摂関政治と天皇 −円融天皇期を事例に ー は じ め に 正 秀 平安時代の国政については、土田直鎖・橋本義彦両氏に代表される一九六〇年代以来の先駆的な研究に続き、一九八〇年 代以降の研究によって、政︵申文︶・定など個別政務の実態と、それらをふまえた政務の全体構造が解明されつつあり、そ の成果の上に立って、改めて﹁摂関政治﹂・﹁院政﹂という政治形態の特質と意義が論じられているところである︶ 。 1 ︵その場合、 天皇・摂関・院三者の関係を理解する手がかりとして、定のあり方の変化に注目が集まっているといえよう。 そうしたなかで、摂関政治については、天皇大権代行であった摂政の執政期よりも、関白︵または内覧︶在任期に議論が 集中している感がある。それは、関白在任期とは、天皇はすでに大権行使能力を有すると見なされており、従って、天皇と 関白との関係、具体的には関白の職掌・権能、すなわち、天皇の大権行使のあり方︵政務の最終決裁︶と関白のそれへの関 わり方が問題となるからである。従来、関白の職掌は文書内覧と理解されてきたが、坂本賞三氏は、天皇が政務の最終決裁 を行うための内々の諮問に関白のみが与る﹁一人諮問﹂こそが関白の職掌であるとされ、文書内覧は、むしろ﹁一人諮問﹂ に付随して生じたものであるとされた。 栄爵・女叙位︵正月九日・十日︶、蔵人・殿上人の選任︵正月十日︶、検非違使補任︵二月四日、五月十一日︶、東宮元服 ︵一︶叙位・除目を含む人事に関する事例 天皇や公卿にとっては、これらのすべてが政治であったことは、かつて土田直鎖氏が指摘しておられる通りである︶ 。 3 ︵ のに大別して検討していこう。なお、政務をその内容によってこのように類別するのはあくまで便宜的に過ぎず、当該期の も多岐にわたるが、叙位・除目を含む人事に関わるもの、恒例・臨時の諸行事の運営に関わるもの、その他政務に関するも 円融天皇から関白藤原頼忠への仰せを特徴づけるのは、ある案件について、﹁可二足申ことするものである。具体的内容 一関白への﹁仰﹂ 限られているが、それは、天皇と関白の関係、天皇の政務の実態を知り得る恰好の素材を提供してくれよう。 が比較的詳細に知り得る最初の事例であるからである。該当する﹃小右記﹄は天元五︵九八二︶年正月条から六月条までと の前提となるからであり、第二に、当時蔵人頭であった藤原実資の残した﹃小右記﹄により、摂関政治期の政務運営の実態 の解明を試みるものである。対象を円融天皇期に限定するのは、第一に、それが長期にわたる藤原道長・頼通執政期の直接 営における天皇と関白、あるいは他の公卿との関係を追うことにより、いわゆる摂関政治︵関白在任期︶の実態とその特質 本稿は、坂本氏が﹁一人諮問﹂が初めて明確に看取されるとされた円融天皇期を対象に、定だけではなく日常的な政務運 ︵2︶ にともなう女官叙位︵二月十五日︶、除目直物にともなう任官︵三月五日︶、中宮職宮人補任︵三月十一日︶、阿閣梨・内供 僧の補任︵三月二十五日︶などがあり、天皇が侯相者名を示し、関白の意見を聞くというものが多い。ただし、関白の意見 はあくまで天皇の決裁のための参考意見なのであって、最終的決定権は天皇が有していることはいうまでもない。 例えば、二月四日に﹁太相府可走申ことの仰せのあった検非違使補任では、天皇から四名の候補者が示され、それぞれ について、藤原師頼は左大臣源雅信が長年推挙していること、大江匡衝は儒者、平恒昌は蔵人、平維敏は検非違使庁の推挙 ︵使庁奏︶によることなどの理由が付された。これに対する頼忠の報奏は、①藤原師顆については同じ左衛門尉である藤原 為長が﹁一道成業者﹂であり、勘解由判官を十二年務めて左衛門尉に違任し、去年使宣旨を蒙りながら誤って他人に下され たという経緯もあり、今年補任されなければ世間の批判を受けるであろうこと、②大江匡衝は秀才であるが、中古以来秀才 たるものが使宣旨を蒙った事例はないので、天皇の決定によるべきこと、③平恒昌は文章生であり、昇殿も許されているの で問題はないが、文章生の席次からいえば右衛門尉平幾忠が上席であり理運に当たること、④平維敏は追捕の任に当たる者 として適任であり、貞盛の子としても名を知られており使庁奏もある、と個別の候栖者についての見解を述べた後、藤原為 長・平幾忠・平維敏が理にかなうとしつつ、﹁唯可レ在二勅定Jというものであった。