45.文豪モラエスの徳島における足跡を辿る (9)鳴門の補足

45.文豪モラエスの徳島における足跡を辿る
著者: 林
(9)鳴門の補足
久治(記載:2016 年3月7日)
(1)前書き
最近、私(著者の林)はポルトガル人・モラエスを少々研究している。なぜな
ら、彼は謎の多い人物であるからである。私はこれまでに、モラエス(1854.5.301929.7.1)に関して、次のような感想文を書いた。
第8回:新田・藤原著の「孤愁」(以後、本Ⅰと書く)
第9回:佃實夫著の「わがモラエス伝」(以後、本Ⅱと書く)
第 10 回:岡村多希子著の「モラエスの旅:ポルトガル文人外交官の生涯」
(以後、本Ⅲと書く)
第 11 回:モラエス著の「徳島の盆踊り」(以後、本Ⅳと書く)
第 12 回:林著の「神戸時代のモラエス」(以後、記事Ⅴと書く)
第 13-14 回:モラエス著の「おヨネとコハル」(以後、本Ⅵと書く)
第 19 回:モラエス著の「モラエスの絵葉書書簡」(以後、本Ⅶと書く)
第 21 回:岡村多希子著の「モラエス:サウダーデの旅人」(以後、本Ⅷと書く)
第 19 回から、「文豪モラエスの徳島における足跡を辿る」の掲載を始めた。第
19 回は「小松島」を、第 20 回は「二軒屋」を、第 21 回は「地蔵橋」を、第 22 回
は「石井」を、第 25 回は「池田」を、第 26 回は「鳴門」を、第 34 回は「眉山」を、
第 41 回は「徳島城跡」を取り上げた。
本年の3月4日に、第 26 回の「鳴門」を読んだ方からメイルを頂いた。その方は、
「撫養航路」を始められた「灰渕重蔵」氏の曾孫で、「林の記載と灰渕家の資料と
に相違がある」と教えていただいた。そこで、私(林)が第 26 回の「鳴門」で記載
した該当箇所を以下に示し、灰渕家資料と比較・検討する。
(2)モラエスの徳島時代(1913.7.1-1929.7.1)
モラエスが徳島に隠棲した経緯は、第 19 回の記事(http://www015.upp.sonet.ne.jp/h-hayashi/D-19.pdf)で簡単に説明した。私(林)は 1942 年に徳島市で生ま
れ(モラエスが亡くなった 13 年後)、1960 年まで徳島で育った。私の少年時代の
日本や徳島は、現在よりモラエスの徳島時代によく似ていた。彼の著作で、彼の徳
島探訪の様子を読むと、私の少年時代の徳島が懐かしく追想される。「文豪モラエ
スの徳島における足跡を辿る」のシリーズを始めた理由は、モラエスが暮らした徳
島と、私が育った徳島とを比較検討するためである。
第 26 回で、私は「鳴門」を取り上げた。モラエスは 1913 年7月から徳島市に暮
らし始めた。彼は公務から退いた解放感を満喫して、徳島県下を精力的に見物して
まわった。本Ⅳによれば、彼は 1914 年6月9日に池田に行ったばっかりなのに、6
月 11 日には鳴門に行っている。この時には徳島-撫養(現在の鳴門市の中心街)の
間には鉄道がなかったので、彼は「撫養航路」で撫養町の文明橋に行き、そこから
人力車で鳴門海峡に行っている。本Ⅳの「撫養への船旅と鳴門見物」の章(p.267269)で、モラエスは撫養と鳴門への紀行文を詳しく書いている。私は彼の鳴門紀行
1
文を次のサイト(http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-26.pdf)に記載した。
1914 年にモラエスが鳴門海峡を見物したルート(撫養-鳴門海峡の区間)を図1に
示す。
⑤
➅
➃
➀
➂
➁
図1.左:1914 年にモラエスが鳴門海峡を見物したルート:➀撫養町・文明橋(な
お、モラエスは徳島から文明橋まで、「撫養航路」の小舟で行った。)→➁岡崎港
→➂小鳴門海峡を連絡船で渡る→➃鳴門村の土佐泊→➄鳴門公園・観潮台→➅大鳴
門海峡を見る。右:➅の大鳴門海峡に、1985 年に完成した大鳴門橋(鳴門市から淡
路島を見る)。
(3)撫養航路
明治時代の徳島県において、1899 年に徳島鉄道が、徳島県の最初の鉄道として、
徳島から鴨島まで鉄道を開業した。(なお、徳島鉄道は 1907 年に国有化された。)
この鉄道は吉野川の右岸を遡っており、1914 年3月 25 日には 阿波池田(現・三好
市池田町)まで延伸した。(モラエスは延伸直後の 1914 年6月9日に、池田に日帰
りで行っている。)
一方、吉野川の左岸においては大きな河川が入り混んでいるため、鉄道敷設は容
