蜂鳥の姫と常識と - タテ書き小説ネット

蜂鳥の姫と常識と
伊木
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︻小説タイトル︼
蜂鳥の姫と常識と
︻Nコード︼
N4849E
︻作者名︼
伊木
︻あらすじ︼
大国の皇子だがやる気のない遊び人ユウゼンは、ある時一目ぼれ
した隣国の王女に逆にプロポーズされます。﹁私は嘘しか申しませ
ん﹂というその真意とは。
1
清廉道化︵1︶︵前書き︶
目を通してくださってありがとうございます。
多少のリアリティのなさに目をつぶって気軽に楽しんでいただけれ
ば幸いです⋮!
2
清廉道化︵1︶
好きな人が風邪を引いたと聞けば、きっと大抵の人間は気になる
ものだと思う。
そういうわけで、ユウゼン・パンサラ・オルシヌス・アレクサン
ドリアは、女性の││はっきり言ってしまえば好きな少女の部屋へ、
勇気を出して内心あせりながら自己暗示などかけながら見舞いに訪
れたのだ。
オズ皇国の大都市ヘテロクロミヤ・アイディスにあるアカシア皇
宮。
その上級な客室の一室。
殿下は気分が優れないので面会はご遠慮願います、という自国の
侍女に食い下がりまくって、見舞いの品だけでも直接渡そうと頑張
ったユウゼンに、ヴェールを被った意中の王女は弱い声で優しく仰
った。
﹁しつこい、というのはゴキブリ並みの欠点ですよね。すいません
けど、最低三回転生してから出直してきてくれたら哀れんであげて
もいいかな、と思います。優しいですよね私って﹂
││どうやら 部屋を間違えたようだ││
とっさに辺りを確認し始めたユウゼンに、ベッドに腰掛けた少女
は優しく仰った。
3
﹁挙動不審、というのは人類にあるまじき汚点ですよね。もしよけ
れば半径10km以内に金輪際近づかないで頂けたら││﹂
﹁いやいや、ちょっとストップ!? 明らかにおかしいって! あ
んた誰だ!﹂
なんだか涙も出ない。悲しいとか驚いたとか軽く通り越して若干
いらっとする。
しかしなんとそれが幸いしたようで、ユウゼンはヴェール越しの
少女の瞳の色に気付くことが出来た。
黒。
ユウゼンが見惚れた朝の森のような、シルヴァグリーンではない。
﹁本当に、誰?﹂
我に返る。
ユウゼンが女の腕を掴んで表情を硬くすると、女ははっと顔をし
かめてもがいた。残虐極まる言動とは裏腹にたいした力ではない。
それをいなして押さえつけ、ベッドに押し倒すようにしてヴェール
を引き剥がそうと手を伸ばし、
﹁ユウゼン様?﹂
聞き覚えのある綺麗な声が、入り口のほうから聞こえた。
振り返ればつやめくブラウンの髪に、澄んだグリーンの瞳をした
精霊の如き王女が目を見開いて立ち止まっていた。その美貌は間違
いなく本物の証。
しかし、豪華なドレスでなく、なぜか女官の姿。
というか、その前に、この状況は?
4
偽物の王女が、ユウゼンの身体の下からユウゼンにだけわざとだ
と分かるような素晴らしい悪意を持って、悲鳴を上げた。
﹁シルフィード様! この変態野郎チキンの癖に見境なく襲い掛か
ってきたんで早く殺してください﹂
﹁エーー!? ちょっ、ひどっ!!﹂
好きな人の前で誤解を最大限に引き出すなど鬼畜以外の何者でも
ない。
この展開の真相とか、追究とか、とりあえずいいので、泣いてす
っきりしてこようかな、とユウゼンは目に涙を浮かべた。
5
清廉道化︵2︶
フェア
佳人シルフィ。
ユウゼンの生まれたオズ皇国の東に位置する小国、マゴニア王国
の王女の事を、貴族たちはそう呼んでもてはやしていた。
病弱という理由から社交界には姿を現さないにも関わらず、その
美貌は各国に噂されていたのだ。
まあそれだけならそこまで好色でないユウゼンにはなんの関わり
もなかったはずだが、この幻のような王女が、先日突然オズ皇国の
王宮を訪れた。
急な出来事に、彼女が出席した舞踏会はいつにも増して人が集ま
り、皆驚きをもって噂の事実を認めることとなる。
マゴニア王国第一王女、シルフィード・フリッジ・テンペスタリ。
朝の輝く森の緑を表現した、シルヴァグリーンの衣装を身に付け、
柔らかそうなブラウンの髪を結い、濡れた緑の瞳をした絶世の美少
女。
華奢で、透明に白い肌や優しげで清楚な姿が、ユウゼンの心を奪
った。
文句なしにかわいい。
本気で、一目ぼれだった。
といっても、そんなシルフィード殿下にお近づきになれるかどう
かは別問題だった。
ユウゼンは一応これでもオズ皇国の第一皇子という冗談のような
身分で、国自体もマゴニア王国の十倍は広く、豊かだ。
これで次期皇帝の素質とか才能があれば上から目線でいけること
6
は間違いない。
そしてユウゼンはというと、なんということでしょう││││素
質がなかった。
正直言って、ゼロだった。
そもそもやる気がなかった。
しかもあんまり愛想よくなかった。
むしろ遊び人だった。
政務とか学問とか適当にやってた。
次期皇帝とか弟のカラシウスがやればいいのにと思ってた。
ユウゼン・オブ・スケアクロウ
結果、冗談交じりについたあだ名がカカシ皇子だ。兄弟とは思え
ぬ顔よし愛想よしの弟カラシウスが言い出したのだが、不名誉極ま
りない。
おかげで第一皇子にも関わらず、ユウゼンはあまり褒められた評
判ではなかったわけで。
自業自得だが、シルフィード王女も別の優秀な貴族やカラシウス
のような好青年に興味を持つのだろうとほとんど諦めていた。
だが、いた。
そう。神様が。
﹃あの、ユウゼン様。以前からお会いしてみたいと思っておりまし
た﹄
なんと挨拶は抜きにして、個人的にシルフィードが話しかけてく
れたのだ! 王女はユウゼンがこよなく愛する文化や芸術といった娯楽に興味
を持ってくれ、意外にも話が弾んだ。
その勢いに乗じてどさくさにダンスを申し込み、その他大勢の妬
7
ましそうな男共の視線も一顧だにせず︵ホントは怖かったけど︶何
曲か一緒に踊ってもらえた。
﹃お上手ですね⋮⋮! 実は不安だったのですが、とっても楽しか
ったです﹄
しかも社交界に慣れていないために、少しぎこちない踊りをユウ
ゼンがリードする形になって、シルフィード殿下の花のような可憐
な笑顔を間近で拝むことが出来たという奇跡。
それがキッカケでその後も会話をし、二人で最近流行のボードゲ
ームを楽しんだりした。王女はルールから覚えていったが頭の回転
がよくすぐに流れを飲み込んだ。慣れたユウゼンが最終的には勝つ
こととはなるが、素直に感心され、その純粋さに逆にくらっときた。
清楚で身体が弱くて、でも好奇心旺盛で優しく笑う少女。
初めて、本気で憧れたのだと思う。
8
清廉道化︵3︶
で。
﹁シルフィード殿下⋮⋮まず、なぜ、女官の格好をされていたんで
す?﹂
現在、一旦状況を整理するためにシルフィードと偽物は格好を入
れ替え元に戻ってもらい、改めて部屋の中で向き合っていた。
偽物の女はシルフィードがマゴニア王国から連れてきた異例なほ
ど少ない従者二人のうちの一人だった。今も側に控えるセクレチア・
ハシムというこの女官は、さすがにシルフィの偽者ができるだけあ
って美人ではあるが、中身は似ても似つかない。
ユウゼンの先ほどの行動を根に持ったらしく、ありとあらゆる方
法で復讐してやろうという意思が見え隠れしていた。正直あのとき
の自分を殴り倒して止めてやりたい。こんな狡猾鬼畜女官に目を付
けられるとはこの先死にたくなる。
﹁すみません、少しアカシア宮を離れていたのです⋮⋮公式に動き
回ることは出来ませんし、ご迷惑もおかけしたくありませんでした
から﹂
王女は申し訳なさそうにしながらも、潔く問いに答えた。
その様子に少し違和感を覚える。
シルフィード殿下は、こんなにしっかりした印象だったろうか?
こう、もっと病弱という話なのに││
﹁離れていたって⋮⋮一体どちらへ。まさか諜報でもあるまいし﹂
﹁信じていただけないかもしれませんが、そうではありません。こ
の身に掛けて誓います﹂
9
﹁私も信じてはいますが、﹂
﹁マゴニア付近まで、様子見に行っておりました﹂
﹁マゴニア!?﹂
シルフィードの言葉にユウゼンは瞠目する。
ここから国境までは馬車で四日はかかる。王女がそんなに王宮を
離れていたはずがない。
﹁何かあったのですか?﹂
混乱してそれだけ口にすると、王女は事情を聞かれたのかと思っ
たらしく、神妙な顔をして話し始めた。
﹁実は、今、私の父であるタルタ二世は臥せっているのです。正直
に申し上げますと、長くはないでしょう。まだその事実は隠されて
いますが、そのせいで王宮が多少不安定なのです。ご存知でしょう
が現在生きている正式なマゴニア国王の子は私と11歳の弟のみ。
マゴニアでは基本的に王は男性ですから、もしものことがあれば弟
のレリウスが在位しなくてはなりません。私としては出来る限りレ
リウスが負担なく王となれるよう支援するつもりなのですが、やは
り幼いですから口を挟まれやすいのは事実。私は動きすぎたため一
部から警戒されるようになってしまったのです⋮⋮だから一旦距離
をとるために、この度は急遽オズ皇国を訪問させて頂きました﹂
﹁つまり、避難してきたって事ですね⋮⋮?﹂
政治にあまり興味を持たないユウゼンには頭の痛くなる話だった。
南の大国ティル・ナ・ノーグとの海上権争いなどは偶に起こるが、
基本的にはオズは豊かで平和だ。
シルフィードは曖昧に首を傾げ、それからおもむろに席を立つ。
10
え、あの?
何事かと動けずにいると、王女はすっとユウゼンの隣に膝をつく。
その蠱惑的な瞳でこちらを見上げ、優雅に自身の胸に右手を添えた。
﹁ユウゼン様。どうか、私と結婚してくれませんか?﹂
﹁ゲボゴッ!!﹂
﹁ごふっ!?﹂
ユウゼンも、つまらなそうに煙草を吸っていた鬼畜不良女官セク
レチアも、同時に何かを噴出した。
いや、いやいやいや。
だって仕方なくないか。
﹁けっ、結婚⋮⋮!?﹂
好きになった文句なしの美少女に跪かれ上目遣いで求婚されて、
一気に顔が赤くなる。
いやえっと結婚って、恋や愛などの最終的なアレじゃなかったっけ。
何この展開。ちょっと落ち着いて。いやでも別にいいかも。全然い
い。ここは早まるべきところだ。さあ、早く早まれ自分!
ユウゼンはつばを飲み込み、口を開いた。
﹁そ、その、⋮⋮ええーと、あー、うん。どういうことでしょうか
ー﹂
早まれなかった。
﹁けっ、このチキンハートが。ざまあみやがれ﹂とセクレチアの視
線が物語っていた。さすが、傷口に丁寧な塩。チキンハートという
よりブロークンハート。もう旅に出てもいいかな。
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しかし旅立つ前に引き止められる。
﹁私のこと、お嫌いですか⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮!?﹂
﹁なんてこと言ってますかあ!?﹂
シルフィードが衝撃的な台詞を吐いた。この王女を嫌いな野郎が
いたらむしろ拝ませてほしい。
もはや湯気でも出そうで言葉にならないユウゼンのかわりに、セ
クレチアがスパァンと王女の頭をはたいてつっこんでくれる。あり
がたいが、主人相手にその行為はどうなんだろう。でもほのかに納
得できる衝撃クオリティ。
とにかく、少し悲しそうなシルフィードの表情がなんというか、
そそった。
柔らかそうな唇。
抱きしめたくなるような揺れる瞳。
滑らかな鎖骨のラインが││って、変態じゃないそんなことはな
い今日も健全に日々を過ごしています。
そうしてユウゼンが無我の境地を追い求め、セクレチアが主人の
肩を揺すりつつ﹁早まったらおしまいですなんならあの下種鶏を殺
して私は死にませんまんまと逃げおおせますから事故に見せかけま
すから!﹂などと言っている間にも、シルフィードは一人冷静に考
えをめぐらせていたようだった。
おもむろに頷くと、
﹁││そうですか。分かりました。セレア、心配はいりません。ユ
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ウゼン様も。突拍子もないお願いをして申し訳ありませんでした。
ですが、これは私の偽りなき気持ちなのです。婚約だけでも結構で
すし、結婚後別の好意を抱かれる方と過ごされて頂いて全然構いま
せん。今すぐにオズへメリットを与えることは難しいと思うのです
が、将来的には約束いたします。前向きに検討していただけないで
しょうか?﹂
ああ、そうかと、一瞬で頭が冷える。
言葉の示すところは単純で、シルフィードは何もユウゼンのこと
を好きになったわけではなかったのだ。
先ほどの、避難してきたという話。
豊饒の大国オズと僻地の小国マゴニア。
貴族、王達に当然のように付きまとう政略結婚。
国同士の結婚。
それだけの話。
わかっているのに││││どうしても、頷けない。身分がつりあ
い、自分は確かに恋をしていて、望まれて、それだけでも奇跡なの
に。
少し、声が掠れた。
﹁あなたは、俺のことが好きなわけじゃない﹂
シルフィードが微かに苦笑をするのが見えた。きっと呆れたのだ
ろう。それさえ、こんなにせつないのに。
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﹁好きですよ。あなたはとても優しい﹂
﹁そういう意味じゃなく││││﹂
﹁努力しますし、迷惑は掛けません﹂
﹁違う! そういうことじゃなくて、俺は、あなたの本当の気持ち
が知りたいんだ﹂
ユウゼンが噛み付くように言うと、不意に王女は立ち上がった。
少しも動揺しない穏やかな表情。
強い人なのだと、思った。
シルフィード・フリッジ・テンペスタリは、森の軽やかな風のよ
うな雰囲気のまま、笑顔で宣言した。
﹁私は、嘘しか申しません﹂
﹁え゛﹂
ユウゼンは一瞬奈落まで沈んだ。
それから、ちょっとだけ這い上がった。
だって、嘘しか言わないって、おかしくないか。なぜなら、それ
が本当ならシルフィードの言動は全て嘘ということになる。したが
って﹁嘘しか言わない﹂という言葉自体も嘘になる。だとすると嘘
の反対は本当のこと。本当のことしか言わないということになる。
だがそうすると、﹁嘘しか言わない﹂と、すでに嘘をついているか
ら本当のことしか言わないという図式は成り立たない。
何この有名なパラドックス。どうしろと。
﹁え、えーと⋮⋮﹂
だらだらと冷や汗を流していると、シルフィードが一歩こちらに
近づく。
って、元々側にいたのだからさらに接近したわけで。
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ユウゼンは座ったまま、絶世の美少女に斜め前から見つめられて、
動悸が激しくなる。白く柔らかそうな肌。しかもなぜかさらにさら
に頬に手を伸ばされ。いやいやちょっと自然に甘い女性特有のいい
香りが、じゃなくてあああれ!?
﹁ま、待った、ちょっ⋮⋮﹂
﹁すみません。ですが、貴方がいいのです﹂
耳元で、囁く優しく柔らかい響き。
背筋がぞくっとして、身体の奥から熱くなるような。
思わず細い肩を掴んでわずかに引き離すと、王女は狙ったかのよ
うに視線を絡め取って、息を呑むほど妖艶に微笑んだ。
﹁だからどうか、好きになって下さい。手を伸ばさずにはいられな
いほど。溺れるほど﹂
﹃●☆%#!?﹄
ガターーーン!!
ユウゼンとセクレチアは同時に奇声を発し、セクレチアは神速で
振りかぶってユウゼンの座っていた椅子を蹴り飛ばした。天まで届
け、そして帰ってくるなとばかりに。
浮遊感とブラックアウト。
たぶん、セクレチアが止めを刺さなくても、ユウゼンは気絶して
いただろうけど。
15
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清廉道化︵4︶
目の前に、世にも美しい女神が立っていた。
彼女はこちらに視線を合わせると、途端に心配そうに声を掛けて
くる。
﹃大丈夫でしょうか﹄
ユウゼンは、なぜそんなに不安そうにしているのかと不思議に思
い、どこかぼやけた景色の中大丈夫だと微笑もうとして、
﹁殿下の心配を無視するとは永遠の眠りについているとしか思えな
い所業。ここは一思いに││﹂
﹁ぎゃあっ!!﹂
まぶたを開いた瞬間、目の前を銀の輝きが通過して、ユウゼンは
完全に覚醒した。
すうっと、本当にギリギリで血が出ない程度に顔の肌が切れたの
が分かる。
冷や汗が垂れる。
生命の危機を感じて身構えながら飛びのくと、目の前にあの鬼畜
女官セクレチアが座っていて、細いナイフを持っているのが見えた。
殺す気だった。
今、絶対殺る気だった⋮⋮!
﹁あ、すみません。果物むいてたら手が滑っちゃって︵笑︶﹂
﹁笑い事ーー!?﹂
ユウゼンはベッドの隅に避難して、シルフィードが戻ってくるま
で追い詰められた小動物の如くガタガタ震えることしか出来なかっ
た。
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﹁よかった! 目が覚めたのですね、心配しました⋮⋮急な災害で
大変でしたね﹂
幸い王女はすぐに戻ってきてくれた。心底安心したようなシルフ
ィード殿下の優しい心に触れて、ユウゼンは和みかける。だが、そ
の台詞に若干疑問が浮かんだ。
﹁災害⋮⋮?﹂
﹁その、急に椅子が倒れたのですよ。どうしたのかと驚いたんです
が、オズではよくある災害だとセレアが﹂
﹁はいそーなんですご愁傷様でしたー﹂
薄笑いのセクレチアが全くの棒読みで言葉の凶器を放った。なる
ほどね。どう考えてもおかしいけど事実を口にしたら殺されるに違
いない。いじめよくない。
﹁ああ、やはり腫れていますね⋮⋮後で必ず専門医に見てもらって
くださいね?﹂
﹁す、みません││﹂
シルフィードはユウゼンを覗き込むようにして、手に持った冷え
た布をそっとこめかみに当ててくれた。用意してくれたらしい優し
さが胸にしみる。
ところで、天蓋付きの柔らかいシルフィードの客室のベッドの真ん
中で、密着しているこの状況はどうなんだろうか。自然と顔が赤く
なってしまう。ああ、細い手首だ││││
そして、
﹁シルフィード様、ここは私にお任せ下さい。お礼参り││いえ、
看病はお手の物ですので﹂
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﹁!!︵言葉にできない︶﹂
﹁セレア⋮⋮確かにいつも丁寧ですし、じゃあ、お願いしますね﹂
待って止めてもう邪なこと考えないです調子乗ってました許して
たすけて神様⋮⋮!
貼り付けた笑顔と巧みな殺気をひしひしと感じながら、結局ユウ
ゼンはセクレチアの守備範囲内でふるえるはめになった。
閑話休題。
数分後、どうにか生命の危機を乗り越え、ユウゼンは覚悟を決め
て切り出す。
﹁あの、先ほどの話になるのですが﹂
﹁はい﹂
結婚、婚約の事だ。ベッドの側に跪くシルフィード王女は、どこ
までも落ち着いた様子で相槌を打った。
余裕で勝算がある、というよりも、自分の感情が他人に影響を与
えないようにしているのだろうと、そんな風に感じる。
他の貴婦人方に比べればシンプルな部屋や衣装を視界に収めなが
ら、出来る限り真摯に聞こえるよう声を出した。
﹁少し、考えさせて下さい。シルフィード殿下にとっても重大な出
来事ですから。後悔することがあっては悲しいのです﹂
﹁それは⋮⋮﹂
シルフィードが意外そうに呟いた。じっと見つめられてユウゼン
は思わず目を逸らしそうになる。数秒我慢した甲斐あって、あの優
しい涼しげな笑顔を見ることが出来た。
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﹁お気遣い、感謝いたします。ですが、私なら大丈夫ですので﹂
﹁う⋮⋮は、はい⋮⋮﹂
なんだか、素なんだろうか、一々すごい台詞だこれ。
今度こそ目線を逸らして白壁に掛かった宗教画を見ていると、王
女は元気に立ち上がった。
﹁では、お近づきの印に、私のことは気軽にシルフィとお呼び下さ
い﹂
﹁はい!? そんな、失礼な││﹂
﹁結婚を前提としたお友達ですよ? ダメですか?﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
小首を傾げる動作が反則的にかわいらしく、ユウゼンはコンマ一
秒で完敗した。
﹁えっと、シルフィ⋮⋮﹂
﹁あはは、自分で言っといてあれですけど、結構照れますね⋮⋮!﹂
わずかに頬を染め、髪をかきあげる仕草も。
結婚を先延ばしにした自分が信じられない馬鹿だと思える。
とにかく愛しくて。
﹁じゃあ、俺のことも呼び捨てにして下さい。敬語も要らないから﹂
﹁え、そ、そんなことできませんよ! 私などがオズ皇国の﹂
﹁友達なのに?﹂
﹁そう、ですけど⋮⋮それとこれとは、﹂
﹁シルフィ﹂
﹁っ⋮⋮﹂
みるみる顔を真っ赤にさせて、シルフィは観念したように深呼吸
20
した。律儀に、必死そうに視線を合わせ、
﹁じゃあ⋮⋮、ユウ⋮⋮﹂
消えるような声だった。
﹁よく出来ました﹂
なんだかそれだけのことが途方もなく嬉しくて、それがおかしく
て、ユウゼンはこらえきれず笑った。シルフィも、赤くなった頬を
押さえながら、結局くすくすと笑い声をこぼした。
いくらセクレチアに胡散臭そうな目で見られても、この瞬間を自
分だけのものしてしまいたいと、願った。
21
風の王女とカカシ皇子の日課︵1︶
興味を引かれない学問を聞かされ、父王であるオルシヌス帝の庶
務を手伝わされ、午後がだいぶ過ぎた頃、それがやっと終わる。
いつものようにどろどろしていたユウゼンは、仕事が終わるとよ
うやくやる気を出し、執務室を出て最近話題だという画家の絵を見
に行こうとしていた。ユウゼンにとって芸術は人生の潤い。
そして、
﹁カカシ兄さん!﹂
﹁カカシじゃねえ!﹂
早速邪魔が入った。
首都の東に位置する大都市ヘテロクロミヤ・アイディスのアカシ
ア皇宮。
呼び止めて、その粛然とした廊下を歩いてきたのは、甘い容姿愛
想抜群、第一皇子のユウゼンよりよほど話題沸騰の第二皇子、カラ
シウス・アルティベリス・アレクサンドリアだった。
貴婦人方曰く、﹁若いのに紳士的だしかわいいし最高!!﹂だそ
うな。
ユウゼンは正直、次期皇帝やってくれないかなと思っていた。
あと、変な愛称つけやがってうざいなと思っていた。
なので、適当にあしらってその場を立ち去ろうとした。
﹁カラシウス。今忙しいから後にしてくれ。あとカカシじゃないか
ら﹂
﹁えー、何の芸もない否定は止めてよ。どうせならもっと丁重に丁
22
寧に弁解してみせてよ﹂
どうしよう、うざい。うざいよ。
女性なら喜びそうな仕草で首を傾げる弟に、ユウゼンは殺意を覚
えた。
忍耐力さんと相談して、結果、我慢して諭してみる。仕事が終わ
った後だから、多少余裕があったのだ。
﹁何か定着しそうな響きを感じるので、その呼び方は控えてくれな
いかな﹂
﹁いいじゃないか。事実を的確に表しているし﹂
即答だった。
真面目な顔だが確実に計算された言動に、ユウゼンは大人気なく
あっさりキレた。
﹁表してない! だめだ!﹂
﹁じゃあなんて呼べばいいんだよクソッタレチキンが!﹂
え、逆ギレ? 意味わからないんですけど。まったくわからない
んですけど。
なぜか手酷く罵倒され、思わず萎える。
一応尊敬すべき兄で、将来の皇帝でもあるって、知ってる、かな。
これでも、人間なんだ。きっと、人権あるんだ。
﹁わかったよ、話が通じると思った俺が悪かったんだ⋮⋮カカシの
方がマシだし⋮⋮﹂
﹁僕もそう思うよ﹂
兄の優しさで最大級の譲歩をしてやると、カラシウスが嘘のよう
な笑顔で同意してきて、ユウゼンは泣きそうになった。何だこの確
信犯。
23
※
もうあしらうことを放棄したユウゼンは、カラシウスに対して超
だるそうに対応した。まるで寝たりないのに無理矢理起こされた可
愛げのない子どものようだ。
﹁でー?﹂
﹁うわ兄さん、シルフィード殿下にもそんな受け答えしてるの? 嫌われるよ?﹂
﹁ガボベっ!!﹂
一瞬で叩き起こされたように奇声を上げ、ユウゼンは数秒咳き込
んだ。
元々愛想も顔もいいくせに、妙に不意打ちが好きだったりさらっ
と嫌味を言ったり、悪辣で何を考えているのか読ませないのがカラ
シウスだ。そんなときでもさわやかに優しく見えるから騙されやす
いが、今のは少々機嫌の悪さが混じっている。ユウゼンがあまりに
興味を示さなかったからだろう。
﹁お前、いきなり何を⋮⋮! そういうのは止めてくれ、全く親の
顔が見てみたいわ﹂
﹁面白くない上に往生際が悪いのはよくないと思うんだよ﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい、心が傷付くからやっぱり許して下さい⋮⋮﹂
﹁まあ、小さな動物の心だしねえ﹂
殺意だけはないものの、王宮で揉まれただけあって精神攻撃は鬼
畜女官セクレチアにも勝る。
追い詰めるだけ追い詰め満足したのか、ようやくカラシウスは矛
を収めて話を戻した。
24
﹁それでさ、最近兄さんがカカシ兄さんなのにあの神がかって美し
いシルフィード殿下と仲良しだから、不思議だなあと思って﹂
﹁ま、まあ、あれだよ。それは別に第一皇子だし、俺だけじゃない
かもしれないし、﹂
﹁いやいや、結構な人たち言い寄ったらしいけど、兄さんほど親し
くされてる人もいないんだよねえ。究極にあり得ないと思うけども
しかして結婚でもするの?﹂
﹁ごぼばっ!!﹂﹁うえっ!?﹂
││どうか、私と結婚してくれませんか?
あの時の光景が一瞬にして蘇り、ユウゼンはこれ以上ないくらい
赤面して固まった。今でも思い出すだけで衝撃なのだ。
カラシウスが素で驚愕したらしく、まじまじとその様子を観察し
ながら呟く。
﹁⋮⋮マジで? 冗談で言ってみただけだったんだけど⋮⋮もしか
して、シルフィード殿下って、意外に、﹂
﹁ちちちがうから! そうではないから! あくまで可能性として
そういうこともなくもないというかまだあれその心の準備が!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。えっと、うん⋮⋮その、ごめんなさい、取り乱しまし
た⋮⋮﹂
急に黙り込んだ腹黒カラシウスが恐ろしくなり、ユウゼンはテン
ションを地の底まで下げる。
けれどカラシウスは特に機嫌を損ねたわけではなかったらしい。
思慮顔をしていたが、目が合うといつものようににこりと微笑む。
﹁なるほどね。どうせ兄さんのことだから思い切れなかったんじゃ
25
ない? どうするにしろ、早くしないと逃げられるかもね﹂
何故そのようにお見通しなんだろう悲しい。
感慨に耽っていると、さらににやりと笑って、こんなことを言っ
てきた。
﹁それでさ、知ってる? シルフィード殿下が訓練施設によく顔出
してるってこと﹂
﹁は? 施設って、﹂
﹁だからヘテロクロミヤ侯の東方部隊の。あるでしょ﹂
﹁何で? 見学?﹂
﹁聞いてないんだ。まあ、秘密にされてるっていうか兵達が意図的
に内緒にしてるから誰も気づいてないようだけど。違うよ。訓練し
てるらしい﹂
訓練? というとあの面倒で疲れるし怒鳴られるし身体痛いし疲
れるあの訓練? シルフィが? よりによってあの華奢な美少女が?
﹁なあっ、そんなまさかありえねえ何でまたーーーっ!?﹂
﹁さあ?﹂
軍事や武術の方もやはり好奇心の持てない、残念な第一皇子は頭
を抱え、第二皇子は言うだけ言っておいて無責任に肩をすくめた。
26
27
風の王女とカカシ皇子の日課︵2︶
絵画を見に行こうと思っていたのに弟のカラシウスにおかしなこ
とを吹き込まれたユウゼンは、どうも気になって結局シルフィの客
室を訪ねていた。殿下は具合が悪いので面会はちょっと、という侍
女の定型文をどうにか押し切って部屋の扉を開けると、
﹁すみません、人間以外は入ってこないで下さい﹂
ユウゼンは扉を閉めた。
﹁あれ、ユウゼン様。画廊に行かれたんじゃなかったんですか?﹂
そして丁度いいところに声を掛けてきたのは従者のモリスである。
真面目で素直で平凡な青年。
﹁モリス⋮⋮! いじめはよくないと思うんだ! 簡単に人を傷つ
けちゃだめだ!﹂
﹁第一皇子が何仰ってるんですか?﹂
ユウゼンは、一も二もなく泣きついた。しかしモリスは真顔で聞
き返してきたので、なんだコイツとがっかりした。
﹁はいはい、どうせカカシなんて誰も人間扱いしませんもんね? いいよいいよ、どうせ俺は鶏とかクソッタレとか唐揚げとか残念野
郎とかみんなに生温かい36℃くらいの眼差しで見つめられてまあ
存在してても仕方ないかなみたいな││﹂
﹁ユウゼン様。画廊に行かれたんじゃなかったんですか?﹂
モリスは真顔で聞き返してきた。
28
﹁!!﹂
﹁いや⋮⋮すみません、ちょっとセリフ長くてすごく鬱陶しいかな
って⋮⋮。つい出来心で。あ、もうしませんから、いい大人が泣か
ないで下さい、はい、どーどー﹂
バカにされた。
※
﹁今から外出できるか?﹂
気を取り直して、ユウゼンはモリスに確認する。長い付き合いだ
けあって、彼はすぐに望む答えを用意する。
﹁ヘテロクロミヤ内ならすぐにでも﹂
﹁なら、東方部隊の訓練施設に行く﹂
﹁えーっと、視察ですか?﹂
﹁まあ⋮⋮そんなところだ。カラシウスや候には言わなくていい。
将軍にも﹂
不思議そうな顔をしたが、モリスは余計なことは言わないし仕事
がはやい。文化には多趣味のユウゼンは、名品や珍品、流行から伝
統の舞台までなんでも見たがるため、すぐに移動しやすい手頃な馬
車が用意される。
日が暮れる前には目的地へ辿り着いていた。
﹁失礼します。こちらユウゼン・オブ・オズです。通していただけ
ますか?﹂
モリスが得意技﹁人のいい笑顔﹂を繰り出すと、案の定受付にい
29
た男は釣られて友好的に笑う。
﹁おお、カカシ皇子ですね! どうぞ、遠慮なく﹂
﹁⋮⋮カカシじゃな││﹂
﹁そうですそうです、ではちょっと見学させていただきますね∼﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ほら、殿下、何を国が滅びたような悲壮な顔してるんですか? さっさと行きましょう!﹂
﹁⋮⋮こんな国、滅びたほうが││﹂
﹁さっさと行きましょう!﹂
ユウゼンはにこにこと笑うモリスに引きずられていき、受付の男
は暖かい営業スマイルでそれを見送った。
﹁で、結局なんなんです? 軍事に流行でもありましたっけ?﹂
﹁いや、別にそういうわけじゃないが⋮⋮﹂
無骨で歴史がある石造りの建物に硬い足音がこだまする。
ここは首都アレクサンドリアの訓練施設と同じぐらいに広く、実
用的だった。
オズ皇国は北と西を海に面していて、南もオニキス海峡という自
あしはらなか
然の国境が引かれている。唯一東側が他国と国境を接しており、北
つこく
東のカルベ山脈とテパーンタール砂漠を越えれば東の大国﹁葦原中
国﹂、このヘテロクロミヤ・アイディスをほぼ真東に進めばシルフ
ィの﹁マゴニア王国﹂と、その南に双子のような小国﹁カムロドゥ
ノン﹂が隣接する。
そしてオニキス海峡を挟んで南に、歴史上もっとも争ってきた大
国ティル・ナ・ノーグがある。海峡上の島国を取り合い、時に本土
にも攻め込み合う間柄だが、今は戦争もなく、お互いに沈黙を守っ
30
ていた。
要するに国境争いが起これば首都の東に位置するここから辺境要
塞へ援軍を送る。場所柄もよかったため、この都市は首都をしのぐ
ほどに栄えてきた。
﹁カカシ皇子! 今日はどうしたんだ?﹂
﹁スニス将軍﹂
東方部隊の将軍の中でも若く、ユウゼンと親しくしているスニス
が出迎え、二人に声を掛けてきた。
若いといっても、大きい。背が高くガタイもいい。顔もアレなの
で、他の将軍たちと並んでも別に何も遜色ない。カラシウスがアレ
クサンドリアの兵を率いるときは感慨深く絵になるし、余計な心配
をしそうにもなるが、スニスに限ってはそれはない。
﹁なにか憐れみの視線を感じるが気のせいだろうか﹂
スニスが微妙な表情をし、ユウゼンは目を逸らした。
﹁憐れみがあるからこそ世界は平和でいられるんだ﹂
﹁相変わらず小賢しいいい訳をしてくる奴だな⋮⋮ところで、前に
紹介してくれた舞台、令嬢に大好評だったぞ! また紹介してくれ﹂
﹁ああ、別に構わないが﹂
﹁あと、ボードゲームでもカードゲームでも新しく耳に入ったらす
ぐ教えろよ。研究して今度こそお前に勝つからな!﹂
﹁はいはい。それより将軍、今日ここにシルフィード殿下がいらっ
しゃってないか?﹂
スニスは目に見えて固まった。わかりやすすぎる。
ユウゼンは前々から思っていたが、あんまりにも駆け引きに向い
ていないのではと余計な心配をする。
31
﹁いやあ、きょうはいいてんきでさいこうのくんれんびよりで﹂
﹁もう夕方だろ。で、どちらに? 流石に野外か﹂
﹁いやいやいやちょっとれーせーにかんがえるときっと﹂
﹁安心しろ、別に報告するつもりもないから。すでにカラシウスは
知ってたし﹂
﹁か、カラシウス殿下が⋮⋮﹂
何だか敬いの程度が明らかに違うが、まあ仕方がない。ユウゼン
は訓練でも﹁真面目にしろ!﹂と怒鳴られる対象、兵達とは遊び仲
間という具合、対するカラシウスは首都アレクサンドリアの兵を率
いるほど気骨と統率力があり、腹黒いから軍師としても優秀だ。
それもあって、スニスはあっさり観念したらしい。
﹁実は冗談で誘ったんだ⋮⋮夜会で、シルフィード王女と話す機会
があって、俺なんかの話に興味持ってくれたから、舞い上がってつ
い。よかったら見学でも訓練でも来てくださいって﹂
﹁はー、そしたら本当に?﹂
﹁ああ⋮⋮驚いたし、最初は兵たちも唖然としてたが、すぐ打ち解
けて、それからは大歓迎ムードだよ。なんせかわいくて性格もいい
から。だが他国の姫様だし、一応機密になるようなものは気をつけ
るようにしている。今は兵たちがシルフィード殿下の訪問を楽しみ
にしすぎていて、何か否定的なことを言ったら殺されそうな雰囲気
だな﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
って、それでいいのか将軍。
32
33
風の王女とカカシ皇子の日課︵3︶
荒天の国だ、とマゴニア王国を訪れたものはいう。
元々その荒涼の地にひっそりと住んでいたテンペスタリの民は、
様々な場所から集まる流浪民を受け入れ、生活の術を教えた。
やがて国を志すものが増え、テンペスタリ達はその流れに逆らう
ことなく援助し、小さな王国が出来た。欲のないテンペスタリ達は、
王やその臣下になることは拒否した。王となったものは、それでも
恩として、特別な地位と土地を与えた。
今、マゴニアには12の地域に別れ、12の月の臣下が治めてい
る。
そして、王家とテンペスタリ家。
シルフィードは、確かにどちらの血も受け継いでいるのだ。
﹁ユウ?﹂
身体に馴染んだチェーン・メイルを着込み、ベルトと細身の黒い
ズボンに茶色のブーツを身に付けた少女は、まだいくらか距離があ
るところから振り返って、驚いた顔をした。
白い肌を透明な汗が伝い、微かに上下する肩。アカシア宮で目に
した柔らかい雰囲気とは異なる、乾いた風のような空気を纏ってい
た。戸惑いながらも剣を足元に置いてシルフィは足を向ける。相手
をしていた、この国の制服ではない衣装の男も同じように従った。
確かシルフィが連れてきた貴重な武官か。
周りの兵達は自由に本日最後の訓練をしたり終えたりしていたが、
誰もがちらちらとこちらを気にしていた。
34
﹁あの、いつからいらっしゃったのですか? 申し訳ありません、
挨拶もせず﹂
﹁いや、今来たので、気にしないでください﹂
一つに結んだだけの栗色の髪が一房横顔にかかっていて、どこと
なく艶かしい。
﹁えっと、私のことで⋮⋮?﹂
﹁ああえっと、偶然耳にして、少し気になったから、散歩がてらに
来てみたんだけど、﹂
シルフィはどのように振舞っていいのかわからないように微かに
俯き、不安そうだった。ユウゼンは思わず、困らせるなら来るんじ
ゃなかったとすら思ってしまう。
本当に、気になったとか会いたかったとしか言いようがない。
自身もどう接していいのか迷ううちに、シルフィが口に出した。
﹁色々と、心配を掛けましたか⋮⋮? 本来なら、他国の者がこの
ような場所を訪れるのはよくないですし、その⋮⋮やはり、﹂
﹁いや、その辺は将軍が請け負っているので心配は﹂
そう言っても、シルフィードは目線を落としたままだ。黙ったま
ま続きを促すと、そろそろと視線を合わせてくる。思わず見とれて
しまう、シルヴァグリーンの瞳。
﹁えっと、その⋮⋮がっかりしました、よね⋮⋮﹂
﹁へ?﹂
﹁仮にも王族の女なのに、粗野だと⋮⋮﹂
﹁いやそんなまさか!﹂
慌てて首をぶんぶん横に振ると、シルフィはぽかんと首を傾げた。
35
そんな素直な仕草もかわいらしい、じゃなくて。確かに驚いたのだ。
けれど、少しの間見ていたシルフィの訓練は、まっすぐで、真剣で。
すぐに気配に気付いたところからも、才能と努力がうかがいしれた。
﹁綺麗だと、思いました。純粋っていうのもおかしいですけど⋮⋮
柔軟で、うらやましい。それに俺、武術とか苦手だから、尊敬して
しまいます﹂
気恥ずかしいが少しでも伝わればと勇気を出してまっすぐ告げ、
﹁そうですよ!﹂﹁品があるとか行為でなく内面で!﹂﹁気取って
ないし!﹂﹁最高に素敵です!﹂﹁握手してください!﹂﹁むしろ
殴ってください!﹂﹁毎日来てください!﹂﹁もう軍に入ってくだ
さい!﹂﹁結婚してください!﹂
ユウゼンは周りから詰め寄ってたかってきた兵たちに潰された。
シルフィは驚いて何度も瞬きし、﹁みんな、本当にありがとう﹂
と礼を言いつつ人間ピラミッドの下辺から死体のように伸びる手を
助け出す。
兵たちはどことなくいい雰囲気をぶち壊して満足し、さわやかな
気持ちで元の位置に戻る。
そして一体の遺体が放置された。
﹁ユウ? 大丈夫ですかっ?﹂
何とか動けそうだったが、こんなことならもうシルフィに介抱さ
れることを期待して、死んだ振りを続けるユウゼン。頬を軽く叩く
手が冷たくて気持ちいい。しばらくすると深刻そうなシルフィのた
め息が響いて、
36
﹁ど、どうしましょうか⋮⋮人工呼吸を﹂
﹁!!﹂
﹁││ヘル、頼んでもいいですか?﹂
﹁違う人ーーー!?﹂
天国から地獄に叩き落とされて、ユウゼンは思わずがばっと跳ね
起きる。勢い余って丁度前に居た人を押し倒す格好になった。
﹁あいたた⋮⋮﹂
さっきのピラミッドダメージが響いた。地面に手をついて呻きな
がら何気なく視線をずらす。
するとなぜか驚くほど近い距離に至高の宝玉のような緑の瞳。自
分の身体の下に、少し熱くて柔らかい、身体││││シルフィ。あ、
あれ?
我に返った瞬間、かあっとシルフィの顔が見事に紅潮した。
これは、もしかして、やって、しまった。
﹁﹁﹁⋮⋮⋮⋮﹂﹂﹂
いついつ出やる 夜明けの晩に
後ろの正面だあれ?︵※ご想像でお楽しみ下さ
籠の中の鳥は
1、笑顔でわらわら集まってきた兵達 ↓ 2、強制連行 ↓ 3、かごめかごめ
鶴と亀が滑った
い︶
︱︱中略︱︱
37
<ユウゼンのどうでも日誌より>
⋮⋮気付いたときすでに外は暗く、いつもの自分のベッドの上だ
った。
モリスが側に居て、若干いぶかしく思いながら、何かとてつもな
く恐ろしい悪夢を見ていた気がするよと呟くと、モリスはぽんと自
分の肩を叩き、慈しむような笑みを浮かべた。
世の中には思い出さないほうがいい事もあります。
なぜか激しく納得できたので、深く考えないようにして、改めて
寝ようと思った。
身体の節々が痛むのなんて成長期だ。
<本話の要約>
││あれは恐ろしい光景でした。東方部隊の連携・攻撃・判断力。
容赦など少しも見当たりませんでした。たとえ何が攻めてきても、
彼らならきっと大丈夫だと、確信しましたね。︵モリス談︶
38
猫や犬や子どもの事情︵1︶
ユウゼンは文化・流行に関するものに目が無い。
その日も政務をぐだぐだ終わらせて、日暮れ前には従者モリスを
連れて自室にもどる。死んだ魚のような目をしたユウゼンは、テー
ブルの上に置かれたものを見て、本日初めて目を輝かせた。
﹁おお! これがフラクタル・ケースかー﹂
﹁ええ。最近ちょっとした話題ですよ﹂
しつこく頼まれて取り寄せたモリスが、やれやれこの子どもは、
といった様子で答えた。
それは密閉した小型のガラスケースの中で羊歯植物を栽培して鑑
賞するインテリアだった。最近、密閉されたガラス・ケースの中で
も最初に適度の水分を与えておけば、十分植物の栽培が可能だと発
見した医者がいたのだ。
﹁どうなってるんだろうな?﹂
﹁なんでも、日光を浴びて蒸発した水分は出口がないために結露す
るものの、夕方にそれがケース内の土に戻っていくことによって、
水分が失われることなく循環して植物が枯れることがない、とか﹂
﹁ほうほう⋮⋮面白いな﹂
温室や庭を持てない人々に注目されているということらしい。確
かにこれなら遥かに手軽で色々と楽しめそうだ。ふっと、荒天の国
に住むシルフィに見せてあげようか、と思いつく。
﹁シルフィは部屋にいるかな﹂
39
﹁さあ⋮⋮確かめてきましょうか?﹂
モリスは柔らかい口調で提案してきたが、明らかに﹁自分で行っ
て来いやボケ﹂という雰囲気を醸し出していた。
恐いのでもう今日は下がっていいと言うと、待ちかねたとばかり
に機敏に出て行ったので、何だコイツとユウゼンはげんなりした。
結果、一人でシルフィードの客室まで歩く。今日は自国の侍女に
引き止められることもない。ほっとして扉が開くのを待っていると、
すぐに部屋の扉は開き、
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ユウゼンは自分からドアを閉めた。
思考をまとめる時間が必要だった。必要不可欠だった。なにかい
た。
あれはなんだったんだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
つまり、その、シルフィの部屋の扉を内側から開けてくれたのは、
どうも猫のようだった。いや、猫がドアを開けることは不可能だ。
だからあの愛玩用の小さな猫、というわけではない。そもそも普通
に人間の大きさ、背格好だった。二足歩行で。つまり、顔だ。顔が
猫だったのだ。
﹁って、そんなワケねえ!! 失礼します!!﹂
勇気を振り絞って再度扉を開けると││││猫の顔をした何かが
眼前に立っていた。
40
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
数秒、無言で見つめあう。お互い微動だにしなかった。まあ、そ
れはともかく、なんだろうこれ。いや、なにこれ。なに。これ。人
? どうしよう、ちょっともっかいかんがえてきてもいい、ですか。
ユウゼンはやはり扉を閉め
﹁ユウ、こんにちは。どうかしましたか?﹂
閉めようとして、シルフィの優しい声に引き止められた。
﹁あの、⋮⋮⋮⋮、こちらは?﹂
思わず丁寧語で、奥の椅子に腰掛けているシルフィに猫の顔をし
た何かを示した。
そういえば今気付いたが、部屋にはシルフィと﹁眼前にいる何か﹂
の他、シルフィがマゴニアから連れてきた数少ない二人もそろって
いる。すなわち鬼畜女官セクレチアと、先日目にした日焼けした肌
の金髪の武官。 セクレチアは主人の手前罵倒はしないが、確実に下等生物を蔑む
視線を一瞬向け、マッチで煙草に火を点けて吸い始めた。恐い。恐
いよ。
武官の方は、目が合えば丁寧な目礼をしてくれる。人間扱いされ
た小さな感動で少し気持ちが落ち着いた。
﹁ああ、ご存知なかったのですね。彼は、猫かぶりと呼ばれる一族
なのです。猫の毛皮をかぶっているので﹂
﹁あ、ああ、毛皮、ね⋮⋮﹂
41
シルフィの説明を聞いて、ようやく納得した。確かに、よく見れ
ば、精巧に作られた猫のかぶりものだとわかった。
しかし猫かぶりの一族とは、またアレだ。
﹁お初お目にかかります。猫かぶりです。女王さまの保護の下、商
人をしています﹂
﹁女王様?﹂
顔︵?︶に合った丁寧な挨拶をしてきた猫かぶりに、ユウゼンは
疑問符を浮かべる。猫かぶりは、どちらかというと淡々とかわいら
しい声で返答した。小柄だし、本当に人形のようだ。最初は本気で
こういう魔術があるのかと思った。
﹁僕ら猫かぶりの一族は、シルフィードさまのことを、女王さまと
呼んでいます﹂
﹁そりゃまたどうして﹂
シルフィは王女ではあっても女王にはならない、はず。
すると猫かぶりはさらさらと言い伝えを教えてくれた。事情を聞
かれ慣れているのだろう。
﹁僕らの祖先は、大罪を犯した罪人だといわれています。当然のよ
うに古のマゴニア国王から死刑宣告を受けました。しかし、どうし
てでも死にたくない祖先がしつこく食い下がったところ、勢いに押
された王は、﹃そうやっていつまでも猫をかぶっているのなら許し
てもよい﹄といわれました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。だから、猫をかぶっている、と⋮⋮﹂
﹁はい。見ての通りまちがいなく﹂
42
違う意味で激しくまちがっていると思う。
﹁そのため、僕らは代々マゴニア王国の王家の方に仕えてきました。
今は、シルフィードさまがご主人です。だから、女王さまと呼ばせ
ていただいています﹂
﹁な、なるほど⋮⋮﹂
なんかこう、改めて有無を言わさぬ口調なのだ。少年のような背
格好だが、一体何歳なのだろう。しっかりした感じはとても大人に
も思える。
しかしそうはいっても猫︵の毛皮?︶をかぶっているので、愛嬌
にほだされるというか思考粉砕されるというか。
ユウゼンは初めて知った不思議な文化に、うずうずするのを感じ
た。
﹁あの、それちょっとかぶらせてくれたりとか、⋮⋮﹂
﹁だめです﹂
﹁ほんのちょっとでいいから、﹂
﹁だめです﹂
﹁新しい顔が焼きあがっ﹂
﹁時代錯誤なネタはやめてください﹂
﹁さわらせて﹂
﹁だめです﹂
﹁毛、﹂
﹁だめ﹂
はたから見ると、サーカスのピエロが目を輝かせた純粋な子ども
にひたすら絡まれているような光景である。
シルフィードは思わず口元に手を当てて笑いをこぼした。
だってそれはいい大人で、しかも一国の跡継ぎと、淡々と動じな
43
い猫の顔なのだ。
44
猫や犬や子どもの事情︵2︶
﹁ところでユウ、何か用事でしたか?﹂
﹁あ、いや⋮⋮ちょっと面白いものを手に入れたから、もし暇だっ
たら見に来ないかと﹂
﹁本当ですか? それはぜひ﹂
正面に座るシルフィは嬉しそうに相好を崩す。
今は、小さなテーブルに二人で座り、残りの猫かぶり、セクレチ
ア、武官││ヘリエル・ローというらしい││は猫かぶりの持って
きた商品を見て何やら話し合っている。というか、床に普通に商品
を並べ、三人でしゃがみこんで、まるですれた主婦たちが炉辺で世
間話をしているようだ。ていうか、セクレチアとか完全に不良だ。
やくざだ。
猫かぶりは体育座りして淡々と話している。
ヘリエルは礼儀正しく正座をして、何か聞かれれば時折頷いてい
る。
シュールレアリスム⋮⋮!
﹁今日は、何か用事があったんですか?﹂
つっこみたい。三人がこれ以上ないくらい気になるが、あえて気
にしていない振りをしてシルフィに笑いかけた。彼女は、オズで一
般的なドレスではなく、足元まで覆い隠すゆったりとした長衣を羽
織っていた。トレードマークのシルヴァグリーンも鳴りを潜め、漆
黒の生地に左右対称となる細かな金色の刺繍が施されている。身体
の線を隠し、ゆったりと落ち着いたその格好は、まさにどこか東の
国の女王のようだった。
45
﹁あ、いえ⋮⋮外出する予定もなかったので、このような格好で、
お目汚しを。テンペスタリの衣装で、着慣れているものですから﹂
﹁はー、なるほど、しかしそういうのもにゃっ﹂
そういうのも、似合いますね。
カラシウスのようにさらっと言って好感度を上げようとか思った
のが間違いだった。慣れないことはするものじゃなかった。わあ、
なんという至言。
チキン
﹁噛んではだめです﹂
﹁鶏というのは所詮舌が回らない生き物、か﹂
猫かぶりとセクレチアが示し合わせたようにぼそぼそっと呟いて、
また何事もなかったかのように商談を再開する。
つーか聞いてんなよ! そんでいちいち傷口抉るなよ! 突発的
に窓割って身投げしたくなったよ!
よっぽど情けない顔をしてしまったのか、すぐ近くから鈴を転が
したような笑い声が零れていた。
﹁ありがとう。私も気に入っているから、嬉しいな﹂
両手を組み合わせ、小さなテーブルに肘をついたシルフィが、見
通したように優しげに笑っていた。包み込むような落ち着いた声色。
ユウゼンは思わず赤面した。
だって、あれだ。
前々から思っていたけれど、シルフィは時々その辺の騎士など遠
く及ばず上品で教養ある礼儀正しい││つまり、紳士的なのだ。
カラシウスは腹黒い分その危険な色気が若干混じる﹁紳士﹂だが、
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シルフィードは純粋に理想的模範的な、まさにその通りの。これは
ちょっと、勝てるのだろうか。男として。自信がなくなってくる。
そうこうしている内に、セクレチアが首飾りを手にとってシルフ
ィに薦めはじめた。黒の深い艶が美しい宝飾品である。ユウゼンは
思わず口をはさんだ。
﹁ジェットですか? 見事な細工ですね﹂
﹁はい、いい品のようです﹂
﹁オズでは西北の海辺、アプライシアで多く扱っていたかな﹂
ジェットとは、流木から出来た石炭状の化石のことで、古来より
珍重されてきた。葬儀の際によく使用される装飾品である。文化・
芸術マニアのユウゼンは一度工房に押しかけたという節操のない過
去を持っていた。
﹁そうですね、ではこれは購入しましょう﹂
シルフィが鷹揚に頷いてセクレチアの手にそれを返したとき、ノ
ックの音が聞こえた。
47
猫や犬や子どもの事情︵3︶
部屋の主であるシルフィードが返事を返すか返さないか、微妙な
タイミングで扉が開く。
﹁おじゃまします!﹂﹁します﹂
﹁おや﹂
元気に飛び込んで来たのは、二人の子どもだった。
黒髪の、八歳ほどの男の子ともっと幼い女の子。よく似た面差し
で、事情を知らぬものでも兄妹だと分かる雰囲気だった。ちなみに、
ユウゼンはこの二人をよくよく知っている。
﹁あ、カカシ叔父さんだ!﹂﹁カカシおじさんだ﹂
男の子の方が元気にユウゼンに人差し指を突きつける。女の子は
たどたどしく繰り返し、
﹁HAHAHA、カカシじゃないよ∼今訂正すれば、これから先安
泰だよー﹂
ユウゼンは乾いた笑みで脅しを含ませ返答した。
大人気なくたっていい。もう、いいんだ。自分の気持ちに嘘をつ
いちゃだめなんだ。
達観した様子のユウゼンを、しかし子どもたちは華麗にスルーし
て、ころころとシルフィードにまとわりついた。
﹁お姉ちゃん、あのね、犬が迷いこんでたんだ。かわいいから見に
来てよ、一緒にあそぼ?﹂
﹁あそんで﹂
48
﹁あら、今日はもうお勉強や作法は終わったのかな?﹂
﹁終わったよ! 行こうよ! 白い犬なんだ﹂
﹁ええと、行きたいのですけど⋮⋮﹂
﹁うう∼﹂
なぜか二人に非常に懐かれているシルフィ。煮えきらぬ様子に、
女の子の方が軽くぐずりだして、シルフィはユウゼンに申し訳なさ
そうな目を向けた。
まあ、流石に子どもと張り合うほど大人気なくはない。どうせち
ょっとした用事だったのだし、彼らに付き合ってやるよう物分りの
いい顔で軽く頷いてみせた。 ﹁では、後ほど必ず伺いますから⋮⋮ちょっと行ってきますね?﹂
軽く微笑んでユウゼンに断った後、シルフィはすっと膝を折り、
女の子││すなわちヘテロクロミヤ・アイディス侯爵の息女ローリ
ヤ・サース・アイディスの小さな手を取って、﹁失礼﹂と軽く口付
け、その身体をふわりと抱き上げた。
ローリヤはぐずっていたのが嘘のように頬を染め、シルフィの首
筋に抱きつく。
﹁わあ、かっこいい⋮⋮﹂
﹁何だろう、その紳士っぷりは⋮⋮﹂
ローリヤの兄、ヘテロクロミヤ候の息子に当たるアルコート・サ
ン・フェール・アイディスもユウゼンも、それぞれシルフィが部屋
を出て行く後ろ姿を感慨深く眺めていた。
って、アルコートまで残っていてどうする。
ユウゼンは隣でぼけっとする男の子を軽くこづいた。
49
﹁ほら、遊んでもらうんだろ。行っちまうぞ﹂
﹁あ! そうだった!﹂
アルコートは部屋を飛び出して行き、
﹁わあ!!﹂
数秒で駆け戻ってきた。
﹁ん?﹂
いや、アルコートだけではない。部屋に飛び込んできたものがも
う一ついた。アルコートはそれを見て、慌てて追いかけてきたのだ
ろう。
すなわち、犬。軽く薄汚れているが白くて長い毛を持つ中型犬。
もう少し詳しく言うと、何か白い布のようなものを口にくわえた、
犬。
ユウゼンは自分の足元で尾を振りながら座り込んだ犬を見て、仕
方なく膝をついた。
﹁これって、さっきお前が言ってた犬か? 何でこんなところまで
⋮⋮ってか、何くわえて﹂
ユウゼンは自分を見上げる犬の口からさっと白い布を取り上げ、
まじまじとそれを見つめて││それが何か理解した瞬間に、思考停
止した。
││これ。これ、は。もしかして、下穿き︵女性の下着︶、です
か、?
そして顔を上げた時、犬︵下着︶を追って必死で走ってきたであ
ろう侍女と目が合った。
下穿きを持つユウゼンと、侍女。
50
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あの、ちが﹂
﹁い、ぃ、いやあぁーーーーーーーっ!﹂
顔を青くして赤くして、この下穿きを管理していたであろう侍女
は盛大に悲鳴を上げて走り去っていく。いやいや、ちょっと? そ
れひどくない? 激しく真似してこの場を立ち去りたいんですけど?
﹁クソッタレが⋮⋮﹂
ほら、何かセクレチアが汚物を見る目でこっち見て呟いてるし。
猫かぶりは表情こそわからないけれど、かわいそうな感じでこっち
見てるし。武官のヘリエルに至っては、正座したままこっちに背を
向けてるし。ていうか、背を向けてるって事はこれ何か分かったっ
てことだよね? つまり見たってことだよね? よって同罪じゃね?
一時思考破綻していたユウゼンだったが、もう弁解する気力もな
かったので、セクレチアに土下座しつつそれを献上した。
セクレチアもまあ、一部始終を見て事情を理解していたため、再
起不能なまでに罵ることもなく哀れな侍女を探しに出て行ってくれ
る。本当にこのときばかりはセクレチアが聖女に見えた。
で。
﹁何で俺がこんな目に! 大体アルコート、お前が躾のなってない
犬をほいほい皇宮に入れたりするから、犬だって慣れない場所で混
乱して下穿きでもジェットでもくわえて持っていこうとするんだ!
