22.文豪モラエスの徳島における足跡を辿る (4)石井 - So-net

22.文豪モラエスの徳島における足跡を辿る
(4)石井
著者: 林
久治
(1)前書き
最近、私(著者の林)はイエス・キリストとポルトガル人・モラエスを少々研究
している。なぜなら、この二人は謎の多い人物であるからである。イエスに関して
は、本感想文の第1-5回と第 15-18 回で取り上げた。
モラエス(1854.5.30-1929.7.1)に関しては、次のような感想文を書いた。
第8回:新田・藤原著の「孤愁」(以後、本Ⅰと書く)
第9回:佃實夫著の「わがモラエス伝」(以後、本Ⅱと書く)
第 10 回:岡村多希子著の「モラエスの旅:ポルトガル文人外交官の生涯」
(以後、本Ⅲと書く)
第 11 回:モラエス著の「徳島の盆踊り」(以後、本Ⅳと書く)
第 12 回:林著の「神戸時代のモラエス」(以後、記事Ⅴと書く)
第 13-14 回:モラエス著の「おヨネとコハル」(以後、本Ⅵと書く)
第 19 回:モラエス著の「モラエスの絵葉書書簡」(以後、本Ⅶと書く)
第 21 回:岡村多希子著の「モラエス:サウダーデの旅人」(以後、本Ⅷと書く)
第 19 回から、「文豪モラエスの徳島における足跡を辿る」の掲載を始めた。第
19 回は「小松島」を、第 20 回は「二軒屋」を、第 21 回は「地蔵橋」を取り上げた。
今回は、「石井」を取り上げる。図1に、戦後の徳島の鉄道路線を示す。この中で
モラエスの足跡と関係するのは、「徳島」「二軒屋」「地蔵橋」「小松島」「鳴
門」「石井」「阿波池田」の各駅である。読者の方々に、これらの駅の位置を知っ
ていただく目的で、図1を掲載する。
図1.
戦後の徳島の鉄道路線(交通公社の時刻表より)。
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(2)モラエスの徳島時代(1913.7.1-1929.7.1)
モラエスが徳島に隠棲した経緯は、第 19 回に簡単に説明したので、今回は省略す
る。第 19 回の記事は、次のサイトをご覧下さい。
「林久治のHP」内の記事:http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-19.pdf
私は 1942 年に徳島市で生まれ(モラエスが亡くなった 13 年後)、1960 年まで徳
島で育った。私の少年時代の日本や徳島は、現在よりモラエスの徳島時代によく似
ていた。彼の著作で、彼の徳島探訪の様子を読むと、私の少年時代の徳島が懐かし
く追想される。「文豪モラエスの徳島における足跡を辿る」のシリーズを始めた理
由は、モラエスが暮らした徳島と、私が育った徳島とを比較検討するためである。
今回は、「石井」を取り上げる。図2に、21 世紀における「石井町」の地図を示
す。図1にあるように、「石井駅」は徳島本線(現・徳島線)の駅である。徳島本
線の歴史は次の通りである。
1899.2.16:徳島鉄道が、徳島県の最初の鉄道として、徳島から鴨島まで開業。
(駅は、徳島駅、府中駅、石井駅、牛島駅、鴨島駅。)
1899.8.19:徳島鉄道が、鴨島から川島(現・阿波川島)まで延伸開業。
1899.12.23:徳島鉄道が、川島から山崎(現・山瀬)まで延伸開業。
1900.8.7:徳島鉄道が、山崎から船戸(川田と穴吹の間)まで延伸開業。
1907.9.1:国が徳島鉄道を買収。国鉄の徳島線(後に、徳島本線)となる。
1914.3.25:徳島本線が川田から 阿波池田間まで延伸開業。
(3)モラエスの「石井」
モラエスは藤の花が大好きであった。 本Ⅳにおける「徳蔵寺の藤の花見」の章
で(p.247-249)、モラエスは次のように書いている。(『 』内の部分。なお、林
の説明を青文字で記載する。)
『1914 年5月6日 今日は、町から(徳島駅から)鉄道で半時間のところにある
石井村(1907 年 11 月1日に、石井村は石井町に昇格している)への小旅行につい
