あい・らぶ・まみぃ! - タテ書き小説ネット

あい・らぶ・まみぃ!
シロクロ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
あい・らぶ・まみぃ!
︻Nコード︼
N6759C
︻作者名︼
シロクロ
︻あらすじ︼
主人公・皐月は母と二人暮らしの勤労高校生。ある日、祖父と名
乗る金持ちが現れて状況は一変し、女学園へ編入し新たな生活が始
まります。
百合小説です。女の子同士の恋愛がメインのラブコメです。たまに
シリアスもあります。完結しました。暇つぶしにどうぞ。
1
俺と愛する母さんの日常
たきぐち
さつき
﹁母さん、また忘れてるよ﹂
突然だが俺の名前は滝口 皐月。そしてゆったり微笑んで俺から小
さなお弁当箱を受け取る美人は、何を隠そう俺様の母親だ
﹁あら皐月ちゃん、いつもごめんね﹂
はっはっは、美人で羨ましかろう?
俺はにっこり、純粋無垢を具現化したような笑顔を浮かべる
﹁ううん。母さんの役に立てるなら、僕、何だってするよ﹂
さらに突然だが、俺はマザコンだ。ただのマザコンじゃない。現在
高一の16歳だが、将来の夢は母さんと結婚することだ
勿論、法的にも戸籍的にも無理なのは分かっている。だが母さんが
俺を我が子でなく一人の人間として愛してくれて結ばれれば何も問
題はない
父親は俺が生まれる前に死んだらしい。母さんは28歳
何と父親23歳は母さん12歳をたぶらかして俺をつくり、勝手に
死にやがった。犯罪者め⋮
まぁ犯罪者だが俺が母さんと出会えたのは一応父親のお陰なので感
謝してやらないこともないが、やはり許せない
はやと
何故なら、未だに母さんの心に住みついてやがるからだ
さきやま
はやと
たきぐち
ゆうき
﹁皐月ちゃんは年々、勇人さんに似てくるわねぇ﹂
父親の名前は崎山 勇人。母さんは滝口 優希だ。当たり前だが、
俺が生まれた時母さんは小学生なのだから藉は綺麗なままだ
﹁そうなの?﹂
﹁ええ、勇人さんは成人してても中高生みたいに若々しい人だった
から、尚更似てるわ﹂
若作りすぎなんだよ!
ちなみに母さんは12歳にして今と同じ身長158センチで大学生
によく間違われてたらしい。出会いはナンパらしい
2
⋮⋮犯罪者め! 見た目がどうだろうと成人が小学生に手をだすな
よ! 例え並べば姉弟に見えたとしてもな
﹁じゃあ母さん、お仕事頑張ってね﹂
﹁ありがとう、皐月ちゃん。いってきます﹂
俺は母さんを見送ってから自転車にまたがり、学校へ向かった
○
﹁滝口君、おはよう﹂
﹁おはよー皐月君﹂
挨拶してきたクラスメートたちに片手をあげて挨拶をする
﹁よーすっ。今日もお前ら可愛いな﹂
女の子は基本的にみんな可愛い。男と違って柔らかくていい匂いだ
からだ
﹁あははは。もう、うまいんだからぁ!﹂
俺の︵悔しいことに父親似の︶中性的な整った顔立ちで、本気か遊
びかは兎も角わりとモテる。頬を赤くする子が多いが、小学校から
の付き合いで慣れたやつは笑って、相変わらずだと俺の背中を叩いた
さかざき
たかあき
席につきながら知人以上親友未満の︵まぁ俺ってあんまり人と、特
に男とあまり親しくしないタイプだし︶坂崎 高明の肩を叩く
﹁今日って一時間目、何?﹂
﹁現国∼﹂
﹁げ、最悪﹂
﹁お前はいっつも寝てんだろ﹂
言いながら坂崎が俺にチョップをしようとするが、俺はその手を掴
んで止める
俺は自分から触るなら兎も角、相手から触られるのは男からは嫌だ
し、女からも苦手だ
﹁っと、お前って本当に運動神経はすげーよな﹂
﹁まぁな﹂
3
小学3年の時にここに引越してきたが、近所にいる軍人だった爺さ
んに気に入られて実践的な訓練を受けてきたのだ
てゆーか色々あって強くなりたかったし。まぁそれは今もだが
﹁つか、﹃は﹄ってなんだよ﹂
﹁頭はからっきしだろ?﹂
﹁うるせーよ。進学しねーからいいんだよ﹂
つか出来ねぇし。今だって母さんが朝から晩まで働いてくれて、俺
も朝は新聞配達して夕方からは別のバイトして何とか高校通えてる
しな
﹁あ∼⋮そうか﹂
﹁まぁな﹂
公立高校なのにおおっぴらにバイトをしてる俺の事情は知れわたっ
ている
﹁つか、よく入学できたな。もう一学期も終わりだけど、進級だっ
てできんのか?﹂
﹁賄賂だ﹂
﹁⋮まじ?﹂
﹁嘘だよ。試験前はバイト休んで頭いいやつに教わることにしてる
んだ﹂
今回高校入って初めての中間と期末試験は赤点だけはぎりぎりクリ
アしているから1はないだろう
﹁入学は?﹂
﹁中学ん時はまだ真面目だったんだよ﹂
義務教育で授業料がいらなくてバイトは新聞配達のみ何だから当た
り前だ。まぁそれでもぎりぎりだろうけどな
俺は勉強する時間がないのもあるが、あってもやりたくない。そも
そも俺、頭悪いし
でも高校は出ないとな。だって母さんは俺のために中学すらろくに
行ってないのに、だからこそ俺にはって頑張ってくれてるし
﹁あー、早く卒業してぇ﹂
4
○
﹁ん?﹂
いつもならバイトに急ぐ時間だが今日は定休日なので、久しぶりに
のんびり自転車を押して帰っていると、交差点でぶぜんとした顔で
立っている爺さんがいた
﹁⋮⋮﹂
しばらく見てみるが動かない。仕方ない、声かけるか
﹁すみません、どうかしましたか?﹂
優等生の仮面をつけてそう言うと爺さんはじろりと胡散臭そうに俺
を見ると、何かに気付いたように目を開いた
何かあるのかと俺も後ろを見るが特に何もない。視線を戻すと爺さ
んは普通に俺を見ていた
﹁⋮なにか用か?﹂
﹁いえ、先ほどから動かれていないようなので。何かお困りでした
ら、私で良ければお手伝いいたしますよ?﹂
﹁⋮ふむ、ならうまい飯屋を教えてくれ﹂
﹁は⋮あ、でも私、あまり外食はしないんです。お役にたてずすみ
ません。あ、私のお昼の残りならありますよ﹂
母さんは忙しいので朝食と弁当は俺が作っているのだが、今日は俺
を好きだと目で語ってくる少女が弁当をくれたので有り難くいただ
いたのだ
味は⋮俺の料理がそれほど美味いわけじゃなく簡単なものしか無理
だが、それでも俺のが美味いって感じだな
だけど女の子には優しくするものなのでにっこり笑ってお礼に頬に
キスをくれてやった
まぁそんなことは置いておいて、とにかく丸々残っているので俺は
そう提案した
﹁む⋮ワシに、残り物を食え、と?﹂
5
﹁いや、お箸は触れてません。諸事情があり食べなかったんです。
そこに公園がありますけど、どうしますか?﹂
﹁⋮⋮もらおう﹂
﹁はい﹂
ま、もったいないけど女と子供と年寄りには優しくするのが俺のル
ールだ。つっても、年齢が子供や年寄りでもガタイのいい男はごめ
んだけどな
俺の身長は男にしたら低い162センチ
アルバムにある数少ない︵母さんと父親は1年未満の付き合いだ︶
写真を見れば憎らしいほど父親に似ている。勿論身長もだ
○
﹁お前、なかなかハスキーな声をしておるな﹂
ぎくりとした。見た目もだが声も高いので私服だとよく女に思われ
てしまう。だから普段から意識して低めに声をだしているのだが⋮
低めと言っても、男としては高いほうだ
﹁そう、ですか?﹂
﹁ああ。⋮⋮あいつより低い﹂
ぼそりと言われ、後半が聞き取れなかった。﹃いつ⋮り﹄は聞こえ
たんだが
﹁すみません、なんです?﹂
﹁嫌、何でもない。なかなか美味かったぞ﹂
爺さんはそう言って俺に弁当箱を返す。うむ、偉そうな爺さんだが
素直でよろしい
俺だって褒められりゃ悪い気はしない
﹁ありがとうございぃ!?﹂
鞄に片付けながら携帯電話を見て固まった
﹁? どうかしたか?﹂
﹁すみません! 私これからバイトです! 本当にごめんなさい!
6
さよなら!﹂
定休日のとはまた別のバイトがあるので慌てて俺は鞄を自転車に乗
せてまたがる
﹁待て!﹂
﹁っ⋮何です!?﹂
このくそ忙しいのに道案内なんてしてらんねーぞ!?
﹁名前は?﹂
恩返しでもしてくれるってか?
﹁滝口 皐月です! さよならお爺さん!﹂
だが今はそれどころじゃねー! 悪いな爺さん。次はちゃんと交番
まで案内してやるよ
○
﹁滝口⋮皐月⋮か﹂
ワシは先ほどまでここにいた子供の名を繰り返す。苗字に聞き覚え
は存分にあったし、何よりあの容姿だ
﹁今更⋮﹂
今更だろうな。もうあいつがいなくなってから17年もたつ。だが、
それでももうワシにはこれしかないんじゃ
ワシは懐から携帯電話を取り出してダイヤルする
﹃何でしょう﹄
﹁見つけたよ。さすがじゃな。料金は振り込んでおく﹂
ワシは知らず知らずのうちに緩む頬を自覚したが、どうしようもな
かった
○
7
俺の知らない血縁者
﹁あー⋮今日も疲⋮ん?﹂
玄関を開けると何故か見知らぬ靴があった。ここは格安のオンボロ
共同アパートで住んでるのは俺と母さんだけだ。大家は向かいの家
に住んでいる
そんなわけで一部屋だけとは言え、玄関も風呂もトイレも占有でき
るので木造ながらに贅沢な気分が味わえる
なのに何故か、知らない靴がある。大家さん⋮じゃねぇよな。俺ら
がいる時間とか分かってるんだし、中で待つ必要ねーし
⋮⋮⋮⋮ま、まさかとは、あり得ないとは思うが⋮泥棒? こんな
オンボロで貧乏で健気な一家︵俺と母さん︶しかいないこんなアパ
ートに⋮泥棒、なのか?
並んでいる二足の靴はピカピカの革靴だ。くそぅ、貧乏人から金を
盗んで贅沢をするとはふてぇやろうだ
俺は下駄箱裏の、昔いた家族の忘れ物っぽいバットを取り出す。近
所の草野球の手伝い︵金はとる︶の時にも活躍し、そして有事にも
活躍する万能アイテムだ
﹁ふ⋮逃がさないぞ﹂
縛りあげて脅迫して金をまきあげてやる!
気配は⋮俺と母さんの愛の巣である共同台所横にある110号室だ。
たった一つの住人有りの部屋に目をつけるとはさすがだな
強盗め⋮くくく、俺様はすでに隣の家の爺さんから免許開伝の腕前
だぜ
﹁︱︱だ︱︱か︱﹂
﹁︱い︱︱︱の︱︱う﹂
﹁そ︱は︱︱も︱︱﹂
敵は二人。俺は一度強くグリップを握ってから、バカ鍵なドアで押
せば開くドアを蹴って開ける
8
﹁強盗!お前らは完全に包囲されている!抵抗を止めて⋮⋮止めて
⋮⋮⋮お爺さん?﹂
部屋の中には昼間のお爺さんといかつい黒服にサングラスの男がい
て、男は勝手にお茶をいれて爺さんは俺を不機嫌そうに見ていた
﹁乱暴じゃな﹂
﹁え⋮は? お、お爺さんは、昼間会いましたよね?﹂
﹁ああ﹂
﹁⋮強盗?﹂
まじかよ。年金で生活できないのか。くっ⋮しかしいくら爺さんと
言っても、俺らだって生活がかかってんだから金はやれねぇぜ
﹁バカを言うでない﹂
﹁でも⋮なんでここが分かったんですか? 何の用ですか? ⋮⋮
もうすぐ、母も帰ってきます。夜に無断で人の家にいるなんて⋮非
常識にもほどがあります。別に騒ぎたてるつもりはありませんが、
帰っていただけませんか?﹂
﹁ふむ⋮なかなか論理的じゃの。学校の成績は悪いようじゃが﹂
﹁!? ⋮な、なんなんですか? あなた⋮いやお前は︱﹂
﹁ただいま∼﹂
声がして足音まで優雅な気がするが和んでる場合ではなく、俺は慌
ててドアを押さえた
﹁っ⋮おかえり! ごめん母さん、今部屋を散らかしちゃったんだ。
すぐ片付けるから、待っててくれないかな?﹂
﹁あらあら、仕方ないわね皐月ちゃんは。いいのよ。皐月ちゃんは
疲れてるんだから私がやるわ﹂
﹁いやいや、母さんは毎日働いて僕のために凄く頑張ってくれてる
よ。凄く感謝してる﹂
﹁いやぁね、当然じゃない。ねえ皐月ちゃん、いれてよー﹂
できません! だってあなた、この怪しい人を前にして絶対普通に
迎えるじゃないですか!
この天然は可愛いけどこういう時は困りすぎ!
9
﹁皐月、お前の母親に話があるのじゃ。開けてやれ﹂
﹁帰ってください﹂
いい加減、帰れ爺と素で言いたいが、母さんに聞こえたら困るので
敬語だ
﹁皐月様、私どもは怪しいものではありません﹂
男が見た目より低い腰でそういうが、油断はできない。だいたい俺
は、俺より大きな男は嫌いだ。爺さんは年寄りだから許したけど⋮
助けるんじゃなかったな
﹁無断侵入して勝手にお茶いれてる黒服の何処が怪しくないって言
うんですか?﹂
﹁うっ⋮と、とにかく誤解です。私はちゃんと大家の柴田さんに了
解をとっています﹂
﹁⋮⋮本当ですか? 言っておきますがいくら母さんがお人好しで
も保証人にはならせませんよ﹂
優しいのはいいが母さんはすでに三度ほど、借金の連帯保証人にさ
れそうになって慌ててとめたことがある。日々何とか稼いでるのに、
何が悲しくてしてない借金を背負わにゃならんのだ
﹁いりません。お願いです皐月様、会長の話を聞いてください﹂
﹁皐月ちゃ∼ん、お客様がいるのー?﹂
⋮もう、限界だ。仕方ないな。まぁ怪しいが、一度話くらいは聞くか
﹁分かりました。母さん、実はそうなんだ。紹介するよ。ごめんね
? 外で待たせて﹂
﹁ううん。いいの。皐月ちゃんもお年頃だものね。お母さん、そん
な日がいつか来るって、分かってたわ﹂
﹁⋮恋人じゃないよ?﹂
﹁え∼?﹂
﹁え∼じゃありません!﹂
俺がドアを開けるととても可愛らしい母さんが可愛らしく微笑んで
いたが、そんなのはどうでもよろしい
﹁恋人なんて絶対につくらないからね!﹂
10
﹁あらあら⋮悲しいわ﹂
悲しくなんかない! だいたい⋮⋮恋人なんて⋮俺に異性の恋人な
んて⋮できるわけないじゃん
バカだなぁ、母さんは。大好きだけど、愛してるけど、そういう無
神経なとこ、時々凄くいらいらする
﹁皐月ちゃん、別にね、誰でもいいの。あなたが愛するなら、宇宙
人だってニューハーフだっていいの﹂
ニューハーフのほうが宇宙人より上ですか。ていうかどっちもあり
得ねーよ!
﹁滝口、優希じゃな﹂
さきやま
こごろう
﹁はい? そうですけど⋮あなたは?﹂
﹁ワシは⋮崎山勇人の、父親で崎山 小五郎じゃ﹂
⋮⋮⋮⋮は?
この爺さん、なんて言った?
崎山勇人の
父親
はああ?
何だよそれ? 俺の⋮祖父?
﹁な⋮何ですかそれ? わ、笑えない冗談ですね﹂
﹁皐月、ワシは冗談は嫌いじゃ﹂
﹁でも⋮なら、なんで今更現れたんですか? 母さんは⋮母は、両
親が15で死んでからも私をずっと育ててたんですよ? 一人で⋮
今の私より年下だったのに⋮﹂
﹁滝口優希はワシの娘じゃない﹂
11
がんかいがいしゃ
﹁だったら! 何の用なんですかか!?﹂
﹁皐月、ワシの元に来い。ワシは願塊会社の社長じゃ。もうお前に
こんな惨めな思いはさせん﹂
願塊会社⋮聞いたことのないはずがない。最大手のインスタントコ
ーヒー会社で、最近は各方面にも手をだしますます成長の兆しを見
せる、一代で築かれた会社
息をするのも忘れていた。だってそうだろ? 祖父がいたと分かり、
しかもそれが超有名会社社長。そして、俺を引き取ろうというんだ
から、驚くしかない
だが、答えは決まってる
﹁おこと︱﹂
﹁有り難く、お受けいたします。皐月ちゃん、支度なさい﹂
﹁は!? ちょっと母さん!? 何言ってんのさ! この人は、僕
に母さんを見捨てろって言ってるんだよ!?﹂
真剣な顔で了承する母さん。普段の柔らかい雰囲気じゃなくて、た
だ決意だけが瞳に満ちていた
﹁まぁ落ち着け皐月。そうまでは言わん。うちの愚息の不始末はつ
ける。今後滝口優希が不自由なく暮らせるだけの金は用意しよう。
会いたいならいつだって会えるようにしよう﹂
何だよ、何だよ不始末って! 母さんと⋮父さんは愛しあって、そ
れで俺が生まれたんだ! 母さんが子供だったからって、間違いな
んかじゃない!!
﹁小五郎さんのご好意に感謝します﹂
﹁母さん!!﹂
認めるのかよ! 俺は、俺は認めないぞ! 会ったことはないし母
さんの美化した姿しか知らない。だけど、母さんが愛して、全部の
写真であんなに優しく母さんに笑うやつが、母さんを愛してないな
んて嘘だ!
﹁⋮⋮皐月ちゃん、私は、あなたに幸せになって欲しいのよ﹂
﹁僕は幸せだ! 母さんがいればっ、幸せなんだよ! どうして分
12
かってくれないのさ!﹂
あなたが傍にいるならそれでいいのに! もう二度と崎山勇人以外
の父親が欲しいなんて言わない。二度と我が侭は言わない。だから、
だから俺を見捨てないで!
﹁皐月ちゃん、私は皐月ちゃんのためを思︱﹂
﹁思ってない! 僕は母さんがいなきゃ駄目なんだ! 僕には⋮母
さんが必要なんだ!﹂
俺が怖くて怖くてたまらない時に抱きしめてくれたあなた、辛くて
辛くてたまらない時に微笑んでくれたあなた
俺が涙を流したら、誰が拭ってくれるのんだ?
俺が震える夜に、誰が抱きしめてくれるんだ?
母さんしかいないんだ
俺には、母さんしかいない
﹁お爺さん⋮帰ってください﹂
﹁皐月⋮ワシは⋮﹂
﹁帰れ! 僕は⋮僕の家族は母さんだけだ! これまでも⋮これか
らもっ﹂
本当は爺さんが悪いんじゃないのは分かってる。俺を見る目が優し
くて、母さんみたいで、母さん以外の人がそんな風に見てくれるの
はとても嬉しい
でも、でも母さんがいないなんて考えられない。俺は、母さんを愛
してるんだ。だからずっとずっとずっと一緒にいるんだ
﹁⋮⋮また、くる﹂
爺さんは俺が引き留めたくなるような悲しそうな顔でそう言って帰
った
ごめんな。でも、無理なんだ。母さんがいなきゃ、俺は駄目なんだよ
○
13
14
俺が﹃俺﹄であること
﹁⋮皐月ちゃん⋮﹂
﹁⋮っ、なに?﹂
俺は情けないことに鼻をすすりながら返事をする。母さんが優しく
俺の頭を撫でてくれる
﹁あのね、皐月ちゃんには幸せになって欲しいの﹂
﹁幸せだよ﹂
﹁違うの。私以外、特に男の人をいつまでも怖がっていちゃ駄目だ
と思うの﹂
﹁⋮⋮無理だよ﹂
だって、怖い。理屈じゃない
俺は小学2年の春に、まだ俺が﹃あたし﹄と言っていたころに、変
質者に犯された
俺は我ながら可愛い少女だった。みんなに人気もあったし、今と違
い心許せる友人もたくさんいた
結局俺は穴という穴を犯されて、5時間ほどいたぶられ遊ばれた俺
は、一年近く立ち直れなかった
それだって、母さんが辛抱強く俺を支えてくれたからだ。母さんが
いなかったら、きっと今も沈んでた
男なんてみんな性欲の塊なんだ。だから母さんしか信じない
本当はそんな人間ばかりじゃないって、分かってる。だけど裏切ら
れるのが怖い
だって俺を襲った男は、俺が大好きだった教師なんだから
父親になってほしいと、母さんにだだをこねるくらい大好きだった。
大きな体に大きな声で、頼もしかった
だけど今となっては恐怖の対象でしかない。大きい男は無条件で怖
いし、女は平気だけど昔みたいに簡単に信用はできなくなった
あんなに大好きで優しかった先生が豹変したからだろうが、俺は軽
15
く人間不信になったのだ。特に男に対しては、我ながら酷い
だから俺に友人はいない。男と付き合うなんて冗談じゃない。それ
に女だって俺は相手を騙してて、バレたりしたくないからやっぱり
心は開けない
母さんだけだ。俺が全てを見せられるのは
母さんしか、俺が愛せる人はいないんだ
﹁ねぇ、男の人は無理でも、小五郎さんはあなたのお爺さんよ? 優しくしてくれるし、あなたを⋮欲望の対象とは決してしない﹂
﹁⋮⋮そりゃ、そうだよ。だってお爺さんだし﹂
だから老人と子供なら男でも大丈夫だ。もし爺さんが一緒に住みた
いという提案なら、喜んで受けよう
母さんが働く必要もなくなるし。でも、離れたくはない
俺はどうしようもなく我が侭だ。俺が爺さんのところへ行けば母さ
んも楽だと分かってるのに
﹁⋮⋮皐月ちゃん⋮﹂
﹁やだよ。無理なんだ。母さんがいないと駄目なんだよ﹂
﹁⋮⋮分かったわ﹂
﹁え⋮﹂
﹁お断りしましょう。本当は皐月ちゃんには他の人に慣れて欲しい
けど⋮まだ早かったみたいね﹂
悲しそうにいう母さんを見て、俺の胸は痛む
そんなことはない。あの爺さんが相手なら触れることだってできる。
家族が増えるなら嬉しい。だけど⋮母さんだけは、母さんと離れる
ことだけはできないんだ
母さんが俺に元気をくれなきゃ駄目なんだ
﹁母さん⋮大好きだよ﹂
﹁私もよ﹂
﹁違うよ。違う⋮凄く凄く好きなんだよ。母さんがいれば他に何も
いらないんだよ。これって恋でしょ? ねぇ、僕を一番に愛して。
僕、母さんのためなら何だってできるよ﹂
16
﹁⋮皐月ちゃん、別に私は同性愛を否定しないわ。むしろ皐月ちゃ
んにはそのほうが良いのかも知れない。でもね、私に対する想いは、
恋じゃないわ。ただの家族愛なのよ﹂
﹁嘘だ⋮だって、母さんを見ると大好きって気持ちいっぱいで幸せ
になるし⋮それに、抱きしめたいしキスしたいもん﹂
﹁私だって皐月ちゃんを見たら幸せになれるわよ? でもね、ライ
クとラブで一番違うのは何か、皐月ちゃん知ってる?﹂
﹁え⋮?﹂
ライクと、ラブの違い? そんなの好きと大好きの違いみたいなも
のじゃないの?
﹁あのね、こんなことは言いたくないけど⋮⋮恋をしたら、昔あな
たがされたようなことをしたくなるものなのよ。たぶん、女の子同
士だってね﹂
﹁え⋮な⋮う、嘘だ! だって⋮だってあんなの、あんなの全然っ
⋮﹂
嬉しくない楽しくないただ怖いだけだ
﹁あの男のほうは、皐月ちゃんに恋してたのかもね﹂
﹁そんな⋮﹂
恋って、あんなものなの? あんなに醜いの?
﹁誰かに恋をして、愛することは綺麗なだけじゃないわ。嫉妬した
りもするわ。嫌なこともあるわ。だけど、本当は凄く幸せなものな
のよ﹂
﹁分からないよ⋮だって、裸になってあんなの⋮痛いだけだよ。苦
しいだけだよ。母さんは、父さんとしたいって思ったの?﹂
﹁あなたが生まれたのが、その証拠でしょ?﹂
﹁⋮⋮そ、か﹂
恋じゃなかったんだ⋮。でも、そうだとしても⋮俺には母さん以外
愛せない。もしかすると爺さんは愛せるかも知れない
だけど、あんなことをしたくなるようになるなんて思えない。俺は
⋮きっと恋人なんてできない
17
女が相手だって、裸になること自体が怖いし、あんなことは嫌だ
俺が裸になっても平気なのは母さんの前だけだ
恋だと思ったのに⋮。俺だってあれが子供をつくる行為で、みんな
がそうやって生まれるのは知ってる
だけど⋮子供が欲しいから仕方なくするんじゃないのか? したい
からして子供ができるの? 同性では子供ができなくても、あんな
ことをするの?
﹁⋮無理だよ母さん。僕は女が相手だって裸を見られるのは怖いん
だ。女は可愛いし綺麗だけど、相手から触れられると俺の醜さが知
られそうで恥ずかしいんだ。俺から触れられても相手からは触れら
れないんだ。絶対に、裸になりたいなんて思わない。恋なんて⋮で
きないよ﹂
男が怖くてたまらなくなったって恋はしたかった。誰も信用できな
くても母さんと父さんのような関係には憧れた
だからかも知れない。ただ一人頼れる大好きな母さんに、恋をした
つもりで、満足しようとしてたのかも知れない
﹁でも⋮⋮家族は、やっぱり欲しいよ﹂
勿論今でも大好きだけど、父さんより誰より俺だけを愛してほしい
けど、でも、﹃恋﹄がまやかしだと分かったからかな?
少しだけ、大人になろうと思ったんだ
﹁皐月ちゃん⋮、分かってくれたのね?﹂
たとえ﹃恋﹄ができなくても、母さんに対するように誰かを﹃愛す
る﹄ことはできる
もう一度だけ、信じてみよう。まだ男は無理だけど、あの爺さんは
嫌いじゃないから、だから、もう一度だけ、話をしよう
だって母さんと離れるのは無理だけど、だからってせっかく会えた
﹃家族﹄なのにこれっきりなんて寂しすぎる
﹁母さんとは離れたくない。だけど、あんなに躍起になって追い返
す必要はなかった。だって、父さんの父親なんだから﹂
会ったことのない父親
18
だけど、母さんが愛した唯一の男なら、俺が信用するのに十分だ
○
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月ちゃん?﹂
﹁どうした皐月?﹂
うつ向く俺の顔を二人が覗きこむ。俺は興奮して赤くなっている顔
をあげる。この際涙目なのも認めよう
﹁⋮だって⋮こんな、こんなにうまく行くなんて⋮﹂
理想としては3人でいれるなら良かった。家族が出来るのは大賛成
だし、母さんに苦労させたくないし
でも、爺さんは頑固そうだし無理だと思った
だけど⋮まさかただの誤解で簡単にとけて、こんなうまい話がある
なんて⋮
﹁夢、みたいだ﹂
俺は爺さんが今更来たことに怒ったけど、そもそも父さんは家を継
ぎたくなくて家出していたから行方なんか知らなかった
ただ死ぬ少し前に、わざわざ他県へ言ってから手紙を出したらしい。
そこには幸せそうに笑う二人の姉弟、ならぬ母さんと父さん
そして生きていると知った爺さんは行方を探したが分からず、やっ
と父さんの勤め先が分かったころには俺たちは引越していた
俺が男になると言い出した小学3年の時に母さんはならばと、誰に
も知られないように、俺が女だなんて知ってるやつが誰もいない場
所に、とここに引越したのだ
だから今まで俺に会いにこれなかった
それに爺さんが母さんに冷たかったのも、爺さんからすれば引越し
たのは俺を爺さんと合わせないためと思ったらしく、それに女の俺
が男として生活してるので怒っていたらしい
だが俺が男として生きている理由も全て分かった爺さんは、母さん
19
に土下座した
そして母さんに自分の養子にならないかと言ったのだ
母さんには親はいないし、元々父さんと結婚していたらそうなるの
だからと爺さんは言った
夢みたいだ
何度だっていうよ。夢みたいだ
だって、母さんと爺さんと一緒に暮らせるんだ。しかももう治安や
生活費を気にしなくていい
爺さんの豪邸で住もうと言うのだ。母さんに働かずに何なら大学に
行くかとまで爺さんは言った
﹁夢じゃないさ。今まで辛い思いをさせてすまなんだ。これからは
ワシがお前らを守ろう。皐月、優希。ワシの家族になってくれるか
?﹂
﹁はい、有り難うございます⋮⋮お父様﹂
﹁お爺さ⋮お祖父様? あの⋮私は⋮﹂
﹁敬語はいらん。家族じゃろ﹂
﹁じゃあ⋮爺ちゃんって呼んでもいい?﹂
﹁ああ!﹂
爺ちゃんは嬉しそうに顔を皺だらけにして笑った
俺はゆっくりと爺ちゃんに手を伸ばす
﹁爺ちゃん⋮僕は⋮爺ちゃんの家族になりたい。爺ちゃんを愛した
いよ⋮﹂
爺ちゃんの手をそっと握る。皺だらけだけどゴツゴツした大きな手
にちょっとだけ、怖い。でも⋮普段男のクラスメートたちに触れる
のに比べたら、何てことない
﹁皐月⋮﹂
﹁爺ちゃん、今は⋮無理だけど⋮いつかキスできるくらい爺ちゃん
を好きになりたいよ﹂
﹁ああ⋮ゆっくりせい。ワシはずっと待っとる﹂
﹁⋮うん!﹂
20
こうして俺は、新しく家族を手にいれた
次の日には爺ちゃんの家に引越したし、今の学校は止めた。元々未
練はなかった
爺ちゃんは無理に学校に行かなくていいから、人間になれろと言っ
てくれた
バカみたいに大きい家に俺らは住むことになった。使用人がたくさ
んいたけど、俺のために女の人ばかりにしてくれたし、最低限のボ
ディガードなどの男は俺の半径5メートルより近付かないようにし
てくれた
そこまでしなくてもと思ったけど、心遣いは凄く嬉しいし、それに
どの男も異様にゴツいから、クラスメートたちに接するようにはで
きないと思うから、助かる
﹁爺ちゃんっ⋮﹂
出会って半年がたつころ、俺は何とか爺ちゃんに抱きつけるように
なった
未だに母さんの前じゃ﹃僕﹄だけど、爺ちゃんには普通にしてる
勿論母さんにバレてるのは知ってるけど、何となくこのままがいい
と思う
﹁なんじゃ皐月?﹂
﹁爺ちゃん、大好きだぜ﹂
爺ちゃんは笑った。爺ちゃんは優しすぎるくらいに優しかった
会社では厳しいらしいけど、忙しいのに毎日一緒に朝食を食べてく
れる姿からは想像できない
まだ少し抱きつきかたがぎこちないかも知れないけど、俺、もっと
頑張るから
だから、待っててくれよ。爺ちゃん
○
21
22
いつの間にか訪れてた変化
﹁⋮ぱーどん?﹂
コツをつかみ爺ちゃんに普通に抱きつけるようになった2月。俺と
母さんは爺ちゃんに大事な話があると言われ、俺は思わず内容を聞
き返した
﹁じゃから、社交会デビューじゃよ﹂
﹁⋮⋮爺ちゃん﹂
﹁なんじゃ?﹂
﹁短い付き合いだったけど、俺爺ちゃんのこと忘れないよ﹂
にっこり笑顔で立ち上がると爺ちゃんは机に乗りあがり俺にしがみ
つく
﹁待て! 待たんか! 優希も一緒じゃ!﹂
﹁なお悪い! 母さんに悪い虫がついたらどうするのさ!﹂
﹁⋮⋮皐月ちゃん﹂
母さんの呼びかけに俺は嫌な予感がしながら振り向くと、母さんは
とてもいい笑顔をしていた
﹁⋮な、にかな?﹂
相変わらず美人だけど、だからこそ男は放っておかないよ
﹁お母さん、行きたいなぁ﹂
分かってたよ! 母さんがメルヘン脳の持ち主だってことくらいさ
! 貧乏だったし尚更憧れてたんだよね社交会!
﹁駄目! だいたい僕は⋮絶対にドレスは着ない。だからって⋮戸
籍を調べたらすぐに女なのは分かる。そんな自分から有名になるよ
うなことできないよ!﹂
﹁大丈夫じゃよ﹂
爺ちゃんが机からソファに座り直して自信たっぷりに言う
﹁何がだよ!﹂
﹁お前の戸籍はとっくに男じゃからな。着るのはスーツじゃ。とい
23
うか、屋敷の者にも男と説明しておるんじゃから当たり前じゃろう
?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
マジ? じゃあこれからは堂々と男だって言えるのか?
﹁それにずっと家を出てないし、もうそろそろ外に目を向けたらど
うじゃ?﹂
﹁う⋮﹂
実はここの生活のお陰で爺ちゃんと女にはなれたけど、でもずっと
男には関わらなかったから前より余計に男が苦手になってしまった
のだ
はたして今の俺に男に普通に接するのができるかどうか
﹁なに、たった数時間じゃ。練習じゃと思え。それにワシの孫を発
表するんじゃぞ?﹂
﹁だから⋮?﹂
﹁盛大にするつもりじゃ。例えば⋮世界中のパティシエを呼んでみ
るとかな﹂
﹁行く!﹂
﹁そうか、やってくれるか﹂
﹁当たり前だろ? 爺ちゃんの頼みは断れねーよ。なぁ爺ちゃん、
俺、あれが食いたい﹂
俺は美味いものには目がないが、特に甘いものは大好きだ。貧乏生
活の反動か毎日お菓子を食べているが、太らない体質なのか体重に
変化はない
爺ちゃんの隣に座って甘えるように俺はすりよる。爺ちゃんは優し
い笑顔で俺の頭を撫でる
﹁なんじゃ? 何でも言ってみるがよい﹂
﹁ウェディングケーキ!﹂
昔街角のテレビで︵俺の家にテレビはない!︶見た結婚式の映像で
写っていたあのケーキ。一度でいいからあの山のようなケーキを一
人で食べてみたい!
24
﹁⋮⋮皐月﹂
﹁駄目?﹂
﹁構わんが⋮ウェディングケーキは殆どハリボテじゃぞ﹂
﹁⋮ええ!?﹂
何だと!? お、俺の夢が⋮⋮人の夢とかいて﹃儚い﹄⋮か。昔の
人はうまいこと言ったもんだな
﹁まぁ、落ち込むな。皐月が望むなら等身大ケーキくらいいくらで
も作らせる﹂
﹁爺ちゃん大好き!﹂
﹁あらあら⋮それではお父様、よろしくお願いしますね﹂
﹁うむ。ドレスは好きなものを頼むといい﹂
母さんが微笑んで出ていくと爺ちゃんはため息をつく
﹁爺ちゃん? どうかしたのか? もしかして⋮疲れてる? 爺ち
ゃん頑張ってるもんな。肩揉むぜ﹂
ソファの後ろにまわって爺ちゃんの肩を揉む
﹁ん、うむ⋮うまいな﹂
﹁まぁね。母さんのいっつもやってたから﹂
﹁そうか⋮﹂
﹁爺ちゃん、悩みがあるなら聞くぜ? 俺じゃ役にたてねーかも知
れねーけど、でも⋮俺ができることならなんだってしてやりてーん
だ。家族だろ? 水くせーよ﹂
﹁皐月⋮うぅ、ワシはお前のような孫を持って幸せじゃ﹂
涙声になる爺ちゃんに俺は顔が熱くなる。照れるぜ
﹁オーバーだな。で? ため息なんてついてどうしたんだよ?﹂
﹁⋮優希じゃよ。優希は⋮いまだにワシに敬語を使うのじゃ﹂
﹁⋮ってんなことで悩んでたのかよ?﹂
﹁そんなことって⋮ワシは真面目にだな﹂
﹁だって母さん、爺ちゃんのことは本当に尊敬してるし家族だと思
ってるって言ってたぜ。むしろ優しくされて申し訳ないってた。だ
から母さんに直接言えば、喜んでくれるぜ﹂
25
﹁な⋮まことか?﹂
﹁嘘言ってどうすんだ﹂
﹁そうか⋮ふふ⋮﹂
嬉しそうな爺ちゃんの笑い声にちょっとムッとして、肩揉みに力を
こめる
﹁⋮俺だって、爺ちゃんのこと尊敬してるんだからな﹂
﹁皐月⋮ふ、ふはは⋮ワシは幸せじゃな﹂
﹁⋮⋮社交会、楽しみだな﹂
騒がれるのは好きじゃないけど、でも⋮世間一般的に俺が爺ちゃん
の孫だって、そう言うという事実は嬉しい
いくら紙の上で家族と言ったって分からないから、人にはっきり言
ってくれるのは凄く嬉しい
○
初めは、どうなることかと思った。いくら理由があろうと、ワシが
皐月を10年以上放っておいたことは事実じゃ
もし、ワシがさっさと皐月を探しだしていれば皐月は襲われずに、
愛らしい少女に育っていたはずじゃ
もし、ワシが勇人の生きているうちに見つけて優希を認めておれば、
優希は苦労なんてしなかったはずじゃ
本当は、勇人がいなくなってもすぐには探さなかった
手紙が来た時なんて、見た目は兎も角12歳に手を出したと知りワ
シは手紙を破った
勇人がいなくなり、10年たち、ワシの女房が死んだ。急に寂しく
なった
しばらくは仕事に熱中して誤魔化したが12年目になり、いてもた
ってもいられなかった。女房が最期まで勇人を気にしていたのを理
由にして、ワシは勇人を探し始めたのじゃ
優秀は調査員に頼んだので1年で、ワシは勇人が死んだことを知っ
26
た。そして娘がいたことも知ったが、突然母子で姿を消したと知った
たかぎ
そして次の年、ワシは見つけたという報告を受けてすぐにその街に
行った。だが途中で、ガードの高木とはぐれてしまった
仕方なく交差点で携帯電話を使い高木を呼び待っていると声をかけ
られた
振り向いた時、信じられなかった。目の前に、勇人がいた
少年︵いや調べたのでは少女のはずだ︶が振り向いてからワシは我
に返り、じっと少女?を見る
﹁⋮なにか用か?﹂
﹁いえ、先ほどから動かれていないようなので。何かお困りでした
ら、私で良ければお手伝いいたしますよ?﹂
少女は女の子にしてはハスキーな声でそう言う。勇人は女にしても
違和感のない声で、それよりは低いがそれでも女と言えばやはり女
の声だ
﹁⋮ふむ、ならうまい飯屋を教えてくれ﹂
﹁は⋮あ、でも私、あまり外食はしないんです。お役にたてずすみ
ません。あ、私のお昼の残りならありますよ﹂
礼だと言って奢りながら話をしようと思っていたので、とても意外
な意見だったが
しかしよく考えると勇人が死に、12歳で妊娠したのだからまだ調
べていないから確かではないが、早くから働いていたのだろう
学歴社会の今、女一人で年頃の子供を育てるなんて余裕があるとは
思えない。滝口優希の親は以前の街で死んだのは確認済みだ
﹁いや、お箸は触れてません。諸事情があり食べなかったんです。
そこに公園がありますけど、どうしますか?﹂
公園に行くと自販機から買ってワシに茶を渡してきた。気がきくい
い子じゃな
食べてみると、不味くはないがワシの肥えている舌では美味いとは
思えなかった
いくら忙しいとは言え少なくとも親が子にこんな料理しかつくらん
27
とは⋮! と密かに憤っていると、少女は恥ずかしそうに﹁私が作
ったんですけど⋮お口にあいましたか?﹂と言った
ならば話は変わってくる。孫娘がワシにくれた初めての料理だ。何
だか急に味が美味くなってきた
おかしいな。ワシは勇人の時もそうかわいがってはいなかったが⋮
⋮ワシも年かのぉ
美味いと言いながら弁当箱を返すと少女は実に嬉しそうに、勇人に
似た顔を柔らかく崩す
うむぅ⋮可愛い
もっと話をしたかったがバイトだと言って慌てて帰ろうとしたので
名前だけ尋ねた
﹁滝口⋮皐月⋮か﹂
ワシは高木に住所を調べさせて家に行った。とてもボロかった
あまりに酷かった。何て母親だと思った。いくら金がなくともこれ
はないだろう
ワシから逃げて引越したのも気に食わないのでさっさと皐月を引き
取ろうとしたが、皐月は予想以上に警戒し、さらに母親と離れたく
ないと泣いた
ショックを受けた。泣かすつもりなんてなかった。ただ喜んで欲し
かったのじゃ
次の日には二人について調査させて、そして引越しの理由も男とし
ている理由も分かった
淡々と文字で事実が述べられているだけなのに、昨夜の皐月の涙と
だぶって胸が痛かった
とにかく謝るしかなかった。優希がどれだけ頑張っていたのか分か
った。中学にもろくに行かず、どれだけ苦労したのかはワシにも分
からない
それでも皐月は真っ直ぐに育っている。ワシは自分が情けなくなった
だが二人はワシを許し、皐月はワシを愛したいとまで言ってワシの
28
手を握ってくれた
恐怖の混じった、だけどそれでも笑ってくれたことが嬉しくて、ワ
シは久しぶりに笑った
そして今、皐月はワシに抱きついて﹁大好き﹂と言ってくれる
可愛くて可愛くて、孫は目にいれても痛くないという気持ちが痛い
ほど分かった
とてもいい子だ
甘いものが好きだと言うのでプレゼントをするとお金はないからと
言いながら、色々とワシにお返しをしてくれる
本当に可愛くて、他の人間に自慢したくなった
マザコンの皐月は反対したが、優希は皐月をならすチャンスととっ
たのか了承した
優希はほんわかした雰囲気に反して、皐月に関してはとてつもない
深い愛情があるのが分かる
高校に行っていないことが信じられないほど礼儀作法もしっかりし
ていたし、賢い
一度本気で大学にいくよう薦めたが、皐月が独り立ちしてから定時
制高校に行くつもりだったと言い、申し訳なさそうに謝ったが結局
首を縦にはふらなかった
知らなかった。母親とは、こんなにも強いのか
最初は可哀想で可愛い皐月が懐いているし、皐月が孫になるから丁
度いいと思った
だが、今となっては本当に娘のように思う。勇人には跡継ぎにと厳
しくした反動か、年齢故かは分からんが、二人が愛しくてたまらん
のじゃ
29
だから皐月は勿論、優希も共にみなの前で言いたい。ワシの大切な、
娘と孫だと
○
30
社交会でびゅー
﹁娘の優希に、孫の皐月でございます﹂
凄い。としか言いようがない。爺ちゃんの家での生活で、ずいぶん
慣れたと思ったけどこれはまたタイプの違う感じだ
どこぞの一流ホテルを貸し切り、あちこちに等身大ケーキや美味し
そうな料理がならんでいる
う∼⋮美味そう
﹁ご紹介いただきました、崎山皐月です。至らぬことだらけの若輩
ですが、皆様どうかよろしくお願いします﹂
内心早く食わせろと思いつつ、長年培った猫被りでにっこり笑って
お辞儀をする
ざわざわざわ。爺ちゃんの発表にホテルが揺れるほど騒がしくなる。
まぁいきなりだし、息子はとっくに死んでるんだし普通はただの養
子だと思うよな
それがいきなりなんだから、そりゃあ驚く。だって爺ちゃんの願塊
会社の跡継ぎは6年前に優秀な養子をもらってすでに決まってるん
だから、今更もらう理由が分からないんだろう
てか、普通実の孫が16で初めて発表されないしな
にしても俺くらいやもっと小さな子供も結構いるんだな
﹁皐月ちゃん、お腹減ったでしょ? 食べてきたら?﹂
爺ちゃんは偉いさんに囲まれているし、話は一応終わったから母さ
んがそう言った
﹁ありがと。母さんの分もとってくるよ。何がいい?﹂
﹁じゃあ⋮お寿司を﹂
﹁了解﹂
母さんは母さんで貧乏の反動か名前からして高級な雰囲気がするも
のが好きだ
﹁∼♪﹂
31
脂ののったトロ。美味そ⋮おっと涎が⋮
皿とフォークをとって適当に寿司を二人分のせる
﹁あの⋮﹂
﹁え⋮どうかしましたか?﹂
話しかけてきたのは同じくらいの年の男たちだが、場所が場所だか
ら面倒だし猫は被る
﹁崎山様⋮すみません、小五郎様のお孫さん⋮なんですか?﹂
爺ちゃんは別に隠すことでもないから、堂々と言ってよいと言われ
たので頷く
﹁はい。父は崎山勇人ですから間違いありません﹂
﹁勇人様⋮! でも、行方知れずと聞きましたが⋮?﹂
﹁はい。父は昔、家を黙ってでたんです。そして母と出会い私が産
まれた。そして、私が祖父と出会った。簡単でしょう?﹂
﹁しかし⋮肝心の勇人様は? 何故優希様が養子に?﹂
﹁父は死にました。藉をいれる前、まだ私がお腹にいたころです。
ですから祖父が母を改めて養子にしたんです。元々父が生きていれ
ば母は結婚して祖父の子になるのですから、おかしくはありません
よね?﹂
﹁ああ、お気のどくに﹂
うるせぇよ。うすら笑いしやがって、気の毒なんて思ってねぇくせ
に。つか、金持ちって子供も相手を様付けかよ
ま、慣れたけどな
つかマジ男としといて良かった。正直、話をするだけで精一杯だ。
触れたら、笑顔キープできねぇ自信があるぜ
何とか男共を振り払い、料理選びに戻るが何やら視線を感じる。四
方八方からだ
ったく、見せ物じゃねーっての。まぁ聞耳たててたみてぇだし聞い
てこないのはいいけどな
飲み物も頼み、持ちきれないのでボーイに母さんに持っていくよう
頼む
32
さて⋮料理運ぶか。⋮⋮先にちょっとチョコレートをつまみ食い
﹁っ﹂
美味い∼!
思わずうめきそうなほど美味い! ちょー美味い!
はふう∼、にやにやしてしまうのが止められない
﹁⋮!﹂
って見られてるの忘れてた!
顔を赤くしてるのを自覚して慌てて回りを見回すと、大人も子供も
視線をそらした
ぐはっ! かなり見られてた!
恥ずかしい⋮
大人しく母さんのところへ持って行くと、けしからんことに数人の
男に囲まれていた
これだから男ってやつは嫌なんだ!
﹁母さん、持ってきたよ﹂
﹁ありがとう、皐月ちゃん﹂
﹁ああ、皐月君だね。勇人様のこと残念だけど、こんな美しい奥様
に子供までいたとはね﹂
﹁ふふ、嫌ですわ。お世辞なんて言わないでくださいな﹂
﹁いやいや、本心ですよ。それにしても皐月君は本当に勇人様にそ
っくりですね﹂
﹁はい。私も日に日にそう感じております﹂
﹁しかし、皐月君の教育上父親がいたほうがいいのでは?﹂
﹁再婚のご予定は?﹂
﹁嫌ですわ。私のようなおばさんにそんな予定なんて⋮﹂
﹁母さん。そんな卑下しないの。ていうか、その発言はだいぶ危な
いと思うよ﹂
まだ20代でしょあなた。回りのご婦人方から睨まれてますよ
ま⋮そういうとこ可愛いんだけどね
﹁みなさん、お気遣いは有難いのですが私の父は崎山勇人だけです。
33
また、母の愛する夫も崎山勇人だけなのです。再婚の予定は未来永
劫ありません。あしからず﹂
母さんの手を引いて男たちから離れる
﹁あらあら、皐月ちゃんたら恥ずかしいわ﹂
﹁とにかく、お願いだからふらふらしないでよ母さん﹂
﹁してませんー。お母さんじっとしてましたぁ﹂
﹁何その口調? 子供じゃないんだからやめなさい﹂
﹁はぁい﹂
なんなんだ今日の母さんのテンションは。⋮⋮もしかして
﹁母さん、酔ってる?﹂
﹁酔ってません∼﹂
酔ってます!
この人、顔色ひとつ変えないくせにカクテル一杯で酔うんだから
よくあの男たちの会話でボロださなかったもんだよ。酔ってる、な
んて知られたらなにされるか分からない
﹁とにかく、ここに座ってなさい。料理は僕がとってくるから、何
を言われてもここを動かないでよ。はい、お寿司﹂
言いながら俺は母さんを会場の壁際の椅子のひとつに座らせ、お皿
を渡す
﹁ありがとぉ皐月ちゃん﹂
﹁どう致しまして。⋮母さん、再婚なんて、しないよね?﹂
さっきは俺の願望で言ったが、本当は勇人を思っていても寂しいと
思ったりして再婚がしたかったりするかもしれない
﹁やぁね、しないわよ。だって私は、皐月ちゃんのママでぇ、勇人
さんの奥様だもの∼﹂
﹁うん﹂
なら、いい。母さんを取られるのは嫌だけど、勇人だけは許す。勇
人は俺の父さんだし、それに死んでるから
つまり、この世界では俺が一番母さんを愛して愛されてるというこ
とだ
34
﹁ママのことはいーから、皐月ちゃんはお友達を作ってきなさぁい。
ね?﹂
﹁⋮分かった。ただし席を離れる時は必ず僕か爺ちゃんに言ってよ
ね﹂
﹁もう。分かってるわよぉ。ママを子供扱いしなぁいの﹂
そう言って母さんは俺の額をこずく。行動は普段からそう変わりは
ないが、やはり言動がゆるくなってる
⋮まぁ、だからって問題なんてそうそう起こらないか。ケーキ食お
ーっと
﹁ふんふ∼ん﹂
タワーの前に行き、ボーイに頼んで皿にとってもらう
﹁っ∼﹂
﹁! どうかしましたか?﹂
顔をふせた俺にボーイが慌てて話かけてくるが、心配はいらん
﹁美味しいですっ﹂
あまりの美味さに悶えただけだ。さすが爺ちゃん⋮愛してるぜ!
﹁そ、そうですか﹂
﹁はいっ﹂
女なら食べるよう薦めるが、相手は男なので俺は別のタワーをまわ
りとりあえずケーキを全種類皿にのせたが、何かしら誰かが話かけ
てきてうざいので、こっそりテラスに出た
冬だし誰もいないだろ。と思ったらいるし
﹁⋮⋮はぁ﹂
俺より多少身長はあるが成人してないだろう女が、手すりに持たれ
物憂げにため息をついていた。肩だして寒そうだな
とりあえず音をたてないように白い木製の︵夏の昼間なら海も見え
るしさぞ気分のよさそうな︶机に置き、スーツの俺はまだ寒さは平
気なので上着を脱いで肩にかけてやる
﹁⋮え⋮? あ、崎山皐月⋮様、でしたわね﹂
﹁はい。考えごとをしていらしたなら邪魔をしてすみません。です
35
が今夜は冷えます。どうぞ着ていらしてください﹂
﹁あ⋮ありがとうございます﹂
﹁いえ﹂
とりあえず椅子に座りケーキを食う。女は山積みのケーキに目を丸
くしたが俺の知ったことか
﹁♪﹂
美味い。チョコのほのかな苦味に濃厚な香り、クリームの甘さと柔
らかいスポンジが絶妙に組みわさって⋮⋮ああもう! うまく言え
ねぇ。俺には文才はないらしい。知ってたけど
だがとにかくうまい
どうせ女は海を見てるんだから誰にもはばかることなく俺は顔をふ
やけさせる
﹁ずいぶん幸せそうですわね﹂
﹁っ⋮あ、見ておられたのですか? お恥ずかしい⋮。勿論幸せで
すよ。こんなに美味しいケーキを食べて、幸せじゃないなんて有り
得ません﹂
﹁そう⋮私にも一口いただけるかしら?﹂
﹁良いですよ﹂
本当は嫌だけど、にっこり笑って俺はフォークに一欠片指して女に
フォークごと渡す。女は何だか知らんが俺の顔をちらちら見ながら
受け取り、ゆっくりとした動作で食べた
﹁どうです?﹂
﹁⋮美味しい、ですわ﹂
﹁でしょう﹂
﹁ですが⋮それだけですわ﹂
﹁え?﹂
﹁美味しいと言うことと、幸せは違いますもの﹂
女は伏し目がちな瞳で寂しそうな表情を見せた。意味が分からない
が、とりあえず金持ちは美味い食べ物が当たり前だからそんなバカ
な意見がでるのだろう
36
﹁そうですね。美味しい食べ物さえあれば幸せになれるわけじゃあ
りません。ですが、美味しい食べ物がなければ幸せにはなれません
よ﹂
﹁⋮⋮そんなことはありませんわ。たとえ不味い食べ物しかなくて
も大切な人といるなら幸せな人もいるはずですわ﹂
﹁あなた⋮バカですか?﹂
つかバカだな
﹁なっ!?﹂
﹁大切な人と笑ってとる食事なら、美味しくないわけないじゃない
ですか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私はあなたに何があって、そんな顔をさせるのか何て知りません
し、知りたいとも思いません。ですけど今は無理してでも笑いませ
んか? せっかく美味しいものがあるんですから、美味しく食べま
しょうよ﹂
嫌な話も考えごとも後回しだ。楽しめる時は楽しめばいい。後先を
いちいち考えてたら、疲れるだろ?
﹁⋮そうですわね。じゃあ、私の分もケーキとフォークと飲み物を
お願いできるかしら﹂
﹁かしこまりました、お嬢様﹂
俺はおどけて立ち上がる。俺は男だから、女のために動くものだ
せっかく美人なんだから、始めから笑ってろよ。断然、似合ってるぜ
猫をかぶってるから口には出さねぇけど、俺は笑って伝えてみた。
勿論、伝わってないだろうけどな
○
37
再会と思い出
金持ちになってから8ヶ月近くたったころ、自分が稼いだお金じゃ
ないことは百も承知だし、爺ちゃんと出会ったばかりは遠慮してた
けど、今では小遣いこそないけどだからこそ使いたい放題だ
社交会に行って、久しぶりに同年代と話をすることを思い出した俺
は、広い庭や家をごろごろしてた半年間とうってかわって街に繰り
出している
そして今日は、一度やって見たかったことをやろうと思う
ずっと昔に、やりたくて仕方なくて、心残りだったんだと思う
﹁ありがとうございましたー﹂
明るい声に送られて、俺は笑顔で店を出た。手に持っているのは段
ボール箱
そう、やりたかったのはいわゆる﹃大人買い﹄だ
昔はキーホルダーの入ったやつだったけど、女の子向けで可愛いと
は思うが、男生活の長い俺にはもう欲しいとは思わない
だから、次に好きだった麦チョコを箱買いした
ふっふっふ∼。何だか気分がいいぞ。台車︵ホームセンターで買っ
た︶に乗せて俺はゴロゴロいわせながら、一袋開けてつまみながら、
テキトーに歩く
こうやってのんびり街を歩くのは⋮久しぶり? いや⋮爺ちゃんと
会う前はバイトで忙しかったし、小学生とかの時は働いてないが遊
ぶのに忙しかった
だから、こういう目的のない散歩は初体験になるのか?
﹁︱ぁ︱︱﹂
﹁︱︱じ︱︱﹂
﹁︱か︱︱︱さ︱っ!﹂
38
何やら雑踏の向こうに喧嘩するような声が聞こえた。方向転換をし
て進んでみると、女一人に男が二人だった
ふーん⋮?
俺は歩みをゆっくりにして、様子を伺う。女が嫌がっていたりした
ら助けるつもりだ。ケチな正義感なんかじゃない
ただ、男が女を玩具みたいに扱うのが殺してやりたいほど気にくわ
ねぇだけだ
﹁︱から、離しなさいって言ってるでしょう! あなたの耳は節穴
ですの!?﹂
﹁そう言うなよ。あんたみたいな綺麗な女始めて見たぜ﹂
﹁それはそれは不幸な人生だったようですわね﹂
⋮⋮女は見た覚えがあった。俺は学校の勉強はできないが、記憶力
はいいし鍛えてたおかげで五感、ついでに身体能力は我ながら抜群だ
で、だ。その抜群の五感と記憶力は夜だろうとはっきり覚えてる。
あのため息をついてた金持ちの美人の顔をな
俺は台車を逆向きにして箱を足ではさんで乗り地面を蹴った
﹁危険ですので美人は獣の半径5メートルには近寄らないでくださ
ーい!!﹂
﹁は? だっ!!?﹂
俺の愛車︵台車︶は男に突っ込んだが男はよろけただけだった
ちっ。死ねばいいのに
俺は睨んでくる男を無視して女に笑いかける。そういえば名前を聞
いていなかったな。一度きりだと思ってたし
﹁こんにちは、お嬢様。ガードも連れずに不用心ですね﹂
﹁え⋮⋮皐月、様⋮?﹂
ポカンと間抜け面で俺を見る女は、間抜け面なのに気品がある気が
してちょいムカつく
﹁はい。そんなに驚いてどうしましたか?﹂
39
﹁え⋮ええ⋮その、大人しいイメージでしたので﹂
﹁第一印象で人のことはわかりませんからね。あ、麦チョコ食べま
す?﹂
﹁おいこらガキ! 何してくれてんだよ!﹂
﹁ふざけんな!﹂
男たちはナイフを取り出しちらつかせた。はっ⋮クソ野郎。得物を
ちらつかせれば誰もがびびると思ってるのか
俺は、お前らみたいなクソ野郎を倒すために体を鍛えたんだぜ
俺は男が恐い。だが、それは過去を思い出しちまうからだ。お前ら
個人が恐いわけじゃない
﹁さっさとどけ、ガキ﹂
﹁ガキじゃありません、よっ﹂
俺は手前の男からナイフを奪う。男は空の手を俺につきつけたまま、
笑っている
気付かないほどバカか
﹁形勢逆転、ですね﹂
﹁は、どこから⋮?﹂
﹁あなたのですよ。私の動き、ちゃんと見えてました?﹂
悔しいが女の体ではそこらのチンピラならともかく、鍛えられたや
つには純粋な力では勝てない
だから俺は早さに、技術にこだわった。体力をつけたし力もつけた。
そのうえで技術を求めた
誰にも気づかれないように相手の武器を奪い、相手より上手く武器
を使えばいい
それなら、勝てる。どんなに強い人間だって、素手対武器なら、武
器が勝つ
勿論武器と言っても隣の爺さんに教わったのだから、銃なんてもの
はない。だけどカッターや針、包丁などの武器になりやすいものら、
武器か?と言うようなとにかくあらゆる日用品で戦う方法を身に付
けた
40
その爺さんは元軍人だと言っていたが、嘘臭い。つか軍人はボール
ペンで戦わないだろ
まぁ爺さんが誰だろうと気にならないから、特に聞かなかった。普
通に出会って、普通じゃない特訓を受け、普通に別れた
そして俺は、普通じゃない技術を手にいれたんだ
﹁これ、なんでしょう?﹂
そして、ほうけてる間にもう一人の男からもナイフをとってみた。
一度目の瞬きで移動して奪い次の瞬きが終わる前に戻れば、男から
俺は一瞬消えたと思えばナイフが二つになった状態だ
﹁な⋮おま⋮どうやったんだよ! 手品だろ!?﹂
ナイフをたたんで二人の上着ポケットにいれてやる
﹁さて、ナイフの行方は?﹂
﹁⋮は?﹂
俺は自分のポケットを強調してから促す。男は青い顔で自分のポケ
ットを見て、逃げた
﹁うわ⋮早いなぁ﹂
つっても俺に比べたら亀みたいなもんだけどな
﹁お嬢様、大丈夫ですか?﹂
﹁⋮ええ。ありがとう﹂
﹁で? ガードは?﹂
夏は暑苦しい黒服のボディガードが見えないのでそういうと女は気
まずそうにうつ向く
﹁⋮⋮いない、わ﹂
﹁はい? ちょっ、ガードもつけないなんて不用心にもほどがあり
ませんか?﹂
﹁そんなことありませんわ。ほんの少し、買い物をするだけですも
の﹂
﹁はぁ⋮あなたはご自分の容姿を理解しておられないようだ﹂
﹁え⋮?﹂
﹁あなたほどの美人なら目立つし声をかけられるのは当然として、
41
誘拐犯にだって見つかりやすいってことです﹂
﹁な⋮﹂
﹁で? 買い物は終わったんですか?﹂
﹁⋮ええ﹂
﹁じゃあ家まで送ります。一応聞きますけど、いつも一人なわけじ
ゃありませんよね?﹂
﹁それはありませんわ。今日は⋮その、父の誕生日が近いので。だ
から内緒で出てきたんです。買い物も終わりました。送っていただ
けるならば嬉しいですわ。ですけど⋮﹂
女ははにかんでにっこり笑う
﹁もう少しだけ、私とお話しませんこと? お礼をする機会くらい
与えてくださいな﹂
俺はにっこり笑った
○
﹁それで皐月様は︱﹂
女はお嬢様の楽園と言われたり言われなかったりする中高と揃った
全寮制の私立﹃白雪学園﹄に通っているらしい
ガードをつけていないのは手配をすると親にばれてしまうかららしい
﹁待ってください﹂
洒落た高級なカフェテラスの一角で俺は一旦ストップをかけた
﹁え?﹂
﹁様は止めていただけませんか、敬語も。 私じゃ、あなたの友人
にはなれまかせんか?﹂
俺は化けの皮はがしたらちょいヤバいから敬語つかうけどな
﹁⋮うん。じゃあ皐月君、ね﹂
嬉しそうな笑顔を崩すごとく俺は問いかける。つか後になるほど言
いづらいしな
﹁はい、であなたの名前は?﹂
42
﹁って知らなかったの?﹂
女がとても驚いて言うので少しばかり﹃崎山皐月﹄の皮を被り照れ
てやる
﹁恥ずかしながら﹂
﹁呆れた⋮じゃああなたは、名前も知らない一度会っただけの相手
を助けたと言うの?﹂
﹁バカですか? ご婦人、子供、ご老人がお困りになっていられる
なら、他人だろうと助けるのは当たり前です﹂
﹁⋮⋮﹂
余計に驚いたのか女は俺を凝視してくる
﹁どうかいたしましたか?﹂
﹁いえ⋮正論ではあるけれど、はっきり言う人を見たのは私、初め
てだから﹂
﹁そうですか⋮それは、世の中が腐ってるんです。本当は人が嫌が
ることをしないとか、困ってる人を助ける、なんてのは当たり前の
ことなんですけどね﹂
当たり前なんだ。なのに、できないやつが多すぎる。みんながこう
考えてたら、先生みたいな人はできないのに
俺みたいな想いをする人はいなくていいのに
﹁⋮⋮﹂
さかきばら
ななみ
ぽかんと間抜け面で見られた。てか美人て得だなぁ
﹁なんでしょう?﹂
﹁⋮何でもないわ。私は榊原 七海。榊原病院の一人娘よ﹂
﹁へぇ、思ったより有名な方だったんですね﹂
というより、安心できる有名な病院は? と聞かれた日本人は9割
が榊原病院の名前をあげるだろう。費用は一般的なのに施設も医療
技術レベルも高水準の大病院だ
めちゃめちゃでかくて通常で三千人は楽に収容できるらしい
﹁む、思ったよりってのは何かしら﹂
﹁別に?﹂
43
﹁なぁんか納得行かないわね﹂
﹁まぁまぁ。あ、たい焼きとたこ焼き売ってる屋台がありますよ。
食べません?﹂
道向こうに止まっている移動式屋台を指さして言う
﹁⋮⋮ここが何処かあなた分かってるのかしら?﹂
﹁喫茶店ですね﹂
﹁⋮⋮⋮まぁあなたが食べたいと言うなら構わないわ﹂
﹁分かりました。たい焼きの餡子で構いませんよね﹂
七海は何やらぶちぶち言いながら俺に早く行け、としっしっと手を
はらう。失礼なやつだが、気にしない
懐かしいな。昔、まだ﹃あたし﹄だった時に、親友とよく近所のた
い焼き屋で一つ買って、半分ずつ食べたっけ
名前は⋮忘れた。いや、聞いたら思い出すと思う。ただ俺は相手を
﹃みっちゃん﹄と呼び、その子は俺を﹃さっちゃん﹄と呼んでいた。
そんな遠い、俺が幼かったころの話
みっちゃんは俺のこと覚えくれてるかな。俺は回りに事件を内緒で
引越したが、みっちゃんは知っている。何故ならみっちゃんは先生
が遊んでから道端に捨てた俺を発見して助けてくれたからだ
その後も引きこもってる俺のところにみっちゃんだけが何度も来て
くれたらしい。俺はよく覚えてない。震えてたら時間がたってたか
らだ
引越しのお別れは、みっちゃんとだけやった
あ∼⋮勿論助かったんだが、トラウマになってなきゃいいな。俺、
あの時結構壮絶な格好で捨てられたから
﹁お待たせしました。七海さん、熱いですから気をつけてください
ね﹂
﹁! ⋮え、ええ﹂
﹁? 何です?﹂
赤い顔で俺のこと見て⋮惚れたか? なんてな。んなわけないか
﹁まだまだ寒いんですから、風邪には気をつけてくださいね﹂
44
﹁ええ、そうするわ。心配してくれてありがとう﹂
﹁はい。冷めないうちにどうぞ﹂﹁⋮⋮﹂
向かって椅子に座り、頭からかじる。む、餡子少なめだな。まぁカ
リカリの生地が美味いからいいか。どうせ一個百円だし
⋮⋮⋮はぁ、去年の今頃はまだ百円をコツコツ貯めてたのに⋮適応
能力が高いのはいいけど、ちょっと複雑な気分だ
﹁? どうかしましたか?﹂
七海は困惑して俺とたい焼きを順に見ている
﹁⋮ナイフやフォークはありませんの?﹂
﹁⋮⋮まるかじりするのがたい焼きの伝統です﹂
七海は戸惑いながら俺の食い方をちら見して見よう見まねで上品に
かじる
﹁⋮思ったより、美味しいですわね﹂
失礼なやつ。そりゃお前が普段食ってるもんに比べたら何もかも安
物だけどよ
⋮でも、まぁ、嬉しそうに食ってるしいいか。やっぱ、美味いもん
は美味く食わねぇとな
○
45
告白されたこと
﹁あ、あのっ﹂
七海と知り合ってから何度目のの社交会だろうか。初めこそ子供が
多かったがそれは爺ちゃんが子供も連れてくるようにと手回しをし
たかららしく、二度目に行った時には子供の数は半分以下だった
だが元々リハビリをかねているので俺は大人しく知らない他人の誕
生日とかにも出席して、ようやく昔の感覚が戻ってきて、おっさん
とも話すだけなら普通に話せるようになった
そしてまた誰かの誕生日の集まりの日に、女の子が話しかけてきた。
確か⋮主賓の娘さんだったか。名字は高田⋮
﹁はい、何でしょう﹂
﹁おおお話があるのですが!﹂
﹁私にですか? 分かりました。七海さん、失礼します﹂
今日は久しぶりに︵こいつの父親の誕生日以来だから一ヶ月ぶりか︶
七海が来ていたのでおっさん相手ではなく楽しんでいたが、まぁ女
が相手なら誰でもいい
俺がそう言うと女の子は七海に初めて気付いたのか慌ててお辞儀を
した
﹁あ、七海様!? ⋮す、すみません⋮﹂
ん? 知り合いか?
﹁良いんですよ。じゃあ皐月君、また後で﹂
﹁はい。さて、すみませんがお名前を教えていただけませんか﹂
﹁あ⋮はい、あの⋮普通に話していただけませんか?﹂
﹁普通ですよ﹂
﹁⋮あの、私の家は一応豊かな部類に入るのですが、小学校と中学
校は公立に行って世間に慣れるのが慣習なんです⋮﹂
﹁はぁ﹂
突然何だ?
46
﹁あの⋮出身はT中学、なんですけど⋮﹂
﹁⋮え?﹂
お、俺の母校じゃん! 俺は辺りを見回してから女の子の耳に寄っ
て小声で言う
﹁俺のこと、知ってる?﹂
﹁⋮はい﹂
少女は頬を染めながら口元を両手で押さえて頷く
﹁少し、別室で話をしませんか?﹂
﹁はい﹂
俺は気分が悪いと言って広間から出てボーイに別室に案内してもら
い、ドアを閉めた
たかだ
さえこ
﹁はぁ⋮焦った。つかマジ同中? 名前は?﹂
﹁高田 佐枝子です⋮覚えていらっしゃいませんか?﹂
﹁ああ! 覚えてる覚えてる。2年時に委員長だったろ? てか雰
囲気変わったなぁ﹂
誰にでもさん付けで丁寧な話し方をするぽっちゃりした愛嬌のある
可愛い女の子だった
﹁覚えていてくださったんですね。ですがそんなに私変わりました
か?﹂
だが丁寧な話し方はともかく、すっきり痩せて美人になった
﹁ああ、綺麗になった。さっき誰かわからなかったから﹂
高田はぼっと顔を赤くする
﹁! そんな⋮あの、崎山小五郎様のご子息だったのですね﹂
﹁ああ、まぁ最近分かったんだけどな。ほら、俺んち母子家庭だっ
ただろ? 父親が家出した崎山勇人だったってわけ﹂
﹁な、なるほどぉ﹂
真っ赤な高田をベッドに座らせて、俺は一人分間隔をあけて片足を
ベッドにあげて斜めに座る
﹁高田﹂
﹁は、はい!﹂
47
﹁佐枝子って呼んでいいか? 前はそんなでもなかったけど、これ
から友達になろうぜ﹂
﹁は⋮はいっ! ふ、ふつつかですが⋮﹂
﹁気負うなよバカ。俺のことは好きに呼んでくれ﹂
﹁はい⋮皐月さん⋮?﹂
﹁おう。つか、敬語使いまくってっと肩がこるぜ﹂
実は家じゃ使わないからそれほどでもないんだがな。何か知らんが
緊張してるみたいだし、慣らしてやるか
俺は肩をまわして言いながら考える。さてどうするか
自分から話しかけてきてくれたんだから、俺を嫌いだったとかじゃ
なくて友達になってくれんだよな?
気は強くはなかったけど男が苦手とかじゃなかったと思うが⋮何で
そんなに構えてんだ?
﹁佐枝子﹂
﹁は、はい!﹂
﹁⋮何か固くねぇ? リラックスしろよ。同い年で同中なんだから。
肩もんでやろうか?﹂
﹁い、いえいえ! あ、私がしましょうか?﹂
言いながら伸びてきた佐枝子の手を、俺は反射的に掴んだ
﹁え⋮あの⋮﹂
ああ、やっぱりだ。女にはあれだけ慣れたはずなのに、相手から触
れられそうになると拒絶してしまう
﹁あ∼⋮その、何だ。そういうのは良いんだ。話をしようぜ﹂
﹁⋮皐月、さん﹂
﹁んあ?﹂
﹁⋮⋮ずっと、好きでした﹂
﹁⋮は?﹂
何か言ったか? ⋮⋮え? あれ? マジで、告白されてる?
﹁いつ⋮から?﹂
﹁前から、格好いいなぁとは思ってたんですけど⋮2年生になって
48
委員長になって⋮⋮みんなが私の話聞いてくれない時に⋮かばって
くれて⋮﹂
﹁あー、あったなぁ﹂
皐月・中学2年の秋
﹁あ⋮あの、静かにしてくださーい!﹂
その声に俺は目を覚ました。起きてみると教室は嫌に騒がしく、よ
く眠れたなと自分で感心した
﹁うっせーよブス!﹂
﹁委員長が決めればいーと思いまーす!﹂
﹁ただし変なもんだったら脱げよー﹂
﹁バーカ、高田なんてブスの見てどうすんだよ﹂
寝起き一番、俺は普段なら寝ぼけてるがすぐに目が冴えて、立ち上
がっていた
﹁てめぇら頭ウジ沸いてんじゃねぇのか!?﹂
﹁はぁ⋮? どうしたんだよ滝口ぃ。夢でチョコでも食いそこなっ
たか?﹂
﹁⋮⋮﹂
俺は教壇に立って黒板を叩いた
﹁ふっざけんな! 言っていいことと悪いことがあるだろ! 高田
を何だと思ってんだ!﹂
﹁はぁ⋮? 何ムキんなってんだよ。たかがブスの高田じゃん﹂
﹁たかが高田たかが∼﹂
﹁黙れ!! 女に向かって何言ってんだよ! だいたい高田はブス
じゃねぇよ! 可愛いだろ!﹂
﹁はあっ? お前目ぇ腐ってんじゃねぇ?﹂
一斉に起こる男子からのブーイングに俺は眉をつりあげる。女子か
らの冷たい視線にも気づいてないらしい
49
﹁黙れ! それはお前らだ!﹂
﹁⋮ふざけんなよ? お前なに偉そうにしてんだよ﹂
﹁⋮俺はな、お前みたいに女をバカにするやつが許せねぇんだ。だ
いたい何もしないやつに文句言う資格なんてねぇ!! 高田!﹂
﹁は、はい!﹂
﹁お前も言ってやれ!﹂
隣の高田はみんなに見られて頬を染めながら
﹁え⋮えっと、滝口さん、かばってくださってありがとうございま
す。それと⋮ホームルーム、続けましょうよ。今度の文化祭の内容
決めないと⋮﹂
俺にお辞儀をしてからそう言った。俺は一瞬耳を疑った
﹁⋮はは! 高田!﹂
けどすぐに笑った。高田、お前すげぇよ。さっき、泣きそうなくら
い傷ついてたのに、そんなに簡単に許して、笑えるんだから
﹁! は、はい?﹂
﹁お前、サイコー! お前ら、次に高田をバカにしたら⋮俺がその
喧嘩買うからな﹂
﹁な! っ⋮⋮わあったよ﹂
さっきは勢いで睨んできた男だったが、基本的に俺は女の敵には喧
嘩を売りまくって特に1年の時に派手にやったから、体格はそうで
もなくても強いとみんなに認識されてる
ちなみに今の男も以前にシメたことがある。懲りねぇやつだが、俺
がマジだと知るとびびったようでそう慌てて頷いた
﹁高田、邪魔して悪かったな。続き頼む﹂
﹁はい! ありがとうございます!﹂
高田はにっこり笑った。うん、全然ブスなんかじゃねーよ
だが高田とはそれきりだった。挨拶くらいはしたが、特に親しくは
していなかった
50
そして、告白された今、俺は困っている。そりゃあ我ながらモテた
し告白されたことも両手で足りないくらいならあるが、さすがに何
年も思ってくれてたなんて初めてだ
手を握ったまま硬直すること数分、俺はそっと佐枝子の手を離す
﹁俺は⋮お前には言ってない秘密があるんだ。それを知ったら、絶
対にその気持ちはなくなる。だからやめとけ﹂
﹁⋮⋮好きな人は⋮いるんですか?﹂
﹁いない﹂
母さんが違うなら、やっぱりいないな
﹁じゃあ⋮﹂
﹁好きじゃないやつとは付き合えない。俺は、お前を友達と思って
る﹂
だいたいお前からしたら俺は異性だが体は女なんだし、騙してるよ
うなもんなんだからこのまま付き合うなんてできるわけがない
﹁⋮じゃあ、諦めます﹂
良かった。これで気まずくなったら嫌だし
﹁だから⋮キスしてください﹂
﹁⋮まぁ、いいけど﹂
俺は赤い顔で目を閉じてる佐枝子にちょっと頬にキスをする
﹁⋮どうだ?﹂
﹁駄目、です。ちゃんと口にしてください﹂
﹁⋮え⋮それっていいのか?﹂
﹁はい⋮お願いします。私に、皐月さんのお情けをください。はし
たない女と⋮思わないでくださいね。こんなことを言うのは初めて
なんです。して欲しいのも、あなただけです﹂
プルプル震えながら目を閉じている佐枝子に、どきっとした
長いまつげに色付いた頬、目を閉じてる佐枝子を見てやはり美人だ
と再確認。ふっくらピンクの唇がいやに目につき、ソフトクリーム
より柔らかそうだ
51
ゆっくり、佐枝子の肩に手を置いた
大丈夫。いざばれて佐枝子がショックを受けたとしても女同士なら
ファーストキスにはカウントしないらしいし
﹁行くぞ⋮﹂
﹁はい⋮﹂
俺の声は震えていたかも知れないが、佐枝子は全身震えていた
それが妙に可愛くて、俺は少し笑んでから目を閉じながらゆっくり
ゆっくり、唇をピンクにくっつけた
柔らかくて、頭の中がふわふわした。何秒か何分かたってから︵多
さるぐつわ
分数秒だけだ︶俺は顔を離して目を開けた。佐枝子とばっちり目が
あった
﹁お前⋮耳まで赤いぞ﹂
﹁⋮皐月さん、こそ﹂
﹁⋮⋮﹂
そりゃそうだ。俺だってファーストキスだったんだぞ
ああ、そうか。キスに抵抗がないのはアノ時、﹃先生﹄は俺に猿轡
をして唇にキスをしなかったからだ。だから女とは言え、唇で触れ
ることに抵抗がないのか
まぁそれはともかく、スゲー恥ずかしい。なんか佐枝子の甘い匂い
でくらくらするし
﹁あの⋮皐月さん、ごめんなさい。私、嘘つきです﹂
﹁は⋮?﹂
実は佐枝子じゃないとか? 実は好きじゃないとかか?
﹁私⋮ますます皐月さんを好きになっちゃいました⋮。ごめんなさ
い。諦め⋮きれません﹂
﹁⋮でも﹂
本当のことを知ったら、俺が汚れてることを知ったら、きっと嫌に
なる。俺は⋮傷つきたくない。拒絶されたくない
だから、だから受け入れられないんだ
﹁いいんです。私が勝手に皐月さんを好きなだけですから。皐月さ
52
んは普通にしててください。ただ⋮知っておいて欲しかったんです。
本当に、誰より好きだから﹂
﹁⋮佐枝子⋮⋮﹂
﹁ご迷惑、ですか?﹂
不安そうな瞳に俺は思わず視線をそらせる
﹁いや⋮そんなことはないけど⋮。全部知って、傷つくのはお前だ
ぞ﹂
﹁はい。大丈夫です。恋する乙女は、無敵ですから﹂
両手を胸の前で握って未だ赤い顔で笑う佐枝子に、俺は少しざわつ
く胸のうちを隠したくて大げさにため息をついた
﹁⋮はいはい。好きにしろよ﹂
﹁はい!﹂
その笑顔は可愛くて、まぁいっかと俺はつられたように笑った
自分の全てを知って受け入れてくれる人間が転がってるとは思わな
い。佐枝子はいいやつだが、だからって期待しちゃいけない
だって﹃先生﹄は凄く優しくてみんなからの信頼だってあった
母さんと爺ちゃんの、家族以外は、簡単に信用できない
本当は、俺自身信じたいと思ってるんだ
でも俺はどうしようもないバカでビビリだから、本当を知られるの
は恐いんだ
○
53
愛ゆえなのじゃ
﹁まぁまぁ。で? 皐月ちゃんはその子と付き合うの?﹂
にこにこ笑顔で聞いてくる母さんに俺は呆れるしかない
﹁⋮母さん、俺の話ちゃんと聞いてた?﹂
﹁だって、ドキドキしたんでしょ?﹂
﹁関係ないから﹂
﹁式はいつあげようかしら﹂
﹁人の話聞いてますか!? てか僕は女何だから女と結婚とか無理
だし!﹂
﹁勿論聞いてるわ。でも皐月ちゃん、あなた一つ大事なことを忘れ
てるわ﹂
﹁⋮何を?﹂
にっこり笑顔の裏に嫌な予感がしたが俺に聞かないという選択肢は
ない。だってあんな﹃聞いて聞いて﹄っていう可愛い笑顔と目で見
られたら聞くしかないっての
うう⋮我が母ながら可愛さで俺をてなづけるとは⋮
つかマジで、もうすぐ29には見えない若さ&美しさだ。美の女神
もびっくりだぜ
﹁皐月ちゃん、女の子と法的に結婚をできるのよ?﹂
﹁⋮は?﹂
なに言ってんのこの人。いくら俺が心は男と言い張ろうと無理だっ
ての。
だいたい親が子に同性愛を勧めるっておかしくない?
﹁だって﹃崎山皐月﹄は正真正銘の、男の子だもの﹂
﹁⋮あ⋮﹂
そうか。じゃあ問題な︱
﹁いわけあるかぁ! 問題あるから! だいたい、佐枝子は僕を肉
体もちゃんとした男として好きなんであり、かつ僕は佐枝子と付き
54
合う気はない!﹂
﹁気合いよ﹂
﹁無茶だぁ! 爺ちゃんからも何か言ってくれよ!﹂
﹁皐月⋮幸せになれよ﹂
﹁いっぺん死ね爺!﹂
爺ちゃんは味方だと思ってたのに!
俺が半泣きで怒鳴るのに爺ちゃんはふぉっふぉっと笑い、母さんと
笑いあう
﹁皐月は照れ屋じゃのぉ﹂
﹁ねぇ、お父さんもそう思うわよね?﹂
﹁ああ﹂
何だこの雰囲気は!? 俺か? 俺が間違ってんのか!? 同性愛
はすでに世界常識なのか!?
﹁あ∼∼! わけわかんねぇよ! とにかく俺は、誰とも結婚しな
い!﹂
﹁はぁ⋮融通の効かない子ね﹂
﹁それは母さんだよ! なんで僕が悪いみたいになるのさ!﹂
﹁まぁいいわ。とにかくゆっくりで良いから、自分の気持ちに素直
になれたらいいわね﹂
﹁これ以上なく素直だよっ﹂
何でこんな人の話聞かない人が俺は好きなんだ。顔か!? 母さん
が可愛いから悪いのか!? てか爺ちゃんは可愛くないけど好きだ
し!
﹁⋮っはぁ、疲れた﹂
机に頬杖をついてため息をつくと、爺ちゃんは俺や母さんの前では
絶えないいつも笑顔で笑う
爺ちゃんの笑顔も好きだなぁ。母さんは母さんで絶えず笑ってくれ
てるけど︵怒りながら笑うのはまじ勘弁してほしい︶爺ちゃんとは
微妙に⋮なんだ? わかんねぇけど違う感じ。とにかく好きだな
﹁皐月、まぁさっきのは冗談としてもじゃ。優希の言うように女と
55
付き合いたいなら構わんぞ﹂
﹁まだ言うのかよ﹂
﹁いいから聞け。お前が男を好きになったら戸籍は女に戻せばいい。
気負わずに好きだと思ったらそう言え。例え相手が誰でもワシらは
お前が誰かを愛したなら、全力で応援する﹂
﹁そうよぉ。お父さんの言う通りよ。早く孫の顔を見せてね﹂
言ってること無茶すぎ! 爺ちゃんのちょっといいセリフが台無し
だ!
つか母さんは俺が女だって分かってんのか? 女と女でガキができ
るか!
﹁ね、皐月ちゃん、私は女の子でも男の子でもいいわよ﹂
にっこりと、なんら裏のない大好きな笑顔で言われた俺は
﹁⋮⋮うん、ガンバルヨ﹂
と虚ろな瞳のひきつった笑みで答えるしかなかった
とりあえず、成人したら養子をとろうと思う。男女で。孤児院とか
日本にもそういう施設はあるし
てか、何で俺⋮本当に、こんな母さんにベタ惚れなんだよ。いや恋
愛感情じゃないけど
本当に、惚れすぎだ
﹁はあ⋮お前はちゃんとすれば可愛い娘にだってなれるんじゃが⋮
女で苦労するタイプじゃな﹂
爺ちゃんはしみじみとため息ながらに言い、俺は泣きたくなった
元々俺は強気なわりに実は押しに弱い。で、男なら倒せるが我なが
ら母さんだけでなく女には弱かった
だって⋮鍛えてないってことは昔の俺みたいに弱いってことだろ?
俺みたいに手に豆ができるくらいに人を倒すことを学んでない
そんな弱い女に、強くなった俺が乱暴にしたら、先生と同じになっ
てしまう
﹁まぁ皐月なら大丈夫じゃ﹂
﹁爺ちゃん⋮俺、頑張るよ﹂
56
先日友達ができたと言うと爺ちゃんが携帯電話をくれた。使い方も、
ややこしいことは分からないがメールや通話などの基本動作くらい
できる
そして気付けば俺と爺ちゃんが出会った秋から、春へと季節は変化
していた
﹁のぉ、皐月﹂
﹁なにさ爺ちゃん﹂
﹁うむ⋮﹂
佐枝子に告白された次の日の朝食の席で、俺が佐枝子のことを話し、
一段落つくと爺ちゃんは改まって、何故か母さんをちらちら見なが
ら俺に何かを伝えようとしている
母さんは母さんで爺ちゃんに頷いているが⋮何?
は!! もしや⋮もしやもしやもしや! 爺ちゃんがついに母さん
の真の魅力に気づき嫁にしたいとか!? いかん! 駄目だ! い
くら爺ちゃんでも⋮母はやらーん!
﹁却下だ!!﹂
﹁は⋮まだ何も言っとらんが﹂
﹁⋮は! ご、ごめん﹂
危ない危ない。何か妙な方向へ思考が飛んでた。う∼ん、しかし母
さんへの想いが恋じゃないのは分かったけど、我ながらマザコンな
のは変わらないのか
﹁うむ⋮話が、あるんじゃ。今度の日よ⋮いや、今夜話そう﹂
日曜と言おうとした爺ちゃんだけど母さんのにっこり笑顔を見て訂
正した。まぁ分かる。母さんはたいがい笑顔だけど、怒ってる時の
笑顔は普通に怒られるより迫力がある
﹁分かったよ﹂
でも何だ? 母さんが進めてるみてぇだけど爺ちゃんは気がすすま
ねぇみたいだな
⋮⋮わからん。爺ちゃんは俺だけじゃなく母さんにも甘いからな
とりあえず俺はデザートのチョコレートボンボン︵爺ちゃん家にき
57
てから初めてアルコールをとったけど、酒ってうめぇ︶を食べてか
ら爺ちゃんを玄関まで見送った
○
﹁さて、朝の続きじゃが⋮皐月もずいぶん普通に人と接せれるよう
になったな﹂
爺ちゃんが帰ってきてすぐ、晩飯も食べないうちにリビングに3人
は集まった
﹁うん。爺ちゃんと会う前までくらいには普通にできるよ﹂
てか爺ちゃんと会う前は誰にも疑われないくらいには完璧普通に生
活できてたし
﹁うむ、そんな皐月なら、新しい環境でもやっていけるじゃろうと
思うのじゃ﹂
﹁う⋮ん?﹂
新しい、環境?
﹁今はちょうど春休みじゃし、ちょうど一学期が始まるのと同時に
編入じゃ﹂
イチガッキ? ヘンニュー? ⋮⋮いや、勿論意味は分かってる。
俺は長年学校に真面目に通っていた。今の状態が異常なのも分かっ
ている
嫌だなぁ。スゲーヤダ。けど、行かないとな
﹁⋮⋮分かった。男として、でいいんだよな?﹂
戸籍は男なんだし。あ∼、でも学校でも猫被るなんて疲れるしヤダ
なぁ。俺ってば繊細なのに⋮
﹁安心せぇ。皐月が行くのは白雪学園じゃ。男のフリをする必要は
ないぞ﹂
﹁そりゃ男らしくを心がけてるけど、大半は素だぞ⋮って、は? 爺ちゃん今なんて言った?﹂
何か白とか雪とか聞こえた気がするんだけど
58
﹁白雪学園じゃ﹂
﹁それ⋮女子学園じゃん! しかも超お嬢様の!﹂
七海みたいなお嬢様だらけなんて嫌に決まってんだろ!
﹁いや、優希がそこがいいと言うんでな。ワシは別に皐月は何処に
も行かんと、ずっとワシの家におったらええと思うんじゃがな﹂
﹁いやそれはさすがに⋮中卒じゃろくな働き口ないし﹂
母さんが良い例だ。本当に、正社員だってろくな扱いはされない
﹁なにを言っておる。ワシが死んだって財産は、会社以外の現金は
全部お前と優希のものじゃ。貯めてきたからのぉ。皐月の年でも死
ぬまで豪遊できるぞい﹂
﹁⋮爺ちゃん、気持ちは嬉しいけど却下な﹂
﹁な、なんでじゃ!?﹂
まぁ確かに凄く凄く凄∼く、魅力的な話ではあるし、実際爺ちゃん
さきやま
の会社を継ぐ養子の人と半分にしても考えられない金がくるんだろ
うけど⋮
のぼる
養子の人は30代くらいの長身で目つきの鋭い男だ。名前は崎山 登で、何度か男として会ったけど、なんか恐い。先生に対するよう
な恐怖とは違う冷たい、氷みたいな雰囲気だ
﹁それに爺ちゃんは死んじゃ駄目だ。俺が死ぬまで生きろ﹂
﹁無理だ﹂
﹁駄目!﹂
﹁⋮そう言われてものぉ。ワシはもう70じゃし﹂
﹁気合いだぜ爺ちゃん﹂
﹁ならんわい。まぁとりあえず、学園に行け﹂
﹁⋮⋮マジ? だって俺は男だぜ?﹂
﹁大丈夫。見た目は可愛い女の子だもの﹂
つまり中身は男と。なんつーか、俺自身にもどっちの性別になりた
いのかよくわかんねぇし、複雑な気分だ
女であるのは何となく恐いが、先生と同じ性別は嫌だ。どちらかな
ら男と言い張るが、自分でもちょっと中途半端だと思う
59
﹁皐月ちゃんは立派な淑女になって、ついでに学園で可愛いお嫁さ
んを見つけてね﹂
嫁!? それが本音かこんちくしょう! 可愛い顔してムカつくぜ
! でも好きだ! ⋮⋮はぁ
﹁分かったよ⋮﹂
どうせ高校には行くんだし。目立たず大人しく過ごせばいいか
ってああ!
﹁! やっぱりダメ! 白雪は全寮だ! 母さんと爺ちゃんと離れ
ちゃうじゃん!﹂
﹁皐月ちゃん、ファイトよ﹂
﹁母さん∼﹂
何でそんなこと言うんだよ。爺ちゃんはちょっと寂しそうに笑って
るけど、二人とも意見を変える気はないみたいだ
﹁皐月、回りは女ばかりなんじゃから大丈夫じゃろう? ワシらが
いんでも大丈夫にならんと﹂
﹁⋮⋮ヤダ﹂
言いたいことは分かるけど、でもいきなりすぎるだろ。まだ⋮まだ
そんな⋮
﹁週末は帰ってくればいいじゃない﹂
﹁そうじゃ。電話をしてくれたら会議中でもでるぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ね? 皐月ちゃんが頑張ったら、お母さんもすっごく頑張っちゃ
うわよ?﹂
何を頑張るんだよ
⋮⋮⋮嫌だ⋮けど、逃げられないみたいだ
﹁⋮⋮うん、分かった。頑張る⋮よ。ただし、﹃崎山皐月﹄として
は行かない。女としてなら、変装して行く﹂
それだけは譲れない。学園には男がいないから女でもいいけど、こ
こでは男がいい
﹁ああ、構わんよ。新しく戸籍も用意しよう﹂
60
﹁前のでいい。名前を変に変えて反応できなかったらまずいし﹂
﹃皐月﹄という名前は、好きだから。名字と性別が違って変装すれ
ば、まさか同一人物とは思わないだろ。七海だけは顔覚えてるかも
知れないが、逆に言えば七海とさえ関わらなければバレないってこ
とだし
⋮⋮⋮行きたくないなぁ
﹁はあぁ⋮﹂
﹁そ、そう暗い顔をするな。何も皐月を虐めとるんじゃない。これ
もワシらの愛ゆえじゃ。学園に行って友人をつくれば楽しくなる。
男はいないんじゃから﹂
﹁⋮うん﹂
﹁皐月ちゃん、今日は久しぶりに、お母さんが料理つくっちゃおっ
かな? 海老フライとか﹂
﹁⋮うん。ありがとう﹂
基本的にどんな料理も好きだけど海老フライは特別だ。俺が始めて
母さんの為につくった料理で︵今思えば初心者が始めに揚げ物って
あり得ないな︶油っぽくてまずいのに母さんはにこにこ食べてくれた
それから俺は母さんに喜んで欲しくて料理を始めたんだ。炒飯とか
なら得意だけど、思い出深い料理は? と言えば海老フライだ
﹁母さん⋮僕も、手伝うよ﹂
﹁あ、わ、ワシもじゃ﹂
﹁え∼? 爺ちゃん作り方わかんのか?﹂
﹁う、わからん﹂
﹁しょーがねぇな。俺が教えてやるよ﹂
俺は笑った。もうすぐ変わる日常のことは、考えたくなかった
女の子だったのが男になった気になり、戸籍まで男になれば今度は
また女になる
ああったく、俺ほど変な人生送ってるやつって他にいんのか?
○
61
62
騙したいんじゃないけど偽るしかないんだ
爺ちゃんから話を聞いてからニ週間たった。どうせなら春休みが終
わると同時にきたかったが、普段の行動の些細な癖から男と同じな
俺は、事情を話すことになった数人の使用人から女の動きを教わっ
ていて遅れた
使用人の存在にはもう慣れた。俺の場合は掃除洗濯炊事などはして
もらうが、それだけだし
ま、所詮付け焼き刃だけどな
﹁⋮⋮﹂
そして今、目の前には大きな黒い柵の門。タイルのサイドには緑溢
れる道の向こうには、白く大きく立派な建物がある。建物は十字架
や鐘があったりするキリスト教系の、由緒正しきお嬢様学園だ
爺ちゃんの家も凄かったが、個人宅と学園はやはり規模が違う
ちなみに俺は田舎の地主の娘﹁滝口皐月﹂で、今までは家の跡継ぎ
として生きてきたが弟が生まれたので、淑女となるべくここにきた。
と言う設定だ
﹁どちらさまでしょうか?﹂
全寮制なので普段は門は閉まっているのでインターホンを押すと、
老婆の声が聞こえた
﹁あ、あの⋮本日よりこの学園にお世話になります。滝口皐月と申
します﹂
気の弱い読書好きで運動オンチな設定にした。これなら目立たない
だろう。カツラも被り眼鏡もかけた
今の俺の見た目は長い黒髪が腰まであり前髪が目を隠し、隙間から
瓶底みたいな黒縁の眼鏡をがのぞき、そばかす︵化粧でつけた︶の
ある、規律を守ってスカートはそのまま膝丈で靴下は紺のハイソッ
クスという、典型的スタイルだ
俺が変装すると決めて一晩中考えた完璧な変装だ。これなら目立た
63
ずに溶け込めるはずだ
ちなみに学園長は爺ちゃんと知り合いだったらしく、俺が崎山皐月
しら
で今までのことも知っている。だからこそ快く試験もなしに﹁リハ
ビリ﹂だと思えばいいと受け入れてくれた
優しさが身に染みるぜ
さぎ
たえこ
﹁ああ、皐月さんですか。お待ちしておりました。私が学園長の白
鷺 妙子です。直接会うのは始めてですが緊張はしないでください
ね。今教師の一人を迎えに行かせますから待っていてください。念
のためですが知っているのは私だけですよ﹂
﹁はい。ありがとうございます学園長﹂
まぁ正直、学園長が受け入れなければこの話は流れたかも知れない
かと思えば多少は恨むがな
しばき
ゆずこ
しばらく待つと俺より数センチ背の高い頭のゆるそうな女がやって
きた
﹁はぁい、私はぁ、柴木 柚子よ∼。今日から、滝口皐月さんの担
任でぇす。あなたはぁ⋮誰?﹂
女は見た目通りの機嫌が悪い時に聞けばよけいにいらいらする話し
方で、頭の悪い発言をした
﹁滝口皐月です。よろしくお願いします柴木先生﹂
﹁ちっちっち∼。柚子せんせーって呼んでねえ。それじゃあ案内す
るわー、付いてきてぇ﹂
そう言って柴木、もとい柚子先生は反転して校舎に向かい歩きつつ
も、首を回して後ろの俺を見ている
﹁ってきゃあ!﹂
先生は見事に足元の石につまづいてこけた。うん、何なんだこの面
白い生物は
前に回って手をひいて助け起こすと先生は照れ隠しに笑う
﹁先生、大丈夫ですか?﹂
主にその頭の中。つかこんなのが教師でこの学園大丈夫なのか?
﹁うんぅ。ありがとぉ﹂
64
俺の心中なぞ知らない先生はにっこり笑ってそう言った。子供みた
いな先生だな
○
﹁はじめまして学園長、この度は私をう︱﹂
﹁はいそこまで。挨拶は結構よ。話はあなたのお爺様より聞いてま
す。彼とは昔馴染みでしてね。とにかく学園生活を楽しんでくださ
い。言われた通り手配は済ませてあるわ﹂
白髪をだんごにした気品ある、俺の前の大きな机に着き、シスター
のような服を着ている老婆こそ学園長だ
﹁あ、ありがとうございます﹂
手配って⋮編入のことだよな? 一々言うことか? ⋮⋮まぁいいか
しかしここに来るまで、廊下とかで他の生徒にあう度に注目された
んだが⋮何故だ?
完璧な変装だからバレてないはず⋮
歩き方も普段がに股で一歩一歩を大きく歩くのを気をつけたりした
んだが⋮
﹁皐月さん? 私の話を聞いてましたか?﹂
﹁え、はい! 勿論です﹂
やべ、聞いてなかった。まぁどうせ学園生活を送る基本事項とかだ
ろ。後で学生証見りゃ済む
﹁そうですか。では皐月さん、健闘を祈りますよ﹂
﹁? ありがとうございます﹂
﹁では柚子先生、彼女を案内連れて行ってください﹂
﹁はぁい﹂
○
﹁白雪はぁ、持ち上がりだからみぃんな仲良しなのー。だから皐月
65
さんも、すぐに仲良しになれるわよぉ﹂
別に仲良しになる気はない。気が緩んでバレたら困るし
﹁そうですかぁ。ありがとぉございます∼﹂
ヤベ、うつった
柚子先生は特に気づかなかったようで、俺に待つように言うと先に
教室に入っていった
教室はざわついていたが先生が何かを話すと静かになり、先生が﹁
どーぞ∼﹂と言うので意をけっしてドアを開けた
見渡す限り女だった。注目を浴びているという点では緊張はするが、
男がいないし好奇の視線だけなので気が楽だった
﹁はじめまして、滝口皐月です。田舎から出てきたばかりで右も左
もわかりませんが、よろしくお願いします。趣味は音楽鑑賞と料理
です。特技は縫い物と編物と刺繍です﹂
とりあえず爺ちゃんと母さんと相談して、できる中から女らしいも
のをとりあげておいたプロフィールだ。一応家事全般はできるので
手先の器用さとあいまって縫い物編物刺繍は我ながらなかなかの腕
前だと思う
つかマジ俺の手先の器用は神がかってるからな。トランプでタワー
だってつくれるぜ
ま、小学生から中学3年まで俺の師匠だった自称元軍人爺の特訓で
元から器用なのが今の状態に上がったんだけどな
拍手に迎えられて一礼をすると何やら一味違う視線に気付き、視線
の元を追った
﹁それじゃあ一番後ろに席は用意してあるからそこにどーぞぉ﹂
息が、止まった
﹁皐月さぁん? 席についてくださ∼い?﹂
﹁あ⋮はい﹂
ゆっくりと、笑みが崩れないように、平常心を装って、空いている
席に向かう。俺をじっと見つめる視線は、そらすこと何て考えるこ
とすらできない
66
どうしてそんな当たり前のことに気づかなかったのか。バカにもほ
どがある
﹁佐枝子さんはぁ、皐月さんの面倒を見てあげてね∼﹂
﹁はい。勿論です。よろしくお願いします、皐月さん﹂
隣の席の住人である高田佐枝子は、にっこり、笑っていた
﹁⋮はい。よろしく、お願いします﹂
だけど佐枝子の綺麗な瞳は、決して笑ってはいなかった
ブルルッ
曖昧な笑みを何とか返しながら席につくと、俺のポケットが小さく
振動した
メールだ
︽皐月さん?︾
差出人は、佐枝子
俺ははっとして隣を見た。佐枝子は俺と視線を合わせるとギュッと
眉を寄せて黙って下を見た。出席をとっている柚子先生に見つから
ないように机の影で、俺と同じように携帯電話をいじる
また、手の中で振動がした
︽休み時間に、ちょっとよろしいでしょうか︾
やられた! 半信半疑だったのに⋮俺が崎山皐月の携帯電話のまま
対応して、佐枝子を見たから、決定的な証拠を捧げてしまった
俺は、ゆっくり頷いた
お嬢様の大半はここに通う。そして佐枝子はお嬢様で、七海とだっ
て知り合いだったのに⋮何で俺は気づかなかったんだ
○
昼休み、俺は佐枝子と二人きりで屋上にきていた。他に屋上で昼食
をとってる生徒もいるが、広いので声は聞こえない
﹁その⋮佐枝子さん⋮﹂
﹁皐月さんは⋮あの、皐月さんですよね?﹂
67
あの、を強調し携帯電話を握りながら不安気な目が俺をとらえてい
た。今更とぼけようとした自分が恥ずかしくて、頭をかく
﹁⋮そうだよ。これで分かっただろ? 俺の秘密ってやつがさ﹂
﹁⋮⋮知りませんでした。皐月さんが⋮女装趣味だったなんて⋮で
も、それでも私は皐つ︱﹂
﹁ストップ! ごめん、言葉が足りなかったと言うか何もかもが足
りなかったな。俺は⋮正真正銘の女だよ。ただ色々あって男として
生きてきたんだ。戸籍は爺ちゃんのおかげで男だけど、体は女のま
まだよ﹂
﹁え⋮そん、な⋮﹂
﹁ごめんな。騙すつもりじゃなかったし、佐枝子の想いは本当に嬉
しかった。でも、男にもなれない、女でもいられない俺は誰とも付
き合っちゃ駄目なんだ。本当にごめん。傷つけたよな? 都合がよ
くて悪いけど⋮俺が爺ちゃんの孫だとか、黙ってて欲しいんだ﹂
﹁⋮⋮分かり、ました。誰にも、言いません﹂
﹁ありがとう﹂
﹁いえ⋮⋮私⋮私は⋮﹂
﹁俺を嫌っても憎んでも構わない。キスまでして本当に悪いと思っ
てる。気持悪いよな? ごめんな。⋮断れたのに⋮俺がしたいから
って、ごめん﹂
﹁⋮⋮あの、私、混乱⋮してて、ちょっと⋮考える時間をください﹂
感情の読めない、青ざめたような表情で佐枝子はそう言った
﹁ごめん。ありがとう﹂
嫌悪してくれて当たり前なのに、まだ俺と友人でいることを考えて
くれるのか?
本当に、お前ってサイコーだよ。俺が根っから男で、何のトラウマ
もなければ惚れてたねマジに
﹁⋮⋮マジ、ごめんな﹂
謝って許される問題じゃないけど、謝らずにはいられなかった
俺はうつ向いて返事もできない佐枝子を置いて、先に屋上からでた。
68
一人にしてやりたいなんて建前で、佐枝子から逃げたかった
○
69
淑女会というもの
昼飯は購買でパンを買い︵さすがお嬢様学園で購買は順番を待てば
普通に買えた。あと学食を食べるのも普通に並んでいて戦場のごと
き雰囲気は全くない︶適応に食べ、午後の授業が始まった
隣をそっと見ると佐枝子と目があった。が、佐枝子はさっと下を向
いた
⋮⋮はぁ。授業は何言ってっか全然わかんねーし、佐枝子にはバレ
ちまうし⋮⋮マジでこんなとこ来なきゃ良かった
何で母さんはここを選んだんだろう?
﹁⋮⋮はぁ﹂
﹁滝口さん、次のページを読んでください﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
﹁滝口さん?﹂
﹁⋮あ⋮はい。えっと⋮すみません、ぼーっとしてました。何ペー
ジからですか?﹂
﹁⋮⋮16ページです﹂
現代文なので何とか読めた。漢字なら得意だ。英語は日常会話なら
できるが、読み書きは極端な分野しかできないから教科書なんてち
んぷんかんぷんだ
う∼⋮しかし言語系は仕事上当然としても数学や化学や歴史なんか
は中学レベル⋮いや、ずっとサボってたし小学生かも⋮
今更ながら、この計画は無謀だろ。本当に、今更過ぎだが
○
﹁皐月さぁん、じゃあ案内するので支度してね∼﹂
﹁は⋮はぁ﹂
ホームルームが終わると柚子先生がいきなりそう言ったので俺はよ
70
く分からないが、とりあえず教科書を置勉をするわけにはいかない
ので鞄につめた
﹁あの⋮何処へ?﹂
先生の後をついて行くが行き先が分からない。しかも無意味にまた
注目されているし
何故だ? こんなに完璧な優等生スタイルは他にないだろう?
﹁そんなの決まってるじゃなぁい。部室よー﹂
﹁は?﹂
﹁だって﹃淑女会﹄に入るんでしょお?﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
しゅくじょかい⋮? 祝除海? ⋮わ、わからん
別棟にまで連れて行かれ最上階の重厚なドアを先生がノックしてる
間に上のプレートを見ると、﹃淑女会﹄と書いてあった
淑女⋮?
母さんの言葉を思い出してみる
﹃皐月ちゃんは立派な淑女になって、ついでに学園で可愛いお嫁さ
んを見つけてね﹄
﹃淑女になって﹄
⋮⋮これかぁ! つか何だよ淑女会って! 部活なのか!?
﹁皐月さん? ほぉら、中に入ってぇ﹂
﹁⋮はい﹂
絶対に入部なんかするか!
俺は気合いを入れてから室内に入った3人の生徒が並んでいた⋮⋮
真ん中の七海だし!
3人はにっこり笑っていた。2人は兎も角七海は猫かぶってるな。
会う度にそれを感じるからな
71
﹁ご足労いただきありがとうございます﹂
﹁みんなぁ、仲良くしてあげてねぇ。じゃああとは若い人どぅしっ
てことでー﹂
先生は一切説明もなく出ていった。それとも俺がぼーっとしてる間
に説明してたのか?
先生が出ていきドアが閉まると、3人はため息をついてから俺をじ
ろじろ見始めた
って全員が猫被りかよ! お嬢様ってみんなこうなのか!?
﹁なんで学園長はこんな子をうちにいれるのかしら﹂
七海がそう言うとリボンの色から1年と分かる小さいのが頷く
﹁ですよねぇ、何のために推薦制にしたんだか﹂
﹁ま、人数少ないのは事実だしさ。雑用にしよっか。名前は⋮皐月
だっけ﹂
そう言ったのは2年で⋮見た覚えがあるというか、同じクラスどこ
ろか俺の斜め後ろの席のやつじゃん
﹁そうねぇ。皐月⋮ね﹂
﹁じゃあ決まりぃ! 今日から皐月様はあたしの奴隷ね﹂
は? 奴隷!? てか様をつけて呼んで奴隷扱いするのがお嬢様な
のか!?
﹁待った。あたしだって雑用が欲しいよ﹂
おいおい。どうなってんだよ。止めろよ唯一の3年
﹁喧嘩しないの﹂
七海がさすが3年と言うかここのまとめ役みたいだ
﹁この子はこれから我らが淑女会の共有ペッ⋮ごほん。共有財産と
します﹂
ペット!? 今ペットっていいかけただろこいつ! しかも財産っ
て言い直しても物扱いかよ!
﹁ねー、黙ってないで何か言ったらぁ?﹂
﹁じゃあ⋮淑女会って何ですか? つか巫山戯てんですか? 誰が
奴隷だ。帰ります。さよなら﹂
72
やってられるか。なぁにが淑女だ。なりたくねーよ。七海には敬語
で喋ってたしこの話し方で問題ねぇだろ
﹁え⋮?﹂
﹁はいぃ?﹂
﹁な⋮﹂
3人は驚いた顔で俺を見る。何だよ。かったりぃなぁ
﹁なるほど⋮見た目のいっそ目を見張るほどのダサさに反して反骨
精神は満々なんだ。だから学園長、ここに寄越したのか﹂
目を見張るほどのダサさ⋮⋮! それで注目されてたのか!? し
まったぁ。完璧過ぎて最早こんなやついなかったか!
﹁ええ⋮これは、教育が必要なようね﹂
七海はめちゃめちゃ睨んでくる。うえ、やべぇ。大人しい優等生っ
て皮をかぶっときゃ良かった
﹁つか生意気だしー、淑女会も知らないなんて⋮バカ?﹂
1年のくせにお前のが生意気だろちびっこめ
﹁うるさいですよちびっこ。とにかくお騒がせしてすみませんでし
た﹂
﹁ちび⋮っ、ムキー!﹂
だいたいいざという時の猫被りなら俺だってできるっての。佐枝子
のこともあるし大変なのにやってられるか
﹁ちょっと待ちなさい。あなた、名前は?﹂
一礼してさっさと出ようとすると七海が俺の手を掴もうとしたので
とっさに俺から掴む
﹁人に名前を尋ねる時はご自分から名乗られたら如何です? 私は
あなたがたの名前を知りません。最も、興味もありませんが﹂
﹁なっ!? あなたねぇ!﹂
﹁うるさいです。こっちは忙しいんです﹂
﹁⋮⋮榊原七海よ﹂
てづか
さりな
七海は俺を睨み手を振り払いながらしぶしぶそう言った
﹁あたしは手塚 紗理奈だ。よろしくなー、さ・つ・き﹂
73
2年のそいつはフレンドリーな口調に反して俺を視線で射殺さんば
ひろみ
かりに睨む。うぅ⋮こいつら強気に出たら反発するタイプか
﹁ヒロは弘美だけど、よろしくしたくなぁい。七海様ぁ、こんなの
追い出しましょうよ。おばあちゃんも何考えてんだか⋮﹂
自分自身を﹃ヒロ﹄と呼ぶちびっこはため息をつく
﹁おばあちゃん?﹂
﹁そーだよ。ヒロは、ここの学園長の孫なんだよ! だから生意気
なあんたなんか退学にしちゃうんだから!﹂
あの上品な白鷺学園長の孫⋮? 可哀想に、遺伝子って時々残酷な
ことするよな
つか虎の威を普通に着るなガキ
﹁はいはい。で? 七海さんは何か用ですか?﹂
さえず
﹁ヒロが話してあげてるのに流すなー! ていうかさん付けなんて
失れ︱﹂
﹁ピーチクパーチク囀らないでください﹂
はっはっは、慇懃無礼とは俺のためにある言葉さ
﹁⋮⋮⋮皐月、あなたを淑女会に入部することを許可するわ﹂
﹁嫌で︱﹂
﹁拒否権はないわ。淑女会は部活だけど生徒会の代わりなの。あな
たは名誉ある淑女会の一員に選ばれたのよ?﹂
﹁淑女会って名前がちょっと⋮そ、それに! 部活で生徒会の意味
がわかりません! 私は転入してきたばかりなのにいきなり生徒会
なんて⋮。それに普通は全校に呼びかけて投票とか⋮﹂
名前を否定すると睨まれたので慌てて別の理由を言う。我ながら即
興にしてはちゃんと理由になっていると思う
﹁⋮わかりました。まずはあなたにこの学園での常識を教えてあげ
るわ﹂
﹁え、いらな︱﹂
﹁必要よね?﹂
にっこりと、笑顔なのに迫力はもの凄かった
74
﹁⋮⋮はい、よろしくお願いします﹂
自分の情けなさに脱帽だ
俺は強制的にソファに座らされ、3人は机を挟んだ向かいのソファ
に座る
ソファは家のお気に入り並に柔らかいのに居心地悪りぃ!
七海は腕組みして俺を睨んでるし、弘美は紅茶飲んで俺のこと無視
だし、紗理奈なんか机に頬杖までついてるし⋮⋮か、帰りたい⋮
○
2時間後、とっくに部活を終えて帰れと下校の鐘が頭上からなり響
いたのにまだ俺はここ、淑女会室にいた
サイドの二人は俺を睨むのに飽きて帰りたがってるが、主格の七海
が粘っているので退屈そうに菓子を食べている
気づけよ七海。お前以外解散したいんだよ
ちなみにこの2時間で俺はこの学園の歴史を知り伝統を知った
弘美が俺を様付けするのは同学年にはさん付け、年上に様付けがル
ールだからだそうだ
﹁そうじゃなきゃなんでヒロが皐月様なんて様付けしなきゃならな
いのよ﹂
とは弘美の弁だ。何て生意気なガキだ。それは3人ともだが⋮3人
ともへたに顔が整ってるから何となくそれほどムカつかないんだよな
美人は得だなおい。くそぉ⋮まぁ母さんほどじゃねぇけどな
肝心の淑女会についても聞きすぎるほど聞いた
昔、この学園が出来て間もない頃の話だ。まだ学生に自由なんかな
く、この学園にはとにかく学問に関係することしかない、まるで収
容所のような体をしていた
だがある日、数人の生徒が立ち上がったのだ
﹁学園とは本来、清き乙女を正しき淑女に導く場。闇雲に知識を詰
め込むだけでは、何の意味もありはしない﹂
75
後は言わなくても分かるだろ? 頭の堅い教師に反発した生徒たち
が自由を求め署名運動など地道にこなし、さらに勉学にも励んだこ
とにより自由と勉学の両立を示したのだ
最初は数少ない部活動の一つとして認識されていた生徒のための自
治組織だったので、世に生徒会というものが広がってからもこの学
園では変わらず﹃淑女会﹄という部活になっているが、内容は普通
に生徒会だ
これが淑女会の由来だ。ちなみに名前は当時のスローガンが﹃文武
両道の素晴らしき大和撫子である淑女を目指す﹄と言うたいへん古
臭い︵実際昔のことだ︶もので、頭の堅い教師に対抗すべくつけた
名前らしい
﹁す、素晴らしいですね七海様! 私目が覚めました!﹂
﹁本当!? 私も嬉しいわ﹂
﹁はい、それでお腹が減ったので帰ってもいいですか?﹂
﹁⋮⋮コラァ! 全然分かってないじゃない! あなたはこの2時
間私の話の何を聞いていたのかしら!!﹂
﹁かーえーりーたーいぃ!﹂
﹁子供じゃないんだからだだをこねないの!﹂
﹁⋮⋮帰ります﹂
﹁だからまだ話は⋮﹂
﹁もう淑女会でも何でも入りますよ。雑用だってします⋮⋮だから、
今日は帰してください。一度に全部言われても、覚えられませんよ﹂
疲れたんだ。何もかもがありすぎて。もう、帰りたいんだ。母さん
と爺ちゃんの元へ
俺が心底疲れた表情だからか七海はため息をついた
﹁⋮分かったわ。一日で全部をするのは無理よね。寮に帰りましょ
うか。明日からちゃんと淑女会にくるのよ? 大丈夫。私がちゃん
とあなたを立派な淑女にしてみせるわ﹂
ああ⋮帰れないんだ
泣きたかった
76
七海は怒鳴ってすっきりして、二人はあんまりに怒られて憔悴する
俺を哀れんだのか、話を聞いてるだけで疲れたのか、とにかく3人
とも俺を非難してた様子はなく普通に並んで、無言で寮まで歩いた
気が重くて仕方なかった。明日は多分また淑女会に行くはめになる
だろうし、唯一素でいられる佐枝子とはヤバい状態だ
何より母さんに会えない。あと爺ちゃんとも
⋮⋮⋮憂鬱だ。真面目に泣きたくなってきた
俺は隣の3人に気付かれないように鼻をすすった
○
77
初日からホームシック
﹁はい、これを読んでちゃんと淑女がなんたるかを知るのよ?﹂
﹁⋮ありがとうございます、七海様﹂
寮の玄関で別れ際ににっこり渡された2センチほどの分厚さの本に
は﹃淑女とは﹄と書いてあった
歴代の淑女会会長の直筆でしたためられた、淑女についてのレポー
トのような持論のようなものがつらつら書いてあるらしい
誰が読むかと思ったが、あれだけ説教されたし猫被りもひどいし淑
女を押し付けられて、俺にすれば迷惑やつだが、それでも親切心か
ら言ってるのは分かるから、何とか笑い返した
生徒手帳で確認して自分の部屋に向かう。そういえば七海の話では
部屋の位置にも優劣があるらしい。向かって右の最上階から左の一
階までにお家柄順で入るらしい
へきえき
胸糞悪い話だ。というか我ながら結構覚えてるもんだな
自分の部屋に入るとまず内装に辟易した。母さんの乙女趣味と爺ち
ゃんの理想の孫娘の趣味が合わさり、ピンクやフリルや人形など、
いちいち女の子向けの部屋だった
﹁⋮⋮はぁ﹂
少女趣味は趣味じゃないけど少しでも二人の存在を感じられるのは
嬉しかった。でも、なければ良かった。そっけない部屋なら、こん
なに、二人を思い出して泣きたくなんかならない
﹁っ⋮は、腹減ったなぁ﹂
一瞬視界が滲んで、慌てて俺は自分を誤魔化す。母さんから夜10
時以降にしか電話をしてはいけないと言われてるから、まだ電話は
できない。メールは送るが10時まで返事はない
厳しいなぁ。でも⋮頑張らないと。母さんも何をかは知らないけど
頑張ってるそうだ。母さんは嘘は言わない人だ。ただ、誤魔化した
り本当のことを言わないことは多々あるけど
78
自覚すると本当にお腹が空いた。とてつもなく空いた。よくよく考
えたら緊張していて朝も昼も軽くしか食べてない
食堂の時間を確認するととっくに開いているのでさっさと向かう。
ちなみに無料だ。﹃無料﹄は大好きだから嬉しい
﹁大盛りでお願いします﹂
カウンターで料理を受け取る時に品のよさそうな配膳のおばちゃん
にそう頼むと、にっこり笑って大盛りにしてくれた
﹁ありがとうございます﹂
トレーを持って空いてる席に座る。とても疲れたしお腹は減ってい
た。俺は手を合わせようとしてはっとした
キリスト教系で朝の聖堂でのお祈りとか色々あるってたな。ちょっ
と回りを見回すと﹃いただきます﹄とは誰も言っていない。別の何
かを言ってから十字架をきっている
だがそんな文句なんか知らないし、何より今日のメニューはなんと
海老フライ! これは神が可哀想な俺へのご褒美に違いない。3人
で料理したことを思い出しちょっとセンチメンタルな気分になりな
がら俺は箸を持った
食べようとすると何やらキャーキャー騒がしく、仕方ないので顔を
あげると悪魔な3人組が登場していた
﹁ああ⋮相変わらずお美しい﹂
﹁あの気品ある立ち振る舞い、見習わなくては﹂
頬をそめて感嘆のため息ながらにそういうあんたらこそ可憐だよ
つか猫被りども! みんな騙されてるんだ!
目があうとこっちに来た。罠か! うう⋮。キラキラ光ってるのか
と思いたくなるくらいに綺麗な笑みを浮かべる悪魔たち
﹁皐月さん、さっきはお疲れさまです﹂
ボーイッシュな紗理奈が猫を被ってお嬢様言葉なのは、すでに中身
を知った今は似合わなく感じる
﹁私たちが相席してもよろしいかしら﹂
﹁七海様に⋮紗理奈さん⋮ヒロも⋮っぃ!﹂
79
自分で言ってるので呼んで欲しいのかと思いヒロ、と言った途端に
ぎゅっと足を踏まれた
﹁あ、すみません皐月様。足が滑ってしまって⋮⋮⋮馴れ馴れしく
呼ばないでよね、皐月様ぁ?﹂
にっこり笑顔で、最期は俺にだけ聞こえるように言われた
恐っ! マジで⋮恐い
﹁いえ、お気になさらずに。弘美さん⋮。みなさんも、どうぞお座
りください﹂
寮内はスリッパなので靴ほど威力はないが、完全に隙をつかれたの
で結構真面目に痛い
⋮帰りたい。母さん、爺ちゃん⋮ううぅ
海老フライに二人を重ねて己を慰めてみる。6人がけの机なのに隣
に紗理奈と七海、向かいは弘美でと完全に囲まれた。端に座れば良
かったと後悔したが、時は戻らない
﹁あら、あの方はどなたかしら。淑女会の皆さまと面識があるよう
ですけど﹂
お、俺のことは気にしないでくれ∼
﹁確か転入生ですが⋮﹂
﹁皐月さんは今日から淑女会の一員なんです。私とも同じクラスで
す。皆さん、よくして差し上げてください﹂
﹁まぁ!﹂
﹁淑女会の!﹂
うおっ、何だこの反応は⋮!? 一気にざわめく食堂
﹁学園長の推薦がなければはいれないのに⋮何処の高貴な出なのか
しら﹂
生まれと育ちは庶民だ。つか淑女会ってんな凄い風に思われてんの
かよ!
﹁皐月、あなたお祈りがまだよね﹂
﹁⋮はい﹂
﹁なのに食べようとしたわね﹂
80
﹁⋮⋮はい﹂
﹁あなたそれでも淑女になりたいと言えるのかしら?﹂
猫被りで中身はこんな姑みたいなやつが会長なのに⋮
﹁⋮⋮⋮すみません﹂
なりたくないんです。けど謝ってしまう。強い女性に弱いのは俺の
弱点だ
﹁会長、お腹も空きましたし食べましょうよ。冷ましてしまうと作
り手に失礼じゃありません?﹂
相変わらず猫を被りながら言う紗理奈に、同じく猫を被って微笑ん
でる弘美が賛同し、俺を責めながらも常に笑顔で声が聞こえなけれ
ば完璧なお嬢様を演じていた七海も⋮⋮とにかく全員猫をかぶって
いる
﹁紗理奈⋮そうだったわね。ごめんなさいね﹂
﹁天におられる我らの主よ
ここにある食物を私たちの心と体の糧とすることをお許しください
私たちの主の御名によって
アーメン﹂
声を揃えていう3人が右手で十字架をきる。その動作は洗練されて
いて、猫被りだと分かってても一瞬みとれた
くそぅ⋮こいつらが下手に可愛いから悪いんだ。ムカつくなぁ
とりあえず、食べ始める
﹁う⋮﹂
美味い⋮寮食だと侮っていたぜ。三ツ星だ
﹁? 皐月様どうかいたしましたか?﹂
﹁いえ、美味しいですね﹂
好きな食べ物は最後に残すタイプなので海老フライを残しつつ料理
をかきこむ
﹁あら? 皐月様海老フライ残してますか?﹂
﹁え、それは私が海老フ︱﹂
﹁私が食べて差し上げますわ﹂
81
﹁え﹂
食われた⋮ちびっこに。まだ食事は半分も終わってないのに嫌って
残してるとは普通思わない
要するに、嫌がらせ
キレた。相手は女だ。小さいし可愛い。だからどうした?
世の中には許されることと許されないことがある
知らないとかなんて関係ない。俺の思い出を土足で踏みにじったお
前は⋮死刑だ
﹁弘⋮っ﹂
しかし手を怒りで握った瞬間、視界が歪んでポツリと目から液体が
落ちた。不覚だった
寂しい、悲しい、悔しい。色々な感情が混じって、何がなんだが分
からない
分厚い眼鏡と長い前髪で目は隠してるから、素早く机に落ちた一滴
を袖で拭う
﹁っ⋮気分が悪いので、失礼します﹂
俺は席をたった。誰かが俺を呼んだけど、知らない
知らない。知りたくない
帰りたい。帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰
りたい帰りたい
ここにきて1日もたたない癖に、俺は帰りたくて仕方ない。今まで
にだって修学旅行とかで数日離れたりした
だけど今回は違う。週末に帰ったって多分母さんは家にいない。母
さんは俺を甘やかさない
いつ会えるか分からない不安。誰にも心開けない寂しさ。先の見え
ない焦燥
俺は、部屋に戻って鍵をかけようとしたが、ドアには何もなかった。
そして思い出す
﹃淑女たるものいついかなる時も人に見られてもいい状態を保つた
めに、寮の個室に鍵はない﹄
82
ここでは、一人にもなれないのか。自由は⋮ない
ドアにもたれて座り込み、ファンシーな内装を見ながら、ただ静か
に泣いた
○
83
涙のあとは笑顔を
何度かノックの音が聞こえたが無視をした。ドアにもたれる背中に
圧力を感じたが無視をしてむしろ開かないように足に力をいれた
どれだけたったか、ポケットから携帯電話を出すと思ったよりずっ
と時間がたっていた
うわぁ⋮泣きすぎだ
立ち上がりクローゼットの横にある全身鏡で前髪をあげて見た顔は
酷かった。眼鏡越しにも赤いのが分かる。眼鏡をベッドに投げ捨てる
そばかすは半端に消えて奇妙だったし目は可哀想なほどに赤く腫れ
ていた
明日までに治るかなぁ? 氷があれば⋮⋮明日、サボろうかな
﹁はぁ⋮お腹空いたなぁ﹂
食堂はとっくに終わっている。明日まで我慢するしかない。とりあ
えず入浴にしよう。時間帯も終わりに近いから生徒はたぶんいない
に近いだろう。少なくとも、悪魔3人組や佐枝子と言った知人はい
ないだろう
俺はクローゼットからパジャマ代わりのスウェットと下着を引っ張
りだす
ちなみに胸は無いに等しいのでブラジャーなるものはつけていない。
男装時は念のためサラシを巻いていたが、どうもあの衣は落ち着か
ない
さらに言えばスカートも落ち着かない。﹃あたし﹄のころから活動
的だったのでズボンしかはかなかったし。だが慣れは恐ろしい。家
で2週間常にスカートだと慣れた。スパッツもはいているしもはや
俺に恐れるものはない︵男物のパンツは見られても恥ずかしくない
が女物は何故か恥ずかしい︶
ドアを開け
ガチャ⋮⋮カチャン
84
閉めた
理由は何故かちびっこ悪魔がいたからだ
﹁ちょっ、皐月様!?﹂
﹁た、ただいま皐月は留守にしております。ご用のあ︱﹂
﹁いいから開けてよぉ。開けてくれるまでここを離れないわよ﹂
カツラは大丈夫だがそばかすは半分なくて眼鏡はベッド
﹁⋮⋮ちょっと待ってください。10秒でいいんで﹂
﹁分かったわよ。10、9⋮﹂
急いで鞄に突っ込んだポーチからそばかすをかくペンを取り出して
テキトーに消えた部分を足して、ベッドに飛び込み眼鏡をかけて頭
から布団を被った
﹁1、0。皐月様入りますよ﹂
音でちびっこの侵入を知る
何しにきたんだよ
﹁あの⋮ヒロは⋮って何で布団かぶってるのよ!﹂
﹁何の用ですか? 私を笑いにきたんですか?﹂
ぐぅ。俺のお腹がなった
﹁⋮⋮どうぞ笑ってください﹂
﹁⋮別に、ヒロのせいじゃないからね! そりゃ海老フライは盗っ
たけど、でも皐月様がそんなことで泣いて引きこもるからそうなっ
たんだからね!﹂
ぐぅう。今度は俺じゃない。鼻から上だけを布団から出してみる
弘美も晩飯食ってないのか? もしかして⋮ずっと、ずっとそこに
いてくれたのか?
﹁⋮ヒロとは、顔も合わせたくないわけ?﹂
お腹などならなかったかのように涙声で言われた。こっちの視界も
あまり明瞭ではないが、頬を光がつたうのが見える。素直じゃないな
﹁⋮違いますよ。ただ泣きすぎて目が赤いので恥ずかしいだけです。
ごめんなさい﹂
起き上がると弘美は慌てて涙を拭い、強気な態度をみせる
85
﹁な、何がよ﹂
﹁夕食時は失礼しました。ささいな悪戯にあんな態度では弘美さん
に対するにしては、大人気なかったですね﹂
﹁ってヒロに対するにはってどういう意味よ!﹂
﹁そのままですが?﹂
﹁ムキー!﹂
﹁あはは。まぁ私のことは気にしないでください。少しホームシッ
クでして﹂
﹁は? 皐月様今日来たばっかでしょ?﹂
﹁恥ずかしながら母と離れたことがないので。あと海老フライは⋮
特別思い出があるんです﹂
﹁⋮ふぅん﹂
﹁ですから弘美さんが罪悪感を感じる必要はありませんよ﹂
﹁か、感じてない! ただ⋮紗理奈様と七海様がどーしてもって言
うから⋮だか︱﹂
ぐぅ。また俺のお腹がなった
﹁⋮はぁ。お腹減りました﹂
﹁⋮⋮﹂
弘美は無言で手近な机の上の本︵全て母さんたちが用意した︶を投
げてきて、慌てて右手でキャッチする
﹁危っ! ちょっ、物を投げないでください。しかも人の物を﹂
﹁うるさーい!﹂
弘美はずんずん近づいてくるとベッドにあがりこみ、俺の顔に無造
作に手を伸ばしてくるので掴む
﹁な、何ですか?﹂
﹁いいから眼鏡とって﹂
﹁はぁ⋮いいですけど﹂
弘美の手を離して眼鏡のフレームを慎重に持つ。と、弘美が俺の額
に手を当てすっと上下させて前髪をあげた
﹁え﹂
86
海老フライの時といい、今日の俺は不覚だ!
触られることに不快感はないがただ相手から触られると、俺の全て
が丸裸にされて視姦されてるような気がして、強烈に羞恥心が刺激
されて俺は顔が上気するのを感じた
﹁え⋮な、何でそんなに真っ赤なのよ!﹂
﹁は、離してください!﹂
﹁⋮⋮ははぁん⋮﹂
ぐわ。悪魔の笑みキタァ!
﹁あんた偉そうな態度なわりにぃ⋮純情なんだ?﹂
ぐ⋮こんなガキに舐められてたまるか!
俺は眼鏡を枕の横に置いてから弘美の両手を握り、一回転して弘美
をベッドに仰向けに伏させた
﹁⋮え?﹂
﹁おちびさん、大人をからかうにはまだ人生経験が足りないんじゃ
ないですか?﹂
口角をつりあげてにぃっと笑いながら鼻がくっつくほどに接近する
と、さすがに弘美も少しばかり頬を染める
﹁な⋮あんた⋮なんで急にそんな強気なのよ⋮﹂
﹁ふふ⋮可愛いあなたを食べられるかと思うとワクワクします﹂
﹁食べ⋮っ!? あんたそれでも由緒正しき白雪に通う乙女なわけ
!?﹂
﹁残念ながら乙女の証はとっくにありません﹂
﹁なーっ!﹂
﹁ふふ。まぁ冗談ですよ、半分はね。とりあえず⋮何か食べるもの
ありませんか?﹂
俺がにっこり笑いながら起き上がりベッドから足を下ろすと、弘美
も起き上がり深いため息をつく
﹁あんたって⋮わけわかんない。ダッサい格好で現れたら生意気だ
し無知だし、そのくせ泣き出すし、赤面したり、大胆だったり⋮⋮
ちょっと、顔は良かったり﹂
87
うつ向きながら言われ全体的に聞き取り難いが、悪口なのは分かるぞ
﹁え? すみません、最後がよく聞き取れなかったんですけど、ち
ょっと何ですか?﹂
ちょっと面白いとか?
﹁何でもない!﹂
んだよ。そういう言い方されると逆に気になるだろ
﹁食べものでしょ。分かったわよ。ちょっともってくるから待って
なさい﹂
﹁私も行︱﹂
﹁皐月様、いくら人が少ない時間だからってその目で恥ずかしくな
いの?﹂
改めて言われると恥ずかしかった。また熱くなってきた顔をうつ向
き気味に隠す
﹁⋮お願いします﹂
﹁ん、あと時間ヤバいからヒロお風呂よってから来るよ。皐月様は
? 一緒に入る?﹂
﹁あー、まぁ室内にもあるんで今日はそっちで﹂
つか共同浴場なんて入ったことないし。他人ならともかく、ほんの
少しでも知ってる人がいると分かってて行きたくない
デカイらしいからちょっと行きたかったんだけどな⋮トホホ
○
﹁皐月様⋮食事の時も思ったけど下品﹂
弘美が持ってきたのはお菓子だった。ベッドであぐらをかいて某ス
ティック型菓子を3本まとめて口に突っ込んでいると呆れて言われた
﹁お⋮私だってやろうと思えば上品に出来ます﹂
危ねー。俺って言いそうになった。つか食事や基本的な立ち振る舞
いなら社交会に出る前に特訓したからできるぜ
膝から下をベッドから下ろして背筋をピンと伸ばし一本をゆっくり
88
食べる
﹁っん⋮どうですか?﹂
飲み込んでから聞く
弘美がいない間に個室の風呂に入ったがそれでも目は赤かった。し
かし弘美が菓子と俺のために氷も持ってきてくれて、さっき冷やし
たのでだいぶんマシになった。明日には残らないだろう
弘美が帰る前にそばかすをかいてカツラを被ったが、眼鏡は面倒だ
し外しておいた。しかし前髪邪魔だな⋮
﹁最悪ぅー﹂
﹁え!? 何処が駄目なんですか?﹂
﹁とりあえず全て﹂
テキトーなことを⋮
﹁まぁさっきよりはマシだけどさぁ。でも丁寧ってだけで淑女にな
れると思ったらおー間違いよ﹂
﹁いや、なりたくないですし﹂
﹁いいけど、困るのは皐月様だよ? 猫被りもできるみたいだけど
⋮なぁんか皐月様って女らしくないのよね﹂
ギクッ!
﹁あはは、田舎者ですみません。私、今まで跡継ぎとだけ育てられ
てたんで﹂
﹁! なに? あんたの実家って、あんた程度で継げるの?﹂
あなたとは今日会ったばかりですが? 俺程度って⋮俺の何を知っ
てるんだお前は
まあ⋮泣いたし仕方ないか。一応設定は細かく決めてある
﹁た⋮﹃滝口流総合日常格闘技﹄デス⋮﹂
俺に教えた爺さんが﹃日常格闘技﹄みたいなことを言ってたと爺ち
ゃんに言うとこういう設定にされた。オッケーしたものの、ちょっ
と恥ずかしい
﹁総合日常格闘技? へぇ、皐月様って強いんだ?﹂
﹁ま、まぁ一応免許開伝です。あ、でも誰にも言わないでください
89
ね﹂
﹁? 何でよ?﹂
真実の方がややこしいし誤魔化すための設定とは言え、目立ちたく
ないのに免許開伝はやりすぎだろ。いや真実ですけど
﹁その⋮変に目立つのは嫌いなんです。弘美さんには勢いで言っち
ゃいましたけど⋮秘密にしてもらえます?﹂
﹁自意識過剰すぎ。お嬢様らしくないしダサさで目立つし無駄だけ
ど⋮分かった、黙っておいてあげる﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁その代わりぃ﹂
悪魔の笑みを浮かべる弘美に、氷や菓子ですっかり緩んだ俺の警戒
心が再び反応する
﹁⋮なんでしょう﹂
﹁皐月様はヒロの下僕ね!﹂
﹁⋮⋮か﹂
﹁?﹂
﹁帰りたい⋮﹂
忘れちゃってたけど、こいつ悪魔だったもんな
﹁え∼? またホームシック? さっきまで普通だったのに﹂
﹁さっきは弘美さんがいたから忘れてたんです﹂
一人で騒がしいし振り回されて、しんみりしてる暇はなかった。だ
が風呂に入って腹が膨れると、どうも母さんが恋しくなってきた
﹁⋮しょ、しょうがないなぁ﹂
﹁え?﹂
顔をあげると照れたように頬をかく弘美がいた。何がだ?
﹁今日は特別にヒロが一緒に寝てあげる。奴隷の面倒みるのはご主
人様の役目だもんね﹂
下僕からランクアップしてるし。つか俺はイエスなんて言ってねぇぞ
﹁じゃ、お腹も膨れたし寝よっか﹂
機嫌良さげにそう言う弘美だが、俺は了承してねぇ! ⋮⋮と、言
90
いたいがまぁ良いだろう
昔の偉い人は言いました。一人より、二人
﹁はい、ありが⋮⋮﹂
﹁? どうかした?﹂
﹁ああああ! 11時ぃ!?﹂
﹁うるさい﹂
﹁すみません。じゃなくてもう12時じゃないですか!﹂
﹁そだけど⋮寝る時間でしょ﹂
か⋮母さんに電話出来なかった⋮︵とても綺麗なあの人は美容のた
め12時には寝て5時までは絶対に起きない︶
﹁う∼⋮母さんに電話しようと思ってたのに⋮弘美さんが邪魔する
から⋮﹂
﹁知らないわよ。なに? さっきも思ったけどマザコン?﹂
﹁そうですよ。私は母さんを世界一愛してます﹂
﹁⋮開き直りやがったよ﹂
﹁うわ、口悪っ﹂
﹁あんたに言われたくない。ほら、寝るよ﹂
﹁⋮弘美さん、これから、よろしくお願いしますね﹂
俺は、悪魔のようで優しいところもある少女に、にっこりと嘘じゃ
ない笑顔を向けた
﹁⋮⋮ま、せいぜい頑張って尽くしてね皐月様﹂
にっと笑った弘美は、可愛いけれどやはり悪魔な笑顔だと思った
とりあえず、母さんにはメールだけ送った。まだ、母さんの声がな
くても、あと少しだけ、頑張れる気がした
ちなみに相手から触られないように先に弘美を抱き枕がわりに抱き
しめて寝た
母さんとも普段そうして寝てるので︵爺ちゃんの家で各自部屋が貰
えてからも寝る時は母さんの部屋に行ってた︶母さんほどではない
けど、俺は心地よい女特有の人肌に安堵して、ホームシックが嘘の
ように落ち着いて寝た
91
○
92
大好きだ。友達として
働いてた習慣で俺はいつも4時半起きで、睡眠不足は授業でまかな
う予定だ。とりあえず暇なのでトレーニングにあてた。これからも
朝はトレーニングにあてよう。昨日サボった分もちょっとなまって
るし。やっぱりこういうのは毎日やらねぇとな
﹁おはようございます、弘美さん、起きてください﹂
すっかり腫れもひき身支度を整えた俺は7時現在も惰眠をむさぼっ
ている弘美を起こしにかかる
﹁⋮⋮んぅ⋮皐月様ぁ⋮?﹂
﹁はい、皐月ですよ﹂
﹁この犬が⋮ヒロに触られないでよ変態﹂
さっさと起きろこのバカ! てめぇ、弘美のくせに生意気なんだよ!
⋮そう言えたらどんなに楽か。いっそ猫被るのやめようかな。でも
なぁ⋮母さんと頑張るって約束したし⋮
口の悪いガキにいちいち怒ってられねぇし、我慢だ俺
﹁わかりました。じゃあ私は先に行きますから﹂
﹁ん∼﹂
あー、腹減ったなぁ。朝飯は何かな
○
俺が飯を食ってるとまた騒がしくなった。目があわないようにうつ
向いていたが無駄だったようで悪魔2匹がやってきた
﹁おはよう皐月、昨日はよく眠れて?﹂
﹁親元を離れたばかりでは心細いでしょう? 私も会長も心配して
いましたの﹂
﹁おはよーございます。お気遣いありがとうございます。はい、実
は少しばかり不安だったのですが弘美さんがいらしたので楽しく凄
93
させていただきました﹂
﹁へぇ⋮ヒロがねぇ。あの気まぐれな猫をよく懐かせたね﹂
﹁⋮⋮皆さん見てますよ﹂
つーかお前らの差し金なのは分かってるから
﹁聞こえやしないさ﹂
﹁紗理奈、フォークの角度が悪いわ﹂
﹁はいはい﹂
姑みたいなやつだな
﹁皐月﹂
﹁?﹂
﹁今あなた何か不愉快なことを考えなかった?﹂
お前はテレパシストか!
﹁まさか⋮そんなことありえませんよ、七海様﹂
﹁そう。ところであなたテーブルマナーが最高に悪いわ。今日の放
課後の淑女会ではあなたのテーブルマナー講座をするから。分かっ
てると思うけど体調不良も急に泣き出してホームシックも認めない
わよ﹂
﹁⋮⋮いたのか?﹂
﹁淑女会は3人で運命共同体だもの。あと口を慎みなさい。なあに
? その素行の悪い男の方のような言い方は?﹂
つい素で言っちまった
﹁す、すみません⋮⋮って盗み聞きは淑女がすることですか?﹂
﹁たしなみよ﹂
嘘つけこのクソ女! ふざけやがって⋮
七海から紗理奈に目をやるとあはは、と空笑いされた
﹁ごめんごめん、でもあんなことがあったし。気になるのは当然で
しょ?﹂
﹁まあ⋮いいですけど﹂
気持ちは分かるし一応俺を気遣ってくれたのだろう。だが何が気に
食わないって七海の態度だ
94
紗理奈のように軽くで良いから謝罪しようとは思わないのか。全く
⋮昨日の弘美と言い、﹃ごめん﹄が言えないとは重症だな
俺がじ∼っと見てるとさすがに居心地悪くなったのか七海は視線を
さまよわせてから、コホンとわざとらしく咳払いをする
﹁べ、別にそんなに長くではないわ。会ったばかりで礼儀のなって
いないがさつな田舎育ちの芋娘なあなたでも、一応今のところはギ
リギリ補欠とは言え淑女会に席をおいているのだから心配で、ほん
の少し様子を伺っていたのよ﹂
うわ⋮何でそこまで言われてんだよ。まぁ初対面でペット扱いだし、
俺の態度も悪かったし、仲間とか思われてるとは最初から思ってね
ぇけどさ
﹁海老フライに思い出があるってあたりで部屋に戻ったし、そう目
くじらたてないでよ。別に皐月の過去にも興味ないし﹂
うん、喧嘩売ってるか? まああっさりしてるとこは好感持てるし、
そう怒ってないし良いけどな
﹁皆さんおはようございます﹂
⋮⋮あれ? 普通に普通な愛らしい声色の挨拶。だけど⋮妙に俺の
背筋をなでつけるようで、ばっと振り向くと弘美がいた
﹁おはようヒロ、今日はいつもより少し遅いわね﹂
﹁どうかしたの?﹂
﹁別にぃ。犬が何の役にもたたないからって⋮怒っちゃ駄目ですよ
ねぇ﹂
何故か、何故かとても怒っていらっしゃる弘美様は俺の隣に座り、
ぎゅ∼と足を踏む
﹁!! ⋮っ⋮あのぉ、私何かしました? ぃたっ﹂
痛い痛い痛い。めちゃめちゃ痛い。なんなんだこのクソガキ
﹁なぁんで起こさないのよ﹂
回りの生徒に見えないようにずずいと顔を近づけてくる弘美は般若
も真っ青な表情だ
﹁お、起こしたけど、弘美さんが触るなって⋮﹂
95
﹁逆らうわけ? 下僕になったくせにぃ?﹂
了承した覚えは1ミリもないぞ。つかなんだそのヤクザ顔負けの睨
みは
﹁あ∼⋮ごめんなさい?﹂
﹁なんで疑問系なのよ﹂
﹁だって弘美さんが起きな︱﹂
﹁だって禁止﹂
﹁でも︱﹂
﹁でもも禁止﹂
﹁しかし﹂
﹁禁止﹂
﹁だが﹂
﹁禁止﹂
﹁にもかかわらず﹂
﹁禁止。ってか意味わかんないししつこい﹂
禁止禁止ってお前のがうるさいし、だいたい無茶言ってるのはお前
だ!
﹁何よその目は﹂
﹁⋮⋮別に、理不尽なクソガキだなぁとか思ってませんし。あー昨
日はまだ可愛かったのになぁとかも思ってませんよ﹂
﹁は⋮!?﹂
﹁ごちそう様。では皆さん、お先に失礼しま∼す﹂
また文句言われないうちにさっさと引き上げた。当然食事はすでに
腹の中だ
○
﹁おはようございます、皐月さん﹂
教室にはいると佐枝子と目があいびくついたが、にっこり笑って挨
拶をしてくれた
96
﹁ささ佐枝子、さん⋮おようございます﹂
﹁昨日はよく眠れましたか?﹂
まるで何事もなかったかのような態度に、いぶかしみながらも席に
つく
﹁は、はい。お陰様で﹂
﹁ふふ⋮皐月さん、淑女会にお入りになられたそうですね﹂
﹁あ、はい﹂
﹁羨ましいですわ﹂
﹁あはは、じゃあ変わりますか?﹂
ああ! もしかして俺を改めて友人にしてくれるつもりなのか!?
お前って最高だぜ!
﹁いいえ、私淑女会にはあまり関心はありませんの﹂
﹁え? では何が羨ましいんですか?﹂
﹁勿論、皐月さんと堂々と一緒にいれるお三方ですよ﹂
佐枝子は何でもないように言いながら悪戯っぽく俺にウインクをした
﹁え⋮﹂
その綺麗な綺麗なウインクに、俺は見惚れた。そして一瞬、言われ
た意味がわからなかった
﹁今日、お昼ご一緒しませんこと? それとももう誰かとお約束で
も?﹂
﹁ま、まさか。それに佐枝子さんのお誘いなら、他の人に誘われた
としてもお断りしますよ﹂
﹁まあ、嬉しいですわ﹂
にっこり、佐枝子は花のように笑う。悪魔3組のような派手な、人
を無理矢理にも惹き付けるような美しさはない
だけど、彼女は誰が見たって確かに美しい部類で、その強い目に見
つめられて、佐枝子の美しい、美しすぎてまぶしいようなその意思
97
ある瞳に、俺は鳥肌がたった
﹁⋮⋮﹂
いますぐにだって、聞きたい
俺のこと、好きなの? こんな俺のことを、まだ好きでいてくれて
るのか?
どくん、どくんと嫌にゆったりと自分の心音が聞こえた
お前は綺麗だよ。見た目より何より、その心が
○
途中紗理奈に淑女会は昼休みも部室でとることが多いと誘われたが、
勿論先約があると断った
目に見えて怒っていたが回りに人がいたので何事もなかった
危ない危ない⋮あいつは絶対に口と同時に手もでるやつだ
ちなみにでは放課後に、と言われた後にすれ違いざまに﹁調子に乗
ってられるのも今のうちだよ﹂と小声で言われた
恐⋮つか行きたくねー
﹁では行きましょうか﹂
﹁はい﹂
購買でパンを買って、また屋上かと思ったら中庭の奥のベンチに来
た。中庭と言ってもかなり広く、サッカーができそうだ
勿論お嬢様にそんなことをするやつはいないが。そういや部活は何
があんのかな
働かないから時間あるし⋮やろうかな
﹁私⋮考えたんです﹂
並んで食事を︵二人とも購買で買った︶食べながら何となく無言で
いたが、佐枝子が話しだした
﹁⋮うん﹂
﹁あの⋮やっぱり、やっぱり⋮私、皐月さんが好きです﹂
﹁⋮⋮うん﹂
98
ああ、どうしよう。マジで嬉しい。赤い顔の佐枝子は可愛いし、思
わず、付き合ってくださいって言いそうだ
俺はにやけそうな顔をうつむかせながら何を言えばいいか分からず
に曖昧に頷く
﹁女の子同士なのは分かってます⋮気持悪い、ですか?﹂
不安そうな顔をみせる佐枝子に俺は思わず立ち上がる
﹁そ、そんなことない!﹂
声の大きさに我ながら驚いて座る。幸い広くて距離がいちいちあい
てるのでさっきの声も人には聞こえなかったようだ
﹁⋮⋮その、凄く嬉しい。俺は⋮まだ恋とかわかんねぇけど佐枝子
のことは好きだし⋮⋮好かれるのは、純粋に嬉しい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも⋮好きって言ってくれて嬉しいし、本当に佐枝子のことは好
きだけど⋮⋮けど俺の答えは、変わらない﹂
勢いで付き合ったって、そんなの失礼なだけだ
﹁それでいいんです。私と⋮友達になってくれますか?﹂
﹁勿論!﹂
大好きだ佐枝子。これが恋なら良かったのに
でもまだ俺にはやっぱり母さんが一番で、これは恋じゃないんだ
﹁ありがとうございます⋮皐月さん、大好きです﹂
﹁﹃私﹄もです﹂
だけど間違いなく、崎山皐月も滝口皐月も、あなたのことが大好き
ですよ
○
99
愛してます。本気で
私を可愛いと言ってくれた
ただそれだけなのにずっと好きだった
私を綺麗と言ってくれた
それだけで死んでしまいそうなほど幸せだった
優しく優しく、キスをしてくれて、体中が熱くて全てがとろけそう
だった
好きで好きでたまらなくて
それだけに、いきなり殴られたような、いいえもっと酷い、崖から
落とされたようなショックを受けた
皐月さんが⋮女だった
裏切られたと思った
勝手な話だ。こっちが勝手に好きになったのに、勝手に落ち込んで
⋮たぶん、いや誤魔化すのはやめよう。私は彼⋮違う、彼女を、傷
つけた
夕食の時に、彼女を見つけた
淑女会の方々に囲まれていた
羨ましい
とっさにそう思った。だけど何を? と考えて、はっきり分かった。
私は、皐月さんが好きで、簡単に諦められないんだ
だけど淑女会の方々がいるのに私がそこに行くなんてできなかった。
私は駄目な人数だ
私は、昔からそうだ。自分の気持ちをはっきり言うのが苦手だ
嫌われるかも知れない
疎まれたらどうしよう
そんなことを考えると、身がすくんでしまうし、すぐに他の人の意
100
見に合わせてしまう
私には、見ることしか出来なかった
元々こんな弱い私が気持ちを伝えたことが奇跡なのだ。ましてあの
夜のことは夢だと思えばいい
確かに私は、皐月さんが女だと分かっても好きだ
キスがしたい。それ以上だって皐月さんが望むなら⋮! そう思っ
たあの時の感情は、まだ私の中でくすぶっている
私はきっとおかしいのだろう。女が女に恋をするだなんて
だけど強い瞳も、優しい声も、私が大好きなそのままで、どうやっ
て嫌いになれというのだ
だけど⋮だけど、それでも、やはりこの思いは伝えられない
だって私は弱いから。だから、強いあの人には釣り合わない
眼鏡やカツラで変装をしたその姿は、始めはただの同姓同名かと思
った
だけど私を見た時の反応で、もしかしたらと思った
あり得ないと思いながら、祈るように﹃彼﹄にメールを送った
﹃彼女﹄が、メールを受信した
私にどうしろと言うのだ。私は⋮私は﹃同性愛者﹄だと公言できな
い。父や母に、何と言えばいい?
私は恐いのだ
奇異な目で見られることが
侮蔑されることが、恐い⋮
女子だけで構成される特殊な空間である、この学園では確かに同性
を慕うことは珍しくはない
この学園においてなら、全校生徒に発表したって普通に迎えられる
だろう。ここはそういう場所だ
101
恋愛に憧れる世間知らずなお嬢様の集まり
けれど所詮はここだから言えることだ。世間に出れば風あたりは強
いに決まっている
ああ⋮それでも好きなのだ
私はどうすればいいのでしょう
ふと、何か光が皐月さんから落ちた
私は我に返る。そういえば今は夕食時で、私はずっと皐月さんを凝
視していたことをようやく自覚した
皐月さんは立ち上がると、すぐに食堂から立ち去った
何が起こったのかわからなかった。信じられなかった
けれど私には、皐月さんが泣いたようにしか見えなかった
1年の弘美さんが立ち上がり皐月さんを呼んだけれど皐月さんはそ
のまま行ってしまった
弘美さんはすぐに追い掛けたけど、お二人は残って急に退出した二
人を気にするなと騒ぐ食堂に言い放った
﹁彼女の名誉に関わるので詳しくは申せませんが、この事は他言無
用ですわよ。皆さん、そのまま食事を続けて﹂
強い強いその言葉に、私は追い掛けることさえできなかった
○
食事が終わり、皐月さんがいなくなったのも何か慌てる事情があっ
たのだろうとあっさり事態は収まった
けれど私はそんな簡単なものでないと、確信していた
だからこっそりと様子を見に言った。お三方が皐月さんのドアの前
にいた
﹁あの⋮﹂
102
﹁気にしないように、私言いましたわよね﹂
厳しい口調の会長はとても綺麗な方で、二人も負けず劣らず。私は
自分がちっぽけな気がして余計に何も言えなかった
﹁っ⋮わ、私は⋮﹂
だけどひきさがりたくはなかった。皐月さんに関してだけは、誰に
も負けたくなかった
どうすればいいかわからなかい。ただ、負けたくない。諦められない
﹁っ⋮ぁ⋮⋮っ﹂
﹁え⋮?﹂
だけど私が何かを言う前に、ドアの向こうから小さく小さく、すす
り泣く声が聞こえた
﹁あなた!﹂
﹁!﹂
﹁何処かへ行きなさい﹂
﹁⋮⋮﹂
知らない。私はこんな彼女を知らない。強い強い彼女は彼だった時
からずっと強くて、私を助けてくれて、いつも笑顔で⋮
ドアの向こうから聞こえるのは、真逆の弱く弱く小さな声
弱い私を包み込むように優しくて大きいあなた
小さく途切れながら聞こえたのは﹃母さん﹄と言う呼びかけ。彼女
は中学の時にも胸をはってマザコンだと言っていた。バカにする人
にはたった一人の家族を愛して何が悪い、と立ち向かう
強いあなた。母を守っていたようなのに本当は守られていたの?
性別を偽っていた理由に関係しているの?
あなたを、ただ知りたい
私は黙ってその場を立ち去った
103
○
一晩中、ずっと考えていた。生まれて始めて隈ができた
答えは出なかった
だけど、皐月さんに会いたいと思った
朝食時は早めにとって、私は教室で皐月さんを待った
いつも彼女は早かった。働いていたらしい。今はそんなことはない
だろうが、彼女ならきっとその習慣は変わらないだろうと思った
﹁おはようございます、皐月さん﹂
知らずに笑顔で挨拶をしていた。私は、皐月さんに会えて嬉しいの
だろう
﹁ささ佐枝子、さん⋮おようございます﹂
おまけのようにさんをつけた彼女が可愛かった
分かりやすいその反応は昔から変わっていない。私は、ずっと皐月
さんを見ていた
﹁昨日はよく眠れましたか?﹂
﹁は、はい。お陰様で﹂
﹁ふふ⋮皐月さん、淑女会にお入りになられたそうですね﹂
﹁あ、はい﹂
﹁羨ましいですわ﹂
﹁あはは、じゃあ変わりますか?﹂
男とか女とか、関係なくて、私は﹃皐月さん﹄が好きだ
正しいか正しくないかとか、私には分からない
ただ、ただただ、私は皐月さんが好き
﹁いいえ、私淑女会にはあまり関心はありませんの﹂
﹁え? では何が羨ましいんですか?﹂
﹁勿論、皐月さんと堂々と一緒にいれるお三方ですよ﹂
何でもないように言いながらウインクをする
とてもドキドキする。心臓が早鐘のように音をたてる
今更だ。こんな我が侭はきっと誰にも言えない。世界で唯一、皐月
104
さん以外には
皐月さんにすれば迷惑だろうけど、皐月さんなら何だって笑顔で許
してくれる。そんな安心感がある。だからだ
だから私は、皐月さんになら自分の気持ちが言える
﹁え⋮﹂
﹁今日、お昼ご一緒しませんこと? それとももう誰かとお約束で
も?﹂
﹁ま、まさか。それに佐枝子さんのお誘いなら、他の人に誘われた
としてもお断りしますよ﹂
﹁まあ、嬉しいですわ﹂
それが真実ならいい。だけど彼女は純粋に先着で優先をするだけだ
ろう
一番になりたい。あなたの一番に。他の人に嫌われても構わないと
思った
こんな感情は始めてだった
皐月さんが好きで、強くて優しくて、弱いあなたを、守りたい
あなたの全てを知りたい
もう、私は逃げない
○
105
これは俺のせいか!?
隣を見ると佐枝子がにっこり微笑んでくれた
﹁⋮えへへ﹂
知らずに笑みがもれる。俺は昨日とは違いのんびりした気分で授業
に⋮
﹁︱で、︱︱に﹂
⋮⋮⋮気分はのんびりだろうとわかんねぇ! うわぁ⋮今更だって
分かっても何か凹む。いや今更だ⋮あ∼、そか、以前は寝てたから
己の学力低下にも気づかなかったのか⋮⋮よし、寝るか
俺はピカピカの教科書をたてて頬杖をついて、右手はペンを持ちノ
ートの上に転がして眠ることにした
○
﹁⋮?﹂
何だ? 後頭部に違和感が⋮。そっと振り向くと、左斜め後ろから
悪魔の一人、紗理奈が俺に消しゴムを投げてきていた
何しやがるあの女⋮
﹁次はぁ、皐月さぁん﹂
﹁え、は?﹂
ちょいと俺の机に小さな紙が置かれた。開くとページと答えが書い
てあった
目を上げるとおずおずと佐枝子が俺を見ていた。いつの間にか数学
になっていた
俺は佐枝子にウインクしながら立ち上がり、柚子先生に向かい高ら
かに宣言する
﹁4です﹂
﹁はぁい、佐枝子さんよくできましたぁ。皐月さん、ずるしちゃあ
106
駄目よ∼﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ばればれでした
席につくと佐枝子が小さな声で謝ってきたが、元はと言えば俺の頭
が悪いのが原因なので気にするなとまたウインクをする
あとで一応紗理奈にも礼を言っておくか
○
﹁普通寝る? 君ってホントに女らしくないよね﹂
﹁ぐぐぐ⋮も、申し開きもございません﹂
礼を言う前に呆れられました
現在は食堂から昼食をとってきて淑女会室にいます。佐枝子も誘お
うかと思ったが、すでに消えていた
他に友人もいるだろうし、たぶん﹃淑女会﹄と言うものには気後れ
しているのだろう。何処か一歩ひいたような態度のあるやつだからな
実態はコレなのになぁ⋮
﹁だいたいあなた⋮朝のあの態度はなにかしら?﹂
﹁えっと⋮あれは弘美さんに言ったんですよ?﹂
﹁関係ないわ。というかむしろヒロだからこそ関係があるのよ。同
じ淑女会の仲間だもの﹂
﹁⋮⋮私は⋮?﹂
﹁あら? ペットが何か言ったかしら?﹂
こいつ素で言いやがった。ああ⋮真のお嬢様ってきっと佐枝子だけ
か。あいつは天然記念物級の貴重なやつだったんだなきっと
﹁⋮⋮何でもないッス﹂
﹁なにかしらその口調は﹂
﹁新手の敬語です﹂
﹁下手な嘘はやめたら? ただの簡略敬語じゃん﹂
余計なことを言うな紗理奈! つかお嬢様なら世間知らずなはずな
107
のに︵七海はそうだった︶お前は妙に俗っぽいな
﹁そうなの?﹂
﹁会長は知らないだろうけど、体育会系が使ったりするんだ﹂
﹁へえ⋮聞いたことないわね﹂
﹁まあここではね。あたしはたまに父さんについて競技場に行くか
らさ﹂
﹁競技場⋮?﹂
﹁あたしの父さんは空手家なんだ。母さんは指揮者﹂
﹁⋮ずいぶんちぐはぐですね﹂
﹁だからじゃない﹂
﹁はあ⋮七海様は⋮お医者様でしたね﹂
﹁あら、知っていたの?﹂
﹁ゆ、有名ですから﹂
危ない。知ってるのは﹃私﹄でなく﹃俺﹄だった
なんかややこしいなぁ
﹁そういえば弘美さんは?﹂
さっきから黙って昼飯をつついてる弘美に話をふる
﹁パパが2年前に死んで財産食い潰してる﹂
﹁そうですか。知らずにすみません。ところでその沢庵、残すんで
すか?﹂
﹁え⋮まあ﹂
みんな定食だが、弘美のトレー上の料理は順調に減ってるのにおま
けのようについている沢庵は残っている
﹁余ってるならくれます? 私沢庵好きなんですよ﹂
つか好き嫌いがあったら貧乏なんかやってらんねー⋮まぁ、嫌いな
のもあるけどな
あ、でも母さんが作ったものならいけるんだぞ⋮⋮誰に言い訳して
んだか
﹁いいけど﹂
﹁ありがとうございまーす﹂
108
例によって大盛りだ。う∼ん、このぽりぽりした触感と鰹節風味が
好きだ
﹁⋮⋮﹂
﹁? っん。どうかしましたか? ってなに3人で私を見ますか。
え? 何かついてます?﹂
﹁ないけど⋮あんた普通なんだ。いや、おかしい﹂
妙にもほどがある弘美に俺は眉を寄せる。3人は揃って俺に奇異の
視線を向けている
﹁は?﹂
﹁普通は死んだ、なんて言われたらもっとすまなさそうにするもん
でしょ﹂
﹁いや別に今時珍しい話じゃないでしょ。私だって父親は生まれる
前に死んでますし﹂
﹁あら? でも確かプロフィールには弟が生まれたって⋮﹂
﹁さ、再婚です﹂
うお∼! なんて面倒なんだ! つか知ってたのかよ!
﹁ふぅん⋮ま、どうでもいいけど﹂
なら言うなよ! あ∼⋮だりぃ
﹁ごちそうさま。会長、今日は何か仕事あったっけ?﹂
﹁あなたたちがすることは特にないわ。いくらか書類を確認して提
出するだけだから。だからこの子の躾にあてたじゃない﹂
﹁そっか﹂
⋮あれ? 何か普通に﹃躾﹄とか言われてますけどフォローは誰も
なしか?
﹁皐月様ぁ﹂
﹁はい、何ですか?﹂
フォローか?
﹁オレンジジュース、食堂からもらってきて﹂
⋮⋮先輩をパシリか?
﹁あ、あたしクッキー。いやぁ何か足りないと思ったら食後のデザ
109
ートだね﹂
﹁じゃあ茶葉が減ってるから追加をお願い。銘柄はこれね﹂
渡されたのは見るからに上等そうな紅茶葉が入っていたらしい空の袋
﹁行くなんて言ってな︱﹂
﹁早く! 皐月様はヒロのペットでしょ!﹂
﹁⋮はぁ、わかりましたよ﹂
何でこう我が侭かな。お前が男で俺が素なら気絶するまで殴ってるぞ
﹁5秒以内ね﹂
﹁無理に決まってんだろ﹂
﹁良いから行け!﹂
無茶を言う弘美に言い返すと怒鳴られた
﹁はいはい⋮わかりましたよお嬢様方。注文は3品でよろしかった
ですか?﹂
﹁皐月様!﹂
何なんだよったく
○
﹁ただいま﹂
﹁遅い!10分もかかってる!﹂
俺が出る前は片側のソファに3人並んでいたのに弘美が俺のいたソ
ファに来ていた
お前は何処のスパルタ教師だ? ていうかなんでカリカリしてるん
だよ
まぁ弘美がこっちにきたのはいい。あの並びだと面接を受けてる気
分だからな
﹁いや普通往復もっと⋮30分くらいかかるよ。もしかして走った
?﹂
紗理奈の問いにさりげなく七海が俺を睨む。冤罪だっての
﹁あ、いえ、階段を3段飛ばしにして早歩きしました﹂
110
さすがに優雅に歩いてる中を走る気はない
﹁へぇ⋮君って案外スポーツできる人?﹂
﹁い、いいえまさか。運動音痴もいいところですよ。あはは﹂
﹁あら? 書類では滝口り︱﹂
﹁ほ、ほら七海様紅茶葉! とりあえず1キロもらってきましたよ﹂
﹁あ⋮ああ、ありがとう﹂
﹁クッキーはこのお皿借りますよ﹂
ティーポットなどが入っているのがガラス窓越しに見えたので棚を
開けて皿をだす。むむ、開けると何やら色々あるな
﹁じゃああたしが紅茶いれるよ。ヒロは今日はオレンジだよね。皐
月はいる?﹂
﹁あ⋮お願︱﹂
﹁いらない﹂
頼もうとしたら弘美が断り、紗理奈が苦笑しながら了解する
﹁⋮私の意見は無視ですか﹂
﹁いいから、座りなさい﹂
﹁命令口調ですか﹂
﹁早くぅ!﹂
﹁はいはい。弘美さんは我が侭ですね﹂
皿を真ん中に置いて弘美のグラスにオレンジジュースを注ぐ。つい
でに俺のも
﹁何よ。文句あるわけ?﹂
﹁別に。ま、弘美さんみたいな美人さんの言うことですし、聞きま
すよ。で? どうかしましたかお嬢様?﹂
﹁⋮⋮あ、あんたにも多少は下僕の自覚があるみたいね﹂
﹁諦めただけですよ。私は懐が深いので大抵の我が侭は受けながす
ことにしたんです﹂
お前らの態度ないちいち怒ると疲れるし。てか下僕扱いにも嫌なこ
とになれてきたしな
﹁我が侭ってなによ!﹂
111
﹁はいはい、オレンジジュースをどうぞ﹂
﹁⋮ん。ありが︱﹂
﹁あ、クッキー美味しい﹂
何だこの味は? ハチミツとちょっと違うけど似てるような⋮
﹁ごっ﹂
さらにクッキーを取ろうとすると後頭部が殴られた。冷たい
え? 冷たい⋮? ⋮っておま! コップで殴りやがったな! 中
身が頭にぶちまけた状態じゃねぇか
信じらんねぇ。つか一瞬何が起こったかと思ったぜ。びしょ濡れで
頭を押さえながら顔をあげる。うっとおしいオレンジ臭い前髪をか
きあげる
﹁? ちょっ、何でまた私見られてるんですか。いい加減訴えます
よ﹂
俺は中国から初めて来たパンダか。それともツチノコか
3人の視線に俺は睨みかえす。ぱらぱらとかきあげた前髪が落ちて
くる。ん? 何かいつも以上に前髪が邪魔だな⋮
﹁あ、眼鏡が⋮﹂
ダテ
また手で後ろにとかそうとして眼鏡がないことに気付いた
眼鏡してれば前髪が直接目にかからないから、普段はかきあげるほ
ど邪魔に感じない。さっき殴られて落ちたか
﹁⋮皐月﹂
﹁はい?﹂
﹁あなた⋮そばかすが消えてるわよ﹂
﹁⋮え⋮⋮﹂
顔をあげてぴかぴかの窓ガラスに自分を映す。ほんのちょっぴり、
特大の今の眼鏡をかけたら隠せる鼻の横あたりの部分がオレンジジ
ュースで溶けていた
﹁っ!﹂
衝撃で机に落ちた眼鏡を拾ってつけ、前髪を垂らしてうつ向く
すでに弘美への怒りでなく己の迂濶さにいらいらしている
112
﹁な、なんのことですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
当たり前だがそのくらいで疑惑の視線はなくならない。いやまぁ疑
惑と言うか、むしろ紗理奈と弘美はぽかんとしてるが
﹁そ、そんなことより言うことがあるんじゃないですか? コップ
で人の頭を殴るなんて﹂
﹁まぁ⋮いい音がしたよね。たんこぶできた?﹂
頭をさする。出来てるっぽいがカツラ越しだから微妙な感じでどの
くらいのデカさかは分からない
﹁大丈夫ですけど⋮と、とりあえず濡れたんで顔を洗ってきますね
!﹂
﹁あ、ちょっと!﹂
とにかく問いつめられて眼鏡を外すとばれるので、逃げた
あーもう! これって俺のせいか!? つか2日目でバレんのかよ!
○
113
拒絶しないで
﹁もしもし、爺ちゃん?﹂
︽なんじゃ?︾
﹁変装してることがばれた。⋮帰りたい﹂
とりあえずこんな状態で授業なんて冗談じゃないので、そばかすは
付け足して柚子先生に早退の許可をもらい寮に帰った
俺はカツラ装着のまま共同風呂で体と頭を洗い、湯船の中から爺ち
ゃんに電話をかけた︵もちろん携帯電話は完全防水だ︶
風呂はマジで広くてちょっと感動したが、それは俺を引き留める要
因にはならない
﹁マジで⋮ヤダ。帰りたい。⋮母さんは⋮⋮﹂
︽ゆ、優希は⋮買い物に⋮︾
焦った爺ちゃんの声に俺はやっぱりと確信して、半ば分かってた上
でここに来たと言え会いたい思いがあるのは変わらず、ため息をつく
﹁いないんでしょ? 分かってる。10時からって時間区切りがあ
る時点で分かってるよ﹂
何より何かは知らないけど頑張るらしいから、家で今までのように
のんびりしてるなんて初めから思ってない
︽⋮分かってて、そこに行ったのか?︾
何故か驚きよりも厳しいような口調で尋ねられた。戸惑いながら電
話越しで見えないと理解しつつ頷く
﹁母さんが家にいてもいなくても、学園に行かなきゃならないのは
変わらないからね。それに⋮母さんはああ言ったけど、元々週末に
気軽に帰れる距離じゃない﹂
︽ああ⋮⋮そうじゃな︾
﹁母さんがいなくても爺ちゃんがいるならいい。変装して騙して⋮
元々俺に女のフリなんて無理なんだよ。ねぇ⋮帰って、いい?﹂
︽⋮駄目、じゃ︾
114
﹁⋮え? ご、ごめん爺ちゃん、もう一回言って﹂
︽皐月、そこを卒業しろ。ばれようと別に学園長とグルなんじゃし
退学になるわけじゃない。しっかり通え。今は授業時間じゃろ? ワシも皐月からの電話は週末しか受けん。休みになら、ワシに会い
に帰ってもいいがワシが仕事をしていたら諦めろ。優希とは携帯電
話でしか連絡は無理じゃ。よいな? しっかりと励めよ︾
プッ︱︱
電話は、きれた
ぽちゃん
音がしてから、俺は携帯電話を風呂に落としたことに気付いたが、
とりあえず水からあげてタイルに転がした
﹁⋮⋮嘘だろ⋮﹂
信じられない
爺ちゃんに、拒絶された
そんな大袈裟なものじゃない。そう人は言うかも知れない。母さん
だって俺を拒絶したようなものだ
でも、でも俺には、ショックだったんだ
爺ちゃんは、少なくとも今の俺の辞めさせる気はなく、弱音を聞く
気もない
﹁⋮母さん﹂
母さんに会いたい
﹁母さん⋮母さんっ﹂
115
母さんの声が聞きたい
﹁っ⋮⋮会いたいんだよ﹂
温もりが、欲しい
どうして俺から離れようとするんだよ
みんな⋮俺のこと嫌いになっちゃったの?
いつだって母さんや爺ちゃんは俺のために動くけど、でも俺は嫌だ。
寂しい
こんな思いをして何になるんだ
どうしてただ側にいたいなんて簡単なことが叶わないんだ
昔は俺が辛いならいつだって抱きしめてくれた母さん
いつからだろう
俺が母さんに心配させたくなくて頑張って頑張って、中学に入って
ようやく、アノ時の夢を見ては泣かなくなったころか
∼∼しない?