って、ジェット!?﹂
説教の途中でユウゼンは自分のセリフに瞠目し、つっこみを入れ
51
る。
それもそのはず、白い中型犬は、猫かぶりが持ってきてシルフィ
が購入予定のいかにも質のいい首飾りを無造作にくわえ、猛然とダ
ッシュして部屋を出て行ったのである。
52
猫や犬や子どもの事情︵4︶
﹁あ⋮⋮﹂
﹁待てやコラ﹂
反射的に、逃げるように部屋を出て行こうとするアルコートの肩
を、猫かぶりががっ! と掴んだ。
ヘテロクロミヤ候の息子だと知らないにしても、身分の高さは理
解できるだろうに、全て無視した貫禄だった。商人魂のなせる業か。
ていうか猫かぶり、口調変わってるよ? ドスきいてるよ? 幻
聴?
﹁ワレ、何したか判ってっか? きっちり落とし前つけてくれるや
ろな?﹂
﹁ひっ⋮⋮!﹂
幻聴じゃなかった。猫の顔をした人がアルコートを容赦なく脅し
つけている。あの淡々としたかわいらしい口調はどこへいったのだ
ろう。
違う意味でもきっちり猫かぶっていたわけだ。わからねえよ。そ
んな細かい芸。
﹁まあ、とにかく⋮⋮今は犬を追おう。アルコートも反省してるだ
ろ? 猫かぶりも、商品管理の点については文句は言えないわけだ
し﹂
﹁ちっ⋮⋮そうやな。そういうことにしといたらあ﹂
顔面蒼白のアルコートの肩を叩き、ユウゼンは咄嗟に仲介して追
跡を促した。いや、確かに猫かぶりに詰め寄られたらある意味相当
恐い。ユウゼンならきっと素で泣く。
53
ヘリエルに部屋の警備を任せ、完全に︵精神面で︶猫をかなぐり
捨てた猫かぶりとアルコートを伴い、ユウゼンは廊下を走った。
﹁ああもうっ⋮⋮!﹂
走る。
ひたすら走る。
とにかく足を動かす。
泣きそうだった。趣味じゃない。本当に、こういうのは適任じゃ
なかった。
大体、犬の足に追いつけというのが無理な話だ。あっちは四本で
こっちはその半分。
そもそも無理なことをしなければならない状況が一番気に食わな
い。ユウゼンのモットーは機先を制する、先手を打ち常に対象を煙
に巻き危機を近づけないことだというのに。
別に危機ではないが。ものすごく萎える。
﹁うー⋮⋮﹂
しかしまあ、寸前で我慢して、あれはシルフィのためのものだひ
いては彼女のためだと言い聞かせた。走りながら邪魔な上着とクラ
バットを脱ぎ捨てブラウスのボタンを数個はずし、庭園までひた走
る。
離れといっても過言ではないこの場所は、自然体系をミニチュア
で現したような庭が特徴的だった。魚影滑る滝と池、砂地、岩場や
木々に野草の丘。黄色の房アカシアの咲く大木の下に、やっと犬の
姿を見つけて、ユウゼンは場にそぐわぬ殺気を向けた。
犬だ。
犬が悪いんだ。
54
全部犬のせいだ。
この疲労感も自分がこんな目に合っているのもシルフィが今一惚
れてくれないのも皆から蔑まれるのもカカシ扱いされるのも!!
﹁って、そんなわけないけど⋮⋮﹂
何だろうこのテンション。ユウゼンは怒りに駆られることに疲れ
て結局だらだら犬に近づく。犬は一定以上近づかれると逃げそうな
雰囲気だったため、数メートル手前で立ち止まり、ポケットを探り
ながらその辺の猫じゃらしを引っこ抜いて適当に興味を引かせる。
﹁どうっすか∼パンと交換で﹂
自分でも自分の行動を落ち着きがないと自覚するユウゼンは、大
抵食品を携帯していた。どこへ行っても何かしら食べられるように。
犬はしばらく首をかしげていたが、やがて何かに納得したのか、
尾を振りつつ駆け寄ってきた。
パンとジェットの交換。
食物に対する愛より誠実な愛はない。ということで。
ユウゼンはもくもくとパンを食べる犬を見ながら、微妙な達成感
からくる放心状態でしばらく固まっていた。
﹁ユウ? やっぱり遊びに来たんですか?﹂
﹁ぶっ⋮⋮﹂
そこへ当のシルフィードがローリヤの手を引いて登場した。完全
に予想外で、ユウゼンはまぬけな顔のままぽかんとしてしまった。
シルフィは結っていない肩ほどのブラウンの髪を風に揺らして、
不思議そうな顔をしている。
夕空、雲の淵を照らす残光。白い指先でかきあげた耳元に揺れる、
真紅の耳飾り。皇宮の背景と綺麗な立ち姿は鮮やかに印象的で、思
わず呆けたままみとれてしまった。
55
シルフィは一瞬微かに顔をうつむかせ、その後思わずといった風
に質問を重ねた。
﹁あ、それ、さっきのジェット、ですか?﹂
そういえば。
ユウゼンは今の自分の状況を整理してみる。
上着を脱ぎ捨ててきたし、ブラウスも着崩しかつ丘の上でごろつ
きの如く座り込んで目の前で白い薄汚れた犬がパンを食っていて手
に高価な装飾品を持っている。
意味が分からない。ていうか説明しづらい。てーか自分明らかに
不審者だ。
ユウゼンは今までの一連の出来事をなかったことにしよう! と
決めた。
﹁えーっと、これは⋮⋮うん、プレゼントってことで!﹂
﹁え⋮⋮?﹂
よいしょと立ち上がり、誤魔化し笑いをしながらシルフィの前ま
で歩いた。そしてそっと白い首筋に腕を回して、ジェットの留め金
をうなじの辺りで止めてやる。一瞬ふわりと鼻をくすぐる花の様な
香り。
一歩下がって確かめれば、大きな夜の雫のような装飾は白い肌に
良く似合っていた。うむ、猫かぶりの見立てはなかなかのものでは
ないか。
﹁⋮⋮ん、えっと⋮⋮、ありがとう⋮⋮﹂
﹁?﹂
褒められるのには慣れているだろうに、頬を染め、恐縮するシル
56
フィ。ローリヤもそれを不思議そうに見上げていて、
﹁見かけよりも色男なのですね﹂
﹁ギャベっ⋮⋮!!﹂
ユウゼンは突然横から声を掛けられて奇声を発し、反射的にその
場を飛びのいた。
猫かぶり⋮⋮! いつの間にか引き離していたのを、やっと追いついてきたらしい。
遠くにアルコートの姿も見える。猫の顔は息を整えながら、︵精神
面で︶猫をかぶりなおした声で言った。おまけにユウゼンに向けて
丁寧なかわいらしいお辞儀を一つ。
﹁お買い上げありがとうございます﹂
﹁へ。ああ﹂
そう言われてみればプレゼントしたのだからそれもそうだ。シル
フィにちらりと目を向けると、少々ぼんやりと胸元のジェットに触
れていた。
シルフィに大事にしてもらえるのなら、安いものだろう。
ユウゼンは一つ頷いて、やっと、口元を緩めた。
57
そして、
﹁500GCになります﹂
﹁ごひゃっ⋮⋮!!﹂
実際問題安いわけなかったという話。
58
Vague
memory
....
本話はシリアスとなっております。
﹁雨の中に浮かぶ島から]︵前書き︶
ユウゼンが出てこないからでしょうか^^;
梅雨に合わせる形で書きました。雨の雰囲気を楽しんで頂けたら幸
いです。
59
Vague
memory
....
﹁雨の中に浮かぶ島から]
見える景色は、柔らかくぼやけていた。
少し、休んで行こうと言うシルフィードに、ヘリエルは小さくも
なく、大きくもなく頷いた。
月毛と青鹿毛の馬の綱をそれぞれ引き、道を外れて短い草の覆う
丘を登る。誰の姿もなく、まだ、町は遠く煙る。
ヘリエルはさらさらと降る、雨を気にしている。
シルフィードが濡れてしまわないかどうか。冷たい雨が身体に沁
みこんで、その微弱な重さで、少女がいつか倒れてしまわないかど
うか。
風に似た王女は、いつも笑ってヘリエルの心配を透明に押し流す。
大丈夫だ。
倒れたりしない。
君がいて、セレアがいて、猫かぶりが、あの子達が、レリウス、
十二月卿や六月卿も││⋮⋮
だから。
私はだいじょうぶなんだよ。
丘の、頂上に二本の木が、寄り添うように枝を広げていた。
シルフィードは少し足を速めて先頭に立ち、その木々の根元で足
を止め、月毛の馬の手綱を放す。
手を広げ、笑って、ヘリエルの方を振り返った。
ここなら、あまり濡れないし、景色も美しい。しばらく雨の音を
聞いていようか。
60
自由にした二頭の馬は、じっと遠くを眺めながら耳だけを動かし、
彫像のように動かない。
その馬は、正確に言えばもう馬ではないのかもしれないが、誰も
そんなことは知らない。
シルフィードが木の幹に背をつけて、ずるりと座り込む。
ヘリエルがその側に控えれば、少女は皮の手袋で包まれた手でヘ
リエルの手のひらに触れて、一緒に座るように促す。
ヘリエルは少し困って、それを失礼にならない程度に顔に出した。
危険があるといけませんから、見張っていたいのですと。
シルフィードは敏感に表情を読み取ったが、苦笑気味に首を振っ
た。
喋ってよ。君の声で聞かせて。聞こえるから。だめかな?
ヘリエルは操られるようにふらりと腰をおろした。
業のように。ヘリエルの声帯はもうほとんど機能を果さない。随
分前から、呼吸のような発声しか出来ない。いつか、それはヘリエ
ルを少しだけ透明にした。
そんなヘリエルに、シルフィードは言う。
私は、君の声が好きだよ。
ヘリエルはシルフィードの何が好きだと、明確に答えることは出
来ない。
それでもわかる。
いつか、この人のために死ぬ。
それまで、この人のためだけに生きる。
シルフィードが触れたままの手を確かめるように弱く握る。ヘリ
エルは、その手の温度が消えてしまわぬように、握り返す。
途切れぬ細雨と遥かな灰色の空。
61
身を寄せて、湿った幹に身体を預けて、子どもの頃の話を零した。
雨が降ると、窓を開けて、続く雲海を果てまで眺めた。誰かが、
魔法使いが迎えに来てくれるのを、胸を高鳴らせて待っていた。い
つまでも。
今でもね。
そんな夢をみているのかもしれない。
ヘリエルはいつの間にか、少女を抱え込むように、抱きしめてい
た。
シルフィードも、安堵して、縋るように大きな身体に身を預けて
遠くを見ていた。
ねえ。
もし、私が朽ちたら、ここへ埋めて。
ヘリエルはシルフィードの体を抱きながら、音のない声で、囁い
た。
そうしたら、私もその隣で眠ってもいいですか。
雨の中に浮かぶ島。
叶えられることのない約束をした場所を、そう名づけて、ゆっく
りと消えゆく心の隅に覚えている。
62
63
ヘテロクロミヤ侯爵夫人︵1︶
﹁ユウちゃんおはよう! ねーねーねーちょっとキミ不相応にもほ
どがある恋をして違う人に襲い掛かったあげく猫はリンチでチキン
だって本当っ?﹂
ある朝ユウゼンが目覚めさせられると、胸倉を掴みあげられ、短
い黒髪の女に激しく揺さぶられていました。
太陽が眩しい。
どうやら今日は厄日のようだ。助けて天国のおじいちゃん。
ユウゼンが朦朧としていると、勝手にイラついたらしい女は柳眉
を逆立てて理不尽に怒鳴り始めた。
﹁いつまで寝ぼけてんだよぅ! 起きろ答えろ吐きやがれっ!﹂
﹁止めろ! いつまでって今三秒ぐらいだよ! 望みどおりなんか
出そうだよ! ああ俺は正常に目を覚まして一日を始めたいんだ!
それだけなんだ! なんで俺はカカシなんだよ!﹂
だめだ自分意味ワカラン。あー眠いよー。講義聞きたくないし親
父の仕事手伝いたくないし会議出たくないよー⋮⋮。
そうしてユウゼンがどこかのひょろい小学生のようなことを考え
て意識を手放そうとしていると、急に胸倉の手が離れる。
結果、シーツに勢いよく頭を突っ込む羽目になった。
﹁!!︵言葉にできない︶﹂
﹁そ、そうだよね⋮⋮ごめん、ちょっと、どうかしてたわ⋮⋮そう、
キミはカカシでも、ちょっとは人間っぽいと思うから﹂
64
そして演劇の如き独白は全く聞き捨てならなかった。
﹁っぽい!? もうカカシ前提!?﹂
﹁当たり前でしょうっ? ずっとそうだったじゃない! この馬鹿
野郎!﹂
﹁そんなばなな!!﹂
﹁⋮⋮古いんだよこの絶滅危惧種が﹂
﹁⋮⋮すいませんでした⋮⋮﹂
完全に目を覚まさざるを得なかったユウゼンは、くらくらする頭
を押さえながらぐったりと起き上がる。そして改めて目の前に立つ
短い黒髪の女性と目を合わせた。
﹁おはよう、姉上﹂
﹁おはよぅ、弟﹂
そう。腰に手を当てて、悪戯っぽい瞳を向けるこのトンデモ人間
はユウゼンの実の姉なのだった。しかもこれが、ヘテロクロミヤ・
アイディス侯爵の妻である。
つまり、オズ皇国の第一皇女にしてヘテロクロミヤ侯爵夫人。
アルコートとローリヤの母なのだ。
身分が高い女性の常識にあるまじき短い髪は、﹁鬱陶しい、邪魔﹂
という彼女の雑多な性格をよく表していて、すらりとスレンダーな
身体はとても子どもを二人も生んだとは思えない。
赤と金のそれでいてシックなドレスも良く似合っていて、色白で
すっきりした目鼻立ちにぷっくりと綺麗な唇を持ち、まあ贔屓目に
もかなり美人なのだが、一言で言うと残念だ。
残念な理由は冒頭以下略。
姉││ラティメリアは、先ほどよりは落ち着いた様子で、だが再
65
びずいっと身を乗り出してきた。
﹁ねえ、それでどうなのよどーなのよぅ? キミ不相応にもほどが
ある恋をして違う人に襲い掛かったあげく猫はリンチでチキ﹂
ユウゼンは静かに遮った。
﹁落ち着くんだ。よく言葉の意味を考えてみよう。いいか?﹂
﹁ぇ、え? うん﹂
ラティメリアはぱちぱちと瞬きをしながらも、素直にこくりと頷
く。
﹁よし。まず不相応というところがおかしい。俺は仮にも豊かなオ
ズ皇国の次期皇帝だろ? 身分的に不相応はありえない﹂
﹁あ、なるほど﹂
﹁それから違う人に襲い掛かるほど俺はへたれ設定を卒業した覚え
がない。そして猫はリンチをしない。群れないし。最後に俺はまだ
生物学的に人間で、チキンじゃない。さすがの魔術もまだそこまで
は達していないんだ﹂
ユウゼンが悲しい事実を涙をこらえて他人事のように話して聞か
せると、ラティメリアは悲しげに目を伏せて、細い指で自分の頬に
触れた。艶のある黒髪がまとめて揺れる。
﹁そ、そっか⋮⋮そう言われればそうだよね。ユウちゃんごめん⋮
⋮私、なんて馬鹿なんだろ⋮⋮ちくしょう、鶏はあんなに高尚でか
わいいのに、キミ呼ばわりだなんて││﹂
﹁うわーそう来るんだー存在価値なくす方向なんだねーもうゆるし
てゆるして﹂
二人はお互いにぺこぺこ謝っていた。
66
67
ヘテロクロミヤ侯爵夫人︵2︶
﹁ってなんでだよ! 大体誰からそんな微妙に訳分かるようで全く
わからん情報吹き込まれたんだよ!﹂
ユウゼンはキレた。だって朝だから。朝一番だから。
これから昼過ぎまで面倒臭い仕事が詰まっているわけだのに、今
からこれでは不機嫌になる理由満載ではないか。
そんなユウゼンに姉のラティメリアはちょっとびくっとして、い
じいじと上目遣いでいい訳し始める。年上ながら、なぜにそうかわ
いらしい仕草が似合うのだろう。オズの七不思議。
﹁ごめんてばぁ。だって、だってね? カラシウスに言われて初耳
だったからびっくりしちゃって、そりゃあ大変かなってカカシなの
になんでチキンなんだよクソが、みたいな⋮⋮﹂
﹁そうでふね﹂
﹁それなもんだから、これはユウちゃんに特攻尋ねたり吊るし上げ
たりするしかないかなって⋮⋮﹂
﹁普通に聞いたら普通に答えるので。ていうか、カラシウスに吹き
込まれたんならカラシウスに聞いてそのまま﹂
﹁やぁ、だってカラシウス夜デートしてくれなきゃ教えないって言
うもの﹂
﹁なんだその驚愕発言ーーー!?﹂
﹁いいの、そんな今更なことは。ねーねーねーそれでどうなの? キミだれが好きな子? わたし知ってる子?﹂
﹁え。あ。いや。それは﹂
﹁協力するから! 全力で応援するから! ちょっと嘲笑うかもし
れないけど﹂
﹁とても教えたくないです﹂
68
ユウゼンは何か突っ込みどころ満載でどうすればいいのか分から
なくなってくる会話に疲れてきた。馬鹿はつっこみを過労死させる。
大体ユウゼンの好きな人があの絶世の美少女だと分かったら、ラ
ティメリアは絶対にかわいそうな顔をするだろう。同情いらない。
そうしてユウゼンが淡々と切り捨てれば、ラティメリアは目元に
手を当てて、さめざめと泣くふりをした。
﹁どうしてこんな子に育ったんだろう⋮⋮両親が小さい頃に亡くな
って以来、わたしがちゃんとしなくちゃって身を粉にして世話を﹂
﹁いや両親死んでないから﹂
﹁同情誘うためのくだらない卑怯な設定に口出しするなんて大人気
ない﹂
﹁妙に醒めたこと言うな⋮⋮﹂
ちぇっと舌打ちして、ラティメリアはユウゼンの腰掛けるベッド
に座り、いそいそと距離を詰めた。なんで年上にしては全く貫禄も
落ち着きもないんだろうオズの七不思議。
で、ラティメリアは上目遣いでにっこりと笑った。
﹁どうなのシルフィちゃんと﹂
﹁ワカットルヤンケワレーー!!﹂
爽やかな朝に盛大な奇声が響き渡る。
だって、なんだよ! なんなんだよ今までの会話は!!
﹁ちょっとした前菜だよ。キミは気にすることはないわ﹂
﹁それを言うなら前座だろ! もう嫌だこの姉もう寝る今日は起き
るもんか! おやすみ世間!﹂
69
ふてたガキのような事を叫んで断固寝ようとしたユウゼンの首根
っこを、ラティメリアは心得たようにひょいと掴む。
それから、子どもにそうするように、自分の腿の上にユウゼンの
頭を乗せて、やんわりと額から髪にかけて撫でた。
暖かい手のひら。涼しげなのに優しい光を宿す目。
素直に心地よくて、その一瞬でラティメリアのペースに飲まれて
いた。
なんとなく、卑怯だと分かっていても許してしまう感じで。
結婚前、この姉が伝説的にモテていた理由は、わからなくもない。
﹁家族として気になってるだけなのよぅ? まーちょっとわたしに
任せておきなさい!﹂
﹁気持ちだけで結構ですけど⋮⋮﹂
﹁遠慮はよろしくない! というわけで、今日うちにご飯食べに来
てね。シルフィちゃんも呼んであるから﹂
﹁はー⋮⋮﹂
思い至るとすぐ実行してしまうのが姉の性格。長所といえる部分
もあるが、大方残念である。本人は善意、というよりほぼ何も考え
ていないのでもうどうしようもない。
ああ、カラシウスが面白がってけしかけた様子が目に浮かぶ。ち
くしょうあいつ、今日という今日は手当たり次第に弱点探ってやろ
うか。逆に暗殺されそうだけど。
ユウゼンは久しぶりの膝枕に敗北を認め、大人しく夕食の約束を
してしまうのだった。
70
71
ヘテロクロミヤ侯爵夫人︵3︶
そういうわけで、夕暮れ前馬車でヘテロクロミヤ候の屋敷へ向か
うこととなったのだが。
仕事疲れで半死のユウゼンはどうもしっくりこなかった。
﹁あの。なんで居るんですか?﹂
﹁えーだって面白そうだし﹂
﹁今すぐ降りて帰ってそういうのムリ﹂
﹁兄さんは相変わらず照れ屋だね∼﹂
ユウゼンの馬車とは違い、無駄に品のある馬車の中、ラティメリ
アと並んでユウゼンの正面には弟カラシウスの姿があった。
しかも超笑顔。こいつ絶対こうなることを予測していやがった。
人を嵌めておいてそれを隠そうともしない影の黒幕なんて滅び去っ
てしまえばいいと思う。
そういうわけで、シルフィと食事だというのに、何だかちっとも
胸弾まないわけである。
腹立たしいのでユウゼンは適当な話題を見つけて、せめて姉に話
しかけた。
﹁そういや姉上はシルフィと仲がいいんですか?﹂
﹁おう、バッチリだよ! アルコートとローリヤの相手がめんどー
になったら預ける仲﹂
﹁一方通行!?﹂
﹁やぁ、これでも子どもとのコミュニケーションは大事にしようと
しているけどやっぱ疲れるから自分で言い出しといて今更乳母に預
けるのも気が引けたときにシルフィちゃんがいれば快く引き受けて
くれるからつい毎度毎度お世話になって迷惑千万だと思われてるだ
72
ろうなって心配になる仲かも﹂
﹁あんた最低だよ! いろんな意味で!﹂
こっちはこっちで疲れた。
しかもユウゼンが必然的につっこみまくっていると、カラシウス
が眉をひそめて口出ししてくる。
﹁姉さんに対して口の聞き方がなってないんじゃない? それだか
らカカシなんて言われて人間じゃなくなってくるんだよ﹂
﹁いや言い出したのお前だから⋮⋮それに姉上はそろそろ大人とし
ての貫禄を﹂
﹁カカシ兄さん。姉さんは完璧だよ﹂
すっと、有無を言わさぬ口調でカラシウスが遮った。
つい、首を傾げる。完璧? 確かにカラシウスは女性に対して︵表面的に︶甘く紳士的だが、
完璧とまではちょっと言いすぎではなかろうか。このモテ野郎の女
性関係は︵怖いので︶あまり探ったことはないのだが、特定の噂が
ないわけだから相変わらず上手くさばいていることになる。そうす
ると、深入りさせるような言葉も控えているはず。しかも自分の姉
だ。
ラティメリアがふと微妙な表情をして、心なしか隣のカラシウス
から距離をとろうとする。
しかしカラシウスは寸前でラティメリアの腰に片腕を回し、逆に
自分の方へ抱き寄せていた。
﹁ひゃっ! ちょっ、キミ! だめだってばぁ⋮⋮!﹂
﹁ほんと、姉さんほど綺麗でかわいい女性もいないよ。兄さんもそ
う思わない?﹂
73
﹁What?﹂
何か、聞かれた。
聞こえなかったことにしたい切実に。
そしてラティメリアは必死に離れようとしているが、いかんせん
相手が悪い。カラシウスは痩躯でちょろそうに見えて優秀な軍人な
のだ。ユウゼンは衝撃の事実に冷や汗を垂らしながら、現実逃避を
試みた。
﹁え、あの、その。落ち着け。落ち着いてよく状況を。それ姉上﹂
﹁うん、そうだねえ。いつ見てもストライク﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。⋮⋮マジで?﹂
﹁あはは♪﹂
﹁おま⋮⋮コッシーネ伯の令嬢は⋮⋮﹂
﹁あれは遊び﹂
﹁家族⋮⋮﹂
﹁まあ、母親は違うしね。どうしても子どもが欲しいわけじゃない
し﹂
﹁⋮⋮人妻⋮⋮﹂
﹁ヘテロクロミヤ候ね⋮⋮ま、相手に不足はないかな﹂
もういいたい放題。誰かこいつを止めろ。
二人してそう思ったに違いなく、ラティメリアは柳眉を逆立て、
﹁ちょっと! わたしはお父さんの良妻なの! キミは大人しく弟
してなさいっ﹂
珍しく最もなことを言った。ちなみにラティメリアの言う﹁お父
さん﹂とは、実父現皇帝のことではなく夫のヘテロクロミヤ・アイ
ディス侯爵のことである。
しかしカラシウスはラティメリアの必死の正論をさらっと受け流
74
し、あろうことか更に姉が抵抗できないように腕の中に閉じ込めて
しまった。
﹁やだよ。侯爵はいい人だけど、それとこれとは違うんじゃない?
絶対僕の方が、イイ﹂
﹁ひゃぅ⋮⋮!﹂
わざと耳朶を湿らすように低く囁き、カラシウスはびくりと身体
を震わせたラティメリアのうなじに色気たっぷりの顔をうずめ
﹁末期のシスコン人道に戻れ非国民ーー!!﹂
ユウゼンは標語のような奇声を発し、お話が強制終了しないよう
にがんばった。
神速でカラシウスからラティメリアを取り上げる。人間本当にや
ばいと思ったらなんでも出来る。
開放されたラティメリアはユウゼンの首に腕を回して、半泣きで
コアラのごとくしがみついた。
﹁ユウちゃんありがとう⋮⋮! もうだめかとっ⋮⋮もはやキミは
神だよ! カカシの神様だ!﹂
﹁ははは⋮⋮ってなんで人間じゃないねん!﹂
﹁なんでって⋮⋮それは、ねぇ?﹂﹁ねえ?﹂
何事もなかったかのように姉と弟が目を合わせて頷き合う。
マジで何あんたら?
75
││今日はそんな腐った道中でした。<ユウゼンのどうでも日誌
より>
76
ヘテロクロミヤ侯爵夫人︵4︶
ヘテロクロミヤ・アイディス侯爵の邸宅は、古い。
それはただ単純に長い時間が経っただけではなく、歴史を刻んで
風化して磨かれてきた風貌をしている。並んだ窓と端に見える深い
緑の屋根。何代も前のヘテロクロミヤ候の時から大幅には建て替え
ていないからなのだろう。
その赴きある建物の前で、黒塗りの馬車から降り立った少女は、
御者のランプの明かりを受けて、見事に幻想的だった。
チョコレートに銀を混ぜたような不思議な色合いのシンプルなド
レスに、右の胸元にだけ白い花や葉、蔦などを組み合わせたコサー
ジュをつけ、腰の辺りにはリボンのように飾り付けられた白く薄い
布が揺れ、大きく開いた背中からうなじと背が妖しく覗く。
シルフィードはユウゼンに気付くと微笑み、優雅な礼をした。
﹁こんばんは。本日はご一緒出来て光栄です﹂
﹁こ⋮⋮ちらこそ﹂
カラシウスじゃないが、完璧だ本当に。
今までの鬱気分が見事に吹き飛び、ユウゼンは操られるように礼
を返した。
本日はやはり武官のヘリエルが控えていて、シルフィは続けてラ
ティメリアやカラシウスに挨拶をする。﹁よしなにはからえ∼﹂な
どと言っている姉はもうどうでもいい。カラシウスは相変わらずの
愛想で﹁あなたに相応しい素晴らしい夜を﹂と惚れ惚れするような
礼をしている。ちくしょう変態のくせに。
77
﹁よしじゃあ、どんとこい。みんなわたしに着いて来い!﹂
そしてラティメリアに促されて︵?︶始まった晩餐はさすがに豪
華だった。豊かなオズの海産物や珍味あり、はたまた伝統料理も運
ばれる。放浪の遊び人ユウゼンは、式典や招待などの付き合い以外
では、ほぼ適当な携帯食の毎日なのでシルフィと同じくらい感動し
ていたかもしれない。
﹁口に合えばいいのだけれど﹂
﹁本当に、すごくおいしいです。食べ過ぎてしまいますね⋮⋮!﹂
﹁いやあ、いっつもアルコートとローリヤを放り込んでネグレクト
回避してるし、その分点数稼ぎってことで!﹂
﹁自分で言うな⋮⋮﹂
﹁兄さん、マナーが崩壊してるよ。あと顔も﹂
﹁余計なお世話!!﹂
そんな風に、カラシウスの笑顔のいびりに耐えつつも、無礼講で
晩餐は進んだ。
その中でシルフィは、どことなく、上手く言えないのだが││透
明な膜をまとっているような気がした。いつもそうじゃないとは言
い切れないけれど。
風のような。例えば声。なめらかで、頭に残らない。振る舞いも、
類稀な美貌を隠すように控えめで味気なく、印象薄く。時間が経つ
ほどに存在が希薄に近づくように。
ユウゼンは頭の隅でその意味を探し続けて、否定してはまた構築
する。
そうなんだろうか。無意識に、立てようとしているのか。自分以
外を。
それも、数種の酒が運ばれてくるまでの話である。
78
﹁今日のために取り寄せたの。飲まなきゃ許さないわ。これぞアル
コールハラスメント﹂
﹁さすが姉さん﹂
﹁親父か?﹂
﹁なんとでも言いなさいよぅ。ところでユウちゃん、何か余興でゲ
ームでもしない? 負けた人がお酒を飲むルールで﹂
﹁んー⋮⋮﹂
まさにセクハラだと思いつつ、ユウゼンは常備しているプレイン
グカードをポケットから出し、姉の注文を考えながら切り混ぜる。
﹁四人だったら、ポーカー、ホイスト、階級闘争、⋮⋮ああ、でも
シルフィはあまり知らないかな﹂
﹁あの、この間少し教えて頂いたものなら、おそらく大丈夫ですが
⋮⋮﹂
﹁ああ、ハーツか。うん、丁度いいし、それにしよう﹂
ルールを軽く確認し、四人にカードを分配してそれぞれ手札の三
枚ずつを交換する。クローバーの2から時計回りにカードを出して
いく。ラティメリアは思ったまま、シルフィは不慣れなため戸惑い
ながら、カラシウスは手札を読ませない笑顔で、ユウゼンは適当に
手札をさばく。
﹁ええっと⋮⋮﹂﹁賭けだ賭け!﹂﹁これならいけるかな﹂﹁そう
だなあ⋮⋮﹂
言い出したラティメリアはともかく、やはり初心者のシルフィは
不利に違いない。一回目に負けたシルフィがグラスを軽く開けるの
を見て、ユウゼンは小声で尋ねる。
﹁お酒が無理なら強制終了してもいいですよ?﹂
シルフィは首を横に振って、いつもの笑顔で答える。
79
﹁いえ、平気です。がんばりますね⋮⋮!﹂
だめだかわいいほだされる。
ユウゼンはあっさり変態思考に引き込まれ、気付けばカラシウス
の出したペナルティカードを持たされていた。
﹁この野郎⋮⋮﹂﹁余所見はよくないよね?﹂
さわやかな笑顔でグラスを差し出す弟に呪詛を送り、ユウゼンは
行儀悪く一気飲みした。おいしいが、喉元と胃が焼けるように熱く
なる。やはりなかなかアルコール度数が強いようだ。
そうしてユウゼンとカラシウスはお互い足を引っ張り合いつつ、
ラティメリアが無茶な勝負をしては悲鳴を上げ、シルフィは真剣に
考えてゲームを進め、夜は更ける。
結局ギブアップしたのは、潰しあっていたユウゼンとカラシウス
だった。
﹁うっぷ⋮⋮ちょっと、もういいかな、ワインは⋮⋮﹂
﹁胃がもたれる⋮⋮﹂
﹁なさけないなぁ、二人とも。わたしはまだまだいけるよ? ねえ
シルフィちゃん?﹂
﹁えーと、⋮⋮そう⋮⋮ですか⋮⋮?﹂
おそらく量で言えばラティメリアが一番飲んだはずだ。なのに一
番けろりとして、ムダな酒豪っぷりを披露している。その次に負け
ていたのはシルフィで、頬を染めて若干怪しげな返事をしているの
は仕方なかろう。ユウゼンとカラシウスも十分すぎるほど飲んで、
ぐったりしていた。
80
﹁じゃあ、今日のところはこれで勘弁しといたろう。シルフィちゃ
んもまた遊ぼうねぇ! あ、みんな勝手に泊まっていっていいよ﹂
﹁はいー⋮⋮﹂
一人にこにことしているラティメリアなんかもうどうでもいい。
ああ、胃が。
侍女が顔を赤くして緊張気味にカラシウスに水を差し出していて、
カラシウスが﹁ありがとう、気が利くね﹂と口説き文句じゃなく切
実に言っているのが理解できる。たぶんユウゼンも今なら噛まない
と思う。
﹁水⋮⋮﹂
﹁あー、どうぞー﹂
カラシウスのときと全然違うどうでもよさげな態度でも、あんま
り気にならなかった。
悲しくないといえば、嘘になるけれど。
81
ヘテロクロミヤ侯爵夫人︵5︶
なんだか長い一日だった。
広い浴場でぼんやりお湯に浸かりながらユウゼンは、どこかのお
年寄りのように放心していた。
ヘテロクロミヤ・アイディス侯爵の邸宅はアカシア宮とそう離れ
ているわけでもないし、ユウゼンもカラシウスもシルフィも酒のせ
いで帰る気力をなくし、今日はここで一泊することにした。といっ
ても各自即行部屋に引きこもってアルコールが中和されるのを待つ
だけだろうが。
あれからだいぶ時間が経ったので、ユウゼンはラティメリアに勧
められて広い浴場を独り占めしていた。普段放浪生活なだけに、豪
華で癒される。
﹁姉上も、すこしは落ち着いてくれればいいのに⋮⋮﹂
なめらかで適温の湯にぶくぶくと身体を沈め、ついでに落ち着い
て貫禄のあるヘテロクロミヤ侯爵夫人を想像し││ユウゼンは思っ
た。
無理だな、と。
まるでその思いが通じたかのようだった。
バタバタとなにか騒がしいような気配が近づいてきて、いきなり
浴場の入り口の戸が勢いよく開かれた。
﹁か⋮⋮﹂
カラシウス? にしちゃあ品がない。訝しげに振り返ったユウゼ
ンは、そこにいた人達を見て目が点になった。
82
女性のシルエット。
というよりラティメリア。
と、彼女に抱えられぐったりしたシルフィード。
しかも、その、シルフィは髪もしどけなく梳いて、透けるような
白いアンダードレスしか身に付けていない、ような⋮⋮?
呆然とするユウゼンに向けて、ラティメリアが宣言した。
﹁頼もう!!﹂
﹁何が!? ちょっ⋮⋮入るなら出るから! 三分待ってくれ!﹂
﹁やだよ! シルフィちゃんが今すぐ入りたいって駄々をこねたこ
とにするの! そうだよねシルフィちゃん!?﹂
ラティメリアが明らかに朦朧としているシルフィを容赦なく揺す
る。
﹁⋮⋮はい、⋮⋮?﹂
﹁ほれ見ろホントになった!﹂
﹁嘘こけ!! 酔ってるだけやん! 疑問系だしその前にあんた全
部仕組んだの暴露してるし変態だし勘弁して下さいホントに⋮⋮!
頼む止めてくれ、誰でもいいから、俺が許可する!﹂
さすがにまずいと、後ろでわたわたしている侍女たちに向かって
叫ぶ。彼女等はやっと許可が出て、ラティメリアを取り押さえよう
としたのだが、ラティメリアは一言でそれを制した。
﹁こら! わたしに協力すれば後でカラシウスの寝顔見せてあげる﹂
﹁﹁﹁本当ですか!﹂﹂﹂
みんな、超・あっさり買収された。
83
そしてラティメリアは勝者の笑顔でユウゼンに言う。
﹁協力するって言ったわたしに二言はないの。二人でゆっくり入浴
してね﹂
﹁待っ⋮⋮! 世話になってるシルフィに対して、あんた鬼か! 悪魔か!?﹂
﹁やぁ、人間だよ。キミじゃあるまいし﹂
それがラティメリアからの最後の言葉だった。
ラティメリアは手近にあった小さめの浴槽にシルフィを放り込み、
やって来たのと同じくらいの勢いで浴室の戸を閉めて出て行ってし
まった。
﹁うっ⋮⋮﹂
﹁シルフィ!﹂
しかも彼女が身を浸したのは暖かい湯ではなく、冷たい水の浴槽
だ。
突然の暴挙に身体を震わせてうめいたシルフィに、ユウゼンは布
を引っ掴んで腰に巻きながら駆け寄り、そこから助け出す。
冷たくなった肌とふれあい、今まで温まっていたユウゼンも思わ
ず身震いした。
﹁⋮⋮す、みませ⋮⋮﹂
﹁謝らないで下さい! 悪いのはこちらなんですからっ⋮⋮本当に
申し訳ない﹂
言いながら、状況のやばさに徐々に気付く。シルフィが無意識に
だろう、自らの冷たい身体を離そうとする。思わず、反射的にその
84
身体を抱きしめる。ひやりと冷たくて、柔らかくて、華奢な身体。
シルフィが纏う薄布一枚越しの、それがはっきりと伝わり心臓が跳
ねた。
えっと、ごめんなさい疚しいことはないです思わずやってしまっ
ただけです本当に!
﹁とっ、とととりあえず、身体を温めるってことで⋮⋮! 失礼し
ます!﹂
﹁││││﹂
そうだそれだ。混乱を堪え、ユウゼンはシルフィを抱きかかえて、
先ほどまで自分がつかっていた湯船に駆け戻った。
なるべく慎重に湯に入り、シルフィが苦しくないように支えなが
ら座らせる。
寒さに身を震わせていた少女が小さく吐息を漏らすのが感じられ
て、ユウゼンも少しだけほっとした。
本当に少しだが。顔が熱くて、心臓が苦しい。
出来る限り王女を見ないように、落ち着け自分無我の境地、と心
中唱えながら、尋ねかける。
﹁大丈夫、ですか? 気分が悪いとか﹂
﹁⋮⋮いえ、⋮⋮ただ、すこし、眠くて⋮⋮﹂
﹁え? ああ﹂
酒のせいか。酔うと眠くなるタイプに違いない。
そんなシルフィードの安眠を妨害してこんな場所に放り込むとは、
ラティメリアは本当に信じられない人間だ。
﹁本当に申し訳ありません⋮⋮あんな姉上で、こんな失礼なことを。
もう何でもお詫びします、死ぬほど言い含めて今後は││﹂
85
﹁ユウ⋮⋮気にしないで﹂
﹁へ!?﹂
不意に。
シルフィードが囁き、寄り添うように身を寄せた。
なんで? ちょっと今この状態でそれはやばいほんとうに││││
﹁わたしは⋮⋮大丈夫ですから⋮⋮今までわたしが、ユウに言った
ことを、覚えていますか⋮⋮﹂
固まって、動けないユウゼンを、正面から柔らかく抱きしめて、
耳の後ろで囁いている。鼓動と声の他には、もう何も聞こえない。
湯のほのかな蒸気と、濡れた肌同士が存在を確かに伝えた。
どれのことだろうと、流されそうな精一杯の頭の隅で考える。
﹃どうか、好きになって下さい。手を伸ばさずにはいられないほど。
溺れるほど﹄﹃私と結婚してくれませんか?﹄
﹃好きですよ。あなたはとても優しい﹄
王女が再び、耳朶をくすぐるように、甘い言葉を紡いだ。
ユウゼンを揺るがすには、十分な毒だった。
﹁だから⋮⋮、どうぞ、わたしでよければ⋮⋮好きにして下さい﹂
﹁シ、ルフィ﹂
一瞬で理性が飛んだ。
自分でも知らぬ間に、強く抱きしめ返している。
86
飛沫と白い水の断面。
頭がくらくらする。暖かい。熱い。苦しくて、それくらい愛おし
い。全てを自分のものにしてしまいたい。
本能のまま、目の前のそのすべらかな首筋に唇を落とす直前、深
く、安堵したような少女のため息が耳に入った。
││私は、嘘しか申しません⋮⋮
﹁っ⋮⋮!﹂
思い出した。
思い出してしまった。
なぜあのとき自分が彼女の申し出を受け入れなかったか。
精一杯の言葉。シルフィの気持ちを、少しでも大事にしたかった
からではないのか。
少しでも好きになってほしいのに、そう決めたのに、それを、こ
んな形で自分から壊してしまっていいのか。
いいわけがない。
本当にギリギリで思いとどまり、ユウゼンは呼吸と鼓動を鎮めな
がら、ゆっくりと、少し濡れたシルフィの髪を、撫でた。
﹁無理を、しないで下さい。酔っていますよね? きっと今日は色
々とご迷惑をおかけして、疲れたことと思います。だから、その、
本調子にもどってから、⋮⋮また向き合わせてください﹂
87
少し、沈黙があった。切なくなるような、そんな。
シルフィが手を解いたから、ユウゼンも彼女から手をはずした。
密着していると、熱くて心がはちきれそうだったのに、離れると
不思議なほど寂しくて、手を伸ばしたくなる。
シルフィは短い距離に横たわる暖かな水に目を落としたまま、小
さく微笑んだ。
﹁⋮⋮すみません⋮⋮出過ぎた真似を、して、⋮⋮許してください
⋮⋮﹂
シルフィの髪先から、涙のように雫が零れて、水面が揺れた。
ユウゼンは慌てて声を荒げた。なぜそうなるんだろうか。
﹁ゆっ、ゆるすとか、そういう問題じゃない! 俺はただ、あなた
が自分に遠慮して、自分を大切にしないことが悲しいだけだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁例えばゲームの時だって、あなたは頭がいいから勝とうと思えば
もっと勝てたのに、わざとそうしなかった。さっき水に落とされた
ときも、俺を気遣って離れようとして、﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁そういう、ことも大事だとは思います。でも、シルフィはもっと
素直に行動してもいいと思う。少なくとも、俺は、あなたが息苦し
いような姿は、見たくなくて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁だって俺は﹂
あなたのことが、好きなんだから。
88
とは、一気に顔が熱くなって言えなかった。
やばい。やばすぎる。恥ずかしい。気付けばこんなところで何言
ってんの自分。もう、死ねる⋮⋮
﹁⋮⋮シルフィ?﹂
しかもさっきからなんの言葉もないと思っていたら。
限界だったのか、王女は、浴槽のふちにもたれたまま、目を閉じ
て、眠ってしまっていた。つまり寝ていた。ご就寝だった。安眠中
だった。熟睡だった。要するに聞いてなかった。
﹁えー⋮⋮あー⋮⋮そういうオチかー⋮⋮﹂
ユウゼンは一気にテンションを落として、いつもの状態に逆戻り
した。
まあ、ほっとしたような、残念なような、眼福だったような、腹
立たしいような。
もう無理だ。色々と。
疲れきってのろのろ浴室を出て、待機していた侍女にシルフィの
世話を頼み、妙なテンションのまま廊下へ出る。
カラシウスに出会った。
﹁あ、兄さん。どうやら最大限に鶏っぷりを発揮したみたいだね。
もはや尊敬に値するよ⋮⋮﹂
﹁やかましい抉るな。お前こそやつれてるぞ⋮⋮﹂
﹁うるさいな。ヘテロクロミヤ候が不在なのに姉さんに手は出せな
いし、やたら侍女が入ってきて気が休まらないし、酒は抜けないし
⋮⋮どう。今から繁華街で盛大にハメはずしに行こうかと思うんだ
けど﹂
﹁お前いいこと言った。行く。誰がなんと言おうと行く﹂
89
﹁そうこなくちゃ﹂
そうしてユウゼンは今日、カラシウスのことを心の底から兄弟だ
と思ったのでした。
90
ヘテロクロミヤ侯爵夫人︵5︶︵後書き︶
飲酒後の入浴は大変危険ですのでお気をつけ下さい。脳貧血や心臓
発作の原因になります。
91
魔術の散歩道︵1︶
今日は珍しく午前中に用事が済んだユウゼンは、思い切って勇気
を出し、シルフィードを乗馬に誘った。
快く承諾してくれた王女を、アカシア宮の門の側、馬とモリスを
連れて待つ。
頭上は白い雲がぽつぽつと浮かぶ青空。穏やかな気候で、絶好の
外出日和だった。
モリスが伸びをしながら、
﹁いやあ、いいお天気ですね。不健全なユウゼン様をこんなに健全
にするとは、シルフィード様は本当に素晴らしい﹂
﹁お前は一言多い﹂
﹁あはは、どうもありがとうございます﹂
最近の従者は性格が悪いようだ。前はもっと⋮⋮いや、別に変わ
ってないか。
ついでに馬にまで頻繁に頭を小突かれて、ユウゼンがこの国の将
来を憂いていたとき、ヘリエルとセクレチアを従えたシルフィが姿
を現した。 ﹁お待たせしました⋮⋮!﹂
トレードマーク、流行のシルヴァグリーンのドレスを着こなした、
ブラウンの髪の美少女。深めの漆黒の帽子がふわりとした全体をほ
どよく引き締めていて、ほー、とモリスが感嘆の息を吐いている。
見慣れても、美しいものはいつまでも美しいということがよくわか
った。
ユウゼンはセクレチアに若干怯えながらも、うきうきと返事を返
92
した。
﹁少し南へ行くと、いい川辺があるんです。ぜひ、ご一緒してくだ
さい﹂
﹁それは楽しみです﹂
極度の面倒臭がり・ユウゼンにとって、久々の健全な社交である。
シルフィに乗馬の経験を尋ねると、あまりマナーに自信が無いと
恥ずかしげに俯き、そのかわいらしさに場が和んだ。少し意地悪な
気持ちになり、わざと困った顔をすると、期待通りシルフィが慌て、
しかしセクレチアが日傘でユウゼンを刺してきた。即行謝罪した。
いつか殺されるかもしれないと思った。
﹁どうぞ、お手を﹂
﹁ありがとう⋮⋮!﹂
気を取り直し、出発するためまたがった馬上からシルフィードへ
と手を伸ばす。
黒い手袋に包まれた細い手を握って、小柄な身体を引き上げ、自
分の前に座らせる。
﹁かわいい、大人しい馬ですね﹂
﹁頭がいいんです。乗り手のことが分かるんでしょうね﹂
ゆっくりと走らせ、会話を交わしながら、軽く抱きしめるように
密着する少女に、内心どきどきしていた。目を輝かせて喜ぶシルフ
ィは、ほのかに清涼な花の香りを纏っていて、引き寄せられるよう
な気さえした。なぜこうもかわいいのだろう。出会えたのが奇跡の
ようで、しかもこうして近くにいて、もしかしたら結婚でき││
93
﹁こぼっ!!﹂
﹁え?﹂
変質者の顔をしていたユウゼンに、隣でヘリエルと共に馬に乗っ
ていたセクレチアが日傘の骨の部分を突き刺した。痛い。マジで痛
い。涙があふれる。
﹁調子に乗っても乗らなくてもどうしても何をしても認めませんか
ら、どうぞお気をつけ下さい﹂
そして氷の微笑で、ユウゼンにだけ聞こえる小声で、暗殺を宣告
されたのでした。
﹁モリス! 俺、殺され││﹂
﹁どうぞお気をつけ下さい﹂
そして、味方は特にいないのでした。
晴天の午後、ぱかぱかと五人を乗せた三頭の馬が、人間たちの私
情もなんのその、土色の道を進んでいきます。
やがて木々が増え、その間を縫うように通り過ぎると、明るく開
けた川辺に辿り着いた。森に囲まれた川原と五メートルほどの幅の
緩やかな流れ。ほとんど傾斜がなく、何人か家族連れも見られ、穏
やかな昼下がりの光景だった。
﹁ああ、綺麗ですね! ちょっと行ってきます⋮⋮!﹂
シルフィはユウゼンが完全に馬を止めないうちから歓声をあげ、
元気よく馬上から飛び降りると、ドレスの裾を手でまとめて水辺に
走り寄った。ユウゼン、モリスもびっくりである。
94
﹁殿下ー、マナーをお忘れですよー﹂
セクレチアがヘリエルの手を借りて地面に降りながら、軽くたし
なめている。しかしシルフィは冷たい水に手をくぐらせたり少し離
れた岩場に足をかけたりと、子どものようにはしゃいでいた。
オズの第一皇子とその従者は思わず顔を見合わせる。
﹁なんというか⋮⋮ちょっとだけ、ユウゼン様みたいです﹂
﹁なんだよそれ。喜んでいいのかどうなのか﹂
﹁もちろん褒め言葉ですよ﹂
なんだか分からないが、モリスは嬉しそうで、ユウゼンも結局は
笑ってしまう。馬を繋いでゆっくりとシルフィの方へ向かうと、美
しい少女は早速三人の子どもたちと何やら騒いでいた。
﹁あれなあに? きれいな宝石みたいな﹂
﹁ああ珍しい、水のエレメントだ!﹂
﹁えれめんと?﹂
﹁あ、あれだよね、魔術とかに使ったりする触媒みたいな﹂
﹁よく知ってるね。魔術に使わなくても、あれがあれば綺麗な水が
手に入るんだよ﹂
﹁とってとって!﹂
﹁わかった、お姉ちゃんに任せて?﹂
三人とも身なりのよい十歳以下の男の子だ。皆川の中間辺りにあ
る岩に埋め込まれた、宝石のように輝く透明の石に夢中になってい
た。水のエレメントとはあれのことだろう。
というか、シルフィはスカートをたくし上げて今にも飛び出しそ
うで││
95
﹁ストップ﹂
ユウゼンとヘリエルが両側から、王女の腕を捕まえるのは同時だ
った。
﹁あ⋮⋮えっと﹂
はたと目が合い、ヘリエルは無言で目礼をして手を引く。それで
若干勢いをそがれつつも、ユウゼンは改めてやんちゃな王女を岸に
引き寄せた。
﹁ドレスじゃ危ないですから、無茶はしないで下さい﹂
﹁あ、でも、﹂
﹁代わりに採って来ますから﹂
言うが早いか、ユウゼンは適当にその辺の岩を伝って目的の場所
まで辿り着く。透明な石││エレメントは、岩に埋め込まれていて
手では取れそうにない。少し考え、ブーツに仕込んでいた小刀を抜
いて、ふちに沿って削り取ってみた。
﹁お。意外と柔らかい⋮⋮﹂
﹁割れると水に戻ってしまいますから﹂
﹁へえー﹂
がりがりと調子よく削りだし、軽く水で洗って子どもたちとシル
フィの元に戻った。
子どもたちもユウゼンも、その氷のような手のひらサイズの石を、
興味深々で覗き込んだ。触るとひんやりとして、脆い。シルフィは
誰よりその結晶に詳しかった。
﹁水の要素が、偶然凝縮されて固まった結晶ですね。純粋な自然の
中でしか形成されません⋮⋮きっとここは水が綺麗なんです。エレ
96
メントは水のほかに、風・炎・土・木・光・闇の要素があるといわ
れています﹂
﹁﹁ほーー﹂﹂
この水のエレメントは、割ると一定量の綺麗な水が得られるらし
い。旅などの際には重宝するに違いない。
子どもたちはそんな不思議な石を手に入れて、喜んで家族の下へ
帰っていった。
97
魔術の散歩道︵2︶
﹁シルフィ、詳しいな。マゴニア王国では一般的なんですか?﹂
ユウゼンは知らなかった知識を手に入れて、尋ねかける。シルフ
ィードはゆっくり付き人たちの下へ歩きながら、説明してくれた。
﹁マゴニアというより⋮⋮魔術をたしなむ人々にとって、重要だか
らですね。オズ皇国は比較的魔術が広まっていないですから﹂
﹁うん、確かに﹂
﹁マゴニアは隣国のカムロドゥノン連邦国やティル・ナ・ノーグほ
どではないですが、それなりに自然魔術や変革魔術を嗜む者がいま
す。エレメントは⋮⋮オリジンというものと合わせてソースと総称
しますけれど、魔術に欠かせないのです。この、ソースを専門的に
集めて商売をする市場もあります﹂
﹁そうなのか﹂
文化が違えば色々と違ってくる。ユウゼンも魔術を見たことはあ
ったが、学んだことはない。改めて興味を引かれ、セクレチアが用
意した敷物に二人で腰を降ろして、話題を続行した。
﹁もしかしてシルフィも魔術を?﹂
﹁ふふ、そうですね。ちょっと、見ていてください﹂
彼女はごそごそと腰の辺りを探り、そこから綺麗な赤い石の欠片
を取り出す。どうするのかと思いきやなんとそれを口に含んで飲み
込み、軽く目を閉じた。
およそ十秒かそこら、経過したとき、ゆっくりまぶたを押し上げ
て、シルフィは一メートル先の小枝を指差した。
﹁あ﹂
98
小枝が突然炎に包まれて、やがて綺麗に燃え尽きた。
小さな規模の炎だったが、十分神秘的で、驚くには十分だった。
﹁すごいですね! 立派な魔術じゃないですか﹂
﹁いえ、実はこれしか出来ません。魔術は才能なんです⋮⋮三年近
く訓練して、エレメントの力を借りて、これが限界ですから﹂
﹁うん?﹂
魔術についての知識が乏しく、ユウゼンはシルフィードの言に実
感がわいてこない。セクレチアが用意してくれた茶菓子を食べなが
ら、そもそも魔術とはなんなのかと思いをめぐらせた。
﹁魔術とは”認識”ですよ﹂
﹁認識?﹂
﹁人は認識に左右されるのです﹂
簡潔なシルフィの説明だが、なにやら先人の教えのような、難し
げなにおいがする。少々考えていると、鬼畜女官のセクレチアが飲
み物のカップをごとりと目の前に置いた。そして若干下目使いで尋
ねてくる。
﹁これはなんだと思います?﹂
﹁え? っと、紅茶、だと⋮⋮﹂
毒とかじゃないよね。大丈夫だよね。そういう意味じゃないよね
││
冷や汗を流すユウゼンに、セクレチアは意外に普通な感じに肯定
した。どうやら一命を取り留めたようだ。
﹁そうです、見れば分かりますね。じゃあ、あなたの目が見えなか
ったら?﹂
﹁目が﹂
99
セクレチアは説明してくれているのだと気付く。認識、か。
﹁うん、触って確かめるかな﹂
﹁手がなかったらどうです﹂
﹁えーっと、飲む﹂
﹁飲めなかったら?﹂
﹁う⋮⋮難しいなそれは⋮⋮とりあえず、紅茶を知ってれば、どう
にか分かる気がするけど﹂
﹁ええ。思考できて、経験していればわかるかもしれない。それが
認識というものです﹂
セクレチアは教師のような口調で言った。シルフィと同じ質のブ
ラウンの髪、はっきりと黒い瞳をしており、美人で遠めなら十分影
になれる女官だ。性格は破滅的だが、頭もいいらしい。というより
も、そうなのかもしれない。
彼女は淡々と話を続けた。
﹁例えば赤ん坊は、お気に入りのおもちゃがあったとして、それが
ほんの目の前で、布か何かで隠されてしまうと、もうそれを見つけ
ることができません。知っていましたか﹂
﹁いや。そうなのか﹂
﹁ええ。見えなくなると、﹃なくなった﹄と同じなのです。私たち
は、布を取れば、そのおもちゃがそこにあるとわかります。しかし
それは絶対でしょうか?﹂
﹁違うのか? あ、おいしい﹂
あえて素直に否定してみる。紅茶に口をつけると、意外なほどお
いしかった。いや、正直そんなに味の違いが分かる方ではないが、
モリスが入れるよりは明らかにおいしかった。なるほど、人は完璧
100
にはなれぬらしい。
ユウゼンのなにげない賞賛は完璧にスルーし、セクレチアは素早
い手つきでシルフィードの髪の乱れを直しながら続けた。
﹁見えない、聞こえない、触れない、確かめられない。頼れるのは
経験と思考だけ。手品がいい例ですよ。絶対にそこにあるとは限ら
ない。もしかしたらないかもしれない。赤ん坊の方が正しいかもし
れない。わたしたちはそんな風に、認識で成り立っています﹂
﹁ああ⋮⋮そう、か?﹂
﹁あくまで魔術の理論ですよ。認識といえば、言葉がもっともよい
例でしょう。特定の記号に、ひとくくりの様々な意味を与えている。
紅茶、というのも全て違いがあるけれど、似たようなもの、という
ことでイコール同じ紅茶です。わたしが入れたものも他の人が入れ
たものもシルフィード殿下が飲んでいるものもあなたの飲むそれも、
全て同じ要素で同じだけの成分ではないのに﹂
﹁うん、それは分かる。あの川だって同じ水でもないし、削られた
り干上がったりしても、川と認識するな。つまり、経験からくる思
考によって人間は物事を判断しているって事か﹂
﹁理解できるのですね﹂
鶏なのに。
言外にそんなセリフが聞こえてきて、ユウゼンはげんなりした。
それも、認識って奴ですか? 人間より鶏の特徴があるってことで
すか? ハートで判断ですか?