て記す。徳蔵寺に咲いている美しい藤の花を見たかったのだ。一面に真珠色の曇り
空。太陽はすっかり隠れているが、光は透けて見える。そよとも風もない。寒くも
暑くもない。遠足日和。(中略)
(汽車の窓から)いかにも貧しそうな村落のかたまりが次々と現れる。農家の住
宅は茅ぶき屋根の粗末な古い木でできた簡素な小屋である。それらの村を私はよく
知っている。労苦の、貧窮の、運命の過酷さを前にしたにこやかな諦念の村々。
石井に着く。崩れかけた徳蔵寺に隣接する広大な境内に、藤の花が実に見事に咲
きほこっている。藤はぶどう棚のように広がり、何千というかおり高い花房がたれ
下がり、房によっては4パルモ、5パルモもある。
僧坊では見物人にお茶が出される。見物人は銀貨を1枚出して、藤の花ひと房を
うけとる。何代にもわたる僧たちの辛抱づよい手が世話してきた、日本中に知られ
る珍しい植物や風変わりな樹木といったものを境内にもっていないような仏教寺院
は日本には少ないであろう。』(本文は、4ページの図3の下に続く。)
2
➃
①
➂
②
図2.上:21 世紀における石井町の地図(「石
井町のHP」より)
① 地福寺、②童学寺、➂徳蔵寺、➃桜間城址。
左:石井町のイメージキャラクターの「ふじっこ
ちゃん」は徳島県で No.1 である。彼女は石井町
の花である藤から生まれた妖精。藤の花をかたど
った髪の毛と、どこにでも飛んでいける羽が特
徴。
3
図3.左:地福寺の藤の絵葉書(戦前)。右:地福寺の藤の由来(現在の案内板)。
モラエスは本Ⅶ(p.229-230)でも、石井の藤見物のことをポルトガルの妹に絵葉
書を送っている。この部分に、モラエスが送った絵葉書の写真も掲載されている。
写真が小さくて読みにくいが、徳蔵寺での写真のようだ。葉書の文面を以下に示す。
(『 』内の部分。なお、林の説明を青文字で記載する。)
『1914 年5月4日 お前が最近、藤の花のことをさかんに話すので、見事な藤棚
の光景を送る。徳島近在の町だが、ぼくはまだ行ったことがない。でも、ここにも
同じように美しい藤があって、ぼくは何度も感心して眺めている。日本は藤の国だ。
1914 年5月7日 藤の花のある場所の風景をこのあいだ送ったね。昨日そこに行
って、この葉書(勿論、白黒)をお前のために持ち帰った。石井町の徳蔵寺で、徳
島から鉄道で半時間のところだ。これによって、花の美しさが想像できるだろ
う。』
モラエスは本Ⅶ(p.268-269)で 1915 年も、石井の藤見物のことをポルトガルの
妹に絵葉書を送っている。今度は、地福寺の藤の絵葉書である。
『1915 年5月 15 日 お前に話した藤の花見のおみやげ(徳島県名西郡石井町地
福寺)。右手の床几に腰かけて、たばこをふかし新聞を読んだ。ここの葉書をもっ
と送るよ。
1915 年5月 20 日 このあいだの遠出の藤の景色をもう一枚。ぼくらの国につい
ての気がかりな電報が今届いた(1915 年5月 14 日に起こった、リスボンでの武装
革命のこと)。もしまだなら、シベリア経由ですぐにぼくに便りを書き、お前とお
前のゼが被害を蒙らなかったかどうかを知らせておくれ。いずれにせよ、勇気、忍
耐力、明るいきもちをもつこと。万事うまく終わるだろうから。』
図3に、地福寺の藤の絵葉書(戦前)と、地福寺の藤の由来(現在の案内板)を
示す。石井における藤の名所は、徳蔵寺のみではなく地福寺や童学寺にもある。そ
の詳細は、次章で紹介する。藤原は「石井の藤は徳蔵寺」と短絡的に考えているよ
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うだ。彼は本Ⅰ(p.547-548)で、病死する直前の福本ヨネに次のように言わせてい
る。(『 』内の部分)
『およねが天井を見上げたまま頬をゆるませたのを見て、モラエスは有頂天にな
った。神社の前を通りかかるたびに願をかけてきたが、ようやく自分の祈りを神様
が聞き届けて下さった。およねに奇跡が起きて元気を取り戻し始めたような気がし