翌日、この報奏を受けた天皇は、左衛 門尉に藤原師頼に加えて藤原為長を、右衛門尉には大江匡衝を任命するとの案を改めて頼忠に示し、﹁又々太相国可l一定申l﹂ と命じた。頼忠は、重ねての仰せであるが、すでに詳細な報奏を行ったところであり、勅命に従うのみであると答え、結果、 天皇が示した三名が補任されることとなった。この経緯に照らせば、天皇からの﹁可二定申ことの仰せに対し、関白頼忠は 諸般の事情を勘案して最良と思われる案を示しているが、﹁唯可レ在二勅定l﹂と申し添えたことからうかがわれるように、あ くまで最終的決定は天皇の判断に委ねられるものであることを明確に認識していること、一方、天皇は関白の報奏の一部を 採用する︵藤原為長の補任︶とともに、先例がないとのことで自らに判断の委ねられた件については独自の判断を行ってい ること︵大江匡衝の補任︶などが知られるのである。 ︵二︶恒例・臨時の諸行事の運営に関する事例 除目儀を始めるべき目について︵正月二十二日︶、祈年祭等の延引について︵正月二十六日︶、東宮元服について︵二月 十五日︶、円融寺行幸に際しての禄物・饗について︵二月十七日︶、季御読経日時勘申・仁王会執行の可否等︵三月三日︶、 貿茂祭に使用の唐鞍の触稜について︵四月二十一日︶、楔祭不参公卿の召問について︵四月二十七日︶などがある。また、 ﹁可定仰﹂との文言はないが、御願寺円融寺への行幸の可否について﹁如何﹂と問うているのなども︵二月十日︶、このうち に含めてよいであろう。 行事の運営に関わる事例としては、右に掲げたものではないが、正月六日に行われた叙位儀のうちに、興味深い様相を読 みとることができる。四日に、天皇から蔵人頭実資を通じて頼忠に、五・六両日に叙位儀を行うので参入するようとの仰せ が下された。それに対して頼忠は、今年は必ずしも叙位を行うべき年ではない、それは叙位は一二年に二度行うべきであると ︵4︶ ︵5︶ の理由による、しかし、内裏造営が終わって遷宮した次の年は叙位が行われるとのことなので行っても差し支えはない、た だし、﹁被二撰行一宜軟︵=該当者を厳選して叙位されるのがよいであろう︶﹂との意見を述べた。六日に頼忠も参仕して行わ れた叙位儀は、受領功過定をも含むものであったが、結果は、﹁惣所レ叙若干人﹂というものであった。叙位の対象者がもと もと少なかったということもあるのかも知れないが、叙位儀を行うという点では天皇の意向が尊重され、必ずしも行うべき 年ではないから厳選して行うようにという頼忠の意見は、若干名の叙位にとどまったという結果の形態において尊重された といえる。しかも、その結果は天皇の判断によるものであることはいうまではない。天皇と関白それぞれの主張にうまく折 り合いをつける形で、ことが運ばれているといえよう。 ︵三︶その他政務に関する事例 豊楽院等修造について︵二月九日︶、京中の群盗横行は検非違使の職務解息によること及び海賊追討に関する伊予国解文 について︵二月二十七日︶、来着唐人を帰還させるための措置について︵三月二十五日︶などである。 次々に惹起し、その都度対応を迫られる事態についての処理であるが、例えば豊楽院等修造について見ると、諸国に修造 を命じていたものの、焼亡した内裏の再建が重なったために修造が停滞しており、天皇は、造門行事上卿にことを担当させ るべきか、諸国に分配すべきか等を﹁太相国可二定中一﹂と命じた。頼忠は、大事であるので、諸卿をして定め申させるよう に、すなわち公卿議定の開催と、羅城門・武徳殿等を対象に加えることを報奏している。この結果公卿議定が開かれたのか 否かは定かではないが、公卿議定開催に至る一つのあり方をうかがうことができる。 あるいは、海賊追討を上申してきた伊予国解文については、頼忠が、国司はすでに四位を帯しているので昇叙すべきでは ないが、追討に当たって功を成した者三人は、それぞれの位階に応じて賞進されるべきであろうと﹁定申﹂したのを受けて、 天皇は解文を上卿に下すよう指示し、勲功賞の具体的内容については追って定め下すとした。