彼岸過迄

﹁彼岸過迄﹂
﹃ 文 学 ﹄ 一 月 号 所 載 ︑ 片 岡 良 一 氏 の ﹁﹃ 彼 岸 過 迄 ﹄ の 意
義﹂と題する論考をきわめて興味深く読んだが︑それが
機縁となって︑僕は久しぶりで︑この小説を読み直して
みた︒
漱石の中心思想の定型を﹁彼岸過迄﹂に求める見方は︑
僕 に も 異 論 が な い ︒ 片 岡 氏 の 謂 う ご と く ︑﹁ 彼 岸 過 迄 ﹂
こ
は︑作者のその以前の思想を濾して纏め︑その後の思想
を予告し︑準備するものである︒しかも︑予告でも準備
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でもありながら︑既定的なものをだいたい包含している
﹁彼岸過迄﹂が初めて朝日新聞に掲載されたのは明治四
うと思う︒
当年の思出といったようなものを少々書きつらねて見よ
何年か前︑帝大法科の学生であった僕を深く動かした︑
蔵の性格・心理を詳説するつもりではない︒ただ︑二十
僕は今ここで︑この小説の意義を考え︑主人公須永市
文はまことに読みごたえのあるものであった︒
点 に お い て は ︑ 片 岡 氏 の ﹁﹃ 彼 岸 過 迄 ﹄ の 意 義 ﹂ な る 一
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十五年の一月からであった︒僕は毎朝この小説を読むの
が無上 の楽 しみだ った︒
﹁風呂の後﹂︑
﹁停留所﹂︑
﹁報告﹂︑
﹁ 雨 の 降 る 日 ﹂ と だ ん だ ん読 ん で い っ て︑ つ い に ﹁ 須 永
の話﹂に至って︑僕は異常な共感と親しみをもって︑青
年須永市蔵を愛し始めたのであった︒須永は︑それまで
僕が実人生において知っていたいかなる秀才よりも聡明
で奥床しい人物であった︒もしかかる青年が実際に僕の
かわ
近くに現われたら︑僕は彼を生涯の友として交らぬ交り
を結び得るだろうと思ったのであった︒久しぶりで﹁彼
岸過迄﹂を読んで僕は永く隔てられていた旧友にめぐり
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会ったように想い︑当年の彼への思慕を新たにしたので
思ったのである︒明治末期インテリゲンチャの消極的個
恋愛は誘惑であっても︑魅了とは成り得ないだろうとも
て当然だと思った︒彼のごとく﹁我﹂を凝視する男には︑
全に嫉妬を克服して千代子を綺麗に諦める過程をきわめ
としてまったく他界の消息だと思っていた僕が須永が完
する尊敬の念などは微塵もなく︑恋愛は美男美女の特権
な に よ り も 頼 も し く 思 え た ︒ す でに 少 年 期 か ら 女 性 に 対
須永の女性・恋愛に対するストイックな諦観が僕には
ある︒
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ろう こ
人 主 義 は 須 永 の 裡 に そ の 代表 的 存 在 を 牢 乎 と し て 基 き あ
し よ う けい
げている︒須永が法科の卒業受験生でありながら︑すで
はや
に夙く︑社会生活の夢や青雲の志や富への 憧 憬をまっ
こうこう
た く 放 下 し て ︑ 狭 い な が ら︑ 自我の 奥 に 人生 探 究 の 耿 々
ひと み
たる 瞳 を据えたところは︑当年の法科の秀才よりもむ
とうと
しろ文科の人材に往々見受けた 貴 い型であった︒それ
は今の法・文学部の学生気質と比較して著しいコントラ
らく ご
ストを呈している︒もとより僕は今の学生が生活の落伍
しや
者たらざらんとする就職焦慮を軽侮する意志は毛頭ない
のみか︑現代の社会苦が幾万の学生を卒業の門前に脅か
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しているのを眺めて心から同情を禁じないのだが︑それ
ところにも重大な欠陥があったの
ら鎮静剤を盛ったとしか思えぬのである︒
の奏功ではなくして︑インテリの苦悩にインテリみずか
たまま︑ほとんど無風状態に陥いったのは︑決して弾圧
ではないか︒インテリ層の現代批判が総般的に抑圧され
捨て得ると思った
︱
イデオロオグの群が個人主義を弊履のごとく捨てた
︱
えたのを遺憾に思うのである︒しかのみならず︑社会的
昔前の個人主義思想と数年前までの批判反抗の熱意の衰
にもかかわらず︑あまりに実際的になった今の学生に二
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個 人 主義 も 自 由 主 義 も ︑ 幾 多 の欠 点を 含 む とはい え︑
要するに人間が人間らしくなりたい自然の衝動から確乎
たるイデオロジイを樹立するまで︑幾世紀を重ねて積み
あげた精神的肉体的の成果なのである︒わが邦のマルキ
ひと り