そう母さんは言って、俺に色んなバイトをやらせた
俺はずっと家計を助けたかったから何とも思わなかった
だけど今考えると、男に慣らすと同時に俺の独り立ち⋮すなわち俺
の母離れを企んでいたのかも知れない
ピピピピピ︱!
携帯電話が音を立て、俺は緩慢な動作で風呂から出て携帯電話を操
作する
︽ヒロ キトク スグカエレ︾
﹁⋮⋮⋮?﹂
差出人は⋮登録していない人間からだった
116
ヒロ⋮ヒロ⋮⋮弘美か?
何故に危篤? つか誰だよ。俺のアド知ってるなんてこの学校には
七海と佐枝子しかいないが七海のわけないし⋮
佐枝子⋮弘美と知り合いじゃないよな?
あれ? 七海とは知ってたっけ? でも一方的に知ってるだけかも
だし⋮ないな
プロフィールに書いてあったのか? あ、でもそしたら七海が気づ
くはずだ
﹁⋮⋮えーっと⋮﹂
まぁメアドのことはおいといて、来いってことだよな
差出人はヒロ、または淑女会の誰かだろうし淑女会室に来いってこ
とか?
授業は⋮あ、もう終わってる
﹁⋮行く、か﹂
凄く嫌だが⋮ここにいなきゃいけない以上、あまり目立たないほう
がいい
まぁ⋮今はこのメールに感謝しよう。俺、落ち込むとマジで際限な
いから
でも危ない⋮母さんやアノ時のことを思い出したら、泣くかも
それか⋮また、あの後はみたいになったらどうしよう
﹁嫌だな⋮﹂
嫌だ。あんな自分にはもうなりたくない
弱く弱く、風にさえ怯えて震えるしかないような、ちっぽけな俺
まだ心の隅っこで、あの時のままちっぽけな俺が住んでいて、時々
顔を出す
最近は⋮爺ちゃんと会ってからは一度もなかったのにな
分かってる。学園にいるという当たり前のことから逃げるのを禁じ
られるのも、全部俺が弱いから
117
そもそも逃げるような弱い俺を何とかしようと母さんと爺ちゃんが
頑張ってる
分かってる。それでも
二人が
二人が俺を拒絶するのは嫌だ。そんな二人が、嫌なんだ
だって、俺には味方が二人しかいない
俺を思ってくれる、俺を見てくれるのは、二人しかいないんだ
だから辛い
大袈裟なんかじゃなく、辛い
俺の世界の全てが二人で
世界から拒絶された俺は
どうすればいいんだ?
○
118
﹁失礼します﹂
﹁⋮⋮﹂
そばかすもしっかり描いて、眼鏡が絶対に落ちないように俺は真っ
直ぐ3人を見る
﹁⋮皐月﹂
﹁何ですか?﹂
﹁あなた⋮変装してるの?﹂
3対1の面接形式で席につくと直球で言われた
﹁いいえ﹂
﹁⋮そばかすは、偽物?﹂
﹁いいえ﹂
﹁⋮⋮嘘をつくのはやめなさい。淑女はみだりに偽りを言うべきで
はないわ﹂
﹁どうして偽りだと思うんですか? 淑女はみだりに人を疑ってい
いんですか?﹂
﹁なら確認しましょう。ここに濡れタオルがあるわ。眼鏡をとって
顔をふきなさい﹂
﹁嫌です。私にそんなことをする義務はありません﹂
﹁そん︱﹂
淡々と感情を込めずに言う俺に怒ったのか3人は眉をしかめ、弘美
が何かを怒鳴ろうとするが俺はそれを遮る
﹁淑女会もやめます。と言うか、部活でしょう? 入部届けも出し
ていない私には、呼び出しに応じる義務もないはずです﹂
﹁っ⋮あんた偉そう!﹂
﹁弘美さんほどじゃありませんよ﹂
﹁生意気!﹂
うるさい⋮俺は、お前の玩具じゃないんだよ
﹁あなたに人のことが言えますか?﹂
﹁っ! あんたなんかっ⋮あんたなんかヒロの犬のくせに! あん
119
たなんかっ⋮ヒロの下僕じゃなきゃなんの価値もないの! あんた
はヒロの言うことを聞かないなら無価値なんだから!!﹂
﹁! ⋮無⋮価値⋮?﹂
その言葉は、ずっと昔に閉じ込めた﹃あたし﹄を引き出す鍵のうち
の一つ
止めて。あたしは⋮俺になったんだ。俺には母さんが⋮爺ちゃんが⋮
︽拒絶されたんだろ?︾
っ!?
ねっとりとした、大嫌いになった声が頭の中に響く
﹁そうよ! あんたにはヒロの下僕じゃなきゃ価値はないの!﹂
︽お前は俺の命令に従えばいい。じゃなきゃ、お前みたいなやつは
誰にも好かれない。誰もお前を愛さない。誰もお前を必要としない
ただ命令を聞くなら、俺だけは求めてやる
お前は無価値でどうしようもないゴミだ
いいから俺に従え︾
﹁⋮⋮違う﹂
﹁あ?﹂
﹁違う! 違う違う違う! 価値がなくなんてない!﹂
﹁うるさい! 下僕じゃないあんたなんて誰も必要としないのよ!﹂
︽誰もお前なんか必要としない︾
120
﹁っ﹂
︽誰もお前を愛さない
誰もお前を求めない
誰もお前を必要としない︾
それは呪いの言葉
俺をいつまでも縛りつける
﹁ヒロ、言い過ぎだよ﹂
﹁そうね。皐月、ヒロは沸点が低くて口が悪いから気にしないほう
がいいわ﹂
﹁⋮⋮違う﹂
﹁⋮え?﹂
﹁違う違う違う違う違う!﹂
﹁ちょっ、落ち着きなさい﹂
﹁違う!!﹂
︽お前の家族さえ、お前を拒んだんだろう?︾
違う。こんなことは﹃先生﹄に言われてない。だからこれは俺の勝
手な被害妄想
だけど、俺にとっては⋮紛れもない﹃現実﹄だ
﹁あ⋮あぁあ⋮違う⋮違うっ⋮⋮﹂
︽違わない
お前なんか無価値なゴミだ
誰も、求めない︾
121
﹁俺は⋮﹂
﹁皐月⋮?﹂
﹁俺は⋮誰にも⋮求められない?﹂
﹁皐月、あなた何を言って︱﹂
﹁俺は⋮いらないの?﹂
コンコン。ドアがノックされた
○
8つの瞳が私に向く。足がすくみそうで、ドアを閉めたかった
弘美さんとの約束では七海様と紗理奈さんにばれないようになら聞
いてもいいと言うものだった
約束を破ったのは初めてだったけれど、私は後悔しない
﹁皐月さん﹂
﹁⋮ぁ⋮さ、えこ⋮佐枝子は⋮俺を⋮⋮俺を⋮﹂
捨てられた小犬のように弱い声。今度こそ、私が彼女を支えたい
私は震える彼女を躊躇わずに抱きしめた
私の登場に驚く3人は無視をする。皐月さんをいじめるなら、淑女
会の方だって関係ない
﹁大好きです。私には、皐月さんが必要ですよ﹂
﹁⋮ほん、と? 俺のこと、見捨てない? 俺のこと、価値がある
って思う?﹂
私より少し身長も高いのにまるで子供のように呟く皐月さん。可愛
いと思った
無性に腹立たしかった。彼女がこうなった原因に。彼女をこうした
過去に
だけどそれより今大事なのは皐月さんで、私はにっこり微笑んで皐
月さんの背中を撫でる
﹁はい。私は昔皐月さんに何があったかなんて知りませんし、無理
122
に知ろうとは思いません
私は、今の強くて弱い皐月さんが大好きですよ
無価値じゃありません。私には、皐月さんは世界と同じくらい大切
です
きっと皐月さんのお母様もお爺様もそう思っていらっしゃるに決ま
っています﹂
﹁俺のこと⋮拒絶しない?﹂
﹁あなたが求めてくださるならその全てに応えます﹂
﹁⋮嘘じゃ、ない?﹂
﹁はい﹂
﹁母さんも爺ちゃんも、俺のこと⋮嫌いになってない?﹂
﹁はい﹂
証拠があるわけじゃない。直接話をしたわけじゃない。だけど以前
パーティーでお三方がお話ししていられるのを見た
とても優しい目で、本当に仲がいいんだろうと思ったものだ
それは、まさに理想の家族愛だった。簡単に消えない。そんなわけ
がない
何があったか知らないけれど、それは絶対だ
少なくとも、私が皐月さんを嫌わないのと同じくらいには絶対
﹁佐枝子は⋮俺のこと⋮﹂
﹁大好きですよ﹂
﹁⋮ぅん。⋮ありがとう﹂
やっと、皐月さんは、小さくだけど微笑んだ
それは迷子の子供が、やっと見知った道を見つけたような
﹁俺も、大好き﹂
囁く皐月さんは、とても可愛くていとおしく、やっぱり私は皐月さ
んが大好きなんだ
123
○
124
一緒にいて
気にいらない
年上のくせに弱くて、そのくせ生意気
でもちょっとだけ、面白い
いい玩具を見つけたと思った
まだ手垢のついていない田舎育ちで、マザコンだけど見た目も︵ダ
サさを除けば︶悪くない
全部、ヒロの好みに変えさせよう。それは考えるだけでとても楽しい
だけど下僕になっても生意気なのは相変わらずで、気長にやろうと
は思っていたけれど、いざ歯向かわれるとムカついた
だから手っ取り早く思い知らせようとして、殴った
いや、そんな理由は後付けだ。ヒロは子供扱いされるのが大嫌いだ
けど、でもヒロが子供っぽいのは分かってる
ただ腹がたったから、それだけ
予想通り痛がりながらも反抗する姿に、ヒロは少し満足する。簡単
に壊れないのは、玩具の最低条件だ
だけどすぐに、え? と思った
125
皐月様のどうみても目より大き過ぎる眼鏡の下にあるはずの、そば
かすが、減っていた
皐月様は慌てて逃げた
訳が分からない。変装してた?
何のために?
とりあえず、下僕のくせに隠し事なんて生意気だ
聞きださないと
○
﹁弘美さん﹂
誰? そう思ったけどスカートのチェックの色から2年生だし回り
にはヒロを素直で可愛いお嬢様と信じてるバカたちがいるから、素
直に応じて廊下に出る
﹁あの⋮お姉様は⋮?﹂
﹁私は高田佐枝子です。それより弘美さん、紗理奈さんから聞きま
した﹂
﹁え⋮?﹂
﹁すぐに済むのでこちらへ﹂
言われるまま踊り場まで行く。予鈴が鳴ったのですでに人気はなく
みんな教室に収まっている
﹁携帯電話、持ってますか?﹂
﹁え、はい﹂
﹁皐月さんのアドレスをメールで送るのでまず私と赤外線通信して
126
ください﹂
﹁え⋮ちょっ﹂
﹁いいですか? とにかく放課後になったら皐月さんを呼び出して
ください﹂
﹁ちょっと⋮なんであんたにそんなことを⋮あ﹂
つい素で答えちゃった
だけど佐枝子様は気にした風でもなく真剣な顔つきだ
﹁皐月さんは、弱い方です。あまりいじめないでください﹂
﹁⋮なによ。あんた皐月様のこと好きなわけ?﹂
﹁はい﹂
普通に返された。くだらない。そんなのこの学園内だけのつまらな
いまやかしだ
﹁⋮は? はぁ⋮やってられないわよ。どうせ︱﹂
﹁例えここを卒業したってこの想いは変わりません。そもそも私は
皐月さんと外で出会いました﹂
﹁な⋮﹂
﹁同性だろうと関係ありません。それより、時間がないから聞いて
ください﹂
﹁⋮なに?﹂
聞きたくはないが、そう言うしかない
佐枝子様は紗理奈様と同じクラスで、昼休みが終わりなのに紗理奈
様がいて皐月様がいないから、紗理奈様を問いただしたらしい
﹁皐月さんに、ちゃんと謝ってください。皐月さんは優しい方です
から許すと思います。でもだからこそ今日の内に謝ってください。
いいですか? 皐月さんを一人にするのは放課後までです﹂
皐月様は結局帰ってこなかったけど、授業をサボるなんて思わなか
った
弱いのは知ってる。けど言われるとヒロは楽観視をしてたかもしれ
ない。皐月様は変装をする理由があって、バレたのだからヒロたち
から逃げようとするかもしれない
127
これくらいしなきゃ駄目だ
それに⋮確かにやり過ぎたかもしれないから、謝ってやって頭の具
合を見るくらいはしてもいい
﹁⋮⋮分かった﹂
アドレスを交換すると佐枝子様がヒロに皐月様のメルアドを送って
きた
﹁あと、出来れば私も同席したいのですが⋮無理でもせめて会話を
聞きたいんです﹂
﹁⋮⋮分かったわよ。紗理奈様と七海様にはばれないようにドアの
前で聞いてて﹂
﹁はい。あと、そのアドレス、皐月様には後で私から言いますが他
の方には、絶対に見せないでくださいね﹂
﹁分かってるわよ⋮⋮ねぇ﹂
﹁はい?﹂
﹁どう、メールすればいいかな? いきなり送って来てくれるかな
?﹂
﹁そうですね⋮あまり感情をいれない方がいいかもしれません。あ
くまで事務的に。皐月さんなら、普通にくると思いますよ﹂
﹁でも⋮。佐枝子様なら、人を呼び出す時になんて送る?﹂
﹁そんなに気負わなくても⋮。呼び出しなら⋮﹃ハハ キトク ス
グカエレ﹄が有名ですかね﹂
﹁は?﹂
意味が分からない。ヒロがじっと佐枝子様を見てると恥ずかしそう
に咳払いをした
﹁んん、ま、まぁ⋮私が言いたかったのはそれくらいの巫山戯たノ
リでも、皐月さんは来ますよってことです。あ、でも﹃母﹄は冗談
でもやめてくださいね﹂
﹁⋮あんたに言われなくたって⋮﹂
分かってる。あんなマザコンは、こんなバカみたいな文面も本気に
するだろう。てか素でもバカっぽいし
128
﹁じゃあ﹃ヒロキトク スグカエレ﹄にしよ﹂
﹁え⋮ぁ⋮はい﹂
﹁?﹂
ヒロはメールを送って、授業開始の鐘がなったので慌てて佐枝子様
と別れた
○
呼び出して、謝ろうとは思ってた。だけどあまりに偉そうでムカつ
いた
だけどまた手を出したら同じことになるので、我慢して罵るだけに
した
口で言った。それだけ、なのに直接手をだすよりもずっと、皐月様
傷ついたようだ
一瞬、泣くかな? とは思ったけど、泣かなかった
そんな簡単な問題じゃなくて⋮酷く傷ついたような虚な表情で
﹁⋮⋮違う﹂
﹁あ?﹂
﹁違う! 違う違う違う! 価値がなくなんてない!﹂
それでもヒロは、そんなに傷ついてるなんて気付かなくて
﹁うるさい! 下僕じゃないあんたなんて誰も必要としないのよ!﹂
さらに怒鳴った
七海様と紗理奈様がヒロを叱責する。ヒロもちょっと言い過ぎたか
なって思って、皐月様の様子をうかがう
﹁⋮⋮違う﹂
﹁⋮え?﹂
皐月様は震えていた。全身を小刻みに震わせ、震えてなかば裏返し
たような悲鳴じみた声で皐月様は否定する
129
﹁違う違う違う違う違う!﹂
﹁ちょっ、落ち着きなさい﹂
﹁違う!! ⋮⋮あ⋮あぁあ⋮違う⋮違うっ⋮⋮﹂
狂ったように皐月様は﹃違う﹄と繰り返す
苦しそうに、寒さに対するように皐月様は自分で自分の体を抱く
がたがたと震える皐月様の動きに大きな眼鏡がずれ、見開かれた瞳
を見た
暗い
暗い暗い暗い、闇
ぞっとした
○
﹁⋮⋮あの、ご⋮ごめんなさい。みなさんに、は、恥ずかしいとこ、
見せちゃいましたね﹂
泣きおえた皐月さんはぎゅーっと私の腕を掴んだまま、淑女会の3
人から隠れるように私の背中にいる
﹁それよりあなた⋮普段﹃俺﹄と言っているの?﹂
﹁っ⋮⋮⋮。はい、そうですけど? 七海様に何かご迷惑をかけま
したでしょうか?﹂
だけど台詞だけは強気だった。私を盾のようにしているのに声はも
う震えてない
ちなみにさっきからくっついてくる皐月さん。勿論嬉しいけどドキ
130
ドキしすぎて皐月さんに心音が聞こえないか不安だ
﹁そうではないけど⋮いいから座りなさい。佐枝子さん⋮だったか
しら。あなたはとりあえず席を外してくれるかしら?﹂
私としては皐月さんと離れたくはないけど、ここは淑女会の部屋で
私がいる方がおかしい
﹁⋮⋮わかりま︱﹂
﹁だ、駄目!﹂
﹁え﹂
﹁駄目。駄目だよ。⋮俺を、一人にしないで﹂
皐月さんは私の制服の裾を皺になるかとハラハラするくらいギュッ
と握り、うつ向きがちにうるんだ瞳で私を見つめてくる
どうしよう。凄く可愛い
元々は、男の皐月さんが好きで強くてカッコイイと思ってた。けど
今は女の子で弱くて可愛いと思う。全く同じ見た目と声なのに私は
違うことを感じる
そして正反対に感じているのに、私は以前よりずっと、皐月さんが
好きになってしまう
ひょっとして元々私には女の人が好きな傾向があったのだろうか?
しかしそもそも初恋は男で、しかし皐月さんだから実は女
⋮何だか段々ややこしくなってきた
﹁佐枝子⋮駄目?﹂
コトリと首を傾げながら言われた。なんというか可愛いとしか言え
ない語彙の少ない私を許してください
﹁わかりました﹂
もうどちらでもいい。私は皐月さんが好きで、それだけははっきり
分かってるんだから
と言うか好きな人にこうも一心に頼られて悪い気がする訳もなく、
131
嬉しい
﹁ちょっと佐枝子さん?﹂
﹁すみませんが同席させてください﹂
﹁あのね⋮ここは由緒正しい淑女会室で︱﹂
﹁あの! ⋮私、佐枝子さんがいないなら⋮帰ってもいいですか?
その⋮出来れば帰りたいなぁ⋮﹂
私の服を掴んでなきゃ今にも逃げだしそうな皐月さんの様子に、七
海様はため息をつく
﹁⋮⋮わかりました。座りなさい﹂
﹁はい﹂
﹁帰らせて⋮﹂
皐月さんは動く気はないようで私を掴んだまま離れず、私も動けない
﹁皐月さん、ほら、席に⋮﹂
﹁⋮⋮帰りたい﹂
﹁大丈夫ですよ。私は隣にいますから。ね?﹂
﹁⋮ぅん。分かりました。じゃあ佐枝子さんが、奥に座ってくださ
い﹂
﹁? はい﹂
よく分からないが先に座ると、皐月さんはやはり私を盾のようにし
て座るが、それは明らかに一番奥の弘美さんに向けたものだった
﹁⋮なにそれ? あんたヒロのことバカにしてんの?﹂
﹁⋮⋮﹂
皐月さんは何も言わず、強く目を閉じて私の肩に額を押し付けた。
さっきから皐月さんの顔はうっすら青い
﹁ちょっと!﹂
﹁⋮⋮﹂
怒気を孕んだ声に皐月さんはびくりを震えて小さく何かを呟く
﹁︱ぃ﹂
﹁は?﹂
﹁︱︱さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいご
132
めんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい﹂
﹁な⋮﹂
尋常でない皐月さんの様子に私は慌てて肩を抱く
﹁皐月さん、皐月さん!﹂
﹁っ⋮ごめんなさい﹂
間違いなく、皐月さんは弘美さん個人に恐れている
○
133
俺、生きててもいい?︵前書き︶
今回は性的描写があります
苦手な方は気をつけてください
134
俺、生きててもいい?
﹁ごめんなさい﹂
繰り返して言いながら俺は佐枝子の手を両手でギュッと握る
俺には隣に佐枝子がいる
佐枝子が俺に価値があると言う
少なくても、佐枝子が隣にいてくれるだけの価値が⋮俺にはあるんだ
だから
だから⋮
俺が存在することを認めて
いや、認めなくても、許さなくてもせめて⋮
見逃してください
生きていたいんです
死にたくないんです
大好きな人がいるんです
認めなくていいんです
許さなくていいんです
ただほんの少しだけ
135
我慢してください
俺が世界に存在することを我慢してください
﹁皐月さん、落ち着いてください!﹂
﹁っ⋮ごめんなさい、弘美さん、ごめんなさい﹂
﹁何で⋮何であんたが謝るのよ!﹂
﹁私が⋮価値がないから⋮。でも⋮⋮私にだって⋮隣にいてくれる
人がいます。その価値くらい⋮あります。私は⋮あなたに迷惑をか
けてます⋮ごめんなさい。謝りますから⋮我慢してください﹂
﹁迷惑って⋮?﹂
﹁私が⋮生きてること。でも⋮でもっ、私は⋮生きていたいんです。
認めなくても許さなくてもいいから⋮私を嫌悪しても憎んでも軽蔑
してもいいから⋮ほんの少しだけ、見逃してくれませ︱﹂
﹁あんたバカじゃないの!?﹂
﹁っ﹂
﹁バカよ! なんでそんなことにヒロの許可がいるのよ!!﹂
﹁だっ⋮て⋮⋮だって⋮⋮⋮弘美さんは私に⋮価値がないって⋮。
価値がないものなんて⋮⋮存在したって仕方ないじゃないですか⋮
価値がないのに⋮存在なんかしちゃ駄目なんです! でもっ⋮生き
たいんです! だから私は弘美さんに謝るしかないんです!!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮皐月さん﹂
﹁佐枝子さん⋮私⋮生きてても⋮い︱﹂
﹁いいんです。いえ、良いとか悪いじゃなくて皐月さんは、生きな
きゃ駄目です﹂
﹁⋮⋮うん﹂
暖かいな
暖かくて⋮心地よい
136
繋いだ手から、少しずつ﹃俺﹄が作られるような、包まれるような
安心感
﹁皐月⋮あなた、何をそんなに怯えているの?﹂
﹁何をトラウマとか?﹂
﹁っ⋮⋮はい、まあ、少し。あの⋮七海様と紗理奈さんは⋮私の存
在を許容してくれますか?﹂
﹁まあ⋮そんなくらい全然構わないよ。つかあたし、君とクラスメ
ートだし﹂
﹁私はあなたを許容しないほど狭量ではないわ﹂
恐る恐る勇気をだして尋ねると、返ってきたのはそっけないけど俺
には何よりありがたい言葉
﹁ありがとうございます﹂
﹁皐月様﹂
﹁⋮⋮あ、その⋮ごめ︱﹂
﹁禁止﹂
﹁え⋮﹂
﹁謝るの禁止。次に謝ったらデコピンね﹂
﹁⋮⋮﹂
何だろう。じゃあ何を言えばいいのか。ありがとう? 何だかおか
しいような。弘美が怒ったらどうしよう
また⋮言われたらどうしよう
ああ本当に俺は弱い。未だにあんな言葉一つにビクビクしてる
だけど本気で恐いんだ
嫌でも思い出してしまうから
あの俺を舐めるように見る目を
あの俺をなじる声を
137
あの俺を殴って拘束する腕を
あの分厚くて抵抗してもびくともしない体を
あの俺に向かい精液を放つ醜悪な物体を
嫌でも、脳裏に焼き付いて離れない
何度も殴られて俺の体は黒いほど痣だらけ、骨は折れないように手
加減されたけど痛くて、夢なら覚めろと思った
何度も裸の俺を舐める。撫でる。掴む。叩く。冷たい床におしつけ
られて、悪夢だと思った
俺の口に押し込められた熱い、先生の股間から生える棒は俺の喉を
何度も突き、視界を白に染めた
口から吐いた血は精液とまざりピンクになっていて、死んだほうが
マシだと思った
俺の下半身にある二つの穴に何度も堅い物体が突っ込まれた
体が割けたかと思った。痛くて痛くて楽しそうな先生が恐くて、い
っそ殺せと思った
俺の体の全てが液体でまみれて、俺の股間からも白い先生の精液が
あふれていた
とにかく死にたくてたまらなかった
138
それからのことはよく覚えてない。ただ寒くて俺はもう死んでると
思った
何を見て何を聞き何をしてるか分からない
暖かくて、顔をあげたら、母さんがいて、いつの間にか半年もたっ
ていた
﹁ごめん﹂
﹁え⋮﹂
﹁悪かったわよ。別に本気であんたが無価値だなんて思ってない。
ただ、ちょっと言っただけ﹂
﹁⋮許して、くれるんですか?﹂
﹁皐月様は? ヒロが理不尽なことしたのに怒らないの?﹂
﹁⋮いいえ、だって⋮⋮私が生きちゃいけないのは本当なんです。
ただ私の我が侭で生きてるだけなんです﹂
俺は汚れたんだ。けがれた不潔で不浄で醜い、それが俺だ
それに、未だに生理もこない。精神的なものらしいけど、きっとも
うこない
俺は一生未完成なんだ
女でなく、男でない
何でもないただの生物。しかも汚れた生物だ。そんなの俺が何より
知ってる
俺自身、俺が汚くて仕方ない
時々思い出しては何時間も体を洗うけど、綺麗にはならない
そんな俺を許してくれるのは、みんな俺が汚れてるって知らないか
らだ
だけど、知らないのでも許してくれるのは嬉しい
139
ずっと知らずにいて
知ったらきっと、みんな俺から離れるだろうから
﹁⋮つまり怒ってないわけ?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあいいわ。皐月様、とりあえずヒロの下僕としてせいぜい頑
張ってね﹂
許してくれたんだ。俺はもう、あなたの前にいてもいい。生きても
いい
生きてもいい
安堵に、俺の中にあった弘美に対する恐怖が無散する。恐くてたま
らなかったのは目の前の小娘
自分でもどうかしてる。いつだって本気でやったら殺せるような小
さな女の子に怯えるなんて
だけど⋮認められないのはそれだけで、俺を縛り、俺は身動きすら
できなくなるんだ
﹁あと特別にヒロが皐月様にもっと楽な生き方を教えてあげる﹂
﹁生き方、ですか?﹂
﹁そうよ。あんた不器用すぎ。もっと図太く生きなきゃ駄目よ﹂
﹁はぁ⋮﹂
いやあんたが我が侭放題なだけだろと思うが口には出さない
なんつか、いくらトラウマが原因とは言えこのガキにびびってたの
が我ながら情けない
まぁ治らないし、同じことを言われたらまた同じようにパニクるし
恐いんだけど⋮なんかムカつくなぁ
﹁あ、佐枝子さん、ありがとうございます。今日は⋮佐枝子さんが
140
いなかったらやばかったです﹂
恥ずかしいなあ。、助かったし嬉しいけど
﹁いいえ。あと、私が言ったのは全部本当ですよ﹂
ウインクをする佐枝子は、凄く可愛かった
﹁⋮⋮ありがとうございます。私もですよ。佐枝子さんのこと前よ
り大好きです。また頼ってもいいですか?﹂
それは凄く都合がよく自分勝手な話。佐枝子が優しくて奇跡的に俺
を好むと言ってくれる、その感情につけこんでいる
﹁いつでもどうぞ﹂
だけどそう答えてくれる佐枝子。まぶしいくらいに優しくて暖かい。
ますます俺の醜さがうきだつようで思わず目をそらしたくなる
だけど、それはしちゃいけない。利用してる俺が言える立場じゃな
いけど、佐枝子を傷つけたくはないから
だから俺はにっこりと、感じた喜びを出しきるように微笑む
﹁えへへ﹂
ああ、俺は体だけじゃなくて、心も醜い
﹁ちょっと皐月様! ヒロの話聞きなさい!﹂
﹁っ⋮は、はい!﹂
あうぅ⋮でもまだ怒鳴られるとさっきの言葉がリフレインして恐い
かも
こんなガキに恐怖心を感じることが悔しいし⋮何よりムカつく
﹁皐月様! ちょっとこっち来なさい!﹂
ああもう! 何をキレてんだよ! あれか? 最近のよくキレる十
代かてめぇ!?
しかし内心とは裏腹に俺は素直に弘美の前に立つ。なんてチキンな
俺!
﹁な何でしょう弘美さん?﹂
うお∼! 情けないぜ俺!
﹁座れ﹂
特に服に頓着しない俺は素直に床に正座。相手はソファに座ってい
141
るので膝が目の前にある
﹁⋮⋮﹂
弘美は微妙な表情になったがすぐにふふんと不敵に笑んで足を高く
組んだ
あ、パンツ見えた。小さい猫の顔がたくさんプリントされていた
﹁猫⋮見た目通り子供っぽいんですね﹂
ちなみに俺はストライプのでかめサイズのトランクスが好きだが、
スカートが捲れて見られたら問題があるので、無理矢理トランクス
の上にスパッツをはくという荒業をしている。かなり気持悪い
﹁っ! 死ね!﹂
﹁ごっ⋮﹂
蹴られた。至近距離からで反応が遅れて真面目に蹴られた
痛い⋮鼻血出てないか? 俺は鼻をさする。うん、セーフ
﹁てぇ⋮なにするんですか﹂
﹁ふん! そういうあんたはどうなのよ!﹂
﹁は?﹂
どうって何が?
うじむし
﹁立て、そしてスカートを捲れ!﹂
﹁⋮⋮変態?﹂
つか、やるわけあるか
﹁黙れそして早くしろ蛆虫﹂
﹁うじっ⋮!?﹂
こいつ口の悪さが段々上がってないか?
だがもはや逆らっても無駄なのは分かってるので、立ち上がる
﹁⋮⋮。⋮⋮あの⋮マジですか?﹂
いや普通に恥ずかしいんですけど。てか女同士って普通にそういう
ことするわけ? 俺⋮男に戻りたい
﹁いいから早く。笑うから﹂
笑うの前提!?
﹁⋮⋮﹂
142
助けを求めて七海と紗理奈を⋮⋮普通に無視して何か話してる
興味ないなー! あとは佐枝子⋮⋮
何かを期待した目で見られていたりする
﹁さ、佐枝子さん⋮?﹂
﹁! あ⋮その、が、頑張ってください
さりげなく位置移動して近づいてくるのは何故に!?
﹁とりゃ! ってスパッツじゃん!﹂
スカートめくりをされた。どうしていいか分からずにはためくスカ
ートを見る
﹁ねぇ、スパッツ脱いでよー﹂
﹁勘弁してください!!﹂
俺はこれ以上ない真っ赤な顔で叫んだ
○
143
やりすぎたかな⋮?
﹃良かったわねぇ﹄
﹁うん、僕ね、凄く頑張ったんだよ﹂
防音はしっかりしてあるので携帯電話で母さんと今までのことをか
いつまんで報告した
﹃偉い、偉いわね。皐月ちゃんは私の自慢の娘だわ﹄
﹁⋮む、娘ってのはやめてくれないかな﹂
﹃やぁね、崎山皐月は男だけど、滝口皐月は正真正銘女の子じゃな
い﹄
﹁そ⋮そうだけどさぁ。恥ずかしいし⋮。⋮ねぇ母さん﹂
﹃なぁに?﹄
﹁いつ⋮会えるかな?﹂
﹃そうねぇ⋮⋮皐月ちゃん、ママに会いたい?﹄
﹁あ、会いたいよ! 決まってるじゃん﹂
﹃ごめんねぇ。うすうす感付いてると思うけど、ママちょっと新婚
旅行してるの﹄
﹁⋮はぁあ? え、ちょっ、誰とっ!?﹂
社交会でナンパしてきた男!? それともまさか爺ちゃん!? 俺
の知らないうちに我が屋敷でそんなピンクワールドが形成されてた
のか!?
﹃パパの遺影と一緒によ﹄
﹁⋮良かったぁぁ。つまり母さんの一人旅か﹂
マジでびびった。心臓に悪い言い方しないでよ
﹃新婚旅行よ。藉は最近変わったから﹄
﹁いや、婚じゃないし、父さん死んでるし実質一人た︱﹂
﹃ママが新婚旅行と言えば新婚旅行よ。悲しいわ。皐月ちゃんはマ
マが嘘を言ってると思うのね﹄
﹁う、ウワー、ママトパパダケズルイナァー。ボクもシンコンリョ
144
コー、イキターイ﹂
﹃うふふ、また今度ね﹄
疲れる⋮。でも頭があがりません。これが惚れた弱みなのか!?
つか﹃ママパパ﹄呼びは恥ずすぎるが⋮母さんこの呼び方好きなん
だよなぁ。まぁ気分で﹃お母さん﹄﹃優希ちゃん﹄とか色々言うけ
どな
﹁で、母さん、マジな話どうなの? そりゃ小枝子とかいるけど、
やっぱり母さんに会えないと⋮寂しいよ﹂
今夜からはもう恐い夢を見たりしても、俺の汗を拭い抱きしめてく
れる人はいないんだ
﹃ん∼∼、最悪でも夏休みには会えるようにするわ。何と言っても
ほら、世界5周くらいする予定だから﹄
﹁初耳だし!! だいたい夏休みまでにって無理だし!﹂
﹃やぁね、夏休みにはいったん休憩して日本に戻るって意味よ。皐
月ちゃんはお母さんに似ず阿呆ね﹄
﹁うわ⋮なにその暴言。じゃあ誰に似たのさ。父さん?﹂
﹃決まってるじゃない。突然変異よ﹄
﹁ミュータントっ!? 謎の物体X!? 何か人間じゃないと言わ
れてるようで激しくやだ!﹂
﹃我が侭ねぇ、お母さん困っちゃうわぁ﹄
﹁それ以前に可愛い一人娘にそんな暴言吐かない!﹂
﹃だって⋮ママったら頭いいもん。最近気付いたの。もうびっくり
するわよ? 実はフェルマーの定理を解いたのママかも﹄
﹁絶対に違う!! 母さんの名前フェルマじゃないし!﹂
﹃あ、あれって人の名前だったの?﹄
﹁⋮⋮母さん、うん、とりあえず、愛してますよ?﹂
何の脈絡なく言ってみる。ていうか何を言えと? あんまり言うと
母さん拗ねるし
﹃ママも皐月ちゃん大好き。だからお願い。頑張ってね、優希ちゃ
んもきっと頑張ってると思うから﹄
145
何故に人事のように言うかな。ま、そういう脈絡なく意味不明なと
こも可愛いっちゃ可愛いけど
本当は、いますぐにでも泣き付いて会いたいとだだをこねたい
本当は、何処にも行かず誰にも会わずに母さんと爺ちゃんといたい
でも、頑張ってと母さんが言うなら、俺の返事は決まってる
﹁⋮うん。頑張るよ﹂
﹃いい子いい子。じゃあもう夜も遅いでしょ? きるわよ﹄
﹁うん、また明日﹂
﹃またね﹄
電話をきると、妙に寂しくて、俺は音楽を大音量でかけた
○
﹁おはよう、ちゃんとやってるわね。感心感心﹂
俺は命じられたように朝食も食わずに掃除をしていたのだが、授業
開始の20分前に七海様がいらっしゃったので敬礼してやる
﹁はっ、今朝もお美しゅうございますね七海様!﹂
﹁ふふ、当たり前じゃない﹂
言い切りやがった⋮っ!
こいつ⋮ナルシストか。つかマジで美人だから手に負えねぇんだよな
﹁へぇ⋮思ったより頑張ったのね。綺麗になってるじゃない﹂
すーっと指を窓枠に走らせてそう言う七海に、俺は苦笑しか返せない
﹁ははは⋮﹂
お前は姑か
146
﹁はい、差し入れよ﹂
七海がナイロン袋を差し出し俺は反射的に受け取る
﹁?﹂
﹁私が言った通り6時からしてるなら食堂は開いてないし朝ご飯ま
だでしょう?﹂
実は7時からだが寝坊して慌てて来たから朝食は実際食べてない
﹁ありがとうございます! 七海様大好き!﹂
﹁ふふ、素直でよろしい。と言っても購買で買ったものだけど、一
応健康バランスは考えてあるわ﹂
受け取った袋を開けると、ゆで卵角切り入りサラダとBLTサンド
イッチにミニパック牛乳が入っていた
朝食のメニューとしちゃいいんだけど⋮たったひときれのサンドイ
ッチと野菜ごときでどうしろと言うんだ。肉か砂糖を寄越せ
﹁⋮⋮こ、これだけっすか?﹂
﹁あなた、昨日も思ったけど食べ過ぎよ。ダイエットなさい﹂
﹁私は食べても太らない体質なんです。ダイエットもしたことあり
ません。まぁ有りがたくいただきますが、せめてデラックス苺パフ
ェとカツ丼くらいはもってきてください﹂
﹁⋮朝から食べる気なの?﹂
﹁大丈夫です。一時期一日三食ケーキ山盛り食べてたことあります
し、朝から油ものも全然いけます。心は肉食獣ですから﹂
ちなみに一食で一ホール。さすがに3日もすると別のが欲しくなっ
たけどな
﹁あなた⋮乙女の敵ね﹂
﹁よく言われましたよ﹂
女フリまくってその癖今まで通りに接してると特にな
﹁⋮⋮私は生徒会長よ?﹂
﹁知ってますけど?﹂
﹁その私をパシろうとはいい度胸ね犬の分際で﹂
147
﹁わお、まだ言うってかそれ素で言ってます?﹂
﹁当たり前じゃない﹂
﹁あなた絶対友達いないでしょう﹂
﹁いるわよ!﹂
ムキになって赤い顔で否定されたが怪しすぎる。挨拶しただけとか、
猫被ったままじゃ友人とは言えねぇぞ
﹁どうせ紗理奈さんと弘美さんだけでしょう?﹂
﹁いるわよ! ⋮いるわよ。しかも男の子なんだから!﹂
﹁はぁ⋮﹂
ひょっとして崎山の方の俺か? てか何故に﹃しかも﹄をつけるん
だよ
﹁どうせ山に引きこもってるあなたには男友達なんていないでしょ
う?﹂
そう言うことか。つまりお嬢様は女ばっかのとこにいて外では猫被
ったりして、男友達はいないやつが多いのか
﹁普通にいます﹂
﹁⋮え?﹂
﹁小中高は普通に共学行ってましたし﹂
まぁその時の友人はもう繋がってないけど、社交会で二人ほど男で
息の会うやついたし。触れなきゃ普通に友達でいれるんだよな
﹁そ⋮そうなの!?﹂
﹁まぁ引越して色々きっちゃって今では二人しか男友達いませんけ
ど、昔は普通に2∼30人とそれなりに友人してましたよ﹂
ついでにパシリしてくれる男が10人と尽くしてくれたり寄ってく
る女が遊びを合わせると4∼60人はいたし
⋮俺、いきなり友好範囲減ったなぁ。前はバイト先の兄ちゃんとか
オッサンやお姉さんとかいろいろいたのに⋮
﹁⋮⋮﹂
﹁あ、とりあえず食べていいですか?﹂
﹁⋮いいわよ﹂
148
﹁あざーす﹂
﹁?﹂
七海は不思議そうに頭をかしげて、俺は席につき、サンドイッチを
口に頬張りながら説明する
﹁あ、あふぁーふっへほは、あひぃはぁほふっへいひぇへ︵訳:あ、
あざーすってのは、ありがとうって意味で︶﹂
﹁食べながら話さない!﹂
﹁んっ⋮あざーすって言うのは、ありがとうって意味です﹂
﹁ふぅん、にしてもあなた⋮やっぱり行儀が悪いわ﹂
﹁行儀が悪くても死にませんよ。あ、今日って何か仕事あります?
私は具体的に何をすればいいんですか? 私、頭悪いんであんま
り細かいことは⋮﹂
七海は胡散臭そうと言うか不審そうと言うか、何か嫌なものを見る
ように俺を見てからふい、と顔をそらせ一番奥の普段座るのとは別
の立派な机に向かう
﹁分かってるわよ。あなたは雑用、幸い足は遅くないみたいだしね。
ま、力があると尚良いのだけど⋮﹂
﹁あ、ありますよ。七海様くらいなら二、三人担げます﹂
﹁あらずいぶんな自信ね。じゃあその自信のほどを、見てもいいか
しら?﹂
﹁どうぞ、何します?﹂
俺は流し込むように全て食べ、へこんだ牛乳パックをナイロン袋に
いれる。あとでまとめて捨てるかな
﹁プリントだけじゃあれだからダンベルでも⋮ん、風が強くなって
きたわね。窓、閉めるわよ﹂
七海は書類をまとめて机に置いてから、反対側の窓に向かう。いい
感じに風が吹いてると思うが、まだ書類が飛んだら危な︱飛んだ。
拾わねぇと
﹁はい、掃除はもう終わってもいいですか?﹂
俺は立ち上がり机の向こう、こっちから見てからだから七海のいる
149
場所に行く
﹁ええ。⋮っ!﹂
どすっ
と音がしてプリントを拾いながら顔をあげると窓からパンツが生え
ていた
訂正、何だか知らんが七海が窓から上半身を出して、浮いた足をぶ
らぶらさせている
パンツは大人っぽい外見に似合わず普通にシマパンだ。青い横縞の
やつ。まぁ制服スカートの中に黒のレースやガーターベルトだと引
くけど
﹁くっ⋮このっ﹂
窓枠に指がかかってるものの、ふらふらと上下して今にも七海は窓
の向こうに落ちそうだ
ちなみにここの高さは3階だ
﹁あの⋮大丈夫っすか?﹂
﹁助けなさ、きゃあっ!!﹂
七海の体が大きく外に傾いた
﹁っ!﹂
自分も窓の外に体を出して七海に手を伸ばす
﹁とっ⋮大丈夫ですか?﹂
腕をつかんで壁に七海が当たらないように一度強く引き、安定して
から七海を改めてぶらさげ、俺の態勢が半分以上窓から出ていたの
で治す
150
﹁は、早く助けなさい!!﹂
感じ悪⋮⋮は! いーこと思いついちゃった
﹁そんな口を聞いていいんですか?﹂
﹁え⋮﹂
﹁ちょうどいい。私を試すんでしょう? 七海様を空に投げてそれ
を受け止めて地面に着地、なんてどうでしょう?﹂
﹁何をバカなことを⋮⋮⋮って⋮さ、皐月⋮あなたまさか⋮﹂
﹁七海様、日常生活にも、スリルは必要ですよね?﹂
﹁そんっ︱﹂
﹁口を開いて舌を噛まないでくださいよ!﹂
俺は再び体を最大まで窓からだして七海を反動つけと空に投げた
﹁いぃゃやあああぁぁあああ!!!﹂
1メートルほど上がってから七海は俺の目の前を通過、その瞬間に
俺は窓枠を蹴て勢いよく七海に飛びつく
﹁よっ﹂
そのまま横抱き︵俗にいうお姫様だっこ︶にして飛びだした勢いそ
のまま斜めに下降
膝を使い衝撃を和らげながらズザザーと音を立てながら着地。2メ
ートルほど地面に足を擦った跡ができたが、とにかく無事だ
つかさすがに人を一人担いで飛ぶと一人よりは疲れるな
﹁七海様、どうです⋮って七海様?﹂
﹁⋮⋮﹂
真っ青だ。口は半びらきで焦点のあわない目を瞬きさせている
151
ヤベ、壊れたか?
﹁な、七海様⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮皐月﹂
﹁ご無事でしたか!﹂
セーフ! 生きてたしセーフ!
﹁でしたか⋮じゃ、なぁ∼い! あなた、あなた私を殺す気なの!
?﹂
﹁いえ、全然﹂
﹁死ぬかと思ったわ⋮﹂
﹁はは、そんな簡単に死にませんて﹂
﹁諸悪の根源が言うんじゃないわよ!! このっ!!﹂
七海はびょ∼んと俺の頬をひっぱる
﹁あら、意外と伸びるわね﹂
びよんびよ∼ん
七海は俺の頬を両手で左右に伸ばしては縮めまた伸ばす。遊んでや
がる
﹁って! こここんなことじゃ誤魔化られないわよ!﹂
そう言ってパシンと俺の顔を挟むように叩きそのまま押してくるか
ら、俺は唇をつきだすような形になる
﹁はひふふんへふか︵なにするんですか︶﹂
そもそも誤魔化すも何も勝手に俺の顔で遊んでんだろ
152
﹁ぷっ、変な顔ね﹂
殺すぞクソアマ
は! ヤベ、ちょっと本気だった。てへっ
﹁はははは、ところで七海様、試験のほうは?﹂
﹁⋮⋮あなたねぇ、本気で言ってる? というか⋮よくあそこから
落ちて平気だったわね﹂
﹁ええまぁ⋮﹂
所詮3階だし、斜めにだからだいぶショックは逃がしたしな。まぁ
学校とかの建物は無駄に高いから思ったよりは高かったが⋮⋮コン
クリートだったらやばかったかも。土で良かった⋮
﹁ところでいつまで私を担いでいるつもり⋮しかも⋮⋮こんなお、
おおお姫様だっこで⋮﹂
赤い顔で言う七海についからかいたくなる
﹁どもりすぎですよ七海姫﹂
﹁ひ!? ⋮巫山戯ないでよ﹂
ぷいと顔を背けられた
⋮ってか、可愛すぎだし反則だろそれ
仕方ない、ここは一発赤い顔を止めさせるか。可愛いけど⋮自分で
思いもよらないことしそうだ
﹁じゃあ、七海ヒゲ﹂
﹁巫山戯るなー!﹂
怒りで顔を赤くする七海は、うん、さっきまでの抱きしめたい可愛
153
さはないな
﹁はは⋮おろしますよ﹂
さっきのどきっとするような可愛さのせいで、妙に七海の柔らかさ
とか温かさに緊張しながら俺は腰を折り七海をおろし⋮
﹁なにしてんすか?﹂
七海は俺の首にしがみついてぶらさがっている
﹁⋮⋮﹂
﹁あの、重いんで︱﹂
﹁黙りなさい犬﹂
﹁⋮⋮もしかして、腰、抜かしてます?﹂
﹁⋮⋮黙りなさいよ﹂
うつ向きながら赤みがかった顔で小さく呟く七海に、不覚にもまた
ドキリとしてしまった
くそ⋮こいつ顔だけはいいからなぁ
ムカつく
﹁はいはい、では姫、淑女会室にお連れしましょう﹂
お姫様だっこをしなおして歩きだす。さっきは意識していなかった
が、七海⋮胸デカッ
﹁ひ、姫はやめなさい﹂
﹁了解です、女王様﹂
﹁もっと駄目ぇ!﹂
だだこねると子供みたいだな
育った体と普段の大人びた雰囲気とのギャップに俺はおかしくて笑
った
154
おまけ
﹁そういえば七海様、意外と普通のパンツはいてるんですね﹂
﹁っ!? ヒロの時と言いあなたは本当にっ!﹂
﹁ぐほっ﹂
殴られた
凶暴女め!
○
155
疲れたり喜んでは焦ったりする
﹁皐月、遅いわよ。そこの段ボールを職員室の隣の用務室まで運ん
でおいて﹂
何だかんだで俺が編入して十日以上たった。結局変装の件はうやむ
やになり追求はされずにすんだ
マジで雑用ばっかやれされて俺が普通より力があると見るやまとめ
て全部運べなどと、遠慮なくかなり雑用係として定着した
﹁うぃ∼﹂
﹁返事は﹃はい﹄よ!﹂
﹁フランス語ですよ﹂
﹁そうそうムッシュ⋮ってんなわけないでしょ! 君さ、いい加減
なこと言うのやめなよ。会長とか世間知らずだし信じたらどうする
のさ﹂
﹁信じないわよっ。いいから早くしなさい! あなたの怪力を生か
すにはそれしかないでしょ!﹂
﹁ぶーらじゃーっす! 七海隊長、筋肉係の私めにおまかせを﹂
﹁正しく日本語を使いなさい!﹂
ツッコむのそこかよ! 俺が筋肉係なのはスルーかよ! つか筋肉
係ってなんだよ! 俺の存在は筋繊維か!
﹁ってありゃ? 弘美さんはどうしたんですか?﹂
﹁あれ⋮あ、呼び出しくらったんだ。職員室だしついでに見てきた
ら?﹂
﹁うぃ﹂
﹁皐月! 後でみっちり﹃授業﹄しますからね!﹂
げぇ⋮7月の何か知らんがイベントがあるから忙しいからって︵俺
はアンケート用紙をクラス別に分けて配布したり、先生と淑女会の
伝書鳩的なことしたりしてとにかく雑用オンリーなのでマジで中身
は知らん︶油断した⋮しくったなぁ
156
授業︱それは普通にしたって憂鬱な言葉だが⋮七海のやつは淑女の
ための、俺のための特別授業だ
ずばり⋮⋮めちゃめちゃ厳しい。つか、拷問? なんつーの? と
りあえず、うん、七海はSだな
﹁了解いたしましたぁ⋮﹂
とりあえず、俺は3箱の段ボールをまとめて抱えた
⋮30キロくらいか? 容赦ねぇなぁ。前見えねぇし。ま、顔をず
らせば何とか⋮片手で持つのは⋮重さは兎も角バランス的に無理だな
﹁本当に一度で持ち上げたよ﹂
﹁相変わらず化物ね⋮﹂
うわ! とんだ言われようだな。つか30キロくらいならお前らで
も頑張りゃいけ⋮ないのか? 母さんだってそのくらいできるのに、
女の子って弱いなぁ
俺はドアを開けた
﹁ってこらぁ! 皐月あなたっ⋮信じられないわ!﹂
﹁⋮?﹂
何だよ血相変えて⋮ちゃんと靴は脱いだぞ
﹁足でドアを開けるなんてっ⋮選択肢にいれる段階から間違ってる
わよ!﹂
﹁あ、パンツ見えました?﹂
﹁そういう問題じゃないわよ!!﹂
うるさいやつだな⋮
○
﹁いツもありガと、淑ジョ会は仕事が早クて助カるネ﹂
﹁いえいえ。クリス先生のお願いとあらばいつでもはせ参上いたし
ますよ﹂
ついでにキランと歯を光らせる。つっても眼鏡とそばかすつけた女
の恰好だし微妙だが
157
案の定というかクリス先生はくすくす笑う
クリス先生は本名クリスティーナ・タトゥルでぽっちゃりした英語
の先生で、ロシアだかドイツだかのハーフだが顔の作りは東洋で俺
より10センチほど身長が低い。笑うとえくぼができて、眼鏡越し
に俺を見上げるくりっとした青い目とくるくるの白髪が小動物チッ
クでバリ可愛い
﹃クリス先生って可愛いですよね。私が男だったら惚れちゃいます
よ﹄
恥ずかしいので英語で言う。何故か英語なら気障なセリフもすんな
り言える
﹁あらマァ⋮﹃ありがとう。いつもながらなめらかな英語ね﹄
﹃先生だってずっと海外にいたのにペラペラじゃないですか﹄
﹃日本語は発音が難しいわ﹄
﹃先生の白髪綺麗でいいなぁ。青い目も綺麗だし﹄
﹃恥ずかしいわ。よく日本人顔とのギャップでいじめられてたもの
よ﹄
﹃な、許せませんね。もし誰かがいじめたら言って下さいね。私が
やっつけてあげますから﹄
﹁ふふふ⋮ありガとネ﹂
﹃だって先生のこと好きですから﹄
﹃皐月さんは可愛いわね﹄
﹁えへへ﹂
﹁たあ!﹂
﹁っと⋮何をするんですか﹂
突然の奇襲にも慣れた俺は振り向き様に片手でそいつの投げてきた
堅いもの︱辞書をミスなく受け止めた
﹁もしクリス先生にあたったらどうするんですか﹂
弘美に人差し指をつきつけ叱るとああん? と睨まれた。ちなみに
クリス先生には見えないように計算されつくしていて、いまだにこ
いつの本性は知られていない
158
﹁あハは、ふタりは相変わらズ仲イいネ﹂
﹁ははは⋮そう見えんのかよ﹂
﹁目ぇ腐ってんじゃないこのパツキン教︱﹂
﹁わーわーわー! ﹃クリス先生、お仕事忙しいんじゃないんです
か!?﹄
﹁ア、ソうだったネ。ありガとさツきサン﹂
﹁いえいえ﹂
クリス先生が職員室に入りドアを閉めてから俺はふぅと息をはく
﹁弘美さん⋮いつも言いますけど辞書はないでしょう。私だからと
もかく、本当に⋮クリス先生だけでなく誰に当たっても大変じゃな
いですか﹂
﹁うるさい。で? なにしてんの? あたしを迎えにきたの?﹂
﹁はい。まぁ、そうですよ。会室に戻りましょうか﹂
不機嫌な弘美に漢字辞書を差し出すと、2秒ほど沈黙してから頷き
受け取った
﹁⋮ん。辞書、悪かったわね﹂
﹁でも最初よりずいぶん手加減してくれてるんですよね? 重さが
減ってます﹂
﹁⋮⋮持ち歩くのに、広辞苑は重すぎたの⋮﹂
お前のためかよ。つかある意味俺のために持ち歩いてんのか⋮頑張
らないでくださいマジで
﹁つかあんたさぁ、クリス先生のこと好きなわけ?﹂
﹁普通に好きですよ。可愛いじゃないですか﹂
﹁まぁ⋮そうかもだけど﹂
﹁青い目と白髪でぷくぷくしてるとことか、昔近所にいたシベリア
ンハスキーに似てて⋮超可愛い!
ボール投げても行きしか走れなくて息切らして、こっちが迎えに行
くまで生意気に待ってるんですけど、迎えに行くとしっぽ振ってめ
ちゃ可愛いんです
コロコロ太ってて蹴ると転がるんですよマジで﹂
159
犬と言うより新種の生物かと言う可愛さだったなあれは。クリス先
生はあのポチ︵シベリアンハスキーの名前︶を彷彿とさせて仕方な
いんだよな
﹁⋮あんた、先生を犬扱いって⋮﹂
おう! 痛いところを⋮だが、仕方ないじゃないか。あれだけクリ
ソツなんだぞ!?
﹁そ、そうじゃないですけど⋮ねぇ?﹂
﹁はあ⋮あんたって本当に駄目なやつね。礼儀もないし﹂
﹁うぐぐ⋮ひ、弘美さんだって初対面の私を下僕とか言ったりした
じゃないですか﹂
﹁は? あんたは存在からしたっぱなんだから当たり前でしょ﹂
﹁⋮マジかよ﹂
﹁七海様いたら怒るわよ﹂
﹁知らん。つか俺だって猫被りはできるんだし普段はこうでもよく
ないっすか?﹂
﹁知らない。でも半端な敬語は逆にムカつくから止めて﹂
﹁へいへい。で弘美さん、何で呼ばれてたんですか?﹂
﹁ん∼、体育の授業全部生理で休んだからさぁ﹂
﹁ぶっ!﹂
何もないのに噴いてしまった
弘美はいやそうに眉をひそめて俺から距離をとる
﹁ちょっ、汚いなぁ﹂
﹁いえ⋮真面目にしましょうよ。サボるにしてもせ⋮せ、せせせぃ
⋮りとかそういうのはちょっと⋮ねぇ﹂
﹁何照れてんのよ。バッカじゃない? 初潮きたてのガキじゃない
んだから﹂
﹁⋮⋮そう、ですね﹂
160
俺にはまだ、初潮は来てない
だからだ。俺はどうも自分が女と思えない
たぶん、だからだと思うが俺には女心ってやつがよく分からない
だからだと思うが、俺には恋愛というものがよく分からない
男でなく女の自覚もない俺には、分からない
さっき弘美が俺に﹃恋愛感情﹄なのかと尋ねたということは分かっ
てたが、ああ言うしかなかった
だけどいつか、向き合わなければならない日がくる。俺は最近にな
ってそのことに気付いた
そのきっかけは例えば母さんの言葉だったり、小枝子の告白だった
りする
﹁なに? あんたひょっとしてきてないの? はは、んなわけない
っか﹂
﹁あはは⋮当たり前じゃないですか﹂
まだきてないことは知られたくはない。つか、俺が不完全だなんて
知られたいわけがない
﹁だよね。確か15歳までには大抵がくるらしいし﹂
﹁⋮ですよね﹂
やはり俺は変なのか⋮
○
﹁ただいま戻りました﹂
﹁遅かったね。あ、二人一緒か。仕事終わるからお茶にしようって
さ。あ、皐月はこれ先に職員室に届けてね﹂
﹁謹んで辞退申し上げます﹂
161
﹁君は拒否権があると本気で思ってるのかな? さっさといけばド
ックフード大盛りにしてあげるから﹂
紗理奈に無理矢理5センチくらいの紙の束を渡された
﹁⋮イエス、サー。喜んでお受けいたします﹂
いつまで俺はここのペット扱いって言うか、仲間扱いしろとは言わ
ないから人間扱いをしろよ
席につく間もなく俺が出ようとするとちょうどドアがノックされ、
俺は視線を七海たちに送り、対応しろとこれまた視線で命令を受ける
﹁はい、どなたでしょう﹂
﹁2年の高田小枝︱﹂
全部を聞く前にドアを開けて一礼する
﹁いらっしゃいませ。汚いところですがどうぞどうぞ。はい、お紅
茶にございます﹂
﹁ありがとうございます﹂
小枝子をいつも俺が座ってる場所に座らせ書類はひとまず机に置き
紅茶を入れる
七海の﹃授業﹄を受け何度となく怒られたがようやく俺の紅茶いれ
も様になってきた︵それでも七海は文句しか言わないが︶
﹁ちょっと皐月様!﹂
﹁ん?﹂
﹁あたしにもいれなさいよ﹂
﹁は? 目の前にあるだろ﹂
弘美の前にはオレンジジュースの入ったコップ。紅茶は普通に好き
らしいが下手な紅茶よりは断然オレンジジュース濃縮還元100パ
ーセントが好きらしい
つか濃縮還元ってどういう意味だ? どれも同じじゃね?
﹁うるさい黙れ﹂
﹁皐月、口が悪いわ﹂
﹁さっさと届けてくれない?﹂
﹁⋮⋮何だよこの状況﹂
162
弘美の﹃うるさい﹄とか﹃黙れ﹄も十分口悪いだろ明らかに
﹁皐月さん、大丈夫ですか?﹂
﹁あ、平気平気。小枝子さんの顔を見たから、元気でました﹂
俺はにへりとだらしなく笑いながら、机に座って小枝子の顔を見つ
める
最近、1週間ほどは雑用に追われすぎて小枝子とはゆっくり話もし
ていない︵授業とか普通に寝てるしな︶
⋮見れば見るほど可愛いなぁ。つか3悪魔と違って癒される。この
3人は可愛いっちゃ可愛いが、無駄にエネルギー使うんだよなぁ
﹁皐月様、はぁやく行ってくれない?﹂
﹁⋮⋮﹂
行きたくねー。けど一回了承したし、しかたねぇか
﹁小枝子さん、すぐに帰って来るから待っててくださいね﹂
﹁はい﹂
﹁この3人は顔はいいですが性格が捻れすぎてるのでいじめられた
ら言うんですよ? 犯人が分からないように仕返ししますから﹂
﹁へぇ、例えば?﹂
﹁例えば⋮? えっと、例えば⋮寝てる間に忍びこんで裸にして縄
でしばって屋上から吊るなんてどうでしょ⋮⋮う、ははははは、冗
談ですよ冗談!﹂
七海に聞かれて素で答えてしまった。マジでやべぇ
﹁あなた⋮性格が破綻してるわね﹂
﹁あんたが言うな、あ、いやその⋮言わないでください﹂
﹁あなたって本当に⋮⋮﹂
﹁いやん。ため息つかないでくださいよー﹂
﹁うわキモッ。皐月ってそういうブリッコかなり似合わないね﹂
﹁素で言わないでください。でもいいんです。今のところ可愛さ担
当は小枝子さんで間に合ってますから﹂
﹁そんな⋮﹂
恥じらいながらはにかむ小枝子はマジで可愛い。癒されるなぁ⋮
163
小枝子を見て笑んでからふと、ぐるりと悪魔3匹を見回す。知らず
知らずため息が出た
﹁ちょっ、何そのため息!?﹂
﹁失礼しちゃ∼う。つかムカつく﹂
﹁あなた⋮私たちを何だと思ってるのかしら?﹂
ジロリと七海と弘美が︵紗理奈はツッコミはするが特に怒ってはい
ないようだ︶俺を睨み、小枝子がびくついているので小枝子に二人
の視線が当たらないような位置に立つ
﹁悪⋮ゴホン、あく⋮悪どいやつらです﹂
﹁え、今の言い直した意味あったの? 君ってフォローする気ゼロ
でしょ﹂
﹁ははは⋮え?﹂
ぶるぶると俺のポケットが震える。珍しいな。部活が終わる時間よ
り早く鳴るなん⋮
携帯電話を取り出して、驚愕した
携帯電話を閉じたまま相手の名前が分かる小さいディスプレイには
母さん
と出ていた
﹁ももももしもひっ!﹂
いたっ。慌てすぎて舌噛んだ
﹃はろー、皐月ちゃん﹄
﹁ははははははろー!﹂
﹃? どうして噛み噛みなのかしら?﹄
164
﹁いやその⋮なんで電話くれたの?﹂
﹃駄目だった?﹄
﹁んなわけないじゃん! 凄く凄く嬉しいよ。でも毎日夜には電話
してるし⋮何かあったの?﹂
﹃ないわよ﹄
﹁本当に? 僕に隠し事してない?﹂
﹃あら、そんなのたくさんあるけど、隠してるから言えないわ﹄
﹁いや、そう言うのは隠してる事実ごと隠してください﹂
﹃それより今何処にいるの?﹄
﹁淑女会室⋮ぷ、いつ聞いても笑える名前だよね﹂
﹃え∼、お母さんはいい名前だと思うなぁ﹄
﹁母さんの趣味が悪いんだよ。あ、あと考えた人﹂
﹃でね、ママはぁ、小枝子ちゃんたちとお話したいなぁって思った
んですぅ﹄
﹁母さん⋮酔ってる?﹂
﹃酔ってないわよぉ?﹄
﹁酔っぱらいは皆そう言うんだよ。あ、書類行ってきますね﹂
俺は机から書類を取ってテキトウに手を振り。呆気にとられてるっ
ぽい4人を無視して俺は部屋を出た
﹃え?﹄
﹁あ、こっちの話こっち話∼。でさぁ素直に聞くけどどうしたの?
まさか本気?﹂
﹃お母さん嘘嫌い∼﹄
﹁ふぅん⋮? 母さんさ、今何を考えてるの?﹂
﹃何だと思う?﹄
﹁⋮⋮僕のこと﹂
﹃あたりぃ﹄
﹁でも僕のためと言うお題目の⋮僕の大嫌いな事でしょ?﹂
﹃さぁ、どうかしらね﹄
間髪入れずに返ってきた聞き慣れた甘い声に、俺の胸はずきりと痛
165
んだ
大好きだった。勿論今も母さんのことは大好きで
だけど、1年前には何にもおいて大好きで全て全て何もかもを容認
して許して愛しいと思ってた、あの狂おしいほどの想いはもうなく
なってしまった
勿論今も愛しているし、母さんのお願いなら何だって聞いてしまう
し、母さんのためなら命だって惜しくはない
だけど、だけどだ
この﹃俺のため﹄と言う言葉。前も嫌だったけど許して笑えた
だけど、今は笑えない
以前よりずっとその言葉を重く感じる
母さんの考えてることが、全然分からない。昔から分かったことは
なかったけど、そのことが最近怖くなりはじめた
母さんが俺から離れてしまうんじゃないか
母さんは、俺を愛してないんじゃないか
そんなバカなことを考えてしまうのは、きっと母さんに触れてない
からだ
母さんの笑顔を見れないからだ
母さんの温もりがないからだ
166
﹁辛いなぁ﹂
﹃え?﹄
﹁辛い。凄く、辛いよ﹂
﹃⋮⋮辛い?﹄
﹁なんで﹃カライ﹄になるんだよ。﹃ツライ﹄! 文字でしか分か
らないボケはやめなさい!﹂
﹃わ、分かってるわよ。やぁねほんのジョークじゃない﹄
﹁⋮母さん⋮ねぇ、一度でいいんだ。会いたいよ﹂
﹃⋮⋮⋮夏休みの前に一度、会えるわ。参観日には必ず行くから。
だから、それまでいい子にしててね﹄
﹁⋮ほ、本当?﹂
﹃ええ。約束よ﹄
母さんは約束は破らない人だ。だから来ると言ったら、来る
俺は思わず声が大きくなるのを抑えながらも興奮して電話越しに頷
いた
﹁うん! 絶対だよ! 僕、ずっと待ってるから!﹂
﹃いい子ね。じゃあ小枝子ちゃんたちに変わってくれる?﹄
﹁ん∼、今から職員室に入るから後でかけさせるように言うよ。番
号教えてもいいよね﹂
﹃ええ﹄
俺は電話をきってからガッツポーズをとる
やった。やったやったやった⋮っ! 母さんが、来る! 会えるん
167
だ!
﹁やったぁ!﹂
﹁あらぁ、どうかした?﹂
目の前の職員室のドアが勝手に開いたと思ったら、柚子先生が不思
議そうに頭を傾げていた
﹁⋮え⋮⋮あ、その⋮あ! 参観日っていつですか?﹂
﹁ん∼? 急にどうしたのぉ? 参観日ね。高等では珍しいかもだ
けどぉ、うちでは毎学期に2度ずつ行ってるわー
そう言えば皐月さんがくる数日前にしたばかりだったから皐月さん
はまだよねぇ
来月頭あたりにあるわよぉ。まだ本決まりじゃないけど、早くとも
中間試験が終わってからよ。休みの土曜日になるのは絶対だけどね
∼﹂
ピシリ
時が止まった
試験⋮⋮やべぇ、全然勉強してねぇ。赤点だらけで進級できなかっ
たら⋮ヤバいよなぁ
168
真面目に勉強やっときゃよかったなぁ
﹁たたたた大変だぁ!﹂
俺はプリントを渡し挨拶もそこそこにUターンし、勢いよくドアを
開けて音を立てて閉めながら怒鳴った
﹁ちょっ、なんなの今のは! しかも走ったわね!? 口調も行動
も乱暴だし最悪じゃない!﹂
﹁うるさいぞ七海!﹂
﹁なっ!?﹂
﹁そんな些細なことはどーでもいいんだよ! 大変なんだよ! ス
ゲー大変なことに気付いたんだよ!﹂
俺の口調に慌てて怒鳴るのは七海だけだ。弘美は怒ってるのか睨ん
でくるが特に七海のように叱る気はないらしい
つか一度正体見せてるしな。紗理奈は機嫌を悪くするでもなく普通
に呆れたような視線を俺に向けてくる
﹁てか君、心の中では会長のこと呼び捨てなんだ﹂
﹁だから細かいことを気にするなって。つーか心の中でまで様付け
だとキモイだろ﹂
﹁さん付けくらいしなさいよ﹂
冷たい弘美の視線を追い払うようにオーバーアクションで腕を振るう
﹁ああもう! 弘美もうるさい! いいから聞けよ!﹂
﹁どうしたんですか?﹂
ああ、俺の話を聞いてくれるのはお前だけだ
﹁さすが小枝子大好き!﹂
俺は小枝子の隣に無理矢理座って内緒話をするように顔を寄せる
﹁実は、ここだけの話⋮⋮来週には試験があるんだ﹂
あの後柚子先生に聞くとなんと来週⋮早すぎるぜ
﹁⋮⋮⋮知ってます、けど?﹂
とても不思議そうな顔で言われた。あ、あれ? もしかして知らな
169
いのって授業中も寝たりしてる俺だけ?
﹁⋮⋮マジで?﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁てか知らない皐月のがどうかしてるとあたしは思う﹂
﹁ヒロもー﹂
﹁⋮皐月? あなた一体どんな授業態度なのかしら?﹂
﹁そ、それは⋮﹂
﹁寝てばっかだよね∼?﹂
﹁うぐ。バカっ、紗理奈は余計なこと言うなよ﹂
﹁あ∼? 誰がバカなんだいポチ君? あたしにそんな口聞いてい
いのかな∼?﹂
紗理奈はにやにや笑いながら某スティック形菓子を俺のほっぺに突
き刺す
﹁う⋮止めてください﹂
七海たちの厳しい視線に我に返った俺は改めて敬語になる
﹁うりうり∼、あたしに逆らうと酷いめに会うぞ∼﹂
﹁現在進行してますが?﹂
頬にチョコがついてるんだろうなー。嫌だなぁ
﹁あ、紗理奈さんて頭いいですか?﹂
﹁そう見える?﹂
俺の頬に突き刺すのに飽きたのか菓子を食べながら言う紗理奈
うん、見えないな。ぐると小枝子を向いて手を取る
﹁小枝子さん、勉強教えて欲しいんですけどいいですか?﹂
﹁え⋮いいですけど⋮皐月さんって成績悪くなかったような⋮﹂
頬をうっすら赤らめながら首を傾げる小枝子に俺は苦笑。小枝子は
俺の中学までしか知らないからなぁ
﹁それは真面目にしてた中学ん時の話です。今は、駄目駄目です。
授業も寝てますし﹂
それに1年の時には半分以上行ってないのに分かるわけねーじゃん。
170
まぁそれは言わないけど
﹁そうなんですか?﹂
﹁中学レベルも怪しいですね。日本語の読み書きなら大丈夫ですけ
ど、英語は話せるだけで読み書きは出来ませんし﹂
﹁そうなんですか? あんなに先生と普通に話をしていらっしゃっ
たのに⋮﹂
﹁まぁあれは直接会話して覚えたものだから、単語は駄目なんです
よ﹂
﹁まぁ皐月様は見た目からして駄目駄目オーラでてるしね﹂
﹁てか皐月って別に余裕から居眠りしてたんじゃないんだ?﹂
﹁あはは⋮むしろぎゃ︱﹂
﹁皐月﹂
逆です。と言おうとして名を呼ばれギクリとしながら七海を見ると、
優雅に紅茶を飲みながら俺には顔も向けてない
﹁⋮何でしょう?﹂
﹁あなた、編入試験の成績は? 編入は普通より難しいはずだけど
?﹂
﹁いや、受けてません。じ⋮祖父と学園長が知り合いで入れてもら
いました﹂
﹁皐月⋮⋮それっていわゆる裏口入学ってやつ?﹂
ウラグチ⋮? あれ裏口? そう言えば俺ずるい? ズルしちゃっ
てる?
﹁え、でも別にお金つんでませんし⋮え? アウト?﹂
﹁アウト退場﹂
親切な学園長の孫悪魔の弘美は俺に向かい親指を下に向けて振り落
とした
﹁⋮⋮﹂
とりあえず中指をたてて対抗しておいた
﹁こら! 何やってるの皐月! あなたって子は本当にっ⋮!﹂
だから何で俺だけ怒られるんだよー!
171
○
﹁で? 皐月様って何が駄目で何が得意なわけ?﹂
﹁あ、ん∼⋮暗記なら割りと得意、ですかね? って言っても短期
記憶ばっかで一週間もしたら忘れますけど、テストはそれなりに点
数とれてましたし得意と言えば得意ですね﹂
﹁はぁ? すぐに忘れるってあんたは鶏かってーの。まぁいいや。
なら暗記じゃないのって数学くらいだし楽じゃん?﹂
﹁いや、それなら話は簡単なんですが⋮﹂
﹁なにか問題があるのかしら?﹂
﹁それはあくまで中学の時でして、高校に入ってからは授業自体全
く覚えてないので流石に一からとなるとちょっと⋮﹂
﹁諦めろ﹂
﹁んな簡単に見捨てないでくださいよ!﹂
ここは夕食後の俺の部屋。小枝子に勉強を頼んだのだが何故か淑女
会が大集合していた
﹁ところで紗理奈さんは⋮何故ここに?﹂
俺に勉強を教えてくれるとのことだが、勉強は得意じゃないんだろ
? まぁ1年がいるのもおかしいが、悔しいことにその1年以下の
学力だし
﹁君のせいだよ﹂
﹁え?﹂
﹁君のせいであたしまで会長に勉強教わるはめにぃ⋮﹂
﹁ご、ご愁傷様です﹂
﹁だから皐月のせいだってば!﹂
恨めしそうな顔をしていたかと思うと眉をつり上げ殴られた。紗理
奈も手加減をしてるだろうし特に痛くはないが⋮
﹁理不尽だー⋮。えっと⋮そういえば小枝子さんは昼間は何のよう
で来てくれたんですか?﹂
172
﹁あ、私クラス委員長ですから、先日皐月さんがみなさんに配布し
たアンケートを集計して届けに⋮﹂
﹁あ、そうなんですか。 なぁんだ﹂
﹁?﹂
不思議そうな小枝子に恥ずかしながらも俺は心中を話す
﹁ちょっとだけ、私に会いに来てくれたのかと勘違いしてしまいま
した﹂
傲慢だった、かな? う∼⋮我ながら恥ずかしい勘違いだ
﹁あ⋮その⋮半分くらいは、そのつもりでした。最近皐月さんとは
あまりお話できませんでしたから⋮﹂
﹁半分だけ?﹂
﹁⋮⋮すみません。本当は書類はただのきっかけで、皐月さんに会
いに行きました﹂
頬を染めてうつ向き気味にして俺を見つめる小枝子は可愛いし、嘘
でもそう言ってくれると言う気持が嬉しかった
﹁えへへへ⋮私、小枝子さんのそーゆー優しいとこ好きですよ﹂
﹁え﹂
﹁んん、ゴホン! あなた、どうして私たちがあなたの部屋にいる
か分かっていて?﹂
わざとらしく咳をする七海はジロリと睨んでくる。七海が恐ろしい
のか俺の脇に隠れる小枝子
﹁まぁまぁ七海様、そう恐い顔をしないでください﹂
﹁あなたが言わないの! だいたい怖くて悪かったわね。地顔よ。
じ・が・お﹂
﹁またまた、黙ってれば美人何ですからそういう謙遜は嫌味ですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁小枝子さん、大丈夫ですって。七海様はお嬢様でどうせ口だけで
すから、ええ。辞書を投げられたりはしませんから﹂
﹁皐月様の言い方、なぁんかひっかかるんだけどぉ?﹂
﹁気のせいです。一番苦手なのは数学なんで、そこから教えて欲し
173
いです。あと漢字と英単語が凄く苦手です﹂
﹁⋮⋮はい、じゃあ今日は数学の範囲にざっと目を通しましょうか。
七海様も、私はそれでいいですか?﹂
﹁ええ。私は紗理奈を。ヒロはそっちね﹂
切り替えの早い七海は怒り顔を止めて弘美に指示し、弘美は俺の教
科書軍から数学を抜く
﹁了解でぇす。はぁ、じゃあ基礎からねー、1+1はぁ?﹂
﹁にぃ。ってそれは良いですから。じゃあ小枝子先生、よろしくお
願いしま∼す﹂
﹁あんたねぇ、もっとヒロに敬意払いなさいよ﹂
﹁はいはい、ヒロ先生もよろしくでーす﹂
1年に習うことなんかあるわけねーだろ
○
﹁だぁかぁら! ここは二分の一を入れるの! コサイン60度は
二分の一ってさっきも言ったのに覚えてないわけ?﹂
﹁てかそもそもサインとコサインって何なんですか?﹂
﹁ああもう! 教科書読め!﹂
至近距離で投げられた教科書をキャッチして開く。見たことのない
記号が山盛りだ
﹁読めない﹂
﹁はあぁ!?﹂
﹁これは数学の教科書のくせに漢字が難しい。ていうかXとY以外
にアルファベットがあるなんて変です﹂
﹁このバカッ!!﹂
俺に思いきり辞書をふり落としてくるので右手で辞書を掴む
﹁むぎぎぃ⋮あんたバカ力、なの、よっ!﹂
﹁っと⋮暴れないでください﹂
両手で押さえつけ体重をかけまくるようにジャンプまでしだす弘美
174
に俺は顔をしかめる。机をはさんで座っていたものだからこの距離
がまた微妙に心配だ
﹁ま、まぁまぁ弘美さん、そのくらいで⋮﹂
隣の小枝子が言うが弘美はあぁん? と小枝子を睨む
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふん、まぁいいわ。小枝子様が教えてよ。私は休憩しておく
から﹂
﹁はい﹂
弘美は立ち上がり俺のベッドに行くと寝転がりベッド脇の本棚をあ
さり始める
まぁどうせ俺のじゃないしいいか。隣の小枝子がさっきより俺に近
づいてきてペンを持つ
﹁?﹂
ちょっといい匂いがした。何だろ?
﹁皐月さん? とりあえず読みますよ?﹂
﹁あ、はい。お願いします﹂
勉強勉強⋮はぁ、普通に弘美に教わるとは思わなかった
○
﹁∼∼っふうぅう⋮終わったぁ⋮﹂
時間は12時少し前、4時間だぞ4時間
4時間も勉強したなんて生まれて初めてだ。しかもテストまでまだ
数日あるのに、だ
﹁お疲れさまです、皐月さん﹂
﹁ありがとう小枝子∼。俺⋮これで今回は大丈夫そうだ。みんなも
ご苦労様ぁ。う∼疲れた﹂
﹁そうね。紗理奈もよく頑張ったわね﹂
﹁⋮⋮⋮皐月﹂
175
﹁え?﹂
﹁⋮これであたしのテストが悪かったら⋮⋮殺す﹂
﹁俺のせいじゃねぇ﹂
﹁皐月様、口調が乱れてるよ﹂
﹁知るかよ。疲れてんだ。ごろごろしてるちびっこと違ってな﹂
﹁⋮⋮皐月様、疲れたしヒロの背中流してね﹂
﹁⋮は?﹂
﹁ああ、そうね。みんなで入りましょう。紗理奈、まだ寝ちゃ駄目
よ﹂
﹁う∼∼﹂
﹁皐月、当然私たちの背中も流すのよ﹂
﹁⋮は!? いやいやいや、無理だから! 俺は部屋風呂使うから
!﹂
﹁は? 何を言ってるのかしら。あなたもしかして私たちをこき使
ってタダですます気かしら?﹂
七海の言葉にぐったりしてたはずの紗理奈まで顔をあげ、弘美と同
時に頷く
お前が教えたのは紗理奈だけで弘美もほとんどごろごろしてただろ
うが!
﹁冗談じゃない! 小枝子もなんとか︱⋮⋮⋮もしもし小枝子さん
?﹂
小枝子は俺を見ていた。かなり恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、
期待した目で俺を見ていた
﹁⋮⋮小枝子⋮﹂
ブルータス、お前もか⋮!
﹁あの、別に背中を流す流さないはともかく、一緒に入りませんか
?﹂
﹁⋮俺は、嫌だ﹂
﹁我が侭を言わない。私たちのような綺麗どころとお風呂なんて、
176
殿方なら泣いて喜びむせび泣くわよ?﹂
﹁俺は女です﹂
﹁心は男じゃないの﹂
好き勝手言いやがってこのサディスト。つかそう思うなら尚更風呂
になんか誘うなよ!
﹁とにかくヤダ!!﹂
﹁何でそんなに嫌なの? 皐月の体、何か傷跡があるとか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月様? 分かってると思うけど、理由がないなら絶っっ対に強
制だからね﹂
﹁⋮⋮⋮︱︱ぃ﹂
﹁え?﹂
﹁ぁ︱︱しぃ﹂
﹁皐月、言いたいことがあるのならはっきりなさい﹂
言うしか、ないのか
﹁⋮恥ずかしい、からです﹂
シーーーン︱︱︱︱
静かな空気に俺は顔が急速に熱くなるのを感じながら、隠せないの
177
は分かっているがうつ向く
﹁⋮⋮し、仕方ないわね。皐月様は、ウブだから﹂
﹁え?﹂
﹁そう⋮ね。恥ずかしいなら、仕方ないわよね﹂
﹁うん、うん! そう思う。あたしも⋮そう思うよ﹂
﹁え⋮本当、に? 見逃して、くれるのか?﹂
何故か気まずそうな3人を見回してからゆっくりと小枝子を振り向
くと、小枝子は愛らしくにっこり笑って
﹁だって今の皐月さん、とっても可愛かったですから。私も何だっ
て許したくなっちゃいました。ええ、何でも﹂
と言った
﹁何でも?﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮そ、そう。えと、じゃあ俺はもう帰︱﹂
﹁駄・目、よ。せめて私たちの背中を流しなさい。服は着ていても
いいけれど、ね﹂
﹁へ? え? や! それも恥ずかしいっての! バカどもが! 恥を知れよ! お前ら本当に女かよ!﹂
﹁それはあたしたちのセリフなんだけど⋮﹂
﹁というか私らは女同士では恥ずかしくないから﹂
﹁何よりあなたが私たちをバカ、と? はっ。犬が生意気な口をき
くわね﹂
﹁⋮⋮⋮分かりましたよ。不肖、滝口皐月が皆様の背中を流させて
いただきます﹂
﹁水着姿でね∼﹂
さりげなく弘美がひらひら手を振りながら言う
ふっ、俺が女物なんて持ってるわけねぇだろ。つか水着なんて男物
も持ってねぇし
﹁持ってないっす﹂
﹁あ、あたしの貸すよ。服が濡れたら大変だしね﹂
178
紗理奈め! 余計な真似を⋮っ! その﹃気﹄をもっと別のことに
回せよ!
﹁じゃあ部屋から着替え持ってきますね。皆さんも早くしないとの
んびり湯船につかれなくなっちゃいますよ﹂
小枝子が言いながら立ち上がり、全員が続くので仕方なく俺も立ち
上がる
﹁そだね。皐月も来なよ。貸すから﹂
﹁⋮うぃーす﹂
女物なんて⋮ていうか、水着自体全然着てない。中学からは授業に
プールはなかったし、小学校後半は病気ってことにしたしな︵母さ
んがグルなのでバレない︶
あ∼∼憂鬱だ
○
179
お背中流させていただき⋮⋮辞退してぇ
﹁⋮⋮﹂
﹁うわ、あたしだってそんなあるほうじゃないけど⋮皐月って胸な
いねぇ﹂
胸を隠したくなったがそんな女々しいことはしたくないので無い胸
を張りつつも、やはり恥ずかしいから顔どころか全身が熱い
﹁⋮ほっといてください。あの⋮⋮変じゃないですか?﹂
ぴちぴちする。酷く窮屈だ。胸や腰や尻の部分は若干ゆとりがある
が、股と肩が酷く窮屈で食い込んできて痛いくらいだ
つまり俺は紗理奈より5センチほど背が高いにも関わらずガリガリ
ってことだ。おかしいな。体重は結構あるんだが⋮筋肉は脂肪より
重いんだっけ
﹁ん∼だいぶサイズが違うね﹂
﹁う∼⋮﹂
﹁そか、授業じゃないんだしセパレートにすればいいんだ﹂
﹁え﹂
今俺が着ているのはスクール水着、略してスク水だ。胸のゼッケン
には﹃紗理奈﹄とある。みんな名前でよびあうものだからゼッケン
も名前らしい。普通は名字だろ
﹁はいこれ﹂
﹁⋮⋮は﹂
いやスクール水着の時点で死ぬほど恥ずかしいのに、なんでそんな
面積の少ない⋮赤ビキニなんだ。いやそりゃお前のなんだからお前
には似合うだろうが⋮なぁ?
﹁無理無理無理! 無理ですって! 死ぬ!﹂
﹁大丈夫。その水着着る時もそう言って生きてるから﹂
﹁むしろ殺せ!﹂
180
○
風呂場に行くと小枝子はバスタオルを巻いていたが、紗理奈も入っ
てきて3人揃って隠そうともしない。小枝子と七海と弘美が湯船か
ら出て俺をじろじろ見る
﹁ぅわあ⋮﹂
﹁あなた⋮なんだか凄いことになっているわね。というかもうすぐ
授業で使うんだから買いなさいよ﹂
﹁うわ∼ん、小枝子∼!﹂
二人の視線が恥ずかしすぎて小枝子の背中に抱きついて盾にする
﹁だ、大丈夫です。似合ってますよ﹂
﹁ていうかスクール水着なんて誰でもそれなりに見れるでしょ。い
くら皐月様が貧乳でもね﹂
﹁う∼、恥ずかしすぎて死ぬ。死ぬんだ。誰だよこんな拷問考えた
阿呆は﹂
﹁ヒロだよ⋮あ? 誰がクソだって? ⋮はぐわよ﹂
そこまで言ってない!
弘美がああん? と睨みをきかせながら俺に近づいてきて脇腹のた
るみに手を伸ばす
﹁ひいぃっ! 本当にごめんなさい! 俺が悪かったマジで! 後
生だから止めてください!﹂
﹁え∼?﹂
﹁何でも言うこと聞きますからお願いします!﹂
﹁ふ∼ん⋮じゃ、いいや。もうヒロは温まってるから背中流してね﹂
弘美は身をひるがえし並んでるシャワー軍の一つの前の風呂椅子に
座った
﹁う⋮さ、小枝子ぉ﹂
﹁えっと⋮そんな目で見られてもさすがに困るんですけど﹂
﹁早くしてよ﹂
181
﹁皐月、あまり我が侭を言わないの﹂
七海が早々に湯船に紗理奈と共につかりながらも叱咤してくるので、
仕方なく俺は小枝子から手を離す
﹁⋮分かりましたよ﹂
くそぅ。俺が悪いのか? ていうか女同士だからって全く恥ずかし
くないのか? そういうものなのか?
小枝子を湯船につからせて俺は弘美の背後に膝をつく。ヒロが振り
向いて猫の形をしたスポンジを渡してくる
﹁はい、ヒロのスポンジは特注だから丁寧にしてね﹂
﹁可愛いですね﹂
つかパンツといい⋮猫好きなのか。俺も好きだけど
つか動物はどれも好きだ。だって嘘をつかないし、こちらが優しく
すれば酷いこともしない。⋮多少つれない時もあるけどな
﹁それはいいから。あ、先にこれ使って﹂
﹁? 何これ?﹂
見知らぬボトルを渡された
﹁化粧落とし。さっさとその不細工3割増になるそばかす落とした
ら?﹂
﹁え⋮まぁ⋮⋮バレてるしいいか﹂
正体隠すっても七海も気づいてないっぽいってか、普通は男だと思
ってるやつとそっくりな女がいても親戚くらいに思うか
﹁そうそう。あんた真面目にしたら多少は見れるんだから変装はや
めてコンタクトにしてみたら?﹂
﹁それは無理っす﹂
そもそも目は悪くないしな
俺はボトルの後ろにあるように、手にオイルのような液体を出して
顔にこすりつけ、シャワーを出す
﹁っ!? 冷たっ﹂
﹁バカじゃん? 水の方ひねってんじゃん。ったく﹂
182
弘美が水を止めてもう一つの蛇口をひねると、ちゃんと暖かい湯が
出てきた
そうか、左が湯か。見た目同じだから分からなかった
顔を洗ってから髪をかきあげて鏡を見る
うん、俺の顔だ。つかカツラってすげーな。よっぽど生え際を凝視
しなきゃ分からん
前髪が目にかからないように斜めにおろしてから改めて弘美のスポ
ンジを手にする
﹁じゃ、洗いますよ﹂
ボディソープをつけて泡立てる。そして顔をあげるとさっきから意
図的に見ないようにしてる白いもの、すなわち弘美の肌が目に映っ
てくる
うう⋮なんで見てる俺がこんなに恥ずかしく思わなきゃならないん
だ。
仕方ないだろ! こちとら男として生きてきたんだ! 半分くらい
は男の精神なんだ! ⋮⋮たぶん︵実際に普通の男がどんな精神か
なんて知らないが︶
泡立てたスポンジを弘美の背中にあてて上下させる
う∼⋮スポンジ越しのくせに柔らけー。マッサージなら母さんや爺
ちゃんにしてやるけど体は⋮⋮洗ってもらっても洗ってあげるって
発想はなかったな
﹁ちょっと皐月様、ちゃんとやってよ。ふざけてんの?﹂
﹁え?﹂
﹁弱すぎ﹂
﹁あ、はい﹂
幾分か力を余計に、けれどけして強すぎないようにスポンジに力を
こめる
﹁あ、そう、そんな感じ﹂
﹁はい。あ、右腕を﹂
183
﹁ん﹂
細い腕もしっかり洗うが、力をいれたら折れそうなほど細くてハラ
ハラする
普段はそこまで意識しないが、裸になられると嫌でも意識する
女ってやつは、なんて弱い生き物なんだ
あんなに威張っていて俺に暴力をふるいまくる弘美だって、俺が本
気を出せば簡単に死んでしまいそうに見える
﹁ん∼、そんなもんかな。じゃあ次前で足で、次に髪ね﹂
﹁⋮え? ま、前?﹂
俺は聞き返す
いやちょっと待てよお前。いくらなんでもそれはなしだろ
﹁だから前。ほら﹂
弘美が気安く振り向き
﹁ひえぇ!﹂
思わずのけぞると弘美は顎をつきだすようにして尊大に俺を睨む
くそぅ、薄い胸をはりやがって︵俺も変わらないが︶
﹁まぁだ顔赤いし。女同士なんだよ?﹂
﹁そうですけど⋮風呂なんて母さんとしか入ったことねーし﹂
﹁修学旅行とかは?﹂
﹁えー⋮休んでました﹂
嘘。行ってた。ただ風呂は女なのが嘘とバレないように夜中になっ
てからこっそり男風呂に行ってた。腰にさえ巻いてれば知らないオ
ッサンに会った時もバレなかったし⋮⋮⋮ばれてない、よな?
﹁へ? あんたハブられてたわけ?﹂
﹁まさか。ただたまたま風邪をひいたりしてまして﹂
﹁ふーん。つか母親とあんたは女で、それを見慣れてりゃ平気でし
ょ?﹂
184
﹁んー、やっぱり弘美さんたちは母さんとは違うし⋮﹂
﹁具体的には?﹂
﹁弘美さんより母さんのが胸がデカくて美人だ﹂
断言できるな。だがはっきり言うと可哀想だから隠したのに
﹁⋮⋮殺してー﹂
﹁え? 自殺願望?﹂
﹁皐月様をだよ!﹂
桶を縦にして俺の頭を叩こうとしてくるので右手で止める
凶暴なやつめ
﹁スキあり!﹂
﹁! ⋮あ、ぶな﹂
フェイントだった
弘美は俺がいつものように受けとめるのを予測していて、むしろい
かかと
つものことだと気を緩ませる俺の脇腹に器用に座ったまま蹴りを入
れてきた
が、わざわざ攻撃のタイミングを知らせてくれたので左手で踵を受
け止めたのだ
﹁う∼、悔しいなぁ。今のはいけると思ったのにぃ﹂
﹁いやまぁ⋮﹃スキあり﹄とか言われたらねぇ﹂
﹁あ、そか。じゃあ次は黙ってやるわね﹂
納得して笑う弘美に俺はげんなりする
﹁やらないっつー選択肢はないんですか﹂
﹁あると思う?﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
ため息をついてからスポンジで弘美の体を洗う
見えない
俺には何も見えない
185
何も感じない
まして!
ムニュムニュしたものなんて存在しない!
○
﹁⋮⋮﹂
俺は無言で弘美にシャワーをかけて髪をすき、しばらくしてから止
める
弘美は自分で髪をかきあげて少ししぼり、振り向いた
﹁やればできるじゃん皐月さ⋮ま? えっと、顔がありえないくら
い赤いまま目が虚ろなんだけど、あんた生きてる?﹂
﹁⋮⋮﹂
俺は立ち上がり湯船に向かう
﹁あら終わったのね。じゃあ次は私を︱﹂
俺は七海の言葉を聞き流して倒れるように湯船に入る
バシャー!
凄い破裂音がして全身が痛い
あ∼、へたこいた⋮⋮
水の何とか力ってやつか。ヒリヒリするぜ
誰かが俺をつついてくる
うぜーからとりあえず膝をかかえて丸まる
誰かが俺の水着をひっぱってくるが無視だ無視
にしても、あーー⋮恥ずかしかったぁ
つか、ありえない。日本人ならもっと慎みを持てよ
どいつもこいつも、小枝子だけかマトモなのはよ
186
てかあと二人もまだ洗わなきゃならんとか最悪だ
このまま無視して浮かんでたらチャラにならねーかな
段々俺に触れてる腕が多くなり揺らしてくる
なんなんだおい。早く洗えってか?
うるさいなぁ。ちょっ、なんでそんな下から抱えるようにするんだよ
ああもう!
﹁いいかげんにしろー! 体洗うにも少しくらい待て!﹂
勢いよく立ち上がって言うと俺を囲んでいた4人は驚いたように瞬
きを何度もしている
﹁? アホ面並べてどうかしたんですか?﹂
小枝子まで。いくらお前らが美人だっつっても、そんな間の抜けた
面まで画になるのか母さんくらいだからな
﹁どうかしたって⋮なんで君普通なの?﹂
﹁は?﹂
抗議するような紗理奈に小枝子も頷き、弘美がふぅぅと息を吐く
﹁だって皐月様ずいぶん長くもぐってるから⋮﹂
その言葉に2人も頷くが、七海はいまだ間抜け顔だ
﹁はぁ⋮私、わりと息を止めるの得意なんですよ。あー⋮七海様?
えっと⋮ご心配おかけしてすみません﹂
ぼーっとしたままの七海に声をかけてからみんなに謝ると、七海は
きゅっと眉を逆立てる
﹁バカ! 心配なんかしていないわよ!﹂
﹁ぅぎゃあ!﹂
思い切り油断したところを思い切り引っ掛かれた。頬がヒリヒリする
﹁うわ⋮綺麗な3本線だ。くく、皐月様似合∼う﹂
﹁な⋮なにするんですかもう! 体洗ってあげませんからね!﹂
﹁結構よ! お先に失礼するわね!﹂
そう言うと七海はドスドスと機嫌悪そうに丸い尻をふりながら去っ
て行った
187
だから少しは隠せって!
﹁あ、まぁた顔赤くしてる﹂
﹁う⋮えと、次は紗理奈さんですね﹂
露骨な話題変換に紗理奈は苦笑して立ち上がる
﹁ああ、頼むよ。と言ってもヒロみたいなのは勘弁ね。普通に背中
と頭だけでいい。前はさすがに恥ずかしいしね﹂
﹁な⋮﹂
やっぱり弘美がおかしいんじゃねぇか!
○
188
なんで?
﹁皐月さん﹂
名前を呼ばれ俺は緊張気味に立ち上がり、教卓に立っている柚子先
生の元へ行く
﹁次はもうすこぅし頑張りましょぉね﹂
﹁え﹂
裏向けて受け取ったテスト用紙を表返すのが恐くなることをさらり
と笑顔で言われ、俺は悪かったらどうしようと思い冷や汗をかきな
がら、プリントにシワがよるほど無駄に力強くテストを表にした
﹁⋮⋮え﹂
62点だった
﹁な、なぁんだ。柚子先生も人が悪いですね。全然いーじゃないで
すか﹂
﹁え? そ、そう?﹂
﹁はい!﹂
テストなんて50点とれば赤点100%回避だしつまり留年しない
し、つまりはオールオッケー!
かん∼なりの高得点だ! だってマジな話、俺って1年の勉強全然
やってないんだぜ。凄くない?
﹁くふふ⋮﹂
にやにや笑いをかみ殺しきれないまま俺は席につく
﹁皐月さん皐月さん、良かったんですね﹂
﹁うんっ。ありがとう、小枝子のおかげだ。お前ってホンットにい
いやつだな﹂
﹁そんな⋮。えと、何点だったんですか?﹂
﹁62﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁いやぁ、50をきるのは勘弁したいなぁとは思ったが、まさか6
189
0とれるなんて⋮﹂
﹁⋮⋮お、おめでとうございます﹂
めちゃめちゃひきつった笑顔で言われた
いやまぁ、そりゃ小枝子らのレベルからしたら低いのは分かるが⋮
俺にしたらマジ凄いんだよ
頑張ったんだよ
努力の結果が出まくってんだよ
だからそんな哀れんだ目で見ないでください︵切実に︶
﹁皐月皐月、どうだった? あたし今回かなりいーよ。会長にしぼ
られたかいがあるってなもんだよ。あっははー﹂
ドドンとかざされたのは59点とかかれたテスト用紙。ふふん! 所詮貴様はその程度なのだよ
﹁は、見ろそしてひれ伏せ﹂
﹁な⋮くっそムカつくなぁ。あ、小枝子は?﹂
﹁⋮⋮⋮ち点です﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮98点、です﹂
控え目に気まずく目を反らしながら告げられた事実に、紗理奈の時
が止まった
え? 俺? 俺は小枝子が頭いいのは中学の時のと教えてくれたの
で知ってるし、驚かない
ああ驚いてないし、動揺なんかしてない。まして器が違うってか格
が違う小枝子の点数なんか羨ましくもない。本当だ
190
本当はちょっと羨ましかったりしたりして
で、でもとにかく母さんに自慢できる点数だ
まぁ元々母さんは俺が赤点とっても怒ったことはないけど、だから
こそむしろ俺が居心地悪い気持ちするんだよな
来週は、約束した参観日だ
○
﹁小枝子、おはよう﹂
﹁おはようございます。いよいよ今日ですね﹂
﹁ああ。思わずこんな時間に来ちまったぜ。にしても小枝子はホン
トに真面目だなぁ。一番じゃん尊敬するぜ﹂
﹁そんなことないですよ。習慣みたいなものですから﹂
微笑む小枝子に俺は笑みを返しながら席につく。あー⋮まだかな
親がくるのは最後の4時間目︵午後からは懇談などがあるので半日
授業︶だ
○
少しずつ気の早い親が来て授業を覗き始める3時間目、俺は気もそ
ぞろに背後を伺うがまだ母さんは来ていない
今日は珍しく全く授業中に寝ていないという快挙だが、母さんが来
なければ意味がない
まだかなぁ⋮まだだなぁ
○
191
4時間目が始まった
小枝子の両親と紗理奈の母親はもう来ている。紗理奈の父親はどっ
かで何とか大会に出てるらしいが正直どーでもいい
問題は
母さんがまだ来ないってことだ
あ∼、何でなんだよ
遅れてるのか? 遅れてるだけなのか?
○
キ∼ンコ∼ンカ∼ンコ∼ン
無情にもベルがなるが、母さんは⋮⋮来てない
何で?
訳が分からない
一体何があったんだ?
事故か? ハイジャック?
それか⋮⋮俺?
192
俺が駄目だから?
俺が嫌だからこないのか?
何で、嘘つくの?
﹁皐月さん﹂
﹁え⋮⋮小枝子に紗理奈⋮⋮さん、なに? ああ、はじめまして。
皐月といいます。お二方が小枝子さんの両親で、あなたが紗理奈さ
んのお母さまですね?﹂
気づくと5人に見られていて立ち上がり、猫を何重にも被り落ち込
む心を封じて挨拶をする
かなこ
﹁ええ、はじめまして。あなたが噂の⋮ふふ、話通りね。私はこの
愚子の母親、夏奈子よ。夏奈子さまって呼んでね﹂
小枝子の両親のスーツと違い、ラフな恰好の女︱夏奈子は紗理奈の
肩に手をおいてから言う
﹁か、夏奈子さまぁ? いや、あんたふざけてんすか?﹂
なんだこの初対面からイケイケオーラだしまくりは
﹁あは! いいなぁその反応。顔も⋮ああ、作りたいなぁ。ねぇ、
私の娘にならない?﹂
﹁全力でお断りします﹂
﹁けち﹂
﹁紗理奈さん、何なんですかこの生き物は? 拾ってきたとこに返
してきてください﹂
﹁あはは⋮﹂
しげる
かおり
紗理奈が苦笑するが夏奈子はなんら反省していない。小枝子父がわ
ざとらしく咳払いをする
﹁ゴホン、私は小枝子の父の繁だ。こちらは妻の香織。君の話はよ
く聞いているよ。今後とも娘をよろしく頼む。仲良くしてやってく
193
れ﹂
﹁いえいえ、こちらこそ。普段から小枝子さんにはお世話になって
ます﹂
﹁皐月ちゃん、うちの子には?﹂
何がしたいのか夏奈子が聞いてくる
﹁なってません。だからあなたに借りも貸しもありません﹂
﹁けちぃ﹂
何を要求するつもりだ。つか夏奈子さま⋮しまった。様付けしてし
まった。つーか俺の中で人の下につくのが習慣化してるのがマジで
ヤバい
﹁あなた、時間よ﹂
妻の香織に促され繁が時計を見ると頷く
﹁ああ⋮そうだな。すまないが懇談会に行かねばならないので失礼
するよ﹂
﹁皐月さん、小枝子をよろしくね﹂
香織さんに言われ俺は軽く会釈する
﹁はい。私でよければ﹂
﹁私も行かなきゃ。またね皐月ちゃん。高田さん、でしたよね? ご一緒しても?﹂
﹁どうぞ﹂
3人が教室から出ていってから俺はため息をつく
台風のような夏奈子さんの登場でタイミングを逃したからどん底に
死にたいほど落ち込んだりはしないが、それでもやはり凹む
﹁皐月さん⋮﹂
﹁あのさ、理由があると思うんだよね。電話、してみたら?﹂
紗理奈に促され俺は携帯電話で母さんにコールするが、電源がきら
れていた
﹁⋮⋮わるいけど、帰るな。今日は淑女会もないだろ?﹂
﹁ああ⋮ないよ。うん、じゃあ⋮また明日﹂
﹁⋮皐月さん⋮あの⋮⋮私⋮ごめんなさい。何を言えばいいのか、
194
分からない﹂
﹁大丈夫。⋮俺は、大丈夫だから。サンキューな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
不安そうな悲しそうな、そんな小枝子を慰める気さえ起こらなくて
俺は教室を出て寮へ向か︱
﹁皐月!﹂
振り向くと紗理奈も教室を出て俺を見つめていた
﹁⋮なに?﹂
﹁その⋮あたしバカだからうまく言えないけどさ。元気だせ! 名
前も知らないけど君の母親ならなんか事情があって仕方なくだった
んだよ。それに⋮⋮君の母親は来れなかったかもだけど、あたした
ちはここにいるんだからね! 独りでうだうだするなよ。泣きたい
なら胸くらい貸してあげるからさっ﹂
﹁⋮サンキュ﹂
聞こえるか分からないくらいの声量で礼を言い俺はまた廊下を歩き
だす
お前はいいやつだよ。本当に
横暴なとこはあるけど他の二人に比べりゃマシだしな
俺は楽しそうな女の子の声と大人の声を聞きながらゆっくりと歩い
ていて、ふと窓の外を見て止まった
窓から見える距離にある我らが寮にまで大人がいる
おそらく懇談には片親だけがでてその後の三者面談では両方が出る
ために娘と寮で暇つぶし、と言ったところか
または片方の親は参観だけなのか⋮⋮どちらにしても、羨ましいの
には変わりがない
どうしよう。泣きそうだ
この学園にきて俺は絶対に涙もろくなってると思う
195
だけど胸にぽっかり空いた穴は誤魔化せない
﹁⋮⋮淑女会⋮﹂
今日は部活は全て休みだから部活棟には誰もいないだろう
淑女会も休みだし、淑女会室に行こう
自室なら防音も完璧だし思う存分泣けるには泣けるかも知れないが、
少なくとも寮につくまでに誰にも会わないなんて無理だ
でも部活棟になら、可能だ
○
﹁⋮⋮﹂
部活棟自体閉鎖されていたがそこは補欠と言えど生徒会役員の俺、
鍵に触れる機会があったので複製しておいた
いや、ほらこんなこともあろうかと? まぁ窓を割って入るよりマ
シだろ。屋根から換気窓に飛び移ることも可能だが見つかったら言
い訳のしようがないからな
﹁⋮っ⋮﹂
そんなこんなで淑女会室の定位置のソファー上で、俺は上履きをぬ
いで体育座りをしていた
開けたところは全て施錠したのでまさか俺がここにいるとは誰も思
うまい
﹁⋮⋮はぁ⋮っ﹂
ああ⋮なんて、説明口調で冷静さをアピールしても俺の頬を伝う涙
は隠しようがない
なんで来てくれなかったんだ?
母さんが無理でも爺ちゃんが来てくれたって良かったんだ
196
誰でもいい。無理だって使いを寄越せば良かった
一言でいい。メールで断ってくれれば良かった
すっぽかすなんて酷すぎる
どうして俺をこんなに悲しませるんだよ
﹁母さん⋮っ⋮﹂
会いたい。声が聞きたい。笑顔がみたい
トントン
戸惑うようにドアがノックされ、俺はぱっと顔をあげた
﹁皐月? ⋮あなたそこにいるの?﹂
﹁七海⋮? なんでお前が、こんなとこに⋮いるんだよ﹂
﹁口調⋮まぁ今はいいわ。私だけじゃないみんないるわ﹂
﹁みんな?﹂
﹁小枝子もよ﹂
﹁皐月様、そこで何してんの? はいるよ﹂
ガチャガチャ音がしてから弘美の﹁ちょっ、鍵かかってるってかど
うやってあんた入ったのよ﹂という声が聞こえた
○
197
元気な方がいいんじゃない?
言い出したのは紗理奈さんだ
﹁皐月元気ないしさぁ、会長もどうせ暇だしみんなでいっちょ盛り
上がること考えない?﹂
﹁え⋮私もいいんですか?﹂
﹁もち。つか皐月の友達だし⋮ま、せっかくだしあたしとも友達に
なろうよ。よろしく﹂
﹁あ、はい、よろしくお願いします﹂
紗理奈さんの提案はどちらも嬉しいものだったけれど、七海様と弘
美さんが暇とは限らないのでは? と思ってた
﹁あ、うん、じゃあ部活棟前で、ヒロにも伝えてくださいね﹂
あっさりイエスが七海様にもらえたらしく紗理奈さんは電話を切っ
てから笑って
﹁行こっか﹂
と言った
○
部活棟自体を閉じていたのでしばらく待っていると七海様と弘美さ
んがきて、七海様が鍵をじゃらじゃら鳴らしながらドアを開けた
﹁ね、どうしたら皐月好みかなぁ? 会長とヒロはどう思う?﹂
﹁別に⋮ヒロは皐月様のために集まってんじゃないし﹂
﹁私もよ。まぁ皐月は反抗的な子だしあまり元気がないのも逆に落
ち着かないとは思うけれど⋮⋮で、でも別に皐月のためではないわ
よ。だいたい犬ごときにどうして私が時間を割かなきゃならないの
よ。まぁ、試験も終わったのだから少しくらい騒ぐのもいいような
⋮﹂
198
紗理奈さんの問いに失礼ながらものすごく素直じゃなく答える弘美
さんと七海様に、私は紗理奈さんと顔を見合わせ苦笑い
﹁はいはい。ま、あたしだって皐月が落ち込んでるの見させられる
の嫌だしね。無理矢理にでも騒がせればいいんだよ﹂
﹁そうですね。皐月さんは空気を読める方ですし、すぐに乗っかか
ってきますから﹂
﹁ふーん⋮小枝子様ってさ、皐月様とどーゆー関係なわけ?﹂
﹁⋮友人です。中学2年で同じクラスになったので付き合いは4年
と言えば4年ですが高校は別になりましたし、今年に再会したばか
りです﹂
﹁へぇ、なんか意外。4年ずっと仲良かったみたいに君ら仲良しな
のに﹂
﹁それは皐月さんの人柄のおかげ、でしょうか﹂
﹁あはは、人懐こいとか物怖じしないとと言えば聞こえはいいけど、
要は遠慮しない図々しい無謀なバカだしね﹂
紗理奈さんの遠慮のない言葉にも私は言葉を返さずに苦笑を返す
良いように言えばもっと皐月さんを褒め讃えることが可能だけれど、
今言った言葉にも当てはまるのは事実だ
最も、バカは言い過ぎだと思うがそれだけ反論すると、逆にそれ以
外を積極的に認めることになるので私は話題を戻す
﹁それで、具体的に何か考えてるんですか?﹂
﹁ん? 何にも﹂
﹁え⋮﹂
﹁それを考えるために呼んだんじゃん。前みたいに夕食時間が終わ
った食堂借り切ってもいいけど、普通に誘ったんじゃ断りそうだし﹂
﹁そんなのあなたの赤点脱出祝いってことにして、﹃あたしの酒が
飲めないかー﹄って無理矢理連れてくればいいじゃない﹂
あっさり言う七海様に紗理奈さんは﹁うわ∼﹂と七海様を横目で見る
﹁⋮会長の中であたしのイメージそれ? つか何で赤点脱出って知
ってるんですか?﹂
199
﹁だっていつものあなたなら赤点だ赤点だってうるさいのに何も言
わないし、何よりあれだけ教えてあげたんだから赤点なわけないじ
ゃないのよ﹂
﹁あはは⋮ま、まぁね。バッチリだったよ﹂
﹁へー、ヒロは合計平均約90点だったけど紗理奈様はぁ?﹂
﹁⋮⋮﹂
紗理奈さんは口をつぐみ視線を反らす
平均は計算していなかったけれど、確か紗理奈さんと皐月さんでは
全5教科中皐月さんの3勝2敗だったような⋮点数は二人とも5、
60点代で⋮⋮ま、まぁ言わぬが花ですね
﹁? 今、何か聞こえなかったかしら?﹂
3階に着いた瞬間に七海様がふと立ち止まりそう言った
﹁え⋮?﹂
﹁何か聞こえた?﹂
﹁や、やだ七海様、変なこと言わないでくださいよ。ヒロを脅かそ
うたって⋮そ、そうはいかないんですからぁ﹂
そう言いながら弘美さんが私と紗理奈さんの袖口を掴んで、恐る恐
ると言った風に私と紗理奈さんの隙間から七海様を見ている
⋮⋮か、可愛い⋮。弘美さんが皆さんから妹のように可愛がられて
るのは知ってましたが⋮確かにこれは可愛いですね
あ、でもこの可愛さに皐月さんがなびかないと言うことは私ではや
はり無理でしょうか
う∼ん、それとも皐月さんは可愛い系より美人系が?
皐月さんの態度から男の方が好きと言うことはないようですが、だ
からと言って女の方が好きかはわかりませんし⋮
﹁小枝子? なにぼーっとしてるのさ、行くよ。発信元は淑女会室
だからね﹂
﹁え、あ、はい﹂
﹁ちょっ、待ってよ七海様! いや、泥棒かも!? むしろ幽霊!
? 警察に!? とにかくヒロたちの出番じゃないかもー!?﹂
200
﹁うるさいよヒロ! だいたい幽霊なんていないし泥棒ならあたし
が退治するから静かに!﹂
﹁う∼﹂
弘美さんを黙らせて静かになった廊下には特に何も聞こえない
﹁⋮何か聞こえますか?﹂
﹁⋮⋮おかしいわね。さっきはドスンという何かを床に置くような
音が⋮﹂
﹁な、七海様の聞き間違いですってばぁ﹂
﹁⋮⋮行くわよ﹂
七海様に続くようにして私たちは淑女会室の前へと進む。棟の入口
は七海様と学園長が持ってる鍵か職員室の予備しか開けられないの
で、いるならば学園長か⋮⋮無断侵入者ということになる
﹁⋮っ⋮﹂
はしたないけれど揃って分厚いドアに耳を当てると、何かを押し殺
すような声が確かに聞こえた
﹁⋮母さん⋮﹂
⋮⋮え⋮?
みなさんと顔を見合わせて、頷きあう。確かに、皐月さんの声だった
と言うかおそらくこの学園中、中等部を含めてもわざわざ淑女会室
に泣きにくる人は皐月さんくらいだろう
七海様がノックをする
﹁皐月? ⋮あなたそこにいるの?﹂
﹁七海⋮? なんでお前が、こんなとこに⋮いるんだよ﹂
素で返事をする皐月さんの声が震えていたのは気がついた。だから
七海様も皐月さんの失礼な態度は気にしないことにしたようだ
﹁口調⋮まぁ今はいいわ。私だけじゃないみんないるわ﹂
﹁みんな?﹂
﹁小枝子もよ﹂
﹁皐月様、そこで何してんの? はいるよ﹂
201
さっきまで抵抗していた反動か弘美さんが容赦なくドアを開けよう
として、開かない
﹁ちょっ、鍵かかってるってかどうやってあんた入ったのよ﹂
○
﹁開けるわよ﹂
会長が鍵をだして穴にいれようとするとダダン! と音がして目の
前のドアが揺れた
﹁駄目っ! ⋮開けないでくれ。⋮今日は仕事はないはずだろ? 何で小枝子まで⋮﹂
﹁あの⋮ごめんなさい。でも私⋮﹂
﹁謝ることはないわ。彼女はいいの。これから淑女会の一員にする
から﹂
﹁⋮え? 会長?﹂
会長の唐突な発言には慣れたつもりだったけど、このあまりに突然
の言葉には驚いた
確かに会長が推薦をするなら学園長と同じく文句なしに役員にできる
それに人出不足なのも知ってたけど⋮全く話題にしなかったのにい
きなりだ。確実に会長の思いつきだろう
﹁去年の3年生が3人やめてからどうにか有能な人が欲しかったの
よ。彼女には今更猫を被る必要もないし、丁度いいわ。あなたは雑
用にしか使えないからそのうち増やそうとは考えていたの﹂
﹁⋮そう。それはいいな。小枝子がいた方が、うん、嬉しい﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
小枝子は役員になったことより皐月の発言の方が嬉しそうに笑って
いる
202
あ、皐月のこと好きなんだ
とすぐに思った
﹁⋮⋮皐月、今あなた何をしてるの?﹂
﹁⋮別に﹂
﹁泣いてるのでしょう。いいから開けなさい﹂
﹁嫌だ。泣いてるから尚更嫌だ﹂
﹁開・け・な・さ・い﹂
﹁嫌っ! 何だよ、そんなことして七海に得があるのかよ!?﹂
皐月の真っ直ぐな問いに会長はうつ向く。何を言うのかな?
会長が口ではああ言いながら︵仲間と思ってるかは分からないけど︶
皐月を気にしてるのは分かる
皐月は今までにないタイプだからあたしにもその気持ちは分かる
けど会長は素直じゃないから﹁心配だから﹂とは言わないんだろうな
﹁⋮⋮⋮私は⋮っ、私が楽しいわ!﹂
⋮うわぁ、会長、それはミスチョイスだから
﹁変態だ!﹂
⋮⋮うん、皐月のツッコミは間違ってないよ。けど裏を読んで! 会長めちゃめちゃ怒ってる!
﹁なぁんですって!? あなた私に何てことを言うのかしら!﹂
﹁だ⋮だって⋮﹂
てか皐月って強気に言うけどわりとヘタレだよね
﹁皐月様、いいから開けなよ﹂
﹁⋮⋮嫌なんだけど。というか見なかったことにして帰ってくれな
203
いか? 三者面談とかで忙しいだろ?﹂
﹁ヒロ、親いないし﹂
﹁私は両親とも忙しいから来てないわ﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁何を謝るのか分かんないけど、さっさと開けてくんない? いい
加減皐月様しつこいよ﹂
﹁⋮⋮ちょっとだけ待って﹂
ようやくドアを開ける気になったのか皐月がそう言うとごそごそと
室内から音がする
? 何してるんだろ?
﹁ねぇ、あなたが小枝子ちゃん?﹂
﹁⋮え?﹂
聞いたことがない声にあたしたちは振り向いた
○
204
優良さんじょー!︵前書き︶
すみません。区切りがわからなくていつもより長い上に、いつもよ
りぐだぐだです。
それで良いという優しい方はどうぞ。
注︶何かこれはおかしいだろ。と思うところがあれば遠慮せずに言
ってください
205
優良さんじょー!
振り向くと見覚えのある綺麗な女性がいた
え⋮優希様、だったかしら?
それは友人の母だが、とてもそうは見えないので︵若作りにも無理
がある︶義理だろうと私は勝手に思っている
ゆ
しかし何故、優希様が? 皐月君の⋮皐月⋮いや、確かに似ている
とは思ったけれど、変装なんて変だけど⋮⋮まさか?
﹁小枝子は私ですけど⋮え、あなたは皐月さんのお︱﹂
うり
﹁えっと⋮そっち3人は淑女会の子よね? 皐月ちゃんのママ、優
良よ。よろしくね﹂
﹁優良⋮さん?﹂
別人? まさか、だってどう見ても同一人物だ
﹁ええ、なんなら優良ちゃんでもいいわ。皐月ちゃんは中かしら?﹂
﹁え、ええ⋮﹂
優良と名乗る女性はにっこりと、同性で年上なのに可愛いと思える
笑顔を浮かべてドアをリズムをつけノックする
﹁さーつーきちゃんっ、あーそびーましょ。優良ちゃんよー﹂
﹁ゆう、り⋮?﹂
﹁そ、あなたの愛する優良ママよ。開けなさい﹂
﹁本当に? 本当に⋮母さんなの?﹂
もの凄く質問したい
優希様との関係は? 本当に別人?
皐月君は⋮⋮皐月?
だけどまだドアの外にしめだされてるのに、まだ皐月が落ち着いて
206
いないのにこんな質問はできない
早く開けて
皐月の感情云々より、気になって仕方がない
早く、早く開けて
気になって仕方がない
いらいらする。母親が現れたと言うのにいつまでドアを閉めている
つもりだ
口にも表情にも出さないが、私ははやる気持ちを抑えながらじっと
優良さんを見つめる
見れば見るほど、優希様にしか見えない
○
﹁皐月ちゃん﹂
﹁⋮なんで、今なの? なんで授業には来てくれなかったの?﹂
﹁え? 私参観するなんて言ったかしら? 今日、とは言ったけど
?﹂
皐月様の不思議そうな問いに、優良ちゃんと呼べなどとほざいた母
親にしては若すぎる女は逆に不思議そうにそう言った
﹁⋮え? あれ? でも⋮﹂
皐月様の戸惑った声に優良はため息をつく
﹁まぁ皐月ちゃんが開けないのは何故か分かるわ。意地になってる
んでしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁で、もぉ? 私、魔法のアイテム持ってるわよ?﹂
うわぁ、何か頭悪いこと言ってるし。さすが皐月様の母親、でいい
のかな?
207
﹁魔法⋮?﹂
﹁そ、じゃんじゃじゃ∼ん、私の手作りケー︱﹂
優良の言葉が終わらないうちにドアが勢いよく開いた
﹁いらっしゃいませ!﹂
泣いた跡を隠さすに笑顔の皐月様がいた
早っ!!
あんた⋮プライドはないのかよ。ケーキて⋮まぁ無駄に食に貪欲な
のは知ってたけどさぁ
﹁効果は抜群ね﹂
さすが、母親⋮扱いは心得てるわけね
ヒロはこっそりため息をつく
ま、良かったじゃん。あんたには優しい母親がいるんだからさ
うちのなんか⋮⋮やめた
あんなの母親だなんて認めたくないし、﹃母親﹄の言葉からあれを
連想したことが自己嫌悪だ
バカだと思う。たかが母親の行動や言動一つで一喜一憂するなんて
ま、事実皐月様はバカだし、それに単純なのは、悪い印象じゃない
あと⋮やっぱり皐月様は元気だけが取り柄なんだから、笑ってたり
するほうがいいかな
○
﹁効果は抜群ね﹂
母さんがにっこり笑う
会いたかった。会いたくて抱きしめたくてキスがしたい
だけどそれより先に、俺は欲望のまま腕を伸ばし
208
﹁ありがとう! うわ、チョコにイチゴのホールだ。僕の好きなや
つじゃん。うまそー﹂
母さんからケーキの入ってる箱を受け取り中身をチェックした
くる、と踵を返し机に箱を置いて奥の棚からポットやカップを出し、
いつものように紅茶の用意をする
﹁弘美はいつもみたいにオレンジジュースでいいか⋮⋮い、いいで
すか?﹂
﹁いいけど⋮あんたあっさりしすぎじゃない?﹂
﹁そうですけ、どっ!?﹂
振り向けば紗理奈のアップと共に手刀がきたので受け止める
﹁おおぅ!? なんだ紗理奈さん!?﹂
﹁せっかく心配したのに君の態度なにそれ!? ちょっと一発叩か
せなよ!﹂
﹁や、ちょっ、待てや。分かった、分かったから待て。俺が悪かっ
た。死ぬほど悪かった。だからやめろ﹂
紗理奈は逆立ててた眉をゆっくり戻しふぅと息をはいてから手をお
ろす
だから俺も息をはいて手を下ろ
﹁たぁ!﹂
﹁だあ!?﹂
殴られた
しょしかんてつ
おま、手刀より酷くなってる!
﹁初志貫徹!﹂
﹁知るか!﹂
﹁さて、あたしも紅茶いれるよ。そこの⋮優良様? はミルクいれ
ますか?﹂
﹁優良ちゃんか、さんで﹂
﹁⋮⋮優良さんはミルクいれますか?﹂
﹁お願いするわ﹂
とりあえず紅茶をいれて席につくと母さんが隣なのはいいとして反
209
対側は何故か弘美だった
図にすると
弘美︱俺︱母さん
机
小枝子︱紗理奈︱七海
ん? 変だな。このさい弘美は普段の4人の時は隣だからいいとし
て、何故に七海が母さんの前?
三人で椅子に座る時はいつも真ん中のくせにな?
⋮はっ! 七海、母さんと面識あるじゃん!!
しまったぁ! うわ! うわっ! どうする!?
だって滝口皐月=崎山皐月ってバレたら、家で男のふりできねーし!
どーする? どーするよ俺!?
1、断固として他人のそら似︵いや無理がある︶
2、この際ばらして口止め︵保証はない︶
3
210
﹁結婚する?﹂
母さんが普通に言った。突然のことに4人はクエスチョンマークを
浮かべているが、俺には分かる
こいつ俺の脳内読みやがった
﹁いや、なんでやねん。つーかナチュラルに心を読まないでくださ
い﹂
つかしかも俺の脳内選択肢に﹃結婚﹄をいれるな
﹁だって皐月ちゃん、分かりやすいもの。まだ説明してないんでし
ょ? お母さんがしてあげるわ。説明が終わるまでケーキはお預け
ね﹂
﹁え﹂
説明をするのも﹁え﹂だが、ケーキお預けにも﹁え﹂だ
してくれるなら手間はないが何を説明するつもりだ
そして何故ケーキをお預けなんだ! もうフォーク持ってるのに!
? 弘美と紗理奈はもう食べてるし!
﹁さて七海ちゃん、私に質問があるんでしょ? 3つまでどうぞ﹂
﹁なんで3つ?﹂
﹁何事も3つくらいが丁度いいのよ﹂
よく分からん理屈だ
﹁⋮では、あなたと優希様のご関係は?﹂
またストレートな。紗理奈と弘美は分からないのか首を傾げる
﹁優希? 誰それ。紗理奈様知ってます?﹂
﹁いや。知らないよ。小枝子は?﹂
﹁えと⋮知ってますけど、私から説明するのは少し⋮﹂
﹁じゃあ聞こう。てかこのケーキ美味しいよね﹂
﹁ま、手作りにしてはね﹂
﹁ゆ⋮優良さんはお料理が上手だと聞いてましたけどお菓子作りも
得意なのですね。私もたまにしますけど、これには負けますね﹂
211
﹁へぇ、あたし料理って全然できないんだよね、なんかこう違うも
のにな︱﹂
﹁紗理奈。小枝子にヒロも、あなた方少し黙りなさい﹂
七海の厳しい言い方に小枝子がびくっとするが紗理奈は平然とひら
ひらと手をふる
﹁はぁい﹂
﹁えっとね、皐月ちゃんたちは隠したいみたいだけど、実は優希ち
ゃんは私の双子の妹なの。皐月君は皐月ちゃんの従兄弟﹂
あー⋮まぁ無難な設定だよな
七海は何やら複雑そうな顔で俺を見ては母さんを見る
﹁え⋮そ、そうなんですの?﹂
﹁そうよ。当たり前じゃない。だって優希ちゃんと私が同一人物だ
ったら、皐月ちゃんが皐月君ってことじゃない。この子、女の子よ
? まぁ皐月君可愛いし、皐月ちゃんとそっくりで見分けつかない
くらいだけどね﹂
﹁そ⋮そうなんですの?﹂
七海は依然として胡散臭そうな疑惑の目を俺に向けているが、母さ
んの﹁女の子よ?﹂のくだりで無理矢理納得するような頷きをする
まぁ⋮納得するしかないよな。普通⋮
つか母さん普通に嘘言えるんだ。しかもスラスラ⋮まぁ、分かって
たけどね
﹁うん。だから変装するって聞かなくて⋮せっかく皐月ちゃん可愛
いんだから、変装なんかとっちゃえばいいのにね﹂
﹁そ⋮そうですわね﹂
﹁まぁ中身は皐月君よりずっと男前だけど、並べると双子の兄弟み
たいよぉ。というかまぁお父さんが男として皐月ちゃん育てたから
仕方ないんだけど﹂
﹁男と、して?﹂
﹁あ、駄目よ﹂
212
﹁え?﹂
﹁それは4つめの質問だから答えられないわ﹂
﹁⋮⋮え﹂
七海は驚いてるが確かに﹃そうなんですの?﹄って質問二回してる
もんな
﹁じゃあ皐月ちゃん﹂
﹁いただきます﹂
俺はフォークを置いて右手で掴んで3口で食べた
﹁ごちそーさま﹂
﹁早っ! しかも君、行儀悪すぎ。男として育ったのは分かったけ
ど、だからってありえないよ﹂
﹁うるさいですよ、紗理奈さん﹂
﹁まぁ皐月様だし? てか今の話だと従兄弟が同じ名前なわけ? 変なの﹂
﹁優希ちゃんと私そっくりだから、同じ日に子供生んで、その瞬間
にこの名前をつけようって思ったの。運命よねぇ﹂
﹁へぇ、双子って面白いんですね。皐月に似た男ねぇ。会ってみた
いかも﹂
感心半分、好奇心七割でにやにや笑いをする紗理奈に俺はため息を
つく
﹁止めたほうがいいですよ﹂
﹁恥ずかしいのよね? 皐月君ね、可愛いわよ。本っ当に皐月ちゃ
んにそっくりだからびっくりするわよ。はい写真﹂
全く母さんはまた面白がって好き勝手なことを⋮⋮ん?
﹁写真?﹂
待てやお前。一体何の写真だ
見られる前に母さんが鞄から出した写真をひったくって検証
写真には、友達と写ってる中学のころの俺と、それに紛れるように
213
黒髪が長い俺が並んでいた
﹁⋮⋮﹂
髪の毛が黒で長くなってはいるが眼鏡とかないし普通に顔が同じな
のが分かるが、表情も微妙に違うしこうやって見るとマジで双子に
見える
これ、どうなってんだ?
流行りのCGってやつか?
わかんねぇけど⋮スゲーな。前から思ってたけど、設定とか凝りす
ぎだろ
﹁あ、本当だ。皐月様にそっくりだ﹂
横から弘美に覗かれてたがこれなら見せても特に問題はない
﹁あ⋮ああ、男前だろ?﹂
﹁え∼? まぁ不細工じゃないけど女顔だよね﹂
﹁そんな不満そうに⋮さ、紗理奈さんはどう思います?﹂
紗理奈に渡すと七海と小枝子も覗く。七海はしばらく凝視してから
何やら考えてるようで黙りこんしまう
紗理奈は気づいてないようで困ったように頭をかく
﹁え、ん∼、悪くないんじゃない? 可愛い系だよね。ていうかマ
ジでそっくりだから何とも言いにくいんだよね﹂
﹁とっても素敵ですわ﹂
﹁へぇ、小枝子こういう趣味なんだ? もしかして皐月とラヴな関
係?﹂
﹁え、あ⋮﹂
反射のように俺を賛辞してから気付いたのかぱっと頬を染める小枝
子に母さんがにっこり笑う
﹁可愛いなぁ。ねぇ皐月ちゃん、いつ結婚するの?﹂
﹁⋮何を言いますか。僕は誰とも付き合ってない。と言うか母さん
214
さ、本気で僕を婿にだす気?﹂
﹁違うわよ。皐月ちゃんは可愛いお嫁さんをもらうの﹂
﹁⋮⋮はぁ、本気だから性質悪いんだよなぁこの人﹂
﹁なに? 皐月様の母親って阿呆なの?﹂
母さんも母さんだが、弘美は弘美で何の遠慮もなくとんでもないこ
と聞いてくるな
﹁本人を目の前にしてそういう言い方はやめてください。というか
⋮違います。私の戸籍⋮⋮男なんです。え∼、ほら、私、男として
育てられたって言ったでしょう?﹂
﹁はぁ? 戸籍が男って⋮真面目に言ってんの?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあじゃあ、私、皐月さんと結婚できるんですか?﹂
おい、何を聞いてますか小枝子さんよ
﹁勿論よ小枝子ちゃん、私小枝子ちゃんみたいな娘欲しぃわ﹂
母さん! ⋮うわ、なんだこの状況は
﹁本当ですか?﹂
﹁ええ、皐月ちゃんはどう思ってるの? どの子が本命? 美人揃
いよね﹂
﹁母さん⋮うち2人は悪魔だからね?﹂
紗理奈は除いた。そう悪い奴じゃないみたいだしな
﹁お、最初はあたしたちのことひとくくりにしてたのに減ったね。
何? 真面目に会長かヒロのことお気に入り?﹂
﹁いやお前だし。素でわりといいやつっぽいし﹂
﹁へ? あ、あたし?﹂
本当に考えてなかったのか意外そうな紗理奈
﹁そりゃまぁ七海様と弘美さんだって嫌な人じゃないけど⋮いじめ
215
っ子だし﹂
﹁皐月ちゃんいじめっ子嫌いだもんね﹂
﹁でも対象俺だけだし相手が女だから手ぇ出せないしストレスたま
るわぁ!﹂
﹁というか弘美さんも七海様もそうは思いませんけど。七海様は思
っていたよりは厳しい方だけれどしっかりしてるのだし、弘美さん
の我が侭も可愛い範囲じゃないですか﹂
﹁甘っ! 小枝子、お前聖女かよ。あの普段の猫被ってないの見て
⋮⋮はぁ、イイヤツだなぁ﹂
﹁結婚するの?﹂
﹁しません。あ、いや別に小枝子が嫌いなんじゃなくて、むしろ好
きだぞ?﹂
母さんにぴしゃりと断りをいれるとあからさまにショボンとする小
枝子にフォローをいれる
ああ面倒だなぁ。てかあなたそんなキャラでした? いやまぁ、可
愛いけどさ⋮⋮
あ、ヤバい。なんか母さんにかなり毒されてる。可愛いのは認める
し女は大切にしようと思うし守りたいけど、だからって恋愛対象に
するってわけじゃない
確かに母さんの言うことも、分からないでもない
俺は絶対に男を好きにならないし、女の方が親しくはなれる
そして女でも構わず好きになるのなら、確かにここにいるのはタイ
プは違えど上玉揃いだ
けど、正直今はそんなの考えられない
小枝子のことは本当に︵母さんと爺ちゃんの次に︶好きだし、可愛
216
いからキスして︵勿論、頬だ︶抱きしめたいくらいは思うけど、唇
には恥ずかしいし、肌を晒してセックスしたいなんて絶対に思わない
﹁まぁ結婚はおいといてよ。今は、考えられないし。けどま、男と
する気だけはないから、母さんの可愛い娘も夢じゃないんじゃない
?﹂
嘘だけど
﹁やぁね、皐月ちゃんは十分可愛い娘よ? だぁいすき﹂
﹁⋮母さん⋮﹂
﹁だからその変装とって? バレてるんでしょ?﹂
うわぁ、すがすがしいほどの笑顔で言い切られたよ
﹁それ、ヒロも思ってたぁ。バレてんのにする意味ないじゃん﹂
﹁まぁね。聞くタイミング逃してたけど、なんで変装なんてしてた
わけ?﹂
弘美と紗理奈の疑問に俺は﹁あー﹂と唸りながら母さんに助けを求
める
にっこりと我が母親ながら可愛い笑顔を向けられ俺も微笑む
﹁皐月ちゃんバカだからね﹂
待てや母親
いきなり笑顔でなに娘を罵倒するか
﹁だから、皐月君との関係を聞かれるのが面倒だったのよ﹂
う∼ん⋮苦しいと思うよ
じと∼、と小枝子以外の3人娘が俺を見てくる
217
﹁もう一つ理由はあるけど、内緒よ。皐月ちゃんがいいかな∼って
思ったら話すわ、ね?﹂
﹁う、うん﹂
﹁今言いなさい﹂
﹁やです﹂
﹁いいじゃん。なんならもれなくあたしが校内新聞にして発表する
からさぁ﹂
﹁いーわけあるかぁ!﹂
紗理奈に怒鳴りながら先ほどの発言を後悔する。何でそーゆー思考
回路になるんだよ
やっぱお前も悪魔だ!
﹁ま、とにかくとりなさいよ。私も前から止めて欲しいとは思って
たわ。あなたが他の方に猫を被るのは勝手だけど、敬語すらままな
らないのだからこの部屋では止めて欲しいわ﹂
七海が腕組みをしながら相変わらずの尊大な態度で背もたれにもた
れて言うが、敬語は使えって言うわりに矛盾してんだよ
﹁やー、です、よ。命令聞く義理はありませーん﹂
﹁あ、皐月ちゃん皐月ちゃん﹂
﹁え?﹂
母さんが綺麗な笑顔のまま鞄から何やら出す
﹁鞄にチョコレートが一個だけ残ってたわ。欲しい?﹂
小さな袋入りの一粒を眼前に出してきたので頷く
﹁欲しい!﹂
﹁じゃあ目をつぶって口開けて?﹂
﹁あ﹂
素直に目をとじ大きく口を開けるとサイズの大きい眼鏡が少しずれた
﹁邪魔だし、眼鏡とるわよ﹂
何に邪魔だよ。まぁ眼鏡くらいはいいか。それより
﹁早く∼﹂
﹁落ち着きなさい。ケーキカスがついてるから拭うわよ﹂
218
﹁∼﹂
口を開けたままなのに頬を何かで拭いてくれるから頬肉が口内にへ
こんでくる
てか、そんな両頬にいっぱいつくほど変な食べ方したかなぁ?
﹁はい、投入∼﹂
苦甘いチョコが口に入ってきたのでよだれだらけの口を閉じる
﹁ん∼。美味しい。ん? みんなどうかしました?﹂
味わいながらようやく目を開けると小枝子は苦笑し、3人は何やら
珍しいけどどうでもいいような、そんなものを見るような目をして
いる
﹁⋮皐月⋮あなたバカでしょう?﹂
﹁は? 失礼な⋮何様だ、ってどうせ七海様だっつーんですよねは
いはい﹂
七海の唐突な言葉も流すがさらに紗理奈や弘美、小枝子まで微妙な
表情だ
﹁いや、あたしもバカだと思うよ﹂
﹁ヒロは前から思ってたし﹂
﹁⋮⋮その、そういうところも皐月さんの魅力の一つだと思います﹂
﹁?﹂
なんだ? チョコを食べさせてもらったら駄目なのか?
﹁皐月ちゃん、髪の毛うっとおしくなぁい? ヘアピンつけてあげ
るわ。部屋を出るときにとればいいでしょ?﹂
﹁え、やだよ﹂
﹁あら、実はもう一粒チョコレートがあっ︱﹂
﹁つけるつける、つけて?﹂
﹁いい子ね、皐月ちゃん﹂
﹁うん。僕いい子だよ﹂
母さんが俺に包みごと渡し、シンプルな紺のヘアピンを持ち喜々と
して俺の前髪に触れた
﹁美味しい。母さん大好き、もっとないの?﹂
219
﹁残念、ないわ﹂
﹁⋮ちぇっ、まぁいいや。ねぇねぇ、膝に乗ってもいい?﹂
﹁どうぞ﹂
にっこり笑って母さんは膝をたたく
﹁うんっ﹂
俺喜んで母さんの膝に座る。4人の微妙な視線はオール無視
母さんへの愛に他人の意見は関係ないのさ
何故なら母さんを愛してるからだドーン!︵効果音︶
あ∼、やっぱり母さんの傍は落ち着くなぁ
母さんの腕を掴んで俺の体にまわす
﹁ふふ、皐月ちゃん子供みたいね?﹂
﹁子供だよ。どれだけ年をとったって僕は母さんの子供だ。どれだ
け年をとったって、僕は母さんを愛してる。ずっと一緒だよ﹂
もたれると豊かで柔らかな弾力のあるものが背中に触れる。膝枕な
らしょっちゅうだったけど、膝に乗るのは本当に久しぶりだ
と言っても母さんが足を広げた空間に座るのであって本当に上には
乗らないけど︵だって俺の方がでかいんだぜ?︶
﹁でもね、やっぱり学校っていいものでしょ?﹂
﹁うん。大変だしいじめてくる後輩も厳しい先輩も、他にも色々あ
るけど楽しいよ。でも心には母さんがいるよ。それくらいならいー
じゃん﹂
﹁そうね。でも、いつかは別の人を見付けなきゃ。別に男の子でも
いいわよ。特に仲のいい子が確か二人くらいいたじゃない。戸籍な
んて、どうにでもなるんだからね?﹂
最後にこの体制で甘えてた時は頭の上から声がしたけど、今は耳の
後ろがくすぐったくて、でもそれすら心地よい
母さんが優しく俺の髪を撫でる。カツラを外せばよかった。感触が
よく分からない
220
﹁ただの友達だよ。あと、普通はどうにもならないよ。あと⋮ムナ
クソ悪くなるから二度とそんなこと言わないで﹂
俺の物言いに俺らを鑑賞するようにして話をしていた4人がばっと
俺を見た
﹁ごめんね。でもきっとまた言うわ。皐月ちゃんのこと愛してるも
の﹂
﹁⋮⋮﹂
こんなにも近いのに
こんなに、誰より傍にいて温もりも、吐息さえ感じるのに
母さんが、酷く遠い
母さんのさりげない一言で、一瞬のうちに俺の満ちたりた幸福な気
分は無散した
そして、最近よく感じる恐怖が訪れる
母さん⋮何が目的なの?
愛してるよ。心の底から愛してるんだ
他に何もいらないなんていいきれないし、もし爺ちゃんと母さんが
断崖絶壁で落ちそうでどちらを助けるか聞かれても、どっちも助ける
でも今、目の前で本当に母さんがナイフをつきつけられたら?
きっと何も考えてなんかられない
感じることさえできない
守るために何の代償も躊躇わないだろう
221
もしかすると、爺ちゃんを殺せと言われても、そうするかも知れない
そこまで考えて、戦慄した
何だ? 今何を考えた?
爺ちゃんを⋮殺す?
あんなに大好きなのに?
あんなに⋮俺を愛してくれてるのに?
俺は⋮未だに母さんしか愛してないのか?
母さんしか、見れてないのか?
﹁皐月ちゃん?﹂
﹁ぁ⋮母さん⋮僕は⋮ごめんなさい。期待に、沿えない﹂
﹁え?﹂
﹁愛せないんだ。誰も、母さん以上に思えないんだ。だって⋮僕は
爺ちゃんを⋮⋮あんなに愛してくれてるのに、母さんのためなら殺
してしまうって気付いたんだ﹂
﹁⋮皐月ちゃん⋮﹂
﹁僕は最低だ。クズだ。ゴミだ⋮⋮⋮﹃先生﹄は、正しかったんだ﹂
﹁皐月ちゃん! ⋮今のは訂正しなさい﹂
母さんが厳しく︵珍しく︶鋭い声をだすから4人はびっくりして声
222
を失うが、俺は以前ひたすらこれで怒られたから驚きはしない
﹁⋮無理︱﹂
﹁皐月ちゃん!! お母さんの言うことが聞けないの!?﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
それでも、母さんの声が悲しくて辛くて、そんな悲壮な声だから
嫌われたくなくて、謝る
﹁⋮うん。ママもごめんなさい。怒鳴ったりして。恐かった?﹂
﹁⋮⋮怖いよ。母さんが俺を﹃愛してる﹄っていう時が、一番恐か
った﹂
正直にそう言うと母さんは笑顔を消して目を見開いた。母さんが今
日来てから初めて笑顔がなくなったんだけど、それはほんの数瞬で
また笑顔が現れた
﹁⋮そうね。ごめんなさい。気をつけるわ﹂
いつからだろう? 母さんがいつもいつも、常に笑顔を浮かべてい
たのは
元々優しい人で、よく笑う人で、だから気付かなかった
でも、待って
本当に?
そんないつもいつも、常に心から笑顔を浮かべられる人間なんてい
るの?
母さんは⋮いつから無理をしてたの?
俺のせい?
俺のせいだ。俺が甘えるから母さんが頑張って、俺が甘えるから母
さんは心配をさせないように笑うんだ
223
俺はバカだ。母さんが俺にまで気をつかってるなんて、今の今まで
気付かなかった
﹁⋮愛してるんだ﹂
﹁ええ﹂
﹁愛して欲しいんだ﹂
﹁⋮⋮愛してるわ。本当に、心からあなたを愛してるわ。世界で何
よりあなたを愛してる。あらやだ、皐月ちゃんのことを言えないわ
ね、だってお父様か皐月ちゃんなら、あなたを迷わずにとるもの。
あなたは私の可愛い、本当に可愛い娘よ。愛してるわ﹂
さっきのとは違う﹃愛してる﹄で、俺は嬉しくてしかたなかった
何処が違うかなんてよく分からないけど、こう、想いと言うか厚さ
が違う気がする
﹁⋮うんっ!﹂
とにかく、﹃愛﹄をつたえるために﹁愛してる﹂と言ってくれてる
のが分かる
それがとても、嬉しかったんだ
母さんが俺のためにたくさん苦労をしていても、俺を愛してくれて
いるなら許される気がした
そんなのただの自己満足なのに
苦労をかけて、手間をかけさせて、なのに俺はただ母さんに甘えて
泣くだけだ
頑張ってる?
母さんを支える?
笑わせる。今の俺は頑張ってなんかない
まして支えられない
224
でも、どうしたらいいんだろう?
勉強を頑張ればいいの?
真面目にすればいいの?
違う。母さんは、俺が﹃マトモ﹄になるのを望んでるんだ
じゃあ⋮何をすればいい?
どうやって男に慣れればいい?
どうやって女に慣れればいい?
どうすれば人に触れられて過剰反応せずにすむ?
どうすれば⋮恋ができる?
﹁ねぇ母さん﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮やっぱり何でもない。それより聞いて。僕、今回のテスト凄く
良かったんだ﹂
﹁あら、何点?﹂
﹁平均したら⋮60くらいかな﹂
﹁良かったわね、赤点じゃなくて。皐月ちゃんは頑張り屋さんだも
のね﹂
﹁うん﹂
﹁でも、次は70点を目指しましょうね?﹂
225
﹁う∼ん⋮無理﹂
﹁皐月ちゃん?﹂
﹁⋮いや無理だって。精一杯ですから﹂
﹁皐月ちゃん、何も100点をとれ、なぁんて言ってないわ。でも
諦めたら何もできない。そうでしょう?﹂
﹁⋮うん﹂
言われてから気づく
俺は今までだって、そうだ
諦めて、妥協して、甘えていた
そうか、そうだったんだ。だから俺は駄目だったんだ
﹁分かった。頑張るよ。頑張って⋮頑張ってみる﹂
だから
どうか俺に呆れないで
どうか俺を見捨てないで
﹁だから、待ってて。いつか、人間になるから﹂
﹁君はどこぞの化物か、なんだよ人間にって。皐月は人間じゃない
わけ?﹂
あ、しまった。間違った
﹁⋮あ⋮あはは﹂
﹁まぁまぁ。皐月ちゃん、ママはいつまでも待ってるからね﹂
﹁うん﹂
○
226
﹁あら、もうこんな時間なのね﹂
下校ベルが鳴り響き、七海がそう呟いた
ああ⋮そう言われて見ると窓の外はかなり暗い。最終の下校ベルが
鳴るのは7時だったか
それで部活も全て終わりだ。夕御飯は6時から9時だしもう始まっ
てるが、今からだとちょうど部活が終わった生徒軍とかち合って混
雑してしまう
﹁とりあえず寮に戻りましょう。優良⋮さんも、申請すれば生徒と
同室でなら宿泊可能ですわよ﹂
片付けをしながら七海が言うが、母さんはあっさり口を開く
﹁あらありがとう。でも大丈夫よ。もう帰るから﹂
﹁ええ!?﹂
まぁ泊まるとも聞いてないけど、もう帰っちゃうの?
﹁ごめんね。でも待たせてるから﹂
﹁タクシー?﹂
﹁ううん、ヘリコプター﹂
﹁⋮は?﹂
ちょっと待て、お前今なんつったんだよ
﹁飛行機は大げさだからぁ、ヘリで来ちゃった﹂
キャハと可愛く言う母さんだが、今度ばかりは流されないぞ!
﹁ここまでくるなよ!﹂
﹁大丈夫よ﹂
﹁ど・こ・が!?﹂
﹁この学校、ヘリポートがあるから﹂
﹁そういう問題じゃない! 激しくない!﹂
﹁まぁまぁ、えっと⋮皐月の母親らしいよ﹂
なだめるように言う紗理奈だが、それ、バカにしてんだろ?
﹁そーいう紗理奈さんの母親だって何なんですか。わけ分かんない
227
ですよ﹂
﹁あ∼、うちの母親最近化粧にこっててさ。指揮者で忙しいわりに
化粧サロン作ろうとしてるんだ。あと素で人を飾るのが好きなんだ
よね。特に若い子が好きなんだ﹂
理由は分かったが、だからってあの言い方とか初対面でありえねーし
﹁変態ですね﹂
﹁君の母親も十分変だよ﹂
﹁そこも愛してます﹂
﹁あーはいはい﹂
○
﹁じゃあ皐月ちゃん、またね﹂
﹁うん﹂
母さんは俺の両頬に一度ずつキスをしてそう言った
﹁みなさん、うちの皐月ちゃんをよろしくお願いします﹂
﹁いえ、皐月は私たち淑女会の立派な一員ですから。責任を持って
お預かりいたしますわ﹂
な、七海⋮そんないきなりどうしたんだ?
嬉しいけど⋮キャラ違うし不気味だぞ
飛び立つ母さんを見送るとふぅと七海は息をはく
﹁さて、行きましょうか。あ、念のために言っておくけど、形だけ
はああ言っただけでペットがあまり調子にのるんじゃないわよ﹂
﹁そーそぅ。まぁ小枝子様はともかく皐月様はあたしの下僕なのを
忘れないでよね﹂
⋮⋮そうだよ。これがこいつらの本性だよ
少しでも喜んだ俺が阿呆でした
228
﹁まぁまぁ。それより行こう﹂
﹁あ、はい。お腹も減りましたしねぇ﹂
﹁駄目だよ﹂
﹁え?﹂
﹁九時までは食堂に行っちゃ駄目だよ。お風呂にでも入ってなよ﹂
﹁⋮はい? ちょっ、何でですか? 食堂閉まってるじゃん﹂
俺に餓死しろと?
﹁とにかく駄目。小枝子、皐月か食堂行かないように見張っててね。
あたしたちは⋮ね? 会長﹂
﹁ええ⋮そうね。じゃあ皐月、絶対に何も食べては駄目よ。餓死し
ても駄目よ﹂
﹁な︱﹂
﹁言うこと聞かなきゃヒロの下僕から家畜に格下げだからね﹂
﹁⋮それ、どっちが下なんだよ﹂
﹁バァカ、家畜に決まってんじゃん﹂
なんなんだこいつらは⋮
つか⋮なに企んでんだ?
○
229
優良さんじょー!︵後書き︶
ここまで読んでくださりありがとうございます。
これから皐月はトラウマを乗り越えて行く予定ですがぶっちゃけあ
まり考えてません。
とりあえずみんなと仲良くなるつもりですが、誰と結ばれるかも考
えてない上に、新しいキャラも考えたりしてます。
が、かきわけも面︱ごほん、難しく収集がつかなくなりそうで迷っ
てます。
何かご意見があればどうぞお気軽にお寄せくだされば光栄です。
シロクロ
230
パーティーをしよう
﹁⋮⋮小枝子ぉ﹂
﹁はい﹂
﹁マジで腹減ってるんだけど﹂
﹁本当にごめんなさい。ですがもう少しだけ待ってくれませんか。
ああ、でも皐月さんが辛いならこっそり私が食事を︱﹂
﹁あー、いいよ。小枝子が悪魔3人組に怒られるし﹂
﹁そうですか? ですが遠慮はしないでください。私、皐月さんの
ためなら何でもしますから﹂
﹁あんがと﹂
﹁いえ、待ってもらってるのは私たちですから。ですがもう9時半
を過ぎましたし⋮少し様子を見て来︱﹂
コンコン
立ち上がる小枝子の言葉を遮るようにノックがしてドアが開いた
﹁おっ待たせ∼。んじゃ、食事にしようか﹂
﹁紗理奈さん、それはいいけどマジでなんなんですか?﹂
﹁着いてきてのお楽しみだよ﹂
紗理奈はパチリとウインクするが、七海と弘美がいないのにも不安
を覚える
部屋風呂で言われたようにすでにすっきりしているんだから、また
風呂に入るような目に会うのだけは勘弁してくれよな
﹁遅い。遅いわよ皐月﹂
﹁皐月様ったらおそぉい﹂
﹁まぁまぁ、皐月さんも色々あるのよぉ﹂
食堂に連れて行かれると何故か柚子先生がいた。
231
﹁はぁ⋮すいません? え∼、なんでこの人デキ上がってんすか?﹂
食堂ではいつもと違いご馳走が並べてあり、机配置が変わり椅子は
端に言っていて何故か真ん中にお立ち台が⋮⋮カラオケマシーンな
んか見えない。見えないんだ。
ともかく、七海と弘美は普通だが柚子先生は真っ赤な顔で、あから
さまに酔ってる︵ついでに空のワイン瓶が一本転がってて今持って
るのは半分減ってる︶。
﹁やぁねぇ∼、この人なんて⋮柚子せんせぇって呼・ん・で﹂
﹁⋮⋮普段と変わらね∼﹂
だけど息臭いし絶対酔ってるよ。
俺は責任者︱七海に目をやる。睨み返された。
﹁何かしらその反抗的な目は﹂
﹁別に⋮は! もしや柚子先生を酔わせて⋮何をするつもりだ鬼蓄
!﹂
﹁何を考えているのよ!﹂
ええい、よりによって教師の身ぐるみ剥いでしまうつもりか。金が
あるくせに何でそんな強盗のようなことを⋮?
﹁皐月、とりあえず君が考えてるのは間違いだよ﹂
﹁わ! ⋮ってえ? 俺、じゃない私を強盗の共犯にするんじゃ⋮﹂
紗理奈が肩をぽんと叩いて来たので慌てて振り払いファイティング
ポーズをとってから?を浮かべて問いかけると、紗理奈はもの凄く
呆れた顔をした。
232
﹁⋮⋮予想以上に検討外れな答えをありがとう﹂
﹁? 違うんすか?﹂
﹁違う。てかさりげに失礼だし。肩に置いた手を振り払うとことか﹂
﹁や、恥ずか⋮バズーカが欲しいです﹂
真っ正直に﹃恥ずかしい﹄と言おうとして慌てて誤魔化す。普通は
こんな何でもない触れ合いに恥ずかしいなんて思わない。
俺だって自分からするにはなんの問題もない。が、自分が了承しな
いうちに相手から触られるのは無理だ。
まぁこの生活でだいぶ恥ずかしいのにも慣れてきたが、まだとっさ
に拒否反応がでるのは許せ。
﹁いや、誤魔化せてないし﹂
﹁⋮まぁ、とにかく、だ。なんなんすか?﹂
﹁ん、パーティー﹂
わかんないの? 頭悪いなぁとでも言いたげな紗理奈に俺はため息
で返す。
﹁⋮⋮なんで?﹂
﹁﹃祝・あたしの赤点脱出﹄を主に。ついでに母親がこない皐月を
元気づけよかなって。ま、結局きたしぶっちゃけどうでもいいけど
ね﹂
﹁⋮そういうのはオブラートに包め﹂
﹁あはは。まぁとにかく、会長、音頭お願いしまーす﹂
﹁ええ、今夜は飲むわよぉ。と、その前に小枝子、鍵をかけて。紗
理奈は寝てる柚子先生を隅へ﹂
233
言われて見ると柚子先生はうとうとと舟をこいでいた。
﹁はい﹂
﹁らじゃ﹂
素直に二人が従う。柚子先生は本格的に寝始めて紗理奈が背負って
並べた椅子に寝かせても起きない。上に布団をかけ戻ってきた。
小枝子も七海に言われるまま窓にまで全て鍵をかけてから俺の隣に
立った。
﹁じゃあ、宴を始めましょう。面倒な講釈はなしよ。乾杯!﹂
﹁イェーイ!﹂
3人が一斉に喉をならしてそれぞれの器を空にするのを俺と小枝子
が見る。
いや、飲み物を配ってからにしろよせめて
飲み終えてからようやく気付いた3人はそれぞれの飲み物を俺達の
前に並べた。
ビール瓶
徳利︵多分中身は日本酒︶
赤ワイン
3人が飲んでいるのはだけだが実際はそれ以上の種類が封を開けら
れずにある。
⋮後で飲む気じゃないよな?
﹁小枝子、あなたは何がいいかしら? ビール? それともウィス
キーやブランデーが好みなのかしら?﹂
234
﹁あたしは焼酎がお勧めだよ。今日のは泡盛。沖縄から通販で取り
よせた特別いいやつだよ﹂
﹁じゃあ俺はチュウハイで﹂
﹁私は⋮お酒は少し⋮⋮烏龍茶でお願いします﹂
3人はすでにめいめい勝手な酒を飲みながらため息をつく。
﹁あなたたちねぇ⋮雰囲気を読みなさいな﹂
とはオヤジのようにビール瓶を持ちながら言う七海。
﹁つかチュウハイって何か分かってる? 焼酎の炭酸割りだよ!?
冒涜だよ!﹂
ダンッ、と紗理奈が徳利を乱暴に机にいくつも置いてコップに半分
そそぎ炭酸水を溢れるまで注いだ。
って作ってくれんのかよ。
﹁ああ、ありがと⋮。小枝子は烏龍茶なんだよな、取って︱﹂
冷蔵庫に行こうとすると手をひかれ、振り向くと弘美が物凄い形相
をしていた。
﹁あんたバカじゃないの? 酒だってんでしょ!? 小枝子様!﹂
弘美は俺を離して小枝子に詰め寄り、小枝子はびくっとして気をつ
けをする。
﹁え、あ、はい!?﹂
﹁飲め!﹂
235
問答無用で弘美は小枝子の口に赤い液体がたゆたう瓶を逆につっこ
んだ。
﹁ぎゃああ!? お前酔ってるの!?﹂
小さな小枝子の喉が忙しく動き、半分まで減るとようやく弘美は瓶
を小枝子の口からはずす。
﹁っはぁ⋮ごほっ﹂
﹁だ、大丈夫か小枝子?﹂
﹁あ∼、皐月さんがいっぱいいる∼﹂
﹁⋮⋮﹂
手遅れだった。
てか酔うの早くね?
﹁おい七⋮って食ってんのかよ!﹂
﹁はふひはひは︵悪いかしら︶?﹂
﹁しかも何で今日はマナー悪いんだよ!﹂
﹁まぁまぁ、会長はとにかくビール飲んで食べてストレス発散させ
るんだ。ていうかみんな酔い始めてるから、皐月も早く飲みなよ﹂
弘美に目をやると小枝子をつれてお立ち台にいた。
すぐに音楽が流れだし、二人の微妙にずれた歌声が食堂いっぱいに
響く。
﹁⋮⋮なんなんだよ一体﹂
﹁まぁあたしらの宴はさ、つまり好きなだけ飲んで食べて好きなこ
とをしようってこと。3回目だけど、今までの2回も柚子先生を保
護者にしといて許可をとってから酔い潰して、会長が酔って食べて
弘美が歌ってあたしは⋮まぁおいといてって感じで好き勝手にして
236
たかな﹂
﹁何で置くんだよ﹂
﹁まぁまぁ。あの2人の場合は猫被りが激しいから、好き勝手振る
舞うだけでいいんだよ。それにあたしが潰れたら、酔った柚子先生
運べないしね﹂
﹁⋮ふぅん﹂
とりあえず俺はがっ、と一気に液体を飲み込む。
味は分からなかったがとにかく体温があがったようで胃が燃えそう
だ。
﹁あははは! 真っ赤だあ﹂
﹁うるさぁい。食うぞぉ﹂
﹁あたしも。まずは唐揚げかな﹂
﹁寿司!﹂
﹁皐月、そこの天ぷらをとってちょうだい。醤油も﹂
﹁はいはい!﹂
﹁はいは10回よ﹂
﹁はいはいはいはいはいは⋮って言ってられるか! なんだそのテ
ンションは!﹂
﹁あははははは! 皐月、いいから天ぷら!﹂
大声で笑ったかと思うと急に怒り顔で怒鳴られた。
﹁笑いながら怒鳴るなぁ!﹂
﹁あはは! 皐月は本気で見ててあきないよ!﹂
七海に命令される俺を見て紗理奈はおかしそうに笑いながら酒を飲
む。
あまりに強い酒の臭い。
237
臭いだけで酔いそうだ。
だから、俺も飲む。
七海のビール瓶をひったくり直接口をつけた。
﹁にがっ!!﹂
ビールは初体験だった。
○
﹁⋮ん⋮、あ、れ?﹂
目を開けるとベッドじゃなくて固い椅子の上で寝てた。
二人分の椅子を開けて座っている紗理奈が俺に気付いたのかお猪口
から口を離す。
﹁や、起きたんだ?﹂
﹁あ⋮ぁあ、確かパーティー、してたんだっけ⋮酒の﹂
﹁そうだよ。君はさっさと脱落したけど、みんなかなり酔いながら
起きてるよ﹂
起き上がるとあまりに雑然とした食堂に俺はうぇ、と思った。
そこらじゅうに空き缶や空き瓶が散乱していて、誰も歌わないのに
238
機械からはポップな音楽が鳴っている。何より酒臭い。自分の息も
だ。
そして七海は赤い顔でビール瓶を片手に何故か冷蔵庫に語りかけて
いる。
﹁だぁからあなたはだぁめなの∼。いぃぃい? わたひはねぇ﹂
どうやら説教をしているらしいが呂律が回っていない。
次に弘美。小枝子とお酒を互いに注ぎ会いながら全く噛み合わない
会話をしている。
﹁あんたってバカだよね∼﹂
﹁あはははは!﹂
﹁ヒロは赤ワインが一ば∼ん好きなの∼﹂
﹁あははははは!﹂
いや、小枝子が壊れてるのか。相槌がわりに笑わないでください。
普通に怖いから。
そしていつ起きたのか柚子先生。何故か授業をしている。
﹁じゃあこの問題はぁ、愛さぁん⋮ん∼⋮はいよくできましたぁ!﹂
一人芝居なのを無視すれば普段と変わらないのが恐ろしいような⋮。
﹁あの∼、これって収拾つくんですか?﹂
239
不安になり尋ねると紗理奈は酒をあおりながらへらりと笑う。
﹁大丈夫大丈夫。もう1時間もしたら会長とヒロは切れるから。そ
んで仮眠とったら解散。柚子先生は一人で返せばいいし、会長もあ
れだけ酔ってるけど、仮眠とれば呂律も戻ってて部屋に帰るくらい
できるし。ヒロは運ぶけど⋮今回は小枝子も運ばなきゃかな﹂
紗理奈の視線につれられるように小枝子に目をやると
﹁あはははは!﹂
小枝子の高い声が響いた。
小枝子⋮ストレスたまってんのかなぁ? それともただの笑い上戸
か?
﹁君さぁ、もうちょっと小枝子を可愛がってやりなよ﹂
突然のセリフに小枝子に行ってた意識を紗理奈に戻す。
﹁え?﹂
﹁見てて可哀想だよ。どうみたって君のこと好きじゃん﹂
自然な口調に、カマをかけたのでなく確信的に小枝子の俺への思い
がバレてるんだと分かる。鋭い奴だ。
﹁⋮まぁ、告白はされましたね。断りましたけど﹂
﹁は? それなのにべっとりって⋮駄目じゃん。小枝子、皐月のこ
と忘れたくても忘れたくなくなるよ﹂
﹁⋮⋮そう、ですか?﹂
240
﹁うん。あ、飲む?﹂
紗理奈は内容のわりにニコリと笑いながら俺に並々と液体が注がれ
たガラスのコップを向ける。
﹁⋮いただきます﹂
受け取り一気に半分飲む。
カッと焼けるように喉が、お腹が熱くなる。
だけど、何だか心地よい熱さだ。
﹁で? 小枝子は好みじゃないわけ?﹂
﹁あー⋮違う。小枝子は、好きです。でも⋮俺、よくわかんねんで
す。好きだけど⋮恋かなんて⋮分からない。母さんの時だって⋮⋮
俺は、いつも間違って⋮恐いから、また逃げる⋮﹂
﹁皐月? おーい、意味不明だよ? 何言ってるか分かってる?﹂
﹁紗理奈⋮さん⋮⋮好きですよ﹂
﹁は?﹂
﹁七海様も弘美さんも⋮ここの生活、気にいってる⋮楽しい、から。
でも、母さんがいない⋮の⋮寂しい⋮⋮今までより、会った後のが
⋮寂しい。⋮おかわり﹂
﹁はいよ﹂
紗理奈がそそいでくれて俺はまたぐっと飲み干す。
﹁つまりだ、皐月は寂しいから小枝子を代わりにしてるの?﹂
﹁⋮小枝子、母さんじゃない⋮よ?﹂
﹁う∼ん、幼児化してるなぁ。飲ませすぎたかな﹂
﹁んーん⋮飲んで、ない。俺⋮まだ飲む。﹂
﹁ま、明日休みだしね。せーぜぃ頭痛で苦しみなよ﹂
241
注がれるままにまた飲む。世界が段々回り始める。
﹁でも付き合っちゃえばいいのに。恋じゃなくても付き合って色々
してれば、親に執着なんかしなくなるよ﹂
﹁んー⋮小枝子が本気なら、本気で、俺も⋮じゃないと⋮。だって
⋮小枝、子のこと⋮好き、だから﹂
うん、小枝子が傷つくのはやだ。優しくて好きだから、そんなテキ
トウなのは駄目。
﹁ふーん、じゃああたしと付き合う? あたしは遊びだしね﹂
紗理奈の言葉が反響するように聞こえる。もう紗理奈がどこにいる
のか分からない。
﹁⋮嫌だ﹂
ぐるぐる回る。起きてるのか寝てるのか分からない。
何とか気合いで紗理奈に返事をする。冗談で言ったくせに紗理奈は
さらに何かを言ってくる。
﹁何で?﹂
よく聞こえない。でも多分理由を聞いたんだろう。
﹁キスならいいけど⋮セックスは恐いから。それに⋮⋮﹂
﹁なに?﹂
だんだん回る世界が暗くなってくる。音が遠い。水の壁で世界を遮
242
られてるみたいに、遠い。
﹁それに⋮本当の俺は⋮﹂
﹁俺は?﹂
﹁⋮⋮⋮汚い⋮か⋮ぁ﹂
遠い遠い場所から、小枝子の笑い声が聞こえた。
○
243
夜は長い
﹁⋮んあ!? ⋮あ?﹂
﹁ぅん⋮ああ、皐月ぃ⋮起きたんだ⋮ひっく⋮﹂
﹁紗理奈、さん⋮俺、確か紗理奈さんと話して⋮途中でまた寝たの
か⋮あ、皆⋮寝てる?﹂
てか紗理奈と何を話してたんだっけ? ⋮まぁ、酔ってたしろくな
ことじゃなさそうだ。忘れとこう。
﹁うん。でも皐月が起きたならそろそろ起こそう。ヒロはどうせ起
きないから柚子先生頼むよ。あたしは小枝子起こすから﹂
﹁はい﹂
すやすやと子供のように寝ている柚子先生を揺さぶると、わりと楽
に目を開けた。
﹁ん∼、皐月さん∼?﹂
﹁はい。パーティーは終わりました。監督役ご苦労様でした。後片
付けはやるのでどうぞ先に部屋に帰ってゆっくりなさってください。
﹂
﹁ん⋮じゃあお願いねぇ﹂
﹁はい﹂
柚子先生はいつもと変わらないように立ち上がり、いつものように
歩いて普通に出て行った。
本当に酔ってたのかなぁ? あの人は⋮よく分からないな
﹁小枝子∼。駄目だ。起きないや。皐月、あたしは小枝子を運んで
244
そのまま部屋に戻るから。皐月は会長を起こしてヒロを運んだら部
屋に帰っていいよ﹂
﹁え、片付けは⋮?﹂
﹁業者に朝一でやるよう頼んでるから大丈夫。じゃ、よろしく﹂
言いながら紗理奈は小枝子の腕を自分の肩に回して担ぎ、食堂のド
アを開ける。
﹁はい、お休みなさい﹂
紗理奈はひらひら手を振ってから部屋を出た。
よし、じゃあ俺もさっさとやっちまおう。
﹁七海様、七海様﹂
﹁ん⋮皐月?﹂
﹁はい。皐月です﹂
﹁なんでここにいるのよ?﹂
は? 何をわけのわからんことを真顔で言ってんだこいつ? 寝惚
けてんのか? 酔ってんのか?
﹁いやまぁ、普通にです﹂
﹁普通に私の部屋に忍びこむなんていい度胸ね。いますぐに舌を噛
みきるか私に撲殺されるかを選びなさい﹂
﹁選ばねぇよ! てかお前、じゃない⋮あなたの部屋じゃありませ
んよこの寝惚すけが﹂
﹁え⋮ああ、そうか、そうね。宴⋮ね﹂
何でそう古臭い言い方をするんだお前は。
245
七海はあたりを見回してから俺を見ると、すっと立ち上がる。
﹁⋮私はもう少し飲んでいるわ。あなたはヒロを連れて部屋に戻り
なさい。いいわね﹂
﹁はいはい﹂
﹁はいは一度よ﹂
﹁はいはいはいはいはい×2﹂
﹁何よそのテンションは﹂
﹁お前が強要した結果だよ﹂
﹁はあ? あなたね、訳の分からないことを言わないでくれるかし
ら?﹂
﹁ああはいはい! 私が悪ぅございましたよ!﹂
﹁当たり前でしょ﹂
﹁どうせ七海様が不快になられるのも、恐竜が絶滅したのも、世界
から戦争がなくならないのも私のせいですよ!﹂
﹁当たり前でしょ。責任をとって私の奴隷になりなさい﹂
﹁なんでだよ!!﹂
本当に、心底言おう。
なんでだよ!
だいたい自虐的な皮肉を肯定するなよ。俺のせいなわけないし、し
かもお前の奴隷の意味がわからん。
﹁もう⋮うるさいわねぇ。良いからさっさと行って﹂
﹁分かりましたよ﹂
246
酔っ払いに付き合ってられねーよ。
弘美を揺さぶるが意味不明な呟きのみでやはり起きない。しかたな
いので背中におぶる。
﹁んじゃ七海様、テキトウに飲んだら寝てくださいよ﹂
七海は俺を無視してビールを飲む。あれの何処がうまいんだかなぁ。
食堂を出て弘美の部屋に入る。弘美の部屋には何度かきたことがあ
るが相変わらずぬいぐるみが多い。でも、だからといって大切にし
てるわけでもなく無造作に置いてある。
内装は淡い黄色や緑が基調だ。ピアノが一台あるが開けられた形跡
はない。
本は一冊もない部屋で机にはパソコンやコンポが置いてあり、本棚
にはCDが並んでいる。
とまぁそんな感じだ。
弘美をベッドにおろし、上から布団をかける。
﹁ん︱︱︱﹂
と、薄く目を開けた。バッチリ視線がからまり、俺は失敗したなと
思いつつ声をかける。
﹁すみません、起こしちゃいました?﹂
﹁⋮︱⋮﹂
﹁?﹂
何だ? 確実に目があってるのに、何か変だ。
247
﹁弘美さん?﹂
﹁⋮パパ⋮﹂
﹁え⋮﹂
死んだって言う父親か?