勲功賞とは叙位任官であるか ら、その最終的決定権は天皇が有している。先に見た叙位・除目の事例に照らせば、この場合、天皇が勲功賞の具体案を示 して改めて頼忠の意見を求めたか、あるいは、勲功賞の腸与そのものついては頼忠も同意しているので、直ちに天皇の判断 による叙位任官が行われたかのいずれかであったろうと推測される。 以上、円融天皇から関白頼忠への仰せを特徴づける﹁可定申﹂とされた事例について、その具体相を検討してきたが、 ﹁可定申﹂とは、天皇が政務決裁のために関白の意見を問うたものであり、関白への諮問にはかならない。これに答えて然 るべき意見を報奏することが、関白が天皇の政務決裁を補佐することそのものであった。ただし、関白の報奏した内容が、 全面的に採用されるとは限らない。それは、国政の最終的決裁は天皇固有の大権であるという、当該期国家の構造に由来す るものであり、そのことは関白自身もよく承知していたことは、すでに見た通りである。 では、この関白に対する天皇の諮問を、関白固有の権能として﹁一人諮問﹂とする理解が成り立つのかどうか、次に、天 皇と関白以外の公卿との関係を検証することで、それについて考えてみよう。 二 関白以外の公卿への﹁仰﹂ 同時期、関白への諮問以外で目立つのは、天皇が左大臣源雅信へ仰せ下していたり、雅信が天皇に奏聞したりしている事 例である。しかし、天皇から左大臣への仰せには、関白に対する﹁可定申﹂の様な意見を求めた事例、すなわち諮問を見出 すことはできない。唯一、左大臣への仰せで﹁可定申﹂とあるのは二月七日条であるが、これは、海賊蜂起への対策につい て、﹁左大臣与二諸卿一相共可二定申一﹂とされたもので、左大臣を上郷として公卿議定を開くよう命じたものである。 天皇から左大臣への仰せは、行事上卿もしくは官符・官宣旨宣下の上卿として政務処理に当たることを命じたものであり、 関白に対する諮問のように、天皇の政務決裁を補佐するものとしての意見を左大臣に求めたものではない。また、左大臣が 天皇に奏聞している場合も、上卿として政務を処理するために必要な天皇の決裁を求めたものであり、天皇の決裁を補佐す る関白の報奏とは異質なものである。関白への諮問と、左大臣への上卿としての仰せとの関係をうかがうに足る事例を挙げ てみよう。 先にも触れた二月四日に関白に諮問のあった検非違使補任の件は、天皇と関白とのやりとりの後、天皇が藤原為長・師頼、 大江匡衛の三人を補任することを決定し、その旨を﹁可レ伸二上卿一﹂と蔵人頭実資に指示し︵二月七日︶、実資から左大臣雅 信に検非違使宣旨が申し下されている︵二月八日︶。阿閣梨・内供の補任について、天皇から関白への諮問︵三月二十五日︶、 関白の報奏︵二十六日︶を経て天皇の決裁が行われ︵二十七日︶、補任宣旨が左大臣に下されているのも同様の事例であり、 ここでの左大臣の役割は宣下の上郷である。また、三月十九日、賀茂斎院卸楔の供奉従者らが綾羅を衣の裏地に用いること を禁じているにもかかわらず、それが守られないことにつて、改めて禁制を命じ、検非違使の悌息を戒めるよう﹁被レ仰二卜 へ 6 、 左大臣こたが、﹃政事要略﹄によって、左大臣による奉勅宣下が行われていることを知り得る。 また、楔祭に参仕しなかった藤原文範・源重光を召問すべきことについて、﹁先仰二大相府一﹂との天皇の命があり︵四月 二十七日︶、頼忠から﹁早可二召問一之由﹂が報奏され︵四月二十八日︶、左大臣に﹁可二召問l之由﹂が仰せられている︵四月 三十日︶。この場合は、天皇はまず関白頼忠に召問の可否を諮問し、その報奏をふまえて両名を召問すべきことを決し、そ の政務を処理することを、左大臣に命じているのである。 上卿として命を受けた左大臣が意見を述べた事例はどうであろうか。二月に行われる祈年祭等の諸祭が積により延引され ることになり、外記にその前例を勘申させた上で、天皇は諸祭を行うべき日を﹁太相府可二定申Jと命じた︵正月二士ハ日︶。 