たのである。
「およねさん、やせた。でも、笑顔、可愛い、とても。今日から、よくなります。
きっと。来年、今頃、二人でポルトガル、行きます。ポルトガルのプサコ、森の中
に宮殿ホテルがあります。大きな庭園に、藤の花、紫色、いっぱいあります。大き
な藤棚、日本と同じ」
およねが藤の花に目がないことをモラエスは思い出したのだった。藤の花と聞いて
およねが目をしっかり見開いた。そしてつぶやくように言った。
「徳島、石井の徳蔵寺、藤棚とでもきれい。もう一度見たい」
「もちろん。それでは来年は、石井の徳蔵寺、再来年は、ポルトガルのプサコ」
モラエスはおよねの額や、肋骨の浮き出た胸の汗を拭きながらそう言った。
「ああ、およねさん、ああ、可愛そう」
モラエスは胸を詰まらせながら心の中でつぶやいた。モラエスの耳に、風のいたず
らかと思うほどの声が聞こえた。およねだった。
「私、もっと生きたい。モラエスさんと一緒に。ずっと一緒に。でも、もう長く、
生きられそうも、ありません」
モラエスは力強く両手でおよねの手を取ると、
「私が愛する人、およねさん。私のすべて。およねさんの命、私の命」
モラエスはこみ上げる思いを抑えられず、半ば涙声でそう言った。およねはモラエ
スの目をじっと見つめていた。再び閉じられた両目の目尻から涙が頬をつたっ
た。』
(4)私の「石井」考
私はモラエスに関連する複数の本を読んで、「石井の藤は徳蔵寺」と短絡的に思
い込んでいた。ところがネットで「石井の藤」を検索すると、「徳島県名西郡石井
町では、藤の名所は他にもある」ことが分かった。むしろ、一番が「地福寺」、二
番が「童学寺」、三番が「徳蔵寺」、別格が隣りの名西郡神山町にある「神光寺」
であるようだ。なお、各寺において藤が満開になる時期が多少異なるので、各寺の
見頃に会えるのは、訪問する日の運しだいである。
私は石井の藤を見たことがない。少年時代に童学寺にハイキングに行った記憶が
あるのみである。2013 年5月に、中学の同窓会が神山町の神山温泉であった。ホテ
ルの庭に藤棚があり、ちょうど満開で綺麗であった。名西郡では藤棚が多いようだ。
次ページの写真4に、「地福寺」の藤を示す(場所は、図2の①)。地福寺は慶
長年間(1596-1614)に宥智上人により開基された真言宗の寺院で、紫、白、および
盆栽の藤が有名である。「紫藤」は、約 250 年前に隆淳和尚が庭に植樹したもので、
今もなお豊かに咲き続けている。「白藤」は、約 100 年前に祥塔和尚が植えたもの
である。4月下旬~5月上旬に開催される「藤まつり」には、毎年多くの人々が町
内外から訪れる。その期間中には、盆栽審査会、フリーマーケット、写真撮影会な
どのイベントも開催され、石井町の特産物の販売も行われる。
(本文は、7ページの写真5の下に続く。)
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写真4.現在の地福寺。
上:「紫藤」は樹齢 250
年余りの巨木で、南北 30
m・東西 6mの藤棚には、
長さ 1mにも及ぶ美しい花
が咲き、人々の目を楽し
ませてくれます。
中:「白藤」は樹齢 100
年余。
下:藤の盆栽。
なお、「地福寺」に関連
するサイトは次の通りで
ある。
地福寺の案内サイト:
http://www.awanavi.jp/docs/
2013042400026/
地福寺の藤の動画:
https://www.youtube.com/w
atch?v=8t5O7QECFSc
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写真5.現在の石井の藤。
上:童学寺の藤。
下:徳蔵寺の藤。
童学寺の案内サイト:
http://www001.upp.sonet.ne.jp/ss45988/bangai/b2/B2.htm
童学寺の藤の動画:
https://www.youtube.com/watch?v=
S7FA3aR8SCE