﹁ここからが本題の魔術、ですけれど。人間には意識のほかに、無
意識があると考えられています﹂
﹁無意識⋮⋮何も考えてないってことか?﹂
﹁ユウゼン様得意そうですね!﹂
﹁やかましいわ!﹂
101
モリスが笑顔でつっこんできて、ユウゼンは思わず怒鳴り返した。
全くなんて従者だ。
102
魔術の散歩道︵3︶
シルフィがくすくすと笑い、セクレチアは相変わらず無反応でば
っさりと切り捨てる。
﹁無意識を、何も考えていない、というと必ずしもそういうわけで
はないでしょう。意識と思考が同じとは限らないと思いますね。と
りあえず無意識を言葉のまま、意識が無であるとして下さい﹂
﹁難しいな﹂
﹁そして、その、無意識の中でも睡眠状態とは異なる、一種の催眠
状態に近い無意識を﹃変性意識状態﹄といいます﹂
﹁あ、聞いたことがある。魔術の基礎で、全てを決める部分だって﹂
﹁そうです。これが経験できるかできないかが才能のほとんどとい
っていいでしょう﹂
馬がのんきに草を食んでいて、風が日差しを柔らかくして、水の
気配が涼しげで清涼な空気を運んでくる。シルフィがうつらうつら
している。いつまでもこうしていられるような気がした。
セクレチアの声だけが僅かに空気を震わせていた。
﹁その、変性意識状態に陥ったとき、人は必ず似た経験をすること
になる。例えば臨死体験をしたときのように、精神や肉体が極限ま
で追い込まれた状態、または瞑想や薬物の使用などによって、変性
意識状態はもたらされます。このときの経験というのは、例えば光、
宇宙との一体感、全知全能感、強い至福感、自然や神などです﹂
それは例えば、今このときよりも素晴らしいのだろうか。比較す
るのもおかしいとは思うが。
103
﹁人がこの経験をする場所を、魔術師は”深層“と呼んでいます。
そして、深層は個人のものではなく、人類・生物共通のものだと考
える。つまり、心の奥深くでは、人は皆共通世界をもっているのだ
と仮定しました﹂
﹁生物は無意識の奥底で繋がっている、か⋮⋮﹂
﹁ええ。その深層で誰もが経験するような神秘こそ、真の認識であ
ると、魔術師は言います。魔術とは、変性意識状態によって深層に
達し、そこから”認識“を引き出す技術のことです﹂
﹁はー。すごいことを考えるな﹂
﹁そうですね。叡智または奸智とでもいいましょうか﹂
セクレチアは遺憾なく毒舌を発揮した。今更ながら彼女を従わせ
てしまうシルフィードはすごいと思う。
しかし、そこまで説明を受けて、ユウゼンは今までの自分の知識
と彼女の話との間に、まだ疑問が残ることに気付いた。
﹁魔術が、変性意識状態によって深層から認識を引き出す技術って
のはわかった。けど、最近魔術を扱う国で問題になっている奇獣と
か、異形とか傀儡っていうのも魔術だろう。あれは、生物だけど⋮
⋮﹂
﹁魔術には、自然魔術と変革魔術があります﹂
先ほどまで眠りかけていたシルフィが、ふと女官の話を引き継い
だ。王女は視線を水の流れに向けていたが、もっと遠くを見ている
ような気がした。
﹁まず、自然魔術は、地・炎・空気・水などの現象を操ることを目
的としています﹂
﹁シルフィがさっき行った魔術のこと、ですね?﹂
﹁はい。これは魔術師個人が変性意識状態を構築し、深層へ達して
104
から、そこで目的の認識││例えば炎なら炎を検索、獲得し、通常
意識に戻るときにそれを深層から持ちだし、現実世界に具現化させ
る行為です。とは言ってもこんな過程を逐一再現すれば何時間もか
かるのが普通ですから、大抵はエレメントの力で引き寄せるのです
が。エレメントとは、深層に近い物質だと考えられていますね。い
かに素早く一連の作業を行えるか、認識の規模を決定できるかが自
然魔術師の質を決めます﹂
﹁うーん⋮⋮なかなか、時間がかかりそうな作業だ﹂
無意識を通過しなければいけないぶん、実戦などではひどく不利
ではないか。エレメントも、そうそう安いわけでもないだろう。
ユウゼンが思ったことを口にすると、シルフィードはあっさり首
肯した。
﹁そう、才能がものをいいますし、自在に自然魔術を操ることは非
常に難しいのです。ただ、自然魔術師の中でも、上位の精霊魔術師
というものがいます﹂
﹁知ってる。世界に三人しかいないっていう⋮⋮確か、アポロニウ
ス・ド・ティアナとシモン・マグス、それからマーリン・アンブロ
ジウスだったか﹂
﹁その通りです。精霊魔術師とは、深層で特定の認識に関与して強
大に形成・固定し、その強い認識に人格さえ与えて、その存在と契
約することによって現実世界へ引き出し、深層へ行き来することな
く特定の認識を操れるようになった魔術師のことです。精霊とは、
人格を持った非常に強い認識のことですね﹂
かの精霊魔術師たちは、一夜にして都市を滅ぼせるほどの力を持
つという。タイムラグ無しに強い認識を、例えば炎でも操れるのだ
とすれば、十分現実的な話だ。だが、有名なだけあって、精霊魔術
師など奇跡の産物に近い。きっと考えも及ばない達観している人々
105
なのだろう。
﹁もう一つの変革魔術って言うのは?﹂
﹁神を創るのですよ﹂
シルフィードはそう言って立ち上がり、川辺に向けて小石を放っ
た。それは放物線を描いて遠くに転がったが、水の中には届かない。
まばたきをするともう、それがどれだったのか、わからなくなって
いた。
呆然と呟いてみる。
﹁神⋮⋮﹂
それを、創るのか。在るのではなくて。
﹁それは言い過ぎかもしれませんが。変革魔術は、自然魔術と大き
く異なり、特定の生き物に直接認識を刷り込むことを目的としてい
ます。魔術儀式によって、検体の深層へ入り、生物の認識を操作す
る。そうすることによって、本来ありえない能力や力、知力を得る。
成功すれば画期的ですが、命に関わる危険が大きい魔術です﹂
説明を聞き、ユウゼンはぴんときた。昨今騒がれている魔術研究
所の破壊事件。宗教者との対立で、衝突が起こり、施設が破壊され
て実験生物が逃げ出す。逃げ出した生物たちが辺りに被害を及ぼす。
隣国ティル・ナ・ノーグではそんな不穏な出来事が相次いでいると
いっていた。そういうことだったのか。
﹁変革魔術で認識を強化・付加させた動物を、奇獣といいます。今
問題になっているのは主に奇獣の失敗作たちです。認識が歪んで、
凶暴になってしまったりして⋮⋮彼らを、奇獣の中でも異形といい
ます。実験施設の紛争で野に放たれた異形が人を襲う事件が多いの
106
はこれに由来します﹂
﹁失敗作で、異形⋮⋮﹂
何を求めているのか。求め続けて、その先にあるものとはなんだ
ろう。振り返ったとき、何が残るだろう。
シルフィが煌めく川と笑い声を上げる子どもたちを見つめたまま、
無垢な声で尋ねかけてきた。
そのときどんなことを考えていたのかユウゼンが知るのは、ずっ
と後のことになる。
“あなたは、神を創れると思いますか?”
107
胎動の声 鉄鎖の白刃︵1︶
実際、マゴニア王国のシルフィード殿下がオズ皇国を訪れてから
二週間あまり、衝撃的で慌ただしく、なんやかんや貶されたり騒い
だりつっこんだりあせったり、忙しかったといえばそうなのだが、
それはあくまで平和な慌ただしさだったのだろう。それは問われれ
ば苦笑しつつも、自信を持って頷ける話だったからである。
今の今までは。
今日、戦闘に特化されたような旅衣を身に付け、極めて黒に近い
ダークブラウンのマントで身を覆い隠した彼女は、執務室の扉を開
けて数歩、止める間もなくユウゼンの目の前で膝をついた。
﹁お願いがあります。殿下。東境街道の嘆願の件、私に、任せてく
れないでしょうか﹂
誰だろう、くらいは、かろうじて思う。
繊細で光を湛えたブラウンの髪は無造作に一つに括られ、見惚れ
てしまうシルヴァグリーンの瞳は伏せられて長いまつげの下に埋ま
っている。声も、落ち着いている分ぼやけていた。地に膝をついて
礼をとる姿は無様でも優雅でも印象的でも不自然でもなかった。た
だ、そうしなければいけないから迷わずそうした。そんな風にしか
見えなかった。
自分に?
いや、言葉通り││ユウゼン・パンサラ・オルシヌス・アレクサ
ンドリア殿下に、だ。
﹁なに、してるんです。だめです。だめですよ、それは。立って。
顔を上げて、すぐに﹂
自然、声が硬く、厳しいものになる。距離が開く。午前の政務中、
108
今までその立場で向かい合ったことはなく、それは暗黙のルールで
あると思っていた。
きっとわかってはいるのだろう。
﹁いえ、私は││﹂
﹁シルフィード殿下﹂
﹁承知です。私は、﹂
﹁あなただけの問題じゃないと、言えばいいんですか。マゴニア国
王女。今オズではあなたがマゴニアそのものなのだと﹂
ぎこちなく顔が上げられる。憂いを帯びた森緑の瞳が揺れていた。
この人は強いのに、果てしなく弱い。小さく胸が痛んだ。
ユウゼンは椅子を立ち、目の前まで歩いて、まだ膝をついたまま
のシルフィードに手を差し伸べる。
シルフィードは苦笑して、その手を取らぬまま自ら立ち上がった。
世が世なら、この姫は王になっていたのかもしれない。
﹁同情して下さってもいい。処理できると、約束します。悪い話で
はないはずです﹂
﹁⋮⋮東境街道の嘆願ですか。確かに、耳に入ってますよ。一体ど
うして知っているんですか﹂
﹁マゴニアに近い出来事だからです﹂
あっさりと返答するシルフィ。側に控えるモリスに、聞こえない
振りをしろと視線で命令する。従者は扉の側で微かに黙礼をした。
ユウゼンはあくまで平凡に尋ねる。
﹁そうでしたか?﹂
﹁⋮⋮はい、マゴニアの商人も、危ないところだったそうですから。
どこかの魔術研究所から逃げ出した異形に襲われたと﹂
﹁辺境兵で対処しようと考えていたところです﹂
109
﹁いえ。もともと、異形の問題は魔術を扱う国の責任ですから⋮⋮
今回の事件もおそらく発生源はカムロドゥノンですし、カムロドゥ
ノンの同盟国としては、力にならなければなりません﹂
﹁そうですか?﹂
首をかしげればシルフィードは、否定されるのが分かっていたよ
うに僅かに髪をかきあげた。
﹁確かにマゴニアとカムロドゥノンは同盟国かもしれません。しか
あしはらなかつこく
しわざわざオズに介入してまで義理を果せば侮られないとも限らな
い。今、国王が伏せっていると伺ってますが、東の大国芦原中国も
動いていると聞きます。カムロドゥノンがティル・ナ・ノーグ寄り
の風潮であるとも。俺があなたに頼むことが、どう受け取られるの
か予想もつかない。結果の保証もない。つまりはありえないという
ことです﹂
シルフィは視線を床に落として言葉を探しているようだった。ど
こか地に足が着いていないようで、不安定に。それでも言うしかな
いのだと思うと、ユウゼンも気が滅入った。
﹁それに││俺には、あなたが、あなた自身が異形の討伐に向かい
たいようにみえる。違いますか?﹂
シルフィードは正直に答える。
﹁いえ⋮⋮違いません﹂
なんということを考えているのだろう。一体、どうして。
﹁それこそありえません。異形は恐ろしい存在だと聞いています。
一体、あなたはご自身の事をなんだと思ってるんですか? そんな
ことをして、あなたが傷付いたりしたら俺は﹂
﹁そうですね⋮⋮迂闊でした。決してあなたの評判を落としたかっ
たわけではないのですが⋮⋮﹂
110
﹁は? そうではなくて﹂
﹁何かあった際には全部私の責任になるように││﹂
﹁だから! そういうことじゃなくて⋮⋮!﹂
ユウゼンはあまりの誤解に思わず声を荒げた。言っていることが
違いすぎる。
一体どうしたらそんな風に気持ちを曲げて受け取ってしまうのだ。
ただ、心配しているだけだというのに。
好きな人で、将来一生隣に居たいと思う人のことなのに。その人
に絶対に怪我などさせたくないと思うだけの気持ちが、なぜ理解で
きない?
苛ついて、気付けば高ぶった感情をそのままぶつけていた。
﹁俺は、あなたを危険に晒したくないから言ったんだ。どうしてそ
れを素直に受け取れないんです? それとも俺は、自分のことしか
考えないそれほどひどい人間だと思われてるんですか? 確かに国
は大事で、俺にも十分責任はあるとしても、それでも人間らしくあ
りたいと、そうじゃなかったら人に支えてもらう資格がないと、そ
んなこともわからない世間知らずな無知だと?﹂
111
胎動の声 鉄鎖の白刃︵2︶
真っ直ぐぶつかった視線は、すぐにそらされて、数秒の張り詰め
た沈黙があった。後に、シルフィードは微笑と共に頭を下げた。
﹁⋮⋮ごめんなさい。殿下をそんな風に思っていたわけでは決して
ありません。心配してくださってありがとうございます﹂
忘れてください。失礼します。
囁くようにそう続けて、シルフィードは背を向けた。
扉の側にいたモリスが驚いたように瞬きするのが見えた。
ユウゼンは、暗澹たる気持ちで王女が扉に手をかけるのを見てい
たが、彼女がためらいなく出て行こうとするだろうとは薄々感じて
いた。出来ればそうして欲しくなかった。一体、本気でユウゼンが
怒っていると思ったのだろうか。思ったのかもしれない。
届かなくなる前に、どうにか気持ちを振り絞ってシルフィードに
声をかける。
﹁シルフィ﹂
彼女は手を止めた。しかし背を向けたまま振り向かない。振り向
けない。だからユウゼンは皇子というこの役割が嫌いなのだった。
自分なのに、それが嫌だ。脱力してしまいそうな罪悪感が胸に溜ま
っていく。
少し、くぐもった声が答えた。
﹁はい﹂
﹁どうして、そんなに行きたいんですか﹂
112
ぽたりぽたりとこぼれた透明な雫が床に小さな染みを作っていた。
静かだというのに、心には確かな動揺が滲んだ。
シルフィは振り向かないまま鬱陶しそうに袖を顔に当て、小さく
呟いた。
﹁そう思ってしまうからです﹂
きっと、本人以外には理解できない回答だ。それでもそれは、馬
鹿にしているわけでもなんでもなくて、精一杯の答えなのだろう。
思った。
本当に、自分はこの涙をどうにかすることは、出来ないのだろう
か? そんなことすら出来ないつまらない人間だっただろうか。
ユウゼンは決心して細い背中に近づき、二歩手前で声をかける。
逃げられないように敢えて断言した。
﹁わかりました。任せてもいい﹂
﹁え⋮⋮﹂
やっと振り向いてくれた。もう涙はどこにも残っていなくて、赤
い目元以外は普段と変わらない美貌。気丈というより強情。堅牢と
いうより不憫。ユウゼンは困ったように眉をしかめてみせた。
﹁マゴニアの第一王女じゃなくて、シルフィの頼みなら、俺は、無
条件に受け入れたくなるんです。馬鹿でカカシで鶏だから﹂
自分で認めたよこいつ、というモリスの暖かい視線なんて見えな
い。どうでもいいと思う。好きな人が笑ってくれれば別に。
113
シルフィはまだ信じられないように瞬きをして、唇に指の根元を
押し当てた。微かに頬が紅潮して色づいていた。
﹁いいんですか? 本当、ですよね﹂
﹁気は進まないけど、本当です﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます!﹂
﹁あ、ちょっと待った!﹂
なんたることか、許可が出た途端部屋を飛び出していこうとする
シルフィードを、ユウゼンは慌てて止める。気が早すぎる。だが不
安そうな顔をしたシルフィに押される形で、早口になった。
﹁俺も行く。モリス、身代わりの用意と着替えと馬その他よろしく﹂
﹁はいはい仕方ないですねー﹂
﹁はい?﹂
ぽかんと立ち尽くすシルフィをいい事に、さっさと書類を分けて
モリスに説明をしながら邪魔な上着を脱ぐ。
膳は急げだ。装備はどうなっていただろう。腐ってないかな。
しばらくすると我に返ったらしく、シルフィが慌てて止めに入っ
た。
﹁だ、だめ。だめですよ⋮⋮そんな迷惑なこと! それに危ない。
あなたを危険な目に合わせるわけには﹂
﹁シルフィ、それさっき俺が言ったことと同じ﹂
﹁いえ、同じじゃない。だって私は私の都合だ。私のわがままのせ
いでどうしてあなたが││﹂
﹁これも俺のわがままですって﹂
ここで、﹁あなたが好きだから心配で行かないわけにはいかない
114
んだ﹂と、言えたらよいのだろうが⋮⋮そこはハートの問題なので。
なおかつ食い下がろうとするシルフィに、卑怯かもしれないが最
終手段を使う。
﹁同行が認められないなら、この話はなかったことにしますよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思った通りぎゅっと眉をしかめたシルフィだが、予想以上に冷静
で生真面目だった。
﹁それは⋮⋮仕方ありません⋮⋮私情で命を掛けるわけにはいきま
せんから﹂
ああ。そんなことを言っていたら何も出来ない。それはユウゼン
の勝手な持論であるかもしれないが。
﹁今更。俺の放浪癖知らないわけじゃないでしょう﹂
﹁だから、それとこれとは⋮⋮﹂
﹁違っても。シルフィが行きたくて、俺も行きたい。問題ないって﹂
﹁ありますよ! そう言うなら私はもう行きたくない。だから止め
てください﹂
﹁いーや、もう決めた。行く。一人でも行く。政務したくない﹂
﹁なんですかその屁理屈は﹂
これはモリスの笑顔のつっこみである。シルフィは口元を引きつ
らせて、
﹁本気ですか⋮⋮?﹂
﹁もちろん。さあ、行きましょう﹂
﹁ちょ、ちょっと⋮⋮! だめ! 通しませんよ!﹂
115
当初と逆、わけのわからない展開になってきた。
シルフィはよほどあせったのか、腰の護身剣を鞘ごと抜いて握り
締めている。あの、それ抜き身じゃなくても殴られれば骨とか折れ
そうなんですけど⋮⋮。
116
胎動の声 鉄鎖の白刃︵3︶
モリスが何の真似か、愉快そうにシルフィを応援した。
﹁シルフィード様、殴り倒して東境街道に行っていただいていいで
すよ﹂
﹁なんでお前が決めるんだコラ!﹂
﹁いやあだって、いつも振り回される人々の気持ちを理解した方が
いいと﹂
﹁いいじゃんちょっとくらい! ぎりぎり義務果たしてるじゃん!﹂
﹁義務を果すのは当たり前のことですけど﹂
正論ばっかり言いやがってなんてうざい従者だ。ともかくここで
ぐちゃぐちゃ言っていても仕方がない。モリスはいいのだ、どうで
も。シルフィードは困惑顔で扉を塞いでいる。ユウゼンは彼女の望
みを叶えたいし、危険から守ってもやりたい。
彼女を納得させるにはどうすればいいのだろう。
﹁あー、じゃあ、わかりました、殴り倒していいですよ。それが出
来たら俺は同行しない。シルフィも行っていい﹂
ユウゼンが宣言すると、モリスもシルフィードも顔を引きつらせ
た。思いっきり違った理由で。
﹁ドM⋮⋮?﹂
﹁違うわ!﹂
ユウゼンはまず軽蔑の視線を向けたモリスの頭を殴った。
モリスは心底痛そうに頭をさすりながら呟いた。
﹁ドS⋮⋮﹂
117
﹁どっちだよ⋮⋮﹂
ていうかどっちも嫌だから。違うから。あえて言えばN。ノーマ
ルということで。
そして改めてシルフィードに視線で問うが、彼女は一般よりずっ
と遠慮深いのだった。
﹁い、いえ、そんな、殴り倒すだなんて⋮⋮﹂
﹁出来ないならそこ通してください﹂
﹁え、で、も⋮⋮それは⋮⋮﹂
﹁人間思い切りやわがままや素直さや迷惑かけることとか、時には
大事だと思いますよ﹂
﹁それは、私には⋮⋮﹂
言葉が途切れる。ユウゼンが行動を起こしたからだ。
短い距離を詰めて、護身剣を取り上げようと手を伸ばす。鞘に手
が触れる││寸前に、シルフィードは手を引きユウゼンにも自分に
も手が届かない場所にそれを放り投げた。距離感の問題だろう。
ユウゼンは思考の間を与えず、扉を抜けようとした。
シルフィが阻止しようと反射的に蹴りを繰り出してきた。見事に
股間狙いで、迷いがなく、つまり絶対にくらいたくなかった。冷や
汗と共に後退する。シルフィは小さくステップを踏んで一旦体制を
建て直し、低い位置から踏み出して至近距離に飛び込んできた。あ
ごを狙った右手からの掌底。寸でかわす。続けて流れるように身体
を半回転させてのバックエルボー。避けるために動かした顔の横を
掠める。
いや、やばい。本当に。マジで遠慮はどこへ行った。ていうかシ
ルフィ、訓練成果と才能が見事に発揮されていて、本気で殴り倒さ
118
れそうな⋮⋮。
モリスが目を輝かせて明らかにシルフィを応援していて、てめえ
覚えてろよと言いたかった。いや、自業自得っちゃそうなんだけれ
ども⋮⋮。
仕方ない。
ユウゼンは決心し、ローキックを後退して避けながら、執務机の
上に手を伸ばした。そしてそこに先ほど脱いであった自分の上着を
つかんで、シルフィに向かって投げかぶせた。
﹁あっ⋮⋮﹂
作戦勝ちだ。卑怯だろうがなんだろうが。唐突に視界を奪われて
ふらついた少女を、それごと抱きしめて受け止めた。
しなやかで細い身体は強張って瞬間的にもがき、一度ユウゼンの
足の甲を踏みつけた。けれどすぐに力を無くした。ユウゼンは布越
しに、ゆっくりと、慎重にシルフィードの髪を撫でた。
体温と小さな震えを通して、伝わってきた。
動揺と、混乱と、悲嘆や、苦痛、諦観。
それはすぐに類稀な美貌と笑顔が覆い隠してしまう。それらは不
思議なくらいに交じり合って、シルフィの存在を隠して、薄める。
そのときシルフィは安堵して、遠くに目をやる。ほんの少しだけ、
何かに期待するように。ユウゼンはそれほど心動かされる表情を知
らなくて、気付けば頭から離れなくなっていた。
﹁ごめん。ごめん。ごめん⋮⋮違うんだ。ただ、心配なんです。だ
めですか⋮⋮そばにいるのは﹂
いつも、消えてしまいそうで、これくらい側にいなければ、確か
めていられないような気がする。知りたいし、力になりたい。もっ
と受け入れて欲しい。頼ってくれたら、いくらでも頑張れる。
119
シルフィは身を預けたまま、くぐもった声で喋った。
﹁すみません⋮⋮、⋮⋮よくわからないんです。私は何も考えてい
ないから。人の気持ちもわからない。軽蔑されたくなかっただけな
んです。ごめんなさい。一緒に来てくださいますか﹂
ああ、また。また、この人は、どうしようもなく困って何ものも
溜め込んでしまう。
説得できる言葉を知らなくて、ユウゼンは悲しさを腕に込めて声
を飲み込んだ。
シルフィードは知ってか知らずか抱擁を解かせると、何事もなか
ったかのように平然と歩き、護身剣を腰に戻した。
振り返って鷹揚に笑う。
﹁行きますよ﹂
﹁え、ああ⋮⋮﹂
扉が開かれて、シルフィードが部屋を出て行った。
潔すぎる変わり身に、ぽかんとしていたユウゼンだったが、モリ
スに声を掛けられて我に返る。
﹁難儀ですねえ。大丈夫ですか?﹂
しかしなんのことだかさっぱりわからない。あまり、聞きたくな
い気もする。
﹁何が﹂
﹁だって、相当歪んでるじゃないですか、シルフィード殿下って﹂
﹁はあ!? お前なんてこと言って││﹂
﹁完璧主義の強迫観念みたいな感じと、自己犠牲が合わさって感情
が安定してないように見えます。そんな方でも、本当にお好きなん
120
ですか?﹂
何か、ひどく冷たい響きがあったように思え、ユウゼンは眉を寄
せ、モリスを睨んでいた。
﹁モリス、人をそういう目で見るのは止めろ。それは一番大事なこ
とじゃないだろう﹂
珍しく本気で叱責すると、モリスは曖昧にはぐらかした。
﹁そうかもしれません。そうじゃないかもしれません﹂
時々、何を考えているのかわからなくなる男だ。今は取り合って
いられない。
ため息と共にユウゼンは適当に手を振って出て行こうとする。
﹁俺のわがままに怒ってるんなら、後で埋め合わせはするから⋮⋮﹂
﹁ユウゼン様。好きなら好きと、言わなきゃ伝わらないですよ?﹂
﹁││││﹂
仕返しなのだろうか。そうは思っても、耳に痛い言葉で送り出し
たモリスに、ユウゼンは何も言い返すことは出来ないのだった。
121
胎動の声 鉄鎖の白刃︵4︶
適当に装備を身に付け、質素な旅人に扮したユウゼンが馬を連れ
てアカシア宮を出ると、どこからかシルフィードの武官ヘリエルが
現れて、仕草で道案内をした。そういえばユウゼンは彼が声を発す
るところを見たことがない。理由がありそうだがいつも聞くタイミ
ングが掴めない。
﹁お待たせしました﹂
シルフィードは先ほどの地味な格好のままで、いくらかの荷物を
持ち、背に弓を背負っていた。他には月毛と青鹿毛の馬が一頭ずつ
大人しく控えているだけだ。シルフィはユウゼンの声に振り返って
何度か瞬きをし、硬くもなく柔らかくもない表情で、頷いた。
﹁出来るだけ急ぎます。不都合があれば、言ってください﹂
シルフィは月毛の馬上に跨り、ヘリエルは青鹿毛の馬に乗った。
ユウゼンが準備を整えたと同時に、短い気合と共にシルフィードが
勢いよく馬を疾駆させた。
﹁シルフィ││﹂
躍動感。
心音。
急ぎます、という言葉通りといえばそうなのだが、本当に速かっ
た。まぎれもない全力疾走で、整えられた景色が流れ、あっという
間にアカシア宮が遠ざかる。身体を伝う揺れを感じながら、ユウゼ
ンは正直ついていくだけでやっとだった。
122
荒々しい風のようだった。
優雅だとか美しいだとか、そういう表情を一切無視して、ただ速
く駆けるためだけの馬術。この間散歩に誘ったとき王女がマナーを
知らない、と言っていた理由がようやく分かった。彼女は娯楽で馬
に乗ることがないのだろう。そんな風に考えたことがなかったから、
あの時は少しもわからなかった。そういえばシルフィはダンスも不
慣れで、あまり文化に詳しくないし、礼儀作法もどこかぎこちない
感じがある。以前からの定説で﹁病弱﹂だというのは今のように方
便なのだと思う。そういう事柄達は、一体何を示しているというの
か。
どうにか馬を制御しながら、引き離されないように必死で細い背
中を追った。土を抉る音や息遣いや風圧が身体を満たしていた。大
体の地理は分かるが、あまり人通りのない道を駆け抜け、一路東へ
││││
そうしてどれくらい時が過ぎただろう。出立したときはほぼ真上
にあった太陽も、もう盛りを過ぎて空の色を変え始めていた。さす
がにユウゼンの騎乗する馬が遅れがちになり、シルフィードに声を
掛ける。いくら質がいいといっても限界だ。
﹁すみません! 休憩を取るか、出来れば近くの駅に寄りたい。今
日中に辿りつけても夜になってしまいます﹂
シルフィードは馬を止めて振り返り、少し眉を顰めた。斜陽が彼
女の半身を照らし、ブラウンの髪に影のある煌めきを与えていた。
﹁そう⋮⋮ですね。でも⋮⋮いえ、あと一時間ほど行けば宿場町が
あったように思いますが﹂
﹁ええ。そこで構わなければそうしたい﹂
123
﹁⋮⋮分かりました。大丈夫です。私が││いや、ヘル、先に行っ
て用意を頼む﹂
シルフィはヘリエルに短く命じた。忠実な金髪の武官は頭を下げ、
再び馬を駆けさせてあっという間に見えなくなってしまう。シルフ
ィと二人になったユウゼンは、急にその事実が意識されて、意味も
なく手綱を強く握り締めていた。
﹁よかったら、ルカ⋮⋮私の馬に乗り換えますか?﹂
シルフィはヘリエルの行ってしまった方向から視線を引き剥がす
ようにして、声を掛けてきた。平生を保っていたが、どこか心細そ
うな響きがわずかに混じっていた。
ユウゼンは気付かない振りを心がけ、いつものように笑って見せ
た。
﹁いや、大丈夫。その馬、ルカって言うんですか。素晴らしい馬で
すね。まだ疲れていないようにみえます﹂
二人で馬から下りて、手綱を引きながら土の固められた道を東へ
辿る。
シルフィはぎこちなく口元を笑みの形にした。
﹁シモン・マグス殿をご存知ですか⋮⋮炎の認識を得意とする、精
霊魔術師ですが﹂
もう、急ぐように、夜に追い立てられるように、時折旅人や商人
たちが通り過ぎていく。足元のわだちの跡を見ながら夕暮れに紛れ
てしまいそうな王女の声に耳を傾けていた。精霊魔術師とは世界に
三人しかいない魔術師の最高峰だ。
﹁二度、拝見しました。一度目は、私が王宮の紛争を避けて母の生
124
家テンペスタリの領地にいたときのことです。かのお方は貧しい旅
人の格好をしておられ、夜中に屋敷を訪ねてきました。名乗ること
もしなかったので、私はまさかあのシモン・マグスだとはわかりま
せんでしたけれど⋮⋮馬を、二頭ほど無担保無期限で貸してくれと
頼んできたのですよ﹂
﹁それはまた、変わった人だ﹂
普通は追い返しそうな内容である。
﹁ええ。ですが、流石に精霊魔術師だけあり、どこか超越した深い
人柄で⋮⋮信用したくなりました。それに我がテンペスタリ家の家
訓は“人ありて己あり”。幸い馬は何頭かいましたので、役立ちそ
うなものを二頭提供しました﹂
あっさりと言うが、なかなか信じられない懐の深さだ。人ありて
己ありとは、他人が存在してこそ自分が存在できる、というような
意味だとすると、どこかの救世主のような家訓ではないか。
シルフィは止めることなくつらつらと続けた。
﹁それから何年か経ち、そのことは忘れていたのですが、私が王宮
に復帰した年の誕生日に⋮⋮シモン・マグス殿が私に会いに来られ
ました。驚きましたね。祝いの言葉とお礼と、あの時貸した二頭の
馬を返しに来て。それが今ここにいるルカと、ヘリエルの乗る青鹿
毛のリオです。本当に、どれだけ助けられたかわからない﹂
シルフィは、愛おしげに月毛の馬の腹を撫でた。ルカは心地良さ
そうに耳を動かしていた。
﹁奇獣なんです﹂
ユウゼンは、シルフィードが発した、聞いたことはあるが聞きな
れない単語の意味を、しばらく頭の中で探っていた。奇獣。確か、
魔術の。魔術の中でも自然魔術ではなく変革魔術の。変革魔術とは、
125
特定の生き物に直接認識を刷り込む魔術で、魔術儀式によって検体
の深層へ入り、生物の認識を操作する。そうすることによって、本
来ありえない能力や力を持つ生物を作り出す。そうだ。奇獣とは、
変革魔術で認識を強化・付加させた動物のことだった。
﹁そうなのか⋮⋮! こうして見ても全然気付かないのに││確か
にどんな馬より優秀だ。⋮⋮でも、シモン・マグスは変革魔術を?﹂
﹁そうですね⋮⋮詳しくはないのですが、精霊を作り出すという過
程は、自然魔術はもちろん変革魔術にも精通していなければいけな
いのだと思います﹂
﹁なるほど⋮⋮精霊。人格を持つ特定の強い認識、か⋮⋮それにし
ても﹂
奇獣。
これから掃討に向かうのは、その奇獣の失敗作である、異形と呼
ばれる生物たち。急に実感が沸き、肌が泡立った。
﹁星が、見えてきました。少し急ぎましょうか﹂
遠くの空を見て、曖昧な声でシルフィードが呟いた。
126
胎動の声 鉄鎖の白刃︵5︶
宿場町は旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、その宿泊、通
行、荷物輸送などで利益をあげていた。ユウゼンとシルフィードが
辿り着いた時にはすでにあたりの日は落ちて、通りにはいくつもの
灯が誘うように闇を照らしていた。大都市ヘテロクロミヤ・アイデ
ィスと他国を繋ぐ主要街道だけのことはある。町は活気に溢れ、商
人、食べ物の匂い、一夜の宿を求める人々、いかがわしい引き込み
など様々な要素が交じり合って、まるでそれは一つの流れのように
蠢いていた。
用心深くフードを目深に被ったシルフィードはすぐにヘリエルの
姿を見つけ出して、手を振った。
﹁首尾は?﹂
すらりと体格のよい金髪の武官は人波をすり抜けながら頷き、持
っていたランタンを持ち直して、何か手話のような仕草をする。シ
ルフィードは頷いて、ユウゼンを振り返った。
﹁あまり、寝心地はよくないかもしれませんが⋮⋮よろしいですか
?﹂
﹁うん。俺寝るのは得意だから﹂
真顔で大仰に肯定してみせると、やっとシルフィは少し頬を緩め
て笑ってくれた。
そしてヘリエルに続いて歩き、少々うらぶれた雰囲気のあるごく
普通の宿泊施設に辿り着く。ヘリエルは馬を厩に預けるのもそこそ
こに、シルフィードを人目に触れさせないように二階の部屋へ案内
127
した。八歩程度で奥まで行き着く広さで、ほとんど四つのベッドが
あるだけの部屋だった。
﹁お先に少し、休みますね﹂
そう断って、食事もしないまま、外套を脱いだシルフィードは右
端のベッドに横たわった。ユウゼンが何か声を掛ける暇もないよう
な早いタイミング。疲れているような表情は見せないのに、本当は
随分無理をしているのかもしれない。
ため息が出そうになり、しかし同時にヘリエルに何か合図をされ
て、ユウゼンは数秒その意味を考えていた。お腹に手を当てたり、
何かを飲む真似、階下を指差し、首を傾げられる。
﹁ああ、食事?﹂
金髪の武官はこくりと頷いた。意思が通じると、どことない達成
感があった。
ユウゼンは空腹だと肯定して、ヘリエルの案内で一階へ降りる。
一階はそこそこに賑わう食堂で、二人で並んで栄養のありそうな肉
料理を食べた。雰囲気と疲れが相俟って、ずいぶんとうまかった。
﹁ヘリエルは、喋れないのか?﹂
その間に、ユウゼンは今更なことだが、その問いをぶつけてみた。
武官は少し考えるような仕草をして、ゆっくりと首を横に振った。
喉に微かに右手で触れた。
いいえ、声が音にならなくなったのです。
周囲のざわめきに混じって、ほとんど聞こえない無声音で、ヘリ
エルははじめてユウゼンに向けて喋った。
﹁⋮⋮ずっと?﹂
いえ、兵になってからです。
128
﹁そっか││シルフィとは、いつから一緒に?﹂
それからそんなに経たない頃です。
﹁知ってたのか﹂
殿下が、声を掛けてくれました。
﹁シルフィが﹂
幸運でした。幸福です。出会うために、無くしたのだと思います。
少しずつ、動作を加えながらユウゼンはヘリエルと話をした。思
慮深く忠実で思いやりがある。静かだ。安心できる。少し感動しな
がら、ユウゼンはヘリエルの声を聞いていた。気付けば酒を勧め、
自分も口をつけている。その内にヘリエルは言った。柔らかい微笑
で、それなのにほんの少しだけ苦しそうな、何かを堪えるような表
情だった。
││シルフィード様を、よろしくお願いします。あなたなら、き
っと大丈夫です。
押されるように頷くと共に、ユウゼンは確かに動揺もしていた。
もしかして。そうなのか。いや、そうって、よく分からないのだが。
なぜヘリエルはそんなことを言うのだろう。いや、今まで散々デー
トであるとか、誘っているわけだし、おかしくはないけれど。それ
にどうして自分は動揺してしまうのか。いやいや、そんなのは、そ
れは││
﹁うん! そろそろ戻ろうか!﹂
これ以上というより以下がないようなわざとらしい台詞でぶった
切ってユウゼンは席を立った。後ろめたい。そういう種類の感情が
後を引く。
ヘリエルは何も言わず、シルフィードのために食事を用意して、
129
二人で二階に上がった。シルフィは寝息も立てず、まるでそこには
いないようだったが、ヘリエルが近づくと身を起こして小さく礼を
言った。
それから、後は寝るだけで、明日にはいよいよ異形を排除しなけ
ればいけないのだからと早めに目を閉じた。眠気はすぐに襲ってき
て、沈むような暗闇の中で、遠い微かな音を耳にしたような気がし
た。例えば、足音。扉を開けて、外へと出て行く、ような、そんな
││││
﹁⋮⋮?﹂
いや、そのままだ。
はっとして、ユウゼンは身を起こした。月の位置からすれば、深
夜を過ぎたところだった。自分が眠りに落ちてから数時間は経過し
ていた。
物音を立てないように辺りを窺うと、隣のベッドにヘリエル寝て
いるのはわかった。だが、正面にはシルフィードの影がない。先ほ
ど出て行ったのだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
考えようとしたけれど、先に身体が動いて部屋を出ていた。
心配、だった。
今日、執務室に現れて以来ずっと、シルフィは落ち込んでいるよ
うな、無理をしている様子だった。どうしてあのとき、シルフィは
泣いたのだろう。辛くて悲しいことが、どこにあるのだろう。
﹁いつまでこちらにおられるのです。もう帰還なさればよろしいの
に﹂
宿を出てすぐ、足が止まった。人通りも少なくなった大通りの影
で、二つの人影が向き合っていた。フードをかぶったシルフィと、
130
知らない男だった。
シルフィの表情は、月明かりを受けて青白く、強張っていた。話
し声は続いた。
﹁意味がないと言っておきます。トロヤン様も、ルサールカ様も心
配しておりますよ﹂
﹁心配⋮⋮なんて⋮⋮﹂
﹁そうですね。余計なことをしないかどうかの、心配でしょうねえ﹂
﹁⋮⋮私は、⋮⋮出来ることを、ただ﹂
﹁あなたの役割じゃないのですよ﹂
﹁どうして、そんな風に⋮⋮あなたは葦原に、国を奪われたいと、
そう⋮⋮﹂
﹁予想です。何もかも、どうなるかなどわかりませんよ﹂
﹁可能性を無視すると⋮⋮? レリウスも、そんな考えは﹂
﹁まだ王ではないのですから。判断を誤ることもあります﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あなたの役割じゃないのですよ﹂
﹁││││﹂
﹁忠告はしましたよ。痛い目を見ないうちにご帰還下さい。まあ、
もう手遅れかもしれませんが﹂
シルフィードが唇を噛み締めて何か言おうとして、それは言葉に
ならず、男は哀れむような冷たい一瞥を残して闇に消えた。
少女はそれを目で追うこともなく、数秒呆然と立ち尽くして、や
がてすぐ側にあった厩の隅まで歩いた。馬に、おそらくルカに手を
伸ばそうとして、止めた。糸が切れたようにその場に座り込んで、
どこか、遠くを見るような目を夜に向けていた。
わからなかった。どういうことなのか、とか。もどかしく、後ろ
めたくて、痛みを覚えた。
131
動きたくないと、重い、重すぎる足を、自分の物じゃないように
感じながら、馬鹿だと自嘲した。この足は自分のものだ。動きたく
ないだとか、きっと本心なのだから。そんなことで、シルフィのと
ころまで行って、一体どうしようと。偽善だとか同情だとか、自己
満足の類だ。
でも、それでも無視するなんて出来なくて、怯える心臓のまま震
えを押し止めて彼女の元へ歩いた。
﹁⋮⋮、ユウ⋮⋮?﹂
ああ。
久しぶりに、そう呼ばれて、何かが胸の中で暖かく溶けた。
ただ、名前を呼ばれるということだけで嬉しかった。そういう人
を失いたくなかった。
ユウゼンはシルフィードの手を取って、立ち上がらせて、何も言
わずに少し歩いた。屋台がいくつか並んでいて、その内の一つでス
ープを買った。
﹁どうぞ。あの、きっと、落ち着くと思います﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
ためらって、でもシルフィは受け取った。二人で道の端に腰掛け
て、少しの間そうしていた。シルフィは食べながら、細い声で何か
を言いかけた。
ユウ。わたしを、
そして結局言わなかった。本当にありがとう、と言葉をすりかえ
た。目が合うと、シルフィは頬を緩ませた。
﹁笑いたくなかったら、笑わなくていいから﹂
132
笑うとかそんなこと、一々考えるわけがない。困らせたいわけじ
ゃなかったけれど口から滑り出た言葉に、シルフィはそうだねと、
小さく笑った。
133
一女官の退屈な日々...The
first
part
あの、美しくて可愛らしくて優しくて聡明で思いやりがあって勇
敢で少し抜けたところもあるけれどそれも含めて素晴らしい、シル
フィード様がいない日々は退屈だ。
セクレチアは主人のいない部屋で王女の身代わりをしながら、退
屈まぎれに手巻き煙草を作っていた。紙を均一に広げ、煙草の葉と
その他必要なもの混ぜた中身をその上に乗せる。偏らないよう量を
調節し、両手を使って中身をまとめるように巻き込んでいく。指の
腹で丸めていき、最後に糊を使って閉じる。
巻き立てを火鉢の火に押しつけて、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
体内にそれが入ると一瞬意識が曖昧になり、身体が少し軽くなるよ
うな恍惚感があった。一瞬だ。本当に、一秒か二秒か。そんなもの
はすぐに消える。
セクレチアはしばらくベッドに腰掛けたまま眉間にしわを寄せて
虚空を睨み、色々なことを考えていた。例えばシルフィードの安否
やシルフィードの健康状態やシルフィードの精神状態やシルフィー
ドのおかれている状況やシルフィードの不安、喜び、悲しみ、楽し
み、諸々。
大体、なんなのだろう。考えることしか出来ない事がもどかしく
て倦怠感が募る。影という役割と理解していても、こういうときに
そばにいられないというのは。
セクレチアは、共に仕えるヘリエルが部分的に優秀なのは認めて
いる。だが、ヘリエルは腐れた果実のように甘い。何に甘いかとい
うと、シルフィードの素晴らしさに惑わされて近づいてくる塵芥に
134
等しい畜生共に対して。セクレチアはなんだこいつと思う前にとり
あえず死ねばいいと思っている。シルフィードに馴れ馴れしくする
ゴキブリとか言い寄ってくる豚共とか調子に乗る勘違い鶏とかシル
フィードに近寄った時点で重罪だし処刑決定だし所詮人間以下だ。
全く問題ない。
だが、塵芥でも心優しい王女が胸を痛めてしまうので、とりあえ
ず見えないところで制裁を行って時期をみてそれなりの天罰を下す
ことが望ましいのでそうするつもりではある。
﹁はァ⋮⋮﹂
鶏。
不本意にも思い出してしまい、吸いかけの煙草を思わず握りつぶ
していた。オズ第一皇子だかなんだか知らないが、初対面から最悪
で、シルフィードの事情による超絶に仕方のないプロポーズを受け
ただけでも斬首決定なのに、さらに馴れ馴れしくしてもう言葉にで
きない。あり得ない。存在自体許せない。とまではいかないかもし
れないが。
またため息が漏れた。
とまではいかないかもしれない?
そんなの。どうかしている。
珍しく、存在くらいは許してやってもいいと思っている。
だって、シルフィードにとって、マイナスじゃないかもしれない。
でもそれ以上はだめだから。
たとえ、どんな聖人でもだめだろうから。
﹃初めまして、セクレチア││綺麗な名前ですね。セレアと、呼ん
でもいいですか?﹄
135
││どうぞご自由に。
﹃ありがとう。そしてごめんなさい﹄
││何を謝っているんですか。
﹃だって、きっとあなたは私が嫌いだろうから﹄
││⋮⋮くだらないことですね。
﹃そうかもしれません。でも、本当に、ごめんなさい﹄
││馬鹿でしょう。反吐が出ます。
﹃そうだね。ごめんね。でも、私はあなたが嫌いじゃない。セレア、
どうかあなたに幸運が授かりますように﹄
私は、あなたが嫌いで、確かにそれは正しかったが、すべてにお
いて俯瞰的に見て完全に真実を現しているといえばそうではなく、
嫌いだった、嫌いで嫌いで嫌いで憎くて吐き気がして殺して壊して
ぐちゃぐちゃにして跡形もないくらいに潰して足蹴にして笑ってや
りたかったのは全て、全て何もかも他人も、そして自分も、人間全
てが嫌いで、その中にあなたが含まれていただけだ。
どうして?
セクレチアは上級のドレスから女官の仕事着に着替えると、オズ
の侍女たちに断って部屋を出る。彼女等はオズの人間だが、シルフ
ィードの素晴らしさに触れて、随分と協力してくれている。この環
境は、マゴニアにいた頃よりマシだとさえ言える。
表向きは体調不良ということになっているシルフィードのために、
用意された食事や薬などを取りにいかなければならなかった。
厨房へ行き、盆に適当な分用意して、セクレチアはアカシア宮の
洗練された廊下を戻る。途中でやけにごてごてと装飾をあしらった
白ドレスの女と出会った。
136
﹁あら﹂
黒髪を結ってやはり派手な髪飾りをしている貴族、確か南の海沿
いにある都市キャメロパラダリスの何番目かの子女だったか。三人
の侍女を引き連れ、扇で口元を覆う仕草は不自然ではないが、別に
優雅だとか目を引くだとかそんなことは全然なく、むしろどうでも
いいというより通行の邪魔だった。ああ、シルフィード様の美しさ
が恋しい。
セクレチアはそんな思考をおくびにも出さず、尚且つ完全無視で
歩調を緩めずその一行を通り過ぎようとしていた。にも関わらず、
相手は邪魔してくれた。
﹁あなた、あの小国マゴニアの、病弱なお嬢さんについてる方かし
ら﹂
セクレチアは足を止め、ちょっと考える。
例えばこれは、シルフィードに対する嫉妬。優しく美しいマゴニ
アの第一王女がもてはやされているから。面白くないと。または弱
小のマゴニアごときが調子に乗るな││目下のものを蔑む視点、差
別の種類なのだろうか。どうにしろそう外れてはいないだろう。
内容についてはお嬢さん、という部分以外はただの事実というこ
とになっているからどうでもよかった。だが一介の貴族のそれも小
娘が、シルフィードに対して﹁お嬢さん﹂とは許容範囲外だった。
首を傾げた。
﹁どなたでしたっけ?﹂
﹁!﹂
137
とりあえずこっちはあなたのことは塵ほども知らないということ
をアピールしてみる。案の定令嬢の顔が引きつった。使用人如きに
反抗的な態度を取られるとは思わなかったらしい。仕方のないこと
だ。
どうも蔑まれたくない性分で。
蔑むことなら得意で。
﹁世間知らずも甚だしい⋮⋮これだから辺境の人間は﹂
﹁いえいえ、あなた様ほどでは﹂
﹁なっ、何をわけの分からない謙遜してるの!﹂
﹁謙遜じゃなくて皮肉ですけど﹂
﹁皮肉!? どうして私が女官ごときに皮肉ですって?﹂
﹁皮肉を言いたくなるようなことを仰るからつい﹂
顔を赤くして必死に言い返してくる女性が、セクレチアは多少か
わいそうになってきた。自分の同情心の深さに驚くばかりだ。
﹁わ、わたくしが何を言ったって言うの!﹂
﹁そうですね、例えば常識ある方でしたら、シルフィード様の事を
間違ってもお嬢さんなどとは言いませんね。わかりますでしょう、
キャメロパラダリスのお嬢様﹂
﹁っ、最初から知ってて⋮⋮!﹂
﹁物知りですから﹂
ちょっと、目以外で笑ってみた。令嬢の顔が面白いくらい引きつ
って、少しだけ色んな感情が胸中に混ざるのを感じていた。
││そんな顔が出来るなんて、
うらやましい。
﹁失礼な!﹂
138
一瞬自分の思考に気を取られていた。だから、侍女の一人が近づ
きざまに自分を突き飛ばすのを。避けられなかった。
﹁きゃっ⋮⋮!﹂
﹁││││﹂
令嬢が悲鳴を上げた。食器が自分の方に倒れ掛かってきて、身体
の前面で受け止めるような形になり、盆がカーペットで鈍い音をた
てる。スープの熱が腹部に焼きついて、頭の中に一瞬近しい感覚が
よみがえった。それを押さえ込み、セクレチアはとりあえず立ち上
がった。食材が零れ落ち、ぽたぽたと液体が垂れて床を汚した。
﹁いいざまだわ﹂
﹁お似合いよ﹂
﹁早く綺麗になさいよ﹂
くすくすきゃらきゃらと悪意ある柔らかな笑い声が重なる。
ああ。
いい度胸だ。
セクレチアは改めてその場に跪き、取り巻きはスルーして、ちょ
いちょいと人差し指で令嬢を呼んだ。
﹁ちょっとよろしいですか?﹂
﹁? 何ですか、無様な⋮⋮﹂
﹁もうちょっと近くに⋮⋮﹂
﹁一体何様のつもり││﹂
﹁はい、で、そのまましゃがんでくだされば﹂
﹁え? え!? ちょっ!!﹂
139
セクレチアは指示に従って自分の側にしゃがみこんだ彼女の白ド
レスの裾で、床を拭いた。
悲鳴と、﹁リラ様!﹂という驚愕の叫び声が上がった。いや、な
かなか質のいい雑巾だ。
﹁なななんてことをっ、ふ、ふざけるのもっ、たいがいにっ﹂
﹁あー、動かないで下さい片付けにくいですから﹂
セクレチアは騒ぎ、慌てて退こうとするリラに先立って、落ちて
いたフォークを拾って彼女の眼前で力を込めて振り下ろした。
﹁きゃあ!!﹂
がすっと、フォークはリラのドレスの裾を床に縫いとめる。なか
なか質のいいフォークだ。
セクレチアは侍女に向けてにっこりと微笑んだ。
﹁あなたがやったことですよ。早く片付けなさい。代わりの食事を
持ってきなさい。責任を取りなさい。さもないとあなたの主人はも
っと悲惨な目に合いますから。私は容赦しないですから。絶対に許
しませんから。手段も手間も惜しみませんから。そういうの得意な
んです﹂
言葉だけでなくすでに行動も伴っているので、侍女たちの理解は
早く、急激に青ざめた顔で食事を取りに走る一人と、床を片付け始
める二人。まあ当然だ。リラが甲高い声で騒ぎ立てた。単純でどう
にも可愛らしい。一年くらい教育してやりたいくらいだ。
﹁こんなことをして、絶対に許さないわよ! シルフィードにも思
い知らせてやるっ!﹂
﹁それは困りましたね⋮⋮あ、でもその前に私が二度とそんな気も
起きないくらい思い知らせておけばいいんですよね。なるほど万事
140
解決無問題。分かりました、楽しみにしといて下さい。そういうの
得意なので﹂
﹁⋮⋮そっ、そんな、脅しで⋮⋮﹂
﹁あ、向こうからカラシウス殿下が﹂
﹁えええっ!﹂
大嘘である。
だが効果抜群で、リラは盛大な悲鳴を上げると一人で全力疾走し
ながら廊下の向こうへ消えていった。お見事。むしろドレスが汚れ
ているより恥ずかしい行動だった。
141
一女官の退屈な日々...The
latter
part
とまあ、そんなこともあり、やれやれとセクレチアはシルフィー
ドの客室まで戻った。本当につまらない一日だ。部屋つきの侍女た
ちには﹁どうしたの?﹂と驚かれたが、適当に誤魔化して、この際
丁度いいからシルフィードの身代わりのドレスを身に付けた。髪を
結いなおす。姿見に自分の姿を映せば、見慣れぬ女が自分を見てい
た。シルフィードになりきれない、絶対になれない女。見苦しい││
﹁なかなか似合っていると思いますよ。身代わりにしては﹂
﹁!﹂
誰もいないはずの部屋で男の声が聞こえて、セクレチアは戦慄す
ると同時に身を伏せて身体を探った。煙草。一本指に触れる。飛び
道具が顔のすぐ横を掠めて壁に当たった。
刺客か。
油断した。
﹁シルフィード様を殺しに来たの? だったら残念⋮⋮﹂
﹁いや、そうじゃないよ。まだね。ただ、そろそろ警告をしなけれ
ばいけない﹂
刺客の姿を捉えた。黒服の男だった。随分と余裕だ。そうじゃな
ければとっくにどうかなっていたかもしれない。セクレチアを殺す
気がないのか。
会話を引き伸ばす。
﹁警告?﹂
﹁そう。警告。シルフィード殿下を傷つけたり、彼女が信頼してい
る部下を殺したりすることだよ﹂
142
﹁愚かな││﹂
言葉が続かなかった。そんな暇がなかった。与えてくれなかった。
刺客は短刀を抜いて唐突に襲い掛かってきた。セクレチアは煙草
を噛んだ。飲み下した。吐き気と揺らぎ。迫る鈍い銀光。セクレチ
アは、一秒で十分だった。
﹁何っ? お前は⋮⋮!﹂
風が吹いた。セクレチアの意思で。突如生まれた鋭い突風が刺客
を跳ね飛ばした。驚愕を浮かべた男は床を転がり、裂傷から鮮血が
舞った。
そう。
自然魔術の中でも風の魔術。
煙草に仕込んだ麻薬とエレメントの破片。
││セクレチアは選ばれた人間だった。おそらく、かなり優秀な
自然魔術師だった。シルフィードか、他の誰かの身代わりになるた
めに拾われ育てられ、魔術の才能を認められ、他を押しのけ、生き
残った人間だった。
﹁くっ⋮⋮!﹂
しかしまあ、油断していたわけではなかったが、そんなにすぐに
動けるとは思わなかった。
刺客は傷をものともせずに素早く起き上がり、刃を投擲してきた。
回避が遅れ、それはセクレチアの手首に半ば刺さって傷をつけた。
取り出そうとしていた煙草が衝撃で吹き飛んだ。
冗談じゃない。単純な身体能力ではセクレチアには誇れるところ
143
がない。もちろん訓練は受けたが、魔術師とはそういう生き物だ。
特に自然魔術師は、肉体の限界を試し、生死の狭間で深層を見つけ
出し、あるいは麻薬で限界を引き出し、健康など望むべくもない。
セクレチアは非常手段、右手の指輪に仕込んでいたエレメントを
飲み込もうとして、その寸前に男に押し倒された。
﹁いっ、う⋮⋮!﹂
頭だけは打たないように、それでも背中に強い衝撃があって、し
かも思い切り体重を掛けられて、呼吸が出来なくなった。吐く。こ
み上げる。詰まりそうになる。意識が飛びかける。だめ。堪える。
﹁いくら優秀な魔術師でも、守るものがいなければ無残ですね﹂
﹁⋮⋮、下郎、が⋮⋮﹂
﹁黙れ﹂
どうにか、エレメントさえ口に出来れば。
一秒で認識を呼び出せるのに。
なのに。男は。足掻く私の右腕を、
はずした。
ごきりと、はっきりとした音が聞こえた。
﹁ぁぐgy│││!!﹂
あり得ない、くらい、痛み、激痛、痛烈な、痛み、痛い、痛い、
痛い痛いイタイイタイイタイ憎い殺したい殺せ嫌い死ね死ね死ね│
││
144
例えば、名前がなかった。気付けばそこにいて、誰かの立派な身
代わりになるために魔術に明け暮れていた。手を抜けば排除された。
手を抜かなくても魔術の訓練で心身ともにぐちゃぐちゃになった。
他の名前のない子ども達は敵だった。それ以外の人間には蔑まれた。
魔術師なんて気味が悪いと、あいつらは化け物だと、人間じゃない
と││││
名前のない人間は何もかもを憎みながら魔術だけを研ぎ澄まして
憎しみで生き延びて他の名前のない人間を時に殺して時に見殺しに
して死に掛けて殺されかけてそれでも死なずに、ある日セクレチア
になった。
虚しくて、憎かった。
﹁シルフィード殿下についたことを後悔するんだな﹂
﹁か、ふ⋮⋮﹂
刺客の声は頭の中の水面に揺らめくように聞こえた。呼吸が出来
なかった。どうやら首が絞められていて、血管が圧迫されて、目の
前の色が変わる、意識が、歪んだ。
﹃ごめんね。でも、私はあなたが嫌いじゃない。セレア、どうかあ
なたに幸運が授かりますように﹄
偽善だと思った。でも、よくわからなくなった。そのうち、そう
じゃなければいいと、思うようになった。そうであればいいと思う
ようになった。そして、そうなのかもしれないと、思った。セクレ
チアは、世の中には自分を嫌う人間しかいないと信じていたから、
145
例えそれが歪められた何かだったとしても、祈って、祈り、祈った。
﹁⋮⋮、⋮⋮││﹂
後悔なんか、するわけないじゃないか。
セクレチアは闇の中で笑い、ためらいなく進み、やがて、唯一無
二の光を見つけ、そして││││
﹁ぎゃあああ!!﹂
盛大な悲鳴で目を開けると、真っ赤な炎が自分の上から転がり落
ちるところだった。
いや、火達磨か。
﹁か、はっ⋮⋮はあ、はあ、げほっ⋮⋮!﹂
痛い。腕といわず肺といわず痛んだ。セクレチアはひとしきり咳
き込んで吐いて呼吸をして、ようやくのろのろと立ち上がった。放
った炎の魔術は見事に刺客を焼いていた。炎の認識は風の魔術のよ
うに命中させることが難しいのだが、さっきのように静止していて
くれれば絶好の的で、威力は絶大だった。ああ、それにしてもなん
と愚かなんだろう。
﹁あ、はは⋮⋮﹂
笑い、落ちていた煙草を拾い、床に移った僅かな火にかざして煙
草を吸う。麻薬の成分で一瞬意識が曖昧になり、身体が少し軽くな
るような恍惚感があった。噛んで、エレメントを飲み込み、ゆっく
りと水の認識を引き寄せた。そして、床を転げまわって大体の火を
146
消していた刺客の男や床に移った炎を消した。水の魔術は、まるで
部屋の中に雨が降っているかのような幻想的な光景だった。
﹁な、ぜ⋮⋮﹂
呻き、黒焦げになった男が倒れたまま疑問を発する。きっと、ど
うしてエレメントを使用できなかった瀕死のセクレチアに、魔術が
使えたのか聞きたいのだろう。全く、笑えるほど簡単な理由だ。
﹁自分で言っていたでしょうに。私が優秀な魔術師だと⋮⋮。ねえ。
エレメントは、魔術に不可欠なものというわけじゃなくて、ただ使
用を“補助する”もの。私は優秀な魔術師だった﹂
男が目を見開く。
﹁死に掛けることには、慣れていたの。むしろ、それは好都合だっ
た。私は生死の境を彷徨う事で変性意識状態に陥り深層へ行けた。
そこから炎の認識を見つけ出して引き上げた﹂
並みの魔術師なら何時間もかかるのだろうけれど。
皮肉?