易ではなかった。そのため、徳島市の中心・新町橋から、撫養町(現・鳴門市)の
中心・文明橋まで連絡船が運航されていた。この航路は「撫養航路」と呼ばれてい
た。最近、この航路は「遊覧船」として復活している。次ページの図2に、現在の
「撫養航路」のルートを示す。
「NPO 法人・新町川を守る会」は撫養航路みどころマップ/fと題する案内書を作
成し、撫養航路の歴史と地図を詳しく記載している。本案内書は、撫養航路の歴史
に関して、次のように記載している。(なお、青文字は林の調査による加筆。)
明治 25 年(1892):撫養町林崎の灰渕重蔵が阿波巡航船株式会社を設立し、撫養文
明橋東詰から徳島の新町橋畔までの間を毎日一往復した。(新町橋-文明橋の所
要時間は約4時間であったが、よくエンストを起こした。)
明治 35 年(1902):徳島市西新町の天野亀吉が定期航路を運行。(なお、私は第
34 回の「眉山」でも、天野翁の事績を記載した。翁は殆ど自費で、徳島市眉山の
中腹に遊歩道を建設した。この道は「新四国 88 ケ所」とも呼ばれ、モラエスの
來徳直後に完成した。モラエスも私もこの遊歩道を大変好んだ。)
明治 37 年(1904):阿波巡航船合資会社が西洋式発動機船2艘を就航し、毎日6時、
12 時、18 時の3回運行した。
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昭和 10 年(1935): 高徳線全線開通(国鉄が吉野川鉄橋を建設し、徳島―高松の
区間が鉄道で直通した)。巡航船は衰退し廃止。
図2.現在の「撫養航路」のルート。明治時代には、本図の吉野川橋も吉野川大橋
も無かった。もちろん、徳島空港も無かった。
「阿波航路乗船レポ」のサイト/l には、現在の航路の写真が豊富です。
「撫養航路」の動画は、ここのサイトで見えます。/4
「新町川を守る会」の案内書以外にも、「港別みなとアーカイブス」に西田素康
氏が「撫養港のみなと文化」と題する優れた論文を発表している。本論文でも、
「明治 25 年(1892)、撫養町林崎の人、灰渕重蔵が阿波巡航船株式会社を設立し、
撫養文明橋東詰から徳島の新町橋畔までの間を毎日 1 往復する発動機船を就航させ
た。一般に早船と呼ばれ〝早〟印を使っていた。5~6 トン 10 人乗りで片道約 4 時間
を要したという。午前 8 時出航して 12 時頃入港。」との記載がある。
一方、灰渕英昭(4代目・灰渕重蔵)氏が所有する「灰渕家資料」には、「撫養
航路」の歴史が次のように記載されているそうである。
明治 30 年(1897)頃:初代灰渕重蔵が「早船舎」を組織して撫養航路を運営。
大正 8 年(1919 年)5 月:2代目灰渕重蔵が「撫養運輸株式会社」に改称。
私(林)は4代目・灰渕重蔵の灰渕英昭から「先生が記されている上記資料と当
方の手元で保管している私的な伝聞資料等と、少々食い違いが有り、灰渕家の家史
を正確に継承する為にも、この際是非ご検証頂けれと存じ、ご連絡する次第で
す。」とメイルを頂いた。
「新町川を守る会」の案内書や西田素康氏の論文では、「明治 25 年(1892)に撫
養町林崎の灰渕重蔵が阿波巡航船株式会社を設立し、撫養文明橋東詰から徳島の新
3
町橋畔までの間を毎日一往復した。」と記載されている。この相違を、灰渕英昭氏
は問題にしているようだ。私は「明治 25 年説には何らかの原典がある。鳴門市史の
可能性が強い」と想像している。しかし、私は東京に在住しているので、鳴門市史
などの徳島の文献を閲覧することは困難である。次に帰省する時にでも、鳴門市史
などの文献を調査することを計画している。
(4)話題1:徳島県は全国で唯一「電車がない県」である
ついでに、話題を少々付け加える。首都圏や近畿圏の人々には大変不思議なこと
であるが、徳島県は全国で唯一「電車のない県」である。現在、徳島県の鉄道は総
て気動車で運営されている。しかし、徳島県にも電車が走る可能性があった。大正
時代になって、1916 年 に「阿波電気軌道」が古川-中原-池谷-撫養(現・鳴
門)間(13.9km)の鉄道を開業した。(後に、鍛冶屋原まで延伸。)この小さな鉄道
会社には、大河・吉野川に橋を架ける資金がなく、吉野川の北岸(中原)から徳島
の新町橋まで、「川の連絡船」を運航した。この鉄道の路線図を図3に示す。
図3.阿波鉄道の路線(赤線)。白線は、中原-新町橋間の「川の連絡船」のルー
