交通の発達 1.交通発達の要因 1)幕府の積極的交通制度の整備→参勤交代、商業発展 2)商品生産の進展→ 商品流通網の整備 2.陸上交通 1)五街道:江戸を中心に放射状、江戸日本橋が起点 →道中奉行の支配 (a) 11.東海道=53宿、品川-大津 (b) 中山道=67宿、板橋-守山 (c) 甲州道中=44宿、内藤新宿-下諏訪 (d) 奥州道中=10宿、宇都宮-白河 (e) 12.日光道中=21宿、千住-日光 ※始点終点には諸説あり 2)脇街道(脇往還):中国街道(山陽道)、伊勢街道、 長崎街道、佐渡街道など ※○○路ともいう 江戸幕府の道中奉行所において数年にわたり精密な測量や調査を行い完成させ たもの。大沢橋は高欄(欄干)付きの板橋で長さ18間 幅3間。橋のたもとに高札 場と稲荷と市神社が描かれている。 往還廻リ道並松伏領道 大沢町 字大沢板 橋 高札 御料所傍示杭 元荒川堤 野道 本陣。 歌川広重:天保3,4年の「東海道五十三次」(保永堂)によって風景浮世絵師 の地位を確立し、以後諸国名所絵、江戸名所絵の傑作をつぎつぎと発表した。 中山道は慶長6年(1601)から7年間で他の4街道(東海道、日光街道、奥州街道、 甲州街道)とともに整備された街道である。古くは都と東国を結ぶ東山道と称され た。当初、「中仙道」と称されたが、享保元年(1716)「中山道」と書くように改められ た。江戸日本橋から、上野、信濃、木曽、美濃、近江を経て京三条大橋まで135里 32丁(約534km)69宿あり東海道とともに幹線道路であった。草津宿では東海道と 合流。東海道よりは40kmも長い道程である。 江戸時代に日光街道の脇街道として整備され たもので、後に徳川将軍が日光東照宮へ社参 する際に使用したため「日光御成道」と呼ばれ るようになったが、江戸城大手門から幸手追分 けまで約13里(51km)の街道である。 朝霞・新座の歴史と深く 関わっている存在である 「川越街道」。江戸時代に は江戸と当時の埼玉県 内最大の都市・川越を結 ぶメインルートとして、ま た京都に向かう中仙道の 脇街道として多くの人々 に利用された。 3.街道の設備 1) 一里塚、橋、渡船場、並木、茶屋など 2) 宿駅(宿場) ・本陣、脇本陣 =大名などの宿泊 ・旅篭屋=一般旅行客が宿泊 ・問屋場=宿役人が助郷役 (伝馬役)の差配や、公用の 書状・荷物の継送り(継飛脚)を手配 4.伝馬役(助郷役) 有名な旅篭「大橋屋」です。江 戸時代からほぼそのまま営業 している旅篭で、東海道で実際 に宿泊できる唯一の旅篭 幕府・大名が通行に用いる人馬を宿場の百姓や町人、近 隣の村々から徴発 ※幕府・大名は通行が最優先、必要な人馬(人足と馬)は 無料あるいは一般の半額程度で利用可 東海道笠寺に残る一里塚 日光杉並木街道 歌川広重「関本陣早立」 旧醒井宿問屋場 5.関所・河川 1) 関所:江戸の治安維持が目的 ※古代の関所:都の治安維持(防衛) 中世の関所:関銭徴収が目的(経済的目的) ・通過には普通、関所手形の呈示が必要 ・「13.入鉄砲に出女」:関所におけるとくに厳しい取り調べ の対象 ※入鉄砲:江戸には行って来る鉄砲、出女:江戸を 遠見番所からながめる関所の全景 脱出する大名の奥方 ・主な関所 東海道…箱根、新居 中山道…碓井、木曽福島 甲州道中…小仏 日光・奥州道中…栗橋 箱根宿には小田原藩か ら雇われた女性が関所 関所手形 を通過する女性の髪を 解いたりして取調べをし 【関所役人】 ていた。 関所役人は、番頭・給人・下改・賄 役・番所足軽・往還女改之女など計 四十人前後が交代制で任務にあたり、 関所通行は、明六ツ(六時頃)から暮 六ツ(十八時頃)まで。 