富 岡 の 万 葉 集 「 真 金 吹 く 丹 生 」

ま そほ
で
佐渡
越後
あ
下野
伊豆
3 + 13
15+3
平成二十六年九月二十八日
ふ
4+0
回公開講座 兼
に
陸奥
真金吹く丹生の真朱の色に出て言はなくのみそ吾が恋ふらくは(三五六〇)
出羽
富岡学 第
秀
図
ま かね
道
わ な い こ と 」。「 恋 ふ ら く 」 は 「 恋 ふ 」 の ク 語 法 で 、「 恋 し て い る こ と 」。
恋 )」 な ど に 化 石 的 に 残 る の み と な っ た 。「 言 は な く 」 は 「 言 は ず 」 の ク 語 法 で 、「 言
た が 、 平 安 時 代 に な る と 使 わ れ な く な り 、 今 日 で は 、「 曰 く 」「 恐 ら く 」「 老 い ら く ( の
いわ
な ど を 名 詞 化 す る 用 法 。「 ~ す る こ と 」 と い う 意 味 に な る 。 上 代 に は 盛 ん に 用 い ら れ
「 言 は な く 」「 恋 ふ ら く 」 の 「 く 」 は 「 ク 語 法 」 と 呼 ば れ 、 動 詞 ・ 形 容 詞 ・ 助 動 詞
くための序詞。
「真朱」は、古代に用いられた朱色の顔料。赤土。辰砂。上二句は「色に出」を導
ま そ ほ
生」や「吉備」にかかる枕詞。吉備は鉄の産地である。
硫 黄 の 化 合 物 )。「 丹 生 」は 辰 砂 な ど を 含 む 赤 土 を 産 す る 地 の 地 名 。「 真 金 ふ く 」は 「 丹
「 真 金 」 は 鉄 。「 吹 く 」 は 金 属 を 精 錬 す る こ と 。「 丹 」 は 赤 土 、 ま た 辰 砂 ( 水 銀 と
ま かね
し て い る と い う こ と は 。)
(丹生の赤土のようには、はっきりと表に出して言わないだけだ。私があなたに恋
未勘国東歌
紀伊
志摩
大和
和
(国名の下の数字は
東歌+防人歌の数)
【丹生】
伊賀
海
東
伊勢
河内
和泉
1+0
3+ 7
摂津
6 + 10
遠江
三河
山城
安房
駿河
尾張
丹 波近 江
9+ 1 2
下総
武蔵
5+3
上総
相模
美濃
12 + 1 0
常陸
道
山
2+ 1 1
上野
越中
5+11
甲斐
若狭
道
陸
2 5 +4
東
信濃
飛騨
越前
川
国名不明
雑 歌
相聞歌
防人歌
譬喩歌
挽 歌
北
能登
北
9
地
富岡市立丹生小学校体育館
譬喩歌
国
東
東山道
とみおか市民大学校公開講座
76
②昔 年防 人 …8 首
17首
112首
5首
5首
1首
富 岡 の 万 葉 集 「 真 金 吹 く 丹 生」
等 の歌
230首
合計
群馬県立女子大学
92 首
合計
国名判明
7 首/ 18首
3 首/ 8首
10 首/ 20首
13 首/ 19首
10 首/ 17首
11 首/ 18首
11 首/ 22首
3 首/ 12首
4 首/ 12首
12 首/ 20首
90
140
東山道
84 首/ 166 首
1首
1首
3首
3首
1首
て筑紫に遣はさるる諸国の防人
相聞歌
遠江
駿河
相模
上野
陸奥
東海道
2首
5首
1首
12首
9首
2首
4首
10首
4首
22首
2首
3首
- 東山道
5
遠江
駿河
伊豆
相模
武蔵
上総
下総
常陸
信濃
上野
下野
陸奥
東海道
22
東海道
雑
歌
1首
1首
2首
1首
①天平勝宝七歳乙未二月、相替り
上総
下総
常陸
信濃
遠 江国
相 模国
駿 河国
上 総国
常 陸国
下 野国
下 総国
信 濃国
上 野国
武 蔵国
◎万葉集巻十四(東歌)の配列
◎万葉 集巻 二十 ・防人 歌
飯高郡丹生郷
木簡・和名抄
◎古代における地名「丹生」
国名
大和
伊勢
延喜式神名帳
(宇智郡)丹生川神社
(吉野郡)丹生川上神社
(宇陀郡)丹生神社