驚いてると弘美はぽとりと涙を流した。目は開いてる。
けど、見てるのは俺じゃなくて、夢の中の父親なんだ。
﹁⋮⋮行っちゃダメ⋮行ったら⋮ヒロ、パパに二度と会えなくなっ
ちゃうよ⋮っ﹂
俺は、そっと手を伸ばして弘美の目のふちの滴を拭う。
弘美の小さな手が、そっと俺の手に添えられた。
﹁パ⋮パ?﹂
﹁⋮⋮﹂
本当は、いけないのかもしれない。俺にそんな権利はないのかもし
れない。
だけど、彼女が目を覚ましたら絶対に望む人はいないんだ。
だから︱
﹁そうだよ。ヒロ、可愛いヒロ、愛しい娘、どうか泣かないでくれ。
﹂
︱父親のふりをすることにした。
知りもしないくせに。
顔も声も名前すら知らないくせに。
でも、多分父親は弘美を愛していたんだろう。
248
﹁パパ⋮っ、いか、ないで﹂
﹁行かないよ。ヒロを置いてどもにも行きはしないよ。﹂
目が覚めたら余計に悲しくなるだけの残酷な嘘だ。
だけど、目の前で泣かれたら、笑顔にしたい。
弘美は我が侭でどうしようもない俺様でしょっちゅう怒るし俺に酷
いことばかりするけど、泣いて欲しくない。
悲しい涙なんて、嫌いだ。
﹁側にいるから、安心して眠りなさい﹂
﹁⋮ん、パパ⋮大好き。ずっと、ここにいてね﹂
にっこりと、本当に寝てるのかと言いたくなるくらいにはっきりと
微笑む弘美に、見とれた。
握られる手に、熱がこもる。
待て、今更だろ? こいつが中身に反して可愛いなんて知ってる。
なのに今更、あまり可愛くて抱きしめたいと思うなんて。
大好きと言う言葉に、ドキドキした。
自分に向けられた訳じゃないのに恥ずかしいほど熱くて、自分にじ
ゃないのが悔しかった。
﹁ああ、いるよ。ずっと一緒にいる。愛してるよ﹂
﹁⋮ん、お休みなさいパパ﹂
﹁お休み﹂
﹁⋮⋮すぅ⋮﹂
弘美は眠ったようだ。規則正しい寝息と共に、握られていた手がゆ
249
っくりとほどけて行く。
俺は、静かに部屋から出てから深く息を吐く。
まだ少しだけ、動悸が早い。
やれやれ、相手は女だってのに。どうやら母さんの予言は当たるら
しい。
勿論弘美が好きってわけじゃない。好きは好きだが、特別ではない。
俺の特別はまだ母さんだけだ。
だけど母さん相手にはこんなにドキドキしない。
なんなんだろうこの感じは。小枝子の時にも感じた、異様なドキド
キ感。
﹁⋮はぁ﹂
このまま自室に帰っても眠れそうにない。
仕方がないので食堂に行くことにした。何だかんだで20分程度は
たっているし七海ももういないだろう。
水でも飲んで落ち着こう。
○
250
明かりも消えている。やっぱりいないな。
そっとドアを開けたが木製の古いドアはきぃ、ときしんだ。
静かな闇に響いて誰か起きやしないかと一瞬ひやりとしたが、よく
考えると食堂は個室とは廊下ではつながっているが建物は別だし、
何より全室に防音完備なのだから聞こえるわけがない。
だが、聞いた人物はいた。
﹁っ、誰︱ってなんだ皐月なの。まだ寝ていなかったのね﹂
勿論俺のせいで起きてしまったわけではなく、聞いたのは酒癖の悪
い、姫の皮を被った悪魔だった。
﹁それはこっちのセリフなんですけど⋮﹂
まだいたのか。
しかもまだ飲んでる。
﹁飲みすぎじゃないですか?﹂
﹁ふん、私の勝手でしょう﹂
﹁まぁそりゃ七海様が肝臓痛めて入院しようと勝手ですけど。けど
会長の責務も果たせなくなりますよ﹂
﹁うるさいわねポチのくせに﹂
﹁皐月です。それにまだあります。七海様が入院すると、ちょっと
だけ、寂しいですからね﹂
﹁⋮え﹂
﹁な、何なんですかその反応は。はぁ⋮素直なのはガラじゃないで
すけど﹂
﹁いえバカ正直なのは明らかにあなたの悪癖よ﹂
﹁殺すぞバカ野郎﹂
251
﹁ほらね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まぁいいじゃない。悪癖だけど⋮私もそんなあなたを嫌いではな
いわ。あなたのように嘘が下手であけすけで駆け引きベタなのも、
ほんの稀にうらやましいと思う時があるもの﹂
﹁⋮それ、誉めてるつもりですか?﹂
喜んでいいのか反応に非常に困る。嬉しくなくもないが、こんな言
葉くらいで喜ぶと本当に七海のペットになったようで嫌だ。
﹁ポチには上等でしょう?﹂
七海は綺麗に笑う。窓からの月光のもとで、幻想的な美しさに俺は
目を奪われた。
同時に、心臓が再びせわしなく動きだす。
くそ︱悔しい。こいつらは揃いも揃って、綺麗なんだ。偉そうで尊
大な態度を許せてしまうくらい綺麗で、時々ふいに優しい。
そのせいで好きになってしまう。無理矢理だ。無理矢理に好きにな
ってしまう。
﹁まぁ、それはともかく。﹂
話題を変えることにする。
﹁深酒はやめてください。ほら、部屋に戻りますよ﹂
﹁分かったわよ。にしてもあなた⋮ヒロと一緒に眠らなかったのね﹂
﹁そりゃ前はしましたけど、本人の意識がないのに潜り込んだら殺
されますって﹂
252
﹁そうかしら⋮まぁいいけれど。じゃあ私を送りなさい﹂
﹁は?﹂
﹁⋮あなた、酔っ払いを一人で帰えさせるつもり?﹂
自覚があったのか
別に良いけど⋮けどなぁ、こんなピンピンしてるくせに送れとか言
われてもなぁ。
﹁ちなみに抱き上げることもおぶることも禁じます。いいから黙っ
て肩をかしなさい﹂
﹁分かりましたよ。って臭っ﹂
近づいて座ってる七海の横に膝をつき腕を肩に回し顔が近づくと、
あまりに酒臭いので眉をしかめた。
すると月明かりで分かるくらいに七海は顔を真っ赤にしてますます
俺に顔をよせてくる。
﹁な!? 失礼よ! 私は毎日2回は入浴してるしトリートメント
だって手を抜いたことはないのよ! 香水だって嫌味にならない程
度につけて︱﹂
﹁じゃなくて! 息が! 飲みすぎですよマジで﹂
耐えきれなくて七海の言葉を遮って言うと七海は少しばつが悪そう
に﹁そう⋮﹂と呟く。
﹁早く、部屋に連れてってよ﹂
﹁⋮了解﹂
253
七海の腰に手を回し肩からまわした腕を握り立たせる。
てか殆ど足に力入れてないなこいつ。抱き上げたほうが楽だっての。
七海の部屋には行ったことがないので七海の誘導の元、俺は再び食
堂をあとにする。
あ、水を飲むの忘れた⋮まぁ、良いか。喉が渇いてるわけじゃない
し。
○
﹁ここですか﹂
最上階の一番端の部屋に︵ちなみに紗理奈は一つ下の2階の右側。
小枝子は俺の丁度上で2階だ。弘美は純粋に出かけやすいと我が侭
を通したので1階だ。︶ついた。
しかし何か他のドアとは違うような気が⋮?
﹁そうよ。鍵はこれね﹂
七海はごそごそと鍵をだして俺に向け︱
254
﹁⋮鍵?﹂
鍵はないんじゃないのか?
俺は鍵を受け取らずにドアノブを回したが
﹁⋮⋮開かない﹂
﹁だから鍵﹂
受け取り使うとあっさり開いた。さっきの違和感は鍵穴があったか
らか。
﹁七海様⋮私んとこに鍵はないんですけど﹂
部屋に入りながら尋ねる。
﹁私は会長よ? 大事な書類も置いてるのに開け放せるわけないじ
ゃない﹂
まともな理由なのに職権乱用な気が激しくするのは何故だろう。
こいつの性格故か。
室内はわりとシンプルだ。ただ淑女会室の会長机と同じように机に
はパソコンとプリンタがある。
本棚には普通に本がある。紗理奈の部屋と違って漫画はない。
白が基調、と言うか白だらけでどこか潔癖なほどの清潔感がある部
屋だ。
﹁ほら七海様、横になってください。﹂
﹁ん⋮そうね。寝る時間だものね。皐月﹂
﹁はい、何ですか?﹂
255
﹁優良様が帰ってしまい寂しいでしょう? 寝ていきなさい﹂
﹁⋮は?﹂
﹁何よ。嫌なのかしら?﹂
﹁いや⋮そうじゃないですけど﹂
今は平気だが確かに、いまから部屋にいき一人きりになると寂しく
感じるかもしれない。
だが何だか恥ずかしい。多少なら我慢できるのだから戻るか?
﹁何よ﹂
﹁⋮じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます﹂
ちらと見ると七海の視線が子供が拗ねてるようだったので、そう返
事をした。
それによく考えずとも七海や弘美は親が来なかったのだ。寂しいの
は二人の方だろう。
七海なんて両方いるのにこないんだし。医者ってやっぱ相当忙しい
んだろうな
﹁始めから素直にそう言えばいいのよ﹂
七海は満足気に微笑んだ。
○
256
七海と一緒にベッドに入るはいいが、問題があった。
と言うか、問題だらけだ。すっかり忘れてたが俺は相手から触られ
るのは駄目なんだ。
だから弘美の時にも自分から思いきり抱きついたのだが⋮
﹁ちょっ、やめなさい。誰がポチごときに私を抱きしめる権利を与
えると言ったのよ。いい? 私に触れたら明日の朝日は拝めないと
思いなさい﹂
と言うわけで息が聞こえるほど近いがギリギリ触れ合わない距離だ
が⋮
﹁⋮んぅ⋮﹂
﹁!﹂
相手から触れてこようとする場合はどうすればいいんですか七海さん
﹁⋮七海、七海?﹂
﹁ん⋮﹂
﹁起きろ、起きないと大変だぞ︵俺の心臓が︶﹂
﹁⋮うるさい黙りなさい犬ぅ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
いや、起きてるな? 起きてるだろ? むしろ起きろ。
257
しかし俺の願望とは裏腹に七海は俺の声かけに反応はすれど目を覚
まさない。
つか揺すったら起きるんだろうが、触れるなって言われたしなぁ。
どうするか。
﹁⋮⋮﹂
すぅすぅと規則正しく息をしながら七海は俺に手を伸ばしてくる。
そしてがしっと力強く俺の腕を捕えた。
一瞬、息が止まった。
触れたらいけないと言われたことや、相手が七海なのも忘れて叫び
たくなった。
拒絶したくてでも動けなくて、心臓が痛いほど鳴る。
落ち着け、落ち着こう。
大丈夫。何もない。無意識だ。
相手は弱い、弱い女で、七海だ。だから何もない。
何があったって、俺が勝つ。負けない。だから
怖くなんて、ない。
﹁っ⋮はぁぁ﹂
大丈夫。大丈夫だから。
大丈夫。何も、恐ることなんてない。
258
深呼吸をして、七海を見る。本当に誰が見たって完膚なきまでに寝
てる。
﹁⋮バカ﹂
お前の思いつきで、お前の動作一つで、こんなに俺が怖がってるな
んて知らないだろ、
こんなに弱くて、むしけらみたいにちっぽけな俺。
誰にも知られたくない。誰にも俺が汚れてるなんて知られたくない。
誰にも、俺がこんなに弱くてどうしようもない役立たずだなんて、
知られたくない。
ふいに、涙が溢れた。
違う。俺じゃない。
七海だ。
﹁おとぅさまぁ⋮おかぁさま⋮いかないで﹂
普段から想像のできない舌足らずな口調に俺は心の中で叫ぶ。
俺を散々バカにしたくせに、お前らだって結局親が好きなんじゃね
ぇか!
それこそ、夢に見るほどに。
259
夢に、本気で涙を流すほどに
好きなんだろ
だいたい、泣くなよな。
何が悲しくて一晩で二人の涙に立ち合わなきゃならないんだよ。し
かも本人の承諾無しに。
俺はさっきの恐怖なんて捨てて弘美の時と同じように涙を拭ってや
る。
﹁どうして⋮白いとこに行っちゃうの?﹂
ん? 白?
﹁白⋮きらい。おとうさまとおかぁさま⋮とっちゃうから。白に行
ったら、二人とも⋮夜になってもかえってこない﹂
もしかして⋮病院のことか? 親が二人とも勤めてるもんな。
﹁わたしのこと⋮きらいだから、だから白のとこいくの?﹂
﹁違うよ。大好きだから行くんだよ﹂
﹁すき⋮?﹂
﹁うん。大好きだから七海が幸せに暮らせるように頑張るんだ﹂
﹁わたし⋮おとうさまとおかあさまがいなきゃ、幸せじゃない﹂
﹁寂しい思いをさせているね。ごめんね。でも、七海を幸せにした
いように、他にもたくさん私たちを必要としてる人がいるんだ﹂
医者は何となく一人称が﹁私﹂だろうという偏見でキャラを作って
260
見る。
﹁⋮ひつよう?﹂
﹁うん。でもね、ちゃんと七海を愛してるよ。七海は真面目だし頭
がよくて聞き訳もできるいい子だね﹂
﹁⋮うん、わたし、いい子﹂
七海の頭を優しく撫でてやる。小枝子よりもずっと長い髪なのに少
しも痛んでない。
自分でトリートメントとか言うだけはあるな。
目を瞑ってて、寝てるのか起きてるのかも分からない。
だけど涙を流す寂しそうな表情は、そんなの関係なしに慰めたくな
る。
たとえ夢でも、起きたら忘れるささいなことだとしても、悲しい思
いはして欲しくない。
まして涙を流すなんて⋮悲しすぎる。寂しすぎる。
﹁でも少し、いい子すぎるんじゃないかな?﹂
﹁⋮え⋮?﹂
﹁たまには我が侭を言ったっていいんだよ。大丈夫。少しくらいな
ら、笑って抱きしめるから。辛いなら、支える。泣いたなら、笑わ
せてやる。七海のこと、みんな大好きだから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ん? 返事がないぞ。
﹁⋮⋮寝てる? クソ、何だよ恥ずかしいなぁ﹂
一人芝居ですか。ていうか無駄に恥ずかしいっての!
いや寝てるのは始めから分かってたし始めから一人芝居なんだが⋮
261
夢うつつでも聞いてるかどうかはだいぶ違うだろ。
﹁ったく⋮﹂
撫でる手をそのまま七海の後頭部にまわして額にキスをする。
﹁お休み、七海﹂
抱きしめて、もう恐くない。
温かい体温がむしろ心地よくて、俺は眠った。
○
262
朝がきて、おはようのキス︵前書き︶
読んでくださってる方は分かってると思いますが、行のあけ方を変
えました。
こっちの方が読みやすいかと思いますが、どうでしょう。
263
朝がきて、おはようのキス
私はゆっくりと目を開く。朝日が窓からふりそそいでいて、白い部
屋に広がっている。
動けない。
何故でしょう。
理由は簡単だ。隣にいる少女が私を拘束してるから。
安らかに、何の苦悩もないかのように、子供のように無防備に眠る
少女。
﹁?﹂
そばかすがはげてる⋮
ふと、嫌な予感がして視線だけを動かして、少女の顔の下︱枕を見
る。
白い枕カバーには茶色がついていた。
﹁っ! ⋮⋮はぁ﹂
反射的に怒鳴ってやろうとして、止めた。
皐月はアホの子だから、仕方ないわね。それに⋮ここで寝るように
言ったのは私だわ。
そして昨夜のことを思い出す。
264
夢を見てた。
遠い昔の夢、だけど時々、未練がましく見ては泣いてしまう夢。
いつも、仕事に追われる両親は幼い私を置いて出ていく。それを、
今の私が後ろから見ている夢。
仕方ないことなのだと、今の私には分かる。たくさんの人を救い感
謝される両親を尊敬しているし、私もそんな風になりたいと思う。
だけど当時の私にはそんなことはわからなくて、泣いて両親を困ら
せるのだ。私は後ろからそれを見てるのに、いつの間にか幼い﹃わ
たし﹄になってて、泣いてしまうのだ。
けれど私にかまってばかりいられないので、お父様とお母様は家政
婦に私を任せて出ていく。
それが、何度も見た夢の内容。
けれど、昨日は違った。
私を頭を優しく撫でて、大好きだと言ってくれた。
そして私が﹃わたし﹄になって、声が違うことにようやく気付いた。
お父様とお母様じゃない。
誰⋮?
265
﹁でも少し、いい子すぎるんじゃないかな?﹂
﹁⋮え⋮?﹂
皐月の、声?
そういえば、寝る時に隣にいたけれど⋮夢に出てこなくてもいいん
じゃないかしら
﹁たまには我が侭を言ったっていいんだよ。大丈夫。少しくらいな
ら、笑って抱きしめるから。辛いなら、支える。泣いたなら、笑わ
せてやる。七海のこと、みんな大好きだから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
恥ずかしい⋮。
夢で皐月にこんなことを言わせるなんて。おそらくは、言って欲し
かった言葉なのだ。
だって、凄く、嬉しいから。
でも皐月じゃなくてもいいだろう。皐月なんて⋮犬なのに。
バカで間抜けで⋮何でも力で片付けようとするし大雑把だし、喜怒
哀楽の分かりやすすぎな単純だし、バカだし⋮あ、二回目だわ
﹁寝てる?﹂
皐月がいぶかしんでいるってあれ、夢じゃ、ない?
とっくにお母様たちの映像は消えていて暗闇だったのでそっと目を
開ける。
皐月の喉元が間近に見えて、額に温かいものがあたる。
266
慌ててまた目を閉じた。
え? なにこれ? どうなってるのかしら?
皐月が⋮私にキスした?
﹁お休み、七海﹂
様をつけなさい、様を。
ってそんなことを言っている場合じゃないわ。
え⋮抱きしめ、られた?
ぎゅっと皐月の温かい体が押し付けられてくる。
や、何? 恥ずかしい⋮
目を開けると間近に皐月の顔がある。眼鏡は外してあるがそばかす
はついたままだ。
拭ってあげようかしら⋮? あら? 夢じゃ⋮ない? 現実?
現実に⋮皐月にキスされた?
体温があがるのが自分で分かる。
あ、ああもう! どうして私があなたごときに触れられてあまつさ
え⋮⋮こんなにドキドキしなきゃいけないのよ!
﹁皐月離れな⋮寝てる?﹂
図らずともさっき聞いた皐月と同じ言葉を呟くけれど、皐月はすぅ
267
すぅと眠っていて時折むにゃむにゃと寝言を言う。
﹁⋮はぁ﹂
私は腕を皐月の背中にまわして力をこめる。皐月は少し体を揺らし
てさらに私を抱きしめる手に力をいれた。
けれど痛くはない。
トクトクと穏やかな皐月の鼓動が私に直接伝わってくる。
いつしか私のドキドキも収まって、疲れもあっただろう。
深い深い眠りについた。
夢は、見なかった。
﹁⋮⋮﹂
思い出したら、また恥ずかしくなった。
そうだ。額に⋮
額に手をあてると、熱いような気がした。
﹁⋮⋮﹂
時計を見ると、朝の6時。いつもなら起きる時間だけれど、今日は
土曜日でお休みだし、昨日も遅かった。
だから、もう一眠りくらいしてもいいだろう。
﹁お休みなさい、皐月﹂
268
私はそっと皐月の額にキスをした。
やられっぱなしなのは、私の趣味じゃない。
○
﹁⋮⋮⋮パ、パ⋮⋮⋮⋮。はっ、バッカみたい⋮﹂
夢から覚めて、ヒロは自嘲する。
本当にバカだ。ヒロを置いて行ったのに、まだこんなに好きだなん
て。
本当に好きだった。勿論純粋に、愛していた。
なのに、ヒロが行くなと言ったのに、妻に言われるままに海外に仕
事をしに行ったのだ。
そして飛行機事故で⋮。
バカだ。あんな女の親の会社で働かなければよかったのに。
泣きもしなかったあの女。ヒロに同じ血が通ってると思うだけで腹
がたつ。
だからだろうか。母さん母さんと言う皐月様を見るとムカつく。
ヒロに、マザコンの皐月様に何か感じる権利があるとは思わない。
だってヒロだって世間一般からすればファザコンだと思う。
それに七海様や紗理奈様も⋮親に何かしら普通でない感情を抱いて
いる。
269
それは負い目だったり執着だったり恨みだったり⋮色々だ。
﹁皐月様、ね⋮﹂
皐月様を思い浮かべてみて、無意識に唇は弧を描く。
ここ数年はそんな感じに少し歪んだ、ヒロたちみたいに猫被りな人
ばかりの淑女会︵おばあちゃんの地位を利用してちょくちょく来て
た︶にいなかった存在が、皐月様だ。
トラウマもちで、口が悪くてバカ正直だ。
お人好しで食い意地がはってる。
そんな人はいなかった。
ふいに、皐月様に会いたくなった。
朝の7時。何だか知らないが皐月様はいつも早起きなので起きてる
だろう。
昨日は遅かったので寝てることもあり得るが、それならそれで叩き
起こせばいい。
仮に乱暴に起こしたら、きっと怒るんだ。もっとこっちが怒鳴った
らきっと皐月様ももっと怒鳴るだろう。
それでもきっとヒロが怒鳴るのを止めれば、すぐに笑ってくれるだ
ろう。
そんな単純なところ、嫌いじゃない。
270
﹁ん、決めた!﹂
ヒロは皐月様の部屋に行くため、着替えを始めた。
○
﹁お邪魔します皐月様いるー!?﹂
﹁きゃっ⋮な、弘美、さん?﹂
勢いよくドアが開けられ、着替え中だった私は慌てて上着を胸にあ
てる。
﹁あら失礼。皐月様は⋮いないか。それじゃ﹂
﹁ちょっ、ちょっと待ってください! 皐月さんがどうかしたんで
すか?﹂
部屋に皐月さんがいないらしい。別に、どうということはない。
朝食かも知れないしたまたまトイレに行ったのかも知れない︵お風
呂は個室にあるけどトイレはない︶。
散歩をしてるのかも知れないし、学園の外に外出してるのかも知れ
ない。
271
けれど、少し気になった。
だって、相手は皐月さんだから。私の大好きな人だから、些細なこ
とが気になる。
○
いつもは鍵がかかっているらしいドアはあっさり開いて、ベッドに
は皐月さんと七海様が抱き合って眠っていた。
﹁会長!?﹂
紗理奈さんが叫ぶように言うと七海様は体を揺らしながらゆっくり
と起き上がった。
﹁ん⋮なぁに? 勝手に人の部屋にはいるなんて⋮あなた方それで
も淑女?﹂
平然と答える七海様に弘美さんが苛立たし気に室内に入る。私と紗
理奈さんも続きドアを閉めた。
﹁⋮⋮七海様、横の下僕は?﹂
﹁え⋮ああ、ポチ? 一人では寂しいだろうからここで寝かせてあ
げたの。それがどうかしたかしら? あなただって前にしたでしょ
う?﹂
272
﹁⋮⋮﹂
﹁紗理奈も小枝子も⋮血相を変えてどうしたのよ?﹂
弘美さんはズンズンベッドに近寄ると皐月さんを乱暴に揺さぶる。
﹁ちょっと皐月様! おきなさいよ!﹂
私も歩いて弘美さんの後ろから皐月さんの寝顔を覗きこむ。
ああ⋮可愛らしい。
﹁んぅ⋮あと5ふん﹂
﹁駄目﹂
﹁ん∼、わぁったよぉ。おはよう、かぁさん﹂
皐月さんは寝惚け眼をこすりながらそう言って上体を起こす。
弘美さんはますます不機嫌そうに眉をひそめて
﹁あんた何寝惚け︱﹂
怒鳴ろうとしたけれど、途中で皐月さんが弘美さんの頬にキスをし
たから固まった。
﹁⋮ん∼⋮⋮あ? れ? ⋮弘美? ⋮⋮⋮うわあ!?﹂
パチッと目を開けた皐月さんは自分でした行為に驚いたのか、跳ね
るように弘美さんから離れ、後ろの七海様に抱きつき
﹁って、うなあぁ!? だうっ!?﹂
その相手が七海様なのにも驚いたようでさらに跳ねてベッドの枕側
273
の壁に頭をぶつけた。
﹁う∼ぁ⋮いっ、てぇー。あー、目ぇ覚めたー﹂
ベッドの上でうずくまる皐月さん。弘美さんはそんな皐月さんに目
もくれずに皐月さんがキスをした頬を両手で押さえて呆然としてい
た。
私は腰を折って顔を近づけ、皐月さんに声をかける。
﹁そう、目覚めのご機嫌は如何ですか?﹂
﹁ああ⋮小枝子か⋮えー⋮と、何だかよく分からないんだが、何で
俺弘美にキスしてんの? てかキスといや昨日⋮いや、何でもない﹂
昨日? 昨日、誰かとしたんですか?
嫌だ。皐月さんが他の人として欲しくない。
嫌だ。皐月さんは私の恋人でもないのに、独占しようとする私が嫌
だ。
﹁昨日? 昨日何ですか? 誰にしたんですか?﹂
﹁いや、何でもない﹂
﹁⋮⋮﹂
こんなにも嫌な気持ちで胸がいっぱいになる自分が、嫌いだ。
﹁あー⋮小枝子﹂
﹁はい、なんです?﹂
﹁おはようのキス!﹂
皐月さんはそう言うと私の頬にぶつけるようにキスをして立ち上が
って
274
﹁んじゃ、失礼しました﹂
と走って出ていった。
﹁ぷっ﹂
時が止まったかの室内で、紗理奈さんが吹き出した。
私たちが見つめる中で紗理奈さんは声をあげて笑う。
﹁あは、あははははっ⋮く、くく⋮君ら⋮おかしすぎっ﹂
○
カツラも大丈夫。と言うかカツラはつけたまま寝ても取れないから
大丈夫。まぁそうじゃなきゃ七海と寝たりできないし。
そばかすもオッケー。
制服もバッチリ。
眼鏡⋮⋮ない。
あれ? どこやったっけ?
⋮⋮⋮! 七海んとこか
275
え。戻って大丈夫か?
う∼ん⋮弘美も怒ってるだろうしなぁ⋮
七海は⋮ま、まさか覚えてないよな?
あー⋮てか俺、いつの間にキス魔に?
⋮⋮あ、わりと前からだな。額や頬にはちょいちょいしてたしな。
ただあの二人は怒りそうだから問題なんだよな。
﹁⋮⋮まぁ、眼鏡くらい無くてもいいか﹂
一番大変な七海にはバレてるし、他のやつらになら女だって分かり
さえすればいいんだしな。
つーわけで、飯にしよう。
﹁今日はなんにするかな∼﹂
○
276
よろしく
﹁やほ、さっきぶり﹂
休日なので少ない人数の食堂で朝食をとっていると、声をかけられ
た。
顔をあげると紗理奈が一人で俺の向かいにトレイを置いて座った。
他のやつはいない。
﹁ん、紗理奈⋮さんか﹂
﹁はは。別に敬語はいいよ。今更だし。元々、同学年なんだし必要
ないしね﹂
﹁え、マジ?﹂
﹁うん。てか敬語を強要してたのは会長だけだって気づいてた?﹂
そういえば⋮弘美はたまに﹃様づけしろ﹄や﹃生意気だ﹄なんて言
ってきたがよくよく思い出すと敬語を使えと言ってるのは七海だけ
だったか。
﹁うっわ、損した﹂
﹁あはは。はい、忘れ物﹂
そう言って紗理奈は俺に眼鏡を差し出す。受け取りながら礼をいい、
装着。
﹁ねぇ皐月﹂
﹁ん? 何だよ﹂
﹁昨日のこと、覚えてる?﹂
277
﹁ん? ああ⋮多分。解散する前に何回か寝ただろ? その前のあ
たりは覚えてない。あ、そう! 紗理奈と話してたよな。内容は⋮
何だっけ?﹂
﹁⋮﹃汚い﹄の?﹂
﹁は?﹂
﹁君が言ったんだよ。小枝子ともあたしとも付き合わないのは、自
分が汚いからだって﹂
どきっとした。
嫌だ。知られたくない。嫌われたくない。軽蔑されたくない。﹃今﹄
を無くしたくない。
俺は精一杯平静を装いながら朝食の味噌汁を飲み干し、箸をおく。
﹁は? つか何で紗理奈も入ってんの?﹂
﹁小枝子には本気じゃないから駄目って言うから、あたしと遊びで
恋人する? って聞いたの﹂
サンドイッチをぱくつきながら言う紗理奈には、カマをかけてる雰
囲気はない。
全然覚えてない⋮けど、多分言ったんだろうな。
﹁⋮⋮そうか。俺、そんなこと言ったんだ﹂
否定しても仕方がないので、肯定する。
﹁うん。で? 何がどう汚れてるわけ? 風呂嫌い⋮とかって問題
じゃないよね﹂
﹁ああ⋮ってか、言えるわけないだろ﹂
278
﹁何で?﹂
﹁何でって⋮俺がどう汚いか説明なんかしたら、嫌われる。俺、紗
理奈に嫌われたくないし﹂
素直に白状すると、紗理奈はん∼、と何かを考えること数秒。すぐ
にうん、と一人頷く。
﹁そんなにあたしが好きなら信じてよ﹂
﹁?﹂
﹁あたしだって皐月のこと好きだよ。てか、皐月が始めてだよ﹂
﹁何の?﹂
﹁始めて、自分から友達になりたいと思ったのはさ。あたし、友達
はわりといるけど何となくだし。小枝子みたいに成り行きも多いん
だ﹂
? なにが言いたいのかよく分からない。
ていうか
﹁普通だろ。友達になりたいからなるって⋮そういうものじゃない
だろ﹂
﹁うん。でも違うんだ。これさ、言ったら皐月はあたしを軽蔑する
かもだよ?﹂
﹁え?﹂
﹁あたしだって皐月には嫌われたくないから、あたしの本心知って
も軽蔑しないって約束できる?﹂
﹁ああ⋮てかそんなんあり得ないし﹂
紗理奈はニコリと笑う。
﹁信じるよ。皐月が好きだからね。あたしさ、女の子を見ると友達
279
より、食べたいって思っちゃうんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は? ごめん、何だって?﹂
サラリと笑顔のまま告げられた言葉が理解できずに聞き返すと、紗
理奈は
﹁あたし、女の子大好きで、可愛い子を見るとひんむいてメチャメ
チャにしたくなるんだよね︵はぁと︶﹂
と可愛く言う。確かにわりと重い告白だな。
だが同性愛者っても、母親から女の恋人つくれと言われる俺ほど変
でもない、のか?
﹁皐月も、素顔を知った時はちょっと食べたいちゃいな、とか思っ
たにゃあ﹂
﹁⋮⋮﹂
それは心の中にしまっとけよ! 猫っぽく言っても可愛くねぇよ!
﹁⋮ひく?﹂
でもあんまりに紗理奈が寂しそうに微笑んで尋ねるから、だから俺
も本音で答える。
﹁驚いた﹂
﹁⋮軽蔑、した?﹂
﹁⋮⋮紗理奈、ずるいなぁ﹂
﹁え?﹂
280
そんな風にされたら、そんな目で見られたら、紗理奈を信じるしか
ないじゃないか
恐い。凄く恐い。嫌われるのが、恐い。
俺はうつ向いて、話すために口を開くが、中々言葉が出てこない。
﹁皐月?﹂
﹁俺さ⋮⋮⋮小学生の低学年の時に⋮大好きだった先生に犯された
んだ﹂
言った! 言ってしまった!
もう⋮戻れない。さげすまれるかも知れない、疎まれるかも知れな
い。
でも、紗理奈の誠意に応えたかった。
﹁⋮⋮え⋮﹂
紗理奈が驚きに声をもらすが俺は顔をあげれない。
そのまま、勢いのまま話す。
﹁全身が精液だらけで先生の唾液だらけで⋮⋮死にたかった。何も
感じたくなくて考えたくなくて、全てを拒絶した﹂
ゆっくりと顔をあげる。
281
今思い出しても恐い。先生が恐い。男が恐い。
だけど、紗理奈に拒絶されるのだって恐いから。
だから紗理奈の顔を見て、確かめないと。
﹁半年くらい、かな。俺が、母さんと話ができるようになったのは﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
俺は今どんな表情なんだろう。紗理奈が謝りたくなるくらい、顔色
が悪いんだろうか。
それでも俺は言葉を続ける。
﹁怖かったから、逃げた。引越したし、二度と男に迫られないよう
に男になった。それでも、人に触られると恐い。男は問答無用で恐
いし、女に触られるのは汚いとことか見透かされるようで恐い﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮こんな俺が、気持悪い? 弱い俺を軽蔑する?﹂
一体⋮紗理奈は何て言うんだ? 駄目だ! やっぱり紗理奈の顔を
見れない!
俺はギュッと目を閉じて顔だけを紗理奈に向ける。
﹁怒ってる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮はい?﹂
282
即答された言葉に俺は間抜けな返事しか返せなかった。
目を開けると呆れたような紗理奈がいた。
﹁君ってやっぱバカ﹂
﹁な⋮!?﹂
﹁酷い目にあったのは分かったよ。恐いと思うのも⋮あたしには分
からないけど、想像はできる。そんなの誰だって恐いよ。誰だって
逃げるよ。全然君のせいじゃないじゃん。先生とやらが180パー
悪いじゃん!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なのに⋮そんなことであたしが君を嫌うと思ってるとことか、そ
んなことであたしの告白より重いと思ってんのがマジムカつく﹂
紗理奈⋮嬉しいよ。その変わらない態度は嬉しいんだ。
だけど⋮
お前、今のは聞き捨てならんぞ。
﹁ちょっと待てよ。そんなもんお前の話のがどうでもいいわ。ただ
の性癖じゃねぇか﹂
﹁すぐに君の嫌いなセックスしちゃうんだよ? 世間一般からすり
ゃ評判最悪だよ﹂
﹁俺が嫌いだからってお前に押し付ける必要なんてねーだろ。んな
こと言ったら俺なんてお前の好きなセックスが大っっ嫌いだ。つー
か世間なんて気にする必要あんのかよ﹂
じっと俺たちは真剣に見つめあっていたが、しばらくしてどちらと
283
もなく笑いだした
﹁⋮⋮あは﹂
﹁⋮ふっ﹂
﹁あはははは﹂
﹁ははっ、バカみてぇ﹂
﹁だよね。だって⋮お互いに不幸自慢みたいになってるし﹂
﹁だよな。あー⋮⋮なぁ﹂
﹁ん?﹂
﹁本当に? 気持悪くない? いっぱい汚されたんだぞ。言葉で言
えないようなこと⋮たくさんされた﹂
俺がまた真剣になって言うと、紗理奈はふぅと息をついてから微笑
んだ。
普段のおちゃらけた様子からは想像できない、優しい、だけどどこ
か悲しい笑顔だ。
﹁⋮あたしだってしたよ。皐月にしたら気絶しちゃうようなことい
っぱいしたよ。あたしSだから相手の子もよく泣かせたよ。浮気を
浮気とも思わないで半ば無理矢理にしたこともあるよ⋮⋮本当に軽
蔑しない? 先生とやらと、あたしは同じ人種かもよ﹂
﹁違う﹂
絶対に違う。断言できる。
なのに紗理奈は微笑んでなおも尋ねてくる。
﹁⋮どうしてそう思うの? 先生は普段から嫌な人だった?﹂
﹁⋮⋮凄く、いい人だった。お父さんになって欲しかった﹂
﹁⋮じゃあ﹂
﹁違う! 違うもん! 紗理奈は⋮優しいよ﹂
284
何が違うのか自分でも分からない。けど違う。紗理奈は人が嫌がる
ことはしない。
さりげなく人を気づかってるし、昨日だって酔い潰れずにいたのは
紗理奈だけで、多分それは回りを気にしてだ。みんな酔ってしまえ
ば収拾がつかないから。
紗理奈は先生と違う。まだ短い付き合いだけど、紗理奈はきっと違
う。
紗理奈は、本気で人が嫌がることをしない。
﹁⋮ありがとう。本当、皐月は可愛いなぁ。小枝子たちが好きなの
も分かるよ﹂
﹁たち?﹂
﹁⋮気にするな。皐月、友達になろう。出来れば、親友希望。あは、
なんか恥ずかしいな。こんな言葉、一生言わないと思ってた﹂
紗理奈は顔をほんのり赤くして誤魔化すように頬をかき、だけど俺
から視線をそらさずにそう言った。
だから俺も、熱さを無視して紗理奈をまっすぐに見つめる。
﹁⋮⋮⋮昔、凄く仲がいい友達がいたんだ。親友だった。でも逃げ
てからはずっと嘘をついてたから、だから本当の意味で友達は出来
なかった。
始めは⋮母さんと離れて最悪だったけど、ここにきて良かったと思
う。小枝子と本当に友達になれたし⋮お前と、親友になれるんだか
ら﹂
互いに照れながら、赤い顔で笑った。
﹁改めて、よろしくね﹂
﹁ああ、よろしくな﹂
285
○
286
よろしく︵後書き︶
読んでくださりありがとうございます。
実は皐月と紗理奈が友達になるためにパーティーをしたと言って過
言でない程度に前から考えてました。
皐月には少しずつトラウマを無くして欲しいんですが、もしかする
と一足飛びに見えるかもしれません。
稚拙な文ですが頑張って行きたいと思います。
287
夏休みはじめます
﹁はぁ∼﹂
﹁ん? 弘美さん、どうしたんすか?﹂
﹁別に⋮夏休みだなぁって﹂
﹁⋮はあ﹂
おかしくね? 普通夏休みならもっとテンション高くていいだろ。
まぁ俺もだけど。
今日、終業式があり今はまだ12時過ぎだが放課後、というか夏休
みだ。
今年はあまり暑くないな⋮。
自然が多いからか、田舎ではないが都市部からは数駅離れてるから
か?
⋮⋮あ、通学時間とか外出には許可がいるとかで外に出てる時間が
短いからか。常に建物の中ならそりゃ快適だよな。
トレーニングだって建物内にそういう設備があるって知ってからは
中でやってるし。
﹁皐月様はまだのんびりしてていいわけ?﹂
何故だか皮肉げな口調で言われたがわけが分からない。
﹁? どういう意味ですか?﹂
﹁だぁかぁらぁ⋮はぁ﹂
288
﹁?﹂
弘美はため息をつくが答えない。
﹁ヒロは皐月に、まだ実家に母親に会いに帰らなくていいの? っ
て言ってるんだよ﹂
﹁ああ⋮帰ってもいないしな。爺ちゃんには会いたいけど忙しいか
ら、急がなくてもいいし。﹂
﹁ふぅん﹂
﹁てかそうか、みんな⋮もう帰りだしてんのか。七海様たちは?﹂
﹁私は⋮盆には帰るわ。どうせ親には会えないだろうけど。実家に
いると出たくもないパーティーに出なきゃならないしね﹂
﹁ヒロは帰らない。てかここに住んでるし。まぁ夏だし旅行には行
く予定だけどね﹂
﹁あたしはまだ。さ来週に父さんと母さんが一日だけ開いて食事す
るけどね。他は会えないな。母さんもわりと急がしいんだけど、父
さんがまた輪をかけて酷いから。祖父母には盆に会いに行くのが定
例だからね。
小学生ん時は親に着いて回ったけど、中学からは寮だし、毎年帰ら
ずに友達とかで遊ぶかな﹂
﹁へぇ⋮そういや小枝子も帰る前にメールするって言ってたな﹂
夏休みだもんなぁ。爺ちゃんとも居たいし、あいつらとも遊ぼうか
な。
﹁ああ、いないのはやっぱ帰ってるんだ。てかあたし皐月のメルア
ド知らないな。教えてよ﹂
そういやそうだな。俺は教えようと携帯電話を取り出し︱
﹁そうね、連絡が取れないと困ることもあるかも知れないし、私も
289
聞いてあげるわ﹂
﹁⋮⋮﹂
七海には男として教えたじゃん!?
教えたら駄目だ! バレバレだよ!
﹁あ∼⋮その、実はもう買い換える予定なんです。だからとりあえ
ず教えてください。買ったらメールしますから﹂
﹁え∼、面倒だなぁ﹂
﹁すみません。﹂
ぶちぶち言いながらも二人はメモ用紙に書いて渡してくれた。
ふぅ、下手につっこまれなくて良かった。さっさと話題変えよう。
﹁そういえば七海様って両親が医者なのに社交会とか行くんですか
? 医者ってそういうのとイメージ違うんですけど﹂
﹁ああ⋮そうね﹂
七海は面倒そうにため息をついてから紅茶を飲む。
つくづく動作が優雅なやつだ。
﹁言ってなかったかしら? 私の母方の祖父が資産家なのよ。母は
忙しいし何より父との結婚は反対されてるから。でも何だか知らな
いけど、お爺様は私を可愛がってくださるのよ。従兄弟も何人かい
るけど、私を特にね﹂
﹁へぇ⋮七海様って母親に似てますか?﹂
﹁え⋮ええ、よく言われるわ。どうして?﹂
﹁う∼∼ん、とりあえず、七海様の母親、愛されてますね﹂
﹁? また訳の分からないことを⋮﹂
290
まぁ多分だけど⋮七海の母親が好きだから結婚に反対して、似てる
七海が可愛いんだろうな
⋮いや、素で可愛いってのもあるのか?
﹁⋮何よその目は﹂
﹁ん⋮ああ、すんません﹂
ガン見してた。
﹁まぁいいや。それより紗理奈、暇なら遊ぼうぜ。来週なら暇なん
だろ﹂
﹁え﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いいよ。あ、なんなら携帯電話買うのに付き合おうか﹂
﹁えぅ!? そ、それはいい! えっと⋮何かしたいことあるか?﹂
﹁買い物﹂
﹁え、ん∼⋮まぁいいけど⋮あ∼⋮﹂
女のカッコで会わなきゃならないんだから、買うのも女もんだよな。
﹁皐月様﹂
﹁え? ああ⋮おかわりですか?﹂
弘美の前の空のコップにオレンジジュースを注ぐと、逆にされた。
机にオレンジが広がる。
﹁ってああ! なにしてんすか!?﹂
雑巾で慌てて拭いたので床に溢れずにすんだが⋮なんなんだこの嫌
291
がらせは。
え? ていうか当たり前にその世話をする俺って⋮
﹁違う! ⋮ヒロも行く﹂
﹁え?﹂
﹁そう⋮水着を買いに行くわよ! 今年はみんなで海に行くの! ね? 七海様もいいですよね?﹂
﹁そうね⋮いいんじゃないかしら。でもそれなら、私も水着を買わ
ないといけないわね﹂
﹁いいねぇ。海か。やっぱ夏は海だよね!﹂
あれ? 何だこれ? いつから海に行くのが決定なんだ? ていう
か海って⋮⋮水着じゃん!
﹁す、ストップ温暖化!﹂
﹁うん。だから室内じゃなく外で涼もう﹂
﹁⋮いやいやいや! 違う! 違います! 冗談です!﹂
さりげなく止めるためにユーモアをいれただけなんです!
﹁じゃあまず買い物だけど⋮いつなら開いてる?﹂
﹁え∼⋮今週はたっぷり爺ちゃんと遊ぶから、まぁ来週末とかなら
良いけど、ってじゃなくて!﹂
﹁じゃあ土日は混むから一週間後火曜の昼に学園前で。二人はどう
せ暇なんだしいいよね﹂
笑顔で俺の話をスルーする紗理奈に二人も頷く。
292
﹁どうせってのが引っかかるんですけど⋮まぁ大丈夫です﹂
﹁構わないわ﹂
﹁俺が構うわ! ヤダ! 水着なんて絶対反対!﹂
机を叩いて抗議すると紗理奈がはぁと大袈裟にため息をつく。
﹁いいじゃん別にさ∼﹂
﹁いや!﹂
﹁皐月様﹂
﹁なんすか!?﹂
﹁いいから黙って従えよカス﹂
﹁⋮⋮⋮はい﹂
⋮なんなんだこの扱いは
だが何故か弘美に逆らえない俺⋮ていうか本気でその睨み顔は恐い
から
こうして、俺の夏休みは始まった。
○
﹁でさぁ、小枝子も行こうぜ。来週の火曜なんだけど﹂
293
家に帰ってきた俺は早く帰ってきた爺ちゃんに迎えられ、たくさん
話をするといつの間にか日が沈んでいたので夕食をとった。
そして今は、昨日決めたことを小枝子に報告している。先日めでた
く?小枝子も淑女会の一員になったのだから普通に誘えて嬉しい。
そうじゃなかったら、小枝子は遠慮するだろうし。
﹃あー⋮すみません、その日はもう約束が⋮すみません﹄
﹁あ、ならいいよ。泳ぎに行く日はまだ決めてないけど、その時は
小枝子の大丈夫な日を聞くから水着だけ用意してくれよ﹂
﹃はい。分かりました。ところで皐月さん、それ以外に予定は決め
てますか?﹄
﹁ん、明日は爺ちゃんと一日家で映画見るよ。明後日は爺ちゃんと
釣りに行く﹂
﹃⋮⋮あの、失礼ながら会社は大丈夫なんですか?﹄
あ∼⋮まぁ、平日に遊ぶ発言したらそう思うか。そもそも社長なの
に俺が家にいる日は毎日定時帰りって⋮まぁ夜中にパソコンに向か
ってるしやってるんだろうけどな。
﹁うん。特別に休むらしいし、それからは普通に休日しか休まない
から。まぁどっちにしろ朝も夜も顔を合わすんだけどな﹂
﹃そうですか。じゃあ4日後に遊びませんか?﹄
﹁いいよ。何する? あ、水着選びに付き合おうか?﹂
﹃いいですね! 皐月さんのを選べないのは残念ですが﹄
﹁え、選んでよ。どうせあの3人とだと荷物持ちだろうし﹂
それにどうせ水着を着なきゃならないなら、小枝子に選んで欲しい
しな。
294
﹃駄目です。きっとみなさん皐月さんのを選びたがりますよ。﹄
そうかぁ? 小枝子、考えすぎじゃね?
と思ったが、まぁ小枝子がそう言うならそうするか。それに買わな
くても参考くらいになら聞けるだろ。
﹁じゃあ、携帯電話選んでよ﹂
﹃携帯電話⋮ですか?﹄
﹁うん。女の皐月用に買わないと七海にメルアド教えられないし。
何か携帯電話二つってカッコよくない? 仕事とプライベート、み
たいな?﹂
﹃ふふ、そうですね﹄
﹁小枝子にも教えた方がいいか? でもアドレスは別だけど、小枝
子からしたら変わらないか?﹂
﹃いえ、二つ持ち歩いていたら七海様たちに見られたらどう言うん
ですか? ちゃんと女の時、男の時に持ち変えた方がいいですよ。﹄
た、確かに⋮今のやつはもう見られたのにタイプ変わってなかった
ら怪しまれるよな。
﹁う、う∼ん⋮でも男の俺しか知らないやつからメールきた時にす
ぐに対応できないしなぁ﹂
﹃う∼ん⋮あ、じゃあ同じ携帯電話を二つにすれば一度に出さない
限り大丈夫ですよ﹄
﹁それだ! 小枝子ナイス!﹂
﹃ありがとうございます。じゃあ次の土曜に⋮何時に何処にしまし
ょうか﹄
﹁俺が小枝子の家に行くよ。てか行きたい。昼になら行っていいか
?﹂
295
行ったことないしな。楽しみだなぁ。まぁ小枝子の部屋なら寮部屋
から傾向は分かるけどな
﹃構いませんけど、どうせならお昼一緒しません? 私の家、分か
ります?﹄
﹁うんにゃ、わかんね﹂
﹃⋮⋮じゃあ、私が駅まで迎えにいきます。あ、私の家でご飯にし
ますか? 母も喜ぶと思いますよ﹄
そりゃあいい! この間は猫被ってちょっと挨拶しただけだしな。
小枝子の母親なら仲良くしたいぜ。
﹁いいね。じゃあ11時に⋮E駅、だよな?﹂
﹃そうです﹄
﹁で、小枝子の家で遊んでそれから買い物に行こう。E駅なら一駅
でショッピングモールあったよな﹂
﹃はい。それほど大きくはありませんが﹄
﹁じゃ、決定!﹂
○
296
小枝子との休日︵前書き︶
無駄に長くなったのでところどころ省略しました。
297
小枝子との休日
今日は小枝子が相手なので思いっきり男の格好だ。来週にまた女装
しなきゃならないのはアレだが⋮やっぱりこっちのが落ち着く。
時間は⋮と、もう58分か。5分前には着きたかったんだが⋮小枝
子ならもういるかな。
﹁じゃあその連れがきたらでいいからさ。一緒に行こうよ。可愛い
?﹂
﹁可愛い⋮ですけど⋮けれど駄目です﹂
﹁いいじゃん。おごるよ﹂
な⋮ナンパされてる。なんてわかりやすいんだ。
﹁おーい、小枝子﹂
﹁あ、皐月さんっ﹂
﹁ってなんだよ⋮男かよ﹂
﹁はいはい、ナンパはお断りで∼す﹂
﹁ちっ、ガキが﹂
男は素直に立ち去った。
ふう⋮いちいち男ってうざいなぁ。しかし俺⋮小枝子と同じ歳なん
ですが。
男にしたら小枝子と変わらない身長でだと、やっぱ幼くみえるのか
なぁ
﹁おはようございます、皐月さん﹂
298
﹁おはよ。ごめん、待たせたな﹂
﹁いえ、今来たところですから﹂
﹁本当?﹂
﹁⋮⋮はい、勿論ですよ﹂
﹁⋮分かった、信じる﹂
とても嘘臭い、というか目が泳いでますよ小枝子さん。
だが、それを暴いたところで意味はないので俺は小枝子について家
に向かった。
﹁⋮マンション住まいなのか?﹂
意外だな。デかいマンションだしこのあたりの値段も安くはないが
⋮普通だな
﹁はい。私のは最上階です﹂
﹁そう﹂
﹁ふふ、何を考えてるか分かりますよ。普通、でしょう?﹂
﹁え⋮ああ、まあ⋮﹂
﹁父の給金が少しばかり平均より上なだけですよ﹂
でもその割には2階にいるよな。俺はまぁでっちあげた経歴だから
で実際の爺ちゃんとの関係なら普通に七海クラスだけどな。
﹁ではまず、私の階に行きますね﹂
﹁? 階?﹂
﹁はい﹂
カードを取り出した小枝子は機械にさしこみ、エレベーターで最上
階にあがりドアが開くと、玄関だった。
299
﹁⋮え? ⋮ワンフロア、まるまる?﹂
﹁え、はい。そうですけど⋮どうかしました? 母と父は下のフロ
アです。その下がダイニングや客間です。私の家はその三つだけで
す。変ですか?﹂
きょと、と不思議そうに首を傾げる小枝子に、思いっきりツッコミ
たい。
﹃だけ﹄じゃねーよ! どこが普通か! しかも個人でだろ!? このっ⋮金持ちが!
だが普段よりニコニコしている小枝子にそんなツッコミができるは
ずもない。
﹁? どうかしましたか?﹂
﹁⋮何でもない。そう、普通だよな﹂
それにさりげに俺も金持ちだよな。いつからこんなことに⋮⋮いや、
幸せだからいいけど。
母さんに会えないのがなぁ⋮夏休みに一度は会いにくるって言って
たけど⋮。
﹁皐月さん?﹂
﹁あ! や、何でもない。ってか小枝子の部屋⋮可愛いよな。寮と
同じ雰囲気だけど、パソコンとか⋮できるんだ?﹂
しきりはなく、本当にまるまる一部屋って感じだがダイニングのよ
うに配置されたソファや、サイドテーブルつきのベッドと色々空間
的に分かれている。
300
窓辺の机にはパソコンが置いてあった。
﹁メールとインターネットくらいです﹂
俺もそのくらいか。まだチャットもやったことないし。そのうちや
ろうとは思うんだけどな。
にしても⋮やっぱり俺の寮の部屋と系統似てるよな。小枝子の場合、
素なんだが。
﹁可愛い部屋だな﹂
﹁えへへ、皐月さんの部屋にはかないませんよ﹂
﹁あ∼⋮まぁ、母さんと爺ちゃんの趣味なんだけどな﹂
﹁ふふ、とっても似合ってると思いますよ。皐月さんに。﹂
﹁え∼? 小枝子のが断然似合ってるって。だいたいぬいぐるみは
可愛いけど、欲しいとはまったく思わないし﹂
﹁じゃあどんなのが欲しいんですか?﹂
﹁ん? ん、やっぱり男向けな感じがいいな。今度友達にスケボー
教えて貰うんだ。体を動かすのは好きだし。﹂
ゆうま
たけとみ
パーティーで出会った男友人の二人とな。
名前は勇馬と武富だ。名字は知らんが、冬からの友人だ。ちなみに
どちらも二つ上の大学生だ。
﹁わ、凄い。私、運動は苦手だから、皐月さんには憧れます﹂
小枝子は素直に俺に尊敬の眼差しを向けてくる。
﹁いやぁ、照れるな﹂
301
やっぱり小枝子は可愛いなぁ。ビバ癒し!
○
﹁初めまして、崎山皐月です﹂
よく考えなくても男として会うのは初めてなのでそう言うと、小枝
子の母︱香織は
﹁あら?﹂と首を傾げた。
﹁皐月⋮さん? 小枝子の友達の? あら? 女子校、だったわよ
ね?﹂
﹁あ、え、それは⋮﹂
慌ててフォローしようとしてしどろもどろになる小枝子を遮り、俺
はにっこり笑う。
﹁ああ、滝口皐月でしょ? 俺の従姉妹です﹂
﹁ああ! そうなの、そっくりなのね﹂
﹁よく言われます﹂
よっし、誤魔化せた!
302
﹁ささ、二人とも座って。今用意するから﹂
﹁皐月さん、どうぞ。お母さん、私も手伝います﹂
小枝子に言われるまま俺は席につくと小枝子は俺の前にコップを置
いて台所に行く。
﹁ありがとう﹂
持ってこられたのはカレーライスだ。まぁ臭いで分かってたんだけ
どな?
﹁うまそ∼﹂
﹁そう言ってもらえると嬉しいわ。じゃあ食べましょうか﹂
﹁はい﹂
﹁いただきます﹂と声を揃えて言ってから俺はスプーンを動かして
口に運ぶ。
﹁⋮⋮! ほ、ほれは⋮﹂
甘い⋮カレーのくせに、かんなり甘いっす。
そりゃ甘いものはかなり好きだが⋮カレーは辛くなきゃ駄目だろ!
こんなの⋮こんなのカレーじゃないやい!
叫びたくなった。だから
﹁どうかしら、皐月君?﹂
303
と香織さんに聞かれたので俺は勿論
﹁とっても美味しいです﹂
とにっこり笑って言った。
ああ⋮俺ってやつは何て自己主張のないやつなんだ。
﹁小枝子は?﹂
﹁美味しいですよ﹂
く⋮こいつら甘党か!? つーかお子様か!?
○
﹁あ、これとかどう? 格好よくない?﹂
俺は小枝子の家から一駅離れた大型デパートの携帯電話販売店頭で、
新型の携帯電話を持て遊びながら尋ねる。
﹁皐月さんに似合いま⋮あ、似合いますけど、制服には似合いませ
んね。なおかつ、男の方でもおかしくないデザインですから⋮⋮や
っぱり、シンプルな形が一番ですかね﹂
﹁う∼ん⋮そっか。さすが小枝子、色々考えてくれてるんだな。あ
りがとう﹂
304
﹁そんな、当然ですよ。﹂
あれ? 今の話の流れおかしくないか?
まぁいいや。
﹁色は⋮赤でいいかな﹂
﹁はい。皐月さんにぴったりだと思います﹂
﹁ありがと﹂
最新式から一番シンプルなやつの赤を選んで、小枝子が選んでくれ
たストラップをつける。
勿論、同じやつをそれぞれにつけたのだが見分けがつくように色は
違う。誰もそこまで見ないだろ。
見たとして気分でつけかえてるって言えばいいしな。
そして女の俺の知り合いにメルアドを送ってから、ようやく俺は本
日のメイン、水着売り場へと向かった。
﹁皐月さんは⋮どういうのが好みですか?﹂
﹁いや、俺に聞くの?﹂
間違ってるだろ。色々と。
だって俺、水着なんて選んだことないし。
﹁いいんです。皐月さんが好きなら、私どんな水着だって着ますか
ら﹂
﹁うん、どんなのを選ぶと思われてんの俺?﹂
305
とりあえず小枝子が実は俺を信頼してないことは分かった。
﹁皐月さんは何色が好きなんですか?﹂
﹁色⋮か﹂
好きなのはまぁ赤とか青とか緑や黒、白も好きだし⋮何だって好き
だな。淡い系も好きだし⋮そもそも色に好き嫌いとかあんのか?
まぁいいや。小枝子は肌が白いから、はっきりした色がいいな
﹁⋮思い切って、オレンジ⋮とか?﹂
小枝子は性格が静かだし私服も大人しいから、たまには分かりやす
く派手なのもいいだろ。
﹁お、オレンジですか?﹂
﹁ああ、これはどうだ?﹂
適当に取り出してみる。黄色が基本でオレンジや赤系のラインが不
規則に入っている。
そこまで派手でもないし、ところどころフリルがついていて可愛さ
もある。
﹁良いですけど⋮少し派手じゃないですか? それに背中のきれこ
みが⋮﹂
言われて見れば腹は隠してるが背中は丸見えだ。
でも⋮いいじゃん。だいたい派手って言うが普段が大人しすぎなん
だよ。
小枝子は可愛いんだからいいだろ。背中があいてるっても痩せてる
306
し。
﹁絶対似合うって。小枝子可愛いんだから、ちょっとくらい見せて
も大丈夫。自信持てよ﹂
﹁⋮本当に、私、可愛い⋮ですか?﹂
頬を染めてうつ向きぎみに俺を見る小枝子は掛け値なしに可愛い。
てかあんまり自覚がないのもどうかと思うな。
﹁うん。てかさっきだってナンパされてたの忘れてたのか?﹂
﹁忘れてはないですが⋮ああいう殿方は⋮女の人ならどなたでもい
いのでしょう?﹂
﹁⋮⋮⋮。えっと⋮否定はしないけど⋮﹂
なんだその思考回路。
こいつ、マジで天然記念物だな。ん? そういや七海も自分で美人
美人言うわりに普通に外出したりしてたな。
﹁まぁいいや。着てみてよ。褒めるから﹂
﹁え⋮前提? いいですけど⋮わ、笑わないでくださいね﹂
﹁頼まれたって笑わないよ﹂
そして試着
﹁うん、似合うぜ﹂
﹁ありがとうございます。じゃあ⋮これにしますね﹂
﹁そうしろ。さて俺は⋮﹂
307
ピピピッ!
電子音がして震えるポケットを押さえる。
﹁? 母さんからメールだ﹂
なんだ?
小枝子が試着室に戻ってる間にチェック。
﹃この前の話だけど、水着ならスクール水着がいいわ。皐月ちゃん
全然着ずに小中学校終わったじゃない? ね?
ちゃんと写メールで送ってね﹄
⋮いや、どうせ学校では着なきゃならないんだからさぁ。
って言っても二学期からしかないんだけどな。
しかも温水プール。暑さをしのぐためじゃないのかよって感じだよ
な。
まぁ仕方ないか⋮母さんは普通の娘が欲しいのに俺の好きに生活さ
せてくれてたんだし⋮⋮それに慣れないと授業受けれないしな
あれ? 俺って泳げたっけ?
308
全く記憶にございません。
う∼⋮そういやずっとやってないしなぁ。幼稚園と小学生の1年の
時だけだったし⋮あんまりあの頃のこと覚えてないんだよな。
先生だって声や仕草は覚えてるのに顔や名前は忘れたし。
まぁ、何とかなるだろ。
﹁お待たせしました﹂
試着室のカーテンが開いて私服に戻った小枝子が出てくる。
﹁いやいや、ところで俺ってどんな水着が似合いそう?﹂
﹁う∼ん⋮スクール水着!﹂
︵ ̄□ ̄;︶!!
な⋮小枝子まで⋮俺って⋮⋮そんなイメージなんだ。
﹁なぁんて⋮ってあの、冗談、ですよ?﹂
﹁え、冗談? あ⋮なんだ。良かったぁ﹂
﹁まぁ本当に似合ってましたけどね﹂
﹁⋮⋮それはあれですか? 俺が幼い、と?﹂
﹁え⋮⋮あ∼⋮わ、私欲しい本があるんです。本屋さんに付き合っ
てくれますか?﹂
309
うわぁ⋮なんて下手な話のそらしかただ。隠し事できない性格だな、
分かってたけど。
まぁ、いいか。小枝子だしな。
﹁いいよ。じゃあそれ買ったら、色々回ろうぜ﹂
﹁はい!﹂
○
﹁う? あ⋮雨か。後で傘買わねぇと﹂
一通りデパートを一周してから最上階のレストランエリアのファミ
レスにきている。
窓際なのですぐに雨に気付いた。ポツリポツリだったのがすぐに雨
足が強くなる。
おいおい⋮天気予報メチャはずれじゃん
﹁あ、あの⋮私、傘持ってますよ﹂
﹁マジ? 天気予報、雨だっけ?﹂
でもそれなら使用人の人が誰か言ってくれたと思うんだが⋮。
﹁いえ、降水確率10パーセントでしたけど⋮でも皐月さんとのお
310
出かけですから。もしもがあったら困るでしょう? どうぞ、折り
たたみですけど﹂
言いながら小枝子は鞄から紺の折りたたみ傘をだして俺に渡す。
﹁サンキュー。念のために聞くけど小枝子の分は?﹂
﹁勿論持って⋮⋮あれ?﹂
小枝子は鞄をガサガサあさってから﹁えへ?﹂と可愛らしく笑う。
﹁⋮お決まりのギャグをありがとう﹂
﹁あ、あはは⋮えっと、買ってきますから、待っててください﹂
﹁待て﹂
﹁え﹂
立ち上がろうとする小枝子受け取った傘をかざして止める。
そりゃ色々間違いすぎだろお前。本当、人を思いやるにもほどがあ
る。
﹁一本ありゃ十分だろ。てか、小枝子が持ってきたのに俺が使って
お前が買うとか⋮バカか?﹂
﹁う⋮でも⋮ご迷惑じゃ?﹂
﹁だから、逆だろ﹂
なんなら俺が自分の分買うぞ? と言うと小枝子は﹁駄目です!﹂
と慌てて言うので俺は苦笑する。
優しすぎる。バカだなぁ。
﹁んじゃ、問題ない。てか、俺をあんまりろくでなしにしないでく
れよ。ただでさえ小枝子には情けないとこ見せてんだからさ﹂
﹁皐月さん⋮﹂
311
﹁よし、んじゃ次はどうする?﹂
﹁ん、カラオケでも行きますか? 私、割引券持ってますよ﹂
割引券⋮。金持ちのくせにやっぱり小中学校は普通にしてただけあ
って庶民的だな。
そのくせあのマンションは普通って⋮感覚の幅広っ。
﹁くくっ、オッケー﹂
笑いながら答える俺を小枝子は不思議そうに見ていた。
○
﹁う∼、やっぱり納得いきません﹂
デパートから最寄りの駅まで戻ってくると小枝子がしつこくそうも
らす。
だから俺は傘を閉じながらわざととぼける。
﹁え? 納豆いりません? 好き嫌いは駄目だろ﹂
﹁違います! 納得できないって言ったんですー!﹂
﹁分かってるって、軽くボケただけだって﹂
﹁! それはツッコミをすべきでしたね。すみません﹂
﹁⋮⋮まぁ、なんだ?﹂
312
さりげにこいつ、わりとボケてツッコむキャラだよな。でもどっち
も弱いけど。
とりあえず普通に謝るな。
﹁はい?﹂
﹁いや⋮まぁいいだろ別に﹂
﹁よくありません。私だって少しはお金持ってます﹂
﹁ちなみにいくら?﹂
﹁10万ほど﹂
このセリフ、前の俺なら殴ってたな。でも今はもうできない⋮。
だって俺の財布にもそれくらいあるし。しかも爺ちゃんからカード
も渡されてるし。
ちなみに何をもめてるかと言えばファミレス代金とカラオケの2時
間代を俺が全部払ったからだ。
しかしおごられて文句を言うとは⋮。何となく予想はしてたがな。
金銭感覚は普通のつもりだが⋮所持してる金額と上限が甘くなって
るな。
高級品でもいいものなら高いとは思わないし⋮。ああ⋮ビバ金持ち
⋮。
さて⋮んじゃ、そろそろお開きにするか。
ちょっと早いが、爺ちゃんと一緒に晩御飯をどっかに食いに行く約
束してるし。
313
﹁小枝子、悪いけどこれから爺ちゃんと約束あるんだ。今日はもう
解散でいいか?﹂
﹁はい。今日はありがとうございました。楽しかったです﹂
﹁俺も。んじゃ家まで送るよ﹂
﹁え、いいですよ。歩いて帰れる距離ですし﹂
﹁え。歩きなら尚更⋮﹂
てか行きは電車だったのに?
﹁いいんです。その⋮実は電車は⋮その⋮痴漢によくあうので。あ
! も、勿論今日は皐月さんがいたので大丈夫でしたけど﹂
俺の視線に慌ててフォローする小枝子だが、なんのフォローにもな
ってない。
くそ! この⋮こんな大人しい小枝子に好き勝手しやがって。なん
てやつだ!
ああもう! 見つけてぶち殺してやりたい!
これだから、これだから男ってやつは!!! 死ねばいい!!
﹁⋮小枝子﹂
﹁え?﹂
﹁絶対にこれから電車は使うなよ。タクシーにしろタクシー。金な
ら俺が払うから﹂
俺が真剣に言うので気迫に押されながらも小枝子は頷く、
﹁わ、分かりました。﹂
﹁絶対だぞ? もしどうしても乗る時は誰かと一緒に乗れ。もし、
314
痴漢にあったら勇気をだして告発しろよ。お前は被害者なんだから
な﹂
﹁はい。分かりました。でもお金はいいですよ。じゃあタクシーに
します。皐月さんは?﹂
﹁俺もタクシー。ちょくで帰りたいし。傘、ありがとな﹂
傘を返すと小枝子はビニール袋にいれてから鞄にいれる。
﹁じゃあ行きましょう。乗り場はあっちです﹂
﹁ああ⋮いいな。しつこいようだが困ったことがあったら絶対に、
俺に言えよ﹂
﹁はい! ⋮ありがとうございます。大好きです、皐月さん﹂
小枝子の笑顔を見て、ますます俺は憤慨する。
こんなに純粋な小枝子に、なんてことをするんだ。男なんて⋮男な
んて、やっぱり大嫌いだ。
○
315
やっぱり夏は暑いんです
﹁⋮暑い﹂
雑誌の表紙をかざるような流行りの服装をそのまま持ってきたよう
な涼しげな格好をした少女が学園前にいた。
まぁ、俺なんだが。
肩、腹、腕、足と男のままでは露出できない女ならではの格好をし
ていても、暑い。
今年一番の汗だくだ。何故って⋮
炎天下で1時間も放置されて涼しい顔をしてられるかー!
﹁がーっ! あいつら電話もでないしメールも無視だしなに考えて
んだよ!!﹂
何だ? 罰ゲーム?
ピピピッ!
俺は怒りにふるえながら携帯電話を開く。紗理奈からメールだ。
316
﹃ごめん、今起きた。﹄
は? 今、2時なんですけど
⋮寝過ぎだろ! つか、約束してる日くらい起きろ!
ピピピッ!
ん? またメール⋮今度は七海か⋮⋮お前まで寝坊してんじゃない
だろうなぁ
﹃いつまで門の前にいるつもりなのかしら? 紗理奈に何か用でも
あるの?﹄
﹁⋮は?﹂
用もなにも
ピピピッ!
またメール⋮今度は弘美か
﹃言い忘れてたけど、紗理奈様はいっつも遅れるから、起きたメー
ル来るまではいないのが当たり前なのが暗黙ルールだから。まぁ夏
だし、焼けたくないし紗理奈様がくるまで出ない。ちなみに紗理奈
317
様は片道1時間﹄
言うのが遅ーいっ!!
俺は中に入ろうとして、門が開かない!?
く、そういえば中からは開くが外からは普通には開かないんだった。
学生証があればあくんだが⋮持ってねぇし。
ええい、こなくそっ! こうなりゃ飛び越えてやれ!
俺は門の前から裏へまわり︵門にはカメラがあるから離れる︶勢い
をつけてジャンプして壁に指をひっかけ、飛び越えた。
ふ、俺にこの程度の壁なんてないも同じさ。
ビィーーー!
﹁!?﹂
突然けたたましいサイレン音が響く。
な、なにぃ!? こんな罠が⋮!
﹁あんた⋮本当にバカね﹂
﹁な⋮弘美⋮さん﹂
顔をあげると建物の一階の窓から弘美が顔をだしていた。
あ、これ寮棟か。
318
弘美が携帯電話を取り出し、何処かに電話をかける。
﹁あ、おばあちゃん? ヒロだけど。⋮⋮うん、それ皐月様だから。
⋮うん⋮⋮⋮そう、切って。⋮うん、ありがと。じゃあね﹂
弘美の電話が終わるとサイレンは止まり、俺は胸をなでおろす。
﹁助かった∼。ありがとうございます、弘美さん﹂
﹁てかね、あんたが簡単に侵入できることに対策ねらないわけない
でしょ。
てか、さっきあんたにメールした時から何かと思ってたけどなにこ
れ⋮全部あんたからじゃない。電話かけすぎ。ストーカー? メー
ルも⋮ぷ。ずっと待ってたわけ? ダサっ﹂
﹁うるせぇ⋮もっと早く言えよ。俺がどんだけ待ったと思ってんだ
よ。よくも無視しや⋮しやがりましたね﹂
やべ、紗理奈に使ってないせいで気がゆるんだってか、暑さで頭お
かしいってか、サイレンにびびって混乱してるってか⋮敬語がボロ
ボロだ。
俺は焦るが弘美は気にした風もなく、窓枠に肘をついている。
﹁ふん。知らないわよ。バイブだし気づかなかったの。つか、紗理
奈様と最近仲いいし、聞いときゃいいじゃない﹂
﹁あのな⋮あのですね﹂
﹁皐月様さ、何でヒロに敬語使ってんの?﹂
﹁⋮は?﹂
なんだ突然?
319
﹁同じ年の紗理奈様や小枝子様に使ってないのに年下のヒロにだけ
使ってたら、ヒロが強制してるみたいじゃん。ヒロのイメージダウ
ンになるんだから、気をつけなさいよね﹂
﹁はぁ⋮⋮すみません?﹂
そういやこいつ、素直で純粋無垢な猫被ってんだっけ?
でも小枝子だって使ってんだし別に⋮なぁ?
また何癖つけて俺をいじめるつもりかよ。
﹁だから!﹂
﹁ああ分かった分かった! 分かったからそう怒るなよ。こう見え
て俺、気が弱いんだから﹂
まぁ本人が言うんだから、タメグチでいいってことだよな。
﹁見たまんまじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
いや⋮そう、か? 俺⋮気が弱そう?
﹁皐月様、おーい。落ち込んでる場合じゃないよ﹂
﹁ああ⋮とりあえず、中にいれてくれよ。﹂
汗が気持悪い。服も置いてってるし、着替えよう。
弘美をどかして窓枠に手をかける。
﹁ちょっ、玄関から入りなさいよ﹂
﹁いいじゃんか、よっ﹂
320
靴を脱いで中に入る。弘美が嫌そうな顔をしてるが無視だ。
つか汗臭いのはお前らが無視したせいだからな。
﹁あんた⋮汗かきすぎ﹂
﹁仕方ないだろ。お前も、七海も俺のメールも電話も無視するんだ
から﹂
そういやあいつ、俺にいつまでいるとか聞いてきたな。ってことは
俺がいるのを知って無視してたんだよな。
﹁ってちょっと待ちなさいよあんた!﹂
﹁ん?﹂
﹁あんた、自分の中では七海様のことまで呼び捨てにしてるわけ!
?﹂
﹁そうだけど⋮それがどうかしたか? 弘美だって俺のこと内心じ
ゃボロクソだろ?﹂
尋ねると弘美はくやしそうに腹立たしそうに俺を睨む。
﹁⋮⋮そもそも、あんたと七海様はランクが違うってか格が違うっ
てか、もはや核が違うし﹂
﹁コアから!? てかだから文字でしか分からないボケはやめなさ
い!﹂
律義にツッコミをいれる俺だが弘美は面倒そうに自分のベッドに戻
る。
つかお前まだ寝間着じゃねぇか。
321
﹁うるさいなぁ。着替えたら? 服、ちゃんと置いて帰ってる? 貸さないわよ﹂
﹁あるよ。あとお前、ちゃんと用意しろよ。いつまで寝間着なんだ
よ﹂
﹁うるさい。ヒロは元がいいから化粧しないし30分あれば十分な
の。もう朝風呂は入ったし﹂
﹁俺だって化粧なんてしないっての。んじゃ、遅れるなよ﹂
﹁待ちなさいよ﹂
﹁はい?﹂
振り向くと顔に布が襲いかかってきたので反射的に掴む。
﹁早く汗ふかないと、バカのくせに風邪ひくわよ﹂
タオルだ。つまりこれでふけ、と。
まぁシャワーを浴びるつもりではあるが、気持ちはもらっておこう。
﹁サンキュー﹂
俺は後で返すと言って弘美の部屋をあとにした。
自室に戻るとむわぁ、とこもった熱い空気に俺は眉をしかめる。
ぐわ⋮日当たりがいいのも考えものだな。
窓を全開にしてクーラーの電源をいれる。温度は18度設定。
﹁あちぃ⋮﹂
322
夏だなぁ⋮
○
﹁入りますよー﹂
﹁ノックをしなさいといつも言ってるでしょう。犬だからって甘や
かさないわよ﹂
﹁そういうのは本当の犬に言え。じゃなくて、何で私の電話無視し
たんですか﹂
弘美は気づかなかったんだし仕方ないとして、だ。お前確実に知っ
てただろ。
七海は窓辺のテーブルで本を読んでいたが顔をあげてうざそうな視
線を俺に向ける。
涼しい部屋だなぁ。ま、俺の部屋はもう電源切ったけど。
あと30分くらい、ここに居座るか。
﹁うるさいわねぇ。あなたが一人で汗だくで立ってるのが見えたの。
ほら、門が見えるでしょう?﹂
323
七海の側によると確かに門が見える。
見えるが⋮それがどうした?
疑問の視線を向けると七海は分からないのこの阿呆は、とでも言い
たそうな視線を返してくる。
﹁あなたが頑張ってたから、邪魔したら悪いと思ったのよ。まぁさ
すがに1時間は体に悪いかと思ってメールしたけど﹂
﹁⋮⋮おま⋮言いたいことは色々あるが、とりあえず⋮あー⋮いい。
なんか疲れた。紗理奈が来たら起こしてくれ﹂
ベッドに寝転がる。
つか七海⋮お前の言ってる意味が分からない。俺が悪いのか?
もう、面倒だ。
七海のベッドはすでにベッドメイキングがしてあり、洗い立ての石
鹸の香りがする。
マメなやつだな。ちなみに俺は気が向いたらやろうと思いつつ、ま
だ一度もシーツを洗ってない。
あ、休みなんだし、やらなきゃな。業者に頼もうかな∼
﹁ちょっと止めて。さっき終わったところなのよ。週に一度しかし
ないんだから、私が最初に味わうのよ﹂
週一なら十分だろ。
﹁ん∼⋮毎週土曜って⋮決めてんすか?﹂
七海の言葉を無視して尋ねると七海は本を閉じて立ち上がってきて、
324
俺の腕をひこうとするから先に掴んで引っ張る。
﹁きゃっ⋮⋮⋮⋮どうしてあなたが引っ張るのよ﹂
七海は俺に引っ張られた勢いでベッドに肘をつき至近距離で俺を睨
む。
あ⋮マジで眠くなってきた。
﹁⋮七海ぃ、うるさいなぁ⋮﹂
﹁あなたね⋮はぁ、もういいわ。離しなさい﹂
﹁⋮⋮﹂
起き上がる七海。見上げる。
⋮綺麗だ。
窓からさす光が七海に陰影をつける。
長い髪がすけて輝いてるようだ。
この瞬間を切り取って飾っても、絵画として通用するだろう。
でも、絵画のように綺麗でも、七海は絵画じゃない。
生きていて、触れることができる。温かさが今も伝わってくる。
﹁皐月? 聞いているの?﹂
七海が手をふるが、俺は七海の手を離さない。
﹁⋮一緒に寝よー﹂
考えるより先に口にだしていたけれど、なかなかいい案だ。
﹁え?﹂
325
﹁それなら⋮七海も一緒に気持いー﹂
うん、七海が最初にこの気持良さを味わいたいって言ってたもんな。
﹁う⋮んぅ⋮⋮寝よぅ? ちょっとだけ﹂
﹁駄目よ。だいたいクーラーがきいてると言っても、二人で寝たら
暑いでしょう﹂
﹁ん∼⋮でも、夏でも母さんは一緒に毎日寝てた⋮よ。クーラーも
なかったけど、でも⋮一人じゃ寂しいから﹂
なんでこんなこと七海に言ってるんだろ?
寂しいのかな? ⋮うん、寂しいなぁ。
爺ちゃんのことは好きだけど、キスできるけど、一緒に寝るのはで
きないから。
﹁でも最近は殆ど一人なのでしょう?﹂
﹁うん⋮だから、寂しい﹂
﹁⋮⋮分かったわよ。ここに座っててあげるから、寝なさい﹂
七海は俺に手を握られたままベッドに座った。
﹁⋮うん⋮ありがと⋮⋮七海は、あったかいから落ち着く﹂
﹁そう⋮じゃあ、また寂しくなったらこうしてあげるわ。ただし私
の気がむいたらね﹂
﹁⋮うん⋮⋮﹂
ちょっとだけ、5分だけ、寝よう。
326
○
﹁⋮んぅ、あ⋮紗理、奈⋮?﹂
目を開けるとつまらなさそうな弘美がいて、それから紗理奈と目が
あう。紗理奈はにこっと笑う。
﹁おはよう寝ぼすけ、なんてね。あたしも人のこと言えないけどね﹂
﹁え⋮あぁ⋮ごめん、今何時?﹂
どうやら寝過ごしたらしい。七海、起こせよ。と、右手が空だ。
七海はいつの間にか消えていた。まぁいいか。
まだ外は明るいし、それほどではないだろう。
﹁5時﹂
﹁⋮⋮え?﹂
どうやらかなり寝過ごしたらしい。
﹁最悪なんですけど﹂
﹁う⋮ごめん弘美、その⋮今からじゃ駄目か?﹂
﹁⋮いいけど条件があるわ﹂
﹁なんなりと﹂
327
弘美は無意味に沸点が低いので、少しでも俺に非がある場合は下手
にでるに限る。
﹁今日はちゃんとヒロの奴隷らしく、ご主人様に絶対服従して。今
日だけってか本当はそれが普通なんだけど⋮⋮仕方ないから今日は
そうするの﹂
拗ねるような弘美に俺は安堵する。そんなに怒ってないようだ。
それに言い方はアレだが、ようは罰として一日言うこときくってこ
とだろ。
﹁了解しました、お姫様﹂
﹁よし、じゃあ行こう。とりあえず会長が今手配してるから、顔を
洗ってきなよ。よだれついてるよ﹂
﹁⋮はあい﹂
○
328
弘美さんは個室がお好き?
﹁⋮あの、質問してもいいですか?﹂
﹁なに? つか敬語はやめろっつったでしょ下僕﹂
﹁下僕もやめろって言っていいのか?﹂
﹁駄目﹂
厳しいやつだ。
と、まぁいつもの事だ。それよりも⋮
﹁なんなんだよこの部屋は⋮﹂
今いるのは大手デパートの、ビップルーム⋮でいいのだろうか。
わりと広い室内に洋服やバックが並んでいる。
気のせいか⋮どれも一流ブランドものに見えるんだが。あ、水着も
ある。
あまり乗りたくない、あからさまに金持ちっぽい高級黒塗り車で運
ばれ、スタッフに案内されて裏口からここまできた。
﹁は? 買い物でデパートにくんのは普通でしょ﹂
﹁俺は今だかつて買い物でこんな部屋に案内された覚えはありませ
んが?﹂
﹁ヒロは正真正銘のお嬢様なのよ。個室でしか買い物をしかことが
ないらしいわ﹂
七海⋮お前がそれを言うのか。
それにしたって、やっぱり部屋に集められるのにも限りがあるんだ
329
から、普通の方がよくね?
そんな疑問を投げると七海は水着を物色しながら冷たい態度だ。
﹁知らないわよ。ヒロに聞きなさい。﹂
尋ねてみた。
とてつもなくバカを見るような目で見上げられてるのに、見下され
てるようだ。
﹁バッカじゃないの? なんでヒロが庶民どもに紛れてあんなゴミ
ゴミしたところで選ばなきゃならないのよ。だいたい知らないやつ
がいたら落ち着かないのよ﹂
﹁ふぅん⋮そんなもんか。まぁ確かに静かかも知れないけど、やっ
ぱり普通の売り場の方が何か選んでる感があると思うけどな﹂
こうまでお膳立てされると、むしろ選ばさせられてるだろ。高いの
しかないし。
﹁ヒロはあんたみたいな田舎者と違うのよ。いい? ヒロは他人が
嫌いなの!﹂
﹁あっそ﹂
そこまで嫌わなくても。もしかして猫被りがくせになってるから人
がいたら落ち着かないのか?
店員にも猫被って、追い出してから素をだしたしな。
俺は質問をやめて3人のように水着を物色する。何気なく値札をひ
っくり返す。
330
げ、高い!
小枝子の時もそれなりにしたが、ここの部屋、万からしかねぇよ。
うわぁ⋮こんなに布がないのに値段が⋮
○
﹁会長、会長はどれにするか決めました? あたしはこれー!﹂
紗理奈の元気な声に視線をやると、紗理奈は真っ青な際どいヒモビ
キニを持っていた。
この前に見せられたのはマシだったのか。てかそういや俺はスクー
ル水着じゃないとな⋮。
見てるのは楽しくないわけじゃないが、着たいと思うのはなかった
し、何より母さんの要望だしそれでいいか。
﹁私はこれね。ヒロも決めたのかしら?﹂
﹁オッケーです。﹂
ちらと見ると七海は白のワンピースタイプで腰に黄色の布をまいて
る⋮なんだっけ、そう、パレオだ。
弘美は普通のセパレート水着で、紗理奈ほど際どくなくビキニでは
331
ない。緑系統。
ふぅん⋮。
何だか、変な感じだ。こう、むずむずする。
﹁で、皐月は?﹂
﹁え⋮ああ、俺はスクール水着ですからここにないですね。後で買
います。﹂
注文したっていいしな。
﹁は?﹂
﹁あなた⋮﹂
﹁スクール水着で海に行くわけ? バカじゃないの?﹂
3人とも物凄い珍獣を見る目で俺を見る。やめてくれ。
﹁な⋮別にいいじゃん。七海様たちには関係ありませんー﹂
﹁ちょっと、あなた何を考えているのよ。いいから、私が選んであ
げるわ﹂
﹁ダメ! 皐月様はヒロのなんだから、ヒロが選ぶんです!﹂
﹁んじゃ、3人で選んで、皐月が気に入ったのでいいじゃん﹂
﹁⋮分かりました。皐月様、あんた何色が好きなわけ?﹂
うわ、ある意味小枝子の言った展開に。
てかだから色に好き嫌いなんてないっての!
﹁う∼ん、何でも好きですよ﹂
﹁皐月には白が似合うわよ﹂
﹁緑だって似合いますよ!﹂
332
﹁じゃああたしも⋮う∼ん⋮とりあえず、あたしと揃いのにしよう
か﹂
何気なく言う七海に何故かつっかかるような弘美、そしてさらに何
故か楽しそうな紗理奈が、笑顔で俺に青いシンプルなワンピース水
着を押し付けてくる。
﹁おいだから﹂
﹁皐月様は胸がないんだからワンピースだと寸胴に見えるのよ。こ
れにしなさい﹂
さらに弘美に押し付けられたのは淡色の弘美と違い濃い緑だが弘美
と似たようなセパレート水着。
﹁お前、失礼だぞ﹂
﹁そうよ。皐月は胸はないけど、腰は細いから⋮これでいいんじゃ
ないかしら?﹂
さらにさらに、七海が持ってきたのは胸元にはフリルのついたワン
ピースで短パンのようなのとセットだ。白が基調なのはいわずもが
な。
とりあえず⋮うん、お前らの好みを押し付けてるだけだろ。
俺はお前らの着せかえ人形か。
﹁まぁほら、順番に試着試着∼。点数は10点満点でね。二人とも
仲良くしなきゃダメだよ。点数は公平にね﹂
﹁つけるな。ってか押すな!﹂
333
俺は試着室に押し込まれた。
○
﹁うん、似合うじゃない。﹂
﹁さっきのがいいですって﹂
﹁そうかしら? 私はそうは思わないけれど﹂
何だか知らないがさっきから弘美が七海に反抗的だ。七海が全く相
手にしてないのが救いだが⋮。
つか、七海が必要以上にトゲトゲしいのは俺にだけだからな。
﹁うん、皐月はわりとタイプが広く似合うよ。会長が選んだそのワ
ンピースだってちゃんと似合ってる﹂
﹁そ、そうか⋮サンキュ。恥ずかしいんだけどな﹂
着替えるのにも精神力がいたが、見せるのはさらに疲れる。
今だって、多少は慣れたとは言えまだ顔が熱い。
触られないのが幸いだ。
﹁で?﹂
﹁あん? 何だよ弘美、ってかそんなじろじろ見るな。⋮ハズイだ
ろ﹂
334
﹁ヒロは恥ずかしくない﹂
こいつ⋮ちょっとは人の気持ちを思いやるってことを知らんのか。
﹁⋮⋮とにかく、もういいだろ。着替える﹂
俺は試着室のカーテンを閉めて元の服装に戻る。
しかし短いズボンだなぁ。足のつけねから丸見えじゃん。ファッシ
ョンのことなんて分かんないから、通販雑誌でモデルが着てるまま
に買ったんだが⋮⋮似合ってんのかもよく分からない。
ま、スカートじゃないだけマシだ。厚底のサンダルは微妙に歩きづ
らいが、あのほっそい、ピンヒール?とかよりはマシだ。
﹁お待たせしましたぁ。と、弘美、なんか用事か?﹂
カーテンを開けると弘美がすげぇ睨んでくる。
﹁結局さ、どっちの水着を選ぶわけ?﹂
﹁ん? スクール水着。母さんがそうしろって言ってたし﹂
﹁⋮⋮⋮それを早くいいなさいよバカ﹂
﹁確かに⋮母親が言ったなら皐月は絶対そうするだろうね﹂
﹁まぁいいじゃない。とにかく私たちの分を買いましょう﹂
﹁ラジャーです会長﹂
紗理奈がビシッと敬礼する。
こいつってかなり調子いいよな。てか⋮睨むのはやめて下さい弘美
さん。
335
○
﹁もう7時か⋮じゃあそろそ︱﹂
﹁まさか帰るなんてバカなこと言わないよね皐月様?﹂
帰ろうとすると弘美に笑顔でとめられた。
﹁あ? 目的は達しただろ﹂
﹁まだまだ∼。次はボーリングするよ。予約はしてるからね﹂
﹁え﹂
﹁晩御飯は好きなジャンクフードを出前していいわよ﹂
なんでジャンクフード?
つかあれは出前するもんじゃねぇだろ。
﹁あたしはケン○ッキーが好きぃ。会長とヒロはマク○ナルドだよ
ね﹂
﹁ええ。不味いんだけど普段食べれないとなるとたまに食べたくな
るのよね﹂
﹁てか晩御飯食うのかよ﹂
﹁皐月様、約束、忘れてないよね?﹂
﹁⋮分かったよ。爺ちゃんに電話するからちょい待て﹂
携帯電話に短縮で登録してる爺ちゃんの携帯電話番号にかける。
336
﹃もしもし皐月か、どうした?﹄
﹁ああ、今日は友達と晩御飯食うから。伝えといて。心配しないで
も大丈夫だから。んじゃ﹂
﹃な! ちょっと待っ︱﹄
強制的に切る。
爺ちゃんには悪いけど、爺ちゃんは無駄に過保護だからな。電源も
切っとこう。
﹁さて、じゃあ行きますか。てか予約ってどこのだよ?﹂
﹁ヒロの﹂
弘美の端的すぎる言葉に俺は首を傾げる。
﹁だから、ヒロのボーリング場﹂
﹁ん? 悪い、どういう意味なのか噛み砕いて言ってくれ﹂
弘美はお決まりのように俺に軽蔑の視線を向ける。
﹁だから⋮ヒロの家がやってるボーリングとか色々ある娯楽施設を
予約してんの﹂
﹁⋮んなのあるんすか﹂
この金持ちが⋮。
﹁敬語禁止!﹂
﹁あ? うるさいやつだな。⋮とにかく、どうやって行くんだ﹂
337
﹁車、今呼んだから来るよ﹂
キィィー
激しいブレーキ音がして車がつっこんできた。
早っ!
○
﹁う∼ん、この無駄に脂ぎったのがいいよね﹂
個室の中でマジで出前されたジャンクフードの山に俺たちは手を伸
ばす。
ちなみに個室ってのは弘美のとこの特別室みたいなもんで、ボーリ
ングのレーンが一つでカラオケマシーンがありバッティングの機械
もある。
区切りがあり今はカラオケしか見えないが、実際にはもっと色々な
ものがあるらしい。
﹁普通に美味いだろ。前はよくおごってもらってたんだよな。懐か
しいな﹂
﹁え? よく食べてたの?﹂
338
﹁中学ん時かな。俺、わりとモテてたから﹂
﹁え? き、君が!?﹂
そんなに驚かなくても⋮ああ、俺が男にモテるとかだと、そりゃ驚
くか。
﹁女に、だぞ﹂
﹁⋮は? ちょ⋮皐月って共学だったんだよね?﹂
何故かより一層驚いた顔をする3人に俺は若干ひく。
﹁ああ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁俺、男として生活してたって言ったろ? 真面目な話、学校にも
男として通ってたんだよ﹂
﹁ああ⋮戸籍が? でもそれって現実に可能なの? ばれないわけ
?﹂
紗理奈に言われ俺は言いよどむ。
そう言われると確かにそうかも知れないが⋮やったのは母さんだし、
俺はよく分からないんだよな。
実際には女の戸籍だし。住民票とかだってあるし⋮もしかしたら学
校側は知っててやってたってのもありえるよな。
ま、実際のはとこは今夜の電話ででも母さんに聞くか。
﹁ま、母さんに聞いとくよ。このバーガーも食べていい?﹂
春にでた新作のハンバーガーを手にとる。ちなみにメニューをテキ
トウに注文しまくって好きなものを食べるやり方だ。
339
﹁あ、それは駄目。ヒロの﹂
﹁半分にしないか?﹂
﹁嫌﹂
﹁頼むよ。最近は食ってないからこれは食べたことがないんだ﹂
﹁嫌よ﹂
﹁けちだな。頼んでんだろ﹂
﹁調子に乗らないでよ。下僕は下僕らしく地面にはいつくばって私
の靴を舐めなさい﹂
﹁アホか。七海様も何とか言って下さいよ。こいつめちゃめちゃ我
が侭じゃないですか﹂
﹁え? そんなのポチが我慢すればすむ話じゃない。むやみに私に
頼ってると橋の下に捨てるわよ﹂
﹁何でだよ!﹂
いつまで俺は下僕扱いされてペット扱いなんだよ!?
○
340
広い海 青い空 プライベートビーチ
﹁うーみぃーーだあぁーーーっ!!﹂
俺は車からおりて生まれて初めての水平線に思わずそう叫ぶ。
﹁皐月様うるさい﹂
﹁海ぐらいではしゃがないの﹂
﹁そんな言い方はないでしょう? そういう無邪気なのは皐月さん
の魅力じゃないですか﹂
軽口にすぐに反応する小枝子。ていうか照れるからやめて。
でも小枝子も何だかんだ言って七海たちに慣れたのかな?
﹁まぁまぁ、でも確かにずいぶんハイテンションだね。もしかして
海、初めて? なんてね﹂
﹁初めてだ。話には聞いてたけど、海ってデッかいなぁ﹂
﹁⋮え、マジで?﹂
﹁ああ。それに綺麗⋮凄いなぁ。⋮俺、海にきたんだなぁ﹂
女として、水着も持って。
まさかこんな日がくるなんてな⋮⋮まぁそもそも爺ちゃんが現れる
のだって想定外だったんだけどな
﹁てか、今夏なのに人いないなぁ。もしかして穴場?﹂
本当に全くいない。道の途中あたりからいつの間にか車も人もいな
くなったし。
341
何か独占してるみたいで気分いいなぁ。
﹁バァカ、七海様のプライベートビーチよ。じゃなきゃこんな綺麗
な海に人がいないわけないじゃない﹂
﹁⋮⋮え?﹂
待てお前ギャグか? いやマジで? 金持ちってマジでそんなのア
リなわけ?
てゆーかみんながそんなもん所有してたら、国有地はどこへいくん
だ。
疑問をこめて小枝子と紗理奈を見ると苦笑された。
﹁白雪でもそこまでのお金持ちはそんなにいませんよ﹂
﹁あたしやヒロもプライベートビーチなんてないしね﹂
﹁へぇ⋮七海様、やっぱすげぇ金持ちなんだな﹂
﹁私が、ではないわ。両親もあまりそういうお金の使い方はしない
し。お爺様からいただいたの﹂
さらりと言う七海だが⋮お前どんだけ溺愛されてんだよ。
﹁どんだけ溺愛されてんすか﹂
半眼で率直に尋ねると嘆息しながら七海は答える。
﹁まぁ私、お爺様の孫の中で唯一の学生だからでしょうね。じゃな
きゃ理由がないわ﹂
﹁他は独立してるってことすか﹂
﹁一番年が近いお兄様は26歳だから。唯一のお姉様は36﹂
342
うわ⋮そりゃ可愛いわ。しかも優秀だしで、理想の孫かよ。
あー⋮俺なんか我が侭しか言ってないし何も返せないし、ただ唯一
の孫ってだけか⋮
﹁⋮はぁ。七海様って将来どうするんすかーぁ? 女医? お爺さ
ん継ぐとか?﹂
とりあえず流れ的に聞くが正直どうでもいい。
﹁お爺様は株でお金を稼いでるから跡継ぎとかはないわ。あと、﹃
女医﹄って差別用語よ﹂
﹁え、なんかエロイ響きだしよくない? 会長にはぜひあたし専属
の女医に⋮⋮あ、あはは。なんてねー﹂
紗理奈はカワイコぶって舌をだし笑うが、目が笑ってない!
こいつ、絶対本気だったよ。
恐ろしい子⋮っ!
同性愛者なのはいいが見境と理性は持てよ。
いつからお前はエロキャラに転向したんだ。戻ってこいカムバック!
﹁紗理奈様、寒っ。オヤジかっての。じゃあ、とりあえず荷物おこ
う。七海様、どこに置けば?﹂
343
冷たい態度の弘美が気を取り直して尋ねる。
七海は紗理奈の発言を全く気にしてないようで、一人平然としてい
る。
﹁ええ、あそこに別荘が見えるでしょう?﹂
言いながら七海は何故か山の方を指差し、つられて見ると山の中腹
に電波塔のようなものと真っ白な建物が見える︵頂上にはさらに別
に建物もあるが、七海の指差した方角は頂上より海よりなので、中
腹のあの建物であってるだろう︶。
﹁え? ⋮あれ⋮ってか、山⋮?﹂
勝手な思い込みだが、海辺の建物と思ってた。てかここがプライベ
ートビーチなのにちょっと遠くないか?
車、何で返したんだ。
俺たちを海岸横の道路におろした車はさっさと何処かへ行った。
﹁言ってなかったかしら? このビーチは一部よ。あの山を中心に
海の⋮ほら、あの小島まで私の私有地よ﹂
﹁⋮⋮は? どうやって行くんですか? つか浜辺につくってくだ
さいよ﹂
さすがの弘美も呆れてツッコミをいれる。
﹁あのね、どうしてここで雑談してると思ってるのよ﹂
﹁え?﹂
急に風が強くなり、最近になって聞き慣れてきたうるさい音が近づ
いてくる。
344
﹁ヘリをとりに行かせてたのよ﹂
○
﹁⋮っ、う、わー⋮﹂
俺の素足を自動的に波がすり抜けていく。
冷たくて気持良いのにくすぐったくて、なんだか変な感じだ。
波がひいていく。
背中の毛を逆だてられたような感覚にゾクゾクする。
﹁おーい皐月様ぁ、何してんのー?﹂
なんて言いながら、俺の予想より早く走ってきた弘美は飛び蹴りを
してきたから、片足で受け止める。
﹁んっ。つかいい加減奇襲は諦めろ﹂
よほど何かに気をとられてるか気をぬいてなきゃ分かるっての。
お前の場合、気迫? なんかそういうので何となく分かるんだよな
﹁悔しいからヤダ﹂
345
﹁はいはい﹂
﹁んじゃお先に!﹂
いい加減飽きてきた言い合いをしてると紗理奈が走って海に飛込ん
だ。
これで遠浅とかだったら笑えるんだが、すぐ近くからしっかり深さ
はあるようで、紗理奈はえらい早さて泳ぎだす。
﹁早っ﹂
﹁紗理奈! ちゃんと準備運動をしなさい! 戻りなさーい!﹂
振り向くと紗理奈を追って、浜辺にパラソルやシートを置いて七海
と小枝子がやってくる。
え、俺は荷物持ちしてないのかって?
珍しく七海が先に行っていいって言ってくれて建物からここまで走
ってきたから、手ぶらだ。
山だから遠く見えたが実際には5キロくらい︵直線距離で︶か。
つっても傾斜がキツイから車で行くのを想定してないのだろう。獣
道しかない。
先に出て走ったとは言え、相手はヘリコプター。一人で海を感じて
たのは2分くらいだ。
﹁皐月さん、本気でスクール水着なんですね⋮﹂
俺だけ先に来たので互いに水着姿初披露だ。
﹁キャップまでかぶって⋮バカっぽいしダサいよ﹂
346
そう、俺だけまるで競泳選手のように帽子を持ってきた。
と言うのも理由がある。このカツラがいくら精巧と言っても泳いで、
もし引っ張られたりしたらとれるに決まってる。
だからカツラの髪をまとめて上から帽子を被ることにより、泳いで
もカツラがとれないようにしたのだ。
﹁こらー! さぁりなー!﹂
こいつ、本気で怒ってるよ。
てか⋮⋮改めて見ると
﹁お前ら、水着似合ってるなぁ﹂
﹁え、あの、私も、似合ってます⋮か?﹂
﹁当たり前だろ? すすめたの俺だし。可愛いよ﹂
大人びた普段の小枝子は綺麗系だが、顔を赤らめたりする照れ笑い
をする仕草は可愛い。
﹁ちょっと皐月様、それでまさかヒロは可愛くないなんて言わない
わよね﹂
﹁んなこと言ってないだろ⋮てか、お前﹃ら﹄って言ったのを聞け
よな﹂
いちいち怒るなよな。そういう短気で我が侭なとこさえ無ければ、
お前にだって素直に可愛いって言うっての。
347
やれやれと海に入ろうとすると腕に何かが触れとっさに振り払う。
﹁何よその態度﹂
弘美だった。
﹁急に触るから驚くんだよ。で? 何だよ﹂
﹁⋮⋮⋮さっきの話だけど⋮ヒロ、可愛い?﹂
急にしおらしく上目使いで聞いてくる弘美に、ドキッして俺は慌て
て視線をそらす。
﹁う⋮ま、まぁ⋮可愛⋮い。てか、いちいち言わせんなよ。分かる
だろ?﹂
﹁わかんないわよ﹂
﹁あのな⋮お前ら4人とも見た目は可愛いんだから当たり前だろ。
ちょっとは自覚しろ﹂
﹁⋮⋮皐月様がどう思うかなんてヒロにわかんないんだから、聞く
しかないじゃん﹂
はぁ? 別に俺の意見なんか聞く必要ないだろ。世間一般で誰から
見たって可愛いっての。
ああもう! わけわかんないっての。
わけわかんないんだけど⋮そんな殊勝な態度されると強気に出れね
ぇじゃん。
﹁⋮可愛い。可愛いって。真面目に可愛い。⋮これでいいか?﹂
うぅ⋮普段ならなんてことないのに、改まるとなんでこんなに照れ
るんだよ。
348
﹁⋮ふん、当然でしょ。次はそんな当たり前のことは顔を見て一番
に言いなさいよ﹂
﹁⋮⋮はいはい﹂
お前なぁ⋮はあぁ
ま、いいか。むしろこっちの方が弘美らしいか⋮⋮あ、なんか俺毒
されてる。
⋮⋮別にいいか。
﹁さて、泳︱﹂
﹁皐月!﹂
﹁え?﹂
鋭い呼び声に振り向くと頭からびしょ濡れの七海と、七海に捕獲さ
れてる紗理奈。
﹁勿論、あなたは準備運動するわよね?﹂
﹁⋮⋮⋮はい﹂
泳いで追い掛けたのか。⋮準備運動をさせるためだけに⋮。
﹁はぁっ、はぁー⋮会長、早すぎだよぉ。あたし自信あったのにー﹂
﹁あなたが準備運動をしないからよ﹂
﹁はぁい﹂
凄いなお前ら。
いや、いろんな意味で。特に七海が。
349
○
結論から言おう。
﹁げほっ、ごほっ﹂
﹁ほら、ちゃんと顔をあげて呼吸しないからそうなるのよ﹂
﹁はぁ、はぁ﹂
俺、泳げなかった。
俺と小枝子が泳げないことが判明したので俺は七海に、小枝子は紗
理奈に教わることになった。
正直、んな面倒なことしたくないが泳げるにこしたことはないので
了承した。
だが正直上手くできない。水に入るのも小枝子みたいに恐いなんて
ことはないが、息継ぎが上手くできないのだ。
なんて言うかタイミングが難しい。鼻とか口に海水が入ると辛くて
辛い。
﹁はぁ⋮もういいですよ。泳げなくったって死にませんし﹂
七海はふてくされる俺を見てため息をつく。
350
﹁もう、少しは小枝子を見習いなさい。今だって頑張︱﹂
﹁だ、だめ! てててて手、手ぇ離さないでくださいー!!﹂
俺たちの横を紗理奈に手をひかれる小枝子が通りすぎていく。
﹁じゃあスピードあっ∼ぷ﹂
楽しそうな紗理奈は後ろ向きで小枝子の手を引いてると思えない早
さで進む。
﹁いやああぁ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃ!﹂
﹁あはははは!﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
沖に向かってて岩にぶつかる心配はないが⋮止めてあげろ。
﹁七海様⋮小枝子が、可哀想なのは俺だけですか?﹂
﹁⋮⋮弘美は? 紗理奈が暴走しないように頼んだのに﹂
浜辺に目をやる。
パラソルの下で寝転がってアイス食ってやがる。
﹁⋮殴りてぇ﹂
﹁とりあえず、止めてくるわ。あなたは息継ぎの練習をしていなさ
351
い﹂
﹁⋮へい﹂
俺が助けたかったが、水の中であんなスピードで走れないし、泳げ
ない俺ではおいつくこともできないから素直に返事をする。
﹁返事は﹃はい﹄よ!﹂
七海はそう言ってから勢いよく泳ぎだした。
﹁はー、早いなぁ﹂
それとも泳いだことがないから早く感じるのか。
よく分からない。
でも、泳げるのも悪くないかも知れない。
と、恰好よくクロールで紗理奈に追いつく七海を見て思った。
﹁なぁに見てんのよ変態﹂
声と同時に俺の顔に手が伸びてきたが、声で弘美とわかってるから
避けない。
﹁弘美、いつの間⋮に⋮離へ﹂
頬肉をひっぱられた。うん、やっぱ避ければ良かったな。
でも最近では相手がわかってる場合のみ、向こうから触ってきても
わりと大丈夫になってきた。これってかなり進歩だよな。
振り向くと予想通りに弘美がいていつものごとし︵この言葉がむし
ろ悲しいな︶さげすんだ目を向けてくる。
352
﹁バァカ。あんたみたいに水の中で無様に歩くしかできないやつと
一緒にしないでよ。ヒロだって普通に泳げるし﹂
﹁⋮じゃあなんで浮き輪持参なんだよ﹂
しかも猫のイラスト入り。このお子様が!
﹁楽だから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ほら、さっさと練習したら?﹂
﹁⋮よこせ﹂
﹁は?﹂
﹁ちょっとそれよこせ﹂
弘美がほうけてる隙に浮き輪を上に投げてキャッチ。
よっし、これで俺も今日から泳げます!
﹁って、ちっさ!?﹂
頭から浮き輪をかぶろうとしたが、肩でつっかかる。
先に腕を通して無理矢理やってみる。
﹁くっ⋮うぐ﹂
ぎゅっぎゅっ、とナイロンと肌の擦れあう音がする。
﹁ちょっ! やめろバカ! やぶれる∼!﹂
﹁いや、あとちょっとで︱﹂
353
﹁ダメ! 絶対ダメ! それヒロのお気に入りなんだから!﹂
弘美は容赦なく俺の胸をぐーで叩いてくる。
ちょ、普通に痛いから。
﹁わ、分かったから殴るなって﹂
仕方ないので浮き輪を弘美に返す。
弘美はもうっ、とぷりぷりしながら浮き輪を装着。
しかしまあ⋮似合うなぁおい。
ぷぷ
﹁ん? なによあんた﹂
﹁いや、別に﹂
鋭いやつだな。お子様のくせに。
﹁さて、小枝子は大丈夫かな∼。って⋮⋮マジで大丈夫か?﹂
沖の方では小枝子をかつぐ紗理奈と、説教をする七海が見えた。
○
354
355
イタズラは心臓に悪いのです
﹁はぁ⋮⋮海は広いなぁ﹂
水はしょっぱいが、空や海の雄大さには敬服するな。
俺が海に浮かび空を見ていると、いつの間にか浮き輪にお尻をはめ
てプカプカ漂いながら隣に弘美がやってきた。
﹁なぁによぉ﹂
ああ、いつの間にか弘美の顔を見てたか。
﹁うん⋮⋮なんかこういう、のんびりしたのもいいよなぁ﹂
﹁は? あんたって⋮枯れてるわね﹂
﹁んー⋮俺、今までがわりと忙しい生活だったからなぁー⋮。のん
びりするだけで、わりと幸せかな﹂
﹁バカじゃないの? もっと幸せなことなんかたくさんあるじゃん﹂
いつものことながら素早い反応だが、言葉は何かをなぞってるよう
に淡々としてる。
なぁ⋮お前、幸せか?
そう聞きたくなったが止めて、俺はまた空を見る。
﹁知ってるよ。けど、そのたくさんの幸せにもう一つ﹃のんびり﹄
があったっていいだろ。気をはらなくていい相手と一緒なんだから
よ﹂
356
﹁⋮気をはらなくてもいいけど、気はつかいなさいよ。あんたはヒ
ロの下僕で、ヒロはあんたのご主人様なんだから﹂
﹁りょーかいー。⋮てかさぁ、あいつらは何処に行ったんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮知らなーい﹂
ずいぶん間をあけてから、弘美は投げやりに答える。
﹁そぅか⋮﹂
まぁ小枝子が心配っちゃ心配だが、七海がいれば無茶なことにはな
らないし、俺サイドには口うるさい鬼コーチ︵七海︶がいないんだ
しいいか。
﹁⋮⋮なー⋮弘美ーぃ⋮﹂
﹁なに⋮?﹂
﹁お前だって、こういうの悪くないと思うだろー? はあぁ⋮気持
良い⋮。ずうっと、こうしてたいな﹂
﹁⋮⋮そうね⋮悪くは、ないわねぇ﹂
﹁だろ⋮?﹂
少し間伸びした返答に、俺は喉をならすように小さく応える。
本当に⋮こんな平和で幸せな日々が続けばいいな。
いや、続けていく。
続けていきたい⋮。
ああ⋮、暇だ⋮⋮けど、悪くないよな。
あ⋮寝そうだ。
357
﹁皐月ーーーーーーっ!!!﹂
紗理奈のどでかい呼び声に俺はおりてくる瞼を無理矢理開けた。
やれやれ、今度はなんなんだよ。
○
﹁なーーにぃーー!?﹂
声の方を向くと、水面から10メートルくらい上の崖の端にいた。
小枝子と七海も一緒だ。
崖とは言うが、山の少しでっぱった平たい部分てなとこだ。
﹁いくよーー!?﹂
﹁なに﹂
なにが? と大声で尋ねようとしたが、声にならなかった。
小枝子が
358
海に
落ちた。
﹁⋮⋮え?﹂
ドボーーンッ!!
水柱が面白いように大きくたつ。
﹁あ⋮っ﹂
助けなきゃ。
助けなきゃ。助けなきゃ、いなくなってしまう。
そんなの、嫌だ。
考える前に体が動く。
頭から水につっこむ。
呼吸ができないからなんだ。
泣いて涙に溺れるくらいなら海水に小枝子と溺れたほうがマシだ。
何もできないと嘆くなら、海に溺れるほうがマシだ。
何も考えてなんかない。俺はバカだから、がむしゃらに体を動かす。
ただ、小枝子に死んで欲しくない。
359
一度海面に顔をだし息を深く吸い、海面をける。
潜る。潜る潜る潜る。
綺麗な海が、暗くなるまで奥に沈んでいく小枝子を追って潜る。
姿が見えた。
さらに足を動かす。
ドキドキと心臓が
﹁酸素を寄越せ﹂と主張するが無視。
ああ⋮あと少し。
小枝子っ⋮
ニコリ。
小枝子が
暗闇で笑った。
⋮⋮⋮⋮⋮え?
360
小枝子はくるりと回り、伸ばしてた俺の手を握る。
俺は呆然としながらゆっくりと逆さだった体勢を小枝子と同じよう
にする。
あがるにつれて差し込む光が増えていく。
光の束が、いくつも小枝子にふりそそいでる。
何が何だか、分からない。
分からないけど⋮綺麗だ。
小枝子は普段から綺麗だと思ってるけど、こんなに神秘的な美しさ
を人間が再現できるなんて。
﹁ぷはぁっ﹂
二人揃って水面に顔をだし、心臓がバクバクとうるさい。
﹁はあっ、はあっ⋮あははっ。あー、きも、ちいー!﹂
はぁはぁと荒い息をする小枝子は、途切れ途切れにだが﹁泳げるよ
うになったから、皐月さんを驚かせようと思ったんですけど⋮皐月
さんも泳げるようになったんですね﹂と言った。
段々と止まってた思考回路が動きだす。
え? つまりなに?
イタズラ?
361
﹁はあぁ⋮っ、あは、でも泳げると気持良いですね!﹂
爽やかな笑顔の小枝子に、俺はいいようのない感情が浮かぶのを止
められない。
﹁ふざけんな﹂
﹁⋮⋮え?﹂
口が勝手に動く。
あんなに心配したのに、驚かそうとしただけ?
わざと?
ただのイタズラ?
心配した分だけ、小枝子にムカついた。
本当に、命がけだった。
ただ助けたくて飛込んだんだ。
それが⋮何だ?
﹁泳げたんですね﹂だと?
ふざけんな。
362
腹の底からせりあがってくる衝動を、吐き出す。
﹁ふざけんなっ!!!﹂
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。
俺の声に驚いた鳥が飛ぶ音がして、3人がジャブジャブ水音をたて
て近寄ってくる。
くらくらする。
なんなんだよお前は。
俺が必死になって、おかしかったか?
滑稽だったか?
﹁ふざけんなよ! 俺が、俺がどれだけ⋮っ!﹂
訳もわからず泣けてきた。
本気で、小枝子が好きで、いなくなって欲しくないんだ。
死んでほしくないんだ。
だから、さっきだって夢中だった。
なのに⋮なのに、小枝子は⋮
﹁皐月、まぁそんなに怒ら⋮泣いて、る?﹂
363
﹁うるさい!!﹂
隣に来て驚いた表情で俺の顔に触れようとする紗理奈の手を乱暴に
振り払う。
﹁いたっ﹂
﹁皐月。紗理奈が悪いわけじゃないわ。3人で考え︱﹂
﹁うるさいって言ってんだよっ! ⋮⋮⋮⋮わりぃけど、しばらく
一人にしてくれ﹂
俺は沖に向かって歩きだす。
さっきはそうでもなかった水が、いやに重くなった。
﹁皐月さん、あの私⋮そんなに皐月さんが驚くとは思わなくて⋮あ
の⋮ごめんな︱﹂
﹁小枝子﹂
﹁は、はいっ﹂
﹁お前は悪くない。誰も、悪くない。けど、イライラするんだ﹂
﹁⋮ごめ︱﹂
﹁謝るな! ⋮お前は悪くないよ。悪かったな、楽しい空気めちゃ
めちゃにして。じゃあ、後で﹂
何もかもが面倒で、無性に腹立たしくて、何かに八つ当たりしたく
て、そんな自分が嫌だ。
嫌だ。
好きなのに。事故じゃなくて怪我もなくて笑ってられるなら、喜ば
しいことなのに。
なのに笑えない自分が嫌だ。
364
冷静に考えれば小枝子が自分から飛んだんだから分かるのに、自分
で勝手に混乱して、勝手に怒ってる自分が
どうしようもなく嫌だった。
○
沖に歩いて、いっそ島まで行こうかと思ったが、﹃小島まで﹄と七
海が言っていたのからは、果たして小島が含まれるのかはわからな
かった。
だから岩礁が集まって浅くなっている、岩がところどころ水面から
頭をだしてる場所に行き、大きめの岩に座った。
足の下はごつごつしているが概ね平らで、浅瀬に岩がつきだしてる
感じだ。
膝も海に触れてないほどの浅さだが、1メートルも進めば足場であ
る岩はなくなり身長より深くなる。
足を軽くあげてピチャピチャと水しぶきをあげる。
冷たくて気持良い。
﹁⋮はぁ﹂
365
何をやってるんだろう。
バシャン︱
勢いよく足をおろす。岩に叩きつけた足の裏が痛い。
乾いた顔に水しぶきが跳ねた。
さっきまであんなに楽しかったのになぁ。
﹁ちょっとあんた﹂
弘美が、いた。
浮き輪でプカプカ浮かんでやってきた弘美は、
﹁よいしょ﹂と言いながら岩礁に乗り上がり俺の隣に無理矢理座る。
他に頭を出してる岩よりは大きいとは言え、二人が座ると自然に俺
と弘美は、腰から肩までぴったりくっつく。
﹁⋮⋮﹂
落ち込んでた気分が一気に変わる。胸がムカムカする。
なんでだろう。弘美がなにかしたわけじゃないのに。
﹁⋮一人にしてくれって言っただろ﹂
疑問でなく、確認させるように言う。
いつもなら、こんな風な弘美からの接触でさえ恥ずかしさと拒否感
と、そしてほんの少しの脅えがあったのに。
今は、ただただイライラする。
366
﹁あんたがヒロに命令していいと思ってんの?﹂
﹁うるせぇよ。じゃあ頼むからどっか行けよ。⋮今はお前の毒舌、
聞きながせない﹂
﹁流さなくていい。ってか心から聞け﹂
﹁⋮マジで、頼むから⋮俺がお前に手をあげないうちに行けよ﹂
お前が嫌がることなんて何もしたくない。まして殴ったりなんて、
嫌だ。
なのに、そうしたいと望む俺がいる。そうして黙らせてやりたいと
⋮。
俺は、なんでこんなに最悪なんだよ。
﹁いいよ﹂
﹁何がだよ﹂
﹁少しだけなら、特別に許す﹂
﹁⋮⋮何言ってんだよお前。頭悪いんじゃないの﹂
訳わからん。
﹁言ったでしょ? 皐月様はヒロの奴隷なの、下僕なの。分かって
んの? それって⋮⋮他の有象無象より、特別⋮なんだからね﹂
﹁⋮え?﹂
トクベツ?
﹁だから⋮つまりぃ⋮⋮特別に、慰めてやるって言ってんのよバカ。
良いから、言いたいこと言いなさいよ。今さら皐月様なんかこれ以
367
上見下しようがないんだから、どうしたって変わんないよ﹂
﹁⋮⋮弘美⋮﹂
何で?
何でそんな優しくするんだよ。
普段は俺にいじわるするしすぐに怒るくせに。
何で⋮こんな時にはいつも優しくするんだよ。
ずるい。
ずるいだろ。
甘えたくなるだろ。
﹁ヒロは優しいから、一度下僕にしたやつを捨てたりしないよ﹂
﹁⋮それ⋮⋮優しすぎるだろ﹂
どうして、欲しい言葉をくれるんだよ。
俺は、そんなこと言ってもらえる人間じゃない。
けど⋮
﹁⋮いいのか?﹂
﹁何が?﹂
﹁⋮甘えても、いいのか?﹂
368
﹁⋮⋮⋮だからさ、あんたが元気なくてウダウダしてたらさ、誰が
ヒロのパシリすんのよ﹂
ああ、もうっ︱!
俺は岩からおりて、座りこむ。
降りたと言っても岩礁なのは変わらないので水はへその辺りまでし
かない。
﹁なぁ⋮﹂
俺は弘美を振り向く。
俺はこんなにも不安定なのに、弘美はまったく揺るがない視線を俺
に向けてくる。
﹁俺、お前の年上なのに、本当にいいのかな?﹂
ちゃんと声が出てるか自信はなかったが、弘美は聞こえてたようで
はぁとため息をつく。
﹁皐月様言ったじゃん。ヒロには気をはらないでいいって。なら気
をはらずに、甘えなさい﹂
﹁⋮⋮気は、気はつかえって言ったじゃん!﹂
どうしてだか分からないけど興奮して子供のようになる俺に弘美は
さらっと答える。
﹁今だけサービス﹂
弘美は微笑んで、俺に向かって手の平をだす。
369
﹁おいで﹂
﹁っ︱︱、くそやろぅ!﹂
クソ野郎! どうして俺は⋮こんなにも弱いんだよ!
抱きついた。
華奢で、俺よりずっと小さな弘美。
平たい小さな胸に額を押しつける。
涙が出た。
濡れているのに、弘美の体は暖かい。
﹁よしよし、皐月様はしょうがない人でちゅね∼﹂
ふざけた口調に腹立つが、頭を撫でる手にはあらがえない。
﹁∼、うるさいな﹂
カツラを外して直接撫でて欲しいけど、そんなことは色んな意味で
言えない。
﹁ねぇ、皐月様、どうしてあんなに怒ったの?﹂
﹁⋮別に﹂
﹁別にじゃ分からない。⋮⋮恐かった?﹂
﹁⋮⋮﹂
素直になるのは勇気がいる。恥ずかしくて、俺は沈黙を守る。
﹁ねぇ皐月様﹂
370
﹁⋮⋮﹂
﹁まだ恥ずかしいわけ? こんな︱﹂
弘美は俺の頬に手をあてて無理矢理上を向かせる。
俺は抵抗できないまま、ぼやける視界で弘美をとらえる。
﹁こんな、泣いてるくせにさ﹂
﹁⋮⋮うるさい。誰にも、言うなよ﹂
弘美は微笑んで、ゆっくり俺に顔を近づけてくる。
﹁え?﹂
俺の頬に唇こすりつけるようにして弘美は唇で俺の涙を舐めた。
生温かいヌメリとした感触と熱い吐息に、涙を忘れて俺は呆然と弘
美を見る。
﹁言わないわよ。秘密にしてあげるから、正直になったら? 恐か
ったんでしょ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮うん﹂
迷ったけど、素直に頷いた。
今なら、弘美相手にだって素直になれる気がした。
本当はここに母さんがいたらなぁと思うけど、弘美でもいてくれる
ことが嬉しかった。
﹁恐かったんだ﹂
﹁小枝子様が、死んじゃうかと思ったの?﹂
﹁⋮うん。だから⋮助けなきゃ、って⋮思、たんだ﹂
371
段々と熱くなってくる。
止まった涙がまた流れだし、俺のおえつがまじる。
﹁俺⋮、は⋮本当に、小枝子にぃ、死、死んでほ⋮しぃくなかった
ぁ! だか、らあ、溺れ⋮てもい、いいいから! 助けた、か、た
⋮のにぃ!﹂
﹁そう。小枝子様に文句言わなきゃね﹂
﹁∼。違う。俺、が悪かった。あんなの、自分で、おり、たような、
ものなのに、気付、かな、かた﹂
我ながら聞き取りにくい発声に弘美はそっか⋮と優しく俺の頭を撫
で続けている。
﹁ごめっ、ごめんん、あと、少し⋮このまま﹂
﹁いいよ。泣いたって甘えたって、いいよ。皐月様だもん、しょう
がないよ﹂
﹁う⋮ううう﹂
そして俺は、泣いた。
○
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
372
﹁⋮⋮⋮⋮⋮弘美﹂
﹁なに?﹂
﹁⋮あの、離れてくれないか? あ、俺の顔は見ないで﹂
﹁は? あんたから抱きついてきたんじゃん﹂
﹁∼∼、そ・う・だ・け・どっ⋮今更ながら⋮ひっっじょ∼に恥ず
かしいから顔があげれないんだよ﹂
かなり時間がたってからだが泣きやんだ俺は正気に戻り、どれだけ
恥ずかしいか理解した。
ってか、時間をまき戻せるならまき戻したい! うわぁ⋮よりにも
よって弘美かよ⋮。
最年少でファザコンの⋮⋮ちびっこ。たぶん150もない、140
半ばくらいの、ちびっこ。
20センチくらい身長が下の、ちびっこ⋮⋮⋮⋮はぁぁ⋮俺はなん
て情けない男なんだ。いや、女だけどでもそんな問題じゃない。
﹁てか上からでも髪がキャップにまとまってるから赤い耳が丸見え
って分かってる?﹂
﹁っ⋮⋮弘美﹂
﹁だからなに?﹂
﹁この事は、絶対に誰にも言うなよ﹂
﹁だから言わないって﹂
﹁約束だからな。絶対の絶対だからな﹂
﹁約束約束。分かりましたよ。ほら指切りでもしますか∼?﹂
あーもうムカツク!
俺は子供かっての! そりゃ⋮子供みたいに泣いたけどよ。
﹁敬語使うなよキモイ。あ∼⋮でもマジな話⋮⋮ありがとう。弘美
がいてくれて、助かった。追いかけてくれてありがとうな﹂
373
今ちゃんと言わないと、後ですっきりしないしな。
段々おさまってきたがまだ赤いままの顔を上げて照れ隠しに曖昧に
笑いながら礼を言うと、弘美は少し視線を上に向けてそっけない態
度だ。
﹁別に。大したことじゃないわよ﹂
﹁お前はそうでも俺には違うんだよ。うん、お前がどう思ってるか
なんて知らないけど、俺、お前のこと好きだな﹂
﹁は⋮﹂
﹁でも我が侭はともかく、暴力だけは勘弁して欲しいけどな﹂
﹁⋮うるさい!﹂
俺の肩に置かれてた弘美の手が俺の頬を左右に引っ張る。
﹁ははへ︵離せ︶﹂
﹁ふん、皐月様は下僕なんだからヒロのストレス解消にも付き合う
のは当然でしょ﹂
弘美の手を掴んで無理矢理離させる。
﹁ストレスから俺を蹴ったり殴ったりするのかよ。俺は人間サンド
バックかっての。﹂
一応、俺お前の先輩だからな?
まぁ言ったって意味ないだろうから言わないけどよ。
﹁てか体動かすなら学園にはちゃんとスポーツジムみたいな部屋が
あるだろ﹂
374
名前は何だったかな⋮毎日のように利用してたんだが⋮⋮⋮たしか
花の名前の﹃∼∼の間﹄みたいな感じなんだが⋮名前なんかどうで
もいいか。
﹁うるさい。んなのヒロの勝手でしょバァカ﹂
弘美はさっきまでの優しさは何処に言ったのか、はたまた白昼夢だ
ったのかと思わせる暴君を発揮して、年相応な無邪気な笑顔を浮か
べた。
あー良かった⋮。ずっとあんな風に微笑まれたら、俺の心臓がもた
ないっての。
○
375
可愛さ余って恐怖になる
﹁いただきまぁす﹂
学園ではないのでキリスちっくな口上や十字は切らずに俺はガツガ
ツと飯を食らう。
夕日が沈む前に浜辺に戻った俺は3人にちゃんと謝った。
小枝子になんか泣かれてしまったが、二人は気にしないと言って紛
らわしいことをして悪かったと言った︵なんと七海もだ︶。
別荘にいるのは俺たちプラス運転手兼メイドとコック兼メイドの二
人がいる。
だけどメイドはこちらが呼ばない限り渡り廊下を隔てて離れの建物
にいる。
つまり、大騒ぎしても大丈夫ということで、つまり⋮
﹁あはははは⋮⋮小枝子、もっと飲めやぁ﹂
⋮⋮えー⋮なんで紗理奈が酔ってんだ?
あれ? このあいだの飲んでるのにセーブして酔わない程度なのは
フェイク? 気まぐれ?
別に回りに気を使ってたんじゃないのか? ﹁あはははは﹂
﹁小枝子、もう酔ってんだから飲むな。紗理奈も飲みすぎだ﹂
﹁あんだぁ? あたしの酒が飲めねってか? くかかっ!﹂
376
何だこいつ。絡むし笑うし手に負えん。
七海は紗理奈をいちべつしてため息。
﹁もう紗理奈ったら⋮こんなに酔っぱらって⋮﹂
﹁いいじゃないですか別にぃ。紗理奈様が強いくせにバカ飲みして
酔うのはいつものことだし﹂
い⋮いつも? てかこの前はお前ら二人が酔ってんのに今日はそう
でもないし。
﹁うにぃ∼⋮っく⋮ぷ、あはっ、あはははははっ﹂
ていうか今日知ったんだが、小枝子は一口で酔ってたな。酒は与え
ないほうがいいか?
でもまぁ⋮改めて見ると酔って赤らんでる顔もまた可愛いよな。う
るんだ瞳とかはこう⋮抱きしめたくなるし。
﹁⋮⋮は!﹂
反射的に頭をさげると頭上をコップが通りすぎ、壁に当たって砕け
た。
﹁⋮⋮あ、危ねー!?﹂
﹁ちぃっ﹂
﹁っておま、弘美! 危ないだろ! 割れるほど強く俺の頭にぶつ
ける気だったのかよ!﹂
それとも割りたいのは俺の頭かこの野郎!
ガチで死ぬから!
377
﹁うるさい﹂
﹁いやいや! 当たり前の抗議だよ殺す気か!﹂
﹁避ければいいじゃん﹂
﹁当たったらどう責任取るんだYO!﹂
﹁普段避けてるくせに⋮当たるほど何に気を取られてたわけ?﹂
﹁はあ? て言うか夕食時にまで襲われると誰が思うねん!﹂
怒りすぎて口調まで変になってるじゃねぇか!
﹁もう、そう声をあらげないの。弘美も、危ないことはやめなさい。
欠片を誰かが踏んだらどうするのよ?﹂
﹁ぅおい!? そっち!? 俺の心配は!?﹂
﹁え? どうして?﹂
﹁んだから何でそんな不思議そうな顔してんだよこんちきしょう!﹂
﹁というより敬語を使いなさいよ﹂
﹁俺の命よりお前のプライドの心配!?﹂
﹁いやな言い方をしないの。私はあなたが弘美のせいで死んだりし
ないって確信してるのよ。これは信頼とも言えるわね﹂
﹁そんな信頼は微妙すぎる! だいたいお前は俺を軽く考えすぎだ﹂
﹁そんなことないわよ﹂
さらりと否定する七海に俺は今までの散々な扱いからの対比でちょ
っとジンときた。
﹁七海⋮⋮﹂
﹁ちなみに、もし皐月様と小枝子様が同時に崖から落ちそうならど
っちを助けますか?﹂
な、また弘美はそんな余計な質問を!
378
﹁勿論小枝子よ。だって小枝子の方が有能だもの﹂
﹁だってさ﹂
﹁ぎゃあ! お前、俺をいじめて楽しいのか!?﹂
﹁楽しい﹂
﹁せめて﹃⋮﹄をつけて!﹂
全くこいつらときたら⋮こんなに美味い飯なのに食欲がなくなるぜ。
俺はやれやれと食事を再開する。
ガツガツガツッ
﹁皐月、何度も言ってるでしょう。マナーはまだわからなくてもせ
めて落ち着いて食べなさい﹂
﹁むぐむぐ⋮料理ってのは、んぐ、楽しむもんなんですよ。こんな
美味しいもん皆で食べてんすから、七海様も弘美も楽しんだらどう
すか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁言い訳くさ∼。あんた自分がマナー面倒だからってテキトウぶっ
こくのやめなさいよ﹂
﹁失礼な。まあ⋮それもあるけどさ﹂
﹁ほらね。紗理奈様、お酒もいいけどちゃんと食べなよ﹂
そう言いながら弘美は隣の席の紗理奈の前の酒瓶をとりあげ、さら
に隣の七海に渡し、七海は机の端に置いた。
﹁ちょっ⋮ヒロ⋮会長ぉ⋮かぁえして∼﹂
﹁駄目よ。目の前の食事がすんだら改めて飲みなさい﹂
﹁ちぇ∼﹂
﹁紗理奈﹂
﹁分かった分かった分かりましたよ。会長は真面目なんだから﹂
379
ふてくされながら目の前の食事に紗理奈は手を伸ばす。ちなみにメ
ニューはそれぞれ好きなものだ。
というか、真面目なら酒を飲まないだろと思うのは俺だけか? ま
ぁ俺も今飲んでるし人のことは言えないが、酔わないように気はつ
けてるぞ。
﹁あはははは⋮はぁあ﹂
﹁? どうした小枝子、疲れたか?﹂
壊れたように笑ってた小枝子だが2回目で慣れたし、それほど声が
大きいわけでもないのでBGM扱いだったが、止まると気になる。
小枝子は3人と向かい合う形で俺とは隣なので、俺は小枝子の肩を
揺さぶってみた。
小枝子はぼんやりとした視線を俺に向ける。
﹁皐月さん⋮﹂
﹁疲れたならとりあえずソファで休むか?﹂
﹁⋮皐月さん優しいですねぇ、あは! うふふふぅ﹂
﹁笑い方がまた怪しくなったな。まぁ小枝子は笑いながらもご飯は
全部食べてるしいいけどさ﹂
﹁⋮皐月さん⋮﹂
﹁どうした?﹂
﹁好きです﹂
﹁え? あ、ああ⋮ありがとう﹂
突然の告白に戸惑いテーブル向かいの3人を気にしながら言うと、
小枝子はさらにずいと俺に身をよせる。
﹁愛してます﹂
﹁そりゃ、どうも﹂
380
我ながら間抜けな返答になってしまった。
小枝子は不満そうに、だが酒のせいか赤い真顔で俺を見つめつづけ
る。
﹁⋮⋮愛してます﹂
﹁うん? うん⋮えっと、言われても俺にどうしろと?﹂
﹁⋮キスしてください﹂
﹁は⋮⋮⋮? 小枝子、大丈夫か? だいたいお前はそんな酔っ払
いキャラじゃないんだから無理するなよ﹂
﹁むー⋮いーからキスしてくださいよぉ﹂
いやぁ⋮これが二人きりなら考えなくもないがまさかこんな場所で、
しかも視線感じまくりの状況でできるわけないし。
﹁⋮よし、落ち着こう。うん、お前酔ってるし、寝ろ? もうごち
そうさましな? な? はい、ごちそうさま﹂
﹁ごちそーしゃま﹂
﹁はい、よく出来ました。次はおやすみなさい、な?﹂
﹁む∼⋮ゃすなさ⋮﹂
不満そうなまま俺の促すままおやすみなさいを言うとそのまま寝た。
というかおやすみなさいになってないが、まぁ寝たしいいか。
﹁ふぃ⋮じゃあいったん小枝子を部屋に運んどくよ﹂
俺は小枝子を抱き上げる。
﹁ええ、お願いするわ。起きた時のために書き置きを残すのよ﹂
﹁何て?﹂
381
﹁そうね、夕食のあとは庭で花火してます、でいいわ﹂
﹁分かった﹂
﹁あはは、送り狼になるなよぅ∼﹂
﹁また無茶苦茶な。なるわけねぇだろ﹂
﹁さっさと戻らないと、皐月様のご飯の残り全部食べるわよ﹂
﹁いや、食べるから﹂
いちいちけちをつけるなぁと思いつつ俺はダイニングから出た。
ドアをしめても紗理奈の笑い声が聞こえたのが何だかおかしくて俺
はくすりと笑う。
﹁ん⋮﹂
おっと、ゆっくりゆっくり。起こさないようにしなきゃな。
○
﹁皐月⋮さん⋮﹂
ベッドに寝かしてかけ布団をかけようとすると、小枝子が薄目を開
けた。
ううんと身じろぎをする小枝子に、俺はまたいつ笑いだすかと心の
準備をしながら挨拶をする。
﹁おはよう、起こしちゃったか。悪い、もう一回食堂行くか?﹂
382
﹁いえ⋮お腹いっぱいです﹂
小枝子はぼんやりしながら答えを返す。半分寝てるみたいだが、酔
いは冷めてるようだ。
﹁そか。じゃあ花火になったら起こしにくるからそれまでもう一眠
りしてろよ﹂
﹁⋮いえ⋮⋮﹂
﹁ん? どうした?﹂
促すが小枝子は続けるでもなく俺の手をとる。
﹁小枝子?﹂
﹁⋮さっき、どうして⋮﹂
﹁え? あ、あー覚えてんの?﹂
﹁⋮⋮酔ってる時のことも⋮忘れない⋮タイプみたい⋮です⋮﹂
﹁へえ⋮えっと、キスして欲しいの?﹂
﹁⋮⋮﹂
小枝子はこくりと頷く。
さっきと違い、急激に体温があがるのは⋮たぶん俺にその気がある
から。
だって今なら俺と小枝子以外誰もいなくて⋮酔ってる小枝子は、い
つもより可愛い。
ヤバい。
俺も、小枝子とキスしたいかも。
﹁う⋮あの⋮でも﹂
383
でも、だからって小枝子に恋してるかって言えば違う。それにセッ
クスしたいかっていうとやっぱり怖い。けどキスはしたい。
ああもう! 何で俺ってこんなどっちつかずな優柔不断なんだよ!
﹁さつ⋮きさ⋮ん⋮好きです﹂
俺がぐずぐずしてると小枝子は立ち上がって俺の両頬に手をあてて
顔を近づけてくる。
﹁⋮え⋮ちょっ、待っ﹂
﹁待ちません﹂
二度目のキスは、日本酒の独特な香りと味がした。
ドキドキと心音がうるさくて、自分の心臓と小枝子の心臓が激しく
動くのがよく分かる。
頭の中がぐるぐるする。
どっちがどっちの心音かわからなくなるころ、変化があった。
俺の唇にふれたままで小枝子の口が動いたのだ。
え?
柔らかい小枝子の唇の感触から、何か生暖かい何かに変わる。
俺の唇をわりこんで、歯に触れられてから、ようやくそれが小枝子
の舌だと気付いた。
﹁っ!?﹂
その瞬間、俺は小枝子を突き飛ばした。
小枝子は俺に押されたままベッドから転がり落ちる。
384
唇を押さえる。自分の唇が、自分以外の唾液で濡れている。
気持悪い︱︱
それ以外の何でもない。
さっきまで可愛かった小枝子が、とてもおぞましく見えた。
﹁皐月さ⋮﹂
﹁っ⋮よるな!﹂
﹁え⋮皐つ︱﹂
﹁お前なんか嫌いだ! 大っ嫌いだ!﹂
俺は近寄ってくる小枝子の顔も見ずにただ伸びてくる手を思いきり
叩いて、部屋を飛び出した。
恐かった。恐くてたまらなかった。
誰か、助けて。
○
385
友達
バン!
強い音に振り向くと皐月がドアを開けた姿勢で肩を上下させながら
はぁはぁ言っていた。
﹁ちょっと皐月、ドアはもっと優しく開閉なさい﹂
﹁⋮⋮﹂
会長が注意するけど皐月はうつ向いたままだ。
? どうしたんだろ?
﹁皐月様遅いよ﹂
﹁あ、もしかして送り狼してたのカナ?﹂
なぁんて、皐月だしあるわけないか。
﹁⋮⋮﹂
ってなおも無言ですか。マジでどうしたのさ?
﹁皐月?﹂
あたしは席から立ち、開けられたままのドアを閉めて皐月の手を︱
﹁っ﹂⋮あたしの手は叩き落とされた。
叩かれた手はじんと痛む。だけどそれより何より、驚いた。
あたしはいつものように必要以上に酔ったふりをするのを止めて︵
386
まぁ半分くらい素で酔ってたけど、皐月に叩かれさめた︶皐月を見
つめた。
最初こそあたしたちを警戒して、触れることさえ怯えてた皐月だけ
ど、最近では皐月自身が気付いてる接触なら拒まないし、突然の接
触だって軽く払う程度だ。
それはとても失礼だけど、聞かされた過去にすればしょうがないと
思う。
でも同じ振り払うにしたって強さがある。普段のはとっさのガード。
でも今のは、完全なる拒絶だ。
むしろ、初対面でだって伸ばした手を掴まれはしても相手を見てい
た。なのに今はあたしを見ようともしない。
うつ向いたままの皐月をそっと覗き込む。
﹁皐月⋮﹂
なんて、なんて顔をしてるんだよ。君は⋮そんな顔をしちゃ駄目だ。
﹁⋮さ⋮りな?﹂
皐月はゆっくり、ゆっくりと顔をあげる。ぼんやりした瞳はあたし
に向いてるのに、あたしを映してるとはどうしても思えない。
﹁そうだよ。何かあったの?﹂
﹁⋮⋮紗理奈は﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮紗理奈は、違うよな﹂
﹁⋮何が?﹂
387
というか質問の答えになってないし、その質問も全然質問になって
ない。
﹁紗理奈は⋮友達、だよな﹂
﹁そりゃ⋮そうだよ。そんなの決ま⋮⋮は!﹂
あたし﹃は﹄? ⋮こりゃもしかしなくても、小枝子と何かあった
な。
﹁⋮小枝子は、友達じゃな︱﹂
﹁違う! ⋮小枝子は⋮⋮友達じゃなかった﹂
﹁は? 皐月様なに言ってんの?﹂
ヒロと会長も席をたつと不思議そうに近寄ってくる。
﹁ヒロ、ちょっと黙ってて。それって、小枝子が君を恋愛対象とし
て好きだから?﹂
﹁⋮⋮﹂
うわぁ⋮トラウマのこと話してなかったんだ。というかそれ以前か。
送り狼ならぬ、送り羊になっちゃったわけね。
ていうかあの小枝子が狼? ⋮⋮想像できないなぁ。実際ナニをし
たのか気になるし、皐月がこんなになるほどってむしろあたしにし
て欲しいけど⋮こんな皐月には聞けないしねぇ。
﹁え∼⋮つまり皐月はノーマルだから同性の小枝子に迫られたのが
ショックだった⋮ということなのかしら?﹂
﹁会長もちょっと黙っててくれませんか﹂
あたしのカミングアウトをどうでもいいとか言うような皐月が告白
388
くらいでこんな反応するなら、あたしは友達になんかならない。
﹁なによ紗理奈、あなた何か知ってるの?﹂
﹁まぁ、それなりに。一応同学年で友達ですから﹂
皐月を妙に気にいってるヒロに気をつかってあたしはそう付け加え
る。
﹁⋮別に、ヒロは皐月様のことなんかどうでもいいし﹂
あたしの視線の意味にめざとく気づくヒロはふん、と鼻をならすが
ちらちら皐月見てるし心配してるのはバレバレだ。
つよがるなぁ。あたしの調べではヒロと会長はノーマルぽかったけ
ど、ヒロはかなり皐月に脈アリだよね。
と、話が変わっちゃった。この考えごとがどんどん変わるのは悪い
癖だよね。おかげでシリアスが似合わないとか言われるし。という
か会長が真面目すぎ、ってまただ!
えっと問題は皐月だ。
とにかく落ち着けてあげないと。
﹁皐月、よく聞いて﹂
﹁⋮なに﹂
﹁抱きしめるよ﹂
﹁え﹂
拒否られないように断ってからあたしは皐月の頭を自分の胸に押し
付けるように抱く。
﹁やめっ、や︱﹂
389
慌ててもがき離れようとする皐月だけど断ったことでとっさに反応
できなかったのか、抱きしめることができた。
思ったよりかなり強い力の皐月にあたしは柔道で鍛えた踏ん張りと
力で無理矢理押さえる。
﹁聞こえる?﹂
そして無理矢理抱き締めたまま問いかける。
﹁紗理︱﹂
﹁聞こえるよね? あたしの心臓、動いてるの分かる?﹂
﹁え⋮⋮﹂
皐月の抵抗が止まる。
○
聞こえた。
紗理奈の心音は、とくりとくりと穏やかで、無条件に恐怖が何処か
へ行ってしまった。
怯えた自分が恥ずかしい。紗理奈は小枝子と違う。友達だ。紗理奈
も友達だと思ってくれてるのに、小枝子みたいなことをするわけが
ない。
そういえば、思い出す。
390
昔、眠れない夜は母さんが抱きしめてくれれば、その鼓動と温もり
にに安心してすぐに眠れた。
七海や弘美を抱きしめて寝たことはあるけど、抱きしめられて相手
の心音を聞いたのは久しぶりかも知れない。
﹁どう? あたしの心臓、君に恋をしてるみたいかな?﹂
﹁⋮違う﹂
恋はまだよくわからないけど、さっきは小枝子も俺も凄くドキドキ
してうるさかった。けど紗理奈のはむしろ穏やかなほどだ。
あれ? でもそれだと俺も小枝子に恋してたことに?
﹁皐月﹂
﹁え?﹂
紗理奈の胸に苦しいくらいにくっつきながら顔をあげると紗理奈は
優しく微笑んだ。
﹁何も考えなくていいよ。大丈夫。あたしはバカだけど、ずっと皐
月の友達でいることができるから。友達として、君の味方であり続
けるよ﹂
﹁⋮本当?﹂
﹁うん、大丈夫。小枝子だって君が本気で嫌がったならもうしない
って﹂
﹁⋮⋮そう、かな?﹂
﹁絶対にそうだよ﹂
﹁⋮⋮俺、嫌なんだ。昔みたいなことは二度と嫌なんだ﹂
﹁そう、まあトラウマはそのうち改善するとしてぇ﹂
391
気持ちは嬉しいが、改善は無理だ。そりゃトラウマなんてないにこ
したことはないだろうがさ。
でもちゃんと俺のことを考えてくれてるんだ。友達、か。全部話し
てる友達ってこいつだけだもんな。やっぱ、話して良かった。
何度か人選ミスったと思ったけど、こいつで良かったんだよな。
﹁とりあえず、落ち着いた?﹂
﹁⋮ああ、悪いな﹂
俺は今日だけで3度目の赤面をしながら紗理奈から離れた。
紗理奈は俺を見てにっこり笑った。
﹁いいよ、友達じゃん﹂
ああ、友達っていいな。何のよどみもなくそう思えた。
それと同時に、遠い昔たった一人いた親友を思い出したけど、声ど
ころか顔も名前もあやふやだ。年上だったか年下だったか同い年だ
ったかわからない。
だけどもしまた会ったら、紗理奈と言う友達ができたことを自慢し
たいと思った。そんなことは、ないだろうけど。
﹁さて、じゃああたしは小枝子の様子見てくるから、3人でのんび
りしててよ。花火はまた明日でいいですよね?﹂
﹁ええ⋮別に構わないけれど、結局何があったのよ﹂
﹁小枝子に悪いから秘密。皐月も言いたくないだろうしね﹂
七海と弘美が俺を見るからなんとなく居心地が悪い。
﹁あー⋮腹減ったしご飯食いなおしますわ﹂
﹁言う気はないのね。まぁいいわ﹂
392
﹁⋮⋮ヒロ、お風呂入ってきます﹂
ほっ、二人とも追求する気はないようだ。
﹁そう。じゃあ私はテレビでも見ようかしら﹂
弘美と紗理奈は部屋を出ていった。七海は何事もなかったように席
に戻るとチャンネルでテレビをつけた。
﹁早く席についたらどう?﹂
﹁はい﹂
そのなんでもなさが、ありがたかった。
○
皐月さんに、嫌われてしまった。
本当にどうしてあんなことをしてしまったんだろう?
ああ⋮そんなのわかってる。やりたかったからだ。皐月さんに触れ
たかった。キスをしたかった。
でも、それだけじゃ足りなかった。もっともっともっと、皐月さん
を感じたかったのだ。
393
だからした。
皐月さんに拒絶されたのはある意味では良かったと言える。止めら
れなければ、自分でも何をするかわからなかった。
だけど、それは結果であり私が拒まれたのは変わらない。
⋮辛い。皐月さんに拒まれたのが辛い。悲しい、寂しい、苦しい。
皐月さん⋮、皐月さん、皐月さん皐月さん皐月さんっ。
本当に本気で本命に革命的に愛しているんです。私があんなことを
するなんて自分でも信じられない。
だけど⋮その先だってしたかったし、しようとした。
カアッ
私の全身が熱い。恥ずかしい。なんて私はふしだらなんだ。そんな、
私がこんなに破廉恥な人格だったなんて知らなかった。
﹁小枝子﹂
﹁⋮⋮﹂
ドアがノックされたけど私は動けずにいた。
皐月さんじゃない。ああどうしよう、ひょっとして紗理奈さんは私
を責めに来たんだろうか。
それならむしろ弘美さんの方が怒りそうだけど、皐月さんは紗理奈
さんとも仲がいいから。
﹁小枝子、入るよ﹂
私はドアに背中を向けてベッドに座っていたけど、開閉する音がし
て紗理奈さんが入ってきたのが分かる。
394
﹁⋮⋮何ですか?﹂
ベッドが勢いよく上下して、私の横に紗理奈さんの手がきた。どう
やら私と反対側からベッドにダイブしたらしい。
紗理奈さんはよいしょと言いながら私の隣に顔を持ってきて手は床
に落とした。
﹁ねぇ、皐月には結局何をしたわけ?﹂
﹁⋮⋮紗理奈さんには関係ないでしょう﹂
﹁え∼? 友達なのに冷た∼い﹂
軽い、今にも笑い出しそうな口調にイラッとした。
﹁何の用ですか﹂
﹁狼さんに襲ってもらおうかなってね﹂
﹁⋮⋮皐月さんに聞いたんですか?﹂
﹁うんにゃ、具体的に聞いたわけじゃないけど皐月の態度からね。
一応、聞いてるし﹂
﹁聞いてる? 何をですか?﹂
﹁君の知らない皐月の過去さ﹂
﹁!?﹂
私は勢いよくベッドに手をついて紗理奈さんを見る。
﹁あは、やっとあたしと顔を合わしたか﹂
﹁⋮何なんですか?﹂
﹁教えてあげないよ。そういうのは皐月に直接聞きな﹂
﹁⋮⋮どうして﹂
395
どうしてあなたなんですか?
私はこんなにも皐月さんを愛してるのに。
誰より何より好きなのに。
皐月さんのためなら何だってできるのに。
﹁恐∼い顔だね﹂
紗理奈さんはくすくす笑う。
物怖じしない明るい性格は普段なら憧れるけど、今は腹立たしくて
仕方ない。
﹁紗理奈さん、教えてください﹂
皐月さんのことを知りたい。
すべてを、知りたい。
紗理奈さんだけが知ってるなんて、我慢できない。
ああ⋮何で私はこんなに醜いんだろう。だけど止められない。
皐月さんが悪い。こんなに私を虜にするから。私はもう、皐月さん
しか見えない。
﹁皐月にしたこと、あたしにもしらちょっとだけ教えてあげないこ
ともないよ﹂
﹁な⋮﹂
巫山戯ないでください!
何故かとっさにそう言えなかった。
396
それどころか、私は紗理奈さんに手をのばしていた。
紗理奈さんの顔にそえた私の手の動きにあわせ、紗理奈さんは手を
ベッドについて上体をあげる。
﹁ん︱﹂
キスを、した。
何も感じない。
ただ、触れていることだけが分かる。ドキドキなんてしないし、続
けたいなんて思わない。
私は舌で紗理奈さんの唇をなぞる。紗理奈さんが口を自分から開い
たところで私は顔をはなす。
﹁あれ? もう終わり?﹂
紗理奈さんと舌をあわせるなんて冗談じゃない。皐月さんとなら望
むところだが皐月さんとはしていない。
﹁終わりです。皐月さんに突き飛ばされましたから﹂
﹁なんだ。ディープできれば、あたしのテクで小枝子はメロメロな
のに﹂
﹁あり得ません﹂
だって紗理奈さんではドキドキしないし、それに紗理奈さんは遊び
だ。私には自分から傷つく趣味はない。
﹁ちぇ﹂
﹁これ以上は恋人たちにでもしてください﹂
397
﹁ああ⋮やっぱり知ってるんだ?﹂
﹁全校生徒の三分の一は知ってる、有名な話ですよ﹂
﹁だよね。⋮⋮皐月には言わないで欲しいな﹂
﹁それは紗理奈さんが年齢に関係なく女性に手をだすことをですか
? それとも、複数に遊びで手をだして捨てるということをですか
?﹂
ありふれた単なる噂だと思っていた。
人気がある人にありがちな恋愛遍歴に関する噂。
だけど、2月に友人が泣いていたので理由を聞いて、噂が本当なの
だと知った。
友人を傷つけたことに怒りはしたが、軽蔑はしなかった。私と紗理
奈さんに接点はなかったし、他人の性癖に興味はなかったから。
と言うかそもそもその時の私は、女同士の恋愛なんて友人だって半
分以上は遊びなのだと思っていた。
友情の延長で、恋人なんて言ったってキスをする程度だろうと。
勿論今は、違うけれど。
けれど本当に、慣れていたなんて。ぞっとする。
ひょっとして、皐月さんに手を出してはいないだろうか。他の誰に
何をしようと私にはかなりどうでもいいけれど、皐月さんだけは駄
目。
もし、そうならば、もう紗理奈さんの友人はできない。
﹁違うよ﹂
﹁⋮え?﹂
﹁そんなの皐月は知ってる。それに皐月は友達だから、本当に大切
398
な友達だから、小枝子が心配してることは絶対にない﹂
顔に出てたのだろうか。少し恥ずかしい。私は隠さずに安堵の息を
吐く。
﹁はは、そんなに好きなんだ。黙ってて欲しいのは別のことだよ。
これを約束するなら、皐月について大事なことを教えてあげる﹂
﹁それ、さっきも言いませんでした?﹂
﹁そのくらいの価値はあるよ﹂
私としては別に人が嫌がることを吹聴してまわる趣味はないので、
とりあえずうなずく。
﹁わかりました。約束します﹂
﹁あのね﹂
紗理奈さんは楽しそうに目を細めながらベッドに座り直し、内緒話
をするように手招きをしてから手でメガホンをつくる。
吹聴はしないが私も人の﹃秘密﹄に興味がある年頃なので聞き逃さ
ないように顔をよせる。
﹁はい﹂
私は待った。紗理奈さんの言葉を。
﹁っ︱!?﹂
キスをされた。
訳がわからない。
399
﹁皐月には言わないでね、君を襲うこと﹂
﹁な﹂
なんだそれは。意味がわからない。
﹁小枝子はほら、可愛いから気になってたんだ﹂
強引に腕を掴まれベッドに抑えつけられる。
恐怖が芽生える。
紗理奈さんは︱︱本気だ。
﹁ぃやっ⋮やめてください﹂
﹁そう言われると、凄いクるね。あたしSだから﹂
﹁⋮⋮死んでください、こ⋮このめ⋮⋮﹂
﹁め?﹂
﹁め⋮メスブタ⋮﹂
﹁あらら、あんなに淑女らしい小枝子がそんな汚い言葉、似合わな
いよ﹂
紗理奈さんに対抗するために私がSっぽい台詞を言えばいいかと考
えたのだが、恥ずかしいだけで全く効果はなかった。
我ながら空振りっぷりが無駄に恥ずかしい。
﹁う⋮いや、嫌です。本気で嫌です。皐月さん以外の人とは嫌です﹂
﹁無理だよ﹂
﹁え⋮?﹂
﹁皐月は絶対にやらせてくれない。だから、あたしが代わりに小枝
子の性欲をはらしてあげるの。う∼ん、あたしって友達思い。﹂
﹁⋮それは皐月さんが私を好きじゃないからですか?﹂
400
﹁違う違う。皐月は君を好きだよ。信頼してる、いや、してた、か
な。まぁいいや﹂
過去形で言われて私の胸は痛んだが、こればかりは私のせいだ。
欲望に負けた私のせいだ。
﹁皐月がああじゃないにしろ、君は家族的立ち位置だからね。そり
ゃ拒まれるよ﹂
﹁家族⋮﹂
﹁わかっててやったんじゃないの? すべて受け入れ、優しさで包
み込む。まさに﹃母﹄﹂
﹁⋮⋮﹂
何も、言えなかった。
意識していなかったと言えば嘘だ。皐月さんはお母様が大好きだか
ら、そのようにすれば好かれると、全く考えなかったわけではない
し⋮無意識にそうしていた部分はあるかもしれない。
﹁だから、さ﹂
私の上で、紗理奈さんが微笑む。
それがとても、恐ろしい。
﹁い︱﹂
無理矢理に唇を封じられる。
﹁っ﹂
恐い。
401
体が動かない。それは力でかなわないということもあるけど、それ
以上に、恐怖で私の身が凍るのだ。
抵抗しなければと思うほど、私の体は動かない。
体をまさぐられ、私の上着を捲られる。脇腹の肌を直接触られる。
触れてるのかどうかわからないような手つき。鳥肌がたつ。
すぐにねっとりと吸い付くように変わる。段々、手のひらが上がっ
てくる。
﹁︱ぁ﹂
﹁小枝子の肌、柔らかくて気持良い。こっちは、どうかな?﹂
ブラ越しに、私の胸が覆われる。
﹁可愛い、可愛いよ小枝子﹂
その手のひらに、力がこめられ︱
﹁っっ⋮い、や﹂
涙が出た。嫌だ。
嫌。気持悪い。どうしてこんなことをするんですか?
紗理奈さんの噂は知ってたけど⋮
﹁友達﹂だと言ったのに。だから、私は普通に接していたのに。
﹁⋮ふぅ﹂
﹁っ、ひくっ⋮⋮?﹂
紗理奈さんは私の服の中から手を抜いて起き上がり、困ったように
微笑みながら私を見下ろしている。
402
﹁恐いでしょ?﹂
﹁⋮え⋮⋮?﹂
な⋮に?
﹁友達と思ってるのに、こんなことされたら恐いでしょ?﹂
﹁⋮⋮そんなの、当たり前です﹂
﹁じゃあ何で?﹂
﹁?﹂
紗理奈さんが何を言いたいのか、わからない。
﹁何で小枝子は皐月にしたの?﹂
﹁そっ、れは⋮だって、私は⋮皐月さんが好きだって⋮言ってまし
た、し﹂
皐月さんだって私がただの友達以上の思いなのは知ってるだろうし、
それに⋮キスは初めてじゃないのに?
少しは受け入れて貰えてると思ったのに。
﹁⋮はぁ、とにかく、皐月にこういうことしちゃ駄目だよ。キスだ
って触れるくらいにしとけば、おふざけですむからさ﹂
﹁ふざけてなんか︱﹂
﹁小枝子﹂
﹁⋮⋮﹂
強く、真剣な顔で名を呼ばれ、私は黙りこむ。
どうしてそんな知ったふうに言うんですか?
私は、知らないのに。
403
﹁皐月は傷ついたんだ。君のせいで。君がどう思おうとそれは変わ
らない﹂
﹁⋮⋮﹂
それは⋮⋮私だってわかっている。
気づいてないわけじゃない。けど、気づきたくなかったから知らな
いふりをしてただけ。私はずるい。
そんなの、知ってる。けど、どうにもならない。
私がずるいのなんて前からで、変わらない。
﹁あたし、小枝子のことだって友達だって今も思ってる。だから、
約束通り皐月のことを教えてあげる﹂
﹁⋮何ですか?﹂
私が起き上がると紗理奈さんは再び内緒話をするように楽しげに微
笑む。
私は警戒して近寄らずに壁際にあとずさる。
﹁皐月はね、性的なことが凄く嫌いなんだ。肌を晒すだけでも凄く
嫌がる。女にだって嫌がるし男なら尚更だ﹂
﹁⋮どうして?﹂
﹁教えてあげない。﹂
﹁⋮紗理奈さんの嘘つき、教えてくれるって言ったじゃないですか﹂
だから私は、キスをしたのに。
勢い余って近寄ると顔を寄せられ、額がくっつくほどの距離で紗理
奈さんは口を開く。
404
﹁じゃあ小枝子は、あたしに聞けばそれで満足?﹂
﹁⋮え?﹂
﹁違うでしょ? 小枝子は、皐月が好きで好かれたいんでしょ? なら、あたしから聞いてどうすんのさ﹂
﹁⋮あ⋮⋮﹂
紗理奈さんは私から通常時並に離れるとにぱ、とお気楽な笑みを浮
かべる。
﹁とにかくそういうことだから、もうしちゃ駄目だよ。皐月から言
い出すかイエスと言うまで、ね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁返事は?﹂
﹁⋮わかって、ます。私だって、皐月さんが嫌ならやりませんよ﹂
だからその態度はやめて欲しい。すごくすごく腹が立つ。
まるで私は皐月さんを全然わかってなくて、紗理奈さんだけが皐月
さんの味方みたいな、そんな言い方はやめて欲しい。
﹁うん、いい子いい子。う∼ん、おふざけじゃなく、小枝子とセッ
クスしたくなってきたなぁ﹂
﹁断固としてお断りします﹂
私はきつく、今までこんなに人に怒りを抱いたかと言うくらいに紗
理奈さんを睨む。
﹁にゃは、じょ∼だんだよ。一割くらいはね﹂
﹁⋮紗理奈さんのこと、ちょっと軽蔑です﹂
﹁どうして? 噂は前から知ってたでしょ?﹂
﹁それでも、﹃友達﹄とは区別すると思ってました﹂
405
それは真実。
皐月さんに関する嫉妬が抜きなら、紗理奈さんは憧れの対象でさえ
あるし、友人だと思っていた。噂があったけど、﹃友達﹄の私や皐
月さんには関係がないと思ってたから。
だけど友達でそういうことをしたいと言うなら、私は紗理奈さんを
軽蔑する。
﹁そか、なんかちょっと嬉しいかも﹂
﹁え﹂
軽蔑されて?
あれ? 実はMなんですか?
﹁⋮小枝子が何を言いたいかは顔で分かるけど、違うから﹂
﹁え、分かります?﹂
﹁皐月といい君といい、わかりやすいんだよ﹂
私は少しだけ笑う。
今も紗理奈さんに嫉妬してやまない黒い心はあるけど、それは紗理
奈さんに言ったって仕方ないし、そもそも紗理奈さんには関係がな
い。
紗理奈さん経由で皐月さんを知ったって、私が皐月さんから信頼を
得なければ意味がないから。
﹁まぁ安心していいよ。本命と遊びと友人は分けてるから﹂
﹁噂通り最低ですね﹂
そして噂通り、素敵な人だ。
406
悔しいから、いつもみたいに口には出さないけど。
ありがとうございます。
危うく、またズルをするところだった。
皐月さんには真摯に対していたいのに、私のずるい心はすぐにズル
をしようとする。
近道と思った道が、本当に目的地につづく保証なんてないのに。
○
407
友達︵後書き︶
読んでくださり、真にありがとうございます。
話が飛んでる気がするので、もしかすると修正するかもですが、面
倒だと無理矢理話を繋げるかもです。
変なところがあると教えてくれると嬉しいです。
今度はもう少し早く更新できるよう頑張ります。
408
仲直り=元通り、ではない
﹁ごめんなさいっ!﹂
私は挨拶より先にそう言って頭を下げた。
顔をあげるのが、恐い。
私の脳裏をよぎるのは、あの傷ついたような皐月さんの顔だ。
そんなに傷つくなんて思わなかった、と言って、言い訳なのはわか
ってる。
﹁ごめんなさい﹂
私は顔をあげずに皐月さんの足元に視線を落としたまま繰り返す。
﹁⋮小枝子は、俺にどうして欲しいの?﹂
﹁え⋮それは﹂
﹁許してってんなら、もう許してるよ﹂
﹁え?﹂
そんなに、あっさり?
私は思わず顔をあげる。皐月さんは、何かとても辛そうな顔をして
いた。
﹁ただもう俺の前に顔を出さないでくれ﹂
﹁え⋮﹂
409
何?
﹁そんな⋮今許してくれるって﹂
﹁許すけど、小枝子をまた好きになるかと言えば別。もう追求しな
いし特に何かしら謝罪して欲しいんじゃない。でも、嫌いだ﹂
﹁っ⋮﹂
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
そんな目で見ないでください。私はただあなたが好きなんです。
謝ります。
何だってします。
あなたのためなら世界を敵にしたって構わないから、あなただけは
私を嫌わないでください。
﹁嫌⋮っです! 好きです! 好きなんです!﹂
﹁だから? 俺には関係ないだろ? 俺はお前が大嫌いなんだ。顔
も見たくない。失せろ﹂
﹁ぁ⋮⋮っ﹂
優しい言葉。
暖かいぬくもり。
何より素敵な笑顔。
それらすべては私にも与えられていたのに、私が、自分で壊したん
だ。
410
﹁っつう⋮うああぁ﹂
涙が出る。
紗理奈さんは昨日﹁涙を流せば許すって﹂と言ったのを真に受けた
んじゃない。
むしろ逆。
あの優しい人をこんな風にしたのは私なんだ。
もう戻らない。
何もかもが手遅れだ。
泣こうがわめこうが、私はすでに罪を犯した。
皐月さんを、傷つけたんだ。
何も見たくない。
何も聞きたくない。
皐月さんを傷つけたのは私のくせに、私がすべて悪いくせに、それ
でも私はずるいから泣く。
泣いて、自分の中に引きこもり、自分だけ傷つかないようにする。
私は︱
﹁うあっ⋮あああん、っあぐ⋮うっうう⋮うああ﹂
止まらない。
子供みたいに泣いて、ますます皐月さんに嫌われてしまうのに、止
まらない。
﹁すぅ⋮きぃっ⋮ひあっ、うぅ⋮さつ、皐月さんがっ⋮す好きな、
ん、んですぅ!﹂
411
嫌わないで
離れないで
どうか私を
﹁見っ、捨ぅてないでぇっ⋮く、くだ⋮っ、ああぁうっ⋮! み、
見捨てないでくださいぃぃい!!﹂
なんで私はこうもみっともないんだろう。
だけど、好きなんだ。
他のどんな誰よりも、私にはあなたが必要なんです。
﹁な、泣くなよっ﹂
﹁っく⋮?﹂
涙でぐしゃぐしゃの視界。何かが私の顔を乱暴にこすりつけられ、
視界が少しクリアになる。
﹁泣くなよバカ! 俺が、俺が悪いんじゃないだろ﹂
涙をぬぐってくれたのは皐月さんだった。
その、嫌いな相手にまでしてくれる優しさがまた余計に悲しみを誘
う。
﹁だ、て⋮ごめ⋮なさっ⋮でも﹂
﹁ああもう!﹂
皐月さんはまた私の目尻をぬぐいながら怒ったような困ったような
412
顔で私に言う。
﹁分かった分かった! もう言わないから、嘘だから!﹂
﹁⋮へ?﹂
間抜けな声が私の口からもれる。
皐月さんは、今なんて言った?
﹁大嫌い⋮はまぁ、好きじゃないけど大は嘘だ。二度と顔も見たく
ないってのは、言い過ぎたよ。ごめん。﹂
﹁⋮そん⋮なに、を﹂
﹁だから、許す。いきなり元通りとか無理だけど、けどなるべく普
段通りを心がけるから⋮だから、泣くなよ﹂
﹁皐月⋮さん﹂
どうして?
どうしてまだ私に優しくしてくれるんですか?
そんな私の疑問が顔に出てたのか皐月さんは苦笑して私の頭を撫で
る。
﹁だってしょうがないだろ? 小枝子が、泣くんだもん﹂
紗理奈さん、あなたの助言は当たってたようです。
私は、あんまりに嬉しいからまた泣いてしまった。
413
○
本当は、そんなこと言う気はなかった。
先生が今さら現れたって警察ざたにする気がないように、小枝子に
だって何かしらして欲しいとは思わなかった。
ただ本当に、たったあれだけと人は笑うかもだけど、本当に小枝子
が嫌いになったんだ。
だから、素直にそう言った。
気持悪いだけで、顔を見るだけでいらいらする。
許す許さないじゃなくて、生理的に無理。
でも、何故だかはわからないけど、泣き出す小枝子は前のように可
愛く見えた。
﹁な、泣くなよっ﹂
俺を好きだと泣く小枝子。
小さい子供のように、はばかることなく泣く小枝子。
なんだ。
小枝子は小枝子で、やっぱり凄く弱くて、怖がることはない。
414
嫌悪することもない。
だってこんなに小枝子は弱いから。
だから、俺が守らなきゃならない。
傷つけてはならない。
だって、先生と同じにだけはなりたくないから。
﹁小枝子が、泣くんだもん﹂
それに、小枝子の優しいとこも可愛いとこも覚えてる。
だから、特別。
今は嫌いだけど、それでも好きに戻りたいと思うから。
○
﹁おっはよう! いや∼、仲良きことは美しきかなってね﹂
﹁お、紗理奈。見てたのか﹂
声をかけろよ、趣味が悪いぞ。
415
﹁にゃは、良かったね小枝子、仲直りできて﹂
﹁はいっ﹂
﹁いや、そんな喜ばれると心苦しいんだが﹂
いくら何でもいきなり元通りに振る舞う自信はない。距離を置いて
普通に友達からお願いします。
とは、雰囲気から言い出せないんだよまた何故か。
﹁むむっ、水をさすねぇ皐月ぃ﹂
﹁皐月さん⋮やっぱり、そんなすぐには、無理、ですよね﹂
﹁うん﹂
あ、即答しちゃった。
目に見えて落ち込む小枝子に俺はあちゃあと額に手をあてるがフォ
ローはしない。
だってあんまりフォローして後で無意識に拒否ったらかなり傷つけ
るだろうし。
﹁カワイソー。あたしが可愛がってあげよう。よーしよしよし﹂
言いながら紗理奈は俺と小枝子の頭に手を伸ばし、わしゎわしゃと
撫でてくる。
あんま乱暴にすんな、ヅラがとれるだろ。言えないが。
﹁なんで俺もだよ﹂
﹁かぁいい、から?﹂
疑問かよ。
紗理奈の手を払って、俺はクスリと笑う。
416
﹁バカやってないで行こうぜ。お腹減ったー﹂
﹁あ、待ってください﹂
﹁今日は和食な気分∼。皐月は和食だよね? 交換しようよ﹂
﹁嫌だ﹂
廊下を歩きながら紗理奈の意見を切って捨てる。
バカめ。日本男児なら朝は白飯って決まってんだろ。
って俺、女か。
フリが長かったから今わりとマジで言った︵正確には考えた︶ぜ。
と言うかこの﹁∼だぜ﹂口調は男になる時に矯正してなったんだが、
最近半分くらい混ざってるかも。
﹁即答? 冷たいな。心友でしょ?﹂
﹁それとこれとは、ってか親友だろ? ﹃心の友﹄とかそれ言いス
ギ﹂
﹁お、音は同じなのによくわかったね。さすがツッコマー﹂
﹁なんでやねん﹂
﹁⋮お二人、仲がいいんですね﹂
羨まし気な小枝子の言葉に紗理奈はにまぁと笑う。
あ、嫌な予感。
﹁嫉妬? 仕方ない恋人だなぁ小枝子は。よし、今からあたしがし
っかりぐったり可愛がってやろう。今夜は寝かさないぜブラザァ﹂
小枝子に抱きつくように肩を抱く紗理奈に俺はにっこり笑顔で拳を
417
突き出す。
せんえつ
﹁よし、どこからツッコんで欲しいんだ?﹂
﹁では、僭越ながら私が。紗理奈さんじゃなくて皐月さんにですか
ら!﹂
大真面目に左手首のスナップをきかせてツッコミをいれる小枝子。
﹁そこはスルーしてよ﹂
﹁まぁ⋮なんでもいいけど﹂
てか、意外とツッコむ手つきは上手いんだな。
そんなバカなやり取りをしながら、昨日は何もなかったように俺は
七海らがすでにいるだろうダイニングのドアを開けた。
○
けどまぁ、なかったフリをしてもあった事実は変わらないわけでし
て。
つまり何が言いたいかと言うと⋮。
﹁どうしたの皐月様、早く座りなさいよ﹂
418
﹁ん⋮えっと、席替え希望﹂
﹁は? 何よあなた唐突に﹂
﹁そうだよ。なに? 3対2じゃバランス悪いとかくだらないこと
考えてんの?﹂
﹁いやいや﹂
むしろ考えてんのはお前だろ。
﹁じゃあなんなわけ?﹂
﹁まぁまぁヒロ、そんなつっかかんなくてもいいじゃん﹂
﹁別にっ、つっかかってるわけじゃ⋮﹂
とっさに言い返そうとしたがすぐに声を小さくする弘美に紗理奈は
あっさりスルー。
﹁そ? ならいいじゃん﹂
﹁まあそうなのだけど、一つ聞くわ。皐月、小枝子、あなたたち喧
嘩したわね?﹂
﹁⋮⋮まぁ、遠からずってとこです。そんなわけでちと気まずいん
で、頼みますよ七海様﹂
隠してるわけじゃないし、むしろこのくらいなら言っておいたほう
がいいだろ。
食事が冷めない内にしましょうよと言うと七海は息をつきながらも
承諾する。
﹁仕方ないわね。小枝子、私とかわりなさい。異存はないわね﹂
﹁え⋮はい﹂
﹁ってなんで七海様なんですか? つか皐月様が移動すりゃいい話
419
じゃないですか﹂
む、何だよ弘美。またケチつけんのか?
﹁だって和食なのは皐月一人じゃない。まだ手をつけてないのに器
を移動させるなんて面倒よ﹂
当たり前と普通に言う七海に︵ていうか俺も妥当だと思うが弘美は
何が不満なんだか︶弘美は唇をとがらす。
﹁う⋮でも別にヒロでも﹂
﹁小枝子のサンドイッチ、トマト入りよ?﹂
﹁いっそ紗理奈様とか﹂
﹁紗理奈はひとりパスタでしょうが。パン系は私のタマゴサンドに
小枝子のトマトサンド、それにヒロ、あなたのガーリックトースト
だけでしょ。というか、どうして私だと不満なの? あなたはいっ
たいどうして欲しいのかしら?﹂
﹁∼別に、もういいですっ﹂
何だか機嫌悪いなぁ。
は!?
もしやこれが噂の
﹁アノ日﹂か?
⋮⋮⋮⋮⋮それに関しては考えるだけ負けな気がするから放ってお
こう。
420
ていうか、話の流れからすると弘美はトマトが苦手なのか。
とりあえず覚えておこう。いつか役立つかもな。
﹁じゃあいいわね。早く食べて、昨日の分も遊ぶわよ﹂
﹁?﹂
昨日の分? それって俺のセリフじゃね?
七海には関係ないような⋮⋮って、もしや夕方ごろは俺を心配して
遊んでなかったのか?
俺が席替えをして隣にきた七海をまじまじと見ると、七海は何よと
俺を見る。
﹁いや⋮昨日の分、って?﹂
﹁あなたね⋮あなたが弘美つれて出てった2時間弱、心配で遊ぶど
ころじゃなかったからに決まってるじゃない﹂
⋮うわぁ。
ヤバい、なんか⋮かなり嬉しい。
﹁その⋮悪かったな。今日は目一杯遊ぼうぜ﹂
﹁敬語﹂
﹁⋮いやまぁ、はい﹂
そりゃ年上だし使って当然なんだが、そこまで徹底しなくてもよく
ね?
言われると逆に使いたくなくなるっての。
421
○
422
バカ可愛い
﹁っはーーぁ、疲れた∼!﹂
バタリとパラソル下のレジャーシートに︵パラソルは複数ありシー
トの上はほとんど影だ︶倒れた紗理奈はそう叫ぶ。十分元気に見え
るんだが⋮⋮。
俺より遅れてゴールした小枝子はかなりぐったりして紗理奈と同じ
く倒れてる。
今日は七海の宣言通り全力で遊んだ。
まずは準備運動をしてから水のかけあい。
ビーチバレー。
ビーチフラッグ。
あと息止め競争を地味にやった。
そして今、競泳が終わったところだ。
てゆーか、紗理奈まじで早いな。
﹁はぁあ⋮でも、思いきり体を動かすと気持良いわ﹂
七海も疲れたらしく小枝子と同じくらい消耗して倒れてるが笑顔だ。
つか七海、昨日は紗理奈捕まえてたのに、今日はそんなに早くない
な。
昨日から練習してる俺よりはちょい早いが、紗理奈はダントツだ︵
小枝子は逆にダントツビリで、弘美は審判。つか弘美は今日も今日
とて浮き輪つきだ︶。
423
﹁七海様、昨日よりスピード遅くないですか?﹂
﹁あ、あれ、は⋮はぁ、さ⋮りな、はぁ⋮﹂
﹁⋮⋮息乱しすぎ﹂
ちなみに俺は競争には負けてるが息はそう乱してない。
コツは掴んだし、こまめに呼吸すれば基本的に肺活量はある。息止
め競争では二番だったし︵弘美が浮き輪の空気を吸ってて一番だっ
た。普通、反則負けだろ︶。
﹁あれは紗理奈が∼、っていいたいんじゃない? 会長はなんか変
に神経質なんだよ﹂
﹁どう変なんだ?﹂
﹁自分がこだわってるものに関しては実力以上の力がでるんだよ。
前、ゴミのポイ捨てした生徒がいたんだけど会長が恐い顔でくるか
ら逃げたんだ﹂
﹁どんな顔か気になるな﹂
﹁普段見てるよ﹂
ん? 確かに普段から怒られてるが、怒ってても美人のままだぞ?
