく刊行の運びとなったこの﹁原爆体験記﹂に大江が寄 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 つまり一九四五年までの﹁昭和の精神﹂は、それ以後の民主 長江古義人には﹁時代の精神﹂として﹁昭和の精神﹂が二 つあるという考えです。古義人さんが生きた昭和時代の前半、 ︵中略︶ に、﹁神としての天皇、 現人神の精神﹂ だったのやないですか? ぎ出した父の自裁としての水死であったという父長江の覚悟も含 ての殉死をしておく、そういうこと﹂として、自ら激流の中にこ て何らかの仕方で天皇が立ち去られることになるならば、前もっ の欠落が生じていたというのである。その欠落部分には、 ﹁人間 ﹁時代の精神﹂が記憶の閾の底に沈んでおり、それによって記憶 四 主義の﹁昭和の精神﹂がそうであるように、やはりあなたに まれていたはずだと大黄老人は古義人に語るのである。 機で飛び立つ訓練をする⋮⋮話の情景だけが消されずに残っ たんです。そしてかれの無意識の中に﹁鞘﹂から若者が飛行 ますか? 古義人少年の意識はそれを聴きとることを拒否し の構想が出て来る時、それをたやすく受け入れられると思い 練された兵士が自爆攻撃する、﹁人間神を殺す﹂という作戦 前半の﹁昭和の精神﹂の申し子の十歳の少年が、尊敬して いる父親の口から、﹁現人神の天皇﹂を特攻機乗りとして訓 も、確実にタイムアウトとなって、未来の人類に大きな負債を背 在地球上に生きる全ての人間が全力を傾けて原状回復に努めて として描かれることになる。そして次の﹁晩年様式集﹂では、現 去られていた記憶を、第三者の語りによって知らされる老小説家 無い戦後の長い途往きの背後に、まったく気づかれないまま忘れ の大江が、﹁水死﹂においては、戦後民主主義を信じた揺るぎの エッセー﹁なにを記憶し、記憶しつづけるべきか?﹂では﹁わ れわれ﹂という言葉で倫理的共同体を信じようとしていた三〇歳 神 を 殺 す ﹂ と い う 父 の 一 種 の 儒 教 的 思 想 と と も に、 ﹁敗戦に際し とって真実やったのやと思います。 たんです。古義人さん。それがあなたの永年見続けられてる 負わせることになるのだという自覚が書きつけられることにな 以後を生きる老作家にとって、彼が生きた戦後の長い きる人間たちの姿が主題化されている。 時間より、はるかに困難な時間を生きなければならない未来を生 る。3・ ︶ 夢の内容ですよ ︵2。 老年に至り古義人は、永年夢に見続けてきた激流の中を赤革の トランクとともに短艇をこぎ出していく父の姿の意味を、大黄老 人の語りによって知ることになる。古義人には昭和時代の前半の 11 この放射性物質に汚染された地面を︵少なくとも私らが生 き て い る 間 は ⋮⋮ 実 際 に は そ う い う ノ ン ビ リ し た 話 じ ゃ な く、それよりはるかに長い期間︶人はもとに戻すことができ な い。 ︵ 中 略 ︶ わ れ わ れ の と 括 る こ と が で き れ ば、 そ れ を わ 去への鈍感さを無責任な愚行として記憶にとどめ置くためのアイ ディアを示唆するものだ。 ヤングの﹁対抗記念碑﹂設立の提唱には、石材や鉄鋼は記 憶を持続できない、という確乎たる思想がその基底にある。 記念碑に対する、終わりなき、そして移行し続ける未解決の 論争こそ、記憶を持続させる唯一の方法だ、という思想であ る。死者たちへの記憶にかかわる闘争に蔽われた世界で、悼 む、考える、行動するという困難にかかわり、ヤングは以下 世代に大きな負債を残すことにきわめて鈍感であり、この鈍感さ に悪と言うべき行為なのだが、それにもかかわらず人間は、次の なってあらわれるのだという洞察だ。その無責任な行為は、端的 記憶は取り返しのつかない無責任さをともなう致命的な行為と しても、われわれという一人称複数を主体とするとき、その負の 史的マーカーとの絶えざる交差のなかで、そして記念碑化さ かつ承認する。記念碑を存続させる行動のなかで、人々と歴 が生き続けるのは、概ね、歴史的時間であることを、認知し、 のではなく、歴史的時間と共に遂行を求める。それは、記憶 点のみではない。﹁対抗記念碑﹂は、歴史的時間に敵対する ﹁対抗記念碑﹂の美点とは、その変容しうる性質、ある ﹁ いは社会の記憶、社会自体の記憶の形態に挑戦するといった のように結論している。 によって、人間は過去の行いを記念碑として顕彰し、みずから褒 ︵ 五 James E. Young, T he T exture of M emory: H olocaust を取るのか、という歴史的時間のなかで、 記憶は生き続ける。﹂ れた過去の光の中で、わたしたちがどのような具体的な行動 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 次のテッサ・モーリス=スズキが引用するジェイムス・ヤング の文章とそれへのテッサ自身のコメントは、人間のこのような過 めたたえることさえあるのだ。 