頼忠はそれぞれの祭について行うべき日を報奏し、天皇はこの報奏の内容を﹁早可レ令レ伸二上郷こと蔵人頭実資に指示した。 これは、頼忠の報奏した日にそれぞれの祭を行うことを天皇が決定し、上卿にそれを伝えさせたものと考えられる。これに 対し、上郷として仰せを承った左大臣雅信は、祈年祭が予定された二月十九日が東宮師貞親王の元服の日に当たることを指 摘し、﹁非二彼日一被レ行宜軟﹂と実資に示した。実資が頼忠にこのことを伝えたところ、頼忠は祈年祭の日を十八日に改める ことを天皇に奏聞するよう指示した︵二月三日︶。実資が頼忠の報奏を天皇に取り次いだことは﹃小右記﹄ では確認できな いが、祈年祭が二月十八日に行われていることからすれば、頼忠の報奏は天皇に奏聞され、天皇はそれによって祈年祭の日 を十九日から十八日に改めるよう決定したのであろう。この事例では、左大臣雅信は上卿として問題となり得る事柄を指摘 し、それについての天皇の決裁を求めているのであり、その決裁は天皇が行うべきことであった。そして、関白頼忠は天皇 の決裁に資するための意見を述べているのである。 天皇の仰せや関白の諮問と関係なく、左大臣が天皇に奏聞している事例としては、二月二十五日に参内した雅信が、来る 二十七ないし二十八日に直物を行うことの可否を奏聞し、天皇が翌月三日以後に行うよう命じた例がある。これは、四月五 日条に、﹁左大臣依二直物事一、候二左杖ことあることから、直物を行うことになっていた左大臣が、政務の担当者として、 政務を行うべき目について天皇の決裁を仰いだものである。あるいは、その直物に際しての除目案件についても、天皇から ﹁件等事太相府可二定申ことの諮問があったが、そのうち、石清水宮が造作料として伊勢介を申請した件について、頼忠は ﹁巳有二宣旨一、可二許給一也﹂と報奏し、天皇は﹁依レ講﹂と裁可した。実資が天皇の決裁を左大臣に伝えたところ、石清水宮 からは伊勢介に二人が申請されているが、一人は任官するとして、いま一人については、藤原高頼が他官に転じる日を待っ て任官してはどうかとの意見が、左大臣から奏された。天皇は﹁依請﹂としてこれを認めたのであるが、これも、石清水宮 の申請を認めるか否かについては天皇から関白への諮問1関白の報奏1天皇の決裁によって決定されており、左大臣の意見 は、その決定を具体化するに際しての処置に関わるものなのである。 8 以上をふまえて、天皇と関白、それ以外の公卿との関係をまとめるならば、左大臣に対する天皇の仰せ、あるいは、左大 臣から天皇への奏間は、いずれも政務担当者、上卿としてのそれであることが知られるのであり、天皇が行うべき政務の決 裁そのものに関わる諮問は関白のみになされているのである。とすれば、これを天皇の政務決裁を補佐する関白固有の権能 として﹁一人諮問﹂とすることは、妥当な理解といえる。 なお、左大臣に上卿が集中しているのは、一上であることによると考えられる。 三 天皇の政務決裁 これまでは、天皇が政務を決裁するために関白に諮問し、それをもふまえて政務を決裁し、それに基づいた異体的処置を 上卿に命じるという場合を見てきた。 ﹃小右記﹄の当該箇所からは、天皇自身が発意したり、あるいは、対応を迫られた事態について関白に相談することなく、 独自に判断を下すなど、政務に取り組んでいる様子をうかがうことができる。 一で見た政務の内容によって順に見ていくと、まず、叙位・除目を含む人事に関する事例では、女叙位に合わせての蔵人・ 殿上人の選任︵正月十日︶、検非違使補任︵二月四日、五月十一日︶、阿閣梨・内供僧の補任︵三月二十五日︶等についての 関白への諮問は、いずれも天皇の発意によるものである。 恒例・臨時の諸行事の運営に関わる事例では、叙位儀を正月五・六両日に行うとし、関白頼忠以下諸卿の参入を命じたの は天皇であった。同月二十二日には、除目を始めるべき日を定め申すよう、関白に命じている。円融寺行幸の可否とそれに 関する諸事︵二月十日・十七日︶、季御読経日時勘申・仁王会執行の可否等︵三月三日︶、楔祭不参公卿の召閏について︵四 月二十七日︶なども、天皇の発意によって関白に諮問されている。