安倍能成_「こゝろ」 を読みて

﹁こゝろ﹂を読みて
一
﹁思想﹂の漱石記念号には何やら書かねばならぬ義務の
如きものを感じていた︒しかし漱石先生の作品に親まな
いことはずいぶん久しく︑急に書こうと思うと何を書く
べ き か に 惑 わ ざ る を 得 な い ︒ そ こ で 私の好 き な 作 品 の 一
つの﹁こゝろ﹂を久しぶりで読んで︑その感想を中心に
何か書いてみることにした︒これは作品の研究でもまた
批評でもない︒ただこの作を通じて得た先生への感想に
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すぎない︒
元来 私は先生のファンではなかった︒詳しくいえば先
なかったということもあるけれども︑先生の作は当時の
に 赴 か し め る ほ ど の も の で はな か っ た ︒ 私の志 が 創 作 に
文 章 と 着 想 と に 感 心 は し て も ︑ そ れ は 私を し て 先 生 の 門
上 当 時 先 生 の 初 期 の 作 を 読 ん で面 白 い と 思 い ︑ か つ そ の
た私が︑それを読んだのはずっと後のことである︒その
発表 された時にも︑当時﹁ホトトギス﹂の読者でなかっ
かった︒先生が﹁ホトトギス﹂に﹁吾輩は猫である﹂を
生の作品の愛読から出発して先生に接近したものではな
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私 を 引 き つ け る 力 に お い て例 え ば 藤 村 の 作 に 及 ば な か っ
た ︒﹁ 東 京 朝 日 ﹂ に 出 た ﹁ 虞 美 人 草 ﹂ や ﹁ 坑 夫 ﹂ な ど に
も︑毎日毎日を楽みにして愛読するほどの牽引力を感ず
るまでにはならなかった︒私はすでに郷里で小学生だっ
た時分に︑中学校のえらい先生としての風貌を仰ぎ︑高
等学校で一学期の間先生から英語を教わったけれども︑
もし先生が下掛宝生流の謡を高浜虚子氏の薦によって私
た ち と 一 緒 に 稽 古 さ れ るこ と が な か っ た ら ︑ 私 は あ るい
は先生のお宅に伺うことはなかったかもしれない︒あっ
たとしてもそれはだいぶ遅れたのではないかと思う︒先
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生 と 親 し く 接 触 す る よ う に な っ て も ︑ 私 を 引 き つけ た も
たとえば広田先生の﹁偉大なる暗闇﹂だとか︑広田先生
はっきりした強い印象を残していない︒残っている印象︑
に次いで朝日新聞に出た﹁三四郎﹂も︑私にはほとんど
のごとくにはなかったのである︒
﹁虞美人草﹂や﹁坑夫﹂
作品を通じて先生と交渉するということが︑彼らの多く
が︑それにしても私には先生の作品を中心にして︑また
集まるほどの者皆にとって︑そうであったかも知らない
傾向はあるいは独り私ばかりのことでなく︑先生の門に
のは先生の作品よりもむしろ先生の人間であった︒この
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わざ
﹁哲学の烟を吹いた﹈とかいう一節は︑私にはむしろ態
、や
、み
、をさえ残したくらいである︒も
とらしい人工的ない
っとも今になってこの作品を読んでみたら︑はたしてど
ういう感じがするかは分らないが︑私が先生の作品に際
立って興味を覚えて来たのは﹁それから﹂をもって最初
とする︒その理由はそれが若かった私の最も興味を持っ
た恋愛問題を正面的に取扱った︑恐らく先生の最初の作
品だ というこ とにもあるけれども︑ 私の記憶にして誤な
くば︑先生のその後の作品に一貫する自然の真実と人為
の虚偽との矛盾相剋というテーマは︑すでにこの作品に
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お い て も 鮮 か に 取 扱 わ れ て い た と 信 ず る ︒﹁ そ れ か ら ﹂
っそう洗練されて来ているように思う︒
空 気 は ︑﹁ こ ゝ ろ ﹂ に お い て も 受 け 継 が れ る と と も に い
いが澄んだ人間や生活︑こうした人間や生活の醸成する
つつましい︑ひそやかな︑正直な︑静かな︑明るくはな
口 ぶ り か ら も 窺 う こ と が で き た ︒﹁ 門 ﹂ の 中 に 現 わ れ た
ら れ て ︑﹁ 門 ﹂ の 作 風 を 愛 し て お ら れ た こ と は ︑ 先 生 の