これらの大江の作品からうかがえるものは、人間が個人として 抱えることになる負の記憶が、個人の成長とともに隠蔽されると この思いに圧倒されて、私は、衰えた泣き声をあげていた ︶ のだ ︵3。 いる間に恢復させることはできない⋮⋮ れわれの同時代の人間はやってしまった。われわれの生きて M emorials and M eaning, New Haven and London, Yale ︶ University Press, 1933, p. 48 ︵ テ ッ サ・ モ ー リ ス = ス ズ キ ﹁ 不 穏 な 墓 標 / ﹁ 悼 み ﹂ の 政 治 ︶ 学と﹁対抗記念碑﹂ ﹂︵4︶ 六 私見では、山之内の社会システム論は、ニクラス・ルーマ ンあるいはアルベルト・メルリッチのオートポイエティック・ システム社会の設定とほぼ同義であろうと思われる。︵中略︶ この概念が要請するものは、分離不可能な相互関係のアンサ ンブルとして循環的に機能するような、基本的には閉鎖系と 間の一生より長い時間をくぐり抜け、次の世代にその愚かしい姿 治と個人的無意識という究極の対立軸を形成しながら、さらに人 事態に立ち至るのである。対抗記念碑の存在によって、記憶は政 を借りるならば、﹁公式帝国﹂には適合的であっても、 ﹁非公 には大きな困難がともなうだろう。ピーター・ドウスの用語 周辺部︵植民地︶を含めた帝国的編成の﹁総体﹂に適用する 総力戦体制に即していうならば、山之内が提起するシステ ム社会は、 中枢の国民国家的︵内地︶編成に適合的であっても、 してあらわれるシステムである。 をさらすことになる。政治からの反撃は当然予想されるが、政治 式帝国﹂にまでは敷延不可能なものとして、山之内の﹁シス 対抗記念碑は建立者の意図に反する個人的な怨嗟の声に覆わ れ、政治性の根拠であるはずの民衆の支持を根底的に失うという 性の優位が保証されるのは境界線で区切られた限定的な範囲に過 テム社会論﹂はある。︵中略︶中核に国民国家をおきながら ピーター・ドウスがいう﹁公式帝国﹂と﹁非公式帝国﹂との空 間的な関係は、個人の記憶の現象面を認知する理性の次元と、記 ︶ ︵崎山政毅﹁﹁総力戦体制﹂研究をめぐるいくつかの疑義﹂︵5︶ いう試みを私は言いたいのである。 接合し合う、システム混成体として総力戦体制を再考すると 多数・多様で様式を異にするシステム︵サブ・システム︶が ぎない。 崎山政毅は一九三〇年代の日本の総力戦体制を対象に、山之内 靖らによって進められたシステム社会論の有効性を批判的に論じ る次の文章の中で、地政学上の生存圏の内部にあっては、社会統 合の求心力に逆らうことは危険でもあり、またそれに逆らうこと に意味を見出すことも難しいが、生存圏・生存空間の周縁部に生 きている者にとっては、国民国家中枢からの同化圧力に同調する 必要性はまったくないと論じている。 するのかという問題についての大江の省察の深まりを示すものと 化は、人間の倫理性が人間の認識や行為のうち、 どこまでをカバー べきか?﹂に対して、小説﹁水死﹂及び﹁晩年様式集﹂が示す変 いえるだろう。大江のエッセー﹁なにを記憶し、記憶しつづける 憶を選別排除する無意識の層との垂直の関係とパラレルであると 二千五百七十三年、中世以来久しく襲来せし武門の執政全く るの日に於て、我 陛下の崩御まします豈一片の御遺憾無し とせざらんや、神武天皇帝位に橿原宮に即き玉ひてより茲に 邦基未だ完からざるの時に於て、未だ其善良なる解決を見ざ 如く何等顧念するもの無きも、善隣の中華民国動揺今の如く 道亦皇光に浴し、滿洲の租借地より支那一帯に於ける居留地、 跡を絶ち、帝政古に復り憲政新に成り、その領土に擴古の擴 時代は明治末年に遡るが、明治天皇の逝去に際し各新聞が追悼 文を掲載した中に、次のようなものがある。弔意を定型的な文章 その他世界至る所の邦国にも我臣民の在留せざるものなく、 いえるだろう。 で表現した同工異曲の追悼文ばかりが並ぶ中で、清国の日本人居 皇徳の及ぶ処際限無からんとす、 張を為して北は樺太の山林より南台湾の海嶼に及び、朝鮮八 留地で発行されていた﹃天津日報﹄の追悼文から一部を引用する。 ざるは地を隣邦に占むる、我帝国たるもの稍虞ふべきものな に至れり、されど今や正に過渡の時代に属し、其動揺常なら 保つ能はず、人民の輿論は澎湃して終に新共和民国を建つる 対の暴動状態となる。革命派の軍が武昌で蜂起し、革命・独立の など、清朝末期の延命政策に湖南、湖北、広東、四川各省で猛反 回収運動の成果である鉄道敷設権を国有化の名目で地元から奪う 孫文の指導のもとに民主主義の実現を目的とする革命政党中国 同盟会が誕生、国会開設運動を清朝が弾圧、一九一一年には利権 ︵ ﹃天津日報﹄社説﹁敬弔の辞﹂一九一二年七月三一日︶︵6︶ しとせざらんや、我帝国は支那の保全東洋の平和を図らんが 流れが急速に広がった。