2) 河川:治安維持上のためなどで河川にわざと橋を架け ない、増水時には通行止め ・安倍川、大井川、富士川、天竜川など 6.水上交通 1)河川利用:各地で有力輸送・交通手段として活発に 利用(とくに淀川、利根川) 河川の開削:船の通行を可能ならしめる ・14.角倉了以(京都商人)による開削:富士川・天竜 川、保津川・高瀬川(京都)、幕命による ・15.河村瑞賢(江戸商人、のち旗本)による開削:安治川 (淀川の支流)、幕命による 2)湖沼利用:室町期に引き続き活発に利用(琵琶湖、 霞ヶ浦など) 3)海上利用:鎖国政策により大船の建造と遠洋航海が禁 止されたが、大いに発展 ①南海路(江戸-大坂) ・菱垣廻船(1619~):積み荷が落ちぬように船縁 に菱形の垣を装着、樽廻船に次第に圧迫 ・樽廻船(1730~):菱垣廻船より独立、菱垣廻船よ り小型で船足が速い、酒荷を主に輸送 ②東廻り航路(海運)=陸奥荒浜(のち酒田)-江戸1671、 ③西廻り航路(海運)=出羽酒田-大坂1672):河村瑞賢 による整備:航路の整備とは○廻漕船の選定○物流 拠点の整備○廻漕船の援助(入港税の免除等) ○寄 港地の限定と整備のこと。 河村瑞賢:伊勢商人。才覚で材木商になり、明暦の大火で 大儲けをする。幕府の命で東・西廻航路を開く。 ▲菱垣新綿番船川口出帆図 安治川河口から天保 山沖を描いた含粋亭芳 豊の作品。出帆を認め る切手を受け取るため に早船で切手所(右中) へ急ぐシーン。 菱垣廻船問屋9軒、酒 荷物を運ぶ樽廻船問屋 8軒などが軒を連ねてい ます。 ▲菱垣廻船の問屋 菱垣問屋九軒 ▲樽廻船の問屋 樽問屋八軒 米どころ秋田・新潟から、大消費地大坂・京都への輸送 ルートは、敦賀まで船で来て、敦賀で船から降ろし、大量 の馬に積み替え、馬1頭に、脇腹に1俵ずつの2俵を振分 て運んで、琵琶湖の今津に来ると、再び高瀬舟に積み替 え、淀川を大坂へ向うコース(室町時代に盛んに利用) 。こ の積み替えに要する労力・時間は大変なもので、船便は、 従来よりも費用が安い ・「16.北前船」=この航路に従事した船の呼称 海産物・米(北国→大坂)、塩・雑貨(大坂→北国)を輸送・ 販売=単なる運送業者ではなく、自分で積荷を買い集め、自分の 持ち船で運送し、それを自分で売りさばく商人。 ※南海路・東廻り航路と西回り航路(廻船と北前船)との違 い→ ・廻船=定期的に運行され運送料が収入 ・北前船=自ら産物を仕入れて港で売買する商船 従来は 敦賀から馬を利用、馬1頭に、脇腹に1俵 ずつの2俵を振分て運び、今津から琵琶湖 を経て大坂に至るコース 『石山寺縁起絵巻』 7.通信制度:飛脚 1)継飛脚:幕府公用の文書を運んだ飛脚、通常2人1組に なって、街道を宿場から宿場へとリレーのように引き継ぎ ながら運んだ。江戸-京都通常便で約90時間、最急行便 で60時間 2)大名飛脚:継飛脚に習い、大名が江戸と地元の間の連 絡をするために利用した飛脚で、紀伊や尾張の飛脚が有 名。街道の7里(約28km)ごとに引き継ぎをする小屋を置き、 「七里飛脚」とも呼ばれていた。 後、重い経済負担 → 町 飛脚利用 3)町飛脚:民間による一般の人々が利用した飛脚。江戸、 京都、大坂の商人たちが幕府の許可を得て、東海道を利 用した飛脚屋を営業。基本的に月3度、6日間かけて、3つ の都市の間を往復して手紙を運んだので三度飛脚( 定飛 脚・定六 ) と呼ばれた。 「広島の飛脚問屋田中屋」(脇本家蔵) 熙代照覧 飛脚問屋で使用した印鑑 「金銀不要・尾道・三東」 (脇本家所蔵) 当時の郵便台帳に押印したもの その当時の広告 「広島の飛脚問屋田中屋」 (脇本家蔵)
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