記憶するが︑その当時先生が﹁虞美人草﹂の技巧を嫌が
相倚れる寂しい静かな夫婦の生活を描いたものだったと
あい よ
の次に出た﹇門﹈は︑過去に恋愛の苦しい歴史を抱いて
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今手許に全集も揃っていず年表もないので︑確かなこ
と を い い 難 い が ︑﹁ 門 ﹂ の 後 に 明 治 四 十 三 年 八 月 の 先 生
の修善寺の大患があり︑生死の間をくぐって後︑先生は
静かに﹁思い出す事など﹂を書き︑再び新聞小説として
﹁ 彼 岸 過 迄 ﹂ に つ い て は 私 は ほ と んど 記 憶 を 持 っ てい な
い︒ただそれが個々の短編を重ねて一長編を構成するよ
うに仕組む一つの企てであったことを知るのみで︑新聞
ではな んだか煩わしいような気がしてついつづけて読ま
ず︑その中の﹁須永の話﹂を鈴木三重吉君が十銭の小本
にして出した時に︑はじめて纏めて読んで面白いとは思
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しま
私 に 興 味 が 深 か っ た が ︑﹁ 明 暗 ﹂ は 先 生 の ﹁ 則 天 去 私 ﹂
の中﹁道草﹂は先生の作品中に稀な自叙伝的小説として
﹁道草﹂および最後の未完成の作品﹁明暗﹂である︒そ
っ て 興 味 の 多 い の は ︑ そ の 後 に 出 た ﹁ 行 人 ﹂﹁ こ ゝ ろ ﹂
つ考に上ることがない︒数ある先生の小説の中で私にと
を提供するかと思うけれど︑今いったわけで私には何一
の小説であるこの﹁彼岸過迄﹂も︑その意味でまた問題
一 つ の 転 機 を 与 え た も の で あ る ゆ え に ︑ そ の 後 の 初め て
治四十三年の大患は先生の生活にとっては︑心身ともに
ったが︑その内容はほとんどぜんぜん忘れて了った︒明
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の標語を芸術的に試みた作品だと称せられるにかかわら
ず ︑ 単 行 本 に な っ た 当 座 の 私に は ︑ ど う も 深 く す っ と は
いりこんで来ないような処があった︒けれどもこれらの
印象は皆十年乃至二十年以前の読後感であって︑先生の
作品に接しないこともずいぶん久しいものである︒私は
久しぶりに先生のこれらの作品を読み直してみたいとい
そう せき ざつ き
う欲求を強く感ずる︒ことに小宮の﹁漱石襍記﹂中の﹁明
暗 の 構 成 ﹂ を 読 ん だ 時 に は ︑ 明 暗 を 再 読 し て み たい とい
う要求を強く感じた︒さらに先生の大患以後の作品を通
覧して︑その間に共通なテーマとそれの発展とを考察す
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ることは︑意味ある仕事だと考えた︒しかし私には今そ
れたから︑それはちょうど四十八歳の作である︒
﹁道草﹂
発表︶の作である︒先生は大正五年に五十歳で亡くなら
﹁こゝろ﹂は大正三年中ごろ ︵四月二十日︱八月十一日
二
ことにした次第である︒
﹁こゝろ﹂一編を取り来って︑勝手気儘な感想を述べる
ういうことをするだげの余裕がない︒そこでわずかに
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は 四 十 九 歳 ︑﹁ 明 暗 ﹂ は 五 十 歳 ︑ そ う し て ﹁ こ ゝ ろ ﹂ に
先だつ﹁行人﹂は四十七歳から四十八歳にかけての作で
ある︒
﹁こゝろ﹂が新聞に発表になるわずか六日前の四月十四
介に候⁝⁝﹂
かまつらず候︒これも神経衰弱の結果かも知れず︑厄
ぬ羽目に臨みながら︑日一日となまけいまだに着手つ
だかつまらなさうに暮しをり侯︒小説も書かねばなら
﹁⁝⁝近ごろは人を尋ねず︑あまり人も好まず︑なん
日の先生の寺田寅 彦 宛の手紙に︑⁝⁝
15
ゆうやく
﹁⁝⁝芸術家が孤独に安んぜられるほどの度胸があっ
月四日﹁行人﹂の発表二日前の津田青楓宛の手紙にも︑
からも十分に想像せられる︒先生は遡りて大正元年十二
い孤独なものであったことは︑この手紙の中の短い文句
を作る時の先生の心境が孤独な主人公を描くにふさわし
しろ創作家の常とすべきものであろうけれども︑この作
また創作にとりかかる前の気の重さ︑おっくうさは︑む
﹁明暗﹂はいくらか例外とすべきものかしれない
で新聞小説に取りかかられたことはあるまい
︱ その中
︱ が︑