シストやコンミュニストの中に︑一人として自己の名を
しる
署さずに所論を公にした者がなかったこと︑自己の名を
抹殺するのが公論の必須の条件であるとまで自覚した者
が皆無であった事実に徴しても︑個人主義や自由主義が
いかに深く近代人の深所に徹していたかを知るべきであ
る︒現代の青年は︑もう一度個人主義や自由主義や孤独
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や懐疑をしみじみ顧みて見ても決して徒労には終るま
とりこ
彼が彼女の子ではなく︑今は生
よって︑そこに静かに調和された世界のあることを明示
らに﹃考えずに観る﹄という境地に浮み上らせることに
み
して︑彼をますます孤独の底に突落した後︑そこからさ
死も知れない女のいわば不義の子であったことを明かに
の母からも引離して
そうした孤独と懐疑との 虜 となった須永を︑さらにそ
︱
﹁﹃ 須 永 の 話 ﹄ の 後 に ﹃ 松 本 の 話 ﹄ を つ け 加 え た 作 者 は
片岡氏の文中には次の一節がある︒
い︒
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しているのであった﹂かくて︑片岡氏は︑さらに漱石の
そういう見方は孤独地獄や厭世哲学の正しい解決でもな
ない し
く︑むしろ解決の放棄乃至問題の放棄であり︑主観的な
飛翔︑感覚世界への逃避である︒漱石が須永一人の主観
的 な 救 い で 満 足 し て い る の は ︑﹁ 個 人 主 義 と い う も の を
正しく周到には理解せず︑これを単なる為我主義として
のみ受取っていたのであったことが︑知られると同時に︑
その思想的立場を最後まで放棄できなかった人であった
ことが︑知られるのではないかと思う︒それができたら︑
漱石はもっと俗化するか︵俗化というよりも社会化と言
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言換え
っ た ほ う が 適 当 で あ ろ う ︶︑ でな け れ ば よ り 清 澄 な 宗 教
︱
や﹁こゝろ﹂の主人公はすでに孤独地獄をインテリの特
境を彷徨していたといって誤りではないだろう︒
﹁行 人 ﹂
はついに安全地帯を脱して危険区域に入り︑狂から死の
しかしながら︑漱石は﹁行人﹂と﹁こゝろ﹂において
から﹂と言っている︒
に も 似 た ︑ そ ん な 不 徹 底 さに 止 ま る は ず がな か っ た のだ
れば︑安全地帯にいて︑なお危険区域に執着するという
的 超 脱 に 行 っ た は ず で ︑﹃ 考 え ず に 眺 め る ﹄
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おご
権として優越感と結び付けるような奢った心は持つにも
則天去私の境地
︱
を欣求している︒ただし︑僕に
ごん ぐ
持ち得ず︑かえって危地に陥いって︑新たなる安全地帯
︱
は︑この種の孤独地獄と則天去私との間には︑近代的な
鷗外もまた
︱
そういう社会
社会生活なり市民生活なりの自覚が生れねばならぬと思
︱
われるのだが︑漱石は
意 識 が 日 本 の イ ン テ リ 層 を 席 巻す る 以 前 に 死 んだ の で あ
った︒それは返す返すも惜しいことであった︒しかもそ
れ 以 上 に 僕 等 が 物 足 ら な く 思 う の は 鷗 外・ 漱 石 以 後︑ 両
大家の貴い遺産を十分に活用して︑見事な社会小説を描
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き あ げ た 傑 物 は ま だ 一 人 も 出な い こ と で あ る ︒ し か し ︑
僕等はこれに対して︑かえって無限の欲望に幸福を観じ︑
にヨーロッパ精神のレエゾン・デエトルを求むるなら︑
しポオル・ ヴァレリイの謂うごとく︑無限の欲望の肯定
境地を一概に不徹底と断ずるのは必ずしも当るまい︒も
そ れ は と に か く ︑﹁ 彼 岸 過 迄 ﹂ の ﹁ 考 え ず に 眺 め る ﹂
あ る い は 数 十 年 の 歳 月 を 要 す る こ とだ ろ う ︒
縁となっておのずから社会小説が生れるにはなお十数年
や筆で社会とか市民とか言っても︑それが実感となり血
そういう方面の佳作も追々現われてくるに相違ない︒口
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むしろ無限の欲望を純粋諦観の域まで浄化する自我陶冶
の道を修し得ると思うのである︒しかもそこから社会的
ソリダリテヘの新たなる歩みが踏み出され得るようにも
思われるのである︒
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