清朝は立憲派と帝国主義列強からも見放 近年隣邦の支那は動揺著しく、我帝国は毎に大義の下に其 和平を保持するに力めたるも、老大の隣帝国は終に其命脈を 為には、先に英国と同盟し仏露等と協約し、更に目下歩を進 弱体化、清朝が倒れ中華民国臨時政府が成立し、革命派の孫文が 七 され、一方の革命派は戦術的な失敗に起因する内部分裂によって めて露国との協約を堅実たらしめんとするに際し、我 陛下 の御大事発生せり、我帝国国内に連つては威国勢の発展今の 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 臨時大総統に就任したが指導性を発揮する余地なく、北洋軍閥の きわめて対照的で、また健全な批評性を﹃天津日報﹄のこの文章 制を官民一体となって推進した時代の衰弱したリアリズムとは、 八 首領袁世凱に、共和制支持を条件として大総統のポストを譲るこ にみることもできるのかもしれない。 にして描きとめるのかということになるだろう。 ﹁否定を通じた自律性の獲得﹂の決定的な瞬間を文学はどのよう すなわち次の問題は、人間の主体化のプロセスに、そのアイデ ンティティを喰い破る主体、いわば反主体、さらに言い換えれば とになる。辛亥革命と呼ばれるここに現われた動乱によって、帝 政から共和制へと政体が変った隣国中国のこの政変のただなかに あって、明治天皇を失うことの危機感がこの文章には露わである。 日本国内に目を転ずれば、日露講和条約に絡んでの日比谷焼打 ち事件、足尾・別子銅山の暴動、赤旗事件、大逆事件、南北正閏 問題と、明治維新の動乱をくぐり抜けた支配層の心胆を寒からし 武田泰淳は戦争中、一兵士として中国大陸へ送られ、また敗戦 時には、上海にあって一国の崩壊と凄まじい価値転換のさまをつ Ⅱ 忘却に抗う文学 した社会不安を打ち消す社会統合の中心となるイデオロギーは存 ぶさに眼前に眺めた。﹁審判﹂は帰国した武田泰淳が最初に書き むる出来事が打ちつづいている。アメリカの排日運動、伊藤博文 在しなかった。啄木のいう﹁時代閉塞﹂の状況は、維新以来の統 上げた小説である。 の暗殺もこの時期に重なっている。明治末年の日本国内に、こう 治のエネルギーの衰弱を端的に示すものであったのである。 国際関係からの完全な孤立をもって、世界新秩序の前衛としての という問題意識によってこれを読むとき、 一九三〇年代の日本が、 しまうものだと見ることができる。 ﹁否定を通じた自律性の獲得﹂ 明治天皇の治世とその後の日本国の途往きの暗澹たる姿を語って ど前に戦病死しました。地球上で、あの殺人行為を知ってい 覚するはずのないことを知っていたからです。伍長は半年ほ 自分に驚かねばなりませんでした。私は自分の罪が絶対に発 罪者だ、裁かるべき人間だ、と。しかし私は平然としている 私は考えました。自分は少くとも二回は全く不必要な殺人 を行った。︵中略︶しかも無抵抗な老人を殺した。自分は犯 つまり﹃天津日報﹄のこの追悼文は、明治天皇崩御を悼むスタ イルをとりつつ、みずからそのスタイルを裏切る言説によって、 アイデンティティの証左として国民にそれを押しつけ、総動員体 るのは私だけなのです。 ︵中略︶この行為のただ一つの痕跡、 追いやった連中を打ち殺したかった。同時に、自分の中に、 水筒と乾パンを渡し、自分の肩に手を置いたセツの顔が浮 かんだ。悲しみとそれ以上の怒りが湧いてきて、セツを死に 私が生きているということだけです。問題は私の中だけにあ これで石嶺のことを知るものはいない、という安堵の気持ち 手がかり、 この行為から犯罪事件を構成すべき唯一の条件は、 ︶ るのです ︵7。 引用は、語り手の﹁私﹂に宛てられた二郎からの手紙の一節で ある。二郎にとって中国戦線での殺人行為は、その事実をただ一 た記憶と死ぬまで向かい合い続けねばならないことが怖かっ だった。︵中略︶ベッドに寝たまま、五十年余ごまかしてき があるのを認めずにはおれなかった。 ︵中略︶以来、石嶺の 人知っている伍長が死んだことによって、初めて真に語るべきこ た。 ︵中略︶ 唇が離れた。人差し指で軽く口を拭い、立ち上がった石嶺 は、 十七歳のままだった。正面から見つめる睫の長い目にも、 こともセツのことも記憶の底に封じ込めて生きてきたはず ととして意味をもち、忘れてはならないこととして刻み込まれた 心の在り処をありありと知ることになったという告白がなされて いる。 肉の薄い頬にも、朱色の唇にも微笑みが浮かんでいる。ふい ひどく傷ついた兵士が列をなして壁から現われ、その水滴を口に になる。寝たきりになった徳正の足指から滴る水滴を求めて毎夜、 たって突然右足が大きく腫れあがり、親指の先から水が滴るよう ﹁ありがとう。やっと渇きがとれたよ﹂ 石嶺は笑みを浮かべて徳正を見つめるだけだった。起き上 がろうともがく徳正に、石嶺は小さくうなずいた。 ﹁この五十年の哀れ、お前分かるか﹂ に怒りが湧いた。 含んでは一礼し、また壁に消えて行く。その兵士の中に、徳正が 九七年に芥川賞を受賞した目取真俊の小説﹁水滴﹂ 次の引用は、 の一節である。