いや、謙遜だ。
﹁舐めてたでしょう。そんなことできっこないって。身代わり魔術
師の勝機はどうやって即死を避けるか。即死させなかった、私の、
勝ち⋮⋮﹂
﹁だ⋮⋮ま、れ││!﹂
迂闊にも男はいまだ凶器を持っていて、力を振り絞ってセクレチ
アを襲おうとしていた。
だめだなあ、とは思った。
いつの間に、自分はこんなに甘くなっていたんだろう、シルフィ
ードに感化されていたんだろう、と。以前の自分なら無駄口など一
切叩かず殺せる瞬間に即殺していただろうから。
147
本当に。
でも、別に、惜しくないのだ。
シルフィードのためなら、死んでも良かった。
﹁││セクレチアっ!!﹂
﹁あ⋮⋮﹂
突然。最後の抵抗で自分を刺そうとしていた刺客に、部屋に飛び
込んできた何者かが飛びついて制止する。
それは聞き覚えのある声と見覚えのある猫の毛皮。
猫かぶりが、来てくれた。
﹁大丈夫っ?﹂
猫かぶりは素早く刺客の刃を奪って手足を縛り無力化すると、セ
クレチアに駆け寄って問う。
﹁⋮⋮大丈夫じゃないわ⋮⋮﹂
﹁ちょっと、セクレチア! なんで逃げて来なかったのよっ﹂
オズの侍女たちも駆け込んできて、涙ながらに一斉にセクレチア
の介抱を始める。
心配を、してくれる。
それは、好意、だったらいいと、祈って、祈り、祈る。
笑いがこみ上げた。
148
﹁大丈夫じゃないけど、⋮⋮大丈夫よ﹂
149
胎動の声 鉄鎖の白刃︵6︶︵前書き︶
若干残酷な描写があります。苦手な方はご注意下さい。
150
胎動の声 鉄鎖の白刃︵6︶
翌朝、ユウゼンが起きるとすでにシルフィとヘリエルは荷物をま
とめていた。
自然と目が引き寄せられて、少女に視線を向けると、シルフィは
少しだけ口元を緩めて凛とした声で挨拶をした。朝の光が小さな窓
から差し込み、黄金色がその白い肌を染めていた。
﹁行きましょう﹂
﹁ああ﹂
吹っ切った、と言えなくもないが、いっそ放棄したような印象。
でも、何をそんなに諦める必要があるのか、いまだに全く理解でき
ない。シルフィは、今回の始まりの件で知ったが、ある部分におい
て相当頑固で融通し難い部分があるらしい。
朝食を取るのもそこそこに宿を後にした。
相変わらず元気な奇獣、ルカとリオ、それからユウゼンは駅で交
換した馬を連れて町を出る。すでに情報収集も行っていたらしく、
シルフィードは何かに追われでもしているように道を駆けさせてい
た。
﹁近いんですかっ?﹂
﹁そうですね! 絶対に油断しないで下さい!﹂
風と蹄の音の隙間に声をねじ込む。そうは言っても相手は得体の
知れない魔術実験体だし生き物だ。どこにいるのか大体分かってい
た方がいいだろう。警戒地区に入ってすぐに、馬に乗った二人の兵
士が姿を見せ、ヘリエルと並んで駆けていたシルフィードが手綱を
引いてルカの足を緩める。ヘリエルが王女を隠すように前に出て、
151
揺れるシルヴァグリーンの瞳がユウゼンを振り向いた。頷いてみせ
た。
﹁警備の辺境兵の中で信頼の置ける者に連絡していました。情報を
いくらか持っているはずです。シルフィのことは、要人とだけ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
辺境兵の二人は一度馬から降りて簡潔な礼を済ませると、非常に
フランクに話しかけてきた。
﹁どうも、カカシ皇子。お二人さんは初めまして。ランザと申しま
す。それから﹂
﹁ヤヌートです。お会いできて光栄です﹂
﹁こら、あまり近づくんじゃない﹂
愛想のよい若者ヤヌートの方が美しさを隠し切れないシルフィー
ドに馬を寄せ、ユウゼンは事情三割私情七割でそれを邪魔した。と
りあえずお近づきになってもらうのはやだ。仕事だけしやがれ。
﹁はいはい⋮⋮大きな事件があったのは一週間前で、そのときは馬
車四台が襲われて死亡者二名でした。その後は我々が雑把ではあり
ますが見回りをしまして、被害という被害は起きていません﹂
﹁肝心の異形は?﹂
﹁何度か姿を見たが、今のところは追い払いました。といっても奴
等馬鹿じゃない。餌があるかどうかも判断してる。十数頭はいるだ
ろうな﹂
﹁原形は、獣の⋮⋮﹂
三十台後半辺り、壮年のランザが報告すると、シルフィードがお
もむろに口を挟みかける。ランザは予想しなかったのか、瞬きをし
152
て彼女の顔を見たが、余計なことは言わずに聞かれたことに答えた。
﹁ええ、我々が見たのは、犬⋮⋮でしょう、それがベースの異形で
したよ。遠目ですがね。違うのも混じっていそうだし、狼なのかも
しれませんが﹂
﹁わかりました、ありがとう﹂
シルフィードはランザに向けて僅かに口元を緩めると、ヘリエル
と視線を合わせて、なにやら一瞬アイコンタクトをしたように見え
た。
これ以上立ち往生していても益は見込めそうもなく、とりあえず
捜索を開始しよう。そうするしかない。そんな空気で全員が動き出
そうとしていた時だった。
ヘリエルが驚くほど機敏に反応した。それを流れるように汲み取
ったのは彼の主人、シルフィードで。体を目的の方へ向け、ルカに
括りつけていた荷物から何かの塊を取り出して遠くに投げた。
﹁食事というなら、ここにある﹂
干し肉のたぐいだろう、予測していたかに思えた。
ユウゼンが目に映す視界の中に、その肉に反応して近づく獣が見
えた。二頭、いや三頭。
身体の真ん中に異物を押し込まれたかのように、呼吸が、浅くな
る。
││異形。
それはどこか欠けているようで。
痛ましく。
生き物としてひどくはずれてしまっていた。
153
﹁なんで、⋮⋮⋮⋮﹂
ほぼ全身に毛皮がなく、赤黒い皮膚が溶けたようにむき出しにな
っている犬がいた。粘液がてらてらと鈍い光を反射し、透明な水ぶ
くれと茶色の斑がいくつも重なっていた。前足や、顔がぼこりと不
自然に膨れ上がっている一頭がいた。片目は潰れたように濁り口は
肉で歪んでいた。背中から折れた羽を生やして引きずっている一頭
がみえた。崩れかけた羽は、まるで骨で、身体に突き刺されている
ようだった。
ユウゼンは、馬上から飛び降りて異形に向かっていくヘリエルと、
少し離れた場所から弓を構えるシルフィードの背を呆然と見ていた。
動けない。
﹁大丈夫ですか?﹂
ヤヌートがこちらを守るように斜め前に馬を寄せる。
ダイジョウブ?
﹁俺も、気分悪かったですよ。初めて見たときは⋮⋮あれで、死な
ない⋮⋮むしろ異常に動くんですから。化け物です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ヘリエルが今まさに毛皮のない一体とぶつかった。剣の刃が前足
の付け根辺りを切り裂く。どろりと血が垂れて、それでも意に介さ
ないように異形はヘリエルに牙を向けた。速い。ランザが羽を引き
ずる異形に切りかかる。シルフィードがヘリエルを襲おうとする別
の一頭に矢を放った。見事に命中するが、その顔の腫れた犬は腹に
矢を生やしたまま方向を変えてシルフィードに飛び掛った。
154
﹁シルフィ!﹂
││心配どころか。
ようやく地面に足をつけて腰の剣を抜きながら、ひどく自嘲して
いた。
ユウゼンは、実のところ今の今まで何もわかっていなかったし、
今このときもわかっていやしなかったのだろう。どこか人事だと思
っていた。魔術も、異形も、奇獣も、傀儡も、何も知らない。この
国のことじゃない。関係ない。それでも、なんとかなるだろうと思
っていた。 ただの馬鹿だ。
﹁だめだ! ルカっ﹂
シルフィがこちらを向いて叫んだ。何で。何でだとか。決まって
る。顔の崩れた異形は信じられない反射神経でユウゼンに標的を変
え、こちらへ向かっていたから。
﹁うっ⋮⋮﹂﹁ユウゼン様!﹂
慟哭。歪んで、歪められて光を失った全てを恨むような潰れた片
目に魅入られて、思わず動作が鈍った。それでも自分がなんともな
かったのは、ただヤヌートが自分を庇い、さらに命令に従った奇獣
のルカが間に割って入ったからに過ぎない。
いななき。ヤヌートに引きずられるようにその場から離脱させら
れ、シルフィードの声にならない叫び声がした。
暴れて走り去るルカの腹が赤く染まっていた。あの金色に輝く、
美しい毛が。
ルカを追おうとする異形を、シルフィードが身体を張って止める。
155
矢が刺さった部分から血を垂らしながら、異形はシルフィードの首
を噛み切ろうとしていた。シルフィードは護身剣を抜いてその勢い
を利用するように、異形の首に突き刺した。深々と刃が獣の身体を
貫通し、背中の辺りに赤く濡れて飛び出した。それでも異形は牙を
剥き、シルフィードを押し倒した。シルフィードは左手で首を庇い
ながら、異形の腹に刺さったままの矢を引き抜き、勢いをつけて再
度振り下ろした。血が飛び散り、びくんと異形が痙攣する。シルフ
ィードは異形を蹴り退け刺さったままの剣を引き抜き、叩きつける
ように、獣の心臓に、突き刺していた。
156
胎動の声 鉄鎖の白刃︵7︶
今度こそ、確実に、その異形は息絶えた。
﹁はあ、はあ⋮⋮﹂
返り血を呆然と拭いながら、シルフィードが肩で息をしている。
今にも倒れそうなほど、青ざめた顔色をしていた。それでも一歩ふ
らついただけで、周囲に目を向けた。ヘリエルはすでに毛皮のない
一頭を屠っていた。ランザは苦戦している。シルフィードは、ただ
反射のように、そちらへ加勢についた。血の匂いを嗅ぎつけたのか、
新たな異形が姿を現すのも見えた。
そして、
自分は。
こんな所で?
一体何を、
ヤヌートが眼前で警戒しながら、背中越しに厳しい声を発した。
﹁無理をしないで下さい。あなたはこんなところで死んではいけな
い人です﹂
﹁⋮⋮そんなことは﹂
﹁わかってますか? そうですね。俺も、ランザも、おそらくあの
方々もそんなことは分かっているでしょう。だから守る。あなたが
死ぬとしたらおそらく、我々全員が死んでから。最後の最後でしょ
う。見えないところでも、どんどん屍は積みあがってますよ。あな
たの死のかわりに。黙許しますか。目の前で、あなたのために人が
簡単に死んでいくのを﹂
﹁││誰のことを騙ってる!﹂
157
耐えられなくなってユウゼンが怒鳴りつけると、ヤヌートは振り
返った。逃げ出したくなるような、澄んだ眼光だった。
﹁尋ねているんですよ。そうやって、権力で押し切るだけの力も資
格もあなたにはある。それは強さかもしれない﹂
冷や汗が出て、身体が震えた。聞きたくない。
聞きたくない。
ヤヌートはそんな声無き声など、完璧に握りつぶしてみせた。
﹁あなたは、あなたの中途半端さのせいで他が死んでいくのを、許
容するんですか?﹂
“世界は、そうであると定められている”
幼年時代。それが、ユウゼンが世の中に対して悟った最初にして
最後の真相だったのだと思う。
首都アレクサンドリアの王城と、その周辺が全てだと思っていた
子どもがいた。物心つくか、つかないかという子ども。子どもは、
その全ての中で自分は自由だと、何でも出来、誰とでも話せるし、
いつか願い、何にでもなれるのだろうと、小さな子どもにありふれ
た未来の夢を見ていた。
ある日、城に旅する音楽家がやって来た。子どもはその音楽家か
らたくさんの演奏を聞き、多くの話を聞き、驚きと共にひどく憧れ
た。演奏はもちろん素晴らしかったけれど、それよりも、世界とい
う見知らぬ、広く悲しく愉快で恐ろしく、不思議な世界に惹きつけ
158
られて。
子どもは見つけた夢がいつか叶うことを、疑いもせずに大人に話
した。大人は、曖昧に笑って言った。
﹃あなたは旅をすることが出来るでしょう。ですが、旅人になるこ
とはできません﹄
どうして? なんで? 旅ができるのに旅人にはなれないの? じゃあ、何でもできるっていうのは、どういうこと? 大人は、曖昧に笑って今に分かりますよと言った。
それから日がたたない内に、子どもは友達から祭りに行こうと誘
われた。水を蒔いて、花を撒く。それが面白そうだから、行ってく
ると大人に話すと、大人は首を振った。
﹃あなたは祭りを見学することは出来るでしょう。ですが、参加は
できません﹄
子どもは泣いて頼んだが、結局そのうちに一日は終わってしまっ
た。
それから、子どもらしく不満を持ち続けていた子どもは、考え、
ある日それを実行した。そんなそぶりも見せず、上手く人の目を盗
んで城から抜け出した。
眺めてはいたが歩いたことのない街は、巨大で、煩雑で、恐ろし
く、けれどその分心臓がはちきれそうなほどどきどきして面白かっ
た。子どもは上手いこと、街をふらつく本当に危険ではないが正義
感とは程遠い小悪党の男を味方につけて、自分の装飾品を売ったり
馬車に潜んだりして城下を出た。調子のいい小悪党は今まで接した
どんな大人より大人らしくなく、粗雑でろくでなしだったけれど、
情に厚く、気安く、豪快で頼もしかった。何かもよく分からないも
のを手当たり次第食べたり妖しい店に連れて行かれたりインチキ興
159
行に文句を言ったりスリをしたり失敗して死ぬほど逃げたり名も知
らぬ人々と怒鳴りあい笑いあったりしながら、子どもは、これが世
界なのだな、と身体全体で理解した。
貧しさや、悲しさも知った。それは小さな女の子の形をしていて、
子どもにぶつかるようにしてお金を盗ろうとした。子どもはとっさ
にお金を庇って、小悪党は女の子を蹴りつけようとした。子どもは
小悪党を諌めて女の子と話をした。知らない世界を聞いて、知らな
い世界を聞かせた。女の子はその内ひどく謝るようになり、子ども
は気にせず女の子と友達になった。狭くて大勢が暮らす不衛生な場
所で、慣れない仕事を手伝い、くたくたになって星を眺めた。いつ
かここを出るわと言った女の子に、小悪党もそうしろそうしろと煽
って、じゃあ三人で旅人をしようよ、と子どもは言った。夜が明け
るまで、そんな話をしていた。
子どもは翌朝すぐに連れ戻された。
怒られ、心配され、今まで以上に大人に囲まれるようになった。
別にもう、抜け出す気はなかったけれど。ただ小悪党と女の子に会
わせて、と頼んだ。友達だからと。
大人は厳しい声で言った。
﹃少しなら会わせてあげてもいいでしょう。ですが、友達にはなれ
ません﹄
子どもは頭がよかった。神童といってもいいくらいに頭がよかっ
た。だからこれまでのことを総合して自分が思っていたことや大人
が言ったこと、それを検討した結果をすぐに出すことが出来た。
要するに、
︱︱世界は、そうであると定められている。
160
定められた中で自分は自由で、許される中で何でも出来、特定の
誰とでも話せるし、決められた範囲内で何にでもなれる。すなわち、
定められた範囲外では不自由で、許されないことはしてはならない、
不特定の誰かとは話してはならなくて、決められた範囲外の何かに
はなれない。
それは例えば子どもが王の子であるからというわけではないと、
子どもは知っていた。例えばあの小悪党にだって、定められた範囲
がある。誰とでも話せるわけではないし、何でも出来るわけではな
いし、何にでもなれるわけではない。女の子もそうだ。出来ないこ
ともあるし、出来ることもある。女の子の範囲は、きっととても狭
い。生まれた場所、身分、親、近所、環境、とにかく、そんなもの
で範囲は定められる。そこからあえて出ようとすることは出来るの
だろうか。出来るかもしれない。ほぼ確実に出来ない。それはきっ
と死に近いこと。そう。そうなんだ。そういうことか。
それが、ユウゼンが世の中に対して悟った最初にして最後の真相
だったのだと思う。
ユウゼンはそれ以来深く考えることを止めた。努力することも止
めた。もともと頭は悪くないから義務を果たすことに問題もなく、
義務を果たしていれば﹁決められた範囲﹂から落ちることはないと
知っていた。面倒で、定められた範囲内で自由に振舞うことにした。
高尚な趣味、文化、咎められないくらいの付き合い、とるにたらな
い遊びの数々。定められた未来の皇帝。決定事項を怖がっても何の
意味もない。
不満も不安もない。
そう出来ているんだから、あったって仕方がないじゃないかと、
思った。
161
162
胎動の声 鉄鎖の白刃︵8︶
﹁あなたは、あなたの中途半端さのせいで他が死んでいくのを、許
容するんですか?﹂
それなのにヤヌートは非難する。讒謗とすら感じた。それなのに、
澄んでいる。正論に近いからだ。ユウゼンはただ吐き気と頭痛を堪
えていた。正論は耳に痛いだけで何の役にも立たないが、ヤヌート
は完全にそうしたわけではないから苦しかった。
﹁責めてるわけじゃなくて、聞いただけなんですが﹂
﹁⋮⋮何が違うっていうんだ﹂
﹁難癖ぐらいつけたっていいじゃないですか? 大体、何しに来た
んです﹂
﹁そんなこと、言う必要ないだろ⋮⋮﹂
﹁守り辛い人ですね。精神的に﹂
辛辣な皮肉を吐き、ヤヌートはもっと異形との戦闘から離れるよ
うに手で指示をした。ユウゼンは動かなかった。辺境兵は今度こそ
嫌な顔をした。
﹁邪魔なんですよ。なんだか知らないですけどただガキみたいに拗
ねて諦めている人なんて。本当なら俺だって加勢したい。あなたが
そうやっていつまでも融通が利かない﹂
﹁嫌なんだよ! 許してるわけないじゃないか!?﹂
怖かった。自分のために死ぬ人間など見たくなかった。だから、
だからこそそれが見えないように、振舞っていた。
怒鳴りつけると一瞬怯んだヤヌートだったが、すぐに噛み付く勢
163
いで切り返してきた。
﹁当たり前ですよ。そんな許しなんか誰が欲しいものか。願い下げ
だ。それに、そんなことぐちゃぐちゃ考えてる間にさっさとシルフ
ィード殿下を助けに行ったらどうなんです? 好きなんでしょう?
さっきあなたを助けてくれた人でしょう? もともとそのために
来たんでしょ? 急ぐさっさと! それくらい見失わない!﹂
眩暈がした。
なんで、そんなこと知ってるんだ、とか。なんでわかったような
こと言うんだとか。自分が危険になるのを危惧してたんじゃないの
かとか。そんな思いも掠めたが、どうでもよくなるくらい的確で、
頭の中の余計な思考が、一気に押し流された。
なにって、何が駄目かって、とにかくこの状況が駄目なんだ。
何もしないからどうにもならない。
﹁シルフィ!﹂
剣を持ち直し、ヤヌートを押しのけて異形の元に走った。ランザ
とシルフィードは庇いあうように二頭を相手にしていた。犬と大猫。
善戦はしていたが明らかに押されていた。ユウゼンは挟み込む形で
突っ込んだ。肉を断ち切る感触がした。
シルフィードが叫んだ。
﹁簡単には死なない、確実に⋮⋮!﹂
言われなくても見ていればわかったから、ほぼ同時に犬の足を叩
き折り、首筋の急所に剣柄を入れた。間を置かず、ランザを切り裂
こうとしていた大猫に切りつけた。ありえないスピードでかわされ
る。
164
﹁危ない!﹂
そのままユウゼンに牙を剥いた大猫を、ヤヌートが飛び出してき
て阻んだ。その間にシルフィードとランザが、挟み撃ち、追い詰め
る。速い、速すぎる反応。二人がかりでも仕留められない。関係な
い。何も考えずに刃を向け、正面からぶつかっていた。たやすくか
わされ、凶悪な爪が眼前に迫り
﹁あなたはっ!﹂
本当に、寸前で、その爪は力を失った。
ヤヌートが激しく息をして汗を滴らせながら、ユウゼンを睨み付
けていた。その手の剣は大猫の心臓を間違いなく破壊していた。や
ってくれると思った。
﹁ありがとう、助かった﹂
﹁馬鹿ですか! そうですか! やっぱりそうなんですか!﹂
﹁だって、守ってくれるんだろう?﹂
守られるのではなくて、守らせる。
ユウゼンはヤヌートの言葉と行動から判断して、敢えて前に出た。
ヤヌートは守らせたら一級だった。いくら優れた異形でも敵を殺そ
うとする瞬間くらいそこに集中する。ユウゼンの身代わりになる暇
はなかっただろう。だから、ヤヌートがその瞬間に異形を殺してく
れるかどうかに賭けた。その賭けに勝った。有利な賭けだったと思
う。
呆れ果てたのか、ヤヌートは汗をぬぐいながら、しばらく無言だ
った。
﹁⋮⋮まあ、精神的に守り辛くはないですがね﹂
165
皮肉られたがさっきのように責められるよりはずいぶんとマシで
ある。
その間に、シルフィードが傍から離れた。ヘリエルが一人で二頭
を相手していた。一体は犬で、頭が二つあった。体の左側面から首
だけ生えている。そしてもう一体は牛。腐りかけた右半身から肋骨
が剥き出しになっていた。
﹁ヘル!﹂
聞こえてはいるのだろうが、ヘリエルはシルフィードの声に応じ
ない。余裕がないのではなく、シルフィに異形の相手をさせたくな
いようだった。けれどそうするだけのことはある。見ればヘリエル
は信じられないほどの手足れで、二頭を相手にしても少しも危なげ
がない。ただ、決定的な深手を負わせることが出来ないで居るよう
だった。
シルフィは半ばその行動をわかっていたようにそちらへ向かった。
無謀。
﹁シルフィ、戻って!﹂
ユウゼンは叫びながらもやはりシルフィードは止まらないだろう
と確信していた。とっさに、傍に落ちていた弓と矢を拾い、王女を
追いながら異形を見据えた。牛の異形がシルフィードに気づいて凶
悪な角を向ける。シルフィは怯まずかわし、牛の足の付け根辺りを
切ったようだった。しかし、それで暴れた牛の、後ろ足の一撃が彼
女の身体を蹴った。瞬間的に頭に血が上る。ヘリエルの、声なき叫
び声が上がったような気がした。
﹁犬は、任せてください!﹂
166
ランザとヤヌートは双頭の犬を仕留めに向かった。ヘリエルは剣
を捨て、全ての攻撃を掻い潜ってシルフィードを救助し、抱きかか
えざま離脱しようとしていた。ユウゼンは追撃しようとする牛に狙
いを定めて矢を放った。
一投目が顔に当たり、続けて打った二投目が、牛の目を傷つけた。
怒り狂った牛が暴れ、その角がヘリエルの背中を抉ったが、ヘリエ
ルは倒れるどころか全く動じず、足を速めて離脱した。
﹁こっちだ﹂
その、ユウゼンの呟きが聞こえたのだろうか。
牛の異形は、右前足を引きずりながらも突進してきた。弓を捨て
て剣に持ち替えていたユウゼンは、自分でも思わぬほど静かな頭で
避けるために動いた。身体だけが熱い。ほとんど掠めた。後ろ足を
断ち切るつもりで叩きつけた。獣は咆哮を上げ地に倒れる。その上
にのしかかり、首を狙って突いた。暴れる角がユウゼンの腕を傷つ
けて刃を弾き飛ばそうとする。振り払い、押しつぶそうとさえして
いた。ユウゼンは牛の傷ついた目の方に転げ、今度こそ首を突いた。
引き抜くと血が噴出し、やっと動きが止まる。
﹁う、あ⋮⋮﹂
しかし、最後の最後で異形は粘り、ユウゼンに向けて倒れようと
していた。もうほとんど押しつぶされかけて、血が流れる両腕で押
しのけようとして
﹁こっちに︱︱、﹂
引きずり出された。ヘリエルが牛の巨体をギリギリで支え、シル
フィードが助け出してくれる。そうして、逃れたとたんシルフィー
ドが倒れ掛かってきて、身体全体で受け止めた。心臓が縮みそうに
なった。
167
﹁シルフィ!? 怪我っ⋮⋮?﹂
﹁大丈夫。足がちょっと腫れただけだから⋮⋮ユウこそ、腕に﹂
﹁よかった⋮⋮!﹂
安堵のあまり、倒れたまま思い切り抱きしめていた。鈍い痛みの
中で、生きている感触と青空を刻み付けた。ヘリエルが傍に座り込
む。ヤヌートとランザがゆっくりと近づいてきて、やれやれという
ように、笑った。
168
操り人形と猫の戯曲︵1︶
﹁はい出来ました。しばらく安静にしておいて下さいね﹂
﹁女王さまも、しばらく安静にしといて下さいね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。うん﹂
﹁わかったよ。ありがとう﹂
猫の顔が二人動き回っていた。
猫かぶり。
あれからすぐに、なぜか猫かぶりたちが馬車でやってきて、さっ
さと全員を連れてヘテロクロミヤ・アイディスに連れて行ってくれ
るということになった。ランザとヤヌートは辺境要塞へ帰るという
ことで別れた。
ヘリエルの背中の怪我を一番に診て治療してから、シルフィード
やユウゼンも治療を受けた。幸いたいしたことはなく、どうにか帰
れそうだしよかったといえばよかった。でもなんで猫かぶり。
ユウゼンは率直に言った。
﹁なんで?﹂
﹁なにが?﹂
﹁猫かぶり?﹂
﹁猫をかぶっているから﹂
一人が淡々と返答をした。二人いるが違いはあった。小さい方と
大きい方。毛並み。目の色とか。どうでもいいけど。
﹁いや、その、つまり、どうしてここに来たのかな、という、疑問
を﹂
169
﹁通りかかったからです﹂
﹁通り、かか、れる?﹂
﹁通りかかれました﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
大きくて黒猫緑目の方がかっちり返答して、ユウゼンは言葉に窮
した。どうも上手く言葉が出てこない。シルフィードは広い馬車の
中で布を敷いた上に横になっていた。ヘリエルは守るようにその傍
に腰掛けている。
﹁猫かぶりは、商人なんだっけ?﹂
﹁商人です。女王さまの手助けもします﹂
﹁今も、そういうこと?﹂
﹁そういうことです﹂
﹁猫かぶりの一族って、多いのか?﹂
﹁多くても困りますが、少なくもありません﹂
﹁⋮⋮みんな猫かぶりなのか﹂
﹁どうでしょう。一応種族名だけではなく個々人に区別名はありま
すが﹂
﹁なんていうの?﹂
﹁僕はドレスコスプラッシュです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。ドレ⋮⋮?﹂
﹁ドレスコスプラッシュです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁御者をしている白猫黄色目がガターンジョレコです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。じゃあ、俺が、皇宮で会ったのは⋮⋮﹂
﹁あれはボガゴンチャーミーです﹂
﹁⋮⋮へえ⋮⋮﹂
言及すると長丁場になりそうだったから沈黙した。人の名前にケ
170
チつけるのもあれだ。というより、元気が出てこない。
シルフィードの元気がないからだ。
あの戦いを終えてから、挨拶や必要事項以外口にしていない。怪
我人に元気があるかという話とは別に、やはりシルフィードはどこ
か沈んでいて、ユウゼンはどう声を掛けていいのかわからなかった。
何か、きっかけがあれば││
という、願いを聞いてくれた神様がいるのだとすれば、その神は
想像を絶する。
﹁止まれっ﹂﹁こっちに来い﹂
﹁ちょっと、やめてください││﹂
急に馬車が停車し、はずみにガタンと揺れ、御者をしていた白い
猫かぶりの迷惑そうな声が聞こえた。ヘリエルが剣を掴んですぐに
飛び出せるように構えた。シルフィードも足を庇うように起き上が
る。どうやら荒っぽい男達に囲まれている気配がしたが、まさか。
﹁ガターンジョレコ、どうかした?﹂
黒猫緑目のドレスコスプラッシュが動じない声で話しかけ、白猫
黄色目が淡々と返答する。
﹁盗賊﹂
※
仕方のない部分はある。
ユウゼンとて政治・治安の全てに関わっているわけではもちろん
ないのだ。それでも頭を殴られたような気分を味わった。自国の領
内で盗賊の被害などと。ヘリエルもユウゼンも戦えたから正面突破
171
しようと思えば不可能ではなかったがシルフィードが止めた。
襲われている馬車が他にもあったからだ。というより、そちらが
本命で、こっちはその現場に偶然出くわしただけだ。
﹁なんだお前?﹂
﹁猫かぶりです﹂
﹁はあ?﹂
改めて猫かぶりが質問を受けている。盗賊も猫の顔には流石に不
審がっている。猫かぶりはしゃあしゃあと嘘をついた。
﹁魔術です﹂
﹁魔術だと⋮⋮?﹂
﹁ンだコラ文句あんのか? じろじろ見てんじゃねえぞ﹂
一瞬地が出た。
下っ端らしい盗賊はびくっとして、﹁まあいい﹂とかなんとか捨
て台詞を吐きながら向こうへ戻って行く。いいのか? 猫かぶりす
ごい。
﹁と、言っても⋮⋮どうするかな⋮⋮﹂
他の被害者のもとへ連れて行かれながら、ユウゼンは一人ごちた。
実際まずい。非常に不味い。まさかオズの第一皇子とマゴニアの
第一王女とは思いもしないだろうが、万一バレたら証拠隠滅のため
に全員即殺されてもおかしくない。他の被害者を気にしたシルフィ
ードには悪いが、冷静に考えたら一旦突破して応援を呼んだほうが
困難ではなかったかもしれない。その場合被害は出てしまうが⋮⋮。
腫れている足が痛いのだろう、ヘリエルに半ば支えられるように
して歩いていたシルフィードがユウゼンの呟きを聞き取ったらしく、
こちらを向いた。類稀な容姿を隠すために、フードを深く被ってい
る。怪しまれたが、ヘリエルの無言の威圧に盗賊は怖気づいてそれ
以上言わなかった。
172
﹁私が⋮⋮どこかの、貴族だと言って、何とか皆を解放して貰おう
と思います﹂
﹁そっ、そんなことさせるわけには⋮⋮!﹂
﹁わがままを言ったんです。責任は取ります﹂
﹁そんなこと言ったって!﹂
見張りの盗賊に睨まれ、ユウゼンは仕方なく口を噤む。辺りには
他に二十名ほどの人間が縛られて座っていた。そのうち、身体をロ
ーブで包み、フードを深く被っていた小柄な少年が盗賊の一人につ
かみあげられた。
﹁おい、怪しいんだよお前! 何か隠してたら殺すぞ!﹂
﹁隠してなんかないですって⋮⋮止めてください﹂
声は高かったが、はっとするほど落ち着いた喋り方だった。盗賊
も意表をつかれたのか眉をひそめ、髪を掴むようにして乱暴に少年
のフードを剥ぎ取った。一瞬、皆が息を呑むのがわかった。
﹁なんだ、お前の髪の色⋮⋮﹂
あらわになったのは空よりも明るい青の髪と目だった。通常の人
間ではとてもありえないような非現実的な。成長しきれていない端
正な顔に白い肌だったが、表情は大人びて、瞳は深淵を湛えていた。
一種の神聖ささえ醸し出す近寄り難い雰囲気を纏いながら、少年は
恐れの篭った疑問に答えた。
﹁傀儡﹂
それ、は。
﹁くぐつ? なんだ、そりゃあ⋮⋮﹂
173
少年は歌いだしそうに和やかな声を紡ぐ。不気味なほどに。
﹁知りません? 魔術師の実験動物ですよ。そのせいでこうなりま
した。異形や奇獣なら知ってますか? それと同じことです﹂
﹁魔術師の、実験動物⋮⋮? ⋮⋮お前は、人間じゃねえのか﹂
﹁そうですよ。何かおかしいですか? 別に人間だろうが獣だろう
が家畜だろうがたいして違いはないでしょ。魔術師は実験する。あ
なた方は襲って殺す。ああ、手間がちょっと違うかな﹂
笑っていた。
平然と、卑下するでも、見下すでも皮肉るでもなく、純粋に可笑
しいと思っているように笑っていた。この状況で。背筋がぞくりと
した。盗賊が一歩下がって剣を向けた。刃先が震えていた。
﹁やだな、止めてください。そんなことをしたら痛いです。僕には
何も出来ないし、質問にも答えたし、抵抗もしてないのに﹂
﹁わけわかんねえ⋮⋮異形ってのは、暴れるし強い。お前もそうな
ら、﹂
﹁僕は異形じゃないです。それに、便宜上傀儡って言いましたけど、
正確に言えば違います。失敗作ですから。何の能力も持たなかった
傀儡は失敗作ということで名前がなくて。ちょっと不便ですね。普
通の人にも劣るんです。だから、勘弁してください。ね?﹂
少年が危機感のない口調で命乞いすると、盗賊は心底気味が悪く
なったのか、背を向けて足早に去っていった。
174
175
操り人形と猫の戯曲︵2︶
何事もなかったかのように少年は腰を下ろす。
偶々、目が合って、ユウゼンはどきりとした。少年はきょとんと
したあと、面白そうに微笑んだからだ。同時に奇妙な感覚も覚えて
いた。どうしてか、不思議に懐かしいような││。
﹁こんにちは。別の馬車の方ですね。捕まってしまいましたか﹂
戸惑っている間に小声で話しかけられた。初対面なのに親しみさ
え感じるような響きがあり、つい普通に会話をしていた。
﹁ああ。そっちも、輸送かなんかか?﹂
﹁物と人を運んでたんですが、途中で襲われました。護衛の人たち
が早々に逃げてしまって、この有様です。全く﹂
﹁そりゃ、災難だなあ⋮⋮こっちはまあ、運悪く通りかかってしま
ったんだ﹂
﹁それはまた不運ですね﹂
妙に大人びて落ち着いていることを除けばなんということもない
会話。
しばらく話しながら、途中で青い髪の少年はこらえ切れないよう
に笑った。あまりに唐突でユウゼンは首をかしげる。
﹁何だよ急に﹂
﹁いや、改めておかしな人だなと思っただけです⋮⋮﹂
﹁どこ!? どの辺が!? お前に言われるほど!? わけわかめ
!!﹂
﹁顔が﹂
﹁おっと人生どうでもよくなってきたー﹂
﹁本当のところ、気持ち悪いと思わないんですか? 普通髪隠して
なかったら皆避けるんですよね﹂
176
﹁あー、それは﹂
確かに、言われてみればその通りで、実際さっきも不気味だと思
っていたのだが。それは状況と照らし合わせた上でどうもちぐはぐ
な印象があったからで、別に傀儡だとか髪の色だとかは考慮してい
ない。判断できるほどの経験も持ち合わせていないのだ。
﹁俺馬鹿だから、せめて自分で判断しようと思うのかな。何でも。
その方が楽しいし﹂
素直に答えれば、彼は感心したように目元を緩めた。
﹁ほう⋮⋮それが正真なる襟度、豊穣の呪符。賢しき愚者というよ
り愚かなる賢者というわけか。心得たよ。素晴らしい﹂
﹁はい? 小難しいことを言われましたけれど⋮⋮もしかして結構、
年令、いってる?﹂
少年はくっと口元を吊り上げた。
﹁よくわかりましたね。実を言うと、今年で118歳になりました﹂
大嘘つかれた!
﹁バレましたか。本当は162歳です﹂
﹁むしろ増やした!? 減らそうよ! 積極的に減らしていこうよ
!﹂
﹁やれ、愉快愉快﹂
愉快なのはお前の頭だけだ。
心の底からそう思い、言ってやろうかと口を開いた瞬間、辺りか
177
ら零れた密やかな笑い声にはっとした。
捕らえられて暗い顔をしていた人々の間から零れたのだった。今
のやり取りで、否、青髪の傀儡の巧みな話術によって。緊張がほぐ
れてある種の絶望感が緩んだ。
道化め。
刹那圧倒されたユウゼンに気付いたのか、青き傀儡は目を細めた。
﹁貴方の人柄ですよ。謙虚ですね。││なんてお呼びしたらいいで
すか?﹂
﹁⋮⋮ユウ。ユウでいい﹂
﹁シアンです。珍しく気が向きました。卑小たるこの原色の青が、
遅まきながらあなた方に協力することを約束しましょう﹂
揺らめく。不思議な青の瞳に惹きこまれるように、頷いた。
※
身代わりになれる。
シアンが堂々と言い放ったのはその一点に限った。ユウゼンはそ
のあっさりっぷりに撃沈した。縛られてなかったら盛大につっこん
でいただろう。
﹁いや、それじゃだめだろ⋮⋮﹂
犠牲を出さないのが最低条件なのに。
﹁死物死物。鷹揚に構えてください。何の理由もなくこんなことを
言い出すと思いますか? 保証はします。逆に言えば、それ以外の
ことは出来ません﹂
﹁そ、それもそうか。実は武術の達人とか? 魔術使えるとか?﹂
﹁まさか。それならさっさと逃げてますよ。こんな身体だから体力
がなくて本当不便なんです﹂
178
さらさらと答えてみせるシアンに、ユウゼンは白けた視線を向け
た。真実がつかめない上に話が逸れまくってどうもよろしくない。
とにかく一旦この少年は無視しよう。
ユウゼンはさっきから黙って考え込んでいるシルフィードに視線
を向けた。
﹁あの、無理はなさらないように。きっとどうにかしますから⋮⋮﹂
シルフィは少しだけ顔を上げて、曖昧に頷いた。止められないか
もしれない。
いざとなればそれこそ自分が身代わりになろうと覚悟しながら、
とにかく手首の縄を解くのに集中する。すると、誰かが気付かれな
いように、縄に切り込みを入れてくれるのが分かった。
目の動きだけで確認すると、武官のヘリエルが微かに頷く。さす
がだ。
見張りにばれないように、注意しながらユウゼンはシアンの縄も
解いた。シアンは拘束されたままのように、上手く縄を握りこんだ
ようだった。
そのうちに大体の仕事を終えたらしい盗賊の、幾人かがやってく
る。
五人を従える獰猛そうな赤毛男が頭領なのだろう。
じっと、商品価値を見極めるような目で全員を眺めている。見え
るはずもないのに、無意識に意味を成さない縄を握り締める。喉が
渇いていることを自覚した。
﹁おい、そこの女。顔を見せろ﹂
シルフィ。
指摘されて、呻き声が出そうになる。向こうからそう来るとは思
179
わなかった。シルフィードはぴくりと身を震わせて、ヘリエルが射
殺すような視線を頭目へ向ける。赤毛の男は片眉を動かし口元を引
きつらせたあと、迷いない歩調で歩いてきた。感情のままヘリエル
が飛び掛らないかどうか不安が掠めたが、彼はまだ主人の意向を守
るつもりらしく、唇を引き結んだだけだった。
頭目は前にいたヘリエルの身体を蹴り飛ばし、シルフィードの腕
を掴んで無理矢理に立たせた。異形に蹴られた足が痛んだのだろう、
小さく呻いたシルフィのフードを容赦なく剥ぎ取ると、男は感心し
たような声を漏らした。
﹁こりゃあいい。飽きるまでは手元に繋いでおくか﹂
﹁っ⋮⋮﹂
手下共の下品な口笛や歓声。ふざけるな。ユウゼンは侮辱的好奇
に晒されるシルフィードに耐えられず飛び出しそうになる。だが、
シアンに冷淡な目で見られて、ぐっとこらえた。わかっている。わ
かってはいる。
シルフィードはまるで何も感じていないような無表情で口を開い
た。
﹁取引をしませんか?﹂
﹁なんだと?﹂
﹁ここに居る人達を見逃してくれたら、あなた方にとても利のある
情報を、教えます。こんな馬車では比べ物にならないほどの﹂
﹁面白いことを言うなぁ、女﹂
頭目はシルフィードの顎を掴んだ。力がこもっているのは明白だ
が、シルフィードは眉一つ動かさずにじっと赤毛の男の狂気の目を
見つめていた。男が手を離すと、待っていたかのように再び喋り始
めた。
180
﹁私はマゴニア王国の、四月卿に近しい者です。もし、私以外の皆
を解放していただけるなら、四月卿が所有する秘密裏の蔵と確実に
襲える密輸ルートを教えましょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
マゴニアには一月卿から十二月卿まで十二の月の貴族と原住民た
るテンペスタリ家、王家で成り立っている。四月卿は、マゴニアで
もオズに近い地域を支配している臣下だった。
男は冷酷な目でシルフィードを見、言った。
﹁信用できるだけのものがあって言ってるんだろうな﹂
﹁⋮⋮四月卿から贈られた指輪を、はめています。証明は出来ませ
んが、簡単に手に入るものでは﹂
﹁見せろ﹂
シルフィードを縛っていた縄を切り、頭目は乱暴に彼女の手袋を
外す。そこには確かに一介の商人には手に入らないような指輪がは
まっていた。まあマゴニア国王女なのだから当然といえば当然、盗
賊には価値は分かれど誰のものかまではわからない。上手い言い回
しだった。
盗賊も、半分程度は信じ始めていた。
﹁悪くはねえ。だがお前がその情報を流せばそいつは危うくなるだ
ろうが﹂
﹁構いません﹂
﹁なにぃ?﹂
﹁元々、探るために四月卿に近づいたのですよ。だから﹂
そっけなく言ってのけるシルフィードに、赤毛の頭目は唐突に品
181
のない笑い声を上げ、そしてぴたりと止めた。
﹁それで、お前はなんのためにこいつらを助けたいんだ?﹂
182
操り人形と猫の戯曲︵3︶︵前書き︶
流血シーンがあります。苦手な方はご注意下さい。
183
操り人形と猫の戯曲︵3︶
﹁それは⋮⋮﹂
それまで一切表情を見せなかったシルフィの気丈が崩れた。
半ば呆然とした瞳がかろうじてユウゼンやシアン、ヘリエルのい
る辺りを捉える。ユウゼンも、愕然としていた。シルフィは、何の
理由もなく、特定の思いもなく、ただ、ただ不特定多数の人々を助
けようとしていたと気付いたから。本当に、何も考えずに。迷いな
く危険に身を晒す。
ナンノタメニ?
頭目は、シルフィードの動揺を誤解したらしく、唇をゆがめた。
﹁なるほど、あいつらを逃がすためか。健気な女だなあ﹂
﹁あぅ⋮⋮﹂
呆けていたシルフィードの首を掴むようにして、自分のほうへ向
かせ、男は部下に命じた。
﹁そこの金髪と黒髪と傀儡を連れて来い。後は放り出しとけ、運が
よけりゃ生きて街にもどれるかもなァ﹂
下卑た笑い声、耳障りな台詞、乱れる心音、ざらつく思考。
猫かぶりがシルフィードをひどく心配げに振り返りながらも、解
放された人々と共に遠ざかっていく。
盗賊とシルフィードとヘリエル、ユウゼン、シアンだけが、取り
残されたように、観客のない舞台に忘れ去られたように。騙られる
184
必要のない蛇足な台本、エピローグのエピローグ。
﹁こっ、この三人も解放してくれなかったら⋮⋮!﹂
喉を掴む赤毛の頭目の手から逃れながら、シルフィードが訴える。
罪悪感に押し潰されそうな瞳の奥を見て、何を考えているのかわか
った。
﹃ああ、自分が、視線を向けたりしたから、巻き添えに。ごめんね﹄
腹が立つ。
あなたはもう十分救ったじゃないか? 頼むから、もうそれ以上
遠くへ行くなって││
盗賊はシルフィードの頬を容赦なく打った。乾いた音がした。
﹁ふざけたことは言うんじゃねえぞ? 俺はお前のどうしてもって
かわいらしいお願いを寛大な心で聞いてやってんだよ。信用なんか
するわけねえだろうが? 素直に言うこと聞いてりゃダイジな人た
ちも││﹂
﹁!﹂
全て言い切る前に、ヘリエルが踊りかかっていた。
反応も出来ない素早さでシルフィードを平手打ちした頭目に殴り
かかり、顔面に体重の乗った一撃を与えた。我に返ったシルフィー
ドが悲鳴を上げた。
﹁ヘル! だめぇ!!﹂
頭目が倒れ、何人もが大声を上げて武器を構え、逆上したヘリエ
ルに、シルフィードは抱きつくように割って入った。そこだけに凍
185
ったような別世界があった。
﹁君が、死ぬなら、私も死ぬ﹂
﹁⋮⋮! ⋮⋮っ﹂
﹁迷惑かな。迷惑だね。でも、そう思うんだよ。今更だけど、一人
に、なりたくない。私に同情するのは、君だけで﹂
ふざけるな。恥をかかされた頭目が喚き、部下たちが主従を引き
離す。シルフィを地面に押し倒して押さえつける二人。ヘリエルは
囲まれ、背後から頭を殴られる。集団暴行。ユウゼンは何も考えら
れず、飛び込もうとした。それを、シアンが足を掛けて止め、代わ
りにやけにゆったりと中心へ向かった。
﹁どうしてそう愚直﹂
﹁シアン!?﹂
青の傀儡はシルフィードを拘束していた二人に近づき、二人の戸
惑いの隙をついて剣を奪おうとする。だが振り払われ逆に切りつけ
られる。鮮血が飛び、シアンはそれでもその刃を奪い取った。肩か
ら胸に掛けて、明らかに深い傷だというのに。
シアンは自分でも言っていたように、武術に慣れない不器用な手
つきで重そうに、しかしまるで怪我などないが如く、あっけにとら
れる一人を斬り捨てた。
﹁この、化け物が⋮⋮!﹂
﹁ ﹂
何か、言おうとしたのかもしれない。
186
だが、もう一人に胸を貫かれて、シアンは口から血を溢れさせた。
その唇が苦しげに弧を描いたのは、気のせいなのか。シアンは胸を
貫かれたまま、相手の心臓に手中の剣を突き立てた。盗賊の目が見
開かれ、やがて倒れる。シアンの胸からずるりと赤く染まった刃が
抜け、シアン自身もその後を追うように倒れて屍に折り重なった。
空白。
約束通りシルフィードを自由にしてその身代わりになったシアン
を、信じられない思いで見ていた。本当に、そんなことをするなん
て。
シルフィードは半ば人形のようにシアンの手から剣を抜き取った。
血で染まる手のひら。
近づいていた盗賊の一人の片腕を斬り飛ばした。だが背後から別
の盗賊が近づいていて、ユウゼンは今度こそ走った。
もうこれ以上やめてくれ。祈りに近かった。
﹁後ろっ!﹂
言いながら飛び掛かる。迫る凶器を掠めながらかわし、顎を殴り
つける。拳の骨が折れそうな衝撃、不確かな感情。一人倒してもま
だ盗賊はいて、殴られ、蹴られ、嫌になる程の人数差で、シアンは
殺され、頭の中がぐちゃぐちゃで││││シルフィードの叫び声だ
けが明瞭に聞こえた。
﹁どうしてこんな事するんだっ⋮⋮!﹂
187
野次と、頭領の詰りが悲痛な響きを掻き消していった。
﹁黙れ偽善者! 反吐が出るんだよ!﹂
赤毛の頭目は狂気に染まった表情で拘束されたシルフィの前で剣
を構える。
﹁やめろ! その人だけはっ、だめだ、だめなんだ、俺が、俺を⋮
⋮!﹂
ヘリエルも獣のように暴れていた。ユウゼンも叫び声を上げ渾身
の力で盗賊を跳ね除けようとした。殴られ、一瞬意識が飛び、絶望
的な無力感の中、やけにゆっくりと、シルフィに向けて凶器が振り
下ろされる映像が
﹁今日は忙しいです﹂
﹁ぐあ⋮⋮?﹂
﹁え?﹂
ありえない幻想にすり替えられた。
なぜならその刃を肩口で受けたのは、シルフィードではなく。
それどころか、さっき、殺されたはずの、赤に染まった、青。
シアンだった。
少年は、返り血や己の血で汚れた全身で王女の前に割り込み、刃
で頭目の胸を突き刺した。あっさりと倒れ伏す頭目の、予想もしな
い末路。そして青の傀儡は、笑う。嗤う。
﹁何度身代わりになればいいのですか? あなたは﹂
188
異常な事態に静寂が広がり、そして遠くから大きな気配が近づい
てくるのが余計によくわかった。大勢の呼び声。猫かぶり、兵の集
団。
最後の寸前のタイミングで、オズの警備兵が救助に現れたのだっ
た。
頭を失った盗賊たちは浮き足立って次々と逃げ出し始める。
﹁シルフィ﹂
ユウゼンはシアンを見つめて立ち尽くす王女の下に身体を引きず
っていく。呼吸に血が混じっているような感触がした。ユウゼン様、
と誰かが呼んだことで、密かについていた自分の影が助けを呼んで
くれたのだと予想できた。どうせならもっと早く解決してくれれば
よかったのだと自分本位の最低な思考をする。この迅速さ、彼らと
て必死だったに違いないのに。
シルフィードは蒼白に泣きそうな顔をしていた。
﹁きず⋮⋮﹂
﹁あまり驕らないほうがいい。シルフィード。いくらそうならざる
を得なかったといっても僕は君のそういう所がとても嫌いだよ。こ
れは僕の意思で、気まぐれでやったことなんだから、君にどうこう
言われる筋合いなんてない﹂
﹁ごめんね﹂
﹁腹が立つね。いつまで変わらない気?﹂
﹁ごめんね⋮⋮﹂
﹁これだけ言っても他人の気持ちが解らないなんて、どうかしてる
よ﹂
﹁うん。そうなんだ。ごめん⋮⋮⋮⋮﹂
シルフィードは赤黒く染まったシアンを躊躇なく抱きしめて、何
189
度も何度も謝っていた。ユウゼンは理解できずにただ青の傀儡を見
つめた。知り合いだったのか⋮⋮
目が合い、シアンは少しだけ悲しげに笑った。
﹁出来損ないの不老不死。著しく体力が無いかわりに大抵のことじ
ゃ死なず、成長することもない。死がひどく美しく見える僕は狂っ
ています。首を切り落として、身体をバラバラにして、しばらく放
置していれば死ぬのでしょうが﹂
﹁軽蔑して欲しいなんて言うなよ⋮⋮﹂
ユウゼンが睨み付ければ、シアンはシルフィードの身体を引き剥
がしてユウゼンに押し付けた。血まみれのローブを脱ぎ捨てながら
初めと同じように言った。
﹁改めておかしな人だと思います。死ねなかったことが少し楽しく
なりました﹂
﹁お前よりは変じゃないって﹂
シルフィードが足を引きずりながらヘリエルのもとへ向かう。ヘ
リエルが倒れたまま腫れた顔で微笑み、壊れ物に触れるように王女
の頬に手を添える。王女はその手を自分の首筋に触れさせた。生き
ているよ、君も私も。
何も、知らなかったのだ。
ユウゼンは、シルフィードのことを。
だから、きっとこれは始まりの、胎動の声、がんじがらめの、鉄
鎖の白刃。
190
191
帰還と帰郷 ∼To
alIskandariya∼
﹁シルフィード様お待ちしておりました!﹂
﹁がぼばっ!!﹂
そうして懐かしきヘテロクロミヤのアカシア皇宮へ帰還した途端、
ユウゼンはセクレチアに顔面へこまされましたとさ。
残念無念。
逆にセクレチアに抱きしめられながら、シルフィードは一発KO
された皇子を見て慌てている。
﹁ゆ、ユウ││﹂
﹁大丈夫ですよ。ユウゼン様の顔に刺されたら即死する猛毒の虫が
付いていましたので。もう取れたと思いますよ﹂
﹁そう⋮⋮それは危ないところでしたね⋮⋮﹂
いえいえいえ。そんなわけないけど、どうやらまだ危険は去って
いないような気がします。恐い。セクレチアの視線が。待ってやめ
てまだ遣り残したことが。
すごく感情のない、それゆえに恐ろしさが伝わる声で、鬼畜女官
が言う。
﹁シルフィード様⋮⋮どうして、お顔が腫れてらっしゃるのですか
⋮⋮? 足にも、包帯が巻いてあるようにお見受けしますが││﹂
﹁あ、これは﹂
てめえ何怪我させてんだコラふざけんな畜生そうかそんなに死に
たかったのか上等だ鶏地獄落としてやる期待してOK、というセク
レチアの氷点下の視線に、ユウゼンは返す言葉もありませんでした。
192
もう生き延びる道はありません。潔くハラキリか落下かそれとも
吊るか、考えていると、シルフィードが頬を掻きながら笑った。
﹁これは、皆が守ってくれたから、こんなに大丈夫だったっていう
証⋮⋮かな﹂
﹁え⋮⋮﹂
そんなことを言われるとは思っていなくて。ユウゼンもセクレチ
アも顔を上げて、ぽかんと口を開けてシルフィードを眺めていた。
そんな風に言われたら、思わず赤面してしまう、というか⋮⋮。
シルフィはそんな様子には気付かず、逆にセクレチアの手首に触
れた。
﹁セレア⋮⋮どうしたの? 包帯。何か、あったの?﹂
﹁ああ、ちょっと掃除してたら打ってしまっただけですよ﹂
セクレチアはいつもの無愛想でさらっと受け流していた。しかし
確かに、セクレチアが怪我をしているなど違和感がある。
シルフィは眉をひそめたままそっとセクレチアの手を取る。軽く
口付け、数秒自分の額に押し付けた。
﹁早くよくなりますように﹂
ありきたりなおまじないの言葉なのに︱︱セクレチアの頬が赤く
染まるのが見えて、ユウゼンはなんて珍しい出来事だろうと呆けて
しまった。たぶんそれだけ、王女の役得は素晴らしいものがあった。
あなたが必要で、大事だと、いつでも純粋に伝えてくれる。そうさ
れると、自分という人間を許してもいいような気持ちになる。
でも、そんなシルフィが安堵する瞬間はあるのだろうかと、思い
始めていた。他人を心配する姿、助ける姿、期待に応える姿、それ
があまりにも多くて、少し恐くなる。
193
とまあ、せっかく人が真剣な考え事をしていたというのに、一体
なんなのか。雰囲気をぶち壊す従者・モリスが現れて、礼儀も忠義
もなく人のことを指差しやがった。
﹁ユウゼン様、生きてますね!﹂
﹁生きてるよ! なんなんだその直接的過ぎる確認方法! 見れば
わかるだろバーカ!﹂
色々あって死に掛けてようやく帰り着いた主人にたいして、ひど
い出迎え方だった。
いらっとして思わず口が悪くなる。けど、シルフィードの前なん
だし。ちょっと控えなければ。
そんなユウゼンの涙ぐまし︵くはな︶い努力を無視して、モリス
はトンデモ発言を連発した。
﹁そのつっこみ、お元気そうで至極結構ですね! 仕事溜まってま
すから! あとオルシヌス陛下から偶にはアレクサンドリアに帰っ
て来いとお達しが御座いました! さあ仕事をお供に行きましょう
!﹂
﹁行かねえよバーカ!!﹂
﹁えー﹂
もうだめだこいつは。なんだろう、最初は平凡で普通すぎて何も
言うことがないような人間という設定だったのに、いつの間にか筆
舌尽くし難い性格になっているなんて。あ、もしかして実はモリス
って何人かいるのか。はいはい、納得納得。
﹁頭大丈夫ですか?﹂
﹁ていうか、心を読むなよ⋮⋮﹂
﹁あはは、読んでないですよ、ただ台詞が心に浮かんできたんです﹂
194
それもかなりどうかと思うが、そんなことは置いておいて。ユウ
ゼンはモリスの言ったことをちょっと考えてみた。仕事が溜まって
いるのは予想していたことだから別にいい。問題は皇帝である父親
からの呼び出しだ。何か用事があるならば行かなければ仕方ない。
だがどうもそうでもないような。たぶん、姉のラティメリアは嫁に
行ってしまって取り合ってくれないし、妹のセラストリーナは引っ
込み思案だし、弟のカラシウスは性格的に冷たくて取り合ってくれ
ないからユウゼンでも呼んどくか、みたいな? 絶対帰らない。意地でも帰らない。
ユウゼンは断固拒否を仕草で示し、
﹁首都、アレクサンドリアか⋮⋮﹂
﹁え?﹂
そのとき、シルフィが唇に指先を当てながら、小さく呟いたのが
耳に入った。遠くを見るような、それは例えば、遠くへ行く人を見
送るときのような。
ぴんときた。もしかして││││
﹁シルフィ、アレクサンドリアに行ってみたいんですか?﹂
﹁え? え、えっと、それは、その、いえ、⋮⋮⋮⋮﹂
﹁?﹂
少女は聞かれた瞬間ひどく動揺して、なにかとんでもないことを
してしまったかのように、声を上ずらせた。なんだろう。ユウゼン
は首を傾げ、もう一度聞いてみる。
﹁アレクサンドリアが気になる?﹂
﹁そ、の、⋮⋮以前から、金緑の都と、名高く、マゴニアでも噂を
⋮⋮聞いていて、だから、少しだけ⋮⋮﹂
195
そうか、と途中で気がついた。
シルフィが自分から無意識にでも衝動的に何かを望むのをみたの
は、ユウゼンは今が初めてだった。異形討伐の事情はきっとそうい
うことではないのだろう。子どもがおもちゃを欲しいというように。
町人が酒を飲みたいと思うように。貴婦人が宝石を求めるように。
もちろん、一国の王女だったりすれば、わがまま放題をするわけ
にはいかないだろう。でも、全部押し殺してしまうのは違うし、欲
求があるのは恥ずかしいことじゃない。
﹁俺、子どもの頃旅人になりたかったんだ﹂
だから、考えながら話す。シルフィードは、うつむいていた顔を、
少し上げた。
子どもの頃の話。
今でも実は持ち続けている気持ち。
﹁オズも、まだ見て回りたい。いつかマゴニアにも行ってみたくて、
ティル・ナ・ノーグも歩いてみたい。広大だっていう葦原の、首都
高天原に行ってみたい。北の島ヘルヘイム、ニヴルヘイム、イーハ
トーブにも。それにずっと南にあるっていうエル・オンブレ・ドラ
ドは黄金の島だとか。東には全然違う文化の国、アガルタ帝国だと
か崑崙虚、幸福の地ニライカナイっていうのもあるらしい。いつま
でもそんなこと考えてるとか、馬鹿かな?﹂
シルフィは反射のように首を横に振った。
﹁全然⋮⋮! そんなことは、﹂
﹁よかった。こんなんだから、わかるのかもしれない。もしシルフ
ィがアレクサンドリアに行ってみたいんだったら、一緒に行こう﹂
出来るだけ少女が考え込んでしまわないように、畳み掛けた。
そのときシルフィが涙ぐんだように見えたのは光の加減だったの
か。
驚くほど、印象的で綺麗だった。
196
﹁ありがとう。行ってみたかった、アレクサンドリアに﹂
戻ってきたばかりのヘテロクロミヤ・アイディスから西の都アレ
クサンドリアへ。
そうして、絶対帰らないと決めた三分後にアレクサンドリアに帰
ることにしたユウゼンを、モリスは長らく白い目でみていました。
197
深窓の姫君と二人の紳士︵1︶
中洲の中腹に造られた重厚な大門をくぐれば、そこはもうアレク
サンドリア城下だった。黄と深緑を基調にした石造りの建築物が放
射状に走る通りの間を彩り、シンボルめいた大聖堂が頭上にそびえ
る。大広場には街人、露店、商人、馬、彫刻と、あらゆるものが入
り乱れた。
﹁夕日が、建物の色に⋮⋮、﹂
日が沈む時間、明るい斜陽があったときにだけ、建築群は黄金に
輝いて見えた。シルフィードが思わず馬車の窓から身を乗り出すと、
沿道を囲んでいた人々から歓声が上がる。ようこそ。ようこそ。窓
から見下ろす子どもがこちらを指差している。手を振る夫人と叫ぶ
青年。天に溶けるような高い口笛の音。マゴニアの美しき王女と愛
すべきカカシ皇子の帰郷は、どこから噂になったのか、一大イベン
トと化していた。豊かで、陽気で、情に厚い人々の歓迎。それが王
城までの道標となった。
﹁見えますか? この通りの建物には壁画が描かれているんです。
アレクサンドリアの歴史が。あれが牛の家、隣が果実の家、向こう
が、王冠の家﹂
﹁本当だ⋮⋮すごい⋮⋮!﹂
街人の歓声の中を進みながら、シルフィードは馬車の窓から精一
杯身を乗り出した。迎えてくれる全ての人へ、笑顔で大きく手を振
る。
夕陽に染まる金緑の都に、いっそうに熱烈な声援が沸き起こった。
198
※
﹁あ、カカシ兄さん。五体満足?﹂
﹁心以外は健康です。ハイ﹂
﹁それはなにより。にしても流石シルフィード殿下、すごい人気だ
ったね﹂
﹁俺の人気もちょっと含まれていたと信じたいです﹂
﹁せいぜい一パーセントくらいじゃないかな^^﹂
というわけで、久々の王城で交わした兄弟の心温まらない会話で
した。
カラシウスはどうやら軍の調練のためにアレクサンドリアにいた
ようで、かっちりと鎧を纏い剣を佩いた姿は見るものの目を奪う華
麗さと冷たい苛烈さを兼ね備えていた。確かに、こんな外見をして
いる上に接してみると愛想がよく紳士的なら大抵の女は憧れるに違
いない。けど性格悪いからむかつく。
口でも勝てる見込みはないので、ユウゼンは大げさに肩をすくめ
てやれやれと首を振り、その場を立ち去ろうとした。
﹁セラストリーナにはもう会った?﹂
したけど早速失敗した。
話題が話題だけに、思わず尋ね返した。
﹁さっき着いたばかりだからまだ。今から行くけど、相変わらずか
⋮⋮?﹂
セラストリーナとは、ユウゼンとカラシウスの妹で、アレクサン
ドリア王城に暮らす第二皇女のことだ。今年で十六歳なのだが、薄
金の絹のような髪をした美少女なのに、とにかく控えめで人見知り
が激しいのである。そろそろ社交の場にも出た方がいいのだろうが、
奥手すぎて心配になってしまう。ラティメリアのように破滅的でも
199
困るが。
﹁もったいないよねえ。せっかく母様に似て綺麗なんだから、堂々
としてればいくらでも相手選び放題試し放題なのに﹂
﹁アホか! お前じゃあるまいし⋮⋮﹂
こいつは清らかで純粋なセラストリーナに対してなんて野暮なこ
とを言うのか。
﹁セラは、こう、優しくて知的で根性があって頼れる男が苦労して
苦労してやっと手に入るようなお姫様でいいんだよ﹂
カラシウスが白けた目をして一歩離れる。
﹁なにその重度のシスコン。ちょっと引くんだけど﹂
﹁変態的末期的シスコンのお前に言われたくない!!﹂
どう考えても姉のラティメリアが好きなカラシウスの方が重症だ。
しかしセラストリーナにはただ単に妹としてドライに心配している
だけなのだから、世の中よくわからない。
実を言うとユウゼンとカラシウスの母親は別の人で、それぞれラ
ティメリアとユウゼンが同じ生母、カラシウスとセラストリーナで
同じ生母となっている。まあ、そういうことでもないのだろうが。
とりあえず皆美系なのにユウゼンだけは父親の血を濃く引いたよう
な疎外感はあった。
﹁ユウ、││あ、お久しぶりです、カラシウス殿下﹂
そのときシルフィが姿を現し、こちらに向かって微笑んだ。もう
紫色に近い空の光と廊下の明かりが、王女の柔らかく生き生きとし
た表情を照らし出していた。アレクサンドリアに着いてからの彼女
はこれまでになく元気に笑い、驚き、喜んでいた。
200
なぜだろう、出来るならいつまでも見ていたいと思う。胸が軽く
疼き、ユウゼンは何度か深く呼吸を繰り返した。
﹁御見苦しい格好で申し訳ありません。ようこそ、アレクサンドリ
アへ。心より歓迎申し上げます﹂
﹁ありがとうございます⋮⋮! 素晴らしい街で、とても、感動し
ています﹂
カラシウスの愛想にシルフィもにこりと笑う。
﹁オズの軍服ですか? かっこいいですね!﹂
﹁おや、これはこれは⋮⋮身に余る光栄﹂
カラシウスは甘いマスクで微笑み、余裕たっぷりにちらっとこっ
ちを見た。やばい。すごい張り倒したい。と思えば、シルフィは予
想外のことを口にする。
﹁私にも似合うでしょうか? 着てみたいですね∼﹂
﹁え⋮⋮っと、それじゃあ、ぜひ││﹂
﹁あはははは!﹂
﹁カカシ兄さん? 何笑ってるのかな? シルフィード殿下がご所
望だと仰っているんだけれど?﹂
﹁いっ! コラ蹴るな馬鹿!﹂
カラシウスの美貌に感心したのじゃないとわかり、ユウゼンは思
わず弟を指差して笑っていた。が、カラシウスはその指を折る勢い
で払いのけ、シルフィードに見えない角度でガンガン脛を蹴ってく
る。素で痛いんですけど。でもやっぱりざまあみやがれ。
その辺の女官に頼んで軍服を用意してもらうと、シルフィは茶目
っ気たっぷりに男装して再び姿を現した。深緑と金の刺繍のそれが
201
似合いすぎていてちょっとびっくりした。
﹁どうです? ドレスより落ち着くんですよね、なんて⋮⋮﹂
﹁いやいや⋮⋮なんというか、凛としていて﹂
﹁負けました。貴方の為なら戦場の神も微笑むでしょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
完璧な台詞で遮るなよ。
シルフィードは、たそがれるユウゼンを見てくすりと笑い、不意
に目の前に立って右手を胸に当てた。そして、魅惑の瞳でこちらを
真っ直ぐに見つめ、
﹁それなら、私は、あなたのために戦場にも立ちましょう﹂
﹁ぶふっ⋮⋮!?﹂﹁げほっ!!﹂
兄弟は同時に激しく咳き込む。﹁シルフィード殿下、それでいい
んですか!?﹂と、珍しくカラシウスが必死な表情で確認し始める。
いや、けなされてるんだけど、なんとなく否定できない⋮⋮。
限界まで赤くなった顔を必死に冷まし、ユウゼンは深呼吸をした。
嬉しくないわけじゃないんだけれど。でも、やっぱり││
﹁それなら俺は、シルフィのために、どんな争いも起こさせないか
ら﹂
﹁え⋮⋮﹂
守りたい。
照れ隠しにぽんぽんとシルフィの頭を撫でていたから、少女がど
んな表情をしたのかはわからなかった。シルフィードは俯いてしき
りに頬を擦っていた。何かついていたんだろうか。
202
カラシウスが呆れたように肩をすくめ、半眼を向けてくる。
﹁兄さんのそれって、わざとじゃないんだよねぇ⋮⋮﹂
﹁は? 何がだよ﹂
﹁嫌だな、天然のたらしって⋮⋮しかも、伊達に姉さんの弟してな
いよ。隠れた色気って言えばいいのか⋮⋮やれやれ﹂
﹁何それ褒めてんのか?﹂
﹁さあねえ。自分で考えたら? 一生わかんないかもしれないけど﹂
何かよくわからないことを言われ、首を捻っていると、ふと思い
出した。そういえばセラストリーナのことを話していたんだった。
どうせだから社交の第一歩として優しいシルフィードを紹介したら
いいかもしれない。将来の義姉という希望も込めたりして。
﹁シルフィ。頼みがあるんだけど﹂
﹁は、はい? なんでしょう⋮⋮﹂
﹁もしよかったら俺の妹の、セラストリーナに会ってもらえないか
なと﹂
﹁││あ。セラストリーナ皇女ですね⋮⋮! それは、ぜひ﹂
シルフィードは笑顔で快く頷いた。
203
深窓の姫君と二人の紳士︵2︶
アレクサンドリア王城の奥にある一角。
﹁セラ、久しぶり。元気だったか?﹂
ユウゼンが侍女に案内されて可愛らしい部屋に入ると、窓辺の白
いイスに腰掛けていた金髪の少女がぱっと立ち上がった。
﹁ユウ兄さん⋮⋮! 来てくれたんですね!﹂
少女は、ラベンダー色のドレスが雪のように白い肌に良く似合っ
ていた。白と緑で統一された部屋と、窓からの壮大な夜景がおとぎ
の世界にきたような印象を与えていて。まさに深窓の姫君という言
葉はセラストリーナのためにあるんじゃないだろうかと思われた。
母親譲りの繊細でまっすぐな金髪に、カラシウスの妹と納得でき
る美貌が映え、また綺麗になったなと年寄りじみたことを考えたり
する。これで、人見知りが激しくなければ完璧なのだが、あまりに
人前に姿を現さないから国民にも諸外国にも地味な印象しかない。
もったいないとは思うが、家族の中でも特に自分には懐いてくれ
ているから、密かな優越感も手伝っていつしか甘くなっていたとい
うわけで。今ではシスコンといわれようと、ユウゼンはセラストリ
ーナがかわいくて仕方がないのだ。
少女はこちらに駆け寄ると、細い声で話し始めた。
﹁私は元気⋮⋮あのね、兄さんに教えてもらった楽器、マンドーラ
⋮⋮結構上手くなったのよ。先生にも、褒められたわ﹂
﹁そーかそーか、さすがセラ! じゃあ近いうちに聞かせてくれる
204
か?﹂
﹁え、えっと、うん⋮⋮もうちょっと、練習したら、ね⋮⋮?﹂
金髪の、人形のような皇女は、もじもじと手を組んでそう言った。
とりあえずその恥ずかしそうな上目遣いはマジでやばい。
約束、と言いながらユウゼンは幸せに浸りつつ絶対嫁にやりたく
ないと妄想し、
﹁カカシ兄さん。人のこと放って妄想に浸るのは止めてくれる? 気持ち悪いから﹂
﹁あ⋮⋮お兄様、と⋮⋮?﹂
見事にカラシウスに水を差された。気持ち悪いって⋮⋮。
﹁ん? どうしたセラ⋮⋮﹂
そのとき、セラストリーナが恐がるようにユウゼンの背中にしが
みつく。ま、まさか、カラシウスが自分の妹にまで!?
