竹俣一三医師のこと

竹俣一三医師のこと
原 久一郎
<医は仁術ナリ>という言葉があるが、この言葉を現実に生かし切っているお医者さんが、<本日休
診>の主人公以外にも現存するのだから、この御時世において、まったく干天の慈雨の思いがする。
表題のお医者さんがその御当人だ。昨年の<野間賞>の会の祝宴で、吉屋信子さんも老生の竹俣先生
観にことごとく賛成しておられたから、決して老生だけの独断ではないのである。吉屋さんも目白の
文化村地区におられた当時、よく先生にみておもらいになったのだ。
竹俣先生はお医者さんのくせに、病人を病気にしたがらない。夜分電話で来ていただいても、投薬
の必要なしとして、一時間ぐらい無駄話を交わして、そのまま帰って行かれたことさえ幾度もあった。
その代り、真剣な病態の場合には、日に何度でも自発的に往診される。往診料などおとりにならない。
また先生の医院では、自分の方から薬価を請求することをなさらない。従って、薬礼を持って来る患
家からだけの収入にとどまる。目白の文化村に開業しておられた頃は、文字通り門前市をなすの盛況
だったが、所得の方は総額の半分位が実数ではなかったかと推察する。しかし、先生はそんなことに
超然として居られた。その代り、自分の診療が奏効して、瀕死の病人が恢復に向かったときなどは、
まったく自分のことのようにお喜びになる。三十年前、拙宅につとめていた忠実な小間使いを、強引
に連れ戻した彼女の父親が、因果応報、死病にとり憑かれたときなど、もちろん無料で、十丁あまり
の道程を、自転車で、不心得な親爺が死ぬまで、診療の往復を継続された。一般のお医者さんの敬遠
する貧家への投薬においてこそ、自己の天職に対する完き満足を感じておられるらしい。従って、先
生の家庭は豊かではないが、しかし清貧に甘んじておられる。
しかも先生は名医なのだ。昔、砲兵工廠はなやかなりし頃、同廠附属病院で内科部長をしておられ
たとかで、
(四十年前の紹介者の言葉によれば)御出身は軍医の中佐であった。そのお蔭で、先生は
日支事変の勃発当時、イの一番に徴集され、満州(中国・北京山西省)で竹俣部隊の仁術でその存在
を発揮されはしたものの、結局戦争犠牲者となり、現在は江古田の奥で、草花つくりに明け暮れてお
いでになる。今や花々をつくるのが本業で、お医者さんの方は隠居仕事になったようだ。しかも先生
はそれに滿足しておられる。仁術とか清貧とかいう言葉が、そっくりそのままあてはまる名医として、
永く人々の記憶に残るであろう。
かんじんな点をいい忘れたが、医術そのものの分野において、内科専門の町医者として、
先生の技量は卓抜なのである。
上記は幸子の父の竹俣一三医師のことを「医家芸術」昭和 37 年 3 月号に掲載されたもの