とある︒晩年になってからおそらく先生は踴躍的な気持
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たら定めて愉快だろうと思います︒あなたはそう思い
ませんか︒私の小説を読んで下さるのは難有い︑どう
か愛想を尽かさずに読んで下さい︒私は孤独に安んじ
たい︒しかし一人でも味方のあるほうがまだ愉快です︑
人 間 が ま だ そ れ ほ ど 純 乎 た る 芸 術 家 気 質に な れ な い か
らでしょう︒⁝⁝﹂
願くは御読被下度候︒⁝⁝﹂
も︑それでも読んでもらひたき心も有之候︒今度のも
﹁⁝⁝近ごろ小説を人に読んでもらふ勇気失せ候へど
とあり︑同日松根東洋城宛の手紙にも︑
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とある︒これは作者として孤独に安住せんとしてしかも
らば︑ まこ とに当然のことである︒
とに穴の開いた作者の健康ということをも併せ考えるな
、の
、う
、い
、気持は︑大患以後こ
の︑作にかかる前の進まぬも
い心持で︑こういう重苦しい題材を取扱おうとした作者
鋭にそうして焦躁的にしたものである︒こういう重苦し
公なる兄の一郎の心境は︑この心持をいっそう切実に先
人 に 求 め る 心 を 棄 て 難 き 心 境 で あ る が ︑﹁ 行 人 ﹂ の 主 人
18
三
しかしこういう心持で取りかかった作品も︑中途から
は油が乗って来て︑作者の最初の意図よりもはるかに長
くなるのはいつものことであった︒現にこの﹁こゝろ﹂
にしても初めは短編をいくつも書くつもりだったのが︑
作者自身予期しない意外の長編になった ︵大正三年七月
︒先生は﹁彼岸過迄﹂の
二十二日山本松之助宛書簡参照︶
﹁かねてから自分は個々の短編を重ねた末にその個々
予 告に ︑
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20
の短編が相合して一長編を構成するように仕組んだ
ら︑新聞小説として存外面白くは読まれはしないだろ
うかという意見を持していた︒が︑ついそれを試みる
機会もなくて今日まで過ぎたのであるから︑もし自分
の手際が許すなら︑この﹁彼岸過迄﹂をかねての思わ
くどおりに作り上げたいと考えている︒けれども小説
は建築家の図面と違って︑いくら下手でも活動と発展
を含まないわけには行かないので︑たとい自分が作る
とはいいながら︑自分の計画どおりに進行しかねる場
合がよく起って来るのは︑普通の実世界において吾々
の企てが意外の障害を受けて予期のごとくに纏まらな
い の と 一 般 で あ る ︒ し た が っ て こ れ は ず っ と 書 き進 ん
で見ないとちょっと分らないまったく未来に属する問
題かも知れない﹂
といっておられる︒この文章によって覗い得られること
の一つは︑先生は新聞社に対して面白い小説を書く義務
を感じておられたことである︒大学の先生としてよき講
義を作るために神経衰弱になるほどの勉強をされた先生
が︑新聞社の社員として︑ことに小説を書く以外に自由
を与え︑病後の身体に対して︑自分の書く小説に考慮を
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払われたのは当然である︒そうして事実において先生の
ならぬという理屈はどこにも存在しない︑むしろ反対に
部分として日々の読物として面白くない作品でなければ
のである︒しかし全体として面白いまたは優れた作品が︑
性質の小説もあるし︑それは小説として尊重に価するも
て ︑ 全 体 と し て こ れ を 通 読 す る 時 に は 感銘 の 深 い よ う な
きものもあった︒なるほど日々の読物として面白くなく
家となし︑さらに通俗作家と呼ぶところの岩野泡鳴の如
る小説でもあった︒当時この事をもって先生を新聞小説
小説は白鳥や藤村の小説に比べて︑日々を面白く読ませ
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全体 としての面白 さまたは優秀の︑ 部分部分に も現われ
かつ生きておるほうが︑より自然であるといってよかろ
う︒この点から考えて先生の小説が新聞小説として優れ
ていたことは︑必ずしも先生の作品の価値を貶する理由
にはならない︒先生は持前の義理固さから︑単なる小説
としてに止まらず新聞小説としての立場をも考えられた
上に︑またそういう技巧をもこなし得る人であった︒先