トを示す。新町橋-撫養の所要時間は約1時間半であった。1928 年には、道路橋・
吉野川橋が完成したが、「川の連絡船」も存続した。多分、船賃の方が自動車代よ
り安かったのであろう。
当初、「阿波電気軌道」には電車が走る予定であった。しかし、資金不足のため、
電車の運行は出来ず、汽車で運行され、1926 年には社名が「阿波鉄道」に変更され
た。1933 年(昭和 8 年)7 月 1 日 には、阿波鉄道は国有化され阿波線となる。中原-
新町橋間の連絡船は便利であったので、珍しい「国営の川の連絡船」として存続した。
1935 年3月に、吉野川鉄橋が完成し、中原―徳島の間に鉄道が開通し、「川の連絡
船」は廃止された。
「灰渕家資料」には、次の事も記録されているそうである。
1920 年 8 月:灰渕家の「撫養運輸株式会社」は関連会社「撫養自動車株式会社」を
設立し、徳島市通町⇔撫養町岡崎路線の営業許可を取得してバス事業や陸上運送に
も進出した。この会社は戦前、戦中には国策会社・徳島統合バス株式会社に統合さ
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れたが、民営での最盛期の昭和 10 年前後には保有台数 34 台を抱える県内有数の乗
合バス大手会社に成長した。
なお、本Ⅱ(p.231-245)によれば、モラエスは 1924 年5月 30 日の 70 歳の誕生
日に鳴門に再度行っている。この時には、徳島から撫養へは川の連絡船と阿波電気
軌道の鉄道を利用している。
(5)話題2:徳島岩吉翁の業績
更に、灰渕英昭(4代目・灰渕重蔵)氏が所有する「灰渕家資料」には、次の事
項も書かれているそうである。「2代目の灰渕重蔵には子供がなく、妻の実家から
養女を貰った。その養女に、徳島家(旧徳島県日和佐町)から婿(旧姓・徳島福三
郎)を迎え、3代目の灰渕重蔵を継承させた。3代目・灰渕重蔵の実子が4代目・
灰渕重蔵の灰渕英昭氏である。」
日和佐の徳島家といえば、徳島県では有名な徳島岩吉翁の生家である。「ふくお
か先人金印記念館」のサイトによれば、徳島岩吉(1897.8.21-1959.11.3)は「徳
水」の創業者で、徳島県生まれ 。長崎県五島列島福江島玉之浦から博多に進出し、
以西底引き網漁業で活躍。戦後「徳島水産」を興し、多角経営に積極進出。事業は
現、株式会社トクスイコーポレーションに引き継がれている。
「TOKUSUI のHP」の「会社の歩み」欄には、徳島岩吉翁の業績や「徳島水産」の
歴史が次のように書かれている。
1924 年:徳島岩吉が徳島県出漁団として、長崎県五島で底曳漁業(1 組 2 隻)を
開始
1933 年:合資会社徳島漁業部を設立
1934 年:漁業基地を福岡市に移転
1947 年:徳島水産株式会社(資本金 3 千万円)を設立し、徳島岩吉が社長就任
韓国、中国が海洋主権を一方的に宣言し当社の船を含め日本漁船を捕獲すること
が 1955 年頃まで続く
1955 年:徳島岩吉社長が、日中漁業交渉代表団員として訪中し、日中民間漁業協定
成立 (次ページの写真を参照)
1959 年:徳島岩吉社長が死去。徳島喜太郎が社長に就任
1965 年:徳島喜太郎社長が日中民間漁業代表団長に選任され訪中し、日中民間漁業
協定が改定
1969 年:社名を 徳水株式会社 に変更
1975 年:徳島喜太郎社長を日本側代表団の団長として訪中し、日中政府間漁業協定
に調印
1997 年:社名を 株式会社トクスイコーポレーション に変更
日中の国交回復は 1972 年9月 29 日であるが、その前に徳島岩吉が漁業問題で日
中親善の端緒を開いた業績は高く評価できる。北九州の水産業で比類のない成功を
収めた岩吉は、故郷の徳島県日和佐町(現・美波町)の発展を願い、役場庁舎と日
和佐小学校の講堂を独力で寄贈するなど、郷土の文化や教育に多大な貢献をした。
これらの功により、彼の銅像が日和佐城址に建立されている。(次ページの写真を参
照)
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図4.左:1955 年の日中漁業交渉代表団。右端が徳島岩吉氏。右:徳島県日和佐城
址にある徳島岩吉翁の銅像(建立は 1957 年 11 月)。
図5.徳島岩吉翁の業績を書いた説明板(徳島県日和佐城址にある翁の銅像の傍に
ある)。
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