(飯高郡)丹生神社
(飯高郡)丹生中神社
甘楽郡丹生郷
(遠敷郡)丹生神社
(三方郡)丹生神社
(伊香郡)丹生神社
上野
小丹生郡
遠敷郡丹生郷
(敦賀郡)丹生神社
坂田郡下丹生里
若狭
丹生郡
丹生郡丹生郷
近江
越前
(古志郡)小丹生神社
(美含郡)丹生神社
越後
但馬
安藝郡丹生郷
(伊都郡)丹生都比女神社
土左
海部郡丹生郷
紀伊
豊後
このように多数の「丹生」地名が古代に存在したことが知られるが、これらの中で
東歌の地域に所在するのは上野国甘楽郡丹生郷(現在の富岡市北西部)のみである。
この歌は国名不明の部に収められてはいるが、上野国の歌である可能性が高いと考え
られる。
しら ま な ご
み
つ
は に ふ
万葉集巻十一に次のようなよく似た歌がある。
・白真砂御津の埴生の色に出て言はなくのみそ吾が恋ふらくは(二七二五)
「 白 真 砂 」 は 「 白 い 砂 」 で 、「 御 津 」 に 掛 か る 枕 詞 。「 御 津 」 は 大 阪 湾 に あ っ た 港
つ
ふ
は に ふ
ま そほ
で
あ
で 、「 大 伴 の 御 津 」「 難 波 の 御 津 」 な ど と も 呼 ば れ た 。「 埴 」 は 黄 赤 色 の 粘 土 で 埴 輪 な
に
ど の 材 料 。「 埴 生 」 は 埴 の あ る 場 所 。
ま かね
み
真金吹く 丹生の真朱の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは(三五六〇)
白 真 砂 御津の埴生の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは(二七二五)
「丹生の真朱の」の歌と比べると、一句目と二句目とが異なるだけで、三句目以下
は 全 く 同 じ で あ る 。 一 句 目 ・ 二 句 目 も 、「 枕 詞 + 地 名 + ( 黄 ) 赤 の 土 」 と い う 全 く 同
じ構造をしている。偶然の一致とは思えないので、丹生の真朱の歌は、御津の埴生の
歌(あるいはさらに別の類歌)を改作したものと考えられる。丹生の真朱の歌には東
の
い
な
ら
おほ ゐ ぐさ よそ
まさ
国方言は含まれていないので、この改作は東国に下ってきた都人の手によるものかも
しれない。
かみつ け
《参考》
あ ふ み
し
づ
しらた ま
まさ
a 上 毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそ勝れ(三四一七)
あ
b淡海の海沈着く白玉知らずして恋せしよりは今こそ勝れ(二四四五)
からとまり の
こ
c伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど吾が恋のみし時なかりけり(三四二二)
あ
そ
ま
そ むら
むだ
ぬ
あ
あ
d韓 亭能許の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし(三六七〇)
かみつけの
【安蘇】
上毛野安蘇の真麻群かき抱き寝れど飽かぬを何どか吾がせむ(三四〇四)
上野国東歌
(上野国の安蘇の麻の束を抱きかかえるように、あなたを抱き締めて寝ても、それ
上野国の安蘇の麻の束を抱きかかえて寝ても、満足できない気持をいった
で も な お 満 足 で き な い 気 持 を い っ た い 私 は ど う し た ら い い の だ ろ う か 。)
(別解
あ
そ やまつづら
は
い 私 は ど う し た ら い い の だ ろ う 。)
かみつけの
上毛野阿蘇山 葛野を広み延ひにしものをあぜか絶えせむ(三四三四)上野国東歌
(上野国の阿蘇山の蔓草は、野が広いのを幸いに遠くまで這い延びてゆく。こんな
に這い延びたものがどうして途中で絶えたりしようか。→二人の仲もずっと続い