生は例えば﹁草枕﹂などにおいて示されたように︑小説
たぐい
家として 類 稀な文章家であったばかりでなく︑小説全
体の結構︑人物や舞台の出入や配置︑事件の抑揚や頓挫︑
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進行や停滞その他の技術においても︑活発に頭を働かせ
の小説がいくぶんでも害されはしなかったか︑もしくは
新聞小説という条件を考慮されるために︑芸術品として
聞小説としても成功させたのだと信ずる︒しかし先生が
さしめる︑等の条件が加わって︑先生の小説を面白い新
的解剖は読者をして自分の心持を説明され得た快感を催
ルなユーモアとは読者の興味を促進し︑その明晰な心理
上 に 現 出 し ︑ そ の 都 会 的 な ウ イ ッ ト とイ ン テ レ ク チ ュ ア
富はよく人間と自然と物象とを具体的にかつ多彩的に紙
得る技巧家であった︒その上に芸術家としての幻想の豊
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先生がそれを考慮に入れられなかったならば︑先生の小
説がいっそう醇化されはしなかったか︑こういうことは
問 題 に な り 得 る こ と で あ り ︑ 私も い く ら か そ の 点 が 気 に
ならないこともない︑けれどもそういう議論は実際の作
品において具体的に論じなければ意味をなさぬことであ
り︑私には今それをなし得るだけの鮮明な印象を先生の
全作品について残していないことを告白しなければなら
ぬ︒
けれどもここに明白に言い切れることは︑先生の小説
が新聞小説として成功し得た重な原因が︑先生の小説が
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てい かい は
の戯曲を作り得るであろう︒
中の﹁先生の遺書﹂の筋書を用いて︑恐らく容易に一つ
小説中最も動きの少いこの﹁こゝろ﹂にしてもが︑その
り得るものばかりだといっても過言でない︒現に先生の
は脚色者にその人を得れば︑ほとんど皆立派に戯曲とな
生遂に戯曲を書かないで逝かれたけれども︑先生の小説
戯曲的要素に富んでいた点にあることである︒先生は一
に 没 頭 す る も の の ご と く い わ れ たに か か わ ら ず ︑ 非 常 に
低徊派︑余裕派と呼ばれ︑人生の一大事を忘れて閑葛藤
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四
今一つ先生の小説について考えられることは︑前にも
ちょっと触れた先生の小説が取りかかりがおっくうで
も︑いつも中途に油が乗って来て予期よりも長くなるこ
とである︒そうしてその一つの適例がやはりこの﹁こゝ
ろ﹂であることも︑前述のごとくである︒
先生は優れた頭脳と教養との持主であり︑作品の思案
布置について頭を働かせることは︑外の作家よりまさっ
ていた︒その上に先生の小説が︑ほとんど唯一の例を外
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に し て は ︑ 事 実 そ の ま ま の 描 写 でな く ︑ 事 実 を 材 料 と し
るであろう︒けれども他方に前掲の﹁彼岸過迄﹂の序文
ものだ︑との批難を受けたのも︑一つにはそこに関係す
あり︑我々を考えさせないで我々を不真面目に遊ばせる
品の中にあって︑頭 で作った︑人生の真 実に 遠いもので
といってよかろう︒先生の作品が特に当時自然主義的作
その作品のために作者の頭脳と構想力とを要求せしめた
写実主義の作家と性質を異にすることは︑いっそう多く
創 作 的 な 組 合 せ を 受 け た 点に おい て︑ 自 然 主 義 も し く は
て︑それから示唆を受けているにしても︑それが新たに
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でもすでに︑小説が建築家の図面と違ってそれ自身の活
動と発展とを含み︑自分が作るとはいいながら自分の計
画どおりには進行しかねることを語り︑しかもそれを﹁普
通の実世間において吾々の企てが意外の障害を受けて予
期のごとくに纏まらないのと一般である﹂と軽くあしら
っておられる︒これは小説自身の活動と発展とが頭脳の
作り上げた構図を妨げたり破壊したりして︑その為に作
品としての完成が傷けられる意味にも取られるが︑その
必しもしからざることは︑多言を要しない︒小説自身の
発展と活動とが頭で作った構図を裏づけ命づけるのでな