本ページの写真5に、「童学寺」(場所は、図2の②)と「徳蔵寺」(場所は、
図2の➂)の藤を示す。「童学寺」は、飛鳥時代、行基が創建したという。奈良時
代末から平安時代にかけ空海が 7 歳から 15 歳まで当寺で書道や密教などを学び、
『いろは四十八文字』を創作したと伝わる。その由緒から寺号を童学寺と称するよ
うになったとされる。弘仁 6 年(815 年)、空海が 42 歳のときに再び当寺を訪れて
伽藍を整備した。童学寺の近くには「石井廃寺跡」(徳島県指定史跡)という奈良
時代前期にさかのぼる寺院跡が存在し、これが童学寺の前身ともいわれている。
「徳蔵寺」をネットで検索しても、「お墓の広告」以外はあまりない。やはり、
石井の藤では三番手であろう。1914 年にモラエスが石井町に藤見物に行った時に、
たまたま徳蔵寺の藤が見頃だったので、彼が本Ⅳで「徳蔵寺の藤の花見」と題する
紀行文を書いたのではなかろうか。彼の時代における「徳蔵寺の藤」の様子は、本
Ⅶ(p.229-230)に掲載されている絵葉書に面影が残っている。現在よりは立派なよ
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うだ。現在は、写真5にあるように、藤のアーチをくぐると、境内に紫藤や八重咲
きの藤の藤棚があり、八重咲の藤は、花房が大きくとても華やかであるようだ。
「石井の藤」をネットで検索していると、石井町に隣接する神山町にある「神光
寺」の「のぼり藤」が見事であることが分かった。本ページの写真6に、その写真
を示す。神山町役場のHP(http://www.town.kamiyama.lg.jp/)によれば、「のぼ
り藤」は先代の住職が優良品種を接木して育てたそうだ。大きな藤はどこにでもあ
るが、天に昇っているような藤がここの特徴で、樹勢は旺盛で十数米も立ち上がっ
ている。花の見頃は4月下旬で、境内には白藤もある。
写真6.徳島県名西郡神山町オロノにある「神光寺」の「のぼり藤」。
「神光寺」の「のぼり藤」の動画:https://www.youtube.com/watch?v=4j55Axhu9Yo
私は残念ながら「石井の藤」を見たことはないが、石井名物の「ふぢ餅」は大好
きであった。私の少年時代の 1950 年台には、徳島本線には蒸気機関車に牽引された
列車が走っていた。現在は、徳島―阿波池田の間(74km)は、特急「剣山」で 75
分位である。1950 年台には、徳島―阿波池田の間は汽車で2時間以上かかった。停
車時間も長かったので、主要駅では売り子がホームで飲食物を販売していた。
私が記憶しているのは、「石井駅」の「ふぢ餅」と、「穴吹駅」の「ぶどう饅
頭」である(それらの写真を、次ページに示す)。両者ともに上品な甘味がして美
味しかったが、紫色の着色が少し気になった。ネットで検索すると、両者ともに現
在でも健在であることが分かった。「ふぢ餅」は創業 1902 年の「岡蔓本舗」が製造
しており、現在は6ケで 550 円である。「ぶどう饅頭」は創業 1914 年の「日之出本
店」が製造しており、現在は9本で 650 円である。
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最後に、源義経と石井との関係を紹介する。前回は、「屋島の平家を討つために、
義経は僅か 150 の軍勢で、阿波の勝浦に上陸した。勝浦から地蔵院東海寺に寄って
食事をして、あづり峠を越えた」と書いた。義経はその後、あづり峠から石井に現
れて桜間城(場所は、図2の➃)を攻略している。その間の経緯は、平家物語の勝
浦合戦に書かれていて有名である。今回は、記事が長くなってしまったので、これ
で終了する。次回は、「平家物語の勝浦合戦」を解説する予定である。
(記載:2014 年5月 23 日)
写真7.
左:石井名物のふぢ餅。右:穴吹名物のぶどう饅頭。
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