そ
ま
そ むら
て き た の だ か ら 、 ど う し て そ れ が 途 中 で 絶 え た り し よ う か 。)
あ
ま
そ
○「安蘇の真麻群」の歌
かみつけの
あ
そ
ま
そ むら
「 真 麻 」 の 「 ま 」 は 美 称 の 接 頭 語 。「 そ 」 は 麻 で 、 複 合 語 の 中 に だ け 現 れ 、 単 独 で
は 用 い ら れ な い 。「 上 毛 野 安 蘇 の 真 麻 群 」 ま で は 「 か き 抱 き 」 を 導 く た め の 序 。 麻 は
細長く伸びて三メートル以上にも達するため、倒れないように密植する。その密生し
た 麻 を 収 穫 す る 時 、 抱 き か か え て 根 こ そ ぎ 引 き 抜 く こ と か ら 、「 か き 抱 き 」 を 導 く と
さ れ る 。「 か き 抱 き 」 を 言 う た め の 序 詞 と し て 麻 の 束 を も っ て き た と こ ろ は 生 活 と 密
着している。序と取らなければ別解のような解釈になる。
化 学 繊 維 の 普 及 に 伴 い 、 衰 退 し た 。 今 日 、 群 馬 県 内 で は 、「 岩 島 麻 」 の 産 地 で あ る 東
麻は東歌で最も多数うたわれている植物である。近代まで広く栽培されていたが、
まれあそは地名也。同じ地名なれ共まそと云ふ言を求めん為のあそ也。又あそと
③下野にある郡の名也。古は上野に属せしか。又上野にも郷の内にある歟。何れに
ぬ
へ
あ
な
あ
かな
も
ソ
ソ ヤマ
ソ ヤマ
ウ
タ
1842
1816
上毛下毛元来一国なれば混してよみしなるべし)
( 高 井 宣 風 『 万 葉 集 残 考 』)
( 鹿 持 雅 澄 『 万 葉 集 古 義 』)
下 野 安 蘇 郡 、 も と は こ の 上 野 に も わ た れ る 地 に は 非 る か 。)
ウ
ア
ソ ヲカ
サウ マガ タケ
ア
ソ
ソ
サウ マ
アサ
( 橋 本 直 香 『 上 野 歌 解 』)
蘇山つづらとよめる安蘇は箕輪のほとりをいふといへば別か】
ア
サ
ア
頃
1855
いと名高く殊に此宇田の辺り多しといへば安蘇は此辺りと定むべし【但し下に安
ア
らは宇田の宇も苧の移りたるにて、今も甘楽郡は、苧を多く作り、上野麻とて、
ウ
有】其山を往古より安蘇岡山と云ひ来れるを、今朝岡と書くと鈴木千本云り、然
ム カ シ
⑥安蘇は今甘楽郡に宇田村と云在、其村に小山あり、今峰山と云【稲荷を祭て今寺
ア
⑤(頭注
ず、誤しもの也。……(頭注
④下野国、安蘇郡、あそ山、あその川原、あそ村などよめり。上野国には、きこえ
頃
1733
云ふ詞はあさと云詞なれば、是等の意をこめて読めるなるべし。
さ
も
ぜ
( 荷 田 春 満 『 万 葉 集 童 蒙 抄 』)
吾妻町三島が唯一の栽培地として残るのみとなった。東歌では、麻の他に、柳、稲、
菅、おけら、松など、生活に身近な植物が多くよまれている。一方、万葉集全体で多
くよまれている植物は、萩、梅、橘、菅、松、葦、茅、柳、藤、桜などであり、東歌
など
の様相はそれとはだいぶ相違している。
ま にしき
あ
「あど」は「何」と同じ。万葉集では東歌にのみ七例見える。そのうちの三例を示
す。
こ
①上毛野安蘇の真麻群かき抱き寝れど飽かぬを何どか吾がせむ(三四〇四)上野
②高麗 錦 紐解き放けて寝るが上に何どせろとかもあやに愛しき(三四六五)不明
み
わ
(紐を解き放って共寝をしているのに、この上一体どうしろというのか、なんと
も
もいとしいことよ)
こもちやま わ か か へ る で
③子持山若鶏冠木の黄葉つまで寝もと吾は思ふ汝は何どか思ふ(三四九四)不明
な
(子持山の若いカエデの葉が秋になって色づくまで、あなたと共寝をしていたい
そ やまつづら
と私は思う。あなたはどう思う?)