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ければ︑作品が成立し得ないことは勿論であるが︑それ
創作を生むとともに創作にとっつかれる︑それはあたか
た創作であるとともに創作家された作家である︒作家は
作とともに流れる作者の生命である︒それは作家化され
とは何かといえば︑それは実に創作の中に吸収され︑創
あり得ることであろう︒しからば小説自身の活動と発展
流れるということは︑おそらく傑れた作品において常に
れ 自 身 の 生 命 に よ る お の ず か ら な る 道 を 随 時に 開 き つ つ
で︑ある場合にはこの構図を画餅のごとく蔑視して︑そ
が単に構図の埓内に流れるに止まらず︑それから溢れ出
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も子を生まんとする妊婦の苦みに似たものである︒生ま
れる子が妊婦のものでありながら最も多く妊婦の自由に
ならず︑却て妊婦を支配しかつ苦めるものであるのと同
じことが︑創作と作家とについてもいわれるのではない
か︒多くの作家という作家は程度こそ異なれこの苦みを
経 験 し な い 者 はな い で あ ろう が︑ 漱 石 先 生に おい ては こ
とにこれが甚しかったように思われる︒先生の精神病的
傾向が遺伝的素質によるのかどうかは詳かにしないが︑
しかし多くの場合においてそれは創作という子を腹に持
てる妊婦の激しい易感性となって現われたように思われ
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る︒
しかし先生は一方創作にとっつかれる程度が烈しいと
者の創作的活動の流れを制し切れずして長くなるという
作家であったけれども︑その短編もいずれかといえば作
家たる素質が現われていると思う︒先生は傑出した短編
うような経過を繰返された︒ここに明かに先生の長編作
り︑百回で済む積りが百二十回にも三十回にもなるとい
発展﹂とに乗って︑初めは短編の積りのが長編になった
ん強かった︒かくて先生は先生のいわゆる小説﹁活動と
ともに︑他方にそれに堪え得るエネルギーもまたずいぶ
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傾向があった︒そういう点で先生は都会人的に痩せた作
家でなくて︑むしろ原始的にスタウトな作家であった︒
この事を思う時に︑先生の胃弱に悩まされた肉体が剣客
のような恰好を有し︑先生の謡をうたう声の量が︑少し
鼻にかかりながら実に大きかったことを連想せざるを得
こしらえもの
な い ︒ 先 生 の 作 品 が 拵 物 だ とい う 批 難を受 け た 一 つ の
理由が︑先生の創作における頭脳の参加の多量というこ
ととともに︑先生の小説自身の発展と活動との線が太く
強 く ︑ こ こ に 作 ら れ た 第 二 の 自 然 が 第 一 の 自 然に か ま わ
ないような感じを読者に与えたのにある︑ということは
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いえないであろうか︒私の記憶によると﹁明暗﹂のごと
ある︒
日に︑兵庫県の一少年松尾寛一に与えて︑
先生は﹁こゝろ﹂を出し始めて四五日目の四月二十四
五
と な く 一 種 の 鬼 気 を さ え 感 ぜ しめ る よ う な 所 が あ る の で
身は作者の中にみいって︑辰野隆君の指摘したように何
きはたしかにこういう感じを与える︒しかもこの作品自
34
﹁あの﹃心﹄という小説のなかにある先生という人は
もう死んでしまいました︒名前はありますが︑あなた
が覚えても役に立たない人です︑あなたは小学の六年
でよくあんなものをよみますね︒あれは小供がよんで
ためになるものじゃありませんからおよしなさい︒⁝
⁝﹂
と書いておられる︒この手紙に示されておることは私が
今 初 め て 気 づ い た こ と で あ る が ︑﹁ 坊 っ ち ゃ ん ﹂ の 中 に
ある﹁赤シャツ﹂だとか﹁山嵐﹂だとか﹁坊っちゃん﹂
自身だとかを︑しいて実在の一つの人物にして了わねば
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承知しないような読者は︑この手紙を見て﹁こゝろ﹂の
創 作 は た と え い か な る 実 在 の 人間 を モ デ ル に し て も ︑ 結
じ方や人生観であるのを必要としないこと勿論である︒