先にも触れた二月二十五日に左大臣から奏閲のあった直 物の日取りは、関白に諮問することなく、天皇が決定している。 儀式の執行に関わる事柄について、天皇が関白に諮問することなく独自に処置を命じた事例としては、次のような事例を 挙げることができる。正月一日の中朝拝について、諸卿の要請を容れてこれを行うことを認めたのは、天皇の独自の判断で あった。同十日には、七日に行われた白馬節会における公卿の遅参や諸司の矢について、内弁を務めた左大臣源雅信に仰せ ている。同十五日の兵部手棺に上卿不参との報告を受けると、諸卿を召し遣わすよう命じ、さらに源重光を名指しして参入 を命じている。同十九日賭弓において、四府奏の扱いについての右大臣藤原兼家の指示が先例に違うと問題になったときは、 事の次第が天皇に奏され、天皇から先例に従った扱いをするようとの命が下された。二月十日には、春日祭使に予定されて いた藤原信輔が積れによって奉仕できない旨奏聞してくると、詞僻の雑具が積れていないかどうかを調べ、積れていなけれ ば代官の者に与えるよう命じている。また、六月二十九日には、翌日の住吉社の走馬に馬を献じるべき右馬寮が積れに触れ たとの奏閏を受けると、野飼御馬を宛てるよう命じている。 その他の政務に関する事例では、正月十七日、右衛門府厨町で死人が発見され、すでに厨町で調理された陣食が本陣に運 ばれ、陣官等がこれを食していたため、積に触れるかどうかが奏聞された。天皇は、﹁積以二初見時一為レ積﹂との判断を示し、 陣食を陣に運んだ辰時には死人は発見されていなかったのであるから、その段階の陣食は積れたものとは見なされない︵従っ て、それを食した官人も稜に触れたとは見なされない︶、ただし、以後は﹁厨食井往還人不レ可レ参レ陣、禁過﹂と命じた。こ の天皇の命にも関わらず、﹁穣後飯﹂が射礼に供されて官人らが食したことが奏聞されると、食事を射礼所に運んだ下人を −10− 尋問するよう命じるとともに、改めて地積宮人の参陣を禁じ、さらに諸陣に対して、神事に関わる諸司の参入を止めるよう 札を立てさせている。あるいは、京中の群盗横行は検非違使の職務僻怠によるとして関白に諮問しているのも、天皇の発意 による︵二月二十七日︶。 以上、煩雑をいとわず紹介してきたところからは、円融天皇が様々の政務について適宜対応している様子がうかがわれよ う。 結び 摂関政治と天皇 かつては、摂関政治という政治形態においては、摂政や関白が政治を専断し、そのために天皇の存在が希薄化したと理解 されてきた。そうした理解は、今日ではすでに克服されていると思われるが、円融天皇期のわずか半年という限られた時期 の事例に照らしても、そうした理解が妥当しないことを改めて確認することができた。摂関政治︵摂政が天皇大権代行者と して政務の決裁を行うのは当然なので、以下では、関白在任期について述べていく︶においても、天皇は成人として大権行 使能力を有すると見なされた場合は、様々な政務の最終決裁を行わなければならなかったのであり、その最終決裁を補佐す るべく天皇の諮問に与ったのが関白であった。 ところで、近年の議論においては、天皇からの諮問をめぐる理解にいささか混乱があるように見受けられる。当該期にお いては、天皇が自らの政務決裁に資する意見を求める諮問は、関白だけではなく、公卿に対しても行われた。公卿への諮問 の代表的形態である公卿議定と関白への諮問︵一人諮問︶との関係を考察することで、両者への諮問の国制上の位置づけを −・11−1 確認しておきたい。公卿への諮問は、公卿議定召集という形で公卿全員を対象に行われるのが原則であり、それは、天皇輔 弼という律令制以来の公卿固有の国制上の権能に由来するものであった。公卿への諮問の結果は、定文によって天皇に奏聞 されたが、それを受けて、天皇はいよいよ最終決裁を下さなければならない。この場面で行われるのが関白への諮問である。 天皇の政務決裁の、いわば最後の諮問に与るのが関白の権能だったのであり、それは、公卿への諮問よりもより直接に、天 皇の政務決裁を補佐するものであった。