沖縄殲滅作戦を生き延びた徳正は戦後五十年余り かつて殲滅戦のただなか、壕の中に見捨てて敗走した石嶺という 九 きれいな標準語でそう言うと、石嶺は笑みを抑えて敬礼し、 ︶ 深々と頭を下げた ︵8。 名前の兵士が現われる。 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 広島一中の二年生の夏、被爆した経験をもつ。 一〇 和夫が頭のなかで想像していた以上の変りようであった。 左右の手の甲のケロイドから、また人々の気の毒がる言葉、 引用文中のセツという女性は、看護班の女学生で、徳正が瀕死 の石嶺を壕に見捨てたことを唯一知る人物だったが、彼女もまた 十年程経って初めて知る。この時以来徳正は酒浸りになり博打に 人々の和夫を見た瞬間の視線からある程度の醜い変容を覚悟 敗走した末に同僚の女子学生五人と手榴弾で自決したことを戦後 まで手を出すようになる。引用はセツの死を知った彼の苦衷を描 していたが、とてもその比ではなかった。 グラウンドから、生徒たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。 た。 ︵中略︶和 和夫は、その場で死んでしまいたいと思った。 夫は、自己の内面で、激しく崩壊する音を聞いたように思っ いた部分だ。徳正にとっては、石嶺の一件を唯一人知るセツの死 を知り、安堵の気持を抱いている自分を見出した瞬間に、石嶺と セツの二人の死の記憶を封じ込めた孤独な心がたちあがってく る。引用の後半では、﹁この五十年の哀れ、お前わかるか﹂と徳 した石嶺の感謝の言葉は、記憶を封じ込めて生きてきた徳正の戦 正が石嶺に語りかける。徳正の足から滴る水滴でのどの渇きを潤 後の苦衷へのいたわりの言葉とも読める。徳正の心に刻まれた二 このようにして、外出して不愉快な思いをさせられて家に 帰るつど、和夫は、その原因となった好奇心と蔑みに似た視 と囃したてる幼児の前から、和夫は負け犬のように逃げた。 ﹁やあ、ケロイドだ。お化けだ﹂ これからの自分は、いったいどういうふうに生きてゆけば よいのか、和夫は大声で叫びたかった。 和夫は、不意に、孤独感を覚えた。それは、︵中略︶言葉 では表現できない孤独さであった。 人の死の記憶は、石嶺によってようやく共有され、密封されたま ま五十年を経た徳正の心は、死者との通路を得ることで開封され ることになる。むろんそれは徳正にとって奇跡的ともいえる救い として訪れる瞬間である。 いわゆる原爆文学においても、孤独な密封容器としての心の生 成は、作家の描き出す主人公の苦衷の在り処として、極めて重要 な 描 写 の 焦 点 と な っ て い る。 中 山 士 朗﹁ 死 の 影 ﹂︵9︶か ら 三 つ の 場面を以下に並べてみよう。著者の中山士朗は一九三〇年生れ。 され、 人間の顔はすべてケロイドにおおわれてしまえばよい、 線を思い出し、地球のありとあらゆる場所に原子爆弾が投下 言える。 せられた和夫の生きる世界の出口のない閉塞感を描いたものとも と願い、自分を生かすように努力した人々を呪わないではい 次に引用する、在日韓国人の原爆被害を描いた小説﹁暗やみの 夕顔﹂の著者金在南は一九三二年生れ、五二年に日本に密航し佐 と比較してみれば明らかなように、被爆の事実それ自体が、社会 られなかった。 主人公和夫をはじめ登場する生徒たちの多くは、著者が在籍し た広島一中の生徒たちであろう。最初の引用は、和夫が顔に大き 的に認知されない韓国社会における被爆者の孤立感に作品の重心 賀県伊万里海岸に漂着。早大露文卒業後、朝鮮高校の教師をしな く残ったケロイドを鏡の中に初めて確認した場面である。この瞬 がおかれている。 内部に現われる人類殲滅への欲望が描かれている。孤独な心の成 一層陰鬱なものにしている。三つ目の引用には、そのような心の を抱えたまま生きて行くことへの深い絶望感が和夫の心の内部を に閉じられていることが二つ目の引用に描かれている。孤独な心 のしかかってくる。その心が誰にも理解されない密閉容器のよう が娘を抱きしめ縁に座らせたかと思うと、やにわに、その上 し入れからすすんで出てくるとは、信じがたかった。日本宅 英 植 は 驚 い て 中 腰 に な っ た。 あ の 娘 が 光 の 方 ︵ 月 明 り ︶ 趙 へ向かってきている。わずかな光をも怖れるという娘が、押 ﹁英順ア、こっちいらっしゃい﹂ その時、奥の部屋の襖が開かれ、なにかいざり寄る音がし た。日本宅が障子を開け、声をかけた。 がら、小説の創作をする在日作家である。中山士朗の﹁死の影﹂ 間から和夫の戦後が始まるといってよいだろう。単なる比喩では 立と殲滅の思想との関わりを示す一節として注目したい。他者を 衣を剥ぎとった。ああ⋮趙英植は思わず声をあげた。そして なく、和夫はこの崩れた顔をもつ当事者として戦後の焼け跡に一 根こぎにするメンタリティが和夫のなかに生成してくるこの場面 すぐ眼をそらした。声をあげたのは、雪のように白い、若い 人立つのだから。