や感じ方や人生観が︑そのある実在の人物の考え方や感
を必要としないし︑況んや﹁先生﹂なる主人公の考え方
いわ
かしそれはこの小説に出て来たことが皆事実であること
い た と い う こ と は ︑ まず 確 かだ と 想像 し て よ か ろ う ︒ し
に似た経歴を持った人が先生の知人の中にかつて生きて
であろう︒この手紙によれば﹁こゝろ﹂の中の﹁先生﹂
中の﹁先生﹂を一つのモデルに帰してしまいたがること
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局 は 創 作 家 自 身 の 表 現 で あ る が ︑﹁ こ ゝ ろ ﹂ こ そ は そ の
意 味 に お い て ︑ ま た は そ れ 以上 の意 味 に お い て ︑ 最 も 多
く作家自身の出ておる小説である︒いったい先生は事件
や人物の性格やを芸術的に把握する力が非常に優れてお
られる︒これは例えば﹁坊っちゃん﹂の中の自分の知っ
ておる光景や︑自分の知っておる人物の特徴の描写など
からも︑具体的にも証拠を提供することができる︒しか
しこうした事件や人物から示唆を受けたり︑それを材料
に使っても︑それも全体的にそのまま描写し︑そういう
モデルや事件に引きずられたような作品は︑先生の作品
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の中には見ることができない
︱ 自叙伝的な ﹁道草﹂だ
︱ ︒こういう作風が︑現実
う と す るに あ る ︒ 先 生 自 身 の 把 み 得 た る 内 的 生 命 を 以 て
つか
受け︑それを使って︑内からそれを組織し命づけて行こ
けて行こうとするのでなくて︑こういうものから示唆を
ら示唆を受け︑それを使って︑内からそれを組織し命づ
全面的に描写しようとするのでなくて︑こういうものか
る︒けっきょく先生の志すところは事件や人物を外から
に遠いものと見られたことは︑前にも述べたとおりであ
の描写をモットーとした自然主義的作品の時代に︑真実
けは別に考えねばならぬが
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それらを有 機化しようとするにある︒作品の中心生命を
なすものが︑作者自身だということが︑技術の上ばかり
でなく内容からも最も多くいい得られるのは︑実に先生
の作品である︒先生はいわゆるモデルを描写するのでは
なくて︑先生自身を内から外へ押し出した︒しかもそれ
は芸術的手段によってであるからして︑そこに様々の人
物や事件が用いられることはいうまでもない︒先生の小
説は初からこの傾向をたぶんに有していたが︑大患以後︑
こ と に ﹁ 行 人 ﹂ と ﹁ こ ゝ ろ ﹂ とに お い て そ れ が 最 も 著 し
い ︒ 小 宮 が ﹁ 漱 石 襍 記 ﹂ 中 で ︑﹁ 比 喩 的 に 物 言 う 事 が 許
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されるならば ︑
﹃行人﹄を書いて先生は一度狂気になり︑
やや
を主としてここに見出したい︒
理由︑また先生の作品が長く読者の心を引きつける理由
に濃厚に盛った作品が人生と人心とを教えることの多い
に か か わ ら ず ︑ 先 生 の 作 の ご と く 作 家 自 身 の体 験 を 豊 富
っ た の は 確 か に 中 っ て い る︑ 動 も す れ ば 拵 物 とい わ れ る
あた
﹃こゝろ﹄を書いて先生は一度死んだのであった﹂とい
40
六
以下﹁こゝろ﹂に対する私の覚書のようなものを書き
並べて見る︒
一 ︑ こ の 小 説 は 全 休 に 亘 っ て ︑﹁ 先 生 ﹂ と い う 主 人 公
に 対 す る 純 真 な 一 青 年 の 側 か ら 見 た 観 察 と ︑﹁ 先 生 ﹂ の
その青年に対する告白とからできている︒自己を否定す
る心持から世間との交渉を断ち︑世間的活動に堪え得ず︑
世間に向って自分を閉じ︑孤独を守っている﹁先生﹂が︑
青年の求めるところのない︑ただ真実を知ろうとして無
41
技巧に肉薄して来る純真に対する尊敬と好意とによっ
静まった﹂とともに︑孤独に堪え得ぬ︑
人間から暖みを求めて止まぬ心は︑やがてその娘に対す
いためにだん
く
﹁ 先 生 ﹂ の 神 経 が ︑﹁ 相 手 か ら 照 り 返 し て 来 る 反 射 の な
を も 信 じ 切 れ ず し て ︑ 色 々な 功 利 的 目 的 の 存 在 を 疑 っ た