本稿で見てきた、天皇が様々な政務を処理するために関白に行った諮問も、国制上 の位置づけとしてはこれと同じものであり、坂本賞三氏が、関白への諮問を﹁うちわの相談﹂とされたのは、こうした関白 ヘーゝ への諮問と公卿への諮問との国制上の位相の差異を表現されようとしたものである。なお、関白の諮問を経ての政務の最終 決裁があくまで天皇固有の権能だったことは繰り返すまでもない。 とすれば、政治形態としての摂関政治の特質とは、摂政という臣下による天皇大権代行の定着とともに、律令制では想定 されていなかった天皇の最終決裁を補佐する権能が抽出されて独自の地位︵関白と、それに准じるものとしての内覧︶とし て確立され、しかもそれが天皇大権行使能力を有すると見なされた成人天皇に対して固定的に設けられるようになったこと に求められよう。 摂関政治︵関白在任期︶のもとでも天皇は国制上の固有の権能としての政務決裁に対処し得る能力を身につけることを求 められたであろうことは想像に難くない。関白は、そうした天皇の政務決裁の最後の相談相手であったわけだが、両者の関 係は、坂本氏が述べられたように、﹁天皇の政治的資質や関白・内覧の政治的資質によってかなり異なる様相を示すことが あり得た﹂であろう。やがて、前例や先例に依拠しっつ処理されるのが通例であった当該期の政務の中に、それでは対応で きない問題が現れてくる。本稿で取り上げた﹃小右記﹄の記主藤原実資の孫にあたる藤原資房の記録﹃春記﹄には、彼が祖 ー12− 父と同じく蔵人頭として、後朱雀天皇と関白藤原頼通の間を往返したことが詳細に記されているが、天皇からの諮問に関白 は﹁可レ在二勅定l﹂と答えることが多くなってく ︶ 8 ︵る。それは、天皇の意向を尊重するが故のものというよりも、明らかに関 白が直面する政治課題についての有効な献言をなし得なくなったためである。天皇の最終決裁を補佐するという関白の権能 が、重要な問題になればなるほど果たされなくなっているのである。それは、天皇や関白など個人の政治的資質を超えた、 社会変動のうねりが然らしめたものであったが、こうして、いわば、現実の前に立ち往生するようになった摂関政治にかわっ て、政治課題への対応を担うべく登場したのが院政であった。 本稿は、わずか半年という限られた期間を対象とした考察であったが、それが故にいささか冗長ながら、個別の事例を丁 寧に追うことができた。しかし、この時期に続く長期の摂関政治期について、こうした叙述が可能となるわけではなく、し かも、これ以後の時期についての検討を行わなければ、摂関政治についてのよりゆたかな知見を得ることはできない。比較 的詳細に残された古記録史料を、政務の全体像を念頭に読み解いていくことを次の課題として、潤筆する。 [註] ︵1︶土田﹃奈良平安時代史研究﹄。橋本﹃平安貴族社会の研究﹄、﹃平安貴族﹄。最近の研究に基づく優れた概説として、玉井力﹁一〇− 二世紀の日本−摂関政治﹂︵﹃岩波講座日本通史第6巻古代5﹄所収︶。当該期の政治構造についての私見は、﹁王朝国家政治機構 の構造と特質 太政官と蔵人所﹂︵﹃ヒストリア﹄一四五︶で述べた。 ︵2︶﹁一人諮問の由来﹂︵﹃神戸学院大学人文学部紀要﹄1︶。以下、本稿で坂本氏の見解に触れる場合、とくに断らない限り、これに依 る。 −13一 ︵3︶﹁平安時代の政務と儀式﹂︵同﹃奈良平安時代史研究﹄所収︶。 ︵4︶ この頼忠の見解の根拠を見出すことはできなかった。 ︵5︶天元三年十l月二十三日に内裏が焼亡し、翌四年十月二十七日に、天皇が新造内裏に移っている。 ︵6︶﹃政事要略﹄七十 軋弾雑事 ︵7︶拙稿﹁摂政制成立考﹂︵﹃史学雑誌﹄一〇六−一︶。 記 ] ︵8︶その様相の一端は、坂本賞三氏が﹁﹁御前定﹂の出現とその背景−院政への道程−﹂︵﹃史学研究﹄一八六︶で触れておられる。 付 一 本稿は、教育学研究科の演習で行っている﹃小右記﹄講読と、一九九八・一九九九年度科学研究費奨励研究A T﹁定﹂ に 14 [ みる平安時代国家の国家意志形成過程﹂の成果の二部である。 − ︵奈良教育大学教育学部︶
© Copyright 2024 ExpyDoc