あ
○「阿蘇山 葛」の歌
ソ
ア
ソ
サウ マ
頃
1855
フモト
⑦安蘇山は里人云、今の相馬嶽の事にて【安曽と相馬と音ちかし】其辺りより箕輪
の
( 橋 本 直 香 『 上 野 歌 解 』)
ア
「 つ づ ら 」 は つ る 草 。 つ る 草 は 地 を 這 い つ つ 延 び て ゆ く 。「 あ ぜ 」 は 「 何 故 」 と 同
な
のわたりをかけて安蘇の荘と云ふとぞ、……箕輪軍記に北は安曽山相馬の 麓 と
き
じ 。 万 葉 集 で は 東 歌 に の み 八 例 見 え る 。「 絶 え せ 」 は サ 変 動 詞 「 絶 え す 」(「 絶 ゆ 」 の
そ
有るは其名の二つに成しにてすべて此ほとりを安曽と云しと見えたり、
あ
名 詞 形 「 絶 え 」 に サ 変 動 詞 「 す 」 が 複 合 し た も の ) の 未 然 形 。「 ど う し て 絶 え よ う か 、
絶 え は し な い 」。
しも つけ の
《参考》
下毛野安蘇の河原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ(三四二五)下野国東歌
この歌は譬喩歌の部に収められている。表面的にはつる草のことしかうたっていな
いが、つる草はあくまでも比喩であって、歌の趣旨は、二人の仲が絶えないようにと
1690
現在、富岡市の貫前神社の北方、直線距離にして五〇〇メートルあまりのところに
所属していた時期とがあったと考えるのである。
移動することがあり、それに伴って安蘇の地が上野国に所属していた時期と下野国に
下野両国にまたがるような広大な地域であったか、あるいは、上野・下野の国境線が
上野国の安蘇も下野国の安蘇と関連づける考え方が多い。かつて安蘇の地は上野・
ら あ な た も 本 当 の 気 持 ち を 言 っ て ほ し い 。)
(下毛野の安蘇の河原を、石を踏まずに宙を飛ぶような気持ちでやってきた。だか
1686
いうことであり、男女いずれの歌とも解しうる。内容も、誓約とも、決意とも、願望
ともとれる。
◎古注釈における「安蘇」についての記述
① 八 雲 御 抄 勅 撰 名 所 集 に も 上 野 の 名 所 と み ゆ 。( 北 村 季 吟 『 万 葉 集 拾 穂 抄 』)
(契沖『万葉代匠記』精撰本)
②下野ニハ安蘇郡アレド、上野ニハ何レノ郡ニ安蘇ト云所ノ有ニカ。和名集ニハ見
エス。
阿曽岡公園があり、そこに昭和十一年(一九三六)に建てられた「安蘇の真麻群」の
現・県境
都賀郡
桐生市
花輪
西桐生
藪塚
太田
境町
足利
佐野
太田市
梁田郡
伊勢崎市
葛生
佐野市
足利郡
小俣
岩宿
桐生
岩舟
伊勢崎
西小泉
館林
あ
【多胡】
ま さ か
た
ご
い り の
お
く
お
く
吾が恋は現在もかなし草枕多胡の入野の将来もかなしも(三四〇三)上野国東歌
ご
ね
よせつ な は
( 私 の 恋 は 今 も 切 な い 。そ し て( 多 胡 の 入 野 の 奥 で は な い が )将 来 も 切 な い こ と だ 。)
た
多胡の嶺に寄綱延へて寄すれどもあにくやしづしその顔よきに(三四一一)
上野国東歌
(多胡の峰に引き綱を掛けて引き寄せるように、頑張って言い寄ってみたけれど、
あ あ 、 憎 ら し い よ 、 水 底 に 沈 ん で び く と も し な い 石 の よ う な や つ め 。( ち っ と も
ご
い り の
靡 か な い で さ 。) い く ら 顔 が 美 し い か ら っ て 。)