その孤独な内面が密封された心が、和夫に重く は、原爆投下によって発動した暴力が連鎖する瞬間をとらえたも 女の肌を見てしまったとまどいなのか。それとも、その美し 一一 のともいえ、一方でこの暴力性を単独で抑圧し抹消する義務を課 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 い肌の背中に赤黒い無残なケロイドの隆起を見た驚きなの なっている。この出口のない差別は、いかにも非力なマスコミ人 無理解と差別といった重層的な差別構造の中で救いがたい状況に 一二 か︱。 紙によってその事実を告げられた語り手も含め、このチョヨンシ しにした徳正、無抵抗な中国人を射殺した二郎や、その二郎の手 である主人公の記憶に大きな傷として刻み込まれる。石嶺を見殺 ︶ しっかり見てください!﹂ ﹁眼をそむけないで下さい。 あなた、 日本宅の鋭い声が飛んできた。︵中略︶ ﹁よく見るんです! 原 爆というものが、どんなものか!﹂︵ クという名の若い新聞記者と同系統の人物たちだと見ることがで 韓国に帰国するが、原爆被害であることが社会的に認知されない 的障害もあるという設定になっている︶の二人。日本の敗戦後、 力と母の自殺。それら金鶴泳のモチーフのほとんどがこの作品の 月に文藝賞を受賞した。吃音・両親の不和・父による凄まじい暴 次に在日文学の代表的な書き手の一人である金鶴泳のデビュー 作﹁凍える口﹂から一部を引用する。この作品は、一九六六年九 きる。 限界状況で困窮した生活を強いられている。娘の肌の美しさとケ 中に描かれている。 しかないであろう。無力な記者でしかない主人公に訴え続ける母 にしろというこの上司の態度は、韓国社会の被爆者差別の一端で する記事としてなら書いてもよいが、実名に加え住所まで明らか まれる。若い娘の肌に浮かぶケロイドに対する低劣な興味を喚起 なかった。寂しくて泣くためには、俺は寂しさに慣れすぎて 悲しくて泣いたことはあった。だが、寂しくて泣いたことは いたのであって、 俺の悲しみを泣いたのではなかった。俺は、 今朝のような、こんな涙ははじめてだった。幼いとき俺は よく泣いたものだが、そのほとんどはおふくろの悲しみを泣 正確にいえば明日の早朝に死ぬ。なぜ死ぬのか。 俺は今夜、 いた。 的孤立は、日本からの帰国者への韓国社会の偏見、原爆被害への の悲痛な叫びを描いたのが引用した場面である。この母娘の社会 知・援護に向けた特集記事を書こうとするが、上司の無理解に阻 い韓国人男性で新聞記者︶は、韓国社会に向けて在韓被爆者の認 ロイドとの対比を月明りの中に見届けた主人公チョヨンシク︵若 広島で被爆した朝鮮人のこの家族は、父が原爆症で死亡してお り、原爆症の母と、重度のケロイドを全身に持つ二六歳の娘︵知 10 。 めに死ぬのだ ︵ ︶ いるから死ぬというのでもない。俺はただ、俺の寂しさのた 死ぬのではむろんない。また、俺の肉体が病菌に侵蝕されて かつてのおふくろの悲しみを思い出し、その悲しみのために わけ磯貝の遺書にある﹁寂しさのために死ぬ﹂という言葉は、明 さらに先生とその遺書を読む私との関係とも重なっている。とり 最も近いが、同様に漱石﹁こゝろ﹂の死んだK と先生との関係、 なる。崔と磯貝との関係は、﹁審判﹂の語り手と二郎との関係に ると軽度であるため、 磯貝の前ではどもることが無い。 磯貝にとっ 貝と同じく吃音に悩む若者である。しかし、磯貝の吃音と比較す る。崔は作品の語りの現在において、大学院生になっている。磯 たのは、唯一の友人だった在日二世の崔に宛てた遺書の一節であ ろ﹂との類似がこれまで度々論じられてきた作品である。引用し が挿入される形式で、武田泰淳の﹁審判﹂とともに漱石の﹁こゝ 崔の友人であった磯貝は、きわめて重度の吃音と、母親の自殺、 父親の暴力等々を背負い自殺する。小説は、自殺した磯貝の遺書 て、人類殲滅の思想へと接続するような剣呑な心を生成させてい の崩壊感覚というべき状況に孤独なまま立ち尽くすことによっ ていく。﹁死の影﹂の和夫の場合は、罪意識というよりも、内面 んでおり、その痛覚によって心は一層孤独なものとして閉じられ う状況において最も鋭い刃となって、孤独な心を内側から斬り苛 しているということだ。そしてその罪意識は、目撃者の不在とい な罪意識の自覚と同時に、その罪意識を密封する容器として生成 など、どの人物造形にも、この寂しさに通じる孤独な心が、明確 らかに ﹁こゝろ﹂ との関連性を示すものだが、 重要なことは、﹁審判﹂ ては崔の日本語の流暢さが抑圧の一つの要因になっていた可能性 た。ケロイドを顔に持つことと重度の吃音に悩むこととが、一人 両親を含む遺族の誰ひとりとして中を見ることができない。あき ﹁8月の果て﹂は、柳美里の祖父イウチョルと、その弟イウグン 朝日新聞夕刊に二年にわたり連載された後、未完のまま文芸誌 ﹃新潮﹄に場所を移して掲載され二〇〇四年に刊行された柳美里 の二郎、 ﹁水滴﹂の徳正、 ﹁暗闇の夕顔﹂の新聞記者チョヨンシク がある。