﹁くだらないこと考えてないでさっさと紹介したら? いくらカカ
シだからって何でも許されると思ってるの?﹂
﹁思考を読まれた!﹂
﹁声に出てるっていうありきたりなつっこみを強制させるってふざ
けてる? 失脚させるよ? セラストリーナも聞き分けのない餓鬼
みたいにカカシの後ろに隠れない。お客様に失礼だろう。さっさと
出てきて挨拶する。それともまさかその口は作り物だと?﹂
﹁す、すみませ⋮⋮﹂
マジ怖えぇ。
半ギレのカラシウスの冷たい口調が、今部屋の温度を確実に下げ
205
た。その指揮官口調はもはやえげつない。
セラストリーナも追い詰められた小動物のようにびくっとしてそ
ろそろと進み出てくる。救いの女神は当然のことながら、シルフィ
しかいなかった。
﹁いえいえ、大丈夫ですよ。突然お邪魔して失礼しました、セラス
トリーナ殿下。わたくし、マゴニアから参りましたシルフィード・
フリッジ・テンペスタリと申します。どうぞよろしく、して下さい
ますか?﹂
﹁ぁ、お、女の人⋮⋮﹂
カラシウスとは対照的、天使のような温かな笑顔で礼をとったシ
ルフィに、部屋の温度も緩和された。セラストリーナはどうやら軍
服から男と思っていたようで、安心したように呟いて目じりの水滴
を拭い、ぺこりと頭を下げた。
﹁し、失礼しました⋮⋮私、セラストリーナ・サン・アルティベリ
ス・アレクサンドリアです⋮⋮え、えっと、その、ぜひ、よろしく
お願いいたします⋮⋮﹂
﹁こちらこそ﹂
お世辞にもちゃんとしているとは言えない挨拶に、カラシウスが
やれやれと額を押さえている。まあでも、お前じゃあるまいし。や
たら人付き合いが完璧でも嫌だ。
その分シルフィは臨機応変で優しくて、セラストリーナともすぐ
に会話が繋がるようになってきた。
﹁セラストリーナ殿下は、楽器がお好きなんですか?﹂
﹁あ、は⋮⋮い、ヴァージナル︵鍵盤楽器の一種︶ですとか、ご存
知、ですか? これなんですが⋮⋮﹂
206
﹁これは、綺麗な細工ですね⋮⋮!﹂
﹁ユウ兄さんが、選んでくれて。気に入ってます⋮⋮﹂
﹁どうせだからセラの演奏に相応しいものがいいしな﹂
﹁カカシ兄さんはそういうのだけは拘るしね﹂
﹁そうそう、それしかないから⋮⋮って、なんでやねんなんでやね
ん﹂
﹁いや、やる気なさそうにノリつっこみされても﹂
﹁ふふっ⋮⋮﹂
和やかな空気が部屋にもどってきて、久々の一家団欒に貶されな
がらも楽しくなる。シルフィが側にいることも、嬉しくて少しだけ
心音がうるさかった。セラストリーナもなんだかんだいって頑張ろ
うとしているようだし││案外皆甘いから、カラシウスの叱責も不
要ではないのかもしれない。
﹁それで、セラストリーナ。そろそろパーティーとか出てみない?
今度丁度いい夜会があるんだけどね。デビュー戦って奴﹂
﹁え⋮⋮﹂
そのうち、カラシウスが有無を言わさない笑顔で提案してきた。
セラストリーナは明らかに怯えた表情をしてこちらに身を寄せてく
る。こうなれば、ユウゼンとしてはかわいい妹を守らないわけには
いかなかった。
﹁まあまあいいじゃないか、その内⋮⋮﹂
﹁いつまでもそんなこと言ってたら行き遅れるよ。時には度胸が必
要じゃないかな。シルフィード殿下みたいに素敵な方になりたいと
は思わない?﹂
言いかけたが、ざくっと斬り捨てられた。ごめんさい。
セラストリーナは、俯けていた顔を上げて、確かめるように頷い
207
た。
﹁それは││はい、⋮⋮とても﹂
﹁だろう? その夜会に出るなら兄妹のよしみだ、僕が完璧にフォ
ローしてあげよう。ついでにカカシ兄さんもね。それで絶対に恥は
掻かせない、ね?﹂
﹁は、⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
その誘導尋問的誘いに対し、セラストリーナも頷きかけ││たの
だが、最後の一文字を言う前にぴたりと固まってしまった。カラシ
ウスのこめかみがピクリと引きつる。待って、キレるな早まるな⋮
⋮。
願ったところで今一打開策が思いつかない。そんな、どうやら優
柔不断が嫌いらしいカラシウスの魔の手からセラストリーナを救っ
たのは、やはりシルフィしかいなかった。
﹁もしかしてセラストリーナ殿下、何か不安なことがあるのではな
いですか?﹂
﹁ぁ⋮⋮そ、の﹂
﹁おしゃべり、ですか?﹂
﹁だからそういうのは僕と兄さんがするから、いいって言ってるの
に⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ダンス、が⋮⋮﹂
﹁﹁ダンス?﹂﹂
ふっとこぼれた意外な単語に、三人はお互い顔を見合わせていた。
セラストリーナはダンスが苦手だった⋮⋮っけ?
そんな疑問系の視線を向けると、少女は慌てたように首を振り、
﹁その、先生以外とは、踊ったことが、ないから⋮⋮緊張して、失
敗しそうで⋮⋮﹂
208
﹁そうなの? 心配性だな⋮⋮﹂
﹁お前の図太い神経と一緒にするなよ。セラは繊細なんだから﹂
﹁じゃあ、どうする⋮⋮﹂
と半ばやる気のない言い合いをしていたところ、ふっと、ヴァー
ジナルの音色が響いてきた。シルフィが侍女を呼び、弾かせている
のだった。皆がそちらに注目すると、シルフィはにっこりと微笑み、
﹁じゃあ、今から練習すれば大丈夫になりますよ﹂
﹁い、今から⋮⋮?﹂
﹁なるほど﹂
ユウゼンは意を汲み取ってセラストリーナの手を取り、音色に合
わせて基本のステップを踏んでみた。突然のことに﹁きゃっ﹂と小
さな声を上げたセラストリーナだったが、練習の成果だろう、きち
んとこちらに合わせてついてくる。ラベンダー色のドレスが花のよ
うに揺れ、光のような髪が白い肌を彩った。ヴァージナルの音色と
窓の外に見える街明かり、微かな夜風がそれらを引き立たせ││、
一通り踊り終えるとカラシウスの上品ぶった拍手が鼓膜を揺らした。
珍しく、心底感心したような声だった。
﹁なんだ、素晴らしいじゃないか。その優雅さは才能かな﹂
褒められるとは思わなかったらしく、セラストリーナは恥ずかし
そうに俯く。
﹁でも、ユウ兄さんだったから、緊張しなかったのかも⋮⋮﹂
﹁えーと⋮⋮﹂
それ、褒め⋮⋮言葉? ちょっと考えていると、同じように感心していたシルフィがなに
か思いついたように。ふっとセラストリーナの前に膝をつき、胸に
209
手を当てた。
﹁では⋮⋮姫、どうか、私と踊っていただけませんか?﹂
﹁えっ⋮⋮!﹂
凛々しい軍服姿のシルフィ。その辺の騎士より優雅で美麗な紳士
っぷりで微笑むシルフィードに、セラストリーナの顔が一気に紅潮
した。
っていやいや、気持ちはわかるけど、ちょっと待て。それはやば
い。
﹁ふーん⋮⋮﹂
そして、一体どこにどう対抗心を燃やしているのか、実は馬鹿な
のか、カラシウスも同じようにセラストリーナの前に跪く。しかも、
セラストリーナの細い手の甲に口付けまでしやがった。
﹁かわいいセラストリーナ。どうかな、最高に綺麗にみせてあげよ
う﹂
﹁ぁぅ⋮⋮!﹂
ご婦人方を悩殺する危険な香りの微笑で、セラストリーナの瞳を
捉えるカラシウス。少女は耳まで赤くして固まってしまった。││
いやだから、それも駄目だって。しかもちょっとリアルだからその
分余計に。侍女も見蕩れちゃってるし⋮⋮なんだこれ。
そうして二人の紳士に求愛︵?︶されて固まるセラストリーナの
呪縛を解くべく、ユウゼンは妹の肩を叩き、シルフィの手を取った。
﹁俺と、踊ってくれませんか?﹂
210
全く。
そう言うだけでも気恥ずかしいんだから、自分は到底紳士には入
れそうもないと思う。
シルフィは、小さく頷き、初めて会った時のように二人で緊張し
て、ぎこちなく踊り始めた。
カラシウスとセラストリーナは完璧なステップを踏みながら、こ
ちらを見て笑いをこらえているようだった。顔が熱いけれど、離れ
たくはなくて。
﹁私、夜会に出るわ⋮⋮がんばってみる⋮⋮﹂
だから︱︱そんな声が聞こえたことも、夢の中で聞いているよう
な気がした。
211
酒屋の魔女︵1︶
あの、異形達に関わった出来事が幻だったかのように、アレクサ
ンドリアでの日々は明るく穏やかに進行していた。
ユウゼンはカラシウスに遊ばれ、セクレチアに時折蔑まれ貶めら
れながらも、めげずにシルフィードとの時間を確保しようとしてい
た。幼少より飽きるほど過ごしてきた場所なのに。シルフィが居る
だけで新鮮に感じられ、不思議な気分になった。
﹁シルフィ、もしよかったら今日は劇場に招待するよ。知り合いの
作家が新作を披露するらしくて。知ってるかな? アイボリー・ピ
アロって奴﹂
﹁しっ⋮⋮﹂
いつもの半死にの仕事終わり。セラストリーナとの楽器の練習を
終えたらしいシルフィを捕まえて提案すると、王女は目を丸くして
こちらを向いた。綺麗なシルヴァグリーンの瞳が、何だか猫に似て
いた。
﹁知ってます⋮⋮! 彼の”エアリアル・スノウ”、簡単な台本し
か見たことがなかったのだけど、ぜひ本物を見られたらと⋮⋮﹂
﹁よかった! 今度のは喜劇らしい。シャンデリエっていう題目で
⋮⋮﹂
文化・芸術の話ならいくらでも喋れる。セラストリーナの部屋の
前から廊下を歩き長い階段を降り、結構な距離があるにも関わらず
気づけば城の入り口を抜けていた。
そしてモリスに手配を頼み、庭園でシルフィと談笑しながら馬車
を待っていると、ふと走ってくる人影が見えた、ような気がした。
212
というか、実際そんな生易しい出来事ではなかった。
強烈だった。
具体的に言うとタックルだった。
﹁ユ、ウ、さ、ま!!﹂
﹁ふべろっ!?﹂
ありえない。なんでやねん。なんかした? したっけ? タック
ルされるようなこと?
そんな、まさかの激突する勢いで腰に抱きついてきたのは︱︱
﹁お、お前、⋮⋮もしかして、ビディー? ビディー・アーリーか
?﹂
本当に辛うじて受け止めて、衝撃から立ち直ろうと四苦八苦しな
がら声を出した。地味な黒のミニドレス、強いウェーブのかかった
黒髪を無造作に一つにくくった見覚えのある少女。
神秘的で大きな黒い目で、真っ直ぐにこちらを見上げてそれは嬉
しそうに笑っていた。
﹁そうです! やっぱり覚えててくれたんだっ⋮⋮あたし、今年ま
たお城に呼ばれてね、ユウ様に会えたらなって、そしたら、ほんと
にっ﹂
﹁わ、わかった、から﹂
とりあえず落ち着いて欲しい。
お願いします。
そんなささやかで切なる願いはどうやら伝わらないらしく、少女
213
︱︱ビディー・アーリーはユウゼンの両手を掴んでぶんぶん振り回
していた。しかも、途中でシルフィに気づいたらしく、はたと動き
を止め、むっとした表情をしてしまって。
﹁⋮⋮そういえば、この人、誰?﹂
﹁あほう! 失礼すぎてすいません! こちらはかのシルフィード・
オブ・マゴニアだぞ!?﹂
いきなり睨むなんて、とんでもないことをしでかす。
とっさに叱責すると、シルフィが戸惑ったような表情をすぐに消
し、いつものように笑った。
﹁初めまして、私、マゴニアから参りましたシルフィード・フリッ
ジ・テンペスタリと申します。よろしければ、お見知りおきを﹂
﹁あ。うんと⋮⋮﹂
優雅で柔らかい挨拶に、流石のビディーも一瞬見とれたようだっ
た。小さな声で﹁そっか、お姫様﹂と呟く。それから少し間をあけ
て、不承不承という感じで自己紹介を始めた。
﹁あたし、ビディー・アーリーといいます。アイナという村で酒屋
の店員をしてて、魔術が使えるから、偶にこうして呼ばれて、披露
したりしてます﹂
そう、ビディーはオズ皇国では珍しい、自然魔術師の素質があっ
た。そのため以前にも見世物として城に招待されており、ユウゼン
はそのとき初めて魔術を見た。その際、やけになつかれてもしまっ
たわけであるが⋮⋮。
ビディーは義務的に言い終わると、ぱっとこちらを振り仰ぎ、明
るい笑顔で言い募った。
214
﹁ね、ユウ様、今からヒマじゃない? あたしとご飯に行かない?
こういうこともあろうかと、うちからおいしいお酒持ってきたん
だよ!﹂
﹁あ、いや、実は今から⋮⋮﹂
﹁一回でいいからさ、お願い! どうしてもだめ? 絶対ムリなの
? あたしとはイヤ?﹂
﹁う、その、﹂
﹁どうぞ、行って来て下さい。私はまた今度でいいですから。せっ
かくの再会ですし﹂
﹁え゛﹂
そして。シルフィの優しい声が、今確実に心を突き飛ばしたよう
な気がした。若干頭がくらくらした。
だってビディーのことが嫌いというわけではないが、やっぱり今
日は、シルフィと劇場に行きたかったわけで。先に約束して、演劇
も楽しみにしてくれていたわけで。なにより、ちょっとは自分との
時間を楽しみにしてくれてるんじゃないかと思っていたから。
﹁そう! ありがとう。ね、行こうよ!﹂
ビディーが左腕に手を絡めて、歩き出した。
シルフィは一礼して本当にあっさり城の中へ戻っていく。
ユウゼンは引かれるままに歩きながら、半場呆然と王女が消えた
入り口を眺めていた。
215
216
酒屋の魔女︵2︶
︱︱孤独で、寂しくて、きっと浮いていたんだろうと思っている。
ビディー・アーリーが初めて首都アレクサンドリアに呼ばれた二
年前のこと。
生まれ育った顔見知りばかりの村から、迎えに来た立派な馬車に
乗って、一人きりで王城の前に降り立った。初めてその地に足をつ
けたとき、見上げて、立ち尽くしてしまった。アレクサンドリアは
煌びやかに物と人で溢れ、大きくて整然としているのにざわめき、
賑やかなのに誰も知らなくて、時間という時間が急いで走り回って
いるみたいだった。
﹃アレクサンドリアに招待いたします﹄
突然立派な身なりの役人がやってきてビディーにそう告げたとき
には、胸が高鳴った。
切実ではなかったにせよ、少女らしく村の縛りが息苦しくなると
きがあった。ビディーの家は酒屋で、ビディーは看板娘として毎日
同じ人々に同じように対応していたのだ。時々町へ出たり、友人と
集まったりはしたけれど派手なことも出来ないし、時々、ずっとこ
のままここでこうしているのかな、と寝る前に考えた。
だから、偶に旅人の客がやって来たときには嬉しかった。知らな
い、流行や信じられないような事件、大きな街の話を聞いて、いい
なあと憧れた。
一つだけ人とは違うことができた。魔術だ。まだ、オズでは珍し
い魔術の素質があって、お酒を飲むことで自然とイメージを捕まえ
ることが出来た。勉強して、それがはじめて﹁認識﹂なんだと知っ
217
た。手品みたいにすればお客に喜んでもらえるし、それが噂になっ
てビディーの酒は不思議な力が宿っている、なんて評判にもなった。
だからだろう。
オズでは非常に珍しい自然魔術師として、王城に招待された。
嬉しくて、何を考えることもなく、二つ返事で了承した。村の友
達も羨ましがった。大人たちは心配していたけれど︱︱それだって、
そのときは煩わしいとさえ思った。
ここから出られる。
少しの間、自由なんだ。
考えるだけで、心が浮き立った。
なのに、︱︱実際に来てみれば圧倒され、ただただ流されるだけ
だった。
城に、小さな部屋を与えられて、しばらくぽかんと外に広がる街
を見ていた。見慣れぬものばかりで、混乱してしまいそうだった。
着いてすぐ、城にふさわしいようにと衣装を着せられ、城の侍女
に大体の行動範囲を案内された。行っていい場所、だめな場所、大
広間、サロン、食堂、庭園、部屋への通路。本当に簡単に、挨拶や
礼もならった。ビディーはなんだかくらくらして、上手く覚えられ
なくて侍女を呆れさせてしまった。疲れてるんだ。いつもは、大丈
夫なのに。そう言いたかったけれど、どうしてか、言えなかった。
﹁あなたは、何が出来るの?﹂
同じように城に呼ばれた楽団や、曲芸団に声を掛けられることも
あった。
彼らは集団で、一人でいるのはそのときはビディーだけだった。
旅人の気さくさはあったが、仲間になれるはずもなく、そのとき初
218
めて一人で寂しいなと感じた。
こんなに人が居るのに。
こんなに、人が居ても。
自分が、とても小さく透明に思えて、居場所が見つけられなくて、
絵本の中のような現実味のない城中の部屋から、ずっと外を眺めて
いた。
﹁魔術を披露して下さい﹂
そう言われるまで、長かったのか短かったのかよくわからない。
アレクサンドリアに来て三日目だった。
﹁魔術、ですか?﹂
﹁ええ。もしかしたらオルシヌス陛下もご覧になられるかもしれま
せん。頑張って下さい﹂
そのために呼ばれたんだ、とは思っても、驚いて声が震えた。ま
さかそんなに大事になるなんて考えもしなかったから。余興、程度
なのだろうけれど。でも、この国と重なる人、こんな夢のような街
に住む人達を田舎の小娘が楽しませるなんて、本当に出来るのだろ
うか。ビディーは息が苦しくなった。
出来ない。
全然自信がない。
でも、今更出来ないなんて言えるはずがない。
219
そのときは魔術を容易に使うためのエレメントなんて当然なかっ
たから、本番前の舞台裏で、ビディーはいつも以上に酒をあおって
いた。酒を飲むことで、大体いつもふっと深層に入っていける。で
も、不安に押しつぶされたままで、上手く感覚がつかめず、あせっ
ていた。
披露する会場では楽団が演奏を行っており、時折歌声が漏れてく
る。この後が出番だ。堅苦しい感じはないようだが、明らかに見た
こともない雲の上の貴族たちばかりで、その華やかさと美しさがビ
ディーを余計に萎縮させた。
器量がよいなんて村では言われていたけれど。地味な黒髪に黒目、
癖の強い髪。特別容貌が優れているわけでもなく、体つきも普通。
少しくらい化粧をしてごまかしても、都会の令嬢たちに適う訳がな
かった。その上失敗したりしたら、絶対許されないに決まっている。
もしかしたら村にまで迷惑がかかるかもしれない。
頭を振って、酒をのどに流し込んだ。
味がしない。
ただ、熱い。
﹁ではどうぞ、こちらへ。出来る限り失礼のないようお願い致しま
す﹂
いよいよ侍女に案内され、ビディーはふらふらと進んだ。
本当に歩いているのかどうか、よくわからない。酔いでぐらぐら
する。顔は、真っ赤かもしれない。逆に、真っ青かもしれない。
帰りたい。
ふっと頭をよぎった切実な本音を、すぐに忘れようとした。必死
に握りつぶしている間に、目の前には煌びやかな人々がたくさんい
た。声を上げそうになって、なんとか押しとどめた。震える。そん
な場合じゃない。早く、しないと。教わった礼をとる。全然上手く
いかない。少しだけ、笑い声が起こった。恥ずかしい。楽にならな
220
い。
﹁炎を、出して操ります⋮⋮﹂
うわごとの様に言い、目を閉じた。集中できず、とても深層に届
きそうもなかった。どうしても周りを意識する。酒が、気持ち悪い。
そんなこと気にしてる場合じゃない。こんなところじゃムリ。お願
いだから。ああ、なんでダメなの︱︱
地獄のような時間だけが過ぎ、不審げな囁き声が聞こえた気がし
た。一分が何時間にも思われた。嘘。嘘なんじゃないの? そんな
呟きが耳に入ったとき、ああ、もうダメだ、と心が崩れた。
何も考えられなかった。涙が溢れ、視界がぼやけた。炎を見るた
めに薄暗くしていたから、ろうそくの明かりだけがちらちら揺れて
いた。
帰りたい。
帰して。
贅沢な事を考えたり、もうしないから村に帰して。許して。ごめ
んなさい、ごめんなさい、ごめんなさい︱︱︱︱
﹁︱︱はべろっ!!﹂
﹁!?﹂
その直後、どこからか盛大な奇声が上がった。若い男の声だった。
当然辺りは騒然となり、どうやら重要人物だったのか、ばたばた
と一斉に明かりがともされる。
ビディーは想外の事態に、涙もひっこんだ。
﹁ユウゼン様っ?﹂
﹁どうなさいましたか!﹂﹁敵襲!?﹂
221
﹁あ、の、えっと、なんていうか⋮⋮﹂
皆が注目したその場に居たのは、なんだかひどくばつが悪そうな、
シンプルな身なりの青年だった。地味だが端整な顔立ちで、それな
のに、遠慮なく衣装を料理で台無しにしている。食べようとして、
自分に向けて全部ぶちまけた、という感じだった。
そばで慌てていた従者が、事態を理解したのか動きを止めて彼に
白い目を向ける。
﹁⋮⋮ユウゼン様?﹂
﹁ハハハ、その、ちょっと、零してしまった、みたいな?﹂
﹁みたいなぁ? ちょっとぉ?﹂
﹁す、少し﹂
﹁少しぃ?﹂
﹁いや、だいぶ⋮⋮﹂
﹁だいぶぅ?﹂
﹁ごめんなさい、かなり、いや全部です俺は馬鹿です終わってます
すいませんすいません⋮⋮﹂
明らかに身分が高い上席なのに、従者にぺこぺこしている青年。
辺りは苦笑も含め、大きな笑いに包まれ、カカシ、なんていう声も
聞こえてきた。結局、彼はそのまま退室することにしたようだった。
不意に、声が聞こえた。
﹁あ、でも俺、彼女の魔術が見たいから、一緒に﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁実は前にも見たことあるんだけど、そのときは感動したな。もう
一回個人的に見たいから﹂
そうだったのか、と会場は和んだ空気に押されて、納得してしま
222
ったようだった。どうぞこちらへ、と彼の従者が人のよい笑顔を向
けてきて、ビディーは反射的に従っていた。
彼の背中だけを追っていた。わからなかった。カカシ、という単
語。カカシ皇子、と国民にとても親しまれている第一皇子がいた。
そうなのかもしれないと、ぼんやり考えた。次期皇帝と確実視され、
とてもじゃないけれど関わることなんてなかったはずで。
入ってはいけないと言われた城の奥まで歩くと、彼は止まった。
部屋の前。振り返った顔はやっぱり端整で、でも少し困ったような、
ひどく親しみ易そうな印象だった。それでもどうしていいかわから
なくて、心臓が跳ねた。
﹁えーっと⋮⋮どうする? なんか食べる? しばらく、部屋に居
てくれたら帰すからさ﹂
﹁あ⋮⋮すみませ、いえ、申し訳、ございません⋮⋮わ、たくし、﹂
﹁いいよ普通に喋ってくれた方が。同じくらいの年だろうし。ん?
違うか?﹂
﹁まあユウゼン様は、敬えるような部分が皆無ですからお気楽に、
ビディー様﹂
﹁うわー断定されたー﹂
やっぱり、そうなんだ。
ユウゼン殿下とわかり、しかしそれ以上に気軽過ぎる雰囲気に戸
惑っていた。彼は部屋に入ると、ビディーを小さなテーブルの前に
ある椅子に座らせ、衣装室に入っていった。おそらく彼の私室で、
流石に豪華だが、頻繁に市井の商品が置いてあったりと温かい部屋
だった。
見とれているうちに、着替え終わった彼が出てきて、同じタイミ
ングで料理が目の前に運ばれてくる。簡単な、パンとスープとフル
ーツの盛り合わせ。
ユウゼンは目の前に腰掛、ビディーに食べるように薦めると、自
223
分も祈りを捧げて手づかみでパンを食べ始めた。
﹁やっぱ豪華すぎるのもあれだよなあ⋮⋮。これくらいがちょうど
いい﹂
酔って、眠ってしまって、夢でもみているのかもしれない。
本物みたいで、暖かくて心地のいい夢。
﹁あたしの、こと⋮⋮知らなかった、ですよね?﹂
﹁ん?﹂
食べながら書類をめくっていたユウゼンが顔を上げる。目が合う
と、少しだけ恐怖と緊張がよみがえり、ビディーは息をのむ。深く
て、優しい、あるいは様々な感情を流し込んだ海のような、黒に近
い茶色の瞳だった。ビディーが見たこともない瞳だった。彼だけの
もの、という気がした。
どうして嘘をついたんだろう、と気になって仕方なかったから、
ついに聞いてしまって。彼が自分の魔術を見たことがあるなんて、
嘘だ。
︱︱まるで、助けてくれたみたいに。
彼はすぐに気まずそうに目をそらして、ぽつりと口にした。
﹁どうだったかな。知ってたような、知らなかったような﹂
﹁あたし、魔術が、上手くいかなくて、﹂
﹁あんなところじゃ仕方ない﹂
﹁インチキ、かも、しれないですよ⋮⋮﹂
﹁そうなのか?﹂
224
不意に、彼が笑った。
そんなことないだろう、と包み込むような笑みだった。たとえ、
本当にインチキだったとしても︱︱
﹁泣くなって⋮⋮﹂
孤独が、溢れてきて止まらなかった。これは涙なんかじゃないん
だ、と思った。寂しさ。孤独。望郷。緊張。当てはまっても言い表
せなかった。
寂しい。帰りたかった。ここは、自分の世界じゃないみたいだっ
た。一人だったんだ。あたしはここにいても、ここにはいなかった。
ビディーは泣きながら、何度もそう言って凍った心を溶かした。
﹁もう、ここにいる。帰ってもいいし、居てもいい﹂
一瞬だけ彼の手がビディーに触れて、離れた。
それからビディーは、泣きつかれて、テーブルに突っ伏して眠っ
てしまった。気づいた時は朝で、びっくりするほど心地いい寝台の
上だった。ぼんやり辺りを見回すと、眠る前と同じ部屋で、早朝の
白い光が執務机で眠っている彼の姿を照らしていた。
ビディーは、そっと近づいて、肩に手を掛けようとした。
邪気のない横顔。
なぜだか泣きそうになって、触れられなくなった。ずっと見てい
たいのに、まともに見れなかった。
ビディーは結局、片隅の窓際に椅子を引っ張ってそこに座り、窓
の外を眺めた。
美しく広がる金緑の建造物。広場や大聖堂、大門、囲むように流
れる豊かな川の流れが見渡せた。
225
彼は従者に起こされて目覚めてからも、部屋に居続けるビディー
を咎めたりはしなかった。それどころか食事なども用意してくれ、
偶にたわいもないことを話しかけてきたりした。ビディーは大抵黙
って部屋の隅に座り、彼が仕事をする姿を眺めていた。驚くほど真
剣で、いい加減な様子など微塵もなくて、それだけでいつの間にか
時間が過ぎていた。
﹁アレクサンドリアも、そんなに悪いところじゃないんだ﹂
夕方になって、仕事が終わると、ユウゼンはそんな風に言ってビ
ディーを街に連れ出してくれた。その夜は夢のように楽しかった。
いろんな物を見て、気取らない人々と仲良くなった。
それ以来、ビディーはアレクサンドリアに滞在する間、出来る限
りユウゼンの傍にいた。村へ帰る別れの朝、どうしようもなく胸が
一杯になって、見送ってくれる彼の姿をじっと見ていた。一秒でも
いいから長く見ていたかった。傍に置いてと、言いたかった。声を
出せば泣いてしまう。だから、どうしても言えなかった。
﹁またな﹂
手を振っている。
︱︱あたしは笑えないけど、笑っていて。
226
遠ざかる街を見ながら、いつまでもそう祈っていた。
227
酒屋の魔女︵3︶
﹁ねえ、怒ってる?﹂
ビディーがそう聞いてきたのは、行きつけの酒場で頼んだ料理が
テーブルに並んだ頃だった。目の前で、野菜スープや燐魚の包み焼
きが湯気を立てていた。
ぼーっと食べようとしていたユウゼンは、ちょっとだけ彼女を見
て、首を横に振る。
﹁や、別に、そういうわけじゃない⋮⋮﹂
言葉の割には、自分でも暗い声を出していると思う。どうにも上
手く制御できないのだ。本当に、自分らしくない。
黒髪の魔女はうつむき気味に言った。
﹁ごめんなさい⋮⋮でも、どうしても﹂
︱︱再会の嬉しさを知らないわけではなかった。
実際ユウゼンだって、一人のときに思いがけなく懐かしい人に出
会えば、食事くらい誘っただろう。ビディーだってそういう人には
違いない。
だけれど。
今日は、よりによってシルフィと約束していた。マゴニアの王女
という配慮は抜きにしても。
よくわからないが、あせる気持ちもあったのだ。結局、あんなに
あっさり引かれるとは思わなくて。確かに自分も押されてはっきり
ビディーの誘いを断れなかったのは悪いが。
怒ってるわけじゃなくて、落ち込んでるんだよ。
228
口に出掛かったセリフを喉の奥に落とし込み、ユウゼンは思い切
ってグラスの酒を一気飲みした。
﹁もういいって! 飲もう食べよういただきます!﹂
空腹感もいまいちで、騒ぎたい気分でもなかったが、自棄酒なら
余裕で出来そうだった。
﹁うん﹂
ビディーもようやく顔を上げて食べ始める。持ってきてくれてい
た彼女の秘伝という酒は、流石においしくていくらでも飲めそうだ
った。シルフィ、なにしてるんだろう。頭をよぎるそんな思いが腹
立たしくて、ビディーの笑顔と食事に溺れようとする。
﹁それ、もう空だよ⋮⋮!﹂
屈託がないようで、少し臆病さものぞくビディーの笑みは素直で
嫌いじゃなかった。酒屋の看板娘らしく、気さくな世話焼きも、年
頃の青年なら惹かれるだろう。行きつけの店だったから、常連の連
中にからかわれながら、ユウゼンはもうムリだと思うまで、ムリだ
と思っても飲んで飲んで飲みまくった。
﹁ね、大丈夫? 歩けるの?﹂
﹁だいじょーぶだいじょーぶ⋮⋮﹂
夜も更け店を出る。そのときには支えられて歩くのが精一杯とい
う醜態だった。まあ、意識はあるし、最悪の事態ではないだろう、
なんてふらふらと考えていた。
﹁馬車に乗られますか﹂
229
すっと、護衛の影が話しかけてきて、ユウゼンは頷いたものの、
実際にそうしようとしたところ吐き気に耐えられなくなった。
﹁ちょ⋮⋮止まっ⋮⋮﹂
ビディーと護衛は慌てたようにユウゼンを外に連れ出してくれる。
道路沿いの木の裏側に回って、二度吐いた。咳き込みながら、やけ
に苦しくて、ひどく馬鹿馬鹿しくなった。疼く心の屈託も全部吐き
出してしまえればよかった。
﹁大丈夫、大丈夫﹂
ビディーは背中をさすりながら、呟くようにそう繰り返していた。
いつの間に用意したのか、水と布を差し出してくれる。収まって、
口の中をゆすいで口元を拭き、空っぽのような気分のまましばらく
道端に座っていた。
ビディーも隣に腰掛け、同じようにじっと夜の街にうずくまって
いた。もう、人も建物も夜に沈んでいる。木の、風に震える音がし
みこむように響いていた。
﹁あたし、初めてこの街に来たとき、別の世界に来たみたいだった﹂
思い出した。確かに、ユウゼンが初めて目にしたのは、押しつぶ
されそうな一人の少女だった。
もう、ひどく遠くぼやけた思い出。
﹁でも、村に帰るってなったときには、本当にイヤだった。ここに
いたかった。そう、言いたい人が、⋮⋮一人だけいた。臆病だった
から、何にも言えなかった﹂
230
ビディーは、不意に立ち上がった。夜の静寂に波紋を立てること
におびえるように、そっと︱︱
﹁好きです﹂
座るユウゼンを正面から抱きしめて、ビディーは言った。
温かい身体を感じ、細い肩越しに見える夜が、揺れた。
まっすぐで、真実の言葉が、ユウゼンの心の一番弱いところを傷
つけた。
このまま抱きしめ返そうか。
なんて。
頭の冷静な部分で考えているだけなんだ。
柔らかい緑の幻影がいつまでも脳裏に揺れていた。
遠くに憧れて、消えてしまうだけの信じられないほど美しく優し
い瞳。
こっちを向いてほしい。
そう願っていただけで。
滲んで、零れ落ちた。
﹁俺は︱︱あの人が、好きだ﹂
呆然と呟いた。ビディーがゆっくりと離れた。闇の中で、ビディ
ーは泣いていた。でも、泣きながら、笑っていた。
231
﹁泣かないで⋮⋮﹂
いつか、彼女にそう言った気がした。
夜の片隅で。
暖かい手が濡れた頬を包んで、温めて、離れていった。
232
酒屋の魔女︵4︶
セクレチアは、出かけていったはずのシルフィードが部屋に戻っ
てきたのを見て、驚きに首をかしげた。ちょうど、寝具の準備をし
ていたところだった。
﹁どうかなさいましたか? 忘れ物ですか?﹂
﹁いえ、今日はやっぱり出かけないことにしました﹂
尋ねる間にも、シルフィードは鏡台の前にある椅子に腰掛け、鏡
を見ながら髪飾りを取り始める。あくまで丁寧な手つきだった。
﹁あ。私にお任せください⋮⋮﹂
セクレチアは一旦準備をやめ、急いでシルフィードの髪を梳きに
向かった。美しい王女は、下ろされて丁寧に整えられる髪を鏡越し
にじっと見ていた。
多少憂いているような。珍しい表情。
セクレチアは何かあったなと、鶏への殺意を密かに再燃させなが
ら、聞いた。後でちょっとくらい絞め殺したほうがよさそうだ。
﹁何か、ございましたか?﹂
﹁こうして、着飾ったり手入れをして美しくしなかったら、︱︱私
は私ではないのかな﹂
答えにならない返答。微かにため息が出た。
﹁シルフィード様はシルフィード様だと思います。仮定など仮定で
しかありません﹂
233
﹁ごめん、そうだね。わかってるんだけど、上手く、言えなかった﹂
﹁いいのですよ。私にはどのようなことを言われても。例えばこれ
からシルフィード様が私と一緒に逃げ出したとしても、私にとって
の価値は何も変わりませんから﹂
﹁それは、楽しそうだ﹂
少女が笑う。
セクレチアはそっとブラウンの髪を手にとって櫛を通した。少し
癖はあるが、繊細で柔らかかった。
﹁⋮⋮髪の艶が、綺麗ですよ。以前は痛んでいらしたのですが、だ
いぶ元気になられたのではないですか﹂
﹁オズに来てから、すごく楽しかったからかな。セレアの手入れが
楽になるなら嬉しいよ﹂
﹁寂しいような、嬉しいような、ですね﹂
﹁あはは。私もセレアに髪を梳いてもらうのが好きだから、同じだ
ね﹂
シルフィードは明るく言いながら、もうすっかり暗くなった外を
眺めていた。セクレチアは視線を一瞬追い、もう一度尋ねかけた。
﹁行きたかったんじゃないですか?﹂
﹁ん? ⋮⋮﹂
少女は別にいい、という風にあっさり首を振っている。
シルフィードは期待しない。
期待しないように、望まない。
望まないように、自分を省みない。自分のことを口にしない。生
まれ育ったテンペスタリ家の家訓が徹底的に刷り込まれていた。
人ありて己あり。
234
マゴニアでも、シルフィードは慈善家だと言われていたが、それ
はただ家訓を実行しているのに過ぎなかった。呼吸をするように。
人のために。そうしなければ、許されなかったから。まるで奴隷の
ようだった。
﹁ユウゼン殿下はどうしたんです?﹂
﹁偶然、親しい方と再会していらしたから、私が遠慮したんだよ。
魔術を使えるという、とてもかわいらしい方だった﹂
﹁は⋮⋮? 遠慮? 女?﹂
なんだか鶏を死なせる単語がいっぱい出てきた。丸焼き? もう
丸焼きしかないか?
セクレチアは火のエレメントの在庫を思い浮かべながら、櫛を持
つ手に全握力を込める。シルフィードという存在がおりながら、よ
りによってそんなわけのわからない女と出かけて行ったとは。あり
えない。死ね。即死ね。この世から失せろ。
﹁楽しんでいてくれたらいいよね﹂
しかも、シルフィードは暢気な言葉を口にしている。
怒りが一周して、セクレチアは脱力した。思わず口にしてしまっ
た。
﹁シルフィード様は、嫉妬という言葉を⋮⋮ご存知です⋮⋮?﹂
﹁もちろん、知っているよ﹂
﹁では、そのユウゼン殿下と出かけた女に対して、何か思われませ
んでした⋮⋮?﹂
﹁いや。よく知らない人だったしね﹂
何か考えた方がよかったのかな。
235
セクレチアはシルフィードに対して、ようやく口をつぐんだ。も
う、傷つけてしまいそうだった。これ以上は言えない。
王女は本当にあっさり譲ったのだろう。鶏にもようやく同情が芽
生え、何をどう言えばいいのか悩んでいたところ、部屋のドアがノ
ックされた。なんと鬱陶しいタイミングなのだろう。魔術で吹き飛
ばしたい感情に駆られながら、セクレチアは扉を開けた。入ってき
たのは武官のヘリエルと猫かぶり︵三毛︶だった。
﹁こんばんは、女王さま。いらしたのですね。いい知らせを持って
きましたよ﹂
﹁おや、いらっしゃい⋮⋮!﹂
シルフィードは全くの平常通り、にこやかに出迎える。猫かぶり
は淡々と丁寧な礼をすると、珍しく感情のわかる声で、こう告げた。
﹁ウォルナッツの子どもが、無事に生まれました。元気そうでした
よ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
シルフィードが立ち上がり、絶句した。髪飾りの花が一つ、床の
上に舞い落ちる。やがて少女は、どうしていいのかわからないと言
う風に猫かぶりに近づき、すがるように、震えながら抱きしめた。
﹁そっか⋮⋮そっか⋮⋮! よかった⋮⋮わたし、﹂
生きていてよかった。
セクレチアには、涙にかすれた声がそう聞こえた。
﹁行こう! 今すぐ、私も、見に行くから!﹂
﹁王女の役目はよろしいのですか?﹂
236
﹁⋮⋮少しなら、私が引き受けますよ﹂
﹁ありがとうセレア! 早く、ね?﹂
﹁ではヘリエルと行って来て下さい。僕も来たばかりですし、久々
のアレクサンドリアでセクレチアと商談でもしています﹂
﹁うん、知らせてくれてありがとうね﹂
なんと危うく、切ない喜びなのだろう。
セクレチアは部屋を飛び出すシルフィードを見送りながら、この
まま全てが上手くいくようにと切実に願っていた。
237
Figure
of
Futurology....﹁西方の森の伯爵﹂︵前書
気付けば頻繁に視点が変わってしまっていてすみません;;
読みにくいなどあれば教えてください⋮!
238
Figure
﹁はあ⋮⋮﹂
of
Futurology....﹁西方の森の伯爵﹂
ユウゼンは若干腫れぼったい目を軽く押さえながら、深夜の城門
を潜った。
やけに色々あった。
酔っていたとはいえ、思い出したくもないような事。または、胸
が痛くなるような。
ビディーの純粋で飾らない言葉に触れて、思わず自分の本音もこ
ぼしてしまった。ふられていたとしても、何も思われていなくても、
今の自分はシルフィードが好きなのだと。あまりに馬鹿馬鹿しすぎ
て、泣くしかなかった。なぜ自分は第一皇子だったのだと悔しさや
怒り、悲しさが噴出した。
自分だけじゃない、どんな身分にだって、望まない婚姻など珍し
くない。それでも、それならそれで、好きだと絶対に口にしなけれ
ばよかったのだ。それだけの意志は持っていたはずだったのに││
││
ビディー。
あまりに真っ直ぐで、正しいとか、間違っているとか、浮かびも
しなかった。
所々燭台があるだけの暗い廊下。深緑の絨毯が闇を吸い込んでい
る。
窓の外には月もない。
うつろに私室への道を辿りながら、ユウゼンはぶつぶつと、世界
を変えられるだけの言葉を探していた。
239
﹁世界は、⋮⋮そうであると、定められている⋮⋮﹂
﹁││そこに心はあるのかい?﹂
﹁ほぶしっっ!!﹂
ああ、本当に。
そのときのありえない奇声のわけを、誰でもいいから懇切丁寧に
聞かせてあげたかった。
いきなりぞわりと背筋を撫でられたような恐怖体験。だってユウ
ゼンは今しがた自室のドアを開けたのだ。まぎれもなく自分の部屋
だ。もちろん一人用。深夜。部屋、暗い。人いる。声した。
つまり││
﹁暗殺!? セクレチア!? カラシウスっ!?﹂
﹁ん? 何を言っているのかな?﹂
パニックで切実な本音を喚くユウゼンの目の前で、不意に小さな
ランプの火が灯る。
そして、不気味な男の首から上が、顎の下から照らし出されて眼
前に出現した。
﹁ぎゃあああぁあ!! 幽霊! 生首! お化けが! 八つ墓村!
︵?︶ うわーうわ゛ーばばばぁあああ!! って⋮⋮﹂
240
ユウゼンは叫びまくって廊下に飛び出した瞬間我に返り、部屋に
駆け戻って、微動だにせず生首を照らし出すランプを思いっきり叩
き落とした。
﹁なにしてんねんワレなにしてんねん!? ここ人の部屋!? せ
めて最初から明り!? ていうか普通に訪問!!﹂
﹁どうやら 動揺のあまり後半部が言えないようだ﹂
﹁説明してんじゃねー!!﹂
ユウゼンは 疲れた。
※
﹁で⋮⋮なんの用だったんですか。むしろあなたはなんなんですか。
何の意味があって存在してるんですか﹂
﹁ん? ユウゼンは伯父さんのことを忘れたのかな? これでもハ
ルジオンの伯爵をしているんだがね。人はよく私を西方の森の伯爵
と呼んでいるよ﹂
﹁⋮⋮あーもう。知ってますよそんなこと。そういう意味じゃなく
て⋮⋮もういいですから、用件。早く用件。即。むしろくたばれ﹂
登場しただけでユウゼンをやつれさせた壮年の紳士は、皮肉を全
く理解しない態度でFAFAと笑っていた。
黒を基調にした完璧なお洒落で、年齢不詳の若々しい顔、白い髪
だけが逆に不釣合いに思われる。現オルシヌス帝の兄で、つまりユ
ウゼンの伯父にあたる、ハルジオン地方の伯爵だった。
オズは広いが、ハルジオンは海に面した一番西の土地で、ほとん
241
どが広大な森というどうフォローしようが僻地である。彼の前の伯
爵も退屈で投げやりになっていたという。そこにこの、皇帝の地位
も余裕で狙えたモデストゥス・フリッグ・シンダリアは、嬉々とし
て住み着いた。当時はそりゃあ話題になったらしい。そしてモデス
トゥスはよほどの用事がなければハルジオンからこちらへくること
はなかったので、ユウゼンもそう面識があるわけでもなかったのだ
が││
要するに変人なのだ。
どう考えても。
畜生め。
どんより根に持つユウゼンを意に介することもなく、西方の森の
伯爵は、椅子に座って勝手に部屋にあった積み木を取り出して遊ん
でいる。
﹁いや、偶に帰ってきたから会える人には会っておかなければ損だ
ろう? やれ、そんな死人のような顔をするもんじゃないよ。さっ
きの登場はちょっとした趣味だよ。うん。いわゆる悪趣味だ。ん?