俺が首を傾げると紗理奈が苦笑して付け足す。
﹁笑顔の会長しか知らない生徒には恐いんだよ。会長は猫かぶりは
するけど真面目で怒る時は無差別だから、会長への視線は憧れ半分
恐怖半分なんだよ﹂
﹁へ∼⋮でも、怒ってても美人だよな﹂
本人に聞かれるとまた何を言われるか分からないので紗理奈にだけ
聞こえるように言うと﹁まぁね﹂と紗理奈も同意する。
うん、俺の感覚が変なんじゃないよな。
424
﹁でも、怒られるのは嫌でしょ。まぁ普通は逃げないしポイ捨ての
生徒もいないんだけど。その子は高校から陸上の推薦で入ってきた
んだ。あたしが言うのもあれだけど、体育会系はちょっとガサツな
部分あるし。まぁ⋮普段はいい人なんだよ﹂
﹁ふぅん﹂
知り合いなのか。ん? 陸上の推薦?
﹁で、逃げたその子を追いかけた会長はその子を見事捕まえたんだ
よ﹂
﹁陸上の推薦もらってるやつを?﹂
﹁短距離選手で、スピードダッシュなら誰にも負けないのが自信だ
ったんだけど、廊下一本という長くない距離で追い付かれた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ちなみに会長、普段は50メートル9秒だよ﹂
﹁⋮⋮七海、変﹂
﹁へ、変っ、じゃないわよ!!﹂
﹁はぅう⋮七、七海様、み、耳元で、しゃけばないで、くら、さい
ぃ﹂
俺と紗理奈から見て隣あって倒れてる七海と小枝子では、七海のが
奥なので小枝子がモロに七海の口撃をくらったらしい。
聞いてたのか。つかあいつ声でかいよなー。終業式ん時にも台に上
がってたけどマイク無しでも講堂中に聞こえるって。
でも息はそんな長くないし⋮⋮何故? なんかこう、周波数的問題
か?
425
想像してみる。
七海が話すのに合わせて七海を中心に広がる電波。
それを受信する生徒。
﹁七海様!七海様!七海様!七海様!﹂
恐っ! 洗脳かよ⋮。
いや、まぁ実際にあんな合いの手はないし式は静かに進むんだけど。
なんで俺の中の七海像はこんなイメージなんだろ?
二面性があるからか? 3人セットで悪魔ーズだし違うよな。
にしても、マジで他の生徒はこいつらを優等生と思ってんのか? 先生は仕方ないとしても、クラスメートとか分からんもんか?
紗理奈なんか俺に消しゴム投げたそ。
﹁ん? なに?﹂
﹁いや、紗理奈って俺ら以外には猫かぶってるよな﹂
﹁ん? あたしは基本先生とか大人にだけだよ。﹂
﹁え? でも廊下とか教室でも丁寧な言葉だったりするじゃん﹂
前に覚えてろ。的なことを言われたし、食堂でも猫かぶってるし。
﹁ん∼⋮なんて言うかなぁ。まぁ、猫かぶってるっちゃかぶってる
けど、真面目な優等生ってのは先生とか真面目な人用。それなりに
話すようになれば知り合いしかいない場所では本性だすよ﹂
426
﹁ああー⋮つまり、友達以外にはかぶってるのか﹂
﹁そう。会長とヒロは猫かぶり続けて友達つくろうとしないけどね﹂
そうだよな。こいつは丁寧葉でも親しげにクラスメートと普通に話
してるし挨拶してるけど、弘美なんかは挨拶してても壁ある感じす
るよな。
﹁んあ? 何見てんのよ皐月様のくせに。あ、ヒロにみとれてたの
?﹂
俺の視線に気付いた弘美が俺の元にやってくる。
⋮まぁ、知らない方がいいことってあるよな。
これはこれで慣れれば可愛げがあるけど、普通いきなり毒舌がきた
らヒくよな。特にお嬢様なら。
﹁いや、ああ、そうそう、みとれてたみとれてた﹂
﹁ん﹂
山の天気のようなやつなので機嫌はすぐになおるが、わざわざ不機
嫌にすることもないからイエスと言えば弘美は俺に手のひらをむけ
る。
﹁⋮⋮なんだよ?﹂
手のひらには何も乗ってない。
﹁みとれてたんでしょ? 代金をいただきます﹂
﹁⋮お前はどっかの女神をもした芸術品かよ﹂
427
モデルでも見ただけで金は要求しないぞ。
﹁はっ、ヒロ自身が女神だっつーの。この造形美が理解できないわ
け?﹂
ぞうけいび?
﹁⋮そのツルペタボディが?﹂
﹁皐月様と変わんないでしょうが!﹂
ぷんすか怒る弘美。
マジで言ってんのかこいつ? そりゃ可愛いか不細工なら性格の分
を差し引いても可愛い、と言うくらいに顔は整ってるが⋮⋮女神と
か、そういうのはむしろ⋮⋮⋮
﹁? 何よ?﹂
七海、だよなぁ。
長い金髪も綺麗だし、胸でかくてスタイルいいし⋮⋮たぶん、これ
は俺の好みなんだろうが、マジで美人だよな。
改めて見ると、やっぱ見惚れる。
可愛いか綺麗かどっちが好みかとか、元気系か大人しい系かどっち
が好みかとかあるだろうが、こいつの見た目は、かなり好みだな。
﹁なによ?﹂
﹁いや、やっぱ女神といや金髪だろ、と思ってな﹂
﹁はん。偏見じゃない。貧困な発想∼﹂
﹁うるさいなぁ﹂
428
ぐぅぅ⋮。
誰かのお腹がなる。そういやそろそろ昼だな。
何となく5人で黙ってると紗理奈があーと声をあげる。
﹁⋮皐月、お腹減ったの? しょーがないなぁ﹂
﹁へ?﹂
ちょ、待て。俺じゃないぞ。
別に腹をならすくらいどうってことはないが、ちょっと恥ずかしい
じゃないか。
﹁皐月様はほんっと、しょうがないやつね﹂
﹁そ、そうねぇ。優雅じゃないわよ皐月﹂
﹁えっと、そんな皐月さんも可愛いと思いますよ﹂
﹁や、だから違︱﹂
﹁ほら、作ってもらったお弁当食べようか﹂
紗理奈はそう言いながら鞄から大きなバスケットを取り出す。
﹁⋮分かったよ。あー腹へったー!﹂
やけくそ気味に俺は言う。
くそ、誰かは知らんがいらん恥をかかせやがって。
バスケットの中身はおにぎりとかの定番が詰まっていた。
ふーん? なんか普通だな。金持ちなんだからビーチまで給仕がく
るとか⋮⋮漫画の読みすぎだな。
429
﹁いただきまーす﹂
○
昼ごはんを食べ終わって片付けをしていると、小枝子が近づいてき
た。
﹁あの、皐月さん﹂
﹁何?﹂
小枝子が俺の手を引こうとするから先に腕を掴む。
﹁何?﹂
﹁あの、ごめんなさい﹂
﹁?﹂
は? 何の話だ? 昨日のはもう終わったし⋮。と言うか謝るなら
俺に触れようとしないで欲しいなぁ言わないけど。
﹁さっき⋮お腹がなったの私です。ごめんなさい﹂
﹁あ⋮ああ、そうなんだ﹂
まあ確かにちょっとむっとしたが、お腹膨れたからもうどーでもい
430
いし。
﹁いいよ。恥ずかしかったんだな。怒ってないよ。ゴミ捨てに行く
からまた後でな﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
小枝子はほっとしたように笑うとシートに戻って行った。
ふぅん⋮。バカだな。言わなきゃわかんないってのに。
でもそんなバカさは、なんか可愛い。
﹁何にやにやしてんのよこのスケベ﹂
﹁⋮弘美﹂
てか、いつの間に俺の背後をとるほどに⋮成長したな、ひろ⋮⋮⋮
そんなボケいらねぇよ。
何か最近、頭の中が妙にボケになってんな。
﹁で? 何かようか? 見て分かると思うが俺はこれから道路の端
までゴミを捨てに行くんだ﹂
端と言うのはちょっと離れたゴミ捨て場だ。私有地には変わりない
が、建物とかのゴミも最終的にはここにまとめて捨てて業者に回収
させるらしい。
﹁ヒロも行く。ほら、早く﹂
﹁あ、ああ﹂
それは良いけど、ゴミ捨て手伝うわけじゃないんだな。一つくらい
持たないか?
431
﹁で、何なんだよ?﹂
結局持とうか、なんて殊勝な言葉は出ることなく無言でゴミ捨て場
にきて捨てた。
俺がゴミを範囲内にまとめて置き終わっても動かない弘美に声をか
けると、弘美はじっと俺を見る。
﹁⋮⋮悪かったわね﹂
﹁⋮は?﹂
﹁だから、お腹なったのヒロなの! あんたのせいにして悪かった
って言ってんの! バカ!﹂
それだけ言うと弘美は逃げるようにビーチに戻って行った。
⋮は? ちょ、マジ?
﹁皐月ー、いつまでゴミを捨てているつもり?﹂
俺が驚いてると七海が声をあげながら近寄ってきた。
﹁何よ。もう終わってるじゃないの﹂
﹁あ、ああ、手伝いにきてくれたのか? ありが︱﹂
﹁違うわよ。どうして私が雑用をしなきゃならないのかしら。相変
わらず常識がないわね﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
悪気0だもんな、こいつ。真面目に言ってるんだよな。いい加減に
分かる。
弘美が人を見下すのは悪意全開だが、こいつの暴言は素だ。素で俺
432
様なんだ。
﹁そうじゃなくて⋮少し、話があるの﹂
﹁愛の告白なら間に合ってるぞ﹂
﹁違うわよ﹂
﹁雑用も遠慮したい﹂
﹁あなた何様のつもりなのよ。謹んで受けなさい。って、今はそう
じゃないわ﹂
﹁何だよ﹂
﹁さっきはありがとう﹂
﹁?﹂
﹁私のお腹がなったのをかばってくれたのでしょう? その心意気
は評価するわ﹂
﹁⋮⋮ああ、まぁ、ほら、七海のキャラじゃないし?﹂
﹁そうよ。少しはしゃぎすぎたみたい。これから気をつけるわ。じ
ゃあ私は戻るけど、あなたは?﹂
﹁ん、行く。つか競争しましょう﹂
﹁え﹂
﹁よーいどん!﹂
﹁ちょ、ずるいわ!﹂
七海を引き離して砂浜を踏みしめながら、俺は何とか爆笑するのだ
けは我慢する。
どいつもこいつも、正直すぎる。律義と言うか、バカだ。
バカは好きだ。でも、3人は可愛すぎだ。いちいちタイプが違うの
も笑える。
七海が礼を言ってるのに笑いだしたら不審だからつい走ったけど、
笑いがもれるのまでは我慢できない。
433
﹁く、くく﹂
﹁皐月、何笑ってんのー﹂
﹁あはははは﹂
﹁うわ、皐月壊れた!﹂
﹁はは、違う、違う。ちょっと、あは、おかしいだけだ﹂
俺は紗理奈に不審そうに見られながらも笑いが収まるまで待つ。
﹁あははは⋮はぁ、あー、笑った笑った﹂
﹁何がおかしいの?﹂
﹁ん、何でもな︱﹂
﹁ないわけないでしょう! あなたはどれだけ失礼なのよ!﹂
七海に何故か怒鳴られた。
振り向くと怒り顔。
﹁競争と言いながら自分が先についたら笑いだすなんて、なに? あなたそんなに自分の足の早さを自慢したいのかしら?﹂
うわ⋮忘れてた。七海から離れるために競争って言ったんだった。
目的を達成したら忘れてた。
﹁ごめんなさい。でもそうじゃないですって。﹂
﹁じゃあ何よ﹂
﹁だってあんまりに可愛いから、おかしくて﹂
小枝子は恥ずかしいのに、弘美はプライドが高いのに、七海は勘違
いをして、それぞれ自己申告をしたんだぞ?
そんなバカさ加減を見れば誰だってなんか可愛いと思うし、おかし
434
いだろ。
﹁は、はぁ?﹂
分かってないようだが怒りはどこかへ行ったらしく七海は首を傾げ
る。
﹁何の話?﹂
﹁何でもない。紗理奈、向こうの小島まで競争しようぜ﹂
﹁え、さっきボロ負けだったのに?﹂
﹁これだけ距離があれば体力の問題もあるだろ。七海様もします?﹂
﹁遠慮するわ。というか、あなたたちみたいな体力バカにはついて
いけないわ﹂
﹁失礼だな。まぁいいや。行くぞ紗理︱﹂
﹁よーいどん!﹂
紗理奈は海に向かってもうダッシュ。慌てて俺も海に走る。
﹁おま、卑怯だぞ!﹂
○
435
436
どっちかなんて決めれない
じゃばじゃばと音をたてて海に入ってから泳ぎだす二人。
全く、お昼ご飯を食べたとは言え元気なものね。⋮と言うか普通は
元気でもあそこまで行こうなんて思わないのだけど。
二人が目指した小島︵直径10メートルほどで雑草があり小さい洞
穴がある程度︶は、ここから確か5キロはある。
﹁あの二人は元気ですねぇ﹂
ヒロがそう言いながら私の元にくる。小枝子もやってきて私たちは
とりあえずシートに並んで座る。
﹁ね、ね、小枝子様﹂
﹁え、はい?﹂
﹁皐月様と喧嘩ってなにしたんですかぁ?﹂
﹁え、あ⋮その﹂
小枝子が気まずそうに私を見る。私はまっすぐに視線を受け取って
微笑む。
﹁ああ、それは私も聞きたいわ﹂
﹁⋮⋮その、ひきませんか?﹂
﹁ん∼、小枝子様が皐月様にスカトロ行為を要求してたらひく﹂
﹁そ、そんなことしません!﹂
437
小枝子は悲鳴のように叫んで否定。
? すかとろって何かしら? でも二人とも分かってるみたいだし
⋮⋮聞きづらいわ。
皐月がいれば聞けるのに。使えないわねと思いながら私は先を促す
ことにする。
﹁で? 本当はなになの?﹂
﹁⋮キス、しました﹂
﹁⋮⋮それだけ?﹂
ヒロは呆れたように言う。私も正直同意見だ。赤い顔をして何事か
と思えば⋮⋮私は愛の形は様々だと思うから同性愛を否定するつも
りはないし、キスくらいなら海外では挨拶がわりだ。
﹁えと⋮その、舌を、いれてたりして⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
それは⋮挨拶、ではない。
﹁で、でもキスは普通に許してくれてたんですよ? その⋮少しは、
受け入れてくれてると思うじゃないですか﹂
﹁えっと、口と口?﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮﹂
よく分からないのだけど、つまり
﹁皐月が悪いわね﹂
﹁え?﹂
﹁だって、恋人なんでしょう?﹂
438
キスをする間柄なのにそれが一歩進んだだけで皐月の反応がオーバ
ーなのよ。
﹁⋮違います、私の片思いです﹂
﹁? キスしてるのに?﹂
ますます分からなくなってきた。え∼と、皐月と小枝子は日本人よ
ね? あら?
﹁えっと、私が無理矢理キスしたんですけど、皐月さんは抵抗しな
かったんです。だから⋮﹂
﹁だから許されたと思って強姦しようとしたわけ?﹂
﹁ち、ち違いますっ!! ⋮⋮それは、まぁ、したい、とは⋮思い
すけど﹂
真っ赤な顔で応える小枝子。にしても正直な⋮。
﹁まぁいいけど⋮とにかくそれで小枝子は皐月に距離をとられてる
のね﹂
今は紗理奈と仲良くなってるし。前なら確実に小枝子を誘ってたで
しょうに。
でも、つまり皐月は小枝子のこと恋愛感情でみてなかったのね⋮⋮
あれだけべったりだったのはどうしてかしら。
﹁⋮七海様?﹂
﹁え⋮? なに?﹂
﹁⋮⋮別に。何でもないです﹂
﹁? 小枝子、なにかヒロ変じゃない?﹂
439
前からよく拗ねてたけど、高校に入学して正式に淑女会に入ってか
ら⋮⋮ううん、皐月がきてから、ヒロは少し変わったわ。
﹁え、と⋮七海様が、笑ってたからじゃないですか?﹂
﹁え? 私、笑ってないわよ?﹂
﹁⋮⋮無自覚ですか﹂
﹁え? ヒロ、何か言った?﹂
﹁いいえ!﹂
﹁ふふ﹂
小枝子が脈絡なく笑い、何故か不機嫌なヒロが小枝子を睨む。
﹁何よ!﹂
﹁だって⋮ふふ、いえ、何でもありません﹂
何がおかしいのか全く分からないが、小枝子は強いなぁと思う。
私は恋ってよく分からないけど、好きな相手に拒絶されて笑ってら
れるんだから、強いと思う。
勿論本心かなんて私には分からないのだけど。
○
つい笑ってしまって弘美さんに睨まれたけど、最近は私も慣れてき
たからこの程度ではビクビクしない。
440
﹁何よ!﹂
﹁だって⋮ふふ﹂
きっと二人も皐月さんが好きだ。恋愛かは分からないけど、たぶん
絶対。
だって弘美さんは言うに及ばず独占したがってるし、七海様は⋮私
と皐月さんが喧嘩したと言って少し笑ってたから。
勿論無意識だろうけど、私と皐月さんが喧嘩したままなら仲直りさ
せるだろうと思う。
七海様は物言いは厳しかったりわがままなところもあるけど、噂通
りに清廉潔白な人だ。まっすぐで、だからこそ笑っていたのも性格
が悪いとは思わない。
だから笑ってしまった。全然気づいてないのがおかしくて。
﹁いえ、何でもありません﹂
でも教えてなんてあげない。
今は嫌われてしまったかも知れないけど、けどまた最初からはじめ
ればいい。
想っていたのは長くても、友達になれたのは最近だ。
それであれだけ仲良くなれたのなら、頑張ればまた皐月さんを振り
向かすことだってきっとできる。
だから内緒。
ライバルは、少ないほうがいい。
441
○
﹁はぁ⋮はぁ⋮﹂
﹁遅いよー﹂
やはりと言うか、かなり差がついて小島についた。
俺が小島に足をかけたころには紗理奈の体は乾いていた。
﹁う∼⋮疲れたぁ、はぁ﹂
﹁あはは、皐月は力が強いし今までの体育も負けてたけど、こりゃ
夏休みあけのプールでは勝ったね﹂
﹁はぁ⋮言ってろ。すぐに、追い越してやる﹂
紗理奈と並んで小島の端に座り、息をととのえながら言い返すと紗
理奈はにししと笑う。
黙ってりゃこいつだって美人なのに、こいつは悪巧みするように笑
うから年より幼いガキ大将にしか見えない。
﹁あはは、ま、君運動神経いいもんね。もうたぶん会長よりは早い
んじゃない﹂
﹁そうか?﹂
﹁うん﹂
﹁そうか⋮﹂
442
そう言われると嬉しいな。
﹁皐月ってさ﹂
﹁ん?﹂
﹁可愛いよね﹂
﹁⋮は?﹂
唐突だな。しかも、全く嬉しくないし。嫌がらせか?
﹁うん、可愛い。友達じゃなかったら襲うね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁大丈夫。友達は襲わないよ。皐月は友達友達ぃ!﹂
﹁ならわざわざ言うな。ひくから﹂
というか昨日あったこと分かって言ってんだから性格悪いだろお前。
﹁だって、言わなきゃ皐月無防備なんだもん。あたしは襲わないけ
ど、おんなじように無防備にしてると襲われるよ﹂
﹁⋮そりゃありがとう﹂
﹁あ、そんな流しちゃダメだよ。マジな話なんだし。一回犯された
んなら学習しなよ﹂
﹁⋮⋮んなこと言われても。だいたい、俺のどこが問題なわけ?﹂
﹁わかんないかな∼。皐月は男として生きてたんでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁だからこう⋮すれてないし、男女のに関して無防備なんだよ﹂
﹁俺の前には女しかいないんだが?﹂
﹁皐月は貧乳だけど、スタイル自体はいいよ。引き締まってるし﹂
無視か。
だいたいそれを言ったらお前のビキニのが刺激的なんだが。七海ほ
443
どでないが乳あるし。
それに俺に胸がないのはサラシで潰してたからで、もしかするとこ
れから成長するかも⋮⋮⋮成長したらもう男装できないじゃん。
あ∼⋮駄目だ俺。すっかり﹃女顔の男﹄から﹃男らしい女﹄になっ
てる。
﹁あと、やっぱり雰囲気かな﹂
﹁雰囲気?﹂
﹁そ、あのね、あたしとか分かる人には分かるんだぁ。皐月は不安
定なんだよ。男みたいだったり女らしかったり。その違いにぐっと
くる。それに⋮そのせいか皐月はたまに儚い印象受けたりするから、
普段のギャップで悩殺だね﹂
﹁⋮⋮⋮すまん、正直よく分からない﹂
男のふりして生きてたのに今は女でどっちつかずなのが駄目ってこ
とか?
﹁う∼ん、うまく説明できないや。とりあえずさ、どっちにするか
決めたら?﹂
﹁何をだよ﹂
﹁君が男なのか女なのか、だよ。勿論体は女だよ。分かるでしょ。
皐月がどう思ってるかだよ﹂
﹁⋮⋮分からない。前は男って言ったんだが⋮﹂
﹁うん。見てて分かるもん﹂
﹁⋮決めた方がいいか?﹂
﹁決めれないなら仕方ないけど、でもそれは、男にも女にも好かれ
るかも知れないってことだよ。だってどっちの性質もあるんだもん﹂
﹁⋮⋮﹂
俺が黙ってると紗理奈はふぅとオーバーにため息をつく。
444
﹁じゃあ聞き方を変えよう。男とセックスするか女とセックスする
かどっちがいい?﹂
﹁どっちもやだ﹂
﹁はぁ⋮一生恋愛しないつもり?﹂
﹁⋮⋮そんなこと、わかんない。だって、セックスとか恐いし。恋
とか、わかんない﹂
﹁ずるい答えだなぁ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁で? 皐月は小枝子のことどうしたいの? 好きな気持ちだけち
ゅうぶらりんになって、可哀想だと思わない? 友達としてあんな
べたべたしてさ、小枝子は皐月と違う好きなんだ。性欲込みなんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁また友達に戻って、都合よく友達でいてもらうの?﹂
﹁⋮⋮だって、小枝子が⋮﹂
小枝子が友達でいいって言った。
ていうか、なんでこんな話になったんだ?
俺は視線を海に落とす。
﹁こんな話、嫌だと思ってる? せっかく旅行らしく楽しくなった
のにって思ってる?﹂
﹁⋮⋮﹂
図星だから、何も言えなくなる。口をつぐむ俺に紗理奈はあははと
明るく笑う。
﹁でもダァメ。今言わなきゃ、皐月は問題後回しにして考えないで
しょ﹂
﹁⋮⋮⋮別に、紗理奈には関係ないだろ﹂
445
﹁へえ?﹂
う、な、何だよその目は。
﹁関係ない?﹂
﹁う⋮うるさいな﹂
﹁じゃあいいんだ? 皐月襲っても﹂
﹁え﹂
﹁とりゃ﹂
抱きつかれた。
﹁は、離せバカ!﹂
ふりほどくと不満そうに紗理奈が舌なめずりする。
その目はぞくりとするほど色っぽくて吐き気がする。
﹁いーじゃん、舐めるだけ﹂
﹁冗談じゃない。俺は唾液と精液が大嫌いなんだ﹂
﹁へえ⋮でも関係ないなら友達でもないし?﹂
﹁⋮分かった。分かったよ。もう言わないからそのえろそうな顔を
やめろ﹂
﹁ん、わかればよろしい﹂
あっさりにぱぁと見慣れたふやけ顔で笑う紗理奈。
く⋮ひっかけられてると分かってても従うしかない。
﹁で? どうなわけ?﹂
﹁⋮⋮⋮小枝子には、小枝子に決めてもらう﹂
﹁⋮⋮ずばり今のままじゃん﹂
446
﹁だ、だって⋮前にちゃんと断ってるし﹂
﹁はぁ⋮仕方ないか﹂
紗理奈は大きくため息をつく。
うう⋮だって、俺が悪いのか? そりゃ、キスを拒まないからああ
なったのは反省してるけど、これからも友達ってのは小枝子が望ん
だんじゃん。
﹁⋮⋮⋮はぁあ﹂
﹁な、何だよ﹂
紗理奈が青空に似合わない大げさなため息をつく。
そして俺の頭を撫でてくる。帽子がはずれないように俺は強く下に
帽子をひく。
﹁止めろ。帽子がとれる﹂
﹁いいじゃんとれば﹂
﹁⋮駄目﹂
﹁何で? ま、いいけど。にしても皐月は⋮﹂
﹁?﹂
﹁ほんっと、子供だねぇ﹂
﹁何だよ。お前と同い年だって﹂
﹁いやぁ? 精神年齢が、ね﹂
﹁失礼な!﹂
俺が怒ると紗理奈はからからと楽しそうに声をあげて笑う。
﹁あははは、いや、いやぁ、皐月はそのままでいいよ。可愛いもん。
ず∼っと子供でいてよ﹂
﹁なめるな。紗理奈なんか飛び越してすぅぐに大人になるんだから
447
な﹂
﹁無理無理﹂
紗理奈は俺の頭を遠慮なく撫でまわし︵あ、帽子とれた。まぁカツ
ラがとれなきゃ水に入るまではもういいや︶、宣言する。
﹁大丈夫。お姉さんが守ってあげるからさ﹂
﹁だから、同い年だっての!﹂
俺を何だと思ってるんだ。
448
遊びたおす夜
﹁ぷっはー! この一杯のために生きてます!﹂
﹁おっさんかよ﹂
紗理奈は相変わらずと言うか、ハイテンションだな。
晩飯の時間、朝と同じく隣は七海で何故か反対側の隣には弘美が設
置された。
﹁うるしゃ∼い。にゃはは、にしても皐月、もてもてだね﹂
﹁なんの監視かと聞きたい﹂
﹁え∼? 勿論、ライバルの監視だよね? ヒロ?﹂
﹁はぁ? 紗理奈様酔いすぎですよ﹂
つか、その冗談はあれか? 弘美を怒らせて俺に八つ当たりをさせ
るという遠回しな嫌がらせか?
もてもてって⋮こいつが俺に対して物的愛着以上の感情を持つわけ
ないだろうが。
つーか女同士だし。そんな物好きは小枝子くらいだ。
﹁酔ってないよぉん♪﹂
﹁酔っ払いはみんなそう言うんだよ﹂
﹁そうね⋮まぁ明日には紗理奈帰るんだし、いいんじゃない?﹂
﹁え!?﹂
予定は一週間って聞いてたぞ?
﹁ん、ああ、帰るのはあたしだけだよ。明日の夜の便でスペインに
行くから﹂
449
﹁そ、そうなのか?﹂
さらりと言うが、聞いてないぞ。うぬぅ⋮何だよ。
﹁うん、あたしがいなくて寂しいだろうけど我慢してね。抱きマク
ラをあたしにみたててもいいよ﹂
﹁しねぇよ﹂
ほんとはちょっと寂しいなとは思わないでもない⋮が、昼間のお姉
さんぶった態度が気にくわないのでそんなことは言わない。
﹁またまたぁ、お姉さんがいないと寂しくて夜泣きするくせに﹂
﹁だからしないっての!﹂
この態度腹立つわぁ。
﹁ま、今日は目一杯遊ぼうよ。合宿っぽく枕投げとか人生ゲームと
かトランプとかしようよ﹂
﹁ん、いいなそれ﹂
態度は腹立つが、うん、遊ぶのはいい。
紗理奈と遊ぶのは、楽しい。
○
450
﹁ん∼⋮こっち﹂
﹁ぶっぶー! はずれぇ!﹂
﹁ちょっ、ばらすなよ弘美﹂
俺は弘美から譲り受けたジョーカーをぐるぐると数枚の手札の中で
まわす。
よし、こんなもんか。
そして扇にひろげて紗理奈に向ける。
﹁ねぇ皐月、ジョーカーはこれ?﹂
﹁⋮⋮あ、ああ、うん﹂
紗理奈はにんまりと笑いながら聞いてきた。戸惑いながら相槌をう
つがジョーカーじゃない。
いくら何でもジョーカーの所在は明かせないぜ。
﹁皐月、10持ってる?﹂
﹁ううん﹂
﹁今あたしがつかんでるの、ずばりそう?﹂
﹁いいえ違います﹂
﹁じゃあこれ﹂
はい、あなたがつかんでたのはハートの10です。
ていうか何の心理戦だ。俺は何て答えれば紗理奈を騙せたんだ。⋮
⋮こいつは詐欺師にも騙されなさそーだな。
﹁あーがり﹂
451
紗理奈はにっこり笑ってトランプを二枚揃いのトランプを床に落と
す。
くそ∼。こいつ、運良すぎじゃね?
現在、ババヌキ5戦目で、紗理奈は5連続トップだ。
紗理奈以外は順番に勝ったり負けたりだが、紗理奈は何故か一番だ。
ズルとかじゃないよな?
﹁おやおや皐月君、なにかなその目は?﹂
﹁⋮ズルしてないだろうな﹂
﹁え? してるよ?﹂
﹁そうか⋮⋮⋮あ? え?﹂
ズルしてんのかよ!?
﹁ちょ、ええ!?﹂
﹁皐月様うるさい﹂
﹁いやうるさいてお前⋮⋮七海様は、いいんですか?﹂
﹁いいじゃないかしら、別に。賭けてるわけじゃないし遊びなんだ
から﹂
﹁それにぃ、見抜けないんだし仕方ないじゃん﹂
﹁そんなバカな⋮﹂
しれっとした七海に何がおかしいのか笑いながら俺のわきばらをこ
づく弘美。
﹁納得いかねー﹂
﹁ちなみに賭けてたら会長とヒロは、何としてもあたしがインチキ
できないようにプロだって呼ぶよ﹂
452
つまり、俺が甘いと言いたいのか。
俺はみんなでトランプを始める前に、紗理奈とだけ賭けをしていた。
一つ言うことをきくと言うたわいないものだが⋮デキレースでは納
得できないぞ。
﹁⋮なぁ﹂
﹁なに?﹂
﹁さっきの賭け、無効だよな?﹂
﹁え? 本気で言ってるの?﹂
﹁⋮ですよね﹂
納得できないからって覆えらないんだよな。
うわー⋮諦めろ俺。
﹁? お二人で何か賭けてたんですか?﹂
﹁ん、紗理奈の命令聞かなきゃならないんだ。あー、よし、あと2
枚だ﹂
一周して弘美から回ってきたのでペアができてあと2枚。次に七海
が俺からカードを引く。
ぐ、ババが残ったか。
﹁あなた、それババね﹂
﹁⋮だから言うなって﹂
﹁あ、あがりです﹂
小枝子があがる。弘美の手札は一枚で、順番的に俺が引く。くそぅ
⋮。
453
俺は床に2枚のトランプを置いてどっちがどっちか分からないよう
に何度も入れ替える。
﹁よし、どうぞ﹂
﹁じゃあ右をとってちょうだいな﹂
俺は右のトランプを持ち上げ︱よし、ジョーカーだ。これで次に俺
が七海から︱
﹁そっちじゃないわ。私から見て右だからあなたからは左よ﹂
﹁⋮え﹂
﹁皐月さぁ、そこで笑っちゃ駄目でしょ﹂
﹁⋮⋮﹂
こいつ、俺の顔からどっちでも言い直せるように俺にめくらせたな。
性格悪いって。
﹁七海様⋮ズルいっすよ﹂
﹁勝負の世界は非情なのよ﹂
﹁遊びじゃないんですか?﹂
﹁いついかなる時も真剣勝負。私は手を抜くなんてしないわ﹂
﹁ワー、カッコイイー﹂
﹁もっと真面目に褒めなさい﹂
﹁真面目なら褒めません﹂
片言なんだから嫌味と気づけ。
454
○
﹁ふわぁ﹂
﹁お、弘美はもうお眠か?﹂
腐ってもお嬢様な弘美は手で欠伸を覆う。からかうように言うとき
っと睨まれたが、互いに本気ではないので睨み顔だろうが可愛いく
らいだ︵顔だけはいいからな︶。
﹁は? ざけんじゃないわよ。ただ、まぁ⋮夜更かしは美容に悪い
から部屋に帰るわ﹂
﹁そうね。私も少しやることがあるから、今日はこれでおひらきに
しましょうか﹂
七海がそう言いながら立ち上がり弘美も立ち上がる。
おい、このちらかったトランプとかジェンガとか人生ゲームとかは
誰が片付けるんだ。
﹁まぁまぁ皐月、あたし手伝うしさ﹂
﹁う⋮顔に出てたか?﹂
部屋から出る二人をうらめしそうに見ていたら紗理奈に肩をたたか
れ、ちょっと恥ずかしい。
小枝子も笑顔でジェンガに手を伸ばす。
455
﹁皐月さんは正直な方ですから。私、ジェンガやりますね﹂
﹁ああ、頼︱﹂
﹁小枝子は先にお風呂入ってきなよ﹂
﹁え?﹂
﹁だってここのお風呂は無理矢理入っても4人が限度だし、順番に
入ってくれないと。今日はもう11時だしなおさらだよ﹂
﹁⋮でも、少しでも皐月さんといたいです﹂
⋮⋮う、ん⋮なんだろう。なんか、変な感じ。俺は⋮こんな小枝子
にどう反応してやればいいんだろう。
何を感じてるのかも自分でもよく分からない。
昨日までなら普通に、可愛いなぁそんなに好かれてるなんて嬉しい
なぁ。って思ってたはずなのに。⋮⋮自分で自分がよくわからない。
﹁駄目ぇ、昨日二人が喧嘩したせいであたしは冷めたお風呂に入っ
たんだからね﹂
﹁⋮ぅう、わかりましたよ﹂
名残惜しそうに部屋から出る小枝子に俺は﹃お休みなさい﹄と挨拶
をした。
﹁はい、お休みなさい、皐月さん!﹂
小枝子は嬉しそうに俺に笑顔をふりまいて部屋から出ていった。
⋮なんだか、苦しいな。普通に接するって言っても、距離感が分か
らなくなっちゃった。
﹁さて、片付けよ。さっさとやってお風呂入りたいし﹂
﹁ああ﹂
456
俺はジェンガを集めて適当に箱につめる。人生ゲームは札も駒もぶ
っこんで折りたたんだボードをいれて蓋をする。
紗理奈も表裏を無視してトランプをまとめてケースにしまう。
ちなみにこれらはダイニングの端にある棚に入れてあったやつだ。
七海の別荘と言えば書庫はあるかも知れないが純粋な避暑地と言う
気がして遊ぶものはないと勝手に思ってたが、ダイニングの棚には
玩具が一杯だし、ビリヤードとか卓球とかダーツとか色々あるプレ
イルームもあるらしい。
﹁あ⋮と、皐月﹂
﹁ん?﹂
キッチンに回って︵ダイニングの隣でくっついてる︶冷蔵庫に手を
かけながら紗理奈に振り返る。
紗理奈はまさに部屋を出ながら思い出したように俺を見て言う。
﹁さっきの賭けだけど、あたし明日帰るしもうちょっと付き合って
よ。後でプレイルームね﹂
﹁ん、分かった﹂
まぁ、それくらいならいいか。俺はまだいるわけだしちょっと夜更
かししたっていいだろ。
しかし紗理奈⋮元気だな。
○
457
トス︱
トストストストストス︱︱
カンッ
﹁⋮⋮遅い﹂
苛立ちを誤魔化すように俺は最後に的に当たらずに落ちた矢を拾う。
ダーツを投げ始めて、何度目だったか元々投射は得意だから簡単で、
飽きたんだがあんまり遊ぶと紗理奈とやって楽しくないからダーツ
を投げ続けてる。
ささってる矢を抜いて箱に片付ける。
つか今何時だよ。時計を見⋮⋮⋮⋮⋮⋮︵紗理奈と別れてからすぐ
に来たんだが︶すでに一時間ほど経過してる。
え? かなり待ってるじゃん。つか俺、忍耐力ありすぎじゃない?
あいつ、約束忘れてんじゃないだろうなぁ。
携帯電話は充電きれたから部屋に置いてきたし⋮一旦戻ろうかな。
つか紗理奈、いくらなんでも遅すぎじゃね?
そう考えてるとガチャと音をたててドアが開いた。
﹁あれ、もう来てたの?﹂
458
紗理奈の言葉にあのなぁと俺はため息をつく。
﹁後でって言︱﹂
﹁ていうか、服変わってないじゃん。昼は水着だったとは言えお風
呂入ったら着替えなよ﹂
﹁⋮え?﹂
﹁ん?﹂
さっきより動きやすそうな服をきてる紗理奈は首にタオルをかけて
いて、その髪は光の反射とかでなくしけって見える。
﹁⋮風呂上がり?﹂
﹁だから後でって言ったじゃん。お風呂入らなきゃなんのためなの
さ﹂
﹁⋮だ、って⋮う、う∼ん﹂
あ∼⋮でも確かに、言われて見れば俺の気がきかなかったのか。紗
理奈、お風呂に入りたがってたし。
で、でも卓球とかしたら汗かくから後かと思ったんだよぉ。
後でってのはほら⋮なに? 休憩、みたいな?
まぁ、いいんだけどさ。風呂なんて後で入れば。
﹁いいや。とにかく、遊ぼうぜ﹂
﹁ん、だね。とりあえず、ダーツでも﹂
﹁却下﹂
459
ピンポイントかよ。
とにかく卓球をすることにした。
○
カン︱
コン︱
カコン︱
始めこそ小気味よい音を鳴らしながら会話と共にラリーを続けてい
たが、徐々に早さが上がり本気になってくる。
﹁皐月!﹂
﹁何だ!?﹂
﹁結局!﹂
回転のかかった玉をまっすぐに打ち返す。
﹁誰が!﹂
それを難なく打ち返される。
うぬ。単純な力勝負なら負けない自信はあるが、さすがにうまいな。
460
﹁好きなわけ!?﹂
﹁んなっ!?﹂
カーン
打とうとした瞬間問われた内容に気をとられ玉は俺の後ろの壁に当
たった。
﹁な、だ、誰って誰の誰が誰なんだよ﹂
﹁え∼? 小枝子とヒロと会長の誰が本命なわけ?﹂
﹁⋮誰も違うって﹂
こいつまだ昼間の話題を引きずるのかよ。
まぁ⋮⋮男と結ばれるのだけはありえないから、そりゃ女と結婚す
る予定だが、それは世間体のためなんだからな。
だから俺のこと別に普通に好きで金目あてで俺と婚姻してくれる女
がいれば一番いいな。
﹁はぁ、レイプされたからってもったいないなぁ。セックスってい
いものだよ? 気持良いし、ストレス発散にもなるし﹂
﹁価値観を押し付けるな﹂
﹁いや、性的行為は誰だって気持良いって。だからみんなオナニー
するんだし﹂
﹁お、おにゃにぃ⋮﹂
﹁オナニー﹂
﹁お、おお何度も言うなバカ! お前マジで女かよ﹂
意味くらい知ってるが⋮男はともかく、女もするのかよ。
﹁皐月、女に幻想みすぎじゃない? 皐月が男のふりして男同士で
バカしてる間に、女はエロイこと学んでたんだから﹂
461
﹁聞ーきーたーくーなーいぃ!﹂
﹁ていうか、男として生きてたならこのくらいのエロ話してたんじ
ゃない?﹂
﹁女はっ、女は清いと信じていたのに⋮﹂
確かにエロ話はよく聞いたが、女はそんな話してないじゃん! 男
は見るからに盛ってたけど女はそんなことなかったじゃん!
﹁皐月、中学生男子みたい。あ、勿論童貞のね﹂
﹁∼⋮⋮うう、お前なんか、お前なんかお嬢様じゃないやい﹂
こんなやつが小枝子たちと同類、というか紗理奈とか二人もいらん
! 一人で十分すぎて釣がくるし!
﹁とりあえず卓球はあたしが勝ちだしぃ、次は麻雀でもする?﹂
﹁ルール知らないし﹂
ポンジャンなら昔やったけど、別物だよな。
あと卓球はズルだろ。だいたいさりげなく話をなかったことにする
なよ。
まぁ、続けたくないからいいんだけどさ。
○
462
﹁だいたいいつもは3人くらいなんだけどさぁ、今は一人もいない
んだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月と遊んでるせいだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月と遊ぶのが楽しいのが原因なわけ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁責任とってくれるわけ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁聞いてる?﹂
﹁⋮⋮聞いてるけど、何の話か分からないぞ﹂
なんとなぁく、今までの流れから分かるような気はするが⋮。
﹁ん? あたしの恋人が今いないって話に決まってんじゃん。話の
出だしが﹃最近いっつも一人で寝るんだよね﹄からなんだから分か
るでしょ﹂
俺と格ゲー対戦をやりながら︵これも意外だがあった。最新のゲー
ム機もあったし何でもありか︶あっさり答える紗理奈。
﹁普通恋人は3人もいない﹂
﹁あ、大丈夫。いつだって平等に愛してあげるから﹂
﹁そんな問題じゃないだろ﹂
責任とかとれないし。だいたい俺と遊ぶのが楽しいって別に俺のせ
いじゃないだろ。
ていうか⋮何でさっきからそれ系の話ばっかふるんだよ。
463
﹁あ﹂
ぐはぁああー
大型画面の中で俺の操作するキャラクターが血を吐きながら倒れる。
﹁やったぁ、勝ちぃ!﹂
さっきから集中できない。
パズルゲームも全部、対戦しても負け続けてる。
﹁⋮紗理奈、さっきから何なんだよ﹂
﹁ん? ああ、ここだけの話だけどあたし、皐月がまともに恋愛で
きるように耐性つけようと思ってるんだよね﹂
﹁なぬ?﹂
﹁これから会長たちの目をぬすんで猥談とかセクハラとかするんで
よろしく﹂
﹁よろしく、じゃねぇよ﹂
もの凄く余計なお世話だ。
しかもセクハラはお前がやりたいだけだろ。
﹁んじゃ次は⋮﹂
﹁ふわぁ⋮ふぃ⋮なぁ、今何時だ?﹂
何か眠くなってきた。
時計を見ると、うげ。もう2時かよ。
普段は12時には寝てるだけに時間を知ると余計に眠く感じる。
﹁ふわぁあ﹂
464
﹁⋮じゃあ、もう寝る?﹂
﹁ん⋮悪いな﹂
﹁いいよ。あたしは明日の帰りに寝ようと思ってたけど、皐月は明
日もみんなと遊ぶもんね﹂
﹁うん。ふわぁ﹂
﹁お風呂入りに行きなよ。片付けはあたしがやっとくから。お休み、
皐月﹂
﹁ん。ありがとう。さっきの気付かいは余計だけど、また遊ぼうな﹂
﹁駄目駄目。絶対いつか皐月をエロエロにするんだから﹂
﹁ならないから﹂
﹁そんで、幸せになってもらうんだ﹂
﹁⋮⋮お前は﹂
﹁ん?﹂
﹁俺の母親かよ﹂
﹁あはは、お姉さん、くらいにしといてよ﹂
軽口を言う紗理奈。
トラウマの解消なんてありがた迷惑だけど、いらないお節介だけど、
けどさらりと言った最後の言葉︱幸せになってほしい、なんて、本
気の顔で言うから、俺は許してしまう。
聞くだけで嫌気がする単語を並べられても、紗理奈にはかなわない
と思ってしまう。
真剣なくせに、すぐに笑う紗理奈だから、きっとこれからも許して
しまう。
だって俺のほうこそ、その笑顔に許されたんだから。
﹁だから、同い年だっての﹂
調子にのるだろうから口にはしないけど、な。
465
466
持ち上げられなかったらしい︵前書き︶
段々作者にもどうなるかわからなくなってきた今日このごろです。
一応結末まで考えたので目指して頑張ります。
467
持ち上げられなかったらしい
﹁ふに∼⋮﹂
海とは違い気のぬける熱めのお湯につかり俺はため息ともつかない
間抜けな声をもらす。
先に入らなかったから確かにお湯は冷めていたが温めなおせば同じ
だ。温めてる間に体と頭は念入りに洗っておいた。
疲れがどっと抜けていくようで落ち着く。
﹁はふ∼﹂
またも口からもれる声を他人事のように耳にしながら外を見る。
大きめな窓がついていて、ボタン一つで曇りガラスになったり普通
になったり開いたりする。
どうせ外には誰もいないので今は普通ガラスだから外の景色がはっ
きり見えてちょっと露天風呂気分だ。
﹁ふぃ⋮⋮ん、そうだ﹂
露天気分を味わう良い方法を思いついた。
俺はいそいそと頭上の電気を消して真っ暗にし、明るい月明かりの
中で手探りで窓を開ける操作をする。
﹁⋮ぁ﹂
普通ならぬるめだが熱いお湯につかってるので風が冷たく感じて気
持良い。
468
目が慣れてきたらますます月の明るさが分かる。満月ではないが浴
室いっぱいを照らすには十分で、気分はいい。
﹁むふふ⋮﹂
思わず怪しい笑いがもれる。
酒を飲んでもいないのにテンションが高いのに自分で驚くが、たぶ
ん眠いからだ。
﹁⋮⋮﹂
⋮はあぁ、いいなぁ⋮。
むにゃ、眠⋮。もうでなきゃ。でもなぁ⋮ああやばいって⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮はっ、うわ寝てた。やばいやばい。
俺は頭をふってとりあえず眠気を頭の角に追いやりながら湯から立
ち上がる。
ちょっとくらくらする。
眠気か湯中り︵ゆあたり︶かは分からないが転ばないようにしない
と。
俺は慎重に湯船から出︱
パッ︱
469
え?
突然電気がついた。俺はびっくりしてとっさに足を下ろす動作を止
める。
ガラ︱
ドアが開いた。
﹁あら?﹂
﹁あ、え? ええっ?﹂
そこには全裸の七海がいた。
いやここは風呂場でだから服を着てるほうがおかしいし俺だって裸
なんだがでもちょっと待てなんで入ってくんだよつーかもう夜も遅
い時間なのにわざわざカブるってどんな状況だよ。
﹁入ってたならどうして電気消してたのよ? まぁいいけれど﹂
頭ん中ぐちゃぐちゃに混乱して固まっている俺に反して、七海はい
たって普段通りの動きでドアを閉めた。
い、いやいやいやよくないよいやいいのか!? こいつにしたら同
性だし恥ずかしさ0なのかしかし俺には無理ですマジでハズイです
だからって女のコのように恥じらい隠すなんてのがむしろ無理だし
ここは当初の予定通り撤退するのだ!
﹁そ、そそれじゃあ俺はもうあが︱
470
急いでタイルにおろした俺の足は思いっきり滑った。
︱るうっ!?﹂
バランスを失った俺は背後の壁に思いっきり頭をぶつけて、その痛
みを感じるか感じないかと言うあたりで意識がなくなった。
○
﹁もうあが、るうっ!?﹂
間抜けな声をあげて私が手を出す間もなく皐月は盛大に風呂場の縁
か壁あたりに頭をぶつけた。
﹁皐月!?﹂
冷静沈着をモットーにしてる私と言えど、さすがに慌ててお湯に沈
んでいく皐月の腕をひっぱり起こす。
ぐったりとしているが、血はでていない。コブにはなるだろうが息
もしているし命に別状はなさそうで私は安堵の息をはく。
﹁全く、何を慌てていたのよ﹂
471
答えが返らないのは分かっていたがついそう言ってしまう。
そう言えば以前に入浴した時も一人だけ水着をしていた。しかし恥
ずかしいと言ったって今までにもそんな機会はあっただろう。
銭湯などの共同浴場は日本では珍しくないし、そもそも修学旅行な
どのイベントでは⋮⋮そういえば男として生活していたらしいから、
裸を見せる経験がなかったのかしら。
とりあえず皐月は湯船につけておく。何故か開いている窓を閉めて、
私は体を洗い頭を洗いしっかりとケアする。
長い毛先の先々も、足の指の間も爪も無駄毛までチェックする。
よし、これで大丈夫だわ。こうした日々の努力により私の美貌は保
たれている。
さてと、そうしてからようやく私はお湯につかる。
やはり気持が良い。私は母方の血から金髪だけど、やはり心は日本
人ということだろうか。
にしても⋮。
ふと、同じ浴槽内に座らせてる皐月を見る。
確かに胸は全くないが、肌は綺麗だ。それにその顔は案外整ってい
る。
夏休みになってからはそばかすはなかったし、昨日は眼鏡もなかっ
たが改まって見なかった。
しかしそばかすメイクと分厚い眼鏡のない素顔は思ったより可愛い
顔をしている。
472
﹁って、当たり前よね﹂
だって一度チラリと見た写真でも皐月君とそっくりだったのだから
不細工なはずがない︵その時は同一人物では?と言う疑惑で頭がい
っぱいでそこまで頭がまわらなかった︶。
﹁⋮⋮﹂
ぴちゃ︱
腕をあげると静かな浴槽に水が跳ねる音が響いてて、何だかいけな
いことをしてる気がしてドキドキする。
そっと、頬に手をあてる。すべすべした頬。
ちょっと引っ張ると皐月はむにゃと声をもらす。
﹁ふふふ⋮﹂
そういえば皐月君には最近会ってないわね。彼は元気かしら。自分
と似た顔があるってどんな感じなのかしら。
﹁⋮⋮﹂
本当に、そっくり。
私は皐月に近寄り隣合って座る。
﹁⋮∼∼﹂
何だか落ち着かなくなってきた。隣にいるのは皐月なのに。顔ばか
り見ていたからだ。
473
胸を見れば⋮⋮⋮駄目だわ。平らだもの。
ああ、そういえば皐月は女でも男として生きてきたんだから、こん
な感じなのだろうか。
ちらと横目で皐月を伺う。目は閉じられたままだ。
⋮⋮⋮大丈夫かしら?
少しばかり心配になってきた。というか、顔が赤い。
あ⋮
湯中り、かしら?
私より前から入ってたのだし、出ようとしたってことは体を洗った
りは済ませて湯につかっていたのだろうし⋮。
ならば心配するほどではないが、お風呂から出ることにする。私と
してはもう少し入っていたいが、仕方ない。
皐月に服を着せて寝かせなければならない。
○
474
﹁⋮ん⋮あ? ⋮あああ!?﹂
目を開けると七海が大きく映っていた。驚きに声をあげて起き上が
ろうとすると何故か体のあちこちが痛んだ。
﹁お⋮ぉぉお?﹂
﹁⋮なにやってるのよ﹂
俺が唸ってると呆れた声がして七海は俺から顔を離す。
﹁う、うぅ、なんか体が痛いんすよぉ﹂
﹁⋮⋮まぁ、あれよ。あなたを介抱するためにここまで連れてきて
あげたのよ?﹂
﹁あ、あー? ⋮っ!!!﹂
お、おわわわわわあぁ!!
are
we
now?﹂
おお思い出したぁ! 風呂場でこけて⋮っ! ここ⋮どこ?
﹁?﹂
﹁うぇ、Where
﹁どうして英語なのよ⋮私の部屋よ。お風呂場から一番近かったか
ら﹂
﹁そ、そう⋮てか俺の着替えっ⋮∼∼﹂
こいつしかいないじゃん!
あ∼あ∼あ∼! やばいって! 裸見られた! お婿にいけないわ
! ってんな問題じゃないし!
﹁く、くあぅ∼﹂
﹁何を悶えてるのよ。シーツが乱れるから起きたなら戻りな⋮⋮動
475
けるかしら?﹂
﹁無理だから! 色んな意味でアウトだから!﹂
﹁声が大きいわよ。防音だけど、私に迷惑でしょうが﹂
﹁う∼、う∼っ﹂
は、恥ずかしい!
この上なく恥ずかしい!
﹁う、うう⋮あ、ありがとうございましたぁ﹂
けど着替えさせてくれたしお礼は言う。倒れた俺を世話してここま
で連れてきてくれたんだも⋮⋮連れて?
﹁⋮体が痛いのって⋮?﹂
﹁私が足をつかんで引きずってきたからか、湯中りのどちらかね﹂
﹁後者なわけあるかっ﹂
礼を言って損した。いやまぁ、介抱はしてくれたかも知れないが、
服まで着せてくれたなら放置しても良かったし。
そう言うと七海ははぁ?と疑問符を浮かべ、
﹁そんなことしてもしあなたが風邪をひいたらどうするのよ? 夏
場でも油断は禁物よ﹂
と言った。
真顔なだけに、ずぅんと心にきた。
こいつ⋮いいやつだなぁ。そうだよ。こいつのちょっとナルシスト
で横暴なのは天然だし、ひねてるわけじゃないんだよ。
真面目だからやたら怒られてるけど、優しいやつなんだ。前もご飯
476
持ってきてくれたりしたしな。
﹁七海⋮⋮へへ、ありがとうございます﹂
にやける。
うん、そういうとこは、
﹁大好きですよ﹂
優しい人は好き。七海の打算のない態度は、好き。
だからいつも怒られてバカにされても俺は七海を嫌いにならない。
いつも大真面目だから、そんなバカみたいに真っ直ぐなとこは嫌い
じゃない。
むしろ、俺みたいに汚れて曲がったやつにはまぶしいくらいだ。な
んて、絶対口にはしないけど。
﹁は。⋮ふん、いきなり、何を言うのよ。もう寝るわよ﹂
照れたのを見られたくないらしく七海はさっさと電気を消した。け
ど俺にはしっかり、七海の赤い可愛い顔が見えた後だった。
﹁でも、俺もここでいいんですか?﹂
そりゃ痛いけど、叫ぶほどじゃないし帰れるぞ。明日にはたぶん治
ってるだろうし。
﹁いいわよ別に。痛いんなら仕方ないしね。でもクーラーはつけて
ても暑いだろうからくっつくのは不許可よ﹂
﹁わかりました﹂
477
ベッドは大きくダブルベッドちょい︵どの部屋も同じ︶だから離れ
ても余裕だ。
俺は大きく息をする。洗濯したてのようなシーツは、俺を安心させ
るのに十分だった。
○
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月﹂
﹁⋮⋮くぅ﹂
寝るの早っ!
何なのかしらこの子は。⋮⋮なんかムカつくわね。
またほっぺたを引っ張ってやろうかとも思ったが、あまりに大人気
ないのでやめにした。
私に比べたら皐月は子供もいいところだ。犬と同じとさすがに本気
で思ってはいないけど、扱いはそのくらいでいい。
﹁⋮⋮お休みなさい、皐月﹂
478
人が側にいると言うのは、思ったよりいいものかも知れないわ。
私は寝ぼけ頭でそう考えた。必要以上に接触するのは考えものだが、
この程度ならいいだろう、と。
479
頼りにしてるよ紗理奈さん
﹁⋮⋮ん、んあぁ⋮﹂
朝か⋮う、なんか眠い⋮時間は⋮⋮あれ、携帯電話は⋮?
﹁∼⋮ん⋮﹂
﹁⋮⋮え﹂
隣になんかいた。
ていうか、七海だ。
﹁⋮あ﹂
そうだ。昨日介抱されたんだった。つか、一瞬真面目にびっくりし
た。
隣に金色が寝てんだもん。
欠伸をしながらベッドから出る。まだ朝食まで時間あるし⋮どうし
よう。昨日、一昨日とトレーニングを何もしてないしな。
今までもたまに寝坊したことはあるが時間ある時にちゃんとやって
たのだ。こればかりは女になろうと止めない。
ズル︱ぱさっ
⋮⋮カツラがとれた。
そういや昨日髪をふいてもらってたんだよな。⋮よく無事だったな
俺。しかも引きずられて⋮。
480
もしバレてたらと思うと血の気がひくぜ。特に七海は崎山皐月を知
ってるんだからな。
いそいそとカツラを装着し、鏡でチェック。うん、オッケー。
﹁⋮んぅ⋮﹂
﹁!﹂
﹁んんんっ⋮⋮ふ、あぁ⋮んぅ⋮皐、月? もう起きているの?﹂
﹁は、はいっ。目が覚めたもんですから﹂
眠たげに目をこすりながら上体をおこす七海に、俺はカツラごと頭
皮を押さえながらゆっくり振り向く。
バレてないよな?
﹁そう⋮まだ6時じゃない。休みなのだからまた寝ていいわよ﹂
﹁七海、様は?﹂
﹁私は⋮一時間ほど寝るわ。昨日は遅かったから﹂
﹁そういや⋮紗理奈と遊び終わった後なのにまだ起きてたんすもん
ね﹂
﹁紗理奈? ああ⋮あれからまだ遊んでたの? だからあんな時間
にお風呂に⋮﹂
﹁七海様はどうしてあんな時間に?﹂
﹁ん? ちょっと、ね。起きるなら早く出ていきなさい﹂
﹁はーい﹂
ま、バレてないなら何でもいいや。俺はさっさと部屋を出た。振り
替えれば良かった、と、後悔することになるなんて思わなかった。
481
○
﹁⋮ん⋮﹂
皐月が出て行ったので私はまた寝た。
クーラーは適度にきいていて丁度いい。気持よくパッと起きるのも
いいが、休みが続くとやはりたまにはだらだらしたくなる。
それは私だって例外ではない。
皐月がいたので端に寄っていた枕を真ん中に置き直し、私はうとう
とする。
そんなことをしていてふと目が覚めると7時になっていた。
そろそろ起きようかしら。
朝食は9時から10時だが、朝にシャワーでもあびて支度をすれば
すぐだ。
﹁⋮ん?﹂
ベッドに毛が落ちている。
つまみあげる。
短い⋮茶色の毛だ。紗理奈たちの色ではないし第一皐月以外に私の
部屋に入ったのはメイドだけだが、二人とも黒髪だ。
482
﹁⋮⋮?﹂
⋮⋮えっと? どういうことなのかしら? 私の金の一部にしても
おかしいし短い。
私の髪は長いから、こんな10センチ弱の毛は明らかにおかしい。
﹁⋮⋮﹂
皐月は黒髪だし⋮。誰?
何だか気持悪くなってきた。濃さが違うが茶髪だし紗理奈の髪と言
うことにしておこうか。
﹁⋮駄目だわ﹂
もし誰かが侵入してるならはっきりさせねばならない。
譲り受けたと言えここは私のものだ。ましてや客人がいるのだから
不確定要素などあってはならない。
私は慎重にハンカチに髪の毛をのせて包んだ。
○
﹁⋮⋮﹂
﹁会長? 何か元気ないですよ?﹂
483
﹁え⋮ああ、そうかしら?﹂
﹁はい﹂
今日はどうするか話しているなかで黙々と朝食を食べていた七海に
紗理奈が俺たちを代表して声をかける。
﹁そう⋮実は、見つからないのよ﹂
﹁会長、何か無くしたんですか?﹂
﹁それならヒロたちも手伝いますよ﹂
あからさまに覇気のない様子に俺も頷くが、七海は首を横にふる。
﹁違うわ⋮調べたんだけど、誰も、私たち以外にここにいないのよ﹂
﹁は? そんなの当たりま⋮⋮ままま、さか、誰か、いたんですか
?﹂
どもりながら何故か真っ青になる弘美。
何だ? 泥棒か? ん? でもいないんなら普通だろ。ここ、七海
の敷地内なんだし。
﹁え、もしかして幽霊とか?﹂
楽しそうに問いかける紗理奈にえ、と小枝子は不安そうな顔をする。
﹁ばば、バカじゃないの紗理奈様! ゆゆゆ幽霊なんて⋮い、いな
いんだから!﹂
ばん!と机を叩く弘美。
つかお前⋮それでそんな真っ青なのか。幽霊が駄目なんて、ずいぶ
ん可愛い弱点だな。
484
ひねた俺には、幽霊より生身の人間の方が恐いくらいだし、そんな
ことを怖がるなんて普通の女のコっぽいな。
﹁違うから落ち着きなさいヒロ。ここに幽霊なんていないわ﹂
﹁そ、そうですよね﹂
あからさまにほっとする弘美。うわーなんか凄くきもだめしがやり
たくなってきた。
七海の話が終わったら提案しようかな、なんて考えていると七海は
ポケットからハンカチを取り出した。
﹁これを見なさい﹂
そのハンカチを広げると一本の毛があった。⋮⋮これがどうしたん
だ?
﹁これって⋮﹂
俺は首を傾げたが紗理奈と弘美は分かったらしく神妙な顔つきにな
る。
助けを求めて小枝子を見ると、なんかすごい微妙な顔をしてる。え
? なにその顔?
何かを伝えようと小枝子は口をパクパクさせるが全く分からない。
﹁小枝子? この毛に心当たりがあるのかしら?﹂
﹁いえ! まさか!﹂
ん∼? いや、普通にこのメンツなら俺じゃないか?
茶髪は俺と紗理奈だけだし、紗理奈は俺より濃い。
485
﹁これ⋮私のベッドに落ちていたの。この別荘に、当てはまる人が
いないのは分かるわよね?﹂
﹁え?﹂
﹁何よ皐月、心当たりが、あるの?﹂
﹁あるもなにもお︱﹂
﹁ふ、不思議ですよね!﹂
あるもなにも俺のじゃん。昨日寝たし。と言おうとしたら小枝子に
思いっきりさえぎられた。
﹁皐月さんも私も弘美さんも黒ですし七海様は金髪、紗理奈さんと
も色合いが違いますもんね!﹂
﹁⋮⋮ああ!﹂
俺、今黒だ!
そうかそうかそうかぁ!
だからかあーあー⋮3人の態度も小枝子の表情にも納得だ。俺の髪
の色が茶色と知ってるのは小枝子だけだ。
﹁皐月様⋮今頃気付いたわけ?﹂
﹁鈍すぎよ﹂
﹁ほんっと、皐月は鈍いよね。あらゆることに﹂
﹁紗理奈、言い過ぎだろ。なんだあらゆることにって﹂
とりあえず気付かなかったことにはするが紗理奈のいいぐさにはム
カつく。
どこがだよ。俺、普段は鋭いだろ? 剃刀並と言ってもいいぜ。い
やむしろ出刃包丁だ。
﹁え∼、言ってほしいわけ? にやにや﹂
486
﹁口でにやにや言うな﹂
何処ぞの悪代官並のにやり顔しやがって。てか、こんなやつでも猫
被りしてりゃ白雪の王子様だしな︵それ以外にも色々異名がある。
勿論七海たちにも︶。
﹁とにかく、この髪の持ち主を探すわよ﹂
﹁はい﹂
﹁了解です隊長﹂
﹁⋮が、頑張ります﹂
七海が気を取り直してそう言うと弘美は真面目に返事をし、紗理奈
はふざけて敬礼し、小枝子は俺をちらちら見ながら返事をした。
つーか⋮⋮どうすればいいんだ? いやマジで。こんなもん⋮探し
たってただの無駄足になるし⋮。
﹁皐月? あなたちゃんと聞いていたのかしら?﹂
﹁え⋮あ、はい。聞いてます聞いてます﹂
﹁⋮ならいいわ。といっても、建物は一応探したの。誰か潜んでる
と言うことはないわ。二人組で建物の回りを少し見回るくらいね。
それでも見つからないなら、警察に﹂
﹁あああ!﹂
﹁⋮何よ﹂
俺の大声に不機嫌そうに眉をよせる七海に俺は大げさにお腹をおさ
える。
﹁痛い痛い痛い! お腹が痛い!﹂
487
んなもん通報されてたまるか! ああもう融通きかないな! これ
はもう、紗理奈にでも助けを求めるしかない︵え、小枝子? 役に
立つと思う?︶。
﹁え?﹂
﹁だ、大丈夫? 皐月、君、拾い食いでもしたの?﹂
﹁だっ、ああ、痛い!﹂
誰がするかと言ってしまいそうになりながら、俺はううんと唸りな
がら向かいの紗理奈に目配せをする。
﹁ちょっと誰か俺をトイレに連れて行ってくれ!﹂
﹁ん、よしきた、あたしが運ぼう!﹂
﹁あ、私も手伝います﹂
や、小枝子は別にいらないし。ていうか普通に信じてんのかよ。
﹁大丈夫大丈夫。んじゃとりあえず3人で見回りしといてください
よ﹂
﹁うう、いつもすまないねぇ﹂
﹁なにそれ? ていうか皐月様、急にどうしたわけ?﹂
﹁さぁ? 私にもわかりません﹂
いや、お前は気づけよ。
小枝子の意外な鈍さに俺は紗理奈に肩をかしてもらいお腹が痛いふ
りをしながら内心毒づいた。
488
○
﹁さて、で? 何かよう?﹂
﹁ああ⋮⋮トイレに入る必要はあったのか?﹂
俺は紗理奈に肩をかりたままトイレに入ったはいいが、3個室ある
中のうち一つにまで入っている。手洗い場で十分だろ。
﹁駄目駄目。ヒロとか心配してるきたら皐月がぴんぴんしてたらま
る分かりじゃん。ただでさえ大根なのに﹂
﹁大根?﹂
﹁大根役者﹂
﹁⋮そんなにへただったか?﹂
﹁うん﹂
⋮うん、いいけどさ、役者になりたいわけじゃないしさ。
﹁で? 何かあたしに用だったんでしょ?﹂
﹁うん。そう、実はあの髪の毛なんだけど⋮﹂
﹁?﹂
﹁何の問題もないから何とか七海を収めてくれないか?﹂
﹁⋮は? えっと、犯人をかくまってるの?﹂
﹁違う。じゃなくて⋮えっと⋮﹂
もしかして、言わなきゃ駄目か? う∼ん⋮でも男として生活して
たのは言ったし⋮。あ、駄目だ。こいつも崎山皐月の写真見たし⋮。
489
七海じゃないだけマシだが⋮う∼ん∼⋮。
﹁ねぇ、どうなのさ? 内容によっては黙ってるからさ﹂
﹁内容がよらなきゃ?﹂
﹁面白おかしく話す﹂
﹁⋮⋮﹂
や、やっぱり小枝子とだけ話して解決すりゃ良かったか? けど⋮
失敗して警察呼ばれてマジで調べられたら絶対バレるし。
﹁大丈夫だって。秘密は守るよ。友達でしょ?﹂
﹁う∼ん⋮﹂
まぁ、そうだな。紗理奈だしぃ⋮この際、紗理奈なら、全部言って
も⋮いい、かな?
俺が崎山皐月であることを言えば、こいつに隠し事は一つもないこ
とになる。
﹁⋮⋮分かった。言うよ。俺⋮カツラなんだ﹂
﹁え゛⋮﹂
﹁え、あ、違っ。は、はげてないぞ!﹂
﹁な、何だぁ﹂
いや、こっちがびっくりしたわ。そこまで驚くとは思わなかったし。
﹁でも何でカツラ?﹂
﹁⋮崎山皐月、俺の従兄弟を覚えてるか?﹂
﹁会ったことないけど、写真でみたあれでしょ?﹂
﹁あれ、俺。男と女の二重生活のために二つの戸籍持ってるんだ。﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
490
﹁いや、だから﹂
﹁ちょっちょっちょっ!? ちょっと! きき、君、が⋮あの、崎
山皐月?﹂
﹁あのって何だよ﹂
﹁え⋮と、ほら、君の従兄弟って言うからちょっと調べたんだ。あ
たしとヒロは社交会なんか行かないから知らなかったけど、願塊会
社の崎山社長の孫なんだよね。かなり金持ちじゃん﹂
﹁ああ﹂
﹁⋮君が?﹂
﹁ああ、爺ちゃんには高一ん時に初めて会って引き取られたんだ﹂
だから金持ちっぽくないのは仕方ないと言うと紗理奈ははあぁ⋮と
何やらわけの分からない息をはく。
? 何なんだその反応は? ていうか、そんなに驚くのか? 紗理
奈だし﹃へぇ、そうなんだ﹄くらいかと思ってた。
﹁ふーん⋮そうなんだ⋮﹂
え、だから何だその反応。微妙に半眼で睨むかのような⋮。
﹁頼む! 何か手ぇ貸してくれ。七海には崎山として知り合ってる
からバレるわけにはいかないんだよ﹂
拝むように手を合わせると紗理奈ははぁとまた息をはく。
﹁⋮分かったよ﹂
﹁ありがとう﹂
有難い。有難いが⋮もっと友好的に協力してくれると思ってたから、
渋られて意外な感じ。
491
﹁あれ、でもベッドに毛があったんだよね?﹂
﹁ん、ああ。昨日紗理奈と別れてから色々あって七海の部屋で寝た
んだ﹂
﹁⋮そう。えっと、じゃあとりあえず、カツラを外した姿は後で見
るとして、会長には清掃会社の人だとか適当に誤魔化すよ﹂
あ、その手があったのか。なるほど⋮清掃会社、それならここに入
ってても何の問題もないな。
ほ⋮紗理奈に言って良かったぁ。
﹁んじゃ、そろそろ戻ろっか。あ、便秘ってことにしたらいいよ。
それならいきなり元気になってもおかしくないし。10日くらい出
してないっていいなよ﹂
﹁ああ﹂
あいにく便秘になったことはないからそうなのかは知らないが、紗
理奈がそういうならそうしとくか。
○
端から見てると実に分かりやすい腹痛を訴える皐月を連れてトイレ
に入ると、やはり皐月はすぐにケロリとした態度をとる。
492
いつものように軽口を叩きつつも本題に入る。
﹁⋮崎山皐月、俺の従兄弟を覚えてるか?﹂
カツラと言う予想外のカミングアウトの後なだけに話が変わったの
であたしはあれ?と思いながら頷く。
﹁会ったことないけど、写真でみたあれでしょ?﹂
﹁あれ、俺。男と女の二重生活のために二つの戸籍持ってるんだ。﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁いや、だから﹂
﹁ちょっちょっちょっ!? ちょっと! きき、君、が⋮あの、崎
山皐月?﹂
﹁あのって何だよ﹂
う⋮皐月には悪いけど素直に言うわけにはいかないと言うか、むし
ろ認めたくないからあたしは誤魔化す。
﹁え⋮と、ほら、君の従兄弟って言うからちょっと調べたんだ。あ
たしとヒロは社交会なんか行かないから知らなかったけど、願塊会
社の崎山社長の孫なんだよね。かなり金持ちじゃん﹂
半分は本当、ただ皐月の従兄弟だから気になったわけじゃないだけ。
それだけ。
﹁ああ﹂
﹁⋮君が?﹂
﹁ああ、爺ちゃんには高一ん時に初めて会って引き取られたんだ﹂
だから金持ちっぽくないのは仕方ないと言う皐月。
493
皐月は自分を汚れてるなんて言うけど、とんでもない間違いだ。
むしろ、性的なことを避けてきただけにその潔癖なほどの態度は、
あたしには綺麗に映るくらいだ。
純粋な子供の時に傷をおった皐月はそのまま、純粋な子供のままに
守られた、そのまま無垢な皐月。
あたしだって、そんな可愛い友達に嘘をつきたいわけじゃない。全
部分かってる。
それでも、感情は簡単に制御できないから⋮あたしもまだまだ子供
だなぁと思う。といっても、皐月の真っ白を思わせる幼さとは別物
だけど。
はあぁ⋮と思わず自己嫌悪のため息をはく。
﹁頼む! 何か手ぇ貸してくれ。七海には崎山として知り合ってる
からバレるわけにはいかないんだよ﹂
拝むように手を合わせてくる皐月。何も分かってない皐月。あたし
が自己嫌悪してるのも、あたしがどれだけショックを受けてるかも
知らない皐月。
また息がもれる。
﹁⋮分かったよ﹂
﹁ありがとう﹂
皐月はほっとしたように、けど少し不満を表すように礼を言う。
あたしがどうしようかな的な態度をしたのが不満らしい。けど、あ
たしだってまだ子供なんだ。
全知全能じゃないしましてそんな、何でもかんでも頼られたって、
494
困るんだよね。
なんて、笑う皐月にはそんなこと言えないんだけど。
本当にもう⋮別に童顔でもとんでもない美少女でもないくせに、つ
い味方したくなるくらいに可愛いんだから。
○
495
俺は、俺が嫌いだ
﹁会長ー、お待た∼﹂
﹁あら紗理奈、皐月も具合はもういいの?﹂
﹁はい。便秘だっただけです。ご心配をおかけしました﹂
﹁そう。じゃあ二組に別れましょうか﹂
﹁それなんだけどさぁ。考えてたんだけど、忍びこむなんてちょっ
と有り得なくないですか?﹂
﹁あら、どうして?﹂
﹁だってどこから会長の土地か分かってます? そこから人っ子一
人いない上に建物には警備システムがあって、さらに入ったとして
盗むならもっといい場所があるでしょ。別荘なんて遊び道具以外何
もないじゃないですか﹂
﹁⋮でも、実際こうして髪の毛があるのよ。分かっているの? 財
産はなくても私たちがいるのよ?﹂
む、誘拐か。どうする? どうするよ紗理奈︵すでに問題を紗理奈
に丸投げ︶。
﹁まぁまぁ会長、会長が納得しないのは分かってます。とりあえず
見回りしながら話しましょうよ。皐月は皐月たちで検討して、見回
ってから決めるってのでどうです?﹂
﹁まぁ、私も大事にしたいわけではないからいいけれど⋮⋮あなた
に似合わない楽天的な発言ね﹂
不思議そうな疑うような七海に俺はなに言ってんだと首を傾げる。
どう見ても紗理奈はかなり楽天的でお調子者ってイメージだろ。
496
﹁人間、変わるもんですよ。んじゃ皐月、あたしと会長はこっち行
くから君らはそっちね﹂
﹁へいよ∼﹂
俺は頷いて小枝子と弘美に向き直る。
﹁んじゃ、行こう﹂
﹁いいけど何でさりげに勝手に組分け決めてんの?﹂
﹁え、ん∼。どうでもいいじゃん?﹂
俺は七海を急かすように歩きだす紗理奈と反対側の木々に向かいな
がらそういう。
﹁いいけどね⋮⋮﹂
﹁皐月さん、体の具合はもういいんですか?﹂
﹁え、嘘だし﹂
﹁は?﹂
﹁あ⋮﹂
﹁ああ、そう言うことですか﹂
弘美がいるの忘れて素で答えてしまった。だって小枝子が気付いて
ないのが何でだよって感じなんだもん。
目論見通り小枝子は納得顔だが、弘美は一気に不審顔に。
﹁え? なに? あんた何してるわけ?﹂
﹁え、と⋮秘密、じゃ駄目か?﹂
﹁は? 駄目に決まってんじゃん。あんたさ、最近態度でかいわよ。
ヒロをちゃんと敬いなさいよね﹂
﹁⋮⋮﹂
497
それ、そんな大真面目に言うセリフなのか?
﹁まぁ⋮その、そのうち、話すよ﹂
崎山皐月だってくらいなら、ネタばらししたっていいか。あのこと
は紗理奈以外にバラす気はないけど、それくらいなら⋮な︵と言う
か黙ってるの面倒になってきたし。先生の件以外はどうでも良くな
ってきた︶。
弘美にならバレたって吹聴しないだろうし。何だかんだ言って、そ
のくらいには俺は弘美を信用している。
﹁はぁん? ⋮それ、小枝子様も知ってるわけ?﹂
﹁ん? ん∼、知ってるかな﹂
俺が茶髪なのは知ってるしな。
﹁⋮そっ。ま、どーでもいーけどねっ﹂
えー⋮何で微妙に不機嫌?
俺は小枝子に疑問をこめて視線をやるとごめんなさいと謝られた。
﹁すみません⋮その、皐月さんが具合悪いと、つい他の事に気が回
らなくなってしまうんです﹂
⋮な、悩むな。どう反応したらいいのか悩む。
﹁そうか。あー、と⋮ひ、ヒーロミっ!﹂
俺は誤魔化すために巫山戯て弘美に覆いかぶさるように抱きつく。
498
﹁ちょっ! 何なわけぇ!?﹂
抵抗する弘美もなんのその、抱きしめながら歩く。
﹁何で不機嫌なんだよ?﹂
﹁別に、不機嫌じゃないし! 離しなさいよ!﹂
﹁そう言うなよ弘美∼﹂
つーか前に一緒に寝た時も思ったけど華奢だなぁ。ちっちゃい。
﹁何なのよあんたは!﹂
﹁っと﹂
あんまりに暴れるから俺は弘美を離す。
﹁秘密秘密秘密してるくせに、べたべた甘えんじゃないわよ!﹂
﹁な⋮何だよ。そんな怒るなよ。後で説明するって﹂
秘密って⋮確かに隠し事はあるけど、互いに知らないことはまだあ
るじゃん。知り合ってまだ半年もたってないし。
﹁⋮うるさい。うるさいうるさいうるさい! もうあんたなんて破
門よ!﹂
﹁いや、意味分からない﹂
﹁あんたなんて⋮っ、紗理奈様と小枝子様と仲良しこよししてりゃ
いいのよ!﹂
﹁はあ? おい弘美!﹂
弘美は言い捨てるとずんずん先に進む。
おいおいおい、訳わかんないぞ? ちょっと、え? 何? 何を怒
499
ってるんだ?
﹁っ﹂
山なので傾斜と繁っている木々に弘美は容易くつまづく。追いかけ
てた俺は簡単に間に合い、腕をつかんで転びそうなのを助ける。
﹁何やってんだよ?﹂
﹁うるさい⋮﹂
﹁だいたい、何怒ってんのか知らないけどよ。俺、弘美のこと好き
だし仲良くしたい、てか、仲良くしてるつもりだったんだけど⋮違
った?﹂
﹁⋮うるさい。さっさと見回ったら戻るわよ﹂
﹁おい、侵入者がいるんじゃないのか?﹂
また歩きだす弘美に俺はそう言って言外に一緒に歩けと言うと弘美
は俺に顔も向けなまま
﹁あんたはいないと思って、紗理奈様に手を回したんでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁じゃあ、いないんじゃない﹂
と言い足を進める。
﹁⋮まぁ、いないけどさ﹂
俺は小枝子に目配せして弘美を追いかける。
何だよ、本当に。俺のことうっとうしいのか、信じてんのか、どっ
ちなんだよ。
500
○
テキトーにぐるりと回ってから別荘の玄関に戻るとすでに紗理奈と
七海がいた。
﹁紗理奈、どうなった?﹂
﹁ん、とりあえず、ガードマン呼んですますことにしよっかな∼っ
てなった﹂
﹁そうか。ありがとう﹂
﹁? どうしてあなたが礼を言うのよ?﹂
﹁え、あー⋮うん? 聞き間違いじゃない?﹂
﹁あなたは私をバカにしてるのかしら?﹂
﹁いや、その⋮実は俺、警察苦手なんですよ﹂
年齢偽ってバイトしてたらすぐに連行しようとするし、苦手意識は
嘘じゃない。
﹁そう。あなたって変わってるわね﹂
﹁そうですか?﹂
誰だって苦手じゃないか? 権力ふりかざして偉そうにしてるとこ
とか。男どもが偉そうにしてるだけでいらつくし。
501
﹁いいけど⋮じゃあ連絡するわ。あなたたちは勝手に海にいくなり
して遊びなさい﹂
﹁うぃーす﹂
七海が中に入ると弘美も中に入る。
﹁弘美? 行かないのか?﹂
﹁暑いから今日はパス。シャワー浴びるわ﹂
﹁⋮そうか。じゃあ二人はどうする?﹂
﹁あたしもパス。夕方に出るからね∼。海だと時間忘れちゃうし﹂
﹁私は⋮皐月さんが行くなら海に行きます﹂
主体性ないな∼。
﹁じゃあ⋮俺はテキトーにぶらぶらする﹂
最後だし紗理奈に付き合ってもいいが、別にもう会えないわけじゃ
ないしな。
﹁私も付き合います﹂
﹁ん⋮いいけど、日焼け止めと虫避けはちゃんとしろよ﹂
﹁はいっ﹂
だからさぁ⋮必要以上に喜ばないでくれよ。
○
502
﹁おりゃっ﹂
俺はパンッと音をたてて虫とり網を木に叩きつけるが⋮蝉はすでに
逃げていた。
﹁⋮むぅ、捕まらないなぁ﹂
﹁そうですねぇ﹂
七海に許可をもらい物置をあさって見つけた虫とり網で昆虫採取を
しようと思ったが、うまく捕まらない。
ちぇっ。つまんないの。
虫とりは初めてで、全然うまくいかない。小枝子に尋ねると小枝子
も初めてらしい。
﹁小枝子、小枝子もやる?﹂
﹁いえ、見てるだけで楽しいですよ﹂
﹁ふ∼ん? そう?﹂
一匹も捕まらない虫とりを見て楽しいとは思えないけどな。
﹁はい。だって皐月さんと一緒ですから﹂
﹁⋮あのさ﹂
﹁はい?﹂
503
俺は次の獲物︵蝉︶に目標を定めながら小枝子に言う。
﹁そういうの、止めてくれないか?﹂
﹁え?﹂
バシッ︱
ジジジジジー
﹁よし! 捕まえた!﹂
﹁あ、おめでとうございます!﹂
﹁ありがとう。でさ、これはいいんだけど⋮﹂
逃げないように網を半回転させてから引き寄せる。木が高いからど
こか遠くから鳴ってる印象だったが、やはり近くではリアルにうる
さい。
﹁うるさっ。逃がしちゃえ﹂
てなわけで逃がす。手を離すと蝉は飛んで行く。
﹁んで、小枝子、俺のこと好きなんでしょ?﹂
﹁はい﹂
﹁でもさ、その、あからさまな態度がうっとうしいんだよね﹂
﹁え⋮﹂
﹁普通の友達として接して欲しいんだ﹂
酷いことを言ってる自覚はある。告白を断って友達でいろと言って
しかも態度まで変えろと言ってる。
けど、なんか嫌だ。小枝子の俺を好きだという仕草一つ一つが露骨
に感じる。
504
好きだと言う、その全てに俺は性的なものを感じてしまう。勿論前
と同じと分かってても、嫌だ。
普通にしてる時は普通だけど、﹁皐月さんが︱﹂とかって特別扱い
されるとどうしても深読みしてしまう。
﹁と⋮友達、ですよ?﹂
﹁なんか俺だけ特別扱いじゃん﹂
﹁それは⋮親友だからです。紗理奈さんだって、皐月さんのこと優
遇したりするじゃないですか﹂
﹁そうか? あんまそんな気はしないけど⋮。とにかく、小枝子が
紗理奈に対するように俺に接してくれ﹂
﹁⋮⋮私の気持ちは、迷惑ですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
そんなこと、聞くなよ。
迷惑って⋮でも迷惑って要するに小枝子の行為に困るかってことだ
し⋮⋮。
﹁め、迷惑﹂
でもなんか﹃迷惑﹄って凄いキツイ言葉じゃないか? 小枝子、傷
つくんじゃ⋮。
﹁⋮そう、ですか﹂
﹁あ、別に嫌いじゃないぞ。友達の小枝子は普通に好きだって﹂
ただ恋人になりたいと言うその感情と態度がいらないだけだ。
小枝子の優しさや温もりを忘れたわけじゃないけど、だからって性
交したいわけじゃない。
505
﹁⋮でも、そんな自分勝手な皐月さんも好きです﹂
﹁⋮⋮﹂
ぷち︱
﹁それを止めろって言ってんじゃんか! 何で小枝子はっ、俺を苦
しめるんだよ!﹂
全く人の話を聞いてないかのような小枝子の言葉に俺はカッとなっ
て怒鳴る。
﹁っ、そんな⋮っ!? わた、私だって! 私だって苦しいです!
辛いです! どんなに思っても報われない苦しみが皐月さんに分
かるんですか!?﹂
﹁うるさい! なら俺を嫌いになればいいだろ!﹂
もういい! 友達にならなくたっていい! お前なんかどっか行け!
﹁っっ! なんなんですか! なんなんですか!? 私がどれだけ
皐月さんを思ってると思ってるんですか! 私は皐月さんのために
淑女会にだって入ったし! 皐月さんのことなら何だって許してき
たのに!﹂
﹁恩着せがましいんだよ!﹂
﹁⋮⋮!﹂
小枝子と視線が合う。
とっさにやばいと思った。明らかに言い過ぎだ。
だいたい好意にあぐらをかいていたのは俺だ。
助けられたくせに、恩を仇で返すなんて最悪だ。
506
﹁⋮⋮ごめん。言い過ぎた﹂
﹁⋮いえ⋮あの、私こそ、すみませんでした﹂
気まずくなって目をそらす。
ジジジジジー
沈黙したことにより蝉の声が目立つ。
﹁だけど﹂
小枝子が顔をあげるから俺もつられて顔をあげる。
﹁だけど、私はあなたが好きです。それを忘れないでください﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁態度は⋮できる限り普通にします。けど、私はあなたに都合よい
人形じゃない。私は私が思うように行動します﹂
その言葉に、俺はショックを受けた。
だって、誰より嫌だった﹃人を物扱い﹄することをしてしまった。
しかも、当たり前みたいに。
小枝子は友達なのに、好きだと言ったくせに、傷つけると分かって
酷いことを言った。
﹁⋮そう、か。分かった。ごめん。俺が、悪かった。﹂
どうして、俺はこんなに最低なんだ。
俺は、どうしてこんなに汚いんだ。自分勝手で、嫌になる。
507
﹁いえ。確かに、少し押し付けがましかった気がします。何かと付
いてこられるのも、うっとうしかったかも知れません﹂
小枝子が言ってるのは正論だ。俺には小枝子をフることはできても、
行動を制限することはできない。
⋮はぁ、なんで俺は、そんなことも忘れて偉そうに言ってんだよ。
何より嫌いなことを、人にするなよ。
ああもう! なんで俺はこんなクソ野郎なんだよ!
﹁⋮帰るか﹂
﹁はい﹂
行きの気まずさを感じるほどの距離から、一歩空いた間隔で俺と小
枝子は歩き出した。
508
バレました
こんこん︱
帰ってから昼ごはんを食べて︵お弁当を持って行っててそれを食べ
た。しかしお弁当って何で室内で食べると不味いのかな?︶シャワ
ーを浴びてから俺はクーラーのきいてる部屋でごろごろしていたら、
ノックされた。
﹁はいよー?﹂
﹁あたしだよ。君のあられもない姿を拝みにきたよ﹂
﹁⋮開いてるぞ﹂
﹁お邪魔しま∼す﹂
バタバタとドアを派手に開閉して紗理奈は俺が寝転がってるベッド
にダイブした。
﹁おい、危ないだ、っておい!﹂
隣に着地した紗理奈は勢いそのままに仰向けに寝ていた俺を跨いで
お腹に座る。
ぐぁ。お前⋮普通に痛いんだが。せめて座ると言え。力抜きまくっ
てたわ。
足はベッドに乗せてるとは言え遠慮なく俺のお腹に体重をかけてく
る紗理奈は、俺の非難の視線も構わずにこにこしている。
﹁んだらば、とって見よっかな∼﹂
﹁ちょっ、待てよ﹂
509
俺は慌てて手を伸ばして紗理奈の両手をそれぞれ掴む。
いきなりだな。いや、見せたっていいけど、人が漫画見てんのにい
きなり過ぎだ。
とっさに放り出した漫画はベッドの横の床でひっくり返ってる。
折り目がつくから直させてくれ。
﹁何さ。見せてくれないわけ?﹂
﹁いや、いいけど、この体勢を何とかしてくれ﹂
相手がお前だからいいが、これが男なら間違いなくぶっとばしてる
ぞ。
こんな体の自由のききづらい格好、普通に屈辱的だし全く⋮⋮てい
うか、お前でも若干落ち着かなくなるし。
﹁え∼、いいじゃん﹂
﹁襲われそうで嫌だ﹂
﹁⋮マジでしてもいい?﹂
﹁⋮マジで殺すぞ﹂
﹁あは! 冗談冗談﹂
俺はふんっと紗理奈を押しのける。紗理奈はふふふと怪しく笑いな
がら、再び俺に近寄り今度はベッドに座る。
互いの膝がぶつかりしかも俺はあぐらをかいてるので、互いに上体
を少し傾ければ頭がぶつかる距離だ。
﹁さ、とってとって﹂
﹁分かったよ﹂
室内でも当たり前につけていたが、念のためだし別にそこまで気を
つけなくていいだろ。
510
パサリと長い髪を外すと一気に涼しくなる。シャワーの時にも基本
的につけていて、洗う時だけ外して先に髪だけふいてまたカツラを
つけて今度はカツラを洗うのだ。
うわ、改めて言うと面倒臭いな。でも入浴中もカツラつけてて良か
ったよマジで。昨日みたいなことがあるんだからな。
﹁⋮⋮﹂
紗理奈は笑うのを止めてしげしげと俺を見る。
﹁な、何で黙ってるんだよ﹂
﹁いや⋮男としたら童顔だなって思っただけだったけど、可愛いな
ぁ﹂
﹁⋮⋮照れるぜ﹂
本当は照れると言うかそんなこと言われても戸惑うが、とりあえず
そう返す。
﹁⋮や、マジで可愛いじゃん。ボーイッシュキャラとしたらその口
調も全然アリだよ。うん。顔と髪型合う∼﹂
﹁⋮ど、どう反応すればいいんだ?﹂
﹁照れて顎をひきながら上目使いに﹃ば、バカ⋮僕なんか、可愛い
とか思ってないくせに﹄って言って。食べちゃいたいくらい可愛い
よって言うから﹂
﹁⋮お前、いいから黙って頭を豆腐の角にぶつけてくれないか?﹂
そうしたらその変な思考回路が治るんじゃないか?
﹁やだよ。にしても⋮うん、可愛い男に見えなくもないじゃん﹂
511
﹁当たり前だろ。そうやって生活してたんだから﹂
﹁ふぅん⋮確かに、エピソードの一つもあれば小枝子が惚れても不
思議じゃないか﹂
﹁何だよ。わりとモテてたんだぞ﹂
﹁弟扱いじゃない?﹂
﹁まあ、小枝子ほど真剣なやつは少なかったけどな﹂
可愛がり半分からかい半分だったのは認めよう。女に甘いと知れ渡
ってたし、﹃告白﹄をしたい女にしたらフってくれて万が一付き合
っても酷いことはされないだろう丁度いい相手だったんだと、今な
ら尚更良く分かる。
﹁ふぅん⋮にやにや﹂
何だよ。ていうかなに? その擬音を口で言うのはお前のマイブー
ムなのか?
﹁ねぇ、皐︱﹂
ガチャ︱
﹁皐月様、話あんだけ⋮え?﹂
突然開いたドアからは弘美が顔をだし、俺を見て固まっている。
﹁っ!?﹂
﹁ひ、ヒロ!? こ、これはその⋮っ﹂
﹁し、失礼しました!﹂
512
バタン!
ドアが閉まった。
﹁⋮へ?﹂
﹁あ、あは⋮どうやらあたしが誰かを連れこんだと思ったみたいだ
ね﹂
﹁ええ?﹂
気づいてないのか?
﹁ま、すぐ気づいて戻るでしょ。ごめん皐月。バレたね﹂
﹁いや、ごめんってんな軽く⋮﹂
﹁まぁほら、会長じゃないしマシじゃない?﹂
そうだけど! そのうち話そうと思ったけど! 心の準備ってもん
があるだろ!
いや、別に紗理奈は悪くないんだけど⋮むしろそもそも、朝に振り
返って毛を回収さえしてれば⋮っ!
バンー!
また乱暴にドアが開いた。
﹁ええ!? ちょっ、あんた皐月様!?﹂
ああもう⋮面倒なことになったなぁ。
もし朝に戻れるなら、絶対にベッドをチェックするのに!
513
○
﹁⋮へぇ﹂
﹁えっと⋮ヒロ様、ご理解いただいたでしょうか?﹂
﹁頼む! 七海には黙っててくれ!﹂
俺と小枝子はベッドに正座して並び、机に座って椅子に足を乗せる
弘美に低姿勢で説明した。
なんでこんなにへりくだってんのかは分からないが、七海にバラさ
れたらヤバいしな。
﹁え∼、どーしよっかなぁ?﹂
﹁弘美、頼むよ﹂
﹁それってさぁ、小枝子様も紗理奈様も前から知ってたわけ?﹂
﹁あたしは今日聞いて、小枝子は中学同じだからね﹂
﹁⋮別に、黙っててあげてもいいわよ﹂
﹁ほ、本当?﹂
﹁さすがヒロ! 心広い! さすがあたしの後輩!﹂
﹁や、関係ありません。ただし条件があるわ﹂
﹁⋮な、なんざましょう?﹂
冷めた弘美の見下し視線に俺は姿勢を正す。俺の横ではもう関係な
いと思ってるのか、紗理奈はふ∼と足を崩して枕に倒れた。
514
﹁⋮あんたの誰も知らない秘密をヒロに教えなさい﹂
﹁⋮は?﹂
﹁うわ、なかなか面白い条件だね﹂
ベッドに寝たのもつかの間、楽しそうに紗理奈はベッドを揺らして
勢いよく立ち上がる。
﹁んじゃあ、あたしが秘密聞くわけに行かないから出てるね﹂
﹁ちょっ、紗理奈?﹂
﹁皐月、バリバリ秘密教えてあげなよ﹂
﹁おい!﹂
んな無責任な!
だが俺の狼狽も構わず紗理奈は機嫌よく部屋から出ていった。
そして部屋には俺と弘美が残された。
ゆっくりと顔を弘美に戻す。
﹁⋮マジですか?﹂
﹁当たり前﹂
﹁いや、言ったら秘密じゃなくなるじゃん﹂
﹁ヒロとあんたの秘密にすりゃいいじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何よ。⋮⋮心配しなくても、誰にも言わないわよ﹂
﹁いや、それは⋮信用するけどさ﹂
けどいきなり誰も知らない秘密とか言われてもなぁ⋮先生の件は言
いたくないし紗理奈知ってるから除くとして⋮何かあったっけ?
﹁⋮⋮﹂
﹁そんなに、ヒロには言いたくないわけ?﹂
515
﹁いや、つかそんな⋮誰も知らない秘密とかないし﹂
﹁⋮は、いや、一つくらいあるでしょ﹂
﹁う、う∼? ⋮⋮あ﹂
﹁なになに?﹂
﹁実はまだ夏休みの宿題に手をつけてないんだ﹂
﹁⋮あんた巫山戯てんの?﹂
﹁いや、謝るから本を机に戻せ。ってもなぁ⋮マジで思いつかない﹂
興味深そうな表情を一転、不機嫌にふりあげた漫画本を弘美はふん、
と投げ、漫画はベッドにばさと落ちた。
﹁⋮あんたねぇ、秘密主義もほどほどにしなさいよ﹂
﹁別にそんなつもりないって。色々合って男として暮らして、爺ち
ゃんと出会って崎山皐月になったくらいしか⋮⋮ん∼、あ、一つあ
る﹂
﹁⋮今度こそまともなんでしょうね﹂
さっきは素直に嬉しそうな顔をした弘美も疑り深そうに俺を見る。
﹁俺、前に隣に住んでた人に戦闘技術習って体鍛えてた﹂
﹁⋮⋮はあ?﹂
うん、これなら教えてくれた爺と母さんしか知らない。ちなみに母
さんが知らないことはたぶんないから、母さんが知ってるのはしょ
うがない。
﹁母さんと教えてくれた人しか知らない。爺ちゃんにも言ってない
事実だ﹂
黙ってるわけじゃないけど、鍛えてたとは知ってるしわざわざ言う
516
内容でもない。
﹁厳密には誰にも知られてない秘密なんて俺にはないし﹂
﹁何でよ﹂
﹁母さんに言わないことなんかないし﹂
﹁⋮まぁ、家族しか知らないならいいわ。他には?﹂
﹁え⋮他にも?﹂
﹁だって、あんたが人に言いたくない秘密じゃないと意味ないじゃ
ない﹂
﹁⋮⋮それはあれか? 脅迫のためか?﹂
半ば冗談で︵半分は本気︶言うと弘美は俺の予想と違う反応を見せ
た。
﹁⋮⋮ばか﹂
⋮は? え、何だその顔は。何でそんな⋮傷ついた、みたいな顔し
てんだよ。
﹁⋮はぁ⋮もういい。ヒロがどうかしてた。じゃあね、皐月様﹂
ため息まじりに無理と見て分かる笑みを浮かべながら机から降りて
部屋を出ようとする弘美。
﹁ぁ⋮﹂
引き留めなきゃ。
とっさにそう思って、ベッドから立ち上がりながら弘美に手を伸ば
517
す。
﹁え?﹂
﹁っ、だ!?﹂
あ、足が痺れたー!
いったいどのくらい時間がたってたのかは分からないが、現代人の
俺を痺れさせるには十分だったようだ。
勢い余って弘美を床に押し倒し、ガァンと派手な音がした。
﹁あれ?﹂
音ほど痛くない?
⋮⋮⋮⋮は! 弘美!?
﹁∼∼のっ、バカ!﹂
後頭部に手をあてながら弘美が怒鳴り、弘美はその勢いのままぽろ
ぽろと涙を流す。
﹁あ、あああぁあ⋮ごごごめん! い、痛い?﹂
﹁いた、いに⋮決まっ、てるでしょ!﹂
うわああ! どうしよう! 泣かした! 泣かしちゃった!
﹁ごめ、ごめん! あの、そのっ! い、痛いの痛いの飛んでいけ
∼!﹂
頭を押さえてる弘美の手の上に被せるように撫でてから宙に手をひ
518
らひらさせる。
睨まれた。
あ、だからそんな涙出てる出てる! あああ、勿体無い!︵何が!
?︶
﹁バカ! んなので治るわけないでしょ!﹂
﹁ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 痛い? 痛い?﹂
﹁い・た・い、わよ!﹂
﹁ごめん、ごめんな。ど、どうすればいい?﹂
﹁⋮⋮﹂
うわぁ⋮何も言わないくらい怒ってるよ。ヤバい。そんな痛かった
のか。
﹁あ、その、氷とってくる!﹂
混乱しまくっててようやく冷やすことに思い当たった俺は走ってキ
ッチンと往復。
戻ってきた俺は袋に詰めた氷を慌てて弘美の頭に押し付ける。
﹁つめっ﹂
﹁だ、大丈夫⋮?﹂
﹁⋮大丈夫よ。ぶつけた時はマジどうしてくれようか皐月様は、と
か思ったけど、今はそんなに痛くない。明日には腫れもひいてるっ
て﹂
﹁でもお前⋮泣いて⋮﹂
弘美の涙は、まだ止まってない。
﹁⋮これは⋮ヒロ、ほら、泣いてストレス発散するタイプだから。
519
ついでに泣いただけよ﹂
﹁え、と⋮﹂
いや確実にお前、俺に八つ当たりしてストレス発散するタイプだろ。
でもこれ⋮もしかしなくても俺に気をつかって言ってるよな。
﹁ごめん⋮﹂
俺は、どうしていいか分からなくて、謝るしかなかった。
○
﹁ごめん﹂
バカは怒られた犬みたいにしょげかえりヒロに謝る。
痛かったのは勿論そうだが、普段なら泣くほどではない程度だ。
ただ皐月様ののらりくらりとした態度と、よく分からない感情に振
り回されてるヒロ自身にムカついた。
さらにそんな自分が何だか無性に悔しくて、床に倒れた衝撃で自分
で意識しないで涙が出てしまったのだ。
﹁俺、どうやって謝ればいい?﹂
だからいくら何でもそこまで慌てたり、狼狽する必要ははっきり言
520
ってないが、だが心配されて悪い気はしない。
ヒロは涙をぬぐって止める。涙にはストレスを発散させる機能があ
ると何かで読んだが、少なくとも怒りは落ち着いた。
﹁別に、いいわよ﹂
確かに皐月様はムカついてムカついて仕方ないが、具体的に何が悪
いわけではない。
ただ下僕のくせにへらへらしてるのが癇に触っただけだ⋮⋮⋮たぶ
ん。
﹁でも⋮あ﹂
﹁何よ﹂
﹁じゃあ、秘密言うよ﹂
﹁え﹂
あるのかよ!と思わず皐月様のような口調で怒鳴りそうになった。
最近ヒロの口が悪くなったとしたら確実に皐月様のせいだ。
﹁俺、お前のこと可愛いなって思ってるんだ。下僕扱いも最近はそ
れほどムカつかないし。﹂
﹁⋮は?﹂
﹁内緒だぞ?﹂
﹁⋮ば、バカじゃないの! んな、ご機嫌とりっ、誤魔化せると思
ってんの!?﹂
﹁え⋮いや、そんなつもりはないんだけど⋮つーか︱﹂
続いた皐月様の言葉に、今度こそヒロは皐月様の部屋を飛び出した。
521
○
﹁つーか、そういうとこが可愛いんだけど⋮﹂
恥ずかしいから小さく呟くと聞こえたのか聞こえなかったのか弘美
は俺にバカと怒鳴って出ていった。
なにはともあれ、まぁ元気そうで良かったと言うべきか。
しかしさっきの秘密は⋮⋮我ながら恥ずかしすぎる。絶対に誰にも
言えない。
だってそうだろ? 下僕扱いされても怒らないどころか可愛いと思
うなんて、俺は変態かよ。
弘美が変に解釈しなけりゃいいが⋮でもだからって正しい意味を聞
かれても俺にも分からないが、とりあえず変態ではない。
﹁⋮はぁ﹂
俺はベッドに倒れる。めちゃめちゃ疲れた。
あーあ、最悪。
あの時、ベッドを確認さえしてれば紗理奈と弘美にばれて、あまつ
さえ弘美を泣かしたりしなかったのに。
ちぇっ。
何だかなあ。バレたのはいいけど、泣かれたのはやっぱりキツイ。
後でもう一度、謝っておこう。
522
とりあえず今は⋮夕食まで寝よう。
523
本当の友達
﹁んじゃ、帰りまっす。皐月、小枝子襲っちゃ駄目だよ﹂
﹁するかっ﹂
帰るその瞬間までいらんこと言いやがって。というか、絶対にない
と分かってるのに何でこいつはまだ言うんだよ。
紗理奈はここ数日分の衣類などのつまったバックを担いでいる。つ
まりもう帰ると言うことで⋮⋮俺も帰りたくなってきたなぁ。
小枝子と弘美と、顔合わせずらいし。
﹁紗理奈、じゃあまた、学校で会いましょう﹂
﹁オッケー﹂
﹁え、夏休み明けまでまだ一月近くあるのに会わないんすか?﹂
﹁皐月様うざ∼、何であんたってんなべたべたしたがるわけ?﹂
﹁いや、普通だろ。お前らが淡白なんだ。なぁ紗理奈?﹂
﹁ん∼、ま、部活っても所詮は学園での組織だしね。去年に休みに
集まったのは夏休みに3日合宿しただけだったし﹂
﹁なにぃ!?﹂
それは明らかに少ないだろ。いや、まぁ俺は今まで部活とか入って
ないしよく分かんないんだけどさ。でもバイトしてても夏休みには
毎日のように色んな奴らと会ってたぞ。
﹁全体では、だよ。 ヒロが遊びに来てたのを無しにしても、もう
少し人数いたしね。全員に素で接してたわけじゃないから、集まる
のはお義理って感じ﹂
﹁じゃあいいじゃん。また集まろうぜ﹂
524
﹁嫌よ。私は抜きにしてちょうだい﹂
﹁え∼!﹂
思わぬ反対に俺は不満を露に七海に近寄る。
﹁何でですかぁ?﹂
別に七海がいなきゃ嫌だとは言わないが、いないよりはいた方がい
い。これも誰にもいいたくことだが、七海のこと割りと好きだし。
﹁私、忙しいのよ﹂
ちぇ、何だよ感じ悪いな。
いいもん別にぃ。
﹁お前らは、遊ぶよな?﹂
﹁メンドイ﹂
﹁私は⋮皐月さんと二人の方がいいです﹂
こ、こいつら⋮しかも小枝子、全く人の話聞いてなかったなおい。
あの緊迫した時間はなんだったんだよ。
俺は期待を込めて紗理奈を見る。紗理奈はヘリに乗り込んでからに
っこり笑う。
﹁賛同して、あたしだけじゃ結局二人だし意味ないよね﹂
﹁⋮⋮それでもいいから賛成しろよ﹂
お前、空気読め。いや、読んだから流れ的にNoと言ったのか? お前は誰の味方なんだよ。
525
﹁あたしは、あたしの味方さ﹂
そんなとこだけ空気を読むな!
﹁え、だって顔に出てるし﹂
﹁!?﹂
おまっ、テキトーなことを言うな! ポーカーフェイスの皐月君と
呼ばれた俺に︵呼んでたのは一人だけだが︶何てこと言いやがる。
﹁だから、顔に書いてあるの。ポーカーフェイスとはかけ離れすぎ
だし﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮ちょっと待て。分かりすぎだろ。﹃ポーカーフェイスの∼﹄の
くだりまで分かるって俺の顔はホワイトボードか! 黒板か! 昔
懐かし伝言板か!
﹁あっはっは﹂
﹁ええい! ナチュラルに俺の顔面と会話するな!﹂
﹁顔についてる口を通さなきゃ会話できないって﹂
﹁んな問題じゃなーい!﹂
﹁分かってるけど?﹂
小首を傾げるな! 似合うじゃないかちくしょう! ⋮あ、別に羨
ましいわけじゃないからな。
﹁はいはい、漫才はいいから。紗理奈、時間は大丈夫なの?﹂
﹁やべ。皐月のせいでフライトに間に合わなかったらどうするのさ﹂
﹁はぁ⋮全く、ヘリで空港まで飛して何とかならないなら、私が飛
526
行機を手配してあげるわよ﹂
﹁マジですか!?﹂
﹁いいから行きなさい﹂
﹁会長大好き! 愛してるぅ! んじゃみんな、またね﹂
紗理奈は笑顔を振り撒くと飛びたった。
やれやれ、騒がしいやつだ。
○
﹁ふぃー﹂
夕飯が終わってダラダラテレビ見ながら交代で風呂に入り、俺と入
れ違いに七海がお風呂に向かうのとすれ違い、さてどうしようかと
廊下を歩きながら考える。
1:部屋でごろごろ
2:小枝子か弘美を訪ねる
3:ダイニングでテレビ
4:散歩⋮⋮⋮これだ!
﹁よしっ﹂
527
夜なら涼しいもんな。昼間に森を散策した分、夜との差が分かると
言うものだ。
俺は玄関に行き、少し迷ったがしっかり虫よけスプレーをしてから
出た。
○
﹁あ﹂
﹁え⋮あ、皐月、さん?﹂
空が綺麗で、改めてここの星空を眺めていた。窓から見るのも悪く
ないけれど、この、山の端っこのような海に面した場所から見るの
が好きになった。
昼間、皐月さんに着いてきた時に紹介しようと思ったけど、ここま
でくる前に帰ってしまった。
ここを見つけたのは昨晩で、来るのは2度目だ。
﹁⋮皐月さんも、星を見にきたんですか?﹂
﹁ああ⋮⋮あの、隣、いいか?﹂
﹁はい﹂
私は座っていた切株の上のお尻をずらして皐月さんのぶんを空ける。
528
皐月さんはゆっくりと私の隣に座る。
とく、とくとく︱
皐月さんを見なくても、そこにいることがわかる。そんな肩が触れ
そうな距離に、心臓が静かにスピードを上げる。
皐月さんは、分かってない。恋がどんなものか、私の想いがどれだ
けか⋮全然分かってない。
好きだ。
諦めることも、隠すこともできないくらいはっきりと、私は皐月さ
んが好きだと頭でなく心と体が訴えてくる。
﹁今日⋮﹂
﹁はい﹂
﹁ごめんな。酷いこと言って﹂
﹁⋮はい﹂
確かに、今日の皐月さんは少し酷いことを言った。
別に皐月さんが私に気がないなら私の行動を迷惑に思うのはそうお
かしくない。ただ皐月さんが優しいからより酷く感じただけだ。
ここで、ここで謝る皐月さんだから、好き。本気で自分が悪いと思
って謝るから好き。優しいから、酷いことをしたと思ってる。
皐月さんが酷いことをしたと全く思わないような人なら、私は好き
にならなかった。
﹁あのさ、俺のこと好きだって言ったじゃん?﹂
﹁⋮はい。好きです。愛してますっ﹂
529
思わず、力が入ってしまう。どんなに回を重ねても、想いを伝える
時はドキドキする。
﹁⋮うん。ありがとう。俺、思ったんだ。﹂
﹁え⋮何を、ですか?﹂
﹁俺には、小枝子にどうこう言う権利はない。むしろ、こう言うべ
きなんだ﹂
﹁え⋮?﹂
﹁ありがとう﹂
え? どうして、笑って、そんな⋮え? 言うべき? え?
﹁俺を、俺なんかを好きになって、そして今も好きでいてくれて、
ありがとう﹂
﹁そんな⋮お礼なんて⋮﹂
どうして⋮? 私は⋮
﹁だって、人を好きになるのって、凄く素敵なことだと思う。俺に
は恋がよく分からないけど、それでもその相手に選ばれて、好きだ
と言ってもらえることを、俺は誇りに思うよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから、ありがとう。小枝子の行為は、その好意は、本当は少し
だけ重いけど、でも、凄く嬉しいことは本当だ﹂
﹁⋮はい﹂
私は、何と言えばいいのだろう。今、何を、思っている? 嬉しい
? それとも⋮悲しい?
530
﹁小枝子﹂
﹁はい﹂
﹁都合がいい話だ。俺を嫌っても軽蔑しても構わない﹂
そんな事はありえない。ありえない。ありえないのだけど⋮言葉は、
出てこなかった。
﹁だけどさ、もし小枝子さえ良ければ、もう一度やりなおさないか
?﹂
﹁⋮何、を?﹂
﹁もう一度、初めから、初めから、友達になろう。小枝子が俺を恋
愛感情で見ても、軽蔑の目で見ても、それでも変わらず隣にいられ
るような、嫌いでも憎めないような⋮そんな関係になりたい﹂
それは⋮究極だ。私たちは、そんな関係になれるのだろうか。皐月
さんは私の想いを煩わしく思い、私は皐月さんが振り向いてくれな
いことをいらいらするだろう。
そんな⋮クリーンな関係⋮⋮私たちに、いや、私に、できる?
﹁俺はまだ恋愛は分からない。けどもしかしたら誰かを愛するかも
知れない。もしそれが小枝子でも、そうじゃなくても、小枝子とは
別れたくない﹂
⋮分からない。別れたくないと言われてるのだから喜ぶべき? そ
れとも都合のよい友達宣言だと悲しむべき?
﹁⋮わかりません﹂
何も⋮わかりません。
531
○
﹁⋮わかりません﹂
小枝子は意気消沈、と言った風にうつ向きながらそう言った。
わ⋮わからない? いや⋮その返事のがよく分からないんだが⋮。
俺はただ⋮変にギクシャクするのが嫌だから、今度こそ友達として
やり直したかっただけだ。
そもそも友達と言いながら今まで小枝子に甘えたりキスをしたから、
小枝子に勘違いさせて一昨日みたいなことになったんだ。
だから⋮ちゃんと、友達になりたい。このまま何となく嫌いになっ
たり何となく離れるのは嫌だから。
﹁⋮駄目か?﹂
﹁いえ駄目っ⋮って、わけじゃ⋮ない、です⋮けど﹂
小枝子は否定のため顔をあげたが俺と視線が合うとすぐにまた下を
向いた。
﹁けど?﹂
﹁⋮よくわかりません。自分でも、どうすればいいのか⋮﹂
﹁⋮⋮じゃあ、とりあえずやり直すとか⋮駄目?﹂
532
かなり勝手なことを言ってみる。けど、本音だ。小枝子とやり直し
たい。キレイで対等な関係になりたい。
﹁⋮一つ、条件があります﹂
﹁う、うんっ。なに?﹂
とても複雑そうな顔で小枝子は言うから、俺はどうしても頷いて欲
しくて何だってしてあげようと決める。
﹁あの夜⋮あの、私があなたに告白した夜から、やり直していいで
すか?﹂
﹁じょ⋮条件って、やり直す時期、だけ?﹂
少々拍子抜けしながら尋ねると、小枝子はこくりと真面目な顔で頷
く。
﹁あなたが私に頼るでもなく、私があなたを独占するでもない、正
しく友人な関係に⋮⋮なれるでしょうか?﹂
﹁俺はそうなりたい﹂
不安そうな小枝子を後押し、いや、むしろ自分に言い聞かせるよう
に答えると小枝子は苦笑する。
﹁⋮私は、あのままでも恋人になれるなら構いませんでした。特別
に甘えてもらえるのも、悪い気はしません。可愛い皐月さんも好き
です。ただ⋮やっぱり、対等でないと駄目だと思います。恋人も、
友人も﹂
﹁さ、小枝子⋮﹂
533
なんて⋮なんてイイやつなんだ。どうしてそんなに優しいんだ。ど
うして、そんなに俺と同じ意見を言ってくれるんだ。
小枝子が勘違いするように、俺だって勘違いするじゃないか。
まるで小枝子は、何があっても側にいてくれるんじゃないかって。
まるで⋮母さんみたいだなんて、思ってしまうじゃないか。
﹁ありがとう、小枝︱﹂
﹁しっ﹂
﹁え⋮﹂
小枝子は俺の唇に人差し指をつきつけ俺を黙らせる。真剣な目に俺
は大人しく小枝子の言葉を待つ。
﹁皐月さん、好きです。中学の時からずっと、あなたのことを思い
続けています﹂
﹁⋮ありがとう。ごめんな。その気持ちには、応えられない。でも、
友達になりたい﹂
小枝子の意図に気づいて俺は笑顔でそう言う。だって告白をする小
枝子自身、夜に分かるほど頬を染めているのに笑っている。
﹁はい!﹂
良かった、これでようやく⋮
﹁皐月さん﹂
﹁え⋮﹂
小枝子は黙って目を閉じた。
ちょっ⋮確かにあの時したけどさ! けど⋮
534
﹁これきりですから。それとも⋮嫌ですか?﹂
﹁⋮そんなこと、ないよ﹂
母さんでは、ない。優しい小枝子、俺を好きな小枝子、でも決して、
母さんではない。
だって、母さんには唇にキスをするのも全然恥ずかしくなくて、ド
キドキもしないから。
﹁ん⋮﹂
そっと唇を合わせる。一瞬だけ、もしかしたらまた舌を入れられる
のではと恐れたけど、けどその疑念は振り払う。
だって、このキスはただのケジメ。これから俺たちは、本当に本当
の友達になるんだから。
﹁⋮やっぱり、好きですよ﹂
﹁⋮お前、男を見る目がないな﹂
﹁じゃあきっと、女を見る目があるんですよ﹂
小枝子は笑って立ち上がる。俺も立ち上がり、並んで歩き出す。不
自然でもぎこちなくもない、一歩分の距離感で。
○
535
帰ってきました
﹁なぁ﹂
﹁⋮何よ﹂
﹁何かさぁ、このあいだからお前機嫌悪い?﹂
﹁別に。普通にあんたと話して、普通に遊んでんじゃん﹂
﹁そうなんだけどさぁ﹂
何だか、微妙に俺に対して距離があるような⋮? 気にはなってた
がただの気まぐれだろと放置したら、今日の最終日まできてしまっ
た。
﹁じゃあ、何で今聞くわけ? ヒロ、自覚してるけど昨日今日の話
じゃないわよ﹂
﹁ん? それはあれだ。今、二人きりじゃん﹂
あ、反応した。今明らかに眉がぴくってした。
﹁⋮⋮﹂
﹁弘美、ヒーロ?﹂
さて、ひねくれた弘美は二人きりをどう受けたんだ?
二人きり︱人目を気にせず俺に八つ当たりできる。
二人きり︱人目を気にせず俺に素直になれる。
後者ならいいが⋮こいつの場合明らかに前者だろ。
﹁なぁ、何で機嫌悪い? そんなに俺が黙ってたのが嫌だったのか
?﹂
536
でも男として生活してるってずっと言ってたし、バラしたのは結局
名前とカツラだけだし。
﹁別に、そんなんじゃないわよ﹂
﹁じゃあ何だよ﹂
﹁⋮ねぇ﹂
﹁?﹂
﹁帰ったら、さ﹂
﹁うん﹂
え、何で話変わるんだ?と思ったがツッコんで機嫌悪くなると嫌だ
から相槌をうつ。
﹁また、遊んでやっても⋮いいわよ?﹂
⋮あー、何だ? つまり、いますぐ態度は戻らないが別に俺に文句
があるわけじゃない、と?
なんか個人的に嫌なことでもあったのかな? よく考えたら機嫌悪
い=俺のせいっておかしいしな。
﹁そう、か。じゃあ、メールするな﹂
﹁うん⋮あんた、荷物はもう用意したわけ? 一時間もしたらでる
のよ?﹂
﹁ん? お前も何もしてないじゃん﹂
﹁は? 何でヒロがんな面倒なことやらなきゃならないのよ。服は
棄てるから、後はこの鞄だけよ﹂
﹁も⋮もったいないお化けが出るぞお前﹂
ありえないだろ。金があるからって物は大事にしろよ。
537
﹁は? え? 何? お化け? あんた何馬鹿なこと言ってるわけ
?﹂
めちゃめちゃいぶかしげな弘美。あれ? もったいないお化けって
マイナーだったのか? てっきり普通に知られてることかと⋮。
うう⋮何だが弘美のこの視線は知ってる俺がいけないみたいな気に
なるぜ。
﹁や。え、と⋮荷物片付けてくらぁ﹂
とりあえず逃げた。
○
﹁ん∼っ、疲れた∼﹂
﹁あふぅ⋮﹂
車から出て俺は大きく伸びをする。俺に続いて車から出たさっきま
で寝てた小枝子は欠伸をする。
﹁おい小枝子、大丈夫か?﹂
﹁∼⋮⋮﹂
538
﹁って寝るな寝るな!﹂
倒れそうになる小枝子を慌てて支える。
﹁はっ⋮す、すみません皐月さん﹂
﹁ったく。迎え呼んで来てもらえよ﹂
﹁あら、それならこの車使っていいわよ﹂
降りてきた七海が提案する。
小枝子降りた意味ねーと思ったがいい案だ。弘美と七海はここで︵
白雪学園の前にいる。二人はまだ実家に帰らないらしい︶いいし心
配なのは小枝子だけだ。
ていうか立ちながら寝るやつを初めて見た。意外性のあるやつだ。
﹁そうか、ならそうしろ。小枝子、ほら中に戻れ﹂
﹁⋮∼﹂
⋮だから、寝るの早いって。授業中は真面目で寝てんのを見たこと
ないのに、立って寝るとか無駄な特技すぎ。
ふらふらしながら半分くらい寝てるからもう車の座席に転がしてや
る。
﹁ふぅ、んじゃ運転手さん、頼みます﹂
﹁は、はぁ。では七海お嬢様、この方はどこにお連れすれば?﹂
﹁住所は確か⋮﹂
戸惑いながら尋ねる運転手のおじさんに、視線をやや斜めにあげた
七海は何を見るでもなく聞き覚えのある住所を口にする。
え、てか何で覚えてんの? ストーカー?
539
﹁何よその目は﹂
﹁いや⋮何で知ってんすか?﹂
﹁初めにあなたたちのプロフィールは見たもの。当たり前でしょ?
ちなみにあなたの実家は⋮﹂
七海は聞いたこともない地名を出してきたが、まぁおそらくそうい
う設定なんだろ。
車を見送って、さて帰ろうとすると七海に荷物を運べと言われた。
運転手にやらせるつもりが小枝子を送ったかららしいが⋮何故俺が
⋮。
﹁ま、いーですけど。弘美、貸せよ﹂
七海のを受け取り、ついでに弘美の分のも担ぐ。と言っても弘美の
は鞄一つだし、七海のは車輪付きだし転がすので問題ない。
﹁ちょっ、どろぼー!﹂
﹁人聞きの悪いことを言うな! ⋮ついでだから荷物運ぶんだよ。
中に入っても鳴らないだろうな?﹂
﹁あんたが学生証持ってないのは分かってるわよ。ヒロには反応し
ないようになってるし、ヒロと一瞬に入れば大丈夫よ﹂
七海が先にカードで車以外の通用門を開けて入り︵一人入るとすぐ
に閉じる。どんだけ厳重なんだよ︶ヒロと並ぶように身を寄せて入
ると確かに鳴らなかった。
﹁へぇ⋮どうなってんだ?﹂
学生証がないと門は開かないし無理に通れば警報が作動するらしい
540
︵さすがに無理に門をくぐったことはないぞ。乗り越えようとした
ことはあるが︶。
﹁別に。ただヒロのは特別だから、カード通さなくても近寄るだけ
で開くの﹂
﹁へぇ﹂
学園長、孫に甘いなぁ。そりゃ、厳しいならこんな性格に育たない
だろうけどな。
つーかまぁ、いつまでも小さい子扱いで甘やかしたくなる気持ちは
分かるけどな。
○
﹁七海様、ここに置いておきますよ﹂
荷物をベッドわきに置く。弘美の部屋にはすでに寄ってきたので後
は帰るだけだ。
﹁ご苦労様、じゃあ皐月、また会いましょう﹂
﹁はい。絶対ですよ﹂
﹁はいはい。社交辞令よ﹂
﹁駄目じゃん。ったく⋮んじゃ、お世話になりました﹂
﹁え!?﹂
541
﹁?﹂
何かめちゃめちゃ驚かれた。
﹁な、え?﹂
﹁え、とか言われても⋮普通でしょ、別荘で一週間もただ飯食べた
んですから﹂
﹁あ、ああ⋮何だ。一瞬、淑女会をやめるつもりかと思ったわ﹂
﹁んなわけないじゃないすか﹂
七海はほうけたような顔で息をゆっくり吐き、くすりと笑う。
﹁分からないわ。何しろあなた、最初は絶対に入らないって言って
たじゃないの﹂
﹁む⋮ま、まぁほら、案外、居心地いいですから﹂
﹁ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ﹂
にっこりと、優しさがにじみでるような笑みを浮かべる七海に、今
度は俺が驚いた。
え⋮ちょっ、⋮はぁぁ。
こいつなぁ⋮﹃崎山皐月﹄に対するのと俺とじゃ態度変えまくるく
せに、たまにこっちの俺にも優しいんだよな。
調子くるうなぁ。てか、区別つけるの大変だからやめてくれよ。男
の俺が離れりゃいいんだが⋮七海、男の俺のこと友達と普通に思っ
てるし。
﹁はは、まぁ、七海様頑張ってますもんね﹂
﹁そんなことないわよ。私はできる範囲でやってるだけよ﹂
﹁そすか﹂
542
それは十分に凄いんだが⋮ま、深く追求するのはやめとくか。
俺はテキトーに挨拶して七海の部屋を出た。
﹁う⋮﹂
暑い。
別に暑さに弱いつもりはないがクーラーのきいた部屋︵タイマーで
すでに起動してた︶から出た時は温度差にうめいてしまう。
ぱたぱたと手で顔をあおぎながら自分の鞄を肩に担ぎなおし、俺は
階段を降りる。
はぁ⋮楽しかったけど、疲れたなぁ。
ぴぴぴ︱
携帯電話が振動して俺は反射で携帯電話を開く。紗理奈からメール
だ。
﹃件名:やほ∼
本文:久しぶりぃ、元気?なんちて︵^u^︶。一週間、あたしが
いなくなってからどう?︵?д?︶ 小枝子と弘美とは仲良くでき
たかな∼?﹄
一応、気にしててくれたのか。紗理奈は弘美にバレた日に帰ってる
し、小枝子と微妙な雰囲気のままだったしな。
やほ∼
かちかちとまだちょっと慣れない手つきで返信する。
﹃件名:RE
本文:大丈夫。何か弘美は機嫌悪いけど小枝子とは仲直りしたよ。
543
心配してくれてありがとな﹄
送信、と。
ぴぴぴ︱
うおっ。早っ!
間髪いれずに携帯電話が振動する。メールを開くと⋮ん? 弘美か
らじゃん。
﹃件名:無題
本文:今度の日曜、付き合いなさい﹄
⋮⋮⋮。
⋮⋮いや、いいけどさ。うん、もう、命令かよとかツッコむのもや
めよう。
ぴぴぴー
今度は紗理奈だろう。でも読む前に弘美にオッケーと返信しておく。
あ、ついでだし部屋行って日曜の予定決めよ。その旨もいれてメー
やほ∼
ルを送信。そしてメールを見る。やっぱり紗理奈だった。
﹃件名:RE
本文:それは良かったヽ︵´∇`︶ノ。心配は無用だったみたいだ
ネ︵○▽<︶ゞ。あたししばらくは会えないけどメールはちょいち
ょいしようね。
追伸 夏祭りは行きたいな∼=^ェ^=﹄
全面的に肯定する内容でメールを送り返すと、携帯電話の画面を見
てると歩くのが遅くなるものだが弘美のドアの前まできてた。
544
﹁入るぞ﹂
﹁ん⋮何よ。てかあんたまだいたのね﹂
弘美は部屋着なのかTシャツに短パンに着替えていた。
﹁何って日曜、何時にどこで何すんのかな∼って﹂
﹁ん、あんたさ、男できなさいよ﹂
﹁は?﹂
﹁だから、男のあんたを改めて見たいの文句ある?﹂
﹁まぁ⋮文句はないぞ。それよりなにすんだよ﹂
﹁目的がなきゃ遊ばないわけ?﹂
﹁⋮いや、いいけど﹂
何なんだ? 遊ぶのに異存はないが、普段文句言うのはお前らだろ
うが。
﹁あんたがヒロを楽しませなさい。いいわね。時間も待ち合わせ場
所もあんたが決めて﹂
⋮⋮⋮。
﹁いいけど⋮それじゃ俺がやりたいことするコースになるけど、文
句言うなよ?﹂
﹁分かってるわよ。あんたの程度に合わせるから有りがたく思いな
さい﹂
ぴぴぴ︱
﹁分かったよ。精々、姫さまが楽しめるよう頑張りますー﹂
545
やほ∼
返事をしながら携帯電話を取り出す。
﹃件名:RE
本文:うんうん、祭りのことは任せてよ。んじゃ、今日は疲れてる
だろうしゆっくり休みなよ。あでゅ∼︵o・v・o︶﹄
思わずくすりと笑う。祭りか⋮楽しみかも。
﹁祭りぃ?﹂
﹁⋮あの、普通に人のメール覗かないでくれません?﹂
﹁うるさい。で、なに? あんた祭り好きなわけ?﹂
﹁そりゃ日本人ならやっぱ、祭りは好きだろ﹂
﹁⋮⋮そうなんだ﹂
﹁? 弘美、外人だったのか?﹂
黒髪だし目も黒だ。
﹁一応クォーター。おじいちゃんがね﹂
﹁父? 母?﹂
﹁は?﹂
﹁いやだから、父親の父親か母親の父親なのかってことなんだが﹂
﹁⋮あんたには関係ないでしょ。﹂
え、機嫌悪くなったな。ま、いいか。こいつのコロコロかわる機嫌
をいちいち考えてたら疲れる。
﹁はいはい。んじゃ俺帰るわ。また、日曜な﹂
546
○
547
帰ってきました︵後書き︶
これでやっと夏休みも中盤、いやぁ、色々あった一週間でしたね︵
多少省略しましたが︶。
とにかくこれで私的には物語も中盤と言った感じです。
実際にどこまで続くか分かりませんが、一応結末も考えました。
頑張りますので見ていてくださると嬉しいです。
では、後書きまで見てくださりありがとうございます。
548
ああ、勘違い
﹁おはよう、皐月様。約束は守ったみたいね﹂
﹁⋮20分も遅刻したお前が開口一番言うセリフではないからな﹂
11時の約束で弘美も了解したくせに焦りゼロだよこいつ。11時
3分に遅れるとメールがきたからまだいいけどさ。
﹁うるさいわね。仮によ? ヒロが先に来てたらどうするのよ﹂
仮にの意味が分からないが⋮俺が遅れてたらってことか? まぁそ
の時は⋮
﹁謝る﹂
﹁バッカ違うわよバカ。ヒロみたいな美少女がこんなとこに一人で
いたら変なやつに声かけられるに決まってるじゃない﹂
言われて見れば確かに、弘美は可愛いから変なやつ︵ロリコンのお
っさんとかロリコンのお兄さんとかロリコンのジジイとか︶に声を
かけられる危険があるな。
﹁なるほど、最近変態が多いからな。夏は頭のおかしいやつが増え
るって言うし﹂
﹁⋮な、ん、で変態限定なのよっ。他にもナンパとかスカウトとか
あるでしょ!﹂
え? ナンパ目的? そいつも勿論ロリコンだな。つまり変態だ。
あと問題は⋮
549
﹁⋮⋮小学生モデルとかもスカウトってあるのか?﹂
街角の可愛い小学生、なんて聞いたことはないが。
﹁ヒロは高校生でしょうが! あんた殺すわよ!?﹂
﹁いや、見た目の話だし﹂
﹁⋮っ、殺す! すぐ殺す今殺す絞め殺す!!﹂
﹁落ち着け弘美、深呼吸だ﹂
﹁あんたが怒らせてんのよ!﹂
少し巫山戯すぎたか⋮。
一応真面目に答えてるつもりだが、実際に弘美が怒るだろうことも
望む答えも察しがついていて言ったのだから同じことだ。
﹁分かってるって弘美。お前を待たせたら変な男にナンパされまく
っちゃうからな。そんなことにならないようにするためなら何時間
だって待つよ。むしろ迎えに行くね﹂
﹁⋮分かればいいのよ﹂
弘美の怒りは収まったようだ。
こいつは意外と単純なので褒めておだてて﹃可愛いよ﹄とか言えば
機嫌は治る。
﹁さて、じゃあ行こうか。まずはサッカー観戦だ﹂
﹁は?﹂
﹁は、じゃない。お前が遅れたせいでもうすぐ試合が始まるじゃな
いか﹂
試合会場まではここから歩いて15分だ。弘美の手を引っ張って歩
きだす。
550
﹁ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!﹂
﹁何?﹂
﹁⋮サッカー観戦?﹂
﹁ああ﹂
﹁⋮⋮嫌だ﹂
﹁なに!?﹂
﹁見るだけなんてつまんないし。それより映画見たい。ほら、行く
わよ﹂
﹁ええぇぇえ!?﹂
握った手を逆に引っ張られて困惑する。
俺に決めろと言ったくせになんてやつだ! チケットもう二人ぶん
買ったのに!
しかしそう訴えても弘美には﹁で? 金が欲しいわけ?﹂と言われ
るだけで、何かムカつくから
﹁いるか! こうなったら今日は俺が奢ってやる!﹂
と言ってしまった。
﹁さあ、俺を讃えるんだ。具体的には男前とかハンサムとか背が高
いとか﹂
﹁ワー、オトコマエー﹂
めちゃめちゃ棒読みだ。しかしそれでも弘美がノってくるなんて珍
しいな。
普段ははぁ?とかバカとか言うだけなのに。
551
﹁弘美、機嫌いいな﹂
﹁は? バカじゃないの? あんたの目は節穴?﹂
いかにも不機嫌そうに睨まれたが、いくら何でももう弘美の素直で
なさにも慣れた。
弘美は嬉しい時も楽しい時も悲しい時もとりあえず怒ってみせるが、
怒り方の微妙な違いから見分けられる。
﹁まぁまぁ、いいから。で? サッカー観戦をふりきって見たい映
画って何だよ﹂
試合はテレビで見るということで妥協する。まぁ日付に合わせたや
つだからそこまで見たい試合でもなかったし。
﹁皐月様が決めていいわよ﹂
﹁⋮殴っていい?﹂
﹁駄目に決まってるでしょ﹂
﹁はぁ⋮まぁ、分かった、うん、じゃあ映画館に行って飾ってある
右から二つ目の広告にしよう﹂
﹁それ、めちゃめちゃテキトーね。三流映画だったらどうするのよ﹂
﹁気合いで楽しめ﹂
﹁無理﹂
とにかくも駅前の商店街をぶらついてそこそこの大きさの映画館に
到着。
右から二つ目∼と。
﹁⋮見る?﹂
﹁まぁ別にいいけど﹂
552
なんか古くさい恋愛ものっぽい映画だった。まさか了承するとは⋮
⋮でもよく考えたら弘美の好み知らないし。
ファンタジーが好きなのかホラーが好きなのかコメディかアクショ
ンか知らないし、だから恋愛ものが好きとしても不思議ではない。
﹁⋮⋮ぐぅ﹂
寝た。
○
﹁ぐぅ﹂
早っ! ちょっ⋮いくら何でも早いわよ。まだ誰が主役かかも分か
らない段階じゃない。
まぁ皐月様のことだから寝るだろうとは思ったが、どれだけ興味な
いんだお前。
ヒロは皐月様を睨むが寝てる皐月様に効果があるわけもない。
ほっぺたでも引っ張ってやろうと手を近づけるとぴくりと反応した
から動きを止める。
皐月様の顔まで10センチのあたりにヒロの手があるのだが皐月様
はなにやら唸りだしたのでイタズラどころではない。
553
﹁皐月様? 大丈夫?﹂
伸ばした手をそのまま広げて皐月様の顔の前で振る。
﹁ぐぁう﹂
﹁は?﹂
伸ばした右手は掴まれて皐月様の膝の上に無理矢理引っ張られた。
﹁⋮皐月様? 寝てんの?﹂
﹁∼⋮むにゃ﹂
寝てるし。しかもこいつヒロの手ぇ離さないし。
引っ張り返しても全然びくともしない。本当に寝てんのかしら?
﹃ねぇ、本当なの?﹄
﹃お前には関係ないだろう?﹄
聞こえてきた映画の音声にヒロはまぁいいやと右手を諦めて前を向
いた。
﹃関係ないって何よ! もう⋮っ知らない!﹄
女が部屋から出ていくと部屋に残った男はやれやれと肩をすくめる。
﹃女は仕方のない生き物だ。なぁ山田君﹄
﹃今のは君が悪いよ。好きなら好きと言ったらどうだい?﹄
﹃人の心ほど不確かなものはない。ましてあいつは素直じゃないか
らな﹄
554
﹃⋮彼女も君にだけは言われたくないと思うよ﹄
内容はありきたりでテンポよく物語は進んでいく。
ヒロは合間合間で、ちらちらと右隣の皐月様を見る。隣にいるだけ
でも何となく気になると言うのに手まで握っていては意識せずには
いられない。
間抜け面して寝てる⋮⋮嘘、本当は別に、顔は悪くない。変な変装
してない素顔は普通に悪くない。むしろたまにする真面目な顔とか
は⋮わりといい⋮⋮い、今の嘘! ってあああ心の中でなに言って
んのヒロ!
﹃あたしのこと好きなら好きって言いなさいよ!﹄
﹃そんな無責任なことは言えないな﹄
﹃バカ! バカバカバカ!﹄
スクリーンでは中盤に差し掛かり何だかバカップルなことをしてい
る。
⋮ヒロ、何でこんなクソつまんない映画見てんのかしら。ていうか、
全部皐月様が悪い。
﹁⋮バカ﹂
だいたい何でいきなりスポーツ観戦に行こうとするのよ。ヒロの好
み全然分かってない⋮⋮別に、ヒロのこと知ってほしいってわけじ
ゃないけど。断じて違うけど。
まぁ確かにじゃあ目的地があるのかと言えばそうでもなくて、ただ
皐月様と遊ぼうと思っただけで⋮⋮べ、別に、皐月様一緒にいれる
なら他のことはまぁいいかと思ったわけじゃないけど。断じて違う
けど。
555
⋮⋮⋮これってもしかして、あの、たまにテレビで聞くつん⋮つん
でる? 違うか。けどそんなやつじゃなかったかしら。
どういう意味だっけ? たしか⋮ちょっと冷たいけど本当は好きみ
たいな⋮⋮好き?
ヒロって、皐月様のこと好きなのかな?
﹃⋮好き。私あなたが好きよ。あなたが私を好きでなくたっていい
から⋮お願い、キスして﹄
﹃バカ﹄
頬を染めた女の告白に男はさらりと言って女の鼻を抓む。
そういえばこのヒロインとヒーローの名前はなんだっけ。⋮ヒロ、
どんだけ皐月様に気ぃとられてたのよ。
﹃っ、何よ! あたしに気がないなら優しくしなきゃいいじゃない
!﹄
あ⋮。
唐突に映画に同調した。それだ。ヒロが皐月様に普段いらいらする
のは、そのせいだ。
どうせヒロより他の人が好きなくせに。ヒロに対等な態度をとるし、
ヒロを好きだと軽く言うし、ヒロを怒ってすぐ笑うし。
そんなことをされたら、嫌でも戸惑ってしまう。今までにいないタ
イプだ。
そんな皐月様を少しでもいいとか思ったら、女同士なのに気の迷い
で好きとか考えてしまう。
女同士なんてどうせ学園を出るまでの暇つぶしで遊びの延長みたい
なものでくだらないし、女同士なんて社会的に認められてないし子
556
供もできないし非生産的だし。
⋮なのに何で、皐月様を独り占めしたいとか思うんだろ。
ヒロってバカだな。
﹃言っただろ。不確かなことは嫌いなんだ。だから﹄
男はポケットから小さな箱を取り出して女に向けた。
﹃俺と結婚してくれ。愛してるなんて言わないし幸せにするなんて
不確かなことは言わないが、事実として俺にはお前を養う能力があ
りまたお前を世界一必要としている。﹄
﹃⋮バカ! 愛してる⋮っ!﹄
﹃不確かなことを言うのはいいが、それより愛の証を受け取って契
約書にサインしてくれ﹄
﹃バカ、婚姻届けまで持ってきてたの﹄
﹃いつでもお前に交渉できるようにと思ってな﹄
⋮くだらない。くだらないけど、約束されたハッピーエンドがあっ
ていいななんて思ってしまった。
全く持ってわからないのだが⋮ヒロは一体、隣で寝るこのバカのど
こが好きなのだろうか。
○
557
目を開けるとすでに明るくなっていた。
﹁ふわぁ﹂
﹁おはよう皐月様、よぉく眠れたみたいね﹂
﹁⋮ぁ⋮あ∼⋮いや、起きてましたよ?﹂
大きく欠伸をしてから慌てて俺は口を閉じた。やばい。めちゃめち
ゃ寝てた。
﹁⋮﹃⋮好き。私あなたが好きよ。あなたが私を好きでなくたって
いいから⋮お願い、キスして﹄﹂
﹁⋮は?﹂
こいつ今、何て言った?
しかし弘美はうつ向いていて顔は見えない。
え? あれ? 告白されてる?
﹁あ⋮!﹂
弘美に!?
うぇえ? 何で? えっと、全く気付かなかった。俺のことうざい
とかならともかく好きとは⋮。
と、とりあえず、気持ちは嬉しいが断らないと。一応キスはするか。
断る時の慣習みたいなもんだし。
558
﹁弘美﹂
俺はうつ向いてる弘美の顔を両手ではさんで上げさせてキスをした。
○
﹁⋮は?﹂
くくく。驚いてる驚いてる。
勿論本気ではなく、起きてたなんて嘘をつくからからかったのだ。
笑ってるのがバレないようにうつ向いているし、ヒロの意図は皐月
様ごときにはよめないはずだ。
案の定、絶句する皐月様。
確かにヒロは多少、皐月様をいいなとか思ってしまう精神病にかか
ってるが、それを伝える気なんて毛頭ない。
だってそんなの、気の迷いに決まってる。
﹁あ⋮!﹂
ん? 何かに気付いたかのような声にそろそろ止めようかと思いな
がら皐月様の気配を伺う。
559
﹁弘美﹂
名前を呼ばれ返事をしようとすると顔をはさまれ上げさせられた。
これはひょっとするとあのシーンだけ起きてたのだろうか。さっき
の﹁あ⋮!﹂は思い出したのか。
だとしたら⋮鼻をつままれるのか。
﹁んぅ⋮っ!?﹂
は? はぁぁ!? な、え、お、は!?
な、ななななななんでキスされてんの!?
おま、ちょっ⋮
﹃⋮お願い、キスして﹄
言ったぁぁ! ヒロこのバカにキスしろとか言いました!
ってぇ! 間に受けるバカがどこにいんのよ!
このバカ! バカバカバカバカバカバカバカ!
﹁⋮弘美?﹂
ヒロが固まってるとしばらく唇を押し付けてきてた皐月様は顔を離
し、ヒロの顔を見て首を傾げる。
﹁ぁ⋮∼、な、何してんのよバカ!﹂
﹁は? お前がしろって⋮﹂
﹁あんたマジ寝過ぎ! 映画でやってたセリフそのまま言っただけ
よ!﹂
﹁!? ⋮うわ、俺、やっちゃった?﹂
560
てへへと照れ隠しに笑う皐月様。
うぐ、可愛いかも。ってお前調子にのるなー!
○
561
ああ、勘違い︵後書き︶
そのうち書き直すかもです。
今回、なかなか満足がいかなくて没にしたりしました。更新遅くな
ってすみません。
最近、やたら忙しい上に新作ばかり考えてしまう癖が出てしまいま
して︵それも没になりました︶。
とりあえず、他の作品もですが更新できるよう頑張ります。
562
昼食は手作りで
顔が赤くなるのを自覚しながら俺は誤魔化すように映画館を出た。
﹁次、次はどうする?﹂
はふぅ⋮しかし勘違いでキスをするとは⋮うぅ。恥ずかしい。弘美
が少しも顔色を変えてないのが救いだ。
小枝子は状況が特殊だからで、普通に考えて弘美が同じ女の俺に告
白なんてあり得ない。なのにあんな勘違い⋮⋮うぅ、穴があったら
入りたい。
﹁顔赤いわよ﹂
﹁う⋮悪かった。頼むから言わないでくれ﹂
﹁全く⋮ヒロが皐月様好きとか、自惚れないでよね﹂
﹁うあああぁあ﹂
人目も気にせず悶えてしまう。
恥ずかしい。全くもって弘美の言うとおりだ。
﹁ほら、もういいから。いつまでも気にしない﹂
﹁うぅ⋮すまん﹂
だがこうしていても時間が無駄になるばかりなので俺はまだ赤い顔
をそのままに歩き出す。
﹁で、どこに行く?﹂
﹁お腹減った。ファーストフードでいいわよ﹂
﹁あ、駄目﹂
563
﹁は?﹂
よし、もう気にしないでおこう。顔が暑いのは太陽のせいさ。
﹁弁当、持ってきてるから﹂
﹁⋮は?﹂
弘美はぽかんとした表情で俺を見ている。
﹁どうかしたか?﹂
﹁⋮お弁当?﹂
﹁そうだが?﹂
﹁⋮⋮どこのお弁当?﹂
何だよ、弁当までメーカー決めてたりするのか?
﹁手作りで悪かったな。でもサンドウィッチみたいな簡単なもん失
敗しな︱﹂
﹁悪いなんて言ってない﹂
俺の言葉を遮った弘美の声はけして大きくないが、何故か強い響き
がして俺はそうか⋮と頷いた。
﹁食べる。食べるわ。食べてあげる﹂
﹁⋮じゃあ、公園に行こう。ピクニックシート持ってきてんだ﹂
﹁シートまで? 呆れた⋮﹂
手をひいて歩きだすとブツブツ言いながらも抵抗せずに弘美はつい
てくる。
564
むぅ、何だよ。たまにはこう、童心に戻りたくなるだろ。
﹁うるさいなぁ。いいだろ? 久しぶりにピクニックをしたかった
んだ。今日のコンセプトはずばり、郷愁だ﹂
勿論、今思いついた。ジャンクフードは体に悪いから弁当作って、
鞄が大きめでぺこぺこだからレジャーシートはノリで持ってきただ
けだし。
﹁こういうのは小学校の遠足ぶりだろ?﹂
﹁⋮いいけど﹂
﹁じゃあシートな﹂
﹁そのじゃあって何よ﹂
いちいち文句をつけるなぁ。まあ異議はないようなので俺は公園に
向かう。
﹁その方が遠足っぽいじゃないか! それともお前は遠足でベンチ
に座ってたのか?﹂
﹁遠足なんて行ってないし﹂
﹁は? 何で?﹂
﹁⋮うるさいなぁ﹂
思わずまじまじと弘美を見ると、弘美は俺をうざそうに見る。
わー⋮きたよ氷の如く冷たい目⋮そうだよな、何でこんな風に見て
くるやつが俺を好きとか勘違いしたんだろ。
ちょっぴり凹みつつ、俺たちは体育館とかもある大きめの運動公園
に到着。
565
奥の木陰に行き、芝生にシートを敷く。
﹁さ、どーぞ姫﹂
﹁ふん⋮言われなくたってあがるわよ﹂
弘美は憎まれ口を叩きながらシートにあがる⋮靴をはいたまま。
﹁⋮ちょっと待てやお前﹂
﹁何よ﹂
﹁何で靴はいたままやねん﹂
﹁何で関西弁なのよ。⋮⋮靴、ぬぐの?﹂
⋮知らないのかよ。つか、え、マジで遠足行ってないのかよ。あー
⋮てかお嬢様らが列作って山登りとか、するわけないよねー! あ
はははー! ⋮⋮俺は断固として格差社会反対です。
︱閑話休題
﹁ま、食べようか﹂
今度こそ靴をぬいだ弘美と向かいあって座り間に弁当を広げた。
サンドウィッチは卵、ハムサラダ、カツ。当たり前だが時間がたっ
ても大丈夫なやつだけだ。間違ったって生サーモンとかははさんで
ない。︵まぁ、一応夏だし用心して専用の入れ物に入れてもらった
んだが︶
﹁どうせ不味いだろうけど我慢するから有りがたく思いなさいよね﹂
﹁美味いよ! ⋮あ、いや、そりゃ、お前らが普段食ってるのに比
べるとアレだが⋮﹂
566
ううむ、どちらかと言えば料理だろうが何だろうがオールマイティ
ーを自負していたが、当たり前な話プロには勝てないし、プロの飯
しか食わないやつには美味くないかも?
﹁う、うー⋮ん﹂
﹁いただきます﹂
だが俺の苦悩を無視して弘美は普通に食べ出した。
う、なにを言う気だ?
﹁あ、美味し⋮⋮ん、ううん、まぁまぁね﹂
﹁素直じゃないにもほどがある!﹂
﹃美味しい﹄の﹃美味し﹄まで言っておいて!? いや嬉しいけど
ね!?
﹁ちょっとは素直に褒めれないのかよお前は﹂
文句を言いながら俺もサンドウィッチを食べる。うむ、我ながら美
味いと思う。
とは言え、さすがに学園の食堂にも劣るし普通に家庭の味レベルな
のは自覚してる。
だから、本当は素直に﹃美味しい﹄の
﹁い﹂抜きだろうと思ってくれたのは嬉しい。
﹁あんたこそ素直に喜びなさいよ﹂
﹁まぁまぁと言われてか?﹂
﹁⋮ヒロのまぁまぁは、世間一般的にはまぁ美味いんじゃない? 調子に乗らないでよってくらいなんだから﹂
﹁いや、それはそれで微妙な評価なんだが﹂
567
﹁うるさい黙れ、あんた最近調子に乗ってるわね﹂
﹁⋮あの、俺ってば一応先輩だったような⋮﹂
﹁先輩面すんな﹂
﹁先輩だよ﹂
こいつもこいつで俺への対応に波があるよな。まぁ、ていうか優し
くされるほうが慣れないからこっちのがいいんだけど。⋮⋮⋮Mじ
ゃない、違うからな。断じて違うからな。
﹁ふん⋮あんたさぁ﹂
﹁何?﹂
﹁⋮なな⋮何でもない﹂
﹁7?﹂
﹁何でもないって言ってんでしょ犬畜生が﹂
﹁⋮⋮﹂
何でここまで言われて俺は怒らないんだよ⋮⋮昔の俺なら怒ってた
よ絶対。慣れって恐いなぁ。
﹁何だよぉ。素直じゃないな﹂
﹁どうせ、小枝子様や紗理奈様ともまして七海様とも違うわよ﹂
﹁⋮拗ねてん︱﹂
﹁拗ねてない!﹂
﹁⋮ま、言いたくないなら良いけど。変に比べなくたってお前はそ
のままで十分だよ﹂
スタイルのよさは勿論、小枝子ほど素直でも紗理奈ほど快活でも七
海ほど真面目でもないし、しかも弘美って口は悪いしたまに陰険な
ことするし⋮⋮⋮⋮⋮いや! いいとこもあるってうん!
568
﹁どう⋮十分なの?﹂
﹁え、ええ? どうって⋮十分⋮﹂
弘美があいつらと並んでも遜色ない部分⋮ねぇ。
﹁十分⋮可愛い? あと、優しい?﹂
﹁何で疑問なのよ!﹂
﹁いや、その⋮と、とにかく! 気にするな! 幼児体型でも愛が
あれば大丈夫だから!﹂
﹁⋮死にたいの?﹂
フォローしたのに!?
﹁全く⋮⋮何であんたはそう、すぐにヒロを怒らすのよ﹂
疲れたようにため息ながらに顔をさげお弁当にを食べる弘美の態度
に俺は唇を尖らせる。
何だよ。じゃあどうやったらお前が怒らずに笑うのか教えて欲しい
ぜ。
﹁俺だって怒られたいわけじゃないって。むしろいつも笑わせとい
てやりたいって﹂
﹁⋮いつもって、それヒロに阿呆面になれって? あんたじゃある
まいし﹂
⋮⋮あの、割りと真面目にお前のためを思って発言したんだが。
ていうかさっきからお前食い過ぎだろ。人の顔見ようとしないし。
ちょっとムッ。
﹁おい弘美、話してんだから人の顔見ろよ。マナー違反だろ﹂
569
﹁食事中に話をするの自体マナーとしてどうかと思うけどね﹂
﹁⋮⋮﹂
ああ言えばこう言う! こいつ絶対俺のこと嫌いだろ! ⋮くそぅ、
でも、でもなぁ、気まぐれだろうと優しくされたことがあれば、や
っぱりこっちは嫌いになれないんだよな。
﹁半端なことすんなよな⋮﹂
﹁はぁん?﹂
う、小さい声で言ったのに聞こえてたのか。
﹁⋮別に﹂
誤魔化すように残りのサンドウィッチにがっついた。空になった入
れ物は蓋をして鞄の隣に置いた。
﹁⋮半端なのは、あんたでしょ。何よ。何よ⋮何なのよ!﹂
キッ︱と上げた弘美の顔は明らかに怒っている。
うわ∼だから何で怒るんだよ。もう嫌だ。
﹁な、お、怒るなよぉ⋮⋮謝るからさ﹂
﹁何が悪いか分かってないくせに謝るとかゆーなぁ!﹂
⋮まいったなぁ。
570
○
皐月様は、ヒロを怒らせる天才だ。っとにむかつく。
だいたい、幼児体型ってどういうことよ。そりゃ⋮小さいけど、で
も胸に関してあんたに言われたくないっつーの!
ヒロを笑わせてやりたいとか⋮そんな言葉で⋮⋮喜んでなんて、あ
げない。
それに、あんたの態度はなんなのよ。あんたが中途半端じゃないな
ら世界から曖昧という言葉が消えるわ!
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮なぁ、何怒ってんだよ? 俺が何したって言うんだよ? ⋮⋮
いい加減怒るぞ﹂
嘘つき。そんな困ったみたいに眉をハの字にしてそんなこと言った
って信じるわけないでしょ。
﹁⋮⋮あんた﹂
誰が好きなわけ?
とか聞けないし。聞けるわけないし。だって⋮紗理奈様じゃあるま
いし、女同士なのに当たり前に好きとか言えないし。
⋮⋮だから、さぁ。そんな目で見ないでよ。⋮ヤバいって。
何か⋮好き、とか、可愛いとか、バカなこと思っちゃうじゃない。
571
﹁なに?﹂
﹁⋮バカじゃないの?﹂
何でこんなこと言ってるんだろ。
﹁バカだよ。だいたいさ、何で怒らないわけ?﹂
﹁え∼? そんなことで文句言われても。何でって⋮お前だし。慣
れたとゆーか、それにお前だって八つ当たりにしろ意味なく怒って
んじゃないんだし。いちいち怒り返すのも面倒﹂
⋮こんな言葉に、面倒とか言われて、どうしてヒロは怒らないのよ。
本気で怒れればいいのに。
そして失礼なこいつを嫌いになればいいのに。
﹁⋮あんたなんか嫌い﹂
﹁⋮そうなの?﹂
そんな目で見るな⋮バカ。
﹁嫌い。嫌いよ。何でヒロが⋮ヒロがあんたなんか好きにならなき
ゃならないのよ! 何であんたのために悩まなきゃならないのよ!
どうせヒロは胸ないしちびだし素直じゃないし性格曲がってるし
可愛くないわよ! 可愛いのは見た目だけよ!﹂
﹁自分で言うなよ。⋮色んな意味で﹂
﹁何でヒロが、あんたに嫌われたくないとか思わなきゃならないの
よ! バカ!!﹂
﹁⋮⋮お前、可愛いなあ﹂
﹁うるさい!﹂
572
可愛いとか、言うなぁ! ヒロが本命じゃないくせに! どうせも
っと別の人が好きなくせに! 半端な態度とらないでよ!
ヒロに、こんな誰かと比べるような卑屈なことさせないでよ!
好きなら好きで誰がにさっさと告白しなさいよバカ! んなのだか
らいつまでも小枝子様と微妙な関係なのよ!
﹁⋮なぁ、なに悩んでるかわかんないけどさ。とりあえず俺お前の
こと好きだし、嫌いになんてならないって﹂
﹁うるさい⋮﹂
﹁だからさ、ちょっとくらい素直になれ。誰かがお前のこと嫌いっ
て言うなら俺がそのぶん好きって言うから元気になれよ﹂
﹁⋮⋮何よそれ﹂
普段は生意気で優しくないし乱暴なくせに、こんな時に過剰なほど
優しくしないでよ。
やっぱり好きとか思っちゃうじゃん。女同士なのに、真面目に好き
になっちゃうじゃない。
未来永遠を誓えるわけじゃないし、どうせ学園を卒業したら疎遠に
なっちゃうに決まってるのに⋮⋮⋮なのに何で皐月様なんかを好き
にならなきゃなんないのよ。
﹁ヒロは⋮あんたなんか嫌いなんだからね﹂
﹁はいはい⋮じゃあ飯も食ったしこれからどうする?﹂
﹁⋮⋮皐月様は、どうするつもりなわけ?﹂
﹁んー⋮何か眠くなってきたし昼寝しない?﹂
﹁⋮この暑い外で?﹂
てゆーかさっきまであんたヒロに八つ当たりされてたって分かって
んの?
573
﹁まぁほら、はらごなしに30分だけだから﹂
ぐだぐた言いながら結局、皐月様は寝た。映画館でさんざん寝たで
しょと言っても聞かずに寝た。
信じられない⋮普通二人で遊びにきて寝るか? ヒロが暇になった
らどうするとか気をつかいなさいよ。
本当⋮皐月様はバカなんだから。
○
何だかわからないが、弘美は俺に嫌われたくないらしい。
もしかすると合宿?後半からの不機嫌も誰かに嫌いとか言われた︵
あいつらが言うわけないし電話かメールで︶とかなのか?
だけどそれで悩んだりしてたのか? あの弘美が? ⋮⋮可愛すぎ
だろ。だからだよなぁ。
だから︱こいつの暴言に怒れないんだよなぁ。
﹁んー、よく寝たぁ﹂
きっかり30分で弘美に起こされた俺は大きくのびをする。
﹁あんた寝過ぎ。つか食べてすぐ寝たら太るわよ﹂
﹁それを言うなら牛になるだろ﹂
﹁は?﹂
574
そして⋮偉そうにするわりに物を知らないところも憎めないんだよ
な。
﹁じゃあ行くか。まだまだ、今日は終わらないぜ﹂
遠足は家に着くまでが遠足、なんてな。
○
575
昼食は手作りで︵後書き︶
どうして弘美が情緒不安定気味かと言えば、本人ごくノーマルなつ
もりで皐月が気になったりするからです。
他にもありますがそれはおいおい⋮。
ラストまで大まかには決めてるので時間さえあればどんどん連載し
たいです。
忙しいし元々執筆スピードにムラがあるタイプなんですが、今年中
に完結したいです。
みなさん応援よろしくお願いします。
576
猫被りな弘美
﹁弘美、どれがいい?﹂
﹁⋮⋮﹂
俺が機嫌よく話しかけても返事はなく、ひたすら不機嫌を無理矢理
塗り潰したかのような作り笑顔を向けてくる。
﹁弘美ー?﹂
﹁⋮⋮ストロベリーをお願いします﹂
⋮何で敬語? ⋮店員と距離が近いからか? マジで何でこいつ⋮
こんな猫被りなんだ?
﹁580円です﹂
﹁ん∼、よし、ちょうどだ﹂
﹁ありがとうございます﹂
財布から小銭を出して払い、ソフトクリームを二つ受けとる。
弘美にイチゴを渡し、俺はチョコバニラに舌をはわす。
うん、うまい。
﹁⋮⋮ちょっと﹂
﹁ん?﹂
弘美は珍しく自分から俺にぴたりと密着して小声で話しかけてきた。
﹁何でここに入ったのよ﹂
577
﹁ここって⋮ただのデパートだぞ?﹂
そう、何のへんてつもないただのデパート。
﹁なんでヒロが、こんな人混みに入らなきゃいけないのよ﹂
今回改めて思い知ったが、弘美は筋金いりの人混み嫌いだ。つまり
いつも車移動。
今日は俺プロデュースなので勿論徒歩。さっきの映画館に行くのも
公園に行く時も、いちいち人通りが少ない道を遠回りした。
そんな嫌がる弘美を無理矢理込み合うデパートに連れてきてみた。
弘美は案の定、道を歩くならともかく買い物を人混みでするなんて
絶対に嫌だと言うが、俺が本気を出せば弘美のようなちびっこを連
行するのはわけない。
﹁いいじゃないか。ちょっと君、人見知りを治しなさいよ﹂
﹁なにその口調、バカじゃないの。つか誰が人見知りよ。ヒロは、
愚民どもがうようよしてるとこに来たくないだけよ﹂
﹁ぐ、ぐみん⋮? お前、そんなキャラだっけ?﹂
﹁黙れ﹂
弘美は不機嫌さを隠したいのか口元をひきつらせながらもニコリと
笑い、一歩、元の距離まで離れた。
﹁これからどうするんですか?﹂
﹁⋮映画の時は文句言わなかったじゃん﹂
﹁人少ないし、暗いしみんな黙ってるんだから別です﹂
﹁⋮そんなに、人混み嫌? 出たい?﹂
578
弘美はこくりと頷く。
うむむぅ。仕方ない。そこまで嫌なら、無理はよくないな︵ここま
で無理矢理連れてきたのは俺なんだが︶。
﹁分かったよ。出ような。適当にカラオケでも行くか? そこなら
他に人こないし﹂
﹁⋮うん﹂
おお、素直だ。こういう姿見ると、やっぱり可愛いな。妹ってこん
な感じなのかな。
俺はソフトクリームを持ってない方の手で弘美の空いてる手をひい
た。
﹁あれ? 皐月?﹂
たけとみ
ゆうま
﹁あ、ホントだ。どしたの? あ⋮﹂
﹁げ⋮武富、勇馬⋮﹂
タイミング悪く俺に声をかけてきたのは、社交会で知り合った二つ
上の二人組だった。
﹁おま、女連れかよ!﹂
弘美に気付いた勇馬がテンション高く話しかけてくる。
﹁⋮誰ですか?﹂
あああ⋮さっきようやくゆるんだ弘美の雰囲気がまたトゲトゲしく
なってるよ。
579
﹁俺の友人、かな﹂
弘美の手を握ったまま軽く引き寄せて小声で、男のな。と付け加え
る。
ちなみに二人を簡単に説明するとテンション高いのが勇馬で眼鏡か
けてるのが武富だ。
﹁へぇ﹂
小さく鼻で笑う弘美は、しかし二人に向き合うとやはりいつもの猫
被りな笑顔を見せた。
﹁はじめまして、弘美です。皐月様のご友人ですね。よろしくお願
いします﹂
﹁よろしくな、おちびちゃん。俺は勇馬。こいつは武富。﹂
うわ、おちびて⋮。
﹁勇馬様に武富様ですね﹂
怒ってる。確実に怒ってる。八つ当たりされるのやだなぁ。
﹁彼女か?﹂
﹁ん、あー、はいはい。そうそう。じゃ、そゆわけで﹂
﹁テキトーな返事だな。そんなにその、弘美ちゃん? と二人きり
になりたいのか?﹂
彼女かと聞いてきた勇馬に返事をすると武富がにやにやしながら聞
いてきた。
580
﹁なぬ! ロリコンは犯罪だぞ皐月!﹂
そして自分が先に言い出したくせに何故か驚く勇馬。こいつマジで
うぜぇ。
﹁⋮⋮こいつ、高校生だからな﹂
﹁マジで!?﹂
﹁え!? 小学生じゃなくて?﹂
おま⋮小学生は酷いだろ。武富⋮勇馬より大人しい顔してさりげに
毒舌家だからなぁ。
﹁おちびちゃん⋮こんなちっちゃいのに皐月と年変わらないのか﹂
﹁ていうか皐月もちっちゃいけどな。僕ら、2年前でも身長は17
0あったよな﹂
﹁俺が176で武富が173だったっけなぁ﹂
﹁今は僕の方が勇馬より高いけどね﹂
﹁どっちも高すぎだ。何センチだよ﹂
﹁180⋮7、8?﹂
俺が160前半だから20センチちょい差があることになる。
⋮く、性別差があるとは言えムカつくなぁ。
﹁⋮と、そろそろ行くか。んじゃお前ら、またな。﹂
いい加減真面目に、弘美をほったらかしにするわけにいかないしな。
まぁ⋮弘美がいなけりゃ、こいつらと一緒にいてもなんの問題もな
いと言うか、むしろ一緒にいて楽しいからいたいくらいだが。
どちらかと言うなら勿論、弘美を選ぶ。こいつらはいいやつだが、
男であると言うだけで俺にとって一番にはならない。
581
﹁手までつないで、熱いねぇ﹂
﹁小学生かよ﹂
﹁だが皐月はいつも僕らと触れ合うのを嫌うよな﹂
﹁⋮誰が好き好んで野郎と手を繋ぐか﹂
﹁なるほどね﹂
武富は納得したが勇馬はむぅと顔をしかめて俺に顔を寄せてくる。
⋮気持悪い。こっちから触れたり、ちょっと触れられるくらいなら
大丈夫になったはずなのに、顔が近寄るとキモイ。
女だとそんなことは全く思わないし、頬や額にキスしたって大丈夫
なのに。
これってやっぱ⋮トラウマのせいだよなぁ。
友達なのに、そう思ってるのに、嫌悪してしまう自分がとてつもな
く嫌だ。
﹁⋮なんだよ勇馬﹂
﹁⋮もうヤったのか? お前は男になってしまったのか? どうな
んだ!?﹂
﹁⋮武富、バカの始末よろしく﹂
﹁オッケー﹂
﹁ぐ、離せ武富。俺は真実を求めるラブハンターなんだ﹂
⋮大学生って、バカでもなれるんだな。
武富に拘束される勇馬に哀れみの視線をなげてから俺は今度こそ二
人に手をふる。
﹁んじゃな﹂
﹁またメールするよ﹂
582
﹁真実を⋮真実を言うのだ皐月よ!﹂
﹁では勇馬様、武富様、さようなら﹂
○
﹁ふぅ⋮﹂
デパートから出た俺たちは暑さをしのぐため近くの喫茶店に入り奥
に座った。
﹁なに? あれ。皐月様の知り合いだけあってバカなのね﹂
向かいの俺には聞こえるが他のやつらには聞こえないだろうくらい
に声を抑えながら弘美は息をつく。
﹁う⋮うぅん、否定できないのが悔しいが、イイヤツはイイヤツな
んだぞ?﹂
﹁大人のくせに騒いじゃって、バカみたい﹂
﹁まあまだ18だし⋮。弘美は、大人だよな﹂
﹁当たり前でしょ。あんたたちと一緒にしないで﹂
﹁⋮なんで、弘美ってそんな猫被りってか⋮んー、何て言うか、し
っかりしてる?﹂
﹁あんたらがガキなだけよ﹂
583
﹁いや、まあ⋮けど、いくら何でもお前は猫被りすぎだろ﹂
﹁別に。つか、被ったほうがいいからよ﹂
﹁?﹂
意味がよく分からない。猫被ってたら友達できないじゃん。
首を傾げる俺に弘美ははぁとまた息をつく。
﹁あんたホントバカねぇ。世界は⋮あんたが信じてるほど綺麗なん
かじゃないんだからね﹂
﹁え⋮﹂
世界は綺麗なんかじゃない。
吐き気がするほど醜くて、理由のない悪意が存在する。
それくらい⋮知ってるつもりだ。
﹁何か⋮あったのか?﹂
もし辛いことがあると言うならば、救うことはできなくても、助け
ることができなくても、せめて慰めたい。
そう思うのは偽善なのか。
﹁別にないわよ。ただ、凡人やってたあんたには分からないかも知
れないわね。金持ちには金持ちのクソみたいな常識があんのよ﹂
﹁金持ちの常識?﹂
﹁お金は個人の意思より尊い﹂
﹁⋮は? ちょ、は? なに言ってんだよ﹂
﹁本当よ。そりゃ⋮全員が全員じゃないわ。けど、金のないやつら
よりは当たり前にそうなの﹂
﹁なんで?﹂
584
﹁⋮そうね、きっと、大義名分があるからよ。﹃家のため﹄。家の
名前のためにある程度お金がないと駄目、お金のためなら個人はい
らない。そんな感じね。お家のために政略結婚、実子がいても家の
ために優秀な養子をとったり、役に立たない子供は隔離したり⋮そ
んなの、珍しい話じゃないわ﹂
﹁⋮⋮﹂
そんなのおかしい。絶対に変だ。
変⋮だけど、それをどう言葉で伝えればいいのか分からない。
﹁⋮そんなの、変だ。なんか⋮おかしいだろ﹂
そのままに分からないままに伝えるが、弘美はそんなひねりのない
俺をバカにするでもなく、くすりと笑う。
﹁そうね。ヒロもそう思う。こんなのバカみたいよね﹂
けどすぐに俺から視線を外す。
﹁けど本当よ。上っ面だけの付き合いで腹の探りあいして、自分の
利益のために裏切る。大人だけじゃなくて子供もそんなふうに育て
られてるの。あんたみたいに自分をさらけだして誰でも彼でも信用
してたら⋮全て失うわよ。崎山なら、なおさらよ。金があるところ
にアイツラは集まるから﹂
⋮⋮⋮なんで、なんでそんなこと言うんだよ。
なんで⋮そんな顔で言うんだよ。達観したみたいなことを、そんな
寂しそうに言うんだよ。
﹁⋮⋮俺は⋮﹂
585
﹁何よ、このヒロに意見したいわけ?﹂
﹁俺は⋮お前を裏切らない。絶対、絶対だ。だから⋮悲しいこと言
うなよ﹂
﹁⋮当たり前でしょ。あんたはヒロの下僕なんだから﹂
﹁⋮⋮⋮ああ﹂
下僕だろうとなんだろうと、俺が裏切らないと思ってるならいいか。
ああ⋮でも、やっぱりそんなことを言って欲しくないし、思って欲
しくない。
1つしか年は変わらないけど、こんなに弘美は小さいのに⋮そんな
こと言うなよ。
﹁なぁ弘美。だから人混みも嫌いなのか?﹂
﹁人混みは⋮それとは別﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁ん⋮ちょい待ち﹂
弘美は俺を制し、何事かと思って振り向くとウエイトレスがいた。
﹁お待たせしました、アイスコーヒーとオレンジジュースです﹂
﹁ありがとうございます。はい皐月様、どうぞ﹂
⋮変わり身には驚くより感心するな。しかし、それも処世術ってや
つなんだよな。
でも⋮さっきから思ってたが学園外で﹃様﹄づけするの目立つぞ。
丁寧だけど普通使わないからな。
ウエイトレスは不思議そうな顔をしてから戻っていった。
﹁⋮で? なんで人混みとか嫌なの?﹂
586
﹁⋮愚民とまぎれるのがい︱﹂
﹁はいはい、それはいいから﹂
﹁⋮⋮嘘じゃないわよ。ただ、やっぱり人混みだと誘拐とかで危な
いじゃない﹂
﹁⋮え?﹂
ゆ⋮ゆうかい? ん、聞き間違いだよな?
﹁妖怪?﹂
﹁誘拐だっつの﹂
﹁え⋮は? ⋮お前より七海のが金持ちじゃん﹂
﹁バカ。七海様クラスになると本人が知らなくったって外出時はボ
ディガードがつくのよ﹂
だからヒロくらいが手頃で狙われやすいの。という言葉になるほど
と納得しかけ、ふと以前のことを思い出す。
﹁⋮前に七海に街で会った時は一人で、たちわるい男にからまれて
たけど﹂
﹁⋮⋮知らないわよそんなの。バレないように、そのくらいなら手
を出さずに見てたんじゃない。たまにいるのよね。ボディガード嫌
がる人が﹂
たまに⋮というか、そんなにボディガードつけてるやつ多いのか?
﹁ああ⋮まぁヒロも一応いるわよ。運転手兼ねてるからいつもは一
緒。今日は皐月様が一緒だから大丈夫かと思って﹂
﹁え、そんなに俺を頼りにしてたの? いやぁ照れるなぁ﹂
﹁は? あんた崎山家の一人娘のくせにボディガードつけてないの
?﹂
587
﹁⋮⋮だ、大丈夫、俺強いから﹂
そういう意味か。いやまぁ⋮でも、そのへんの男には負けない自信
はあるし、何よりゴツイ男が側にいるなんて最悪だ。
﹁は、マジで連れてないわけ? それでヒロをあんな人混み連れま
わしたわけ?﹂
﹁大丈夫、俺が守るって﹂
﹁⋮⋮呆れた。あんた自信過剰すぎ﹂
﹁ま、まぁとにかく、ボディガードいるなら人混み大丈夫じゃん﹂
﹁⋮うるさいなぁ、黙れないの?﹂
﹁え?﹂
﹁少しはそのうるさい口を閉じなさいよ﹂
またまた突然の暴言だが、俺は怒らない。いい加減、分かってる。
こいつがいきなり不機嫌なふりをするのは、自分に都合が悪かった
り、本当のことを言いたくない時だ。
﹁分かったよ。じゃあこれからどうする? ボディガード呼んで、
隔離部屋で買い物でもするか?﹂
﹁隔離言うな。ビップルームと言いなさい。いらない。買いたいも
のないし﹂
こいつには暇つぶしに買い物と言う概念がないのか⋮。そりゃそう
か。限られた部屋に要望の品を入れてもらって選ぶなら、ウィンド
ウショッピングなんて言葉も知らないのかな。
﹁⋮じゃあ、散歩しよう。人通り少ないとこ選ぶから﹂
﹁⋮まぁ、いいけど﹂
588
弘美はしぶしぶと言った風に頷く。よしよし。クーラーの部屋でご
ろごろするのも好きだけど、たまには外を動きまわりたくなる。
って、あれ?