偶 然 後 に 恋 人 とな る 娘 母 の 所 に 下 宿 す る ︒ 初 は こ の 母 子
そ の ﹁ 先 生 ﹂ が 叔 父 に 対 す る 道 徳 的 信 頼 を 失 っ た 後︑
またしみじみと語られている︒
の秘密を語るに至る美しい内的経過は︑すこぶる鮮かに
て︑その固い心を打開き︑その誰にも語らなかった過去
42
る 恋 と な っ て 来 る 道 行 の 中 に ︑﹁ 先 生 ﹂ の ﹁ 精 神 的 に 癇
性﹂でありながら︑否︑あるがゆえに︑相手の求めると
ころのない︑素直な誠実に感じ易い敏感が示されている︒
私は﹁先生﹂の中に表現されたこういう心境を思う時︑
漱石先生自身の裏に動いていた心境をも思わざるを得な
い︑すなわち私は︑その当時に対してかつて没批評的な
傾倒をもって近づいて来た青年が︑年ようやく長じて生
やや
意気に批評的になり︑動もすれば先生の細かな神経を刺
激して︑ある場合には︑先生の孤独感を刺激する一方に︑
その後につづくヤンガー・ゼネレーションの青年らしい
43
傾倒が︑また先生の心の固まりを和げ︑塞がりを打開こ
のものです︒間に合せに借りた損料着ではありません﹂
があるかもしれません︒しかしどう間違っても︑私自身
す︒その倫理上の考に今の若い人とだいぶ違ったところ
は倫理的に生れた男です︒また倫理的に育てられた男で
﹁私の暗いというのはもとより倫理的に暗いのです︑ 私
そういう性格を語るものである︒
﹁先生﹂はいっている︒
二 ︑﹁ 先 生 ﹂ の 徹 頭 徹 尾 道 徳 的 な 性 格 は ︑ ま た 先 生 の
ある︒
うとしたという先生の経験を︑その背後に想像するので
44
また﹁先生﹂は自分が義務に冷淡だから世間的交渉を
し な い の で な い ︒﹁ む し ろ 鋭 敏 す ぎ て 刺 激 に 堪 え る だ け
の 精 力 が な い か ら ﹂ 消 極 的 な 月 日 を 送 る のだ とい う て い
る︒そういう﹁先生﹂が自分の道徳的信頼を破った叔父
に対し執拗な復讐心を抱き︑その復讐心が転じて人間を
信じてやらないという心持になり︑しかも人間の虚偽に
敏感であるとともに︑人間の誠実を無視し得ない︒よき
意味で﹁お人好し﹂の﹁先生﹂が︑人から離れようとす
る心と人と和ごうとする心との矛盾に苦んでいる時︑そ
の矛盾を無造作に青年時代の恋愛の情熱に溶かされ︑し
45
かもその燃える恋愛の欲求のために︑いつの間にかその
懺悔の心持を積極的な人間愛に持って行くところの︑一
すべてに見︑しかも自分を罪人だと断ずる心持は︑その
を︑仇敵視した叔父と自分との間に共通に︑否︑人間の
ざ と い う 間 際 に 皆 悪 人 に 変 る んだ ﹂ と い う 恐 ろ し い 事 実
得 ざ る 運 命 を 負 い ︑ 人 間 が 性 来 悪 い と い う よ り も ︑﹁ い
という痛ましい自覚の烙印を︑一生その額に印せざるを
劣 を 敢 て し ︑﹁ 策 略 と し て 勝 っ て も 人 間 と し て 負 け た ﹂
格 の 善 良 に 敬 意 を 払 わ ず し て ︑ そ れ に つけ こ む と い う 卑
競争者を待ち伏せて陥れる猾策を犯し︑その競争者の人
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面には強さ︑他面には鈍感を持ち得ず︑不測な悲劇的運
命の下に︑この運命を明かに知ることもなく︑しかもそ
の暗さを感ぜずにはいられないところの一生の伴侶たる
妻に︑つつましい︑寂しい︑人間の罪を背景に持った愛
を贈る﹁先生﹂の生涯は︑実際宗教の敷居にほとんど接
触せんとする道徳的生涯であった︒
﹁先生﹂は頭を働かせて判断する癖を持つとともに︑そ
れ を ハ ー ト に 持 っ て 行 か ね ば 承 知 が で き な か っ た ︒﹁ 冷
か な 頭 で 新 し い 事 を 口 に す る よ り も 熱 し た 舌 で 平 凡な 説
を述べるほうが生きていると信﹂ずる人である︒そこに
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やはり﹁先生﹂を通じての先生を見ることができる︒要
為とである︒それは人為的な世間的な方便的な約束︑す
た﹁道徳﹂は︑人間の純真なる心とその心から発した行
なおつけ加えていいたいことは︑先生の小説に現われ
である︒
的説教ではない︒人生の道徳的真実の描写であり︑表現
はたくさんあるまい︒しかもそれは断じて抽象的な道徳