もう寝るには遅い時間じゃないか。起きろ起きろ﹂
﹁痛いから積み木を投げるな! 子どもですかっ﹂
再・幻滅して寝ようとしたユウゼンは頭に木の角が当たって思わ
ず怒鳴る。マジでありえない。深夜だ今は。伯父じゃなかったら間
違いなく窓から落としている。いや、別にいいかも。問題ないかも。
今からでも遅くないかも。
と、そんな検討をしていていたのだが、ハルジオン伯爵はにこに
ことのんきに話を続けた。
﹁そう。ユウゼンはオルシヌス二世として即位する気かね?﹂
﹁え⋮⋮いや、まあ﹂
242
それは、妥当であるし。
いきなり、何を言い出すのだろう。
ユウゼンは突然の質問に面食らっていた。正直に言うと、怯んで
しまった。怯んだ自分に動揺した。
﹃世界ハソウデアルト定メラレテイル義務ヲ果タシテイレバ﹁決メ
ラレタ範囲﹂カラ落チルコトハナイト知ッテイタ定メラレタ未来ノ
皇帝決定事項ヲ怖ガッテモ何ノ意味モナイ不満モ不安モナイソウ出
来テイルンダカラアッタッテ仕方ガナイジャナイカ﹄
││そこに心はあるのかい?
ハルジオン伯爵の、言葉が一瞬にして脳裏をよぎり、かっと頭に
血が上る。心? 何言ってんだ。何も知らないくせに。何様のつも
りだ。
﹁なるほどな。ところでさっきユウゼンはくたばれと言ったが。そ
うなんだよ。まさにそこだ。ジャストミートー!﹂
﹁痛っ! だから痛いから積み木投げるな畜生! 危険ですから投
げて遊ばないで下さい!﹂
﹁ごみん﹂
﹁は、反省してねえ⋮⋮﹂
どこかの注意書きのようなことまで叫んだというのに、明らかに
誠意が感じられなかった今。
暗い怒りもどこへやら、落ち込んで体育座りで地面を眺めるユウ
ゼンを、やはり意に介さず、ハルジオン伯爵は再び話し始めた。
﹁つまりなんのことはない。知っての通り私には跡取りがいなくて
243
ね。隠居のことを考えて、ちょっと宣伝しておこうと思ったんだよ。
その辺から養子をとってもいいんだが、どうせだから向いている人
がいい﹂
﹁え⋮⋮﹂
ユウゼンは顔を上げた。それは完全に予想していなかったことだ
ったから、ぽかんとした。
確かに、モデストゥスには子どもがいない。誰とも結婚していな
いことになっている。でも、オズの人々は彼が生涯にただ一人、市
井の女性を妻にしたことを知っている。王家に認められなかったし、
長く生きられなかったというその人を、おそらくハルジオンの人々
が語り継いだ。
未来の皇帝に、平然と伯爵の跡継ぎを薦めるとは。
わけが分からないくらい気が抜けて、初めて、自然と言葉が出て
きた。
﹁⋮⋮ハルジオンは、良い所ですか﹂
この人が変人だといわれるのは、純粋であることと同義なのだ。
きっと。
問いかけに対して、西方の森の伯爵は自信たっぷりに大きく頷く。
﹁実に素晴らしいよ。来てみれば分かる。そう、森の砂漠の奥深く
の、海に届く場所にある小さな島がある。時間になると陸から島へ、
虹が架かる。それは︱︱﹂
244
話は尽きず、結局いつの間にか夜が明ける。
テーブルの上の積み木は積み上げられず、大きな丸の形に広がっ
ていた。
どこがどうとは言えないけれど、やけにこの人らしいと、ユウゼ
ンは思った。
245
欠けたる者達の女王︵1︶
伯父である西方の森の伯爵と語り明かしたその後、ユウゼンは軽
いとは言い難い足取りで城の廊下を歩いていた。
寝不足。喋りすぎ。喉痛い。頭痛が痛い︵?︶。
とまあ、そういう理由もあるが、それより何より、今からしよう
とすることに、一番気後れしていた。
シルフィに、会う。
会って、どうしようとか、全然考えていないけど。とにかく。
だってもう、どうしたらいいのかわからない。シルフィが何を考
えているのか、自分の事をどう思っているのか全くわからない。ど
んな覚悟をするにしろ、話をしないと決められない。俺のことをど
う思っているんですかと││
﹁うわームリムリ絶対ムリ聞けるわけないバカだろ自分なんだそれ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ユウゼン殿下⋮⋮?﹂
﹁こぽっ!? な、なんでもないです⋮⋮﹂
なんということでしょう。どうやらもう彼女の客室の前に着いて
いたらしく、控える自国の侍女に一人つっこみを聞かれてしまった。
何この人頭大丈夫、的な視線が痛い。穴があったら入りたかった。
﹁あ、あの、⋮⋮シルフィード殿下に、話があるから通してくれ﹂
傷付いた心を誤魔化しつつ、侍女たちに頼んだ。すると彼女らは
一度顔を見合わせる。微妙な反応。嫌な予感を覚えつつ返事を待っ
ていると、一人が代表しておそるおそるといったふうに口を開いた。
246
﹁その⋮⋮シルフィード殿下は気分が優れないので、面会はご遠慮
願います⋮⋮﹂
﹁はい?﹂
なんという。
ユウゼンは思いもしなかった返答に、衝撃を受けた。何度か聞い
た覚えのある定型文だった。
しかし、この、タイミングで? も、しかして、会いたくない、
とか? そういう? いやでも、別に、そこまで嫌われる覚えは。
もしかして、実は怒っていたとか? それともホントに風邪? い
やまさか⋮⋮
﹁ああっ! もう! わけわからん! どうしろって! シルフィ
は本当に具合が悪いとっ?﹂
ユウゼンは半分自棄になり、頭を掻き毟りながら喚いた。
﹁そ、それは、⋮⋮﹂
﹁神に誓って? 自分の胸によく聞いてみても? 何が何でも? 絶対間違いなくっ?﹂
﹁う、い、え、そういう、問題かと言われますと、⋮⋮﹂
﹁じゃあどういう問題があって⋮⋮! 俺は、ただ! ただ、シル
フィ、に﹂
寝不足で頭の中がぐちゃぐちゃになり、感情が溢れて目頭が熱く
なる。侍女がびっくりしたように立ちすくんでいた。いけない。馬
鹿か。ユウゼンは自分を戒め、深い呼吸と共に何もかもを押し込め
る。それくらい、できる。できるのだから。
247
﹁ユウゼン殿下。シルフィード様は、⋮⋮部屋には、いらっしゃら
ないのですよ⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮? な、なんで﹂
静かに事情を明かした侍女たちは、理由は知らないという風に首
を横に振り、黙って扉を開けて通してくれた。ユウゼンは、半ば操
られるように待合室を通り、奥のもう一枚のドアをノックした。
﹁⋮⋮セクレチア?﹂
返事はなかった。だが、しばらくすると誰かが内側からドアを開
けてくれた。マゴニアの女官かと思いきや、
﹁おま⋮⋮猫、かぶり⋮⋮﹂
﹁どうも。お久しぶりです﹂
猫の顔︵三毛︶だった。要するに、ユウゼンが初めてアカシア皇
宮で目にした猫かぶり。確か、あのときもこうしてドアを開けてく
れた。そんなに、昔のことじゃないはずなのに、やけに懐かしかっ
た。それに、この猫かぶりは⋮⋮。
ユウゼンはどう接していいのか迷い、微妙な、笑みとも言えない
表情をしてしまった。
﹁⋮⋮元気そうで、よかったよ。アレクサンドリアに来ているなら、
言ってくれれば歓迎したのに﹂
﹁いえ、お気遣い感謝します。昨日着いたばかりだったのです。ご
挨拶は申し上げようと思っていました⋮⋮と、いうより、﹂
トレードマーク、淡々とかわいらしい感じで喋っていた猫かぶり
︵確か区別名ボガゴンチャーミー︶は、ちらっと上目遣いでこちら
248
を見上げ、小首を傾げた。
﹁もしかして⋮⋮。わかってしまっていますか﹂
﹁⋮⋮たぶん﹂
﹁ひっかけ、でもなく?﹂
﹁そう聞く自体、なんていうか⋮⋮そうなんだろ﹂
ユウゼンは三毛猫かぶりの黒々とした作り物の目を見つめながら、
頬を掻いた。
﹁シアン﹂
小柄な猫かぶりは、││ユウゼンにそう呼ばれて、観念したよう
に肩をすくめた。
そして頭に被っていた猫のかぶりものを脱ぐ。
ふわりと、空よりも明るい青の髪と目が現れ、目を釘付けにした。
くぐつ
端正な顔立ちの少年。かつて盗賊に襲われたとき、シルフィード
の身代わりに身体を差し出した悲しき傀儡。
とりあえず、元気そうだった。
シアンは猫の顔をその辺に放って、髪を整えながら拗ねたような
口調で話し始めた。
﹁やれやれ⋮⋮バレるとは思いませんでした。未だかつてなかった
ことですし、これからもないと思っていました。まあ、両方の姿で
会う人自体稀ですしね。改めて、敬意を表します、ユウゼン殿下﹂
不完全だが不老不死であるところの彼が、顔をしかめながら口を
尖らせていると、姿相応の年に思える。ユウゼンは思わぬ再会に気
が抜けて、口元を緩めた。あれだけの大怪我だったから心配してい
249
たのだ。
﹁すぐに分かったってわけじゃない⋮⋮あのとき、初対面の感じが
よ
しなかったからな。シルフィの知り合いだったし⋮⋮それに、気付
かない方が失礼だろ﹂
﹁否、否。害無き化けの皮を被り、人知れず腹の皮を縒ることこそ
逸興。僕の僅少な歓楽を奪うとは何事ですか﹂
﹁また人を煙に巻くようなことを⋮⋮﹂
シアンは、猫かぶりの時とは随分異なる、抑揚のある喋り方で愚
痴った。
﹁猫を被れば世界が変わる。操り人形は人の世を堂々と歩ける。実
に愚かしく愉快なことではないかな、皇子。失礼でしたか、そのよ
うなことは詭弁ですね﹂
﹁⋮⋮悪い。確かにそうかもしれない﹂
﹁謝ることはありません。誤ることはあります。例えば、あなたの
頭が良いこと。僕が僕だということ。あなたは知らなくてもよいこ
とに気付くかもしれません。それは愚者よりも愚かしい所への道を
開くやも﹂
﹁は⋮⋮?﹂
シアンは白に近い灰色のローブを引きずるようにして、部屋の奥
へ歩いていく。天蓋つきのベッドに腰掛けていたドレス姿の女官が
すっと立ち上がった。
王女の身代わりをするセクレチアの視線には、何の表情も存在し
ない。ただユウゼンを見ていた。物を見つめるように。そこには冗
談も何もなく、肌が泡立った。
﹁⋮⋮シアン殿﹂
250
﹁うん。分かっている。ユウゼン殿下、初めに言っておくと、僕た
ちは蔑まれたことがある。だから、大切なものを守る時には容赦し
ない。蔑む者の残酷さをよく知っているからね。その上で、確認し
ておきたい事だ﹂
いつの間にかセクレチアとシアンは大窓を背に並び、ユウゼンと
対峙していた。
風の音がガラスの向こうで遠く鳴っていた。大きな鏡台の隅で、
微かな光がちらちらと揺れた。近い距離は、遠い。遠さは、敵意だ
った。
﹁シルフィードの事を本気でなく、覚悟がなく、将来の幸福が欲し
いのならば、もうシルフィードには会わないことだ。シルフィード
は、美しいが空虚で哀れでどうしようもない人形だから。彼女の言
葉も行動も優しさも、空洞みたいなもの。テンペスタリの運命に飲
み込まれた壊れた人形だ。あなたなら何となく気付いているんじゃ
ないかな? シルフィードがあなたに近づいたのは、弟のためだけ
だよ﹂
251
欠けたる者達の女王︵2︶
シアンは聞き間違いもしないはっきりした口調で、柔らかく平然
とした表情で言った。哀れむことの残酷さを知っている目だった。
捻じ曲げられた己を受け入れた凄絶な仮面。
セクレチアは黙ってユウゼンの背後を見つめているようだった。
肌がちりちりする異様な緊張感が部屋には満ちている。
言動次第でセクレチアは自分を殺すだろう。今までのような、冗
談ではなく。
ユウゼンはそれを感じ取り、一度深呼吸をした。深い、森のよう
な緑の絨毯の上を一歩前に進んだ。
﹁⋮⋮シルフィは、自分は嘘しか言わないと、言ったことがある。
他人の気持ちが分からない、とも。それから、軽蔑されたくないと
⋮⋮それは﹂
﹁真実です。彼女に本当なんてない。ものごとを深く考えれば生き
ていくことが出来ない。軽蔑されれば存在できない。知ってます?
テンペスタリ家の家訓は、初代マゴニア王が決めたものだと。王
家は恐かったんですよ。原住民である親切なテンペスタリ達が、自
分たちより支持されるのが。だから、閉じ込めた。人ありて己あり、
なんて笑わせます⋮⋮他人へ奉仕するだけの人生など、奴隷と何が
違うというのかな﹂
﹁シルフィは⋮⋮一体、何をしようとしているんだ? 今、どこに
⋮⋮それに、お前は﹂
﹁私は﹂
遮り、感情のない目で、今まで黙っていたセクレチアが呟いた。
﹁シルフィード様を傷つける人間を許さない。死んでもいい。愚か
252
だと思えばいい。あなたはシルフィード様を不幸にするから﹂
熱い。
異常な熱を肌に感じ、ユウゼンは思わず一歩引いた。
﹁っ⋮⋮な⋮⋮﹂
刹那目の前の空間が、床が、裂けるようにして炎を上げる。これ
は、魔術││││
﹁セクレチア⋮⋮! やめろっ!﹂
いつか見たビディーのそれとは比べ物にならない規模であり、確
実に人間を焼き殺すための威力を宿していた。説明を受けたときに
予感したが、やはり彼女は魔術師で。しかも炎は一瞬で消え失せる
ことなく唸るように宙で彷徨っている。火の粉が、熱気が向こう側
に立つ二人の姿を歪めていた。近づけない。声も、届かない。
拒絶されたと知った。優柔不断で、覚悟も持たないくせに踏み込
んだことを。シルフィは、知られてはいけない何かを持っていて、
ユウゼンには知る資格がなかった。
ほとんど、絶望していた。無理だ。酷すぎる。人形。王家。家訓。
なんだよ、それ。
それでいいのか。
││シアンもセクレチアも、世界はそうであると言ったのだ。そ
うであるから、何も変えることはできない。ユウゼン自身が確信し
たように。道は一つで、逃げ出すことすら出来ないと。世界はそう
できている。ここで自分が引けば、それは証明されるだろう。 253
寂しいな。みんな。
衝動に突き動かされる様にして、上着を脱いだ。入り口の側に置
いてあった水差しの中身を自分にぶちまけ、上着で頭を庇い、二人
へ向かって走った。焼け死ぬかもしれないという思いと怒りが混在
して、頭の中が真っ白になった。
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
呆れた笑い声が聞こえた気がした。炎を通過する瞬間、庇われる
ように手を引かれた。だからか、ほとんど熱を感じなかった。勢い
余って床に投げ出される。手をついて麻痺したような身体を起こす。
目の前にセクレチアがいた。シンプルな白いドレスの女は身じろぎ
一つせず、相変わらず何も見ていなかった。もしかしたら昔を、思
い出しているのかもしれなかった。
ユウゼンは昂ぶりに任せてセクレチアの腕を掴んだ。震えそうに
なる手で揺さぶった。
﹁何考えてるんだ! ちゃんと⋮⋮見ろ! 考えろ! あんたが死
んだら、シルフィはっ、⋮⋮﹂
琥珀の瞳が緩慢に瞬きしている。青白い顔。握り締められた燃え
尽きそうな煙草から、嗅ぎなれない独特の匂いがした。
﹁俺は、あんたが俺を殺そうとしたなんて、思ってない⋮⋮! 俺
は、死んでない⋮⋮あんたを罰したりしない⋮⋮シアン、お前だっ
て﹂
254
一度振り返り、自分の代わりに火傷を負ったシアンを睨み付けた。
面白くなさそうに皮膚の爛れた右頬を確かめていた少年は、きょと
んとした顔を向けた。
﹁いい加減にしろ。そうやって何でもかんでも決め付けるな。シル
フィのことも、自分たちの事も、未来も、俺も⋮⋮。シルフィは、
人形なんかじゃない。人間だ。笑うし、泣くし、喜ぶし、悲しんで、
精一杯生きてるじゃないか。嘘とか、本当とか、そんなのって無い
だろ。あんたやセクレチアがそう思っているだけで、俺は、寂しく
て⋮⋮!﹂
││信じているのに、信じあっているのに、分かり合えない。辛
い。どうしたら喜んでくれるのですか?
辛くなり、それ以上声が出なかった。溶ける様に、セクレチアの
乾いた頬に一筋だけ涙が伝った。
シアンのため息が聞こえた。
﹁ユウゼン殿下⋮⋮僕は、あなたが逃げると思ってました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁逃げた上でそんなことを言ったのだったら、許さなかったのでし
ょうが。お人よしでもないのかな。一応殺されかけたのに、不問で
すし⋮⋮僕はセクレチアが本気だとは思わなかったから、止め損ね
たのでありがたいですけど。まあ、非力な僕に止められたかと言え
ば疑問、⋮⋮うう、げほげほ﹂
セクレチアの腕から手を離し、ユウゼンは床で咳き込むシアンの
背をさする。火傷は右側の顔と首、左手の辺りにあった。侍女を呼
び、濡らした布で冷やす。シアンはすぐに治ると嫌そうに辞退した
が、放ってはおけなかった。
255
しばらくは、皆黙っていた。その内シアンが気を失ったように眠
ってしまい、ユウゼンは何度か迷った末、セクレチアに声を掛けた。
白いドレスの一部に煙草の灰が、不思議な模様を作っていた。
﹁あのさ⋮⋮偉そうなこと言ったけど、責任とかは、別にいいし⋮
⋮これまで、シルフィのことを守ってきて、俺よりずっと頼りにさ
れてるんだから、将来の事前向きに考えて欲しいと思っただけだか
ら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮。そうですか﹂
セクレチアは窓辺の椅子に腰掛け、ぽつりとそう言った。しばら
くまた黙り、その内ユウゼンはもう一度、今度はセクレチアとシル
フィードの出会いについて、尋ねた。セクレチアは、淡々と言葉を
返した。その次はマゴニアの事。それから、魔術の話。旅路の出来
事。毎日の仕事の話。質問して返答を聞き言葉を交わすだけ、苦し
かった心が楽になっていった。
﹁うん⋮⋮、﹂
寝苦しそうにシアンが目覚めたことで、会話は終わった。青の傀
儡はいやにぼんやり瞬きを繰り返し、起き上がるまでに時間がかか
った。ユウゼンが水を差し出すと、一応一口二口飲み込み、もうい
いというようにつき返される。火傷はきれいに治っていた。
﹁ああ、やれやれ⋮⋮面倒だ⋮⋮起きるんじゃあなかった⋮⋮いい
ベッドだし。寝よう。おやすみ世界﹂
﹁コラ﹂
そして再び寝ようとしたシアンを、ユウゼンは容赦なく叩き起こ
した。傀儡はひどく不服そうな顔をしたが、完全無視した。
256
﹁話は終わってない!﹂
﹁嫌だ嫌だ⋮⋮話したくないなあ⋮⋮いいんですか? ここから先
の話、もし漏れたら本気で死にますよ? 殺しますよ?﹂
﹁殺すとか簡単に言うな⋮⋮わかったから。言うわけないだろ。さ
っきも死に掛けたし。もう引けない﹂
﹁ああもう、本当に⋮⋮﹂
決意して約束すると、シアンも腹を決めたようだった。ベッドか
ら降り、猫の顔を被りなおしながら促した。
﹁シルフィードの秘密を知りたければ、僕ときてください。嘘しか
言わないという彼女の、これだけは真実です﹂
257
欠けたる者達の女王︵3︶
そしてシアンに案内されユウゼンが辿り着いたのは、アレクサン
ドリアから遥か遠く、東の国境辺りだった。今はもう深夜を通り越
し、夜が明けようとしている。人里離れた山中。一体このような場
所に何があるのか、どう考えても何もないように思えて仕方なかっ
たが、シアンは答えをはぐらかす代わりにシルフィードは絶対にそ
こにいるといった。嘘とも思えなかったし、巧妙に土の踏み固めら
れた獣道も存在している。それならば、草木を掻き分けてでも進む
しかない。ないが。
﹁ちょっ⋮⋮むり⋮⋮止まってくださ⋮⋮ベホ、ベホ⋮⋮﹂
﹁もうちょっとなんだろ? 頑張れって⋮⋮な? 頼むから。進ま
ないから﹂
﹁お、鬼⋮⋮鬼がいる⋮⋮いや、あくま⋮⋮ころされる⋮⋮しなな
いけど⋮⋮生き地獄⋮⋮ぜぇーぜぇー﹂
﹁はいはい。わかったから。キツイのは承知だから⋮⋮場所が開け
たら馬に乗せてやるから。頑張れ⋮⋮ほら﹂
﹁う、ぐ、ぐすっ⋮⋮ぐすん⋮⋮ひっく⋮⋮﹂
﹁泣き真似する体力があったら││いや、本気か⋮⋮本気泣きでも
なんでもいいから⋮⋮こっちも疲れてんだから⋮⋮とりあえず何で
もいいから足を動かせ。お願いします。進んでください。先へ一歩
でも﹂
折り紙つきの血統書つきだった。
シアンの体力の無さが。
まず、アレクサンドリアの時点で馬車での移動を要求してきた。
しかしそんな悠長な事をしている暇はなく、ユウゼンは嫌がるシア
258
ンを馬に括りつけるようにして山の麓までやってきたのだ。その間、
文句は数知れず、ありとあらゆる手段でことあるごとに休憩を要求
した。この年寄りをなんて扱いだ、とか、シルフィードに言いつけ
てやる、とか、今度流行の品を持っていってやるから、とか、脅し
から懐柔までバリエーション豊かに。
ユウゼンは、最初の方こそ聞き入れていたが、途中からは無視し
た。あまりに頻繁すぎてうざかった。というかシアンの要求通りに
休んでいたら、目的地に着くまでどれだけかかるか気が遠くなった
わけである。
山登りに入ると事態は格段に悪化し、シアンが身体的にだとした
ら、ユウゼンは精神的に同等なくらい参っていた。だって、泣かれ
ても。きついのはわかるけども。体力と精神力の削りあい。過酷過
ぎる消耗戦。ちくしょう。マジで早く着いて。目的地来ないかな向
こうから。
﹁うっ⋮⋮く⋮⋮﹂
﹁シアン? おい⋮⋮﹂
背中を押すようにして進んでいたが、その内シアンは糸が切れた
ように崩れ落ちた。ユウゼンもつられて体制を崩し、地面に手をつ
く。手袋越しに石と土の感触がした。額の汗を拭い、ぴくりともし
ないシアンの身体を仰向けにし、強めに頬を叩く。
﹁シアン。起きろ、まだ着いてない⋮⋮シアン? 大丈夫か? 目
を開けろ⋮⋮﹂
呼びかけても揺すっても全く反応がない。おそらく本当に限界だ
ったのだろう。仕方ない。目覚めるまで休むしかない。
本当に?
259
﹁おい⋮⋮いるんだろ⋮⋮? いるなら、馬を、預かってくれない
か﹂
ユウゼンは呼吸を整えながら、夜明けの薄明るい周囲に呼びかけ
た。護衛がついているはずだった。すぐに二人現れる。彼らはユウ
ゼンの馬の手綱を預かり、戸惑ったような視線を向けた。
﹁俺は、こいつを背負って上るから、馬を連れて戻ってくれていい
⋮⋮﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁着いてくるな。待つなら麓に居ろ。必ず戻る⋮⋮﹂
返事は聞かなかった。
ユウゼンは軽いシアンの身体を背負い、獣道を辿って上り始めた。
背中の重みは静かで、まるで生き物じゃないみたいだった。呼吸が
乱れる。自分のペースで歩けば、今までの行程が嘘のように体力が
奪われていく。時折土が足元で滑る嫌な音を立てた。枝や草木が、
行く手を邪魔した。
なんだかんだ言って、シアンの愚痴も気が紛れていたのだろう。
それも今はない。もう、朝日が昇る。追い越されるのが悔しくさえ
ある。どうしてこうまでして急ぎ、一体何を目指しているのだろう。
シルフィードに会って、一体、何を言いたいのか。
辛いのだ。歯を食いしばって、霞みそうになる目をこじ開ける。
辛い。どうにもならない不安定な状況が。苦しんで頭の中を真っ白
にすれば、それだけですむ。なら、自分さえ良ければそれでいいの
か。今こうしてここにいるのは、自分のためだけなのか。嫌だ。そ
うじゃなければいい。大体、どこに向かっているのか、さえも、知
らないというのに││⋮⋮
﹁は⋮⋮う、ん⋮⋮? あ、ぅ⋮⋮Atziluth⋮⋮﹂
260
どれくらい経ったのか、獣道と左手の崖に沿って進むこと半時間
は過ぎていただろう。背後でシアンが身じろぎし、不明瞭な呟きを
漏らした。
一気に疲労が襲ってきたユウゼンは倒れるようにシアンを地面に
下ろし、荒い呼吸を繰り返した。青の傀儡はまるで今初めて世界を
眼にしたんじゃないかというくらいぼうっと辺りを見回している。
地面を見、森を見、自分自身を見、ユウゼンを見て、ようやく理性
の色を取り戻し始めた。驚いたように目を見開き、それから少し咳
き込んで、最終的になんともいえない顔をした。
﹁そうかそうか⋮⋮ふむ⋮⋮ついに存在しえぬ領域まで来てしまっ
た訳だ。帰着⋮⋮到来、無頼かな?﹂
﹁なに、言ってるんだ⋮⋮はあ、はぁ⋮⋮ごふごほ⋮⋮いい加減、
教えろ⋮⋮﹂
﹁もう、すぐそこですよ﹂
ああ、ひどい目に合った、と平気そうな顔で呟きながら、シアン
は左手の崖を曲がって、見えなくなる。ユウゼンも半死ながらのろ
のろ着いていき││││目の前に突如現れた光景に、一時思考が停
止した。
﹁こ⋮⋮れは、﹂
﹁驚きましたか? 一応、村です。不便なところにありますがね⋮
⋮名前はありません。僕は必要なときには勝手にアツィルトと呼ん
でますが。大丈夫だとは思いますけど、気をつけてください﹂
確かに、村と呼べた。
三方を崖に囲まれ、切り取られたような空間の中に、粗末な施設
が並び、ある程度の生活空間となっている。近づけば、周囲三方の
261
崖に横穴を掘って漆喰で固めた穴居住宅がいくつもあることもわか
った。ユウゼンから見て右手の崖の高いところから、一筋細い水の
流れが落ちていて、こちらの入り口まで小川を作っていた。
圧倒されながら、シアンについて村へと向かうが、旅の疲れも相
俟って上手く頭が回らずにいて⋮⋮。
﹁この村は⋮⋮? それに、気をつけるって、何を⋮⋮﹂
﹁僕はね、一応この村では長老みたいなものなんです。ずっと昔、
僕が出来損ないの不老不死となり、それから研究施設が破壊され、
よくわからないまま彷徨い、僕らは随分死んで、新しい者も増えた
りして、いつの間にか僕が彼らを率いているようになった⋮⋮。ほ
ら、彼らのことだよ。神の出来損ない﹂
﹁│││⋮⋮⋮﹂
簡素な柵があるだけの入り口から村に足を踏み入れ、人や動物の
姿を捉え、シアンの話を聞いて、ユウゼンはすべて理解した。
皮膚を覆う白い包帯。杖。顔の左半分が腫れた子ども。明るい緑
の髪の毛。痛々しいまだらのある犬、一本足のない猫。
ああ。
そういう、ことか。
ここは││││
﹁ようこそ。傀儡と異形の村へ﹂
シアンはユウゼンを振り返り、明るい青の目を細めて、笑った。
262
263
欠けたる者達の女王︵4︶
とっさに何を言えばいいのか、言葉に詰まった。
住人たちは、シアンと並ぶユウゼンを不思議そうに見ていた。新
しく来た傀儡だと思っているのかもしれない。しかしユウゼンは傀
儡ではない。彼らにとって、普通の人間はほとんど敵なのではない
か。だからシアンは気をつけろと言ったのだろう。
尋ねる。
﹁俺は、入っても、いいのか? ここに⋮⋮﹂
﹁入りたくないですか?﹂
﹁そういう意味じゃなく⋮⋮差別、されたんだろ﹂
苦し紛れに確認すれば、シアンは何か、例えば無邪気に虫でも殺
しそうな笑みで頷いた。
﹁そりゃあもちろん。苛虐、迫害、惨憺。こんなところに住んでる
わけですからね。あ、もしかして後ろめたいですか? なるほど。
つまり自分の方が環境でもなんでも優れていると思うんですよね。
自分は違う、あんな風じゃなくてよかったと。いいですね、実に醜
く人間らしい感情だ。大丈夫、オズには馴染みのない問題ですし、
こんなどうしようもない部分見たくなくなる気持ちはよくわかりま
す。こんなところまで来てもらって申し訳ないですが、無理せずお
帰りください。さあどうぞお気をつけて││あ痛っ﹂
﹁アホゥ! あふぉおぉぉー!﹂
ユウゼンは反射的に奇声を発しシアンの頭を殴っていた。
青の傀儡は殴られるとは露とも思わなかったらしく、痛そうに頭
をさすりながら唇を尖らせて、恨めしそうな目を向けてくる。
264
ユウゼンは睨み返し、行儀悪くシアンの顔に指を突きつけて叱責
した。
﹁お前は! 心の弱い部分だけ引きずり出そうとするクセをどうに
かしろ! 確かに人間のバカさでお前らがひどい目に合って、それ
はとにかく申し訳ないけど! いつまでもただ決別してお互いに禍
根を重ねたってしょうがないだろ! 利用でもなんでもいいし、そ
う簡単には変わらないし、腹が立って仕方ないかもしれないが、同
じ世界に暮らすしかないんだから、何かを守りたいなら、少しずつ
でも努力をしろ! シルフィは理解してくれたんだろ? 俺だって、
もう傀儡や異形って呼ばれてる奴等を差別したりしない。それとも
全然駄目なのか? もう絶対に受け入れられないのか? 全て許せ
ないのか? 違うだろ?﹂
とにかく、頷いてほしかった。
遠巻きに住民の何人かが立ち尽くし、シアンは頭をさすっていた
手を下ろす。嫌な緊張感の中、風の擦れるような細い音が聞こえる。
もう笑っていなかった。異様な雰囲気が辺りを押し包む。シアン
は恐ろしく冷ややかな目でユウゼンを見上げて、平坦な声を出した。
シアン? これが?
﹁私はね、普通の人間だったらもう何度死んでいるか分からないん
だよ﹂
動けない。動けない。
深淵を湛えた瞳。青の中で暗い炎が蝕むように燻っている。
憎悪だ。永遠に消えることのない。
﹁知らないだろう? 痛い。痛くて、痛くて痛くて痛くて痛くて痛
くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛
265
くて痛くて││教えてあげたくなる。全部殺したくなる﹂
森の木々がざわめく音しか聞こえない。
汚染しねっとりと絡みつく眼光。暗い。暗すぎる。一生冥暗の中
に向かって、出口などどこにも││
﹁色々あったよ。剣で斬られたり、槍で貫かれたり、弓で射られた
り、燃やされたり、気付いたらほとんどの仲間がぐちゃぐちゃにさ
れてたり遊戯のように狩られたり殴られ蹴られ、後はなんだったか
なあ? 何にもしてないのにね。不公平だったんだよ。すごくねぇ。
私は実験動物にされていた頃、稚気にも外に出てみたかった。残念
ながらまだ若くて、何も知らなかったのだね。狂乱で魔術師が死ん
で、逃げだしてみたら、地獄に生まれたのだなと理解できた。当然
の顔で迫害するのさ。不公平だから、殺してやったよ。色々ね。気
に食わない奴。執拗に追ってくる奴。仲間を殺した奴。魔術師。要
人。貴族。役人。皆、私が死んだと思えば油断したさ。それで殺し
返した。おあいこだろう? カムロドゥノン連邦国辺りじゃあ、一
時期青い死霊なんて呼ばれていたみたいだ。光栄だねえ。本当に。
お前は、そんな私に救済をせがんだんだよ。理想的で綺麗な言葉だ。
でも。さあぁ、出来るのかな? 受け入れられるかな? 許せるの
かなあァ?﹂
﹁し、あ⋮⋮﹂
首に手がかかっていた。両手。少年の、蛇のような細い手。それ
でも動けなかった。呪縛。振り払えない。パニックでとにかく息を
吸おうとして、名前を呼ぼうとした。やめてくれ。苦しい。死んで
しまう。コロサレル。
ファントム
呼吸困難で目の前の色が変わる瞬間、笑い声が聞こえた。
シアン
﹁好きに呼ぶがいい。どうせ名などないのだから。青より死霊がふ
266
さわしいか? っ⋮⋮﹂
﹁││││がっ、はっ⋮⋮はあっ⋮⋮う、げほ、えっ⋮⋮ぁっ⋮⋮﹂
闇に落ちる寸前、だった。
ユウゼンは急に呼吸が自由になり、地面に倒れこんで喉を押さえ
のた打ち回った。吐き気。生理的な涙が出た。吐いてしまう。誰か
が、そっと背中に触れてきた。触れるか触れないかの感触。
﹁大丈夫?﹂
﹁あ⋮⋮ぁ⋮⋮ぐ、﹂
﹁うちの長老はひねくれ者だから。悪かったね﹂
﹁はっ⋮⋮はあ⋮⋮、すまない⋮⋮﹂
まだ、子どもの、少年の声だった。認識が回復し、ユウゼンはな
んとか吐き気を押さえ込み、地面に手をついて、自分をシアンから
助けてくれたらしい男の子に顔を向け、
﹁││││﹂
﹁⋮⋮。気持ち悪いでしょ。いいよ、別に。ひどいことしなかった
らどう思っても﹂
一瞬、息を飲んでしまった。
十代の中頃か。少年は、日焼けした顔の左側が大きく腫れ上がっ
ていた。頬を中心として、そのせいで左目や唇が圧迫され、垂れ下
がって歪んでいた。
少年はさっと手を引くと、視線を避けるように顔を背けた。ユウ
ゼンはすぐに気持ちを落ち着けると、首をふって、なるべく自然な
笑みを浮かべてみせた。
267
﹁いや⋮⋮ちょっと驚いただけだ。ありがとう。俺はユウゼンとい
う。名前は?﹂
﹁え⋮⋮﹂
握手のための右手を差し出した。 少年は口ごもり、何度もユウゼンの手と地面を見比べた。どうや
らユウゼンの行動が信じられないようで。根気強く待つ。少年は手
を取らない。むっとした表情で黙ったまま粘る。結構粘る。だめか
と思いながらそれでもしばらくじっとしていると、一分後、ため息
と共におずおずと手が握られた。
﹁ちょっとだけシルフィードさんみたい。⋮⋮アダマントだよ。ユ
ウゼンさん。ん?﹂
﹁そっか、よろしく、アダマント﹂
﹁⋮⋮。ちょっと待とうか。あなた、ユウゼン・パンサラ・オルシ
ヌス・アレクサンドリアではないよね。それはない﹂
アダマントは、衝撃の事実に直面して冷や汗をかきはじめた。ま
あ、あまりない名前だろう。ユウゼンは特に不都合もなかったので
正直に頷く。
﹁実はそうです﹂
﹁ちがう﹂
﹁いや、全否定されても﹂
﹁やだ! いやだ!﹂
﹁いや、嫌がられても﹂
﹁カカシぃ!?﹂
﹁⋮⋮︵゜−゜︶ナンダッテ??﹂
ユウゼンが高速まばたきをしながら言葉を探している間に、アダ
268
マントは突き飛ばされた状態のまま地面に座っていたシアンに詰め
寄り、ガクガクと胸倉を揺すりはじめた。
﹁長老! このジジイ! 何殺しかけてるんだよあんたやってるこ
と破滅的じゃねえか! 皇子なんか殺してみろ、こんな村一瞬で潰
されるだろこの耄碌!﹂
至極最もだった。シアンは、
﹁えぇ∼、だって山登って疲れてたし、何かちょっとムカついたし﹂
﹁︵゜−゜︶﹂
アダマントは魂が抜けたような顔でシアンを解放し、がっくりと
肩を落としながらユウゼンを手招きした。
﹁もう、いいよ⋮⋮ユウゼンさん。こんなボケ老人ほっとけ。この
村の守り手に会わせてあげる。彼女の許可が下りれば、村を好きに
歩いていいと思うから﹂
269
欠けたる者達の女王︵5︶
﹁⋮⋮うん﹂
シアンが気にならないわけではなかったが、まだ内心動揺もして
いたし、気持ちもまとまっていなかった。だから、アダマント少年
の好意に甘え、村の代表者に会わせてもらうことに決めた。
﹁なにしに来たの?﹂
三方を崖に囲まれた中心辺り、木で造られた簡素な建物群に向か
いながら、アダマントがぽつりと聞く。ユウゼンは混乱気味の思考
を落ち着かせようとしながら、答える。
﹁シルフィに⋮⋮会いに﹂
﹁ふうん。好きなんだ﹂
﹁ぶふぅcぃあf﹂
この世には存在しない言語を発しながらいくつかの建物を通り過
ぎ、辿り着いたのはほかのものよりも大きな平屋だった。入り口に
掛けられた簾をどけながら、アダマントは奥に声を掛ける。
﹁おばさん。ソオラに会わせたい人がいるんですけど﹂
少しやりとりがあって、とりあえず面会の許可は下りたようだっ
た。手招きされ、屋内に足を踏み入れる。指摘されたため靴を脱ぎ、
なめらかな木で作られた廊下を進んだ。微かな香の香りがする。薄
暗い建物内は、湖の深層のように静謐に包まれていた。
奥に引き戸があり、アダマントが前に立つと、ノックもしない内
270
に中から﹁どうぞ﹂と、くぐもった声が聞こえた。
﹁失礼します﹂
アダマントに続いて中に入ると、二つの人影がある。小柄な一人
は奥にある長椅子の一つに腰掛けており、もう一人はその脇に控え
ていた。
﹁こんにちは。ようこそおいでくださいました﹂
座っている││少女の方が言ったのだった。少女であると思った
のは、その声が高く澄んで美しかったからに他ならない。
彼女は目を閉じていた。眠っているかのようで、その目が開かれ
る気配はなかった。始めからそう創られたように。小さな顔は眉が
薄く皺があり、そこだけ何年も時が通過してしまったように見えた。
白い髪と小柄な身体。ゆったりした衣装からは足先は見えず、膝に
乗せられた手は小さく張りがなく骨のように細い。
ユウゼンは控えていたもう一人の女性に促され、テーブルを挟ん
で少女と向かい合うところにある長椅子に腰掛けた。付添い人らし
い女性は、顔や首に大きな火傷の痕らしきものがあった。左側に縁
側があり、薄い簾を揺らすのは弱光と微風。
つかの間ユウゼンが放心していると、少女が目を閉じたまま口だ
けを動かす。
﹁わたくしはソオラと申します。年はもうすぐ成人をむかえるほど
でしょうか。ユウゼン殿下にお会いできたこと、嬉しくおもいます﹂
﹁あ⋮⋮いや、こ、こちらこそ。急に、急な訪問失礼しました﹂
柄にもなく緊張していた。シアンのことがあったからか。それに、
一瞬わからなかったが、アダマントはこのソオラという少女に自分
271
の名を告げただろうか。
ソオラは口元に申し訳なさそうな笑みを浮かべ、鈴のような声で
続けた。
﹁先ほどは、シアンが失礼をいたしました。長老は、姿を変えぬま
ま長く時を過ごしすぎました。子どもである自分、老人である自分、
長きに渡る排斥、寛容である一部の世界、そういうものたちと、調
和をとることができないのです。矛盾しているからです。だから未
来を信じず、その場の感情に任せるのかもしれません。どうかお許
しください﹂
また。ソオラは知っている。
ユウゼンは自然と眉を険しくさせた。頭が冷静さを取り戻してき
ている。
﹁いえ、俺が悪かったんです。結局、シアンの気持ちを分かったふ
りをしてしまったから⋮⋮ですけど、それ以外の言葉は、撤回しよ
うとは思わない。いつか、禍根がなくなればいいと思う﹂
﹁⋮⋮同じ世界に暮らすしかなく、守りたいものがあるのなら、で
すね﹂
頷きながら小さなソオラは言った。やはり、その場にいなかった
のにわかっていた。ここを訪れてからアダマントは訪問許可を取っ
ただけだから何も話してはいない。
率直に尋ねた。
﹁あなたは、俺のことを、事前に聞いていたのですか?﹂
ソオラは小首をかしげ、曖昧に﹁自分で﹂と言った。
272
﹁伝言されたわけではないのです。例えば、シアンが不完全な不老
不死であるように。わたくしにも傀儡としての特徴が。そこにいる
アダマントも、とても力持ちなのですよ。おかげでいつも助かって
います﹂
ソオラににこやかに名前を出され、アダマントは仏頂面をした。
目だけ泳いでいるから、照れているのがよくわかった。
﹁わたくしは、目が見えないかわりに、耳がいいのです。だから、
近くの声も遠くの音も、意識すれば聞くことができます﹂
﹁え。えっと、遠く、というと﹂
﹁頑張れば、アレクサンドリア、ティル・ナ・ノーグさえ﹂
﹁う、うへえー﹂
ソオラはそんなことをしないだろうが、どんな諜報も叶わないレ
ベルだ。
一方で、納得してもいた。だからソオラはこの村の﹁守り手﹂な
のだ。傀儡である能力によって、危険を聞き分けることも知識を蓄
えることもできる。姿は枯れたように老いても、彼女は美しい。
声が沁みこんでくる。
﹁ユウゼン殿下。シルフィード様に、会いに来られたのですね﹂
﹁は、い﹂
﹁シルフィード様は、わたくしたちにとてもよくして下さいます。
この村を与えてくれ、猫かぶりという架空の商人をつくりだして召
抱え、わたくしたちが生活していけるよう手配してくれました。シ
アン長老がシルフィード様に出会わなければ、ここにいる者たちは
死んでいたかもしれません。わたくしはシルフィード様が好きなの
です。だから﹂
273
閉じられた優しい目が、ユウゼンを見つめているような気がした。
﹁どうか、シルフィード様に幸福を。あなたを信じています﹂
かがむようにして、ソオラは頭を下げた。
274
欠けたる者達の女王︵6︶
ユウゼンがアダマントと共にソオラの住居を出ると、外部からの
客を野次馬的に伺っていた村人たちの姿がちらほらとあった。不審
と好奇心の瞳。ユウゼンが視線を向けると怯えた様子でさっと目を
逸らす。その中で唯一、動じない人物がいた。
﹁⋮⋮ヘリエル﹂
入り口で待機していた金髪の日焼けした武官は、深々とお辞儀を
した。シルフィードの姿は側になかった。
何か言いたそうな表情を読み取り、ユウゼンは黙って彼の近くま
で歩いた。
││シルフィード様のところに、ご案内致します。
ヘリエルは無声音でそう言って、背中を向けた。ユウゼンは一瞬
怯み、だが、すぐにその後を追う。アダマントは本来の仕事へとも
どるようだった。
粗末な建物と建物の間を通り抜けると、ヘリエルは村の入り口か
ら見て一番奥にあたる切り立った崖へと向かった。四つほどの穴居
住宅があり、まだ距離のせいで中は窺えない。
途中に申し訳程度の畑があった。その脇に生える二本の広葉樹の
下に、二人の少女がいるのが目に入った。一人は世にも鮮やかな明
るい緑の髪をしていた。十代の前半程度にしかみえない緑髪の少女
は、ユウゼンに気付くとあからさまに嫌な顔をして、もう一人の黒
髪の少女を庇うような位置につく。
その行動に若干傷付きながらも、目は自然と黒髪の少女へと吸い
275
寄せられた。
ひどく特徴的な雰囲気をしていたからだ。彼女は色白で、美しい。
十代中頃か、腰の辺りまで伸びた黒髪をそのまま背に流している。
顔立ちは大人びて無表情に近いのに、地面に集められた小石を一心
不乱に並べているのだった。地面には並べられた小石の不思議な模
様が出来ている。
﹁⋮⋮あの子は﹂
ユウゼンがつい声を出すと、ヘリエルは少し長く喋った。
││彼女はマーテンシーという名で、傀儡の中でも内部を傷つけ
られ適切なコミュニケーションをとることが不得手なのです。側に
いる緑の髪の子は、ライムといい、マーテンシーの世話を引き受け
ています。ライムは傀儡でない人間が好きではないので、察してあ
げてください。
﹁⋮⋮そっ、か⋮⋮﹂
マーテンシーは石を並べ終えたようで、ふらっと畑を突っ切り滝
のほうへ歩いていってしまう。ライムは慌てたように何か短く言い
ながら彼女を追っていった。
ユウゼンは再び前を向く。奥の横穴に近づくと、犬の姿がちらほ
らと見えた。もちろんそれは普通の犬ではなく、異形であり⋮⋮。
かつて、敵としてこの手で殺したこともある忘れがたい記憶。
複雑な心境のまま漆喰で固めた穴居住宅の前まで来ると、ヘリエ
ルが振り返って真っ直ぐにユウゼンを見た。
││シルフィード様は、この奥にいます。
﹁⋮⋮うん﹂
││異形達の世話をしています。
276
﹁すごいな。シルフィは﹂
││はい。シルフィード様が今回急遽ここに来たのは、子どもが
生まれたからです。
﹁子ども? 異形の?﹂
││そうです。ウォルナッツという犬で、片足がありません。今
まで異形の子どもが生きて生まれたことはなかったのです。
﹁初めて、健康な子どもが?﹂
ヘリエルが、肯定するように頬と目元を緩めた。
ユウゼンはその柔らかい笑みに後押しされるようにして、穴の中
へ足を踏み入れた。
日光が内部をほのかに照らし、ひんやりと、どこか暖かい空気が
満ちていた。土の温度。白くざらざらとした壁。獣たちの匂いと息
遣い。固められた地面の上を進むと、すぐに最深部に辿り着いた。
﹁│││││﹂
部屋には、土を寝台として模りその上に寝具を乗せたベッドが一
つ。
その脇に伏せて座るのは全身に包帯を巻かれた異形。目を閉じて
眠っているのは、三頭の犬達。布の上に寝かされ、耳と腹だけを動
かす斑のある一頭。
水の入った桶と白い布を側に置き、それらに囲まれた中心に、一
人の少女が腰を下ろしていた。明り取りの小窓からの光が、細い神
の吐息の如くその場所を照らす。小さな埃が光に舞っている。地面
の土で白いドレスを汚しながら、小さな子犬を胸に掻き抱く一人の
女。最後の、今にも零れ落ちそうな希望を愛しむように、あるいは
祈り、縋るように、白い指が、今、子犬の頬に触れ││││
277
﹁ぁ⋮⋮﹂
小さな声で、急激に意識が引き戻された。いや、その映像の残像
がいつまでも脳裏でざわめき、シルフィードの驚いた顔がぼやける。
なんて、
なんて、なんという、顔を、表情を、するんだろう││││?
﹁ゆ、ユウ⋮⋮? どうして、どう、して、⋮⋮あ、ぁ⋮⋮﹂
見ないで。
そう聞こえた。
シルフィがどうやって子犬を母犬の元に戻し、立ち上がって、ユ
ウゼンの脇をすり抜けて飛び出していったのか、記憶が飛んでいる。
ただ、シルフィは取り乱し、ユウゼンを避けて出て行った。吹き抜
けた風とあの清涼な香りだけを覚えている。心臓が熱くなった。足
が、勝手に動いて追っていた。
﹁シルフィっ! 待って⋮⋮! 待ってくれっ﹂
心からいとおしむ、透明で淡い淡い笑みが、ユウゼンの心を掴ん
で揺さぶって、あの瞬間何も考えられなくした。悲しみと愛しさの
境界線。やっと出会えたね││消えないでいて││わたしの こ
ころ││
﹁シルフィ⋮⋮!﹂
278
無我夢中で追いつき、その細い手首を掴んだ。
強い力で振り払われ、反射的に振り返ったシルヴァグリーンの瞳
は涙を湛え、瞬きをした拍子に耐えきれず頬を滑り落ちた。汚れた
手が顔を拭い、泥が跡をつける。拭っても、すぐにまた水滴は溢れ
て転がり落ちた。
﹁ぅ、ふっ⋮⋮わ、わたし、わたしは、ただっ、﹂
﹁ごめん、違う、驚かせて悪かった。俺は、シルフィに会いたくて、
どうしても会いたくて、シアンに聞いて、﹂
﹁うそを、うそつきでした、ひくっ⋮⋮ユウも、国も、だまして、
でも、わたしは、みごろしにはできなかった⋮⋮!﹂
﹁わかってる。わかってるよ。軽蔑なんてしない。するわけない﹂
ユウゼンは顔を歪めて嗚咽を漏らすシルフィードに手を伸ばしか
け、その前にヘリエルが血相を変えて駆けつけてくる。シルフィー
ドの手が彷徨い、縋るように武官の肘を掴む。
ヘリエルはユウゼンの目の前で、流れるように王女の身体を包み
込んだ。強く、しかし決して押しつぶしてしまわない加減で。シル
フィードは倒れこむように彼の胸に顔をうずめた。
そこが最後の居場所であるように、シルフィードの手は武官の服
を掴み、微かに震えていた。
279
アドニスのオード︵1︶
それからしばらく、ユウゼンは何も考えられずにぼんやりと木の
下に座っていた。それは丁度、緑の髪の少女ライムと、黒髪のマー
テンシーを見た場所だった。畑の脇でマーテンシーが並べていた小
石は、風に吹かれて少しだけ歪んでいた。
﹁申し訳ありません⋮⋮﹂
声。
顔を上げると、泣きはらして憔悴した顔のシルフィが立っている。
少し離れた位置から、ヘリエルが心配そうに眉尻を下げて王女の方
を見ていた。
心配なら、もっと近くにいればいいのに。
半ば自棄的な思考が過ぎり、ユウゼンはのろのろと立ち上がった。
シルフィードはまだ謝罪の言葉を繰り返している。
﹁みっともないところをお見せしてしまい、本当に⋮⋮﹂
﹁怒らなきゃいけないのか? 俺は、﹂
違う、こんなことを言いたかったわけじゃない。
口をついた言葉は本音でも嘘でもあり、ふせられたシルヴァグリ
ーンの瞳には色濃く諦観が浮かんでいた。流されることがない薄い
涙で、少女の顔はひどく曇っていた。
﹁ごめん⋮⋮俺は、だから⋮⋮俺のほうこそ、驚かせてしまって、
⋮⋮それに、異形のことも、全部決め付けて勘違いして、皆を傷つ
けたと思う﹂
280
﹁アツィルトの、ここの皆のこと、秘密にしておいてくれますか⋮
⋮﹂
﹁もちろん。俺にも出来ることがあれば、出来る限り援助するから﹂
ユウゼンが答えると、シルフィードは口元を綻ばせた。しかしそ
れはぎこちなく、諦観の色は少しも薄れてはいなかった。
﹁いえ、気持ちだけで⋮⋮。魔術国では傀儡の差別はひどく、異形
に至ってはその被害から嫌悪の対象なのです。もし私が彼らを匿っ
ていることが知られれば、マゴニアの民は私を許さないでしょう。
オズでも、そうならないとは、言い切れません﹂
シルフィの言うことは至極最もで、だからユウゼンが先ほど再会
したとき、シルフィはあれほどうろたえてしまった。実際の傀儡や
異形が危険でなかったからといって、許されることとは違う。自分
たちとは違う、理解できないと思う心、優越、排他、又は嫉妬を持
って、一度それが悪だと認識してしまったら、その社会意識を覆す
ことはひどく難しい。傀儡・異形を悪と見做す魔術国の内にあるマ
ゴニア王国は、シルフィードが密かに彼らを匿っていることを認知
すれば、相応の反感を覚えるのだろう。犯罪者を助けることと同義
の意味さえ持つのかもしれない。
じゃあ、自分は?
ユウゼンは己がいつの間にか、知らない者のように感じていた。
想像したことすらなかった立ち位置に立ってしまっている。これ
は、ずっと思い描いていた定められた範囲内なのだろうか? きっと違う、と思う。
目を逸らせない。届かなくても、足掻いて、手を伸ばしたい。そ
の視界の先にちらつくのは││││
281
﹁世間が間違ってるんだろ。アツィルトの皆は、危険じゃないはず﹂
﹁││皆、特別な所はあっても、素敵な人たちです⋮⋮﹂
﹁だから、シルフィは、彼らを助けた。彼らは居場所を得た。シル
フィが変えたんだ⋮⋮俺が援助すれば、また何かを変えられる。オ
ズならもっと受け入れられるはずだ。俺はそうしたい﹂
言い切れば、シルフィードの視線が真っ直ぐにこちらを向いた。
ユウゼンはともすればその美貌に気を取られそうになるのを堪え、
彼女の気持ちを捉えようと見つめ返した。
反射する。シルフィードの瞳の中に自分がいるような気がしてし
まう。鏡のような光だ。その向こうにどんな感情があるのかが知り
たい。シアンが言ったような人形ではないのだから。
数秒の沈黙の後、シルフィードはどこか苦しそうに、笑おうとし
た。
﹁あなたがそう言うと、全てが上手く行きそうな気がする。でも、
十分です。その言葉だけで十分、嬉しかったです。ありがとう﹂
同じ思いを持っても、すれ違って同じ場所にはいられない。伝
えることが難しすぎて、人の気持ちの前に自分の気持ちさえ整理で
きず、なんと答えていいのか分からなくなった。互いを傷つけたく
ないから拒絶ではなくとも、受け入れられない。これ以上どうした
らいい? これ以上どうしたい⋮⋮?