ふと思ったんだが、人通り少ない方が普通、誘拐の危険は高いだろ。
⋮⋮⋮騙されてる、よな? 本当はなんで人混み嫌なんだろ。う∼
ん?
猫被りは要するに心を許さないためにだよな。人混み⋮⋮何故だ?
﹁なぁ弘美﹂
﹁ん? 何?﹂
ずず、と弘美はオレンジジュースをストローで飲みながら視線を俺
に向ける。
﹁⋮いや、ここの代金は俺がもつよ﹂
誤魔化した。
隠してるのを無理に暴くことはない。だって、今だって猫被りだっ
た理由を教えてくれたんだ。
いつか、もっと仲良くなったら教えてくれるだろ。
﹁当たり前でしょ﹂
﹁だよな。男が女に払わせるなんてカッコわるいしな﹂
﹁⋮じゃなくて、あんたがヒロの下僕だからよ。性別メスでしょ﹂
﹁ぐ⋮﹂
589
素で発言しただけに、指摘されると恥ずかしい。
590
猫被りな弘美︵後書き︶
ようやく弘美とのお出かけも終わりです。
まさか3話もかけるとは思いませんでしたが、一応このデートで皐
月の男の友人を出す。弘美の内心を明かす。と言う目標をクリアし
たつもりです。
勇馬と武富は今後出番があるので、その時のために今回会わせまし
た。
本当は母親との会話もして母の本心も書きたかったのですが、さす
がに長くなったのでやめました。
今後書くかは未定です。
では、またの更新をお待ちください。
591
優先順位
﹃今度は映画でも一緒に行きましょう。明日から公開の映画に見た
いのがあるの﹄
﹁じゃあ、ちょっと急だけど早速、明日行きますか?﹂
﹃あら、いいの?﹄
﹁七海さんが大丈夫なら喜んで。よっぽどの用がなきゃ七海さんの
誘いを断りませんよ﹂
﹃ホント? 嬉しいわ﹄
素直だなぁ⋮何で滝口皐月と崎山皐月じゃあこんなに差があるかな
ぁ。
俺は口調以外変えてないつもりなんだけどな。
﹁じゃあ、学園の近くに映画館ってあります?﹂
﹃あら? 私、学園寮にいるって言ってたかしら?﹄
ギク⋮
﹁え、ああ、皐月に聞いたんですよ。私たち、従兄妹ですから﹂
面倒くさいなぁもう。一人二役って本当疲れる。別に口調はそうで
もない。てか以前の﹃∼だぜ﹄も意識してやってたし。
でも何が面倒って、どっちの時に話をしたかってのを区別しないと
いけないのが面倒。
まぁ、個別の知り合いは七海しかいないんだけどな。
﹃そう。仲がいいの?﹄
592
﹁ええ⋮まぁ、それなりに﹂
﹃何だか歯切れが悪いわね。まぁいいわ。じゃあ時間も調べて後で
皐月君にメールするわ﹄
﹁わかりました。お任せします﹂
﹃ええ、じゃあまた後で﹄
﹁はい﹂
ピ︱
電話を切ってから息を吐く。何だかなぁ。夏休みに入ってから、こ
れで七海と遊ぶのは3回目だ。
勿論、口調と話題さえ気をつければ一緒にいて楽しいし、むしろす
すんで一緒に遊びたいくらいだが⋮⋮滝口の時は冷たいというか素
っ気無いくせに、崎山にばっか優しいのが、どんだけ俺嫌われてん
だよ。
と言うか⋮性格は変えてないつもりなのに。殆ど﹃俺﹄と﹃私﹄は
変わりがないのに何で態度が違うんだよ。
別に、好かれないから気にくわないわけじゃないけど⋮⋮いや、好
かれるにこしたことはないんだろうが。
でも、何ていうか、ほら、何だ? ⋮⋮何か、嫌だな。明確に差を
つけられるのって。
一人二役なんてバカなことしなきゃ知らなくてすんだのになぁ。
﹁⋮ちぇ﹂
明日はきっと楽しく過ごせるだろうし、そうするつもりだ。だけど、
七海が崎山皐月に笑顔を向けるたびにちょっとだけ寂しくなる。
滝口皐月は、そんなに気にくわないんだろうかって。被害妄想もは
なはだしいのはわかってるけどさ。
593
ピピピピピ︱
﹁ぁ、紗理奈?﹂
考えごとをしながら携帯電話を手でもてあそんでると、30分ほど
前と同じく音がなった。
ただし今度は男用ではなく女用で、サブディスプレイに表示される
名前は七海でなく紗理奈だ。
﹁はいはい、どうかしたか?﹂
﹃明日、遊ぼうよ﹄
? 何かいつもよりテンション高いというか、勢いこんでるな。
﹁や、明日は先約があるんだ。悪いな﹂
﹃どんな?﹄
﹁七海と遊ぶ。男としてだけどな。だから悪いな。女としてなら七
海にも連絡して一緒にいるよう頼むんだが⋮﹂
﹃どうしても駄目? 七海様のこと断るとか駄目?﹄
﹁もうちょっと早く電話してくれたら優先したんだが⋮。明後日は
駄目か?﹂
﹃⋮だよね。普通、先約を優先するよね。仕方ないよね﹄
﹁ああ⋮どうしたんだ? もしかしてなんかヤバいことでもあった
のか!? なら今から行く。今何処だ? 家か?﹂
もしなにかあったなら、俺に何もできないとしたって側に行く。
だって電話をかけてきたと言うことは、少なくとも俺に助けを求め
てると言うことだ。
594
﹃ち、違う違う! そんなんじゃないよ!﹄
慌てた様な電話越しの声に俺は浮かしかけた腰をまたベッドにおろ
す。
﹁そうなのか⋮? けど、なんかいつもと違うぞ﹂
﹃う∼ん、実は昨日、日本に帰ってきたんだよ。久しぶりだし遊び
たいな∼って﹄
そうか⋮何もないならいいんだけど。でも⋮やっぱり態度変だと思
うんだけど、寂しがってるだけか?
﹁⋮なら、明日遊ぶ?﹂
﹃え!? 会長のこと断るの!?﹄
﹁そんなわけないだろ。3人でだよ。たまたま待ち合わせる前に会
ったって言って七海と顔あわせたら、知り合いなら一緒にどう?と
か俺が言えばさりげないと思うんだが﹂
﹃⋮ホントにいいの?﹄
﹁なに変な遠慮してんだよ。紗理奈らしくないな﹂
﹃そ、そうかな? あたしらしくないかな?﹄
﹁ああ。やっぱ紗理奈はテンション高くって突っ走ってなきゃ﹂
﹃⋮⋮ありがと。じゃあ、本当にいいの?﹄
﹁ああ、待ち合わせ場所はまだ決まってないから後で連絡するよ。
あ、でも﹂
﹃なに?﹄
﹁崎山の俺は七海をさんづけして一人称私で敬語使ってるけど、笑
うなよ﹂
﹃マジ? 猫被りまくりじゃん﹄
﹁じゃなきゃ七海にバレるじゃん。ま、性格は変えられないから仕
方ないけど、口調と声質くらいはな。一応、低めに話してるし﹂
595
﹃へ∼? ま、せいぜい会長に気付かれないように笑うよ﹄
﹁笑うなっつーの!﹂
﹃ま、んじゃ後で連絡頼むよ∼﹄
軽く言いながら紗理奈は電話をきった。
⋮⋮⋮⋮⋮何だ? 途中からだいぶテンション変わったな。
⋮⋮まぁ、いいか。
考えたって人の気持ちなんて分からないし、考えるだけ無駄だ。そ
れに元気になったなら気にする必要もないだろうし。
○
てなわけで、ただいま七海との約束の一時間前。
早過ぎてとか言うな。七海が無駄に早く約束時間にくるのは今まで
の待ち合わせから分かって⋮⋮あれ? 前に4人で出かけようとし
た時は⋮まぁ、紗理奈がいるかいないかの違いか。
﹁おっ、はよー﹂
﹁テンション高いなぁ﹂
﹁高くなきゃあたしらしくないんでしょ?﹂
﹁暑苦しい﹂
このくそ暑いのによくもまぁ、元気だなぁ。いや、俺もこれからテ
596
ンションあげるけどさ。
紗理奈は俺の言葉に余程驚いたのか、目をまんまるに開く。
﹁な⋮⋮⋮う、わぁ。あたし、そんなの言われたの初めてだ﹂
﹁まぁ、ちょっと言い方はあれだけど。ノリだからそんな気にする
な。とりあえず⋮口調のスイッチいれるから﹂
﹁スイッチ?﹂
﹁七海さんが来た途端に切り替えて、あなたに笑われると困ってし
まいますからね﹂
﹁あ、確かに声低くしてるね﹂
﹁私のことは崎山皐月として扱ってください﹂
﹁⋮何か、今更君に敬語使われると変な感じ﹂
﹁放っておいてください。ま、とりあえず、今日はよろしくお願い
しますね﹂
﹁オッケーオッケー。てか、会長いつくるの? 約束は何時?﹂
﹁午後2時です﹂
﹁⋮は? まだ50分くらいあるじゃん﹂
﹁だって七海さん、いつも約束30分前にはいらっしゃいますから﹂
﹁⋮⋮⋮は? え、ちょっと待って、君の言う七海って榊原七海こ
と会長だよね?﹂
﹁それ以外誰がいるんですか。というか、そうだ。あなたが普段遅
刻しまくりだから知らないんですね。今日は紗理奈さんは珍しく時
間通りですけど﹂
﹁⋮⋮ん⋮けどな﹂
﹁え? 何か言いました?﹂
﹁⋮んにゃ、何にも﹂
? 何だかやっぱり、紗理奈の様子が変だけど⋮⋮紗理奈が何も言
わないなら、聞かないほうがいいな。
597
○
﹁おはようございます。七海さん、今日も早いですね﹂
﹁⋮どうして先にいるのよ。皐月君より早く来て待ちたかったのに﹂
﹁え? 何でですか? 七海さんが律義なのは分かりますが、別に
待つ必要はないでしょう。約束の時間より前ですし﹂
﹁⋮いいわよ、別に。じゃあ、行きま⋮あら?﹂
﹁おはよう、会長。奇遇だね﹂
﹁⋮どうしているの?﹂
よっぽど驚いたのか、七海は笑みを消してじっと紗理奈を見る。
と言うか七海が来たほうから見たら俺より奥にいたとは言え、俺の
隣にいたのに気づくの遅いぞ。
﹁え、と⋮﹂
﹁それはですね﹂
珍しくくちごもる紗理奈をフォローすべく、俺は予め決めておいた
設定を口にする。
﹁先ほどナンパされて絡まれてる彼女を見つけまして。手助けした
ところお礼にジュースを奢っていただき話をすると、なんと七海さ
598
んとお知り合いだというではありませんか。せっかくなのでお誘い
したのですが⋮駄目でしたか?﹂
よし、これなら何の穴もないだろう。缶ジュースも二人ぶん買って
るし。
﹁⋮そう。それは、凄い偶然ね﹂
﹁ですよね﹂
騙されてくれるか?
だが七海は困惑したような顔で俺と紗理奈を見る。
﹁でも紗理奈は旅行から帰ったばかりなのだから、今日は休んだほ
うが⋮﹂
﹁大丈夫ですって。ね、皐月もそう思うよね?﹂
﹁そうですね。紗理奈さんは元気に見えますよ? それに暇だと言
っていたので⋮⋮あの、もしかして怒ってます?﹂
﹁え、そんなことは⋮ないわ。皐月君は悪くないわ。紗理奈を助け
てくれて、ありがとう﹂
﹁いえ。当たり前のことをしたまでです﹂
騙してるだけに心苦しい⋮良心が痛むぜ。
でもようやく笑ったし、これで大丈夫だろ。
﹁じゃあ、少し早いけど入りましょうか﹂
﹁ラジャー﹂
﹁⋮ええ、そうね﹂
俺は二人を促し、映画館に入った。
599
○
﹁面白かったね、皐月﹂
﹁そう、ですね。七海さんはどうでした? 期待通りでしたか?﹂
どうも紗理奈がいると普段通りに話しそうになってしまうな。俺は
気をつけながら七海に話をふる。
この映画を見たいと言ったのは七海だ。ラブストーリーでそれなり
に面白かった。俺は男が苦手だし自分の恋愛なんて考えてないが、
それとこれとは話が別だ。
﹁⋮期待通りだったわ。面白かった。皐月君、誘ってくれてありが
とうね﹂
﹁いえいえ。じゃあこれからどうします?﹂
﹁あたし小腹空いちゃった。二人は?﹂
﹁⋮私は別に﹂
﹁そうですねぇ。それほどではないです。というか紗理奈さん⋮さ
っきポップコーン食べたのにお腹空いたんですか?﹂
﹁いや、一人でデかいのまるごと食べた君に言われたくないんだけ
ど﹂
そう言えば七海と紗理奈は二人で俺のより1ランク下のサイズを食
べてたな。
﹁まぁほら、それは男女の差です﹂
﹁君、男じゃ⋮ないくらい小さいし、あたしらと体格変わんないじ
ゃん﹂
600
うぅあ、めちゃ微妙。間を気にしなければ大丈夫か? ていうか、
だから紗理奈には今は崎山だからって念押ししたのに!
﹁紗理奈、あなた失礼でしょう。確かに皐月君は小柄だけど、その
うち伸びるわよ﹂
伸びねぇよ。お前俺を何歳だと⋮⋮年言わなかったっけ?
﹁七海さん、一応言うと私、紗理奈さんと同い年ですよ﹂
﹁え⋮﹂
﹁? 前に皐月の、女のね、母親が同じ時に生まれたって言ってま
したよね?﹂
﹁あ⋮そ、そういえば。皐月君、小さいからてっきり﹂
﹁てっきり?﹂
﹁中が⋮何でもないわ﹂
っておい。中学生って言おうとしただろ。いや、え、俺童顔?
﹁まぁ皐月、女皐月と顔同じだし男にしちゃ幼く見えるかな?﹂
﹁そ、そうですか﹂
全く同じでも女か男かで年齢違うように見えるのは、まぁ理解して
たつもりだが⋮中学生ですか。
﹁ま、まぁ大丈夫よ。背が高いだけが男性の魅力じゃないわ﹂
﹁童顔でもですか?﹂
﹁それも合わせて⋮皐月君は、魅力的に見える⋮わよ?﹂
﹁ありがとうございます。フォローでも嬉しいです﹂
﹁え、いや、その⋮ふふ﹂
601
何で笑う?
﹁ごめんなさい、ふふ⋮何でもないわ﹂
七海は俺の不思議そうな顔に誤魔化すように微笑む。
﹁じゃあ、紗理奈の小腹でも満たしに行きましょうか﹂
﹁はい﹂
﹁やった、会長大好きっ﹂
あ、なんかようやく、いつもの七海らしくなったな。
602
ゲームセンター
﹁ねー、アレ食べよーよ﹂
﹁ちょ、ちょっと待って。七海さんっ﹂
俺は紗理奈に待ったをかけ、人混みに紛れそうな七海の手を掴んで
引き寄せる。
﹁きゃっ⋮とっ、あ、ありがとう、皐月君﹂
紗理奈が喫茶店はちょっとなーとかまた我が侭を言い出したので商
店街を歩くことになった。
だが夏休みということもあり人混みが凄い。
﹁いえ、はぐれても面倒なので手を繋いでおきましょう﹂
﹁え、ええ⋮分かったわ﹂
七海は恥ずかしそうに頬を染めるも背に腹は変えられないのか、俺
の手を握りかえしてきた。
﹁⋮、会長だけずるいー! 皐月、あたしとも手ぇ繋いでよ!﹂
﹁はあ、別に良いですけど﹂
紗理奈は相変わらずテンションが高くて、にんまり笑顔で俺の空い
てる右手を握る。
ていうか、両手を握られてるとまるで連行されてるようだとか思う
のは被害妄想だろうか。
603
﹁よし、んじゃ行くよ! まずはアイスクリームへ突撃だ!﹂
﹁まずは、って何軒まわる気ですか!?﹂
﹁いいからいいから!﹂
紗理奈は何の遠慮もなく俺の手をひく。
だがそれはつまり七海も引っ張られると言うことだ。
俺は七海にちらと視線をやりながら握る手に力をこめる。
﹁っ⋮⋮、ー﹂
七海は俺と目があうとにこっと笑った。
ほっ⋮大丈夫そうだ。
○
3人でアイスクリームを食べると今度は紗理奈は﹃ゲームセンター
に行きたい﹄と言い出した。
まぁ⋮いいけど。七海に確認すると構わないと返事をいただいた。
最初は何だか機嫌悪いかとも思ったが、いつもみたくなったし良か
った良かった。
﹁へぇ⋮色々あるのね﹂
きょろきょろと興味深そうに周りの機体を見回す七海とは逆に、紗
604
理奈は鼻歌まじりにどれにしようかな∼と言っている。
﹁ね、ね、3人でレースしようよっ﹂
﹁ん、いいですよ。七海さん﹂
﹁え、あ⋮何かしら?﹂
﹁やり方、分かりますか?﹂
﹁ば、バカにしないでくれる? こんなの⋮⋮え∼っと、く、車の
動かし方なら分かるわよ?﹂
七海は機体のシートに乗りこんだはいいものの、ハンドルを回しな
がら反応しない画面に困惑したような視線を俺に向ける。
﹁どっちがアクセルでブレーキか分かりますか?﹂
隣のシートに座りながら聞く。紗理奈は七海の俺と逆隣に座る。
﹁そ、そのくらい分かるわよっ。⋮み、右がアクセル、よね?﹂
﹁はい、よくできました。じゃあ100円玉をいれてください﹂
﹁⋮⋮え?﹂
七海は不思議そうに首を傾げる。いや、なにその反応?
﹁?﹂
﹁会長、100円玉はこれです﹂
紗理奈が財布から何枚か小銭を七海に渡す。
﹁あ、ありがとう。用意してくれたのね﹂
用意ってか、財布に入ってるだろ⋮⋮ん? そういえば七海がカー
605
ド以外使うの見たことないような? 細かいのは俺がおごるし。
﹁紗理奈さん⋮まさか﹂
﹁うん。会長、現金にふれたことないんだ﹂
﹁⋮⋮うわぁ﹂
マジですか。
﹁ちょっと紗理奈! 何を言うのよ!﹂
七海に睨まれてもどこふく風な紗理奈はにやぁと意地悪な笑みを浮
かべる。
﹁え∼? 真実を言ってるだけですよ?﹂
﹁∼∼っ、バカっ﹂
七海はぶぅと頬を膨らませながら100円玉を機械にいれようとして
﹁⋮どこにいれるの?﹂
と不安そうに俺を伺う。
つか、可愛いっ! なんだこいつ⋮ううあ、これが素なのか? ち
ょっと待てマジ可愛くないか、これがかつての悪魔⋮!?
俺は動揺を隠しながら投入穴を指差す。
﹁ここにいれるんですよ﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
七海はお金をいれる。俺も遅れないようにお金を入れる。紗理奈も
606
いれて3人対戦に設定される。
﹁会長、分かんないならとりあえずアクセルで決定してください。
とにかくアクセル踏んでハンドル操作だけでいいですから﹂
﹁え、ええ⋮分かったわ﹂
車を選び、コースは初心者コース。
レースは始まった。
○
﹁ゴーーールッ!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ご⋮ごーる。お先です﹂
︱逆走しています。逆走しています。
﹁⋮⋮あ、あの、七海さん﹂
﹁会長、めっちゃ逆走じゃん!﹂
や、やめてくれ紗理奈! 七海を刺激しないでくれ!
爆笑する紗理奈。七海はぷるぷるとハンドルを握りながらうつ向き
気味になる。
607
﹁な、七海さん、ほら⋮逆走ならこうやって﹂
俺は横から手を伸ばしてハンドルを操作する。
﹁え⋮﹂
﹁あ、アクセルは踏んでください﹂
﹁え、ええ﹂
﹁で、なるべく真ん中を走るようにすればいいんです。カーブは早
めに曲がった方がいいですよ。そうすれば少なくとも壁にはぶつか
らずにすみます﹂
遅れてだが七海もゴール。
﹁じゃ、会長ビリだし罰ゲームね﹂
﹁待った待った! 自分が勝ったからって付け足すのはズルイです
よ﹂
ていうかお前は七海を怒らせるためにきたのか!?
﹁いいよ。じゃ、次から罰ゲームね。何する?﹂
﹁ん、ん∼⋮七海さんは何かしたいものはありますか?﹂
﹁⋮これをするわ﹂
﹁え⋮これって⋮これですか?﹂
七海がこれ、と言いながらぺしぺし叩いたのはハンドル。
つまりは再挑戦したいらしい。まぁ待ってる人がいるわけでもない
しいいけど。
﹁ええ⋮負けっぱなしは、しゃくだもの﹂
608
﹁じゃ、会長、100円どーぞ﹂
﹁ありがと。口座言ってくれれば後で振り込ませるわ﹂
﹁はは、まぁ後でおごってくれたらチャラですよ﹂
﹁そ。じゃあ二人とも、入れるわよ﹂
﹁罰ゲームはキャッチャーで一番に何かあげることにしましょうよ﹂
﹁キャッチャー? ⋮いいわよ。要は勝てばいいんだもの﹂
負けず嫌いは結構だが、何でそんな自信満々なんだよ。紗理奈はか
なりゲーム慣れしてるし、俺だって人並みにはしたことがある。
俺は遅れないよう100円玉を再び投入。
︱レディー⋮ゴー!
機械音がなるが今度はスタートを見送ってみる。
意気込んだ七海だが、別にコツをつかんだわけでもなく、策がある
わけでもないらしい。
前回と同じく紗理奈はロケットスタートし、七海は遅れること3秒
はかけてもたもたとスタートする。
﹁あれ、皐月まだ出発してない?﹂
﹁ようは、ビリにならなければいいんでしょう? 紗理奈さんには
勝てないので、せめて七海さんといい勝負がしたいのでハンデです﹂
﹁な、し、失礼な! そんなことしなくたって勝つわよ!﹂
いや、ごう慢とかバカにしてるとかじゃなく、二回目の七海じゃま
だ慣れてないんだし無理だって。
﹁いいじゃんそれ。どっちにしろあたしは勝つけど、会長のおごり
決定戦じゃ可哀想だしね﹂
609
﹁誰が決定せっ、だっ!﹂
ちなみに解説すると七海は﹃誰が決定戦だ!﹄と言ったのではなく、
たぶん﹃誰が決定戦よ﹄と言いたかったんだろうがセリフ途中で壁
にぶつかったから﹃だっ﹄と声をあげただけだ。
﹁う、う∼﹂
﹁唸ってないでハンドルきってアクセル踏んでください﹂
﹁わ、分かってるわよ!﹂
七海はムキになって乱暴にハンドルをきる。
よしよし、そろそろいいだろ。
﹁んじゃ、行きますか﹂
俺もハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
○
﹁おおっと、七海選手、皐月選手に追いつかれたー!﹂
紗理奈はゴールして暇なのか解説をいれてきた。
しかし文字通り俺は前方に七海の車をとらえていた。
610
ううむ、あんまりスピードがでないようにアクセル踏んで離して調
節してたんだけどな。
﹁あっ﹂
ってまた壁にぶつかってるし。ああもう!
﹁七海さん、早くしないと追い越しますよ﹂
後ろから車を押すようにぶつける。
﹁ちょ、ちょっと待って。あ、ちょっ。は、速い速い!﹂
俺にぶつからないようにアクセルを踏む七海だが、俺もそれに合わ
せてアクセルを踏むので、七海はさらにスピードをあげることにな
る。
﹁速くしてるんです﹂
速度制限ないのに速いからって何が悪いんだよ。ていうか
﹁ビビりすぎです。ほら、アクセルは限界まで踏んでください﹂
﹁ぶつかるわよ!﹂
﹁大丈夫。このゲームはぶつかっても車壊れませんから﹂
﹁壊れるの!?﹂
﹁ないですって!﹂
ガンガン後ろからぶつかりながら進んでいたがようやく七海との車
にスペースができた。
スピードで言うと七海のが速いんだから︵俺のは小回り重視︶この
611
ストレートが多いコースなら本来なら七海が勝ちやすいはずなんだ
し、自信もって進め!。
ていうか、ストレートで何度も壁にぶつかるなよ!
﹁おおっと七海選手! 皐月選手をふりはらったぁ!﹂
よしよし、当たり前だが俺と七海の車はどんどん差が開いていく。
﹁おおっと皐月選手、ビリなのに笑っております! こいつはもし
や秘策でもあるのか!?﹂
え、ちょっ、何だそのいいがかりは。
﹁ええ!? だ、だめよ! 今度こそ私が勝つわよ!﹂
しかも真に受けた! いや、まぁいいけど。
﹁おおっと七海選手! ますますスピードをあげた! おおっとし
かし皐月選手は余裕の表情だ! おおっと、しかしもうゴールは近
いぞ! おおっと七海選手ゴーーール!!﹂
﹁おおっとおおっとうるさいですよ﹂
紗理奈、絶対﹃おおっと﹄って言えば解説っぽいと思ってるだろ。
﹁ふぅ、やっぱり人間、諦めないことが肝心よね﹂
七海はやり遂げた表情でうんと満足そうに頷いた。よしよし、俺が
手加減したのはバレてないな。
612
﹁⋮⋮﹂
﹁ん? 紗理奈さん、どうしました?﹂
﹁んー⋮何をキャッチってもらおっかなーって思ってね﹂
ぼーっと画面を見る紗理奈に気づいて声をかけるとにやと笑って言
われた。
﹁あーはいはい、お好きなものを指定してくださいよ。七海さんも
ほら﹂
﹁? ええ﹂
あー、やっぱりキャッチャーの意味分かってないか。
俺と紗理奈は七海を連れてUFOキャッチャーの乱立する区域に行
く。
﹁これが俗に言うUFOキャッチャーです。アームを二度だけ操作
して景品を掴めばオッケーなゲームです。﹂
﹁ふぅん⋮あら、これは一回300円なのね﹂
﹁ものによりますけどね﹂
﹁ふぅん⋮紗理奈、お金﹂
﹁はいはい﹂
紗理奈⋮まるで財布扱いなのに従順だな。⋮⋮付き合い長いから諦
めてるのか?
あ、でもこいつ副会長だし七海のサポートには慣れてるのか。⋮⋮
そういやマジで俺、雑用しかしてないような⋮まぁいいか。
﹁よーし、このボタンね﹂
613
﹁会長、先にどれを取るか決めた方がいいですよ﹂
﹁え、ええ。う∼ん、どれ、ねぇ⋮﹂
ガラス板に手をはりつけ子供のように覗きこむ七海。
﹁皐月皐月﹂
﹁え? 何ですか?﹂
﹁あたし、時計ね。鞄につけるからゴツイ系は禁止﹂
﹁ん。ああ、分かったよ。とってくる﹂
﹁敬語、とれてるよ﹂
﹁あはは⋮とってきます﹂
やべ。紗理奈相手だとつい。
○
﹁紗理奈さん、ただいま戻りました﹂
﹁お、ごくろー⋮⋮うわ﹂
え、何だその反応。
俺が紗理奈に渡したのは4回︱1000円かかったチープな腕時計
だ。
壁かけか目覚ましでボケようかとも思ったが、鞄につけると言われ
614
て腕時計をとらなきゃバカにされかねないし⋮⋮それに腕時計の方
がとりやすい。
機体数も多いから見て回って一番格好いい腕時計を選んだんだが⋮
何がいけないんだ?
﹁ゴツイ系は駄目つったじゃん﹂
﹁だ、だって、格好良かったし⋮紗理奈さんなら何だって似合いま
すよ﹂
﹁鞄にあわなきゃ意味ないっつーの!﹂
﹁ご、ごめんなさい⋮。えー⋮七海さんは⋮﹂
文句を言う紗理奈に時計を渡して七海を見るとまだやってた。
﹁⋮何回目ですか?﹂
﹁15⋮7だっけかな﹂
俺が移動してた時間いれたとしても俺の倍以上かけてんのか。
﹁⋮分かった。なーなみさんっ﹂
﹁! ⋮さ、皐月君? びっくりさせないでよ﹂
肩をぽんと叩いただけだが集中していただけに七海はひどく驚いた。
﹁すみません。ところで七海さん、どれが欲しいんですか?﹂
﹁えー⋮と⋮あの、熊の人形よ﹂
何だ。簡単じゃん。さっきの腕時計は奥にあったので箱の角にひっ
かけるのに苦労したが、この熊は頭にひもがついてるし真ん中にい
る。
615
﹁お金入れてますね﹂
﹁ええ。500円いれたわ﹂
俺は脇から手をいれてボタンを押す。
﹁あ、ちょっと﹂
﹁何ですか、と、失敗失敗﹂
うーむ、ちょっと行き過ぎた。あらは熊の耳を撫でて終わる。
﹁ラストチャーンス。動かないでくださいよ﹂
﹁⋮⋮﹂
よし、今度こそ成功。
下から取り出して七海に渡す。
﹁どーぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮ありがとう﹂
何故か睨まれた。
うわ、めちゃめちゃ不機嫌だ。あ、自分でとりたかったのか⋮。
﹁えーっと、ごめんなさい?﹂
﹁⋮別に、いーわよ。怒ってないから﹂
言いながら七海は全長15センチくらいの熊の人形を両手で抱きし
めてから、ぷいとそっぽを向いた。
怒ってる。間違いなく怒ってる。
﹁⋮そ、そうだ。次はもぐら叩きしません?﹂
616
﹁⋮もぐら?﹂
﹁ええ。最近はデジタル化して画面にうつるのを叩くのもあります
けど、個人的にはアナログなのがいい感じですよ﹂
それに画面のだと的が小さいのもいるし、どこに出るか分からない
し、七海には難しいかも知れない︵失礼な話だが︶。
﹁そんなものもあるの?﹂
﹁はい。紗理奈さん、いいですか?﹂
﹁いいよ。むっふっふ、あたしは何だって得意だからね。得点が一
番低い人は罰ゲームにしようよ﹂
﹁つくづく勝負ごとが好きな人ですね﹂
﹁あたしだけじゃないよ。会長だって負けず嫌いだし。ねー会長?﹂
﹁ふん、そんなの当たり前よ。私は⋮負けるのが嫌いなの﹂
うーん、そりゃ誰だってそうだけど。俺は別に⋮気にすることもあ
るけど、ゲームくらいじゃ負けたからどうとは思わないかな。
とりあえず不機嫌から脱した七海を連れてモグラ叩きの場所へ行く。
﹁紗理奈さん﹂
﹁? なに?﹂
﹁ちょっと抜けます。七海さんの相手をよろしくお願いします﹂
﹁ん、分かった﹂
よく分かってないだろうが了解する紗理奈。
﹁私が戻るまでに七海さんを特訓させてあげて下さいね﹂
﹁にしし、本人に言ってやろ。下手だから練習時間やるって﹂
﹁⋮まぁ、とりあえず後で﹂
617
﹁ん。会長ー、行き過ぎです。モグラ叩きはこれです﹂
﹁あら、そう﹂
七海に追いつく紗理奈を見てから俺は踵を返した。
一応、罰ゲームは罰ゲームだもんな。
618
ゲームセンター︵後書き︶
ちょっと中途半端ですが、ここから視点が変わるので次の話になり
ます。
結構間をあけてましたが実はこの話なら前からできてました。
ただこの次がどーするかかなり悩んでいます。
次回、展開がちょっと急かも知れません。
619
七海の疑問
私が待ち合わせ場所に行くと、昨日まで約束していた相手がいた。
一瞬、私の後をつけたのかと思ったが、よく考えたらそれなら先に
いるはずがない。
それに皐月君とすでに知り合っていたし、多分本当なのだろう。
とは言っても、いくら何でも偶然にすぎるが。
でも正直に言えば、皐月君は私と二人でなくなってもいいのかしら
とか思ったり、紗理奈が馴れ馴れしく呼び捨てにするのも何だか気
に食わなかった。
だけど映画観では私が真ん中で、皐月君も紗理奈も観察できたけど
普通にしていた。
だから、気にしないことにした。せっかく皐月君といるんだから、
楽しむことにした。
﹁んー、何かあったかいもん食べたいなー﹂
﹁あったかいものですか⋮コロッケとか?﹂
﹁いいねぇ﹂
何故かよく分からないが、私は皐月君と手を繋いでいた。
いや、分かっている。紗理奈の走りについて行けない私を皐月君が
気遣ったからだ。
⋮紗理奈とも手を繋いでいるのはちょっとあれだけど、まぁいいわ。
﹁それはちょっと油っぽすぎるわよ。おかずじゃない。コロッケだ
け買うなんて聞いたことないわ﹂
620
﹁それは七海さんがお金持ちだからです。学校帰りに小腹がすいて
コロッケとかわりとポピュラーですよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁はい。ま、会長だけじゃなくてあの学園のみんなわりと知らない
と思いますよ﹂
⋮フォローされた。うぅ、皐月君がいると思うとなお恥ずかしいわ。
○
私は恥ずかしながら生まれて初めて﹃ゲームセンター﹄というとこ
ろに来た。紗理奈には薦められたことはあるけど、機械を使うゲー
ムはやったことはない。
﹁ね、ね、3人でレースしようよっ﹂
紗理奈がはしゃいだように声をあげて大きな機械を指さす。
ハンドルがついているし、これでレースの真似事をするのだろう。
﹁ん、いいですよ。七海さん﹂
﹁え、あ⋮何かしら?﹂
﹁やり方、分かりますか?﹂
621
﹁ば、バカにしないでくれる? こんなの⋮⋮え∼っと、く、車の
動かし方なら分かるわよ?﹂
皐月君の言い方にかちんときて席っぽいところに座ったけれど、ハ
ンドルを回しても画面は反応しない。
﹁どっちがアクセルでブレーキか分かりますか?﹂
隣のシートに座りながら皐月君が聞いてきた。
紗理奈は皐月君とは逆の私の隣に座る。
﹁そ、そのくらい分かるわよっ。⋮み、右がアクセル、よね?﹂
﹁はい、よくできました。じゃあ100円玉をいれてください﹂
正解だったことにほっとしながら︵だって私免許持ってないんだか
ら知らないのが普通よ︶皐月君の言葉に首を傾げる。
100円を入れる? 何言ってるのかしら? カードを通すとかじ
ゃなくて?
﹁会長、100円玉はこれです﹂
﹁あ、ありがとう。用意してくれたのね﹂
困ってるとすかさず紗理奈が私にコインを渡す。
あ、見たことあるわ。そう、皐月君がお店の人に渡したりする⋮お
金だ。
⋮あー、ちょっと忘れてただけよ。本当よ?
カードばかり使ってただけで紙幣や硬貨の存在を忘れていたわけじ
ゃないわよ?
622
﹁⋮うわぁ﹂
皐月君には驚きで見られ紗理奈にはにやにやと笑われ、私は恥ずか
しさを誤魔化すため100円玉を機械にいれ︱
﹁⋮どこにいれるの?﹂
わからなかった。
笑ってる紗理奈に聞くのは嫌なので皐月君に聞くと、皐月君はさす
が、笑わずに教えてくれた。
﹁ここにいれるんですよ﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
﹁会長、分かんないならとりあえずアクセルで決定してください。
とにかくアクセル踏んでハンドル操作だけでいいですから﹂
﹁え、ええ⋮分かったわ﹂
紗理奈に言われた通りにとりあえずやってみた。
﹁ゴーーールッ!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ご⋮ごーる。お先です﹂
︱逆走しています。逆走しています。
二人がゴールの効果音を機械から出す中、私の機械だけが合成音声
を出していた。
﹁⋮⋮あ、あの、七海さん﹂
623
﹁会長、めっちゃ逆走じゃん!﹂
紗理奈に爆笑され、皐月君には気づかうように見られた。
恥ずかしい。なんで、私ばかり壁にぶつかるのよ!
おかしい! この機械絶対壊れてるわ!
﹁な、七海さん、ほら⋮逆走ならこうやって﹂
機械に怒りをぶつけてやろうかと思っていると、皐月君が横から手
を伸ばしてハンドルを操作してきた。
﹁あ、アクセルは踏んでください﹂
言われるまま足は踏み、皐月君の邪魔をしないように手の力を抜い
た。
﹁で、なるべく真ん中を走るようにすればいいんです。カーブは早
めに曲がった方がいいですよ。そうすれば少なくとも壁にはぶつか
らずにすみます﹂
むむ、なるほど。確かに私は真ん中を走るとか考えてなかったわ。
そうしてると私の車はゴールした。
すると紗理奈が再びのにやにや顔で提案してくる。
﹁じゃ、会長ビリだし罰ゲームね﹂
﹁待った待った! 自分が勝ったからって付け足すのはズルイです
よ﹂
﹁いいよ。じゃ、次から罰ゲームね。何する?﹂
624
﹁ん、ん∼⋮七海さんは何かしたいものはありますか?﹂
したいもの、と言われても私はこの車しか知らないし、何より負け
たままなんて嫌だわ。
私は再戦を申しこんだ。
罰ゲームのキャッチャーの意味がよく分からないけど、勝てばオー
ルオッケーよね。
さっきと同じコースと車でレーススタート。
﹁あれ、皐月まだ出発してない?﹂
紗理奈の言葉にうん?と思いながら画面の端を見ると皐月君の番号
はまだ動いてなかった。
と思ってると皐月君はハンデとか言い出した。え、私そんなに下手
かしら? だとしてもちょっと待ちなさい。
私が下手として、手加減なんてバカにしてるわ。皐月君と言えど私
をバカにし過ぎよ!
と思ったのに紗理奈ってばあっさりオッケー。あまつさえ
﹁会長のおごり決定戦じゃ可哀想だしね﹂
と言われた。
﹁誰が決定せっ、だっ!﹂
誰が決定戦よと言おうとしたら壁にぶつかってしまった。
625
いけないいけない。集中しなきゃ。
﹁う、う∼﹂
﹁唸ってないでハンドルきってアクセル踏んでください﹂
﹁わ、分かってるわよ!﹂
私はいらいらを抑えながらぐいぐいハンドルを回す。
﹁おおっと、七海選手、皐月選手に追いつかれたー!﹂
何度か壁にぶつかってしまってると、いつの間にか皐月君の番号が
迫ってきている。
﹁七海さん、早くしないと追い越しますよ﹂
と言いながら皐月君が後ろから私の車にぶつかった。
﹁ちょ、ちょっと待って。あ、ちょっ。は、速い速い!﹂
なんでぶつかってるの!? な、え、待って!
私は皐月君にぶつかられないようにとにかくアクセルを踏みつけた。
﹁おおっと七海選手ゴーーール!!﹂
ふぅ、やっとゴール、というより終わったわ。何だか疲れた。勝て
たのには達成感があるけど⋮。
626
﹁おおっとおおっとうるさいですよ﹂
⋮どう考えても皐月君に勝ちを譲られたわよね。
皐月君は何事もないかのように苦笑。
﹁ふぅ、やっぱり人間、諦めないことが肝心よね﹂
と、とりあえず気付いてないフリをしたけど、皐月君が私に情けを
かけたことは分かっている。
というか油断したとかじゃなく、最初からそのつもりだったわね。
⋮⋮ここは、悔しがって文句を言うところだと思うのだけど⋮どう
してかしら。
皐月君が相手だと気にならないのよね。
どうしてかしら? 皐月君といると甘やかされたりしても気になら
ないし、だけど知らないことを指摘されたりするのは普通の何倍も
恥ずかしい。
それに皐月君といると楽しいし何だか嬉しいけど、皐月君を見てる
と落ち着かないのは⋮⋮何故かしら?
﹁あーはいはい、お好きなものを指定してくださいよ。七海さんも
ほら﹂
﹁? ええ﹂
うん? えっと、何の話だったかしら。
あー、﹃キャッチャー﹄ね。
二人に着いていくと今度はおっきな箱に色んなものが入った機械が
並んだエリアに行った。
627
説明を受けた私は紗理奈にお金をもらっていれる。
操作は単純だ。すぐに分かった。
﹁よーし、このボタンね﹂
﹁会長、先にどれを取るか決めた方がいいですよ﹂
﹁え、ええ。う∼ん、どれ、ねぇ⋮﹂
言われると確かに、目標を定めないとうまくいくものもいかなくな
ってしまう。
どれにしようかしら。
私は機械の中を覗いた。
○
カチャン︱
500円硬貨を入れる。これで何度目かわからないけど、ここまで
きて諦めるなんて選択肢は存在しない。
私は今度こそと気合いをいれて、もう一度、熊を睨むがごとく位置
を確認する。
﹁なーなみさんっ﹂
﹁! ⋮さ、皐月君? びっくりさせないでよ﹂
肩をぽんと叩かれ、私は勢いよく振り向く。そこにいたのは皐月君
628
だった。
あー⋮びっ、くりしたわ。間違えてボタン押すところだったわ。
﹁すみません。ところで七海さん、どれが欲しいんですか?﹂
何事もないかのように尋ねられたので、私も何事もなかったように
ガラスケースの向こうの人形をひとつ指さす。
﹁えー⋮と⋮あの、熊の人形よ﹂
﹁お金入れてますね﹂
﹁ええ。500円いれたわ﹂
何故そんな質問をするのかわからなかったが、とりあえず私は頷い
た。
すると皐月君は私を抱くように両手を私の脇にいれてボタンを押し
た。
﹁あ、ちょっと﹂
唐突な密着に私は慌てるが、皐月君は平気な顔で中を見ている。
﹁何ですか、と、失敗失敗。ラストチャーンス。動かないでくださ
いよ﹂
言いながら皐月君は作業を続けるが、私はそれどころではない。
近っ! 近いわよ! 息が分かるって近すぎ!
﹁⋮⋮﹂
629
硬直してると皐月君は私の横から手をどけるとしゃがんだ。
そして立ち上がった皐月君の手には私が指定した人形があった。
﹁どーぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮ありがとう﹂
ものすごく恥ずかしい。
どうしてこんな恥ずかし目を受けてるのかと私は思わず照れ隠しも
合わせて皐月君を睨むように見る。
﹁えーっと、ごめんなさい?﹂
﹁⋮別に、いーわよ。怒ってないから﹂
確かに恥ずかしいのは皐月君がくっついてきたのが原因と言えばそ
うだけと、だからって嫌なわけでは全然なくて⋮⋮えっと、だから
別に、怒ってるんじゃないし。
熱くなってきた顔を見られたくなくて、私は両手でもらった人形を
抱きしめてあらぬ方向に顔をやる。
﹁⋮そ、そうだ。次はもぐら叩きしません?﹂
﹁⋮もぐら?﹂
﹁ええ。最近はデジタル化して画面にうつるのを叩くのもあります
けど、個人的にはアナログなのがいい感じですよ﹂
﹁そんなものもあるの?﹂
皐月君は見ないようにしながら不自然でない程度にうつ向き気味に
紗理奈の方を向いて尋ねる。
﹁はい。紗理奈さん、いいですか?﹂
630
﹁いいよ。むっふっふ、あたしは何だって得意だからね。得点が一
番低い人は罰ゲームにしようよ﹂
﹁つくづく勝負ごとが好きな人ですね﹂
﹁あたしだけじゃないよ。会長だって負けず嫌いだし。ねー会長?﹂
﹁ふん、そんなの当たり前よ。私は⋮負けるのが嫌いなの﹂
二人の会話を聞きながらなんとかほてりをおさめて、私は紗理奈に
返事をした。
とはいえまだ皐月君の顔を見るのは恥ずかしくて、私は二人より先
に歩きだした。
○
ぴこ、ぴこ︱ぴろりろりん︱
﹃32点﹄
﹁⋮⋮﹂
リアルに低い点数を出してしまった。
しかも先に4回も練習したのに⋮最初の0点からはまだマシになっ
たのよ? タイミングが難しいのよね。
﹁えー⋮と﹂
631
﹁七海様どべー!﹂
楽しげに紗理奈が言う。
ま、まぁ、たまにはこんなこともあるわね。
﹁ふっ、いいわ。罰を受けてあげようじゃない﹂
﹁何で上から目線⋮﹂
﹁んじゃ⋮んー、会長向きの罰ゲームねぇ⋮﹂
私向きって何よ。皐月君のツッコミも気になるけど⋮何をやらされ
るのかしら?
﹁んー、よし、ダンスゲームに挑戦してもらおっかな﹂
﹁ダンス⋮そんなものもあるの?﹂
﹁え、ちょっと難易度高くないですか?﹂
む、失礼ね。私に不可能はないわよ。
不可能はない。勿論ない。あり得ない。
ただ、私も人間なので練習くらいは必要で、いくら私が才能溢れる
と言っても何でも一発でプロ級とはいかない。
つまり何が言いたいかと言うと
﹁う、む、ぬ﹂
﹁会長、ズレてるズレてる!﹂
﹁わ、分かってるわよっ。ん、もうっ﹂
632
難しい。ダンス難しい!
画面では上から下へと矢印が流れていく。下と重なった時に踏むだ
けと言われたけど、全然﹃だけ﹄じゃない。
難しすぎる。社交ダンスの授業の成績はいいからいける気がしたけ
ど甘かったようだ。
早いしややこしい。何なのかしらこれは。
﹁会長、こうですよ、こう!﹂
声につられて隣の紗理奈を見ると画面では矢印が光りまくりだった。
﹁⋮⋮止めたい﹂
紗理奈の隣だとますます私が惨めになるわ。
﹁ダメですよー。罰ゲームなんですから﹂
﹁分かってるわよっ﹂
だいたい、流行りの歌って言っても聞いたことがないのにリズムな
んて分からないわよ!
結果は散々だった。というかどうして紗理奈はできるのよ。
私だって別に、運動オンチってわけじゃないのよ。ちょっとタイミ
ングをとるのが苦手なだけよ。
﹁いやぁ、楽しかったねぇ会長﹂
﹁く⋮﹂
633
絶対、次にやるまでにうまくなってみせるわ。
﹁あれ、皐月は⋮会長、皐月知りません?﹂
﹁あら⋮そう言えばいないわね﹂
回りを見ると皐月君が歩いてきた。手には缶を二つ持っていた。
﹁七海さん、紗理奈さん、お疲れさまです﹂
﹁あ、いた。どこ行ってたの?﹂
﹁ジュースを買いに。どうぞ、紗理奈さんはコーラ、七海さんはカ
フェオレでいいですか?﹂
﹁ん、ありがと﹂
﹁ありがとう﹂
缶を受け取って⋮どうやるのだったかしら。中に飲み物が入ってる
のは知っているし、一度目の前で開けてもらったこともあるのだけ
ど⋮⋮。
﹁あ、七海さん﹂
﹁え?﹂
﹁すみません、開けてから渡すべきでしたね﹂
皐月君はにこっと微笑みながら私の手の上から缶を持つと缶を開け
た。
﹁どうぞ﹂
﹁⋮え、ええ⋮⋮⋮ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
あーもう、何でそんなにドキドキする笑顔なのよ。簡単に私に触れ
634
て⋮なんだか私だけドキドキしてるみたいでずるいわ。
﹁次、何するー?﹂
私の気持ちを知らない紗理奈は陽気に問いかけた。
○
﹁ね、次どうする?﹂
﹁次って⋮まだどこかに行くつもり?﹂
夏の太陽も半ば沈んでいるのに元気な事だ。門限まではまだ時間が
あるけれど、少なくとも体を動かすものはもういい。
﹁むぅ、いいじゃないですか。ね、皐月もいいよね?﹂
﹁う∼ん、今からさらに遊ぶとなると夕飯に遅れるんで止めておき
ます﹂
﹁えー? 夕飯って、君小学生?﹂
﹁祖父が私にべったりなんで、夏休みくらいは⋮﹂
﹁夏休みくらい? 皐月君って寮生なの?﹂
ふと気になった。そういえば皐月君の私生活はあまり知らない。ど
こで生まれ、育ったのか。どこに住んでいるのか。何も知らない。
﹁あ、はい﹂
﹁そういえば、皐月君はどこの学校に通っているの?﹂
635
﹁あー⋮きっと言っても分かりませんよ。名も無いような地方の高
校ですよ。どこにでもある男子校です﹂
﹁⋮そう﹂
それでも、言って欲しかったわ。
﹁皐月は帰るのかぁ。ね、会長はどうする?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁会長?﹂
﹁え、ええ、そうね。まだ時間には余裕があるし⋮散歩くらいなら
付き合うわ﹂
あまり皐月君のことを考えるのはダメね。皐月君のことを考えだす
と皐月君で頭が一杯になっちゃうし。
﹁そ、じゃあ皐月、またね﹂
﹁また連絡するわ﹂
﹁はい。お二人とも、あまり遅くならない内に帰るんですよ﹂
﹁お前はオカンか!﹂
﹁二人は女の子なんですから、気をつけるに越したことはないんで
す。﹂
﹁君だって⋮女顔だし変態には気をつけなよ﹂
﹁激しく余計なお世話です﹂
今日会ったばかりとは思えないくらいぽんぽんと軽口を言い合う二
人に軽く嫉妬しそう⋮⋮⋮⋮⋮⋮え? どっちに?
皐月君とわかれて二人でどこに行くでもなく歩きだす。
636
637
思い込んだら一直線
﹁⋮会長﹂
二人で歩き出してしばらく無言だった紗理奈が私を呼んだ。
考えごとをしていた私は顔を上げた。
﹁え、なぁに?﹂
﹁どうして、今日の約束をドタキャンしたんですか?﹂
﹁あ、それは⋮﹂
﹁皐月に誘われたからですよね? 数日前にした約束を、前日の誘
いでキャンセルってありなんですか?﹂
怒ってる。紗理奈は珍しく、全く笑わずに怒っている。
﹁その、悪いとは思ってるわよ? だけど⋮あなたとはいつでも会
えるけど、皐月君とは休みにしか会えないから⋮﹂
本当は今日、紗理奈と遊びに行く予定だった。でも皐月君に誘われ
て嬉しくてついオッケーしてしまって⋮今更断れないから紗理奈に
断りの電話をいれたのだ。
﹁⋮会長って、そーゆーことしちゃう人なんですね﹂
﹁あの⋮ね? だから⋮仕方なくて⋮﹂
﹁仕方ない、ですか。仕方なくあたしより皐月を選んだんですか﹂
﹁∼∼っ、もう! 悪かったって言ってるじゃない。このくらいで
怒らなくたっていいじゃないの!﹂
いつもの紗理奈なら少なくとも表面的には笑って許してくれるのに。
638
紗理奈は人に嫌われるのを酷く恐れてるから、心で何を考えても笑
顔になるのに。
﹁あたしは⋮会長が好きです﹂
﹁⋮え? ああ、私も好きよ。だから、別に紗理奈が嫌いだから断
ったとかじゃないのよ?﹂
﹁⋮好きなんですよ﹂
紗理奈は真顔で私を見る。
⋮⋮⋮凄い、真顔だ。あり得ないくらい、真剣だ。こんな紗理奈、
久しぶりに見た。
もしかして⋮そういう意味?
﹁⋮⋮え? あれ? ⋮紗理奈、特定の恋人は作らない主義って言
ってなかった?﹂
﹁本当は⋮作れないんです。本命が別にいるから﹂
﹁な⋮⋮え、えぇええ!?﹂
マジですか!? え、な、は⋮⋮⋮⋮紗理奈が、私に、告白してる
!?
え、えぇ!? ちょっ、そりゃ紗理奈が女好きなのは知ってるし、
学園内に何人も恋人いるのも知ってるけど⋮⋮⋮私?
﹁えぇぇー⋮?﹂
﹁⋮何ですかその、嘘くせ∼って顔は?﹂
﹁嘘くさいわ。だって、私と紗理奈が知り合う前から、あなた何人
も恋人いたじゃない﹂
639
﹁う⋮そ、それはそうですけど。﹂
紗理奈はようやく無表情なほどの顔を少しばから笑みに変えた。
﹁はは⋮⋮七海様﹂
﹁え?﹂
いつも会長と呼ぶ紗理奈が、初めて私の名前を呼んだ。
﹁返事はないんですか?﹂
﹁え、ああ、ごめんなさい。あなたとは付き合えないわ﹂
﹁ちょーショック﹂
紗理奈はにんまりと笑ってそう言った。
﹁⋮⋮﹂
どこまで本気なのかしら。紗理奈とは一年以上の付き合いだけど、
何を考えてるのかはよく分からないわ。
本当に本気で傷ついてもこの子なら、笑顔をつくるから。
﹁じゃあ会長は、誰が好きなんですか?﹂
﹁⋮え⋮?﹂
好き? 好き⋮。
﹁あたしは会長が好きだから、会長のことばっか考えるし、会長に
近づくだけでドキドキしたり、会長に何か言われたら何より優先し
ちゃうなぁ。﹂
﹁⋮⋮﹂
640
ドキドキしたり、何より優先⋮。それって⋮。
﹁で? 会長は誰が好きなんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮皐月、君?﹂
﹁疑問形なんですか?﹂
﹁⋮本当に?﹂
﹁あたしが聞いてるんですけど﹂
﹁⋮⋮私、皐月君が好きなの?﹂
﹁だから⋮はぁ。ねぇ会長﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あたしが会長を好きなのだけは、覚えててください。ずっと会長
の味方だし、会長が望むだけ守るし望むだけ愛しますよ﹂
﹁ええ⋮ありがとう。でも待って。私⋮え、本当に、皐月君が好き
なの? ドキドキするのは異性になれてないからとかじゃなくて?﹂
皐月君にドキドキしたり、触れたところが熱かったり、会いたいと
か、二人でいたいとか⋮⋮⋮恋?
待って。嘘。だって⋮
﹁今だから言いますけど、会長、前から皐月のこと好きじゃないで
すか﹂
﹁前?﹂
﹁前に皐月の話を聞いた時点から、バレバレです。話し方で分かり
ます。つーか、一目惚れ?﹂
﹁⋮うそん﹂
﹁本当。だから⋮凄く複雑なんですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
そう、なの。私⋮皐月君のこと、好きだったのね。
641
好き⋮好き。
だから、さっきの嫉妬もだし、紗理奈が呼び捨てにするのも嫌だっ
たのね⋮。
﹁ど、どうしよう﹂
﹁は?﹂
﹁やだ、恥ずかしい。皐月君にバレてないと思う?﹂
どうしよう。恋なんて⋮したことがないわ。う、あああ、私、変な
ことしてないわよね?
かーっと頬が熱くなる。私は両手を顔に添えながら紗理奈に尋ねる。
﹁大丈夫ですよ﹂
﹁本当に本当? でも、あぁ、ど、どうすればいいの紗理奈!﹂
﹁な、何が?﹂
﹁私⋮恋なんて初めてで⋮何をしたらいいのか分からないわ﹂
﹁え、えー、そんなこと言われても⋮﹂
紗理奈は困ったように笑う。
! そうだわ! 恋をしたなら告白をしなきゃ始まらないわよね!
﹁分かったわ!﹂
﹁は? 今ので何が?﹂
そうよ。好きなら、好きって言わなきゃ。
﹁紗理奈﹂
﹁はい﹂
﹁ありがとう。私、告白してくるわ﹂
642
﹁早っ﹂
言うが早いか私は方向転換をして走りだした。
皐月君が帰るとしたら、駅に向かうはずよね。少し距離があったか
ら、まだいるはずよ。
○
走って行く会長にひらひらと手をふり見送る。
﹁⋮はぁ。もうちょっとくらい、気にして欲しかったんだけどな﹂
まぁ仕方ない。今の会長は﹃皐月君﹄に夢中なのだから。
今、会長はあたしの言葉により恋を自覚した。
勿論、わざとだ。むしろ予定通りに行き過ぎて恐いくらいだ。
最初、皐月が皐月君と知った時はこいつめどうしてやろうかと思っ
たが、その後よくよく考えると悪くない。
てゆーか、むしろ好都合だ。
だって﹃皐月君﹄なんて存在しないんだから。仮に皐月が問題を解
決して会長を好きになったって、会長が好きなのはあくまで﹃皐月
君﹄なんだ。
643
だから皐月は会長をフるしかない。
﹁ふふっ﹂
あたしは笑いながら帰るために携帯電話で家に連絡して車を回して
もらう。
会長には悪いけど、さっさと自覚してふられればいい。
だって好きなんだもん。
あんなことを言われたのは初めてだった。会長だけが私を知ってく
れた。
今までも女の子を抱いたりしててもこんな感情は知らなかった。
あたしのものにしたくて堪らなくて、だけど今までの会長はHどこ
ろか恋も知らない潔癖だ。
だから恋人をつくるのは止めなかった。
どうせ駄目だとも思ってたしね。
けど、これはチャンスだ。
﹁傷ついたら慰めてあげるから、許してね。な・な・み・様♪﹂
ノーマルだと思ってたけど少なくとも女顔はありなんだし、会長が
見た目でなく中身で人をみるのは分かった。
なら、やりようはある。失恋には新たな恋が一番で、そして会長の
回りには皐月君以外は女しかいない。
あたしはそうとう腹黒いやつだ。てゆーか女の子を平気で捨てられ
るし、そんなの前からだ。
644
でも構わない。
あたしが今一番大切なのは、会長を手に入れることなんだから。
そのためなら、会長に失恋の痛手を味あわせるくらいなんでもない。
⋮⋮あ、皐月、もう帰ってたらどうしよう。
さすがにすぐに行動するとは思わなかったし。自覚したらすぐに告
白するだろうとは思ったけどね。
﹁⋮電話しとこ﹂
あたしは携帯電話を取り出す。
キィ︱
﹁お待たせしました。紗理奈様﹂
﹁ん﹂
車がきたから乗り込む。ボタンを押して携帯電話を耳にあてる。
プルルルル︱
プルルル︱ツーツー
﹁⋮?﹂
あれ。切れた。
645
○
俺は基本的に外出には電車を使う。
切符を買おうとしてウエストポーチを開くと、中からプラスチック
のクリアケースが出てきた。
罰ゲームでとった七海のぶんの景品だ。何が欲しいか分からなかっ
たから時計。
﹁あ⋮忘れてた﹂
すぐに渡そうとしたが七海はモグラ叩きに夢中だからとりあえず鞄
にいれたんだった。
ちなみに紗理奈の注意を受け、花柄のピンク主体の可愛いやつ。た
だしすげー安っぽい。
まぁ難易度も低かったから文句は言わない。それに七海は金持ちな
んだからいらなくても問題ないし。
﹁⋮渡しに行くか﹂
まだそう遠くないだろ。今日逃したらまた次はいつかわかんないし、
いくらなんでも、こんなもんのためだけに電車賃使って会うわけに
いかないしな。
俺はくるりと今きた道を歩き出す。
646
さて、とりあえずさっきんの場所よりは向こうだろうけど、どこだ
ろ。
散歩にしてもわざわざ裏通りにはいかないだろうし⋮だいたい一本
道だし分かるかな?
﹁⋮って、あ﹂
電話すりゃいいじゃん。普通に。文明の利器は何のためにあるんだ
っつー話だよな。
俺は歩きながら携帯電話をズボンのポケットから取り出す。
さて、どっちにかけるか。
﹁さ、皐月君!﹂
﹁へ?﹂
視線を画面から前方に移すと、そこには息も絶え絶えな七海がいた。
﹁な、七海さん? どうしてここに⋮﹂
は! もしや景品を受け取ってないことに気付いて追いかけてきた
のか!?
金持ちのくせにケチ過ぎるぞ!
﹁あ、あのね⋮っ﹂
﹁分かってますよ、七海さん﹂
﹁⋮え⋮? ほ、本当に?﹂
俺が笑顔で言うと七海は一瞬ぽかんとしてから顔を赤くして俺を見
た。
647
さすがに景品ごときで追いかけたのは恥ずかしいのか。まぁでも、
こんなことでムキになるなんて可愛いじゃないか。
﹁はい、罰ゲームの景品です。﹂
サービス︵になるか分からないが︶で俺はにっこりと満面の笑顔で
ケースを渡す。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁ん? どうかしました?﹂
﹁い、いいえ。ありがとう﹂
七海は戸惑いながら受け取った。
あれ? もしかして違う? でも他に理由なんて⋮⋮気にいらない
とか?
﹁あ、あのね皐月君﹂
ピロロロ︱
手にしてた携帯電話が鳴る。
﹁すみません。ちょっと待ってくださ︱﹂
紗理奈からだ。
でようとしたら七海の手が被さってきて、先に切ってしまった。
﹁え、あの⋮﹂
﹁私、皐月君に話があるの﹂
648
﹁はぁ。じゃあ、その辺に座ります?﹂
話? そんなの電話かメールでいいのに。
て言うか人の電話を勝手に切るほど急ぎなのか?
﹁え、ええ﹂
○
﹁で、話ってなんですか?﹂
とりあえず道の真ん中では通行の邪魔になると、駅脇のベンチに座
った。
﹁え、ええ⋮皐月君は⋮彼女っているの?﹂
﹁いません﹂
断言されてほっとする。告白をする前から挫折していては話になら
ない。
﹁あ、あのね⋮﹂
﹁はい﹂
好き。好きです。好きなの。
649
﹁私⋮私は﹂
大丈夫。大丈夫大丈夫大丈夫!
皐月君だって嫌いな人と一緒にいないだろうし、私って綺麗で頭も
いいし大丈夫。
﹁皐月君が⋮﹂
だから、お願いだから﹃はい﹄って言ってぇ!
﹁好きです⋮っ。つ、付き合ってくださいぃ﹂
650
思い込んだら一直線︵後書き︶
ふぅ、やっと告白。
本当は前話でしてるはずでしたが長くなったのでわけました。
次は普通に皐月視点からです。
651
ごめんなさい
﹁好きです⋮っ。つ、付き合ってくださいぃ﹂
は⋮はあああぁぁあああ!?
な、え、は、ええ!?
な、なななな何言ってんのこの人!? 好き!?
は、ちょっ、マジですか!?
え、あ⋮あの七海が!!?
だだだって七海とかあれだぞ!?
美人で頭よくて厳しくて優しくて金持ちで可愛くて非常識で⋮⋮と
にかく、あの七海が、俺を好き? 付き合ってくれ?
や、やべぇぇえよ!!
ちょー嬉しい! あり得ない! これは夢か!?
ちょっと待て一回確認しろ! これで勘違いだったら目もあてられ
ん!
﹁あの、私、が⋮?﹂
あ、れ?
﹃私﹄?
652
俺、バカか?
え? なに喜んでんの? あり得ないし。
七海が好きなのって、俺じゃなくて﹃私﹄じゃん。
﹁さ、皐月君以外いないじゃない!﹂
そうだよ、俺は﹃滝口皐月﹄であって、私とか気持悪い一人称つか
う﹃崎山皐月﹄じゃないんだよ。
何で、忘れてたんだよ。
俺は、こいつを騙してるんだよ。
なに普通に友達面して告白までされてんだよ。
あり得ねぇ⋮。
﹁ごめんなさい。私はあなたとはお付き合いできません﹂
﹁⋮どうして?﹂
どうして? そんなの、本当のことなんて言えるわけがない。
﹁﹃私﹄は女で滝口皐月だからです﹂
なんて言ったら全てが終わってしまう。嫌われてしまう。
そんなのは、嫌だ。
653
﹁恋人がいないなら、そう⋮試しに付き合ってみてもいいでしょ?﹂
ああ⋮なんて可愛いんだ。そんなに必死になるほど﹃私﹄が好きな
のか。
ごめんなさい。初めから最後まで俺が悪かった。滝口皐月として生
きてる以上、崎山皐月で親しくなるのが間違いだったんだ。
だからもう、終わりにしよう。
﹁ごめんなさい。私は、あなたが嫌いだから付き合うことができま
せん﹂
﹁⋮え⋮う、嘘よ。そんな⋮嘘って言ってよ﹂
もう終わり。全部終わり。崎山皐月という存在は、七海と一緒にい
ちゃいけないんだ。
﹁ごめんなさい﹂
嘘をついてごめんなさい。
騙してごめんなさい。
傷つけてしまってごめんなさい。
出会ってしまって、ごめんなさい。
﹁嘘よ。だってあなた⋮泣いてるじゃない!﹂
﹁⋮え? そんな⋮﹂
指摘されて反射的に顔に触れると、濡れていた。
654
﹁こ、これは鼻水です!﹂
﹁もっと他に言い方がなかったの!?﹂
ああもう! 何でだよ。何で最後の嘘くらいちゃんとつけないんだ
よ。最後まで騙さなきゃ意味がないのに!
七海が俺を嫌って別れなきゃいけないのに! ⋮なんの未練も、残
して欲しくないんだよ。
﹁とにかく、泣きながら嫌いだなんて言ったって、私はあなたを諦
めないわ﹂
﹁っ⋮何で、ですか﹂
﹁だって、あなたが好きなんだもの﹂
﹁っ⋮﹂
なんて直球。打ちごろのストレートで思いきり空振った気分だ。
何て言い返せばいいのか分からない。
﹁⋮私は、あなたと付き合うわけにはいかないんです﹂
﹁だから、どうして? 好きな人でもいるの?﹂
大切な人ならたくさんいるけど好きな人、恋愛感情と言う意味なら
いない。
そんな人、いるわけない。
俺はぐいと涙を拭って、真っ直ぐに七海を見て告げる。
﹁もう、あなたには会えない。電話もしません。ここでさよならを
してください﹂
﹁え、どうして、どうしてなの? わけが分からないわ⋮わ、私は
655
⋮ただ、あなたが好きで、どうしようもないくらい好きで⋮伝えず
にいられなかっただけなのに﹂
そうしてようやく気づく。
七海は、涙を流していた。
震えのない凛とした声は、頬をつたう涙とひどく不釣り合いだと思
った。
七海の声は聞いていて気持良いくらいのはっきりしたよどみのない
声で、だから俺は彼女の涙を拭うために右手をあげて
止めた。
七海を傷つけている俺には、そんな資格はない。
かわりにハンカチを押し付けるように渡して立ち上がる。
﹁待って。ごめんなさい、付き合わなくてもいい。だからこれから
も今日みたいに遊んだりしたいの。話すだけでも、嬉しいの﹂
﹁ごめんなさい﹂
﹁もう好きだなんて言わないから、冷たいことを言わないで。私の
友達でいて﹂
﹁ごめんなさい﹂
﹁私の何がいけないか言ってくれれば治︱﹂
﹁ない。あなたに治すべき欠点などない﹂
ナルシストが入ってて世間知らずで素直じゃなくて。他にも七海を
貶める言葉はあるけど、だけどそれもひっくるめたありのままの七
海のことが俺は好きだ。
656
﹁今までありがとうございました﹂
俺には七海の顔を見る勇気はなかった。
もう一度泣き顔を見てしまえば、抱きしめてごめんなさいと真実を
言ってしまいそうだったから。
俺は、そのまま立ち去った。
○
断られた。
それ自体は、本当は予想していた。
好きと伝えて、付き合ってもらえればとても嬉しいしそれに越した
ことはない。
だけど何となく、断られる気はしていた。
でも、それでも皐月君なら、優しくフってくれると思ってた。
そして変わらず友人関係のままで、いつか皐月君に好きになっても
らえばいいとどこか気楽に考えていた。
657
﹁ごめんなさい。私は、あなたが嫌いだから付き合うことができま
せん﹂
友人としてならば自惚れでなく好かれていると思っていた。
だからその言葉を聞いて、私は耳を疑った。
﹁⋮え⋮う、嘘よ。そんな⋮嘘って言ってよ﹂
﹁ごめんなさい﹂
謝罪の言葉に堪えていた涙が溢れた。
反射的に下を向きかけて、でも涙を拭うと負けの気がして、私は流
れるままにして再び視線をあげた。
揺れる視界を無理矢理に固定させ、目に映ったものに私ははっとし
た。
丁度、皐月君の瞳からも涙が溢れたから。
﹁嘘よ。だってあなた⋮泣いてるじゃない!﹂
﹁⋮え? そんな⋮﹂
皐月君はバカな、とばかりに自分で顔に触れた。
﹁こ、これは鼻水です!﹂
皐月君はそっぽを向きながら言い張る。
﹁もっと他に言い方がなかったの!?﹂
場違いな発言に妙なところで女の子の方の皐月と似ていると思った。
658
あ、でも皐月も口は悪いけど何だかんだ言って優しいとこあるから、
結構見た目以外にも似ているのかしら。
﹁とにかく、泣きながら嫌いだなんて言ったって、私はあなたを諦
めないわ﹂
﹁っ⋮何で、ですか﹂
﹁だって、あなたが好きなんだもの﹂
はっきりと言葉にする。フラれたって気持ちが変わるわけじゃない。
だけど皐月君は、私の方を向いてもくれない。
﹁⋮私は、あなたと付き合うわけにはいかないんです﹂
﹁だから、どうして? 好きな人でもいるの?﹂
私がしつこく問いかけると、皐月君は涙を拭って、私を見た。
﹁もう、あなたには会えない。電話もしません。ここでさよならを
してください﹂
﹁え、どうして、どうしてなの? わけが分からないわ⋮わ、私は
⋮ただ、あなたが好きで、どうしようもないくらい好きで⋮伝えず
にいられなかっただけなのに﹂
だから特別な何かを返してくれなくても、伝えれば満足だったのに。
皐月君は私にハンカチを渡すと立ち上がった。
﹁待って。ごめんなさい、付き合わなくてもいい。だからこれから
も今日みたいに遊んだりしたいの。話すだけでも、嬉しいの﹂
﹁ごめんなさい﹂
いきなりの離別宣言に私は慌てて皐月君を引き留めるけど、皐月君
659
はもう私を見ない。
﹁もう好きだなんて言わないから、冷たいことを言わないで。私の
友達でいて﹂
﹁ごめんなさい﹂
﹁私の何がいけないか言ってくれれば治︱﹂
﹁ない。あなたに治すべき欠点などない﹂
皐月君は振り向きもしないくせに、私の言葉を遮って断言する。
どうして、会わないなんて冷たいことを言うくせに、そんな言葉を
言うのよ。
﹁今までありがとうございました﹂
皐月君は、そのまま立ち去った。
﹁⋮バカ﹂
小さく、呟く。
涙を乱暴に拭う。多分明日には目が赤くなってしまっているだろう。
ねぇ、皐月君⋮私は、何を信じればいいのかしら。
あなたの言葉?
あなたの涙?
ねぇ⋮自惚れてもいいかしら?
660
あなたは私を嫌ってなくて、理由があって別れを切り出したけど本
当は泣くほど嫌だと、そう思ってもいいの?
あなたは私とさよならなんてしたくないと、その程度には好かれて
いると、自惚れてもいいの?
﹁⋮っ﹂
だけど、そんな風に考えても私の頬には再び涙、伝った。
でも! それでも! 好きな人に嫌いなんて言われる気持ちも考え
なさいよね!
私は⋮初恋なんだから!
たとえ理由があったって、悲しいものは悲しいのよ。
⋮ばか。
戻ってきて、笑ってよ。
○
﹁もしもし﹂
﹃へいほー、何か用?﹄
家についた俺は時計を見てから紗理奈に電話をかけた。
661
さっきの着信はたぶん七海が行ってるというようなものだろうが、
それより七海を放置したのが気になる。
﹁い、いやな? その⋮さっき電話かけてきただろ﹂
でも素直に言うと七海に告白されたのも言ってしまうから言葉を濁
す。
言ってもいいけど、七海に失礼だし、何よりちょっと恥ずかしい。
﹃会長が行ったから待ちなよって言おうとしたんだけどぉ⋮切った
よね﹄
﹁う⋮ごめんなさい﹂
﹃いいけど。会ったんだよね?﹄
﹁ああ、それで別れたけど、七海はもう帰ってんのかな? ちょっ
と確認してくんない?﹂
﹃何で? 君が皐月君として聞きなよ。つーかわざわざ確認とか過
保護だよ?﹄
﹁そ、あ、あ∼⋮あの、その﹂
それができれば苦労はしない。滝口として聞くわけにもいかないし
⋮。うぅん、どう言おうか。
﹃⋮ぷ﹄
﹁?﹂
﹃くははっ。うろたえすぎっ﹄
﹁え? な、なに笑ってんの?﹂
﹃ご、ごめんごめん。くふふっ。あのさっ、あたし、知ってんだよ
ね﹄
﹁何を?﹂
662
﹃君が会長に告白されたこと﹄
﹁え⋮⋮ええ!?﹂
何で!? え⋮知ってたのか!!
﹃だって、あたしがけしかけたんだも∼ん﹄
﹁は、はいぃ?﹂
わ、訳わからん。
﹁ちょっと待て。落ち着け!﹂
﹃はい深呼吸、ひっひっふー﹄
﹁ひっひっ、って違ーう!﹂
﹃何が?﹄
﹁何もかもが違う!﹂
これは深呼吸じゃないし、てゆーか、じゃなくて、色々おかしい!
え、何? 俺がおかしいの? 何で紗理奈がけしかけた!?
﹁ま、落ち着けよ。あたし会長のこと真面目に好きなんだよね﹂
﹁はぁあ!?﹂
え、は!? 何で今言うんだよ! 余計に混乱するわ! つかマジ
で!? じゃあけしかけたってなんでだよ!?
﹁な、え、あ? ⋮⋮⋮ちょっと待て。落ち着くから﹂
えー⋮っと、さっき七海に告白されてフって紗理奈が知っててむし
ろ原因?でその紗理奈は七海が好き? ⋮あれー? なんか余計に
訳わかんないぞ?
663
﹁つまり⋮つまり?﹂
俺はとりあえず紗理奈に説明を求めた。
○
﹃つまり?﹄
落ち着いてもやっぱり何も分かってないらしい。
まぁ皐月があたしの思惑をそうそう読んだりしたら嫌なんだけどね。
﹁あのね、あたし会長が好きなの。でも会長が﹃皐月君﹄を好きな
のも知ってた﹂
だっていつも見てたから。だからすぐに分かった。本人を見なくた
って間接的に話を聞いてるだけでもすぐに分かった。
会長に全然自覚がなくても、その気があるのが分かってたしほんの
少しずつ本気になってるのも分かってた。
狂いそうなほど嫉妬した。
﹁でも、皐月君が皐月なら、告白されたら必ず断る。だって皐月君
664
なんていないんだもん。だから告らせたの。分かった?﹂
今はむしろ感謝してる。他の男なら手だしのしようがないけど、皐
月だから助かった。
﹃⋮ああ﹄
﹁ん、なんか暗いね﹂
あれ? どうかしたのかな? 皐月は別に、小枝子のこともあるし
フるの初めてじゃないよね。
﹃うん⋮俺、バカなんだ﹄
﹁知ってるけど?﹂
と言いそうになって慌てて口をつぐむ。なんとか﹃しっ﹄だけで止
めた。
おっとと、なんか知らんが落ち込んでるぽい友人に言うセリフじゃ
ないよね。
﹁どうかしたの?﹂
﹃し?﹄
あ、聞き返された。そこはスルーしようよ。
﹁どうかしたの?﹂
﹃え、ああ、うん。俺さ、今更なんだけど七海を騙してることに気
付いたんだ﹄
﹁え、今更?﹂
﹃⋮うん﹄
665
⋮⋮⋮皐月って、ホントにバカなんだなぁ。
てゆーか、普段が男として生活してるから男のふりするのに騙して
る感覚しなくても、女バージョンと男バージョンで別人のふりして
たら騙してるなんて当たり前じゃん。
今更どころか、初めから気づけって感じなんだけど。⋮皐月だから
なぁ。
﹃だからな﹄
﹁ん、うん?﹂
﹃⋮男としての俺はもう、七海とは会わないことにした﹄
﹁⋮は?﹂
﹃さよならをしてきた。だから連絡とるわけにいかないし、代わり
に頼むよ﹄
﹁⋮何それ。そんなの︱﹂
そんなの勝手だよ。騙してるんだから、その嘘をばらすか死ぬまで
貫くべきだ。
君のその態度は必要以上に会長を傷つけたよ。告白したら会わない
と言われるなんて嫌われてると思うし、ショックだよ。そんなこと
も分からないの?
とか、言おうとしてしまった。
何考えてんのあたし?
そもそも会長が傷つけようとしたのはあたしだし傷つくほど、慰め
るのは効率がいいはずだ。
だけど⋮それでも傷ついて欲しくないと思う。
666
矛盾してるのは知ってる。それでも、好きな人に笑ってて欲しいの
は当たり前でしょ?
﹃そんなの?﹄
﹁⋮矛盾ってさ、文字通り矛と盾の話が元になってるって知ってた
?﹂
﹃は? 何言ってんの?﹄
﹁とにかく会長に電話するよ。じゃ、またね﹂
電話をきった。
はぁ。なんか、ぐちゃぐちゃだ。
嫌だなぁ。あたし、黒い。中途半端に腹黒い。そんな自分を自覚し
て納得してるはずなのに、自分を嫌悪してる
﹁あー、もう!﹂
ばすんと音をたててソファーに寝転がり肘掛けに足をのせる。
うまくいかないなぁ。
いっそあたしが皐月や会長みたいに真っ直ぐならいいのに。
会長を猫被りと言うけど、本当は少しだけ違うんだよね。
猫は普通良く思われたいとかで被るけど、会長は当たり前だと思っ
てる。
先生には年上として敬意を払って対応して、他の生徒にも生徒会長
として模範となるべくしている。
だから結果的に猫被りになってるけど、自分の何かを隠そうとする
667
わけじゃないから説教癖とかは他生徒にもでたりする。
﹁はぁ⋮﹂
正しいことを正しいと言い、常に正しくあろうとする。
そんな会長が好きだ。
だけど⋮会長はやっぱり皐月みたいに自分と同じように真っ直ぐな
人がいいのかな。
と言っても、皐月はネガティブになったりするけど会長は常にポジ
ティブだし違うけどね。
﹁でも、あたしはそもそも毛並が違うしなぁ。よっ﹂
反動をつけて起き上がり改めてソファーに座る。
あたしは、二人みたいに思ったことをそのまま言うなんてできない。
考えて考えて、用意周到にしなきゃできない。
用心深くて、表面だけは親しげで、自分の心はあかさない。
それがあたし。
分かってる。
そんなあたし自身が嫌いで、会長みたいな人を好きになるんだ。
﹁はぁ⋮メールでいいか﹂
あたしは会長にあてて確認メールを送った。
668
669
ごめんなさい︵後書き︶
今回かなり考えながら書きましたが我ながら微妙です。
﹃キャラの考え方が不自然だ﹄とか﹃え、なんでそんな展開になる
の?﹄とか思ったら言ってください。
今までのもこの展開は強引とか、どうやったらこんな考えになるか
わからなかったりしたら、教えてください。
できるだけ分かりやすいように書き直します。
670
祭に行かないか?
何だかよく分からないが矛だの盾だのとか言って電話がきれた。
﹁ん∼? 何なんだ?﹂
よく分からないが⋮まぁ連絡するならいいだろう。
と思って放置した5時間後に俺は再び紗理奈に連絡すべく電話をか
けた。
﹃もしもし?﹄
﹁俺だけど、明日空いてる? 一緒に祭に行かないか?﹂
その誘いの理由には、ほんの少し時間をさかのぼる必要がある。
夕食後。
﹁皐月、最近よく遊びに行ってるようだが、どうじゃ?﹂
﹁どうって⋮楽しいよ普通に﹂
﹁普通⋮じゃあ、わしと遊ぶのはどうじゃ? 楽しいか?﹂
え、と⋮比べて欲しいのかな?
そんな気にしなくてもじいちゃんの爺臭い趣味に付き合うのも楽し
いのに。
だから俺は苦笑気味に答える。
671
﹁勿論、普通に楽しいよ﹂
﹁ふ、普通ー!?﹂
あれ⋮何でしょぼくれたの?
﹁⋮そうか、⋮⋮と、ところで皐月、もうすぐ夏休みも終わりじゃ。
最後に夏祭りに行かんか?﹂
﹁祭? そう言えば⋮﹂
前に紗理奈や弘美ともそんな話したな。
﹁9月に祭があるところが多いが、近くで明日からの祭があるんじ
ゃよ。そう大きくはないが、出店とかあるしそれなりに楽しめると
思うぞ﹂
﹁ふぅん⋮﹂
行こうかな⋮でも七海が微妙だし、前みたいに全員でってわけにい
かないよな。
﹁行くか? 幸い、仕事も特にな︱﹂
ピピピピ︱
﹁む、メールか。ちょっと待って﹂
弘美からだ。
﹃件名:無題
本文:明日遊ぶわよ。予定があるら空けなさい
672
﹄
﹁⋮わー﹂
いいけど。暇だけど。予定があるなら空けろ、とは⋮一体どこのお
姫様だよ。
もしマジに大事な用事があったらどうするんだろ⋮あ、ちょうどい
いや。祭に誘お。
﹁爺ちゃん、俺明日の祭行ってみるよ﹂
﹁む、そうか﹂
﹁うん。友達誘う。場所と時間教えてくれよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうか﹂
﹁? うん﹂
俺のメールうちも多少は慣れてきたのでぽちぽち、がぽちち、くら
無題
いの速さで打てるようになった。
﹃件名:RE
本文:じゃあ祭に行かないか? 他のやつにも声かけてみるよ﹄
と返信。
さて、まずは小枝子、と
﹃件名:明日だけど
本文:祭があるんだけど、もし暇なら行かないか? 他のやつらも
一緒だし楽しめると思うし、今日中に返信頼むよ﹄
送信、と。
次は紗理奈かなぁ? 七海にも⋮滝口的には一応声をかけるべきだ
よなぁ。断られるだろうけど。
673
ピピピピ︱
無題
おっと、弘美から返事だ。
﹁どれ⋮﹂
﹃件名:RE
本文:いいわよ。じゃあ明日7時に迎えにきなさい﹄
﹁早っ﹂
無題
何だこの時間指定は。そんな時間から祭なんてやってんのか?
聞いてみた。
﹃件名:RE
本文:知らないわよ。あんたが調べなさい。あろうとなかろうと、
7時ったら7時よ﹄
﹁んな理不尽な⋮﹂
﹁皐月、これが地図じゃ﹂
﹁あ、サンキュー。んじゃそろそろ俺は部屋に戻るよ﹂
爺ちゃんから紙を受け取る。プリントアウトされた紙には地図と何
やら文字が書かれてるけど、メンドイし読む前に折ってポケットへ。
﹁あ、ああ⋮﹂
無題
それから俺は自分の部屋に戻って返事をうつ。
﹃件名:RE
674
本文:7時って⋮起きてはいるが、いくら何でも早いだろ。他のや
つだって7時からとなると微妙だろ﹄
﹃本文:知らないわよ。あんたは黙って頷きなさい﹄
﹃本文:え∼?﹄
﹃本文:いいから頷け!﹄
﹃本文:いや、リアルでは頷いてましたよ﹄
﹃本文:知るか!﹄
ま、ホントは頷いてないんだけどね。
あ、小枝子から返事きたー。
﹃本文:すみません。明日は少し用事がありまして。また誘ってく
ださいね﹄
﹃本文:用があるなら仕方ないよ。祭は一つじゃないから新学期に
なってからだってあるだろうし、またそん時に行こうぜ﹄
残念。小枝子は駄目か。じゃあ紗理奈誘うかなぁ?
とりあえず弘美に返事をする。
﹃本文:わかったわかった。7時に迎えにいくよ。祭まで時間があ
るなら潰せばいいしな﹄
﹃本文:わかればいいのよ。んじゃ、また明日ね﹄
﹃本文:また明日な﹄
よし次は紗理奈⋮つか、いちいちメールだとメンドイし、電話にす
るか。
俺は紗理奈に電話をかけた。
675
○
﹁は?﹂
祭? いきなり電話してきてこいつ何言ってんの?
﹃だから祭だよ。ま・つ・り。弘美と明日行くんだけど、紗理奈は
どうする? あと⋮七海にも一応言った方がいいか? 滝口の俺は
知らないわけだし﹄
は⋮はあ?
え、ちょっと待ちなよ。何? 君、会長をフッた翌日に遊びに行く
算段つけてるわけ?
しかも会長も誘う? ⋮⋮あり得ない。
﹁あのねぇ⋮!﹂
﹃?﹄
﹁⋮何でもない﹂
皐月の不思議そうな声に、分かってしまう。皐月がバカなんだって。
貶めているわけじゃない。むしろ、逆だ。皐月は、本当に何も分か
ってないんだ。
誰かを好きになるとわいてくる絶大な力も、フラレて世界が滅亡し
たような絶望も、何も知らないんだ。
676
だから普通にしていられるんだ。誰かを好きになったことがないか
ら、それが誰かを傷つけてると本質的に分かってないんだ。
可哀想だ。今時、レイプなんてあり得ない話ではないけど、あたし
にはとても想像できない。
意味さえ理解できないような年齢で無理矢理にされて、好きになる
意味を知らずに成長したんだ。
今まで、あたしはその意味を分かってなかったのかも知れない。
﹁分かった⋮会長にはあたしから言っておくよ﹂
﹃ほんと? ありがとう紗理奈﹄
信頼した、何の疑いもない声にあたしはため息をつく。
手のうちようがない。だって、人を好きになるなんて強制させるこ
とじゃないし、どうにもできない。
自然に皐月自身が理解しなきゃ、例えあたしが今感情のまま怒って
も、皐月に通じない。
皐月が謝罪してきたとして、あたしが怒ってるから謝ってるだけの
意味だ。子供と同じだ。
﹁うん。けどたぶん会長は無理だよ﹂
﹃⋮俺がフッたからかな?﹄
﹁うん﹂
﹃⋮で、でも、嘘ついたまま付き合っても意味ないよな?﹄
﹁うん。君は悪くないよ﹂
あたしもそうすると思ってたし。フるという判断は間違ってない。
ただ⋮⋮はぁ、皐月は、バカなんだよなぁ。悪気は0だ。むしろだ
677
から性質が悪いんだけどね。
﹃だよな!﹄
﹁うん⋮。あと、あたしも明日は用事あるんだ﹂
﹃えー? じゃあ明日、弘美と二人かよ﹄
﹁いいじゃん仲良しだし付き合えば?﹂
﹃は? 何でだよ。ま、弘美のことは嫌いじゃないしいいんだけど
ね﹄
﹁むしろ好きでしょ?﹂
﹃そりゃ好きだよ。嫌いなやつと友達になるわけないじゃん。⋮つ
か、ハズイこと言わせるなよ﹄
﹁恥ずかしいの?﹂
﹃てゆーか電話がなぁ。顔を直接見ないのに言うと恥ずかしい気が
する﹄
﹁ふーん?﹂
電話だから恥ずかしいって⋮なんかますます子供みたいだな。
﹁とりあえず皐月、また⋮次は夏休み明けかな?﹂
﹃ああ、七海にもよろしくなー﹄
﹁りょうかーい﹂
⋮⋮まぁ、二役のためには、知らないふりして誘うのが正しいんだ
ろうけどね。
連絡してやるかなぁ。
○
678
﹁おーい、弘︱﹂
﹁しっ、静かに!﹂
門前で弘美に電話をすると、寮までこいと言われたので、今度こそ
学生証を装備していた俺は中に入るのは面倒だし部屋を知ってるか
ら窓から声をかけた。
するとすぐに窓が開いたが、怒られた。
﹁な⋮何?﹂
﹁静かにしなさい。いい? もうすぐ夏休み終わるし、帰ってきて
る人がいるんだから静かにしなさい﹂
﹁おお、すまん。﹂
言われて俺は反射的に口に手をあてる。
﹁全く⋮少しは考えなさいよね﹂
﹁うぐぐ⋮わ、悪かったよ。ほら、行こうぜ。門の前で待ってるか
ら﹂
﹁アホ。何であんたをここまで呼んだと思ってんのよ?﹂
﹁?⋮⋮直に会いたかった?﹂
﹁あんたは芸能人か。﹂
いやまぁ、違うけど。けど、わざわざ寮にまで来て会う理由⋮⋮⋮
関係ないけど、こうやって窓越しに会うと逢い引き∼って感じだな。
ロミジュリみたいな。
679
﹁皐月様?﹂
﹁ん。何でもないよ? うん。えー⋮理由はわからん。教えてくれ﹂
﹁後でね。ちょっとそこどけ﹂
弘美はそう言うと窓枠に足をかける。え、ここから出てくんの? どうでもいいがパンツ見えそうだぞ。
﹁よ、と。行くわよ﹂
﹁ああ、って何処に行くんだよ﹂
弘美は窓を閉めると俺を先導して何故か門とは逆に歩きだす。
﹁裏から出るの﹂
﹁は? 何で?﹂
裏門か⋮そりゃあるんだろうが、何処にあるのかすら知らんぞ。
﹁念のためよ﹂
何のだよ。訳がわからないが、逆らうだけ無駄なのでついて行く。
校舎をぐるりと回って裏に行くと確かに門がある。表に比べて簡素
ではあるが大きさは変わらず、門の手前には駐車場もある。
﹁こんなとこあるんだ﹂
﹁教師とか車だし、休みに迎えの車とかの待機にはここ使うのよ﹂
﹁へぇ⋮でも車ないけど?﹂
﹁歩き﹂
﹁え? あ、歩き? これから呼ぶとかじゃなくて?﹂
今なんか、あり得ないセリフを聞いた気がする。
680
いつもは車大好きで歩きは俺が無理矢理誘って渋々なのに。
﹁⋮弘美﹂
﹁何よ﹂
門の通用口を開ける弘美の額に手を当てる。
﹁⋮熱はないな﹂
﹁黙れ。ったく、で? どっか行くあてはあんの?﹂
﹁つっても、まだ7時過ぎ⋮もう半だけど、早い時間だし﹂
門をくぐってとりあえず近くの商店街的な通りに向かって歩く。
歩いて結構距離あったからな。映画とかいい暇つぶしなんだけど⋮
24時間のボウリング場とかあったかな。24時間と言えば漫画喫
茶もありか?
聞いてみた。
﹁んー⋮マンキツでいいわよネカフェでも可﹂
ぶっちゃけ一人でも変わらない気もするが、いいならいいだろ。
﹁んじゃ、テキトーに行けば24時間のあるだろ﹂
○
681
﹁弘美ー﹂
﹁ん∼? 何よぉ﹂
声をかけると漫画を読みながらゆっくりしたテンポで返事をする。
そんな弘美の漫画をとりあげて上に上げる。
﹁お腹減った。そろそろ行こうぜ﹂
﹁? 何処によ。てか返しなさい﹂
弘美に漫画を返す。いかにもな少女漫画。ちなみに俺は逆にいかに
もな少年漫画を読んでた。
﹁祭だよ。つーか、漫画読みすぎて疲れた。8時からとして⋮もう
5時間近くいるし。﹂
﹁あらホント、気付かなかったわ﹂
気付かなかったと言いながら、弘美は時間を見ずに漫画をまた読み
だす。
﹁お前、ジュースも全然飲まずにひたすら読んでたよな。すげー集
中力⋮そんな面白いの?﹂
﹁面白くないわよ。ただ⋮漫画とか⋮ゲーム、好きよ。⋮時間つぶ
せる、から﹂
﹁そうなのか? お前がゲームしてるのみたことないけど﹂
﹁寮部屋にも⋮色々あるわよ。基本隠してるし⋮最近⋮あまりして
ない⋮から﹂
﹁ふぅん﹂
682
弘美は漫画を読みながら途切れ途切れに返事をする。
当たり前だけど、俺らって互いのことまだあんま知らないんだよな。
﹁ああ⋮でもそうね⋮新作のゲーム、積んでるかも。最近は寮の玩
具箱も埃かぶってるし﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁うん⋮最近、暇つぶす必要がなかったから⋮かな。よし、読み終
わったわ。行くわよ﹂
﹁あ、ああ﹂
弘美は漫画を返却棚に置いてカウンターに向かう。
最近は暇つぶす必要がないってことは⋮ああ、楽しいことが多いっ
てことか。
いいことじゃん。俺もゲームはたまにするけど、一人でぽちぽちや
るよりは⋮⋮ん? 暇がない=いい意味とは限らないか?
683
言わなければ良かったのかな
﹁うわー、この時間でも結構人いるもんなんだな﹂
境内どころかそこまでの階段も、さらにその前の公道にもずらりと
出店が並んでいてぶつかるほどではないが結構な人がいる。
﹁まぁ日曜だし、お昼テキトーにすまそうとしてんじゃない?﹂
﹁そうか。⋮そういや弘美、人混み駄目だよな。手ぇ繋ぐ?﹂
﹁あんたねぇ、そこは引き返そうかって言うとこでしょ﹂
﹁まぁまぁ、今日は護衛だが防衛だかいるんだろ?﹂
﹁⋮⋮それは置いといて、我慢してあげるわ。はぐれないようにし
なさいよ﹂
え、何で置いたのかわかんないけど⋮まぁいいか。
﹁とりあえず何か食べよう。何がいい?﹂
とりあえず定番は焼きそばとかたこ焼きかな。
﹁⋮綿菓子﹂
だから、腹が減ってんだってば。つかお前だって朝から食べてない
じゃん。甘いものが好きにしたって、ない。
ないったら、ない。
﹁俺が白にするから弘美がピンクな﹂
684
﹁いいわよ別に﹂
ない⋮が、それは昼飯としてであって綿菓子が駄目なんじゃない。
てゆーか、綿菓子が原価に対してかなり高いから買ったことないん
だよな。爺ちゃん家では色んなお菓子もらうけど小さな袋入りじゃ
なくて、やっぱ割り箸についたデカイやつじゃないとな。
﹁あ∼ん。うん! 甘い!﹂
﹁うみゅうみゅ。∼。ん。こういうチープなお菓子は久しぶりだけ
ど、嫌いじゃないわ﹂
﹁弘美は綿菓子がよく似合うな﹂
﹁⋮子供っぽいっていいたいわけ?﹂
﹁?﹂
何でだ? 綿菓子が似合うから似合うって言っただけなのに⋮綿菓
子は子供っぽいのか?
﹁俺も今まさに食べてるぞ?﹂
﹁あんたは中身がガキでしょ。まったく。確かに弘美は大器晩成で
まだ未成熟だけど、あんたと違って中身はレディなんだからね﹂
⋮笑うとこ?
﹁そーだな﹂
⋮こいつなら本気で言いかねない。てゆーか本気だろ。
﹁何よ。テキトーな返事ね﹂
﹁んなことないって。お前は大人だよ。少なくとも俺よりはな﹂
685
てゆーか、働くのは早く働きたいけど、大人になりたいとはあんま
り思わないし。
﹁⋮飽きた。あとあげるわ﹂
弘美はん、とピンクの綿菓子を俺に渡す。交換して両方食べる予定
だったし良いけど⋮さすがに満腹になりそうだな。
﹁⋮まぁ、食べるか﹂
こういうのは、祭の雰囲気が大事なんだしな。
とかっても、甘さに飽きてきたので袋にいれてぎゅっと絞って小さ
くして食べた。
わー、まず甘∼い。
﹁あんた⋮勿体無い食べ方するわね﹂
﹁お前に言われたくない。次は∼やっぱ焼きそば?﹂
﹁あたしはかき氷﹂
﹁⋮⋮お前、昼飯という感覚0か? 実はお腹減ってない?﹂
﹁減ったわよ。お菓子でも満たされるってだけ﹂
⋮そりゃそうかも知れないが⋮ありかよ。まぁいいけどさぁ。
○
686
綿菓子、焼きそば、かき氷、林檎飴、フライドポテト、唐揚げ、イ
カ焼き⋮Etc.
等々、10数種類ほど食べて満足した俺らはトロピカルジュース片
手に今度は食以外の屋台巡りのため2周目にとりかかった。
ポピュン︱
間抜けな音と共に発射された玉は銀のシンプルなジッポーを倒した。
﹁よっしゃ、見たか弘美!﹂
﹁あーはい、スゴいスゴい﹂
わー、テキトーだぁ。
俺が射的のおっちゃんからライターを受け取る横で弘美が撃つ。
﹁よっ⋮⋮む﹂
弘美は玉をライオンのぬいぐるみにあて、ぬいぐるみは頭を揺らし
たが台からは落ちない。
﹁わははー﹂
﹁⋮棒読みで笑うな﹂
﹁いや、黙ると雰囲気悪いかと思って﹂
﹁だからって笑われて気分いいわけないでしょ﹂
そーかもだけど、弘美が外したのを本気で笑う気はないが、だから
って黙ると気まずいし。
687
﹁ん∼。じゃあ名誉挽回、代わりにあのライオン落とすよ﹂
﹁駄目よ。自分でやらなきゃ意味ないもの﹂
﹁むぅ。⋮ちなみに、作戦は? 改めて一発あてても駄目だと思う
ぞ﹂
﹁⋮ないわよ。文句あんの?﹂
﹁⋮⋮ありません。じゃなくて、一緒に撃ってみようぜ。俺が撃っ
てライオンが揺れてる隙にお前があてれば落ちるんじゃね?﹂
﹁⋮なるほど。採用﹂
一発オーケーだった。ていうか、あと同時に撃つとかそのくらいし
かないし。
並んで銃を構える。
﹁行くぜ相棒!﹂
﹁無機物が相棒とかキモイし﹂
﹁お前だよ!? この状況で何で銃に言うんだよ!?﹂
﹁早く撃ちなさいよ。タイミングは合わせてあげるから﹂
﹁へいへい﹂
俺は撃ってライオンを揺らす。間髪入れずに弘美が撃つ。最後の一
発の玉をこめながら、感心する。
うお、ドンピシャ。合わせると言っただけあって、弘美の腕はいい。
さっきも大きいから落ちはしなかったが、ど真ん中に命中したしな。
﹁あ⋮﹂
ライオンは大きく後ろに揺れたが戻ってこようとしたのでもう一発
撃った。
688
今度こそライオンは落ちた。よしよし。
﹁弘美、はい、ライオ⋮何その顔?﹂
おっちゃんから受け取ったライオンを渡そうとすると何故か嫌そう
にされた。
﹁だからぁ、私がとらなきゃ意味ないの﹂
﹁そう言うなって。言わば共同作業だし﹂
﹁⋮⋮﹂
え、そんなに気にするとこ? てゆーか、俺がやらなきゃまた駄目
になるとこだったのに⋮⋮⋮ああ、はいはい。
﹁分かったよ。じゃあこれは俺からのプレゼントってことで。な?
それならいいだろ?﹂
俺がもらっても仕方ないしな。
しぶしぶながら弘美もぬいぐるみを受け取る。
﹁⋮分かったわよ。持って帰るわよ﹂
﹁ああ。頼む﹂
ん? 何で俺が頼んでんだ? 元々弘美が欲しがったのに⋮
﹁⋮うん、まぁ、悪くないわね﹂
弘美はむぎゅむぎゅとぬいぐるみの顔を歪めてにやけた。
689
⋮⋮まぁいいか。こいつのニヤケ顔ってある意味貴重だし。
﹁さ、次、何する?﹂
﹁⋮⋮何でもいいわ。あんたは何したいわけ?﹂
﹁んー、籤かな。あと名前わかんないけど玉突き?とか懐かしいよ
な﹂
﹁あんたいくつよ﹂
﹁いや、まぁ別に、平成生まれだけどな?﹂
こう、古き良き懐かしいってのは昭和臭漂うものって相場は決まっ
てるだろ。
要するにノリで言ったんだが。
﹁ま、いーけど﹂
弘美はまたぐにゅとライオンを不細工にしてニヤケた。
○
﹁⋮⋮む﹂
﹁⋮お前、へっ⋮何でもない﹂
へったくそだなぁと言おうとしたが睨まれたので止めた。
俺、弱っ! しかし仕方ない。こいつはちびっこでも眼光は肉食獣
並だし。
690
﹁次﹂
﹁はいよ。300円な﹂
﹁ん﹂
弘美は新たにポイを受け取り、水につけた。
﹁よ、とっ﹂
勢いよく動かす弘美。圧をもろに受けた紙は当然破けた。金魚をす
くう以前の問題だ。
﹁もうっ﹂
﹁だからさ、進む方に水︱﹂
﹁あんたは黙ってて﹂
﹁⋮いや、聞けよ﹂
初めてなんだから出来ないことは別に恥ずかしいことじゃないだろ。
全く、意地っ張りだな。
あ、3枚目も崩壊か。
﹁次っ﹂
﹁あいよ﹂
露店のおっちゃんもニヤニヤして何も言わないし。そりゃあ弘美み
たいなのは上客だよなぁ。
﹁弘美﹂
﹁⋮何よ﹂
﹁そんなに早く動かすな。こうやって⋮﹂
691
﹁ちょっ﹂
弘美の手ごとポイを持って、そっと斜めに水面から入って金魚の下
を確保。
﹁ほら、まだ破れないだろ?﹂
ゆっくりゆっくり、持ち上げる。
水面に上がり金魚が跳ねた瞬間、ぱっと手首をかえす要領で容器に
金魚を入れた。
﹁よし、弘美、分かった?﹂
﹁⋮分かったから、早く離れて﹂
﹁え? あ、ああ⋮﹂
いつの間にか弘美と半身がぴったりくっついてた。
﹁兄ちゃん、見せつけてくれるよなぁ﹂
﹁は⋮?﹂
おっちゃんはニヤニヤニヤと笑いながら言った。
⋮⋮⋮⋮ん? あー、そうか、素だと俺普通に男か。最近はちょっ
と髪伸びたとは言え、男でもいるしな。
﹁違うって。あー、親戚親戚﹂
テキトーに頷いて流してもよかったが、また文句言われたら嫌だし
否定しておく。
692
﹁⋮⋮﹂
﹁ん? 何だよ弘美﹂
﹁別に﹂
﹁?﹂
弘美はまた睨んでた。ふんっと鼻をならしながら俺の手を払ってま
た金魚すくいに集中しだす。
これ、そんなに面白いかねぇ? まぁ昔、町内のイベントでタダで
やってたからわりと得意だけどさ︵最後は返すんだけどな︶。
○
ムカつく。
ムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく。
何もかもがいらつく。ヒロを自由に出来ると思ってるあの女もムカ
つくけど、皐月様もムカつく。
何がって、精神年齢ガキの癖にヒロの保護者ぶってるとこがムカつ
く。
なぁにが﹃手ぇ繋ぐ?﹄よ。
人をこんなとこに連れてきて言うことはそれだけなわけ?
693
そんなことでヒロが安心すると思ったわけ?
これみよがしに自分よりヒロが大人とか言っちゃってさ!
なにその達観した態度!
かと思えば無駄にテンション高いしこのガキ! 皐月様なんか絶対
ヒロよりガキだし。
﹃プレゼントってことで﹄
だから⋮ガキな皐月様なんかに、喜んだりなんか、してないんだか
ら。
﹃そんなに早く動かすな。こうやって⋮﹄
ましてやこんな些細な接近に脈を早くしたり
﹃違うって。あー、親戚親戚﹄
こんなテキトーな返事でイラついたりなんてしない。
何で否定するのよ、なんて、そんなの思ってなんかないんだから。
ねぇ︱
﹁皐月様﹂
﹁ん? なに? もうだいたい回ったし、花火とかないからあとは
盆踊りくらいだぞ。行くか?﹂
694
ああ、盆踊りが始まるから人が減ってきたんだ。
ヒロたちは露店からは少し離れた境内の階段で休憩してるけど、徐
々に喧騒が遠くなるのが分かる。
﹁あのさ⋮何で聞かないの?﹂
我が侭を言ってる自覚はある。言い過ぎたと思ったら後の祭で、い
つだってそれを謝罪したことすらない。
だけど、皐月様はそれを全部流してしまう。すぐにカッと怒鳴るく
せに、すぐに忘れて笑う。
しょうがないなってムカつく態度で、笑う。
そういう皐月様が、めちゃめちゃムカつく。
﹁は? 何を?﹂
﹁今日のヒロ、変でしょ?﹂
﹁んー、ちょいちょい不機嫌だったかもだけど、前よりマシだろ。
この前は何かお前元気なかったし﹂
だからなんで、なんであんたはそんな風に言うのよ!
ヒロが普段通りにしてるのに、なんであんたは元気がないなんて思
うのよ!
﹁何で⋮聞かないのよ。あんた八つ当たりされてんのよ?﹂
﹁あ、やっぱりそうだったのか。お前よく理不尽な怒り方するもん
な﹂
﹁⋮⋮そうよ。だってムカついてるとこにちょうどいるんだもん。
悪い!?﹂
﹁あー、別にいいよ。もう慣れたし。マジ怒りなら焦るけど八つ当
695
たりならな。あと、理由聞かないのは⋮⋮素直に答えるなら、お前
八つ当たりなんかしないだろ?﹂
﹁⋮わかんないじゃない﹂
まぁ確かに十中八句言わないだろうけど。
﹁いや分かるね。だってお前のそのひねくれまくった素直じゃなさ
は、もはやチャームポイントだし﹂
﹁⋮なにそれ﹂
わけ分かんない。素直じゃなさがチャームなわけないじゃん。
﹁それに、本当にどうしようもない時は自分から言ってくれるだろ
?﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
ああもう、だから、そういうとこがムカつく。
あんたを好きになったってしょうがないのに、ますます好きになっ
てしまう。
ムカつく。どうしてこいつは、こんなにヒロを振り回すんだろ。
どうしとヒロが、こいつの思った通りに行動しなきゃなんないのよ。
﹁あのさぁ⋮来月の10日、16の誕生日なのよ﹂
﹁え、そうなの? じゃあ5人で誕生日会しようぜ﹂
皐月様の呑気な提案には、苛立つより安心した。どんな時も、きっ
と皐月様は皐月様でいるんだろう。
696
それは少しだけ、羨ましい。
﹁それは無理。その日は大事じゃないけど重要な用事があるから﹂
﹁え、何かあんの? 別の日でもいいけど﹂
﹁その日は、ヒロの、結婚式だから﹂
﹁⋮⋮は? え? 弘美の⋮従姉妹の結婚式、とか?﹂
﹁16の誕生日って言ったでしょ。ヒロの、結婚式﹂
﹁⋮⋮え、ええ? ⋮⋮⋮⋮はあぁあ!!!? おま、お前がっ!
!?﹂
﹁そうよ﹂
﹁⋮⋮﹂
ぱくぱくと、金魚みたいに口を開閉しながら皐月様はヒロを見る。
﹁うああぁあ⋮な、何で?﹂
﹁前にヒロが言ったこと覚えてる?﹂
お金は、個人の意思より尊い。
だからヒロは、金のために結婚させられる。
ヒロを産んだ女には、その権利があるらしい。
あの女は金が欲しくて、どこのどいつか知らないけど相手の男は多
分、ヒロの家名が欲しいんだ。
白雪学園が有名なだけ名前は有名で、それだけで銀行からの信頼も
違う。
学園自体は今はおばあちゃんのものだけど、ヒロをきっかけにして
のっとることも不可能じゃない。いつかおばあちゃんが死ねば、孫
はヒロしかいないしその旦那が権利を得て不思議ではない。
697
超がつくお嬢様学園は、やりようによっては金のなる木になる。
そんなことをつらつら教えてやると、皐月様は前みたいに変な顔を
する。
﹁そんなの⋮⋮﹂
前みたいにおかしいとは言わなかった。
皐月様はバカだけど、頭が全く回らないわけじゃない。
皐月様が感情のままに駄目だ変だと言ったって、何がどうなるわけ
じゃない。むしろヒロを責めてるようになってしまう。
﹁⋮⋮あの、俺⋮﹂
﹁何も言わなくても良いよ﹂
皐月様が何を考えてるか分かる。きっと、どうすればいいか考えて
るんだろう。他人事なのに真面目に考えて、バカみたいだけど、嬉
しい。
もしかするとヒロは、皐月様にヒロを気にかけて欲しくて言ったの
かも知れない。
でも無駄。
ヒロはどうやったってあの女には逆らえない。
まかりまちがって皐月様がヒロを好きになったって、ヒロはどこぞ
の馬の骨と来月結婚するしかない。
﹁でもっ、俺⋮お前の味方とか言ったのに⋮何もできない。何か⋮
でき︱﹂
﹁ない。大丈夫。ヒロは大丈夫だから。愚痴っただけだし。ただ、
698
言いたかっただけ﹂
あんたには言いたかった。知っておいて欲しかった。
﹁弘美⋮﹂
﹁え⋮やだ、なんで、皐月様が泣くのよ﹂
﹁⋮わかんねーよ。何もできないから悔しくて、お前が⋮﹂
ヒロより年上で背が高くて運動ができて、なのにどうして皐月様は
子供なの? どうして、そんなに純粋なの?
皐月様が、ヒロのために泣くから、当たり前みたいに泣いてくれる
人だから、ヒロは皐月様が好きなんだよ。
﹁⋮ごめんな﹂
﹁何で謝るのよ。皐月様は、いらないこと考えないでいいの﹂
優しすぎる。甘えそうになる。
ほんと、言わなきゃ良かった。一番考えちゃダメなことを、考えち
ゃいそう。
だけど、やっぱり言って欲しかったのかも。
﹁でもそうね、謝るなら今日泊めてよ。実は、今日がその婚約者様
との初顔合わせだったの﹂
せめてもの抵抗でぶっちしたけど。分かってる。無意味な抵抗だっ
て。
だけどせめて今日だけは、本当に好きな人といたい。
皐月様は涙をぬぐって頷いた。
699
﹁ああ、勿論。今日は久しぶりに一緒に寝ようか﹂
﹁バーカ、子供扱いしないでよね﹂
気をぬいてしまったヒロは︱
あーあ、どうせ結婚するなら、皐月様が良かったな。無理だけどさ。
︱︱絶対に考えてはいけないことを、考えてしまった︱
知らない男と結婚なんて、嫌だな。
⋮⋮⋮⋮あ。
しまった、と思った時には遅かった。ギリギリで、仕方ないから諦
めたふりをして誤魔化してた感情が、あふれた。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
結婚なんて嫌だ。
あああああ、だから皐月様には今まで言わなかったのに。
自分が可哀想と思って現実を拒否しても何も変わらなくて、より深
く傷つくだけだと知ってたから、無関心なふりをしてたのに⋮⋮。
バカ。
本当、ムカつく。皐月様さえいなければ、何も思わないまま傷つか
ないままでいれたのに。
700
﹁ひ、弘美⋮泣くなよ﹂
優しい手が、弘美の頭を撫でた。
701
言わなければ良かったのかな︵後書き︶
中途半端に区切った気もしますが、まぁ次話に。
実は今、3つくらい新連載を書いてます。いくつか書いてますので、
うまく行けば出します。あと短編も書いてます。出すかはわかりま
せんが。
てなわけで、やたらと更新が遅いと思いますが勘弁してください。
702
解決策を考えた
理不尽なのに、それを当たり前だと達観したみたいに言う弘美。
それが悔しくて悲しくて、弘美が︱可哀想で、俺の目からは涙がで
ていた。
﹁⋮わかんねーよ。何もできないから悔しくて、お前が⋮﹂
可哀想とは、言えなかった。
俺にはどうしようもなくて、言っても、ただ価値観を押し付けるだ
けだから。
﹁⋮ごめんな﹂
﹁何で謝るのよ。皐月様は、いらないこと考えないでいいの﹂
弘美はそう言って笑う。
何で、笑えるんだよ。なぁ、俺はどうすればいいんだよ。
何でお前は、そんなに強いんだよ。
﹁でもそうね、謝るなら今日泊めてよ。実は、今日がその婚約者様
との初顔合わせだったの﹂
それが意味のない誘いだと、知ってる。だけど、それでも俺は頷い
た。
俺には、誤魔化すことしかできないのか。
﹁ああ、勿論。今日は久しぶりに一緒に寝ようか﹂
﹁バーカ、子供扱いしないでよね﹂
703
その時、笑顔のままぽろりと弘美の目から涙がこぼれた。
そして理解する。
ああ、弘美は強くない。
ただひたすらに、虚勢をはって、一人で立とうと躍起になってただ
けなんだ。
﹁泣くなよ﹂
そっと頭を撫でる。
﹁っ⋮う﹂
弘美はしゃくりあげる。
﹁うわ∼んっ﹂
ついに子供みたいに声をあげて、その姿が何だかたまらなくて、抱
きしめる。
﹁弘美、弘美⋮お前はいー子すぎるんだよ﹂
いつも我が侭放題なくせに、肝心なとこで殊勝になってんじゃねー
よ! バカ!
﹁大丈夫だ! 俺がいるだろ!﹂
俺はずっと、お前の味方だ。
絶対に、何とかしてやる。お前を泣かせるやつは、ぶっとばす。
だから、泣くな︱笑え。
704
○
皐月様の実家は、それなりに大きい家だった。ちょっと成金気味だ
けどまぁ一世代目にしたら趣味がいい。
皐月様のお爺様は、噂とは違った。どう見ても孫バカの好好爺だっ
た。
﹁皐月をよろしくな﹂とか言われてあっさり宿泊許可もらって一緒
にご飯食べてお風呂入って︵何故か皐月様が嫌がったから別のお風
呂︶、皐月様の部屋にきた。
﹁ねー皐月様ー﹂
寮の部屋とはだいぶ違う内装だけど、よく考えたら素の皐月様には
こっちのシンプルな方が似合ってる。
﹁んー?﹂
﹁おかしくない?﹂
﹁何が?﹂
﹁⋮この体勢﹂
ヒロは今、ベッドの上で皐月様の足の間で抱きしめられながらテレ
ビを見てたりする。
﹁おかしい?﹂
705
いや、明らかおかしいよ。
﹁駄目?﹂
だ⋮駄目じゃないけど、ドキドキするしやばいんだけど。何やって
んだろヒロは。
﹁なー弘美ぃ﹂
﹁何よ﹂
﹁結婚したくないなら止めろよ。誰かが怒るなら俺が守るからさ。
お前はまだ子供なんだから、我が侭言っていいんだよ﹂
﹁⋮あんたと一つしか変わんないっつーの﹂
﹁うん、だから俺も我が侭言う。俺は弘美の味方だから、お前は俺
に甘えろ。むしろ甘えて。﹂
﹁⋮我が侭?﹂
﹁我が侭。俺の我が侭叶えてくれるなら、俺も弘美の我が侭叶える
けど⋮どうする?﹂
だからさぁ、甘やかすなってば。
ヒロ、知ってんだからね。あんたがガキで甘えん坊で、依存症で考
えなしで、弱くて強がってるだけのただのバカだって、知ってるん
だからね。
なのに、こんな時にそんなこと言われたら、頼りたくなっちゃうじ
ゃんバカ。
﹁あんた⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁あんたが⋮相手ならいいのに﹂
706
どうして皐月様は女なんだろ。皐月様なら問題ない程度にお金持ち
だし、あの女を説得できるかも知れないのに。
﹁え?﹂
﹁別に⋮あんたが特別好きとかじゃないけど⋮知らないやつと結婚
は⋮ヤダな﹂
本当は、あんたが特別好きだから、だから知らないやつと結婚はヤ
ダ。
あんたを好きにならなければヒロは知らないやつとでも結婚できた
はずだなのに。
﹁ああ⋮そうか⋮じゃあ、結婚するか?﹂
それがただの慰めで、何の意味もないと分かってても、嬉しくて、
泣きそうだ。
﹁⋮⋮⋮⋮うん﹂
ああ、時間がこのまま止まればいいのに。
﹁もう寝るか﹂
﹁⋮うん﹂
ぴ、とテレビと照明が消されてヒロたちは布団の中に。
分かってる。それでも明日はくるし、きっと明後日にはもう婚約者
と会うことになる。
707
﹁おやすみ、弘美﹂
それでも隣にいるこの温もりだけは、絶対に忘れないでおこう。
こんな人はもう現れないだろうし、もうこんな風にしてもらえない
だろうから。
これがきっと、最初で最後の恋だから。
絶対に、来月に結婚してそのままおばあちゃんになって、それでも
皐月様の優しさだけは忘れないでおこう。
﹁おやすみなさい、皐月様﹂
さよなら、︱︱。
○
﹁弘美、俺の言ったこと忘れんなよ! また新学期にな!﹂
と言って別れて4日後、新学期が始まった。
しかしまだ皐月様は寮にこず︵普通前日には寮に戻る︶、学園をボ
イコットしている。
708
電話してもメールしても反応がなく、いらいらしたままさらに2日
たった。
﹁⋮ねぇ﹂
﹁ん、何か言ったぁ?﹂
紗理奈様はピコピコと携帯ゲーム機をしながら言う。
七海様はいやにはりきって文化祭に向けて仕事をバリバリしている。
七海様が頑張りすぎてヒロたちに仕事がないから、手持ち無沙汰で
ますますヒロはいらいらする。
﹁皐月様のこと誰か知らないんですか?﹂
﹁んー、あたしも気にはなってるけど、連絡つかないんだよね。⋮
まさかあれは関係ないだろうし﹂
紗理奈様がゲームの電源を消しながら答える。最後がよく聞こえな
い。独り言?
﹁え?﹂
﹁や、何でもない。小枝子は知らない?﹂
﹁いえ⋮夏休みの最終日にも連絡したのですが、その日にはもう⋮﹂
﹁そっか⋮⋮会長はー?﹂
﹁⋮⋮﹂
七海様はもくもくと書類を片付けている。
どことなく鬼々迫るような雰囲気で声がかけづらかったけど、そん
なの紗理奈様には関係ないらしい。
﹁会長、会長ー﹂
﹁え⋮ああ、どうかした?﹂
709
﹁なんか皐月のこと知りませんか?﹂
﹁皐月⋮いえ、知らないわ﹂
一体、どこで何してんのよあの唐変木。
﹁弘美いるか!?﹂
と、その時淑女室の分厚いドアが開いて皐月様が飛んできた。
﹁あ、噂をすれば影だ﹂
﹁おはようございます皐月さん。今までどうしてたんですか?﹂
﹁おう、おはよう。説明は後でするとして弘美﹂
﹁⋮何よ﹂
顔を見れただけで嬉しいけど、だからって3日もいなかったのを許
すつもりはないから、不機嫌に返事をする。
皐月様はにっこりと笑う。
﹁俺と結婚しよう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
今、何て言った?
710
○
大変だった。
爺ちゃんを説得するのも勿論大変だったけど、それより︱夏休みの
宿題を全然やってなかったことに夏休み最終日に気付いたことが問
題だった。
学園が始まったが流石に宿題が出来てないからと補習を受けるのは
嫌だから病欠にして宿題をすませた。
﹁俺と結婚しよう﹂
そうしてようやく宿題を終えた俺はそのままの勢いで放課後の学園
に来て宿題を提出し、さらにそのまま淑女室に来て弘美に言った。
たとえ弘美が結婚するしかないとしても、俺が相手なら嫌なことは
しないしいつでも別れられる。
我ながら名案だ。
これなら弘美が本当に好きな人ができて結ばれるまでは、時間稼ぎ
になる。
﹁⋮は?﹂
711
結構な間をあけてから弘美はめちゃめちゃ間抜け面を俺に向けた。
わー、間抜け面ぁ⋮⋮⋮ん? 何か、4人とも似た顔を⋮ってか七
海いるよ!
やべっ。七海にどう説明ってか言うなんか無理だし!
﹁弘美、行くぞっ﹂
﹁は、ちょっ﹂
とりあえず弘美を連れて部屋から脱出。
ふぅ⋮まぁ、誤魔化せばいいよね!
﹁おーい、説明は?﹂
﹁あ、うん。分かってる。とりあえず、婚約からな。俺17だし。﹂
﹁は、だから何で、ヒロがあんたと結婚すんのよ?﹂
よく分かってない弘美に俺の目論見を告げる。
とりあえず俺には男の戸籍があるから法的に婚姻が可能であること。
金のために結婚させられるなら少なくともそのための出費をする財
産を個人で持ってること。
俺と結婚すれば今までと変わらない生活が送れるから、弘美が好き
な人を見つけるまでは偽装結婚をしてれば問題ないんじゃね?てな
ことを話した。
﹁⋮⋮ふぅん。あんたの言いたいことは分かったわ﹂
おお、伝わったか。
﹁でもそれってさ、ヒロにいつまでも好きな人ができなかったらど
712
うすんの?﹂
﹁んー? ⋮考えてなかったな﹂
けど⋮別に俺も結婚したい相手いないし。最悪、結婚したままでも
いいんじゃない?
﹁⋮⋮あ、あんたねぇ﹂
あれ、何か呆れられた。
おかしいな。感謝されるかと思ったのに。
﹁⋮はぁ。そりゃ、あんたがいいってんなら助かるわよ。皐月様の
家ならあの女も納得するだろうし﹂
﹁だろ? あ、ところでお前に命令してるその﹃女﹄って誰?﹂
﹁⋮⋮﹂
弘美はむっと嫌そうな顔をしたが、こればかりは聞かないと。
﹁その人を納得させなきゃなんないんだし、教えてくれ﹂
﹁ヒロに⋮遺伝子提供した女﹂
弘美はぼそっと答えて踵を返す。
⋮遺伝子、提供⋮⋮⋮⋮え、それって要するに母親?
﹁お、おい待てよ弘美!﹂
﹁その話はまた後でね。フォロー、よろしく﹂
弘美はさっさと淑女室のドアを開けた。疑惑の視線が向けられる。
713
﹁ねぇねぇ皐月、結婚ってなんの話ぃ?﹂
うわぁ、何て顔だ。どう見ても面白がってる。
あ、さ、小枝子⋮⋮いや、別に⋮俺小枝子と付き合ってないもん!
﹁ゲームの話だ。俺のキャラクターと弘美のを結婚させようってこ
と﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁うん。当たり前じゃん。俺と弘美は女だぜ!?﹂
ふぅ⋮これでいいかな。あー、別に七海以外には話せるんだけどな。
﹁あれでも君、確か戸︱﹂
﹁おおっと手が滑ったあー!﹂
紗理奈がニヤニヤと分かってるような顔でやばい発言をしようとし
たので、俺は反射的に机の上にあったクッキーを一つ投げた。
﹁あてっ。ちょっ⋮なに投げてんのさ﹂
額にあたったクッキーが落ちる前に紗理奈はそれを受けとめる。
﹁こら皐月、食べ物を粗末にするんじゃない!﹂
そして食べた。
う、それを言われると⋮
﹁すまん﹂
714
くい、と引かれて見ると小枝子がそっと俺の袖口を引いていた。
﹁本当に⋮そうなんですか?﹂
﹁あ、う⋮だ、大丈夫だって。好きな人ができたら、小枝子には言
うから﹂
何が大丈夫かは自分でも分からないが、とりあえず俺を好きだとい
う小枝子には、俺が好きになった人を知る権利はある気がする。
今はいないけど。
﹁そ、そうですよね。皐月さんがいきなり結婚なんてないですよね﹂
﹁うん﹂
とりあえず婚約からだから嘘じゃない。嘘じゃないんだ。
ああ⋮でも何だか罪悪感。
小枝子は前みたいに特別好きじゃないけど、それでも嫌いじゃない。
好かれてるのは嬉しいっちゃ嬉しい。
だから嘘をつくのは心苦しいが⋮⋮あーでも弘美も関わってるから
独断で言えないし⋮すまん小枝子!
﹁さーて、んじゃ話も終わったところで皐月﹂
﹁ん?﹂
﹁あたしと校内散歩デートしようか﹂
え、なにその笑顔。
715
解決策を考えた︵後書き︶
ふぅう⋮最初の予定から微妙にずれてますが、概ね予定通りです。
何とか早く更新できるように頑張ってみます。
716
いい加減気づけってば
紗理奈は俺を連れ出すと、ぐいぐい引っ張って屋上まで連れてきた。
﹁どうしたんだよ?﹂
﹁⋮こっちの話なんだけど﹂
﹁は?﹂
﹁⋮何? 結婚て?﹂
あ、やっぱり分かってたのか。う∼ん⋮言ってもいい、かなぁ? ていうか、疑われてるし。
﹁まぁ⋮弘美が結婚は嫌だって言うから、とりあえず俺と婚約って
ことに﹂
﹁⋮は? ん? ⋮⋮ん? ⋮⋮⋮⋮つまり何かい? ヒロが政略
結婚するのに崎山で相手として名乗り出ることで仕組んだ人も納得、
かつヒロはヒロで今まで通りに生活できるし万事オッケーとかそう
いうこと?﹂
﹁わー⋮お前、飲み込みよすぎじゃね? 今のでよくわかったなぁ﹂
﹁逆に、嫌な結婚とか君の性格を考んがえたらこれくらいしか思い
浮かばない﹂
﹁ほう⋮。政略結婚て言うとまるでドラマみたいだな﹂
言われてみると、確かに金のための結婚てズバリそうだな。
﹁君は愛の略奪者だけどね﹂
﹁うえ⋮な、なんかその称号は果てしなく俺に似合わないんだが﹂
ていうかこっぱずかしい。あ、愛て⋮。
717
﹁⋮なるほどね。君の行動理由は、わかった﹂
﹁?﹂
何だ? そんな勿体ぶった言い方して⋮。
﹁ねぇ皐月﹂
﹁ん?﹂
﹁君の中で会長の告白はもう終わったことなの? だから平気でそ
んなことできるの?﹂
﹁え⋮⋮そんなこと、言われても﹂
終わったことって、そりゃ済んだことはもうどうにもならないし、
男としてもう会わないって言った以上女の俺が関わることじゃない
し⋮⋮てか、何が言いたいんだ?
そんなことって、何?
﹁分かってるよ。君は君が思う最良を行ってるんだ。会長は君のこ
と知らないから今の君じゃどうしようもないし、別れた以上接触し
ない方がいいって思ってるんだろ? でもずるい。ずるいよ。君は、
ずるい﹂
﹁え、あ⋮あの、紗理奈?﹂
﹁⋮⋮あたしは会長が好きなんだ。だから、君が会長を傷つけたの
は許せない。だけど君の言い分もわかるし、理解できる﹂
﹁ご、ごめん。あのさ、何が言いたいのか全然分からない﹂
たぶん、俺が会長をフッといて弘美と結婚するのが駄目って言いた
いんだろうが、別に本気じゃな⋮⋮⋮⋮あれ? 別に本気だとして、
問題なくね?
七海を好きじゃないなら断るのは普通だし、仕方ないだろ。
718
﹁⋮分かってるけどムカつくんだって﹂
﹁⋮? いや、俺の行動のどこがそんなに怒られてんの?﹂
﹁⋮会わないってのが言いすぎって以外は、仕方ない。分かってる
よ。あたしが怒るのが理不尽って分かってる。ただの八つ当たり﹂
﹁⋮⋮⋮七海が好きだから、怒るの?﹂
﹁そう。君は知らないだろうけど、恋ってのは理不尽で我が侭で、
持て余してしまうものなのさ﹂
⋮⋮よく、分からない。
ただ分かるのは、俺が思う以上に七海を傷つけていて、紗理奈がそ
れを怒ってるってことだ。
だけど、謝るとか簡単な問題じゃないことくらい俺だって分かる。
紗理奈だって、それくらい分かってるんだろ?
﹁俺はどうすればいいんだ?﹂
﹁さぁね。少なくとも会長には君は何もできないだろうね﹂
七海にはもう何もできないし、七海も何も﹃俺﹄には求めないだろ
う。
そんなこと、俺だって知ってる。
俺が知りたいのは、どうすれば紗理奈の機嫌がよくなるか、だ。
﹃七海が気付いてると知ったってどうしようもないから、せめて紗
理奈に嫌われたくない﹄
そんな卑屈な俺の感情を読んだのか、紗理奈は険しい表情になる。
﹁別に、あたしの機嫌伺わなくったっていいよ。どっちにしても会
長にしたことは許せないから﹂
719
﹁⋮⋮⋮それでも、紗理奈に嫌われても、俺は弘美と婚約する。明
日にでも親に会いに行く﹂
いけないことなのか俺にはわからない。けど少なくとも、弘美を放
っておくことはできない。
紗理奈は小さく苦笑する。
﹁だろうね。君なら、そう言うと思った。でも何でそこまでするの
? ヒロのために戸籍もお金も捧げて⋮惚れた?﹂
﹁あのな⋮すぐにそういう話にするな。だいたい、友達なんだから
困ってたら助けるのは当たり前だろ﹂
﹁⋮⋮そうか、君は、そうなんだね﹂
? 紗理奈は自分でうんうんと頷いているが、よくわからない。
ていうか紗理奈が考えてることが全くわからない。
﹁ねぇ皐月﹂
﹁何?﹂
﹁⋮⋮あたしは君のことを許せないけど、でも友達であることはな
くならないよ﹂
﹁え⋮﹂
﹁勿論、会長のことに関してはこれからも君に文句言ったり八つ当
たりするよ。けど、弘美に関するのとかは味方してあげる。協力す
る﹂
﹁⋮本当に?﹂
そんな都合いいことって、あるの?
ってか、え? 紗理奈の思考回路がわからないんだが俺がバカなの
か?
720
﹁皐月はほんと、仕方ないよね﹂
﹁何、が?﹂
﹁皐月はバカだから、仕方ないよ﹂
﹁だから何が? あのさ、俺バカだから紗理奈がどう思ってんのか
全然わからないんだ。はっきり言ってくれ﹂
紗理奈に嫌われることも覚悟して、なのに許さないけど協力とか、
どうして急に心変わりしたのかわからない。
﹁だからさぁ⋮つまり﹂
紗理奈は考えるように唇に指をあててんー、と言ってからニカリと
笑う。
﹁つまり君のバカは、感染するんだよ﹂
⋮えー? これって、バカにされてんの?
○
﹁俺はどうすればいいんだ?﹂
﹁さぁね。少なくとも会長には君は何もできないだろうね﹂
あたしは冷たく言う。皐月が何と言って欲しいかなんて分かってる。
皐月はあたしに許し求めてる。
だけど無理。あたしは皐月には優しくしてあげるつもりだけど、会
721
長は無理。
あたしにとって会長は一番大事なんだ。会長だけは、会長を傷つけ
ることだけは、許すわけにはいかない。
﹁別に、あたしの機嫌伺わなくったっていいよ。どっちにしても会
長にしたことは許せないから﹂
﹁⋮⋮⋮それでも、紗理奈に嫌われても、俺は弘美と婚約する。明
日にでも親に会いに行く﹂
﹁だろうね。君なら、そう言うと思った。でも何でそこまでするの
? ヒロのために戸籍もお金も捧げて⋮惚れた?﹂
皐月は全然分かってない。分かってないよ。
﹁あのな⋮すぐにそういう話にするな。だいたい、友達なんだから
困ってたら助けるのは当たり前だろ﹂
だけど、あたしだって知らない。皐月が恋愛に疎いように、あたし
は友情に疎い。
なぁなぁでそれとなく一緒にいるだけの友達はいて、テキトーに遊
ぶ恋人的な子がいて、本命がいて、だけどあたしには本気の友達が
いなかった。
それだけじゃない。本気で誰かに接したことなんてない。会長にだ
っていつも考えて考えて接してる。
﹁⋮⋮そうか、君は、そうなんだね﹂
だから、当たり前だと言う皐月が、眩しいと思った。
嘘をついていても、それほど親しくなくても、いつも皐月はまっす
ぐだ。
722
﹁ねぇ皐月﹂
﹁何?﹂
﹁⋮⋮あたしは君のことを許せないけど、でも友達であることはな
くならないよ﹂
﹁え⋮﹂
皐月の間抜け面にあたしは笑いだしたくなる。
皐月は理解してない。どれだけあたしにとって大事な存在になって
るか︵会長には及ばないけど、ベクトルが違うからいいの︶。
ねぇ、分かってる? 君はあたしの初めてできた、本気の友達なん
だよ。
﹁勿論、会長のことに関してはこれからも君に文句言ったり八つ当
たりするよ。けど、弘美に関するのとかは味方してあげる。協力す
る﹂
会長のことは自分でも自制できないから断っておく。
だけど本当だ。会長を傷つけない限り、あたしは皐月に協力するよ。
あたしだって、ヒロに不幸になって欲しいわけじゃないしね。
﹁⋮本当に?﹂
﹁皐月はほんと、仕方ないよね﹂
﹁何、が?﹂
﹁皐月はバカだから、仕方ないよ﹂
皐月は喜びに染まった顔を微妙に歪めて唇を尖らす。
﹁だから何が? あのさ、俺バカだから紗理奈がどう思ってんのか
全然わからないんだ。はっきり言ってくれ﹂
﹁だからさぁ⋮つまり﹂
723
何て言おう。
つまりあたしは、皐月って言うウイルスにやられたんだ。友情なん
て、信じてなかったのにね。
いつからあたしは、打算も欲情もなしに誰かのために動けるように
なったんだろう。
﹁つまり君のバカは、感染するんだよ﹂
そう言うこと。あたしは、皐月の真っ直ぐさに感化されちゃったん
だ。
君は、実は凄いやつかもね。
流石に恥ずかしいから口にはしないけどね。
○
﹁私は弘美さんを愛していますから﹂
さらりと猫を被ったまま皐月様が言う。
説得のためだと知ってても思わず顔が赤くなる。
﹁そう、よくわかったわ。相手には話をしておくから崎山君、とり
724
あえず弘美と婚約してくれる? 縁談を断るにはそれくらいしなき
ゃ駄目よ﹂
﹁勿論そのつもりです。卒業するまで結婚は控えますが、婚約はし
ます。指輪もあります。﹂
﹁そう﹂
女は嬉しそうに頷いた。誰をヒロにあてようとしてたか何て知らな
いけど、家名が目的なら成り上がりに決まってる。
皐月様の家以上の成り上がりなんてないし︵てゆーか私有財産だけ
なら名家ってもそのへんの家じゃたちうちできない︶、金が欲しい
だけの女にして見れば願ったり叶ったりだろう。
﹁良かったわね弘美、あんたにもいい人ができて﹂
巫山戯んな。あんたに都合が﹃いい﹄人でしょ。言っとくけど、ヒ
ロは皐月様が崎山姓だから好きになったわけじゃないんだから。
皐月様が皐月様だから、好きになったんだから。
﹁⋮⋮﹂
ヒロは何も言わずに曖昧に女に笑って見せる。
この女には何を言ったって無駄だ。何も期待なんかしてない。金し
か頭にない、最低の女だ。
だから、こんな女に本音で話してなんかやらない。そんなの疲れる
だけだ。
﹁皐月様、もう宜しいでしょう? 私の部屋に参りませんか?﹂
﹁弘美⋮分かっているわね﹂
﹁⋮はい。分かっておりますわ﹂
725
ああくだらない。あんたの会社が倒産して収入がなくなろうと、ヒ
ロの知ったことか。
今だってヒロはおばちゃんに養ってもらってるし。
だけどヒロは女の言葉に頷く。ヒロはこの女に面と向かうと、どう
してだか文句の一つも言えないのだ。
ぱたん−
ヒロのあの女のいる居間を出て自室に皐月様を招き、ドアを閉めて
からヒロはため息をつく。
﹁はぁ⋮あんた、あれが姑よ。最悪ね。それでもまだヒロと結婚す
るわけ?﹂
﹁するよ。当たり前だろ﹂
当たり前? そんなわけがない。どこの世界に好きでもないやつの
ために結婚までしてやるバカがいるんだ。
皐月様に好きな人ができても告白すらできない身分に自分からなる
なんてどうかしてる。
﹁何で⋮当たり前なのよ。どう当たり前なのよ!﹂
あ、やばい。言葉にすると、くすぶってた感情が吹き出した。
﹁いい? 結婚なんかしたら、あんたはヒロがいいってまで好きな
人に告白することだってできないんだから!﹂
﹁わ、分かってるよ﹂
﹁分かってない! ヒロが拒否すれば、あんたは一生ヒロの面倒見
なきゃいけないのよ!﹂
﹁あのさ⋮何で、そんな言い方すんの? 大丈夫だって。俺、そん
726
なにバカじゃない。爺ちゃんにだって色々言われたし、分かってる
よ﹂
﹁何で⋮何でじゃあ、ここまでしてくれんのよ!﹂
﹁だって、友達だろ?﹂
バカだ。
間違いなくこいつはバカだ。
ヒロなら絶対にそんなことしない。例え今一番親しい、小枝子様や
紗理奈様に七海様が困って、ヒロに戸籍があっても、絶対にしない。
皐月様なら別だけど、友達だからじゃない。好きだからだ。
可哀想だと思ったって何とかしようなんて思わない。
だって、ヒロたちにとってそんなに珍しい話じゃない。皐月様が庶
民育ちだから?
﹁そんな顔するなよ。紗理奈といい、お前ら俺のことバカにしすぎ。
﹂
⋮⋮違う気がする。いくら価値観が違うとは言え、こんなバカがそ
こらに溢れてるとは思えない。
﹁それとも⋮お前は、俺のこと友達だって思わないのかよ﹂
思わない。
反射的に、言いそうになって慌てて口を押さえた。
友達だなんて思ってない。ヒロは、皐月様が特別に好きなんだから。
727
しかし、私の態度から皐月様はそれと逆に受け取ったらしい。
いやまぁ、友達と思わない=好かれてるなんてどんだけポジティブ、
つかナルシスト?って感じだけどさ。
﹁⋮俺、友達じゃない?﹂
﹁⋮まぁヒロにとってはね﹂
﹁で、でもほら、顔も知らないやつよりは結婚するくらいマシなん
だよな?﹂
皐月様必死だよ。ってそりゃここまでして何とも思われてないとか
空しすぎだしね。
﹁俺⋮もしかして、一人で勝手に空回ってる?﹂
あ、落ち込んだ。まぁヒロがずっと黙ってるからだよね。
でも口開いたら余計なこといいそうだし。まぁ⋮⋮でも慰めないと
駄目だよね。
﹁空回ってなんかないってば。現にヒロとかめちゃめちゃ絡まって
るし﹂
あ?
あれ? 何か今、微妙な言い方しなかった?
﹁絡まってる⋮ってことは、俺のことちゃんと好き?﹂
なんつーこと聞くのよ。裏がないって分かってるけどさ。つかちゃ
728
んとって何?
﹁好きよ﹂
ってヒロも答えてるし! どーしたヒロ!
﹁良かったー。おどかすなよ弘美﹂
って全然分かってない。ヒロがシリアスに答えてんのに欠片くらい
気づけよ!
﹁好きだよ﹂
もう知るか! 言ってしまえ。例えフラレても皐月様なら今の関係
持続してくれるだろ。小枝子様みたいに。
﹁うん、俺も﹂
﹁じゃなくて、マジで﹂
﹁ん? 俺も嘘じゃないぞ﹂
あんた、頭悪いの?
﹁だからそうじゃなくて⋮皐月様のこと友達と思ってないし!﹂
﹁は、どういう⋮﹂
﹁だから!﹂
いい加減我慢の限界! 物わかり悪すぎ! つか、ヒロが好きって
言ってんだから喜びなさいよ!
729
﹁んむ︱っ!?﹂
ヒロは無理矢理、皐月様の襟首を引っ張って唇にキスした。
﹁はっ︱﹂
﹁お、お前⋮﹂
口を押さえて呆然とする皐月様にヒロは笑って見せる。
﹁好きだっつってんでしょ、このバカ﹂
さ、ここまで言わせたヒロに、あんたは何て言ってくれるわけ?
730
いい加減気づけってば︵後書き︶
あー、今回、だけじゃないですが展開が急かも知れません。
そろそろ関係をわかりやすくしたいです。
731
掃除を忘れてた
﹁だからそうじゃなくて⋮皐月様のこと友達と思ってないし!﹂
弘美は怒ったようにそう言うが、え、それ俺が怒るとこじゃね?
﹁は、どういう⋮﹂
﹁だから!﹂
ガッと俺の一張羅のスーツ︵勿論男用︶の襟首を掴まれて引き寄せ
られる。
え、な、何!?
ちょっ!
﹁んむ︱っ!?﹂
って、え!!? 何でキスしてんの!?
﹁はっ︱﹂
一瞬の後、俺を解放すると同時に弘美は息を吐く。
﹁お、お前⋮﹂
自分の唇に触れる。暖かい感触がまだ残っている気がする。かっ、
と顔に熱が集まる。
そんな俺に弘美は顔を赤くしながら笑った。
﹁好きだっつってんでしょ、このバカ﹂
732
な、ん⋮⋮は!? はああぁあ!?
え!? お、俺、弘美に告られてる!?
お、おおおお落ち着けぇ! どうせ⋮⋮⋮って今回マジで﹃俺﹄だ
!?
﹁ま⋮マジですか?﹂
﹁こんな嘘、つか、嘘でキスするわけないでしょ⋮⋮ファーストキ
ス、なんだからね﹂
う、あ、あ⋮
﹁⋮俺のこと、恋愛的に好きなの?﹂
﹁⋮⋮︵こくり︶﹂
赤い顔のまま無言で頷く様は確かに可愛いが、しかし俺にはそれに
頬をゆるませる余裕はない。
﹁じゃあ⋮﹂
もし弘美が肯定したら俺はどうすればいいのか全くわからない。恐
い⋮だが、避けるわけにはいかない。
﹁俺と⋮エッチなこともしたいの?﹂
﹁は︱っっ!?﹂
弘美は、え、人間ってそんなに赤くなれたの?ってくらい真っ赤に
なると
733
﹁死ねこのバカー!!﹂
と叫びながらすぐそばのベッドにある枕を俺に投げつけた。
﹁っと﹂
﹁阿呆! スケベ! 変態!﹂
さらにベッドに並んでるぬいぐるみやベッド横の机から本をとった
りして、とにかくやたらめったら俺に物を投げながら罵倒してくる。
﹁ちょっ、待っ﹂
本は危ないって! あ、てめ、目覚まし時計は投げるもんじゃない
ぞ!
﹁バカ! バカバカバカ!﹂
ついに回りのものを全て投げてから弘美は肩で息をして俺を睨みつ
けてくる。
﹁バカ! そんなこと考えるなんてあんた変態よ!﹂
﹁いや、だって⋮﹂
恋愛の好きにはそういう意味が含まれてるんだろ?
﹁だ、だいたい⋮ヒロにはまだ早いって言うか⋮そんなの⋮⋮考え
てないしバカァ!﹂
そう言うと弘美は俺にあたって跳ね返り床に落ちてる枕を乱暴にひ
734
ろい、勢いよくベッドに入ってくるまった。
﹁⋮⋮すまん﹂
なんというか⋮気がぬけた。俺が余計に心配してただけみたいだ。
そうだよな。弘美だもんな。そんなこと考えてないよな。だって見
た目小学校だもんな。
てゆーか、こいつの好きは独占欲の延長とかそんなんだよな、うん。
俺を下僕とか言うのもそういうことなのかな?
まぁ何にせよ⋮良かった∼∼。これで弘美が俺の体を狙ってたら、
婚約してるしやばいもんね。
﹁う∼∼、ほんっとバカ。恥ずかしいこと言わないでよね﹂
﹁マジごめんなさい﹂
﹁誠意が足りない﹂
﹁申し訳ございません﹂
﹁まだまだ﹂
﹁大変申し訳ございませんでした。とても反省しておりますのでど
うぞよしなに﹂
﹁⋮⋮ヒロと、付き合うならいいよ﹂
﹁え、それはない﹂
あ⋮今の失言じゃね?
﹁⋮バカ﹂
だが俺がしまったと思ったわりには弘美は小さくつぶやいて起き上
がっただけで、怒ってはないようだ。
﹁皐月様はさ、好きな人いないの? 勿論、付き合いたいって意味
735
で﹂
好きな人、と言われてとっさに浮かんだのは︱七海の涙だった。
思い出しただけなのに、今も七海が泣いているかのようにずきずき
と胸が痛んだ。
意識してなかったが、あの告白事件はやはりショックだったらしい。
関係ないはずの今も、好きというワードから連想して思い出してし
まった。
﹁いないよ﹂
俺はなるべく態度に出さずにそう言った。
﹁⋮ふぅん。ならさ、付き合ってみる? 婚約のついでに﹂
﹁え⋮﹂
﹁あ、でも! ⋮エッチなことは駄目だからね。ヒロ、まだ15歳
なんだから。駄目なんだからね﹂
﹁分かってるよ。俺はお前が嫌がることはしないから、そう何度も
念を押すな﹂
自意識過剰な失言が我ながら恥ずかしい。
﹁ならいいけど⋮⋮⋮⋮⋮でも﹂
﹁ん? なに?﹂
﹁皐月様が⋮﹂
﹁うん﹂
﹁どーしてもってんなら⋮﹂
﹁うん?﹂
﹁考えない⋮ことも⋮ない、かも﹂
736
﹁ん? 何を?﹂
﹁だから! ⋮え、えっちな⋮こと⋮って言わせんなバカ!﹂
また枕を投げられたがあえて受けた。枕はお腹にあたって落ちた。
正直に言えば、えっちなことなんてしたくないし弘美が余計な気を
まわしてるだけだが、嫌なことでも俺が望むなら構わない。ってい
う、その言気持ちにぐっときた。
なんて可愛いやつだ。あーもぅ、何で俺、こいつのこと好きになっ
てあげられないんだろう?
﹁ありがと。でもいいよ。俺、えっちなこと嫌いだから﹂
﹁そうなの? 苦手ならともかく、嫌いなんて変なやつね。言っと
くけど、大人に性欲なかったら人類が滅びるし、あんたも生まれか
ったのよ﹂
﹁一人くらいヘーキ。それに⋮﹂
どっちにしろ、俺とお前は女同士だから子供なんてできないんだけ
ど。そのツッコミおかしくない?
枕を拾って返すと弘美ははふぅとため息をつく。
﹁で?﹂
﹁ん?﹂
﹁ヒロと、付き合う気あんの?﹂
﹁ごめんなさい。ちゅーならするから勘弁してちょ﹂
おどけて答える。気まずくはなりたくない。ズルイかも知れないが、
弘美のことは恋愛抜きでなら、かなり好きだし。
妹ってこんな感じなのかな、みたいな。うん、可愛いし好きは好き
だ。だから弘美が困ってるなら助けるし、泣いてるなら笑わせたい。
737
ただ、弘美がどんなに望んでも越えられない一線はある。
お願いだから越えないで。
弘美が望むなら、どんなワガママも聞いてあげる。
婚約もしたし、本当の家族のように愛してもいい。
だから、俺に恋を求めないでくれ。
俺には、そんなことをする資格も、勇気もないんだから。
﹁弘美⋮﹂
ベッドに座って肩を抱いて頬にキスをした。
﹁⋮バカ。こんなの生殺しよ。今更婚約解消なんてしないけど、付
き合う気がないなら普通の距離くらい保ちなさいよ﹂
﹁そう⋮ごめん。俺、そういうのわかんないんだ。好きだって言わ
れたら、とりあえずキスすればみんな喜んでくれてたから﹂
﹁⋮バカ﹂
﹁もう、そんなにバカバカ言うなよ。中学のころは、結構成績良か
ったんだからな﹂
﹁バカよ。ヒロがいるのに、別の女どもの話なんかして⋮﹂
ああ、ヤキモチか。
口には出さずに少し笑う。本当に可愛い。だけど、弘美の言う通り
だな。
小枝子の時みたいにならないように、距離を間違える前にちゃんと
普通にならないと駄目だよな。
738
﹁ごめんなさい。弘美、あのさ﹂
﹁何よ﹂
﹁俺を好きになってくれてありがとう。けど、俺はお前をそんな風
に思ってない。ごめん。良かったら、今まで通り頼む﹂
﹁⋮⋮いいよ﹂
﹁え、マジで?﹂
﹁だって、断るって思ってたもん﹂
﹁え? なのに告ったの?﹂
﹁ノリで﹂
﹁はぁ⋮そうですか﹂
そういうのも有りなのか。そういえば告白してきてくれた子も、真
剣すぎて泣いちゃう子もいたけど、わりとあっさりしてて次の日普
通な子もいたし⋮そんなもん?
﹁まぁ、いいや。良かった、弘美が傷つかないで﹂
断る以外の選択肢は俺にはないが、だからって傷つけたいわけじゃ
ない。
﹁皐月様﹂
﹁なに?﹂
﹁バァカ﹂
え⋮まだ言いますか。
まぁ何にせよ、これで一段落だ。平和な学園生活に戻るぜ⋮⋮また
女装か。あ、いや今が男装してるんだが。
スカートはスパッツをはくことで譲歩できなくないが、カツラとメ
ガネがなぁ、ソバカスメイクを止めたとは言え、メンドイ。カツラ
739
蒸れるし。
何か、七海にバレない程度に手抜きできる変装ってないもんかな。
○
﹁弘美、あのさ﹂
﹁何よ﹂
﹁俺を好きになってくれてありがとう。けど、俺はお前をそんな風
に思ってない。ごめん。良かったら、今まで通り頼む﹂
ヒロの頬にキスしといてそんなことをのたまう皐月様。
何てズルイ人だ。分かってる? それってヒロに思いを封印しろっ
て強要してんのよ。
ああ、何でヒロは、こんな微妙にモテるくせにヘタレでバカな男女
が好きなんだろ。
何で⋮皐月様の願いなら何でも叶えたいって思うんだろ。
ねぇ皐月様
﹁⋮⋮いいよ﹂
﹁え、マジで?﹂
﹁だって、断るって思ってたもん﹂
740
﹁え? なのに告ったの?﹂
﹁ノリで﹂
﹁はぁ⋮そうですか﹂
ヒロは、皐月様のこと好きだよ。ずっと一緒にいて一番にヒロのこ
と思って欲しい。
﹁まぁ、いいや。良かった、弘美が傷つかないで﹂
自分勝手で優しい皐月様は、きっとヒロがどれだけ好きかなんてわ
からない。
﹁皐月様﹂
﹁なに?﹂
﹁バァカ﹂
ヒロは大人になりたくないけど、皐月様が望むなら駆け足に大きく
なって、守ってあげたい。
皐月様が望むままに世界を書き換えてやりたい。
本当にイカレテる。
ヒロは、皐月様に狂ってしまった。おかしい。ヒロはこんなキャラ
じゃないのに。
皐月様が願うなら、空だって飛んでみせる。
できる気がするし、できなくったってやる。こんな無謀で無茶な思
考はヒロらしくない。
たぶんきっと、これがヒロの﹃愛﹄だ。
741
○
﹁んーっ、久しぶりに帰ってきたって感じだ∼﹂
夏休み明け初の寮入りだ。
寮部屋は、まだ半年使ってないとは言え俺の第2の家のような気が
する。
﹁ごっ、ぼばっ!?﹂
ばふっとベッドにダイフすると、派手に埃が舞った⋮⋮⋮⋮あ、掃
除してない。
う∼ん、明日授業受けてる間にでも、掃除頼もうかな。
大抵の生徒は休みの間の部屋の管理に、学園おかかえ業者に頼んで
るらしいのだが、俺はすっかり忘れていた。
﹁⋮今日は、弘美の部屋にでも泊めてもらうか?﹂
拒否られはしないだろうし、さすがに今日はまだ紗理奈のとこには
行きづらい。
てゆーか、弘美ん家に挨拶に行って戻ってきたとこだし、すでに深
742
夜だ。
トントン
誰かがドアをノックした。
﹁はいはーい﹂
ドアを開け⋮って、ズラ外したままだ。
帰ってくる時に面倒だからちゃんとつけずに乗せてただけでもう取
っちゃったし⋮。
﹁どちらさまでー?﹂
﹁ヒロ﹂
まぁ、よく考えたら消灯時間過ぎてるし弘美しかいないか。
俺はそのままドアを開ける。
﹁何か用?﹂
﹁ばっ⋮﹂
﹁え⋮!?﹂
﹁え⋮⋮⋮すみません間違えました!﹂
思いっきりドアを閉めた。
何故かドアの外には弘美と知らない少女がいた。
え⋮? み、見られた? やばい。弘美とかならともかく、他のや
つに噂されたらやばいって!
ズ、ズラ⋮あ、でも⋮ドアを開けたら中の人が変わってたらおかし
いだろ。
743
どんどん!
ドアを叩かれる。あー、ちょっ、待て。待て待て待て。
考えてるから。
ぶるぶるぶる︱
携帯電話が震える。ああもう誰だ!?
メールを開く。
﹃本文:フォローするからそのカッコのまま開けろ﹄
弘美ぃぃ!
元はと言えば弘美のせいじゃね?とは思うがとにかく感謝しつつド
アを再び開ける。
﹁あ、あなた誰ですか!? 皐月様は!?﹂
﹁あ、と、とりあえず入りなよ﹂
警戒する少女をなだめながら二人を部屋に招く。
﹁えっと、滝口皐月は、ちょっと出かけてる。明日には戻るよ﹂
﹁あなたは誰ですか!? ここは男子禁制ですよ!﹂
くあ、何とかしてくれ弘美∼。
俺が視線で助けを求めると弘美は少女には見えない位置でため息を
ついてから、にっこりと笑顔で少女に話しかける。
744
きくこ
﹁菊子さん、落ち着いて﹂
﹁弘美さん! どうしてあなたは落ち着いてられるんですか! 皐
月様の部屋にこんな不審者がいるのに!﹂
ふ、不審者⋮まぁその通りなんだけど。
﹁彼は⋮崎山皐月さん。私の婚約者です﹂
﹁⋮⋮え?﹂
顔を真っ赤にして怒鳴らんばかりにつっかかってきてた少女は、弘
美の言葉にキョトンと首を傾げた。
○
745
掃除を忘れてた︵後書き︶
七海にいつどのタイミングでバラすか悩みます。
あと、物凄い恥ずかしい事実に気づきました。最初は小枝子を佐枝
子って書いてました。むしろ途中から間違ってそのまま﹃佐﹄が﹃
小﹄になってました。
直すのが面倒なのでこのまま﹃小﹄で行きます。すみません。
てゆーか全然気付かなかった。気付いてた人っているんですかね。
あと、段々題名をつけるのが面倒になってきました。
746
強くなりたいな
﹁彼は⋮崎山皐月さん。私の婚約者です﹂
﹁⋮⋮え?﹂
はっきりと告げると、菊子さんはバカみたいに口を開けてヒロと皐
月様を見る。
この人はヒロのクラスメートで、自称皐月様のファンだ。まぁ、髪
と服装が違うくらいでわからない時点で、たかが知れてるけど。
皐月様は自覚してないだろうが、淑女会の一員である以上皐月様は
有名人だ。地味な格好で粗野な皐月様に反感を持ってる人もいるが、
男っぽいとこがいいと言う物好きな人間もいる。
その一人がこの人で、休んでた皐月様を心配した彼女は放課後に来
てまた出ていったことを知って、ずっと待ってたらしい。バカだ。
てゆーか今日中に戻ってくる保証もないのに。
そして、帰ってきたらしいのに気づいてヒロに出くわし、一目でい
いから会いたいので通してくれと頼まれたのだ。
普通ならは?ふざけんな。と言うが、学園のお嬢様方はヒロを品行
方正なお人形だと思ってるのでにっこり笑って了解した。
だけど皐月様は私の予想の何倍も阿呆でバカで愚かで、カツラもつ
けずにスーツのまま出やがった。
仕方ないから、部屋に入ってフォローをしてやる。本当に、ヒロに
気をつかわせて顎で使うなんてあんたくらいよ。
747
﹁こ⋮婚約者、ですか?﹂
﹁ええ。今日、正式に手順をふんで参りました。ここが男子禁制な
のは勿論存じておりますが、別れがたくて⋮ごめんなさい菊子さん。
私に免じて、見逃していただけないかしら?﹂
﹁で、ですが⋮何故この部屋に?﹂
よし、混乱してる。
﹁崎山皐月様は、滝口皐月様の親戚なのです。私も皐月様を通じて、
崎山様と出会ったのです﹂
﹁まあ︱!﹂
﹁皐月様が休まれていたのも実はそのためなのです。私たちのため
に頑張ってくださって本当に感謝しておりますわ﹂
﹁⋮⋮弘美さん﹂
﹁どうか、彼を責めないであげて。私が無理にお願いしたの﹂
﹁⋮わかりました。今夜のことは、私の心にしまっておきます﹂
よし、完了。ヒロにかかればこんな培養お嬢様なんてカルイ。
﹁ありがとうございます﹂
まぁ、絶対に話すだろうけど。
女の子、しかも封鎖された娯楽の少ない学園内において噂を侮って
はいけない。
明後日には生徒全員が知ってたってヒロは驚かない。
これは、単に皐月様がここにいるのを認めさせただけに過ぎない。
﹁はい、安心してください。このことは言いませんから﹂
748
言う。絶対にここだけの話として言う。そしていつの時代も﹃ここ
だけの話﹄と言えば大声で発表するのと違いない。
親しい友人だけに話したって、ねずみ算式に増えるのは目に見えて
いる。
菊子さんを追い出し、帰ったのを確認してから皐月様はふぅぅと息
をはく。
﹁いやぁ、物分かりがいい子で助かったな。友達か?﹂
﹁ただのクラスメート。本当に友達ならあんな顔しないでしょ﹂
﹁あんな?﹂
気づいてないのか。鈍い。まぁ、分かってたことだけど。
﹁めっちゃ目ぇ笑ってたじゃん。明後日には皆知ってるよ。いや、
明日の放課後にはそうかな﹂
﹁⋮⋮⋮!?﹂
え、マジで黙っててくれると思ったわけ? 全く、頭の中のその花
畑、放火して焼け野原にしたらちったぁマシになんの?
﹁そうなのか⋮あー、じゃあ七海にも小枝子にもバレるのか⋮﹂
﹁? 小枝子様には説明すればいいし、七海様は別にいいじゃん﹂
﹁いや⋮あー、男の俺と知り合いだし。けど、説明しようもないし
なぁ⋮﹂
﹁?﹂
いや、そもそも、あんた好きな人いないったじゃん。別の誤解され
749
てもいいじゃん。それとも⋮
﹁あんた七海様のこと好きなの?﹂
﹁はぁ? 何でだよ。好きな人なんて、いないってば!﹂
んー。若干ムキになるのが怪しいけど、そもそも皐月様ってなんで
そう恋愛を嫌うかなぁ。
てかヒロ、なんで皐月様が男の戸籍持ってんのかとか知らないし⋮
皐月様のこと、あんまり知らないんだな。
﹁⋮ねぇ﹂
これを機会に聞いてみることにする。ヒロは長期戦を覚悟して居座
るべく皐月様のベッドに向かいつつ声をかける。
﹁何だよ。あ、てか弘美﹂
﹁ん?﹂
﹁この部屋、まだ掃︱﹂
ばふん︱
﹁っ、くしゅんっ!﹂
ベッドに座ると予想外に舞い上がる埃にクシャミが出た。
﹁⋮掃除してないから埃がやばいんだ。今日、お前の部屋に泊めて
くれ﹂
﹁っしゅん!﹂
ヒロはクシャミで返事をした。
750
○
﹁枕の代わりにクッションでいいわよね﹂
﹁ああ、サンキュ。﹂
お風呂に入り︵一緒にと言われたが勿論断り︶パジャマに着替えて
一応カツラをつけて俺は部屋にやってきた。
弘美は俺が眠るためにクッションを枕の位置に置いた。
﹁よし、寝るか﹂
﹁あ、ちょっ⋮まだ、いいでしょ別に﹂
﹁? いや、そろそろ寝ないと⋮﹂
帰ってきたのは11時過ぎだったが、何だかんだでもう12時だし
明日、と言うか今日は授業もあるし。
﹁いいから。⋮少し、話しましょ﹂
﹁まぁ、いいけど﹂
何だ? 改まって。
俺は弘美と並んでベッドに腰掛けた。
﹁あんたのこと、教えてよ﹂
751
﹁俺のこと? 大して面白くないぞ﹂
まぁ色々あるっちゃあるが、別に面白いことなんて⋮ないな。それ
に俺のことを話す上ではどうしても﹃あの事﹄も話さなきゃならな
いし。
﹁いいから知りたいの。何で男として生活してるとか、どうでもい
いことでもいいから﹂
﹁⋮⋮﹂
言いたくない。言ったらきっと嫌われてしまうから。
けど⋮婚約者となって、ずっと隠すのも難しいだろう。それに⋮⋮
俺は、もう誰にも嘘をつきたくない。
騙したくない。傷つけたくない。
誰にも泣いてほしくない。
﹁⋮どうしても? 面白い話じゃないし⋮本当のことを知ったら俺
を気持悪いって思うぞ。俺を嫌っても婚約してる以上離れられない。
知らない方がいいことだってきっとある﹂
これで納得⋮しないよな。弘美だもん。俺の意見に素直に従うわけ
がない。
﹁そう⋮言いたくないのね。ね、今の言葉、もしかして言いたくな
いのって、ヒロに嫌われたくないから?﹂
﹁う⋮﹂
そうだ。嫌われたくない。
﹁そっか⋮なら、仕方ないよね﹂
752
予想に反して弘美はそう言って引き下がる。
それは嬉しいけど⋮だけど⋮本当にそれでいいのか?
黙ってれば嘘をついてるわけじゃない、知られなければ嫌われるこ
ともない。
だけど、それは友人だから許されるんじゃないか? まして婚約者
なら、全てを言うべきじゃないか?
だって、このままじゃ前科を言わない犯罪者みたいなものだ、多分。
﹁じゃ、寝ようか﹂
﹁⋮いいの?﹂
﹁別にいいよ。聞きたいけど、皐月様が嫌なら﹂
いいの? あの弘美にこんなこと言ってもらって、俺は逃げていて、
本当にいいのか?
俺は⋮いつまで逃げるつもりなんだ?
﹁っ、弘美!﹂
﹁な、に? そんな大きな声だして。びっくりするじゃない﹂
﹁⋮⋮やっぱり⋮聞いて、ほしい⋮⋮いい?﹂
﹁⋮だから、ヒロは知りたいんだって。皐月様のことなら、全部知
りたい。あんたが何で嫌われると思ってるか知らないけど、あり得
ないから﹂
﹁⋮うん﹂
言いたくない。
言わなきゃいけない。
753
嫌われたくない。
黙ってるわけにはいかない。
﹁む、昔々、あるところに童顔な家出青年がいました﹂
﹁何で物語風⋮﹂
﹁いいから黙って。ごほん︱﹂
ツッコミをいれてくる弘美を黙らせ咳払い。
こんな重大話、普通に言えるか。重いっての。できるだけ客観的に
簡単に言わなきゃ。
口を挟まれる前に一気に言ってしまえ。
﹁昔々、あるところに童顔な家出青年がいました。青年はそれはそ
れは美しい小学生に一目惚れし、子供をもうけました。しかし青年
が死に、少女の親も死に、少女は一人で子供を育てました。
子供はやがて少女へと成長しますが、途中で先生に犯されて壊れて
しまいました。
何とか男として振る舞うことで立ち直った少女は祖父と出会い、貧
乏生活を無事に脱出したのでした。
めでたしめでたし﹂
﹁⋮⋮﹂
めちゃめちゃ簡単に俺の出生と男になった理由を言った。
さあ⋮どうでる弘美⋮?
あ∼∼っ! 一応平静を装おっちゃいるが、やべー! 緊張する!
何とか言ってくれ!
﹁⋮⋮﹂
﹁あの、弘美サン?﹂
754
何で無言で俺と見つめあってますか? あの、コメントをどうぞ?
﹁あんたね、はしょりすぎ﹂
﹁そ、そうだけど⋮﹂
そんな普通に言われても⋮。一応要点は言ったのに。
﹁で、あんたが隠したいのって何? 先生にレイプされた件?﹂
﹁⋮⋮﹂
頷く。
てゆーか、そんなはっきり言うか? あーもう、俺がさっきの言葉
を言うのにどれだけ勇気をふり絞ったと思ってんだよっ。って完全
な八つ当たりだけどさ。
﹁何で?﹂
﹁な、何でって⋮どう考えても、吹聴することじゃないだろ﹂
﹁うん。けど、嫌われるからとか考える件でもないでしょ﹂
さらりとした弘美の態度に、イラついた。
﹁考えるだろ!﹂
思わず声をあらげてしまって、顔をそむけてそっと視線だけで弘美
を見るが
﹁どこが?﹂
ととらえどころのない無表情でさらに聞いてくる。
755
﹁どこも何も⋮俺は、汚されたんだ。普通、人は汚いものが嫌いだ
ろ。俺だって自分が嫌いだし、綺麗な人間の方が好︱﹂
﹁バカ?﹂
﹁は⋮?﹂
え? 何? 弘美は何を言ってるんだ?
﹁何でレイプくらいで汚れたくらいになんのよ。処女じゃないから
汚れたとか、あんた何時代の人間よ﹂
﹁⋮⋮﹂
違う。俺はそんな理由で言ったんじゃない。
セックスをしたから汚れたんじゃない。そんなんじゃない。俺はセ
ックスをしたんじゃない、俺は、穢されたんだ。
そこにはセックスとか処女とかそんなのはどうでもよくて、あるの
はただひたすらに穢されたという、俺が汚くなったという事実だけ
なんだ。
﹁聞いてんの? そんなの気にすることじゃないわよ﹂
慰めてるつもりなんだろう。けど、俺には⋮⋮弘美が無邪気で綺麗
な人間だから出たセリフとしか思えない。
﹁弘美⋮お前は知らないからそう言えるんだ。処女じゃないから言
ってるんじゃない。違うんだよ﹂
けど、どう伝えればいいのかわからない。それに、伝えるべきでは
ないとさえ思う。
綺麗なものは、綺麗なままでいればいい。汚いものを理解する必要
はない。
756
事実を知らせはした。それで距離を置かれるよりは、理解されなく
ったっていいじゃないか。
﹁はぁ⋮﹂
だけど何で、こんなに苦しいんだろう。何でこんなにイラつくんだ
ろう。
﹁ちょっと、何なのよ。知らないから? そりゃヒロはレイプされ
た経験ないしどんだけ傷ついたかとか知らないわよ。だけど、だか
らって何であんたが汚くなんのよ﹂
ああ、そうか、俺は⋮弘美に理解されないことが嫌なんだ。理解さ
れて、認められたいんだ。
﹁⋮違うんだよ。レイプは、違うんだ。汚されるんだ﹂
けど、どっちにしろ俺には伝えるすべがない。
﹁⋮それは、物理的に? それとも精神的に?﹂
﹁え?﹂
ぶ、ぶつりてき? えっと⋮どういう意味だっけ? ぶ、ぶつり⋮
流れから言って精神の逆だし肉体的にってことか?
﹁ぶつり的に﹂
ていうか、精神をレイプされるの意味がよくわからないし、多分そ
757
う。
﹁じゃあ問題ないじゃん﹂
﹁?﹂
ん∼? え? どういうこと?
﹁だから、物理的に汚れたなら洗えばいいでしょ。仮によ? 仮に
あんたの血の一滴まで犯されたとして、こんだけ時間たってんなら
もう元に戻ってるわよ。だから問題なし﹂
んな無茶な。
いや、おかしいだろ。おかしいよな?
えっとほら、傷は癒えても心は癒えないんだ的な? トラウマにな
ってるしさ。
ん? もしやこれが精神的の意味か?
﹁いや間違い。ぶつりじゃなくて精神的だった﹂
﹁⋮あんた、ちゃんと意味分かって答えてる?﹂
訂正すると痛いとこつかれた。
﹁だいたい、ヒロは今の皐月様を好きになったのよ?﹂
ん? どういうことだ?
﹁たとえあんたの精神がレイプによって病んでるとしても、そのま
まのあんたが好きなんだから、何が問題あるわけ?﹂
758
あ⋮⋮⋮
弘美の言葉は、ストレートに俺に届いた。
俺の肉体はただ処女でないというだけで、どこにでもいる少女だ。
汚れたと言って、体に傷があるわけじゃない。
精神は男のふりをして逃げる弱虫だ。
どちらかと言うなら、汚れて影響を受けたのは心だ。
だけど弘美は、その心が好きだから問題はないと言う。
何で⋮⋮
﹁う⋮あ、ぁあ⋮﹂
何で、涙が出るんだろう。
嬉しい。凄く嬉しい。
俺の過去も今も体も心も認められた気がする。
﹁ひ、ろみ⋮﹂
﹁好きだよ。多分、世界が敵になっても好き。もし誰かが皐月様を
汚いって言うなら、ヒロが代わりに怒ってあげる。だからね﹂
弘美はにっこりと、優しく笑う。
﹁だから、そんなに怖がらなくてもいいよ﹂
759
何でお前はそんなに優しく俺を包もうとしてくれるんだ?
そんなに小さな体で、力だって弱くて、年下なのに、何でそんなに
強くなれるんだ。
教えてくれよ。
﹁う、あああああぁあ⋮っ﹂
俺は、強くなりたい。
弘美よりももっと、今よりもっと、虚勢でなくもっと、全てを笑い
飛ばせるくらい強くなりたい。
強くなれば、いつまでも昔のことをひきづらずにすむのに。
強くなれば、涙を流さずにすむのに。
強くなれば、俺が感じる喜びの少しでも返せるのに。
弱い俺は、どうやってお前に恩返しをすればいいんだ。
﹁泣かないでよ。本当あんたって、バカなんだから﹂
弘美が優しく俺の涙をぬぐう。
だけどすぐにまた涙は流れていく。
﹁全く、泣き虫なんだから﹂
分かってる。泣いたって迷惑をかけるだけだ。
760
だけどな、弘美。
嬉しくて、涙が止まらないんだ。
俺を認めてくれて、ありがとう。
俺を好きになってくれて、ありがとう。
俺も好きだよ。大好きだ。恋人にはなれないけど、凄く大切だ。
お前が泣いたらすぐに助けにいくから。
困った時は絶対に味方になるから。
だから、今は泣かせてくれ。
761
強くなりたいな︵後書き︶
あれ、皐月はここまで号泣させるつもりはなかったんですけど。
と言うか、皐月泣きすぎですかね。
結構時間間隔が空くのでその時その時のノリで書くため、自分でも
微妙な感じです。
精神とかの言い方がわかりづらかったら直すので言ってください。
762
人の噂も75日⋮ってそもそもバレてる時点でアウトだろ
﹁ふわぁ⋮むにゃ⋮﹂
目を覚ますと、あれここどこ?
﹁⋮⋮⋮﹂
隣には弘美。
ぽくぽくぽく⋮
ちーん!
﹁ふわっ!?﹂
おぉぉおお! な、泣き寝してしまうとは何事だ!
