は)テキストの中にあ る こ と を 説 教 な い と す る 立 場 も あ る。「( 説 教 で 表現技術については顧 慮 す べ き で は 説教を準備するとき 、 そ の よ う な に配置する一連の論理 構 造 で あ る 。 られた「アイデア」を 、 説 教 の た め ( ) ス リ ー・ ポ イ ン ツ 説 教 の 主 要命題を三つに分割しながら論理的 よく用いられる形式である。 り、講解説教を行う説教者によって つ順番に解き明かしていく方法であ ( ) ヴ ァ ー ス・ バ イ・ ヴ ァ ー ス 文字どおり、説教テキストを一節ず られるのは次の説教形式である。 ように思える。しかしそれでも、文 で、聖書テキストに最も密着できる すべての節を順序どおりになぞるの る。ヴァース・バイ・ヴァースは、 式にはそれぞれ強みと共に限界があ しかし、これらの伝統的な説教形 「意味」を会衆の生活に適用する。 作 業 が 行 わ れ、 そ こ で 抽 出 さ れ た ( ) 解 釈 と 適 用 最 初 に 説 教 テ キ ストから「意味」を取り出す解釈の 教において理性的に論理を進めてい がちである。解釈と適用の形式は説 生きている、という事実が忘れられ 十字架と復活の出来事以後の世界に もしれない。しかし、私達はすでに 罪の赦しを告げるのに適しているか は限らない。律法と福音の形式は、 なるような問いを、自然に発すると エス・キリストに従うことが答えと 書テキストを過去の中に閉じ込め、 聖書の言葉が直接、今、ここで語り かける力を削いでしまいかねない。 最も労力を要しないために一番よ く用いられている説教形式は、おそ らく次のものであろう。 る聖書テキストは○○○書第○章○ 導入「今朝、私達に与えられてい が均等に担っているわけではない。 節から○節です」 う。しかし、そこでは聖書テキスト り「教える説教」に適しているだろ のことを問い始めるとき、福音の調 それでも、なぜ私達は、いのちの ように生きていきたいものです」 結部「それゆえ、私達もまたその ( ) 問 い と 答 え 説 教 の 導 入 部 で 問 い が 提 出 さ れ( 「まことの愛とは 0 いったい何でしょう」 ) 、結部で答 0 しかしこのような見 解 を 支 持 す る 0 説教者であっても、実 際 に 「 テ キ ス 0 言葉を生気を失った定型の枠に押し 0 0 込めなければならないのだろう。そ 0 が本来もっているダイナミックな言 0 葉 の 動 き が 封 じ ら れ、 説 教 聴 聞 が 0 えが示される( 「キリストの十字架、 0 それこそまことの愛であります」 ) 。 0 トの核心をなすもの」 を い か に 言 い べを、豊かに鳴り響かせる説教形式 0 表しているか 、という 問 い か ら 逃 れ 問いと答えの形式は、現代の問い を求める問いを尋ね始めることにな 0 ることはできない。実 際 の 説 教 を 観 ( ) 律 法 と 福 音 前 半 で 罪 の 指 摘 ( あ る い は 人 間 の「 悲 惨 」 に つ い て に聖書をもって答えるものであるゆ るだろう。 0 察してみると、必ず説 教 者 が 用 意 し の描写)が行われ、後半で福音が提 え、会衆の関心に沿った方法である 「出来事」となりにくい。 ているある種の形式を 発 見 で き る の 示される。 の命題を論証するためには有効であ また、スリー・ポインツは、何らか 日本基督教団代田教会牧師 ように思える。それでも人間は、イ 者が言い直しさえすれ ば よ い の で あ な説得が行われる。主題説教におい くためには適している。しかし、聖 たとえば、私達のあいだでよく見 る。つまりそれはただ ひ と つ の こ と 章の意味は、均等に並べられた文字 説教の形式とは、黙 想 に よ っ て 得 である。このひとつの こ と と は 、 神 て用いられることが多い。 教が構成される場合もある。 また、次の二つの部分をもって説 説教学豆事典 ⑧「説教の形式」 だ、このひとつのもの 、 テ キ ス ト の 核心をなすものを証言 し う る だ け な 3 である。 のである」(カール・バルト)。 平野克己 の言葉である。……( 説 教 者 は ) た 1 2 1 2 92
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