在日であり吃音でもある崔は、磯貝を死から救い得た唯 の青年を心の中の孤独な住人にするのである。 らかに崔だけに宛てられた遺書なのである。読者は崔とともにそ 一三 の兄弟が長距離走者として走る﹁すっはすっはすっは﹂というほ 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 の遺書を読み、磯貝の死に至る内面の葛藤をつぶさに知ることに まま、磯貝の訃報を突然知らされる。その遺書は厳重に封印され、 一の人物であったのだが、崔は磯貝の内心の苦衷を理解できない 11 とんど無限といってよい繰り返しの中から、様々な記憶がよみが えり、また消えて行く、極めて独創的でユニークな構想と文体で 描かれた長篇小説である。以下にこの長篇小説から二箇所を引用 する。 三 十 人 全 員 が 穴 に 降 り る と、 コ マ が 両 手 に リ ボ ル バ ー を 握ってわれわれに土をかぶせはじめた。生き埋めだ! われ われを生き埋めにする気だ!︵中略︶ 一四 叫び声にこころを噛まれて、雨哲は自分が土砂を手で避け る仕種をしていることに気づいた。サップが見える⋮ひとり はコッタリ、もうひとりはコマ⋮アイグ 土が目に入った、 アイグアヤッ!アヤァァァ、アイグゥゥゥ⋮チュゴッタ、と 思った瞬間、弔いの鐘のように頭痛が鳴り響いた。雨哲は痛 みによって生きていることを知らされ、眠りによって更新さ れた事実に打ちのめされた。 民 主 主 義 人 民 共 和 国 万 歳! お れ は 夢 の な か で ナ ム ド ン セ ン ナムドンセンが殺された。 ︵略︶⋮おれは夢のなかでナムドンセンの声を聞いた、朝鮮 夢の中で叫んでも叫んでも声を出せないときのようだっ た。 まっているのか? ︵ ︶ センは生き埋めにされたのか? ナムドンセンはこの山に埋 だった、生きたまま土をかぶせられ︱︱、アイグ、ナムドン 朝鮮民主主義人民共和国万歳! 根の顔めがけて土を放った。目にも口にも土 コッタリが雨 が入った。雨根は手の根もとで目を拭って荒縄を噛み、土と されないだろう。そして何年かしたらきさまらは口を噤むだ 撃たれて捉えられ、仲間とともに銃殺、或いは生き埋めにされる 最初に引用したのはまず弟のウグンが南朝鮮労働党のスパイと して追われ、持ち前の健脚を発揮して山に逃げ込むが、遂に足を 雨だらけの顔でふたりの査察係を睨みあげた。きさまらはわ ろう。しかし、われわれはきさまを目撃した。死によって口 場面である。ウグンはここで政府側の手先によって生き埋めにさ れわれの死を目撃した。われわれの死は報告されても証言は を封じられても、その四つの目にわれわれの六十の目を刻印 れるのだが、自分のこの死を殺す側として目撃しながらやがて口 をつぐむ者たちにむけて、死後﹁口を封じられても﹂消えること してやる。 12 るように、殺されたウグンは殺される現場の記憶をそのまま夢を 体が何なのかは根本的な問いであり、二つ目の引用によってわか それを記述するのはだれなのか。この小説にとってこの描写の主 写される。 その感覚は殺されるウグンのものに他ならないのだが、 かぶせられスコップで頭がい骨を割られる瞬間の感覚が克明に描 無くこの地上に残り続けるという。この引用に続く部分で、土を 彼女の罪になるのであり、彼女もまたそのことをよくわかってい 安婦としての経験は、家父長制と一体化した儒教社会においては キムヨンヒが降りてくるという場面が描かれる。キムヨンヒの慰 れ、柳美里が複数の巫女とともに祭儀をおこない、彼女の身体に る。実際、小説の末尾近くに、 ﹁死後結婚式﹂という章が設定さ 孫にあたる柳美里の身体のなかに転移し再生していることにな 自身であり、キムヨンヒの孤独な心は、慕っていたウグンの兄の 作品は自由という叫びによって結ばれる。﹁審判﹂の二郎、﹁水 滴﹂の徳正、﹁死の影﹂の和夫、 ﹁凍える口﹂の磯貝と崔、かれら 通じて兄のウチョルに届けている。つまりウグンは、自分の死の ウグンに思いを寄せていた一三歳のキムヨンヒは日本人に騙さ れて武漢の慰安所に拉致され、ナミコという名で慰安婦として働 はみな心の中に言葉にならない苦衷を抱え、誰にも知られずそれ た。 ﹁死後結婚式﹂を挙行しようと考えた作中の柳美里は、とり かされる。十五才で日本の敗戦となって、故郷のミリャンに戻る を心と名付けて生きたのであった。﹁8月の果て﹂において、そ 事実を知る者が口をつぐむことを知っており、その故に、死の内 彼女は、プサン行きの船の中でウグンの兄のウチョルと偶然再会 の密封容器のような心というやっかいな代物を開封し、異端審問 わけキムヨンヒの言葉にならない苦衷を朝鮮儒教の空間の外部に し、 ﹁あなたはなにひとつ悪くない。悪くないのだから、誰に対 官 的 権 力 の 手 の 届 か な い 空 間 に そ れ は 解 放 さ れ て い る。 ﹁水滴﹂ 部感覚を死後も兄の生きた身体においてよみがえらせずにはいら しても恥じる必要はない。