﹁∼∼﹂
あ∼う∼⋮また、弘美に泣きついてしまうとは一生の不覚。ぐふっ
⋮。
﹁⋮はぁ﹂
でも、恥ずかしいけど、嬉しい。
弘美が全部受け入れてくれて、嬉しい。
﹁⋮起きるか﹂
763
時間は⋮まだ大丈夫だな。んー、昨日は強行軍だったからな。疲れ
たー。
さて、とりあえず部屋に戻って制服に着替えないと︱
﹁んーぅ﹂
﹁え⋮﹂
カツラの毛を引っ張られた。犯人は勿論弘美です。
﹁弘美、おい起きろ﹂
﹁んぅ⋮∼﹂
肩をゆするとむずがるように声をだすも、弘美は髪を握ったままの
手で目をこすってまた寝る。
﹁おーい、ひ・ろ・みー?﹂
﹁∼、ぅにゃ⋮﹂
むにゃむにゃとまるきり子供な顔で眠る弘美に、何だか和む。
﹁⋮⋮ったく﹂
黙って寝てるだけで可愛いのは何かずるいと思いつつ、顔を寄せて
頬を引っ張る。
﹁おきろ﹂
可愛いが、だからって起こすのに手加減はしない。
764
﹁ん∼⋮なぁにー? うにゅ⋮さつき⋮さぁ、ま?﹂
あ、可愛い。
何か可愛いし、昨日のこともあって妙に愛しく感じるから引っ張る
のをやめて頬にキスをする。
﹁⋮ふぇ?﹂
﹁おはよ、弘美。手、離して?﹂
﹁ん⋮うん⋮﹂
弘美は寝起きなのにパッチリと目を開いて俺を見ながら手を離す。
ベッド横の鏡台でカツラをしっかりつけなおす。まだ早めとは言え、
半分くらいの人は起きてるはずだし気はぬけない。
﹁よし。じゃあ俺はそろそろ⋮弘美? どうかしたか?﹂
弘美はまだ俺を見ていた。ん? 寝起きなのを差し引いても顔が赤
いような?
﹁ど、どうしたも何も⋮あんた今⋮﹂
﹁? ああ、キス?﹂
﹁∼。何普通にしてんのよ!﹂
﹁いやまぁ、唇じゃなきゃ挨拶だって﹂
全く恥ずかしくないわけじゃないが、さっと触れるくらいならそん
なに騒ぐこともない。
﹁あんた何人よ!﹂
765
﹁失礼な。純日本産だ﹂
あ、でも俺はよく母さんにもキスしてたし慣れてるけど、弘美は母
親と仲が悪いみたいだし慣れてないのか。
﹁悪い、嫌だったか?﹂
なら、多分恥ずかしいよな。俺が毎日唇にキスをねだられるような
ものか⋮⋮それは困るな。
﹁い、やとか言ってないし!﹂
あれ、そうでもないの? は! でもこいつ俺のこと好きなんじゃ
ん。弘美にその気はないみたいだが、あんまりイチャイチャしない
ほうがいいのかなぁ。
でも弘美可愛いしなぁ。こう、頭ぐりぐり撫でて頬擦りして抱っこ
したいような、ぬいぐるみ的に愛くるしいし。
﹁ちょっと皐月様﹂
﹁ん?﹂
﹁なに考えてんの?﹂
﹁別に?﹂
﹁嘘ね﹂
﹁断定だ﹂
﹁ヒロには分かるのよ﹂
﹁どこのインチキ占い師だ﹂
何だその怪しいセリフは。てゆーか、普通に答えたのに何が嘘か。
﹃別に﹄だし嘘じゃない。
766
﹁うるさいわね。金とるわよ﹂
﹁いやいやいや、何でだよ。で? 何が嘘?﹂
﹁いいから何を考えてたか吐け。悪いようにはしないわ﹂
﹁どー考えても悪役なセリフをありがとう﹂
﹁うっさい、キリキリ吐け﹂
﹁うわ、現実でそんなこと言われたの初めてなんだけど﹂
﹁もう、あんたはツッコミすぎ﹂
そりゃツッコミくらいいれるさ。弘美は勿論、七海たちも相当アレ
な会話を素でするからな。
ふぅ、常識人は苦労するぜ。
﹁言っておくけど、男装が趣味のあんたの方が変人だからね﹂
﹁なんと!?﹂
色んな意味でなんと!?
趣味とは言わないし、てゆーか何で考えてることわかるんだよ。地
味に恐いわー。
﹁ま、どうせあんたのことだから、ヒロが小枝子様みたいに皐月様
を性的に求めないか心配したんでしょうけど﹂
﹁ちょっ、エスパーか!﹂
何でそんなドストライク!? いやまじで心読まれてる!?
﹁女の勘よ﹂
﹁こえーよ。女こえー﹂
﹁あんたも女だから﹂
﹁だいぶサボってたからなぁ﹂
﹁男装程度でオーバーな﹂
767
﹁いや、けど最初は結構気をつかってたんだぞ。口調とかわざと乱
暴にして大股で歩くようにしたり﹂
﹁はいはい、無駄な努力お疲れさま﹂
﹁わー、また断定だー﹂
﹁そんなことはどうでもいいのよ﹂
何故だろう。とっても理不尽な扱いをされている気がする。
﹁いい? ヒロはあんたが嫌がることは絶対にしないんだから﹂
あ、気のせいだ。
俺、めちゃめちゃいい扱いされてる。そんなに俺を喜ばしてどうす
るつもりだー?ってくらい嬉しいです。
﹁だから⋮﹂
﹁うん?﹂
﹁皐月様は、存分にヒロにキスするといいわ﹂
も、もしかしてそれが言いたいための前フリ? ちょっ⋮嬉しいけ
どさ。
﹁⋮分かったよ﹂
ていうかさっきは勢いでしたが、別に俺だって毎日キスで挨拶して
るけじゃないんだけどな。
もう一度弘美の頬にキスをすると間髪入れずに弘美も俺の頬にキス
をした。
768
﹁えへ⋮おはよ、皐月様﹂
﹁⋮おう﹂
ふ、不覚にも不意打ちと無邪気な笑顔に赤面してしまった。
○
ひそひそ︱
﹁?﹂
ひそひそひそ︱
なんか、三時間目くらいから見られてる気がするが⋮気のせいだよ
な。
﹁皐月さん、何だか皐月さん、見られてません?﹂
隣の席の小枝子がそっと言ってくる。
むう、気のせいではなかったか⋮だが、心当たりが一つしかないん
だけど。
⋮まさか、なぁ? 昨日はすでに誰かに言う時間なんてないし、朝
769
ごはんが済めば学年が違うここまで噂がくるなんて⋮
ひそひそと話をしていたグループに話しかけた数人はまぁ、とこっ
ちに聞こえるくらいの声を出してから俺をちら見。
そして一人が俺の方へやってきた。
﹁あの皐月さん﹂
﹁は、はい?﹂
﹁あの⋮崎山皐月様が従兄弟というのは本当ですか?﹂
う・わ・さ、スゲー!!!
ちょっ、なにこの感染力!? 早いよ! 何で一年に一人知られて
12時間︵睡眠時間ひいたら6時間︶くらいで二年のクラスまでき
てんの!?
﹁え、ええ⋮崎山皐月は私の親戚と言いますか⋮私の祖父母の孫で
す⋮﹂
﹁やっぱり従兄弟なんですね!﹂
う、嘘は言ってない! 言ってないぞ!
﹁はぁ⋮まぁ⋮﹂
﹁では、崎山様と弘美さんが婚約なされたと言うのも!?﹂
﹁え!?﹂
﹁⋮ほ、本当です﹂
キャーと黄色い歓声が飛び交う。電波するように隣の教室からも声
が聞こえた。
って、え!? 俺の発言もう隣に伝わってる!? だから早いよ!
770
﹁さ、皐月さん⋮﹂
うああ⋮そんな、そんな泣きそうな目で見ないで小枝子! なけな
しの良心が痛い∼!
っては! まさか七海にまで伝わってるってことはないよな!? ⋮⋮分かってる。どう頑張っても明日にはバレるって分かってるん
だ。
が!
だからって黙ってられるかぁ!
﹁小枝子、先に淑女室に行くから!﹂
﹁え、ちょっ!﹂
いつもなら小枝子と紗理奈と三人で淑女室に昼飯を食べに行くんだ
が、俺は二人を置いて走った。
﹁滝口さん! またあなたですか! 廊下を走らない!﹂
﹁あ、あいきゃんのっとじゃぱにーずー! だから止まれません!﹂
﹁喋ってるでしょう!﹂
つづき
途中、風紀にうるさい都筑シスターを何とかふりきって俺は淑女室
のドアを開けた。
﹁七海!﹂
﹁⋮え⋮ああ、どうしたの? と言うか、もっと落ち着きを持ちな
さい。なに、息を切らして⋮さてはあなた、走ってきたわね?﹂
771
少々ぼーっとしてたらしいが、普通だ。
紗理奈に聞いた限りでは最近、まぁ多分俺のせいで、上の空だった
りひたすら仕事してたりするらしいし。
﹁えーっと⋮お腹減ったんで早く食べたくて⋮﹂
﹁皐月様、何やってんの? 早く入りなよ﹂
﹁っとと⋮ああ、分かってる﹂
ドアを開けたポーズのまま言い訳をしてると弘美がやってきたので
普通に中に入る。
﹁全く、いつまでたってもあなたは淑女らしくならないわね﹂
﹁なってますよ﹂
﹁あら、どこが?﹂
真顔で聞き返されてしまった。
﹁えー⋮ほら、紅茶がいれれるようになりました﹂
うぬ、思わず﹃なってる﹄と言ったが、別に淑女になりたいとか思
わないし努力してるわけでもなかった。
﹁当たり前でしょ。この私がじきじきに教えたのだから。夏休みで
忘れてないか見てあげるわ﹂
﹁はいはい﹂
こんなの葉っぱいれてお湯を︱
﹁って、全然できてないじゃない!﹂
﹁ええ!?﹂
772
﹁はぁ⋮⋮今日はもういいわ。弘美、手本になってあげて﹂
﹁はい﹂
弘美が手際よく紅茶をいれていく動作を見て俺も思い出す。
そういえば先にお湯をいれて暖めたり、時間はかったりするんだっ
たな。いやぁ、忘れてた。
﹁全く⋮真面目にやらないと、私が卒業するまでに間に合わないわ
よ﹂
言われた言葉に何故かドキッとした。当たり前だが、来年に七海は
卒業する。
何だか急に寂しいような気になって、慌ててフォローする。
﹁そんなことないって! ほら、えっと、俺、泳げるようになった
し! 七海はちゃんとやってるって!﹂
﹁皐月⋮⋮そんなのは当たり前よ。やってないのは、あなたよ。容
姿も動きも覚えも、そう悪くないのだから、もっと真面目にしなさ
いよね﹂
わー、倍になって返ってきた。
﹁だいたい、また敬語がぬけてるわ。私のこと呼び捨てだし﹂
﹁う、う∼﹂
﹁うならないの﹂
か、勝てる気がしねぇ。
﹁失礼しまーす。会長、ヒロ、ごきげんよー﹂
773
﹁おはようございます。皐月さん、さっきの話ですけど⋮後で聞か
せてもらいますよ﹂
二人がやってきた。
小枝子は俺に聞きたいようだったが、七海がいるからか自重してく
れた。
空気が読めるお前が好きだ!
﹁ん? さっきのって、もしかしてヒロが皐月様︱﹂
﹁わーー!!﹂
な、おま⋮空気読め!
﹁ひ、昼にしよう! いやーお腹減ったなー!﹂
﹁言えばいいのに。まぁ、いいけど﹂
弘美⋮なんてやつだ。
あっさり言おうとするなよ。
○
﹁ん⋮ところでヒロ、あなた何かしたの?﹂
774
表明上は平和に昼食をとっていると雑談が区切れた時に七海がそう
切り出した。
﹁はい? いいえ、どうしてですか?﹂
﹁今日ね、クラスの雰囲気が落ち着かないのよ。何人かが私に話し
かけてくるのだけど﹃弘美さんは本当に⋮あ、やっぱりいいです﹄
って言うのよ。怒らないから、噂になるほど何をしたのよ﹂
七海のクラスメート⋮七海には聞きづらかったんだな。
だがそのお陰でバレてない!
﹁それは⋮そのうちわかりますよ。悪さしたわけじゃありません。
驚かせたいんで、今は内緒ってことで﹂
俺が必死に目で合図をすると何とか察してくれた弘美はそう答えた。
﹁そう? また悪戯したとかじゃないのね?﹂
﹁ええ。ヒロ、もうそういう子供っぽいことはしないんです﹂
﹁あら、成長したのね﹂
くすと七海は笑う。
一人ではぼーっとしてるようだが、会話は普通だ。それかもう、悩
むのは止めてくれたのかな?
そうこうしていると、昼休み終了を告げる音がなった。
﹁もうこんな時間⋮片付けはやっておくから、あなたたちは先に戻
りなさい﹂
﹁すみません﹂
﹁はーい﹂
775
﹁はい﹂
﹁会長、よろしくー﹂
七海の教室が一番近いのこの提案はたまにあることで、俺たちはそ
れぞれ返事をしてお弁当を手に戻る。
結論から言えば、俺が楽観的すぎたんだろう。
それに、どうせずっと知らせないなんて無理だったんだ。
放課後になり淑女室に行こうとすると、携帯にメールが着ているの
に気付いた。
七海からだ。無題で内容もそっけなく
﹃今日の部活はお休みにします。﹄
とだけ書いてあった。
そういえば生徒会でありながら部活でもあったなぁ、とどうでもい
いことを考えながら、七海も知ってしまったのかとため息をついた。
でも、淑女会を休みにするほどショック⋮なんだな。はぁ⋮傷つけ
たいわけじゃないんだけど。
﹁二人は今日どうす⋮あれ、小枝子は?﹂
側にやってきた紗理奈と隣の小枝子に聞いたつもりが、いつの間に
か隣から小枝子が消えていた。
﹁さっき出たよ。あたしはもう寮に戻るよ。会長のこと気になるし﹂
776
﹁⋮ごめんな﹂
﹁いいよ。元々隠せることじゃないし。君も、騒ぎを大きくしない
ように迂濶な発言は避けなよ﹂
﹁分かってる。もう帰︱﹂
手の中の携帯電話が震えた。
弘美からだ
﹃本文:言い忘れてたけど、小枝子様にバラすために薔薇園に呼ん
でるから﹄
﹁⋮⋮え?﹂
読み返す。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
もう一度読む。
﹁えー⋮﹂
何? バラす? もしかして、俺のことを?
﹁紗理奈!﹂
﹁は、何?﹂
﹁薔薇園て何処!?﹂
ああもう! 何でそんな勝手なことすんだよ!
777
○
778
人の噂も75日⋮ってそもそもバレてる時点でアウトだろ︵後書き︶
次回、さらにバラします。
元々はそんな予定じゃなかったんですが、小枝子にバラすタイミン
グが今くらいしかないので。
779
薔薇園での秘め事
﹁弘美ーー!!﹂
薔薇園にかけつけると二人以外は誰もいないけど薔薇が咲き誇って
てガランとした印象じゃなくむしろ優雅で一瞬見とれかけた。
﹁あ、きたか﹂
けど今はそんな事態じゃないし、弘美の拍子抜けしそうなあっさり
した態度に希望を持って尋ねる。
﹁せっ、セーフ!?﹂
﹁アウト。もう言った﹂
﹁⋮こ、婚約の説明をだよな?﹂
﹁レイプも﹂
﹁NOーーーーーッ!!!﹂
普通に言いやがったー!?
何で!? 言う必要あったの!? てゆーか普通そういうのは本人
の口からだろ! 勝手に人の過去を離すとか何様!?
﹁嘘と言って!﹂
﹁じゃあ嘘。嘘だけど﹂
慰める気すら0か!? 何で仮とは言え婚約者にこんな虐げられて
んの俺!?
﹁⋮うわ∼ん! うぅ⋮っ⋮さ、小枝、子⋮⋮お、俺⋮﹂
780
怯えながら小枝子に視線をやる。
﹁ごめんなさい!﹂
﹁⋮ふぇ?﹂
弘美の後ろから小枝子をそっと伺うと何故か小枝子は勢いよく頭を
下げた。
﹁旅行の時です。本当にごめんなさい﹂
言われて思い出す。そう言えば夏の件は俺のトラウマの有無により
意味がかわるな。
けど、終わった話だし、むしろむしかえさずにいてくれた方が嬉し
いんだけど。
﹁あ⋮あぁ⋮いいよ。もう許してるし。そうじゃなくて⋮気持悪く
ないの?﹂
﹁え? 何でですか?﹂
﹁いや⋮だって、だって⋮俺、き⋮たない、し⋮﹂
確認の言葉を口にするだけで、体がカチカチになってしまう。
小枝子⋮頼むから俺を嫌わないで! 十分に自覚してるから、汚い
なんて言わないでくれ!
﹁な、何でそんなこと言うんですか! そりゃあビックリしました
けど、皐月さんは皐月さんです。れ、レイプされたのは可哀想です
し反省しますけど⋮⋮だからって汚いなんてありません﹂
﹁⋮⋮っ﹂
781
わかってた。本当はわかってた。小枝子は、優しいから。紗理奈や
弘美と同じくらいに優しいから。
だから俺を傷つけずに、変わらずにいてくれるんじゃないかと、う
すうす気付いていた。
だけど、言葉にして否定してもらうとやっぱり嬉しくて、また涙が
でてしまった。
﹁な、泣かないでくださいっ﹂
﹁ないて、ない∼っ!﹂
小枝子が慌てて言うから思わず否定する。
俺が弱いのはわかってるけど、やっぱり女の前では強くいたい。嘘
でも虚勢でも強くありたい。
﹁あんたってわりと泣き虫よね﹂
﹁っ﹂
なのに弘美にまでそんなことを言われてしまった。
数分、ぐずぐずと泣いてから俺は何とか涙をおさめた。
﹁ふぅ、ごめん、みっともないとこ見せた﹂
﹁いや、今更﹂
ぐ、ハッキリ言うなよ、弘美。
﹁みっともなくなんてありません。可愛らしいですよ﹂
ちょっ⋮それ、弘美よりキツイんだけど。可愛いって⋮一応、強く
782
カッコイイが目標なんだけどなぁ。
小枝子の中の俺像がどうなってるのか気になるなぁ。
﹁そ、そう⋮ありがとう。とりあえず⋮これで俺の秘密は全部、七
海以外には知られちゃったなぁ﹂
ため息ながらにそうこぼす。
最初は、そもそも崎山であることすら誰にも言わないつもりだった
のになぁ。
初日から小枝子にバレたし。⋮俺、隠蔽能力低いなぁ。
﹁七海様には言われないのですか? あの方は偏見などなさそうで
すが﹂
﹁あー、てゆーか、俺、崎山として先に七海と友達になって、一人
二役してたし﹂
﹁⋮は? え? それで七海様の反応みて楽しんでたの? 性根が
腐ってるわね﹂
﹁違うよ!? 何でそうなるんだよ!﹂
そんな酷いことするわけないだろ!
﹁ならこのままカミングアウトしたら? 早いほうがいいわよ﹂
﹁無理無理無理っ!﹂
んなことしたら間違いなく嫌われる。
そんなの絶対やだ。何のために崎山を嫌わせようとしたかって、滝
口として堂々と一緒にいられるようにだ。
﹁何でよ?﹂
783
﹁⋮実は、このあいだ、七海を騙してることに気付いたんだ﹂
﹁え? 気付いた、とは?﹂
﹁だから、二役で会ってるのが騙してるってことに気付いたんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それまでは気付かなかったんですか?﹂
不思議そうな小枝子に答えると﹃は?こいつ何言ってんの?﹄みた
いな顔された。
小枝子に限ってそんな言葉つかいはありえないが、表情はそんな感
じで傷つくわぁ。
﹁仕方ないわよ小枝子様、皐月様だもん﹂
﹁ああ⋮そうですね。ありえない話ですけど、皐月さんですものね﹂
え? これ、バカにされてるよね?
﹁じゃあ普通に、留学することになったとか適当ぶっこいて男のあ
んたが消えりゃいいじゃん﹂
﹁⋮⋮お前、天才か?﹂
その手があったか! そうだ、だから付き合えないとか言ってさり
げなく離れれば良かったんじゃん! いきなり別れようとするから
七海も反発するんじゃん。
うわ⋮こいつマジかしこいなぁ。
﹁あんたが阿呆なのよ﹂
﹁あ、あはは⋮﹂
小枝子はあさってな方向を見る。え、フォローするよしもないって
こと?
784
﹁あー、でもな、実は騙してることに気付いた勢いで、そのままも
う会えない、つって別れてきたんだ﹂
﹁また、あんたって本当思い立ったら即日なやつね﹂
﹁まぁな﹂
﹁誉めてないわよ﹂
﹁⋮⋮とにかく、七海からしたらいきなり嫌われて訳わかんないだ
ろうし、だからって説明もできないし⋮悩んでんだよ﹂
うん、弘美と色々あって放置してきたが、七海が気にしてるとなる
とやっぱり心配だ。
﹁何とか、俺のことを忘れて元気になって欲しいんだが⋮なんかい
い方法ないかな?﹂
﹁そうね⋮できることは一つだけね﹂
﹁え? あんの?﹂
ちょっ、返答早いな。よし、これからお前のことを賢者と呼ぼう。
﹁放置よ﹂
﹁⋮え?﹂
ん? このちびっこ賢者、今何て言った?
﹁こんなもん、ほっときゃ時が解決してくれるわよ﹂
く⋮くーるがーるだ。
てゆーか俺の求めてた答えと全く違うんだが⋮。
﹁何よ、不満そうね。他に何か方法あるわけ?﹂
785
いや、考えつかないけど⋮。
俺はチラリと小枝子に視線で尋ねる。
﹁私も⋮弘美さんに賛成です。皐月さんが何かをしても、上手くい
くよりはむしろ薮をつついて蛇が出てきそうですし﹂
﹁そうそう。下手なことしたらあんた絶対ぼろだすわよ。だってあ
んたバカだもん﹂
﹁う、ぬぬぅ﹂
﹁えっと⋮そ、それも皐月さんの長所ですって! ⋮⋮⋮⋮⋮たぶ
ん﹂
小枝子ーー︵泣︶!
フォローかも知れんが、お前のその何気ない言葉が俺を傷つけるん
だ。
特に最後に小さく言った言葉とか! 小声でもそういうのは心にし
まっててくれよ!
﹁うぅ、わかったよ。もう七海には余計なことしません﹂
﹁大丈夫よ。七海様だもん。明日には元気になってるって﹂
う、うう∼ん。告白されたのと婚約をかけあわせるとそう楽観的に
はなれないが、だからって実際問題、俺に出来ることってないんだ
よなぁ。
﹁はふぅ⋮﹂
﹁七海様は強い方ですから、大丈夫ですよ﹂
﹁⋮⋮とりあえず、ここにいても仕方ない。寮に帰ろうか﹂
知ってる。七海が強いことは知ってる。
786
だけど⋮弱いことも知ってる。大人びてるけど年相応に幼いとこも
知ってる。
だから⋮やっぱり気になるんだよなぁ。
﹁あ、はい﹂
﹁何であんたがしきんのよ﹂
うるさいぞ、賢者もとい遊び人。あ、こっちの方が弘美にぴったり
かも。
○
787
薔薇園で知った秘め事
今、学園を賑わすとてもタイムリーな噂がある。
予想もしていなかった噂は、朝から持ちきりだ。
といっても、私が知ったのは5時間目が終わってからなので、かな
り遅く知った部類に入る。
足音がして、誰かが入ってきたのに気付いたが私は顔をあげなかっ
た。
じっとしていれば気付かれないだろう。今は誰かと会話をしたい気
分ではない。
今私がいるのは薔薇園の一角だ。学園おかかえの複数の庭師たちが
毎日頑張っているだけあって、このまま展覧会だせる程度には見事
だ。
あまりしかし毎日くる場所ではないし、必然的にここにくる人は限
られてくる。
ぱたぱた、とさらに別の足音がする。
こんな日に、しかも私が一人になりたい時に限って人がくるなんて
ついてない。
いや、どう考えても私の運は氷河期に突入してる。特に恋愛運を中
心に、だ。だから私は今こうしていじけてるわけだが、まぁそれは
いい。
確かにショックだが、明日にはきっといつも通りになってみせる。
だが困った。
ここは人がこないので秘密話や密会をする人がたまにいる。
いくら私が会長と言えどプライベートに干渉すべきではない。だが
788
⋮今日はこちら側のドアはつかえて開かないのだ。
なので帰るためにはまさに今、密会をしてる二人の横を通らねばな
らない。
﹁遅かったわね﹂
﹁すみません、急いで来たんですけど﹂
先にきた少女は数分も変わらないくせにそんなことを言う。
ずいぶんと威丈高な少女だ。しかし、聞き覚えのある声だ。
私はそっと薔薇で出来た生垣の隙間から覗いてみた。
え? 弘美に小枝子?
これは何とも面し⋮いやいや、珍しい組み合わせだ。しかし彼女た
ちがそういう関係だとは知らなかった。意外だ。
同性愛を差別しているのではなく、小枝子は皐月が好きだったと記
憶しているからだ。
それに弘美はいつだったか、同性愛なんて生産性もないしくだらな
いですよ。と言っていたが⋮まぁ恋をすれば人は変わるものだ。
って、あれ? 皐月君と弘美は婚約してるのよね?
﹁まぁいいわ。皐月様に任せてたら何年たっても進まないから、私
がサクッと教えてあげる﹂
﹁⋮はい﹂
あら? 何だか雰囲気がおかしい。もしや密会は密会でも逢い引き
789
つじつま
ではないのか。
それなら辻褄があうが、しかしなおさら秘密の会話をされる前に出
ていくべきか。
などと私が逡巡していると、弘美はさらりととんでもないことを言
った。
﹁皐月様、昔にレイプされてるからエロイこと嫌いなんだって﹂
﹁⋮え?﹂
声を出さなかった自分を褒めたい。
なんて事だ。私は、なんてことを本人以外の口から、しかも盗み聞
きで知ってしまったんだ。
﹁な⋮なん﹂
﹁あと、結婚はね、ヒロが政略結婚させられそうなのを皐月様が名
乗り出て婚約してくれただけで、別に好きあってるわけじゃないよ﹂
﹁本当ですか!?﹂
﹁え﹂
え⋮ええぇぇえええええ∼∼∼∼∼∼∼っ!!!?
思わず﹃え﹄と言ってしまったがすぐに口を押さえた。同時に小枝
子も声を上げたからセーフなはず。
﹁? 今、声しなかった?﹂
鋭い! 弘美はことあるごとに手を抜こうとするけど、実はかなり
何でもできる人間だ。
でもそれにしても五感も鋭いとは⋮恐るべし。
790
﹁え? いやそれより、え、ちょっと待ってください混乱してます。
え∼∼∼⋮⋮私は、喜べばいいんですか? それとも皐月さんに土
下座すべきですか?﹂
﹁両方した︱﹂
﹁弘美ーー!!﹂
騒がしく足音をたてながら本人が登場。
ちょっ、ちょっと待って。小枝子が驚いてないから私が言うわ。
皐月って、もしかして皐月君と同一人物なの!!?
直接は言ってないけど、流れはどう聞いてもそうとしか思えない。
﹁あ、きたか﹂
﹁せっ、セーフ!?﹂
﹁アウト。もう言った﹂
﹁⋮こ、婚約の説明をだよな?﹂
﹁レイプも﹂
﹁NOーーーーーッ!!!﹂
皐月は頭を抱えて叫ぶ。
ちょっ、ちょっと待ちなさいよ! え!? 皐月が崎山皐月である
ことは衆知の事実なの!?
知らないのは私だけ!? そんなバカな!!?
﹁嘘と言って!﹂
﹁じゃあ嘘。嘘だけど﹂
﹁⋮うわ∼ん! うぅ⋮っ⋮さ、小枝、子⋮⋮お、俺⋮﹂
﹁ごめんなさい!﹂
791
﹁⋮ふぇ?﹂
何故だがおびえる皐月に小枝子は頭を下げる。皐月はぽかんと小枝
子を見る。
だけど、そんな光景も私の視界にあると言うだけで意識には入って
こない。
⋮⋮私だけが、騙されてたの?
ショックだった。頭の中がぐちゃぐちゃで、気持悪いくらいだ。
﹁⋮気持悪くないの?﹂
ふいに聞こえた場違いな言葉に私は意識を皐月たちに戻す。
こうなったらどう言うつもりなのか、聞いてやる。
今だけは淑女らしくなくてもいい、私は本当を知りたい。
﹁え? 何でですか?﹂
﹁いや⋮だって、だって⋮俺、き⋮たない、し⋮﹂
皐月は顔色悪く、緊張したような面持ちでそんなことを言う。
え? 何が汚い? 皐月が? さっき私が呆然としてた隙にどんな
会話が?
私が密かにクエスチョンマークを浮かべていると小枝子が怒鳴るよ
うに反論した。
792
﹁皐月さんは皐月さんです。れ、レイプされたのは可哀想ですし反
省しますけど⋮⋮だからって汚いなんてありません﹂
その言葉にようやく理解した。
皐月は、レイプされた自分を汚いと言ったのか。
何てことだ。皐月がそんな風に考える必要なんて全くないのに。
﹁⋮⋮っ﹂
そんな当たり前のことを言われて涙を流すほどに、皐月は傷をおっ
ていたの?
全然⋮気付かなかった。
﹁な、泣かないでくださいっ﹂
﹁ないて、ない∼っ!﹂
私は、彼女の⋮﹃彼﹄と﹃彼女﹄の両方の皐月と一緒にいたのに、
私は何も気付けなかった。
数分泣いてから、皐月は泣きやんだ。
﹁ふぅ、ごめん、みっともないとこ見せた﹂
﹁いや、今更﹂
﹁みっともなくなんてありません。可愛らしいですよ﹂
﹁そ、そう⋮ありがとう。とりあえず⋮これで俺の秘密は全部、七
海以外には知られちゃったなぁ﹂
二人のフォローに若干頬をひきつらせながら言った皐月の言葉に、
私はドキリとする。
793
やっぱり⋮私だけが知らないのね。
私は痛む胸をそっと押さえながら、理由があるはずだと自分を自制
する。
﹁七海様には言われないのですか? あの方は偏見などなさそうで
すが﹂
小枝子ナイス質問。
私は心の中で彼女に賛辞を送る。
こんな知り方は正しくない。フェアじゃない。
それでも知りたい。
皐月く⋮いや、皐月のことを知りたい。
﹁あー、てゆーか、俺、崎山として先に七海と友達になって、一人
二役してたし﹂
﹁⋮は? え? それで七海様の反応みて楽しんでたの? 性根が
腐ってるわね﹂
﹁違うよ!? 何でそうなるんだよ!﹂
慌てたような否定に安堵する。そんな子じゃないとわかってても、
本人の言がないと疑ってしまう。
そんな自分が嫌だったが、今は素直にほっとした。
そんなはずがないと自分で否定したって、皐月のまっすぐな言葉ほ
ど効くものはない。
だが彼女として私に出会ったのがイレギュラーで、仕方なく二役に
なったとしてどうして早く言ってくれなかったのだろうか。
﹁ならこのままカミングアウトしたら? 早いほうがいいわよ﹂
794
そうだ。早く言ってくれたならば、私が恋をすることもなかったの
に。
﹁無理無理無理っ!﹂
しかし皐月はオーバーに否定する。
﹁何でよ?﹂
﹁⋮実は、このあいだ、七海を騙してることに気付いたんだ﹂
ん? 意味がよく分からない。
﹁え? 気付いた、とは?﹂
二人も同じ意見なようだが、皐月は何故分からないとばかりに説明
をする。
﹁だから、二役で会ってるのが騙してるってことに気付いたんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それまでは気付かなかったんですか?﹂
小枝子が﹃この人、頭おかしいわ﹄って感じの顔で皐月を見る。
全く持って同意見だし、普通に二役の時点であり得ない。
﹁仕方ないわよ小枝子様、皐月様だもん﹂
﹁ああ⋮そうですね。ありえない話ですけど、皐月さんですものね﹂
え? 普通に納得した!?
﹁じゃあ普通に、留学することになったとか適当ぶっこいて男のあ
795
んたが消えりゃいいじゃん﹂
﹁⋮⋮お前、天才か?﹂
ええ!? 何で天才なのよ!
というか皐月の中では﹃騙してた↓別れなきゃ﹄ってなったのよね?
そこで素直に白状してくれれば、私もここまで悩まなかったのに。
﹁あんたが阿呆なのよ﹂
﹁あ、あはは⋮﹂
﹁あー、でもな、実は騙してることに気付いた勢いで、そのままも
う会えない、つって別れてきたんだ﹂
﹁また、あんたって本当思い立ったら即日なやつね﹂
﹁まぁな﹂
﹁誉めてないわよ﹂
﹁⋮⋮とにかく、七海からしたらいきなり嫌われて訳わかんないだ
ろうし、だからって説明もできないし⋮悩んでんだよ﹂
ああ、でも一応、いきなりだった自覚はあるのね。
というか、気づいたのって私が告白したから? ⋮⋮何がきっかけ
になったのかよく分からない上に、それまでは口調とか違うのに騙
してることになってなかった皐月の頭の中が分からないわ。
﹁何とか、俺のことを忘れて元気になって欲しいんだが⋮なんかい
い方法ないかな?﹂
皐月⋮。
そうよね、いい子なのよね。
根本的にバカだし突っ走るとこあるし鈍いけど、根は凄く優しいの
よね。
だから⋮だから私は﹃彼﹄を好きになってしまったのよね。
796
皐月の問いかけに二人は時間が解決するので皐月はボロがでるから
何もしない方がいいと結論づけた。
まぁ、私が何も知らないままなら皐月から何を言われても、皐月君
から聞いたとしか思いつかないが、皐月に何を言われても事実を知
らなくては変わらなかっただろう。
﹁大丈夫だって﹂
﹁七海様は強い方ですから﹂
とまだ唸る皐月に二人が説得する。
元々、私はこのことを知らなくても明日には元に戻るつもりだった。
だから二人は正しい。
なのに皐月はまだ不満そうにしながら3人で薔薇園から出ていった。
﹁⋮⋮⋮⋮ふぅ﹂
しばらくたってから私は大きく息をついた。
何だか、疲れた。
まさか二人が同一人物だったとは⋮。
しかしこれ、結局私の初恋はどうなったのだろう。
皐月は私を嫌いではなくて、私を傷つけたくないと思ってくれてい
797
るし、婚約も弘美を助けるためだ。
もし皐月が私を傷つけるためならこんなにいいタイミングはないが、
善意からならば仕方がない。
けれど、だからと言って中身が同じだろうといきなり女だろうとい
いから皐月が好き、と言えるわけじゃない。
﹁ん∼⋮まぁ、あんまり演技してはなかったのかしら?﹂
髪色や長さ、服装と口調が違うので違う印象を受けるが⋮今思い返
すとどちらの場合も似たような反応をしそうだし⋮⋮性格は作って
なかったようだ。
うう∼ん、一度は疑ったのに納得しちゃったから、怪しくても﹃従
兄弟だから﹄で全部済んじゃうのよねぇ。
﹁まぁ、いいわ﹂
忘れよう。
どうせ、皐月は私が知ったことを知らないんだしこのままでいいわ
よね。
正直、皐月の口から言わせて謝罪を聞きたい気もするけど⋮気付か
なかった私も悪いわ。
傷ついたのも私が勝手に好きになったのだし⋮⋮水に流してあげよ
う。
だってしょうがない。
私は、滝口皐月のことだってちゃんと好きで、大切な後輩なのだか
798
ら。
私は久しぶりにすっきりした気持ちで薔薇園を後にした。
799
薔薇園で知った秘め事︵後書き︶
前話の七海視点でした。
最初は七海視点だけと考えてましたが、皐月視点も書きました。
さらに一話にしては長くなったので二つにしました。
皐月視点のはともかく、今話で七海がちょっとあっさりしすぎな気
もしますが、元々この話のうちに許すつもりだったので。
次回から、秋に突入していきます。
800
淑女会員としてのお仕事
﹁遅いわよ、皐月﹂
﹁ふへ? な、ななみ?﹂
﹁七海様﹂
﹁七海様⋮じゃなくて、え、えー?﹂
あれ? 何か、元気? いや、いい。全然いいんですよ? けど淑
女会なしにしてたから夕飯に来てくれるのかなーとか心配してたん
だけど⋮普通にいるな。
しかも、かすかに笑顔なくらいじゃん。何だ? もしや⋮
﹁七海様﹂
﹁なぁに?﹂
﹁もしやそのチーズハンバーグ、七海様の大大大好物ですか? 中
には何が入ってるんですか?﹂
﹁は? 普通よ。中も普通だし⋮普通に好きよ?﹂
あれ? 好物がメニューにあったから機嫌よくなったんじゃないの
か。
﹁いいから座ったら? みんなも来るから﹂
﹁は、はぁ﹂
んー⋮まぁ、いっか。俺は七海の向かいに座った。
きっと婚約までするだらしない俺を嫌いになってふっきれたんだな
⋮⋮⋮いやいや、俺じゃなくて﹃崎山﹄だし。俺が嫌われてるんじ
ゃないし。
801
うん、落ち込む必要なし。
﹁およ、今日は会長早いね。いつもは食欲魔人の皐月が一番なのに﹂
やってきた紗理奈が七海の隣に座る。そういえば、紗理奈って七海
の隣が空いてる時はいつもそこに行くよな。
そういや紗理奈、七海が好きなんだよなぁと改めて思うと何だか胸
が妙に騒ぐ。
﹁ええ。今日は何だかいつもより空腹なのよ。弘美と小枝子はまだ
?﹂
﹁さっき入ってきたからもう来るよ﹂
ふーん⋮てゆーか普通に食欲魔人とか言われたけど⋮スルーか⋮。
普通だと思うんだけどなぁ。お嬢さまたちが少食過ぎなんだろ。だ
から俺が常にオカズ倍でご飯が三杯分でもおかしくないはずだ。
﹁あれ、ヒロたちが最後?﹂
﹁お待たせしました﹂
﹁そだよ。座って座って﹂
﹁はい﹂
いつものように5人揃ったので七海が挨拶をする。
そろそろ俺も文句を覚えた気がしないでもないが改めて言おうとす
るとやっぱり覚えてない。
毎日聞いてたはずなんだけどなぁ。やっぱ上の空じゃ無理か。
﹁ところで会長﹂
﹁ん、なに?﹂
﹁どうして昼は淑女会休みだったんですか?﹂
802
﹁ぶっ!?﹂
﹁ちょっと皐月! あなたねぇ、行儀が悪いにもほどがあるわよ!﹂
﹁げほっ、ごっ⋮す、すみません﹂
紗理奈の言葉に思わず吹き出した。下を向いたので正面の七海に直
撃は避けたが、机にご飯つぶが飛んでしまった。
﹁もう⋮そんなんじゃ淑女への道は⋮まぁいいわ。気をつけなさい﹂
﹁ありがとうございます﹂
七海は呆れたのか文句を途中で切るが、その手はナプキンで机をさ
さっと綺麗にしてくれた。
﹁何やってんだか﹂
隣の弘美にもお小言を頂戴しながら俺はそっと紗理奈を見る。
一番理由をよくわかってるくせに、何聞いてんだ。
﹁あはは、皐月バカだー﹂
って何指差してんのこいつ!?
うわー、殴りてー。相手女だけど殴りてー。
﹁紗理奈、人を指差すものではないわ﹂
そうだそうだ、言ってやれ七海ー!
﹁皐月、あなたも自分が悪いくせにそんな顔をしない。吹き出すな
んて、口に物をいれたまま話さないよりさらに基本でしょう﹂
﹁⋮すみません﹂
803
てゆーか俺、どんな顔してたんだ?
﹁んで会長、さっきの話ですけど﹂
﹁さっき、ああ。少し⋮用があったのよ。だから淑女会室を開けに
行く暇がなかったの。それだけの話よ﹂
﹁用はもう終わったんですか?﹂
﹁ええ。もうすぐ忙しくなるから、もうこんなことはないから覚悟
しなさいよ﹂
﹁そうですか﹂
紗理奈はどこか嬉しそうに頷いた。
あ、もしかして気まぐれじゃなくてちゃんとふっきれたのか確認し
たのかな。
すまん⋮俺への嫌がらせかと思った。
﹁そうですね、そろそろ忙しくなりますよね。ヒロのとこはもう出
し物決まりました。みなさんはどうです?﹂
ん? 何? 何の話だ?
﹁ふふん、あたしらはもう昨日に決まったよ。ね?﹂
﹁はい。アイスクリームです﹂
﹁へぇ、いいわね。季節柄今まであまりなかったけど、回ってると
冷たいものが食べたくなるものね﹂
﹁はい。うちの委員長が考えたんですけど、満場一致でした﹂
﹁それにぶっちゃけ、機械から出すだけだし楽だしね﹂
﹁紗理奈ったら⋮。私のところはまだ決まってないの。派手にやり
たいって方針は決まってるのだけどね﹂
﹁最後ですもんね。で? 弘美は何なの? もったいぶるなよ﹂
804
﹁ふふ∼ん。聞いて驚いてください。プラネタリウムです﹂
﹁プラネタリウム? そりゃまた⋮予算内でできるの?﹂
﹁というより、教室でできるのかしら? クラスの出し物は特別申
請が無ければ教室内に決まっているのよ?﹂
﹁大丈夫です。実は、家庭用のプラネタリウムの機械ってのがある
んです﹂
﹁家庭用!? そんなのあるの?﹂
﹁はい﹂
﹁へぇ。知らなかったわ﹂
﹁あたしも∼﹂
﹁⋮⋮あのさぁ﹂
﹁ん?﹂
﹁どうかした?﹂
﹁何の話?﹂
いや、何となく想像がつかなくもないが⋮いつの間に?
﹁何って文化祭⋮あ、そういや昨日とか皐月休んでたね﹂
﹁うん﹂
話についていけません。
か、悲しくなんかないもんね! ちょっと寂しいだけなんだからね!
あ、自分で引くわ。
﹁すみません、色々あって皐月さんに言うのを忘れてました﹂
﹁いや⋮大丈夫。で、うちはアイスクリーム屋か﹂
﹁はい。持ち帰り専用なので看板を作って内装を整えれば、アイス
クリームは機械ごと注文するだけなので私たちは淑女会の仕事に集
中していいそうです﹂
805
﹁てゆーか忙しいとしても、基本淑女会員はそっちのが忙しいから、
あんまクラスからは頼まれないようになってるけどね﹂
﹁へぇ。淑女会、そんなに忙しいのか?﹂
中学ん時の生徒会のやつらも忙しそうだったけど、俺普段パシリと
かばっかだし、いまいち忙しいと言われてもピンとこないな。
﹁当たり前でしょ。入学式卒業式ミサに加えて、文化祭は4大行事
の一つなんだから﹂
﹁ふーん﹂
一年生の弘美が言っても説得力はないが、まぁ文化祭と言えば重大
イベントだよな。
ん? 今ミサって言った? ⋮普段に週一であるよな。⋮まぁいい
か。
﹁ふーんじゃないわよ。皐月はこれまで雑用だけだからそう忙しく
はなかったでしょうけど、文化祭は雑用が多いイベントよ。期待し
てるわよ﹂
﹁はーい。大船に乗った気で任せといてください﹂
七海の注意に俺は優等生な返事をする。
まあ、今までは職員室や部室にプリントや備品持ってったり備品整
理してたくらいだし。
雑用ってんだから今までとやることは変わらないだろ。
俺は文化祭の当日にどんな催しがあるのか楽しみだなぁと思いつつ、
おかわりのため席をたった。
806
○
﹁皐月、リストに書いてる部とクラスに再提出って言ってきて。理
由も書いてあるから読んで聞かせなさい。可能ならその場で調整さ
せて﹂
﹁さーいえっさー﹂
﹁あ、あと第2用具室からペンキ出して体育館前に置いておいて﹂
﹁お、おっけー﹂
﹁すみません、ついでに備品室から印刷紙頼みます。あと印刷室を
見て足りない分も補充しておいてください﹂
﹁ん、わかった﹂
﹁あ、も一つついでに、飲み物買ってきて。入れてる時間ないし何
でもいいから﹂
﹁⋮らじゃー﹂
﹁それと⋮﹂
﹁行ってきまーす!﹂
俺は七海からリストをふんだくって淑女室を飛びだした。
いっぺんに言い過ぎだろ。忘れるっつーの。
えっと、リスト裏にメモっとこう。
ペンキ体育館、印刷紙↓室、飲み物、と。
まずは⋮教室の方から行くか。
807
﹁あのー、この前提出していただいた企画なんですけど、これはち
ょっと⋮﹂
﹁あら、淑女会の方ね。企画がどうかしたの?﹂
﹁あの⋮この教室内でサーカスをやるのはちょっと広さが足りない
のでは?﹂
俺はリストの理由欄を見ながら言う。
ん? 二つ目の理由⋮﹃火事になる危険性﹄って何だそりゃ?
﹁失礼ね。ちゃんと考えてるわ。メニューはライオンの火の輪くぐ
りと火炎瓶の複数人のジャグリングとバイクに5人くらい乗って松
明を投げあうくらいだから大丈夫よ。狭いから象はよばないわ﹂
ってライオン!? ていうか広かったら象よぶ気か!?
つか火事! 火事になるからそれ!
﹁いやあの⋮火が危ないですし﹂
﹁勿論プロに頼むのだから大丈夫よ﹂
﹁いやぁ⋮あの、とにかく却下です﹂
﹁どうして!?﹂
そんな驚くなよ⋮。
﹁火なら、飲食店やるとこは全部使うじゃない。去年の私のクラス
もそうだったわ﹂
なら今年もそのあたりにしとけよ。
3年は最後だからって奇を狙ったのが多すぎるぞ。
808
﹁駄目なものは駄目です。ライオンなんて危険でしょう。だいたい
ここまでどうやって連れてくるんです?﹂
﹁ヘリで窓から﹂
⋮目眩がしそうだ。
俺は額をおさえて小さく息を吐きながらリストにもう一度目をやる。
却下理由は規模の不明瞭に肉食動物の危険性に火気か⋮⋮ふむ。
﹁⋮わかりました。ではサーカスをする、それはいいでしょう﹂
﹁本当?﹂
﹁ですがライオンは却下です。火も駄目。教室でできる⋮軟体技と
かナイフ投げとか、パントマイムとか、ジャグリングにしたって普
通に、もっと平和なのがあるでしょう。﹂
﹁燃えないと燃えないじゃない﹂
﹁そこはあなた方の手腕で﹂
﹁⋮わかったわ。再提出ね。明日には持って行くわ﹂
﹁ありがとうございます﹂
こんなんがあと3つか。部活は5つもあるし⋮ってこれ、五輪選手
呼んで握手会ぃ?
ちょっ⋮ある意味部活と関係なくないが、出し物にはどうよ。
金持ちだからって無茶企画多すぎだろ。
はぁ⋮ま、理由はまとめてあるし、頑張ってみるか。
809
○
﹁あ、ようやくペンキ運んでるよ﹂
窓から双眼鏡で体育館前を見ながら報告。
会長には何度か注意されたけど、休憩代わりのバードウォッチング
だと言いきられると、どう見ても違うけどあまり強く言えないらし
く引き下がってくれた。
どうも皐月って放っとけないんだよねぇ。
﹁ずいぶん遅いわね。もう戻ってきてもいい時間なのに﹂
﹁ですよねぇ⋮ん?﹂
﹁どうかしましたー?﹂
弘美が興味を持ったのかやってくる。
﹁ねぇねぇ、皐月様どうしたんですかー?﹂
﹁はいはい、今替わるから待ちなさい﹂
まとわりついてくるのを制しながら皐月を観察すると、ペンキを持
っては教室棟に行き、また取りにきては教室棟に⋮これ、もしかし
て⋮それぞれの教室にペンキ運んでる?
﹁紗理奈様ってばぁ!﹂
﹁わかったわかった、はい﹂
﹁やった、ありがとぉ紗理奈様ん!﹂
双眼鏡を渡すとわかりやすくカワイコぶって礼を言いながら除きこ
810
む。
露骨なぶりっこもヒロがやると不思議と嫌味じゃなくて可愛いんだ
よねぇ。これが皐月だったら⋮悪いけど殴るね。
﹁⋮⋮ねぇ紗理奈様﹂
﹁なに?﹂
﹁⋮ヒロの見間違いか、あれ、生徒に媚うってるように見えるんで
すけど﹂
﹁見間違いだから﹂
親切にしてるのに媚うってるとか⋮他人事ではないとは言え恋する
乙女の嫉妬は怖いねぇ。
﹁? 皐月さん、どうかしたんですか?﹂
﹁んー、とりあえずさ、皐月って基本的に頼まれごと断らないよね﹂
無駄にいい人だよねぇ。皐月は正直、人生損しそうな勢いでいいや
つだ。
まぁ⋮
﹁そういうとこ、あたしは好きだな﹂
そういう人だからあたしも好きなんだし、これで皆が皐月を見直し
てくれればいいんだけどね。
淑女会に所属してるとは言え、皐月への評価は二つある。
一つ目には淑女会員というフィルターつきで尊敬の目で見たり親切
にされてファンになってる人。
811
二つ目には皐月が田舎出身で粗野な仕草ともれもれな乱暴口調から、
淑女会員にふさわしくないと言う人だ。
まぁ、フィルターがなくても乱暴口調がいいと言う人や優しいから
応援すると言う人はいるけど⋮三つ目にいれるほど人数はいない。
まだ一つ目はいいけど、中には皐月を疎ましく思ってる人さえいる
からなぁ。
まぁ確かにここではかなり異分子だけど、素で人に尽くせるあたり
あたしやヒロより淑女会員には向いてると思うんだよね。
﹁はぁ。そうですね。皐月さんは、とてもお優しい方ですから﹂
自分のことのように嬉しそうな顔をする小枝子も、かなり恋する乙
女な顔をしてる。
何だかなぁ。
皐月と違い、急な入部にも関わらず小枝子はかなり好意的に受け入
れられてる。
積極性はないけど成績優秀、穏やかで優しくていっそ会長より淑女
してるし、淑女会フィルターがなくても人気がある。
まぁ、﹃淑女﹄会員なのに淑女のフリができない皐月は、やっぱり
イメージが合わないんだよね。
生徒会員としてはいい仕事してもなぁ。名前とのイメージがねぇ。
いっそ王子様的ポジションにつけば多少男っぽくてもいいけど⋮⋮
不本意ながらその位置にはあたしがついてるしね。
812
﹁紗理奈さん? どうかしましたか?﹂
﹁ん、んー、別に。﹂
てゆーか、小枝子もヒロもそれに気づいてないのかね。
ま、小枝子は端から皐月しか見てないしヒロは⋮噂には鋭いけど、
気づいてないのか、気づいてて気にしてないのか⋮。
ヒロってわかりやすく見えて、真意はよくわかんないんだよね。
会長は⋮会長に関してはそこはあたしも恋する乙女フィルターがか
かるから、実際はよくわかんないんだよね。
﹁とりあえず⋮休憩はしばらく先になりそうだよ﹂
あたしはまだ双眼鏡に張り付いてるヒロをつれて机に戻った。
てゆーか皐月自身は気づいてるのかな。
もしあたしの勘が正しければ⋮全面的にバックアップしてあげるっ
てわけにもいかないしなぁ。
さて、これからどうしよう。
813
淑女会員としてのお仕事︵後書き︶
最後に簡単に皐月の学園内での立場を書こうとしたんですが、ちょ
っと微妙。
表面的には受け入れられてますが歓迎してない人もいると言う話で
す。
実はちょっと嫌味を言われたり意地悪をされたりしてますが、お嬢
様たちのちょっとは本当にちょっとで全然気づいてません。
まぁお嬢様は本気でやったらまたやり過ぎたりしそうですが、自分
がやられたら嫌なことが前提なのでトラウマ以外に神経太い皐月に
は通じてません。
そういうのもちょくちょく出したかったんですが、機会がなかった
のでここで書いておきました。
814
白雪学園の文化祭
﹁よっ、と⋮このくらいで足りるかな?﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
﹁何の。仮にも淑女会の人間だしね。じゃ、また困ったことあった
ら声かけてね﹂
﹁はい﹂
全部に再提出を頼み、印刷紙を補充し、淑女会のぶんの紙を小脇に
持ちながらペンキを出していると、木材は何処かと聞かれたのでつ
いでに部屋まで運んであげた。
﹁あの、すみません﹂
﹁はい?﹂
ペンキを全部出し終わるころには放送がかかり必要とする生徒がと
りにきたが、重いから台車がないか聞かれたのでついでに運んであ
げた⋮⋮⋮全教室に。
うん、さすがに疲れた。
文化祭の準備のために授業も午前しかないし、走りっぱなしだもん。
まぁ、他の奴らも忙しいんだろうけど。
あ、そうだ。飲み物飲み物⋮。
ラウンジに寄ってペットボトルのコーラとオレンジ、紅茶とお茶、
スポドリを購入。
ちなみに自動販売機なんてない。飲み物は全て白雪学園印のここで
しか売ってない品です。
815
種類は豊富だが形態は紙コップとペットボトル、ビンだけで缶がな
かったりする。
お嬢様に怪我させないためかも知れないが⋮こんなんだから七海み
たいな世間知らずが出来るんだよなぁ。
﹁ただい、と⋮あれ、さっきの部長さん?﹂
﹁あら、滝口さん﹂
淑女室のドアを開けるとちょうど中から人が出てくるところだった。
さっき再提出を頼んだ部活のうちの一つの部長さんだ。
﹁もう提出ですか﹂
﹁ええ。まとまったから。会長からはOKいただけたわ。ありがと
ね﹂
﹁どういたしまして。困ったことがあればお気軽にどうぞ﹂
まぁアドバイスっても、もの凄く常識的な範囲で言っただけだしこ
のくらいなら。
﹁ありがとう。その時は頼りにさせてもらうわ。では私はこれで、
ごきげんよう﹂
﹁はーい﹂
本当ならごきげんようで返さなきゃいけないんだろうが、恥ずかし
いし。
部長さんを部屋から送り、俺は改めて﹃ただいまー﹄と言って机に
ペットボトルを置く。
﹁つっ、かれた∼﹂
816
﹁だろうね。頼まれもしないのにペンキ運んでたし﹂
﹁げ、見てたの?﹂
俺が椅子に座ったのを合図に小休憩と皆ペンなどを置いてペットボ
トルに手を伸ばした。
いつもはペットボトルでもコップにうつすが、さすがに忙しいし机
にそんなスペースもないので直飲みだ。
﹁そんなことまでしていらしたのですか? だから時間がかかった
んですね﹂
﹁んー、まぁ、そんなとこかな﹂
他にも印刷機の使い方教えたり、木材運んだり、体育館内で暗幕は
るの手伝ったりとか色々したが⋮言わないほうがいいな。
飲み物は俺の狙い通り七海がお茶、弘美がオレンジ、紗理奈がコー
ラ、小枝子が紅茶だ。
前は七海にも紅茶を買ったんだが、紅茶にはこだわりがあるらしく
本格的に入れたのしか飲まないらしい。
﹁皐月様ってよく手伝いしたりしてるけど、カッコつけてんの? いい人に思われたいの? 偽善ぶってんの?﹂
﹁いや、そういうわけじゃないけど⋮﹂
頼まれると、つい、断れないんだよな。女の子が困ってるとどうも
黙ってられないと言うか⋮。
んー、けどいい人に見られたくないわけじゃないし⋮そうなのか?
﹁ヒロ、ちょっと言い過ぎ。なに怒ってんのさ﹂
817
俺が考えてると紗理奈がそんな風に言った。
え、怒ってたのか。⋮言われれば機嫌悪い?
﹁そうよ弘美、どうして不機嫌なのよ? 皐月は淑女会員として正
しいことをしたわ﹂
﹁⋮別に不機嫌じゃありません﹂
﹁そう? ならいいけど。皐月﹂
﹁はい?﹂
﹁あなたのその親切さは美点よ。まぁやり過ぎるのも問題だけど⋮
私はあなたが優しいのだと思う。誇ってもいいわ﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
改めて言われると恥ずかしいが⋮あの七海に素直に誉められてると
思うと妙に嬉しいな。
﹁そういえば、忙しいけど文化祭っていつなんです? 普通はもっ
と前から準備するものじゃないんですか?﹂
照れ隠しに話題を変える。
それに気になってたことだ。来月かもしや今月?ってくらいに忙し
い。少なくとも自クラスの準備だけなら、この調子で午後丸々使え
ば︵寮だし真面目なやつなら夜に自室でもやりそうだし︶本当に今
月にはできそうだ。
﹁11月だよ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁何驚いてるの? 本番まで二ヶ月前から準備って普通でしょ? 夏休みはさんでも皆帰省してるしさ﹂
﹁まぁ⋮そうだけど﹂
818
紗理奈の答えに俺は頷くが、高校生になって初めての文化祭だし普
通がよく分からない。
でも、二ヶ月前から授業半日にして準備するのはさすがにやり過ぎ
じゃないか?
﹁うちは学園関係者は元より外から来る人も多いし、毎年11月の
最初の週末って決まってるから、多少は日付が前後するけどね﹂
弘美の補足に頷きつつも、やっぱり納得できない。
いや、弘美が言ってるのは理解できるが⋮半日授業にするのはせめ
て1、2週間前からで十分なんじゃないか?
﹁何か疑問に思うことでもありますか?﹂
﹁いや⋮その、半日授業にして二ヶ月は逆に時間取りすぎじゃない
か?﹂
小枝子に尋ねられ、誰も疑問に思ってないようなので言いづらいが
聞いてみた。
﹁そうですか? クラスや部活の準備だけで1∼3週間かかります
し、そんなものじゃないでしょうか﹂
﹁⋮え? ⋮ん?﹂
あれ? 何か、微妙に話がおかしくないか? クラスと部活以外に
出し物とかあんの?
﹁ああ⋮わかったわ﹂
ふいに七海が口を開き、俺たちの視線が七海に集まる。
819
﹁会長、何がわかったんです?﹂
﹁皐月が何を不思議がってるかよ。1年生もみんな知ってることだ
から誰も言わなかったのね﹂
﹁何を⋮⋮あ、もしかして皐月、3日目のこと知らないの?﹂
﹁3日目?﹂
何を言ってるんだ? 文化祭が3日間あるのか⋮⋮ていうか、本気
で何も知らないまま働いてた俺って⋮。
﹁文化祭は金土日の3日。11月1日が土の時は10月31、11
月1日2日の3日だけどそれ以外は11月の最初の金土日って決ま
ってるの﹂
ふぅん。まぁ、その次だと10日くらい変わるしな。けど、どうで
もいいけど1日が日曜だったらその次の週末なのかな。
﹁で、金曜は生徒だけのクラス部活の出し物、土曜は客入りのクラ
ス部活、日曜が客入りフリーよ﹂
﹁え?﹂
七海の説明に首を傾げる。
フリー? どういう事だ?
﹁フリーというのは文字通り自由よ。劇とかを学年混合でやりたい
人が集まってやったり、カラオケ大会やコンテスト、毎年誰かが言
いだすからほとんど恒例ね。とにかく何でもありよ。その分、私た
ちは大変なのだけどね﹂
﹁あと基本的にみんな仮装だよ。ハロウィンの服装規定なしバージ
ョンみたいな感じかな﹂
820
七海の説明に紗理奈も付け足し、俺は予想もしてなかったイベント
に興奮を隠さずに身を乗り出す。
﹁へぇー、面白そー!﹂
いいなぁそれ。凄い面白そう。中学とはやっぱ違うなぁ。
全然知らない人たちで仲間集めたりもするんだろうし、それならこ
の時間の猶予も分かる。
﹁まぁね。あたしらは出し物にはほとんど触れられないけど、その
分思いっきり楽しめるよ﹂
﹁え? 淑女会から出し物はないの?﹂
﹁ないよ。つか、忙しいのにあるわけないじゃん﹂
何をやるかいつ決めるんだろとか思ってた俺を弘美がバッサリ切り
捨てる。小枝子もそうですね、と弘美に頷く。
﹁私も淑女会員になって初めて、どれだけ皆さんが頑張ってくださ
ってるかわかりましたし。皆さんいつも優雅なのでこんなに大変だ
とは思いませんでした﹂
﹁ふっ⋮白鳥は自らの足を見せないものよ﹂
自分で言うか? 七海ってたまにかなりのナルシストになるよな。
でもそうか⋮何もしないんだ。それはそれで何だかなぁー。
﹁⋮なぁ、何か淑女会でしようよ﹂
﹁⋮⋮あんた人の話聞いてた?﹂
﹁聞いてたけど⋮店とかじゃなくても⋮ほら、例えばバンドとか﹂
821
﹁余計に無理だから﹂
﹁あたしらは当日は基本的に暇になるとは言え、さすがに練習でき
ないとねぇ﹂
﹁当日は暇なの?﹂
﹁⋮それも知らずに君はやろうとか言い出したのか⋮﹂
﹁う⋮﹂
呆れた弘美と紗理奈の態度に言葉をつまらせる。
実は全くの考えなしだったりする。
﹁そりゃね、当日の方が色々と問題は起きるよ。けどそこまであた
しらじゃ手ぇまわんないしね﹂
そうか⋮まぁ確かに、いくら学生主体って言っても、この忙しさの
ままじゃ俺ら全然楽しめないしな。
﹁基本的に各所に警備員さんを配置して、大抵はその人たちにお任
せします。問題と言っても火の元や客とのトラブルなどが殆どなの
で、その方が効率いいようです﹂
すっかり俺より淑女会に馴染んだ小枝子が説明してくれる。
﹁まぁ一応、教師と淑女会員は当日トランシーバー着用だけど⋮こ
こ8年はそれが必要になるほどの事態はないわね。一番多いのはナ
ンパだけど⋮それこそヒロたちにはどうしようもないし﹂
最年少だが一番の古株である弘美が断言してるし、じゃあ当日は本
当に何もないのか。
てゆーか8年も前からここに来てたのか。
822
﹁まぁ、そのかわり当日まではずっと忙しいわよ。皐月﹂
﹁あ、はい﹂
﹁休憩は終わりよ。次、クラス見回って備品足りてるか見てきて。﹂
﹁わかりました﹂
立ち上がり、他にはないかと見回すと七海が付け加える。
﹁あ、と、その前に職員室に行って1−⋮ちょっと待って、書くわ﹂
七海はメモを一枚やぶり素早くペンを走らせ俺に紙を向ける。
﹁ここが暗幕借りてるかチェックしておいて。まだなら見回りの時
に理由を聞いておいて﹂
﹁はい。他にはありませんか?﹂
﹁そうね⋮あとはあなたにしてもらうことはないわね﹂
﹁じゃあ皐月、あたしが頼んでいいかい?﹂
﹁あ、はい、じゃなくて何だ?﹂
振り向きながら応えると敬語モードで返事してしまった。
﹁ん、もう戻らなくていいから、頼まれただけ手伝ってきてあげな
よ。力仕事とか得意なことでいいから﹂
それは別にいいが⋮要するに見回って、適当に手伝ってこいってこ
とだろ。
﹁去年はそこまでできなかったけど、本当は見回りが一番効くんだ
よね。肉体労働専門がいると助かるよ﹂
﹁はいはい⋮ま、暇なら書類仕事手伝え、より断然いいさ﹂
﹁やだな、君にやらせるくらいなら猫の手をかりるよ﹂
823
﹁⋮⋮行ってきます﹂
﹁頑張ってくださいね﹂
物凄く素で言う紗理奈に傷つきつつ、小枝子に笑顔で送られ俺は淑
女室を後にした。
○
824
イメージをあえて言うなら⋮
﹁⋮⋮いや、違うな﹂
カタログをめくりながら紗理奈が呟く。
﹁ちょっと待って、これはどうかしら﹂
﹁ええ? これですか? いや⋮会長、皐月のことどう見てるんで
す?﹂
﹁ヒロもこれはないかと﹂
﹁そうですか? 私は皐月さんにはこれも似合うと思いますけど﹂
4人が顔を付き合わせるようにして数冊の雑誌を並べて談義してい
る。
それは別にいいが何故俺の部屋で、そしてどうして俺の名前が出て
くるんだよ。
﹁そうよね﹂
﹁会長、喜んでるとこ悪いですけど小枝子は皐月至上主義だから無
効票です。よって却下﹂
﹁紗理奈、横暴だわ。小枝子も何とか言いなさい﹂
﹁あ、これも皐月さんに似合いそうです﹂
﹁⋮⋮⋮紗理奈、私が間違ってたわ﹂
﹁いいんですよ、会長。わかってくれればいいんです﹂
⋮⋮なんだこれ? そろそろツッコんでもいいよな?
﹁お︱﹁皐月、紅茶がきれたわ。入れて﹂⋮はい﹂
825
くっ⋮逆らえない。
いや別に出ていけと言う気はないが、入ってきて俺を放置して話し
合いって何さ。
﹁皐月様﹂
﹁ん? 何だ? オレンジジュースなら備えつけの冷蔵︱﹂
﹁違う。そこに立って﹂
全く。何なんだよ本当。いい加減説明くらいしてくれないかな。
﹁ここ?﹂
とりあえずポットを置いて言われたままに立つ。
弘美は雑誌を開けて表紙を俺に向けて持つとう∼んと唸り出す。
﹁⋮やっぱ、男装よね﹂
は?
﹁そうだね。こっちとかは似合う以前に態度とかから無理だし。い
や⋮んー⋮無理だね。滲出る品位がない﹂
二回も無理って言われた。何だか分からないがとりあえず全否定さ
れてるのは分かるぞ。
どうせ庶民育ちで品位なんか滲出ないよ。てゆーかお前らの今の姿
だって品位なんかねーよ。
いや別に、品位がないって言われたから怒ってるわけじゃないよ?
826
俺の心は男なんだしそんなことで怒らないもん。
﹁皐月、紅茶﹂
﹁はいはい﹂
﹁はいは一度よ﹂
﹁うぃー﹂
﹁うぃーは⋮紗理奈﹂
﹁正しい日本語で話せ、以上﹂
﹁それよ﹂
どれだ。
てゆーか、いい加減ツッコんでいいよな。
﹁おいこらてめぇら﹂
﹁皐月、それ以上汚い言葉を発したらその口縫いつけるわよ﹂
﹁⋮⋮ちょ、ちょっとあなた方、一体私の部屋で何をなさっておら
れるのですか。差し支えなければ私にもお教えいただけないでしょ
うか﹂
へりくだって言うと紗理奈が不思議そうに
﹁見て分からない? 君の3日目の衣装決めだよ﹂
と言った。
﹁衣装⋮え、仮装って絶対なの?﹂
つか参加するのに異論はないが何でお前らがここで俺のを話し合っ
てんだよ。
827
﹁当たり前じゃん。全生徒の仮装はちゃんと写真撮影して誰が仮装
大賞か選ぶんだから。一般生徒だって大多数がやるのに淑女会員が
辞退するわけないでしょ﹂
﹁⋮マジか﹂
嫌なわけじゃないけど、写真とって見られるかと思うと恥ずかしい
な。
﹁と言うか、何でお前らが決めようとしてんの? 俺の意見は?﹂
﹁え、ないわよ? 当たり前でしょ﹂
﹁何でだよ﹂
﹁何で⋮⋮何よあんた。何か着たい服があるわけ? てゆーか、ヒ
ロが決める服に文句あるわけ?﹂
普通にないと言う弘美に理由を聞くと、一瞬考えるそぶりをしてか
ら何か逆ギレされた。
﹁文句とかじゃないけど⋮俺も見て悩んだりして、そういうのも楽
しみの一つだろ?﹂
﹁⋮そうね。じゃああんた、ヒロの選びなさい。候補の一つにする
から﹂
﹁え、まぁ⋮いいけど。﹂
どっちにしろ自分のは選べないのか。
﹁あ、なら私も皐月さんに選んで欲しいです﹂
﹁いいね。皐月のセンスを測ってやろう﹂
﹁え、いいけどさ。自分自身のは選べないわけ?﹂
﹁ふぅ⋮わかったわかった﹂
828
何故か紗理奈が息を吐きながら
﹁じゃあこうしよう。皆自分以外の人のを選ぶ。んで君は4つのう
ちから選ぶ。これなら公平でしょ。文句ある?﹂
と、あたかも俺が我が侭言っててしょうがないなぁ的態度で言う。
﹁ない⋮﹂
ない、ないよ? ないけど⋮何で俺が譲歩されてんだよ。
﹁会長も、いいですか?﹂
﹁そうね⋮とりあえず各自で決めて一時間後に発表しましょう。秘
密にしてた方が面白そうだわ。みんなもいいかしら?﹂
﹁異議なーし﹂
﹁いいと思います﹂
﹁あの⋮全員がそれぞれ見るにはカタログが足りないと思うんです
けど﹂
﹁ん、そうねぇ⋮回して見るにしても4冊だし⋮﹂
小枝子の言葉に七海は迷うように視線を回す。
﹁じゃあ⋮あたしが皐月と一緒に見ますよ﹂
え? 俺? ⋮七海とじゃなくて?
﹁えー? それなら別に、ヒロが皐月様の相手してあげてもいいで
すよ﹂
﹁わ、私もその⋮皐月さんと一緒がいいです﹂
829
って二人まで何を言い出すか。
﹁皐月モテモテだね﹂
﹁うるさい﹂
﹁わかったから、あなたたち静かになさい﹂
弘美と小枝子が微妙に睨みあうので、七海が場をとりなす。
﹁わかったって、どうするんです? 勿論ヒロですよね?﹂
﹁間をとって私が皐月と見ます。それでいいわね﹂
﹁えー!? 七海様ずるい! 皐月様はヒロの何ですよー?﹂
﹁弘美﹂
﹁⋮わかりましたよぉ﹂
﹁小枝子もいいわね?﹂
﹁あ、はい﹂
さすが七海。七海がその気になると誰も逆らえないな。
あ⋮だから俺も逆らえないのか。
﹁じゃあ私たちはまずこれを見るわ。皐月、紅茶﹂
﹁ああ、はいはい﹂
とりあえず全員に紅茶をいれて回ってから、七海の隣に腰をおろす。
﹁あれ﹂
﹁? なに、どれか気にいった服があった?﹂
﹁いえ、何かいい匂い⋮七海、なんかつけてる?﹂
﹁いいえ特には。ああ、でも⋮シャンプーを変えたわ。私のお気に
入りの花の香りなの﹂
﹁それですかね﹂
830
爽やかだがほんのり甘くて七海によく合っている。
俺は紅茶をすすりながらカタログに手を伸ばす。
さて、衣装ねぇ⋮じゃあまずは七海から⋮
﹁あ、これなん︱﹂
﹁黙って。何を選んだか先に知ったら楽しみが減るわ﹂
﹁あー、はい﹂
ま、そうかな。黙って選ぶか。お姫様ドレスもわるくないけど、七
海には堅い制服系も似合いそうだ。スーツと眼鏡かけて秘書とかも
いい。
あと⋮ナースとか? チャイナも悪くない。七海は髪の毛長いから
おだんごもたっぷり⋮⋮いや、それなら小枝子にもできる。むしろ
小枝子がチャイナの方が意外性もあるかも。
﹁うーん﹂
お、この短いマントのついた悪魔の服は弘美にばっちりじゃないか
? 紗理奈は⋮⋮んー、弘美といい俺を男装させるつもりみたいだ
し、紗理奈もそうするか?
いや、逆にめちゃめちゃフリフリのゴスロリとか⋮⋮微妙だな。
﹁皐月、もし難しいならその人のイメージから考えるといいわ。無
理に奇をてらうよりは似合うし﹂
﹁そうですか⋮ちなみに参考までに、七海様から見た紗理奈さんは
?﹂
﹁⋮参考よ? 紗理奈は⋮やっぱり王子様かしら。ただし遊び歩い
てる駄目王子﹂
831
あー⋮何か分かるかも。
紗理奈は気さくでスポーツできて生徒たちから王子様って呼ばれて
るらしい。
俺はそんなイメージではなかったが、確かに普段のいい加減なとこ
は甘やかされた箱入り王子っぽい。
それに何より、典型的な王子様ルックが無駄に似合いそうだ。あの
ダサいズボンも顔がいいから妙に合いそうだし。
﹁なるほど⋮参考になりました。ありがとうございます﹂
﹁そこの二人⋮同じ部屋なんだから普通に聞こえてますよ﹂
﹁知ってるわ﹂
じと目の紗理奈にしれっと七海は答えた。
七海って将来大物になりそうだよな。今もある意味そうだし。
○
う∼ん、と皐月は唸りながら私がめくる横からページを覗き込んで
いる。
﹁皐月、もし難しいならその人のイメージから考えるといいわ。無
832
理に奇をてらうよりは似合うし﹂
皐月は男の子として生活していたのだから、女の子の服は分からな
いかと気になったのだ。
﹁そうですか⋮ちなみに参考までに、七海様から見た紗理奈さんは
?﹂
そっと私の顔を覗き込む皐月の顔に、﹃皐月君﹄を重ねてしまって
一瞬ドキリとした。
﹁⋮参考よ? 紗理奈は⋮やっぱり王子様かしら。ただし遊び歩い
てる駄目王子﹂
紗理奈はしっかり淑女教育されてるけれどわざと粗野なふりをした
りする。そこが嫌に、すれてわざと軽薄なふりをする遊び人な、昔
のバカ貴族みたいな印象を与えるのだ。
﹁なるほど⋮参考になりました。ありがとうございます﹂
﹁そこの二人⋮同じ部屋なんだから普通に聞こえてますよ﹂
﹁知ってるわ﹂
紗理奈のツッコミにもならない言葉に私は平然と言い返す。
紗理奈はこんな他意のない言葉で傷つく人間じゃない。
﹁⋮そうだな、紗理奈は⋮﹂
何かわかったらしく皐月は頷きながら率先してページをめくりだす。
833
その真剣で楽しそうな色の瞳の横顔に、またドキリとした。
いけないわ。
もうわかってるのに。諦めて、許したのに。なのに、数日たっても
まだ⋮忘れられてないわ。
﹁皐月﹂
﹁はい?﹂
上げられた顔はキョトンとしてあどけなく、性別さえ曖昧な気がし
て、だけど女の子だ。
髪だって長いし⋮⋮あら? でも⋮⋮カツラ、かしら。もしかして
別荘の毛も⋮。まあ、過ぎたことはいいわ。
﹁やっぱり私は小枝子とカタログを見るから、あなたは一人で見な
さい﹂
﹁はへ?﹂
不思議そうな皐月を無視して私は小枝子に顔を向ける。
﹁という訳よ、いいかしら?﹂
﹁あ、はい。私は構いませんよ﹂
小枝子は困惑しながらもにこっと笑みを浮かべて了承した。
場を収めるためにああ言ったが、皐月の隣では集中して選べない。
小枝子となら意見が反発することめなさそうなので、私は小枝子の
隣に移る。
﹁悪いわね﹂
834
﹁いえ、七海様のセンスを参考にさせていただきますから、願った
り叶ったりですよ﹂
﹁ふふ﹂
小枝子の隣は落ち着く。
抜きんでて親しいわけではないけれど、丁寧で礼儀がありつつも柔
らかい態度は好感が持てる。
紗理奈も弘美も馴れ馴れしくしたとして実際には不用意に近づきは
しないけど、小枝子のそれとは違う距離感だ。
小枝子と言葉少なに情報を交換し、雑誌を回してはまたいくつかピ
ックアップしていると一時間は案外すぐにきた。
まだ全部の雑誌に目を通してすらいない。
﹁一時間じゃ短かったかしら? みんな決められた?﹂
﹁そうですね。完全じゃないですけど、10着くらいはめぼしいの
ありました。﹂
﹁ヒロもそんな感じです。一着も選べなかった人はいないんで大丈
夫です﹂
﹁⋮う∼ん、俺は⋮まだ微妙だけど。一応考えたし大丈夫、かな﹂
皐月の返事はかなり頼りなかったが、まぁ絶対にこの中から選ばな
ければいけないわけではないし、系統だけでも参考になれば構わな
いだろう。
﹁じゃあ、私から時計回りに行くわよ﹂
835
○
﹁んで、七海のイメージはめが⋮⋮あ、えっと﹂
﹁?﹂
﹁どしたの? メガ? メガマ○ク?﹂
順調に選んだ衣装を言っていたのだが、皐月が最後に私の衣装を言
うところで何故か止まった。
﹁違う。め、めが⋮目が綺麗だ。うん。だからこのてん⋮⋮んー、
いや、やっぱりいいや。七海のは保留﹂
﹁は? 何でさ。てゆーか、それじゃルールに反するから。会長の
イメージからはいどうぞ﹂
﹁だから目が綺︱﹂
﹁それ以外﹂
﹁えーっと⋮﹂
紗理奈に促されても何故か皐月は言おうとしない。もしや私のイメ
ージに物凄く失礼なことを考えてて、言う寸前に気付いたとか?
⋮⋮あり得る。皐月は諸々と前科があるから怪しい。
なので聞いてみた。すると皐月はうーと唸り、ぺらぺらと雑誌を捲
りながら答える。
﹁失礼じゃないけど⋮言うのはちょっと恥ずかしい。あ、でも失礼
と言えば失礼かも⋮﹂
836
﹁?﹂
﹁よくわかんないけど、次にオオトリのヒロがいるんだからさっさ
といいなさいよ。どうせ皐月様の案なんて大したことないんだし﹂
﹁うー、七海の印象は⋮﹂
﹁様をつけなさい﹂
皐月はよく様を忘れる。と言うか﹃皐月君﹄の時はさんづけだった
のにどうしてこっちだと急に呼び捨てになるのよ。
たまに敬語じゃなくなるのは紗理奈もだけどそれは親しさからの省
略で、基本的に使ってるから注意はしない。
だから皐月も徹底してくれれば私だってここまで言わなくてもすむ
のに。
﹁⋮⋮七海様の印象は⋮め、女神⋮﹂
﹁⋮え?﹂
めがみ? って女神? ⋮⋮⋮⋮私が?
﹁な、何だよその顔。いいだろ別に! 七海だけじゃなくてお前ら
もそりゃ普段から美少女だけど、七海はたまにはっとするくらい綺
麗でちょっと神がかってるとか思ってたんだから仕方ないだろ! んで女神の服とかわからんから天上繋がりで天使の服だ! 以上発
表終わり!﹂
皐月は赤い顔で早口に言うが、私はそんな比じゃない。
﹁⋮ごめんなさい、用事を思い出したから失礼するわ﹂
皐月に負けずに早口に言って私は部屋を出て乱暴にドアをしめ、競
歩のような早さで自室に向かう。
837
あ⋮あり得ないわ。
両手で顔をはさむと熱いのがわかる。
確かに私はよく美人だの神の化身だのと言われるし、私自身容姿が
いい自信はある。
だが⋮あんなに赤い顔で言われたら、恥ずかしいに決まってる。
だって女神だなんて真顔で本気で言われたのはいくらなんでも初め
てだ。普通、そんなのは親戚や軟派な人が軽いノリで言うことで、
100パーセント本気で言うことじゃない。
なのに⋮あの皐月の態度はどう考えても、ぱっと浮かんだ私のイメ
ージが女神で⋮しかもその理由が綺麗だからって⋮⋮あり得ないわ。
そんな恥ずかしいこと普通、あんな回りに人がいる状況で言う!?
恥ずかしいったらないわよ!
﹁ああああ⋮﹂
けど、私のあの態度もまさに恥ずかしいと言わんばかりだったかも
知れない。
それもまた恥ずかしい。容姿を褒められたんだから﹁あら、ありが
とう。皐月も可愛いわよ﹂くらい言えばいいのに、私はそんな返し
も思いつかないほどテンパってしまった。
ああもう! 皐月のバカ! 褒めるなら二人の時にしなさいよね!
838
○
839
イメージをあえて言うなら⋮︵後書き︶
この話、実は相当迷いました。間の紗理奈とかの意見も書いたので
すが、ネタに走りすぎなうえ長いので消しました。
楽しんでいただければ幸いです。
840
着せ替え皐月
﹁ごめんなさい、用事を思い出したから失礼するわ﹂
それだけ言うと会長は乱暴に部屋を出ていった。
﹁あーあ、行っちゃったね皐月﹂
あんなに恥ずかしがらなくてもいいとは思うけど、女神のように綺
麗、なんていくら同性でも真顔で言われちゃねぇ。
﹁あー⋮やっぱ怒らせたか﹂
﹁え⋮? は? 何言ってんの?﹂
﹁? 印象で見た目を褒めたんだから、中身は大したことないって
言ってる風にも聞こえるだろ? 七海ならそうとってもおかしくな
いとは思ったけど⋮やっぱりなぁ﹂
⋮⋮⋮⋮⋮いやいや、ないよ。ひねくれ、てゆーか何そのネガティ
ブな発想。
どう見ても会長、照れ隠しだったじゃん。
﹁はぁ⋮俺の好みを暴露した上に七海に誤解されるとは⋮寝耳に水
だな﹂
﹁いや、それ違うから﹂
ことわざ
﹁ん? そうだったか? 寝てるのに水かけられたら最悪だろ?﹂
﹁それはびっくりした時の諺だから。あんたマジでバカね﹂
﹁う⋮﹂
841
﹁てゆーかあんた⋮七海様みたいなのが好みなの? 何処がいいの
?﹂
かなり真剣なヒロに皐月は全然気づいてないらしく、キョトンとし
ながら答える。
﹁え⋮まぁ、綺麗だし﹂
﹁ヒロだって綺麗でしょ。どこに差があるのよ。胸? あんた巨乳
派?﹂
﹁ええ? う∼ん、あ、わかった﹂
﹁何よ﹂
﹁こういうのを、大は小をかねるって言うんだな﹂
﹁死ねぇ!﹂
﹁わわ!? 何すんだよ!﹂
本気でわかってないんだよねぇ。どう見てもヤキモチってか、八つ
当たりというか。
でもそうか、皐月は巨乳派か。まぁあのたわわな胸に顔をうずめた
ら気持良さそうだよね。いや、ツルペタもそれはそれでありだよ?
青い果実は育てがいが⋮⋮って、皐月はこんなこと考えて言って
ないよね。
ふぅ⋮こういう自分は嫌いじゃないけど、さすがに時と場合を選べ
よあたし。
﹁何でもないわよ阿呆!﹂
﹁はぁ? ⋮はぁ、まぁいいけど﹂
そこはもうちょっとひきさがらないと、フラグたたないよ。
でも皐月、前より短気じゃなくなったかな。
842
﹁後で謝りに行くかなぁ。でも、性格もいいけどただ容姿がもっと
いいから印象になるんだ、とか言ったら七海調子にのりそうだしな
ぁ。やだなぁ。何かいいフォローない?﹂
﹁ん。ない。てか別にフォローしなくてもいいんじゃない? 会長
なら明日には元に戻ってるよ﹂
﹁でもなぁ⋮弘美と小枝子はなんかない?﹂
﹁ないわ﹂
﹁う∼ん、私も⋮特に何も言わなくていいと思います﹂
ヒロの発言は若干嫉妬入ってるけど、まぁ実際にそんなフォローし
たらヤバいよね。会長、ますます赤くなるよ。
﹁う∼ん⋮﹂
﹁そんなことより、皐月様のせいでヒロだけ発表してないんだけど﹂
﹁ん? そういえば⋮﹂
﹁そういえばじゃないっつの。責任とりなさいよね﹂
﹁責任? いいけど何?﹂
﹁明日、衣装用意するからみんなで服を選びましょう。んであんた
はヒロが言う服を全部来なさい﹂
﹁俺は着せ替え人形かよ﹂
﹁文句あんの?﹂
﹁いや、わかったよ。じゃあ⋮また明日。今日は解散な﹂
﹁ん。あたしもたまにはもう寝ようかな﹂
﹁そうですね。私もそろそろお風呂に入って寝ます﹂
にしても⋮皐月は告白されて気持ち知ってるくせに、何で嫉妬に気
付いたりしないかなぁ。
てゆーか、会長は皐月の好みの容姿なのか。うーん、皐月がガチで
843
ライバルになったらどうしよう。
一回襲って対女のトラウマでもつくる? ⋮や、さすがになぁ。
⋮ま、その時はその時に考えよう。
○
﹁あのー﹂
遠慮がちにノックをしてドアノブをひねると、鍵がかかっていた。
生徒会長だからって鍵はずるい。七海以外のやつなら鍵がないから
すぐに謝れるのに。
﹁⋮誰?﹂
﹁俺⋮じゃないや、私です。皐月です。いいですか?﹂
﹁駄目よ﹂
わー、やっぱり。無理矢理でも中に入れば説得するんだけどな。
﹁そこを何とか﹂
844
がちゃがちゃとノブを回すが、鍵は開かない。
﹁駄目よ。もう遅いのだから女の子の部屋にくるものじゃないわ﹂
﹁いや、一時間前には私の部屋に来てたじゃないですか﹂
ちょっとだけ間をあけてついでにお風呂に入ってからやってきたの
だが⋮まだ怒ってるのか。
てゆーか、俺も女の子だし問題ないだろ普通。
﹁いいから戻りなさいよ﹂
﹁でも⋮あの、さっきの七海様が勘違いしてますよ﹂
﹁⋮勘違い?﹂
﹁はい。あの、別にさっき七海様の印象を綺麗からとったのは、性
格に難があるから見た目からとったんじゃありません。真面目なと
こも優しいとこも好きですよ。ただ、それ以上に七海様が綺麗だか
ら印象になって女神とか言っただけです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁七海様? 聞いてます?﹂
どんどん、とさっきより強くドアを叩く。
﹁⋮き⋮聞いて、るわ。もう本当⋮帰っていいから⋮ね?﹂
﹁?﹂
何故か弱々しい声が返ってきた。
﹁えっと、怒ってません? あと、具合悪いんですか?﹂
﹁怒ってないし大丈夫よ。はい、また明日さようなら﹂
﹁はぁ⋮じゃあ、お休みなさい﹂
845
何だかいつもの七海らしくない態度だが⋮まぁ本人がいいって言っ
てんだしいいか。
まだ時間は⋮12時まで時間あるし、母さんに電話しよーっと。
にしても俺⋮最近12時過ぎまで誰かといたりして母さんへの連絡
が2、3日に一度になってるなぁ。
けどそれほど寂しいとは思わない⋮これが親ばなれってやつなのか
なぁ?
○
﹁もしもし﹂
﹃やほー皐月ちゃん、3日ぶりー﹄
最近の母さんはテンションが高い。何故なら俺が弘美と婚約したか
らだ。
爺ちゃんと違って両手あげて賛成された時は⋮さすがに凹んだね。
いや都合はいいんだけどさ。
﹁やはー、元気?﹂
﹃やひー、元気よ﹄
﹁やふー。んで本題な、11月の最初の週末に文化祭あんだけど⋮
これる?﹂
846
﹃やへー。土日?﹄
﹁金土日。けど、金は生徒のみで、土日が外部の人もはいれる﹂
﹃やほー。じゃあ日になら行けないこともないわ﹄
﹁本当!? やったー!﹂
﹃やはー。本当よ﹄
﹁それはもういいから﹂
﹃やひー。何かハマっちゃったー﹄
﹁⋮やふー﹂
﹃で、皐月ちゃんは文化祭で何するの?﹄
﹁ちょっ、スルーかよ﹂
自分で始めたとは言え、そのテンションに合わせるの疲れるのに⋮。
﹁僕は⋮特にはなにもしないかな。あ、仮装はする﹂
﹃クラスの出し物は? 淑女会は?﹄
﹁淑女会は手伝いが多すぎて準備できないからなしだって。かわり
に当日はほとんどフリーらしいけど﹂
﹃えー、つまんなーい﹄
﹁そんなことないって。一緒にまわれば楽しいよ﹂
﹃そういうのは婚約者の弘美ちゃんを誘ってね﹄
う⋮またそういうことを。機械越しにも楽しそうな母さんにちょっ
ぴりため息。
そういうんじゃないって、わかってるくせになぁ。
﹁はいはい。それはいいから﹂
﹃ママ、早く孫の顔が見たいわ∼﹄
﹁無理だって言ってるよね!? てゆーか母さんはどこから冗談か
非常にわかりにくいから止めてくれない!?﹂
﹃あらやだ、私はいつだって本気よ? 皐月ちゃんに似てるとなお
847
いいわ∼﹄
﹁⋮⋮﹂
母さんの言葉にどうにか試験ということで人間のクローニングの許
可がとれないかな、と一瞬真面目に考えた自分に脱帽。
無理に決まってるし、だいたい俺、母さんの言いなりすぎだ。
あ∼、でもだってほら、どんな意味にしろ母さんを愛してるし、前
は俺にとって全てだったし、逆らえないだろフツー。
﹃まぁ、まださすがに気が早いわよね。ママったらおちゃめさん﹄
﹁自分で言うか。でもそこが可愛いとか思うのは末期?﹂
﹃ふふふ⋮実は皐月ちゃんがそう思うように私が昔から洗脳してた
のよ﹄
﹁衝撃の事実!? ⋮ちなみにどうやって?﹂
﹃毎日お母さんの顔を見せていたわ﹄
﹁普通だ! つかそれくらいで洗脳されちゃうと思われてる僕って
!?﹂
﹃いわゆる一つのいんぷりんてぃんぐよ﹄
﹁僕は鳥ですか﹂
﹃あら、皐月ちゃん知らないの? すりこみは人間にも普通にある
のよ﹄
﹁そういう問題?﹂
﹃あら、じゃあ絶対にないって言える?﹄
﹁⋮⋮﹂
う∼∼ん⋮それはそうだけど⋮。
﹃まぁ、すりこみってどういうものなのか、よくわからないんだけ
どね﹄
﹁おい。はぁ⋮まぁ、とにかく、11月の最初の日曜日、約束だよ﹂
848
﹃わかってる、愛してるわよ﹄
﹁僕も愛してるよ﹂
﹃それじゃ皐月ちゃん、頑張ってね。お休みなさい﹄
﹁うん、お休み﹂
○
﹁ぶはははははっ!﹂
﹁く⋮に、にに、似合いますよっ、皐月さん、くくっ⋮﹂
紗理奈と小枝子は俺の仮装に笑った。
﹁うーん⋮ちょっと変ね﹂
﹁やっぱこの路線は無理ね。皐月様、次これ着て﹂
七海と弘美は真顔で評した。
どっちがましか⋮いっそ全員に笑われたら怒れるのに、言い出しっ
ぺの弘美が真面目なだけに何とも言えない。
﹁⋮ああ﹂
俺は素直に服を受け取る。
まぁ七海も機嫌直ってるし、文句言って着替えの区切りをなくされ
たらたまらない。
こいつらなら普通に公開ストリップを要求しかねないからな。
849
﹁もういいー?﹂
﹁んー、ちょっと待って﹂
着替える。
段々女らしい服に抵抗がなくなってきたなぁ。
﹁よし、いいぞ﹂
しゃっとカーテンを開ける。
﹁おお⋮これはなかなか⋮絶対領域がいい味だしてるよ﹂
﹁?﹂
絶対領域? 絶対の領域⋮⋮どういう意味かわからんが、紗理奈は
俺のメイド服を褒めてるようだ。
﹁皐月さん、よくお似合いですよ﹂
さっきまで笑ってたのが嘘みたいに品よく微笑む小枝子。
⋮⋮こいつに関する評価を改めたくなってきた。
﹁ふむ⋮皐月の長い黒髪と白エプロンの組み合わせがいい感じだと
思うわ﹂
偽髪だけどなー。まぁカツラだからある意味綺麗な髪だろうが。
しかし⋮スカート短くない?
俺はついついスカートの裾をつかんで下にひいてしまう。
﹁⋮あんた﹂
850
﹁え? なに?﹂
﹁黒と白どっちがいい?﹂
﹁え? し、白?﹂
何だかわからない問いに答えると弘美は部屋に積んでる段ボール箱
の一つをひっくり返す。
段ボール箱には﹃おぷしょん3﹄と書かれている。
﹁こっ、これ、これつけてっ!﹂
﹁え、え!?﹂
何だかわからないままに、いつになく素早い弘美が俺の頭に何かを
つける。
﹁おお⋮ごめんね皐月⋮あたしは君をあなどっていたよ﹂
﹁弘美さん、ぐっじょぶです!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮皐月様﹂
﹁な、なんだよ⋮﹂
何でみんなそんな凝視しますか? てゆーか小枝子、お前絶対キャ
ラ違うし。
さすがに気になるので壁にたてかけたままの全身用の鏡のカバーを
とった。
﹁ね⋮ねこみみ⋮﹂
俺の頭には白のネコミミヘアバンドがついていた。
851
い、いやいや⋮黒髪なのに白ですか。
てゆーか⋮恥ずっ!
なにこのスカート丈! 予想より短いし! 何気に露出してるし!
﹁皐月様、自分の姿を理解したならこれをつけなさい﹂
﹁⋮もしかしてその微妙な太さの白のひもみたいなものは⋮しっぽ
?﹂
﹁当たり前でしょ。ヒロがやる以上妥協はないわ!﹂
﹁いや⋮でも⋮﹂
﹁約束破る気?﹂
﹁⋮わ、わかったよ。つけるよ。つければいいんだろ﹂
﹁つけたら語尾に﹃にゃん﹄ってつけてご主人様って言ってね﹂
﹁おい、何でお前が言うんだよ﹂
﹁いいじゃん。ねぇヒロ﹂
﹁そうですね⋮さすが紗理奈様。下僕、命令よ﹂
﹁ちくしょー!﹂
紗理奈め! なんか恨みでもあんのかよ!
しぶしぶしっぽも装着。
鏡を見ると⋮いかにもなコスプレをした頭の悪そうな女がげんなり
した顔をしていた。⋮⋮てゆーか、俺な。
﹁⋮⋮﹂
しかもつけたらつけたでお前ら無言かよ。
﹁にゃーもー! お前ら笑いたきゃ笑うにゃー!﹂
﹁!?﹂
852
何故か小枝子が急に自分の顔を抑える。顔というか口? 鼻?
﹁にゃ?﹂
﹁ちょっ⋮自分が言ってなんだけど⋮それは反則だ⋮﹂
﹁にゃあ? なに言ってるにゃ? 小枝子、じゃない、ご主人様、
どうしたのにゃ?﹂
﹁っ!?﹂
﹁にゃにゃ!?﹂
ちょっ、なに倒れてんの?
何故か急にふらふらしだす小枝子を支えてソファに座らせると、そ
のままぱたりと横になった。
﹁な、なんなんにゃ?﹂
﹁皐月! 次はこれもつけてよ!﹂
﹁にゃー? って肉球グローブ!? そんなのどこからにゃ!?﹂
﹁あとこれもよ!﹂
ちょっ、足も!?
俺は紗理奈と弘美をかわしてさっきからずっと無言の七海に近寄る。
﹁ちょっとなな、じゃなくてご主人様! 黙ってないで助けるにゃ
ー!﹂
すると七海はかっと目を見開く。
﹁ご主人様!﹂
いいぞ! 早く二人を何とかしてくれ!
853
﹁可愛いっっ!!﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁ちょっ、なんなのその可愛さ! もう!﹂
七海は俺の頭に手をまわすと抱きしめてきた。
ちょっ、なに!? てゆーか、このぽにょぽにょしたものはあれで
すか!? 七海のメロン様か! 改めてデカいな!
﹁ちょっ!﹂
だが苦しい! 胸のせいで窒息死とかどんだけ!?
﹁あ∼もう! 持って帰る∼!!﹂
﹁お、落ち着け七海!﹂
﹁ご主人様でしょ!﹂
駄目だこいつ!
俺は何とか七海の肩に手をかけ胸から離れて呼吸。
﹁あ∼、可愛すぎる∼∼!!﹂
⋮⋮七海⋮キャラが違う。
俺はとにかくネコミミをとる。
﹁落ち着け!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は!? 私は今、何を!?﹂
854
﹁⋮正気に戻ったか﹂
七海が暴走するとは⋮ネコミミ恐るべし。
○
855
着せ替え皐月︵後書き︶
七海を暴走キャラにするつもりはなかったんです。出来心なんです。
とか言ってみたり。
更新が遅くなってしまい、もし待たせてしまったならすみません。
できてはいたんですが、七海の暴走をいれていいのかかなり悩みま
した。
856
弘美は若干ツンデレ
﹁⋮正気に戻ったか﹂
やれやれと言う皐月に会長は首を傾げ
﹁って!? な、なに抱きついてるのよ!﹂
とようやく皐月に抱きついてたのに気づき押したけど、皐月はおっ
と一歩下がってただけだったから、会長がずざざと下がる。
﹁なんという濡衣⋮﹂
﹁あんな会長初めて見た﹂
﹁てゆーか、七海様ってネコミミフェチ? ま、思ったより似合っ
てたけどさ﹂
まぁ⋮それは認める。
眼鏡とかで隠れてるか男の格好だから全く気にしてなかったけど、
皐月ってちゃんと女の子すればけっこう可愛いんじゃない?
今までとのギャップもあるし、律義に照れながら﹃ご主人様﹄とか
﹃にゃー﹄とかって言ってるし⋮。
皐月の呆れた態度に会長は?と首を傾げる。
とても可愛らしい。普段は綺麗でしっかりしてるけど、たまにする
幼い動作とかもいい。てゆーかあたしが男なら求婚するね。
﹁あら? 小枝子、どうかしたの?﹂
ソファに転がした小枝子に気付いた会長が心配そうに小枝子の額に
857
手をあてる。
いや、熱はないし。というか本当に覚えてないんですか。
﹁あー、まぁ大丈夫なんで放置してください﹂
﹁そうなの? けどせめて保健室で寝かせてあげなさいよ﹂
﹁そう⋮ですね。大丈夫だとは思いますけど⋮皐月様、あんたが運
びなさい﹂
﹁えー?﹂
﹁他に誰がいるのよ﹂
まぁ、あたしもおぶって運ぶくらいできるけど。皐月が原因だし。
小枝子だって皐月のが嬉しいだろうしね。
﹁わかった。行けばい︱﹂
﹁行けばいいけど、服、着替えてからにしなよ﹂
普通にそのまま小枝子を抱えようとする皐月に注意する。
メイド服のままで行くとか、それなんのサービス?
﹁あ、そっか﹂
﹁バカ。今から仮装衣装見せてどうすんのよ﹂
﹁あー⋮⋮とりあえずこの衣装は却下な﹂
気まずげに言う皐月は、もしかして着替えといて当日に練り歩くこ
と考えてなかったとか? ⋮⋮⋮⋮まさか、ねぇ?
皐月はカーテンでしきって中でごそごそ制服に着替えだす。
思いっきり開けたらどんな反応するのかな? ﹃きゃあ!﹄って胸
隠す? それとも﹃何か用?﹄って堂々とお披露目?
858
﹁ねぇ紗理奈様﹂
﹁なに?﹂
くい、と裾を引っ張られて視線を向けると上目使いの小学生がいた。
とっても可愛いけど、ロリっ子は中身もロリじゃなきゃ嫌なあたし
にとってヒロは対象外です。
悪戯っ子な笑みの手招きにつられて何々?とあたしは耳をよせる。
対象外なだけあってヒロとはそれなりに良好な関係を健全に結んで
るつもりだ。
特に皐月がきてからは、皐月に悪戯︵嫌がらせじゃないよ︶を一緒
にするのに親しくなった。
﹁カーテン開けません?﹂
﹁さすが相棒。あたしも考えてた﹂
﹁ツーカーですね﹂
にっこり笑うヒロに、最近偽笑いがへって可愛くなったよなぁと思
いつつあたしはそっとカーテンに近付いた。
○
859
び、びっくりしたぁー⋮
皐月の思いもよらないメイド服の似合いっぷりとネコミミを組み合
わせた姿に、めちゃめちゃ可愛い!と思って言葉を失ったらいつの
間にか皐月と密着していた。
自分でも言ってることがおかしいと思うけれど⋮気にしないでおく
わ。
﹁あら?﹂
皐月から離れると何やら小枝子が倒れていた⋮⋮いつの間に?
おかしいわね。⋮この年で痴呆とかは遠慮したいわよ。
結局小枝子は皐月が運ぶことになり、皐月は着替えのため仕切りの
向こうに。
う∼ん⋮皐月って案外女の子っぽい服が似合うのよねぇ。
たぶん⋮長い髪が違和感なくさせてるのよね。皐月君の髪型だった
らたぶん、同じ人と判ってても違和感感じそうだし。
﹁せー、の﹂
ん? 二人は何をやってるのかしら?
﹁とりゃ!﹂
﹁開けるわよ!﹂
﹁はいィ!? ちょっ、何してんだてめぇら!﹂
皐月がストリップをしていた。
860
あの二人のイタズラも困ったものね。⋮弘美は、イタズラは止めた
と言っていたような?
﹁いや、隠そうよ﹂
﹁勝手に開けて言うセリフがそれか!﹂
﹁あんたの怒鳴るだけの反応も飽きてきたわね﹂
﹁俺は芸人か! リアクションに期待するんじゃねぇ!﹂
⋮⋮何やってるんだか。
﹁う、う∼ん﹂
あ
﹁小枝子、目が覚めたのね。大丈夫?﹂
﹁七海様⋮あれ? 私、どうして寝てるんですか?﹂
﹁さあ⋮私にもわからないわ﹂
﹁う∼∼ん、何かとてもいいことがあった気がします﹂
﹁そう。思い出せるといいわね﹂
﹁はい﹂
﹁あれ、小枝子、起きてたのか﹂
着替えが終わったらしい皐月がやってくる。
﹁うわ、小枝子、間が悪い﹂
﹁え?﹂
﹁残念ね﹂
﹁え? あの、何があったんですか?﹂
﹁いや別に。お前を保健室に運ぼうって話してただけだし﹂
﹁あの、もしかしてもしかすると皐月さんが私を運んでくださると
861
か?﹂
﹁そうだけど?﹂
﹁⋮⋮﹂
小枝子はわかりやすく落ち込んだ。
いやそんな⋮どちらにしても、意識がないまま運ばれても意味がな
いでしょう。
﹁そうだ! 私がもう一度気絶するから運んでください﹂
﹁ナイスアイデア、みたいな顔してるとこ悪いけど、バカ過ぎる﹂
﹁小枝子様って、皐月様が関わるとバカになりますよね﹂
﹁⋮⋮小枝子、あなた頭大丈夫?﹂
いくら何でも目的と手段がめちゃめちゃ過ぎる。
皐月も好意を表されているとはわかっていても呆れるようで、複雑
そうな目で小枝子にため息をつく。
﹁⋮運ぶくらいしてやるから、そういうキャラに合わない発言はし
ないでくれ﹂
﹁おことばですが皐月さん、私は皐月さんの善意で触れ合いたいの
です。決して、私の我が侭でして欲しいのではありません﹂
﹁⋮あー、そう﹂
﹁⋮⋮ですが、皐月さんがいいと言うならして欲しくならないわけ
ではないような気もします﹂
﹁ちょ、それなんてツンデレ!? 皐月モテすぎ!﹂
﹁ち、違います! 私は素直キャラです!﹂
﹁えー?﹂
﹁皐月さんまで!? う、嘘でしょう? 私がツンデレ!? 弘美
さんじゃあるまいし⋮﹂
862
訳のわからない会話に、私は3人を横目にオレンジジュースを飲み
だした弘美の隣に行って耳打ちする。
﹁⋮⋮弘美﹂
﹁何ですか?﹂
﹁つんでれって何?﹂
﹁ヒロです﹂
﹁そう⋮﹂
全く意味がわからないわ。
え? 悪口ではないのよね? 本人認めてるし⋮⋮けど小枝子の言
い方だと﹃つんでれ﹄なのが嫌っぽい。
会話から性格とか特徴を表してる単語らしきことは推測できるけど
⋮⋮改めて聞くのは何となく恥ずかしいわ。
﹁まぁ⋮自覚したのは最近、というか前は本気で嫌がらせですから。
そこは誤解しないでくださいよ、七海様﹂
﹁ええ⋮﹂
ええ⋮意味がわからないから誤解しようがないわ。
﹁⋮意味わかってます?﹂
﹁え⋮⋮イエスと言うと語弊がある気がするわ﹂
﹁⋮七海様も大概というか⋮⋮ツンデレってのは⋮まあ七海様に分
かるよう言えば⋮⋮う∼ん、照れ屋と言うか意地っ張りと言うか、
負けず嫌いとか強気と言うか⋮自分の意思と逆なことをする人のこ
とですかね。たぶん﹂
﹁ふぅん⋮確かに弘美は強気よね﹂
863
わかったようなわからないような気もするが、まあ別にわからなく
ても生活に支障はないわよね。
﹁∼∼﹂
﹁?﹂
弘美は何かぶつぶつ呟きながらため息をついた。
何か、私、弘美を落ち込ませるようなこと言ったかしら?
○
﹁確かに弘美は強気よね﹂
七海様の発言にそこかよ、とツッコミたくなったけどしない。
七海様のことは嫌いか好きかなら好きだけど、得意か苦手かなら苦
手だ。いや、得意というのは変だけどそれはともかく。
⋮⋮七海様は、皐月様のことどう思ってるのかな?
嫌いではないだろうけど⋮もし気があったらやだなぁ。
だって少なくとも見た目は皐月様の好みみたいだし⋮⋮いや、ヒロ
だってまだ成長の余地があるはず⋮!
⋮⋮⋮⋮む、虚しいっ。虚しいわ。去年から何の成長もない体が今
は恨めしい。
864
いや、逆に考えるのよ。
ヒロが成長するんじゃなく、皐月様をロリコンにすればいいんじゃ
ない。我ながら天才ね!
⋮⋮⋮自分でロリとか。一才しか違わないのに。何だっつーの。
皐月様のせいでヒロのアイデンティティーが⋮⋮⋮止めた。
こういうのは考えないほうがいいわ。
うん、絶対に、ヒロが高校生に見えないなんて認めない。てゆーか、
そんな事実はないわ。
ヒロにとってはない。そういうことなのです。
誰に言ってんのかしら。まぁ、いいや。
﹁皐月様﹂
﹁から、ん? 何だ弘美?﹂
﹁確かにヒロは若干ツンデレかも知れないけど﹂
﹁ヒロ、謙遜はいけない。ヒロは立派なツンデレだから自信を持︱﹂
﹁紗理奈様、そういうのはいいですから﹂
だいたい⋮ヒロはそんなに素直じゃなくない⋮はず。
少なくとも、皐月様にちゃんと気持ちを伝えられるって。
﹁で? 何だよ?﹂
﹁そう、ヒロはツンデレが多少入ってるかも知れないけど、自覚し
たからには手を抜かないからね﹂
﹁⋮は? え? どゆこと?﹂
﹁皐月様が好きだから、ヒロを好きにさせてみせるよ。小枝子様に
865
は悪いですけど、ね﹂
﹁⋮⋮!﹂
ヒロの言葉に皐月様はかっと赤くなる。
二度目の告白で赤くなるってことは、少しは希望があるのかな?
﹁⋮な、なんなんだよ唐突に﹂
﹁確かに⋮一瞬で場の空気が変わったね。ヒロ、恐ろしい子⋮!﹂
﹁だって、皐月様は普段全然意識してないし。こまめに言ったほう
がいいかなって﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月さん! 好きです! 愛してます!﹂
ヒロの言葉に触発された小枝子様が挙手をしながら告白をする。
自分で作っておきながらだけど、なにこのカオス空間。
﹁う⋮うああああ!﹂
あ、逃げた。
顔を真っ赤にして空気に耐えられなくなった皐月様は逃亡した。
う∼ん⋮小枝子様でも赤くなってるし、凄く微妙ね。
﹁あーあ、二人して何してんのさ。皐月はへたれなんだから、二人
きりの時に逃げられないように攻めなきゃ駄目だよ﹂
紗理奈様の言うことはわかるけど、ヒロとしてはあんまり皐月様を
追い詰めたくないんだよね。
866
逃げ道は残しておかなきゃ、皐月様ってすぐ潰れそうだし。
﹁⋮⋮とりあえず服を片付けなさい。仕事するわよ﹂
﹁はーい﹂
七海様に紗理奈様が陽気に返事をし、ヒロと小枝子様も頷いて部屋
を片付けだした。
○
二人から突然告白され、混乱のあまり逃げだしてしまった。
何がなんだかわからないが、すげー戻りずらい。
というか、本当になんなんだ弘美は。いきなり告白とか意味がわか
らない。
一人でもヤバい、てかハズイ、てか⋮⋮いたたまれない? ちょっ
と違うがとにかく告白なんかされたらどうしたって混乱するのに、
二人同時とかなんの攻撃だよ。
﹁う∼⋮けど、戻らないとだし﹂
く⋮何なんだ。普通は告白する方が恥ずかしいものじゃないのか。
とはいえ、このまま寮に帰ったら七海に怒られるのは目に見えてい
る。
867
それは無理だ。無理というか嫌だ。
つまり、選択肢なんてないわけだ。
﹁あのー、ただいまです﹂
ひょい、とドアから顔だけ覗かせると中はすでに服は片付けられ、
段ボールがすみに積まれてる以外はいつも通りだ。
というか、いつも通りすぎだろ。
すでに仕事始めてるとか早いよ。俺だけさぼってるみたいじゃん。
﹁おかえりなさい。遅いわよ。仕事はいくらでもあるのだから、遊
ばないの﹂
ならそもそも始めから着せ替えをOKするなよ。と言いたいが、ど
うせ七海に言い返されるのが目に見えてるからやめた。
﹁はいはい。ついでにジュース買ってきたんでわけてください﹂
﹁あら、気がきくわね。私のは冷蔵庫に入れておいて﹂
﹁ヒロのはいれて﹂
﹁はいはい﹂
弘美の前にはコップにオレンジジュースをそそいで置く。
あとは冷蔵庫にいれてかわりに紅茶をいれ、俺は言いつけられた雑
用のために再び淑女室を飛び出した。
○
868
869
弘美は若干ツンデレ︵後書き︶
皐月には告白されても日常に戻るのが普通です。それに弘美が気づ
いてこまめにアピールしようとする、というのを書きたかったんで
す。
いわゆるデレ期ですね。これからは理不尽な暴力はなくなる⋮はず
です。
870
七海の意外な弱点
﹁ん?﹂
﹁? 皐月さん、どうかしましたか?﹂
食堂から淑女会室に二人で向かう途中、突然立ち止まり辺りを見回
す皐月さんに私は首を傾げる。
﹁いや⋮なんか聞こえないか?﹂
﹁はい? ⋮⋮⋮えっと、普通のざわめきが聞こえます﹂
﹁そうじゃなくて⋮鳴き声、だと思う﹂
﹁泣き声ですか?﹂
﹁ああ﹂
言われて耳をすませてみるけれど、話声や歩く音や物音、木々のざ
わめきや鳥などの鳴き声しか聞こえない。
﹁特に⋮聞こえませんけど⋮って皐月さん?﹂
皐月さんは私が答えるより早く脇の林に入っていく。
﹁ま、待ってください﹂
皐月さんについて道をそれ、私も林に入る。
﹁にゃー⋮﹂
入っていくと、中ほどで頭上から聞こえた鳴き声に足を止める。
見上げて探すと小さな猫が木にのり、こちらを見ながら鳴いていた。
871
﹁あ⋮﹃鳴き声﹄、でしたか﹂
﹁? そう言っただろ。⋮⋮もしかして、降りれないのかな?﹂
﹁そうですね⋮でも、猫ですし大丈夫じゃないでしょうか。助けよ
うとした瞬間、自力で飛び下りたりしますよきっと﹂
﹁まあ⋮その時はその時だよ。助かるならどっちでもいいし﹂
そう言うと皐月さんはするすると木を登り始める。
え!? ⋮⋮⋮ああ、そうですよね。皐月さんみたいな活発な人が
スパッツをはくのは常識ですよね。
﹁ほら、よ∼しよし、いい子だからこっちおいでー﹂
容易く猫と同じ高さまで上った皐月さんは手を伸ばして猫撫で声を
だす。
わざとらしい高めの声も可愛らしい、と思ってしまった私はもはや
完全に皐月さんが女の子なのを受け入れています。
どうしてでしょう?
﹁フーッ﹂
警戒する猫に皐月さんは手のひらを差し出す。
﹁フカーッ﹂
﹁あっ﹂
猫は警戒のあまり皐月さんに爪をたてて噛みついて、私は思わず声
をあげる。
872
﹁よーしよしよし﹂
﹁⋮⋮にゃあ﹂
それに構わず皐月さんが抱き上げると、猫は噛むのを止めた。
﹁にゃ∼﹂
﹁よしよし、いいこいいこ。おりるから大人しくしろよー、っと﹂
皐月さんは猫に声をかけながらひょいと木から飛び下りた。
相変わらず皐月さんの運動神経は凄い。毎日トレーニングもしてい
るみたいだし。
﹁へへ、小枝子、任務完了だっ﹂
﹁はいっ﹂
あ⋮、思い出しました。
私が皐月さんを好きなのは、優しいからでした。
どうして忘れてたんでしょう。凄く今更です。そんなの前からわか
ってたのに。
時々、どうして好きなのかわからなくなります。
まるで好きな気持ちだけがあって理由がないような気になります。
どうしてでしょう?
﹁皐月さん﹂
﹁んー?﹂
猫とじゃれる皐月さんが可愛くて私は破顔する。
873
﹁大好きですよ﹂
訳がわからないまま、私は先日の弘美さんの意見を取り入れ、素直
に伝えた。
﹁ぅ、ええ!? な、なに急に!?﹂
一瞬逃げてしまうかと不安になったけれど、皐月さんは顔を赤くし
ただけで視線を泳がせながら問いかけてきた。
﹁いえ、急に言いたくなったんです。それだけですよ﹂
﹁そ、そう⋮。じゃあ⋮ありがとう、小枝子﹂
﹁っ、はい!﹂
やっぱり、好きです。
どうしてこんなに、いっそ狂おしいほど好きなのか、自分でもよく
はわかりません。
だけど⋮それでいいのかも知れません。
優しいとかかっこいいとか綺麗とか、そんな理由がなくても、私が
皐月さんを好きなことには変わりありません。
きっと、恋してるってこういうことです。
だからもう考えるのはやめにします。
私はにっこり笑って言う。
﹁行きましょうか﹂
﹁おう﹂
874
○
﹁おはようございまーす﹂
挨拶をしながら部屋に入ると3人の視線が何気なく俺に向き、止ま
った。
﹁おはようという時間ではな⋮いわよ。あなた⋮﹂
﹁二人とも遅かっ⋮⋮え、なに連れてきてんの?﹂
﹁わっ、可愛い! ヒロにも持たせて!﹂
ぴょんとソファから飛びあがって猫に手を伸ばす弘美。
﹁ふかーっ﹂
﹁とっ、待て!﹂
だけど猫が警戒してか声をあげるから、慌てて弘美の手が届かない
ように高く上げる。
弘美に噛みついたりしたら俺がどんな目にあうかわからない。
﹁貸してよー﹂
﹁ちょっ、いたっ﹂
弘美のためにしているというに、俺をかがませようと脛を蹴ってく
875
る。
つか力は弱いが地味に痛ぇから! バカスカ蹴るな!
﹁やめろって!﹂
﹁⋮ヒロ、やめなさい﹂
﹁えー?﹂
騒いだせいか怒り気味の七海の言葉に不満そうにしながら弘美がひ
きさがる。
ふぅ、というか弘美ががっつくほど猫は怯えるんだよ。
﹁皐月、淑女室は動物小屋ではないわ。帰してきなさい﹂
﹁まぁまぁ会長、ちょっとくらいいいじゃないですか。とりあえず
座りなよ。どこで拾ってきたの?﹂
﹁ん、まあ⋮ちょっとな﹂
答えながらいつものように弘美の隣に座る。
七海は不快そうに眉を寄せて俺、というか猫を見る。
動物は結構好きなくせに。厳しいやつだなぁ。
﹁ねぇ、ヒロにも抱かせなさいよー﹂
うずうずと手を出してくるが、猫は警戒したままなので高い高∼い
の状態だ。
﹁待て待て! 興奮するな! 猫が怯えてるだろ!﹂
﹁⋮わかったわよ。⋮⋮ふぅ﹂
﹁よし、落ち着けー、ぐるぐるー﹂
876
ぐりぐりと頭を撫でると警戒をやめた猫はぐるる∼と喉をならす。
﹁よしよし∼、うん、もういいだろ。弘美﹂
﹁うん!﹂
弘美にそっと渡すと弘美は嬉しそうに猫を抱く。
﹁あぅ∼、可愛いにゃ∼﹂
見た目相応な反応に和む。
﹁すみません、遅れました﹂
﹁小枝子、遅かったわね⋮⋮⋮それは?﹂
小枝子が頼んでおいた猫用のご飯を持って入ってくると、何やら七
海が乾いた笑みを浮かべた。
ん? そういえば何となく、さっきから七海の顔がひきつってたよ
うな?
﹁え? めざしですよ?﹂
﹁っ⋮、いますぐ、その猫を、元いたところに戻しなさーい!!﹂
ドン!
と机を叩いて七海が立ち上がりながら言った。
その突然かつ物凄い迫力に一瞬しーんとなる。
﹁あ、あー⋮もしかしてずっと怒ってたんですか?﹂
﹁ああ!? 怒ってないとでも思ったのかしら!? ねぇ!? う
ちは、動物禁止なのよ!﹂
877
恐る恐る聞くとガラ悪くキレられた。
え、何でそんなにキレてんの?
﹁か、会長?﹂
﹁⋮さっさとどこかへやって﹂
﹁な、なんでそんな酷いこと言うんですかー!? 七海様の鬼蓄!
猫ちゃんはこんなに可愛いのにぃ!﹂
立ち上がり力説する弘美。
おわ、弘美は弘美でいつになく興奮してるな。薄々気づいてたが、
やっぱり弘美は猫好きらしい。
﹁きゃっ、やめなさい! 近づけちゃダメよ! ダメぇ!﹂
﹁⋮⋮え?﹂
七海のあまりの拒否っぷりに、猫を抱いたまま固まる弘美。
﹁な、もしかして会長⋮猫が嫌いなんですか?﹂
﹁そういう問題じゃないわよ! とにかくダメなの!﹂
﹁はは∼ん、さては七海様! ネコミミが好きすぎて生身の猫ちゃ
んは刺激が強すぎるタイプですね!﹂
﹁どんなタイプよ! そんなわけないでしょう!!﹂
うん、それはない。てゆーかネコミミが好きすぎての意味がわから
ないから。
たぶん誰もがないと思っただろうが、弘美にとってはそれが当たり
前らしく、にやにやしながら猫を両手で持ち上げ七海に近づける。
﹁いやぁあ!﹂
878
﹁⋮え?﹂
すると、七海はまるで蛇口をひねったみたいにボロボロと泣き出し
た。
あまりな事態に室内の時間が止まる。
﹁っくしゅん! くしゅ、はくしゅっ、しゅん! くしゅんっ﹂
さらに七海はくしゃみを連発しだした。七海はくしゃみをしながら
部屋のすみに避難する。
俺は慌てて何が何だかわからずに固まってる弘美を引っ張って七海
から離し、窓をあけた。
﹁くしゅっ、う∼∼っ、だから猫は嫌なのよ!﹂
えーと⋮つまり、猫アレルギーですか?
﹁えっと⋮⋮ごめんなさい﹂
弘美が呆然としながらも謝罪する。
いやまぁ、さすがに分からないって。だいたい猫アレルギーって同
じ部屋も駄目なんじゃないのか? なのに近付いた途端にあれは⋮
極端すぎないか。
﹁ぐす⋮いいから、返してきなさい。あと手を洗いなさい﹂
﹁はーい﹂
こればかりは仕方ないので素直に俺たちは頷いた。
俺は弘美と小枝子から猫と餌を受け取り部屋を出た。
879
○
﹁っくしゅ、うう⋮酷い目にあったわ﹂
﹁まぁまぁ、知らなかったんですから仕方ないじゃないですか﹂
紗理奈が渡してくるハンカチを受け取り、涙をぬぐって鼻をかむ。
ああもう⋮最悪だわ。あんな姿をさらすなんて⋮。はぁあ⋮。
﹁七海様⋮ごめんなさい﹂
﹁申し訳ありません。大丈夫ですか?﹂
﹁もういいわよ﹂
本音を言えばヒロには思うところはあるけれど、本人が反省してる
なら怒っても仕方ない。
紗理奈にハンカチを返してから換気してた窓をしめる。
﹁ふぅ﹂
﹁もう大丈夫なんですか?﹂
﹁ええ、同じ部屋にいなければ大丈夫よ﹂
あの猫が部屋にきた瞬間から鼻がむずむずしていらいらしたけれど、
いなくなればもう大丈夫だわ。
﹁でも⋮七海様、可哀想です﹂
880
﹁は?﹂
しょんぼりと言うヒロに私は首をひねる。
突然なにかしら。追い出した猫が可哀想、とかならまだわかるけれ
ど。私?
﹁だって⋮七海様、猫に触れないどころか同じ部屋にもいられない
んでしょう? 可哀想にもほどがあります。もしヒロが猫アレルギ
ーなら⋮⋮死にます﹂
﹁それはいいから。私別に、猫好きじゃないから大丈夫よ﹂
というか、そんなことで死なないでよ。ヒロは時々、妙なことを言
うわね。
﹁だいたい私、犬派だし。たとえ世界から猫がいなくなったって、
むしろせいせいするくらいよ﹂
﹁⋮⋮七海様は今、全国一千億人の猫派を敵にまわしました﹂
﹁そんなに人類はいないわよ﹂
﹁心の問題です。たとえばヒロなら一人で1億人分くらい猫が好き
です﹂
﹁千人は逆に少ないような⋮﹂
﹁もう! 七海様は理屈っぽすぎます! そんなのだから偏屈女と
か言われるんです!﹂
﹁言われてないわよ!﹂
というかヒロ、あなた私のことそんな風に思ってたの!?
﹁言ってます! 具体的に言うと⋮皐月様! 皐月様が言ってまし
た!﹂
﹁な⋮んですって﹂
881
皐月が、私を偏屈だなんて⋮⋮そんな⋮⋮⋮⋮⋮言いそうだわ。
﹁﹃全くあいつはとんだ偏屈女だぜい﹄とか﹃融通の聞かない野郎
だぜよ﹄とかって言ってたもん!﹂
﹁⋮⋮い、言わないわよ! 嘘を言わないの!﹂
か、仮に! 仮に思ったとしても陰でヒロに言うなんてないわよ!
ないったらないのよ!
﹁本当だもん! 七海様の偏屈!﹂
﹁あなたが幼稚なのよ! いつまでも小学生気分でいるのはやめな
さい!﹂
﹁カチーン! 今のは怒りますよ七海様! 誰が小学生ですか!﹂
﹁あなたよあなた! 体が未発達でもせめて心くらい大人になりな
さい!﹂
﹁∼∼っ、ちょっと胸があるからって調子にのらないでください!
もう七海様なんか知らないんだから!﹂
﹁ああもう! そこが子供だって言ってるの!﹂
﹁子供だも∼ん! 七海様みたいなおばさんにはヒロの気持ちなん
か分からないんです!﹂
﹁おばっ⋮もう、出ていきなさーい!!﹂
﹁こっちから出ていってやりますよ!!﹂
弘美は小さな体をいからせて乱暴に部屋から出ていった。
﹁はぁ、はぁ⋮っ。ああもう! 紗理奈! 小枝子!﹂
﹁はい!﹂
﹁なんでしょう!?﹂
882
私は興奮してあがった息を整えながら何故か姿勢をただして返事を
した二人に言う。
﹁仕事するわよ。抜けたことで手が回らないなんて、許さないわよ﹂
﹁は、はいぃ!﹂
ああもう、何なのよヒロは!
皐月も皐月よ! 私に文句があるなら直接言えばいいじゃない! なんでヒロに言うのよ!
本当に腹がたつわ!!
○
883
七海の意外な弱点︵後書き︶
ちょっと展開が急ですかね?
喧嘩させる予定はなかったんですが、弘美と七海の関係も整理して
おこうかと思いまして。
文化祭まで結構あるので。
ちなみに作者は猫派です。
884
弘美の妹キャラは無敵
猫を外に放して戻る途中、曲がり角で小さいものがぶつかったかと
思うと盛大に転んだ。
﹁いたたた、ちょっと、どこ見てんのよ! ⋮ってなんだ、皐月様
か﹂
弘美だった。
何だか知らないが荒れてるなぁ。俺と知る前から猫をはがしまくり
だ。
﹁自分からぶつかってきてなんだとはなんだ。ほら﹂
﹁⋮ん﹂
手を差し出すと素直につかんで立ち上がったが、やはり不機嫌だ。
今はいないとは言え、廊下という誰がくるか分からない空間で大き
な声で悪態をつく弘美なんて初めて見る。
﹁何見てんのよ﹂
﹁いや⋮用事か? 手伝おうか?﹂
﹁⋮⋮そうじゃないけど⋮よし、あんたさっきの猫ちゃんどこにや
ったのよ。案内しなさい﹂
﹁え、いいけど⋮仕事はいいのか?﹂
﹁いいの! ⋮七海様がさ、今日は仕事が少ないからヒロと皐月様
は休憩でもいいわよって言ったの﹂
﹁ならいいけど⋮﹂
何で? 猫に気をつかってくれたのか? ⋮いや、ないだろ。
885
﹁行くの? 行かないの?﹂
﹁い、行く﹂
嘘か本当か分からないが、この状態の弘美を一人にするのも気がひ
けるしな。
﹁それでいいのよ。さ、行くわよ﹂
﹁ああ﹂
弘美が嬉しそうに目を細め、まぁ最悪七海に後で怒られるだけだろ
と俺は再び外に向かった。
○
助けて、ドラえ○∼んと青い狸に向かって叫びたいくらい空気が重
いです。
けど口にしても怒られるだけだから言いません。てか言えません。
カリカリ、と事務仕事のための鉛筆音が静かな部屋に妙に響く。
あー! ダメだ! もうこの雰囲気に堪えられない!
﹁あー⋮皐月、遅いですねぇ﹂
﹁そ、そうで︱﹂
﹁あんな子、戻らなくったっていいわよ。弘美とずいぶん仲がいい
886
みたいだし、遊んでるんでしょう﹂
小枝子が少しでも雰囲気をよくするために多少ぎこちなくも微笑ん
でくれたのに、会長が見もせずにすっぱりと切り捨てる。
てゆーか、完璧に勘違いしてるよね。
﹁会長、皐月はあんなこと言ってませんよ。ヒロの創作です﹂
﹁え⋮⋮⋮そ、そんなの分からないじゃない﹂
﹁わかりますよ。会長は、皐月が陰口言うような人だと思ってるん
ですか? 皐月を疑うんですか?﹂
﹁そ⋮⋮⋮⋮⋮そういう、わけじゃ⋮ない、わよ。けど⋮あの子な
ら言いかねないわ﹂
まぁ、陰口ってわけではなくても目の前にいてもいなくても普通に
いいそうだよね。
けどさ、あの口調はおかしいでしょ。﹃だぜよ﹄とか、言わないし。
明らかにヒロの創作だし。
﹁とにかく、皐月が戻ってきても八つ当たりはしないでくださいよ﹂
﹁そんな子供みたいなことしません﹂
敬語になってる自体であやしい。会長は時々子供じみるからなぁ。
特に最近、皐月に関しては妙にムキになるとこあるし。
﹁さ、皐月さん、遅いですねぇ﹂
﹁そうね⋮ちょっと連絡してみましょうか﹂
会長はようやく怒りをひそめて落ち着いた様子で携帯電話をとる。
887
ふぅ、全く。ヒロも、あんなにムキになることないよね。
小学生みたいって、最初は行動のこと言ったのに体までいれて怒る
し。
会長は会長で否定するどころかさらに言っちゃうし。
しかし⋮久しぶりに凄い喧嘩だったなぁ。
この学園で喧嘩なんて言ったって滅多に派手にはならないし。そも
そも、会長に言い返せる人が少ないもんなぁ。
﹁⋮⋮でないわね﹂
ん? 皐月、本当になにしてんだろ?
○
﹁にゃ∼ん、可愛い∼!﹂
お前が可愛いわ! ⋮⋮は、危ない危ない。あやうく口に出しそう
だった。
猫を抱き上げて頬擦りする弘美は、普段の小憎らしさはなりを潜め、
愛らしさ全開だ。
﹁お前はほんとに可愛いにゃあ﹂
﹁そうだにゃあ﹂
888
思わず俺も猫語になる。
﹁ふふっ。さすが皐月様、どこぞの堅物と違って猫ちゃんの可愛さ
がわかるのね﹂
﹁そりゃ可愛いが⋮⋮堅物って?﹂
﹁そ・れ・は、﹃な﹄で始まって数字が入ってて最後が﹃み﹄な名
前で皐月様も知ってる人のことよ。ちなみに漢字二文字﹂
とってもいい笑顔で言われた。綺麗な笑みだけに引く。
てゆーか、具体的過ぎて他の人が思いつかない。もう普通に名前言
えよ。
﹁七海と喧嘩でもしたのか?﹂
﹁あら、よく七海様ってわかったわね。言いたくなかったけど、バ
レてしまっては仕方ないわね﹂
﹁お前なぁ⋮⋮まぁ、いいけど。で? 何があったんだ?﹂
﹁そう! 聞いて! 七海様が猫は滅べばいいとか言うのよ! 酷
すぎるわよね!? 地獄に落ちて欲しいわよね!?﹂
﹁ちょ、最後の一言のせいで同意できないんだけど。落ち着け﹂
なんという物騒な。まぁ、でも滅べというのも過激な発言だが⋮⋮
本当に七海がそんなこと言ったのか?
﹁全く、七海様の頭の堅さには頭が下がるわ﹂
え∼? 確かに七海は規則に厳しいとこはあるけど、何が何でも絶
対!ってわけじゃなくて柔軟さだってある。
﹁えー、七海が本当に滅べばいいとか言ったのか?﹂
﹁⋮ヒロを疑うわけ?﹂
889
﹁そ、そうじゃないけど﹂
弘美はちょっとこう、思い込みが激しいというか、怒ると回りが見
えなくなるからな。
﹁そうじゃない! なによ! どうせヒロは小学生体型よ!﹂
殴られた。
そんなこと言ってない。何で俺が怒られてんの?
﹁⋮⋮い、いや⋮そ、そんなとこもカワイイヨ?﹂
﹁ふん⋮棒読みで世辞なんか言ってんじゃないわよ﹂
﹁あう⋮﹂
﹁ああもうムカツクー!﹂
ふぎゃーー!
﹁ああっ!? ご、ごめんにゃあ﹂
怒りにまかせて猫を抱く手に力をいれたらしく鳴き出す猫に、弘美
は逆立ててた眉を真逆に垂らして謝罪する。
なんて差別。猫にだけ優しいとは。極一部にだけデレすぎる。
俺のこと好きなんじゃないのか⋮あ、嘘。弘美が普段から優しいと
気持悪いな。
﹁あんた、なんか失礼なこと考えてない?﹂
﹁メッソウモナイ﹂
何でいつもこいつら鋭いんだよ。しかも悪口に限って。
﹁顔にでてんのよ﹂
890
﹁⋮もうなんつーか、鏡が見たくなるわ﹂
どんな顔なんだよ。真面目にポーカーフェイスの練習とかした方が
いいのか。
﹁ねぇ﹂
﹁ん?﹂
﹁あんた、七海様のこと好き?﹂
﹁あ!? ⋮あ、まぁ。好きだよ?﹂
﹁⋮死ねばいいのに﹂
﹁はいぃ!?﹂
﹁てゆーか消えればいいのに﹂
何でいきなり存在否定されてんの!?
﹁何でだよ!﹂
﹁だって七海様のこと好きなんでしょ?﹂
﹁お前のことだって好きだよ!﹂
﹁⋮⋮ヤバい﹂
﹁あん?﹂
﹁深い意味ないってわかってても嬉しいんだけど⋮﹂
﹁⋮⋮ああ、その。なぁ。うん⋮妹みたいなもん、だからさ﹂
だからそういう態度されると、凄く困る。可愛いだけに、困る。
弘美は顔をわずかに赤くしたままふん、と小さく鼻をならし上目使
いに睨んでくる。勿論、可愛くて全く恐くない。
﹁うっさい。わかってるわよ﹂
﹁ああ⋮と、とにかく。七海を好きなのだって、深い意味なんてな
891
いって﹂
﹁⋮⋮あんたがそう思うなら、いいけど﹂
﹁だろ?﹂
ん? ﹃思う﹄? 言うならじゃなくて? ⋮⋮まぁ、どっちも一
緒か。
ブルブル︱とスカートのポケットが震えた。ここには携帯電話が入
っている。
﹁あ、七海から電話だ。ちょっと待ってろ﹂
取り出すとサブディスプレイに七海の名前があり、弘美に断りつつ
折りたたみ携帯電話を開き︱
﹁ダメ﹂
﹁って⋮返せよ。出なきゃ怒られるだろ﹂
何故か出る前に弘美に取り上げられた。
文句を言うと弘美は不満気に眉をよせてそのまま携帯電話を茂みに
投げた⋮っておい! お前、恐いものなしか!?
﹁⋮なにしてんだよ。後で怒られるのは俺なんだからな。てゆーか、
壊れてないだろうな﹂
﹁茂みに投げたから大丈夫よ。七海様のことは今日は忘れなさい﹂
﹁そういうわけにもいかないだろ。猫を連れて行ったのは俺だが、
今は準備期間で忙しいんだから﹂
﹁いいの!﹂
また子供みたいなダダを⋮こうなりゃ手がつけられないからなぁ。
892
﹁あのなぁ⋮﹂
﹁いいじゃない⋮い、妹の言うことが聞けないわけ?﹂
﹁弘美⋮⋮わかったよ。今日だけだからな﹂
俺は振動が止まった携帯電話を拾い、電源を切ってからポケットに
入れた。
﹁やたっ。あんがと、おねーちゃんっ﹂
﹁⋮おう﹂
か、可愛いじゃねーかちくしょう。
﹃おねーちゃん﹄か⋮⋮悪くないかも知れん。前は﹃娘﹄とか女を
意識される呼び方は嫌だったが、今はそうでもない⋮かも。
てゆーかぶっちゃけ、兄弟って憧れてたし。特に下の弟か妹が欲し
かったんだよな。
﹁で? 何する?﹂
﹁とりあえず、ねこじゃらし探しなさいよ﹂
﹁はいはい﹂
パシリですね。わかってました。どうせそんなことだろうと思って
ましたよ。
いいんだ。いいんだよ。可愛い妹のちょっとしたワガママくらい、
許容範囲だ。
﹁ほら、早くしなさいよー﹂
⋮許容範囲だ。
893
○
﹁んー、電源が切られてるみたいですね﹂
﹁何ですって﹂
ひょっとして私からだから出ないのかと紗理奈にかけさせたけれど、
そうではないらしい。
﹁いやぁ、どこで何をやってるんだか﹂
困りましたねーと紗理奈はのんびり言う。
もうっ、この忙しいのにあの子はなにやってるのよ。
そりゃ⋮あの子今まで頑張ってたし、1日2日くらいのんびりする
余裕はあるけれど⋮だからって、私の許可なくサボるなんて許され
ないわよ。
﹁全く⋮いいわ。仕事しましょう﹂
あの2人はもう、知らないわっ。ふんっ。私は悪くないわよ!
﹁はいよー。小枝子、備品申請のチェックした?﹂
﹁はい。いくつか不明瞭なものはまとめて書いてますから⋮こちら
です。見ていただけます?﹂
﹁おけおけ⋮んー、これは○かな。で×ぅ﹂
894
あの二人がいなくたって、仕事に支障なんてないんだから。
だから、いなくたっていいのよ。人が少なくて寂しいとか、皐月が
いないと物足りないなんて、絶対思ってないんだから。
○
﹁ねぇ﹂
﹁なんだい、妹よ﹂
気まぐれでねこなで声で﹃おねーちゃん﹄というと目の前のバカは
わかりやすく調子にのった。
んっとにわかりやすい。てか、ちょっと得意気なのがちょいイラつ
く。その芝居がかった口調とかやめろ。
﹁⋮⋮いや、飛び付かないよ?﹂
皐月様がとってきたねこじゃらしで散々遊んだ猫ちゃんは素早く立
ち去ってしまったから、とりあえず皐月様の眼前にふると目で追い
ながらも呆れられた。
﹁つまんなーい﹂
﹁言われても⋮戻らないのか? なんなら一緒に謝ってやるから﹂
﹁は? なんでヒロが謝らなきゃなんないのよ。七海様が謝らなき
ゃ、ヒロは折れないわよ﹂
﹁そう⋮﹂
895
皐月様は少し困ったように苦笑い。
その、まるでヒロがわがままを言ってるような態度がムカってきた
からヒロは皐月様を睨む。
﹁七海様がなに言ったか知らないからそんなことが言えるのよ﹂
﹁何言ったんだよ﹂
﹁七海様は、犬派なのよ!?﹂
﹁⋮それは個人の自由だろ﹂
逆恨みだとでも言いたげに呆れてる皐月様。
むむぅ、今のは言い方が悪かったわね。
﹁⋮とりあえず、寮に帰らないか? 話なら聞くから﹂
﹁⋮良いわよ﹂
猫ちゃんがいなくなったからって淑女室に行くなんて嫌だし、たと
えフラレてて全く脈なしでも、皐月様と一緒にいるのは好きだから
ヒロは頷いた。
あー、ヒロって一途∼。
○
896
仲裁も大変だ
ヒロの部屋はちょっぴりちらかってるから、皐月様の部屋に行くこ
とにした。
﹁皐月様の部屋、相変わらず少女趣味よね。嫌なら変えたら?﹂
﹁う∼∼ん、実は最近は気にならなくなってきた。これだけぬいぐ
るみがいたら寂しくもないしな﹂
部屋に入りながら言うと皐月様はベッドに座りながら答えた。
すっかり乙女じゃない。男装癖あるくせに。
まさかぬいぐるみに話しかけてないでしょうね⋮⋮それはそれで、
ありかも。
﹁ならいいけど﹂
サイドテーブルをはさんだ位置のソファに座る。
こいつ生意気だけどたまに可愛いのよね。
まぁ口調はあれだけど、ヒロに言わせれば皐月様は会った時から女
だったしね。小枝子様は違うみたいだけど。
﹁で、何で喧嘩⋮まぁ猫がらみなのは予想つくけど。何が原因でそ
んな怒ってるんだ?﹂
﹁んー⋮﹂
何で⋮と言われるとまぁ⋮⋮七海様が猫好きじゃないから? ⋮あ
れ、ヒロ、凄い言い掛かりじゃない? けど⋮あ、わかった。
897
﹁七海様、ヒロを幼児体型って言ったのよ﹂
﹁⋮それでか。さっきも聞いたし、それに事実じゃ︱ぶはっ!﹂
事実だとかほざくバカにはぬいぐるみを投げた。
﹁⋮⋮それは七海が悪いですね﹂
﹁そうね。いくら皐月様がバカでもわかるわよね﹂
﹁⋮こいつ、マジか﹂
小声で言ってるけど、聞こえてるから。まぁ、良いけど。脅したっ
て自覚あるし。
﹁ヒロはまだ成長途中なだけなのよ。わかるわよね﹂
﹁あー、まぁ、お前可愛いしな。成長しなくても大丈夫だって﹂
﹁誰がそっち側からフォローしろと!?﹂
マジムカツク。
成長するわよ! ⋮たぶん。あ、えと、おばあちゃん隠れ巨乳だし
! ⋮⋮ヒロは母方似だけど。
と、と・に・か・く!
﹁悪いのは七海様なの。オッケー?﹂
﹁そうかもな﹂
本当はわかってないでしょ。皐月様ってわりと七海様の肩もつし。
898
⋮気があるんじゃないでしょうね。いやまぁ、きっぱりフラレてる
ヒロがどうこう言うことじゃないんだけどさ。
﹁はぁ﹂
﹁? どうした? お腹へった?﹂
﹁違うわよ。あんたと一緒にしないで﹂
ため息=空腹とか、ヒロはどんな食いしん坊よ。そんなキャラした
ことないわよ。
﹁皐月様﹂
﹁何だ?﹂
﹁皐月様ってさ、恋とかしたことないんでしょ﹂
﹁ない﹂
何でちょっと自慢気なのよ。
﹁じゃあさ、一生独身でいるつもりなわけ?﹂
﹁お前と結婚するんじゃないのか?﹂
﹁え⋮⋮いや、まぁ⋮婚約してるけど⋮﹂
そりゃ、恋愛感情抜きにしたって、皐月様となら一緒にいて楽だし、
他の誰かを好きになることはなさそうだし、ヒロは嬉しいけど⋮⋮
けどさ。
﹁だからって⋮ちょ、調子にのらないでよね。婚約したくらいで結
婚できると思ったら大間違いよ﹂
﹁え∼⋮はぁ、ごめんなさい?﹂
何だかわかってなさげな顔で皐月様は謝る。
899
形だけの謝罪とか意味ないっての。⋮まぁ、かなりな勝手なこと言
ってるけど、ヒロってそういうキャラだしね。
﹁ヒロと結婚したかったら背は180以上で頭がよくて金持ちなエ
リートになりなさいよ﹂
﹁⋮じゃあ、紹介するか?﹂
﹁は?﹂
紹介? 何言ってんの?
﹁ほら、夏休みに二人ででかけた時に俺の友達に会っただろ? あ
いつらなら条件にぴったりだぞ﹂
﹁ばっ⋮﹂
バカじゃないの!! てか死んじゃえ!! しっんじらんない!
は!? ヒロが皐月様好きだってわかってんのに、何他の男紹介し
ようとしてんのよ!!
﹁ど、どうしたんだ? お⋮怒ってる?﹂
﹁⋮⋮怒ってないわよ﹂
マジムカツク。死ねばいいのにマジで⋮⋮嘘だけど。
ああ⋮でも本当に、今のはキタなぁ。意識されてないのはわかって
るけどさぁ。⋮⋮⋮凹む。
﹁⋮ごめん﹂
﹁理由もわかってないくせに謝らないで﹂
﹁⋮ジュースでも飲む?﹂
﹁⋮飲む﹂
900
皐月様はニブニブで乙女心わかんないし、仕方ないけどさぁ。
﹁ねぇ﹂
﹁何だ?﹂
二人分のカップにオレンジジュースを注ぎ、皐月様は改めてベッド
に座る。
﹁もしも、皐月様が恋をしたら⋮﹂
﹁してないって﹂
﹁もしもだって。もししたら⋮一番に教えなさいよ﹂
﹁は?﹂
﹁だから⋮ちゃんと応援してあげるから、相手、一番に教えんのよ﹂
﹁あ⋮え、だから、そんなのあり得な︱﹂
﹁いいから教えて。⋮⋮ね? お願い、おねーちゃん?﹂
ヒロが猫撫で声をだすと、ムキに否定しようとしてた皐月様もたじ
ろいだように頷く。
﹁わ⋮わかった﹂
ふふん。七海様だって、弘美がぶりっこしたら譲歩してくれるんだ
からね。あんたなんかイチコロよ。
﹁けどそんなの、ないと思うけどなぁ﹂
わかってないわね。それこそないわ。
というか、自覚がないだけでもうしてるんじゃない? 正直怪しい
のよね。
901
﹁とりあえず、ヒロに報告するのは忘れないでよね﹂
﹁わかった。忘れない。約束するよ﹂
﹁うん﹂
ならよし。﹃妹﹄ならこのくらい構わないわよね。
﹁そうだ。衣装だけど、決めたわよ。皐月様は?﹂
ヒロはジュースを飲みながら話をふる。
﹁ん、ああ⋮七海のにする﹂
﹁え⋮海賊、だっけ? ヒロのネコミミメイドはどうしたのよ﹂
﹁勘弁してください。いいだろ海賊。カッコイイし﹂
まぁ、いいけど。
皐月様はそれほど美形じゃないけど、偏りがないからわりと何でも
似合うのよね。
﹁お前は?﹂
﹁ヒロはよ⋮⋮⋮あ、良いこと考えたわ﹂
﹁?﹂
○
夕飯の時間で仲直りしてくれると思ったが、弘美は根に持っていた。
902
要するに、食堂で顔をあわせたくないからと俺に食事を運ばせた。
途中会った紗理奈に聞くと七海もまだ微妙に不機嫌らしい。
年上なんだから折れてやれよなー。と思いつつ、弘美と食べてから
部屋に返し、俺は食器を下げに向かった。
﹁あら⋮﹂
﹁ん? 七海、まだいたのか?﹂
﹁悪いかしら?﹂
む、いきなり喧嘩ごしだな。
全く、なにイライラして⋮⋮もしかして今日サボったから忙しかっ
たとか? やべぇ。忘れてた。
﹁えっと⋮ごめんなさい﹂
﹁?﹂
﹁いや、今日サボったから﹂
﹁ああ⋮良いのよ。ヒロといたのなら仕方ないわ﹂
﹁え⋮?﹂
﹁だって皐月は、ヒロが大好きなんだものね﹂
﹁は?﹂
え、何で笑顔⋮というか怒ってるよな?
﹁あの⋮七海さん? 私反省してます、ほんとに。できれば和解す
る方向でお話させていただけないでしょうか?﹂
﹁なに言ってるのよ? 私は、﹃いい﹄って言ってるの。怒ってな
いわよ?﹂
903
じゃあその額の怒りマークはなんだ! 取り付く島もない!
﹁えっと⋮じゃあ、七海さんのお部屋に行かせていただいてもいい
ですか?﹂
﹁⋮⋮いいわよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
よし。とりあえず落ち着いて話をつければ、七海ならわかってくれ
るだろう。
俺は食器を定位置に置いて七海と七海の部屋に行く。
途中何人かに挨拶されるが、七海は相変わらず猫かぶりと言うか、
不機嫌さをみじんもみせない笑顔で応えてる。
というか多分、機嫌が悪いのは挨拶してきた子には関係ないから見
せないだけなんだろうなぁ。八つ当たりになるし、七海はそういう
のが嫌いだから。
そのわりに俺には結構理不尽な気もするが、まぁ気を許してるんだ
と好意的に考えよう。悪く考えると悲しくなるし。
﹁入って﹂
﹁はい﹂
とりあえず俺の猫︵敬語モード︶は七海の機嫌が戻るまでは続けよ
う。
俺は出来るだけ七海や小枝子の動きを心がけて七海に続いて部屋に
入る。
904
﹁座っていていいわよ。紅茶をいれるわね﹂
﹁あ、なら私が⋮﹂
﹁結構よ。私、食後に不味い紅茶を飲む趣味はないの﹂
﹁⋮はい﹂
うぅ、そりゃ七海より下手だけどさ。半日サボったくらいでそんな
に怒らないで欲しい。
とりあえずソファに座る。七海は言うだけはある流れるような動き
で紅茶をいれ、小さなテーブルにおいて向かいに座った。
﹁で? なにか用かしら?﹂
幾分か怒りを収めた七海はカップに口をつけながら俺に視線をよこ
す。
﹁え、ええ。七海さんは、衣装の方はお決めになりましたか?﹂
﹁え? ま⋮まだよ。どうして?﹂
予想外だったらしくきょとんとして首を傾げる七海。
﹁前にも言いましたが、淑女会で統一しませんか?﹂
﹁ああ⋮前にも言ったけど、却下よ。揃いの服を着るなんて芸がな
いわ﹂
﹁はい。だから諦めてましたけど、お揃いじゃなくて、コンセプト
を揃えるならいけると思うんですよ﹂
﹁? どういうこと?﹂
一笑した七海だが俺の言い方が気になったのか尋ねてくる。
うん、いい具合に怒ってたのは忘れてるらしい。さすが七海。真面
目な仕事人間だ。
905
﹁だからですね、たとえば動物シリーズとか、そういう感じです。
劇の衣装とか、同じ話でも当然役によって服装は全然違いますよね
?﹂
﹁なるほど⋮それなら確かにまとまりがあるし、多少重なっていて
も面白いわね﹂
﹁でしょう?﹂
実は弘美の案だ。俺の発言とあわせて言ったのだが、これで弘美の
株をあげれば仲直りもしやすいだろう。
﹁でも早く決めないと、衣装の発注に間に合わないんじゃないかし
ら? 一から考えてる時間はないわよ?﹂
﹁それも大丈夫です。基本的に決めてますし、明日皆がいいと仰れ
ばすぐに頼めばまだ余裕です﹂
﹁明日言ってそんなすぐに決まるかしら﹂
﹁大丈夫ですって﹂
﹁⋮ずいぶんな自信ね。もしかして⋮ヒロの案かしら?﹂
﹁お目が高い。その通りです﹂
﹁却下﹂
﹁え?﹂
﹁却下よ﹂
⋮⋮はい?
にっこり笑って繰り返された単語を理解するのに、俺はたっぷり5
秒を費やした。
906
○
皐月は何故か敬語口調でソファに座って私を見ている。
どうでもいいけれど、さん付けをされるとどうも﹃皐月君﹄を意識
してしまう。
どうせヒロに言われて来たんでしょう。
何故かイライラして仕方がない。
私は出来るだけ大仰に向かいに座った。
﹁七海さんは、衣装の方はお決めになりましたか?﹂
﹁え? ま⋮まだよ。どうして?﹂
しかし皐月が口にしたのは予想外の言葉で、困惑しながら答える。
﹁前にも言いましたが、淑女会で統一しませんか?﹂
ああ、その話?
以前にも皐月に提案されたのだが、私たち全員が似合う衣装なんて、
制服のようなものになるに決まっている。
それではつまらないし、淑女会としても受け入れられない。
﹁前にも言ったけど、却下よ﹂
だけど皐月はにこっと笑ったままコンセプトを一緒にしようと言っ
た。
907
﹁たとえば動物シリーズとか、そういう感じです。劇の衣装とか、
同じ話でも当然役によって服装は全然違いますよね?﹂
ああ⋮なるほど。
確かにそういう方向でなら統一させることは可能だし、淑女会とし
てまとまりを持てるのも大きい。
しかし、会長も私が言うのもあれだが淑女会は個性が強いからすぐ
にまとまるとは思えない。
今から最初から決め直していては間に合わない。
﹁それも大丈夫です。基本的に決めてますし、明日皆がいいと仰れ
ばすぐに頼めばまだ余裕です﹂
﹁明日言ってそんなすぐに決まるかしら﹂
﹁大丈夫ですって﹂
ずいぶんと自信ありげだし、皐月にしては穴がない。私はもしや、
と思い問いかける。
﹁⋮ずいぶんな自信ね。もしかして⋮ヒロの案かしら?﹂
﹁お目が高い。その通りです﹂
否定して欲しかったのに、皐月はますます笑顔になって肯定した。
﹁却下﹂
﹁え?﹂
何故かその笑顔が無性に腹立たしくなったから私は反射的に口を動
かしてしまった。
しまった。と思ったけれど今更撤回するわけにはいかないから、私
908
はできるだけ余計な感情で言ってるわけではないことをアピールし
ようとにっこり笑う。
﹁却下よ﹂
皐月は口をあんぐりあけて間抜けな顔を5秒も晒してから
﹁な⋮俺がいない間に何があったんですか? というか、大人気ね
ぇ!﹂
と叫ぶように言った。
失礼ね。確かにヒロは幼く見えるけど二つしか変わらないのに、大
人気ないは言い過ぎでしょう。
しかも敬語じゃなくなってるし。今は部屋だからいいけど、ちゃん
と公私を使い分けられるようになってほしいものだわ。
﹁ヒロから聞いたのでしょう?﹂
﹁そうだけど⋮ようは七海が猫と弘美の悪口を言ったくらいしかわ
からん﹂
﹁まぁ、間違ってはいないわね﹂
﹁ならもう、さっさと仲直りしてください。七海が折れれば弘美だ
ってきっと謝るって﹂
息をはきながらいう皐月に腹がたって私は眉をよせる。
何よ、その、私が悪いかのような言い方は。
﹁嫌よ。どうして私が折れなきゃならないのよ﹂
﹁そりゃ、年上なんだから﹂
909
﹁私だって好きで年をとったんじゃないわ﹂
さっきから大人気ないだの年上だのって、私はまだ若いわよ。まさ
か皐月までおばさんだなんて思ってないでしょうねぇ。
﹁いや⋮もう、何を言えばいいかわからなくなってきた。じゃあ七
海はどうして欲しいんだよ?﹂
どうしろって⋮私が皐月にして欲しいことって⋮⋮
﹁撤回、して﹂
﹁何を?﹂
﹁私を! ⋮私を堅物だと言ったことをよ﹂
﹁はいぃ? んなこと言ってないけど?﹂
﹁ヒロが、あなたが言ったって⋮﹂
﹁あいつは⋮。七海、それは嘘だから。思ってないから﹂
﹁⋮私のこと、おばさんとか思ってない?﹂
﹁ない。つかそんなことまであいつ言ったの?﹂
そんなこと!?
﹁そんなこと、じゃ⋮ないわよ。私にとっては⋮大事なことよ﹂
﹁あのなぁ。俺がそんなこと言うと思ってんの? てか、七海に言
いたいことがあったら直接言うから﹂
﹁だって⋮皐月は、ヒロが好きでしょう?﹂
だから私でなく、ヒロにだけ言うのでしょう?
﹁はぁ? わけわかんないし。とにかく、そんなこと思ってない!
七海は綺麗だしカッコイイし、いい意味で大人っぽいけどおばさ
んとか頑固とか思ってな⋮⋮頑固、はちょっと思ってるけど、とに
910
かく思ってないってば﹂
それ、フォローになってるのかしら?
﹁だいたい弘美のことは好きだけど、七海のことだって大好きだよ﹂
﹁⋮っ。⋮そ、う。なら、もし私に言いたいことがあるなら必ず自
分で私に言うって誓える?﹂
﹁誓える。というか、誓うよ。俺は七海には嘘をつかない﹂
真っ直ぐに見つめられ、言われた言葉に息ができなくなる。
ああもう、本当に。いつまでたっつも私は皐月と皐月君の区別がで
きてない。
﹁⋮わかった。じゃあ、許すわ。ヒロにも私から声をかけるわ﹂
﹁七海⋮﹂
﹁さっきの案は、明日言えばいいわ﹂
﹁ありがとう﹂
﹁別に⋮私こそ、感情的になってしまって悪かったわね﹂
﹁大丈夫ですよ。ちょっとくらいなら、可愛いくらいですから﹂
﹁⋮⋮そろそろ、戻りなさい。課題はちゃんとしなきゃ駄目よ﹂
﹁はーい﹂
紅茶を飲みきり、立ち上がる皐月。ドアに向かおうとするその後ろ
姿に
﹁皐月﹂
気付けば声をかけていた。
一つだけ、聞きたいことがある。私に誓うと言った。ならあなたは⋮
911
﹁はい?﹂
﹁皐月は⋮⋮崎山皐月のことを何か知っている?﹂
﹁え!? いや⋮⋮ごめん。知ってる。けど、言えない﹂
驚き反射的に否定しようとしてから、眉をさげながら皐月は謝罪し
た。
﹁そう。ならいいわ﹂
本当のことは言ってくれないのね。でも⋮偽らないでくれてありが
とう。それで、十分よ。
﹁ごめん。その、崎山皐月のことは忘れた方がいいよ﹂
﹁大丈夫よ。ありがとう。おやすみなさい﹂
﹁はい。おやすみなさい﹂
○
912
もうすぐ文化祭
これでなんとか仲直りするだろう。やれやれ。弘美は勿論だが、七
海も結構子供っぽいというか強情だからな⋮⋮ん? もしやこうい
うのを言えと?
⋮いやいや、怒られるだけだし。誰にも言わないで心で思うだけな
らセーフだよな。
﹁ふぅ﹂
にしても最後はびっくりしたなぁ。まさか正体には気づいてないだ
ろうが、崎山について聞いてくるとは。
﹁⋮⋮やっぱり⋮﹂
やっぱり、七海はまだ気にしてるんだな。
﹁何がやっぱり?﹂
﹁うわっ! ⋮ひ、弘美か。なにしてんだ?﹂
突然聞こえた声に驚きつつ振り向くと弘美がいた。
﹁お風呂に行くとこよ。あんたも行く?﹂
﹁行かない。それと七海だけど、反省してたから喧嘩ごしにならず
にちゃんと話しろよ﹂
さっきまで普通だった弘美は七海、と言った途端に眉をよせる。
913
﹁はぁ? なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ﹂
﹁お前が言った案、賛成してくれてたぞ。なのに喧嘩してちゃ、で
きなくなるじゃん﹂
﹁⋮⋮七海様から謝らなきゃ、嫌よ。だいたいヒロは、皐月様と揃
えれればいいし﹂
﹁そう言うなよ。皆一緒のほうが楽しいって﹂
﹁⋮ま、いいけど。七海様に会ったら、話くらいはしといてあげる﹂
﹁頼むから無駄にあおったりするなよ﹂
﹁わかってるわよ﹂
よしよし。まぁ元々喧嘩内容は大したことないしな。時間たった今
ならそう問題ないだろ。
﹁んじゃ、また明日。できるだけ早く仲直りしろよ﹂
﹁わかってるわよ﹂
わかってるのかよ。なら最初からそうしろ。
ほんっと、素直じゃない。まぁ弘美がひたすら素直でも気持悪いけ
ど。
○
﹁じゃ、配役もこれで決まりだな﹂
いつものように半日授業の後、昼ごはんの時間もいれて2時間近く
914
かけてようやく決まった。
元々、お話のキャラクターを真似ようという案だったのだが、やれ
あの役は嫌だの主役がいいだのと難航し、結局弘美も変わったが、
今日中に注文すれば十分間に合う。
﹁んじゃ、行ってくるわ﹂
﹁頼んだ﹂
弘美は服にはこだわりがあるらしく、直接デザイナーに伝えると言
って淑女室を出ていった。
いつぞやの衣装も弘美が用意してたし、弘美はそういう方面に興味
があるのだろうか。
﹁にしてもみんな、何だかんだで衣装はまだだったんだな﹂
﹁え? いえ、私も紗理奈さんも決めてましたよ﹂
﹁うん。けどこの方が面白そうだしね。あたしらは来年でも使える
んだし﹂
﹁そ、そうだったのか。七海はまだだったんだし、セーフだな﹂
﹁今年は色々あったのよ。皐月は運がいいわ﹂
七海は俺がいれた紅茶を飲みながら答えた。
昼には普通だったから昨夜のうちに仲直りしてたらしい。
﹁色々?﹂
﹁今年が最後だし、私としても悔いは残したくはないのよ﹂
﹁そぅ⋮ですね﹂
最後⋮かぁ。まだ七海の卒業まで半年位あるけど、そう言われると
何だか寂しい気になるなぁ。
915
﹁とりあえず、弘美が戻るまでに仕事はひとまず休憩できるくらい
はしましょう。戻ってすぐに仕事では気乗りしないでしょうし﹂
﹁そうですね。﹂
よし、あとは文化祭に向けて、もうひと頑張りするか。
○
ピロロロ−
机に出しっぱの携帯電話が鳴る。
あ、ちなみに携帯電話だけど、七海が崎山に電話する対策に二つに
してたが、今は滝口としてしか連絡とらないから一個にしぼった。
だって合わせても、30人も連絡先いないし。
﹁皐月、仕事中は音を切っておきなさい﹂
﹁すみません。と⋮ちょっと席外します﹂
電話だった。相手を確認してから俺は携帯電話を手に廊下に出た。
﹁もしもし﹂
﹃おー、皐月。元気か?﹄
電話の相手は勇馬だ。男としての知り合いで登録してて連絡がくる
のはこいつと武富だけだ。
916
﹁元気だよ。で? 何? 今忙しいんだけど﹂
﹃ん? なんかあんのか?﹄
﹁文化祭の準備﹂
﹃ああ、そうか。ちなみに聞くが日付はいつなんだ?﹄
﹁11月最初の休み﹂
﹃⋮は? え? ダブってんじゃん﹄
﹁? 何が? 何か約束してたっけ?﹂
う∼ん?
連絡自体一ヶ月ぶりだし、さらに11月は来週だし、そんな約束し
てないよな?
﹃約束はしてねぇけどさ。お前はあの、白雪学園の孫っ子と婚約し
てんだから白雪の文化祭に当然行くんだと思ってたんだよ﹄
﹁⋮⋮え、何で知ってんの?﹂
﹃情報網なめんな﹄
い、いやいや。別に書類交したわけじゃないし儀式も何もしてない
し、大々的に発表したわけでもねぇよ!?
﹁ど、どういう情報網か聞いていい?﹂
﹃白雪にいる妹に聞いた﹄
そっちか⋮。びっくりした。
﹃でも、言っちゃっ悪いがお前のイトコ地味だな。なんか妹は好き
みたいだが﹄
﹁そ、そう⋮。﹂
﹃んで⋮何だっけ? あ、そうそう。お前何処に通ってんの? 1
1月頭は白雪以外知らねぇぞ﹄
917
﹁あー、んー、ない。﹂
﹃は?﹄
﹁実は、学校じゃなくて家庭教師ですませてるから﹂
﹃文化祭の準備とやらは?﹄
﹁地味なイトコの手伝いに借りだされてるんだ。ほら、婚約してる
からわりと自由に出入りできるんだ﹂
﹃マジか。女の園に出入り自由とか⋮お前はギャルゲの主人公か!﹄
﹁何でだよ﹂
﹃まぁいい。んじゃ、その日は白雪に行くんだな。﹄
﹁うん﹂
﹃なら、淑女会に紹介してくれ﹄
﹁は? 何で?﹂
﹃何でって⋮お前はロリコンだから知らないかも知れないが、淑女
会は綺麗どころの宝庫なんだよ。イトコと婚約者が所属して手伝い
までしてるなら、当然全員と顔見知りだろ?﹄
﹁あー、でも、その日は忙しいから無理。んじゃ﹂
﹃お−﹄
切った。
いや心情的にもなんか嫌だし、そもそも崎山として七海の前に出れ
ないのに紹介ができるわけがないし。
﹁ふぅ⋮﹂
にしても⋮あいつら来るのか。厄介だな。
武富はともかく、勇馬はなぁ⋮⋮まぁ女としてずっといて、男はた
またま会わなかったという設定にすればいいか。
ていうかまさかこの敷地内で男の格好して、万が一にも七海と会っ
たらまずいし。
918
あー、めんどくさいなー。
いっそ、最初から男にならなきゃ良かったなぁ。
○
﹁皐月さん、ありましたー?﹂
﹁んー⋮ないなぁ﹂
過去の資料をとってくるように言われ、量が多いらしいので二人で
第2図書室にやってきたんだが、ない。
もしかして第1の方か? あっちは今は殆ど使われてないからこっ
ちに来たが⋮よく考えたら普段使わない資料なら向こうでもいいの
か。
﹁第1の方ですかね?﹂
﹁んー、電話で聞い⋮あれ、圏外?﹂
確かにこの学園は郊外にあるし無駄に広くて裏山もあるが、何処に
いてもだいたいたってるのに?
﹁あ、図書室では圏外になるようになってるんです。知りませんで
した?﹂
﹁知らない。そうなんだ。じゃ、ちょっとかけてくる﹂
﹁はい﹂
919
廊下に出てかけると、やはり第1らしい。
遅いから先に弘美を行かせたから小枝子は戻っていいが、俺は手伝
いに行けと言われた。
元々、肉体労働くらいしか活躍もできないので俺は頷いた。
﹁じゃ、また後で﹂
﹁向こうは古い建物なので頑張ってくださいね﹂
﹁おー﹂
小枝子に説明して俺は駆け足で第1図書室のある、裏の旧校舎に向
かった。
旧校舎、とは言うが授業で使われないだけでそれ以外には今も使わ
れてる。主に倉庫的に。
それに古いと言ってもありがちな幽霊が出そうな木造ではなく、コ
ンクリートだ。
しかし、何度か雑用で行っているのに、頑張れとはどういうことだ
? ただの定形句か?
○
ぎぃ、と扉がきしむ。予想外の大きさにちょっとびびる。
こっちの扉は、だいぶ油がきれてる。後で連絡しておこう。
﹁おーい﹂
920
入れ違いになっては困るので呼びかけながら図書室に向かう。
といっても、こっちには圏外になる仕掛けなんてないだろうし連絡
行ってるから大丈夫だろうけど。
﹁−ぃ﹂
﹁? 今のは⋮﹂
声がしたのでその部屋に近寄ると、図書準備室からだ。
準備室に資料があるのか? それか⋮俺を驚かせようとしてる?
⋮⋮あ、あり得る。めちゃめちゃあり得る。ていうかむしろ、そん
なことするやつは弘美しかいない!
﹁⋮⋮﹂
そーっと図書準備室の手前にある部屋の扉を開ける。
この校舎はベランダで繋がってるので、そこから侵入して逆に驚か
せてやる。
別にあいつにそんな意思がなくてもよし! 普段しいたげられてる
からな、仕返しだ仕返し。
俺はベランダに出て、窓から姿が見えないようにしゃがんで移動す
る。
ふっふっ⋮行くぞ!
ガッ−
バキパリィン−!
﹁きゃあああー!﹂
921
な、なんだってえぇえ!!?
お、落ち着いて状況判断しろ皐月。
えっと、窓を開けると同時に立ち上がって勢いよく中に飛び込もう
と思ったら、鍵がかかってたらしく俺の腕力で窓枠が歪んで窓ガラ
スが割れた。
え、何で手で曲がるの? あり得なくね?
俺、そんなゴリラみたいな腕力じゃないよ?
⋮⋮⋮⋮ちょ、やべぇよ! 落ち着いてる場合か! とにかく逃げ
ろ!
俺は慌てて部屋に戻って廊下まで引き返す。
﹁⋮よし﹂
とりあえず、俺だとはバレてないな。バレてたら弘美が今も静かな
わけないし。
にしても⋮出ていったらバレるだろうなぁ。行きづらい。
だからといって、行かないなら行かないでバレる。
⋮⋮⋮まぁ、行くか。
何だこの声は?
﹁っ、⋮っ﹂
?
922
俺はいぶかしみながらドアを開けた。
﹁! ∼∼∼﹂
すると部屋の隅っこで布の塊がブルブルと震えていた。
⋮ひ、弘美、だよな?
﹁−ぃ、恐くない恐くない恐くない恐くないーっ﹂
めちゃめちゃ怯えてた。
﹁ひ、弘美⋮﹂
﹁! ⋮皐月様!﹂
呼びかけに恐る恐る顔を出した弘美だが、俺を見た瞬間飛びかかっ
てきた。
﹁っと⋮大丈夫か?﹂
﹁う、うぅ∼っ、こっ、こわかったよ∼!﹂
泣きながら抱きつく弘美をあやしながら聞くと、ポルターガイスト
とか亡霊とか昔死んだ生徒の呪いとかガラス爆発とかって単語が聞
き取れた。
⋮⋮うん、俺のせいだな。
923
﹁お、落ち着け弘美。俺がついてるだろ?﹂
我ながら白々しすぎるが、今更ホントのことなんて言ったら俺が幽
霊にされてしまう。
まだ死にたくない。すまん弘美。今度猫グッツプレゼントするから
許せ!
﹁で、でもっ、皐月様が強くても⋮相手は幽霊なのよ!﹂
﹁は⋮ははは! 何を隠そう俺は陰陽師の免許開伝の腕前! 陰陽
パワーで幽霊の一匹や二匹、楽勝だ!﹂
﹁え、本当!? すごいすごい!﹂
⋮信じた? 信じた!? 信じちゃったぁ!!
ちょっ⋮なんでこんなまるわかりの嘘を信じるんだよ!
俺の良心が死んじ
ツッコミをいれさせて冷静になってもらおうと思ったのに! お前
はそんなキャラじゃないだろ!
﹁と、当然だろ! 俺は皐月だぜ!﹂
そして俺もなに言ってんだ! テンパりすぎ!
﹁皐月様ってすごい人だったのね!﹂
え、な、ちょ、本気で尊敬した目はやめて!
ゃう!
﹁と、とりあえず資料をとってくるから、弘美は廊下で待ってるん
だ。いいな?﹂
﹁え、ヤダ! ヒロを一人にしないで!﹂
924
⋮ヤバい。弘美がシリアスになるほど罪悪感がひしひしと⋮。
うぅ、しかし本当、今更言ったら怒られるじゃすまないかも知れな
い⋮。
⋮すまん。本当に悪いと思ってます。
﹁わかった。じゃあ、一緒に行こうな?﹂
﹁⋮離さないでよ? ちゃんと、陰陽パワーでヒロを守ってね﹂
﹁⋮うん﹂
将来詐欺にひっかからないか、真面目に弘美が心配だなぁ。
○
925
もうすぐ文化祭︵後書き︶
後半はスペースが空いたのでつくった話です。弘美が陰陽師を信じ
たのは伏線ではありません。
なお皐月の腕力は女にしては強いですが、ある程度運動をする男に
負ける程度しかありません。
窓枠が曲がったのは地震で僅かに曲がってヒビがいっていたのに力
がこめられたからです。
窓枠がいがんでるのは学校側は知ってましたが旧校舎はどうせ大し
たことにしか使わないのと年末に一斉整備をするのでスルーしてま
した。
皐月が出た窓なんて開きっぱなしでしたが、不審者は敷地内に侵入
自体できないので問題はありません。
このあと、皐月は嘘だと言えずに弘美に請われるままに巫子服を着
てお払いの真似事をさせられたりします。
弘美の家族の話は書こうか悩む。ストーリーは決まってますがどの
時期にいれたものか⋮。
926
はじまりました文化祭
﹁皐月様、今、お仕事中ですか?﹂
﹁ん? いや、そうと言えばそうですけど、大丈夫ですよ。どうか
しましたか?﹂
名目は見回りだが、規制とか特にないし普通に自由時間だ。
特に邪険にする理由もないので声をかけてきた下級生たちに笑顔で
対応する。
俺一人で淑女会の評判を落とすわけにはいかないからな。
﹁あ、あのっ、では、わ、私たちと一緒に回っていただけますか?﹂
﹁⋮はい?﹂
え? えー、と⋮初対面、だよな?
困ってて声をかけたとかじゃなくて、単なるお誘い?
﹁やっぱり、嫌ですか? 私たちでは皐月様と釣り合いませんもの
ね﹂
﹁い、いえ⋮嫌というわけでは⋮﹂
てゆーか釣り合うって何さ。どっちかと言うと、お嬢さま方と俺じ
ゃ俺の方が釣り合わないでしょ。
﹁では、もうどなたかとお約束を?﹂
﹁あー⋮﹂
どうしよう? 一緒にいてもいいけど、淑女っぽくするのって疲れ
るんだよな。
927
うーんー、でも予定あるわけじゃないし断りずらいしなー。
﹁もし何もないのでしたら、よろしいでしょう?﹂
う、うむぅ。
まぁ、こんなに熱心に言うなら、いいかな?
﹁わか−﹂
﹁皐月様ー!﹂
﹁! っわ!?﹂
わかりました、と了承しようとすると掛け声と共に何かが飛んでき
た。
反射的に右手で受け止めたが、予想外の重量に落としかけ、左手も
使って抱きかかえる。
﹁え? か、花瓶?﹂
反射的な行動なので何か認識していなかったが、抱きしめたそれは
花瓶だった。
な、何で花瓶が降ってくるんだ?