﹁シルフィは、今でも、俺のことを、優しいから好きだと思ってい
る⋮⋮?﹂
出会ったばかりの頃の言葉を、今でも鮮やかに思い出せる。病弱
282
で純粋な王女の見舞いに行ったつもりだった。そうではなかったけ
れど、知るほどにますます惹かれていった。強いということとは紙
一重の何かがシルフィードの中にあった。マゴニアのため、まだ若
すぎる弟のために見知らぬオズを訪れ、ユウゼンに結婚を申し込み、
自ら剣を取り、頭を下げ、笑顔を絶やさず、不遇な者たちも決して
見捨てず手を差し伸べる。
それなのに、彼女は時々孤独だった。孤独に自ら寄り添っている
ようだった。その姿が悲しく、あまりにも美しく、こちらを向いて
くれないかと祈るような気持ちを抱いた。
ユウゼンの問いかけに対して、シルフィードはすぐに口を開き、
吐息を宙に混ぜた。流される前の涙を拭うように一度だけ左手の甲
で目の下に触れた。緩やかで冷たい風に白いドレスを泳がせて、少
女は呟くような声で答えた。
﹁人が好きかどうかって、どうやったらわかるんですか?﹂
一際強い木々のざわめき。
知らず喉の奥から短い呻きが零れて、ユウゼンは思わず自分の口
元を手で覆った。
信じがたい思いで、眩暈にも似た感覚に襲われていた。シルフィ
ードは、本気で、
﹁それが、わからない、んですか? 好きだという感情が、どうい
うものか、そんなことが﹂
283
少女は、ユウゼンの確認に対して肯定も否定もしなかった。
視線を曖昧にこちらに向けたまま、寂しそうに微笑んだ。
そして瞬きと同時に零れ落ちた涙にも気付かない様子で、優しく
柔らかい、人形のような口調で言った。
結婚を申し込んだことを取り消します。ご迷惑をおかけしました、
と。
284
アドニスのオード︵2︶
山を降りるときの苦労も時間も何も感じられなかった。いくらか
ぎこちなかったとはいえ、シルフィードがよそよそしかったわけで
もなく、普段どおりに会話を交わしたと思う。アツィルトの誰かに
麓まで見送られたような気もする。シルフィードとヘリエルは自分
達の馬に乗って帰路へつくようだったから、ユウゼンは待っていた
自分の護衛に馬車を用意させ、一人でその中に篭るようにして、不
快な振動を感じながら目を閉じていた。
﹁⋮⋮信じられないよなぁ﹂
誰にも聞かれないはずの言葉は、舞い戻って自分の心を突き刺し、
感覚を取り戻させようとする。耳を塞ぎ、目を閉じ、なんとかそれ
を拒絶する。
矛盾。会いたかった。なのに何も考えたくなかった。その場の流
れに身を任せるだけで。それらしいことを言うだけで。臨機応変な
ど、出来ないからいつだって一番敬遠していたはずだった。
彼女は違い、少なくとも優柔不断ではなくて、アツィルトの村を
守るという堅い信念を持っていた。中途半端に関わるユウゼンをな
だめるように、シルフィードは苦しげに笑っていた。
⋮⋮人が好きかどうかって、どうやったらわかるんですか⋮⋮
知るわけない。
知るわけないじゃないか。
知っていたら、今この痛みも、全部消し去ってしまえるのだろう
285
か。
※
知らぬ間に少し眠っていた。頭の中がキンとするような不快な目
覚めで、ユウゼンは無意識に眉をしかめながら馬車の中の薄いカー
テンを開ける。昼を過ぎてもう傾いた太陽と薄曇の空。予感がした
のかもしれない。何か、胸がざわざわとする不穏な空気を感じた。
﹁⋮⋮?﹂
近づいてくる気配は一瞬で、風のように道を逆行していった人と
馬には見覚えがありすぎるくらいにあって。
刹那の交錯のとき、ブラウンの髪を持つ少女は表情を凍らせて蝋
のような顔色をしていた。
間違いなくシルフィードと月毛の奇獣ルカだった。
﹁シルフィ?﹂
呆然と口にした言葉は、数秒後に彼女を追って疾駆するヘリエル
と奇獣のリオ、それからさらに遅れて白の猫かぶりの乗った馬の蹄
の音に掻き消される。尋常な様子ではなかった。何かあったに違い
ない。
ユウゼンは咄嗟に馬車を止めさせ、外に飛び出した。アレクサン
ドリアに向かっていたはずのシルフィード達は、今戻ってきたばか
りの道を砂埃を巻き上げながら逆行していった。
アツィルト 傀儡 シルフィード
異形 シアン ソオラ 子ども 排斥 ⋮⋮⋮⋮
脳裏に警告のように単語がよぎり、ユウゼンは低く呻く。もう止
286
めればいい。自分ははっきりと振られたのだから、無理に関わるこ
となど何もない。これ以上どうしようもないんだ。
頭では分かっていることばかりだった。全て、正しい。正しすぎ
て嫌になる。シルフィードの姿が遠くに消える。消え去って、そう
したらもう二度と会えないような錯覚を覚えた。
﹁馬を⋮⋮、﹂
何をやっているのか、わからない。
ユウゼンは御者から馬を奪うようにして一人彼らを追っていた。
※
戦火を見たことがある。
陸の先の海峡で、沈み行く大型船が一際強く燃えていた。あれは
ティル・ナ・ノーグのものだったのか、それともオズの味方だった
のか、今となっては覚えていない。海辺は油と血の匂いが充満し怒
号に掻き回されていた。まだ幼いカラシウスが射殺すような目で剣
を振り上げて命令していた。あのときの雰囲気。
﹁はあっ⋮⋮はあ⋮⋮な⋮⋮んで⋮⋮﹂
昼間までの静寂に包まれた山の様子はどこにもなかった。いくつ
もの松明が木々の間の暗闇に浮かび、砂色の軍服の姿が山を包囲し
ている。ユウゼンの知る限り、それは間違いなくマゴニア王国の兵
のものだった。
ユウゼンは夕闇の中を彼らに紛れるようにして、時に昏倒させな
がらアツィルトの村を目指した。絶望的な想像を何度も頭の中で叩
き潰してはこれ以上は無理だと思えるくらいの精一杯の速度で斜面
を駆けた。
287
シルフィ。シアン。アダマント。ソオラ。異形たち。
”私はね、普通の人間だったらもう何度死んでいるか分からな
いんだよ″
”気持ち悪いでしょ。いいよ、別に。ひどいことしなかったら
どう思っても″
”どうか、シルフィード様を幸せにしてあげてください。あな
たを信じています″
”消えないでいて││わたしの こころ││″
彼らの感情を思うたび、叫びがこみ上げ血が滲むほど手のひらに
爪が食い込む。どうしてこんなことになった。ソオラは。彼女は遠
くの音を拾えるのではなかったのか。だったらもう避難しているの
だろうか。きっとそうだ。昼間までは、あんなに皆、穏やかに生活
していたのだから⋮⋮。
縋るような思いで村に被害がない事を祈りながら、暗い山道を辿
った。皮肉なことに、マゴニア兵の気配と松明の灯で村まで迷うこ
とはなかった。
見覚えのある崖。体力の限界を当に超えながら武装した兵たちを
すり抜け、崩れそうになる足を引きずってアツィルトに足を踏み入
れ││││絶句した。
﹁││││﹂
明るかった。
崖に囲まれた中央にあった簡易施設が燃えていた。熱気と煙が辺
りに満ちて、視界を遮っていた。微かに響いたのは人の声と剣戟の
音。まだ、誰かが戦っている。
288
ユウゼンは腕で鼻口を押さえながら、煙の中に飛び込んだ。一見
マゴニア兵以外の人間は見当たらなかったが、耳の神経を集中させ
て探れば、もう一度死のうめき声が聞こえた。迷わず向かった先は
嫌になる程見覚えのある場所。眩暈で倒れそうになる。他のものよ
り大きな建物、今は黒煙と炎に包まれている⋮⋮
﹁シアンっ⋮⋮!﹂
その入り口の前で剣を手にしていたのは間違いなく小柄な少年だ
った。血まみれになり、それでも憎悪を瞳に滾らせ、切りつけられ
ながらマゴニア兵を刺しぬいていた。血が黒い影となって飛ぶ。死
体を除き、よろめくシアンはまだ三人に囲まれていた。
ユウゼンは駆け寄って護衛の力も借りながら三人を昏倒させた。
そして、ふっと気付いてしまった。
﹁う、あ⋮⋮そんな⋮⋮﹂
シアンの足元に倒れていたのは、マゴニア兵だけではなかったこ
とを。
﹁ソオラ⋮⋮聞こえるかい?﹂
最後まで守ろうとしていたのだろう。全身を、顔さえぼろぼろに
したシアンが小さな彼女を抱きしめるようにして囁いた。ソオラは
腹から大量の血を流しながら小さく痙攣していた。右脇で、昼間彼
女に付き添っていた世話役の女性が死んでいる。早鐘を打つように、
心臓の音が大きくなった。ユウゼンはよろめきながら二人に近づい
た。
289
﹁殿下、見て、希望が消えてしまうよ﹂
シアンは潰された右目をこちらへ向け、壊れたように優しげに笑
った。どろりと闇が滴る。恐ろしくて正視できず、ぼやける視界の
中のソオラは今にも息絶えてしまいそうに呼吸をしていた。無意識
かどうか、彼女はわずかにこちらへ手を伸ばした。
いくな。たのむから。
ユウゼンは無我夢中で祈り小さな乾いた手を強く握りしめた。
⋮⋮た す けて ⋮⋮
ずっと閉じられたままだった瞳から涙が流れ落ちて、それきり、
だった。彼女は皺だらけの手をユウゼンの手のひらに残したまま、
苦痛を口にしながら、命の炎を消した。
具合が悪かったんだよ、だから遠くの音も聞けなかった、仕方な
いのに、守り手として最後まで残るって意地を貫いて、愚かだった
ね。苦しかったね。
シアンが彼女だったものをそっと抱きしめながら呟いた。
しばらく村が焼け落ちる音を蹲ったまま聞いていた。
やがて、シアンはその亡骸を焼け落ちそうな建物の中に安置する。
火の粉が舞い上がって、二人の姿を明るく照らし出した。
﹁⋮⋮いいのか、弔わなくて⋮⋮﹂
誰が喋ったんだろう。絞り出した声は掠れ、自分のものではない
ように思われた。シアンはともすれば陽気にさえ聞こえる声音で返
事をした。おかしいな。そんなはず、ないのに。壊れている。世界
が。
290
﹁ええ。僕は皆に言わなきゃいけないんです。ソオラはどこかへ逃
げたから見つからなかった、いつか、また会える日を楽しみにしよ
うって﹂
﹁⋮⋮また、あえるひを﹂
動悸が激しくなり、上手く息が吸えない。どこにも希望など存在
せず、絶望的で悲愴で虚しく、じくじくと身体の内部が締め付けら
れるように痛んでひどい吐き気がした。死。希望。ソオラ。たすけ
て。タスケテ。た す け て ︱︱
はっとして、ユウゼンは壊れかけた自我を保つ。
﹁他の人たちは逃げられたのか!?﹂
とっさに詰め寄ると、少年はガラスのような目をして抑揚なく答
えた。
﹁たぶんねえ。僕らは追われ慣れてるから、こういうときの準備は
出来てるんだよ。マゴニア兵に見つかってなければ無事だろうよ。
異形は全部駄目になっただろうけど⋮⋮あ、そういえば、﹂
病魔に侵された子どもの如く、青の傀儡は狂気的で背徳的な暗い
笑いを洩らしていた。
﹁カーヤ⋮⋮初めて生まれたウォルナッツの子どもだけど、マゴニ
ア兵に殺されてたよ﹂
291
アドニスのオード︵3︶
﹁それって、⋮⋮まさか、シルフィは﹂
﹁あぁ、血相変えて探しに行ってたけど、シルフィード、耐えられ
るかなア?﹂
昼間の穴居の中の犯しえぬ光景が脳裏をかすめ、ユウゼンは血の
気が引いた。
シルフィードは心底喜びアレクサンドリアから駆けつけるほどだ
ったのだ。子犬を抱いていたときの貴重な表情だけでわかった。
﹁なんでだよ⋮⋮? 子どもは、異形じゃなかったんだろ!﹂
ユウゼンの憤怒は、冷え切った傀儡の嘲笑に掻き消された。
﹁だから? そんなの殺す側が気にするとでも思ってるのか? 憎
いから、汚らわしいから、命令だから、常識だから殺すんだろう?
僕だって、ほら、マゴニア兵を殺した。彼らにだってそれぞれの
事情があった。それが不運に終わってしまっただけの話じゃないか﹂
それだけの話? かっとして感情の任せるままシアンの胸倉を掴
んでいた。ふざけるな、と加減することもなく血に濡れた頬を殴り
つけた。鈍い音と拳の骨が軋む痛みが重なって、腹の中が熱くなっ
た。シアンの嘘みたいに鮮やかな青い瞳がガラスのようにぽっかり
炎を閉じ込めていた。
﹁お前のことで、仲間のことで、今だってこれから先も全部関係あ
る事だってっ⋮⋮分かった振りして目を逸らして、虚しい正論かざ
して満足してんじゃねえ⋮⋮! なんのために生きてきたんだよ?
死ねるのが羨ましいなら今ここで俺が殺してやる﹂
﹁ごほっ⋮⋮、⋮⋮なにが、わかる、恵まれた人間に⋮⋮﹂
292
﹁わかるわけないだろ、そんなの当たり前で、不幸比べてどれだけ
意味があるっていうんだ? 憎むなら憎めよ! それでもいいから
突き放すな⋮⋮! 最後までソオラを守ろうとしたお前に出来ない
はずないじゃないか﹂
﹁なにが、できるっていうんだ⋮⋮誰も守れない私に、なにが、﹂
くやしくてたまらなかった。透明な青から溢れ出して目じりを伝
った水滴は、煤と血を絡め取って彼の耳を濡らした。老いた少年の
見つめる空は真っ暗闇で、星も月もなかった。ソオラ、と呆然と呟
く声が空に溶けた。ソオラ、カンパネラ、ヨウ、アルト、セイロン、
アツィルト││死んでしまった、殺された者の名前。
﹁守れる。信じろ。俺を利用してくれ。必ず助けるから。あなたは
一人きりじゃない、だから﹂
絶望だけで生きて欲しくなく、綺麗事しか口に出来なくて、ユウ
ゼンはシアンの胸倉を強く握り締めたまま短く意味のない叫び声を
上げた。力が欲しかった。変えてやる。定められた世界なら、そん
なもの終わればいい。
ぐったりと倒れるシアンを護衛の一人に任せ、ユウゼンは歯を食
いしばって立ち上がった。焼け落ちる村を、一人の少女を探して走
り回った。踏み荒らされた小さな畑、異形たちの死体、冷たい闇と
絶望の炎。女の嗚咽が耳に届いた。恥も外聞もない泣き声は胸をか
き乱してユウゼンを打ちのめした。
シルフィ。
声も出なかった。
暗く切り立った崖の前で、何かを胸に抱きしめて少女は泣いてい
た。その手と衣は血で真っ赤に染まっていた。小さな、赤い肉片と
293
潰れた臓器の塊が彼女の周りの地面を汚していた。蹂躙の跡だった。
マゴニアの兵士が数人彼女を取り囲み、罵声を浴びせていた。この
裏切り者の偽善者。お前のせいだ。俺の子は異形に殺されたんだ。
むくろ
投げられた石がシルフィードの顔に当たった。一人が彼女の身体
を蹴りつけ、シルフィードは形のない骸を抱きしめたまま仰向けに
倒れた。カーヤ。カーヤ。誰か、たすけて、あぁ、ああぁ││││
無我夢中で助けに行こうとしたユウゼンを護衛が羽交い絞めにす
るようして止めた。もうこれ以上は危険です、どうかおやめ下さい。
うるさい、行かせろ、許さない、これ以上シルフィを傷つけるな
と、悔しさでぼやける視界の中で叫んだ。悲痛な泣き声は止むこと
がなかった。護衛に引きずられ、力が抜ける身体に無力感が満ちて
いく。
﹁││何をしている! 今すぐ止めろ!﹂
遠ざかる風景の中で、凛とした少年の声を聞いた。いつの間に到
着したのか、マゴニア兵に守られた身なりのいい影が見えた。あれ
は、││シルフィの弟であるマゴニアの王子、レリウス・オージン・
スヴァジルファリ・デ・マグーヌス⋮⋮?
燃える村が遠ざかる。
希望も見つけられないまま、少しずつその輪郭がぼやけていく。
※
﹁ユウゼンさん!?﹂
護衛によって無理矢理離脱させられたユウゼンは、暗い森から呼
びかけられた声に、はっと顔を上げた。昼間聞いた少年の声だった。
294
﹁アダマント? 無事なのかっ?﹂
﹁うん、ヘリエルが来てくれて、大体皆何とか⋮⋮それより、村へ
行っていたんだよね? ソオラとヨウさんはっ!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
顔の半分を腫らした少年は、ユウゼンの沈黙の意味を読み取り、
たちまちくしゃくしゃと顔を歪めた。強く強く唇を噛み締めて必死
で堪えようとしているようだったが、それでも小さくしゃくりあげ
る声が暗闇に響いた。
ユウゼンは彼の身体を抱きしめて、何度も背中をさすった。
﹁あぁあ⋮⋮嫌、だ、ぁあ、ああぁ⋮⋮!﹂
﹁立派だった、彼女は、最後まで守り手だったよ⋮⋮シアンも、粘
っていたんだ。ごめんな。もっと早く到着していれば﹂
彼をなだめるふりをして、本当は自分を支えていた。そうでもし
なければ保てなかった。シルフィ。慟哭が耳から離れない。
﹁殿下﹂
護衛の一人に短く呼ばれて、意識を繋ぎとめる。落ち着いている
ようなふりをして辺りを確かめる。ヘリエルの姿が見えた。それか
ら、アツィルトにいた傀儡たちも。だから? だから、そう、助け
るんだ。助ける、たすけて、タスケテ⋮⋮
﹁山を、降りてオズの方へ。安全な場所を提供する。馬車を用意す
るんだ。出来る限り急いでくれ﹂
アダマントを抱え込むように歩かせ、ヘリエルにも頷いてみせ、
ユウゼンは無理に忘れようとした。夜の山を必死に下っている間だ
295
けは頭の中が真っ白になって、何も考える必要がなかった。全部で
二十三名の避難できた傀儡達を馬車に乗せ、とにかくアレクサンド
リアを目指した。道中疲労が襲ってきて、夢もみない泥のような眠
りに落ちた。朝になって目覚めたとき、全部覚えている自分に絶望
した。悪い夢だとさえ思うことが出来なかった。
しっかりしなければ。
今は、彼らを守ることだけを考えろ。
村を焼かれ、一番不安で、それでもユウゼンを信頼するしかない
アダマント達のために精一杯の虚勢を張る。アレクサンドリアの王
城に到着し、ふらつく足で地面に降り立ったとき、丁度外へ出てく
る人影があった。
気を使った服装と若々しい顔、どこか不釣合いの白髪であるとこ
ろの西方の森の伯爵、モデストゥス・フリッグ・シンダリアだった。
﹁おや、ユウゼンではないか! どこへ行っていたのだい? 帰る
前に挨拶しようと思ったら不在だったからなんてつまらないのだと
思っていたのだがね﹂
﹁ハルジオン伯爵⋮⋮、﹂
懐かしさと安堵で、胸に詰まった感情の塊が決壊しそうになった。
なんでこんな人に。震える深呼吸をして不要な弱さを押し込める。
それでも少し、視界がぼやけた。
﹁お帰り、なのですね⋮⋮ご苦労様です﹂
﹁ああ。ユウゼン、どうしたんだ? お﹂
﹁││待ってマーテンシー!﹂
そのとき、二人の少女が馬車から飛び出していた。モデストゥス
の目の前。黒髪の少女マーテンシーが先で、それを追って緑の髪の
ライムが鮮やかに日の光を浴びた。
296
マーテンシーは相変わらず人の目を意識しない様子でぼんやり歩
き回っていたが、ライムはモデストゥスとばっちり目が合い、はっ
として身体を硬直させた。人間嫌いのライムは一目で傀儡と分かる
容姿をしているのだ。ユウゼンは焦りで頭が真っ白になった。
﹁ん? ⋮⋮うん、うん?﹂
﹁あ、そ、の、伯爵、この子は、つまり﹂
つまり、傀儡、ではあるのだが。果たして西方の森の伯爵はその
存在を知っているのだろうか? 知っていたら? 知らなかったら?
混乱して何も言えないうちに、モデストゥスはぽんと手を打って
声を上げていた。
﹁実に綺麗でかわいらしいではないか! どこの子だい? あの果
実の色に似ているな﹂
﹁え?﹂﹁へっ?﹂
﹁もっと手入れをすればいいのに、惜しいじゃないか?﹂
にっこり笑いライムの鮮やかな髪に手を伸ばすモデストゥスに、
流石の人間嫌いの少女もしばらくぽかんとして固まっていた。それ
から我に返ったらしく、顔を真っ赤にしてマーテンシーの側に逃げ
ていく。マーテンシーは城の前でくるくると踊るように回っている。
ハルジオンの伯爵は、少しの偏見もなく眩しそうにそれを見ている。
﹁⋮⋮伯爵。少し、話を聞いていただけませんか?﹂
彼なら理解してくれるかもしれない。誰か協力して、分かってく
れる人が居てほしい。
ユウゼンは彼の人柄を見込み、意を決して彼らの正体をモデスト
ゥスに話した。変革魔術のこと、傀儡のこと、アツィルトの存在、
そして昨晩の出来事⋮⋮。
297
﹁││なるほど。それで、アレクサンドリアまで来たということか
い﹂
﹁そう、です﹂
モデストゥスは微かに眉を寄せながら聞いていたが、一つ頷く。
そしておもむろに傀儡たちが身を潜めている馬車の中を覗き込んだ。
二人の少女を除いた二十一名がはっと息を飲む様子が伝わってくる。
回復して目を覚ましていたシアンが代表して馬車から出てきた。
誰も守れなかったと絶望していた少年は今、何を思っているのだろ
う。ユウゼンはその原色の青に、僅かに緊張して汗ばんだ右手を握
り締めた。
﹁私は、シアンと申します。ここにいる傀儡達の代表と考えていた
だければ﹂
﹁初めまして。ハルジオンの伯爵をしているモデストゥス・フリッ
グ・シンダリアという。ユウゼンの伯父に当たるのかな? 君たち
の事情は大体聞かせてもらったよ﹂
﹁⋮⋮それで、どう思われたのです?﹂
シアンは冷たい印象さえ与えるほど無表情だった。ただ、あの突
き放して拒絶するような空気は纏っておらず、ただモデストゥスを
見ているだけという感じがした。
ハルジオン伯爵はにこりと無邪気な笑みを浮かべ、ユウゼンの予
想以上のことを言ってのけた。
﹁行く予定がないのなら、ハルジオンへ来ないかい?﹂
﹁はい⋮⋮?﹂ 298
オズの西方にある、広大だが深い森林に覆われたハルジオン地方。
青の傀儡は目を見開いて聞き返していた。
伯爵は得意のマイペースで領地自慢を始める。
﹁我が屋敷はそう貶すほどのものでもないのだがね、何しろ田舎な
のどか
ものだから、人手が足りなくてね。来てくれるのなら大歓迎するよ。
何、慣れれば実に風光明媚で長閑で豊満で││﹂
﹁待っ⋮⋮同情、ですか。そんなに簡単に我々を受け入れて、後々
後悔を﹂
﹁気に障るようなことを言ったかい? 私はどうも少し人とはずれ
ているのかもしれない。ちなみに、思ったことを口にしただけでそ
のときの感情に名をつけたことはない。思ったこと、感じたことを
する以外に何か生きる方法があるのならいいね。後悔したとしても
同時に満足しているのだ﹂
シアンはまるで自分と正反対の人間を見つめて、その持論に反抗
すべき言葉を探しているようだった。しかしもう、どこかで縋るよ
うな光が生まれていた。
助けて欲しい。
長年封じ込めて砕いたはずの気持ちが焦燥、疲労によって、ソオ
ラの死によってあふれ出したのかもしれなかった。
差別し、迫害し、仲間を殺したのは人間。矛盾したように手を差
し伸べるのも人間。世界を分かつことはできない。自分もまた人間
以外にはなりきれないのだ。
少し、疲れたよ。
顔をゆがめて、苦しそうに、ぎこちなく、青を纏った少年は頭を
下げた。
﹁お願い、します⋮⋮出来るのならば、彼らに、居場所を与えてく
ださい⋮⋮﹂
299
もちろんだよ、君にもね、とモデストゥスは笑った。
あまりにも気軽に、明るく了承する伯爵を、ユウゼンは改めて敵
わぬ存在として認めていた。気負い張り詰め、守らなければと焦っ
ていた自分とは全然違った。シルフィともまた違うそのやり方が、
立場が、きっと彼らを救うだろうと想像することが出来た。理解者
が得られればと思わず事情を零してしまった幸運を噛み締める。
﹁さあ、行こう! ハルジオンに着くまでに自己紹介でもしようじ
ゃないか?﹂
朝日の中、西の新たな地へ向かう彼らの馬車を、ユウゼンは見え
なくなるまで見送っていた。
300
アドニスのオード︵3︶︵後書き︶
気付けば50話、なんとか後半まで書けました⋮!
最後までお付き合い頂けると嬉しいですm︵ ︶m
301
王国と鳥︵1︶
夢を見ることが好きでした。
夢を見ること以外、好きではありませんでした。
わたしには決められたことが多くありました。
わたしは、あいというものをしりませんでした。
だからわたしは何も感じませんでした。
感謝、嘆願、悲しみ、憎しみ、喜び。
それらは生存権で、外側にあるものでした。
外側にあり、考えるだけで疲れてしまいました。
そういうときには夢をみます。
遠くのことを考えたり、空を滑る感触や、幻の風景、親切な魔法使
いの事を考えるのです。
透明な鳥に似ています。
透明な鳥は、見えないから何をしなくても存在していいのです。
夢の中で透明な鳥は、ジユウで、奔放で、楽しく飛んでいます。
いつまでも、いつまでも││││いえ。
鈍重な足があることに気付きます。貧弱な手があることにも。がん
302
じがらめの体や。仮面のような顔。偽善を吐く喉。空っぽの心。
それはわたしでした。わたしでした。醜いわたしでした。わたしで
した。私。ワタシ?
そういうときには夢をみます。
夢をみることが好きでした。
わたしには決められたことが多くありました。外側にあり、考える
だけで疲れてしまいました。いつまでもいつまでもいつまでも
﹃裏切ればいいのだよ。人形同士、仲良くしないかい?﹄
ある日出会った原色の青は、わたしのようであり、わたしのようで
なく。とても、純粋なもの達を連れていました。
純粋な彼らはわたしに要求しませんでした。夢に似ていました。彼
らは、内側でした。
でもわたしは彼らではありませんでした。
わたしは醜いのです。
彼らは醜くないのです。
そういうときには夢をみます。
だからわたしは何も感じませんでした。
遠くのことを考えたり、空を滑る感触や、幻の風景、親切な魔法使
いの事を考えるのです。わたしは、アイというものをしりませんで
した。
﹃シルフィ?﹄
それは、精一杯、温かな人柄で国を包むように守る、優しいカカシ
のような人でした。
感謝、嘆願、悲しみ、憎しみ、喜び。
どんなものも受け入れて、楽しそうに、生きる力にしているのでし
た。
303
いいな、と思いました。透明な鳥。いえ。親切な魔法使い?
わたしには決められたことが多くありました。
わたしには決められたことが多くありました。
わたしは、愛、I、というものをしりませんでした。
﹃シルフィ﹄
それなのに心地よかったのです。
夢のようでした。
夢ではありませんでした。
鈍重な足があります。貧弱な手も。がんじがらめの体や。仮面のよ
うな顔。偽善を吐く喉。空っぽの心。
醜い私でした。
恐くなりました。夢を見ることが、好きでした、けれど。
透明な鳥は、見えないのです。そうしたら、あの人にも、見えない
のでしょうか?
空の心が、崩れそうに、怪我もしないのに、痛むのです。
わたしは、あい、というものをしりませんでした。
アイしたこともアイされたこともわかりませんでした。
現実の夢。夢の現実。
覚めないでください。醒めないで。どうか冷めないで。褪めないで
ください││││
﹃オマエノセイダ﹄
304
内側から崩れ去った透明な鳥。
もう、夢をみることができない。
こんな私など、初めから 存在しなければ││
※
タルタ二世が死んだ。
シルフィードはベッドの上で目を覚ましたとき、淡々とした声で
そう告げられた。平然とした何の感慨もない声だった。マゴニアの
愚王が死んだところで、という心理にも、本当はとっくに死んでい
たが公表することにした、というただの連絡とも取れた。
マゴニア王国の首都ユミルにある王家の住まい、ヨートゥン宮の
一室は静寂に包まれている。
マゴニアの宰相であるトロヤンは、茫洋と天井を見つめるだけの
王女を眺め、再び言を繰った。
﹁貴方があのような事をしておられたとはな。傀儡だけではなく異
形をも囲うとは。忌まわしき家訓のせいだけでもあるまい⋮⋮愚か
にも己の影を見たか?﹂
305
返事も反応もない。
ただ、少女のガラス玉のような目から静かに水滴が流れ落ちただ
けだ。まるで人形が泣いているようだった。
﹁ばれないとでも思っておられたのか。潮時ですな﹂
あしはらなかつこく
トロヤンはシルフィードと相反していた。東の大国、芦原中国が
道を譲れと言ってきたことが始まりだった。マゴニアは資源に乏し
いが、各国に通じる貿易路がある。道を譲る、ということは属国に
なれということと同義だった。シルフィードはその事態を懸念しオ
ズとの関係強化によって葦原からの圧力を退けようと考えた。トロ
ヤンは葦原の条件をある程度受け入れた上でその保護を受けようと
した。王子、今は王であるレリウスはシルフィード寄りの考え方を
した。タルタ二世の後妻でありレリウスの母ルサールカ妃は浪費家
かつ保身ばかり上手い女で、甘言と金品によって簡単にトロヤンに
靡いた。
それだけの話だった。
﹁私とて全て芦原に乗っ取られるつもりはない。だが貴方のように
甘い考えもしない。負けた貴方は葦原への貢物になって頂く。葦原
の天子は貴方をぜひ側室に欲しいと﹂
返事も反応もない。
ゆっくりと瞬きが時折されるだけの青白い顔。美しき慈善家、シ
ルフィード王女の評判は一夜にして偽善者の裏切り者として地に落
ちた。トロヤンは、所詮民などそのようなものだと思っていた。い
くら恩恵を受けようと、それが続けば当然と思い、裏切られた途端
に手のひらを返す。最も、シルフィードのようなテンペスタリ家は
まさしく義務的な慈善であり、そこには何の感情もなかっただろう
306
が。
﹁││トロヤン? そこで何をしているっ﹂
部屋に唐突に音が戻ってくる。飛び込むように入ってきたのは幼
王レリウスだった。容姿だけは美しいルサールカの血を受け継いで、
端正な顔立ちとダークブラウンの髪を持ち、父には似ず堅牢な意志
と聡明な頭脳を持ち合わせている。堂々と戴冠式を済ませ、マゴニ
アを守り人心を掌握しようと苦心していた。
それでも、子どもという壁は乗り越えられはしない。経験も知略
も拙かった。
﹁これは、レリウス様⋮⋮お久しぶりでしたから、ご挨拶を申し上
げていただけですよ﹂
﹁軽々しく王の名を呼ぶな! 今すぐに出て行け﹂
すぐに感情をあらわにしてしまうところも。合格とは言い難かっ
た。
││それでいい。
そうでなければトロヤンが主導権を握ることができない。憎いわ
けではない。マゴニアのために。
トロヤンは何も表情には出さず、丁寧な礼と共に部屋を退出して
いった。
﹁姉上、大丈夫ですか。姉上? 泣いているのですか? どこか、
ひどく痛むところが⋮⋮﹂
王としての気丈を保ち、年令にそぐわぬ覚悟を持つレリウスです
307
ら、シルフィードの様子を前にすると顔をゆがめた。
﹁⋮⋮ちがう⋮⋮なにも、感じない⋮⋮﹂
ぽっかりと開いた洞のような声は、若き王の心を凍らせた。レリ
ウスはシルフィードの頬に触れようとしていた手を止め、ぎゅっと
それを握り締めた。
﹁貴女は、どうして、一人で全てを背負おうとしたのですか⋮⋮?
そんなことは望んでいなかった。私が頼りにならなくとも護国卿
や六月卿も協力できた⋮⋮それに、あの者たちを囲えばどうなるか、
分からなかったはずがない﹂
哀れでも自業自得ではないか、とレリウスは冷たく震える声で言
った。
308
王国と鳥︵2︶
﹁もう、私は貴女を助けることはできない。いくら一人で異を唱え
てもトロヤンは派閥を広げ、あの女は王宮を腐敗させ邪魔するだけ
で⋮⋮もう、いっそ、﹂
いっそ粛清でもすればいいのか。
レリウスの呟きは空しく、沈んだ部屋に溶ける。シルフィードは
茫洋と少年を見ていた。粛清。その響きは不思議と胸の中になじむ
ような感触がしていた。
レリウスは睨むようにたった一人の姉を見つめると、続けた。
﹁私は王だ。だから人としての感情など持たぬと決めました。姉上
が葦原に嫁ぐことも、必要ならば受け入れる。恨むならどうぞ恨ん
でください﹂
鏡のような瞳がゆっくりと瞬く。そこには、偽れぬ自分が映って
いる。強張って、幼い、今にも座り込んでしまいそうになるアンバ
ランスな権力。
シルフィードは何か言おうとしたのかもしれない。
声の替わりに涙が零れ、だから、空気を震わせるものは何もなく
なった。
※
ごめんね。
母親であるベリンダ・テューズ・テンペスタリがことあるごとに
漏らした謝罪の意味を、シルフィードは知らなかった。
309
王妃であると同時にテンペスタリ家唯一の後継者でもあったベリ
ンダは、テンペスタリ家の例に漏れず万人に尽くし身内に厳しい人
物だった。
人ありて己あり。
他人がいてこそ、自分が存在できる。
だからいつでも他人に尽くさなければならない。
幼い頃からひたすらそう教えられ、疑問を持つこともなく、シル
フィードは過ごしてきた。いや││││
﹃どうして、わたしは││してはいけないのですか?﹄
幼い頃に、聞いたことがある。他の人がしていること。自分とは
違うように思えて、それが羨ましいような気がして、自由の何たる
かも知らずそれを訴えようとしていたのかもしれない。
ひどく叱責され、家訓の素晴らしさを何度も繰り返し聞かされ、
部屋で頭を冷やすように言われた。考えるな。期待するな。望むな。
感謝されることだけをしていればいい。母親は厳しい表情で言った。
王宮のいざこざもあり、シルフィードは生まれてからテンペスタ
リの地で過ごす期間のほうが長かった。王である父親に会うことは
ほとんどなかった。礼儀作法など二の次、最低限のルールだけを教
えられ、その他は母親と共に慈善事業に明け暮れた。感謝されて、
笑顔でそれに応え、淡々と作業をこなす様に誰かを助ける。
﹃ごめんね﹄
ベリンダが時々漏らすその言葉が、シルフィードは好きだった。
彼女がかけてくれる言葉の中で、それが一番優しかった。彼女は作
り物のように綺麗に笑うとき以外、いつも疲れていた。
やはりテンペスタリ家唯一の後継者候補であるシルフィードは、
がらんとした静かな屋敷で過ごすことが多かった。二階の窓から外
310
を眺めて、少しだけ空想に耽る。使用人が三人おり、彼らは仕事に
対して消極的で、よく噂話をしていた。本当は殺されたのだよね、
テンペスタリ家のくせに自己主張が強いような人達は。王様って、
恐い恐い。
シルフィードはいつの間にか小さな綻びに惹かれるようになって
いた。
例えば声を無くした少年兵と出逢ったとき、ひどく懐かしいよう
な優しい気持ちに襲われた。足りないものがある。あるはずのもの。
彼も少し透明で、シルフィードはヘリエルの側にいると安心した。
世界の片隅で、身を寄せ合って暖かく朽ち果てる夢を見ることが出
来る。同情して、同情されることをお互いに求め、いつの間にかそ
れを絆にして繋がっていた。
そして、あの原色の青が世界を変えた。
﹃はじめまして。シルフィード殿下だね。見ようによっては殺そう
かと思ったんだけれど、噂以上の人形なのだね﹄
平然とそう言う傀儡の少年は、シルフィードの中の消えかけた心
の最後の欠片に触れた。抉って、冷たい手で掴むようにして。
﹃許せないんだろう。本当は嫌いなんだろう。マゴニアが、他人が。
わかるよ。だからね││﹄
裏切ればいいのだよ。
そうか。
すとんと、それはシルフィードの中に落ち着いて、足りない何か
が埋まったような嬉しさが生まれた。許せないとか、嫌いであると
311
いう感情はよくわからないが、裏切ることを想像したとき、今まで
にない充実感と暗い喜びを得ることが出来た。彼らを匿うことはこ
の国では許されない。許されなくても、彼らを助けたい。裏切るた
めに? 助ける⋮⋮? 彼らは今まで自分に対して何かを要求し、感謝を述べたマゴニア
の人々とは違って、シルフィードを入れ物の中に当てはめなかった。
慈善家とも偽善者とも言わなかった。他人、ではなくて、仲間、の
ような。でも自分は傀儡ではない。
母ベリンダが死に、ヨートゥン宮に呼び戻され、弟のレリウスに
小さな手を伸ばされた。
シルフィードは少しだけ悩み、そう時を経ず王となるであろうレ
リウスのために、オズ皇国を選んだ。必然的に宥和政策を唱えた宰
相のトロヤンと対立することとなり、余分な衝突を避ける意味も込
めて逃げるようにしてオズを訪れた。
豊かな国だった。
作法もままならない自分を必死に誤魔化そうとして、息が詰まり
そうだった。煌びやかで、賑やかで、誰も知らない国。それでも時
々呼吸が苦しくなるのを我慢すれば、ほとんど何も感じず、生前の
母のように笑うことが出来た。
﹃あの、ユウゼン様。以前からお会いしてみたいと思っておりまし
た﹄
自分の容姿を好む人間が多い、ということをシルフィードは知っ
ていた。母ベリンダは絶世の美女といわれていたし、シルフィード
は彼女に似ていると言われた。だから、それだけを頼りにして、彼
に声を掛けた。
次期皇帝と目されるオズ第一皇子、ユウゼン・パンサラ・オルシ
ヌス・アレクサンドリア。彼に気に入られれば、きっとレリウスを
312
助けられる。
彼は、少し困ったような顔をした無愛想な青年に見えた。笑顔で
話しかけるとぽかんと数秒こちらを見つめ、それからうろたえたよ
うに視線を彷徨わせ、シルフィードによく馴染みのある反応を示し
た。
自分に関係のない別世界の出来事のようだった。発する声が遠く、
誰が喋っているのだろうと、客観的に己を見ている。それでもいい
か、と思っている。
ダンスが始まったとき、我に返った。練習不足かつ不慣れでほと
んど手順がわからない。自分が恥を掻くのは仕方がないが、よりに
よって第一皇子に恥を掻かせては⋮⋮⋮⋮
シルフィードは冷や汗が滲む緊張の中必死で周囲と合わせていた
が、発作のようにぎゅっと呼吸が苦しくなり、集中が何度も途切れ
そうになった。やめたい、なんて⋮⋮考えるな。期待するな。望む
な││││
それなのに眩暈で一瞬視界がぐらつき、よりにもよってユウゼン
の足を踏んでしまった。血の気が引くと同時に、どこかで安心して
いる自分がいた。束の間でもいいから呼吸が上手く出来るところを
探していた。
﹃││すみません⋮⋮! 大丈夫ですか?﹄
顔を上げると、なんだかひどく心配そうな顔がそこにあり。シル
フィードは驚いて瞬きをした。泳ぐように舞う人の波の中で二人だ
けが立ち止まっていた。彼の黒に近い茶色の瞳は不思議なほど深く
313
て、穏やかで、優しい光を宿している。とくんと心臓が鳴って、呼
吸が戻ってくる。手を引かれ、華やかな波の間を抜け出していた。
その間少し何か喋ったのかもしれないが、よく覚えていない。
﹃実は俺も、人波の中はあまり得意じゃないんです。浮かれてしま
ってシルフィード殿下の体調も考慮せず、失礼しました⋮⋮﹄
案内された静かな部屋で、自分は病弱ということになっているの
だとぼんやり思い出した。マゴニアの第一王女のかたち。そんなこ
とを思っても、いつの間にか用意してくれたボードゲームに夢中に
なり、楽しんでいた。自然と笑っている。呼吸が苦しかったことな
んて忘れてしまう。楽しい? 楽しい⋮⋮⋮⋮
それから、たくさんの感情を自分の中に見つけた。少しだけ考え
ることを、期待することを、望むことを覚え、誰かの前で泣けるの
だと知った。胸が苦しいような、けれど心地よいような、不思議な
感情を経験した。
すきですよ。
ちょっとだけ、笑ってしまうような事を何度も心の中で呟いてい
た。アドニスという真っ赤な花の名を冠したオード︵頌歌:抒情詩︶
を読んだことがある。アドニスの花言葉は、儚い恋、期待、消えゆ
く希望。
わたしの恋だ、と思った。
﹃それが、わからない、んですか? 好きだという感情が、どうい
うものか、そんなことが﹄
314
だからシルフィードは笑ってみせた。涙が滑り落ちた。すきです
よ。心の中で呟いてみた。
わたしが、そう思っているだけだから。人形になど、誰も恋をし
ない。どうかしあわせになって。
そうして、希望が消えて。
裏切りは、発覚した。
思い描いていた結末。どこまでも落ちて、積み上げてきた偽善を
全部崩して、死んでゆこうと思っていた。
でも、偽善は偽善だけではなかった。助けたかった。その気持ち
は本物だったのだ。死体を見たときに気づいた。
生んでしまって、本当に、ごめんね。
母親であるベリンダ・テューズ・テンペスタリがことあるごとに
漏らした謝罪の意味を、シルフィードはずっと知っていたのだ。
315
316
王国と鳥︵3︶
静かで、暗くてとても冷たかった。
床は汚れて湿り微かに異臭がしていた。生き物が流したものが腐
った匂い。血が飛んだ白い長衣のままその上に倒れていた。身じろ
ぎをすると金属の擦れる音が静寂に響いた。後ろ手に嵌められ壁に
繋がれている枷の音だった。
朽ちていく。腐敗して。
とても、静かで、深い沼の中に居るようで。
口に噛まされた布が唾液と僅かな血でじわじわと汚れていくよう
に。
どうして舌すら上手く噛み切れなかったのだろう?
わたしを、いかしているものは、なんなのですか。
鉄格子に駆け寄ってくる靴音。小さな手を伸ばして誰かが泣いて
いた。
﹁姉上⋮⋮! あね、うえ、私の、せいですか? あんなことを言
ったから、ぼくが、何もできないからっ⋮⋮﹂
目を閉じた先の闇は、沼に沈んだ鳥篭の底をゆらゆらと彷徨って
いる。
地面。空。
飛べないだろうか。
飛べない、だろうか││││
317
several
hours
※ ︱before
生まれてきたことに何のイミがあったのだろう?
シルフィードは椅子に腰掛け、マゴニア国第一王女のための部屋
の薄いカーテンが風で揺れる様子を目に映している。荒涼の国らし
い赤茶色の壁が自分の周囲に存在した。その中で、白い長衣を身に
纏う自分は、何かの真似をしても何かの仲間に混じることは出来な
かったのだという風に思われた。
悲観とも違う。
ただ、純粋に疑問に思っている。
例えば、自分であるから。考えること、感じること。自分がそう
思うことに意義があり、他人に自分の存在意義を尋ねたところで何
にもならない。どんなに素晴らしく論理的な答えをくれても、自分
が納得できなければ意味がない。シルフィードは納得できる己の存
在意義が見つけられない。
まずベリンダは、シルフィードを生んだことを後悔していた。要
するに彼女自身それほどテンペスタリの人生が辛かったのだ。そこ
に希望が見えなかったから何度も謝罪した。
318
それからただ教えられた通りに生きてきた。そうしないと殺され
るからだ。
たくさんの人を助け、感謝された。ウレシイと思ったことはなか
った。実感はないけれど、そうしないと殺される。呼吸のような義
務に誰が感情を持つのだろう。
裏切るために、傀儡たちを助けた。今思えば、それは唯一自分か
ら望んだことで、彼らを助ける振りをして自分の望みを叶え、そし
て彼らを犠牲にする方法だった。当時そこまで考えが及んでいたわ
けではないが、結果的にその通りになった。ひどいことをした。そ
んなひどいことをしておいて、その本人さえ絶望している。偽善の
中にも真実はあった。人は変わることができないなど、当たり前で
あったのに。
レリウスのためにオズを訪れた。ひと時の夢を見ていたのだ。夜
見て朝目覚めるとなくなってしまうものと同じ種類の。現実があま
りにも重く大きく、絵の具の黒のように広がって、綺麗な色は全部
汚れて埋まる。そんな風にしてシルフィードの夢は絶望に塗り込め
られた。
自分の中に存在意義を見つけることは出来なかった。
生まれてきたことに何のイミがあったのだろう?
人生の中で望んだのは、裏切りの果ての破滅であり、結果的に消
えるのなら最初からいなくても同じことだ。ベリンダがシルフィー
ドを生まなかったとしたら、テンペスタリ家は永遠に綺麗なまま歴
史に残り、ベリンダも死んだ後だが浮かばれたかもしれない。
人が存在意義を問うとき、答えとして挙げられるのは人生の幸せ、
楽しみや喜びなどの快楽、何かを成し遂げること、その充実感、愛、
使命、例えばそういったものであると思う。根源的に、家系、種の
保存があるが、シルフィードの場合ベリンダと同じくこれ以上テン
ペスタリ家を存続させることに拒絶感があり、芦原に献上されたと
しても所詮立場のない異国の側室、己の子が不幸になることは目に
319
見えて明らかだった。
シルフィードは今、何も感じることがない。
唐突に視界が曇り、それでいつの間にか涙が流れていることに気
付くことがある。悲しいと感じているわけではない。なにもない。
あの死体を掴み叫んでぼろぼろになって以来、心は消えた。すぐに
涙も流れなくなるだろう。
生まれてきたことに、何もイミはなかった。
目の前で薄いカーテンが揺れている。いつの間にか立ち上がって
窓の前に立っている。
王母ルサールカが贅を凝らした浪費の象徴、ヨートゥン宮からの
景色は偽りの自然で溢れている。この荒天の国で虚勢のためだけに
犠牲を払い土地に合わないことをしても虚しいだけだ。
それでも、今の自分以下のものはない。
﹁⋮⋮⋮⋮││﹂
窓を開ける。地面とは十分な距離がある。空に溶けるような鳥の
声。
透明な鳥。
Sylphid。
ああ、蜂鳥のことだね、と言ったのは誰だったのだろう。シルフ。
空気の精霊ではなく、鳥類の中で最も小さいといわれる鳥の総称。
生き残るために特定の植物との関係を深めたり、花の蜜を吸うのみ
でなく虫も捕食する不思議な鳥。足は退化しほとんど歩くことがで
320
きず、飼育することはとても難しいのだと聞いた。
籠の中で生まれた蜂鳥は、どこへも飛べないまま地に落ちる。
そういう運命だったのか。
地面。空。
飛べないだろうか。
飛べるかもしれない。
そして、透明な鳥になって、わたしはもう一度だけ、あの人の声
を聞く││││
”シルフィ″
﹁││殿下﹂
││もう少しだった。
もう殆ど窓から身を乗り出していた。一瞬だけ脳裏に過ぎ去った
風のような声に、意識を奪われていなかったら落ちていたかもしれ
ない。ゆっくりと振り返ると、女官が訝しげな顔をしてドアを開け
てこちらを見ていた。ごく小さな音がして、自分の涙が地面に触れ
たのかと気付く。まだ泣いている。シルフィードという入れ物が。
321
﹁殿下、ルサールカ様がお呼びです。石膏の間へおいで下さい﹂
促され、何を思うこともなく女官の後に続く。瞬きをして、涙が
乾くのを待っていた。その内目の前でドアが開かれ、シルフィード
は反射的に礼を取った。
﹁お久しぶりですね、シルフィード殿下。体調は大丈夫かしら?﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮﹂
返事をするために僅かに顔を上げる。
ダークブラウンの髪を美しく結い上げ真珠の髪飾りで止め、ティ
ル・ナ・ノーグ風のゆったりした白いドレスを身につけた若々しい
女が微笑んでいる。無邪気でまるで少女のようなルサールカはその
性質を十分に利用して王の寵愛を得、自分の周囲を固め、望むまま
に散財してきた。きっと貧しい村の暮らしなど見たこともないのだ
ろう。税の徴収は複雑な計算によって誤魔化され、売り物になる収
穫物が農民の口に入ることはない。
部屋の両側や彼女の脇には武装したマゴニア兵が控えている。視
線をずらせばレリウスとトロヤンがそれぞれ右と左の壁際に立って
いるのも認識できた。いるだけで、完全に静観に回っているようだ
った。
﹁それはよかったわ。でも、驚きましたよ。異形、でしたか、凶暴
な獣なのでしょう? そんな危険なものに関わっていたなんて、も
っと早く気付いていてあげればよかったわね。偶然目撃者がいて、
慌てて排除させたのよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
偶然。トロヤンやルサールカと対立したときから何人もの監視を
322
つけておいて、彼女は平然とそう言ってみせる。それがルサールカ
という人格。
シルフィードの沈黙を意に介さず、ルサールカは話を続けた。
﹁ねえ、それで、マゴニアの民は怒ってしまったでしょう? あな
たもそれは辛いことだと思うの。今までも縁談はあったと思うのだ
けれど、葦原中国からの縁談を受けるのが丁度良いと思ったのです﹂
あの大国の王の妃ですよ、とルサールカは無邪気な笑顔で告げる。
以前は野蛮な民族の国だと吹聴していたはずだったが、目くらまし
のような贈り物と保身のためにたやすく考えを改めたらしかった。
それに、彼女は、もう決定したのだ。
﹁準備が出来次第出立すると先方に伝えてあります。何日必要かし
ら? シルフィード殿下、何か入用のものがあれば早めに用意して
おいてくださいね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁な⋮⋮! そんな、性急なっ⋮⋮いつそのような重要なことを決
定したのですか!﹂
そして声を荒げたのはシルフィードではなく、レリウスだった。
右側にいた王はルサールカをきつく睨みつけ、握り締めた小さな拳
を怒りで震わせている。彼の他には動揺をあらわにしたものはいな
い。彼の母親は小鳥のように小さく首をかしげた。
﹁いつだったかしら? 昨日か、一昨日?﹂
﹁馬鹿な! 王は私だ、どうしてなんの許可もなく勝手なことを⋮
⋮!﹂
﹁陛下はまだお若いのですから、判断するのも苦労なさるでしょう
? ですからわたくしとトロヤンで皆の意見をまとめ、決定したの
323
です。皆さん賛成ですから、ご心配なさらず﹂
﹁どこまで、勝手をすれば⋮⋮!﹂
怒りでレリウスの顔色は蒼白だった。同時に泣き出してしまいそ
うでもあった。たった一人にしてしまった小さな王。彼もまた自分
が不幸にしてしまったように思われた。ごめんね。何も感じていな
いけれど謝罪する。わたしにできることがあるのならば。なんでも
しよう。なんだろう。ほら。たとえば粛清。そう。しゅくせい。そ
れがいいのかもしれない。
﹁││姉上⋮⋮?﹂
意識しなければどこにいるのか、何をしているのか分からなくな
る。床を歩いている。石膏の間。ルサールカが正面に座っている。
そこへ向かってふらふらと歩いている。彼女の隣に華美な武装をし
た形だけの美しい兵が立っている。彼の腰に剣が吊るしてある。そ
れに手を伸ばした。飾りの物の兵の腹を正面から蹴り倒しその勢い
で、剣を引き抜いていた。心地よい重み。倒れる兵のうめき声、誰
かの驚愕の悲鳴とルサールカの呆気に取られた顔。何も感じない。
さようなら。その彼女の身体に、シルフィードは鈍い刃を突き立て
た。
﹁ぁ、か、ぎゃああぁあああ!!﹂
﹁姉上!﹂
﹁何をしている! 早く! 止めろ! 捕らえろ!﹂
血で白いドレスが汚れ、ルサールカは椅子から転げ落ちた。壁際
に並んでいた兵達が動き出す。もうひとり。トロヤン。彼にも粛清
を。
324
シルフィードは驚くほど無感情に宰相の姿を探し出して、追いか
けた。彼は顔面を蒼白にして踵を返した。シルフィードは追いすが
って剣を振るった。
﹁ひっ、やめろ⋮⋮!﹂
トロヤンは駆けつけようとしていたマゴニア兵を盾にしてその背
後に隠れたのだった。シルフィードの斬撃は身代わりにされた彼の
腕を切り裂いた。悲鳴が部屋に響き渡る。まだルサールカの声が聞
こえる。トロヤンが逃げてゆく。誰かが邪魔をする。剣がもぎ取ら
れ、羽交い絞めにされる。まだ、終わっていないのに。なにも、お
わっていないのに。
レリウス。
ごめんね。
be
continued︱
May
325
昨日より明日より、だって−Seven
わたしは人間が嫌いだ。
colors−
だから、全然、ダメかもしれない耐えられないかもしれないなん
て思った。アツィルトの村が焼かれて、異形たちもソオラも殺され
て、くやしくてわけが分からないまま随分みんなで馬車に揺られて、
身を縮めて悲しい眠りに落ちながら、今度生まれてくるときは花や
colors−﹂
雲になりたいと少しだけ泣いた。そして、空っぽみたいな気持ちで
目が覚めて始まった新しい世界は││││
﹁昨日より明日より、だって −Seven
﹁ライムちゃん、伯爵が呼んでるよぉ? 行かないの∼?﹂
﹁い、いい。やだ、行かないよ﹂
﹁そぉお?﹂
天気のいい午前、自然がいっぱい、っていうよりもへたすると自
然に埋もれてしまいそうなハルジオン伯爵の屋敷の庭で、ライムは
あわててぶんぶんと首を振った。屋敷の右端にあたるここは洗濯す
る場所で、マーテンシーと一緒にみんなの服を洗っているところだ
った。まあ、マーテンシーは熱心にやっているかと思えばすぐにど
326
こかへ行きそうになったりもするから気をつけないといけない。
今ライムに声を掛けたのはもともと屋敷にいた女中で、ネリネと
いう若い女の人だった。少しぽっちゃりした体型で間延びした話し
方をするけれど、性格はとてもさっぱりしている。だから、ライム
でもなんとか返事をしたりできる。もう少しだけ、仲良くなれるか
もしれない、とも思う。
でも。
でも、あの人は、なんか、⋮⋮なんかやだ!
﹁わたしは、人間なんて、嫌いだもん⋮⋮﹂
桶の中でじゃぶじゃぶとシャツの汚れを落としながら毒づいた。
自分の明るい緑の髪と目。傀儡だと一目でわかるから、恐かった。
五体満足でいられたのは本当に幸いだったし、みんなの欠陥より不
幸だなんていう気はない。ただ目立つから、自分のせいでみんなを
危険な目に合わせてしまいそうで、恐かった。
それに、ライムはソオラの耳やシアン長老の不老不死のように際
立った能力を得たわけではないけれど、実は人よりも感情に敏感な
のだった。不安や怒り、嫌悪など、負の感情は特によくわかってし
まう。だから普通の人間には、近づくなんて、本当にとんでもない
ことで⋮⋮⋮⋮と、言っているのにその矢先からこの男は。
﹁ライム、やあここにいたのかい! ちょっと来てごらん、きみと
マーテンシーにぴったりの洋服を用意したんだよ﹂
﹁みゃっ⋮⋮! な、な、なにっ?﹂
﹁もちろん私だよ? 愉快というより愉快犯な西方の森の伯爵さ!
さあ行こうすぐ行こうどこまでも海越えてっ!﹂
﹁越えないよ!﹂
底なしの明るい声に飛び上がり、ライムは思わず怒鳴って自分の
327
肩に気安く触りやがった男の手を払いのけた。まったく意味わかん
ない。この人意味わかんない!
怒りと屈辱で顔を真っ赤にして振り返った先には、今日はベージ
ュの正装を完璧に着こなす白髪だけなんか違和感のある若々しい壮
年が立っていた。一体いくつなのか、性格と姿からはちょっと推し
量れそうにない人。ハルジオンの伯爵。カカシ皇子のときも思った
けれど、この国の偉い人達ってみんなこんなのばっかりでやってい
けるんだろうか?
とにかく、なにはともあれ、嫌い。だめ。むり。
距離をとって威嚇すると、伯爵はたちまち眉尻を下げて悲しそう
な犬みたいな顔になった。
ライムは不覚ながら怯んでしまい、ついモデストゥスと会話を続
けてしまう。ああほんとに、同情心なんてろくなもんじゃない。
﹁海は広くて、途方もなく大きい。だからそれを越えるのが人類の
夢なのだよ⋮⋮?﹂
﹁し、しらないよ。見たことないし⋮⋮﹂
﹁何だって!? それは大変だ! 一大事だ! すぐ行こう即出港
だ大航海時代が幕開けー!!﹂
﹁え!? ちょ、なにゆってるの意味わかんないっ? 恥ずかしい
からやめてよ叫ぶのっ、もう、海はいいから、何? 服がどうかし
たんじゃなかったの?﹂
﹁そうそうそうそうそうそうなんだよ洋服!﹂
﹁鬱陶しい! 返事は一回!﹂
﹁めんご﹂
﹁は、反省してない⋮⋮﹂
恥ずかしさを堪えてどこかのお母さんのようなことまで叫んだと
いうのに、明らかに誠意が感じられなかった今。
伯爵とかいう以前にこいつはほんとに大人なのだろうか、とライ
328
ムは遠い目をしたが、モデストゥスは全然意に介さず上機嫌で話を
続ける。
﹁いい生地があったから即行で作らせたのだよ。さあさあうえるか
むマーテンシーも、﹂
﹁待って触っちゃだめ!﹂
二人の会話など存在しないように一人熱心に布を洗っていたマー
テンシーに、何気なく触れようとした彼を、二人の間に割って入る
ようにしてライムは止めた。上品な香水の香りがふっと感じられ、
我に返りぎょっとする。驚いて尻餅をつきかけたライムを、伯爵の
意外としっかりした腕が支えて。それに、それに、肩に座るみたい
にひょいと抱き上げられてしまって││
﹁ぎゃっ! や、や、やめっ⋮⋮﹂
﹁ふむ、マーテンシーは触られるのは嫌いなのかな?﹂
﹁そうだよ! いいから降ろしてよっ⋮⋮!﹂
﹁ライムもかい? それにしてもどうやったらマーテンシーはつい
てきてくれるのだろうね﹂
﹁つ、連れてってあげるから降ろしてっ⋮⋮﹂
﹁それはありがたい﹂
伯爵の高そうな服に皺をつけそうでいまいち暴れられなくて、ラ
イムはわめいた。男の人に抱き上げられるなんて、幻みたいな面影
しか残っていない。あれは、お父さん、だったんだろうか。少しだ
け懐かしいような気がした。こんな変人なはずないしたぶん絶対気
のせいだけど。
モデストゥスはライムを地面に降ろして頭を撫でながらにっこり
と笑った。無邪気で、ほんとに嬉しいと思っているっていう感情が
わかって、ライムはどうしたらいいのかわからなくなって少しだけ
329
涙が出そうになる。
どうして、今さらやさしくするの?
あんなに嫌悪して蔑んで死んでしまいそうな負の感情を向けて、
みんなを傷つけて殺しておいて、今さらわたしを試すみたいに、責
めるみたいに笑うの?
ちがうよね。気まぐれなんだよね。わたしは騙されたりしない。
忘れたくても、忘れたりできないよ⋮⋮?