顔をあげて帰郷できる。私と一緒にミ が死者となった石嶺による徳正の戦後の長い苦衷からの解放の物 解き放とうとしたのだといえるだろう。 リャンに帰りましょう﹂と励まされるのだが、プサンに入港する 語だったと読めるなら、二〇〇〇年を前後する頃に、国民国家に れないのだ。 前夜、誰の目も届かない船の艫から海の中に身を投げる。彼女の 対する根本的な認識の変化があった事が推定されるだろう。 一五 投身は同じ船に乗った多くの帰還者の誰にも知られることのない 状況で決行されている。その死を語るのは作中に登場する柳美里 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 Ⅲ 漱石﹁こゝろ﹂の圏域︱︱結びに代えて ︵ ︶ に度々言及することになった本稿を閉じ 夏目漱石﹁こゝろ﹂ るにあたって、漱石﹁こゝろ﹂の圏域について述べておきたい。 一六 の推論である。誰にも死の理由をいわずに死んだK は、 ﹁8 月 の 果て﹂ のキムヨンヒの位置と同じ所にいると考えることもできる。 一方先生は、K のように黙って自裁することもできたはずだが、 総てを﹁私﹂に打ち明け、伝えようとする。遺書の中で先生は﹁記 私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、恰も硝子で作つた 義眼のやうに動く能力を失ひました。私は棒立ちに立竦みま た事からくる一種グロテスクな恐ろしさに先生が全身を貫かれて 景を含め先生自身を除く誰にも知られないまま決行されてしまっ 憶して下さい。私はこんなふうにして生きて来たのです。﹂ と ﹁私﹂ した。それが疾風の如く私を通過したあとで、私はあゝ失策 いるからに他ならない。つまりKの死と自分の死を了解可能なフ に懇願するかのように語りかけるのだが、それはKの死がその背 つたと思ひました。 もう取り返しが付かないといふ黒い光が、 レームの中に収める行為がまず必要になるのだ。 それでも私はついに私を忘れる事が出来ませんでした。私 はすぐ机の上へ置いてある手紙に眼を着けました。それは予 理を行った自分自身の受動性が強調される。しかし、血潮を拭い てゐました。﹂と書かれており、 ﹁奥さんに命令されて﹂遺体の処 ﹁先生﹂によって書かれることになる長大な﹁遺書﹂には、K の遺体の処理について﹁さすが軍人の未亡人だけあつて要領を得 期通り私の名宛になつてゐました。私は夢中で封を切りまし 両手を染めたであろうKの血液は、﹁先生﹂の心に赤い染みとなっ とり、Kの血を吸いこんで重くなった蒲団を処理する﹁先生﹂の んでした。 の﹁遺書﹂には、﹁先生﹂の心に鋼の用に喰い込んだK の死とい て残るであろう。﹁先生﹂の心を充たす血液は、自裁したK の流 先生の心の生成が、Kの自殺からではなく、Kの遺書に何も書 かれていないことをまず確認したその瞬間から始まったことが、 う事実が、Kの沈黙によって一層重い呵責となって﹁先生﹂を押 した血液だと﹁先生﹂が感じたとしても不思議ではない。﹁先生﹂ 右の引用によって明らかにいえるのではないか、というのが本稿 ︵下 先生と遺書 四十八︶ た。然し中には私の予期したやうな事は何もかいてありませ 照らしました。さうして私はがた〳〵顫へ出したのです。 私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く 13 さうして又慄としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じ 舞にKが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなつ なぜK は遺書に何も書かないまま逝ってしまったのか。仮に、 ﹁先生﹂を責める言葉がそこにあったなら、この小説の展開は全 やうに辿つてゐるのだといふ予覚が、折々風のやうに私の胸 し潰そうとする苦しみが描かれているように思われる。 く異なるものになる。 ﹁先生﹂は﹁奥さん﹂ ﹁お嬢さん﹂から責め を横過り始めたからです。 せられ贖罪は遂げられているのだから。だが、現実はそうはなら となく人生を全うしたに違いないと思う。なぜなら罪は十分に罰 響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだ れ、その上に、明治天皇崩御の報に接して、﹁最も強く明治の影 ここで﹁Kが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくな つた結果、急に所決したのではなからうか﹂という解釈が提起さ ︵下 先生と遺書 五十三︶ た結果、急に所決したのではなからうかと疑がひだしました。 られるであろう。 警察の取り調べをも避ける事はできないはずだ。 なかった。 ﹁先生﹂の犯した行為は﹁先生﹂を除く誰にも知られず、 といふ感じが烈しく私の胸を打ちました﹂と書かれることで、﹁明 社会的制裁は大学での学業の継続にも影を落とすだろう。