﹁皐月様! 大丈夫ですか!?﹂
﹁ひ、弘美、さん。えっと⋮何が起こったのですか?﹂
﹁良いから保健室に!﹂
校舎から大慌てで出てきた弘美に尋ねるが、有無を言わさずに手を
928
つかまれた。
とりあえず後輩たちに一言だけ断ってから弘美に着いていく。
後輩たちは花瓶が飛んできたことによほど驚いたのかぼんやりした
まま頷いた。
﹁ふぅ、まいたわね﹂
誰もいない保健室に到着すると弘美はそう言って汗をぬぐうふりを
した。
﹁お前は犯罪者か。てか、なに? もしかして花瓶落としたの弘美
か?﹂
﹁違うわよ﹂
俺じゃなかったら大惨事だと思いつつ花瓶をひとまず机に置いた。
誰もいないのは文化祭で何かあった時のために救急用に外に用意を
しているからだ。
運動会の時にグランドの一角によくあるアレだ。文化祭の時にもや
るものだったかは知らないが、それはどうでもいい。
わからないのは何でこっちに連れてきたのかってことだ。俺の怪我
を心配したんじゃないのか?
﹁落としたんじゃなくて、投げたの﹂
﹁⋮は、はぁあ!? お前は犯罪者だ!﹂
殺害予告!? 俺、いつの間にそんなにお前に恨まれてたの!?
﹁は? 失礼なこと言わないでよ。あんたがバカどもに絡まれてた
929
から、助けてあげたんじゃない﹂
﹁か⋮⋮絡まれって⋮どんな発想だよ﹂
てか、下級生に絡まれたからって花瓶投げられるとかどんな状況だ
よ。
﹁とにかく、あんた暇でしょ﹂
﹁は⋮あ、ああ、テキトーに回るつもりだけど予定はないよ﹂
﹁じゃ、ヒロと回るのよ。決定だからね。勿論皐月様は、あんなミ
ーハーな女どもよりヒロを選ぶわよね?﹂
⋮⋮もしかしてそれで花瓶投げたの? 二階から?
⋮⋮
⋮⋮⋮よく聞こえたな。てゆーか、一歩間違ったら死んじゃうよ?
正直⋮恐いです。ヤンデレじゃないのに殺人未遂する恋心なんて聞
いたことないんですけど。
﹁? どうかした、皐月様?﹂
﹁いや、何でもない。じゃあまぁ、とりあえず、行−﹂
﹁皐月さん!? 大丈夫で−⋮⋮⋮大丈夫、ですね?﹂
弘美の突発的な癇癪、というか嫉妬?に恐怖しつつも行こうと言お
うとすると、勢いよくドアが開いて小枝子が顔を出した。
一瞬真剣だった小枝子だが、俺と目があった瞬間にあれ?と不思議
そうな顔になってから疑問を口にした。
﹁大丈夫だけど⋮どうかしたのか?﹂
﹁え、えっと⋮皐月さんに花瓶が落ちてきて保健室に連れていかれ
930
たと聞いたので⋮﹂
﹁あー、なんだ、噂ってスゴいな。ま、心配してくれてありがとな。
﹂
﹁あ、はい。勘違いなら、いいんです。皐月さんがご無事でなによ
りです﹂
﹁うん、サンキュ﹂
小枝子は走ってきたせいで少し息が乱れていたが、そのにっこり笑
顔はとてつもなく和やかな気分にさせてくれる。
はぁ、弘美はそりゃ可愛いが、癒されるのは小枝子だな、うん。
﹁あ、そうだ、皐月さん。もしよろしければ、私と一緒に見て回り
ませんか?﹂
﹁ああ、じゃあ三に−﹂
﹁喝ーーっ!!﹂
﹁ほわっ!? ⋮な、なんでせう?﹂
三人で回ろう、と言おうとすると弘美が奇声をあげた。
おもわず敬語のような敬語じゃないような言葉遣いになって聞くと、
弘美はどーんと胸をはって小枝子の前に立ちはだかる。
またない胸をはりやがって⋮⋮まぁ、別に胸をはるって胸部を強調
する意味じゃないけどさ。
﹁小枝子様、皐月様はヒロの婚約者なんだから諦めてよ﹂
﹁で、でも! 皐月様は弘美さんとお付き合いしてるわけじゃあり
ません﹂
﹁かっ、関係ないわよ! とにかく今日はヒロが皐月様を独占する
んだから!﹂
﹁だだっ、駄目ですよ! 私が独占したいんです!﹂
931
おお、火花が⋮リアル修羅場みたいー、とか言ってる場合か!
﹁二人とも落ち着けよ。三人で仲良−﹂
﹁皐月︵様︶︵さん︶は黙ってて︵ください︶!!﹂
﹁⋮はい﹂
何で怒られたんだろ。ていうか普通なこと言ったよね?
﹁ヒロが−﹂
﹁私が−﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮よし、逃げよう。
俺は気付かれないように窓を開けた。
﹁あ﹂
窓枠に足をかけたところで二人が気付いたようだが、遅い。
﹁アディオス!﹂
一階だからあいつらでも出られるが、何だかんだ言ってお嬢さまな
あいつらが窓から出るわけがない。
俺はさっさと逃げ出した。
○
932
﹁皐月さんならあっちへ行かれたわ﹂
﹁え、私が見たのはあちらから走っていらしていたわ﹂
﹁あら、さっきは向こうにいらしたわよ﹂
⋮何でそんなに目撃証言があるんだよ。こんなに人がいるのに、お
かしいって。
俺、そんな目立つかな?
﹁つまり総合的に見て⋮こっちね!﹂
﹁はい!﹂
えー、なんであんなバラバラの証言で正確にこっちにくるんだよ。
追っ手︵小枝子と弘美︶をまくために俺はとりあえずめちゃめちゃ
に走りながら、お腹が減ったからテキトーに買いこむ。
クレープとおにぎり、あとたこ焼きを買った。
他にも勿論食べ物系の店はあったが、持ち運びできるのを選んだ。
﹁あ! いた!﹂
﹁げっ﹂
見つかった!
仕方なく俺は走り出した。
933
○
﹁ふぅ、まいたか⋮﹂
今度こそ二人から離れることに成功した。
俺は落ち着いて食事をするため、今日は誰も使う予定がない部活棟
にやってきた。
淑女室に行くためだ。まさか仕事がない時にわざわざここに来ると
はあいつらも思わないだろう。
﹁ん? てゆーか、何で逃げてるんだっけ?﹂
⋮⋮忘れた。まぁ、いいか。
俺はドアを開けた。
﹁あら、皐月じゃない﹂
⋮何故か七海がいた。え? あれ? ⋮今日、仕事とかないよね?
﹁なにか用かしら?﹂
﹁えー、と⋮食べる?﹂
てなわけで、七海とお昼を食べることになりました。
934
﹁具は?﹂
﹁たらことえび天、あとおかか。クレープはシーチキンとタコス風﹂
﹁じゃあ、たらこをもらおうかしら﹂
﹁好きなのか?﹂
﹁そうね。好きよ。ぷちぷちしてて美味しいわ﹂
おにぎりを渡すと七海は食べはじめた。俺もおかかを食べる。
うん、うまい。食関係は基本業者がやるって言うのは、効率とか安
全以前に買う方が安心して買えるからいいな。
素人だと微妙に変なオリジナルに走ったりするし。
﹁これ、美味しいわね。なんてお店?﹂
﹁えー、場所が噴水広場の右側3つめだから⋮1−4、だったかな。
名前は忘れた﹂
﹁1−4なら○○屋ね。覚えておくわ﹂
﹁⋮もしかして全クラスの出し物覚えてんの?﹂
﹁部活もね。あなただって、場所とクラスが一致してるじゃない﹂
﹁まぁ⋮そうだけど﹂
嫌と言うほど下見したし。書類見て覚えるのとは別だろ。
﹁ところで、飲み物は持ってこなかったの?﹂
﹁あ、忘れてた。テキトーに買おうと思ってたんだけど⋮まぁいい
じゃん。紅茶、あるだろ?﹂
﹁ええ。待ちなさい﹂
立ち上がりかけると七海が立ちながら俺を止めた。
﹁なに?﹂
935
﹁私がいれてあげるわ﹂
﹁え、何で?﹂
普段は俺の練習だって何回もいれさせるのに。不味い不味い言いな
がらも飲みほすから別にいいんだけどさ。
﹁それは⋮ご褒美よ。あなた、今回頑張ったから﹂
﹁え!?﹂
﹁何よ、その反応は。私が褒めているのだから、涙を流して喜びな
さいよ﹂
﹁え、と⋮ありがとう﹂
まさか、褒められるとは思わなかった。だっていつも遅いって怒ら
れてたし。
それに⋮⋮ああ、なんか変だなぁ、もう。なんか⋮別にめちゃめち
ゃ紅茶が好きってわけでもないのに、すごく嬉しい。
﹁はい﹂
﹁ありがと。ん−、はぁ、七海の紅茶、スッゴク美味しいよ。最高。
世界一﹂
﹁当たり前でしょ。そんな言葉じゃ、お世辞にもならないわ﹂
強気なセリフはいつも通りだが、一瞬視線をそらしたのから照れて
るのがわかる。
﹁はは﹂
何だか、こういうのいいな。
七海のいれた紅茶をもらいながら、おにぎりを食べ終わり、クレー
936
プにとりかかる。
﹁七海はクレープ、どっちがいい?﹂
﹁そうねぇ⋮って皐月﹂
﹁ん?﹂
﹁頬に、ご飯つぶがついているわよ。全く、少しは落ち着いて食べ
なさい。犬ではないのだから﹂
七海は優しい笑顔で、俺の頬からご飯つぶをとって食べた。
﹁⋮⋮へ?﹂
今、なにした?
﹁? どうかした?﹂
﹁だっ⋮い、今の⋮﹂
え、え、えー!?
なっ⋮なに!? 何でこんな恥ずかしいんだ!? 母さんとはいつ
もやってたじゃないか!
﹁⋮あ! ば、バカ! 何を考えているの!﹂
﹁だ、って⋮﹂
﹁だいたい、間接キスだなんて今更じゃない!﹂
俺の言いたいことに気付いた七海は顔を真っ赤にして言うが、その
言葉にさらに思い出してしまう。
い、今更⋮ってそういや、俺、普通に七海にキスしてたよな⋮。
937
うああああーっ。な、なんか今更でめちゃめちゃ恥ずかしくなって
きたー!
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮バカ! あ、赤くならないの! 私たちは女同士なのだから
!﹂
﹁そ、そんなこと言われても⋮﹂
俺だって、何でこんなことで恥ずかしいのかわかんないんだって!
キスなんて普通に誰とでもやるし⋮⋮キス?
﹁⋮⋮﹂
﹁なによ。私を無断で見るなんて万死に値するわよ﹂
﹁! な、なんでもない!﹂
俺はなにも考えてない! あーもー! どうしたんだ俺! 落ち着
け!
俺は紅茶を飲む。
ふぅ、ちょっと落ち着いた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮な、なんだよ?﹂
七海がじっと俺を見ていたのに気づき、何故かまた焦ってくる。
﹁別に、何でもないわ。私、こっちのクレープをいただくわ﹂
﹁あ、ああ﹂
何となく気まずくて、だけど退室する気にはなれなくて、俺は七海
938
と静かに昼食を食べた。
○
939
文化祭の最終日に
今日は文化祭3日目だ。一般客も大勢来るのだから気をひきしめな
ければ。
と思っていると鼻歌を歌いながら皐月が入ってきた。
﹁皐月さん、ずいぶんご機嫌ですね﹂
﹁どーせ母親がくるんでしょ。皐月様、マザコンだから﹂
﹁だろうね。皐月﹂
﹁ん? どうかしたか?﹂
3人の会話にも気付かず、紗理奈の呼びかけでようやく顔をあげた。
﹁君のお母様はいつごろ来るの?﹂
﹁昼過ぎには来るってさ﹂
﹁つまり夕方か﹂
﹁おい。言っておくが母さんが前に遅かったのは元々そう言うつも
りだったからだ。母さんは時間にも何にでもきちっとした人なんだ
よ﹂
﹁うわー、ここまでくるとうざいね﹂
﹁こなくてもうざいですよ﹂
﹁まぁまぁ、お二人ともそう言わずに﹂
全く、何をやっているのかしら。
皐月を見るとタイミングよく向こうも私を見た。
要するに目が合った。
何故か、胸が高鳴った。
940
いや、ちょっと待ちなさい。これは勘違いよ。ちょっとした名残よ。
そう、別に皐月を好きになったわけじゃないわよ。
一昨日の昼食だって、あんな慣れないことをついやってしまったの
は、皐月が可愛いからで、それは後輩としてで⋮⋮と、とにかく。
﹁朝のミーティングを始めるわ。全員、席につきなさい﹂
とにかく、文化祭を無事に終わらせるように頑張るのよ。
皐月のことは忘れなさい、私。
○
﹁あれ、皐月?﹂
﹁え?﹂
﹁あ、やっぱりそうだ。なんだそのコスプレ。てか、俺らもコスプ
レできたっけ?﹂
振り返ると武富と勇馬がいた。
﹁え⋮あ、人違いではありませんか? 私はあなたたちを存じあげ
ません﹂
バレるとややこしいことになるから俺はとっさに他人のふり。
てか、ヅラかぶってんのに何でわかるんだよ。
941
﹁えー? なに言ってんだよ。お前ほど女装が様にな−﹂
﹁待った。もしかして、滝口皐月さんじゃない?﹂
﹁は? 従姉妹の?﹂
﹁わ、私は確かに滝口皐月ですが⋮どちら様でしょうか?﹂
よし、いい感じ。
﹁皐月ー﹂
再び声をかけられ、振り向くと珍しくも4人がいた。つまりこれで
淑女会員大集合だ。
でも七海までいるなんて、なんかあったっけ?
﹁おー、お揃いでどうした?﹂
﹁せっかくだし皆で回ろうと思ってね。君の母君にも会いたいし﹂
﹁? そちらの殿方は、あなたの知り合いかしら?﹂
﹁え、いや−﹂
﹁おい皐月、早く紹介してくれよ。そういう約束だろー?﹂
ちょ、まだいたのか勇馬。てゆーか話に入ろうとするな。
﹁了解した覚えはな⋮と、言いますか。だから人違いですって﹂
﹁いや。僕らは君の従兄弟に用が−﹂
﹁わーー!! 聞ーこーえーなーいー!﹂
武富ぃ! 余計な発言すんじゃねぇよ!
﹁?﹂
﹁本当に違うのか? 写真で見るより実物はそっくりなんだな﹂
942
﹁ちょっとお前黙れ! てゆーか帰れ!﹂
ああぁあ! どど、どうすればいいんだ!
﹁紗理奈、ちょっとその辺回ってきて! あとで合流するから!﹂
﹁ん、わかった﹂
﹁んでお前らはこっちこい!﹂
とりあえず、一番フォローの上手そうな紗理奈に任せ、俺は男二人
の手を掴んで小走りに喧騒から遠ざかった。
﹁ふぅ、ここならいいか。で? 何ですか?﹂
﹁え、いや⋮その、僕らのこと従兄弟から聞いてない?﹂
﹁⋮勇馬さんと武富さんですね﹂
﹁そう。あ、敬語はいいよ。な? 勇馬﹂
﹁ああ﹂
? 勇馬、さっきからやけに静かだな。会話の主導権を武富が握る
なんて珍しいな。
﹁そ。俺は滝口皐月。よろしく⋮しなくてもいいや。崎山皐月が今
どこにいるか知らないし、同じ皐月だからって変に馴れ馴れしくし
ないでくれ﹂
多少嫌われた方が面倒じゃないし、これでいいよな。
﹁ああ⋮そうか、すまないね。確かに女の子に対して少し馴れ馴れ
しかったかな。じゃあ僕らはこれで﹂
﹁⋮ああ。失礼な口の聞き方をして大変申し訳ありませんでした。
どうぞ楽しんでいってくださいね﹂
943
﹁ありがと。勇馬、行くぞ﹂
武富、初対面の年下の女に言われても笑顔で謝罪できるとは⋮器が
違うな。
男の時に謝罪はするから許してくれよ。
﹁⋮⋮﹂
﹁? 勇馬?﹂
武富が爽やかに笑いつつ立ち去ろうとしたが、勇馬は何故か無言で
俺を凝視している。
﹁えっと、勇馬、さん?﹂
声をかけると勇馬はカッと目を見開くと俺に一歩近づく。
﹁結婚を前提にお付き合いしてください!﹂
﹁⋮は?﹂
え、意味がわからない。てゆーか恐い。
なに? もしかして俺のこと普段からホモ的な意味で狙ってたの?
﹁見た目は大人しげなお嬢さんなのに意思の強いとこに惚れた! マジで付き合ってくれ!﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
いや、とりあえず男の時に狙われてなかったのはいいが、付き合う
とか無理だし。
﹁な、何故だ!? 俺は家も金持ちだし顔もいいし大学だって一流
944
どころだぞ!? これ以上の条件があるか!?﹂
いやー、自分ではっきり言っちゃうんだ。まぁ真実だし、そういう
自信満々なとこ、わりと好きだけどさ。
﹁お前のことよく知らないし。てゆーかお前も俺のことろくに知ら
ないじゃん? 結婚とかどんだけ﹂
﹁んなもん! これから知っていきゃいい! 俺はお前が好きなん
だ!﹂
﹁⋮⋮﹂
お、男らしい⋮。
思わずイエスと言ってしまいそうだ。でも断る。
﹁こ、困る⋮凄く困るから、勘弁してください﹂
付き合うなんて冗談じゃない。勇馬が嫌いなわけじゃないけど、男
とキスするのも抵抗あるのに結婚とか⋮無理無理。
俺にセックスは期待するな。
﹁皐月さん、とりあえず友達からはどうだ?﹂
﹁ふぇ、え、武富さん?﹂
割り込んできた武富に俺は焦る。
待て待て待て。変に女verと男verで違う関係つくるわけには
いかないんだよ。
﹁あの、困る、困るんです﹂
﹁メル友くらいならいいだろ。勇馬もいいな?﹂
﹁⋮まぁ、ちょっと性急すぎたかもな﹂
945
え、いやだからさ。人の話を聞けよ!
﹁無理だって言ってるだろ! だいたい俺は⋮俺は皐月なんだよ!﹂
﹁わかってるって。とりあえず友達からよろしくな、皐月ちゃん﹂
ちげー! どうしろってんだよ! ああもう!
﹁これでどうだ!﹂
もうこうなったらバラすしかない。
俺はやけくそ気味にカツラをとった。
﹁え⋮さ、皐月⋮え? 俺、男にプロポーズしたの?﹂
﹁アホか。俺は女だよ。男装してたの。誰にも言うなよ。とにかく、
お前と付き合うとか無理だから﹂
﹁何で?﹂
﹁は?﹂
愕然としてる勇馬に対して武富が普通に聞いてきて、俺の方が驚い
た。
カツラをつけ直しながら武富を見るとにっこりと笑いかけられた。
﹁皐月が本当は女なのはわかったし、何で男装してたのか知らない
けど、何で付き合えないの?﹂
﹁え⋮そりゃ、あれだ。えっと⋮とにかく、今までお前らを騙して
たんだ﹂
﹁僕は、男だから友達になったわけじゃないよ﹂
﹁あーもう、どっちにしろ、勇馬はもう無理だろ?﹂
946
武富がそう言ってくれるのは嬉しいが、恋愛はそんな単純じゃない
だろ。
﹁⋮ありだ﹂
﹁は?﹂
﹁ありだ! つーか前から皐月のことは可愛いと思ってたんだよ!
女だったならむしろどんとこいだ!﹂
⋮⋮こいつ、ハンパねぇ。さりげなく男の時から目をかけてたとか
言いやがった。
﹁⋮俺にその気はない。とにかく、俺はもう行く﹂
﹁待て!﹂
﹁⋮なんだよ﹂
﹁俺は絶対にお前を振り向かせて見せる! 友達からでいいからチ
ャンスをくれ!﹂
﹁⋮⋮わかったよ。友達からな﹂
相手をするのも疲れたから、俺はそう言ってみんなと合流するため
に戻った。
はぁ、ああは言ったが、たぶんもう友達とか無理だよな。
唯一の男友達を無くすとか⋮痛いなぁ。
○
947
﹁七海ー!﹂
﹁皐月、遅かったわね﹂
﹁先っきの男どもは友達?﹂
﹁あ、うん。そんな感じ﹂
みんな追いついて紗理奈の問いに相槌をうつと七海は少しだけ眉を
よせる。
﹁皐月、友人ならいいけれど、あまりガサツなことはしないでちょ
うだい。曲がりなりにもあなたは淑女会員、見られていることを意
識なさい﹂
﹁はい。わかってるであります﹂
﹁⋮わかってないようにしか見えないけど、まぁいいわ。このあい
だはあなたが出してくれたし、今日は私がおごってあげるわ。感謝
なさい﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
渡された林檎飴をかじる。くだけた飴の甘さと林檎の甘酸っぱさが
いい感じだ。
﹁こんなのもあったのか﹂
文化祭と言っても、お嬢さまの集まり。俺の想像する祭っぽいもの
は皆無だと思ってたのに林檎雨があったんだ。
﹁あなた、前にお祭と言えば林檎飴だって言ってたでしょう﹂
﹁まぁ、はい﹂
あと水飴とかき氷と射的も外せないけどな。
948
﹁えー、林檎飴とかあったんですか? 会長、どこに売ってたんで
すか?﹂
﹁ないわよ。発注品だから﹂
﹁⋮え?﹂
﹁だから、皐月が欲しいと言っていたから頼んでおいたのよ。あな
たも欲しかったなら、お店を教えるわよ﹂
え、マジか。わざわざ頼むとか、どんだけ貸しつくりたくないんだ。
﹁⋮んー、いいっす。この雰囲気の中で食べたいんで﹂
紗理奈は苦笑して断る。
まぁ、わざわざ外部に発注とか面倒すぎるよな。七海って変なとこ
凝り性だな。
﹁皐月さま、ヒロにも一口ちょーだい﹂
﹁ん、ああ。わかったわかった﹂
弘美に一口やると美味しーと頬をゆるませた。
弘美ってこういう時は素直で可愛いよな。
﹁⋮﹂
﹁ん? どうかしたか七海?﹂
﹁別に、どうもしないわよ。小枝子、あと見て回ってないところは
あるかしら﹂
﹁園芸部のガーデニングはどうですか? 今日はまた昨日とは違う
飾り付けだそうですよ﹂
﹁そうね、皆、行くわよ﹂
﹁おー﹂
949
ガーデニングか、昨日は見てないけど楽しみだなー。
○
﹁まだなのー?﹂
﹁まだ。てゆーか、別にお前は待たなくていいよ﹂
校門前で母さんと待ち合わせ中、何故か紗理奈が付き添ってる。
﹁んー、まぁどっちにしろまたみんなくるよ。君の母親に会いにね﹂
﹁俺の母さんはアイドルか何かか﹂
﹁⋮普通、見せ物じゃないって言うとこじゃない?﹂
﹁⋮俺にとっては永遠のアイドルなんだよ﹂
﹁君、母親のことになるとサブいよね﹂
﹁⋮うるさい﹂
別に、いいだろ。母親を大切に思ってなにが悪いんだよ。
いやまぁ、ちょっと行き過ぎなくらい、わかってるけどさ。
﹁ねぇ﹂
﹁何だよ﹂
﹁会長と母親、どっちが好き?﹂
﹁は?﹂
﹁どっち?﹂
﹁⋮母さんだよ﹂
950
世界一好きなんだから、母さんに決まってる。
そりゃ七海は好きだけど⋮なんか、よくわかんない。七海が相手だ
と色々調子狂うんだよな。
好きだけどさ、なーんか⋮他のやつと違うんだよな。たまに意味な
くドキドキするし。
とにかく! 俺は母さんが好きなんだから、そうに決まってる!
﹁その間が気になるけど、まぁそういうなら、そういうことにしと
いてあげるよ﹂
﹁何だよその言い方﹂
﹁なにさ。じゃあ別の質問しようか? あたしと母親、どっちが好
き?﹂
﹁母さんだよ。お前いじわるだもん﹂
﹁ほら、でた。君、会長のこと好きでしょ﹂
﹁そりゃ好きだけど、いや! へ、変な意味じゃないぞ﹂
紗理奈の意図に気づいて慌てて否定する。
七海に恋とか、ありえないって! だいたい⋮恋がなんなのか、よ
くわかんないし。
七海のこと好きだし⋮⋮好きだけど、んー?
﹁なぁ﹂
﹁なにさ﹂
﹁恋って何?﹂
﹁⋮口にできないなにかだよ﹂
⋮わかんねーよ。なんだそりゃ。紗理奈のくせに詩的なこといいや
がって⋮。
951
とかって文句は言えなかった。だって、紗理奈があんまりに切なそ
うな、泣き笑いみたいな顔してるから。
﹁なーに、変な顔してんだよ﹂
﹁失礼だな。恋する乙女に向かって﹂
﹁知らねーよ﹂
よくわからない。全然全くわからない。だけど、辛そうな紗理奈を
見ると恋なんてしたくないと思った。
そして、七海にだけは恋しちゃいけないなと思った。だってきっと、
俺は紗理奈には勝てないから。
﹁皐月ちゃーん﹂
﹁、母さん! 久しぶりー!﹂
俺は頭をふって、やってきた母さんに大きく手をふった。
ま、俺は恋なんかしないんだから関係ないさ。
とりあえず、七海や紗理奈、みんなが幸せになれればそれでいい。
﹁お待たせ。待ったぁ?﹂
﹁大丈夫。僕らも今来たとこだよ﹂
﹁皐月さまー、お待たせー﹂
﹁待ってないから﹂
﹁凄いマザコン過ぎて引く﹂
紗理奈、うるさい。てゆーか本当に皆来やがった。二人の方が甘え
やすいのに。
﹁みんな、久しぶりねー﹂
952
﹁はい、お久しぶりです。優希さん﹂
﹁⋮ん? ちょちょ、ちょっと七海君、名前が違いますよ﹂
それは崎山で、滝口の母親は優良だ。七海でも人の名前を間違うこ
とがあるんだな。
﹁あってるわよ。こっちが本名でしょう?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁いい機会だから言うけど、あなたが崎山皐月と同一人物だって、
とっくに知ってるわよ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
○
﹁は? え? え? え?﹂
混乱する皐月は狼狽しすぎて見ていられないほどで、説明しないわ
けにはいかないようなので仕方ないから私たちはいったん淑女室に
向かった。
﹁七海、マジで知ってたの!?﹂
﹁皐月、あなたごときが私に隠し事をしてバレないと本気で信じて
いたの?﹂
﹁⋮⋮え、前? 後?﹂
は? 何の⋮ああ、告白する前から知ってたのかって?
953
﹁後よ。決まってるでしょ﹂
﹁そ、そうだよな﹂
ちょっと、どうしてそんな微妙な顔をするのよ。
私が好きになったのは皐月﹃君﹄であってあなたじゃないわ。ちょ
っとドキドキしたりするのはたまたまで、自惚れないで欲しいわ。
﹁あの、騙してて⋮ごめんなさい﹂
﹁いいわよ別に。気付かない私も悪いわ﹂
言われてみれば顔も声も同じで、態度だって口調が丁寧か荒いかだ
けで変わらないのに、気付かない私がどうかしてたわ。
﹁そ、そんなことはないけど⋮まぁ、そう言ってもらえると嬉しい
よ﹂
﹁そうね。これでみんな隠し事もないしスッキリー。さ、お祭りだ
さ回りましょうか﹂
﹁⋮⋮君の母親、相変わらず空気読まないね﹂
﹁⋮チャームポイント、なんだっ﹂
紗理奈の言葉に皐月が苦しげに言い返す。
皐月⋮それはないわ。優希様は少し⋮かなり、天然な方ね。わかっ
ていたけれど。
﹁ま、ともかく、これで皐月様も今後男装趣味を隠さなくてすむの
ね﹂
﹁ああ⋮って違ーう! 誰が男装趣味だ!﹂
﹁ん、女装趣味の方がいい?﹂
﹁ちょ、弘美は俺を変態にしたくてしょうがないみたいだな﹂
954
﹁事実よ﹂
﹁まぁまぁ。喧嘩しないでくださいよ﹂
﹁どっちでもいいしね。にしても会長、どうやってその秘密知った
んですか?﹂
﹁あ、俺も気になってた。どっかのちびっこのせいで、あやうくう
やむやになるとこだったぜ﹂
うやむやにしたかったのに、紗理奈、余計なこと言うわね。
﹁あー? ちびっこ言うな﹂
﹁お二人とも、わざとやってません?﹂
﹁今は会長の話でしょ﹂
﹁私も知りたいな﹂
優希さんが私に近づいて見つめてくると、場も落ち着いて全員の目
が私に向いた。
﹁で、どうやって知ったんだ?﹂
﹁それは⋮お、女の子には、秘密がたくさんあるのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
なによ、その目は。
﹁七海ちゃん可愛いー﹂
﹁⋮優希さん、頭を撫でないでください﹂
うぅ、じゃあどう誤魔化せばよかったのよ。皐月のばか。
955
○
956
悩み事がある時は相談しよう
文化祭はよかった。
服装も母さんに褒めてもらったし、七海に隠し事をする必要もなく
なったし、いっぱい美味しいもの食べたし、写真もいっぱいとった。
楽しかった。
母さんも交えてやった宴会ではみんなの衣装交換しあって、意外に
紗理奈にフリフリが似合ったり、悔しいくらいに七海の男装が様に
なったりするのを知った。
女としての思い出が今はもういっぱいある。今更男として生活した
いとは思わない。この生活はとても楽しい。
でも、だからって
﹃次の日曜とか無理か? 会いたいな﹄
だからって、女の子として男と付き合えとか無理だから。
あれからやたら勇馬からメールや電話がくる。マジうざい。
一回きた武富のフォローメールの方が癒された。
でも⋮突き放せない。メルアドを変えて完全に交際を断つことはで
きない。
それは二人からメールがきて嬉しいのもある。
けど⋮もし、勇馬と付き合えば、俺は母さんが望む女の子になれる
んじゃないかと思ってしまう。
勇馬を利用して悪いけど、俺を好きだという男なんてもう現れない
だろうし、勇馬ならまだ他のやつよりは知ってるからマシだ。
957
男と結婚すれば母さんが望む子供をつくれる。母さんを安心させて
あげられる。
でも、男と付き合うのは嫌だと心から思ってる。
でも、母さんのためなら何でもしたいとも思ってる。俺自身、子供
は好きだ。
俺はどうすればいいんだろう。
﹁Hello、さツきサン、なンだか暗イね。どカしタ?﹂
﹁え﹂
振り向くとクリス先生がいた。
毎週授業で顔をあわせていたのにずいぶんと久しぶりな気がするの
は何故だろう。
﹁まぁ⋮少し悩んでいて﹂
﹁私デよけレば、聞くヨ﹂
﹁いや、まぁ⋮そういえば先生、また一段とふくよかになられまし
たね﹂
﹁? ふくオか?﹂
﹁あー、その、太りましたね﹂
婉曲に言うと通じなかったのでストレートに言ってみた。
夏休み前に比べてもだいぶお太られになられている。
﹁あー、やパりわかル? もウすぐ三ヶ月なノよ﹂
﹁⋮は?﹂
﹁来週かラはサンキューとる予定だカら、しばラくはオわかレヨ﹂
サンキュー⋮産休!?
958
﹁ええ!? クリス先生、結婚されてたんですか?﹂
﹁イエース。新婚ほかほかヨ﹂
﹁そうなんですか﹂
微妙な言い回しすぎてツッコミづらい。
﹁⋮お腹、触ってもいいですか?﹂
﹁どゾどゾー﹂
触ってみた。
﹁⋮よくわからん﹂
﹁まァ、マだ小サいからネ﹂
﹁ふぅん﹂
でも、なんか凄いなぁ。この中に命が入ってるんだ⋮。
﹁まだ辛くはないんですか?﹂
﹁辛イヨ。むシろ今ガ一番辛いカモね﹂
﹁そ、そうなんですか?﹂
﹁人にヨるけどネ﹂
へー、妊娠にも個人差があるんだな。
﹁⋮﹃あの、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?﹄
﹃勿論。場所を変えましょうか﹄
959
○
﹃で? 何が聞きたいの?﹄
中庭の人気のないベンチに座って先生は笑顔でそう言った。
俺は隣に座りつつ口を開く。
﹁あーと、英語で表現しずらいので日本語でいいですか? 先生は
英語でお願いします﹂
﹃大丈夫よ﹄
﹁あのですね、子供を産むって、どんな感じですか?﹂
俺の質問が予想外だったのか先生一瞬キョトンとしたが、俺が真剣
なのを感じてか真顔で答えてくれた。
﹃⋮そうねぇ、妊婦の気持ちで言うと、やっぱり恐いと言うのもあ
るわ。本当にちゃんと親になれるのかとか、数えればいくらでも不
安はあるもの﹄
﹁でも、産むんですよね?﹂
﹃ええ。だって、心底愛した人の子供だもの。恐いけど、それより
もずっともっと、幸せな気分なのよ﹄
﹁幸せ⋮﹂
﹃ええ⋮あ、もしかしてあなたの悩みって、赤ちゃんができたとか
?﹄
﹁はっ、ちち、違います!﹂
﹃そうなの? 先生には言わないから遠慮しなくていいのよ?﹄
﹁結構です! というか、あなたも先生でしょ!﹂
960
﹃そうね。でも生徒だって人間なんだし、恋をすれば妊娠するわ。
だから、恥ずかしいことなんかじゃないのよ?﹄
﹁いや、だから違います。ただプロポーズされたから悩んで、て⋮
⋮うわぁ﹂
めちゃ普通に暴露してしまった。
先生は俺の告白にキラキラと目を輝かせる。
く、なんという尋問術。でもその上目使いが可愛いから怒れない。
﹃あら素敵。でも、何を悩んでいるの? 好きか嫌いか、あなたの
感情一つじゃない。友達としか見てなくて戸惑っているとか?﹄
﹁まぁ、それもありますけど⋮なんていうか、友達としてはありだ
けど、恋人は生理的に無理って相手なんですよ﹂
﹃なら、可哀想だけど断るしかないわよ。無理に付き合ってもいい
ことないわよ﹄
﹁そうなんですけど⋮その、私、男嫌いなんです。それから考えた
ら彼は友人になれるくらいには気のあう人ですし、彼を逃したらも
う結婚できないと思うんです﹂
﹁ちょいやー!﹂
﹁うぬぁっ、な、な⋮なにを?﹂
チョップされた。
﹁皐月サン! メー、よ!﹂
﹁は、はい?﹂
﹃そんな考えはいけません! あなたはとっても素敵なんだから、
妥協みたいなことをしてはいけません! お友達にも失礼よ!﹄
﹃⋮ご、ごめんなさい﹄
でも全然迫力ないです。頭撫でてあげたいです。く⋮耳が幻視でき
961
るぜ。
﹁もう⋮皐月サンも、まダまダ子供ネ﹂
﹁はぁ﹂
﹃だいたい、結婚なんて恋も知らないうちから考えるものじゃない
わ﹄
﹁⋮はい﹂
俺は頷き、先生と別れた。
だが、納得したかと言うとそうでもない。
だって、俺が結婚したいから妥協するんじゃない。俺のために利用
するんじゃない。
母さんに喜んで欲しくて、その選択を考えたんだ。
母さんのためなら、俺は友人を利用するし我慢もする。
けど⋮母さんは喜ぶだろうか? 母さんは、正直何を考えてるのか
わからない。
けど俺を愛してくれてるのはわかる。痛いくらいにわかる。
だから⋮⋮だけど、だからこそ、どうすればいいのかわからない。
やっぱり、恋をしないとわからないのかな?
どんなものなんだろう?
今なら恋がどんなものでも、受け入れられそうな気がする。
俺は紗理奈に相談しようと思い、携帯電話をポケットから出した。
962
○
﹁教えられないかなー﹂
﹁な、なんで!?﹂
相談があると時間を予約し、夕飯後にこうして紗理奈の部屋を尋ね
たわけだが、あっさりと流された。
﹁前にも言った気もするんだけど⋮私教えるの下手だし、感情的な
のはなおさらでしょ﹂
﹁む∼、そうかも知れないけど、わからんものはわからないんだも
ん。ねー、お願いー﹂
﹁かわい子ぶっても駄目﹂
﹁ぬぅ﹂
紗理奈が好みだろうと頑張ったのに⋮。
﹁てか、何でまた急に恋を教えてくれなんて言い出したのさ?﹂
﹁うーん⋮⋮ちょっと、プロポーズされて悩んでるんだ﹂
﹁は!? ⋮ひ、ヒロから?﹂
﹁何でだよ。こないだの文化祭で見ただろ? あの男。眼鏡じゃな
いほう﹂
﹁⋮⋮ま、マジ? いやまぁ、確かにちゃんとやれば君ってわりと
可愛い顔してるけどさぁ。けど、プロポーズねぇ⋮﹂
その意味ありげな視線はなんだよ。
俺は椅子ごと移動してベッドに寝転がる紗理奈の額をつつく。
﹁にゃはー、君ってば最近ゆるくなったよね﹂
963
﹁ゆるく?﹂
﹁ゆるゆるガバガバ﹂
﹁? 意味がわからないんだが。何だよ? 頭がゆるいって言いた
いのか?﹂
﹁ガハガハ﹂
﹁変な笑い方するな。てゆーか、何の話だっけか?﹂
﹁プロポーズプロポーズ。てか、悩んでるってことは、脈ありなわ
けでしょ。男に。つまり男嫌い克服?﹂
﹁友人なら前から大丈夫だったよ。今は⋮⋮き、キスくらいなら、
我慢できなくもない﹂
﹁我慢て⋮駄目じゃん。何を悩んでんの? 断って嫌われたくない
とか?﹂
う、う∼ん⋮言ってもいいのかな?
﹁⋮⋮いや、うん、まぁそんな感じかな﹂
やっぱ、いくら紗理奈でも言えないよな。昼は先生が相手だから言
えたんだ。
﹁⋮ふーん、ま、言いたくないなら良いけどね。けど、いつでも話
くらい聞くからね﹂
﹁⋮うん。ありがと。﹂
紗理奈⋮本気でいいやつだな。
﹁じゃ、せっかくだしダベリながらトランプでもする?﹂
﹁おう。でも二人だしな⋮神経衰弱でもするか﹂
﹁いいね。自慢じゃないけど、あたし勉強以外での記憶力はハンパ
ないよ﹂
964
﹁本当に自慢にならないな﹂
引き出しからトランプをひっぱりだしながらいう紗理奈にツッコむ。
﹁まぁとにかく、こっち着なよ﹂
﹁ん、何か多くないか?﹂
ベッド中にばらまく紗理奈。
二人くらい楽に寝れるベッドなのにやたらトランプは広がっている。
紗理奈と斜めの位置のベッド端に腰掛ける。
﹁二組あるからね﹂
﹁は、なんで?﹂
﹁同じ柄の二セットを買ったら、混じっちゃってわかんないから﹂
﹁⋮微妙だな。当たる確率が上がったような下がったような⋮まぁ
いいか。抜けがなきゃできるし﹂
﹁そうそう。んじゃ君からどうぞ﹂
﹁はいはい﹂
二枚めくるがはずれ。紗理奈がめくってはずれ。俺。紗理奈と繰り
返す。
﹁お、きた。さっき6出たよな﹂
﹁さー、どこだったかな?﹂
﹁えー、っと⋮これか?﹂
﹁ぶー! こっちだ!﹂
とられた。
む、自分で言うだけあるな。これだけあると曖昧になりそうなもの
965
だが。
﹁そういやさぁ﹂
﹁んー? よしっ﹂
11ゲット。
﹁ありゃ。狙ってたのに﹂
﹁ふっふっ、んで? なに?﹂
﹁君のお気に入りのクリス先生、もうじき産休とるらしいよ﹂
﹁知ってる。あ、間違えた﹂
﹁もーらい。んじゃこれ知ってる? 代理の先生、男なんだよ﹂
﹁へぇ。ここ、ほとんど女の先生しかいないのに、珍しいな﹂
﹁ていうか、用務員と警備員しかいなかったしね。ち、はずれか﹂
﹁んー、あ、またはずれか。てことは代理とはいえ初男教師か﹂
﹁昔には何人かいたらしいけどねー、一人生徒に手ぇ出した人がい
てそれからとってないんだって﹂
﹁うわ、そいつ最悪だな﹂
よくまた教師をいれる気になったな。
﹁そうでもないよ。最終的に結婚したらしいし﹂
﹁そうなんだ⋮﹂
まぁ、それならいいのかな? うちの親も相当年の差あるし。
﹁でも思い切ったよねー。なんでも理事長の知り合いの甥っ子の友
達の弟なんだって﹂
﹁遠っ。よく許可でたな﹂
﹁知り合いってのが、卒業生の一人で結構な有権者なんだって﹂
966
うわー、聞きたくない事実を⋮。
﹁まぁ、昔は小学校の教師やってたらしいし、ロリコンではないで
しょ。だから安心していいよ、皐月﹂
﹁おい。どういう意味だ﹂
﹁君もヒロもツルペタじゃん?﹂
﹁一緒にするな。だいたい、俺は弘美と違ってちゃんとは⋮⋮とに
かく、別に俺はロリキャラじゃない﹂
生えてる、って言うのが何となく恥ずかしく感じて言葉を濁す。
﹁え∼、なになに? は、なに?﹂
﹁は⋮生えてるよ﹂
追求するなよ。とはいえ、まぁこの年になれば紗理奈だってそうだ
ろうし恥ずかしがることじゃないはずだと、どもりながらも答える。
﹁えー、どれ? あたしに見せてみ?﹂
﹁は!? な、なんで見せなきゃなんないんだよ! つか神経衰弱
は!?﹂
カードを膝で踏みつけて近寄る紗理奈に、俺は身をそらして避ける。
﹁もういいじゃん。あたしの圧勝で﹂
﹁まだ半分くらいあるだろ!﹂
ていうか、俺の倍以上取ってるからって調子にのるなよ!
﹁まぁまぁ、親友同士のスキンシップでもしようよ﹂
967
﹁ち、近づくなバカ! 変態!﹂
紗理奈は俺のズボンにゆっくり手を伸ばすから慌ててズボンを上に
引っ張る。
見られてたまるか!
﹁その軽口がいつまで続くかな﹂
﹁ちょ、あ﹂
しかしガードを無視して紗理奈はすっと俺の胸に手をあてた。
フェイント!?
﹁見た目通りのペタっぷりだねー﹂
﹁や⋮やめろって! くすぐったいんだよ!﹂
﹁ガハハハー﹂
抵抗すると紗理奈は怪しい笑い声をあげながら胸をくすぐってきた。
﹁ちょ、あは、ははははっ。やめ、やめろっ! ははっ、やめてく
れー!﹂
﹁⋮ふぅん。まぁ、ここらで勘弁してあげよう﹂
﹁はぁ、あー、疲れた。つか、セクハラ禁止ー﹂
わずかに弾んだ息を整えながら抗議をする。
セクハラはせめて発言だけにしとけ。下半身は特にアウトだ。
﹁なぁに言ってんのさ。あたしからセクハラとったらスーパー超人
になっちゃうじゃん﹂
﹁なれるものならむしろなれ﹂
968
相変わらず自信家だな。まぁあの2人もそうだが。
でも紗理奈、お前だけは無理がある。俺と成績変わらないのにその
自信はどうかと思うぞー。
﹁にゃはは⋮ま、とりあえずさ﹂
﹁んー?﹂
﹁悩み、さっさとふりきっちゃいなよ。来月からはまた仕事忙しく
なるし、それと並行するからテスト勉強早めにしなきゃいけなくな
るし﹂
﹁うげ、テストぉ? まだ再来月だろ﹂
そんな先の話をするなよ。意識したくもない。
﹁テスト明けのイベントの用意があるからね。本当なら赤点とらな
い程度でいいけど⋮君には負けたくないし。ちょっと頑張ろうかな。
目指せ100点、みたいな﹂
﹁え∼、待てよ。そしたら俺が断トツビリになるじゃん。一緒に5
0前後狙おうぜ﹂
﹁そんなこと言ってると会長に怒られるよ﹂
﹁う⋮、わかってるけどさぁ﹂
七海、厳しいしなぁ。はぁ⋮⋮まぁ、でも最近は真面目に授業受け
てるし、前ほど厳しくはない⋮よな? うん。
﹁ま、つーわけだから。断るならさっさと断りな﹂
﹁う、うーん、んぅ、わかってるんだけどさ﹂
﹁⋮、本当君って、恋愛に関して優柔不断だよねえ。いっそ、誰か
に恋でもすりゃ変わるんじゃない?﹂
﹁そんな無茶ぶりされても⋮﹂
969
呆れながらも紗理奈はやれやれと首をふって、手早くトランプをか
き集めながら笑った。
﹁ま、恋については大事なことだしゆっくり考えなよ。ずっと恋愛
から逃げるわけにはいかないんだしさ。ただ返事はやっぱ、早いほ
うがいいと思うよ﹂
﹁⋮⋮⋮うん。ありがとう﹂
俺はトランプを片付けるのを手伝いながら、紗理奈に笑いかえした。
結局どうするかわからないし、何も決まらないけど、紗理奈に相談
したら少しだけ気持ちが軽くなった。
よせやい照れるぜ、と茶化して笑う紗理奈に、俺は心の中でもう一
度、お礼の言葉を繰り返した。
﹁あ、明日は一日、あたしのパシリね。あたしの勝ちだし﹂
﹁はあ!? なに勝手にルール決めてんだよ! セコイ! ズルイ
!﹂
﹁聞ーこーえーなーーい﹂
紗理奈が子供のように言い、にやつきながらトランプを箱にいれる。
ぜ、前言撤回。ていうか、前礼撤回! 感謝して損した!
○
970
971
痛いのはいやだ︵前書き︶
久しぶりの更新です。不愉快に思われるかもしれない描写が存在し
ます。気をつけてください。
972
痛いのはいやだ
﹁⋮⋮え?﹂
教壇にたった姿に、目を疑った。
クリス先生の代理で来た男性教諭はとても見覚えがあった。
くと
くらまば
﹁僕は今日からしばらく代理で社会を教えることになった、鞍馬縛
人です。よろしくね﹂
大きな姿も、不快一歩手前まで低い声も、何も変わってない。
そう、あの⋮かつて俺を犯した先生は何も変わっていなかった。見
間違えとか人違いじゃない。
名前も、聞いた瞬間に思い出した。
そう、全てを、思い出した。
﹁っ、ぉえぇええ゛⋮﹂
そして、思い出した瞬間俺は床に朝食を吐き出した。
﹁さ、皐月さん!? 大丈夫ですか!?﹂
﹁あっ⋮は、あ、はっ、うぅううう⋮っ﹂
思い出す。
全身をなでつけられる気色悪さ。
殴られて蹴られてしばられ、抵抗する気力をなくした無力感。
口に顔に体にかけられる生臭い液体の不快感。
無理矢理にぶちこまれて体が裂けそうな痛み。
973
そして、俺の股からピンク色の液体が流れるという違和感。
﹁おぉおおあ⋮﹂
気持悪い
気持悪い気持悪い気持悪い気持悪い気持悪い気持悪い気持悪い気持
悪い気持悪い気持悪い気持悪い気持悪い︱
なにより誰より、俺は俺が気持悪い。
震えがとまらない。
恐い。すごく恐い。
なんで?
なんで先生がいるの?
なんで? なんでなんでなんでなんでなんで? また、俺を犯し︵
殺し︶にきたの?
﹁皐月さん、皐月さん? しっかりしてください!﹂
隣の小枝子が慌てて俺の背を撫でる。
暖かくて、ぞっとした。
﹁触るなっ﹂
反射的に振り払う。
﹁え⋮﹂
﹁あ、ごめ⋮うっ﹂
974
駄目だ。小枝子を気遣う余裕がない。気持悪い。
﹁おいおい、君、大丈夫か?﹂
先生が、いぶかしげに近づいてきた。
それだけで、ガチガチと歯が上下に震えてぶつかりだす。
大丈夫、大丈夫。まだ気付かれてない。気付かれたって、またあん
なことがあるなんてない。
﹁⋮だ、だだ大丈夫、です。ちょ、っと⋮気分、が、悪、くて⋮⋮
ほ、ほ保健室に⋮行、って⋮きぃ、ます、ね﹂
俺は教室を飛びだした。
○
﹁おえぇ、っえ、げぇ、は、はぁ﹂
あー、ちょっと、楽になった。
今、トイレにいる。吐いて吐いて胃液しかでないけどずっとおえお
えとえづいてたら、少し落ち着いた。
とりあえず、保健室行くか⋮あー、マジしんどい。
つか、先生の顔見たら卒倒する。絶対またパニクる。
やべーよマジで。とにかく、逃げなきゃ。
975
あの大きな手が俺に届かないくらい遠くに、逃げなきゃ。
俺はふらつきながらなんとか保健室にたどり着いた。
﹁先生⋮具合が悪いから早退し⋮あれ? いない⋮﹂
どっか行ってんのかな?
よく考えたら、保健の先生も顔は知ってるけど名前は知らないや。
ま、具合悪いしベッド空いてるし勝手に寝ても文句なんて言われな
いだろ。
﹁失礼します、と﹂
あー、なんか目眩もする。
とりあえず、明日から家に帰ってひきこもるか。
小枝子たちに説明⋮するの、なんかヤダな。
警告はしたいけど、七海とか普通に本人に断罪しに行きそうだし。
それでもし誰か一人でも傷つけられたら、生きていけない。
﹁つか⋮会いたくないしなぁ﹂
誰が相手でも怯えそうな気がする。
今は一人だから落ち着いてるけど、対人恐怖症に戻ってるかも。
とりあえず、小枝子と紗理奈には心配ないから見舞いはいいって断
って、七海たちにも何とか来ないようにしないと。
あー、何だろう?
吐きすぎて本当に空っぽになったみたいだ。
976
ただただ、気持悪くて倦怠感がまとわりついてくる。
何も考えられない。
ベッドに寝転がる。
ひんやりしたシーツが気持良いのに、体の奥でなにかがドロドロと
けていくみたいだ。
俺は、どうやら強くなれなかったらしい。
先生を見てよくわかった。あの人を前にしたら逆らおうなんて意思
の前に、問答無用で恐ろしくて逃げるしかできない。
母さんに会いたい。母さん、母さんがいなきゃ駄目なんだ。
お願いだから、俺を助けにきて。
じゃないと、また俺は世界から逃げてしまいそうだ。
俺は目を閉じた。
このままずっと、世界が明るくならなければいい。
そうすればもう、先生の顔を見ずにすむ。
○
ガラガラとドアが開く音がして、意識が現実に戻された。
977
あー、先生、帰ってきたんだ。んー、あー⋮一眠りしたら落ち着い
たなぁ。
起きないとと思いつつぼーっとしてると、目の前のカーテンに焦点
があった。
こんなとこに茶色のシミが⋮カレー?
﹁あら先生、どうかしたんですか?﹂
え? 先生?
女の声−たぶんたしか保健の先生の呼びかけの声に、俺は違和感を
覚えて眉をひそめる。
おかしい。なんで入ってきた先生が、﹃先生﹄なんて呼びかけする
んだ?
雰囲気的には、中にいた人が入ってきた人に話かけたみたいだけど
⋮え?
誰が、誰に?
誰を、呼んだ?
誰が、きたの?
﹁さっきの授業中に、生徒が具合を悪くしちゃいまして。お見舞い
に﹂
978
ぞっ−
体中の毛が逆立った。じわっと汗がしみでてきた。
なんで⋮先生が、いるの?
﹁ああ、あの子ね。ちらっと見たけど熱もないし起きたら体調確認
して帰すつもりですから、大丈夫ですよ﹂
﹁そうですか。よかった。顔色が悪かったから気になってたんです﹂
声を聞いたら、わかってしまう。思い出してしまう。
体が、動かない。逃げなきゃいけないってわかってるのに、わかっ
てるのに、動けない。
﹁ふふ。あなた、顔に似合わず繊細なんですね。あ、今時間大丈夫
ですか?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあちょっと留守番頼んでもいいですか?﹂
﹁大丈夫ですけど⋮どのくらいですか?﹂
え? え? 待って。
どこに行くの? そんな、先生と二人になっちゃう。
﹁もうすぐ2時間目始まりますしー⋮4時間目の前には戻るんで頼
んじゃっていいですか? 怪我人とかきたら職員室に内線くれれば
いいんで﹂
﹁いいですよ。だいたい1時間くらいですね﹂
﹁はい。初日ですし忙しいでしょうから、できるだけ早くするつも
りですけど﹂
979
﹁や、大丈夫ですよ。午後まで仕事ないですし、昨日用意すませて
るんで。何なら昼休みまでいても大丈夫ですよ﹂
いやでも、なんか、真面目そうだし。俺のことだって、覚えてない
かもだし。成長してるし。
﹁ま、さすがー。んじゃよろしくお願いしますね﹂
﹁はい﹂
きゅ、きゅと軽やかな足どりとドアの音で俺は保健の先生がいなく
なったことを知る。
ダメ! どう考えたって恐い! ヤダ! 早く出てって! 早く!
俺に構うな!!
﹁いったか。ラッキー。さて、と﹂
かちゃん
小さな金属の音は、鍵が閉まる音だとすぐにわかった。
ああ、やばい。やばいやばいやばいやばいやばい。今の言葉、どう
いう意味?
シャッー
カーテンが引かれた。気配に気づいてたのに、なにもできなかった。
寝たフリをすることも、そもそも頭に浮かばなかった。
﹁お? 起きてたのか。よ、久しぶりだな。覚えてるか? 皐月ち
ゃん﹂
﹁あ⋮⋮ぁ、ぐっ﹂
980
吐き気が込み上げてきて、ベッドの上だったけど構わず口を開いた。
だらぁと粘ついた唾液だけが落ちた。
﹁おいおい。さっきもそうだが、顔を見ただけで吐くなんて失礼だ
ろ。先生、傷つくな。なぁ皐月? ごめんなさい、言えるな?﹂
にやついて顔を俺に近づけて、昔みたいに爽やかな口調で先生みた
いに、言ってきた。
爽やかな口調は、それはまるで、あの頃みたいで⋮
﹁ぅ⋮や、あ⋮﹂
恐い⋮
恐い恐い恐い恐い恐いっ−!
﹁やぁぁ⋮やめてっ、痛いことしないでぇ。やっ、いたいぃ﹂
離れようとして、なのに先生が大きな手で頭を掴むから動けなくて、
頭をガンガンぶつけられた。
﹁や、あ⋮やめ、﹂
﹁だーい丈夫だ。今はお前もでかくなってんだ。ちゃんと、気持ち
良くしてやる﹂
﹁ひっ﹂
なに
なになになになになになになになになになになになになになになに
なになになになになになになになになになになになになになに!?
981
なにを⋮するの?
わかってるはずなのに、言葉にならない疑問が頭の中でぐるぐる回
る。
﹁お、見た目通り全然育ってねぇな。これなら許容範囲だ。高校な
んて相手がいないと思ってたし、お前で我慢してやるよ﹂
﹁や、めて⋮﹂
無遠慮に胸を撫でまわされる。体が震えてとまらない。歯の根があ
わずにガタガタなってうまく話せない。
なにもわからなくなる。
どうしていいのかわからなくて、やめてやめてと譫言みたいに繰り
返す。
﹁やっ、あぁ。やめてっ﹂
﹁ちっ、おい黙れ。まだ授業始まってねぇんだ。始まったら喘いで
いいから、いい子だから黙れよ﹂
﹁⋮ぁ、が⋮ぃ﹂
顔を片手で覆われ、眉間を締め付けられる。
痛い。痛いよ。すごく痛い。
だから、黙る。
﹁⋮、⋮⋮﹂
ほら、黙ってるよ。いい子にしてるよ。だから、痛いのやめてよ。
982
﹁よし、いい子だ﹂
先生は力を緩める。
ああ、よかった。
これからもっと酷い目にあうってわかってて、それでも今は緩めら
れた手に安堵する。
先生の手が、服にかかる。リボンがはずされるのをどうしてかじっ
と見る。
恐ろしいのに、黙ると決めてから震えが止まった。
先生、先生は痛いことするんだね。もういいよ。だから早くして。
もう、いいから。
抵抗しても余計に痛いだけだから、抵抗をやめた。
先生の言う通りだ。二回目なら、前ほど痛くないだろうし。
がちゃ
﹁あれー? 閉まってる﹂
能天気な声と扉をガチャガチャならす音がして、先生はさっとリボ
ンを結びなおした。
﹁余計なことは言うな。お前は体調が悪くてここにいる。いいな?﹂
﹁⋮﹂
小声の脅しに頷くと先生はなにもなかったみたいに鍵を開けた。
983
〇
984
我慢するのは慣れてるから
くと
くらまば
﹁僕は今日からしばらく代理で社会を教えることになった、鞍馬縛
人です。よろしくね﹂
そういって笑う男性教諭の体格はゴツくて熱苦しいくらいだけど、
不思議とそうは思わない爽やかな口調が似合う雰囲気だった。
いかにも体育会系っぽいのに﹃僕﹄という一人称に違和感がない。
とりあえず真面目そうだし顔も悪くないから皆の反応は悪くないけ
ど、でも皐月って男嫌いだからなぁ。大丈夫かな?
と先生の登場から挨拶までを見ながらぼーっと考えてると
﹁っ、ぉえぇええ゛⋮﹂
と生理的に不快な声がしてあたしが目をやると皐月が吐いていた。
﹁⋮は?﹂
一瞬何が起こっているのかわからなかった。
﹁さ、皐月さん!? 大丈夫ですか!?﹂
﹁あっ⋮は、あ、はっ、うぅううう⋮っ、おぉおおあ⋮﹂
小枝子が立ち上がり呼びかけるのに皐月が呻き声を返すのを見て、
あたしは慌てて立ち上がる。
﹁皐月さん、皐月さん? しっかりしてください!﹂
985
小枝子が皐月の背をそっと撫でる。クラスが騒然として誰もが不安
気になる。
もちろんあたしも不安だ。なに? どうしたの?
﹁触るなっ﹂
だけどあたしが近づいて声をかけようとする前に皐月は小枝子の手
を拒絶した。その振り向いた拍子にあたしから皐月の横顔がはっき
り見えた。
真っ青で、真っ青という言葉で足りないくらい真っ青で、さっきま
で普通だったとは思えない重病人みたいな顔色の悪さだった。
皐月の鋭い声で教室が一瞬で静かになり、皐月ははっとしたような
表情になって真っ青なまま口を押さえた。
﹁あ、ごめ⋮うっ、あ﹂
﹁おいおい、君、大丈夫か?﹂
先生が、いぶかしげ皐月に近づく。皐月はついにガチガチと歯を鳴
らしだす。
ちょっと、本当にどうなってるの? 持病、とかないよね? 病気
? さっきまで元気だったのに?
﹁⋮だ、だだ大丈夫、です。ちょ、っと⋮気分、が、悪、くて⋮⋮
ほ、ほ保健室に⋮行、って⋮きぃ、ます、ね﹂
皐月は先生にしどろもどろになりながら用件だけつげると、教室を
飛びだした。
﹁皐月さんっ﹂
986
﹁落ち着きなさい﹂
﹁先生、邪魔しないでよっ﹂
続いて飛び出そうとする小枝子とあたしを先生が止め、イラッとす
る。
なにこいつうざい。あの皐月をほっとくつもり?
﹁落ち着きなさい。僕が見てくる。いざとなったら運べるからね。
君達は掃除をしていて。いいね﹂
﹁⋮わかりました﹂
﹁⋮はぁい﹂
そう言われては、ひくしかない。あたしと小枝子はしぶしぶうなづ
いた。
先生は焦り顔で教室を出ようとしてふと振り向いた。
﹁彼女の名前は?﹂
﹁滝口皐月です﹂
早口でされた問いに小枝子が答えると、ふいに先生は表情を変えた。
﹁⋮わかった。じゃあ行ってくるけど静かにしてるんだよ﹂
それに違和感を感じたけどすぐに表情を戻して先生は部屋を出た。
果てしなく心配だ。皐月は男嫌いだし⋮それに嫌な予感がする。皐
月、変な病気とかじゃないよね?
﹁小枝子、とにかく早く片付けよう﹂
987
﹁はい﹂
備えの非常バケツで雑巾を濡らして皐月のゲロを拭く。
あたしと小枝子以外は距離をとっている。仕方ないとはわかってい
るけど、イライラする。
﹁窓際の子、悪いけど窓開けて。あと誰か、バケツに水くんできて﹂
﹁あ、はい﹂
一斉に窓が開く。手伝いたくないわけではなく、でも汚いから嫌で、
それでも罪悪感があるのか行動が素早い。
二人がかりでバケツが運ばれてきたので汚くなった雑巾を洗い、そ
してもう一度拭く。
よし、こんなものか。
﹁小枝子、水捨てに行くよ﹂
そんで保健室よろう。口にださずに伝える。何とかわかったらしく
小枝子は頷いた。
換気終わったら窓を閉めるよう言って、あたしたちは一人一つずつ
バケツを持って教室を出た。
﹁皐月さん、大丈夫だと、思います?﹂
﹁わからない。尋常じゃない態度だったけど⋮﹂
出ていく足どりは、わりとしっかりしていたように思う。
とにかくバケツを戻したら保健室に⋮
988
﹁あ、先生っ。皐月さんの様子はどうでしたか?﹂
教室に戻る途中で先生が向こうからやってくるのが見え、小枝子が
いち早く駆け出す。あたしもそれに続きながら、じっと先生を見る。
﹁ああ。吐いていたけど、どうも大丈夫みたいだよ。ちゃんと保健
室まで見届けたから安心して﹂
﹁そうですか﹂
小枝子は少し安心したのかほっと息をつく。
もちろんあたしも皐月が無事なのは嬉しいけど、それより先生の言
い回しが気になった。
見届けた? 普通は﹃送った﹄でしょ。
何となく、本当に何となくだけど、先生が怪しい気がする。どうっ
て言われるとよくわからないけど⋮。
確か、前は小学校の先生だったんだよね⋮。⋮いや、でもまさか、
皐月と知り合いとか、ないでしょ。
だいたい小学校と高校の教師って資格同じだっけ? 違った気がす
る。カバー範囲が違うし。不自然だし、何で小学校やめたんだ?
﹁⋮先生、皐月、保健室で大丈夫ですか? 今は大丈夫でも病院で
検査した方がいいんじゃないですか?﹂
﹁そうだね。でもそれは保健の先生に任せれば大丈夫だよ。さ、授
業をしよう﹂
﹁⋮はい﹂
とりあえず、二人にも連絡して次の中休みにさっと様子見に行こう。
989
〇
﹁どうかした? 怪我人?﹂
﹁え? 先生、どうして先生がいるんですか?﹂
ドアが開いて現れたのは、紗里奈たち淑女会の面々だった。視線が
あうと紗里奈はにっこり微笑み、先生に視線をやる。みんなは心配
そうにしてる。
﹁お見舞いにね。そしたら留守番頼まれちゃって﹂
﹁⋮どうして鍵を?﹂
紗里奈が先生と話をして、三人が首を伸ばすようにこっちを見てく
る。
七海と弘美は学年も違うのに、どうしたんだろ? それにまだ中休
みだからもう授業、始まるのに。
﹁ああ⋮書類をいじってたんだ。見られたら困るからね。で? 誰
が怪我人? 今先生を呼ぶね﹂
﹁いえ、あたしたちもお見舞いです。⋮皐月、起きて大丈夫?﹂
紗里奈がみんなを代表して話してから近づいてきた。
何か言わなきゃ。
﹁⋮うん。大丈夫。心配かけてごめん﹂
990
みんながベッドをかこむ。
何だか申し訳なくてとりあえず元気さをアピールしようと微笑む。
﹁実は朝から体調悪くて⋮。今日は休むよ。七海様とヒロも、わざ
わざ来てくれてありがとうございます﹂
﹁あなた本当に大丈夫なの? 顔色悪いわよ?﹂
﹁病院行かなくて⋮大丈夫なんですか? ヒロ⋮心配です﹂
猫を被りつつも本当に心配そうな弘美の頭を撫でる。
七海も心配そうで、たまには体調くずすのも悪くないなぁって思っ
た。
﹁大丈夫ですよ。寮に戻って今日はおとなしくしてますから﹂
﹁でも、あんなに苦しそうだったのに⋮本当に大丈夫ですか?﹂
﹁ゲロの掃除大変だったんだからねー﹂
明るく振る舞う紗里奈に苦笑する。小枝子たちの心配は嬉しいけど、
紗里奈の対応も助かる。
﹁うん、ありがとう。迷惑かけてごめん﹂
﹁冗談。困った時はお互い様でしょ。寮に行くならあたし、送るよ。
一人で行かせるの心配だし﹂
﹁あ、ならわた−﹂
﹁みんな、心配なのはわかるけど駄目だよ。もう次の授業始まるか
らね﹂
﹁でも⋮﹂
﹁駄目。さすがに寮に僕が送るわけにはいかないけど、お昼に送っ
てあげなさい﹂
991
﹁⋮はい。皐月さん、後で迎えにきますね﹂
先生の説得に三人が不満そうだが納得する中、紗里奈だけが表情を
変えずにじっと見てくる。
﹁皐月﹂
﹁なに?﹂
﹁お昼まで一人にするけど、大丈夫?﹂
﹁大丈夫。いざって時は僕がいるからね﹂
﹁先生は黙ってて下さい。皐月、本当に大丈夫?﹂
どうしてそんなに心配するんだろ?
﹁大丈夫だよ。ありがとう、紗里奈﹂
﹁⋮わかった。じゃあ戻るよ﹂
﹁皐月、無理しちゃ駄目よ﹂
﹁何かあったらヒロに連絡しなさいよ﹂
﹁はーい﹂
4人が出ていく。
ああ、よかった⋮。﹃あたし﹄だけならともかく、みんなまで先生
に酷いことをされちゃ堪らない。
キーンコーンカーンコーン
ベルがなって、4人の足音が駆け出して小さくなる。先生は見送っ
てから、またドアに鍵をかけて近寄ってきた。
﹁おい、今の誰だ?﹂
﹁え、部活の仲間です﹂
﹁違う。あの美少女だ。俺好みの﹂
992
先生﹃好み﹄? 先生はロリコンだから⋮弘美、だよね。
先生の嫌らしい笑みに、また震えがきた。
﹁⋮なにを、考えてるんですか?﹂
﹁わかるだろ? 所詮ガキなんてやっちまえば口をつぐむ。お前だ
ってそうだろ。ならなんの問題もない。他のは興味ない﹂
﹁せ⋮先生⋮っ﹂
弘美に、手をだそうって言うの?
カッと体が熱くなった。
﹁駄目! そんなの許さない!﹂
﹁あぁ? お前の意見なんか知るか﹂
先生があたしの襟首をつかみ引っ張る。
苦しい。恐い。恐い。嫌だ。
﹁で? あれの名前は?﹂
﹁い⋮っ、いわない!﹂
﹁あぁあ!? 言えってんだよ!﹂
バチン−
頬をぶたれた。痛い。言えばいい。それは駄目。
﹁しまった。顔は目立つな。くそ、おい、早く言え﹂
﹁⋮⋮や、ぁ﹂
弘美は、駄目。誰も駄目。絶対、守らなきゃ。先生には勝てないけ
993
ど、あたしは弱いけど、みんなは駄目。守らなきゃ駄目。
﹁ああ? 誰が、逆らっていいって、言ったんだよ!﹂
﹁あ、あ⋮ごめ、なさ⋮っあ!﹂
胸を、思い切りつねりあげられた。
﹁いやあぁあっ!﹂
痛い痛い痛い痛い痛い!!
胸がとれそうだ。いやいっそ、とれた方が楽だ。
﹁大きな声を出すな馬鹿っ﹂
﹁っ、っ⋮ぅっ﹂
先生は力をゆるめてすぐにあたしの口をふさいだ。
痛い。痛いよお。いたいいたいいたいぃ。
やだやだ。もうやだぁ。帰りたい。おうち帰る。お母さんん⋮
苦しくて痛くて辛くて、何もできないのが悔しくて、涙がでた。
﹁で? あいつの名前は?﹂
﹁ごめ、なさっ。ごめんなさいっ。ほんとに、あのっ、ああ、のっ、
ごめんなさいい﹂
﹁皐月﹂
手が離れて、頭を撫でられた。
いつもなら撫でられるの嫌じゃないのに、先生だと恐くてしょうが
ない。
994
優しく優しくねっとりした声がかけられる。
﹁なぁ皐月、先生怒ってないよ。な? だから、先生の質問に答え
られるな?﹂
﹁あ⋮う、先、生﹂
﹁ああ﹂
﹁あたし⋮何でもするからっ﹂
﹁あ?﹂
﹁何でもするからっ、ひ、あいつらには、酷いことしないでぇっ﹂
﹁てめっ⋮﹂
﹁いっ⋮?﹂
怒られるのを覚悟で言うと、先生はぐっとあたしの髪の毛を掴んで、
でもすぐに離した。
﹁皐月、お前はいい子だなぁ﹂
﹁先生⋮?﹂
恐い。どうして笑ってるの?
恐い。どうして優しい声なの?
恐いよ。やめて。笑わないで。
怒った顔はもちろん恐いけど、先生は笑ってる方が恐い。
﹁何でも、言うこと聞くんだな?﹂
﹁う、うんっ。聞く! 何でも聞く!﹂
なんでもきく! なんでもする!
だからヒロたちに手をださないで。痛いのもやめて欲しいけど、ヒ
ロたちに何もしないなら我慢するから。
995
﹁そうかそうか。なら、そうだな。お前がちゃんといい子になって
俺の好きな時に好きなように抱かれるってんなら、あの可愛さは非
常に惜しいが我慢してやろう。お前の顔も、かなり俺の好みだから
な﹂
嫌だ。死ぬほど嫌だ。めちゃくちゃ嫌だ。嫌だけど⋮
﹁はい。がんばります﹂
あたしにはイエス以外の返事なんて許されていない。
996
あれ、なんだっけ?
どう考えても、おかしい。
書類と言ったって保健室に鍵をかけるのはおかしい。
皐月も、何だかおかしかった。体調悪くて弱ってるにしても、顔色
も酷いし、大丈夫には全然見えない。
だからもう一度だけ確認した。だけど皐月は大丈夫だと、笑って言
った。
何故かわからないけど、嫌な予感がする。胸騒ぎがする。
だけどどうしてそう思うのかわからなくて、仕方なく引き下がる。
角を曲がって聞こえないくらいまで来てからあたしは焦りながら会
長に尋ねる。
﹁会長、どう思います?﹂
﹁え? どうかした?﹂
保健室を出てすぐにベルがなったせいで焦ってる会長は怪訝そうに
早足のまま首を傾げた。
﹁皐月、様子変じゃありませんでした?﹂
﹁そりゃあ、具合が悪いのだから当たり前でしょう? あなたなに
を言っているの?﹂
そうだけど、そうじゃなくて。あーもー!
997
﹁早く戻るわよ。昼に集合ね﹂
﹁待って下さいって! 皐月、朝普通だったのに変でしょ﹂
﹁紗里奈さん? なにか気になることでもあるんですか?﹂
よくわかんないけど、あー、どういえばいいのさ!
疑問なさげな二人をあきらめ、最後に勘がいいヒロに希望を託して
じっと見る。
それに気づいたヒロはあー、と口を開く。
﹁⋮そーいや、あの先生って前に小学校の教師なんですよね? ん
じゃ、皐月様レイプした犯人で顔見たから気分悪くなったとか。な
んて⋮さすがにないわよね﹂
﹁!? それだ!﹂
ヒロの言葉にあたしは思わず立ち止まる。
まさに天啓。ヒロの言ったことがドカーンと頭に突き刺さる。
三人も立ち止まりあたしを何を言ってるんだとばかりに見てくるけ
ど、むしろこんなことしてる場合じゃない!
﹁は? いや紗里奈様? テキトーに言っただけですし﹂
﹁絶対そうだって! むしろそれしかない! 皐月の名前聞いた時
にも反応してたし!﹂
これで全部繋がった! あたしも﹃知り合い?﹄って思ったのにな
んでそこに考えがいかなかったんだよあたしのバカ!
﹁紗里奈、いくらなんでも逮捕歴がある人間を雇うほど学園長も酔
狂じゃないわよ﹂
﹁逮捕されてたら、です。皐月の話からは泣き寝入りっぽかったで
すし﹂
998
皐月はすぐに引っ越したって言ってたし、警察に証言してつらいこ
とを思い出すのが嫌だから泣き寝入りするってのは十分にありえる。
まして皐月は訴えるとか考えられる精神状態じゃなかったみたいだ
し。
﹁会長! 鍵、借りれます!?﹂
﹁ええ? あなた本気? 荒唐無稽にもほどがあるわよ。というか
心配なら、もう遅刻確定だし戻りましょうか?﹂
﹁駄目ですっ。突然開けて証拠を掴まなきゃ!﹂
﹁⋮鍵ねぇ。多分、保健の先生に事情を話せばいいと思うけど﹂
﹁話してる時間なんてないってば! ああもう! もういいから戻
りますよ!﹂
﹁どうしようって言うのよ?﹂
﹁窓なら壊せばすぐです!﹂
﹁え、え!? あなた本気!?﹂
本気? 本気かとかもう! 全然事態の深刻さがわかってない!!
﹁マジっす! 戻りますよ!﹂
﹁待ちなさいっ﹂
﹁っ、なっ、にするんですか!﹂
踵を返そうとしたのに会長があたしの腕を掴むから危うく転びそう
になった。
早くしなきゃいけないのに!
﹁落ち着きなさい。あなたの言うことを信じるわ﹂
999
﹁え? 七海様までなに言ってるんですか。こんな馬鹿な話⋮﹂
﹁間違いなら間違いで誰も傷つかないわ。でも本当で皐月が傷つく
可能性があるなら、私は信じるわ﹂
﹁⋮﹂
﹁っ、ならなんでとめるんですか!﹂
﹁やみくもに突撃したって駄目よ。決定的証拠をつくらないとうや
むやにされてしまうわ﹂
﹁⋮⋮じゃあ、どうするんですか?﹂
あたしはどこにぶつけていいのかわからない苛立ちを抑えながら会
長に尋ねた。
○
にやにやと先生に見られながらあたしは自分でリボンに手をかけ、
自ら服を脱いだ。
恥ずかしいとかは不思議と思わなかった。なんだか変な感じだ。
あたしは何をしてるんだろう。
﹁お前、まだスポブラしてんのか﹂
﹁あ、ご、ごめんなさい﹂
﹁いやいや、怒っちゃいねぇよ。むしろ嬉しいんた、。皐月は全然
変わってねぇなってよ﹂
﹁そう⋮なんだ。先生が嬉しいなら、あたしも嬉しいよ﹂
1000
何を言ってるんだろう?
﹁いい子だ﹂
先生はあたしの頬を撫でた。
ごつごつした手が気×ち悪い。? ⋮なんだろ?
﹁後は俺が脱がせてやるよ﹂
﹁はい﹂
先生はさっきからにたにたした気×ち×い笑みを浮かべている。
本当に××ち悪い。もう×だ。⋮? なんだろ? さっきから、変
な感じ。
あたしが考えてることなのになにを考えてるかわからない。
先生はあたしのスポブラに手を×けて×にず×した。
﹁変わってねぇ。皐月は可愛いなぁ﹂
先生は舌なめずりをしてから×に×××ば××。
あれ? 今なにが起こってるんだっけ?
﹁っ⋮﹂
あれ?
××は×××××××で××××××××××××××。
ぴちゃぴちゃ
1001
何の音だろう? 凄くくすぐったい。笑い出しそうなほど強くくす
ぐったく感じるのにどうしてか、鳥肌がたちそうだ。
﹁はぁはぁ﹂
荒い息。誰のだろう。
××××××××××××××。
﹁なめろ﹂
﹁はい﹂
ん? 今誰かなにか言った?
あれ、なにかが口の中に入ってきた。これってなんだっけ?
変な味。なんだっけ? 食べたことがある味。
ぺちゃぺちゃ
﹁××××××﹂
﹁っ、っ﹂
誰かが何かを言った気がしたけどどうしてか何も聞こえない。
息がしずらい。口の中に何かがいっぱいはいってる。
なに?
﹁×××。×××××××﹂
﹁、ん﹂
なにしてるの? なに? あたしは、なにやってるの?
1002
﹁×××、皐月、×××××﹂
﹁ふぁひ﹂
どうしてかあたしの頭が前後して、しばらくすると喉の奥で液体が
吹き出された。
口の中の固まりがなくなったから反射的にはきだす。
﹁ちっ﹂
聞こえたなにかに思わず体が震えた。頭に何かがのせられてそれは
ゆっくり前後する。
﹁いい子だから、次は飲み込もうな﹂
﹁うん﹂
頭を撫でられてたみたいだ。でもなにを飲むの?
⋮⋮あれ? この人、誰だっけ?
﹁久しぶりだからか早く終わったな⋮まだ全然大丈夫だな。服を着
てパンツだけ脱げ﹂
﹁わかった﹂
言われた通りにするけど、どうしてかわからない。なんであたしこ
の人の命令聞いてるんだろう?
﹁ん、しょ﹂
えっと、リボン⋮こうだっけ? うーん、うまく結べない⋮? と
いうか、どうやって結ぶんだっけ?
1003
﹁早くしろよ﹂
﹁ん、うん⋮でもリボンが⋮どうやるの?﹂
﹁もういい。とりあえず脱げよ﹂
﹁うん。いいけど、なにするの?﹂
﹁わかってんだろ? いいことだよ﹂
﹁ほんと? 嬉しいな﹂
いいことって何だろう。美味しいものだといいな。
あたしはパンツを⋮んー。座ったままだと脱げないや。ベットの上
で立ち上がってパンツを脱−
﹁ふぎゃっ﹂
バランスを崩してこけちゃった。
﹁ちっ、なにやってんだよ﹂
﹁いたた⋮﹂
﹁もういい。俺が脱がせてやるよ﹂
おじさんはあたしのスカートをめくってパンツに手をかけた。
その瞬間、なんだか凄く恐くなった。
﹁やっ、やだ!﹂
﹁あ?﹂
﹁やだやだやだ! なんかやだ! もうやめる!﹂
﹁は? ざけんな! さっきなんでもするっつったろうが!﹂
おじさんは急に恐い顔になった。
あたしは無茶苦茶に手を動かしておじさんの手から逃れてベットか
1004
ら転がり落ちる。
おじさんからは離れたけどお尻うって痛い。
﹁やぁあ! 痛いの! お母ぁさーん!!﹂
﹁こ、こら、静かにしろっ﹂
﹁むぐっ﹂
おじさんがベットから降りてきてあたしの口をふさいだ。
苦しいよー。
﹁とあーー!!﹂
がちゃーん!っておっきい音がして窓からお姉ちゃんが入ってきた。
﹁皐月!﹂
﹁皐月様!﹂
ドアも開いてお姉ちゃんがまた入ってきた。みんな綺麗なお姉ちゃ
んばっかりだ。
﹁なっ!?﹂
おじさんは慌てたように立ち上がってあたしをベットの上に乗せて、
3人を振り向いた。
﹁ど、どうしたんだい?﹂
﹁今更ごまかせると思ってんの!? あんたの悪事はバッチリ撮っ
てんだから!﹂
言いながら1番小さいお姉ちゃんが携帯電話をこっちに向けてる。
1005
よくわかんないけどピースした。
﹁⋮皐月様、なにしてんの﹂
﹁? ピース﹂
﹁いらないから! 状況わかってんの!?﹂
﹁んー? あ! わかった。お姉ちゃんたち、あたしを助けにきて
くれたんだね﹂
﹁は⋮はぁ? お姉ちゃん?﹂
﹁皐月、あなた大丈夫なの?﹂
﹁あのね、このおじさんがあたしのパンツ取ろーとするの﹂
﹁皐月、なに言ってんの? ⋮先生! 皐月になにしたんだよ!﹂
﹁知らねぇよ! 馬鹿になりやがった! おいガキ! いいからそ
の携帯をとめろ!﹂
﹁嫌に決まってんでしょ﹂
﹁ちっ﹂
﹁うなっ﹂
おじさんはあたしをぎゅーって抱えこんだ。
○
1006
嘘から出たまこと、みたいな
紗理奈様がヒロの思いつきを信じてるみたいでどうしようかと思っ
たら、七海様まで信じると言いだした。
だけど、別に、ヒロだって、皐月様が傷つくのは嫌だし、なんかズ
ルい気がするけど、七海様の意見に従うことにした。
ズルいってのは言い方はあれだけど、要は信じるって言った七海様
のが皐月様を大切に思ってる的な雰囲気がある気がしたから。
ヒロの方が、絶対好きなのに。なんか気にいらない。うー。
﹁とりあえず紗理奈は鍵を借りてきて、理由は適当にでっちあげて
いいわ。特別に許可するから全力で走りなさい。あとメールで指示
するからサイレントにしておきなさい﹂
﹁わかりましたっ﹂
紗理奈様は七海様に言われるまま走りだした。
﹁逃げられないよう二手にわかれた方がいいわ。紗理奈には窓に回
ってもらうとして、ヒロ、学園長に連絡して警備員をまわしてもら
えるかしら。あまり大事にして違ったら問題だから、割れたガラス
の処理を頼むということで﹂
﹁わかりました﹂
おばあちゃんに電話をすると通話中だった。仕方ないからメールし
ておく。
﹁メールだと心許ないわね⋮小枝子、あなた紗理奈が戻ったら誰で
1007
もいいから呼んできてくれないかしら? 乗り込んだあと、つまり
ガラスが割れてから来るくらいが望ましいわ。タイミングはメール
するから﹂
﹁わ、わかりました﹂
﹁あと証拠は⋮携帯電話でいいでしょう。ヒロ、あなたは動画を。
私は音声録音をするから﹂
﹁わかりました﹂
しかしまぁ、七海様はやると決めたら徹底的だ。
紗理奈様にもメールで伝えて、七海様はよしと呟く。
﹁とりあえず戻りましょう。静かにね﹂
﹁は、はい﹂
小枝子様はさっきからなんか緊張してるみたい。どうしたんだろう。
﹁⋮⋮﹂
本当に、あの男がレイプ犯なわけ? ヒロには普通に普通の人の良
さそうなオッサンに見えた。
わかんない。わかんないけど、皐月様がえろいこと無理矢理されて
るかと思うと頭沸騰しそうだし、確認するのはいいと思う。
てゆーか、考えだすともやもやしてきた。そんなまさか、ないと思
うけど、不安になってくる。
七海様の指示で靴を脱いで足音がでないようにして、抜き足差し足
忍び足でゆっくり保健室前に戻った。
﹁−−−﹂
1008
﹁−−−﹂
なにか話してるのはわかるけど、壁に遮られてよく聞こえない。防
音じゃなかったと思うけど、ベットはドアから遠いからなぁ。
ん? でもそもそも体調悪いのになに話してるわけ? 初対面の先
生ならそんなに話すことなんてないでしょ⋮ほんとに知り合い?
﹁、﹂
﹁?﹂
肩を叩かれて静かに振り向くと七海様がヒロに携帯電話の画面を向
けていた。
それはメール画面で、紗理奈様から鍵を受け取りに行くこと、小枝
子様はもう行くこと、
ヒロは待っていて七海様が戻ったらタイミングを合わせて部屋に入
るから、用意をするようにと書かれていた。
小枝子様は頷いてゆっくりと歩いて行った。ヒロも頷くと七海様は
静かに離れて行った。
改めて耳を澄まして中の様子を伺う。特に変わらず、ぼそぼそと話
してるのがわかる程度の音がするくらいで気づかれてる様子はない。
ちらと見ると少し離れたところで七海様が紗理奈様から鍵を受け取
るのが見えた。
携帯電話を開いて動画撮影画面をだし、長時間録音できるようにモ
ードを変換する。
﹁ー!﹂
1009
﹁⋮⋮⋮ーー! ーーーーだ! ーーやーる!﹂
﹁ーーんな! さっーーーーーーーっつっーーが!﹂
﹁!?﹂
急に中の音のボリュームがあがり、誰が話してるのかまでわかるよ
うになった。
七海様が行った方を慌てて見るとこっちに歩いてた七海様はヒロの
態度に気づいたのか慌てて、たぶん、紗理奈様にメールを出した。
﹁ーあ! 痛いの! お母ぁさーん!!﹂
今度はもっとはっきりと、皐月様の叫び声が聞こえて、ヒロは頭の
中が真っ白になって立ち上がった。
音がたつのも無視して七海様が走ってきて、鍵をまわしたのを見て
ばっとドアを開けた。
﹁とあーー!!﹂
ガシャーンとガラスが割れる音と紗理奈様の掛け声に遅れてヒロと
七海様は部屋に入った。
真っ直ぐ前の割れた窓から手をいれて窓をあけて、どこからとって
きたのかバットを手に紗理奈様が入っていた。なんでバット!とち
らっと思ったけど無視。
﹁皐月!﹂
﹁皐月様!﹂
録画ボタンを押しで名前を呼びながらベットの方を見る。
1010
﹁なっ!?﹂
さっきも見た先生はヒロたちを見ると慌てて立ち上がって、皐月様
を床からベットの上に乗せた。
﹁ど、どうしたんだい?﹂
﹁今更ごまかせると思ってんの!? あんたの悪事はバッチリ撮っ
てんだから!﹂
男は笑顔を浮かべてこっちを向いたけど、皐月様の服装は乱れリボ
ンはほどけてる。だいたい近すぎるし、おかしいとしか言いようが
ない。
録画しながら言うと男は笑顔を消した。皐月様は何故かきょとんと
しながらヒロに向かってピースしてきた。
﹁⋮皐月様、なにしてんの﹂
﹁? ピース﹂
いや! カメラ向けたらピースとか馬鹿!? なにその無意味に空
気読まない反射行動!
﹁いらないから! 状況わかってんの!?﹂
﹁んー? あ! わかった。お姉ちゃんたち、あたしを助けにきて
くれたんだね﹂
﹁は⋮はぁ? お姉ちゃん?﹂
ニコニコして言われた意味がわからない。こんな時にふざけてる⋮
わけないし。皐月様、おかしくなっちゃった?
1011
﹁皐月、あなた大丈夫なの?﹂
﹁あのね、このおじさんがあたしのパンツ取ろーとするの﹂
﹁皐月、なに言ってんの? ⋮先生! 皐月になにしたんだよ!﹂
﹁知らねぇよ! 馬鹿になりやがった! おいガキ! いいからそ
の携帯をとめろ!﹂
﹁嫌に決まってんでしょ﹂
あああもう! わけわかんない! 皐月様やばい! とにかくこの
男のせいだ! なんなのもう!
﹁ちっ﹂
﹁うなっ﹂
男は舌打ちすると皐月様の首に腕をかけて引き寄せた。
﹁言う通りにしねぇと、こいつを絞め殺すぞ﹂
﹁は⋮﹂
﹁無駄な抵抗はやめなさい。逃げられないことくらい、わかってる
でしょう?﹂
﹁てめぇらが黙ってればいい話だ。それともお前らだけで俺をどう
にかできるってのか?﹂
﹁あんたねぇっ、今小−﹂
﹁ヒロっ、おとなしくするんだ。今は皐月が優先だろ﹂
小枝子様が人を呼んでくると言おうとすると、紗理奈様に遮られた。
﹁わ、わかってますよっ﹂
下手に刺激しない方がいいとか、そんなことわかってるけど! で
もこの男見てたらどうしようもなくイライラするんだからしょーが
1012
ないじゃない!
﹁やー、離してー﹂
﹁黙れ﹂
﹁あっ、いだだだああ! いたぁいい!﹂
﹁や、やめて! 皐月様が痛がってるじゃない!﹂
片手で顔面をつかむようにされて悲鳴をあげる皐月様の姿に思わず
声がでる。
男は皐月様を片手で拘束しながらももう片方の手をさげ、ヒロを見
た。
﹁だったらさっさとその携帯電話をしまえよ﹂
﹁わ⋮わかってるわよ﹂
﹁、う、うぇ∼﹂
﹁煩い。静かにしろ﹂
﹁っ、ん、ず﹂
順に二人に視線をやると頷かれ、ヒロは携帯電話を閉じてポケット
にいれた。
腹がたつ。なんでこんなやつの言うこと聞かなきゃなんないのよ。
反抗的な気持ちはもちろんあるけど、ぐすぐす泣き出してる皐月様
の姿を見ては仕方ない。
﹁それでいい。いいか? 逆らったら殺すからな。お前らはなにも
見なかった。ガラスは⋮石で偶然割れたってことにでもしろ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんだお前ら、その反抗的な目は⋮そうだ、いいことを思い付い
たぞ﹂
1013
とにかく小枝子様が戻るまで時間を稼ぐのにどうしようと思ってる
と、急に男はにやぁと笑った。
﹁とりあえず全員犯すか﹂
﹁⋮⋮は?﹂
こいつ、なんて言った?
﹁そうすりゃ口外できないしな、うん。約2名は全く好みじゃない
が、仕方ない﹂
﹁はっ、なっ﹂
なに言ってんのこいつっ!? てかなんでヒロ見てそう笑ってるわ
け!? 気持ち悪っ!!
ぞわぞわと鳥肌がたつ。
﹁ちょっと待ちなさい! あなたそんなことして、どうなるか本当
にわかっているの!?﹂
﹁うるせぇな。お前みたいな脂肪の多い年増女には興味ねぇんだよ。
嫌だけど抱いてやるってのに騒ぐんじゃねぇ﹂
﹁はっ﹂
絶句する七海様。そりゃ、年増女だなんて言われたのは始めてだろ
うし。ていうか、そうだ。つまりこいつ⋮ロリコンだ。
﹁ちょっと、待って﹂
﹁あ?﹂
﹁なら、ヒロがそっちに行く。だから皐月様は離してあげて﹂
﹁ヒロっ!?﹂
﹁なにを!?﹂
1014
二人が反応するけど無視。こいつは完全にイカレテる。交渉の余地
があるならヒロしかない。
﹁ついでに二人にも手はださないで﹂
﹁は⋮そりゃお前が俺のもんになるならいいが、なにが目的だ?﹂
﹁だから、皐月様を離してって言ってるでしょ﹂
﹁⋮はぁん、麗しい友情ってやつか。﹂
﹁違うわよ﹂
﹁あ?﹂
﹁友情じゃなくて愛情よ。間違えないでよね﹂
﹁⋮ふっ、ふはは!! バカバカしい! はいはい、女子高だから
な。いいんじゃね? そのうちお前らのレズプレイでも見せてもら
うか﹂
反射的に言い返すと笑われた。
こいつ、まじ殺すっ!!
﹁ま、んじゃとりあえずこっちこいよ。そしたら皐月を離してやる﹂
﹁⋮絶対だからね﹂
﹁ヒ−﹂
﹁二人は黙ってて下さい﹂
﹁そうだそうだー。お前らは俺の好みじゃないからな。黙ってれば
見逃してやるよ﹂
﹁っ﹂
二人とも悔しそうにしながらも黙るしかない。
ヒロはゆっくりと二人に、皐月様に近づいた。
﹁皐月様﹂
1015
﹁、うー?﹂
泣きながら顔をあげた皐月様は、子供そのものでちょっと笑えた。
﹁ほら、泣かないの。立って﹂
﹁え、でも⋮﹂
﹁もういいぞ。こっちが手にはいったからな﹂
男はヒロの腕を掴むと皐月様の拘束をといた。
﹁いいから、あの髪長いお姉ちゃんたちのとこに行って。わかる?﹂
﹁う、うん﹂
皐月様は戸惑いながらベットからおりた。ほっと安堵する間もなく、
ヒロは男に引き寄せられベットにのせられた。腕から肩に触れられ
る箇所が移る。気持ち悪くて体が硬直する。
﹁ああ、間近で見ても可愛いな。名前はヒロ、だな﹂
﹁⋮そうよ﹂
﹁んじゃ、さっそく﹂
﹁駄目っ﹂
﹁え?﹂
男がヒロの服に手をかけた瞬間、ヒロは何故か皐月様に抱き上げら
れた。
○
1016
1017
事件解決?
﹁駄目っ﹂
お姉ちゃんを抱きしめたら思ったより軽くてちっちゃかったから持
ち上がって、勢いついてそのままぬいぐるみみたいに抱っこしちゃ
った。
あたし、いつの間にかおっきくなってた?ってちょっとびっくりし
たけど、おじさんが恐い顔したから慌ててベットから飛びおりた。
﹁おいっ﹂
﹁でかした皐月っ﹂
﹁お姉ちゃん、大丈夫?﹂
﹁う、うん⋮ありがと﹂
﹁どーいたまして﹂
髪の長いお姉ちゃんのとこに行ってちっちゃいお姉ちゃんを下ろす。
窓から入ってきた髪の短いお姉ちゃんがあたしを褒めてにかって笑
ったから笑いかえす。
よかった、お姉ちゃんが大丈夫で。
なんでかわかんないけどお姉ちゃんがおじさんに嫌なことされるっ
て思ったらすごく嫌な感じがした。勝手に体が動いたんだけど、助
けられてよかった。
﹁皐月、あなたは大丈夫なの?﹂
﹁ん?﹂
髪の長いお姉ちゃんが聞いてきたから小さいお姉ちゃんから顔をあ
1018
げて見たら、髪の長いお姉ちゃんのお顔がよく見えてびっくりした。
﹁? 聞こえている? 大丈夫なの!?﹂
﹁あっ、うんっ、だ、だいじょーぶいっだよ!﹂
慌てて返事した。
びっくりしたなー。このお姉ちゃん、外人さんだ。それにすっごい
美人さん。すごいなー。
﹁はっ。これで形勢逆転よ!﹂
﹁ヒロっ、変に刺激するなって!﹂
﹁くっ﹂
3人ともおじさんを睨んでる。振り向くとおじさんはまだベットに
いた。
なんだかわかんないけどお姉ちゃんたちに嫌われてるみたいで、ざ
まーみろだ。
あたしも恐いから嫌い。あっかんべーしてやる。
﹁べー﹂
﹁皐月っ、馬鹿なことしないの﹂
﹁口、はーい﹂
美人のお姉ちゃんが言うからやめた。このお姉ちゃんもちょっと恐
いかも。
﹁このっ、くそがっ! もう許さねぇぞ皐月っ!﹂
﹁わっ﹂
おじさんがすっごい、もう鬼みたいな顔になってこっちに向かって
1019
きた。
恐くて固まったら、美人のお姉ちゃんがあたしの前にたった。
﹁どけっ﹂
﹁きゃっ﹂
﹁会長!? このっ﹂
恐いおじさんに美人のお姉ちゃんが顔を叩かれて転んで、髪の短い
お姉ちゃんがバットをふりあげておじさんに飛びかかった。
﹁年増はどけってんだよ!﹂
﹁っ、はっ、離せよっ﹂
﹁おらっ﹂
﹁だっ﹂
﹁紗理奈様!?﹂
けどおじさんはおっきいから簡単にバットつかまえて、お姉ちゃん
に向かって突き返しちゃった。お姉ちゃんはバットから手を離して
机にぶつかった。
﹁いつつ、だ、大丈夫。会長っ﹂
﹁、平気よ﹂
美人なお姉ちゃんも立ち上がったから無事だ。けど、今度はあたし
と小さいお姉ちゃんの真ん前におじさんがいる。
小さいお姉ちゃんはあたしに抱き着いてるから、あたしもぎゅって
抱きしめる。
ああ、なんだか、変。
おじさんにすごい怒ってる。お姉ちゃんたち痛いってなった瞬間か
1020
らおじさんに飛び掛かりたいくらい腹がたってる。
泣きそうなくらい恐くて何もできない。逃げることもできない。
なのにどうしてかわからないけど、おじさんがこれ以上お姉ちゃん
たちに酷いことしたらあたしがどうにかなっちゃいそうで、それが
もっと恐い。
バットを片手で握り直したおじさんはにやにやしながらあたしにバ
ットを向けた。
﹁形勢逆転だな。あ?﹂
﹁お、おじさん、駄目だよ﹂
﹁あ?﹂
﹁お姉ちゃんたちいじめちゃ、駄目だよ。あたし、嫌だ。怒っちゃ
うよ﹂
﹁はっ。怒る? 怒ったらなんになんだ。ガキが男にかなうか? あ? おら、お仕置きだっ﹂
﹁いやぁっ﹂
震える声でおじさんにやめてって言ったのに聞いてくれなくて、お
じさんはバットをふりかぶった。
小さいお姉ちゃんが悲鳴をあげて、守らなきゃって思った。
恐いけど、関係ない。みんなを守らなきゃ。
ほとんど無意識にあたしは手を前にだした。
じっと見てた。バットがきて、あたしがそれに手を沿えるようにす
るとバットはあたしの横に落ちた。
床と当たってカァンって音がした。
小さいお姉ちゃんを反対の手で後ろに押した。
1021
バランスが崩れてやや前屈みになったおじさんの胸を蹴った。
﹁!?﹂
若干仰向いて2歩下がったおじさんに体当たりするように胸元に入
って、バットを持ってる腕をつかんで半円くらい引っ張る。
そして勢いのままおじさんはたたらを踏みながら回って、あたしは
腕を抱き込むようにしっかり握って足を引っかけながら前回りした。
﹁ぐぇっ﹂
おじさんを背中で押し潰した瞬間におじさんの手を背中側の床にお
しつけるようにして勢いのまま立ち上がる。ついでに握力がゆるん
でたからバットももらう。
振り向いてすぐにおじさんの首のすぐ下を思いっきり踏み付けた。
﹁がっ﹂
顔はとっさに振っても避けられることが多いからここを狙えって言
われたから⋮誰が言ったんだっけ? まぁいいや。
その足に体重を乗せて今度は肘に足を叩きつける。
﹁ぐっ、てめっ﹂
﹁こいつらをいじめたら、許さねぇっつっただろ﹂
バットを振りかぶった。
1022
○
﹁お仕置きだっ﹂
﹁いやぁっ﹂
男がバットを振り上げてヒロが悲鳴をあげた瞬間、皐月は表情を変
えた。
泣きそうな横顔が、無表情になった。
バットは床にあたり、皐月が蹴りをだし体当たりをし、あっと思う
間に男は床に転がった。
﹁こいつらをいじめたら、許さねぇっつっただろ﹂
俯き気味で髪の影になって皐月の表情は見えないけど、無感情を装
った声には怒りが満ちていた気がした。
バットが皐月に渡りほっとしたけれど、皐月が振りかぶったのを見
て私は慌てた。
方向から間違いなく頭を狙っている。いけない、皐月は冷静さを欠
いている。
もし男が死んでしまえば、皐月が悪くなってしまう。正当防衛で無
罪放免になっても、人殺しをした事実は絶対に皐月に影響を与える。
1023
そんなのは駄目だ。
﹁皐月!?﹂
﹁やめなさいっ!!﹂
﹁皐月様ぁ!﹂
声をあげた。でも皐月はとまらない。
もう間に合わない! 私は思わず目を閉じた。
カーーン!!
高く大きな金属音がして、耳が痛くなった。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮、? さ、皐月?﹂
目を開けると、バットは男の頭を砕いていた−なんてことはなく、
バットは男の頭すれすれの床に押し付けられていて、男も皐月も身
じろぎ一つしない。
﹁⋮、﹂
﹁こらヒロ。やめなさいっ﹂
何を思ったかヒロが平然と固まる二人に近づき、男の頭を足で小突
いた。
﹁大丈夫ですよ。気絶してます﹂
﹁そ、そう⋮いや、そういう問題じゃないわよ。人の頭を蹴るなん
てはしたないでしょう﹂
1024
近づくと男は目を見開いたままで全く動かない。瞬きもしないので
気味が悪い。
﹁会長⋮さすがに今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう。
皐月、もういいよ⋮⋮え? 皐月も気絶してる﹂
﹁えっ﹂
﹁あ、ほんとだ。恐いから目ぇ閉じさしますね﹂
﹁そうね﹂
ヒロが皐月を閉じる間に、私も男の目を閉めることにした。触れる
のはとても気持ち悪いが、このままも気持ち悪い。
﹁とりあえず寝かすか、ていうか小枝子遅いなぁ⋮え﹂
﹁どうかしました?﹂
﹁や、まだ5分ちょいしかたってないや。30分くらいたってるか
と思ったのに﹂
言われてポケットから録音しているままいれていた携帯電話を取り
出し、停止させて保存しながら時間を見る。
確かにまだ10分たってない。体感時間ではとても長かったのに驚
きだ。
﹁皐月さっ⋮⋮えーっと⋮あの﹂
血相をかえてやってきた小枝子は、私たちを見て戸惑いながら言葉
を濁す。
その様子にどうも気が抜けて、息を吐きながら声をかける。
1025
﹁ああ、遅かったわね。皐月ならとりあえず大丈夫よ﹂
とりあえず、体は無事だ。だけど⋮
これからどうなるのかしら。
私は小枝子に続いて入ってきた警備員たちを見てまたため息をつい
た。
まぁ、一応事件解決、なのかしら?
○
﹁んー?﹂
目を開くと眩しくってぎゅってまた目を閉じた。
﹁皐月ちゃん? 起きたの?﹂
﹁ん、おかーさーん、眩しーからカーテンしめてー﹂
シャッ−
カーテンが閉まる音がして瞼越しの光が弱まったからそっと目を開
けた。
1026
﹁⋮あれ?﹂
﹁おはよう。体は大丈夫?﹂
﹁うん。おはよう。ねぇお母さん、ここどこ?﹂
家じゃなくてベットで寝ていて、お母さんだけじゃなくてたくさん
の人がこっちを見てる。とりあえず起き上がる。
な、なに?
﹁⋮病院よ。何があったか、覚えている?﹂
﹁びょーいん⋮? なんで?﹂
﹁皐月ちゃん、ちょっといいかな﹂
﹁おじさん、お医者さん?﹂
母さんの横にいた白衣着たおじさんが手前に出て来た。病院だしコ
スプレしたおじさんじゃなきゃ多分お医者さん。
﹁ああ、覚えてないだろうが君は倒れたんだよ。少し質問してもい
いかな?﹂
﹁あ、はい。わかりました﹂
﹁名前は?﹂
﹁滝口皐月です﹂
﹁年齢は?﹂
﹁年は⋮⋮え? あれ?﹂
何歳だっけ?
﹁え? え? え?﹂
﹁落ち着きなさい。わからないならわからないでいいから﹂
﹁は、はい﹂
﹁2×2は?﹂
1027
﹁4⋮です﹂
混乱した頭でいきなり掛け算の質問がきてなんとか答える。
え? なにこの質問。
﹁10÷2は?﹂
﹁5﹂
﹁自分の名前、漢字で書けるかな? これで書いてみて﹂
﹁うん﹂
渡されたペンと紙でちゃちゃっと書く。
﹁うん⋮合ってるね。じゃあ次の質問いいかな。疲れてるのにごめ
んね﹂
﹁ううん。大丈夫です﹂
﹁ありがとう。この子たちの名前、わかるかな?﹂
お医者さんはそう言って4人を指す。4人は不安そうにこっちを見
てる。
? なにこの雰囲気。覚えてるに決まってる。
﹁うん。榊原七海、手塚紗理奈、白鷺弘美、高田小枝子でしょ? 友達のこと忘れたりしないよ﹂
そう言うと4人とも、お母さんもだけどほっとしたように笑みを浮
かべた。
なんでみんなのこと忘れてるなんて思うのさ? よくわかんないけ
ど、記憶が曖昧みたいだし頭でも打ったのかな?
﹁そうか、じゃあ、彼女たちとはいつから友達なの?﹂
1028
﹁⋮⋮あ、れ? え?﹂
﹁わからない?﹂
﹁わか⋮わか、え? わかる、と、思う⋮え?﹂
会った、会った記憶⋮ある? 最初は⋮学校? なに? わかるは
ずなのに、モザイクかかったみたいになる。
﹁わかった。無理しないでいいから。もういいよ。大丈夫だから、
落ち着いて﹂
﹁は、はい﹂
﹁次の質問が最後だから、よく聞いてね﹂
﹁はい﹂
﹁君の名前は崎山皐月だね?﹂
﹁は⋮い、はい、うん。そう。それも俺の名ま⋮え?﹂
俺? なんで?
﹁ん? どうかした?﹂
﹁俺? 俺?﹂
なんで? なんで﹃俺﹄? ﹃あたし﹄女の子だよね?
﹁皐月ちゃん?﹂
﹁え? 俺⋮あ、あたしは⋮え?﹂
すごく自然に俺って言ってる。今まで⋮使ってた⋮っけ? え、な
んで? なんで俺って言ってたの?
思い出せない? 記憶喪失? え? どういうこと?
﹁落ち着きなさい、大丈夫だから﹂
1029
お医者さんに言われても不安で堪らなくて、お母さんを見つめた。
﹁お母さん⋮俺⋮なに? わからないよ。どうなってるの?﹂
﹁落ち着いて、皐月ちゃん。大丈夫。私が隣にいるでしょ?﹂
お母さんがそっと手を握って微笑んでくれた。
﹁⋮うん﹂
不安でざわざわしてた胸がすっと静かになった。
ああ、よかった。お母さんがいるなら大丈夫だ。よかった。本当に
よかった。
﹁おか、お母さん⋮﹂
﹁さ、皐月ちゃん。どうかしたの? どこか痛いの?﹂
﹁わ、わか、わかんないけど⋮恐かった⋮の﹂
涙が出てきて、体が震えてとまらない。
今はなにも恐ろしいことはないのに、どうしてか恐いという気持ち
がいっぱいだ。
﹁そう、もう大丈夫だからね﹂
﹁うん⋮うんっ﹂
もう大丈夫なんだ。
そう思ったらすごく安心して、すごく眠くなった。
﹁あ⋮お母さん、ごめん、なんか⋮眠い﹂
1030
﹁そうなの、じゃあお休みなさい。ゆっくり眠りなさい﹂
﹁うん⋮あの、覚えてないけど、心配かけたみたいでごめんなさい。
みんなもごめんねぇ﹂
ちょっと眠さで目が閉じそうになるけどみんなにちゃんと謝ってお
く。
﹁き、気にしないで下さい。皐月さんが無事で本当によかったです﹂
﹁うんうん、無事でなにより。気にすんなって﹂
﹁まー、しょーがないから、さっさと寝て元気になりなさいよね﹂
﹁⋮皐月﹂
﹁なぁに?﹂
﹁⋮何でもない。あなたが無事で嬉しいわ。お休みなさい﹂
﹁ん、ありがとう。お休みなさい﹂
なんだかすごく疲れてたみたいで、布団に入りなおして目をつむる
とすぐに眠りにおちてしまった。
○
1031
思い出したい
﹁⋮すぅ、⋮すぅ﹂
気持ち良さそうな寝顔。昔と全然かわらない。
﹁皐月ちゃん⋮﹂
そっと髪を撫でる。柔らかくてふわふわで、本当に皐月ちゃんは勇
人さんにそっくり。生き写しだ。
だからだろう。
私は皐月ちゃんを過大評価していたのかも知れない。多分、きっと
そう。
皐月ちゃんなら乗り越えられる。勇人さんにそっくりな皐月ちゃん
だから、徐々にだけどもう傷は癒えてきてるんだと思ってた。
皐月ちゃんだから、勇人さんにそっくりな皐月ちゃんだから、私は
無意識に皐月ちゃんも強いんだって思い込んでた。
けど違った。
皐月ちゃんは、勇人さんじゃない。
わかってるはずなのに、わかってなかったのかも知れない。わかっ
た気になってただけだ。
わかってたのに、皐月ちゃんが大きくなって男の子みたいになって、
そっくりで、いつも笑っていたから、いつの間にか私は忘れてたみ
たいだ。
勇人さんとは違う。皐月ちゃんはまだ10代の、本当に弱い、可愛
1032
い女の子。
﹁⋮ごめんね﹂
なのに私は甘えてた。守ってあげなきゃいけない皐月ちゃんに甘え
てた。
皐月ちゃんなら大丈夫だって勝手に思って、皐月ちゃんの将来のた
めだって突き放した。
私は本当に馬鹿だ。皐月ちゃんがこんなに傷つくくらいなら、依存
してても視野が狭いままでもいいから、私がひたすらに抱きしめて
あげていればよかった。
﹁⋮、⋮﹂
涙がこぼれた。
静かに、涙が溢れてとまらない。とめようとも思わない。
私は今更後悔してる。
世界でたった一人の私の娘。どうして傍にいてあげなかったんだろ
う。
どうして外の世界に出そうなんて思ったんだろう。
彼女はもう一生分傷ついたのに、どうして克服させてまでもう一度
独り立ちさせようなんて考えたんだろう。
世界には沢山の辛いことでいっぱいで、皐月ちゃんがまた傷つく可
能性があるのはわかってたのに。
最悪だ。いや、最低だ。私は最低の母親だ。
母親失格だ。私はあの人が死んでからなにもかわらない。子供のま
まで、子供を産んで、子供に頼って、私はなにをやってるんだろう。
1033
﹁優希﹂
﹁ぁ、お父、様⋮﹂
声をかけられて顔をあげるといつの間にか隣にお父様がいた。
﹁⋮よく寝とるわ。本当に⋮勇人の若いころに似とるのぉ﹂
﹁お父様⋮ごめんなさい﹂
﹁⋮優希、わかっているのじゃろう。お前が悪いわけではない。あ
のクソッタレが悪いだけじゃ﹂
﹁でも⋮私が学校に行かそうなんて言わなければ⋮﹂
﹁馬鹿を言うな。それこそ優希が皐月を愛していたからじゃろう﹂
﹁⋮でも、でも皐月ちゃんは⋮﹂
﹁優希、皐月は学園生活をして楽しそうじゃった。友達ができて本
当に楽しそうじゃった。それは優希も知っておるじゃろ?﹂
﹁それは⋮もちろん、知ってるわ。お父様や私よりも一緒にいて嬉
しそうな顔をするから、寂しいほどだったもの﹂
﹁そうじゃな。なら、ワシの言いたいこともわかるじゃろ﹂
わかる。本当は私もわかっている。お父様とはたくさん話をした。
たくさん、たくさん。
私の二人目の父親。お父様。でも、敬語じゃなくなって、距離が近
くなって、家族で、それでも私とお父様はまだ遠い。
﹁でも⋮だからって割り切れないわ﹂
﹁優希⋮。そうか。なら、とりあえず考えるな﹂
﹁え⋮?﹂
﹁皐月は今不安定なんじゃろ。なら支えてやれ。皐月に一番近いの
は優希じゃろ﹂
私にはお父様は遠い。お父様は強くて、私には眩しい存在だから。
1034
でも、お父様がいてくれてよかった。
﹁⋮⋮うん、ありがとう。お父様﹂
そうよね。後悔するより、謝るより、皐月ちゃんが元気になるほう
が大事よね。
私はそっと皐月ちゃんの頬を撫でた。
○
﹁皐月、また来るね﹂
﹁うん。またねー﹂
なんだかわかんないまま入院することになって三日目、4人がお見
舞いに来てくれたのはいいけどなんかぎこちない。
いつもはもっとこう⋮イマイチ思い出せないけど和気あいあいとし
てた気がする。
一時間もしないうちにみんな帰っちゃったし。つまんないの。
﹁あら? みんなは?﹂
﹁あ、おかえり。お母さん。もう帰っちゃった﹂
﹁そうなの。会いたかったわー﹂
1035
殆ど入れ代わるように入ってきたお母さんは残念そうにしながら、
ベット脇の椅子に座った。
﹁また来てくれるってさ﹂
﹁そう、よかったわね﹂
﹁うん。でもお母さん﹂
﹁ん?﹂
﹁どうしてあたし、まだ入院してるの? もう大丈夫だよ﹂
﹁⋮駄目よ。まだ記憶が曖昧でしょ?﹂
﹁んー、でもね。記憶喪失って普通の生活してた方がいいってなん
かであったよ?﹂
﹁⋮思い出すことがいいことか、私にはわからないの﹂
﹁?﹂
﹁あのね⋮皐月ちゃんはただ転んだんじゃなくて、本当は凄く嫌な
ことがあって、記憶がとんじゃったの﹂
﹁え? そ、そうなの?﹂
﹁うん。だからね⋮悩んでるの﹂
記憶喪失になるほどの嫌なこと、ねぇ。
だからみんな態度が微妙だったのか。納得。でも⋮あたし結構色々
思いだしてきてるし、時間の問題だと思うなぁ。それに−
﹁お母さん、記憶が戻るかも知れないからって学校に行かないとか
は、逃げてるだけだよ﹂
﹁それは⋮わかるわ。でも、同じことで何度も傷ついてほしくない
の﹂
﹁あたしは⋮思いだしてまた傷ついたとしてもいいと思うけどな﹂
﹁⋮どうして?﹂
﹁だって、本当にあったことなんでしょ? 忘れたからってなかっ
たことにはならないし、嫌なことならなおさら、覚えてた方がもう
1036
経験しなくていいように反省するとかできると思うんだよね﹂
ちょっと優等生発言な気もするけど、何があったか知らないけどま
た同じ目に合うよりはちゃんと覚えてた方がいいよね。
﹁⋮⋮そうね。皐月ちゃんはいつも、前向きで強いわね﹂
﹁え、そうかな?﹂
﹁ええ﹂
﹁うーん、自分ではよくわかんないや。でももしあたしが強いなら、
それはお母さんのおかげだよ﹂
﹁⋮え? ど、どうして?﹂
﹁だって、お母さんがいるから頑張れるんだもん。お母さんがいて
くれるからあたしは安心して強気なことも言えるんだよ。お母さん
がいなきゃ、あたしは駄目だよ﹂
﹁そんなことないわよ﹂
﹁あるよ。もしあたしが思い出して傷ついても、お母さんは一緒に
いてくれるんでしょ?﹂
﹁え、ええ﹂
﹁ならやっぱり、思い出しても大丈夫だよ﹂
お母さんがいるなら何だって乗り越えられる。あの時だって母さん
がいたから⋮⋮ん? あの時ってなに?
﹁⋮⋮﹂
﹁? 皐月ちゃん?﹂
﹁う、うん。何でもない。とにかくそういうことだから、もっとこ
う、思い出せるようにしようよ。気をつかって話しちゃ駄目。みん
なにもそう言わなきゃ﹂
﹁⋮そうね。皐月ちゃんがそういうなら、そうしましょうか﹂
﹁うん﹂
1037
本当はちょっとだけ、思い出すのは恐い。
けど、何故かわからないけど思い出さなきゃいけない気がする。思
い出さなきゃ、あたしのアイデンティティに関わるというか⋮なん
か、凄く大きな事を忘れてる気がするんだよね。
昔のことから最近のことも曖昧なことが多いし、どういう連鎖でか
わかんないけど記憶が大分思い出せなくなってる。
思い出さないと、いけない。どうしてかわからないけどそう思うん
だ。
﹁とりあえず、質問するから答えてくれる? そのほうが手っ取り
早いと思うんだよね﹂
﹁さ、早速ね。わかったわ﹂
﹁じゃあまず、あたしって﹃俺﹄って言ってたの?﹂
﹁ええ、言ってたわ。あと僕ともね﹂
﹁何で? なんかきっかけでもあるの?﹂
﹁⋮あのね、落ち着いて聞いてね﹂
﹁うん﹂
﹁⋮昔、あなたはある男性にレイプされたの。それから男性恐怖症
になって、男のフリをすることで克服したの。ハッキリとは言って
ないけど男の子ならレイプはされないって考えたんだと思うわ﹂
﹁へぇ。そうなんだ﹂
﹁⋮それだけ?﹂
﹁まぁ⋮言われても実感ないから人事みたいなものだし。で? そ
れからどうなったの?﹂
お母さんは複雑な表情をしながらあたしの半生を話しだした。
1038
○
﹁もしかしてあたしってマザコンだったの?﹂
﹁あら、どうして?﹂
話を聞き終えての感想はこれに尽きた。何故なら−
﹁そんなに詳しく知ってるなんて、お母さんがあたしのストーカー
か、あたしがマザコンで逐一報告してるかしかないでしょ﹂
内容量は多くないけどいちいち細かいし、そうでなくても寮に入っ
てからも同じ詳しさなんてどう考えてもおかしい。
確かにお母さんは美人で優しいから大好きだけど、小学生じゃある
まいし親子で隠し事0ってないでしょ。
﹁うーん、そんなことないと思うわ。ちょっと親子仲がいいだけよ。
仲がいいのはいいことでしょ﹂
﹁⋮ちょっとかなぁ﹂
まぁ、お母さんと二人きりで頑張ってきただけじゃなく、トラウマ
のせいで依存してたんだろうなぁ。
お母さんもあたしと二人だし感覚麻痺してそうだし、実際、悪いよ
りマシだしいいかな別に。
﹁とりあえず、結構思い出したよ﹂
1039
﹁え、本当?﹂
﹁うん。男のフリしてたって流れ聞いたら、わりとすんなり男だっ
た記憶でてきたよ﹂
おじいちゃんとの出会った時もみんなとのことも思い出した。ただ
レイプされた関連はまだわからないんだけどね。
﹁そう⋮じゃあ、もうしばらくして落ち着いたらまた学校に行きま
しょうか。さすがに寮は心配だから、家から通ってもらうことにな
るけれど﹂
﹁うん。そうだね﹂
お母さんはなんだか複雑な表情で微笑んでて、どうしたらいいのか
不安になる。
お母さんはあたしにどうして欲しいんだろう。あたしは⋮どうした
いんだろう。
よくわからない。思い出したは思い出したけど、どうしてかあまり
実感がない。
とりあえず⋮流れはわかったけど、肝心のきっかけになった事件の
詳細がわからないから聞きたいな。みんなに聞いてみよう。
○
1040
1041
馬鹿でいい
﹁こんにちわ、よく来てくれたね﹂
﹁⋮うん﹂
﹁ちわ、相変わらず元気そうだね﹂
﹁こんにちわ、皐月さん﹂
﹁あれ、七海は?﹂
﹁七海様は忙しいのよ、馬鹿﹂
﹁そうなんだ﹂
なんで罵られた。
ともあれ、また来てくれた。毎日来るなんて大袈裟だけど嬉しい。
七海はいないけど3人いれば話を聞くには十分だ。
﹁とりあえず座ってよ、聞きたいことがあるんだ﹂
﹁ん? なになに?﹂
がたがたと音をたてて椅子に座りながら紗理奈がのってきた。
紗理奈は相変わらずムードメーカーだなぁ。弘美が辛気臭い顔だか
ら紗理奈がいると楽だ。小枝子は一応笑顔だけど口数少なくてやっ
ぱりちょっと暗い。
﹁うん、記憶喪失のきっかけの時のことをもうちょっと詳しく聞き
たいんだ﹂
﹁⋮え、な、に言ってんのよ。あんた、聞きたいってなによ﹂
﹁そのままの意味だよ。記憶、思い出したいから﹂
﹁なんでよ!﹂
﹁そ、そんなに興奮しないでよ。紗理奈、小枝子も、なんとか言っ
てよ﹂
1042
突然眉を吊り上げて怒鳴ってあたしに詰め寄る弘美に、あたしは困
って二人に助けを求める。けど二人もなんだか眉をハの字にしてる。
﹁⋮私はその場にいなかったので、なにも言えません。なんとも、
言えません﹂
﹁あたしは反対だな。思い出していいことはないよ﹂
﹁でも、今のあたしに皆違和感があるんじゃない?﹂
﹁⋮⋮﹂
紗理奈と弘美は黙りこむ。小枝子は何故か困った表情のまま少し笑
みになった。
﹁皐月さんは、やっぱり皐月さんですね﹂
﹁え?﹂
﹁お二方、皐月さんに話してあげて下さい﹂
﹁小枝子様っ﹂
﹁大丈夫です。だって、皐月さんですから﹂
﹁⋮意味わかんない。ヒロは、絶対や。嫌なものは嫌。別にこのま
までいいじゃない。そのうち慣れるよ﹂
弘美はどうも思い出して欲しくないらしい。でも慣れる、ってこと
はやっぱりあたしは変わってるらしい。
﹁⋮皐月﹂
﹁なに?﹂
﹁君の母親は、君が思い出そうとしてるの知ってるの?﹂
﹁ああ⋮うん、ちゃんと話し合って決めたから。それにだいたいの
流れはお母さんから聞いたんだよ。大丈夫。別にショックとか今更
受けないよ。今回は別にレイプされたわけじゃないんでしょ?﹂
1043
﹁⋮そうだけど﹂
﹁じゃ、大丈夫だよ﹂
﹁⋮わかった。なんでも聞いて。知ってる限りは答えるよ﹂
言い切ると紗理奈はようやくそう言ってくれた。でも弘美は納得せ
ず、だっと勢いよく立ち上がって紗理奈に食ってかかる。
﹁紗理奈様!? なに言ってるんですか!?﹂
﹁弘美、本人が望んでるんだ。ならその通りにするべきじゃないか
な。皐月の母親も賛成してるなら、なおさらだ﹂
﹁う∼っ、そ、そんなの関係ない! 皐月様は忘れてていいのっ。
あんなこと⋮忘れてる方がいいに決まってる。もし記憶がなくて困
ったことがあっても、ヒロがなんとかする。皐月様くらい、守るも
ん!﹂
﹁弘美さん⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁弘美⋮ありがとう﹂
必死に守ろうとしてくれる弘美に、あたしは泣きそうになった。
お礼を言うとちょっと落ち着いたのか座りなおし、あたしをじっと
見た。
﹁皐月様⋮わかってくれた?﹂
﹁うん。でも思い出したい﹂
﹁⋮⋮なんでよ﹂
わかりやすくぶすっとした不機嫌な顔になる弘美に苦笑する。
﹁だって、弘美に守られたままじゃ格好悪いだろ﹂
﹁⋮⋮ばぁか。あんたなんか⋮なにやっても変わらないわよ﹂
1044
﹁そっか、残念﹂
あたしは弘美を知ってる。ちゃんと覚えてる。妹みたいな、大切な
子。だから、弘美に押し付けたりしない。弘美に守られたままじゃ
いれない。
﹁紗理奈、いいかな﹂
﹁うん、なにから聞きたいのかな?﹂
﹁んっとね⋮そうだなぁ﹂
ここまで盛り上がって説得したはいいけど、実は何を聞けばいいの
かよくわからない。
﹁えっと、先生の名前とか、特徴は?﹂
﹁えっと⋮変わった名前で、ばくと、だったかな。大きくていかに
も体育教師っぽい﹂
﹁確か、鞍馬縛人ですよ﹂
﹁ふぅん﹂
変な名前⋮でも、やっぱり聞いたことある、ような?
﹁あ、そういやヒロ、現場撮ってたのあるよ。見る?﹂
﹁え、見る見る﹂
弘美が携帯電話をポケットから取り出して電源をいれた。
﹁えっと、これよ﹂
﹁どれ﹂
身を乗り出して差し出された携帯電話の画面を全員で凝視する。
1045
弘美の小さな手がボタンを押し、動画が再生された。
﹃−##﹄
動いてるせいか再生した瞬間激しくぶれて乱れた音がして、それか
ら男性とあたしが映った。
﹃ど、どうしたんだい?﹄
男性が、こっち︵カメラ︶に向かって微笑んだ。
﹁っっっ!?﹂
﹃今更ごまかせると思ってんの!? あんたの悪事はバッチリ撮っ
てんだから!﹄
携帯電話は続きを映してるけど、聞こえない。目にはいらない。
﹁皐月? 皐月っ!?﹂
思い出した。思い出した。
﹁、っ、っ、は⋮っ﹂
吐きそうになって、我慢する。
違う、違う違う違う。違うっ。大丈夫。大丈夫だから。大丈夫。
﹁皐月さん!﹂
﹁皐月様、大丈夫っ!?﹂
1046
誰かに背中を撫でられた。
ああ、ほら、大丈夫。
このくらい、吐くまでもない。だって終わったことだ。それに⋮今
度こそ勝ったんだ。
﹁⋮はぁ、はぁあ﹂
吐き気はひいたけど、急に思い出したせいか少し苦しい。短く呼吸
を繰り返す。
﹁ひ、弘美⋮﹂
でもこれだけは先に言おう。
﹁なに? どうすればいい!?﹂
﹁助けてくれて、ありがとな。お前が無事で、よかった﹂
本当によかった。俺のために弘美が嫌な目にあうのだけは避けたか
った。
﹁皐月、思い出したの?﹂
﹁うん。心配かけてごめん。みんな、ありがとう﹂
○
1047
皐月様は変わってしまった。
嘘。本当は変わってない。でも、変わった。
皐月様の本質は変わってないと思う。優しい。ヒロたちのことも覚
えてる。
でも違う。話し方が微妙に違う。一人称が違う。ヒロとの距離感が
違う。
違う。全然違う。皐月様のことは好き。でも昨日頭を撫でてくれて、
はっきり違うって思った。前の皐月様と、撫で方が違う。
基本は変わってないけど多分、トラウマを忘れたことでトラウマを
きっかけに形成された性格要素がなくなったんだ。
皐月様は皐月様だ。だけど、この皐月様はヒロが好きだった皐月様
じゃない。
ヒロはトラウマ持ちで泣き虫で馬鹿で男みたいで、そんな全部がこ
みこみで皐月様が好きなんだ。
だから戻って欲しい。ヒロを一番にしてくれないのはわかってる。
妹にしか見てないのはわかってる。
でも妹でいいから、皐月様の側がいい。元の皐月様がいい。あの皐
月様じゃなきゃ嫌。
﹁こんにちわ﹂
でも、だからって皐月様が傷つくのはもっと嫌。
忘れたままでも泣くくらい皐月様は傷ついてるのに、思い出させる
なんてできない。
1048
少なくとも今、皐月様は笑ってる。だからこれでいい。そう思うこ
とにした。
なのに⋮皐月様は思い出したいって言った。
小枝子様は全然役に立たないし、紗理奈様まで丸め込まれちゃうし
ダメすぎ。
仕方ないから精一杯反対する。絶対絶対、皐月様が傷つくなんて反
対。
﹁だって、弘美に守られたままじゃ格好悪いだろ﹂
反対⋮なのに。そんなこと、前の皐月様みたいな目で言われたら⋮
なんにも言えなくなっちゃうじゃない。
﹁ばぁか。あんたなんか⋮なにやっても変わらないわよ﹂
なにやってても、どんなになっても、ヒロにとっては皐月様はいつ
だって最高に格好いいんだって、わかれ馬鹿。
﹁そっか、残念﹂
やっぱり馬鹿な皐月様はわからないみたいで苦笑して紗理奈様に質
問をした。
﹁変わった名前で、ばくと、だったかな。大きくていかにも体育教
師っぽい﹂
﹁確か、鞍馬縛人ですよ﹂
変な名前。いかにも変質者っぽい。特に縛。縛るとかないわ。
1049
﹁あ、そういやヒロ、現場撮ってたのあるよ。見る?﹂
﹁え、見る見る﹂
録画データはよくわかんないけど証拠として送ってもまだ消しちゃ
ダメって言われたから、残ってる。携帯電話をポケットから取り出
して電源をいれた。
﹁えっと、これよ﹂
﹁どれ﹂
携帯電話を差し出してみんなで頭をくっつけながら再生した。
﹃ど、どうしたんだい?﹄
ちょっとぶれたけど、うん、バッチリ映ってる。
﹁っっっ!?﹂
え?
再生してすぐに皐月様が妙な呻きをあげて口元に手をあてた。
﹁皐月? 皐月っ!?﹂
紗理奈様が声をかけても反応せず背中をまるめ、前屈みになりなが
ら皐月様は荒い息をした。
﹁、っ、っ、は⋮っ﹂
どうすればいいかわからなくて、とりあえず声をかけながら背中を
撫でてあげる。
1050
﹁⋮はぁ、はぁあ﹂
言葉は返ってこないけど何度も背を撫でていると皐月様の呼吸が、
ゆっくりとなだらかになっていく。
﹁ひ、弘美⋮﹂
安心しているとすぐに皐月様は顔をあげた。
なに? なにが言いたいの? なにをすればいい?
﹁助けてくれて、ありがとな。お前が無事で、よかった﹂
え⋮?
混乱して手がとまる。
えっと、つまり⋮
﹁皐月、思い出したの?﹂
﹁うん。心配かけてごめん。みんな、ありがとう﹂
ヒロの気持ちを代弁するような紗理奈様の問い掛けに、皐月様は息
をつきながらふにゃっと情けない笑みを浮かべた。
﹁⋮馬鹿﹂
﹁え?﹂
﹁馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿!﹂
﹁ひ、ヒロ?﹂
皐月様にぐーでめちゃくちゃに殴りかかる。ヒロの突然の行動に紗
1051
理奈様が驚きに目を丸くしながら声をかけてきたけど関係ない。
﹁馬鹿! ⋮心配、したんだからね﹂
最後に一際強く殴ってから、ヒロは皐月様を見つめる。声が震えて
しまった。でも、いい。そんなの全然関係ない。
今は、皐月様以外のことは全部どうでもいい。
﹁⋮ごめん。ありがとう﹂
皐月様はへにゃへにゃした笑顔で、ヒロの頭を撫でた。
優しくしようとしてるのにどうしても少し荒いから髪が乱れてしま
う、そんな不器用な前と同じ撫で方だった。
﹁⋮ばかぁあ﹂
涙がでた。
あの男がきて、恐かった。皐月様が変わって、それが嫌で、恐かっ
た。
でも皐月様以外の前で泣きたくなかった。皐月様以外に、皐月様が
変わったことをどうだなんて言いたくなかったし、違う皐月様にも
言えなかった。
でも今、やっとヒロの前に皐月様が帰ってきた。
﹁ありがと。ほんとに、ありがとな﹂
皐月様が調子にのってヒロを抱きしめてきた。だから余計に涙がと
まらなくなった。
1052
﹁さ皐、皐月様が⋮ヒロを、忘れたりして、あの男とか、もう、恐
かった、ん、だからっ﹂
﹁うん、頑張ったな。偉いよ﹂
﹁思、い出したら、辛いかなって、き、つかった、だから﹂
﹁ありがとう。感謝してる。もう大丈夫だからな。もう絶対、お前
を忘れないから﹂
﹁ん、うんっ﹂
ヒロに気を使わせて、生意気。皐月様なんか、本当に馬鹿。
でもぎゅって抱きしめられて、頭撫でられて、それでもう全部許し
ちゃうヒロのほうが馬鹿かも知れない。
だけど馬鹿でもいい。皐月様が皐月様なら、ヒロは馬鹿でいいよ。
○
1053
馬鹿でいい︵後書き︶
今更ですが、この話はフィクションです。
トラウマと一口に言っても自然治癒する場合もありますし個人差が
凄く大きいです。
同じ出来事でも人によりトラウマになったりならなかったりします。
元凶がなくなったから治るという単純なものではありません。たま
たま皐月の場合はきっかけとしてわかりやすく変化したにすぎませ
ん。
なにがいいたいかと言うと、皐月のトラウマ症状などは現実にあて
はめて考えたりはしないで下さい。科学的な知識に基づいて書いて
いません。
そんなテキトーなノリで書いている小説ですが、もう大分終盤まで
きました。
まだ続きますがそこまで長くならないと思うのでよければお付き合
い下さい。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
1054
結婚は一番好きな人とするもの
弘美が泣きやんで照れ隠しか逆ギレしながら帰るとすぐに母さんが
入ってきた。
﹁思い出して、本当に大丈夫なの? なんともない?﹂
どうやら盗み聞きしてたらしい。普通に入ってくればいいのにと思
うけど、また変に気をつかったんだろう。
開口一番とても不安そうに聞いてくる母さんに、愛されてるなぁと
実感しながらベッド脇の椅子に座る母さんの手をそっと握る。
﹁大丈夫だよ。心配してくれてありがとう﹂
﹁心配するのは当然よ。愛してるもの﹂
﹁うん、俺も愛してるよ﹂
﹁あ⋮﹂
﹁ん? どうかした?﹂
﹁いいえ、なんでもないわ。皐月ちゃんが本当に元気いっぱいにな
って、すごく嬉しいわ﹂
ニコニコ笑顔全開になる母さんに俺も笑顔を全開にして応える。
それにしても、母さんは可愛いなぁ。
あの事件?は嫌だったけど仇敵をやっつけたし、結果的に母さんと
一緒にいれるんだし問題なし。
いやー、平和と母さんがいれば最高だね、こりゃ。
﹁ねぇ母さん、俺、久しぶりに母さんのご飯食べたいなー﹂
﹁あら、病院食じゃ足りない?﹂
1055
﹁意外に美味しかったけどさー、でも俺病人じゃないし。もう退院
して学園に戻ったらまたしばらく母さんに会えないんだし、いいで
しょ?﹂
﹁皐月ちゃんはしょーがないわねー。じゃあ、明日のお昼ご飯にお
弁当つくるわね﹂
﹁うんっ﹂
やったーい。
心の中でガッツポーズする。俺の話術にかかればこんなものさっ。
﹁でね、皐月ちゃん﹂
﹁うん?﹂
おや⋮母さんの様子が真面目に。なんだ? 真面目⋮というか言い
づらそうな悲しそうな顔。
﹁あの⋮先生のことなのだけど﹂
﹁え⋮、う、うん。なに?﹂
﹁⋮どうする? 警察に届けてるけど⋮その、床に落ちてた液体が
あるから、証拠は十分だけど、一応皐月ちゃんに証言して欲しいっ
て。前のことも一緒に追求することもできるけど⋮﹂
警察⋮か。そういえば先生のこと忘れてた。前は結局泣き寝入り逃
げしたみたいなものだしな。
先生のことなんてどうでもいいけど、他の誰かを襲うなんてとんで
もない。しっかり警察のお世話になってもらおう。
罪状は脅迫と婦女暴行⋮くらいかな。すぐ出てくるかもだけと、ま
さかもう教職にはつけないだろうし、いいか。
﹁大丈夫だよ、別に。みんなが来る前の、先生になにをされたかを
1056
言えばいいんだよね﹂
﹁ええ⋮皐月ちゃん﹂
﹁なに?﹂
母さんは椅子から立ち上がると俺に覆いかぶさるようにして抱きし
めてきた。
母さんの大きな胸が顔面にあたるから呼吸しやすいように、少しだ
け向きを母さんから逆にした。
母さんは俺の頭にほお擦りをするように顔もぴったりくっついて、
囁くような声をだした。
﹁助けてあげられなくて、ごめんなさい。いつも、お母さんは皐月
ちゃんの役に立たなくて、ごめんなさい﹂
暖かい。背中から左肩にかけて母さんが触れてるから暖かいのもも
ちろんある。でもそれ以上に、母さんの存在が温かい。
﹁母さんは、バカだなぁ﹂
右腕の肘から先は自由だからそっと俺を抱きしめる手に重ねた。
﹁母さんは俺を助けてるよ。母さんがいなきゃ駄目だ。昨日、同じ
ようなこと言ったのもう忘れた?﹂
﹁⋮覚えてるわ。皐月ちゃんのこと、忘れるわけないじゃない﹂
いっそう腕に力をこめて抱きしめられ、苦笑する。少し苦しいほど
だけど、嫌じゃない。
むしろ昔、夜中に恐怖で目覚めた日はこのくらい強く抱きしめても
らわないと安心して寝付けなかったくらいだ。
1057
﹁母さんがいるだけで助かってる。嘘なんかじゃないよ﹂
﹁⋮ごめんね﹂
﹁謝らないでよ﹂
﹁うん⋮ごめんなさい﹂
ぎゅうぎゅうと寒い冬みたいに抱きしめられて、まるで昔に戻った
みたいだ。
﹁⋮えへ、ごめんね、皐月ちゃん、ママちょっと心配しすぎて変に
なってたわね﹂
しばらくしてから母さんはにこっと笑いながら離れた。
﹁大丈夫、変になってても母さんは素敵だよ﹂
﹁⋮皐月ちゃん、それはフォローになってないから、私以外には言
わないでね﹂
﹁え、わかった﹂
場を和まそうとしたジョークのつもりだったんだけど⋮。普通に注
意された。八割本気なのを見透かされたのかな。
﹁あ、そうそう。皐月ちゃんに渡すものがあったのよ﹂
﹁なに?﹂
﹁はい、携帯電話。記憶が戻ったから解禁よ﹂
携帯電話、そういえば今までなかったな。メール履歴とかから記憶
戻らないように没収されてたのかな。
﹁あー、ありがとう。といっても、みんな事情知ってるわけだし⋮﹂
1058
受け取って電源をつける。起動されるとすぐにメール受信中になる。
おー? 広告とかかな?
﹁⋮うあ゛ぁ﹂
﹁? どうかした?﹂
受信メールは10件で、うち8件が事情を知らない男二人からだっ
た。
忘れてた。完全にこいつらの存在忘れてた。
﹁いや、あの⋮実は、悩み相談、していい?﹂
﹁! もちろん、何でも聞くわ﹂
姿勢を正して何故かわくわくした目を向けてくる母さん。
﹁あの⋮勇馬、覚えてる?﹂
﹁お友達よね﹂
﹁あいつが、プロポーズしてきた。悩んでる﹂
﹁まぁ⋮まぁまぁまぁ! あらまあ⋮お母さんビックリ。男の子相
手に悩む? 悩むってことは脈アリってことよね﹂
﹁いや、そういうわけじゃなくて⋮なんつーか、逃したら後がない
かも知れないし、俺、誰が好きかわからないから別に結婚してもい
いような気もしないでもないし﹂
﹁⋮皐月ちゃん﹂
﹁ん、なに?﹂
﹁窓の外を見て、虹があるとしましょう﹂
﹁⋮いや、ないけど﹂
﹁仮定よ。あるとして、まず誰に知らせる?﹂
﹁え? いや普通に母さんに? 母さん以外いないし﹂
﹁⋮そうじゃなくて、えっと⋮ね。あ、そう。皐月ちゃん、退院し
1059
たら、誰が一番に皐月ちゃんにおめでとうを言ってくれると嬉しい
?﹂
﹁退院したら⋮﹂
当然祖父ちゃんも母さんも一番に来てくれるよな。もちろん嬉しい。
甲乙つけがたい。
学園に行くと多分みんなが言ってくれるよな。⋮うーん
﹁一番嬉しいとか聞かれても⋮おめでとうって言われたら普通嬉し
いし﹂
﹁じゃあ順番にいきましょう。まずは弘美ちゃん。退院したらどん
な感じかしら。シミュレートしてみて﹂
ふむ、弘美⋮
喜んでくれてるくせに照れ隠しでちょっとツンツンした態度をとる
だろうな。もちろん嬉しい。
﹁次、紗理奈ちゃんね﹂
紗理奈は⋮
﹁やー、おめでとう。これからもよろしく﹂
ってノリで爽やかに挨拶しそうだな。気楽でいい。嬉しいぞ。
﹁小枝子ちゃん﹂
小枝子は⋮涙ぐみつつ微笑みで迎えてくれそう。この間からお見舞
い時常に涙目だったし。
苦笑するだろうけど掛値なしに嬉しいな。
﹁最後に七海ちゃんね﹂
1060
七海⋮
七海か⋮⋮なんか難しいな。
んー⋮皮肉を言うか、型通りの祝いを言うかだな。
﹁で? で? 誰が一番嬉しい?﹂
﹁一番とか言われても⋮誰にしたって嬉しいよ﹂
﹁むー、ちがーうー。あのね、虹を見つけたりとか、美味しいもの
食べたりとか、そういう時に一番に知らせたいって思う人が、今皐
月ちゃんが一番好きな人なの。だから、一番に勇馬君が出てこない
なら残念だけどお断りしなさい﹂
ああ、そういうことか。でも好きかどうかははっきりしてる。その
上で悩んでるんだよなぁ。
﹁いや、一番好きじゃないけど、でも男の中では嫌いじゃないし﹂
﹁皐月ちゃん。後がないとか変なこと考えないの。誰が好きかわか
らないなら、わかるまで先延ばしにすればいいじゃない。ね?﹂
﹁⋮母さんは、それでいいと思う?﹂
﹁少なくとも皐月ちゃんがそんな風に妥協で一番じゃない人と結婚
するなんて嫌よ﹂
母さん⋮⋮そっか、そうだよな。母さんは俺の幸せを願ってるんだ。
そんな母さんが、俺が無理な結婚をして喜んでくれるはずないよな。
バカだなぁ、俺。なんでそんな簡単なことに気づかなかったんだろ。
﹁そうだね、結婚は一番好きな人とするものだもんな﹂
考えたら弘美にも前に失礼なこと言っちゃったかもな。結婚って大
事なことだし、一番の人とじゃないと駄目だよな。
1061
﹁そうよ﹂
﹁うん⋮わかった。勇馬には断るよ﹂
﹁ええ、そのかわり一番に幸せを教えたい人が見つかったら、その
人を離しちゃだめよ﹂
﹁うん。わかった﹂
なーんだ⋮なんで俺はこんなバカなことで悩んでたんだろ。勇馬に
はさっさと返事してやろう。
○
警察とか検査とか色々あって記憶が戻ってからもしばらく入院して
たけど、今日でようやく退院だ。
﹁なんだ、七海いないのか﹂
母さんと爺ちゃんとも別れて寮部屋に入ると三人がいて、でも七海
がいないからついそう言った。
﹁ちょっと、待っててやったヒロたちに礼を言うより先に文句言う
なんてどういうことよ﹂
﹁悪い悪い、ありがたいと思ってるよ。でも記憶戻ってから七海に
はまだ一度も会ってないから、今日は来てくれるかと思ってたんだ
1062
よ。改めて七海にもお礼を言いたいしな﹂
弘美をなだめながら荷物を机に置いた。
﹁会長は今日も仕事だよー、つかあたしらがいる分結構会長に押し
付けてるって感じ﹂
﹁七海様から皐月さんに退院おめでとうと伝言を預かってますから、
きっと七海様も元気な皐月さんを待ってますよ﹂
﹁そっか、まぁどうせ明日になったら会うしな﹂
言いながら服を部屋着に着替える。部屋着と言ってもまさかジャー
ジというわけにもいかない。前そうしたら怒られた。普通の新品を
部屋着用にして分けてるだけだ。
﹁あれ⋮ねぇ皐月﹂
﹁んー? なんだよ﹂
﹁いや⋮恥ずかしくないの?﹂
﹁え? ⋮あ、そういえば、普通に着替えたな。まぁ裸になるわけ
じゃないし、慣れたんだろ﹂
﹁⋮⋮皐月さぁ、あのオッサンがトラウマだったわけでしょ?﹂
﹁オッサンて⋮まぁ、そうだよ﹂
﹁んで今回退治したと﹂
﹁なにが言いたいんだ?﹂
﹁君さ、人間恐怖症だかセックス潔癖症だかよくわかんない君の病
気治ってない?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
なに言ってんのこいつ。そんな、ゲームじゃあるまいし倒したから
トラウマも解決とか単純すぎだろ。
1063
﹁ま、治ったは言いすぎにしても、確実にだいぶ軽くなってるよね﹂
﹁え、いや、なんでそう思うんだ?﹂
なんで自信満々なんだよ。俺、どんだけこいつに単純バカに思われ
てんの。
﹁なんでもなにも⋮どう見ても。体育の時の着替えだって最初より
慣れるのに微妙に恥ずかしそうだったのに今は平気だし。あとこの
間君、母親に向かって俺って言ってたからあれ?って思ったけど、
それも影響受けてたんだね﹂
﹁⋮あー、そー、だっけ?﹂
﹁確かに言ってましたけど⋮単に気分で変えてるだけかと思ってま
した﹂
気づかなかった⋮。ていうか、俺本当に治ってきてんの? 俺単純
すぎじゃない? バカ?
﹁へぇ、ところで治ったらどこがどうなるの? 普通に着替えられ
るとかだけなの?﹂
﹁えー、いや聞かれても⋮無意識だし﹂
﹁この間みたくあたし口調になったら変化がわかりやすいんだけど
ね﹂
﹁そんな無理に変えなくてもいいだろ。まぁ確かに⋮あたしって言
ってもそんなに違和感感じないけど、やっぱり長い分俺の方が言い
やすいし﹂
言われて見ると、ちょっと変わったか? 今本当に着替えるのに抵
抗なかったし。
三人の視線に頭を掻きながらベッドに座る。大きめのベッドだけど
1064
四人で座るとさすがに狭い。
﹁皐月さん、聞いてもいいですか?﹂
﹁なんだよ﹂
﹁どのくらい、治ってるんでしょう?﹂
﹁いや、わかんないって﹂
小枝子が俺の顔を覗き込んで聞いてくる。
﹁でも、確かめた方がいいと思います﹂
﹁まぁ、そうだけど、どうやって?﹂
﹁え、それは⋮わかりませんけど⋮﹂
わからないんかい。じゃあなんで? どう変わったかなんて、把握
しなきゃいけないことなのか?
﹁いいこと考えた。ちょっと皐月、あたしの部屋に今夜泊まりなよ。
性的な意味で﹂
﹁は! さ、紗里奈様なに言ってるんですか!?﹂
﹁いや、手っ取り早いし。やれれば完全克服ってことでしょ﹂
そりゃそう言えなくもないけど、暴論すぎるだろ。
﹁あ、あのっ! 紗里奈さんで確認するくらいなら⋮私が⋮﹂
おい、さりげなく立候補するな。てゆーか小枝子、お前いつからそ
んなキャラになった。
﹁しないから。絶対しないから﹂
﹁はいはい。冗談だよ﹂
1065
冗談なのは当たり前だけどお前のはきつすぎるんだよ。
あと小枝子、なんでちょっと残念そうなんだよ。
﹁でも冗談おいて、皐月がどれだけ下系オッケーになったかは知り
たいな﹂
﹁はぁ? なんでだよ﹂
﹁真面目な話。あたしにとって、大事﹂
なんでお前に関係あるんだよ、とは大まじめな顔で聞いてくる紗理
奈には言えなくてたじろぎながら弘美に視線で助けを求める。
なんなんだ。ていうかそんな顔⋮七海をフッた時に怒られたっきり
じゃないか?
﹁紗理奈様、今日はもういいじゃないですか﹂
﹁そうですね。私が言うのもなんですが、急ぎすぎですよ。戻った
ばかりで皐月さんも疲れてるでしょうし﹂
﹁⋮⋮はぁ、まぁ確かにちょっと焦りすぎたかも。皐月もわかって
ないんだし、しょーがないよね﹂
二人にも諭されて紗理奈はやっと笑った。
ふう⋮。にしても俺、変わったんだ。真面目に考えようかな。自分
のことだもんな。
○
1066
1067
普通に愛してる
﹁や、おはようございます﹂
一週間ぶりに見た皐月は、気安く軽く挨拶をして並んで歩きだした。
﹁おはよう。そして退院おめでとう﹂
﹁ありがと。あと、あの時は助けてくれてありがとな。本当に助か
りました﹂
﹁⋮どういたしまして﹂
屈託なく笑いかけられて、私は一人気まずくなって視線を前に逃が
した。
皐月は前と変わらない態度で、私が途中から見舞いに行かなかった
のを何とも思ってないのだと思うと少し腹立たしくもある。
けれど淑女会の仕事をしてるのは本当でそう伝えてもらってるから、
皐月が私を責めるはずがないとはわかってる。
というか勝手な話だ。私が勝手に行かないでいただけで、もうなん
だか、わからない。
私はどうしたいのか自分でわからない。こんなことは初めて⋮では
ないけど、また違うし。
﹁七海?﹂
﹁ん、なによ﹂
﹁いや、元気ない?﹂
﹁別に⋮そんなことないわよ﹂
1068
体調は万全だ。ただ、皐月を守れなかったことを後悔して勝手に気
まずく思ってるだけだ。
皐月はなにも悪くない。むしろ私の判断で窮地に陥ってしまったの
を、皐月が助けてくれたようなものだ。
だから気になるなら皐月に一言謝罪してすっきりすれば早い話だ。
でも、もやもやして、記憶が戻ったって言われて会いに行けなかっ
た。貯まった仕事を消化して気持ちをごまかしてた。
何故か皐月の顔が見れない。はっきりした物言いができない。
﹁七海、どうかした? 本当に変だぞ﹂
﹁失礼ね⋮あなたほどじゃないわよ﹂
﹁あっそ。いいんだけど⋮いいんだけどさ﹂
﹁なによ﹂
﹁⋮いや、てかさ、うーん⋮やっぱいいです﹂
皐月は急に歯切れ悪くなって、見ると頬を掻きながら言いづらそう
にしていた。
なにか言いたいことでもあるのかしら。
﹁? なによ、はっきり言いなさい﹂
﹁あー、てか、忙しいのは申し訳ないけど、昨日くらい、会いにき
てくれてもよかったんじゃないかな、みたいな﹂
﹁⋮え?﹂
皐月の言葉があんまりに予想外だから私は思わず立ち止まった。皐
月は私の一歩前で顔だけ振り向いて拗ねたような顔になる。
﹁なんでそんな驚くんですか﹂
1069
﹁⋮あなた、私に会いたかったの?﹂
﹁⋮なんで会いたくないと思うんだよ。七海は、俺に会いたくなか
ったの?﹂
﹁そんなこと⋮っ、ないわよ﹂
けど、記憶が飛んだ皐月の姿にすごく申し訳なくて⋮一日だけ休ん
で次の日はちゃんとお見舞いに行こうと思ったのにその一日で記憶
が戻って⋮。
なんだかわからないけど、行きづらかった。何を言えばいいのかわ
からなかった。それは、今もだけど。
でも会いたくないなんてことは全く断じてない。会いたい。会いた
かった。
元気な姿で前と同じ様に私を呼んでくれて、嬉しい。
﹁私−﹂
﹁おっはよーございまっす、二人ともなに突っ立ってんですか?﹂
﹁おはよ﹂
﹁⋮おはよう、朝から元気ね﹂
紗理奈が早足にやってきた。紗理奈が追いついたのに合わせて私た
ちは自然にまた歩きだす。
﹁それほどでも。皐月、体調はどう?﹂
﹁バッチリだよ﹂
﹁そかそか。んじゃ早速今日からみんなで淑女会のお仕事だねー﹂
﹁そうだな。七海、改めて今まで押し付けてごめんなさい﹂
﹁別に謝る必要はないわ。あなたのせいではないもの。むしろ、毎
日揃ってお見舞いに行ってたことに文句を言いたいわね﹂
﹁え? 行っていいって言ったのは会長じゃないですか﹂
1070
﹁⋮わかってるわ、ごめんなさい。今のは失言だったわ﹂
﹁いえ、いいんすけど⋮なにか嫌なことでもありました?﹂
﹁⋮ごめんなさい。その⋮ちょっとね。私、朝食は別にするわね。
また放課後に﹂
ぐるぐるする。胸の中で色んな気持ちがぐるぐる回って混ざって、
自分がわからない。
私は早足になって二人を放って先に食堂に向かった。
○
﹁また放課後に﹂
七海はそう言ってさっさと行ってしまった。
別に特別一緒に食べる約束とかはないけど、会ったら一緒に食べる
とが暗黙の了解になってたのに、どうしたんだろう。
﹁俺がいない間になんかあったの?﹂
﹁いや⋮うーん、言われたらちょっと暗かったけど、君が入院して
るからかなと。記憶戻ったって言った時も、退院決まった時もすっ
ごい喜んでたし﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁うん。でも、昨日誘っても皐月の出迎えに行かなかったし⋮⋮君、
1071
なんかした?﹂
﹁まさか。全く心当たりがな⋮⋮﹂
﹁え、なんかやったの?﹂
まさか、ヤられてる俺を見て改めて汚いと感じたとか? 考えたら
俺、現実逃避で幼児退行するわ記憶飛ばすわでヘタレ全開だし、愛
想つかしたとか?
﹁⋮もしかして、事件がきっかけ、かも?﹂
﹁え? なんで?﹂
﹁いやだって⋮俺、情けないし、その⋮汚れて⋮﹂
﹁皐月、殴るよ。二重の意味でむかつくから二回殴るよ﹂
﹁⋮ごめん﹂
怒られた。少し嬉しい。マゾ的な意味じゃなく。
何度受け入れられて、そう言われても不安になるから、改めて言わ
れると嬉しい。
﹁会長はそんな人じゃないし、君も卑下するな。あと、情けないな
んて最初からバレバレ﹂
﹁⋮わかってるけど、避けられてるし﹂
﹁そーだねぇ。とりあえず、席ついてから考えようか﹂
﹁ああ﹂
食堂についたから一体会話を止めて、朝食をトレーにのせて席を探
す。
﹁あ、おはようございます、紗理奈様、皐月様﹂
﹁おっと、おはよう、ヒロ。隣いいかな?﹂
﹁はい、もちろんです﹂
1072
あー、なんか弘美の敬語久しぶりだな。
三人で席について挨拶して食べだす。今日の朝ごはんはトーストと
か洋風にした。
﹁皐月様、大丈夫?﹂
﹁大丈夫だよ。二人とも心配性だな﹂
﹁愛されてるんだから、素直に心配されときなよ﹂
﹁愛て⋮﹂
﹁愛よ﹂
からかうような紗理奈に苦笑すると弘美が真顔で言った。照れるで
もなく普通に朝ごはんを食べながら愛とか言われて、返事に困る。
﹁⋮ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
なにこれ。
﹁ヒロ、どうかしたの? 急にオープンになって﹂
﹁ん、まぁ⋮心境の変化です。ヒロ別に、皐月様と付き合いたいと
かじゃなくて、なんか普通に皐月様のこと愛してるなぁって思った
んで﹂
﹁⋮え、なんかさらっとすごいこと言われた気がする﹂
﹁とりあえず、あんたも普通にヒロのこと愛せばいいの。妹でいい
わよ﹂
﹁それならもう愛してるよ﹂
﹁⋮そ﹂
あ、照れた。可愛いなぁ。
1073
﹁君らの関係複雑すぎてわかんない。あたしがバカなの? なにを
どうしたらそうなんのさ﹂
﹁さあ。俺もよくわからない﹂
﹁ヒロ﹂
﹁黙秘します﹂
﹁⋮まぁいいけどね。どうでも。あ、そうだ、結構重要なことに今
気づいたんだけど﹂
﹁なに?﹂
﹁休んでた分授業進んだし、テストどうすんの﹂
﹁あ゛⋮⋮﹂
やべぇ。
えっと、えっと⋮確か、10日くらい休んで、あの時で一ヶ月前だ
ったから⋮⋮えっと。
﹁そういえば、もうすぐ二週間前ね﹂
﹁⋮わーお﹂
思わず左手を額に押し当てて呻いた。
やばくないか? いやまだ余裕あるっちゃあるけど、授業でてない
の痛すぎだろ。
﹁ワォ、とか。欧米か﹂
紗理奈は何が楽しいのか笑いながらツッコんできた。素でやったか
らちょっと恥ずかしい。
﹁うーわー、やばい。紗理奈、ノート⋮﹂
﹁自慢じゃないけど、あたしのは人に解読できるような代物じゃな
1074
いよ。小枝子に頼みなよ﹂
﹁あー、そうだな﹂
﹁そんなすんなり肯定されてもむかつくんだけど﹂
﹁気にすんな﹂
﹁はいはい。つかさすがに今回はヒロに教えてもらう訳にもいかな
いし、どうすんの? 淑女会の仕事があるし、小枝子もあたしも君
のお見舞いのせいで勉強してないから、君の世話しながらテスト勉
強してる余裕ないし﹂
﹁そのあたかもお前が教えてくれたことがあるような言い回しはス
ルーするとして、真剣にヤバいな﹂
﹁ま、小枝子なら頼めば教えてくれるだろうけど、多分小枝子の平
均マイナス10点は固いね﹂
﹁⋮⋮﹂
それは俺の罪悪感的に却下だな。てか、あー、仕事ねー。
⋮よく考えたら赤点さえ回避すればいいんだし、ノートコピーして
テキトーに復習すれば大丈夫か。
前は一年のブランクがあったから真面目にヤバかったけど、今回は
たった10日だし、前より時間なくても余裕じゃん。
﹁皐月様、死にかけから急にニヤケ面になって、どうしたの?﹂
﹁さりげなく酷いな。いや、よく考えたら余裕余裕。大丈夫だよ﹂
﹁え? なにをどう考えてそんな結論になったわけ?﹂
﹁ふーむ、開き直ったってわけじゃなさそうだけど⋮﹂
不思議そうな二人に俺は自信満々に笑って答えた。
﹁赤点回避くらいなら余裕だって﹂
﹁⋮駄目だわ、この馬鹿。もうどうにもならない﹂
1075
すっごい可哀相なものを見る目で見られた。
いや、今回は仕方ないじゃん。最低ラインでもいいだろ。
﹁皐月⋮そんな甘えが会長に通用するとでも?﹂
﹁⋮え?﹂
な、七海⋮? ⋮駄目だ、怒られるシーンしか想像できない。
﹁このことは内密に頼む﹂
﹁あたしらはいいけど、君、試験結果聞かれたらどうすんの? 嘘
ついてもすぐバレるよ﹂
﹁うーん⋮﹂
そうだなぁ。やっぱり、真面目に勉強するしかないのか⋮。ううー
ん、ま、やるか。
﹁諦めなよ、もう小枝子と日替わりで教わるしかないよ﹂
﹁え、お前と?﹂
﹁や、会長と。会長も頼めば教えてくれるよきっと﹂
﹁あいつ厳しいんだよなぁ﹂
﹁贅沢言わない。あたしは一人で頑張るからさ。君も頑張りな﹂
﹁⋮わかったよ、あとでお願いする﹂
はぁ⋮仕方ないけど、勉強嫌だなぁ。
○
1076
1077
勉強の合間に紅茶
﹁勉強?﹂
﹁うん。小枝子にも頼んだから、二人交替ならそこまで負担になら
ないと思うし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ダメかな?﹂
淑女室に久しぶりに集まりいつものように飲み物を用意してすぐに、
勉強を教えてくれ、と頼むと七海はまずきょとんとしてから考えこ
むように顎に手をあてて視線を俺からずらした。
負担にならないってのはあくまで二人とも優秀だから成績は大丈夫
だろうってことで、一日おきにだから結構俺に時間をさいてしまう。
だから断られても不思議じゃない。親切だから受けてくれるかもっ
て思ってたけど、やっぱ甘えだよな。
﹁いえ⋮構わないわ、というか、是非﹂
﹁ん? うん、そっか。よかった。ありがとう。七海に断られたら
小枝子に負担かかりまくりだしどーしようかと思ったよ﹂
是非、なんて変な言い方。七海らしくなく歯切れが悪いがオーケー
ならよし。
﹁小枝子、あなたは自分の勉強をしなさい。私だけで十分よ﹂
﹁え?﹂
すっと視線をあげたかと思うと七海は意味のわからんことを言った。
首を傾げる。
1078
﹁え、なんでですか? 私、皐月さんに教えますよ?﹂
﹁今は仕事と被って忙しい時期で、あなたは初めてでしょう。来年
に余裕があったらあなたが教えればいいけど、今年は私が教えるわ。
﹂
﹁んー、わかりますけど、いくら会長でも大丈夫ですか? 小枝子
は同じ学年だから自分の勉強にもなりますけど⋮会長は全く別に自
分の勉強をしなきゃいけないわけですし﹂
﹁それに七海様は仕事も一番多いですよね。小枝子様、優秀なんだ
からそんなに気をまわさなくても大丈夫だと思いますよ﹂
弘美がオレンジジュースを飲みながら言った言葉に密かに笑みにな
る。
弘美はなんだかんだ言って回りをよく見てる。ちゃんと気をつかえ
る子だ。遠回しだけど。
﹁私なら大丈夫よ。とにかく今回皐月の面倒は私が見るわ﹂
﹁う、でも⋮私も教えたいですっ。七海様が独占なんてずるいです﹂
え、いや、それはちょっと意味がわかんない。別に勉強教えてくれ
たからってなにもないぞ。
﹁そ⋮そんなことを言われても困るのだけど﹂
﹁めんど。別に二人でやればいいじゃないですかー﹂
﹁なんか一人でやりたい理由でもあるんすか?﹂
﹁え⋮う、大したことじゃないわよ﹂
﹁え、理由あんの?﹂
理由とかあるわけないだろ、と思ったらあるらしく紗里奈の問いに
七海は何故か照れたように視線を泳がした。
1079
﹁⋮大したことじゃないけれど、私、後半お見舞いに行かなかった
でしょう。⋮自己満足みたいなものよ﹂
﹁はぁ⋮そんなこと別に気にしなくていいんだぞ。教えてくれるっ
てのはありがたいけど﹂
変なとこ律儀だな。普段から真面目だけど、そんな恥ずかしいほど
気まずそうな顔するほどのことか?
﹁⋮うるさいわね。自己満足だって言ったでしょう。黙って私に教
えを請いなさい﹂
﹁ああ⋮まぁ、はい。わかった。んじゃ小枝子、悪いけどそういう
ことで。ノートだけ頼んでいいか?﹂
﹁はい。わかりました。では後でコピーしておきますね﹂
﹁ありがとう﹂
七海がいいって言うなら、いいか。三年だからまず間違いなく内容
はわかってるわけだし、教えかた悪くないし。
﹁さて、話もまとまったし、仕事しよっか。会長、なにからします
?﹂
よし、休んでたぶん頑張るか。
○
1080
﹁違うわよ。ちゃんと冒頭から気持ちをこめて読んだらわかるでし
ょう﹂
﹁読んだけどぉ、こんなの答え丸暗記でいいだろ別に﹂
﹁駄目よ﹂
夕食後にノートコピーをもらったはいいが、何故か七海が独占して
授業始めた。
国語とか社会とかは暗記科目なんだからノート見直して覚えればオ
ッケーだろ。理科系も暗記でいけるし。
﹁ほら、もう一度読んでみなさい。この話、奥が深いわよ﹂
あー、だるい。数学と英語だけでいいのにー。
﹁さ・つ・き?﹂
肘をついてだらだら教科書めくってると、机を挟んで向かいの七海
がにっこりしながらやたら強調して名前を呼んできた。
こ、恐いです。笑顔が恐いです。くそ、この美人がっ。
﹁授業形式なのはいいけどさぁ、せめて数学がいい。苦手だけど、
頑張るからさー﹂
﹁⋮しょうがないわね。じゃあ数学の教科書だしなさい﹂
﹁よしっ﹂
席をたって教科書類を置いてる机から教科書とノートをチェンジす
る。
﹁あ、紅茶、お代わりいる?﹂
1081
﹁ああ⋮自分でいれるから大丈夫よ﹂
﹁遠慮するなよ﹂
﹁なら遠慮しないわ。いらないから、いれないで﹂
﹁⋮はい﹂
そんな、俺がいれるのまずいって決めつけなくてもいいのに。
あれから七海に怒られないようにたまに練習して、病院でいれた時
は母さんにも上達したわねって褒められたのに⋮。
ちょっと悲しい。
﹁⋮皐月﹂
﹁なに?﹂
﹁私、ちょっと花摘みに行ってくるからやっぱりあなたが紅茶をい
れておいてくれるかしら﹂
﹁え、あ、うん。わかった﹂
おお、ナイスタイミング。せっかくだしここらで俺の株をあげてや
る。
七海がでていったのを尻目に俺は紅茶をいれた。
ふんふふ∼ん
どれ、ちょっと味見を⋮うん、多分美味いはず⋮だけど、七海はハ
ードル高いからなぁ。
てか俺、別に紅茶好きじゃないしね。味の違いとかよくわかんない
んだけどね。
﹁戻ったわ、ただいま﹂
﹁おかえり。ささ、飲んで飲んで﹂
1082
﹁え、ええ。ありがと﹂
戻ってきた七海は俺のテンションに戸惑いながらまた席について、
紅茶に口をつけた。
﹁⋮、うん⋮、まだ上達の余地はあるけど、嫌いじゃないわ﹂
﹁っ、やっ、た!﹂
ものすごく微妙だけど、一応認められたっ! うっわ! なんかす
っっごい嬉しい!
思わずガッツポーズ。
﹁大袈裟ねぇ﹂
苦笑されたけど構うもんか。にやにやしながら自分の紅茶も飲む。
﹁言っておくけど、100点満点にはまだまだだから、頑張りなさ
いよ﹂
﹁はーい﹂
ご機嫌になって俺は授業を再開した。
七海は抑揚のない声で公式の使い方と例題解説をする。
七海の説明は普通にしてると何故か、聞き流してしまいそうになる。
集中して聞かないと。
まぁ教師の説明というのを普段からつい聞き流しているせいかもだ
けど。
﹁わかったわね、じゃあ次のページの、ここね。問1から問5まで
解いてみなさい﹂
1083
﹁あ、うん﹂
えっと⋮どうだっけ。とりあえずこの公式を使う問題のはずだし。
大丈夫だろ。
まず問1は、普通に解けばいいんだよな。えーと、⋮例題から見て、
それぞれで計算するんだけど⋮えー、なんか、計算めちゃくちゃ面
倒な式だな。
式の横に足し算と掛け算のメモをちまちま書いていく。
うぬうぬ、面倒くさい。ちまちましたことも嫌いじゃないしむしろ
得意なんだけど、細かい計算は苦手なんだよなー。
﹁ん、よし、できた。どう?﹂
﹁公式の解き方違うわ。こうじゃなくて、こっちが先よ。全部やり
なおして﹂
﹁⋮さ、先に言ってよー。何で全部解くまで根本的な間違い指摘し
ないんだよ。いじめか﹂
﹁途中で口を挟まれるの嫌じゃない? あと、ちゃんと聞いてたら
しないミスよ。真面目にしなさい﹂
﹁うがー﹂
くそう。見てろこいつ。いつかミスしたらここぞとばかりに突いて
やるからな。
俺は七海を睨みつけてからノートに消しゴムをかけた。
﹁⋮⋮皐月﹂
﹁なんだよ﹂
﹁ここ、計算間違いしてるわ。3×8は24でしょ、馬鹿ね﹂
﹁おっと、さんきゅ﹂
1084
俺、こういうケアレスミスが多いんだよな。集中力きれてきただけ
かもだけど。
気合いいれてちゃっちゃとやってすませちゃおうっと。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮よし、今度こそできた﹂
﹁はい、正解よ﹂
﹁早﹂
﹁見てたもの。じゃあ次の章に⋮﹂
﹁え、どこまでやるつもり?﹂
﹁そうね、一週間前には遅れを取り戻して改めてテスト対策に入り
たいから⋮普通に一日分くらいでいいかしら?﹂
﹁いいよ!﹂
﹁よかった﹂
﹁そうじゃなくて﹃いらない﹄の﹃いい﹄だよ! 歴史とかもうホ
ント、大丈夫だから。数学と英語とあとは自習してわからないとこ
聞くから﹂
﹁! ⋮わ、わかったわ﹂
勘違いされてマジで一日分授業されたら堪らないから慌てて訂正す
ると、七海は驚いたように目をみはった。
ヤバい。ちょっと強く言い過ぎた。
俺はごまかすために手をわたわた振りながら弁解する。
﹁あ、いや⋮め、迷惑とかじゃないよ。ホントに。有り難いと思っ
てる。ただ前より大丈夫だし、そこまでやってもらわなくても大丈
夫っていうか⋮﹂
1085
話自体有り難いし、七海の善意で好意だと思う。だからそれ自体は
有り難い、けど、七海が見てると思うと手が抜けないから正直疲れ
る。
雑談とかのんびりと一緒にいるなら何時間でもOKだけど、勉強は
勘弁してほしい。
そこまで厳しいとか怒られるってわけじゃないけど、何となく七海
に教わると気をぬけない。
もう馬鹿とか思われてるだろうけど、自分から頼んだくせに不真面
目でいい加減、とかはさすがに思われたくないしさ。
﹁⋮皐月﹂
﹁な、なに?﹂
﹁⋮あの、改めて言うけど、ごめんなさいね﹂
﹁え? なに? なにが?﹂
七海の殊勝な態度に混乱する。七海は少しだけ言いづらそうに口を
閉じてから、しっかり俺を見て言う。
﹁お見舞いに行かなくて、ごめんなさい﹂
﹁え! いや、そんな⋮お見舞いなんて強制するもんじゃないし、
仕事あったんならしょーがないって!﹂
﹁違うわ。その⋮仕事だって、行けないことはなかったの。私の意
思で行かなかったのよ﹂
﹁え⋮﹂
どういう、こと?
﹁ごめんなさい。あなたを、守れなくて﹂
﹁え⋮? なに、言ってるんだよ?﹂
1086
﹁守れなくて、申し訳なくて、会いに行けなかったの。ごめんなさ
い﹂
﹁七海⋮﹂
そんなこと思わなくていいのに。俺を守ろうとしてくれたって知っ
てる。守れなかったなんてこと、ない。
今回のことは何もかも俺が弱かったせいだ。気に病む必要なんてな
いし、謝るとか申し訳ないとか、そんなの全然必要ない。
でも⋮嬉しい。
守ろうとしてくれて、俺を気にかけてくれて、嬉しい。
こんなこと思っちゃいけないのに。
﹁あの⋮俺、もう大丈夫だから。ありがとう。七海は俺を守ってく
れたよ﹂
﹁そんなこと⋮﹂
﹁そんなことある。ありがとう。大好きだよ﹂
﹁⋮子供じゃないのだから、いい加減好き好き言うのをやめなさい
よ﹂
照れて赤くなりながら七海は小さく笑った。それが嬉しくて俺はニ
コニコしてしまう。
﹁だって本当だもん。感謝してる。勉強だって教わって、俺が謝ら
なきゃいけないくらいだ。だから俺に申し訳ないとか思わないで。
七海は笑ったりちょっと怒ってるくらい方がずっと素敵だよ﹂
﹁⋮馬鹿ね、あなた﹂
﹁知ってるよ。だからこうして七海様に教えを請うてるんだ﹂
小さく声をあげて笑った七海に、どうしようもなく嬉しくて堪らな
1087
い。
そして場違いにも今更、七海はやっぱり美人だなって思った。だっ
て、笑顔が誰より似合う。
○
1088
もう12月か
今やってる淑女会の仕事はテスト明けの終業式後にあるミサだ。
といっても毎週あるキリスト式朝礼みたいなんじゃなくて、クリス
マス仕様の立食ダンスパーティーみたいなものらしい。
ダンパとか、どこのお嬢様︵笑︶と思ったけどよく考えたらみんな
そうだった。
もちろん男役と女役に別れて踊るが全員ドレスで、どっちがとかは
踊る時にテキトーにすればいいらしい。出席も自由だし参加表明も
必要なし。
自由すぎるけどこれが伝統だって言うんだからいいか。だいたい全
員でるらしいけど、それに対応できる規模で用意しなきゃいけない
から大変だ。
といっても、今回はあまり雑用はない。文化祭と違って舞台は一カ
所だし学園を走りまわる必要もない。
資料集めは休んでる間に終わってしまってたし、一番に任されたア
ンケート結果のまとめも今、終わった。
﹁ふぅ∼、んーっ、終わったー﹂
腕をあげて大きく伸びをするとぼきっと肩がなった。
いてて。あー、疲れた。
﹁お疲れ。結果は?﹂
﹁あ、これこれ﹂
﹁ん。⋮うん、会長﹂
1089
労いながら手を伸ばしてきた紗里奈に内容をまとめた紙を渡すと、
紗里奈はさっと目を通すと座ったまま投げるように会長席にいる七
海に渡した。
﹁ちょっと、横着しないの。ほんの1、2歩でしょうが﹂
当然うすっぺらな紙が放物線上に飛ぶわけなく、急ターンするとこ
ろで慌てて取った七海が注意する。
﹁以後気をつけまーす﹂
全く気をつける気がなさそうな調子だがそんな紗里奈に七海も諦め
てるのか全く⋮と呟いて紙に視線を落とした。
それを見てから俺は机にひろがってたアンケート用紙をまとめ、集
計のためひたすら正の字を並べた紙をまるめてごみ箱にシュート。
﹁よし﹂
﹁よしじゃないわよっ﹂
﹁んがっ⋮あ、いっ、たぁぁ﹂
うまくはいったのでにんまりすると側頭部になんか固い物があたっ
た。
反射的に患部を押さえようとした手に何かがちょうど落ちてきて、
それを掴んだまま頭を押さえた。
﹁まじ、いてー⋮何するんだよ﹂
片手はまだ押さえたままで何かを眼前に持ってきた。紙を押さえる
硝子の文鎮だった。
1090
﹁なんてもの投げるんだよ。危ないだろ!﹂
﹁鳩をモチーフにした文鎮よ﹂
﹁なにをモチーフにしようと投げるなよ!?﹂
むしろ平和の象徴を武器にするとかなんだよ。棒状よりは小さいし
軽いが5cm近いガラスの固まりを投げられて痛くないわけがない。
というかいくらなんでも酷すぎないか? まるで出会ったころのよ
うな厳しさだ。
﹁それは⋮たまたま、というか、紗里奈に横着しないって注意した
横ですぐさま投げ捨てたあなたが悪いんじゃない﹂
﹁それはそうかもだけど⋮﹂
たまたまって⋮つまり目の前にあったのを反射的に投げたわけ? それってペンくらいならともかく、もっと酷い物を投げてた可能性
もあるわけだよな。考えただけで冷汗がでる。
なんかこいつ、前から短気だったけどよりヒステリックになってな
い?