た
○「多胡の入野」の歌
ゆ
り ばな ゆり
「 ま さ か 」 の 「 ま 」 は 目 、「 さ 」 は 方 向 、「 か 」 は 所 の 意 で 、「 ま さ か 」 は 、「 ま さ
に こ こ 」「 さ し あ た っ て の 今 」「 現 在 」。 万 葉 集 に 「 さ 百 合 花 後 も 逢 は む と 思 へ こ そ 今
のまさかもうるはしみすれ(さ百合花の名のように後(ゆり)にもまた逢おうと思う
ゆり
か ら こ そ 、 今 の 今 も あ な た と 親 し く お 付 き 合 い し て い る )」( 巻 一 八 ・ 四 〇 八 八 。 大
伴家持)という例があり、この例では「後」と「今のまさか」とが対比されている。
「 入 野 」 は 山 地 に 奥 深 く 入 り 込 ん だ 野 。「 い り 」 は 「 入 江 」 や 「 入 り 海 」 の 「 い り 」
に同じ。地形図を見ると、高崎市吉井町多比良、神保、塩あたりに南方の山地に向か
って低地が細長く延びているような場所がいくつかある。そういう地を「入野」と呼
んだのであろうか。
かつて多胡の地に入野村があった。この村は昭和三〇年の町村合併で吉井町の一部
となり、村名は消滅したが、今も入野中学校、入野小学校などに「入野」という名を
留めている。しかし、この地名は、明治二二年に小串・黒熊・深沢・石神・中島・小
暮・馬庭・岩井・多比良の九ヶ村が合併して新しい村ができたときに、万葉集東歌の
「多胡の入野」が黒熊のあたりに比定されるという説を採用して新村名としたもので
ある。この村名を根拠に東歌の「入野」を地名と考えたり、その具体的な位置を想定
「 多 胡 の 入 野 の 」は「 お く 」を 導 く た め の 序 。
「 お く 」と い う 語 に は 、空 間 的 な「 奥 」
したりしては話が逆になる。
がっていたとか、安蘇の地の所属が上野・下野両国間で変動していたとかいうことは
と い う 意 味 と 、時 間 的 な「 将 来 」と い う 意 味 と が あ り 、こ の 歌 で は そ れ を 懸 け て い る 。
万 葉 集 に 、「 お く 」 を 「 将 来 」 の 意 味 で 用 い た 例 は あ ま り 多 く な く 、 四 例 に 留 ま る が 、
お
く
ま さ か
よ
そ の う ち の 三 例 ま で が 東 歌 の 例 で あ る ( 残 る 一 例 は 大 伴 坂 上 郎 女 の 歌 )。 中 で も 、 上
は りはら
伊香保ろの岨の榛原ねもころに将来をなかねそ現在し良かば(三四一〇)
そひ
た と き 、「( 麻 の 産 地 で あ る ) 安 蘇 の 、 そ の 麻 の 束 」 と い う 意 味 の 連 関 が 推 測 さ れ る 。
(( 伊 香 保 の 峰 の 急 斜 面 に 広 が る 榛 の 木 の 林 で は 、 地 中 で 根 が 絡 み 合 っ て 凝 り 固 ま
野国東歌の
『 万 葉 集 童 蒙 抄 』 に 、「 あ そ は 地 名 也 。 同 じ 地 名 な れ 共 、 ま そ と 云 ふ 言 を 求 め ん 為 の
配することはない。今さえ幸せならば)
っている、そのネモコロではないが)ネモコロに(こまごまと)将来のことを心
とあるのは首肯できる。
あ そ 也 。 又 あ そ と 云 ふ 詞 は あ さ と 云 詞 な れ ば 、 是 等 の 意 を こ め て 読 め る な る べ し 。」