ンチメントを取扱ったものは︑西洋の小説にもおそらく
い道徳的な 小説である︒否これくらい 純粋に道徳的な セ
するに﹁こゝろ﹂はわが国の小説にほとんど多くを見な
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なわち人為に対して︑よく自然という詞でいい現わされ
ている︒こういう考え方は﹁それから﹂にも出ているし︑
﹁行人﹂にも著しく現われている︒
今一ついいたいのは︑先生の小説の中には︑こういう
道徳的癇性者に対して︑人生の一大事なる道徳的誠実を
あまり気にせず︑しかもその人間は好人物で快活でよく
けい り
世間と睽離しないような人間が描かれていることであ
る︒それはたとえばこの作では青年の父である︒
﹁行人﹂
では一郎の弟二郎である︒そうして先生には天真を傷け
ぬ︑こうした暢気な︑いわばおっちょこちょいな一面も
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たしかにあった︒そういう意味で一郎と二郎とは先生の
れも努めてやったのでない自然的な強さは﹁先生﹂の遺
切の責を自分に負って人を累わさない孤独的な強さ︑そ
かもそのエゴイズムの作為なく虚偽なき純真︑同時に一
志 で 自 分 の 志 す と こ ろ に 精進 す る道 徳 的 エ ゴ イ ズ ム ︑ し
けていると思う︒一面には周囲に鈍感であって︑強い意
三︑私は﹁先生﹂の恋のライバルのKが非常によく書
るこの楽天的一面の力であったであろう︒
のごとく自殺せしめなかったのは︑おそらく先生の有す
分身であった︒先生を一郎のごとく狂せしめず︑
﹁先 生 ﹂
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書の中に実に簡勁に︑具体的に描出されている︒たとえ
覚悟ならないこともない﹂と︑独言のようにまた夢
ば ﹁ 先 生 ﹂ か ら 恋 愛 の こ と を 問 い 詰め ら れ て ︑﹁ 覚 悟 ︑
︱
の中の言葉のようにいったという一節︑自殺した時の遺
書の中に多くをいわず︑
﹁も っ と 早 く 死 ぬ べ き で あ っ た ﹂
と洩らした詞のごとき︑実にリアルに読者に迫るものが
あ る ︒ そ れ と 私 の 好 む の は ︑﹁ 先 生 ﹂ の 奥 さ ん に 現 わ れ
た女性である︒理解を持ちながら︑それを頭に持って来
ることを欲せず︑心臓の世界につつましく止めているよ
うな︑静かな︑暖かな︑寡欲な女性である︒
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四︑
﹁先生の遺書﹂の中でなお問題にしようとすれば︑
き 及 ぼ し ︑﹁ 私 は 明 治 の 精 神 が 天 皇 に 始 ま っ て 天 皇 に 終
ま た ﹁ 先 生 ﹂ は そ の 遺 書 の 中 に ︑ 明 治 天 皇 の 崩 御に 説
めておく︒
者としての私には不自然なく肯定されることをいうに止
れらのことを説明する興味を多く持たない︒これらが読
あるであろう︒私は今小説の描写をするより以外に︑こ
にその愛する寂しい妻を残して自殺していったか﹂等が
い て ︑ 妻 の 前 に 自 己 を 告 白 し な か っ た か ﹂﹇ 先 生 は 何 故
﹁ K が 何 故 に 自 殺 し た か ﹂﹁ 先 生 は 何 故 に K の 自 殺 に つ
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っ た よ う な 気 が し ま し た ︒ 最 も 強 く 明 治 の 影響 を 受 け た
私共が︑その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだと
い う 感 じ が 胸 を 打 ち ま し た ﹂ と い い ︑﹁ 自 分 が 殉 死 す る
な ら ば 明 治 の 精 神 に 殉 死 す る つ も り だ ﹂ とい い ︑ 同 時に
乃木大将の明治十年の西南役以来死のうと思いつつ︑生
きながらえた三十五年の苦衷に深い同情を払っている︒
これにっいても今論議する余裕を欠くが︑ただこの﹁先
生﹂の告白がまた先生の胸臆の一隅にあった実感であっ
︵昭和一〇・一一﹁思想﹂漱石記念号︶
たろうことは︑想像するに難くないことを一言するに止
めよう︒
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