一切を 沈黙したまま逝ったKを心の中に住まわせたまま、Kへの贖罪を 治の精神﹂という国民国家のイデオロギーの登場があたかも必然 失った﹁先生﹂は、だがそれにもかかわらず、﹁遺書﹂を書くこ 無限に繰り返す地獄の中に﹁先生﹂は生きることを強いられてい であるかのように描かれ、個人の生と死のもつ個別性を解消し無 一七 に 言 っ て 違 和 感 が あ る。 し か し そ の 違 和 感 は 遺 書 を 受 け 取 っ た 衷を大文字の国家元首が救うというこの思想は、やはりロジカル て、それにしてもKと先生の死の理由の極めて個人的な煩悶や苦 えて言えばその元首の権威性しかないのだと考えられていたとし 漱石にとって個人の生にはその人間には背負いきれない罪業が 刻印されているものであり、それを救済出来るのは国民国家、敢 化する場所としてそれが選択されのだと言える。 るのである。 そのような﹁先生﹂が﹁遺書﹂の中で行ったのは、Kと自分を 同じ境遇に置き、同じ苦しみを抱えた心の重みに耐えかねた結果 としての、心からの解放というカタストロフの演出だったのでは ないか。 同時に私はKの死因を繰り返し〳〵考へたのです。 ︵中略︶ 現実と理想の衝突、︱︱それでもまだ不十分でした。私は仕 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 からだ。日本文学はその意味で、東アジアに対するもっとも大き 一八 ﹁ 私 ﹂ の 世 代 とK や 先 生 と の 世 代 を 分 か つ 架 橋 不 能 な 断 絶 で あ る な負債をいまだ返済していないのである。 注 ︵﹃原爆 ︵1︶大江健三郎﹁なにを記憶し、記憶しつづけるべきか?﹂ 体験記﹄広島市原爆体験記刊行会編 一九六五年八月 朝日新 聞社︶ ︵2︶大江健三郎﹃水死﹄︵二〇〇九年一二月 講談社︶ ︵3︶大江健三郎﹃晩年様式集﹄︵二〇一三年一〇月 講談社︶ ︵4︶テッサ・モーリス=スズキ﹁不穏な墓標/﹁悼み﹂の政治学と﹁対 抗記念碑﹂﹂︵ ﹃批判的想像力のために﹄二〇一三年二月 平凡社 ライブラリー︶ ︵5︶崎山政毅﹁﹁総力戦体制﹂研究をめぐるいくつかの疑義 ︱シス テム社会論の視座からの総力戦体制分析に関して﹂︵﹃レヴィジ オン﹄第1輯 一九九八年六月︶ ︵6︶清国日本人居留地で発行された日本語新聞。引用は﹃挙国哀悼 録﹄︵一九一二年九月 日本書院︶に拠る。 ︵7︶武田泰淳﹁審判﹂︵﹃批評﹄一九四七年四月号︶ ︵﹃文学界﹄一九九七年四月号︶ ︵8︶目取真俊﹁水滴﹂ ﹃南北﹄一九六七年一〇月号︶ ︵9︶中山士朗﹁死の影﹂︵ ︵﹃民涛﹄一九八九年六月号︶ ︵ ︶金在南﹁暗やみの夕顔﹂ ﹃文藝﹄一九六六年一一月号︶ ︵ ︶金鶴泳﹁凍える口﹂︵ ︵ ︶柳美里﹃8月の果て﹄︵二〇〇四年八月 新潮社︶ ︵ ︶夏 目 漱 石﹁ 心 ﹂︵﹃ 東 京 朝 日 新 聞 ﹄﹃ 大 阪 朝 日 新 聞 ﹄ 一 九 一 四 年 四月二〇日∼八月一一日連載、﹃こゝろ﹄一九一四年九月 岩波 ことを漱石は分かっていたはずだ。なぜなら﹁心﹂連載終了後の 次の連載小説を﹃白樺﹄の若い作家志賀直哉に白羽の矢を立て、 懇切な依頼をしたのも漱石その人だったからである。 漱石が﹁こゝろ﹂を書いたことによってしかれたレールがやは り厳然としてあり、心の生成のプロセスを後の小説家がそこから まなびつつ、国家と心との関係がさまざまな形で描かれてきた。 帝国主義の強力な政治の壁に阻まれ、その暴力性に曝されて死ん でいった人々の未知の死の数々を、目撃者として描き出し、厚い 壁の向こう側からこちら側へと、その死の事実を引き摺り出すこ と。本稿はそうした文学の目撃と証言の機能を、現今の政治的非 論理性によってもたらされる時代の岐路において、確認すること を目指したものである。 東アジアの民衆の心の生成を描き、国家イデオロギーの外部に その苦衷に満ちた閉塞感を解放する主人公が描かれるようになっ た時、それは東アジアの文学にとって長く望まれ続けた文学の登 場として記念されるべきものになるであろう。なぜなら、漱石の 依頼に対して、志賀直哉は誠実に執筆の努力を試みた末に、機未 だ熟さずと判断し、漱石邸にて執筆辞退の申し出を行って以来、 この漱石の宿願は未だ日本の文学史の空白として残り続けている 13 12 11 10 書店︶ 付記 本稿は日本近代文学会20 14年度秋季大会︵一〇月一八日 於広 島大学︶で開催されたシンポジウム﹁特集 ﹂での報 問い直す︿愛国﹀ 告をもとにしている。パネリストの小熊英二氏、内藤千珠子氏、ディ スカッサントの竹内栄美子氏、並びにシンポジウムを企画された運営 委員会、広島大学の有元伸子氏、また当日の質疑を通じて多くの示唆 いただいた方々に深く感謝申し上げる。 ︵やまさき まさずみ・本学教授︶ 記憶と忘却の文学論︱︱漱石の圏域 一九
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