た だ 、 地 名 「 あ そ 」 は 「 あ さ 」 に 由 来 す る 可 能 性 が あ る 。「 安 蘇 の 真 麻 群 」 と 言 っ
遡れるものか手掛かりがない。結局、現在のところ未詳とする他はない。
推測に過ぎず、確証はない。一方、富岡市の方は、安蘇岡山という地名がいつ頃まで
代から存在した郡名であることは確かだが、安蘇と呼ばれる地域が上野国の方にも広
さ て 、「 上 毛 野 安 蘇 」 は い ず れ の 地 で あ ろ う か 。 桐 生 市 の 方 は 、 下 野 国 安 蘇 郡 が 古
水沼
田沼
足利市
国定
駒形
相生
新里
大胡
安蘇郡
桐生市
大間々
旧・国境
みどり市
万葉歌碑がある。
沢入
赤城山
お
く
ま さ か
と い う 歌 で は 、「 将 来 」 と 「 現 在 」 と が 対 比 さ れ て い る 点 で 、 今 扱 っ て い る 歌 と 共 通
している。
た
ご
ね
○「多胡の嶺に」の歌
「多胡の嶺」は多胡郡にある山。具体的にどの山を指すか明らかではないが、牛伏
山の可能性が高いか。綱で土地を引き寄せるという話は『出雲国風土記』の国引き神
し づ し
「かなし」は、どうしようもないほどの痛切な感情を表す語。
と す る 説 も あ る 。 た だ 、「 静 し 」 と い う 形 容 詞 は な い 。
水 底 に 沈 ん で い る 石 。 他 に 「 あ に 来 や 静 し 」( ど う し て 寄 っ て こ よ う か 、 平 然 と し て )
「 あ に く や し づ し 」 は 未 詳 。 今 は 仮 に 「 あ 、 憎 や 沈 石 」 の 意 に 解 し た 。「 沈 石 」 は
し づ し
話を連想させる。上代では普通の発想であったのだろうか。
みく まり やま
にく
① 「 と て も 悲 し い 」「 つ ら く 切 な い 」 と い う 意 味 と 、
いは ね
② 「 切 な い ほ ど に い と し い 」「 か わ い く て た ま ら な い 」 と い う 意 味 と が あ る 。
かむ
神さぶる磐根こごしきみ吉野の水分山を見ればかなしも(巻七・一一三〇)
(神々しい岩がごつごつした吉野の水分山を見ると、何とも言えないほどの強い
感動を覚える)
と い う 例 は 、 ① の 「 悲 し い 」「 つ ら い 」 で も な く 、 ② の 「 い と し い 」「 か わ い い 」 で
もない。まさに「どうしようもないほどの痛切な感情」の意味で用いられている。
①弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月
《参考》
で も な い 例 は 三 例 あ る 。「 多 胡 の 入 野 」 の 歌 に 二 例 用 い ら れ て い る 「 か な し 」 も ひ と
九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左太臣正二位石上尊右
万葉集に「かなし」はちょうど一〇〇例ある。そのうち、今示したような①でも②
まず除外すると、残りは九五例。それらを、東国の歌(東歌・防人歌)とその他の歌
太臣正二位藤原尊
あは
(あらかたは畿内の人々の作と考えられる)とに分けて、その用法を示せば次の通り
である。
か たをか
やま
弁 官 の 符 に 、「 上 野 国 の 片 岡 郡 ・ 緑 野 郡 ・ 甘 良 郡 、 并 せ て 三 郡 の 内 三 百 戸 を 郡 と