ちくりちくりと痛む心の悲鳴を無視して、唇を引き結んで、伯爵
の手を払いのけながらマーテンシーを振り返る。魔術実験で内側を
傷つけられて、みんなと同じ世界を感じられなくなった女の子。た
ぶん、自分よりは年上だと思う。肌が白くて、長い黒髪が綺麗で、
無口でいつでもまっすぐな感情を持っている。わたしは彼女を助け
るふりをして、彼女に逃げているのかもしれない。マーテンシーの
そばにいればわたしは傷付かないから。
﹁マーテンシー、洗濯は終り。部屋に入ります。服を着るの﹂
ライムの呼びかけに反応してマーテンシーの黒い瞳が瞬きする。
白い手から雫が零れている。ライムは洗濯物を指差して、その後指
で×印をつくってもう一度同じことをやさしく言った。
マーテンシーは眉を寄せたがやがて納得してくれたらしく立ち上
がった。
﹁なるほど。わかりやすく言うのだね﹂
﹁そんなこといいから、さっさとしてよ﹂
感心する伯爵に気恥ずかしくなって急かす。屋敷に入ると、植物
をモチーフにした飾りや模様が色んなところにあって目に付く。玄
330
関にはやさしい印象の女の人の肖像画が飾ってあり、見守ってくれ
ている気分になった。その側に花を生けるのが伯爵の日課なのだと
ネリネさんは言っていた。
ライムは町に行った経験も少ないから流石に豪華な邸宅は珍しく
て、住んでいてもまだ慣れない。柔らかいベッドとか、自分用の机
や鏡に遠慮してしまいそうだった。嬉しいんだよ、伯爵は子どもを
授からなかったからね、とネリネさんは笑い飛ばした。冗談じゃな
いって思ったけど、物だってせっかく作られたんだから使わなきゃ
もったいないし。
﹁やあ、ライム、マーテンシー。とうとう伯爵に捕まったみたいだ
ね﹂
客間に入ると青い髪の若い長老がお茶を飲みながら肩をすくめた。
こんにちは、と挨拶しながらライムも同じように肩をすくめてみせ
る。シアン長老はもともと自分と同じように人にはありえない鮮や
かな髪と目を持っているから、なんとなく親近感は感じていた。も
ちろん彼は不老不死かつ身体能力の低下という枷も負わされ、きっ
とずっと苦労している。
でも、前は同時にとても恐かった。柔和で優しくしてくれるのに、
絶対どこかに突き放した冷たいような感情を漂わせていて、ライム
は能力のせいで余計にそれを感じ取ってしまった。ほんとに、未来
が見えなくなった。
﹁人聞きの悪いことを言うね? こんなに素晴らしい素材がいるの
に磨かないなんて詐欺だ! ルパンだ! かわいい子には服を着せ
ろ!﹂
﹁何言ってるんだか⋮⋮﹂
今は、ちょっと違う。
331
ハルジオンに来てからシアン長老は以前より無愛想になった。で
も、感情が柔らかくなって、前よりずっと取っ付きやすくなったと
思う。ライムは今のシアンは素直に好きだと思える。商人は一旦休
憩しているようでモデストゥスと大体一緒にいて、議論したり、い
つの間にか彼の秘書みたいな感じで執務を手伝い始めているようだ。
意外だけれど、結果的には馬が合うみたいだった。
ライムはマーテンシーの手を引いて仕方なく付き合ってやるよと
いう雰囲気を漂わせながら衣裳部屋に入る。女中が二人待ち構えて
いて、あっという間に着替えさせられ髪まで整えられていじくりま
わされる。マーテンシーが嫌がらないか不安になったけれど何とか
大丈夫で、実はおしゃれに興味がないわけはないから、魔法のよう
な女中さんの手にぼうっとみとれていた。
﹁いいわねえ、ブラウスの色と同じ綺麗な髪だわ。飾りは、どれが
いいかしらね∼﹂
﹁きれい?﹂
﹁もっと手入れすれば艶も出るでしょ。後でオイルをあげるからね﹂
蝶を正確に模った金色の髪飾りが、大嫌いな緑の髪に飾られて、
つい鏡の向こうの自分に指を伸ばしていた。わたし?
髪と同じ明るい緑のブラウスと、派手すぎない手触りのいい黒の
スカート。それに、それに柔らかくて履きやすくてすごくかわいい
デザインのダークブラウンのブーツ。
マーテンシーを見てみると、光沢のある白のシャツにフリルのつ
いた紺色のロングスカートを履いていて、とてもよく似合っていた。
本人は頓着しないけれど、やっぱり美人で⋮⋮。
﹁よく似合ってるじゃないか! 素晴らしいね﹂
女中さんに背中を押されて出て行かないわけにはいかなくなって、
332
ほんとに恥ずかしかったし、うかつにも抱きしめられそうになった。
あわてて逃げて睨むと残念そうにしていたけれどそれでも嬉しそう
で、ライムは苦笑するシアン長老の背中に隠れていた。
﹁まあ、年寄りの楽しみに付き合ってやればいいさ。いい品だろう
しね﹂
﹁そう、でしょうけど⋮⋮なんか、やだ⋮⋮﹂
﹁馬鹿で変人だが、伯爵は嘘吐きではないようだよ。信じてみる価
値はあるんじゃないかな?﹂
﹁え、だって、そんなの、⋮⋮﹂
マーテンシーも褒めちぎっている西方の森の伯爵を横目で見なが
ら、口の中で呟く。一番人間を信じていなかったシアン長老が、そ
んなこと言うなんて。
もごもごと俯いていると、明るい声が聞こえた。
﹁どうだい、せっかくだから町へ行かないかい? まだ案内してい
なかったしね﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁うん、我ながらいい考えだ。これは見てもらわなきゃもったいな
い﹂
﹁待ってよ⋮⋮わたしは﹂
すっと血の気が引くような思いに肌が泡立って、ライムは硬い声
を出した。今すぐにでも実行してしまいそうなモデストゥス。なん
で、そんな簡単に、わたしたちを町へ連れ出そうだなんて、思える
の?
どす黒い不安と孤独が湧き上がってきて気持ちを押しつぶした。
﹁行かない⋮⋮行きたくない。馬鹿じゃないの? 見世物にでもす
333
る気? どうせ汚らわしいって、嫌な目で見られて笑われるのに。
やだよ。人間なんて嫌い。大嫌い﹂
午前の柔らかい日差しの部屋で、自分の声だけが寒々しく響いて
いた。シアンの微かなため息がやけに大きく聞こえて、モデストゥ
スの視線がまっすぐにライムを捉える。ああ││
なんでなの? 悲しそうな顔して、全部わたしが悪いみたいに⋮
⋮!
伯爵は動揺することもなく、やさしく真摯な声でしゃべった。
﹁私は、ライムが好きだ。他のみんな、マーテンシーやシアンもね。
ずっと憎んでいるのは苦しくて楽だけど、悲しいことだよ。ライム
はいい子だ。少しだけ許してくれないか? 今さら信じるのはきっ
ととても恐ろしく、勇気がいることだが、私はハルジオンの誰にも
ライムを馬鹿にさせたりしない。優しくて誇らしいんだよ。私は君
や他の子どもたちも、本当に養子にしたいと思っているのだからね﹂
﹁なんで、傀儡、なのに、⋮⋮﹂
﹁その前に、人間だろう? 私は会った時からずっとそう思ってい
る。少しも恐くないよ﹂
﹁││││﹂
恐い。やめて。わたしは、人間なんかじゃ、││││
﹁ちがうっ! 知らない! そんなのわたしじゃない⋮⋮!﹂
悲鳴を上げるようにして怒鳴ると、今までぼうっとしていたマー
テンシーが耳を押さえて座り込み、金切り声を上げて泣き出した。
マーテンシーは怒鳴り声がすごく嫌いだったのに。ショックで立ち
334
すくんでしまう。わたしが悪いんだ。わたしなんか、わたしなんて
││
﹁ライム! 待ちなさい⋮⋮﹂
大声で泣くマーテンシーに伯爵が気を取られているうちに、部屋
を飛び出した。全速力で玄関も出て、屋敷の敷地を駆け抜けて、砂
漠にも例えられるハルジオンの森の中に飛び込んだ。涙で上手く足
元が見えなくて、木の根につまづいて顔から地面に転んだ。
﹁っ⋮⋮うっ⋮⋮ひっく⋮⋮!﹂
反射的に顔に触れると、鼻がじんじんして右側の唇の脇や頬が擦
れて血が出ている。蝶の髪飾りが外れて草の上に転がっていた。痛
くて、情けなくて嗚咽が漏れた。
マーテンシーは泣き止んだだろうか。
恐がりで少しの勇気もなくて人を傷つけてしまうばかりの醜いわ
たしなんて、きっといないほうがいい。
※
ずいぶん長いこと道もない森の中を歩いた。
足の痛みで歩けなくなったライムは、弱くなる午後の太陽を木々
越しに見上げるようにして、木の根元に倒れていた。側の枝に巣を
張る蜘蛛や草の茎を這う蟻たちが時々涙で黒い模様になった。
お父さん。お母さん。
思い出してみようとする。とても古い記憶の中にある。でも、違
うんだろうなとすぐに否定した。わたしはきっといらなかったから
売られたんだ。わたしを抱き上げていた誰かは、わたしを買って運
335
んでいくあの恐ろしい魔術師だったんだ。
かさかさと、蛇がうごめくような音がして、ライムは身を縮めた。
ザアザア、木々は恐ろしげに鳴り続けている。草葉の陰から、なに
かぞっとする目に見えないもの達に見つめられているような気がし
た。夜になったら気温が下がって、獣やもっと恐ろしいものたちが
うろつきまわる。そしたら自分は寒さと痛みに震えながら、齧られ
て啜られてバラバラの骨だけになるんだ。
﹁う、ひっく、⋮⋮ぐすっ、ぅえぇん⋮⋮!﹂
恐くて寂しくて痛くて、とうとう泣き声を漏らした。やだよ。誰
か。たすけて。こわいよ。こわい。こわいよ⋮⋮!
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
そのとき聞こえたそれは、遠い声で、幻みたいにライムの耳に届
いた。ライムは夢中で泣き声を上げた。答えるように、声は近づい
て、それは間違いなく人の気配になって││
﹁やあ、見つけた! よかった、すぐに伯爵に知らせよう!﹂
夢じゃなく。本当に駆けつけてきたのは知らない、見たこともな
い男の人たちだった。ライムを探していたみたいで。嬉しがって、
安堵している素直な感情。どうして? なんで、気味悪がらないの
⋮⋮
336
﹁ライム⋮⋮!﹂
そのうち、聞き覚えのある声がして、でもそれはひどく掠れてし
まっていた。全速力で駆け寄ってくるのは、別人みたいに正装をく
しゃくしゃにした伯爵で。ライムは怒鳴り声を予測して、ぎゅっと
目を閉じた。触れたのは暖かい手だった。
﹁だ、大丈夫かい!? かおっ顔に、怪我、医者ーー! 誰か名医
を呼んで来いーー!﹂
﹁伯爵ぅ、転んだだけですよ。大げさな。傷口をきれいにしとけば
すぐ治りますって﹂
﹁だ、だだだってこんなに泣いてるじゃないか!? 痛いんだろう
っっ?﹂
﹁ぷっ、慌てすぎです。きっと安心したんですよ⋮⋮それか、﹂
心配して、甘やかして欲しいんじゃないですか?
ライム捜索に問答無用で招集された男の言葉は、泣き声に掻き消
されて二人の耳には届かなかった。
怪我に触れないようにそっと少女を抱きしめた伯爵に、少女はし
がみついていっそう激しく泣いた。
﹁今日が積み重なって昨日になる。今日が続いて明日になる。だか
ら、今日を頑張って精一杯生きれば、人生全部いい日になるのさ﹂
337
馬車の中で、ライムを宝物のように抱きかかえながら、西方の森
の伯爵は歌うように呟いた。今日、とライムはオウム返しで囁いて、
頭の中で繰り返した。私の妻がよく言っていた言葉だよと、伯爵は
小さな物語を聞かせてくれた。ある貧しいお針子の女の人の話。
今日だけなら、変われるかもしれない。
馬車に揺られて温かい眠りに落ちながら、あの肖像画の女の人が
夢の中で笑ってくれた気がした。
338
優しい手︵1︶
二日。
正直、あまりに忙しすぎてユウゼンは四十八時間も経過したよう
な気がしなかった。
アツィルトから戻って、西方の森の伯爵を見送って、無断で抜け
出したツケが全部圧し掛かってきた。モリスは何も言わず、何も聞
かず、その代わり黙ってスケジュールを用意した。式典、執務、会
議、寝る暇もなく、それらをこなし終え、ユウゼンはその場で倒れ
て眠ってしまおうかと出来もしないことを考えた。
出来ない。
出来るはず、ない。
タルタ二世の死で急遽帰還したことにされたマゴニア王女。ヘリ
エルとセクレチアは帰る術も持たず、今にも叫びだしそうな顔でユ
ウゼンの話を聞いた。どうにかしてみせると、強引に約束して返事
は聞かなかった。だから、一旦仕事をこなし終えたその足で、ユウ
ゼンはカラシウスの元を訪れていた。
﹁カラシウス⋮⋮折り入って頼みがある﹂
夕方、アレクサンドリア城の廊下で、兄弟は向き合った。窓から
差し込む夕日は、神秘的とさえ言われるカラシウス・アルティベリ
ス・アレクサンドリアの端正な容姿を陰影で彩っている。
カラシウスは考えを読ませない無表情で艶やかな黒髪をかきあげ、
首を傾げた。
﹁頼み、ねえ。それはシルフィード殿下の事?﹂
他人の口からその名が出るだけで、ユウゼンは動悸がした。シル
339
フィの壊れたような泣き声が血の色と闇に混じり、炎の幻影に焼き
尽くされる。どんな事情があっても、あのまま冷たい闇の中にいる
のなら、助け出さなければいけなかった。孤独な彼女は美しくても
決して触れられない。オズで過ごしていたときのように、元気に笑
い、喜んで、そして何かを望んでほしかった。
圧倒的な情報収集能力を有し、全部見通しているような弟の黒い
瞳を、意を決して見返し、頷く。
﹁そうだよ。シルフィ⋮⋮シルフィード殿下に、会えるかどうか⋮
⋮いや、今どこにいるのか分かるなら教え││﹂
﹁知ってるけど、教えない﹂
日が沈む。空が闇に飲まれる。
早くしないと、今日が終わってしまう。いやだ。なんでだ。彼女
は、泣き止んだ?
﹁なん、なんでだよっ? 何が望みなんだ? 何でもくれてやる、
教えろ! 早く、早くしないと﹂
﹁もう止めたら?﹂
掴みかかろうとしたユウゼンを軽くあしらってカラシウスは冷た
くさえ聞こえる声ではっきりと言った。あまりに醒めた声に、思考
が凍りついた。美しい第二皇子は言い含めるように、続けた。
﹁兄さんは、シルフィード殿下を伴侶にする覚悟がないんだよね?
それなのに、ただ助けたいんだろう?﹂
﹁かくご、俺は││││﹂
﹁納得していない、報われないのにどこまでも同情してさ、そうい
うのもう止めたら? 損ばかりしているオズのカカシなんて、誰も
助けられない﹂
340
これが心配というものなのかな、とカラシウスは肩をすくめた。
﹁僕は兄さんがこの国で誰よりも優秀だと思っている。馬鹿で無能
な振りして気安く拒まず誰でも受け入れて、身分さえ関係なく受け
入れられて。兄さんの仕事は危険を遠ざけて結果的に一番平和な方
向に進む。もちろん、綺麗な方法じゃなくてもね。僕は、それがオ
ズの国を守るカカシに見えた。だから、シルフィード殿下が兄さん
にだけ近づいたとき、この人は本当に大切なものが見えているのか
なと感心したんだよ。認めてもいいかって。でも、兄さんは彼女を
好きでありながら、彼女を拒否していたよね﹂
拒否? シルフィが、ではなく、自分が?
カラシウスが断言し、ユウゼンは耳を疑った。
﹁⋮⋮拒否、なんてするわけ﹂
﹁シルフィード殿下は最初から兄さんにはっきりとアプローチして
いたじゃないか。それからもずっと。好きだって言われたんじゃな
いの? なのに、なんで受け入れなかった? カカシであり続ける
から、余計なことを考えたんだろう﹂
好きですよ。私でよければ││││
││好きだ。でも。将来の皇帝。オズを守るべき人。自分の定め
られた運命。たくさんの敵を作り苦労を負うだろう。オズに援助し
てくれる親類のないシルフィードが后となったらもっとひどい苦痛
を抱えることになるだろう。きっと幸せには、させてあげられない。
それならば││
﹁ち、がう。違う。そんなこと以前にシルフィは、俺のことが好き
341
なわけじゃなかった⋮⋮ただ、国のために動いていただけだ。そう
言われたんだよ﹂
そうだったじゃないか。人が好きかどうかって、どうやったらわ
かるんですか。あれは、好意を否定する言葉にほかならない。
カラシウスは呆れたようなため息を吐いて、背筋がぴりとするよ
うな柔らかくも鋭い視線を向けてきた。こいつは、こんな表情もす
るのか。人を捉えて魅了して同時に恐怖させ、従わせずにはいられ
ない、そんな表情を。
﹁自分の事はわからない? そんなはずはないけどね。例えば万が
一それが本当でも、なぜ心まで奪って自分のものにするって思えな
い? そこまで諦めて何がしたいの?﹂
世界は。
世界は、定まっていて。
でも、本当はそれが虚しくて嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で
嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で動けなくて立ち止まったままず
っとそこに留まったまま決してそこから動けないように自分で自分
を固定して役目を終えて倒れるまで空を眺め続けるカカシみたいに。
カラシウスは返答を待たずに続けた。
﹁僕は、カカシにはなれない。でもオズの目と耳と剣にはなれる。
兄さんが本当に望むのなら、僕はいつでも協力する。二言はない﹂
ユウゼンは目を見開いて第二皇子を見返した。今言われた言葉の
意味は。
342
﹁お、まえ、それ、って⋮⋮それは、﹂
﹁正直、別に嫌じゃないんだよね。ま、一つの選択肢って奴だよ。
考えといて﹂
﹁かんがえ、⋮⋮って⋮⋮!﹂
もう話すことはないとばかりに、一つ肩をすくめた後、カラシウ
スはひらひら手を振りながら廊下の向こうの暗がりへと消えていっ
た。
ユウゼンはごつ、と廊下の壁に額を押し付け、混乱を収めようと
目を閉じた。選択肢? 冗談じゃなく? それを選んだらどうなる
? どうなるって、その前に覚悟。望むのか。望めるのか?
﹁⋮⋮でも、そんな⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ユウ兄さん﹂
﹁ぶぐっ﹂
透き通るような綺麗な声に呼びかけられて、噴いた。今さらだけ
どなんだろうこのタイミングの悪さ。
ユウゼンはのろのろと顔を上げ、赤い跡がついただろう額を押さ
えながら振り返る。そこにはシンプルな濃紺のドレスで身を包んだ
セラストリーナが背筋をすっと伸ばして立っていた。
あのときから、約束どおり彼女は様々な社交の場に出席するよう
になった。ユウゼンが思った以上にセラストリーナは努力し、人と
の繋がりを増やしているみたいだった。それに、彼女には今護衛と
してヘリエルとセクレチアを預かってもらっている。
誰もが皆、少しずつでも変わろうとしているのかもしれない。
自分だけを取り残して。
343
優しい手︵2︶
﹁兄さん。あの、ね。シルフィード殿下の事⋮⋮私に出来ることが
あったら、何でも言ってね。詳しくは⋮⋮分からないですけれど、
きっと大変なんですよね。ヘリエルとセクレチアの事はちゃんと責
任持ちますから﹂
マゴニアの護国卿である十二月卿と知り合いになったのだと、セ
ラストリーナは続けた。マゴニア王国は一月卿から十二月卿まで十
二の月の貴族と原住民たるテンペスタリ家、王家で成り立っている。
十二月卿はマゴニアで一番の精鋭部隊を所有していて、シルフィー
ドとも親交が深かったという。いつの間にかそんな心配までさせて
いたのか。
﹁私、ね。出来たら、もう一度、シルフィード殿下に会いたいな﹂
薄闇の廊下。そう呟いて儚く微笑んだセラストリーナは、一礼を
して綺麗な金髪を翻しながらユウゼンの横を通り過ぎていった。
同じ王族の立場にあり、社交の場に出ることを恐れていた彼女に
とって、シルフィードは特別な友人だったのかもしれない。
﹁⋮⋮だから、⋮⋮俺は⋮⋮っ⋮⋮﹂
地面がぐにゃりと曲がるような、そんな感覚。精一杯手を差し伸
べようとする人がたくさんいる。誰かが、誰かに。その手を掴めば、
一人で足掻くより転がり落ちることなく誰かを救える。誰かに負担
をかけながら。
344
手を取る覚悟と勇気さえあればの遠い仮定だった。
ここに、居たくない。これ以上一秒たりともこの場所に居たくな
い。
急にそんな卑屈すぎる衝動に襲われてユウゼンは歩き出した。初
めは壁伝いにゆっくりと。それから徐々に早足になって。それでも
耐えられなくなって、駆け足になり、少しも進んでいない錯覚を起
こして前のめりに息が出来なくなるほど走った。何を期待してるん
だ。今さら。やめろ。やめてくれ。誰も自分という存在を知覚する
な。嫌で、嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌
で嫌で嫌で動けなくて立ち止まったままずっとそこに留まったまま
決してそこから動けないように自分で自分を固定して。本当に、諦
めて、何がしたかったんだ。これから、何かが出来るのか。その資
格があるのか。もう、手遅れじゃないのか。誰か、誰か教えてくれ
よ⋮⋮!
﹁ストォオォーーップ!!﹂
﹁ばっっ!!﹂
城の玄関ホールを抜ける瞬間、だった。
目の前に仁王立ちで両手を広げた小柄な人影が立ちふさがって、
345
ユウゼンは踏みとどまろうと強く足に体重をかけて、勢いを殺しき
れず蹈鞴を踏んだ。それで、結果的に手を広げたその人の胸に飛び
込む形になってしまった。柔らかい女性の体だった。
﹁わっ⋮⋮とぉ﹂
﹁ぷ、ぁ、すいませ││﹂
﹁謝るな!﹂
﹁え﹂
この声。
それに、顔は見えなかったが、異国の果実のような甘い香りをよ
く知っている。どうしてこの人がここにいるのだろうと思った。
自分を抱きしめてぽんぽんと背中を叩く感触に呆然としながら、
ユウゼンは乱れた呼吸を何度もした。優しい手。馬鹿みたいに。
さっぱりとした口調とは裏腹に慈愛の篭った声が身体に直接沁み
こんだ。
﹁ユウちゃん。何か、ちょっとだけ久しぶりだねえ。大丈夫? 大
丈夫じゃないか? うん、ちゃんと、呼吸してる⋮⋮よしよし﹂
﹁あ、ねうえ、﹂
﹁何も言うな。ああ、大きくなったなあ⋮⋮もう、私じゃ逃げ場所
にはならないかな?﹂
﹁⋮⋮ぅ⋮⋮﹂
無理だった。このタイミング。優しさなど与えられる資格がない。
駄目なのに。本当に、我慢する暇さえなかった。感情の波に押しつ
ぶされ、優しさに反応した心がどくんと熱く痛みを訴えて、喉が鳴
って、目の前の細い肩を片手で掴んだまま、抱きしめられたまま、
346
頬を流れる熱い感触を押し止めようとしていただけだった。
ラティメリアは耳の後ろで優しく笑った。光が灯り始めるシャン
デリアと、立ち尽くす衛兵。静かな夜が幾千の砂の星を零し、夜風
が包み込むように頬の熱を撫でた。心臓の音、聞こえそうだね、と
彼女は囁いた。嗚咽が収まるまで、彼女はそんなことを何度も呟い
た。
﹁悲しいから、泣きたくなる。そうなんだよぅ。ユウちゃん、我慢
しちゃダメだ。そんな風に何かでごまかして、そんな気持ちを押し
つぶして、いつか消してしまって、そうしたら、辛いよ。悲しいよ。
オズのカカシは美しい鳥に恋して、でもそこで物語は終わってしま
って。朝になっても太陽は昇らなくて。雨は上がらなくて。月は形
を変えなくて。そんな感じ。違う?﹂
﹁⋮⋮会い、たい⋮⋮だけ⋮⋮﹂
﹁会えばいいよ。会いに行けばいい﹂
﹁⋮⋮こわいんだ⋮⋮かわるのも、拒まれるのも、⋮⋮それだけじ
ゃなく、ても⋮⋮﹂
﹁協力するよ。協力するって言ったわたしに二言はないの﹂
前にも言ったねえ、とラティメリアは抱擁をとき、ユウゼンの頬
を両手で包み込んで目を覗きこんで微笑んだ。
﹁私はね、ユウちゃんが望んだことは全部ユウちゃんの思い通りに
なると思うよ。そうなりそうになかったら、私が捻じ曲げてあげる﹂
﹁な⋮⋮んですか、それ⋮⋮﹂
滅茶苦茶で子どものようで勘違いしやすくて考える前に行動した
りして、それでも昔からいつでも味方になってくれる人だった。世
界が自分に従うなんて、夢にもみない笑い話だ。そんなこと、言っ
347
てくれなくても、いいよ。
﹁ありがとう⋮⋮姉上。俺は、大丈夫だよ。全然、大丈夫だ⋮⋮﹂
目の前の頭一つ分背の低いところにあるぬばたまの黒髪に軽いキ
スを落とした。
ラティメリアは照れくさそうに笑い、それから少しだけ泣き出し
そうな表情をして、とんと元気付けるようにユウゼンの肩を押した。
﹁どんな選択をしても応援してあげるから、後悔しないように望み
なさい﹂
閉じこもろうとした殻がぽろぽろと崩されて、心の中に湿った風
が吹き込む。葛藤を打ち破ってそこから薄い血が流れる。
喪失感、そんな痛みと切ないような開放感に包まれて、ユウゼン
は城外へと踏み出していた。
348
優しい手︵3︶
﹁ユウゼン様ちょうどよかったさあどうぞ馬車までお越し下さい皇
妃様がご所望ですよ!﹂
﹁ぐみっっ!!﹂
そして外に出た途端腐れ従者モリスに笑顔で捕獲された。
ユウゼンは盛大に奇声を発し、寄ってきた馬車に詰め込まれる寸
前に慌ててぶちキレる。
﹁なんじゃい突然ゴルァ! もはやお前は殺人鬼か!? そんなに
俺を過労死させたいんかい!?﹂
﹁なに口調ですかそれは。失敬ですね。前々から約束してたじゃな
いですか皇妃様に舞台を紹介するって。もしかして社交上の適当な
口約束だったんですか? 八方美人ですか? 自業自得ですか? 因果応報ですか?﹂
﹁くっ⋮⋮うぅ⋮⋮﹂
そんな、三つも四つも、心をざくざく突き刺す言葉を並べなくて
も⋮⋮しかも無邪気な疑問系って⋮⋮。
ユウゼンが撃沈し、モリスは物でも運ぶように主人︵一応^^︶
を馬車に放り込み発進させた。
身体の沈む柔らかな座席は緑と金で縁取られ、窓枠まで美しい。
行く先々で人も馬車も道をあけ、都の夜景は流れ、静かな振動だけ
が確かな現実にかわる。正直なところ疲労を口にした瞬間、さっき
からの緊張が解けたせいもあり抵抗する体力も気力も失われ、下手
すると数秒で眠ってしまいそうになった。
モリスは失笑というか苦笑いというか、そんな表情をしてため息
を吐いた。
349
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁いえ⋮⋮決めたんですか?﹂
何を、と聞いて無駄な悪あがきをしそうになった自分に、ユウゼ
ンは苦笑した。あんなに背中を押してもらって手を差し伸べてくれ
る人がいて、それでも変化と拒絶が恐くてたまらない。望むこと。
手を伸ばすこととは、なんてなんて大変なのか。知らなかった。全
然、知らないふりをしていたんだ。
ユウゼンは従者の人の良い顔を見つめて、困ったように笑ってみ
せた。
﹁ありがとう。決めたよ。馬鹿でもいいから、⋮⋮一目でも、会い
たい﹂
﹁本当に、ほんとーーーに馬鹿でしょう。あなた馬鹿でしょう。む
しろ馬鹿といえばあなたでしょう﹂
﹁連呼! 馬鹿の象徴にまで!?﹂
﹁冗談ですよ﹂
﹁立ち直れねえ!﹂
それはかつて毎日のように繰り返していた会話なのだった。から
かわれながらも嫌いではなかった。ああそうか、久しぶりなんだな。
ユウゼンは長いこと自分をサポートしてくれたモリスのどことなく
寂しげな顔を見ながらそんなことを思う。
悪態をついたり感情を見せなかったり基本的に容赦ないが、結局
のところ││
﹁心配性すぎるんだって⋮⋮モリスはさ。俺なんか、もっと傷付い
てぼろぼろになって思い知った方がいいんだよ。そうしないと何に
もわかろうとできない。今回のことで痛感した﹂
350
﹁そんなことはないと思いますけど﹂
モリスは不満そうに首をかしげ、ユウゼンは笑いそうなのを堪え
て指摘した。
﹁ほら、そういう所が過保護なんだ﹂
﹁まあ⋮⋮思うところは膨大にありますが、あえて言えば僕はあな
たの従者なんだから当然です。多少の誇りと愛着くらいあったって
いいでしょう? ほら、皇妃にはアイボリー・ピアロの悲喜劇エア
リアルスノウを鑑賞してもらう予定ですから、適当に案内して後は
睡眠確保して体力温存して明日にでも備えてください﹂
﹁⋮⋮はいはい﹂
ありがとうなんて、言われるのは嫌いな人種なのだろうとユウゼ
ンはいつものように返事をしながら、また一つ心が軽くなるのを感
じていた。
そしていつの間にか浅い眠りに落ちていたらしく、しばらくして
起こされ、朦朧とする頭で地面に足をつける。目の前には灯に浮か
び上がる絢爛なサン=ドレイア劇場がそびえていた。引きつった笑
顔で皇妃をなんとかエスコートし、華やかな回廊・バルコニーにも
目をやるような気力なく、やっとの思いで貴賓席に身を沈める。こ
の夜がこれまでの自分の最後の休息になるかもしれないと実感もな
く思っていた。
すぐに開演時間となり、本命の題目﹁エアリアルスノウ﹂が上演
される前に、短い前座が行われる。その間ぐらいは寝るのは我慢し
ようとユウゼンはぼうと舞台に立つ二人の男女を眺めた。主人公は
神と人の間に生まれた美しい少年で、彼に人間の少女と精霊が恋を
する。少年と少女は互いに惹かれあうが、それに嫉妬した精霊は少
年に決して愛を告白できなくなる呪いをかけてしまう。そして何度
目かの邂逅の末、不安になった少女はついに尋ねる。わたくしのこ
とを好きになってくれたのですかと。肯定したいのに呪いのせいで
どうしても出来ない少年は散々苦心したあげく、言葉を絞り出す。
351
人が好きかどうかとは、どうしたらわかるのですか││
﹁え?﹂
するりと耳に飛び込んできた言葉に絶句した。それは││懐かし
むほど遠い記憶ではない。忘れたくても忘れられず刻み込まれた声
が、重なって動揺をもたらしユウゼンの思考を完全に静止させた。
今、なんと言った? 舞台の上では悲嘆にくれる二人が演技を続けているが、もう何も
耳には入ってこなかった。今の台詞。まだ彼女の悲しい秘密が存在
していたとき、シルフィードの口にした││
ああ、まさか。まさか、まさかまさか⋮⋮。
眠気など一気に吹き飛び、ユウゼンは動ける最大限の速さで席を
立つと、唖然とする周りの観客など気にも留めず舞台裏に向かって
猛然と走りだしていた。ばくばくと、運動のせいとは別に心臓が壊
れそうに鼓動を刻んでいた。急所を強く指で押されたような圧迫感。
友人である劇作家のアイボリー・ピアロに、一刻も早く事の次第を
聞き質さなければ死んでしまいそうだった。
﹁ピアロ⋮⋮! ちょっと、いいかっ⋮⋮﹂
廃材やら器具やら縄から煩雑で迷路のような舞台裏に駆け込んで、
舞台を邪魔しない最低限の声量で叫んだ。裏方や控えの役者たちが
ユウゼンを見て微かにざわめき、やがて次々と礼を取る。それを尻
352
目に何事かと振り返るピアロに走り寄った。
﹁悪い、⋮⋮その、この、今やってる舞台って、一体っ⋮⋮﹂
﹁どうしたんだ? 藪から棒に。これは古いオードを基にしたもの
だが。アドニスのオードという。アドニスはアネモネとも言うあの
赤い花の名前だな。起源である神話を描こうと⋮⋮﹂
﹁わ、わかったそれはいいんだけど、さっき、さっきの男の台詞は﹂
﹁アドニスの台詞?﹂
﹁あの、人が好きかどうかって、どうやったらわかるのかって奴だ
よ!﹂
﹁ああ、山場だな。それがどうかしたか?﹂
どうかしたのだ。だから聞いているんじゃないか。もしシルフィ
がこの物語を知っていたとしたら。いやもしなんて、こんな偶然あ
るはずがない。
﹁どういう意味なんだっ?﹂
﹁意味? 解釈ということか?﹂
﹁そうだよなんでもいいから早く!﹂
﹁理不尽な奴だな、見ていたんなら大体分かるだろう⋮⋮あれはア
ドニスなりの精一杯の告白さ。アドニスは呪いのせいで愛を伝えら
れない。だから考えた末、人が好きかどうかとはどうしたらわかる
のですか││││つまりあなたが好きだということを、どうやった
ら証明できるのですか。自分の思慕をどうしたら相手に伝えられる
のか、信じてくれるのかと、告白の代わりに言ったんだ。まあ、結
局想いは届くはずもなく勘違いした少女は││⋮⋮﹂
﹃シルフィード殿下は最初から兄さんにはっきりとアプローチして
いたじゃないか。それからもずっと。好きだって言われたんじゃな
353
いの?﹄
カラシウスに言われた言葉が蘇る。本当、だったとしたら。国の
ためでも、それとは別に僅かでもシルフィードが自分に恋心を持っ
ていたのだとしたら。ユウゼンは信じなかった。シルフィードの言
葉は本心ではないと決め付けていた。シルフィードほどの人が自分
を慕うはずはないと。いや、それもあるが、やはり皇帝となる未来
を予想し皇妃の苦労を考え涙を飲もうと考えていたのだ。それが結
果的にはシルフィードのためと決めつけて。彼女はカラシウスや他
の有力貴族には近づかなかった。シルフィは、受け入れながらも根
底では拒絶するユウゼンをどんな思いでみていたのだろう。希望、
よりももっと薄くて小さくて見えないような夢。最後に疑って問う
た時、シルフィードは泣いていた。きっと悲劇であるこの古い物語
の結末を予想して、それでももしかしたら気付いてくれるかもしれ
ないと思ったのかもしれない。なんて、ひどいことを││││
人が好きかどうかって、どうやったらわかるんですか?
⋮⋮あなたが好きだということを、どうやったら証明できるので
すか⋮⋮
﹁っ⋮⋮!﹂
飛び出して、劇場の外へ出るまでの記憶さえなく。眠気も疲労も
全部麻痺して、誰かの呼び止める声も耳をすり抜けて、装飾品でも
なんでも御者に押し付けアレクサンドリア城まで限界を超えて急が
せた。走って走って門を潜り抜け、呼吸さえ忘れそうになりながら
弟の部屋のドアを開け、
354
﹁カラシウ││ごぱっ!!﹂
﹁おっそーーーーーーいっ!! 遅い遅い超遅すぎる! ユウちゃ
んのバカたれがぁーー!!﹂
顔面殴られた。
ユウゼンは一度床でバウンドして三回床を転げて死体になった。
﹁ちょっとは思い知ったかっ! 人がどんな気持ちでっ⋮⋮我慢し
て優しい言葉掛けてやってたんだから地の底まで感謝しやがれ! ああもう、ああもうああもうっ⋮⋮!﹂
﹁ね、姉さま⋮⋮もうそのへんで⋮⋮きっとユウ兄さんも反省して
ますよ⋮⋮﹂
﹁セラちゃん甘いよぅ。砂糖まみれだちくしょうがっ﹂
﹁まあ兄さんにしては早かったほうなんじゃないの?﹂
暴走するラティメリアに引き気味のセラストリーナと泰然とした
カラシウス。兄弟全員集合。
なんで? 思考が追いついてくれない。
﹁な⋮⋮なんだよ、みんなして⋮⋮もしかして、待ってた、のか⋮
⋮?﹂
ユウゼンは頬を擦りながら立ち上がって三人を見回した。そうだ、
そもそもラティメリアがアレクサンドリアに来ること自体珍しい。
もしかしてわざわざ自分に会いにきたというのか。
その姉が怒りで頬を紅潮させながら、つかつかと歩いてきてユウ
ゼンの胸倉を掴みあげた。
﹁ま、待ってたなんてさぁ、そんなんじゃ言い表せないわよぅ⋮⋮
355
! わたしはもうシルフィちゃんが可哀想でキミを引きずってでも
っ⋮⋮﹂
﹁シルフィ!? どうしたんだよ!﹂
﹁どうしたじゃないっての! なんかマゴニアで超非難されてるし
さっ﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁しかも新王レリウスの母親斬ったらしくて、﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
﹁命に別状はなかったらしいけど、それで今牢に繋がれてて、﹂
﹁そんな⋮⋮!﹂
﹁しかもしかもなんかとにかくもうすぐ無理矢理葦原に嫁がされる
っていうし! それも側室っ﹂
﹁う﹂
ユウゼンは頭が真っ白になって、ラティメリアを振り払うとカラ
シウスに詰め寄っていた。
﹁そっ、本当にっ? なんで早く言わなかった!﹂
﹁無茶苦茶だよ言ってることが。なんで僕が一々。僕は認めないう
ちは例え兄さんでも教えない。夕方に言ったこと忘れたの?覚悟し
たみたいだから今こうして明かしてるけど﹂
﹁それに⋮⋮お兄様はこうして、すぐ協力できるように⋮⋮呼びか
けても下さったのですよ?﹂
セラストリーナがおずおずと口をはさみ、カラシウスは余計なこ
とを言うなと苦々しい表情をした。セラストリーナは一瞬口ごもっ
たがすぐに顔を上げ、発言を続ける。
﹁いえ⋮⋮こういうことは、言っておいた方が今はユウ兄さんにと
ってはいいんだと思います。最大限に上手くいかないといけないこ
356
と、なんですよね?﹂
カラシウスはぴくりと眉を上げ、面白くなさそうな無表情で肩を
すくめた。
﹁ふうん⋮⋮まあ、そうかもね。セラストリーナもそこそこいい女
になってきたかな﹂
そんなことはどうでもいいから、とは言っても今の発言で頭に冷
水を浴びせられたような気分になり、ユウゼンは嫌な汗を拭う。シ
ルフィ。頭の中で何度も呼んだ。あなたはそんなところにいてはい
けない。こんな気持ちになるなら自分が牢に繋がれたほうが何百倍
もマシだった。
言葉が漏れた。
﹁マゴニアに、いるんだな? シルフィは﹂
﹁かろうじてね﹂
もう、いい。どこにいようと関係ない。どんな手段を使ってでも、
自身も捉われていた絶対の孤独から彼女を奪い返そうと決めた。カ
ラシウスとラティメリア、セラストリーナに向けてためらいなく頭
を下げる。
﹁協力してくれ。一生の頼みだ。今だけでいい、力を貸して欲しい﹂
ユウゼン一人の問題であったら、きっと一生そんなことは言わな
かっただろう。頼むイコール自分のために望む行為だから。
そして一瞬の痛いほどの沈黙に三人のため息が混じる。
馬鹿みたいに分かりやすい、安堵の吐息だった。
﹁最初から素直にそぉ言えばよかったんだこのチキン野郎ーーーー
!﹂
357
﹁兄さん、僕はまだ実質何もしてないのにすごく疲れたよ⋮⋮もう
無駄な弁解して逃げるのは勘弁してね﹂
﹁微力ですが、出来る限りのことはしますから、今までお世話にな
った分協力させてください⋮⋮﹂
号泣するラティメリアに押し倒されながら、憎まれ口の合間にも
部屋を出て行くカラシウスにユウゼンは大声で礼を言い、微笑むセ
ラストリーナに口元だけ無理矢理笑ってみせた。
未来が変わった日。
このときだけでいいから、どうか、世界が自分に従うことを望ん
でいた。
358
Epilogue...終話
声が聞こえた気がした。
でも、誰の声かシルフィードには分からなかった。
分からないうちにふと自分の身体を視界に入れると、血がべった
りと付着していた。鮮やかでぬるぬるしている。赤くて小さな虫み
たいに蠢いて身体を這っている。あの日抱きしめたカーヤの血だと、
反射的に思った。
恨んでいるのでしょう。
壊して。もっと壊して私を消してしまっていいよ。
自ら死を選ぶことが出来ないほど思考も身体能力も滅裂で、一秒
前に何を考えていたのかすぐに分からなくなって、身体がだるく床
に這い蹲って揺られていることしか出来なかった。起き上がれない。
何も感じない。心も、感覚も。そう、思おうとしているだけ?
揺られている。運ばれている。献上される人形。セクレチアの匂
い。何もかもふやけて何度も幻覚に襲われる麻薬の香り。
ふともう一度視線を動かすと、もうそこから血は消え、東国風の
華美な衣装の一部が赤い布を覗かせているだけだった。
鉄格子の嵌められた乗り物ともいえない檻の中は内側に薄い金色
の布が張られ、外からも中からも何も見えなかった。厳重な鍵のか
けられた扉の前に布と布の隙間が僅かに開いていて、一筋の陽光を
もたらし、シルフィードの衣装の上で不思議な陰影をつくっていた。
359
手を伸ばす。祈る。願う。こんなにも望んでいる。
神様。かみさま。
堕として。
煌めく優しい光。物として飾り付けられ緻密に化粧を施された身
体に、溶けてしまいそうなほど冷たく柔らかく温度を残していく。
ふわりふわりと、偽りの心地よさと嘔吐感を抱えながら空白の木漏
れ日を捕まえようとしていた。間違えたんだ。頭の中だけで呟いた。
今度、もし、生まれ変われるとしたら、わたしはきっと生まれて
こないから。生まれてこようなんて思わないから。
お願いします、だから、どうか。
声が聞こえた、気がした。
誰の声か、シルフィードにはわからなかった。
”⋮⋮シルフィ⋮⋮″
耳を塞ぐ。身を縮めて目を閉じる。
縋ってしまいそうになる幻。
そんな資格はなくて。
思い出すことさえおこがましくて。
青く透明な海みたいだった。
穏やかで深い瞳だった。
360
﹁っ⋮⋮ぁ⋮⋮あ、ぁ⋮⋮﹂
視界がぼやけて、横隔膜が痙攣して、もう、みっともない呻き声
しか漏れてこなかった。楽しい、なんて、知らなければよかったの
に。わたしがわたしでなければよかったのに。悲しくて冷たくてと
ても幸せだった。覚えていたから。あの人の声。わたしを気にして
くれた。本当に優しくしてくれた。依存してしまいそうだった。夢
見てしまった。痛くて、苦しくて、とても幸せだった。幸せだなん
て、思ってはいけないのに、そう思っていた。
ユウ。
掻き消すように呼んだ。
遠くで声がして、隙間からの木漏れ日が翳った。
※
その日、夜明けを待って、カラシウス率いるオズ皇国の東方部隊
は、驚くべき迅速さでマゴニアの首都ユミルまで進軍した。
ラティメリアの承諾により兵を借り、セラストリーナの交渉によ
って十二月卿と連携して道を通した。
カラシウスの精鋭部隊は圧倒的な力でヨートゥン宮一帯を制圧し、
あしはらなかつこく
マゴニア王軍を無力化させた。ユウゼンは十二月卿や六月卿の協力
の下、葦原中国へ出立しようとしているマゴニアの第一王女を探し
た。
361
広い階段を上った空間、派手な行列を成していた人々が驚いて逃
げ出してゆく。
宮殿の丁度入り口辺りに一際豪奢な輿が見えた。
﹁兄さん、あれ!﹂
﹁シルフィっ⋮⋮﹂
雲の多い青空の下、白い石畳の上で金色に輝く箱は、どう見ても
動物を閉じ込めておくような頑丈な檻だった。ユウゼンは一瞬息を
飲んで足を速める。なんて扱いを。許さない。
﹁⋮⋮、⋮⋮⋮!﹂
そのとき宮殿の中から、身なりのいい男が走り出てきて何かを喚
いた。まだ残っていた王軍が阻むように檻を運び去ろうとする。
﹁トロヤンか。不運な﹂
呟き、自慢の黒馬に飛び乗ったカラシウスは風のように駆けなが
ら馬上で剣を抜く。その気迫に圧倒されながらも弓を射るマゴニア
兵の矢を叩き折りながら、いとも容易く薄い防御を断ち割る。そし
て呆然と目を見開くマゴニアの宰相、トロヤンの首を一息に斬り落
としていた。
一瞬の静寂。
その場にいたマゴニア兵達の大部分は逃げ出し、一部カラシウス
に剣を向けた者達は、次に宮殿から姿を現した王によって屠られる
事となった。
近衛にオズ第二皇子を守らせた少年レリウスは、馬上から面白そ
うに自分を見下ろすカラシウスを真っ直ぐに睨み付け立ち止まった。
そして硬い声で、
362
﹁私の、仕事でした。感謝致します⋮⋮﹂
ゆっくりと膝をつき、マゴニア式の礼を取る。
美貌の指揮官は満足そうに目を細めて馬首を廻らせた。
﹁ふ⋮⋮上手くやっていけそうだね。今日は突然お邪魔して申し訳
ない。人攫いが済んだらすぐに消えますよ﹂
ユウゼンは輿に駆け寄って、その冷たく固い鉄格子を掴んで叫ん
だ。
﹁││シルフィ? シルフィ!﹂
内側に掛けられた薄い金色の布が僅かに揺れる。いる。彼女が、
ここに。胸が一杯になって、鍵のかけられた檻の扉を力任せに叩こ
うとする。ちょっとは落ち着いたら、とカラシウスに押しのけられ、
入手したらしい鍵で檻が開く。独特な麻薬の香りがふわりと漂い、
何枚も布を重ねて飾り付ける葦原の衣装に包まれた少女が││││
﹁シルフィ⋮⋮!﹂
柔らかそうなブラウンの髪、青白い肌、化粧でそこだけ赤く色づ
いた唇。
命が尽きる寸前のようにぐったりと倒れる彼女をその中から助け
363
出して、思い切り抱きしめた。ぽつ、と水滴がユウゼンのうなじを
濡らした。静かな涙。僅かな体温。二人とも、震えていた。信じら
れなかった。会えた。会いたかった。やっと、会えた。
﹁シルフィ⋮⋮、お、れ、⋮⋮わかる⋮⋮?﹂
少しだけ身体を離して、近い距離で見つめあう。強張って抜け落
ちた表情の中、美しいシルヴァグリーンの瞳からとめどなく涙が零
れ落ちていた。音のない声が呟いた。
ユウ。
ああ、と返事をした。シルフィの綺麗な顔が歪んだ。嗚咽が漏れ
た。ユウゼンは胸が一杯になって何度も拙い謝罪を繰り返した。泣
き止んで欲しくて濡れた彼女の頬を拭う。
そして、一度も彼女に伝えられなかった思いを口にしていた。
﹁好き、だ⋮⋮俺は、シルフィが││好きだ。ずっと、会った時か
ら⋮⋮馬鹿なことばっかり考えて、どうしても言えなかった⋮⋮!﹂
﹁││││﹂
﹁もし、許してくれるなら、これからずっと側に居てほしい﹂
声が震えて、ユウゼン自身も泣いているのに、今さら気付いた。
嬉しくて悲しくて苦しくて。ぐったりと力ない少女と支えあいなが
ら、シルフィードが呟く声を聞いた。
﹁う、れし⋮⋮あ、りがとう⋮⋮ゆめ、なら、殺して⋮⋮﹂
﹁嫌だ!! 何言ってんだよ⋮⋮! 夢じゃないってっ⋮⋮﹂
似ていたのだ。
世界は変わらない、どうしようもないのだと思っていた。望むこ
364
とも出来ずにいただけだった。緩く包み込むような風が吹いた。狭
くてもそこには距離がある。側にいたい。証明したい。信じて。生
きて。ユウゼンはシルフィードの身体を引き寄せ、そしてその唇に
口付けた。不器用な感触と呼吸を通じて、涙の味と麻薬の香りを分
け合って、確かに互いの存在を伝えた。
遠巻きに整列していたオズの兵たちから空まで届くような歓声が
上がる。
そうして││極度の疲労と緊張の糸が切れた二人は抱き合ったま
ま、ゆっくりと意識を手放した。
翌年、オズ皇国では新しい皇帝が誕生する。
後に﹁麗帝﹂と呼ばれるその優秀な指導者の名を”アルティベリ
ス帝″という。
オズとマゴニア王国は同盟を結び、更なる発展を遂げることとな
る││
365
※
﹁と、いうわけだよ。面白い話だろう?﹂
﹁うん! ハッピーエンドだね!﹂
﹁二人は幸せになったんでしょう?﹂
オズ皇国、ハルジオン公爵の屋敷の大広間で話を聞いていた双子
は元気に声を上げた。七歳になったばかりのそっくりな男の子と女
の子は、少しくせのあるブラウンの髪を揺らしてかわいらしく首を
傾げてみせた。
暖かい暖炉の前、いすに腰掛けて物語を聞かせていた少年は、落
ち着きのある柔和な表情で頷いた。
﹁もちろんだよ。今でもとても仲がいい﹂
そして、近くで書物を読んでいた黒髪の少年が非常に微妙な表情
をしながら口をはさむ。
﹁⋮⋮あの、それって、家の両親の⋮⋮﹂
暖かい飲み物を運んできた鮮やかな緑の髪の女性がくすくすと笑
い声を漏らしていた。
双子が不思議そうに顔を見合わせる。
原色の青色を纏った語り部は、黒髪の少年の言葉を緩やかに静止
366
して、物語を締めくくった。
﹁まあつまり。これはカカシだったある皇子と、蜂鳥のお姫様の、
ちょっと非常識な物語⋮⋮かな?﹂
367
Epilogue...終話︵後書き︶
最後までお付き合い下さり本当にありがとうございました⋮! 最初は気分転換にライトでコメディーな恋愛話を書こうと思ってい
たのですが、ユーモアセンス皆無なため後半ぐちょぐちょになりま
したすみません; いえでも楽しかったです。読んでくださる方や
感想下さる方もいて無事頑張れました。もし全て読んでの感想など
頂けたら超喜びます^^︵一言とかリクエストとかケチとかなんで
も歓迎です︶
では、長い話にお付き合いいただき本当にありがとうございました
m︵ ︶m
︵ちょっとだけ余計な感謝を込めて←
368
蛇足︱ほんとうにdoudemoii話︱
注意書きなどまったくなかったのですが、つまり作者は名前を決
める作業がとても苦手だったので、名前なんてなければいいのにと
思っていました。用語集的な意味も込めて暴露できたらなあと思っ
ていたことを載せておこうと思います。ごめんなさい⋮⋮!
<お魚さん一家>︵サ○エさんではない︶
ユウゼン⋮⋮チキンですがカカシですが魚の名前です。特に伊豆
七島や小笠原諸島で多くみられる日本固有種。海のような瞳を表現
しようとしましたが無理でした。
カラシウス⋮⋮弟。金魚の学名からいただきました。今考えると
もっと凶暴な魚のほうが相応しい気がしてきました。
ラティメリア⋮⋮姉。シーラカンスの学名。オズの七不思議。シ
ーラカンスはかわいいと思います。
オルカ・オルシヌス⋮⋮オズ皇帝。オルシヌス・オルカ=シャチ
の学名。
モデストゥス⋮⋮伯爵。ハゼです。ハゼかわいいですね。モデス
トゥスを書くのは楽しかったです。
セラストリーナ⋮⋮セラストリーナはオリジナルだったと思いま
す。ユウゼンを﹁お兄ちゃん﹂なんて呼ばせてたまるかと思い、ユ
ウ兄さんにしました。
<その他の人など>
シルフィード⋮⋮蜂鳥の総称がシルフで、その女性形からとりま
369
した。
ヘリエル⋮⋮もっとユウゼンと三角関係にしたかったんですが頑
張れませんでした。同情が表現できていればいいなと思います。
セクレチア⋮⋮鬼畜女官。魔術や罵倒楽しかったです。
モリス⋮⋮従者。盲導犬の名前から頂きました。いつの間にか捻
くれてました。
シアン⋮⋮猫かぶり・ボガゴンチャーミー・傀儡・不老不死。あ
のインク色。シアン好きです。
ライム⋮⋮果物の名前から。とても書きたくなり一部主人公にし
ました。萌。
ビディー・アーリー⋮⋮アイルランドに実在したらしい酒屋の魔
女の名前。
ルサールカ⋮⋮レリウスの母親。水の妖精の名前です。
ルカ、リオ⋮⋮奇獣。一文字ずらしただけの名前から作者のやる
気がうかがえます。
マーリン・アンブロジウス、シモン・マグス、アポロニウス・ド・
ティアナ⋮⋮精霊魔術師。マーリンはアーサー王のマーリン、シモ
ンは聖書などに登場する魔術師で、アポロニウスはキリストに対抗
するように担ぎ上げられた不思議な人物から頂きました。
<その他>
オズ⋮⋮の魔法使い; カカシは意図していなかったので無意識
です。
マゴニア⋮⋮中世フランスにおける、伝説上の空中の大陸。
テンペスタリ⋮⋮テンペスタリイ︵Tempestarii︶﹁
嵐を起こすものたち﹂
カムロドゥノン連邦国⋮⋮Camulodunon、戦の神カム
ロスの町。
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ティル・ナ・ノーグ⋮⋮アイルランドのケルト神話に登場する妖
精の国。
葦原中国⋮⋮あしはらなかつくに。日本神話において、高天原と
黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のこと。
シルヴァグリーン⋮⋮造語です。キュウリの中と外を混ぜ合わせ
た色。
ヘテロクロミヤ・アイディス⋮⋮ヘテロクロミア・イリディス=
虹彩異色症。
ハルジオン⋮⋮春の雑草。
wish︱﹂ アドニス⋮⋮アネモネ。又は神話に出てくる美少年。
﹁いつかの午後に︱A
森の砂漠の側の、どうかすると緑に埋もれてしまいそうな屋敷。
午後の暖かい光は植物も人も生き生きと照らし出して、シルフィ
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ードは木陰で地面に直接腰を降ろしながら穏やかな景色を眺めてい
た。
遠くで、ライムが怒り、モデストゥスが笑う陽気な声が聞こえた。
シアンとアダマントの落ち着いた会話。女中さんがマーテンシーに
何か話しかけている。少しだけ涙が出そうになる。
こわいのかな。まだ。それとも罪悪感なのかと考えている。
﹁夢、じゃない⋮⋮?﹂
今でも信じられなくて、もう離れたくなくて、全て忘れてしまい
たいような気がして、シルフィードは夢の中で彼の手に縋った。好
きだと言ってくれた。雲の多い青空の下。優しい幻に包まれたまま
死にたいと願った、あの日。
彼は王座を辞退した。彼の美しい弟がもうじきその地位を受け継
ぐ。後継のいなかったハルジオン地方の伯爵の、その後を彼は担う
と発表して、とても大きな話題になった。それと同じくらい、盛大
だった挙式。それはカカシ皇子と蜂鳥の姫の物語として長く語り継
がれることを、シルフィードはまだ知らない。
追われるように、色々なことがめまぐるしく、たびたび顔は合わ
せてもゆっくりと一緒にいることは出来なかった。彼は誰にでも優
しい。それにしなくてはいけない事がたくさんある。自分のために、
と考えて、嬉しくて苦しくて涙が出そうになった。
﹁シルフィ! そこにいたん⋮⋮﹂
そして、どこかから帰ってきたらしい暖かい声が身体に沁みこん
でくる。立ち上がって出迎えようとする間もなく、彼は走り寄って
きて真っ直ぐな視線をこちらに向けた。綺麗な、深くて穏やかな唯
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一の瞳だった。
﹁どうか、したのか? なにか不安なことでも⋮⋮!?﹂
彼は大げさなほど心配そうに側に跪いた。たぶん、感傷的になっ
て涙ぐんでしまったから。まだ上手く笑えない。一生罪は消えない。
それでも、気にかけてもらえるから嬉しいだなんて、私はとても浅
ましい。
﹁いえ⋮⋮なんでも、ないです⋮⋮お帰りなさい﹂
少し困ったような顔で、うん、と頷く彼はどう言えばいいのか悩
んでいるようだった。不器用に、それでも一生懸命に、伝えようと
する。
﹁あの、だから⋮⋮なんでも、どうでもいいことでも、相談してく
れていいから⋮⋮。俺、もう皇帝じゃないし、今の暮らしの方が満
足で、余裕もあって、つまりなんでも大丈夫、というか⋮⋮? も
し、マゴニアに帰りたいのなら││﹂
﹁じゃあ、夢じゃないって⋮⋮言ってほしいな⋮⋮﹂
呟けば、ぴたり、と彼の表情が止まる。それから安心したような、
泣き出しそうな、色んな感情が彼の中によぎった。それでも言って
くれた。
﹁夢、じゃない⋮⋮夢じゃない。好き、だ﹂
さわさわと、植物たちが揺れて音をたてる。白い蝶が飛び立って、
鳥の影が地面を通り過ぎた。
熱くて、胸が締め付けられて、全部満たされる。シルフィードは
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堪え切れなくなって、おそるおそる彼のシャツを少しだけ掴んだ。
﹁好き、ですよ﹂
遠くから聞こえる笑い声と暖かい、誰も知らない午後。
緑に埋もれた庭の片隅で、二人は確かめ合うように唇を重ね合わ
せた。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4849e/
蜂鳥の姫と常識と
2014年2月24日05時31分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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