三例(
み
八 % )、 ② の 意 味 三 五 例 ( 九 二 % )
a東国の歌………①の意味
む
成し、羊に給ひて、多胡郡と成す」とあり。和銅四年三月九日甲寅の宣なり。左
み ど の
九%)
五例(
か らしな
お ほやけ
b そ の 他 の 歌 … … ① の 意 味 五 二 例 ( 九 一 % )、 ② の 意 味
お り も
た
中弁は正五位下多治比真人、太政官は二品穂積親王、左太臣は正二位石上尊、右
か む ら
太臣は正二位藤原尊なり。
さ
た
ご
から しな
や
割 き て 、 別 に 多 胡 郡 を 置 く 。(『 続 日 本 紀 』 和 銅 四 年 三 月 六 日 条 )
お り も
た
おほ やけ
②上野国甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等の六郷を
や
東 国 の 歌 と そ の 他 の 歌 と の 間 に は こ れ だ け 顕 著 な 違 い が あ る 。「 か な し 」 の 意 味 用
法には地域差が厳然として存在する。
な お 、 東 国 の 歌 の 中 で ① 「 悲 し い 」「 つ ら い 」 の 意 味 で 用 い ら れ て い る 三 首 は い ず
れ も 防 人 歌 で あ る 。 東 歌 に 限 定 す れ ば 、 東 歌 で は 「 か な し 」 を ① 「 悲 し い 」「 つ ら い 」
の 意 で 用 い た 例 は 見 当 た ら な い 。 そ う い う 点 で 、「 多 胡 の 入 野 」 の 歌 は 極 め て 例 外 的
か む ら
*和銅四年(七一一)三月、上野国甘良郡から織裳里・韓級里・矢田里・大家里の
な存在ということになる。
そ こ で 、 こ の 歌 の 初 句 の 「 恋 」 を 「 恋 人 」 の 意 味 に と っ て 、「 私 の 恋 人 は 今 も 愛 し
四 里 ( 当 時 、「 郡 」 の 下 の 行 政 単 位 名 は 「 郷 」 で は な く 「 里 」 で あ っ た 。 続 日 本
いと
い。そしてこの先もずっと愛しいことだろう」と解する説がある。こう考えれば、こ
やま
紀に「郷」とあるのは、後世の名称を反映させたもので、和銅四年当時の名称で
か た をか
の歌の「かなし」の意味は東歌の例に叶うが、万葉集には「恋」という語を「恋人」
は な い )、 緑 野 郡 か ら 武 美 里 、 片 岡 郡 か ら 山 里 の 計 六 里 、 三 百 戸 を 分 割 し て 、 新
み
の意に用いた例はない。ひょっとしたら、この歌の作者は東国人ではなく、都から下
たに多胡郡を設置した。
む
ってきた官人かもしれない。そういう目で見ると、この歌には東国方言とおぼしき語
は含まれていないし、歌も非常に技巧的である。可能性は高いのではあるまいか。
「 草 枕 」は 、通 常 は 「 旅 」に 掛 か る 枕 詞 。万 葉 集 に 四 九 例 あ る う ち 、四 八 例 が 「 旅 」
に掛かっており、残る一例が「多胡」に掛かるこの歌の例である。なぜ「多胡」に掛
か る の か 分 か ら な い 。 当 時 、「 草 枕 」 と く れ ば 誰 も が 「 旅 」 を 連 想 し た で あ ろ う か ら 、
あるいは、この歌の作者は、この枕詞を用いることで、自分がこれから旅に出ること
を暗示しようとしたのかもしれない。