﹁とりあえず、文鎮返しますね﹂
ちょっとムッとしながら立ち上がってちゃんと隣まで言って文鎮を
渡す。
﹁⋮ありがとう。ちょっと、じっとしなさい﹂
﹁え⋮﹂
手が俺の頭に向かってくる。痛みに備えて目を閉じた。
1091
七海の手が触れた瞬間少し痛みがきたが、手は動かなかったからそ
こまでじゃない。目をあける。
﹁こぶ⋮にはなってないわね。ごめんなさい。痛い?﹂
﹁いや⋮いいけどさ。怒るのはいいけど、暴力に訴えようとするの
はやめろよ? 危ないんだから﹂
﹁そうね、つい、あなたなら大丈夫な気がして⋮﹂
﹁え⋮⋮﹂
そういえば、前なら避けるとか受けるとか、せめて気づいたよな。
うーん⋮これも変化、なのかな?
﹁仕事はいいから保健室、行っていいわよ﹂
﹁大袈裟な、大丈夫っすよ﹂
﹁そう⋮ならいいけど、あなた私への口調に統一なさすぎよ。メリ
ハリもないし、あらためなさい﹂
﹁え、言われても⋮﹂
敬語ってのも今更なぁ⋮だからって完全タメ口ってのもはばかられ
る。⋮そういや、前より段々タメ口よりってか、密室以外でもだい
ぶ敬語じゃなかったような。それを注意してるのかな。
﹁わかった。んじゃ、他の人がいる時は敬語、いない時はタメ口に
統一するな。それでいい?﹂
﹁⋮まぁ、今更だから、それでいいわ﹂
頷いた七海だが一瞬不服そうだったのを俺は見逃さなかった。見ら
れないよう苦笑する。
どれだけ敬語使わせたいんだよ。
1092
﹁で、次の仕事は?﹂
﹁そうねぇ⋮今はいいわ﹂
﹁え? ないの?﹂
﹁ええ、そうね。明日になったらポスターを内容詳細の新しいのに
張替えてもらうけど、今日はないわね。帰っていいわよ﹂
﹁そう⋮じゃあ、部屋で勉強するよ﹂
﹁え!?﹂
﹁ど、どうかしたんですか?﹂
﹁明日雨でもふるんじゃないの﹂
﹁三人とも、やめなさい。いい心掛けね、皐月﹂
﹁来週テストだしさすがにな﹂
あと小枝子、お前が一番酷いからな。シリアスな顔しやがって⋮泣
ける。
確かに珍しいけど、前はこのくらい真面目だったんだからな。いい
けどね。
とりあえず挨拶して部屋を出た。
階を下ると途端に小さな話し声が聞こえる。
最上階は淑女会室以外はいつも使われる部屋じゃないから静かだが、
一階降りれば通常の部活室が並んでいる。
テスト前だし一応部活なしってなってるけど、推奨であって禁止じ
ゃない。真面目な生徒が多く自主性にまかせても大丈夫かららしい。
﹁あ、こんにちはっ﹂
﹁こんにちは﹂
すれ違う何人かと挨拶をしてから建物から出た。
1093
少し雲ってきたな。午後の降水確率は40%だったっけ。
雨がふったらみんなを迎えにくるのもいいかなと思いながら、徒歩
10分ほどの寮に向かった。
○
ぽ−
ぽたた−
﹁ん⋮雨か﹂
部屋に戻り、勉強を始めてから一時間ほどたつと窓に水滴がぶつか
った。
雨がふりだした。といっても小雨レベルだ。すぐにあがるだろう。
また教科書に目をおとす。
今開いてるの歴史の教科書で、すでに写した自分のノートと見比べ
ながら特に重要そうな単語をピックアップして書き出し、繰り返し
書いて覚えていく。
暗記物は書いて書いて書きまくるのが俺流だ。試験終わったらすぐ
忘れるんだけど気にしない。
ザァァ−アァ
1094
﹁ぁ⋮﹂
急に強くなってきた。顔をあげて、なんとなく外を見ながらぼーっ
とする
通り雨、っぽいな。なーんか、やる気なくなってきた。もうすぐ部
活終わりの時間だし、やめよーかな。
そういえば⋮⋮途中の廊下の窓。開いてなかったっけ? いきなり
降ってきたし、まだ開いてるかも。
﹁⋮見に、んーっ、行くか﹂
背もたれにもたれて背骨を伸ばしてから立ち上がった。携帯電話は
ポケットにいれて部屋を出た。
突き当たりの出窓が少し開いていた。閉める。
ついでだから寮の窓を全部見回ることにしよう。
すぐ止んで無駄になるかも知れないけど、結構寒くなってきたし閉
めても困らないだろ。
﹁ん、しょ﹂
階段の踊り場にある少し高い窓に手を伸ばして閉じた。窓の金具が
ひんやりと冷たい。
そういえば今更だけど、もう12月も半ばだ。テストが終わればク
リスマスでパーティーですぐに年越しだ。
もう、半年以上たったんだなぁ。色々あった。まだ一年たってない
1095
と思えないくらい、濃かった。でも一年たってしまえばもう七海は
いないんだ。
⋮なんか、嘘みたいだなぁ。ずっと、かわらない気がするのに、何
もかも変わっていく。もちろん、俺自身も。
すれ違う度に知らない人にも挨拶をして、それが当たり前になって
る。女の子だけだからじゃ、ないんだろうなぁ。
ぱたん
最上階の二つ目の窓を閉めて、これで多分全部。
﹁あ⋮﹂
雨、余計強くなってきた。あー、これは、しばらくやまないな。
ブブブ−
携帯電話が震えた。出して開くと弘美から電話だった。
﹁もしもし﹂
﹃雨降ってるし、もうすぐ終わるし傘持ってきて﹄
﹁ん、了解。人数分?﹂
﹃や、三本で﹄
﹁わかった。んじゃあとで﹂
折りたたみ傘でもあるのかな。本棟だと置き傘もあるし貸し出しも
やってるけど、ぶっちゃけ取りに行くのは面倒だしな。
俺は傘三本持って玄関に向かう。だいぶどしゃぶりってきた。靴の
中に染みるのを覚悟して転ばないようスニーカーを履いた。
1096
傘をさして、駆け足にさっき帰ってきた道を逆走した。
○
案の定、靴下まで染みたし廊下濡らすのもあれだし入口で待つこと
にした。
でも連絡してもなかなか降りてこなくて、結構な人数を見送ってし
まった。ちょっと恥ずかしかった。
﹁待った?﹂
﹁待った。呼んどいて待たせるなよ﹂
﹁お待たせしてすみません、皐月さん﹂
﹁いやいや、いいんだよ﹂
﹁露骨に差別だわ﹂
﹁弘美の態度は無駄にでかいんだよ﹂
遅れてやってきた面々のうち小枝子だけは鞄から折りたたみ傘をだ
した。準備のいいやつだ。
﹁つか、あがってきたらいいんじゃない﹂
﹁濡れてるし﹂
﹁まぁいいけど。傘﹂
﹁ん﹂
1097
差し出された手に順に傘を渡していく。
﹁ありがと、皐月﹂
﹁ん﹂
﹁ご苦労様﹂
﹁⋮え?﹂
あれ? ⋮⋮必要な傘、三本。ひく、俺の一本、いこーる、二本。
﹁しまったぁ!﹂
﹁このおバカっ﹂
態度から察したのか七海の傘を求めた手は俺の頭に手刀をくらわせ
た。
あー、勘違いだ。折りたたみ傘持ってたのは小枝子だけだったのか。
﹁うーん、えっと⋮じゃあ悪いけど弘美、俺と一緒でいいか?﹂
﹁別にい⋮やよ。なにがあろうと嫌よ﹂
﹁あれ、なにこの猛烈な拒否﹂
途中から明らかに態度を変えた弘美は少しじと目で睨んできた。
﹁あんた今、なんでヒロを指名したか理由を考えてみなさいよ﹂
﹁え、一番小さいから⋮え、気にしてたの?﹂
﹁しちゃ悪い?﹂
﹁わ、わかったよ。じゃあ紗里−﹂
﹁待ちなさい、皐月﹂
﹁え、なに?﹂
1098
今度は七海が何故か少し不機嫌だ。
﹁私を指名しない理由を述べてみなさい﹂
﹁いや、一番でかいし⋮えぇ、なに、なんで今更二人そろって申告
するの? そんなこと気にしないでいいよ?﹂
そんな、特に七海はそんなにかわらないし。
﹁気にするかどうかは私が決めるわ﹂
﹁ちょっとカッコイイけど言ってることはちっちゃいな﹂
﹁うるさいわね。いいからいれなさい﹂
﹁はいはい﹂
仕方ない。どうせ濡れるし、帰ったらすぐにお風呂入ろう。
﹁あ、皐月。ならこっちの方が大きいよ。交換しよう﹂
﹁ん、そうだな﹂
﹁ちょっと、あなたたち私の話聞いていて?﹂
﹁え⋮いや、そもそも傘って一人用ですし、普通ですよ?﹂
﹁むぅ⋮わかったわよ﹂
七海、どうしたん⋮⋮もしかして太って気にしてるとか? かわっ
たようには見えないけどなぁ。
とりあえずよくわからないけど俺と七海が共有して他が一人で傘を
差して出発した。
どどどど、と派手に傘が水を弾く音がする。足元は膝近くまで水が
跳ねあがっている。雨音で会話が困難なのでみんな黙って歩く。
1099
﹁濡れないように気をつけろよ﹂
﹁わかってるわよ﹂
同じ傘なのでかろうじて話せる七海に注意を促す。
七海とは微妙に前後して歩いている。素直に横並びだと肩が傘から
でて濡れるからだ。
﹁ちょっと、なによその歩き方﹂
﹁え、いや⋮なんでもない﹂
当たり前だが気づかれた。怒ってはいないただの疑問のようだが、
怒られてはたまらないから並び直した。
その際傘を少し七海に傾けたから、俺の左肩に傘から水滴が落ちて
きた。
冷たいが、七海の様子を伺うにぎりぎりのようだから我慢する。
﹁なぁ七海﹂
﹁なによ﹂
﹁背、高いのカッケーよ。お前に似合いの身長だ。気にするどころ
か、自慢していいよ﹂
﹁⋮⋮﹂
何故か無言で頬をつねられた。
軽くだし痛くないけど、なんで?
﹁おひ、はあへ﹂
﹁ほんと、よく回る口ね。黙ってなさい﹂
﹁⋮⋮﹂
手を離してつんとしながら七海は不満げな表情で言った。
1100
気にしてることはフォローだろうと掘り返すなってこと? なんて
気の使いがいのないやつ。
仕方ないからため息ついて、黙って七海にあわせて歩いた。
﹁っくしゅ﹂
さすがに、足が濡れてると寒いなぁ。
﹁⋮寒いわね﹂
﹁うん﹂
﹁急ぎましょうか﹂
﹁ん、戻ったら、お風呂はいろう﹂
﹁え、そうね。そうしたほうがいいわね﹂
雨はまだ強い。風邪ひかないようにしなきゃな。
○
1101
もう12月か︵後書き︶
季節が正反対すぎて寒さのことを忘れてた。
ストーブとか寒さ系が一切話題になってないのはそういうことです。
1102
虹、綺麗だなぁ
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
四人の視線がむけられて、照れくさくて顎までお湯につかってはに
かむ。
﹁⋮⋮なんか、やっぱりちょっと恥ずかしい、かな﹂
なんでだかわからないけど自然とお風呂に入ろうと提案して、その
ままみんなで大浴場にきていた。
夕食前で誰もいないかと思ったけど、同じように雨で濡れただろう
生徒たちが20人ほどいた。
だけどタオルで隠せば恥ずかしいとは思うけど前みたいな猛烈な羞
恥心とかはない。
﹁皐月さん、本当に変わりましたね﹂
﹁大進歩じゃん﹂
﹁んー、でもちょっとつまんないかも﹂
普通の声でも油断すると響いてしまうので他の生徒に聞こえないよ
う小さめの声で会話する。
﹁つまんないとか言われても⋮﹂
1103
面白がらせてたわけじゃないからな?
﹁皐月⋮よかったわね﹂
﹁え⋮う、うん。ありがとう﹂
七海が優しい声で言ったから、なんだか照れ臭くなる。
みんなの裸を見ても前みたいに変に戸惑わないし、変わったんだな
ぁ。
﹁そろそろ体洗おうか﹂
﹁そうね﹂
湯舟からでて、洗い場に椅子を置いて並んで座る。
タオルを洗面器にいれて蛇口をひねってお湯をはり、洗面器の上で
タオルを軽くしぼって膝にひろげてボディソープをかけて泡立てて、
左肩から洗いだす。
このソープは泡立ちがいいから好き。ごしごしと温まった体をちょ
っと強めに洗う。
﹁そーいやさぁ、みんなどこから体洗います? あたしお腹﹂
﹁なんでお腹? 決めてるわけじゃないけど左肩かな﹂
﹁ヒロは胸の間から﹂
﹁私は腕からですね﹂
﹁私は⋮首からかしら﹂
﹁へー、結構みんなバラバラなんですね﹂
確かに。体洗うとこなんていちいち見ないし、わざわざ一緒にお風
呂入ることも珍しいから知らなかった。
1104
﹁そういや皐月、勉強進んだ?﹂
﹁ん、まぁぼちぼちかな。とりあえずこないだの中間よりはとれる
と思うけど﹂
﹁中間とか、君ボロボロだったじゃん﹂
﹁うるさいなぁ。一学期の期末よかったから油断したんだよ﹂
﹁前よかったのは勉強したからでしょ。あんたってほんとお調子者
でどうしようもなく馬鹿なんだから﹂
﹁ひ、弘美⋮そこまで言うか﹂
文化祭の準備とか色々あったじゃん。言っても、みんな同じ条件だ
しとか言われそうだし言わないけどさぁ。
いやでも、授業少なかったから全然やってないけど赤点は回避して
たし。
⋮そういや先生ほとんど泣いてたなぁ。あの時は反省したけど、忘
れてた。頑張ろう。
﹁大丈夫よ。皐月、頑張ってたもの﹂
﹁そうですよ、皐月さんはやればできる人ですから﹂
﹁二人とも⋮愛してるっ﹂
﹁はいはい。ところで皐月、あなた髪はどうするの?﹂
﹁え? どうするって?﹂
﹁⋮とらずに洗うの?﹂
回りに一瞬だけ視線を配ってから七海がさらに小声で言ってきた。
ああ、カツラか。もう学校だと四六時中カツラしてるのデフォだし、
意識しなかったけど、頭洗わなきゃだし⋮どうしよ?
﹁あー、まぁ、頭は後で洗うわ﹂
中まで濡れてるから脱衣所のトイレで一旦はずしてふいてから付け
1105
なきゃいけないな。
﹁そう﹂
﹁てかなんで皐月、それしてんだっけ?﹂
﹁えっ、と⋮女らしさ? 男の俺と間違われないようにがメインだ
ったかな﹂
理由、一瞬でなかった。馴染んだなぁ。
﹁ふーん⋮てか、もうとったらいいのに。わかんないって。髪の色
だけは矛盾ないよう染めなきゃいけないけど、髪切ったってことに
すりゃいいじゃん﹂
﹁え、いや、でも⋮﹂
﹁最初ならともかく、従兄弟って知れわたってるし似ててもともと
って思われるだけだよ﹂
﹁まぁ、まさか同じ人だとは誰も思わないでしょうね﹂
七海まで⋮。うーん⋮とった方がいいのかな? 確かに、もうあん
まりつけてる意味ない、かなぁ?
﹁⋮二人はどう思う?﹂
﹁さぁ。好きにしたら?﹂
﹁皐月さんの思うようにするのがいいですよ﹂
﹁そっか⋮まぁ、考えるか﹂
考えたことなかったけど⋮カツラ、とってもいいのか。
1106
○
﹁やまないねー﹂
﹁うーん⋮昼にはやむって天気予報で言ってたけどなぁ﹂
放課後になって、淑女会室に集まってもまだ雨はやまない。
﹁? 今日は傘持っているのに、なにを気にしているのよ﹂
﹁えー? 傘あっても足濡れるしヒロやだー。七海様は、雨の日に
憂鬱になったりしないんですか?﹂
﹁そうねぇ⋮雨、私も好きじゃないわ。でも仕方ないじゃない。自
然現象なんだから﹂
﹁はいはい、七海様は大人ですねー。でもヒロはやなんですー。雨
やーだー﹂
﹁もう⋮しょうがない子ね。帰る前にはやむわよ、きっと﹂
ぶーたれる弘美をなだめながら七海はぱらぱらと書類を眺めてる。
なにやってんだろ。
七海の事務仕事の内容は知らない。もうクリスマスが近いし、大分
仕事は終わっているだろう。俺に回ってくる仕事はない。
本人も後は確認みたいな簡単な作業だけって言ってたし、来週頭の
テストが終わるまでの5日は仕事ないだろう。
よし、だらだらしよう。
﹁小枝子、暇だしトランプしない?﹂
1107
立ち上がりながら向かいに座る小枝子に言うと小枝子は顔をあげて
にこって笑う。
﹁いいですよ﹂
﹁ちょっと、ヒロも誘いなさいよ﹂
﹁スピードがしたいから待ってて。トランプはこの辺に⋮﹂
文房具をしまってる引き出しのメモ帳の下からトランプをひっぱり
だして机にもどる。
﹁よし、わけるよー﹂
﹁んじゃその次があたしとヒロで、勝ち抜きしようよ﹂
﹁いいですね。皐月様、早くしてね﹂
﹁わかってる。小枝子、赤でいい?﹂
﹁はい﹂
二色でわかれたトランプの赤半分を小枝子に渡し、わけてる間に片
付けられた机に4枚並べた。
﹁あれ、それ4枚だっけ? 5枚じゃありませんでした?﹂
﹁あたしは4枚だと思うけど⋮渡す前に相手のシャッフルするって
なかった?﹂
﹁えー? そだっけ? 前すぎて忘れた﹂
﹁トランプにはローカルルールが付き物ですからね。ルールを統一
しましょう﹂
﹁んじゃシャッフルは自分で。だすのは4枚。ジョーカーは抜きで、
同じ数字はだせない。以上でいいかな﹂
﹁KとAはつながってるわけ?﹂
﹁つながってないルールあんの? つながってる方で﹂
﹁ん。それくらいじゃないかな。それじゃ二人とも構えてー﹂
1108
﹁いっせーのーでっ﹂
どんっ
机の上に分厚いファイルが置かれた。
恐る恐る顔をあげるといつの間にか机の隣に立っていた七海がにっ
こり笑っていて、こう言った。
﹁そんなに暇なら、書類整理でもしてなさい﹂
﹁⋮はい﹂
○
変わったなぁ。
皐月もだけど、会長が、そして淑女会の雰囲気が。
ハッキリ言って去年はこんな和気あいあいとした雰囲気じゃなかっ
た。
去年も会長は会長、七海様だった。弘美もよく来ていた。でも会話
はほとんどなかった。
あたしとしては会長に話しかけたかったけど仕事中は声をかけずら
い雰囲気だった。
1109
当時唯一三年生の副会長は一言も話さないことがアイデンティティ
みたいな不思議人間だったけど、有能だからあたしにはあまり仕事
がなかった。
イベント前じゃなきゃ数合わせみたいなものだと知ってたし、暇な
のがデフォだった。
でもヒロとあたしが暇だからってお喋りしたりトランプしようなん
てそんな発想はなかった。
静かな部屋だったから、物音をたてるのも気がねするくらいだった。
携帯電話をいじったり本を読んで時間をつぶして、解散すれば接点
はない。
話さない副会長は当然としてヒロは中等部の寮だし、会長は好きす
ぎて近寄りがたかった。
だから、今のこの空気はすごく不思議だ。
なんとなく時間をつぶすために集まっていたのとは全く違う。
さっき会長が怒ったのだって、仕事をしてないからじゃない。
多分、自分をのけものにして遊ぶから寂しかったんじゃないかな。
まぁ勝手な妄想だけど。単にうるさかっただけかもだけど。
とにかく会長は、変わった。
あたしはそれが嬉しくて、悔しい。
会長を変えたのは、間違いなく皐月だから。
﹁あ、会長、もしかして雨やんでません?﹂
﹁あら⋮本当。少し空気をいれかえましょうか﹂
﹁寒いからやめましょうよー﹂
﹁駄目よ、ヒロ。少しくらい我慢なさっむ⋮﹂
1110
立ち上がった会長はヒロの抗議を無視して背後の窓を開けて、閉め
た。
﹁ん、んんっ。少しくらい我慢なさい﹂
そして咳ばらいでごまかして改めて開けた。寒そうに身じろぎしな
がら窓枠に手をかけ外を見てる。
意地っ張りな会長も可愛いなぁ。
﹁あら、に−﹂
ぶるぶると会長の卓上に置いてある携帯電話が奮え、なにかを言い
かけた会長は言葉をとめて携帯電話をとった。
﹁あら、皐月だわ﹂
﹁?﹂
皐月はさっき飲み物を買いに行ったところだ。
電話なんてどうしたんだろう?
﹁もしもし? どうかして? ⋮⋮⋮ふふ、知ってるわ。綺麗ね。
でも、教えてくれてありがとう﹂
電話にでながら窓の外を再び眺めた会長は、凄く綺麗に微笑んだ。
それに見惚れていると会長は少しの沈黙のあと不思議そうに首を傾
げた。
﹁皐月? ⋮⋮そう、じゃあ、早く帰ってきなさいね﹂
﹁七海様、皐月様はなんて?﹂
1111
電話をきった会長にヒロが尋ねると会長はにこっと笑う。
﹁虹よ。こっちに来て見てみなさい。綺麗よ﹂
﹁え、見る見る﹂
﹁私も見ます﹂
二人が嬉しそうに窓に近寄る。
あたしもそれに倣って立ち上がりながら、虹より会長のさっきの笑
顔の方がずっと綺麗に違いないと思った。
あたしは、どうしようか。
○
自動販売機で頼まれたものを買った。
いつものことだけど、パシリにこんなに慣れていいのかな。
﹁あ⋮﹂
雨やんだ? それとも小雨になった?
ガラス越しに雨粒が見えなくなったから、もうやむのかと思って様
子を見るために近寄った。
1112
水溜まりを見ると静かなもので雨がやんだことを確信する。何気な
く見上げると雲がゆっくりと移動していた。
やっとやんだか⋮。
﹁あ﹂
虹だ。
大きな虹が山間に見えた。綺麗で、雨があがったのも合わせて嬉し
くなった。
そうだ、あいつにも教えてあげよう。
俺は携帯電話をとりだして電話をかけた。短いコール音の後すぐに
相手がでた。
﹃もしもし? どうかして?﹄
﹁外見て、綺麗な虹がでてるよ﹂
﹃ふふ、知ってるわ﹄
少しだけ勢いついて言ったけど、どうやら気づいてたらしい。
なーんだ。ちょっと残念。
﹃綺麗ね。でも、教えてくれてありがとう﹄
﹁どういたしまし⋮え﹂
あれ、そういえば今俺、七海に一番に虹を教えなかった?
母さんの言葉を思い出す。
1113
﹁虹を見つけたりとか、美味しいもの食べたりとか、そういう時に
一番に知らせたいって思う人が、今皐月ちゃんが一番好きな人なの﹂
⋮一番、好き? 七海が?
﹃皐月?﹄
﹁あ、や、なんでもない﹂
七海の呼びかけにはっとして慌てて返事をする。
﹃そう、じゃあ、早く帰ってきなさいね﹄
﹁うん、うん﹂
電話をきって、虹を見上げた。
あー⋮⋮マジかぁ。
俺、七海のこと一番好きなの? これ恋?
﹁いや、いやいや﹂
母さんより、ってわけじゃない⋮よな? てゆーか母さんは一番と
かじゃなくて常に特別枠で愛してるし。
えっと⋮つまり、なに?
よくわかんないけど、俺七海のこと好きなの? いや好きだけど⋮
⋮恋、って決まったわけじゃないだろ。
ただ単に、あの中で七海が一番ってだけだって、うん。そうだ。そ
うに決まってる。
そりゃ七海は美人だし笑うと可愛いし、厳しいけど自分にもだしイ
1114
イヤツだし、基本優しいし、好きだよ? うん。
理不尽な時もあるけど、なんか憎めないし。それに、二回目だけど
美人だし。
﹁⋮⋮﹂
よくわかんなくなってきたけど、とりあえず、戻ろう。七海が待っ
てる。
○
1115
ドキドキするけど⋮恋?
﹁皐月さん、髪、切ったんですね﹂
﹁え、あ⋮はい﹂
新しく臨時できた女教師が控えめな微笑みで話しかけてきた。
﹁似合いますよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
俺が襲われてあの人が逮捕されたことは、先生方は知ってるけど生
徒には知られてない。急病でいなくなったことになってる。
先生方はみんな俺に気をつかってるようだけど、特にこの新しい先
生はよく話しかけてくる。
﹁⋮似合いますよ﹂
﹁え、ええ⋮ありがとうございます﹂
なんで二回言った。しかもなにその微妙な表情。
もしかして、なんか勘違いしてない? あの事件から気分切替える
ためとか。今更すぎだしその勘違いはさすがにないか?
妙に同情的な目を向けられるから、最近の先生たちは苦手だ。
この間言われて考えて、カツラとって染めてみたんだけど⋮⋮なん
か視線を感じるんだよな。
あ、もしかして⋮
﹁先生、私、本当に似合ってます?﹂
1116
﹁え? ええ、どうして?﹂
﹁いえ⋮なんだか朝から視線を感じますし、先生が二回も似合うと
言うので実は変だったかなと﹂
カツラにおさまりやすいように肩につかない程度に適当に切ってた
のを改めて整えたんだけど⋮変かな。
朝会った時にはみんな大丈夫って言ってくれたのに。
﹁大丈夫ですよ。ただあんまり一気に短くなったからね﹂
﹁まぁ⋮そうですけど﹂
カツラは結構なロングだったからなぁ。
﹁むしろ、明るい印象を受けていいですよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
苦手だけど、この先生はなんとなく好感が持てる。どことなく母に
似てる気がするからだろうけど。
﹁じゃあ、先生、また明日﹂
﹁はい、お気をつけて﹂
先生と別れて淑女会室に戻る。
﹁ただいま﹂
﹁おかえり、遅かったね。大?﹂
﹁ち、違うけど。そういうこと聞くなよな﹂
いくらトイレ行って帰りが遅くても、聞かないだろ普通。デリカシ
ーがないな。
1117
﹁ごめんごめん、なんか機嫌よさそうだったからつい﹂
﹁どういうことだよ。ったく﹂
いつも通りの弘美の隣に座る。
今日は珍しく七海が向かいに座ってる。仕事してる時は会長用の席
だから、今日は暇なのかな。
そのせいか、普段俺の向かいの小枝子が反対側にまわって、紗里奈
が真ん中に座ってる。
﹁今日は仕事ないの?﹂
﹁特にないわ﹂
﹁そっか﹂
でも解散しても暇だし、切羽詰まって勉強しなくても寮に帰ってか
らやって明日の休みに追い込みする予定で大丈夫だ。
だからだらだらすることにする。
とはいえ、トランプ怒られたしなー。昨日は七海だけ働いてたから
かも知れないけど、わざわざ怒らせる必要ないし。
﹁⋮⋮﹂
とりあえずお尻をずらして背もたれに頭までもたれて、ぼーっと前
にいる七海を眺める。
美人だ。美人だと思う。よく考えなくても、綺麗な人だ。最初はそ
こまで思わなかったけど、見るほど綺麗な顔をしてる。姿勢もいい
し、見ていて気持ちいい。
﹁⋮⋮行儀が悪いわよ﹂
﹁うーん﹂
1118
視線があってちょっと戸惑ったみたいだけどそのまま注意された。
仕方ないから座り直る。
﹁暇ね﹂
﹁そだねー﹂
﹁⋮なにか、暇つぶしになることってないかしら﹂
七海にしては珍しいことを言うな。暇なら仕事をつくるようなやつ
なのに。
﹁七海様がそんなこと言うの、珍しくないですか? 小枝子様もそ
う思うわよね﹂
同じことを思ったらしく弘美が不思議そうにしながら小枝子に同意
を求めた。
﹁そうですね⋮でも今日はかなり時間ありますから﹂
﹁そうね。七海様、なにかやりたいことありますか?﹂
﹁別に⋮特別やりたいことはないわね﹂
﹁皐月、昨日やりかけたトランプは?﹂
﹁え、いいけど⋮いい?﹂
﹁構わないわよ﹂
七海に視線と共に確認をとると、微妙に微笑みながら了承された。
⋮もしかして、やりたかったの?
﹁んじゃ、スピードからな﹂
1119
トランプを昨日と同じようにとりだして、二色にわけながらジョー
カーは外す。
﹁私、赤がいいわ﹂
手をだしてきた昨日小枝子が座ってた位置にいる七海はいい笑顔を
している。
⋮やりたかったんだな。
﹁わかったわかった。んじゃルールは昨日通りな﹂
トランプを渡しながら言うと七海は頷いた。
○
﹁終わったー⋮﹂
ついに全テストが終わった。大きく伸びをして、肩をまわす。
﹁お疲れー﹂
﹁お? と、ありがと﹂
両肩を掴まれて顔をあげると紗里奈がにぃと笑いながら俺の肩を揉
1120
んできた。
﹁いやいや、君にはまだこれから頑張ってもらわなきゃいけないか
らね﹂
﹁え?﹂
﹁来週はー、なんの日かなー?﹂
﹁あ、ああ、わかってるよ﹂
来週には終業式、そして今年最後のお仕事だ。
今年、終わりかぁ。
﹁行きましょうか﹂
﹁うん﹂
三人で鞄を持っていつものように連れだって淑女会室に向かう。
﹁どうでした?﹂
﹁まー、ぼちぼちかな﹂
﹁あたしもまぁまぁかな。小枝子は?﹂
﹁それなりに﹂
﹁とかって実はいいんでしょ。あーあ、成績格差って悲しいなぁ﹂
﹁さ、紗里奈さんってば。もう﹂
﹁でも今回調子いいし、俺も紗里奈には勝てるよ﹂
﹁あ、言ったな。かける?﹂
﹁いいよ。なにする?﹂
﹁私は−﹂
﹃小枝子はいいから﹄
﹁うう⋮これじゃ逆成績格差です﹂
1121
参加しようとする小枝子に声を揃えて却下すると、小枝子は泣きま
ねをした。
何気にこいつ、頭いい自覚も自負もあるからな。さっきも否定しな
かったし。
﹁君が言うな。嫌味にしかならないからね﹂
﹁小枝子、とりあえず後でデコピンな﹂
﹁ええ、そんな、軽いジョークじゃないですか﹂
﹁さて、今年最後のもう一頑張りだ。頑張るぞー﹂
﹁おー﹂
﹁無視しないでくださいー﹂
さりげなくスルーしながら足早に淑女会室へと辿りついた。
﹁失礼し、閉まってる﹂
﹁あ、早く着すぎちゃったかな﹂
ドアを開けようとして閉まってた。しかしこんなこともあろうかと。
ずいぶん前から出番がなかったが俺には複製した鍵がある。
解錠、と。
﹁え、なんで君が鍵持ってんの?﹂
﹁ん? ⋮実は前に、緑の小人さんが夢にあらわれて俺にこの万能
の鍵を−﹂
﹁それはいいから。てゆーかそんな電波発言でごまかせるわけない
っしょ﹂
﹁もしかして、まさかですけど、複製、とか⋮?﹂
﹁てへ﹂
﹁うわー⋮うっ、わー。ないわー﹂
1122
ドン引きされた。
いやー、だって最初はほら、淑女会室なんて悪の本拠地みたいに思
ってたし。
﹁とりあえず、それあとで謝って返しときなよ﹂
えー、返すもなにも俺がつくっ⋮返します。返すから睨まないで。
﹁わかってるって﹂
﹁本当に? いやめっちゃ不服そうだったけど﹂
﹁皐月さん、さすがにこれは犯罪手前ですよ﹂
﹁わ、わかってるってば﹂
そこまで言わなくても⋮別に悪いことするわけじゃないし、誰かの
個室でもないしいいと思うんだけどなぁ。
﹁あら、早かったわね﹂
おっとーう! 七海が現れた!
﹁あ、待ってました、会長っ。ずばっと言ってやってください﹂
﹁? どうかした?﹂
やってきた七海は紗里奈の言葉に首を傾げながら鍵をさした。
﹁? あら? 閉まった⋮?﹂
かちゃかちゃと閉めて開けてと二度繰り返してから不思議そうに鍵
を抜いてドアをあける七海。
1123
﹁私、もしかして鍵開けたままだったかしら?﹂
﹁や、やだなぁ。七海ったらおっちょこちょいなんだから﹂
﹁皐月﹂
﹁すみませんでしたぁ!﹂
七海の勘違いにのっかったら紗里奈の声が低くてめちゃくちゃ怖か
ったから、90度に体を曲げて七海に謝罪した。
﹁え? なに? どうしたのよ一体?﹂
頭だけ上向きにしてちらりと見ると七海はぱちくりと驚きに瞬きを
していた。
○
﹁聞いていて!?﹂
﹁き、聞いてます。聞いてますぅ﹂
その場では5分ほどの説教ですんでほっとしたのもつかの間、夕食
後に改めて怒るからと呼び出しをくらった。
そして今、正座でお説教を聞き出して2時間近くたってる。足がし
びれすぎて感覚がない。
1124
﹁全くもう⋮最近頑張ってると思ったのにあなた、本当に突拍子も
ないことするわね﹂
﹁はい、すみません﹂
昔のことだしーとか言ってはならない。言ったらまた一時間延長さ
れる。さっきそうだったし。
﹁他にはなにも犯罪してないでしょうね﹂
﹁はい、してません。反省しております﹂
﹁本当でしょうね﹂
﹁はい。今回は私の認識が甘かったと反省しております。軽い気持
ちでやりました。ごめんなさい。もうしません。許してください、
このとおり﹂
﹁⋮もういいわ。立ちなさい﹂
土下座して謝るとようやく許してくれたらしい。
ふう、長かったー。まぁ確かに、鍵の無断複製はいけないよな。反
省反省。って
﹁いっ、だっ﹂
あ、足、足が⋮。
立ち上がろうとしてお尻をあげた瞬間に足がびりびりして痛くてた
まらない。ぷるぷる足が震えてる。たまらず手をつく。
﹁、うぐぅ、うーっ﹂
四つん這いのままうめく。
これは、痛い。まじ痛い。しびれるどころかもう足なくなったレベ
ル。
1125
さっきまで感覚なかったけど今もう涙でそう。これ死ぬ。てか死ん
だ。無理。これは無理。
﹁なにやって⋮ああ、足ね。罰だと思いなさい﹂
﹁うぁぁあああぁぁっ!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ああぅぅうああぁー﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ああ−﹂
﹁うるさいわよ。大袈裟ねぇ﹂
﹁ほんっとに、痛いんだよおぉー﹂
今のはわざと呻いたけどさ、声を我慢できなくないけどさ。
でもほんと、痛いんだよ? なんかもう足が足じゃないみたいに痛
い。ていうか痛いししびれるのに感覚ないし気持ち悪い。
﹁⋮⋮﹂
﹁え、なんで近づいてくるんだよ。ちょっと、やめろよマジでやめ
ろよ!?﹂
﹁うるさいわよ。いいから、ほら﹂
﹁⋮え、手?﹂
足を突いて嫌がらせをしてくるかと思ったら、手をさしだしてきた。
普通に助け起こしてくれるらしい。
﹁今日のお説教は少し長かったから⋮ちょっとは、私にも責任があ
るわよ﹂
七海は少し照れてるのか視線をあわせずに俺に手を差し出してる。
このしびれは完全に、正座を強要した七海のせいな気もするけど、
1126
ばつの悪さを隠すような珍しい照れ顔が見れたしいいか。
﹁ありがとう﹂
﹁ん﹂
ぐっと手を握ってひいた。
﹁きゃっ?﹂
何故か俺は立ち上がれず、七海が俺に突進してきた。慌てて開いて
る手で七海の肩を押さえた。
﹁いったた。な、なにしてんだよ﹂
﹁あなたね、強く引きすぎなのよ。ちゃんとしなさい﹂
七海は体勢を戻してからぐっと引っ張ってくれた。
その勢いにのって左足をたて−
﹁いっ﹂
﹁ちょっ!?﹂
やっぱり足に力はいらなくて体勢が崩れた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
尻餅をついた七海に覆いかぶさるように俺は再び四つん這いになっ
た。
てゆーか顔、近っ。
1127
﹁⋮は、早くどきなさいよ﹂
﹁あ、や⋮だから、足がしびれて⋮﹂
動こうにも動けない。でも七海のすぐ後ろにベットの足があるから
俺に挟まれて、七海も動けないっぽい。
方法としては七海が俺を突き飛ばしてくれればいいんだけど、言わ
ないでおく。
﹁⋮⋮﹂
﹁あー⋮その、綺麗な顔ですね﹂
﹁馬鹿なこと言ってないで、どきなさい﹂
なんとなく気まずくて顔の感想を言うと軽く不機嫌な顔になる七海。
でも距離が近いからわずかに頬が赤くなったのが見えて、照れてる
のはまるわかりだ。
意外と、照れ屋なのか?
というか、こんな至近距離で七海と見つめあってると、ドキドキし
てくる。俺も赤くなってるかも。
﹁あの⋮さ﹂
﹁なによ﹂
﹁⋮別に冗談じゃなくて、真面目な話なんだけど﹂
﹁だから、なに?﹂
﹁⋮その、ドキドキしてるんだけど、恋じゃないよな?﹂
﹁あっ、当たり前でしょう。なに言ってるのよ、馬鹿。ちょっと心
拍数があがったくらいで恋なわけないでしょっ﹂
﹁そ、そうだよな﹂
力一杯否定された。
1128
俺が七海に恋してるなんてありえないって言うってことは、要は遠
回しに拒否られてる? 俺なんかに好かれても迷惑ってこと?
あー、そりゃ、そうだろうけど、はっきり言われると落ち込むな。
﹁えと、そろそろ大丈夫かな﹂
地味にショックで七海の顔が見れない。
まだしびれはとれないけど、多少感覚が戻ってきたからゆっくりと
立ち上がる。
﹁ごめんな、大丈夫だった?﹂
﹁お尻をうったわ﹂
さっきと逆に俺が七海を引っ張って起き上がらせる。七海は息をつ
きながらツンとした声で答えた。
ちらっと七海を見ると一瞬視線があってからそっぽを向かれた。
﹁⋮撫でようか?﹂
﹁床でも撫でてなさい﹂
ぎろりと睨まれた。
今のはセクハラ発言だったかも。いや、俺が部下だからいいのか。
なんとなくいたたまれなくて俺は軽く挨拶して礼しながら退室した。
○
1129
1130
夢オチ希望
尻餅をつくと目の前に皐月の顔があって、びっくりして言葉がでな
くなる。
もう終わったと思ってたし自覚もないけど、まだ私は夏の恋を忘れ
てなかったらしい。
カツラをとって、少し髪が伸びているけど伊達眼鏡だけではやはり、
思いだしてしまうんだろう。どうにも皐月を意識してしまってドキ
ドキしてきた。
﹁⋮は、早くどきなさいよ﹂
﹁あ、や⋮だから、足がしびれて⋮﹂
皐月は私に覆いかぶさったまま、慌てて視線を泳がせるけど動けな
いらしい。確かに少し、長かったけど。
私が後ろに退こうにもベットがあるしできない。
﹁あー⋮その、綺麗な顔ですね﹂
﹁馬鹿なこと言ってないで、どきなさい﹂
皐月がまた唐突なことを言ってくるからざっくり切り捨てるけど、
体が熱くなるのを自覚する。
顔、赤くなってるかも知れない。ばれるかしら。
皐月の息がわかるくらい近い。さっき引っ張った時に繋いだ手は離
れたものの僅かに触れていて、ほんの小さな接着面なのに何故か凄
く熱い。
1131
﹁あの⋮さ﹂
﹁なによ﹂
﹁⋮別に冗談じゃなくて、真面目な話なんだけど﹂
﹁だから、なに?﹂
胸がうるさいくらいに鼓動して、皐月にも聞こえてるんじゃないか
と不安でつい口調がキツくなる。
﹁⋮その、ドキドキするんだけど、これって別に恋じゃないよな?﹂
はっ、き、聞こえてた!?
﹁あっ、当たり前でしょう。なに言ってるのよ、馬鹿。ちょっと心
拍数があがったくらいで恋なわけないでしょっ﹂
﹁そ、そうだよな﹂
力一杯否定した。
恋なわけがない。そんなはずない。
だって私はずっと皐月君を忘れるよう努力して、皐月個人を見るよ
う心がけた。
なのにまだ混合してるなんて、なにより皐月に失礼だ。
一つだけ、失礼じゃない答えもある。
でも一度フラれた私が改めて女の子の皐月を好きになるなんて、本
当にありえない。
だって、そんなのあんまりに惨めすぎる。
答えがわかりきった恋なんて、するはずない。
このドキドキは⋮ただ、びっくりしただけ。そう、尻餅をついたか
ら、驚いたの。それだけよ。
1132
﹁と、そろそろ大丈夫かな﹂
皐月がふいにそう言って立ち上がった。足のしびれがおさまったら
しい。
皐月は私の手をとって立たせた。
今まで何度も触れたのに、どうしてか今とても気恥ずかしい気がす
るのは、気のせいに決まってる。
だって今更皐月に恋なんて、ありえないんだから。
○
もしかしてもしかしてもしかすると、ひょっとして俺は七海が好き
なのかも知れない。でも違うかも知れない。
わからない。
単に、虹のせいで変に意識して過剰反応しただけかも知れない。
このままじゃ恋してないのに悩んだり意識して余計に変になるかも
知れない。
だから、知らなきゃいけない。
﹁と、言うわけだ﹂
1133
﹁は? ⋮いや、起こされていきなり言われてもわかんないから。
説明はしょんな﹂
お風呂に入ってから紗里奈を尋ねたら、めちゃ不機嫌そうな紗里奈
が出てきた。ちなみに今10時前。
﹁寝るの早くない?﹂
﹁テストの追い込みで、最近遅かったんだよ、ふわぁ。じゃ﹂
﹁いや、ちょっと待って。相談があるんだよ﹂
あくびをしながら閉めようとするドアを手で無理矢理開けると、紗
里奈は面倒そうにしながら手をドアノブから離す。
﹁⋮ったく、入りなよ。言っとくけど、途中であたしが寝ても怒ん
ないでよね﹂
﹁ありがとう。だから紗里奈って好きだよ﹂
﹁そりゃどーも﹂
部屋に入りドアを閉めて、ベットにあがった紗里奈と斜めに向き合
うようにベットに座った。
﹁で? なにさ﹂
﹁うん⋮あのさ、俺さっきある女の子と至近距離まで近づいてドキ
ドキしたんだけど、恋だと思う?﹂
﹁あたしはだいたいの女の子と至近距離まで近づいたらムラムラす
る。よってそれは恋ではない。証明終了﹂
﹁おいこら﹂
﹁うっさいなぁ。そんなくだらないことで悩んでたの?﹂
﹁くだらないって⋮﹂
﹁じゃあ聞くけど、君今までドキドキしたことないわけ?﹂
1134
﹁え⋮や、あるけど﹂
﹁でしょ? 恋じゃなくったってさ、美人だったり尊敬したりする
人と急に近づいたら、誰だってドキドキするよ﹂
﹁そう⋮かな﹂
でも、うーん⋮そうかな。やっぱ変に意識したからドキドキしただ
けなのかな。
﹁そうだよ﹂
﹁んー。紗里奈、ちょっといいか?﹂
﹁ん? なに?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮?﹂
顔を近づけてじっと見つめてみる。
紗里奈もまぁ今更だけど普通に可愛い。見慣れすぎて忘れがちだけ
ど、淑女会は俺以外みんな顔がいい。
でも別に、ドキドキしないな。
﹁んー﹂
紗里奈が目を閉じてわざとらしく唇を突き出してきた。
﹁ん﹂
とりあえず頬にキスしてみた。
⋮別にドキドキしないな。親愛のキスは前と同じで意識しないでで
きる。
1135
﹁え⋮うわ、びっくりした。まさかほんとにされるとは⋮﹂
﹁ん? 駄目だったか?﹂
﹁いいけどね。唇でもいいよ﹂
﹁そうか? じゃあ﹂
今度は口にキスした。
うーん⋮前なら唇はもうちょっと抵抗ってかあったと思うけど。別
に、平気だな。
﹁⋮君、ほんと変わったね﹂
﹁俺もそう思う﹂
﹁まぁ、意識が女よりになったってことじゃない? 女同士って意
識だから平気なんだよ、多分﹂
﹁そうだなぁ。そういうことなのかなぁ﹂
男らしくしようなんて気、全くなくなったし。だからって女らしく
とは思わないけど、多分、紗里奈がいうのが正しいんだろう。
って、あれ?
ならなおさら、七海にドキドキしたのって不自然じゃない? まし
て近づいただけなのに。
﹁皐月﹂
﹁ん、なに?﹂
﹁⋮さっきの訂正。君、会長に恋してるよ﹂
﹁えっ!? な、なんで七海って!?﹂
﹁わかるからわかるの。まだ不安なら、弘美とか小枝子にもキスし
てみたら? そしたらはっきりわかるよ。会長が特別だって﹂
1136
﹁⋮いや、そんな、違っ﹂
笑いながら紗里奈が軽く言うのを慌てて否定すると、紗里奈は首を
傾げた。
﹁? なにが?﹂
﹁いや、だって、紗里奈が好きなわけだし、だいたい俺なんか七海
に好かれるわけないし。俺は、七海に恋なんか⋮しないよ﹂
﹁⋮⋮あたしに気ぃつかってるなら余計だし、好かれるわけないな
ら告白されるわけないでしょ﹂
﹁だとしても七海、普通に男が好きなんだろ。俺、女だし﹂
﹁⋮⋮﹂
あ、あれ?
笑みが苦笑になったかと思ったら、急に怒りだしたぞ?
﹁皐月﹂
﹁は、はい。なんでしょう?﹂
﹁ちょっと君、正座しなさい﹂
﹁え⋮﹂
さっき散々したんだけど⋮。
○
1137
携帯電話が鳴りまくって起こされて、舌打ちしながらドアを開けた。
﹁と、言うわけだ﹂
略された。わかんないから。この子、あたしのこと過大評価しすぎ
だよね。
﹁は? ⋮いや、起こされていきなり言われてもわかんないから。
説明はしょんな﹂
﹁寝るの早くない?﹂
﹁テストの追い込みで、最近遅かったんだよ﹂
会長の前じゃみっともない真似できないからいつも通りにしてたけ
ど、昼からずっと眠かったんだよね。
てなわけで追い返そうとしたんだけど、相談があるとか必死な顔し
て言うから仕方なく部屋に招きいれた。
﹁だから紗里奈って好きだよ﹂
﹁そりゃどーも﹂
全く⋮あたしも丸くなったなぁ。別に不良ぶったり刺々しかったこ
とはないけど、そんな風に思った。
﹁うん⋮あのさ、俺さっきある女の子と至近距離まで近づいてドキ
ドキしたんだけど、恋だと思う?﹂
﹁あたしはだいたいの女の子と至近距離まで近づいたらムラムラす
る。よってそれは恋ではない。証明終了﹂
﹁おいこら﹂
1138
ベットに座って促すと、どう考えても会長相手の恋愛相談でイラっ
てきたから即効で否定してやった。
こいつ、調子にのってるな。あたしの気持ちも知ってるくせに。
﹁恋じゃなくったってさ、美人だったり尊敬したりする人と急に近
づいたら、誰だってドキドキするよ﹂
﹁そう⋮かな﹂
﹁そうだよ﹂
﹁んー。紗里奈、ちょっといいか?﹂
﹁ん? なに?﹂
どうせそのうち自分で気づくだろうしごまかしてみたけど、納得い
かないようでずずいとあたしに顔を寄せてきた。
ははぁ、ピンときたね。つまりあたしと近づいてドキドキするか対
比して会長への気持ちを確かめようと。
﹁ん﹂
﹁え⋮﹂
からかってやろうとわざとらしく唇を突き出してやったら、普通に
頬にキスされた。
普通に返されたから本気で驚いた。皐月、変わったなぁ。
﹁じゃあ﹂
軽口で応えると今度は口にキスされた。
触れるだけだし、そこまで驚くことじゃないけど、相手が皐月だけ
にあたしは今度こそ息を呑むほど驚いた。
1139
﹁⋮君、ほんと変わったね﹂
変わったと言い出したのはあたしだけど、変わりすぎだよ。
はぁ⋮ここまであたしに平気で、会長は近づいただけでドキドキす
るとかもう確定じゃん。なんで気づかないかなぁ。
あー、もう。わかってないの? わかっててとぼけてんの? はっ
きりしろ。
﹁さっきの訂正。君、会長に恋してるよ﹂
﹁えっ!? な、なんで七海って!?﹂
わからいでか。会長が説教宣言して呼び出したんだから、長く怒ら
れたのは明白だ。
髪は濡れてるからお風呂はいったってことだしこの時間なら、会長
くらいでしょ。だいたい、前々から皐月って会長に気がある気がし
てたし。
﹁⋮いや、そんな、違っ﹂
﹁?﹂
なんでそんな必死に否定すんのさ。訳わかんないんだけど?
﹁いや、だって、紗里奈が好きなわけだし、だいたい俺なんか七海
に好かれるわけないし。俺は、七海に恋なんか⋮しないよ﹂
この子は⋮あー。気、つかい方間違ってるから。それに告白された
くせに好かれるわけないとか、どういうことよ。
1140
﹁七海、普通に男が好きなんだろ。俺、女だし﹂
﹁⋮⋮﹂
それだとあたしもアウトだし。なに言ってるか自分でわかってんの?
てゆーか、イラつく。
とりあえず正座させた。
﹁あたしはね、皐月が気ぃつかって会長への想いを隠しても嬉しく
ないよ﹂
今までなら、そんなことなかった。いや今だって、皐月以外なら会
長への想いを伝えるようになんか絶対言わない。
親しくなってあたしに惚れさせるか、先にあたしが好きって宣言し
て気をつかうようにさせる。
でも皐月は⋮悔しいけど仕方ない。皐月には、勝てない。だってす
でに皐月の性格が会長の好みだってことは明確なんだ。
﹁それにどうせフラれると思って恋じゃないなんて言うのも駄目。
そんなヘタレは許さないよ﹂
﹁そんな⋮つもりは⋮﹂
﹁じゃあ会長に恋してるって認める?﹂
﹁⋮そう、なのかな。ほんとに、よくわからないんだ﹂
あーー⋮めんどくさい。
別に会長とくっついて欲しいわけじゃない。それは当然嫌だ。会長
のこと好きだから、あたしが付き合いたい。
ただ、気を使われるのが嫌なだけ。皐月とは対等でいたいだけ。
あたしは告白はしたんだから、皐月も告白したらいい。
1141
もしかしたらそれで付き合うことになるかも知れない。その可能性
は悔しいけどあたしより高い。
そんなの嫌だけど、でもだからって、どうするのが正解かなんてあ
たしにもわからないよ。
﹁じゃあ、確認しなよ。他の誰に近づいても平気なら、会長が特別
だってわかるね?﹂
﹁うん⋮﹂
もし、会長と皐月が付き合ったら⋮泣くな。部屋に引きこもるかも。
ほんとにどうしよう。あたしはどうしたいのかもよくわからない。
あーもう、めんどくさすぎ。
友達なんかできるから、恋なんてするから、こんなにややこしいん
だ。
⋮はぁ、それでも、だからって今更なかったことになんてできるわ
けないんだけどね。
だいたい、皐月が気づかなきゃこんな悩まないですんだのに。
誰か、寝て起きたら夢オチにしてくんないかなー。
○
1142
1143
夢オチ希望︵後書き︶
予約掲載機能を使ってやってみたかった連日更新。ストックができ
たのでやります。時間は何となく10時で統一します。
実はたまりすぎて順番間違えそうだからという理由もあります。馬
鹿だから3までしか数えられないんですよ。
1144
弘美に相談
紗里奈のところでは正座をすると怒られると言うより諭された。
紗里奈は七海が好きなはずなのに、いつも通りにすごくイイヤツだ。
でも、なんていうか、仮に俺が七海を好きだとして、七海を傷つけ
といて今更過ぎる。紗里奈の方がずっとイイヤツだし、敵わないよ
なぁ。
確認なんて、した方がいいのかな。いっそしないでいた方が⋮うう
ん、でもこの半端に気持ちがわからない状態って気持ち悪いしなぁ。
そんな風にうだうだ考えながら、紗里奈に促されるまま部屋を出て
弘美を訪ねた。
﹁で? 何の用?﹂
﹁えっと⋮弘美、俺ら以外に友達いるんだな﹂
訪ねたら弘美の部屋には数人の知らない下級生がいて、まごついて
るうちに弘美はその子たちを追い出して俺を招きいれた。悪いこと
をしてしまった。
﹁はっ、寝ぼけたこと言わないで。単なるクラスメートよ﹂
﹁ふぅん﹂
クラスメートは友達とは違うのかな。
そりゃ俺も紗里奈と小枝子を他のクラスメートと比べたら別格だけ
ど、何人かよく話す子は名字呼びだけど友達だと思ってるんだけど
1145
なぁ。
﹁で? なんか用あんでしょ?﹂
ベットに座った俺に弘美は隣に座りながら聞いてきた。
ちょっと言いづらいけど、言わなきゃな。
﹁うん⋮あの、約束したから、話しがあるんだ﹂
﹁約束? 誰となんの約束したのよ?﹂
﹁お前としただろ。ほら⋮す、好きな人ができたら、教えるってや
つだ﹂
﹁⋮⋮あー、そう。そうなんだ。じゃあ⋮聞かせて﹂
弘美は平然と頷きながら俺を促した。あまりに普通の態度だから俺
の方がたじろいでしまう。
﹁全然、驚かないんだな﹂
﹁ヒロ、皐月様より頭いいもん。わかるわよ。それにずっと、覚悟
してた﹂
﹁そうか⋮⋮といっても、まだ確証はないんだけど。俺、七海が好
きかも知れない﹂
﹁予想はついてたけど、やっぱ七海様なのね。でも七海様はなー、
どう支援すればいいのかわかりずらいのよね﹂
うーんと腕組みをして考えだす弘美に苦笑しながら頭を撫でてやる。
﹁支援とか、いいって。ていうか、自分でもよくわかんないから﹂
﹁んー。ヒロ、思ったより、大丈夫よ。応援も大丈夫﹂
﹁大丈夫とかじゃなくて⋮⋮あー、ま、いいか。ほどほどに頼む﹂
﹁うん﹂
1146
というか、確認も兼ねて来たんだけど。なんでそんなやる気だして
んだよ。
﹁ヒロさ﹂
﹁ん? なに?﹂
﹁ヒロは別にあんたと今更恋人になりたいとは思わないのよ﹂
﹁うん﹂
﹁でも、やっぱりあんたのこと好きなのよ。何て言うか、特別に感
じるわ﹂
﹁⋮うん﹂
﹁だから、その⋮ヒロは、皐月様の妹でいいわ。だから、ずっと大
切にしなさいよ﹂
弘美⋮。
弘美がどんな風に考えてその結論を出したのか俺にはわからない。
でもそんなこと、考えない。俺は馬鹿だから、考えたって弘美の考
えなんてわからない。
だから、俺は俺が思うままに応えよう。
﹁バカだな。そんなの、当たり前だろ。お前はとっくに、俺の大事
な大事な妹だよ。頼りにしてるぞ﹂
﹁ん。仕方ないから、面倒みてあげるわよ﹂
弘美は大切な人だよ。それは一生かわらない。
﹁で、とりあえず確認だっけ?﹂
﹁うん。俺結構変わったし、どかからどこまでがどうかなんてわか
んないんだよなー﹂
﹁じゃあ何で恋してるかもって思ったわけ?﹂
1147
俺は母さんに虹うんぬんの話を聞いて、七海に虹を教えて、それか
らさっきドキドキしたことを話した。
長めの話なのでだれてきたらしく弘美は髪をいじったりしながら聞
き、話が終わると欠伸をした。
なんか急にやる気なくなってないかこいつ。⋮単に眠いだけか。
﹁なるほど。わかったけど皐月様、説明下手ね﹂
﹁ほっとけ﹂
﹁にしても⋮これも母親がらみとかどんだけ、と言わざるを得ない
わね﹂
﹁そういうコメントはいいってば。てか、俺の母さんはお前にもお
母さんみたいなものなんだぞ﹂
﹁ないわよ﹂
﹁いや、義姉妹みたいなものじゃん﹂
﹁家族は関係ないから。嫌いじゃないけど、あんたが姉だからって
あの人を母親に思うかって言ったら話は別だから﹂
﹁うーん。そうか。まぁ俺も学園長をおばあちゃんには思えないし﹂
おばあちゃんってどんな感じか知らないし。
﹁んーで、ふわぁ、話戻すわよ﹂
﹁や、眠いだろ。明日にしよう﹂
﹁んー⋮や。まだ11時前だし。大丈夫よ﹂
﹁でも昨日はテスト勉強で遅かったんじゃないのか?﹂
﹁まぁ⋮って、なんで知ってるのよ。言っとくけどいつもより一時
間遅いくらいだし、単に疲れただけなんだから﹂
やっぱり弘美でも、テスト前は睡眠不足になるんだな。
1148
﹁別に急がないし、大丈夫だよ﹂
﹁急ぎなさいよ。もうすぐ七海様の任期終わるって言うのに、呑気
ねぇ﹂
﹁⋮え?﹂
﹁ん? ⋮もしかして気づいてなかったの? 七海様三年なのに卒
業まで会長してるわけないじゃない。二学期末で部活から三年は引
退よ﹂
﹁え、え? き、聞いてない!﹂
﹁聞いてないからでしょ。七海様だし受験余裕だろうし、多分来年
頭も普通に顔見せるだろうけど、会長なのはあと数日よ﹂
⋮わ、忘れてた! 七海、受験生だった⋮。完全に忘れてた。来年、
卒業しちゃうんじゃん!
﹁⋮あんたねぇ﹂
﹁いや、来年卒業ってのは、わかってたよ。わかってたけど⋮﹂
こないだも卒業したら寂しいなって思ったけど、それまでは一緒だ
と思ってた。
でもそういえば、中学の時も三年は夏までとか言ってたな。むしろ
遅い方か。
﹁ど、どうしよう!? 七海ともう離れちゃうの!?﹂
﹁あんたもう、完全に惚れてるじゃん。何を確認したいのよ﹂
﹁え、そう? ⋮いやでも、好きだけど恋かはわかんないじゃん﹂
呆れたようにため息ながらに半眼で見られたけど、自分ではよくわ
からない。
﹁じゃあ、どうだったら恋って認めるわけ?﹂
1149
﹁え? ⋮うーん⋮わかんないけど﹂
﹁はっきりしないわねぇ。七海様にドキドキしたんでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁なら⋮﹂
弘美は眠いのかゆっくりと俺の肩に手を置き、押しながら俺の向き
を変えてもたれかかるようにして俺の胸にすりよってきた。
よくわからないが弘美の体を支えるとそのまま後ろに倒されて抱き
着くように頬にキスされた。
そして弘美が顔をあげるととろんとしている目が見えた。声もぼや
けてるし、そうとう眠そうだ。
﹁ドキドキしてる?﹂
﹁いや⋮驚いたけど、ドキドキはしないな﹂
﹁んじゃ、次は七海様にキスしてきなさいよ。それでドキドキした
ら恋でしょ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁それで納得いかないならもう知らない。ヒロ、眠いからもう寝る
ね﹂
弘美はごろんと俺の上から転がって布団の上でまるまった。
﹁うん。わかった。ありがとうな。おやすみなさい﹂
﹁んー﹂
もう寝たのか置きてるのかわからないが弘美に掛け布団をしっかり
かけ、電気を消して部屋を出た。
とりあえず⋮覚悟決めるか。
1150
俺は再び七海の部屋へ向かった。
○
﹁んーぅ﹂
眠くて体は重いけど、どうしてかまだ頭は冴えていた。
暗くなった部屋で皐月様について改めて考えてみる。
皐月様が七海様を好きというのは、何となく予想してた。
正直に言えばやだなって思うけど、激しく嫉妬するとかはない。
もしかしてヒロは元々皐月様に恋してなかったんじゃないかと思う
くらいには、我ながら淡泊な反応だ。
ヒロは皐月様が好きだし、キスするのも好きだし、ぎゅってしたり
してくっつくのも好きだ。
皐月様じゃないけどドキドキしたりしたし、恋していたはずだ。
でも、それは一過性の、麻疹みたいなものだったのかも知れない。
現に今はヒロ、皐月様にキスしたけどドキドキはしなかった。
なんとなく気恥ずかしいような嬉しい気はしたけど、ドキドキより
むしろほっとする。
皐月様といて、落ち着く。うーん。これは愛、よね?
本人にも言ったけどヒロは妹。それでいい気がする。負け惜しみと
1151
か、妥協じゃなくて。
考えたら皐月様が望むならヒロはエッチも辞さない覚悟だったけど、
皐月様にエッチな欲望を持ったことはない。
最初から恋じゃなくて、単に純粋に単純にひたすらに、好きなだけ
だったのな。
わからない。
自分のことなのにわからなくてちょっとモヤモヤする。
七海様が皐月様を独占するとしたら嫌だけど、ヒロに対して今まで
通りなら七海様とイチャイチャしても嫌悪とかはない。
だからまぁ、いいか。
七海様と皐月様が恋人になって、それでもきっと皐月様はヒロを置
いて行ったりはしないだろう。ヒロが甘えても、拒否したりはしな
いだろう。
七海様と皐月様が付き合って、ヒロと皐月様が姉妹で我が儘を言っ
たりして、七海様がヒロに嫉妬したり、七海様とヒロが今より親し
くなったり、そんな未来もありだと思う。
いやむしろ、悪くない。
七海様は、口うるさいし頭固いしKY発言したりでうざったいと思
うことは多々あるけど、嫌いじゃない。
皐月様を独占して縛り付ける性格でもないし、ヒロに本気で怒った
りしないだろうし、小枝子様よりはヒロには都合がいい。
うん、いい。紗里奈様だったら最悪だし、むしろ皐月様の人選はヒ
ロにもいい。
1152
そう考えると少しモヤモヤが収まった。
前向きに考えよう。きっと、皐月様なら大丈夫だから。
改めて結論を出したヒロは寝返りをうってから、眠りについた。
○
1153
手に確認する
時間も遅いしコツコツとあんまり大きな音がしないようにノックし
た。
﹁⋮⋮﹂
返事がない。寝てるのかな⋮でも、いや⋮だけどそもそも、俺はな
にをする気だ? キスなんていきなりしたら怒られるよな。キスだ
けのためにこんな時間に会いに行くってのも不自然だし。
﹁⋮やっぱ﹂
戻ろうかな? 戻った方が⋮いいかな。騒いでも迷惑だし。うん、
帰−
かちゃ
﹁⋮皐月? こんな時間に、なによ﹂
﹁あっ⋮﹂
眠そうな七海が少しだけドアを開けて顔を覗かせてきた。
﹁あ、あの⋮﹂
﹁? とりあえず、もう遅いわ。見られないうちに入りなさい﹂
﹁あ、いや、待って﹂
﹁?﹂
中に引っ込もうとする七海に慌てて手を掴んで止めた。
1154
﹁なによ?﹂
﹁その⋮﹂
不自然そうに眉をひそめてくる七海は、赤い唇を半開きにしていて、
何故か急に恥ずかしいような気になった。
﹁なによ、はっきり言いなさい﹂
﹁⋮その﹂
視線をさげると俺が持ってる七海の手があって、思い付いた。
﹁ちょっと、ごめん﹂
手を持ちあげて、指先に⋮う、や、やっぱ、恥ずかしい。でも、し
なきゃっ。
一瞬止まったけど手をあげながら頭をさげてちゅ、と七海の指先に
キスをした。
﹁は⋮﹂
﹁じゃ、おやすみ﹂
ぱっと手を離す。七海はそのままの体勢で固まったように俺を見て
る。
俺は軽く片手をあげて挨拶して早足に自室に帰った。
ばんっ
思いのほか強くドアを閉めてしまった。というか階段あたりから走
1155
ってた気もするけど誰もいなかったしセーフで。
﹁⋮⋮⋮⋮っ、はあぁぁ⋮﹂
あー⋮指なのに、なんでドキドキしてるんだろ。⋮いや、もう、ご
まかすのはやめよう。
好きだ。俺、七海のこと好きだわ。七海に特別な感情を持ってる。
うん、多分、てかおそらく、恋してる。
ベットにばーんと寝転がって、天井を仰ぐ。
あーー⋮意識したくなんてなかったー。これから、どんな顔で七海
に会えばいいんだ。
﹁うーー﹂
やばい。やばいやばいやばい。
顔が熱くて、七海のことを考えるだけでむずむずするような、じっ
としてられない焦燥感がとまらない。
ああもう、本当に、恋って、言葉で説明できないものなんだなぁ。
はぁ⋮今日は眠れそうにない。
○
1156
布団にはいってうとうとしだしてすぐに、ノックの音がして私の意
識はかろうじて踏み止まる。
枕の上にある時計の頭を叩いて針を光らせて時間を見ると12時を
過ぎたあたり。
思ったより布団の中でだらだらしていたらしい。眠いけれど、こん
な時間だからこそ非常事態かも知れないから無視はできない。
目をこすりながら立ち上がる。
﹁⋮やっぱ﹂
﹁?﹂
あれ、今の声は⋮
﹁⋮皐月? こんな時間に、なによ﹂
そっとドアを開けると戸惑ったような皐月がいた。
さっきのこともあって気まずいけれど、眠いせいか頭が回らない。
﹁あ、あの⋮﹂
﹁? とりあえず、もう遅いわ。見られないうちに入りなさい﹂
﹁あ、いや、待って﹂
﹁?﹂
破ったからと言ってなにもないのだけど消灯時間はすぎているし、
回りに迷惑をかけてもいけないので中に招いたら、手をひかれた。
1157
﹁なによ?﹂
﹁その⋮﹂
なんとなく照れ臭いのを隠すために眉をひそめて皐月に尋ねるけど、
どうもはっきりしない。
﹁なによ、はっきり言いなさい﹂
﹁⋮その⋮⋮ちょっと、ごめん﹂
俯いた皐月はゆっくりと私の手を持ち上げる。意図がわからなくて
されるがままになる。
一度止まって反動をつけるように少しだけさがると、皐月はさっき
より早く手をあげながら頭をさげて私の指先に唇をあてた。
﹁は⋮﹂
呆気にとられて皐月を見るけど皐月はすぐに私の手を離して、じゃ、
と挨拶をして駆け足気味に踵をかえした。
皐月が階段に消えるのを見てから、まだあげたままだった手を見た。
﹁っ﹂
なに、なにを⋮なにしてるのよ。
とまってた頭が急激に動きだして、私はドアを閉めてベットに戻る。
﹁⋮⋮﹂
なんで、こんなことするのよ。皐月の馬鹿。意味がわからないわ。
1158
いつもより大きな音で心臓がなる。
こんなこと⋮⋮大したことじゃない。手にキスなんて、挨拶だ。な
のに、どうして相手が皐月だっていうだけでこんなに動揺しなきゃ
ならないのよ。
だいたい、なにしにきたのよ。おやすみのキスをしにきたとか、皐
月は私のなんなのよ。
﹁⋮ばか﹂
皐月のばか。
ばかばかばかばか、ばーか。ばーかー。
﹁⋮⋮ぶぁかぁ﹂
枕をぎゅうぎゅう抱きしめて落ち着こうとしても、私は当分眠れそ
うになかった。
さっきやっと、寝かけてたのに。
○
﹁おはよう﹂
﹁今何時だと思っ⋮ひどい顔﹂
1159
ドアを強くノックされて無理矢理目を開けるとまだ7時半で、イラ
イラしながら開けたら立派な隈をつくった皐月がいた。
まさかだけど、こりゃ一晩中会長のこと考えてたな。
﹁ひどいこと言うなぁ﹂
﹁事実だし。大丈夫?﹂
﹁あー⋮それより今いいか?﹂
﹁考え、纏まったの?﹂
﹁うん﹂
﹁朝ご飯は?﹂
﹁もう食べてきた﹂
﹁早いな⋮﹂
休みでも食堂は6時から開いてるんだっけ? 本気で寝てないな。
﹁とりあえず、あたしもご飯食べてくるから3時間後に⋮﹂
﹁寝る気だろ﹂
﹁⋮君ね、テスト終わって年末の準備もようやく落ち着いた休日に
どうしてこんな時間に起きなきゃいけないんだよ﹂
﹁⋮ごめんなさい﹂
素直に謝られたら怒れない。全く、あたしも眠いし、君も寝なきゃ
駄目だろ。
﹁いいよ。君も寝たら?﹂
﹁うん、お言葉に甘えるよ﹂
﹁って何入ってきてんの﹂
ドアをふさぐ位置にいるあたしを避けて皐月は普通に部屋に入って、
1160
あたしの問いかけに振り向いて不思議そうに首を傾げた。
﹁? 一緒に寝るって意味じゃないの?﹂
﹁寝ぼけてんな。まぁ、あったかいからいいけどね﹂
﹁うん﹂
仕方ないからドアを閉めて、あたしは皐月と一緒にベットに入った。
○
起きた。
﹁んー、∼∼むにゃ﹂
なんか知らないが、紗里奈が俺の顔を舐めていた。
﹁あむ、うみゅ﹂
﹁おい起きろ!﹂
﹁んわっ!? ⋮⋮あー、あ? ああ、まずかったはずだ﹂
肩をゆすぶるとびくっと身を起こしてから俺を見て一人納得したよ
うに紗里奈は頷いた。
﹁なにその扱い。つかくさっ﹂
1161
﹁臭いとかひどいな﹂
﹁寝起きで涎だらだら塗りたくられていい香りとか言ったら逆に俺
の頭がおかしいだろ﹂
それに本当に臭いし。お前寝る前にちゃんと歯ぁみがいてる?
﹁みがいてるよ。失礼だ⋮なぁ⋮⋮みがいた、よな?﹂
﹁お前⋮マジか﹂
﹁いや、みがいたよ? でもそのあとポテチ食べて⋮⋮うがいです
ませてたや﹂
﹁うえ。余計気持ち悪い。顔洗ってくる﹂
﹁あ、あたしもー﹂
並んで顔を洗って俺はすでに本日二度目の歯磨きもした。
何故か紗里奈が洗面所の下から引っ張りだしたナイロン袋に山ほど
新しい歯ブラシが束になって入ってて、遠慮なく一本もらって使う
ことになった。
﹁その歯ブラシ、あとは捨てていいから﹂
﹁や、もらってく。あとでちゃんと返すな。部屋にストックあった
と思うし﹂
﹁安物だし返さなくていいよ﹂
﹁そうか? まぁ、安物なのは見たらわかるけど、数多過ぎだろ﹂
﹁50本セットで500円だったからつい﹂
﹁安いなー﹂
歯磨きが終わり紗里奈が身支度をするのを座って待ちながら、雑談
を続ける。
てか一本10円は安すぎだろ。素材が疑わしくなる。そして50本
は買いすぎだ。
1162
﹁いやー、あれ買ったから前使ってた電動歯ブラシ捨てたんだけど、
手でみがくのってめちゃくちゃ面倒だよねー﹂
﹁お前衝動的に生きすぎだろ﹂
なんで高が500円のために電動歯ブラシ捨てるんだよ。どんなの
か知らないけど、どうせ何年と使い続けるような高いやつだろ。確
かに50本も何年分かわかんないけどさ。
﹁本当は新しい電動欲しいんだけどね。まだ450本はあるし⋮﹂
﹁⋮は? 450?﹂
﹁調子に乗って500本買っちゃってさぁ。100本ずつ袋にわけ
て奥に眠ってるんだけど、一袋いる?﹂
﹁いらない。てかお前馬鹿だろ﹂
﹁いやー、ついね﹂
ついじゃねーよ。一ヶ月に一本のペースで計算して、1年で12、
10年で120、20年で240、40年で480⋮
﹁本気で使ってたら、最後の方腐ってくるんじゃね?﹂
﹁結構配ってるんだけどね。10本くらいいらない?﹂
﹁⋮一本もらっといてなんだけど、これ使いにくいから本気でいら
ない﹂
﹁そっか⋮まぁ、仕方ないか。おばあちゃんになるまでの辛抱だ﹂
﹁こんなことで我慢強さアピールされてもなぁ﹂
律儀なのか馬鹿なのか。⋮馬鹿だな。買った時点で量におかしいと
気づけよ。
﹁ま、歯ブラシは置いといて、あたし朝ごはん行くけど君は?﹂
1163
着替えも終わって完全になった紗里奈が振り向いた。お腹をさすっ
てみると空いてるっぽいから立ち上がって部屋を出た。
﹁行く。話はあとでな﹂
﹁話? ⋮ああ、はいはい。もちろん覚えてるよ﹂
﹁忘れてたのかよ﹂
﹁君、ご飯食べたって行ってなかった?﹂
﹁まぁまぁ﹂
﹁いいけどね。あー、今日はなんかうどん食べたい気分ー﹂
﹁いいなぁ。寒いしな。俺は⋮ああ、うどんすき食べたいな﹂
﹁うどん好き? ⋮どんな料理?﹂
﹁すき焼きだよ。﹃うどんすき﹄って言わないか?﹂
﹁言わないよ。だいたいすき焼きとうどん関係ないし﹂
﹁は? 関係あるだろ。お前すき焼きにうどんいれないの?﹂
﹁いれないよ﹂
﹁マジで!?﹂
﹁いれないよ。なに? もしかして君んチ、貧乏すぎて肉の代わり
にうどんいれてたの?﹂
﹁いれるかっ! 貧乏だとしても牛↓豚とかだろ。肉からうどんに
とかどんな過程があればなるんだよ﹂
﹁さぁね﹂
﹁投げるなよ﹂
﹁君、朝から元気だねぇ﹂
﹁そりゃ、ツッコミがテンション低かったらしまらないだろ﹂
﹁なーぁんでーやねぇーん、とか? 確かにださいね﹂
﹁お前は今関西を敵に回した﹂
﹁いやいや、あたしほど関西好きーも中々いないよ。てかこの学園
自体、関東か関西か微妙なとこにあるし﹂
﹁いやここはどう見ても関東だろ﹂
1164
﹁そなの?﹂
﹁東京よりは西とは言え、どう解釈したら関西になるんだよ﹂
﹁東京よりは西だから﹂
﹁つまり境目が全くわからないんだな﹂
﹁うん﹂
﹁俺も細かくは覚えてないけど確か−﹂
﹁キツネうどんってどんなのだっけ?﹂
﹁⋮油揚げのだろ﹂
﹁あ、なる。んじゃあたしそれにしよ。皐月は? 同じのにする?﹂
﹁んー、や、天ぷらうどんで﹂
丼鉢とお箸とコップをのせたお盆を持って、窓際の席を確保する。
﹁コップー﹂
﹁ん、ありがと。濃いめね﹂
﹁わかった﹂
コップを二つ持ってお茶をいれて戻る。席を確保、といったが特に
混んでないしすぐに戻って食べ始めた。
﹁ん、うまい。このじゅくってなった衣がたまらん﹂
﹁そういや天ぷらうどんって語呂悪くない?﹂
﹁そうかな⋮俺はそうは思わないけど﹂
﹁じゃああたしが聞き慣れてないだけかも。皐月、ちょっと百回言
ってみて﹂
﹁ほいきた、天ぷらうどん天ぷらうどん、って百回も言えるかー﹂
﹁うわ、なにそのテキトーなノリツッコミ﹂
﹁テンション低くツッコミをしたらこうなるんだよ﹂
﹁まだそれ引きずってたの? 遅れてるー﹂
﹁ついさっきだ!﹂
1165
﹁あたしは未来を生きる女なのー﹂
﹁どこが?﹂
﹁歯ブラシを未来の分まで買うとことか﹂
﹁お前こそ引きずりまくってんじゃねーか﹂
だらだら話ながらうどんを食べ終わって、ごちそうさまを言って、
別れて部屋に戻ってふと気づいた。
そういやなんで朝から一緒なんだっけ? 果てしなくしょーもない
話すぎて、なに話してたかもう忘れたな。
紗里奈のとこに泊まったっけ? ⋮⋮あ
﹁忘れてた!﹂
﹁あ、おかえりー﹂
慌てて紗里奈の部屋を本日二度目に訪ねたら普通に迎えられた。
﹁紗里奈、実は、話があるんだ﹂
﹁うん、普通に別れたからいつ気づくかと思ったら意外に早かった
ね﹂
﹁もっと早く言って!﹂
今俺シリアスな顔してたのに! 超恥ずかしい!
○
1166
1167
手に確認する︵後書き︶
ものすごくどうでもいい会話文を書いてしまったけどそのまま掲載。
1168
告白した⋮と思う
まぁ終わったことは気にしない! 俺は未来に生きるんだ!
どうでもいいけどこれ、一般的によく聞く台詞だよね!
﹁で、話ね。話﹂
﹁うん。えっと⋮俺、七海が好きだ﹂
﹁あたしに言われても?﹂
﹁え? いや、これはお前に告白してるんじゃなくて報告というか
⋮わかるだろ?﹂
﹁うん﹂
﹁そういうこと﹂
﹁つまりあたしに告白してるんだねっ﹂
﹁わざとだろ! 真面目に話してるんだから、まずその変なつくり
笑いからやめろ﹂
ベットに座る紗里奈と向かいあうようにソファに座って話している
んだが、紗里奈がやたらとニコニコして不気味だ。
﹁ほほーう。笑うなと?﹂
﹁え? そんなことは言ってないというか⋮ううん、あの、わかる
だろ?﹂
﹁わかるよ! わかるけど頼ってんじゃねー!﹂
﹁はぇ!?﹂
くわっと眉を吊り上げて怒鳴られた。
な、なんだ? なんなんだ?
1169
﹁だいたい君! あたしに頼りすぎ! わかるでしょで済まそうと
すんな!﹂
﹁え、あの、ごめんなさい﹂
﹁ごめんですんだら警察いらないわ! ⋮⋮⋮⋮ごめん、興奮した﹂
﹁え、あ、ああ⋮ごめんなさい。よくわかんないけど、悪かった﹂
急に鎮静化した。紗里奈ははぁとため息をついてから苦笑する。
ど、どうしよう。こんな紗里奈初めて見た。
﹁あたしがさぁ、なんでキレたかってーとさ、うまいこと綺麗な言
葉で言えないから濁すけど、嫉妬だから気にするな﹂
﹁なんで嫉妬? 好きって言っただけじゃん﹂
﹁あのね、普通は自分が好きな人を他の人も好きって言ったら、相
思相愛じゃなきゃ嫌に思うものなの﹂
﹁?﹂
﹁付き合ってないなら、好きな人は自分以外のその他の人にいくか
も知れないんだから、不安になったりするものなの﹂
そんなものなのか⋮七海なんて、俺が好きになるくらいなんだから
他の人が好きだっておかしくないと思うけどな。
﹁わからないのは君が変なだけ。ていうか君がそういう変人だから
よけいにあたしはさー⋮やりずらくってしょうがないよ。﹂
﹁? やりずらいってなにが?﹂
﹁⋮あー、いらってくる。君といるといらつく﹂
﹁ええぇ⋮どうしろってんだよ﹂
紗里奈が七海を好きなのは知ってるから、言わないのは不公平だと
思って報告した。
それは間違ってないと思うけど、嫉妬⋮って七海が俺を好きならお
1170
かしくはないけど、俺が好きだからって嫉妬するのはおかしいだろ。
なにが﹃やりずらい﹄んだ? ⋮⋮うーん? やっぱり、よくわか
らないな。俺って、馬鹿なんだなぁ。それとも単に、鈍いのかな。
﹁⋮⋮あー、なんかホント、やるせないってか。いつかこんなこと
になる気がしてたんだよね。あたしはさー⋮⋮はぁ﹂
﹁? あの⋮﹂
﹁昨日はまだ前向きだったのに、なんか寝て起きたらやる気なくな
っちゃったなー﹂
﹁あのー、話、わかんないんですけど?﹂
紗里奈はだるそーにしながら横向きに寝転がって俺をじとーっと半
眼で睨んできた。
﹁⋮とにかく、告れ。もう知らん。あたしにはカンケーないったら
ない。もういいよ。あたし皐月好きだし、もうそれでいいよ﹂
﹁はぁ?﹂
﹁面倒になっちゃったし、会長あたしのこと眼中にないし、皐月に
あげるよ﹂
﹁はぁあ? お前なに言ってんの?﹂
﹁だから、あたしのことは気にしないでいいから告れ﹂
﹁⋮⋮い、言われても⋮﹂
心の準備っていうか、その⋮どうせフラれるだろうし⋮⋮でもまぁ、
言ったほうがいい気もするけど、なんてゆーか、早い。まだ早い。
﹁恥じらうなよ、キモい﹂
﹁いや、なんてゆーか、ねぇ?﹂
﹁ねぇじゃない。さっさと告れ。あと3⋮4日? 今日いれて5日
で会長は小枝子になるんだよ﹂
1171
﹁え、ええぇ!? 次の会長って小枝子なの!?﹂
﹁まだ発表されてないけど、あたし言われてないから小枝子でしょ。
まさか君なわけないし﹂
紗里奈も知らされてはなかったのか。てか、なんで小枝子? 順当
にいえば紗里奈だと思うんだけど⋮本人が気にしてないみたいだし
それはいいか。
﹁てか俺、昨日七海がもう任期終わるって知ったとこだし﹂
﹁はあ? なに言って⋮ああ、あー、誰も説明しなかったのか。て
ゆーか⋮察しろよー。卒業まで部活する三年がいるわけないじゃん
かー﹂
うわーと言いながら紗里奈はごろりと転がって俺に背中を向けて、
また転がって俺を向いてだるそうに言った。
﹁とりあえずさぁ、告れ。もうそれしかない。それとも君、このま
までいいの?﹂
﹁⋮よ、よくない。七海と離れちゃうのは、嫌だ﹂
﹁だったら、決まりでしょ。今日を逃したら3日は二人きりになれ
ないよ﹂
﹁⋮⋮﹂
好きだ。七海が、好きだ。
七海のことを考えたら、苦しくなる。俺は⋮七海がいなくなった時
なんて想像もできない。七海が好きだ。
どういえばいいのかわからない。どうすればいいのかわからない。
だからとりあえず、告白するべきだろう。紗里奈がいうなら間違い
じゃないだろうし、俺もこのままじゃ、きっと後悔すると思うから。
1172
﹁⋮言って、くる﹂
﹁ああ、行け行け﹂
紗里奈がどうしてカンケーないとか言って俺の背中を押すのかわか
らないけど、とにかく伝えなきゃなにも始まらない。
○
皐月はでていった。転がったまま、あたしは目を閉じた。
﹁あー⋮⋮﹂
死ね。死ね、死ね死ね死ね。死んでしまえ。
あたしなんか⋮死んでしまえ。
なにカッコつけてんだ。イーカッコしいにもほどがある。
本当は悔しくて悲しくてむかついて腹立ってイライラして、泣きそ
うなのに。
あたしは人を引っ張るタイプじゃないし、あたしより小枝子の方が
ずっと会長に向いてるのはわかってる。
そんなのはずっと前からわかってたし会長からもまた副会長にと言
われてたけど、選ばれないのが今更に悲しくなってきた。
1173
﹁⋮くそっ﹂
皐月なんて殺して、会長はあたししか見えないようにしたい。そん
な風に思うなんてとんでもない。
それに本当にそうしたら、たとえ完全犯罪が成功したとしてもあた
しは自己嫌悪で死にたくなる。
﹁くそっ、くそっ、くそったれっ﹂
あたし、なにやってんだよーー⋮
ああもう、嫌だ。あたし外面良すぎってか、優しくて親切だわーと
かそんなキャラじゃないくせになにやってんだ。
あたしはもっと自己中で、ひどいやつなのに。
なに、肝心なとこで日和ってんだ。こんなのあたしじゃない。
皐月をヘタレなんて言えない。皐月は肝心なとこだけ突っ込む。い
いとこどりすぎる。ずるい。
﹁⋮⋮くそー﹂
あたしの方が先に会長を好きになって傍にいたのになぁ。
あたしの方がずっとずっと好きで、あたしの方が会長を守ってやる
って自信ならあるのになぁ。
でも、そんなのなんの意味がないってこと、知ってしまってる。
﹁はぁ⋮﹂
1174
会長⋮会長のことが
﹁好きなのになぁ﹂
皐月のことも、好きになっちゃった。
ひねくれて自己中で我が儘で根性悪のあたしが好きになるくらいな
んだから、皐月が会長を好きになるのは仕方ない。
そして、あたしが好きになるくらいなんだ。会長が皐月を好きにな
るのも⋮仕方なく⋮ない! けどやっぱ⋮⋮⋮⋮⋮仕方な⋮あー、
本当やだー。
死にたい。
認めたくない。ほんと往生際悪いなあたし。
ほんとは死ぬのも嫌だけど消えてしまいたい。
いや、それもあれだし⋮冬眠したい。起きたら全部終わってたなら、
全て後の祭で、もうそれでいいや。
うん、今から冬眠しよう。
あたしは布団を被った。
全然眠くない。
⋮⋮あー、ほんと、世界滅びないかなぁ。
○
1175
勢いこんで訪ねたはいいが、何をどうしよう。
俺が部屋にきた理由をはぐらかして黙ってると、らちがあかないと
ため息をついてから好きにしなさいと言って、俺が来るまでに読ん
でいたらしい本を読みだした。
七海は昨日のことで俺を不審に思ってるらしく、非常にいぶかしみ
ながら部屋にいれてくれたけど、ちらちらこっちを見てて全然本を
読んでないのがわかる。
さて、どうしようか。
普通に好きだと言おうと思ってきたが、よく考えたら七海も女の子
なんだからもっとこう、ムードのある方がいいんじゃないか。
どうせ断られるだろうけど、その方が七海の記憶に残るんじゃない
かという女々しい考えだ。でも俺女だし別に女々しくてもいいや。
ムードか⋮難しいな。
椅子に座ってる七海をソファに座って眺めながら考えてみるけど、
ここからいいムードにもっていくのは絶望的な気がした。
そもそもいいムードがどんなのか知らないし。
いやしかし、七海は⋮綺麗だな。可愛い。
俺は七海の容姿に惚れたのかも知れない。前から思ってたけど、俺
は七海の見た目が凄く好みなんだ。
もちろん性格も好きだ。どこが好きかっていうと全部好きだけど、
でもこうやって見てるとやっぱり七海が綺麗で、綺麗すぎて嘘みた
1176
いだ。綺麗すぎて感動する。
こういう言い方をすると俺がとても嫌なやつになるけど、俺は七海
の容姿が好きなんだなぁ。
顔だけじゃなくて長い綺麗な金髪も、すらっと背が高くて柔らかい
体も、大きな胸も、平坦で落ち着いた声も、全体的に香るいい匂い
も⋮⋮ああ、なんか後半容姿関係ないけど、身体的特徴ってことで。
なんでこんなに七海の全部が好きなんだろう?
﹁皐月﹂
﹁⋮ふぇ? あ、なに?﹂
﹁なにじゃないわよ、そんなにじっと見られたら気になるじゃない﹂
﹁ああ。ごめん、考えごと﹂
﹁そ、そう﹂
七海は何故か恥ずかしそうにまた本に視線をおとして俯いた。
うん、なんだ? ちょっと変な雰囲気になったぞ。えっと、何か言
わなきゃ。
﹁七海が⋮あんまりに綺麗だから考えてたんだ。なんでこんなに好
きなんだろうなー、って﹂
って、なに言ってるんだ俺。いやでも、このくらいならまだ告白じ
ゃないよな。
﹁は⋮っ、な、ななっ⋮﹂
七海は俺の言葉に真っ赤になって立ち上がって、勢いよすぎて椅子
は倒れたし本は落ちたけど、七海は気にも止めず俺を凝視してる。
1177
うわー、凄い動揺してるな、と他人事みたいに思った。
﹁なに、言ってるのよ。あなた、いい加減にしなさいよ。いくら私
が綺麗だからって、軽々しくそんな風に言葉に出しては価値が薄れ
るでしょうが﹂
怒りだした。早口にまくし立ててるのに、声はすんなり耳に入って
くる。
怒っても美人だからよけい恐い。けど、この七海も好きだ。
あー、本当に、七海に恋してるんだなー。もう、七海のことしか考
えられない。
﹁七海﹂
﹁なによ。謝罪なら受け入れてあげるわ。反省しなさい。この間も
言ったでしょ。子供じゃないのだから、好きとか、そういうことは
ほいほい口にだすものじゃないわ﹂
﹁うん、俺、七海が好きだ﹂
﹁ばっ⋮馬っ鹿じゃないの!? あなた私の話を聞いていて!?﹂
めちゃくちゃ怒られた。あれ、今七海何言ってたっけ?
声は好きなんだけど、気を抜くとすぐ内容がとんじゃうんだよな。
とりあえず頷いてから告白したけどどうもおかしい。
﹁いや、え?﹂
追い出された。
あれ? あれれ?
フラれた、のか? でも返事としておかしいし⋮うーん?
また後で言ってみようかな。
1178
○
1179
告白した⋮と思う︵後書き︶
今更ですがヒロインは七海で良かったんでしょうか。最初に出てき
たのとか王道すぎる気もしますが、複数のパターンを書くのは無理
ですし仕方ないですよね。
ヒロインは弘美と小枝子とあと実は幼なじみも出そうと思ったんで
すが、それ全員ヒロインにして書くとか無理です。
ハーレムは大好きですが主人公の性格的に無理ですし。
読んでくれてありがとうございます。
1180
格好悪い
自室で推理小説を読んでいると、皐月が訪ねてきて思わず警戒する。
﹁何の用かしら?﹂
﹁あー、ちょっと話したいって言うか⋮とりあえず入っていい?﹂
要領を得ない態度だが、特に拒否する理由もないから招きいれる。
話というので皐月をソファに座らせ、ソファ前の小さめの机を挟ん
で向かいあう位置になるよう少しだけ椅子を移動させて座った。
﹁で、なにかしら? 大事な話? それとも雑談でもしにきたの?﹂
﹁んー⋮と、ちょっとたんま。考える時間が欲しい﹂
﹁⋮意味がわからないけど、好きにしなさい﹂
ため息をついてから、手を伸ばして勉強机に置いておいた本を読む。
﹁⋮⋮﹂
読む⋮⋮読めるわけがない。
内容はまだ事件中で気になるところだけど、皐月の存在がどうした
って気になるので視線をやってしまう。
皐月は宣言通り考えごとをしてるのかぼーっと私を見てくる。だか
ら気づかれないように視線が合わないように本と皐月を交互に見る。
あ、少しにやけた。何を考えてるのかしら。
﹁⋮⋮﹂
1181
皐月は、こうしてよく見て、結構可愛い顔をしてる。男の子だと思
ってたなんてとても失礼なくらいだ。勿論﹃可愛い﹄男の子である
とは思っていたのだけど。
自然体で親切だから、きっと誰から見ても﹃いい人﹄という評価を
出すだろう。口が悪いとかお調子者とか乱暴だとか、目立つ欠点は
いくつもあるけれど、人懐っこい性格からか好かれやすい子だと思
う。
最初は生意気な、どうしようもない劣等生だと思ったけれど、憎め
なくて、手をかけて世話をした。
⋮皐月にはお節介と思われたかも知れないけど。それでも淑女会に
相応しいように、淑女として振る舞えるように皐月に教えたつもり
だ。
皐月は飲み込みはいいけれどすぐに忘れてしまうし本人が乗り気で
ないから、教えがいはなかったけれど、だから余計に私はムキにな
って教えていた気がする。
今では一応、普段の所作も最低限は淑女らしくなったように思う。
なのに⋮⋮どうしてかしら。皐月、まだ、時々格好よく見える。皐
月が私ににっこり笑うと、嬉しくて、脈が早くなって、恥ずかしい
ような気になる。
⋮⋮どうしてなんて、本当はわかっている。だけど、認めたくない
わ。
﹁皐月﹂
﹁⋮ふぇ? あ、なに?﹂
﹁なにじゃないわよ、そんなにじっと見られたら気になるじゃない﹂
﹁ああ。ごめん、考えごと﹂
1182
いい加減、こうも見られたら気になる。本当に考えごとをしている
のか怪しいものなので言ったのだけど、反応を見るに本気で考えご
とをしていたらしい。
﹁そ、そう﹂
よく考えたら、考えごとをせずに私の顔を凝視するというのはそれ
はそれで意味がわからないし、不自然だ。
自意識過剰だったかと恥ずかしくなって本に視線をおとして俯いた。
﹁七海が⋮あんまりに綺麗だから考えてたんだ。なんでこんなに好
きなんだろうなー、って﹂
﹁⋮⋮は⋮っ﹂
はい?
意味がわからなくて顔をあげて、皐月とバッチリ目があってから理
解して混乱して慌てて私は意味もなく立ち上がった。
﹁な、ななっ⋮﹂
驚きすぎて呂律がまわらないまま皐月を凝視して、落ち着くために
一呼吸おいてから皐月に向かって口を開く。
﹁なに、言ってるのよ。あなた、いい加減にしなさいよ。いくら私
が綺麗だからって、軽々しくそんな風に言葉に出しては価値が薄れ
るでしょうが﹂
怒ってるのか慌てるのか自分でもわからないけど、顔が赤くなるの
1183
を抑えられないまま早口に自分でも意味がわからないことを言って
しまった。
﹁七海﹂
﹁なによ。謝罪なら受け入れてあげるわ。反省しなさい。この間も
言ったでしょ。子供じゃないのだから、好きとか、そういうことは
ほいほい口にだすものじゃないわ﹂
皐月が穏やかに微笑んで私の名前を呼ぶのに、少しだけ落ち着いた
私はまだ早口だけれどしっかり皐月に注意した。
﹁うん、俺、七海が好きだ﹂
﹁ばっ⋮﹂
この子なに言ってるの!?
﹁馬っ鹿じゃないの!? あなた私の話を聞いていて!?﹂
かーっとお腹の底から熱が湧いてきて思いっきり皐月に怒鳴り付け
た。
皐月はまだ何か言いたげにもごもご言っていたけど皐月を見ている
のが我慢できなくて、腕をひいて背中を押して無理矢理追い出した。
﹁⋮ーーーーーっっ∼⋮﹂
皐月を外に出してドアを乱暴に閉めて、皐月がいなくなったから私
はドアにもたれかかったような体勢で固まった。
なっん、な、の⋮もう、ありえない。
1184
ずるずると、ゆっくりとドアにもたれたまま床に座り込む。
こんな情けない姿を皐月に見られなかったことに安堵するけど、原
因が皐月すぎて死にそう。
熱い。冬なのに熱くて体が沸騰しそう。
馬鹿、なにを、ほんと、馬鹿っ。ああああ⋮っ、なんでもう、私、
にやけてるのよっ。
わかってる。わかっててごまかしているってわかってる。
それでも私は言うしかない。
﹁なんでっ﹂
なんで、私は皐月にドキドキするのよ。
なんで皐月に好きって言われたら馬鹿みたいに嬉しくて舞い上がる
のよ。
なんで皐月のこと⋮っ
ごん
考えたくなくて頭をドアにぶつけた。
ごん
もう一度ぶつけて、それでも私は舞い上がってパニクって混乱して
ふわふわして上下左右もわからないくらいで夢みたいに現実感がな
い状態から戻らない。
もうなに考えてるか自分でもよくわからない。
どうしようどうしましょうどうすればいいのかしら本当に本気で全
くわからない。
1185
ああああああああもうっ
﹁っ﹂
なんで、好きなのよ⋮っ。
私は、認めざるをえないくらい、皐月を好きになってしまった。
ごまかせない。自分にすら嘘がつけない。
好きだ。好き、好き好き好き好き好き。
一度認めたら嘘みたいに胸がいっぱいになる。好きって言葉が気を
ぬくと口からこぼれそうになる。
もうどうしようもない。
わかった、認めるわ。認めます。
私は、皐月が好き。
前よりずっと、好き。昨日と比べてもずっともっと、皐月が好きだ
と思ってる。
﹁⋮馬鹿﹂
わかってる。皐月は私を特別になんか思ってない。
ふられたくせにもしかしてなんて都合よく考えられるほど私は楽観
的になれない。
だからずっと認めなかったのに、皐月の何気ないだろう意味のない
好意表明にごまかせなくなってしまった。
﹁⋮はぁ﹂
1186
ああ⋮幸いなのは、もうすぐ私は会長をやめて徐々に皐月と離れて
いくことだ。
それはとても辛くて悲しくて淋しいけれど、未練がましく皐月を思
うよりマシだ。私は小枝子のようになりふり構わず思い続けるなん
てできそうにない。
そんなの格好悪い。少なくとも、皐月の中の﹃榊原七海﹄はそんな
ことしない。私はあの子の前では強くて美しい尊敬できる先輩であ
ったはずだ。
だから、私はどんなに好きでも皐月にそれを伝えるなんてできない。
どうせ両思いになれないなら、私はあの子の中で素敵な先輩のまま
でいたい。
私は皐月を諦める。それが一番綺麗な終わり方だ。
それでいい。だって、初恋は実らないものなのだから。綺麗なまま
でいい。どうせ駄目なのだから皐月の中で綺麗な思い出のまま私を
残してほしい。
﹁⋮⋮はぁぁ﹂
馬鹿。皐月の馬鹿。
でも一番馬鹿なのは、私だ。
格好悪くてもみっともなくても私らしくないとしても、好きなら好
きって言えばいいのに。
その方がずっと、私らしいのに。
私は勇気がなくて、小枝子が羨ましくて、きっと今、世界の誰より
格好悪い。
私はごまかしてごまかして、勇気も自信も度胸もないのをごまかし
ているだけだ。
1187
きっと今の私こそ、本当に﹃格好悪い﹄と言うんだ。
ああ⋮泣きたくなってきた。
○
1188
格好悪い︵後書き︶
みんながみんな悩みます。人間くささがウリです、とか言ってみた
り。
あんまり視点がころころかわると読みづらいですかね。ある程度控
えてるんですが。
1189
お手紙書こう
どうしたら思いが伝わるんだろうか。と考えていたらいつの間にか
12時を過ぎていて、お腹がなった。
仕方ないからお腹いっぱいご飯を食べて、部屋に戻って考えてたん
だけど、気がついたら寝てた。
起きたら夕方で、仕方ないから俺はまたご飯を食べるために食堂に
行った。
﹁あ、こんばんは﹂
﹁あ、ああ。うん﹂
小枝子に遭遇した。寝ぼけた頭はうまく働かなくて曖昧な返事をし
てしまい、小枝子は驚いたように俺の顔を覗き込んだ。
﹁もしかして⋮今まで寝てました?﹂
﹁なんでわかったの?﹂
﹁寝癖が⋮﹂
﹁ああ⋮そうなんだ﹂
﹁そうなんです﹂
あー⋮眠い、今日夜寝れないかもなぁ。
﹁皐月さん、座っててください。私もらってきますよ﹂
﹁あ、いいの?﹂
﹁はい。なににします?﹂
﹁あー、お茶漬けでいいや。ご飯と梅干しとお茶お願い﹂
﹁わかりました﹂
1190
席についてぼーっと小枝子を見送る。
いいやつだー。あ、そういえば、小枝子にも言わないとなぁ。つい
でに相談しよう。うん。
﹁おかえりー﹂
﹁ただいま帰りました﹂
たくさん乗ったお盆を手にゆっくり帰ってきた小枝子を迎える。小
枝子はささっと俺の前にお茶碗とか並べた。
﹁小枝子、あとでちょっと話があるんだけどいい?﹂
﹁え、はい。わかりました。皐月さんの部屋でいいですか?﹂
﹁ん? んーわざわざ来てもらうのは悪いし。俺が行くよ﹂
﹁別に構いませんよ﹂
﹁俺が構う。とにかく、頼むな﹂
﹁はい、わかりました﹂
小枝子はいい子だなぁ。小枝子に恋したら話は簡単だったのに、俺
ってホント、面倒な相手に惚れてしまったものだ。
○
夕食を終えて皐月さんを部屋に招いた。久しぶりな気がしてなんだ
1191
か嬉しい。
﹁あのさ⋮﹂
﹁はい﹂
向かいあって座った皐月さんは真剣な面持ちで、ドキドキする。
だけど皐月さんの役に立つためにも気持ちを引き締めて私も真剣に
意識を集中させる。
﹁実は俺⋮七海に恋したみたいなんだ﹂
﹁⋮⋮そ、それは⋮﹂
ど⋮どうしましょう、ものすごく予想外で、え、恋? ちょっと待
ってください、七海様?
えっと⋮ああ、とりあえず、七海様と皐月さんを殺して自殺すれば
完ぺ⋮きなわけがない!!
あああ危ない! なし! 今のはなしで!!
ふぅ、危ない危ない。危うく危険思考に染まるところでした。
﹁小枝子?﹂
﹁え、あ、はい、おめでとうございます﹂
﹁え? ありが⋮え? いやなんで?﹂
﹁え?﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮すみません、気が動転しました。えっと、殴ってもいいです
か?﹂
﹁えっ⋮う、わかった。小枝子が気のすむまで殴ってくれ﹂
﹁わぁ、さすが皐月さん男らしいー⋮って違いますぅ! あああ、
ちょっと今のも気が動転したんです!﹂
1192
なんでいきなり私武闘派になってるんですか! 皐月さんもツッコ
んでくださいよ!
なに潔く目をつぶっているんですか! 格好よすぎでしょう! い
い加減にしないとキスしますよ!
﹁はぁ、はぁー﹂
﹁えっと⋮なんか急に疲れてない? 大丈夫か小枝子?﹂
﹁大丈夫じゃありませんよー。うー。なんなんですかもぅ﹂
急に、七海様が好きなんて⋮今更ですけど失恋が決定的じゃないで
すか。
いやまぁ、前からですし、七海様とのことも薄々感づいてましたけ
どね?
だけどやっぱり、改めて言われると⋮キツイ。
﹁はぁぁ﹂
﹁小枝子ー、帰ってこーい﹂
﹁なに気楽にしてるんですかぁ。皐月さんのお馬鹿ー﹂
﹁えーっと⋮えへ﹂
﹁笑ってごまかさないでくださいっ﹂
皐月さんは可愛いんだから許しちゃうじゃないですか! あうー⋮
⋮はぁ、好きなんですけどねぇ。
一応、諦める覚悟はしてたつもりなんですけど、でも、でももしか
したら逆転ホームラン起こらないかと期待しちゃうのはとめられな
いんですよ!
﹁はぁ⋮﹂
1193
﹁えーと、いいか? 話、まだあるんだけど﹂
﹁ああ、はい、どうぞ?﹂
まだ話? なんでしょう?
﹁七海にどうやって告白すればいいのか相談したいんだけど⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
思わず表情が固まった。皐月さんも私の変化を感じたらしくにこっ
と笑ったけどごまかされません。
﹁⋮⋮⋮皐月さん﹂
﹁はい﹂
名前を呼ぶと皐月さんは神妙な表情になって返事をする。
﹁図々しいというか、面の皮が厚いというか⋮⋮あー、好きですけ
どね﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮知りません。もう﹂
﹁そう言わずに。普通に好きって言っても全然伝わらないんだよ。
なんかいい方法ない?﹂
なにがどうって言えないですけど、絶対にこの状況は変です。なん
でフラれた方がフッた方の恋愛相談にのってるんですか。
ああ、でもそんな皐月さんだから⋮皐月さんだから、断れないんで
すよねぇ。
1194
﹁そうですねぇ⋮なら、ラブレターでも書いたらどうですか? 言
いづらいこともストレートに伝えられますし﹂
﹁お、なるほど。さすが小枝子。よし、じゃあ早速書いてくるな﹂
ぱっと明るくなって笑顔で立ち上がる皐月さんに呼びかける。
﹁皐月さん﹂
﹁ん? なに?﹂
振り向いた皐月さんは、どうしようもないくらい、私が好きなまま
だった。
﹁すっごく、嘘みたいに、夢みたいに、あなたが好きでしたよ﹂
﹁⋮うん、ありがとう。俺、お前のこと親友だって思ってるよ﹂
鼻の奥が熱くなった。
相変わらず、ずるいです。皐月さんはずるい人です。
﹁それでは皐月さん、また明日。お休みなさい﹂
﹁お休み﹂
皐月さんが部屋を出て、私は泣いた。
皐月さんはずるい人で、優しすぎて酷い人で、やっぱり嫌いになん
てなれそうもない。
私は泣きながら、いっそ遠いところへ引っ越したいと思った。そし
て皐月さんのこととか全部忘れて暮らしたい。
勿論、そんなのは絶対に嫌なんですけど。
1195
○
好きでしたと、泣きそうな顔で言われるのはさすがに堪えた。
今なら、相手が自分を見てくれない辛さが少しはわかる。現在進行
形でアウトおぶ眼中だし。
伝えたって傷つくだけなんだろうけど、でも伝えなきゃ、進めない。
とにかく、自室に戻った俺は気をとりなおして七海にラブレターを
書くことにした。
机について、適当な髪がないからとりあえずルーズリーフをだす。
下書きってことで。シャーペンを装備していざ⋮⋮⋮⋮
﹁⋮ら、らぶ、ラブ、レター⋮か﹂
なんて恥ずかしい単語だ。口にだすのにめちゃくちゃ労力を使った。
え、書くの? 俺が書くの?
﹁⋮⋮よし﹂
気合いいれるぜっ。
﹁⋮⋮﹂
1196
⋮⋮⋮⋮⋮なに、書けばいいんだ? てか、手紙自体書いた覚えな
いしわからん。
えっと、と、とりあえず名前だ。
﹃滝口皐月より﹄
﹁⋮⋮ん?﹂
あれ? ⋮これ、最後じゃね? つか、逆だ! 七海の名前が先だ。
うん、そうそう。
紙を裏返して先頭に﹃榊原七海様へ﹄と書き、一番下に﹃滝口皐月
より﹄と書いた。よし、完璧だ。
﹁⋮⋮﹂
まだだ! 名前とかどうでもいい! 本文が大事なんだよ!
えっと、えー⋮ラブレターだよな。ラブレターなんだから⋮
﹃好きです﹄
﹁⋮⋮ぐっ﹂
なんだ、なんか知らんが、めちゃくちゃ恥ずかしいぞ!?
いや落ち着け。とりあえず七海が好きでどこがどう好きか書いて、
最後に付き合ってくださいって書けばラブレターとして正しいはず
だ。
1197
俺は紙をぐしゃぐしゃにして捨てたい衝動を抑えながらペンを走ら
せる。
﹃好きです。七海の綺麗な顔とか、怒りっぽいけど優しいとことか、
とりあえず全部好きです。恋人になってください。﹄
﹁⋮⋮﹂
ど⋮どうだろう? 付き合ってだとまた変に勘違いしたら困るから
ストレートに書いたが、なんだか、微妙?
﹃とりあえず﹄ってテキトーっぽいかな。でもあんまり細かく書い
ていくとどれだけ長くなるかわかんないし、支離支滅な文章になり
そうだしなぁ。
てゆーか俺の名前遠いっ⋮いや、下書きだからいいのか。えっと⋮
どうしよう。書き直した方がいいよな。
やっぱり自分が納得する文じゃないと。変な文章に思われてまかり
間違って添削されて戻ってきたら泣くし。
スペースが余ってるから下にそのまま続けて、新しい文章を書くこ
とにした。
﹃いつかはよくわからないけど前から好きでした。七海の声を聞く
と落ち着きすぎて寝そうになるくらい好きです。七海の性格も好き
です。見た目も好きです。結﹄
﹁あっ、ぶなー﹂
﹃結﹄の字を、消しゴムが見当たらないから二重線で消す。あやう
く結婚してくださいと書くところだった。よく考えたら今は弘美と
婚約してるし、軽々しく言っちゃダメだ。
1198
とりあえずもう一度﹃恋人になってください。﹄と書いた。
﹁んー⋮微妙だよなぁ﹂
文才がない。いや、こういうのは気持ちが大事だ。
よし。とりあえず、どこがどう好きかとか色々書いてみて、綺麗な
文を拾って繋げよう。
﹁えっと、まず⋮﹂
見た目からだな。
○
﹁⋮あー、つ、疲れたー﹂
2時間くらいたった。
消すの面倒だし下書きだからとめちゃくちゃに書きなぐった。ルー
ズリーフが7枚真っ黒になった。ついでに右手の紙にふれたとこも
真っ黒になった。
﹁⋮⋮﹂
これをまとめるのか⋮⋮めんどくさ。なんかもうどうでもよくなっ
1199
てきた。
疲れたし、お風呂入ってからどうするか決めることにした。
○
﹁あの、大丈夫ですか?﹂
﹁はっ⋮あ、ああ、ああうん、はい、大丈夫です。すみません﹂
湯舟で寝てた。不審に思った知らない人が声をかけてきて気づいた。
危ない危ない。もし自室のお風呂だったら死んでた。
お礼を言ってからあがった。脱衣所が涼しい。
のんびり服をきて、部屋に戻った。
机の上にはルーズリーフが散らばっている。
﹁⋮⋮ああ、忘れてた﹂
寝ぼけてるな。あーほんとどうしよう。明日、最後の授業でテスト
返しくらいだろうし、授業中に考えるか。
とりあえず寝ることにした。
1200
○
1201
お手紙書こう︵後書き︶
だんだん予定とずれてきましたが、突っ走ります。
修正しました。いつの間にか皐月の部屋が小枝子の部屋になるとい
う摩訶不思議なことになってました。
1202
パーティーの始まり
﹁⋮⋮﹂
考えた。考えたけど、やっぱりわからなかった。
ていうか、考えるほどどうすればいいのかわからなくなる。
七海に拒否られてるのにしつこく告白して嫌われたらどうしようと
か、そんなこと考えたりして、今更だけどやめようかなって思う。
でもやっぱり、ああいうごまかす感じじゃなくて恋愛感情はないっ
てきっぱり断られないと未練ができるだろうし告白しないとなーと
も思う。
﹁皐月さん﹂
﹁はいっ⋮あ、はいはい﹂
呼ばれと咄嗟に返事をする。テスト返却中なのを思い出して慌てて
教卓まで行って先生から受け取る。
72点。暗記ものの歴史にしてはそれなりだ。
席に戻ると小枝子と目があい、苦笑された。
ううん、もしかして全部読まれてる? そんなに俺ってわかりやす
いのかな。
とは言え教室で再び相談するわけにもいかないし、テスト用紙はひ
っくり返して置いてまた七海について考える。
﹁⋮⋮﹂
1203
うん、告白しないとなぁ⋮あー、するけどなぁ⋮⋮どうするかなぁ。
○
一日が終わって俺はベットに倒れこむ。
疲れた。今日はいつもみたいに談笑するヒマもなくこき使われてす
ごい疲れた。
七海もなんかそっけなくて夕食の時も見かけなかったし⋮あ、もし
かして告白を警戒して避けてんのか?
⋮⋮へこむ。まじへこむ。
あー、ほんとにどうやって告白しよう。
と悩むこと二日、忙しくて時間がなかったのもあるけどまさか二日
も悩んで結論でないまま終業式とかないわ。
なにやってんだよマジで。
﹁⋮以上を持ちまして−﹂
学園長が挨拶して代わって今は七海がなんか言ってる。
ああ、てか、また聞き逃しちゃった。なにやってんだー。
1204
小枝子がでてきて、ああ、会長就任の挨拶か。
てか、俺らは挨拶しないのかな。なにも聞いてないし言われても困
るからいいんだけどさ。
小枝子が可愛い声でなにかを言う。
ハキハキ挨拶してる姿になんとなく立派になったなぁと思った。俺
は誰だよって話だけど、人ってやっぱ変わって行くんだなぁ。
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁⋮どしたの?﹂
俺が疑問に声をあげると横に並んでる紗里奈が顔を寄せて小声で話
し掛けてきた。
﹁俺、何の役か聞いてないんだけど、来年も淑女会にいれるの?﹂
﹁いれるはずけど、何も聞いてないの?﹂
﹁え、何で俺聞いてないの? 弘美は?﹂
こういう集会は普通クラス別に並んでるけど淑女会は生徒会みたい
なもので、舞台横のとこに淑女会として並んでるから今は沙里奈と
は逆側に弘美がいる。
その弘美に尋ねるとちょっと嫌そうにしながら小声で返事をしてき
た。
﹁あんたは庶務。まぁ、会長と副以外は大した意味ないんだけどね。
どんな役でもあんたは雑用だし﹂
﹁⋮そうですか。で? 庶務ってなに?﹂
﹁雑用係のことよ﹂
﹁⋮マジで?﹂
﹁ええ。てかいつも、会長と副しか決まってないし。言ったじゃな
1205
い。意味ないって﹂
﹁なんだよ。庶務ってテキトーかよ﹂
﹁生徒会的にある役職ではあるわよ﹂
﹁ほんとかよ。会長、副会長、会計、書記くらいしか思い浮かばな
いけどな﹂
﹁馬鹿ね、学校によって役職名って違ったりするけど、あんたのじ
ゃ4人しかなれないじゃない﹂
﹁そうだけどさ。庶務ねぇ、なら総務とかもいるの?﹂
﹁知らないわよ馬鹿﹂
﹁馬鹿ってお前なぁ。まぁいいけど﹂
﹁認めたわね﹂
﹁お前に比べたらな﹂
﹁それは当たり前でしょ﹂
﹁自意識過剰女﹂
﹁あ?﹂
﹁嘘嘘。3ケタ掛け算を暗算でできる弘美ちゃんは天才だよ﹂
﹁あんた3ケタの暗算もできないの?﹂
﹁⋮え、できるの?﹂
﹁5ケタまでなら四則くらい余裕よ﹂
﹁四則?﹂
﹁+−×÷のことよ﹂
﹁⋮ええぇ。5ケタで掛け算割り算とか天才じゃね?﹂
﹁言ってるじゃない﹂
⋮こいつ、真面目に頭いいな。学校の勉強できるってレベルじゃな
いぞ。5ケタ暗算とか普通できないって。
﹁ちょっと君ら、話しすぎだよ﹂
﹁あ、わりぃ﹂
1206
紗里奈に注意されて謝る。弘美はぷいって顔をそらした。
くそ、可愛いから怒れない。
﹁皐月、もう終わるから、わかってるね﹂
﹁ん? うん﹂
﹁ほんとにわかってる?﹂
﹁わかってるよ。このあとクラスに戻らずにここにいればいいんだ
ろ?﹂
﹁ちげーよボケっ﹂
﹁えぇー?﹂
なんかすごい怒られた。
ざわわっ
どっと騒がしくなった。就任式を兼ねた終業式が終わったようで生
徒が順に出ていく。
紗里奈が俺の耳に手をあてて内緒話みたいにして言う。
﹁いいからさっさと告白しろっつーの﹂
﹁! ⋮わ、わかってるよ﹂
むぅー。
わかってるよ。俺だって⋮ちゃんと⋮
﹁あなたたちなにじゃれてるのよ﹂
七海と小枝子がおりてきた。紗里奈はぱっと離れて片手をあげて声
をかけた。
1207
﹁あ、会長、お疲れでーす﹂
﹁紗里奈、私はもう会長じゃないわ﹂
﹁あ⋮そっか。じゃあ先輩で﹂
﹁⋮⋮いや、え、違うでしょう。あなた普段から名前で呼ばないか
ら一瞬正しい気がしたけど、﹃七海様﹄でしょう﹂
七海は一瞬考えるように視線を斜め上にやってから呆れたように嘆
息しながら言った。それに紗里奈はにひひと笑う。
﹁わかってますよ。冗談ですよ⋮七海様﹂
名前を口にした時だけ、なんとも言いづらいが七海が好きって顔し
ている、気がした。
⋮いや、言い訳するな俺。本人が言ってるんだ。告白するぞ。
﹁七−﹂
﹁皐月、いつまでも雑談しないの。仕事よ﹂
﹁⋮はい﹂
仕方ない。仕事だ。先に仕事して、終わったら、終わったら言おう。
﹁あとは小枝子、あなたが仕切りなさい﹂
﹁あ、はい⋮⋮えっ? 聞いてませんよ!?﹂
﹁今言ったわよ。じゃあまたあとで﹂
﹁え⋮﹂
七海はそう言うと踵を返してでていった。
え、マジか。どうすんだよ。
﹁⋮⋮﹂
1208
小枝子は七海が去ったので助けを求めるようにこっちを見るが、俺
だってわからないから目をそらす。
﹁紗里奈さ−﹂
﹁会長、頼りにしてるよっ﹂
﹁⋮⋮え、ええ⋮いやあの⋮﹂
次に紗里奈に助けを求めようとしたが、肩を叩かれてごまかされて
る。
⋮どうすんだ。全員撃沈じゃん。
﹁⋮はぁ、しょうがないわね。小枝子様、ヒロが覚えてるの言うか
ら、あんたが形だけでも指示だして慣れてってよね﹂
﹁弘美さんっ、いえ、弘美様っ﹂
弘美がだるそうに提案して、小枝子は感激したように抱き着いた。
﹁ちょ、触んないでよ﹂
弘美は嫌がっているが、ほんと助かった。そういえば一番長いの弘
美だもんな。なら大丈夫か。
俺は紗里奈と顔をあわせてほっと笑いあった。
とにかく、頑張ろう。
1209
○
弘美と小枝子の指示するように机の配置をしてカバーかけて、用意
された料理が運ばれてきたから運んできた人を補佐する感じで料理
を並べるのを手伝って、マイクやライトの調節して、その他諸々雑
用やって、なんとかギリギリ、開始時間に間に合った。料理人や楽
団員、給仕や警備員も配置オッケーだ。
﹁皐月さんっ、入口を開けてくださーい﹂
﹁はいはいっ﹂
駆け足で行って入口のドアを開ける。
﹁遅い、5秒遅れてるわよ﹂
﹁わっ!?﹂
開けた途端怒られた。真正面に七海がいた。
新しく注文したのか見たことない白を基調とした清楚なドレスを着
た七海は、やっぱり綺麗だった。七海だけ別世界の人間みたいだ。
贔屓目だろうけど。
見とれてから、慌てて反論する。
﹁い、いいじゃん。他に誰も来てないし﹂
他の生徒はみんなホストだ。ホストが時間より先にくるなんてマナ
ー違反で、ゆっくり余裕を持ってくるのが普通だ。数秒なんて問題
ない。数人近づいて来てるけど間に合ってる。
1210
﹁そういう問題じゃないわよ。世代交代そうそう頼りないわね﹂
﹁ごめんなさい﹂
﹁よろしい﹂
絶対に俺のせいじゃないと思いつつも素直に謝ると許してくれた。
相変わらず面倒なやつだな。だるいわぁ。
とにかく、七海をどけて一番乗りの生徒を迎えた。
奥にいる楽団が演奏を始めた。一番乗りの生徒を皮切りに生徒たち
が流れるようにやってきた。ほとんど時間通りだ。
﹁そういえば皐月﹂
﹁ん?﹂
﹁あなた早くドレスに着替えてきたら?﹂
﹁⋮ああ、忘れてた。七海、ドレス似合ってる。綺麗だよ﹂
﹁⋮⋮⋮ばかね、当たり前でしょ。でも、ありがとう﹂
照れてる七海は可愛い。和む。
と、こんなことしてる場合じゃない。始まったしもう小枝子が時間
になったら仕切るくらいしか仕事ない。着替えてこよう。
ちゃんとドレスは用意してる。連絡したら母さんと爺ちゃんがよろ
こんで送ってくれた。
俺は急いで部屋へ行って着替えて部屋を出た、ところで他の3人に
出会った。
﹁およ、もしかして皐月?﹂
﹁もしかしなくてもそうだよ。お前ら似合ってるぞ﹂
1211
みんながみんな似合ってると思う。さすがみんなお嬢さまだ。
簡単にドレスを説明すると紗里奈はブルーのシンプル、小枝子はピ
ンクのふりふり、弘美はイエローのリボンメイン。
﹁わ、そういえば皐月さんのドレス、初めてですよね﹂
﹁ん? 前に着せ替え的なことしなかったっけ?﹂
﹁気持ちが違いますよっ﹂
﹁あ、そ﹂
﹁髪違うから前と雰囲気違うけど、ドレスがあってて似合ってるわ
よ﹂
﹁さんきゅ﹂
そっか、前とは髪が違うから違って見えるのか。
⋮七海、似合ってるって言ってくれるかな。
﹁さ、早く行こっか。食うぞ踊るぞー﹂
﹁おー﹂
○
﹁やや、七海様じゃないっすか。なに壁の花になってるんですか?﹂
会場に戻ると入口すぐに七海がいた。みんなそれぞれ楽しみ踊って
1212
いるが、七海と踊りたそうにしている何人かが常にいるのはわかる。
七海はにっこり笑って、小枝子に手を伸ばす。
﹁待ってたのよ。あなたたちを。最初は会長と踊りたくてね。私は
元会長なのよ。一番を、いただけるわよね?﹂
﹁はいっ﹂
小枝子はにっこり笑って手を重ねた。
二人は踊りだす。七海が男性パートだ。
少しだけ羨ましい。
﹁皐月、あたしらも踊ろうよ﹂
﹁その次はヒロね﹂
﹁おうっ﹂
伸ばされた紗里奈の手に重ねた。そういえば、手の位置でパートが
決まるのが暗黙の了解だったか。
﹁君が女ね﹂
﹁うんっ﹂
踊ろう。
○
1213
1214
パーティーの始まり︵後書き︶
一週間連続更新です。これで密かにたてていた目標は達成です。
まだストックもあるのでもう少し更新します。
1215
パーティーも半ば
紗里奈と手を取り合って、七海たちに続くようにテーブルを超えて
ダンスホール部分へ行く。
流れにそって踊りだす。
一応、これに備えてみんな男女両方パートが踊れるように自由参加
の簡単な講習があったから、俺もどっちも踊れる。
﹁ほらほら、ついてきなっ﹂
﹁ちょ、早っ﹂
勝手にペースをあげる紗里奈に俺は慌ててついていく。
とはいえダンスなんて前にやったこともあるけど毎回付け焼き刃。
体に染み付くほどやってるわけでなし、ペースアップして綺麗に踊
れるはずもない。
めちゃくちゃだろうに、俺を見て笑う人はいない。むしろ楽しそう
だ。
紗里奈め。さては去年もこんなことしてたな。
﹁ほら、あと1フレーズだ、ラストスパートっ﹂
﹁負けるかっ﹂
ますますスピードがあがり、タタンとリズムにあわせてポーズをと
る。曲が終わったことで拍手が起こる。
息はあがっているが、なんとか一曲終わらせた。にしてもなんでた
った一曲でここまで疲れなきゃならないんだ。
﹁はぁ⋮疲れた﹂
1216
﹁うーん、皐月がついてくるからつい本気だしちゃった。疲れたー﹂
﹁勝負じゃないんだから﹂
﹁負けるかとか言ったのは君だよ﹂
二人で弘美の元へ向かう。弘美は何人かと話していたが、俺たちが
近寄るとどこかへ行ってしまった。
﹁すみません、シャンパンください﹂
紗里奈が給仕を捕まえてグラスを二つ貰う。一つを俺に渡してくる
からお礼を言って受け取る。
﹁ありがと。ん。うまい﹂
﹁次の曲もう始まるけど?﹂
﹁あー、悪い。一曲休ませてくれ﹂
﹁体力ないわね。七海様と小枝子様は連続で踊ってるわよ﹂
言われて中央に目をやると、それぞれ別の相手と踊っていた。
﹁いや⋮あの二人は普通に踊ってただろ﹂
﹁冗談よ。でも紗里奈様はもう行ったわよ﹂
﹁えっ!?﹂
いつの間にか紗里奈は誰か知らない女の子と踊ってた。
淑女会員は相手には不自由しないどころか断るくらい申し込みは多
いので相手がいる不思議はないが、体力ありすぎだ。
﹁ほら、ゆっくりでいいから。ヒロの一番、あんたのためにとって
たんだからね﹂
﹁⋮わかった。では、一曲踊っていただけますか? お嬢さん?﹂
1217
格好つけてドレス姿で手をだす俺に、弘美はくすりと笑って手をの
せた。
﹁よろしい、エスコートは任せるわ﹂
また中央へ戻って弘美と、今度は俺が男で、スローテンポで踊りだ
す。
﹁皐月様﹂
﹁なんでしょう、フロイライン?﹂
﹁くす、なーに紳士ぶってんのよ﹂
﹁今はお前の王子様だよ﹂
﹁男役だからってなに言ってんの。あんたはせいぜい、兄でしょ﹂
てっきり、下僕とでも言われるかと思ったけど、俺が思うよりずっ
と弘美は俺を家族と思ってくれてたらしい。
﹁じゃあ、まいすうぃーとりとるしすたー?﹂
﹁棒読みー﹂
﹁あいらぶゆー﹂
﹁ふふ、みーとぅ﹂
﹁馬鹿だなぁ﹂
﹁馬鹿ね﹂
くすくす笑いあう。小さなお姫様は、俺の自慢の妹だよ。誰にだっ
てそう言うよ。
ゆっくりゆっくり回って、穏やかな時間が終わる。
1218
﹁弘美、また来年もよろしくな﹂
﹁馬鹿ね、来年どころか、ずっとよろしくしてやるわよ﹂
弘美と家族になれただけで、この学園に来た価値はある。弘美がな
んて言おうと、来年は母さんに改めて紹介しよう。きっと、素敵な
ことになる。
踊りが終わると、他の生徒に囲まれた。
どうやら弘美が次に俺と踊ると宣言してたようで待ち構えてたらし
い。
俺と弘美は目をあわせて苦笑して、喜んでと別の方向へ手を差し出
した。
さあ、楽しい仕事の始まりだ。
○
﹁ふぅ﹂
あれから何人か、一時間以上踊っていたのでさすがに疲れたし、お
腹も減った。
まだ絶えない誘いを断って食事をすることにした。
﹃皆様お楽しみ中のところ失礼いたします﹄
1219
曲がちょうど終わった切れ目でアナウンスがはいる。小枝子だ。
みんな踊りをとめて壇上でマイクをもつ小枝子を見る。
﹃改めて開幕の挨拶を−﹄
12月がどーたらという小枝子の口上に、そういえばこれ、ただの
ダンパじゃなくクリスマスミサだった。
小枝子の今更な紹介で毎度よく見る神父さんが現れて電気が消され、
各テーブルにあるキャンドル型ライトだけが光源になる。
ミサっぽい厳かな空気になり神父さんは神がどうたらアーメンむに
ゃむにゃ言い出した。
とりあえず回りに合わせて神妙な顔で話を聞いたりお祈りポーズし
たら電気がついた。
神父さんが退場して小枝子が﹃それでは引き続きパーティをお楽し
み下さい﹄と言ってマイクをきった。
今更だけど、どちらかというとミサのあるパーティって感じだなぁ。
流れてる音楽にまた踊って、お腹が減ったので休憩しようと断って
離れると、七海と弘美が目に入った。
ちょうどご飯食べてるみたいだし近づく。向こうも気づいたみたい
で目があった。
﹁お疲れ、あんたも休憩?﹂
﹁お疲れ様、見てたわよ﹂
隣にまで行くと労われた。
どうやら俺より先に休んでたらしい。ずるい。
1220
﹁ああ、お疲れ、てかまじつっかれたー﹂
﹁はしたないわよ﹂
﹁むぅ、わかってるよ。てか、とりすぎだろ﹂
舌をだすと七海にたしなめられて、何となくむっとしながら注意す
る。
バイキング形式だから落ち着いて一カ所で食べるために色々のせる
のは仕方ないとして、七海のも弘美のもお皿やたら大盛りだ。テー
ブルにはミニケーキ盛り合わせとかも置いてあり、欲張りすぎだと
言わざるを得ない。
﹁違うわよ、一度に食べれるようにってみんながそれぞれ持ってき
てくれたのよ﹂
﹁人気のバロメーターよ、バロメーター﹂
﹁ああ。なるほど、頑張って﹂
﹁人ごとじゃないわよ。あんたも食べなさい﹂
﹁淑女会にって言われたんだから、本当は私よりあなたたちで食べ
ないといけないのよ﹂
﹁んー、なら、そのケーキの盛り合わせもらう﹂
﹁ええ、どうぞ﹂
七海はケーキ皿の前からどいて場所を空けたから、俺は促されるま
まケーキの前を陣取り、テーブル真ん中のフォーク入れからフォー
クをとる。
おいしそうな一口サイズのケーキが詰まれてる。一番上のザッハト
ルテをまず一口。
﹁∼∼、美味しい﹂
1221
美味しー。はふぅ。ケーキうまうま。今日の晩御飯はオールケーキ
にしようそうしよう。
﹁あなたって本当、ケーキが好きなのね﹂
﹁もちろん。ケーキ大好きだよ﹂
﹁そのわりに普段あんま食べないわよね﹂
﹁弘美は馬鹿だな、ケーキは特別な時に食べるから美味しいんだよ﹂
﹁はぁ? ケーキなんていつだって食べれるじゃない﹂
弘美は馬鹿にしたように言ってくる。
いや、確かにそうだけど。これは譲りたくない。いつも食べて、飽
きたりしたらもったいない。
﹁もう、いーだろ別に﹂
ばくばくとケーキを食べていく。一口サイズのだから食い汚くなら
ないしオッケーだ。
うーん、美味しい。やっぱり毎日なんて食べたらこの美味しさは味
わえないって。
﹁あなたって、相変わらず可愛いわね﹂
﹁へ⋮⋮あ、いや、そんな、なに言ってんだよ﹂
急に七海が変なことをいうから、変に慌ててしまう。恥ずかしくな
ってケーキを食べてごまかす。
可愛いなんて、そんなの七海に言われたことないのに相変わらず?
どういうこと?
﹁七海様、目、どうかしたんですか?﹂
1222
﹁失礼ね、正常よ﹂
弘美の最もな疑問に答える七海は真顔で、からかってるわけじゃな
いらしい。
﹁さて、そろそろお腹もふくれたし踊ってくるわね﹂
﹁あ、ああ、行ってらっしゃい﹂
七海がテーブルを離れるとさっと数人の生徒がよっていき、七海は
そのうち一人と真ん中で踊りだした。
﹁⋮七海様って、変に大物よね﹂
﹁変人なだけじゃないか?﹂
﹁あんた失礼よ﹂
﹁お前だって目がとか言ったじゃん﹂
﹁当たり前でしょ。ヒロを差し置いてあんたが可愛いなんて⋮単品
ならともかく、ありえない﹂
﹁単品て⋮﹂
一応、俺に可愛いという褒め言葉はなくはないと言ってるらしいが、
自分がいるから可愛いという褒め言葉はおかしいなんて、ナルシス
トすぎだろ。
まぁ弘美の場合、単に自覚してるだけとも言えるが。
﹁一個ちょうだい、紫の﹂
弘美は飲み物を飲んでからケーキの一つを指差した。
紫というと、このベリーのだろう。俺はフォークでぶっさして弘美
に差し出す。
1223
﹁ほら、あーん﹂
﹁あーんむ、むぐむぐ、結構美味しいわね﹂
食べてからまた飲んで、弘美は回りを見回した。
﹁ヒロも踊ってくるわ。あんたも食べたら踊りなさいよ﹂
﹁わかってるー﹂
弘美が去って一人になったから無言でケーキを食べる。美味しい。
美味しいけど、そろそろお腹膨れてきた。お皿のケーキはあと5つ
⋮食べてしまうか。
レアチーズ
イチゴムース
柚子
抹茶
そして最後のチョコれ⋮
﹁うまいっ﹂
﹁え⋮⋮⋮﹂
最後の最後の一切れを横からかっさわれた。犯人は紗里奈。
﹁⋮⋮ん? どしたの? 恐い顔して?﹂
﹁⋮べ、別に、怒って、ねーよ﹂
ただ、悔しいんだ⋮。うう。チョコレートケーキは、最後の一口に
しようと思ってとっておいたのに。
怒るのは心が狭すぎる。さっきから食べてたし。わかってるけど⋮
あーあ、なんで油断してしまったんだ。
1224
﹁⋮あの、そんなマジで落ち込まれるとさすがに罪悪感感じるんだ
けど﹂
﹁⋮大丈夫だよ。俺ぁ、強い子だからさ﹂
﹁⋮⋮今度奢るから許して﹂
﹁イベント時にしかケーキは食べないんだよぉ﹂
﹁お正月に奢るから。ね?﹂
﹁⋮うん﹂
紗里奈の慰めでちょっと立ち直った。
よし、元気だそう! そうだ、落ち込んでる場合じゃない!
今日こそ七海に告白しなきゃいけないんだしな!
﹁よし、じゃあとりあえず踊っ−﹂
﹁待った待った。次、予約入ってるよ﹂
﹁は? 予約?﹂
﹁ほら﹂
紗里奈が俺の肩をつかんで回す。いつからか気がつかなかったが小
枝子がいて、目があうとにっこり微笑まれた。
﹁私と、踊りませんか?﹂
手の甲を差し出してくる小枝子に俺も微笑みかえしながら、下から
その手をそっととる。
﹁喜んで、マドモアゼル﹂
今日はまだ時間はたっぷりある。楽しんでいこう。
1225
○
1226
パーティーの終わり
小枝子とダンスを踊ってる時は、弘美や紗里奈と違ってずっと無言
だった。
でも気まずいなんてことは全くなく、何故かとても気持ちのよいダ
ンスだった。
﹁皐月さん、来年もしっかりサポートお願いしますね﹂
﹁任せろ。来年はしっかり頼むぞ、会長﹂
あはは、と笑う小枝子。何となく嬉しくなって安心する。
﹁じゃあ、またあとで﹂
﹁はい﹂
ダンスが終わり、また別の女の子と踊る。
時間を忘れて、何人かと踊ると、キーンというハウリング音がして
壇上を振り返った。
﹃皆様、お楽しみでしょうか。そろそろ閉幕の時間が近づいてまい
りました﹄
また小枝子がマイクを持って立っていた。
次の一曲でダンスパーティはおしまいだと告げられてため息に似た
落胆がそこら中であがる。
もうそんな時間か。結構疲れてるけど、テンションあがってるのか
まだ平気⋮⋮ってああ! こんなことしてる場合じゃない!
1227
七海どこ行った!?
﹁あっ﹂
いた。
七海は最後だからと多めの生徒に囲まれている。
﹁あのっ、すみません、ちょっと⋮な、七海、七海様っ﹂
えっと、どうしよう。さすが元会長モテモテ、とか言ってる場合じ
ゃない!
女の子をかきわけて行くのも気がひけるが、このままじゃ七海と踊
らないまま終わってしまう。
﹁あ⋮、失礼、ごめんなさいね。先約がいるの﹂
悩んでると気づいた七海が女の子たちに断って、俺に近づいてきた。
きた! 今しかないっ。
俺は緊張しながら手を七海につきだす。
﹁あ、あの、私と踊っ−﹂
﹁しー﹂
﹁え、え?﹂
途中で人差し指をたててウインクする七海に遮られた。
てっきり俺と踊ってくれるつもりだと⋮え、違うの?
どういうことかわからずに混乱する俺に七海はにっこり笑って、手
の平を差し出した。
﹁あなたが、私と踊るのよ。あなたのラストダンスは、最初から私
1228
のものよ。そうよね?﹂
主導権を握りたいのか、単に男役がやりたいのかそう言って七海は
俺をダンスに誘う。
﹁⋮はい。七海様の、言う通りです﹂
何だかすごく緊張する。ドキドキしてきた。
照れながら七海の手に、そっと指先をかけた。すかさず握られた。
手から視線をあげると七海の笑顔があって、指が震えそうになる。
胸の鼓動が聞かれてるんじゃないかと思うほど早く音をたてだした。
﹁さぁ、行くわよ﹂
七海に引かれ、踊りだすと女の子たちも離れた。
﹁あら、思ったよりうまいのね﹂
﹁ああ⋮まぁ、最初に、紗里奈と女パート踊ったしね﹂
﹁残念、下手なあなたをからかおうと思ったのに﹂
﹁おい﹂
﹁口が悪いわよ、お姫様﹂
﹁ひっ⋮な、なに言ってるんだよ﹂
﹁あら、私が王子様なら当然でしょ?﹂
なにしたり顔してんだこいつ。カッコイイじゃねぇか。くそぅ。
﹁だいたい、俺が姫ってガラかよ﹂
﹁言われて恥ずかしいでしょ。仕返しよ﹂
﹁仕返し?﹂
﹁そうよ﹂
1229
言われる心当たりが全くないが、七海が楽しそうだから口は挟まな
いことにする。
﹁ふふ、可愛いわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
恥ずかしい。なにこの褒め殺し。なんのつもりだ。
顔が熱くて、どうしても俯きそうになる。
﹁あのさ﹂
﹁なぁに?﹂
七海はなんだか凄く優しい口調と笑みで、あれ、もしかして今すご
くいい雰囲気じゃね!?と気づいた。
﹁あ、あの、俺﹂
﹁なによ、落ち着きなさい。ちゃんと聞くわ﹂
﹁あの⋮す、好きです﹂
緊張して足がもつれそうになるのを頑張って踊りながらなんとか告
白した。
﹁⋮私も好きよ。来年には私は卒業するけど、ちゃんとみんなで頑
張るのよ﹂
七海は困ったみたいに眉尻をさげながら微笑んで応えた。
それはとても綺麗で、惚れたひいき目だろうけど女神様にだって負
けないくらい美人だと思えた。
だからこそ、たまらなく悔しくて悲しくなった。
1230
﹁え? 皐月? ちょっと、なに泣いてるのよ﹂
泣き出した俺に、ダンスをとめて七海は俺の顔を覗き込む。
優しくて、だから、ごまかされたのが悔しい。優しいけど、こんな
の優しくない。
俺は七海の左手を強く握ったまま、走りだした。
﹁え、ちょっと? 皐月?﹂
急にダンスをとめて走りだしたことに回りが少しざわめいたけど知
るものか。
俺は七海をつれて会場を飛び出した。
﹁皐月、落ち着きなさいっ。何処に行くのよ!?﹂
七海の言葉も無視して、寮の自室に連れてきた。寮についたあたり
からは七海も諦めたのか素直についてきてくれた。
﹁もう、なんなの?﹂
部屋に入って手を離すと七海は呆れたみたいに言う。
でももうどう思われようと知るもんか。はっきりしないと踏ん切り
がつかない。
﹁これ﹂
﹁え? なに?﹂
机に置きっぱなしのラブレターもどきの落書きを渡す。
1231
﹁お前が好きだ。好きなんだ。本当に好きで好きで、たまらない﹂
興奮してまた涙が流れてきてとまらない。ずずっと鼻をすすってか
ら、七海をまっすぐ見て正直な気持ちを伝える。
﹁俺は馬鹿だからハッキリ迷惑ならそう言って、それを破って諦め
させてくれ。ごまかすのは優しさだろうけど、傷つくよ﹂
﹁⋮⋮え? これ⋮え? あなた、私のこと好きなの?﹂
﹁なに言ってんだよ。何度も言ってるだろ。いい加減、頼むからご
まかすなよ﹂
七海は紙と俺の顔を往復するように顔を上げ下げして、何故か驚い
たみたいな反応をしてる。
七海の手で俺の気持ちをこめた手紙を破ってもらえば、もう吹っ切
れると思う。
﹁⋮⋮﹂
七海はじっと俺を見たまま固まったみたいに動かなくなった。
なにをそんなに戸惑ってるんだ。
少しイライラして、俺は七海の手を掴む。
﹁ほら、早くやぶって、フッてくれよ。早くっ﹂
﹁やっ、やめて!﹂
七海の手で無理矢理破ろうとしたら、七海は俺の手を振りほどいて
手紙を抱くように胸元によせて俺から手紙を庇う。
﹁なんなんだよ、もう、俺、七海がなに考えてんのか、わかんない
1232
よぉ﹂
﹁泣かないの。なんと言われようと破るなんて嫌よ﹂
﹁なんでだよ!?﹂
﹁どうして好きな相手からもらったラブレターを破らなきゃならな
いのよ、拷問じゃない!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮はあ?﹂
え、なに? 今七海変なこと言った。
唐突に理解不能なことを言われて涙がひっこんだ。ずびびと残った
鼻水をすすりあげてから、七海の台詞を頭の中で反芻して考える。
えーっと、今の言葉は要約すると俺のこと好きみたいに聞こえるん
だけど、まさかねー。
﹁⋮⋮なによその間抜けな顔は。悪い? 私があなたを好きって言
ってるんだから、喜びに泣き叫びなさいよ﹂
﹁⋮⋮は⋮﹂
え? え? え? ⋮⋮え?
﹁⋮え? 両思いってこと?﹂
﹁⋮まぁ、あなたが私に恋をしているならそう言えなくないわね﹂
﹁じゃあ⋮俺と付き合ってくれるの?﹂
﹁⋮⋮あなたが、どーしてもって頼むなら、構わないわよ﹂
﹁お願いします!﹂
土下座した。なんかもうわけわかんなくてテンションがおかしいけ
どよくわかんないけど七海が俺のこと好きらしいとかひゃっほーい
って踊りだしたいくらい嬉しいしよくわかんないけど土下座してた。
﹁ど、土下座!? ⋮そこまでするほど、私のこと好きなの?﹂
1233
﹁大好きです! 一生のお願いだから俺の恋人になって下さい!!﹂
﹁⋮し、仕方ないから、その願い叶えてあげるわよ。感謝しなさい
よね﹂
頭をあげた。七海は真っ赤な顔で、しゃがんで俺の頭を撫でてきた。
﹁⋮何だか遠回りさせちゃって、ごめんなさいね。私も、あなたが
好きよ﹂
﹁うん、好き。七海が好き﹂
﹁⋮ばか、そんなに何度も言わなくてもわかるわよ﹂
﹁うん。好きだ﹂
﹁⋮⋮ばか﹂
撫でてた手でぽこっと俺の頭を叩いた。七海は照れているらしくさ
っきからずっと耳まで赤い。
可愛すぎる。可愛すぎて、本当に俺が好きなのか疑わしくなってき
た。なんか都合よすぎるし、夢?
﹁⋮なにしてるの?﹂
﹁痛い。夢じゃないな﹂
古典的だが頬をつねってみた。変な目で見られたが気にしない。
痛いから夢じゃなくて、つまり、本当に現実に七海が俺を好きなん
だ。
﹁⋮⋮﹂
何を言えばいいのかわからなくてじっと見つめあう。
1234
それだけでじわじわと幸せな気分になってきて、ドキドキしてきた。
﹁なんか、すっごいドキドキする﹂
﹁⋮私もよ。なんだか、夢みたい﹂
﹁ほっぺたつねってやろうか?﹂
﹁そうね。じゃあ⋮﹂
何故か俺の頬がひっぱられた。
﹁痛い?﹂
﹁いひゃひ﹂
﹁よかった﹂
﹁いや、自分で試せよ﹂
﹁いやよ﹂
七海は笑いながらつねった手で軽く頬を撫でる。
﹁皐月﹂
﹁なに?﹂
俺の名前を呼ぶとにこっと笑って俺の両肩に手を置いて、キスして
きた。
瞳を閉じた七海の顔が近いし唇が熱くて柔らかくて気持ちいい。
驚いて目を白黒させてると唇を離して目を開けた七海はくすりと笑
った。
﹁驚きすぎよ﹂
﹁⋮⋮あ、えと﹂
1235
なんかもう、色々ありすぎて混乱してきた。
○
1236
パーティーの終わり︵後書き︶
はい、両思い両思い。
長かった。作者の予定よりやたら遠回りしてほんと面倒な性格して
ます。
とりあえず次は今回の七海視点です。
1237
皐月、好きよ
七海、と呼ばれて振り向く。私を呼び捨てにするのは一人だけだ。
困ったような顔で皐月が私を見てる。きっと私と踊りたいのだろう。
同じことを考えていたと思うと嬉しい。
誘ってくれる子たちには悪いけれど、断って皐月に近寄る。
皐月は緊張した面持ちで手を私につきだす。
﹁あ、あの、私と踊っ−﹂
﹁しー﹂
﹁え、え?﹂
私を誘ってくれるのは嬉しいけど、その手の向きはいただけない。
私は人差し指をたてて皐月をとめてから改めて手の平を差し出した。
﹁あなたが、私と踊るのよ。あなたのラストダンスは、最初から私
のものよ。そうよね?﹂
﹁⋮はい。七海様の、言う通りです﹂
私が誘う。私が主導権を握るのだ。その意図を読んだのか皐月はは
にかみながら控えめに私の手に手を重ねた。
手を握ると照れて上目遣いで私を見つめる皐月は、やっぱりとても
可愛い。
﹁さぁ、行くわよ﹂
勢いこんで皐月と踊りをはじめる。
1238
思ったより上手で、からかうと拗ねたように唇を尖らせた。
女役なのからお姫様と呼ぶと慌てて嫌がる皐月に、以前なんでもな
い時に言われて恥ずかしかったこともあったので仕返しだと言うと
まるで忘れてるみたいだ。
まぁ今は私は王子様なのだから、構わない。
可愛い、と褒めるとますます恥ずかしそうになる皐月。そういう仕
草がまた可愛いのだ。
﹁あのさ﹂
﹁なぁに?﹂
皐月は顔を赤くしながらじっと私を見る。
これが最後だ。皐月もなにか言いたいことがあるのだろう。最近八
つ当たりした罪悪感もあるので優しく促す。
﹁あ、あの、俺﹂
﹁なによ、落ち着きなさい。ちゃんと聞くわ﹂
﹁あの⋮す、好きです﹂
言われた言葉に一瞬泣きそうになったけど、我慢する。最初に小枝
子にも尊敬する、好きだと言われた。この場で改まって伝えること
に違和感なんてない。
﹁⋮私も好きよ。来年には私は卒業するけど、ちゃんとみんなで頑
張るのよ﹂
なんとか微笑んで、会長らしく余裕のある返事ができたと自分に満
足した。
﹁え?﹂
1239
なのに、どうしてか皐月は踊りながら泣き出した。慌ててダンスを
やめて顔を覗き込む。
皐月は私の手を強く握ったまま走りだした。何を言っても答えずに
皐月は強引に私を引っ張って行く。
どうも部屋に私を連れて行きたいらしい。
仕方ないから着いていくと皐月の部屋についてからようやく皐月は
私の手を離した。
﹁もう、なんなの?﹂
﹁これ﹂
私の問いには答えずに、皐月は真剣な顔で数枚の紙を突き出した。
﹁え? なに?﹂
受け取る。何かたくさん字が書かれている。
えっと⋮七海様へ? 手紙かしら? ルーズリーフになんて手抜き
というか⋮⋮え?
﹁お前が好きだ﹂
驚いたところに泣いて鼻をすすりながらされた告白にさらに驚いて
顔をあげた。
﹁好きなんだ。本当に好きで好きで、たまらない。俺は馬鹿だから
ハッキリ迷惑ならそう言って、それを破って諦めさせてくれ。ごま
かすのは優しさだろうけど、傷つくよ﹂
﹁⋮⋮え? これ⋮え? あなた、私のこと好きなの?﹂
1240
手紙はよくわからない文章だけど好きだとたくさん書いてあって多
分ラブレターの下書きで、信じられないけれど、皐月は私に、恋を
してる?
半信半疑で尋ねると皐月は泣きながら怒ってるのかちょっと睨んで
きた。
﹁なに言ってんだよ。何度も言ってるだろ。いい加減、頼むからご
まかすなよ﹂
それは、確かに、好きとは言われた。言われたけれど⋮だって、そ
んなはずないと思っていたから。ただの親愛かと。
だけど手紙と皐月の泣き顔は本気としか見えなくて、混乱する。
何と言えばいいのかわからない。どうしてか皐月は私がわかってて
ごまかしていると思っているらしい。
﹁ほら、早くやぶって、フッてくれよ。早くっ﹂
無言の私に痺れをきらしたのか、皐月は私の手をとって無理矢理破
ろうとしてきた
﹁やっ、やめて!﹂
慌てて皐月の手を振りほどいて手紙を守る。
とにかく全部勘違いだ。勘違いで、皐月は私が好きだったんだ。
下書きだろうと皐月の気持ちが綴られたラブレターだ。大切なもの
だ。破らせてたまるものか。
﹁七海がなに考えてんのか、わかんないよぉ﹂
1241
ボロボロ泣く七海の姿になんだか私がいじめてるみたいな気分にな
る。
﹁泣かないの。なんと言われようと破るなんて嫌よ﹂
﹁なんでだよ!?﹂
﹁どうして好きな相手からもらったラブレターを破らなきゃならな
いのよ、拷問じゃない!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮はあ?﹂
皐月は涙もとめて変なものを見るように物凄く呆気にとられたよう
な顔をした。
﹁なによその間抜けな顔は。悪い? 私があなたを好きって言って
るんだから、喜びに泣き叫びなさいよ﹂
まじまじと見られて気恥ずかしくなってそんな軽口を叩く。
﹁は⋮え? 両思いってこと?﹂
皐月は驚いた顔のままそう言った。改めて聞かれると、余計に恥ず
かしい。視線をそらす。
﹁⋮まぁ、あなたが私に恋をしているならそう言えなくないわね﹂
﹁じゃあ⋮俺と付き合ってくれるの?﹂
⋮そんなこと、わざわざ確認しなくてもわかるでしょう。皐月があ
まりに真っすぐだから素直になりずらい。
﹁あなたが、どーしてもって頼むなら、構わないわよ﹂
﹁お願いします!﹂
1242
ひねたことを言う私に皐月はすかさず土下座した。
﹁ど、土下座!? ⋮そこまでするほど、私のこと好きなの?﹂
﹁大好きです! 一生のお願いだから俺の恋人になって下さい!!﹂
一生のお願いって⋮真剣に言われたの初めてだわ。
もう、なんだかたまらなく皐月が愛おしくなった。
手紙は机に置いて頭を地べたにつけそうになってる皐月に近寄る。
﹁仕方ないから、その願い叶えてあげるわよ。感謝しなさいよね﹂
素直に私こそ付き合ってほしいのだとは言えなかったけれど、しゃ
がんで皐月の頭をできるだけ優しく撫でた。
急に、今なら素直になれる気持ちになって思うまま口を開いた。
﹁⋮何だか遠回りさせちゃって、ごめんなさいね。私も、あなたが
好きよ﹂
﹁うん、好き。七海が好き﹂
顔をあげてこくこく頷く姿は犬みたいで可愛いけれど、やっぱり照
れ臭い。
﹁⋮ばか、そんなに何度も言わなくてもわかるわよ﹂
﹁うん。好きだ﹂
﹁⋮⋮ばか﹂
全然聞いてない。この間と似た状況だけど、ずっと嬉しくて穏やか
な気持ちだ。
でも、やっぱり照れ臭いから軽く皐月の頭を叩いておいた。
1243
皐月はにへへと頬を緩ませてから、急にはっとしたように自分で自
分の頬をつねりだした。
な、なにごと?と思ったらどうも夢かどうか確認したらしい。
呆れていると今度はじっと見つめてきた。恥ずかしさはあるけど、
私もやっぱり皐月は好きだし、それに応じて見つめあう。
﹁⋮⋮﹂
なんだか皐月、可愛いけど同時にカッコイイ。そんな⋮真剣に見つ
められるとドキドキする。それによく考えたら、今二人きりだ。
﹁なんか、すっごいドキドキする﹂
﹁⋮私もよ。なんだか、夢みたい﹂
﹁ほっぺたつねってやろうか?﹂
悪戯っぽく笑う皐月に少し緊張がとけた。
無意識にでも緊張する必要なんてない。相手は皐月で、恋人なんだ
から。
頬を引っ張ってじゃれてから今度はその頬を撫でる。
愛おしさがあふれてくる。今更だけど、うん、私、とても皐月が好
きだ。
﹁皐月﹂
﹁なに?﹂
名前を呼ぶと皐月はにこにこ笑う。両肩に手を置いて、不意打ち気
味にキスしてきた。
1244
目を閉じたから唇の感触ばかりが私の意識を支配する。
ドキドキして熱くて、夏みたい。皐月の唇、温かくて柔らかいけど
少し荒れてる。
今度リップクリームを贈ろうか、なんて考えて、キスを終えて目を
開けると、やっぱり驚いてる皐月がいておかしくなる。
﹁驚きすぎよ﹂
﹁⋮⋮あ、えと﹂
可愛い。すごく可愛い。
楽しくなってもう一度、唇を重ねた。
真っ赤になって耳も首も赤くて、わたわた慌てだした。
﹁あ、う、う、ううわぁ﹂
﹁皐月、好きよ﹂
﹁う⋮うん﹂
戸惑ってる皐月が可愛くて、なんだか意地悪したくなる。もっと困
らせたくなる。
﹁皐月、こっちにおいでなさい﹂
﹁ん、うん﹂
手をとって立たせてベットに座らせ、私は隣に座る。
﹁皐月、私にキスしなさい﹂
﹁え、え?﹂
﹁私のこと、好きじゃないの?﹂
1245
﹁そそ、そんなわけない。好き、好きですっ﹂
面白いほど考えた通りに反応してくれる。
赤くなりすぎて汗ばんできているのが握った手から伝わってくる。
皐月が余裕をなくすほど私に余裕ができる。
﹁⋮、⋮な、七海⋮﹂
緊張して唾を飲み込んでいる。そんなところも、好きだわ。
皐月の顔が近づいてきて私はそっと目を閉じた。
唇にあてられる。さっき私がしたより少し強い。
﹁⋮⋮﹂
皐月の鼻息を感じる。口が塞がっているから仕方ないのだし、相手
も私のを感じているのだろうけど、何故かそんなことがいちいち私
を興奮させる。
ドキドキと、胸が高鳴りすぎておかしくなりそうだ。
10秒くらいたっぷりと唇をあわせてからゆっくり離れた。目を開
ける。
﹁⋮⋮、なんか、死にそうだ﹂
﹁駄目よ、私の許可なく死んじゃ。勝手に死んだら殺すわよ﹂
ぼーっとした顔で言われたことにすかさず注意する。
それにははっと皐月は少し疲れたように笑う。
﹁無茶言うな⋮﹂
1246
﹁無茶でもなんでも、それが私の愛よ﹂
﹁⋮ほんと、無茶苦茶だ﹂
何となく、またキスしたくなって顔を近づける。察したのか皐月は
目を閉じ−
ぶぶぶ−
携帯電話のバイブレーションによってすぐに目を開いて慌てて取り
出し、開いた。
﹁も、もしもし。⋮⋮⋮あ、うん、ありがとう。⋮⋮⋮⋮⋮え、あ
ー、まぁな。ばっ、馬鹿っ。なに言ってんだよ﹂
ぼそぼそともれてきた声からすると相手は紗里奈だろう。
全くタイミングが悪い。
﹁うん⋮⋮あ、忘れてた。うん、わかった。今、行くよ﹂
﹁?﹂
あら? 片付けは用意してくれた人たちに頼めばいいのだし、もう
やることはないわよねぇ。
電話を終えた皐月はぱちっと携帯電話を二つ折りにしてしまった。
﹁七海、ちょっと行ってくる﹂
﹁何処によ?﹂
﹁ん? 反省会かな﹂
﹁⋮そ、そう。でも⋮﹂
﹁?﹂
1247
﹁な、なんでもないわ。行ってらっしゃい﹂
﹁おう。また明日な﹂
いい雰囲気だったのに。明日には私も皐月も実家に帰るから今年最
後なのに。
とは思うけれど、別れるのは他の子ともだし、仕事なら仕方がない。
私は名残惜しいけれど手紙を手に皐月と部屋を出て、階段で別れた。
○
1248
赤いベット
﹁おーい﹂
寮を出てちょっと歩くとすぐに向こうから三人が歩いてくるのが見
えて手をあげた。
﹁へーい﹂
紗里奈が手をあげかえしてきた。
そういえば、服着替えればよかったな。
﹁あんた、どこ行ってたのよ?﹂
近づいて立ち止まってから弘美が仏頂面で聞いてきた。
というか他二人もだいぶ疲れた顔をしている。俺も疲れているはず
が、嬉しいことでテンションがあがっているのかあんまり感じない。
むしろ体は楽なくらいだ。
﹁部屋で七海と話してた。あ、あと七海と付き合うことになった﹂
﹁さらりと言うね。殴っていい?って小枝子が心の中で思ってるよ﹂
﹁お、思ってません! 思ってませんよ!?﹂
﹁⋮冗談だし、そんなに必死に否定しなくても⋮とりあえず皐月﹂
付き合うのは予想通りだったのか軽くスルーして小枝子をいじって
さらにスルーして、紗里奈はにんまり笑う。
﹁なに?﹂
﹁やった?﹂
1249
﹁は? なにを?﹂
﹁子供の前で直接言うのは憚られるから柔らかくいうと、七海様と
にゃんにゃんした?﹂
﹁にゃ!? は⋮⋮し、してない!!﹂
なな、なんてこと言いやがる! てゆーか、こいつ本当に女か!?
おっさんじゃね!?
﹁てか紗里奈様、子供ってもちろん、ヒロのことじゃないですよね
?﹂
﹁ヒロのことだよ﹂
﹁きーっ﹂
﹁はっ、そんなパンチじゃ届かないぜっ﹂
なんなのこの三文芝居。いや、わざとらしいのは紗里奈だけだけど。
てか弘美、ごくたまにそういうサルみたいな声をあげるけどやめよ
うな。昔のヒステリー女みたいだから。
紗里奈は弘美の大振りなグーパンチを避けてけらけら笑う。
﹁まぁまぁ弘美さん、落ち着いてください﹂
﹁ふん、まぁいいわ。さっさと行くわよ﹂
﹁ん? 何処に?﹂
﹁寮よ。さっさと着替えたーい﹂
﹁⋮え、なんで俺出てきてんの?﹂
﹁聞かれても困るよ? まぁ疲れたし、反省会はお風呂はいってか
らにしようかなって話してたし。あ、今ね。﹂
﹁⋮そういうのは先に決めて⋮いやまぁいいけど。あ、片付け任せ
て悪いな﹂
﹁大丈夫ですよ。軽く仕切るだけですから﹂
1250
三人と再び寮に戻る。
一緒にお風呂でも入ろうという話になりかけたが、時間的に共同浴
場は混んでいるだろうから、それぞれ入ってから寝る格好で小枝子
の部屋に集合となった。
部屋に戻るとほんわかと、気のせいだろうが七海の匂いがした気が
したが、寒いから暖房をつけたらわからなくなった。
さっき七海といた時は全く寒さは気にならなかったのが不思議なく
らいだ。めっちゃ寒いわ。
○
﹁と、いうわけで、第111回パジャマパーティーを開催します。
わー、どんどんぱふぱふー﹂
﹁テンション高っ。小枝子に一体なにが⋮﹂
﹁はいはい、皐月も早くこっちにくるんだよ﹂
﹁酒くせーよっ﹂
﹁飲めば気にならなくなるわよ。ついでに疲労もね﹂
小枝子の部屋に行けば何故か全員、さっきのダンスの合間の飲酒で
は説明できないくらいに酔っていた。
弘美に渡されたのはワイン。紗里奈と弘美は多少顔が赤いくらいで
いつも通りだが、そのうちみんなへべれけになるのは火を見るより
1251
明らかだ。
俺はぐっとコップを傾けた。ワイングラスじゃなく量があるのでち
ょっとくらっときた。
﹁ひゅーひゅー、いー飲みっぷりれす。さっしゅが皐月しゃん!﹂
﹁さっきより酔ってる!﹂
﹁ま、座りなよー﹂
﹁ん﹂
3人がいるベットに乗り込む。4人だとちょっと狭い。
ベット脇の机にはこれでもかとワイン瓶が置かれている。どうでも
いいけど全部赤。
﹁はいはい、飲め飲め﹂
﹁うん⋮あ、てか反省会は?﹂
疲れてるのかな。あ、疲れてたか。だからもう、酔ってきた。
紗里奈につがれた二杯目をちびちび飲みながら尋ねる。
﹁うん、形だけだけどねー。今年最後だしー、いひ﹂
﹁あー、紗里奈様もー酔ってませーん?﹂
﹁うーん⋮疲れてるのかなぁ。実はさっき湯舟でさぁ、寝かけた﹂
言いながら、二人とも殆ど一気飲みしてはついで話しては一気飲み、
ついでを繰り返してる。
﹁あははははは﹂
小枝子はさっきから一人で笑ってる。もう完全にまわってらっしゃ
る。
1252
﹁ねー、皐月様ぁ﹂
﹁なんだー?﹂
﹁紗里奈様じゃないけどあんたさ、七海様と⋮え、えっちぃこと、
できんの?﹂
﹁ぶっ﹂
﹁や⋮きたなーいぃ。死ね﹂
弘美からされた予想外の質問にワインを弘美の顔面に吹き出した。
弘美、かなり酔ってるのか嫌そうな顔しながらも拭わずに、俺にワ
インをぶっかけた。
﹁おまえ⋮やめろよ。小枝子のベットだぞ。小枝⋮寝てる﹂
気づかなかったが、小枝子が座った態勢のまま寝てた。
﹁おぅ、寝かせ寝かせー﹂
紗里奈が小枝子の肩を押して横向けにころんと転がした。
﹁くー⋮﹂
﹁可愛い顔してるだろ? こいつ⋮処女なんだぜ﹂
﹁わーい⋮お前オヤジか! 道連れじゃ!﹂
紗里奈の頭からワインをかけた。ぽたぽたと髪の毛からワインした
たってる。
あー、なんか凄いおかしい。
﹁あはは、お前、ワインも滴るいい女だな﹂
﹁あはははー、よし、小枝子にもかけようか﹂
1253
﹁わー⋮いやそれはだめだろ!﹂
﹁とりゃー﹂
流されるとこだったー⋮って弘美が小枝子にかけた! 顔は避けて
胸にかけた。
﹁弘美なにしてんの!?﹂
﹁あー、小枝子って結構胸あるよね﹂
﹁小枝子様ってさりげに完璧系よねー。綺麗系だし頭いいし真面目
だしぃ、七海様の後継ぐのも納得だわ﹂
﹁だなー。紗里奈はなぁ、あんまり真面目なイメージないし、会長
とか向いてなさえー⋮あんふぁお?﹂
途中から紗里奈がほっぺ引っ張ってきた。
﹁あー、てかさぁ、わかるけどさぁ⋮皐月がこなきゃあたしが権力
の頂点にたってうはうはだったのにー!﹂
﹁やぇー﹂
﹁めぇー﹂
﹁やーめーなーさーいー﹂
﹁ぬ﹂
﹁う﹂
ほっぺた引っ張りあいに発展したところで弘美に叩かれて手を離し
た。
酔ってるからか痛くないけどとりあえず叩かれた頭を撫でる。紗里
奈も撫でてた。
﹁あたし副かいちょーなのに殴られたー﹂
﹁もー、皐月様はともかく紗里奈様も大人げなーですからですよ﹂
1254
﹁つめたいー﹂
﹁てか、ひどくね? なんかひどくね?﹂
飲みながら言う弘美に、俺と紗里奈もまたグラスについで飲みなが
ら顔を見合わせた。
﹁皐月ぃ、君さ君さ、会長と、違うや。七海様と寝れんの? やっ
ぱ、大事なことだようん﹂
﹁うーん、わかんない﹂
﹁七海様だってぜぇったい、性欲あるよぉ。恐いとかまだおぼこい
こといててんん?﹂
﹁やー、なーか、せんせつかまたし、こわかなかも?﹂
﹁ほんとー?﹂
﹁ヒロあ確かめたるー﹂
﹁んあ﹂
考えながら話してると弘美が横から抱き着いてきて、顔を舐めてき
た。
﹁あまー、ワインのあじー﹂
﹁あらしもあらしも﹂
反対側から紗里奈も舐めてきた。けど別に嫌悪感とないしむしろ眠
いし、あ、ほんともう。
﹁さ、も⋮あ、んー?﹂
なんか、ぐるぐるしてきた。
1255
○
﹁んー﹂
﹁あー﹂
﹁⋮あー、眠ぃ﹂
﹁すー﹂
奇しくも同じタイミングで目を覚ましたようで起き上がって三人で
唸りあう。
なんかすごいことになってる。いや、覚えてるけどね。
ベットは血まみれみたいに赤ワインまみれで真っ赤だし。4人で同
じベットだから体が重なりまくった状態で寝たらしくてなんだかあ
ちこち痺れてる。てか、アルコールくせぇ。
そして皐月はまだ寝てる。
﹁す、う、ん⋮ううん﹂
頬をつねるとイヤイヤと小さく首をふった。なんかこいつ可愛いな。
﹁さ、紗里奈さん、駄目ですよ﹂
小枝子が笑うのを我慢しながら止めてくる。手を離す。
﹁⋮⋮ふふ﹂
1256
今度は小枝子がちょっとだけど皐月の頬をひいた。
寝ぼけてるなぁ。理性がいい具合にゆるんでる。
﹁はいはい、会長さん、やめなさいよ﹂
﹁あ、はい。⋮えへへ、会長ってなんだか照れますねえ﹂
ヒロに注意されて小枝子は手を離してから頭を書いて照れた。
﹁来年には慣れなさいよ。さっきの、最初のテンパりようったらな
いわよ﹂
﹁⋮はーい﹂
﹁まぁ、途中からはまぁまぁだったけどね﹂
﹁弘美さん⋮﹂
﹁そんな目で見ないで。ヒロは別に⋮たんに、ツンデレなだけなん
だから﹂
素直じゃない、だから本当は会長として認めてるというヒロの言葉
に小枝子は何故かきょとんとした。
﹁それは⋮つまり、弘美さん、私のことが好きなんですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい。私が悪かったのでゴミを見るような目で見ないで
ください﹂
頭をさげた小枝子にヒロははっと鼻で笑ってからやめてあげた。
なにしてんだか。
でも、グッダグダだったけど昨日の反省会という名の新淑女会員の
親睦会、一応意味あったんだねぇ。
1257
小枝子が自信なさげだからと世話やいたかいあったよ、うん。つい
でに皐月が失敗したら慰めるのも予定してたけど⋮
てか、皐月なぁ本当に付き合いだしたし。あー、めっちゃ複雑。
半ば以上に諦めてたし、いいって言ったし、けしかけたし、いいん
だけど、いいんだけどさー⋮⋮ちょびっとだけジェラシってるかも。
まー、皐月、トラウマ克服でえっち解禁っぽいから完全に障害もな
いだろうしねぇ。
﹁はぁ⋮にしてもとうとう皐月様と七海様が付き合うことになった
のね﹂
﹁そうですね。でも、お似合いだと思います﹂
﹁どこが? 七海様が上すぎて泣けるくらいよ﹂
﹁そこまで言うか。皐月は⋮まぁ皐月なら、許せるし。むしろ皐月
以外無理だから、あたしはあの二人くっついてよかったと思うよ﹂
﹁あ、やっぱ紗里奈様って七海様のこと好きだったんですか?﹂
﹁え、そうなんですか?﹂
﹁⋮まあね﹂
﹁へー、なぁんだ。見境いないように見えて本命は別にキープして
たんですね。でも紗里奈さん、もっと一途にならないと駄目ですよ。
全然相手にされてませんでしたよ﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮この子なぁ。他のやつだったら確実に厭味だけど、小枝子って実
は皐月以上の天然だからなぁ。
﹁でも小枝子は一途でも皐月にひかれまくってたけどね﹂
﹁はぅっ!! ⋮う、うう。そうですけど、一般論じゃないですか
ぁ﹂
とりあえず言い返すと小枝子は涙目になった。
1258
はぁ⋮彼女欲しー。
その後、皐月が起きるまで恋愛についてガールズトークした。
皐月が起きてから、みんなまだワインまみれだったことを思い出し
た。まだ酔ってるのかな。
○
1259
赤いベット︵後書き︶
これでストック終了なので連日更新ストップします。
読んでくれてありがとうございました。
できるだけ早く完結できるよう頑張ります。
1260
よいお年を
﹁あ、おはよーございます﹂
﹁おは⋮⋮あなた、匂うわよ﹂
近寄って挨拶すると七海は鼻をつまんで嫌そうな顔をした。頭を掻
く。
﹁やっぱり?﹂
シャワーも浴びて歯も磨いたけど、一晩中ワインまみれだったんだ。
匂いが染み付いても不思議じゃない。
ちょっと口臭を確認。うーん⋮匂いするかも?
﹁⋮反省会で、また飲んでたの?﹂
﹁うん。結局すぐ寝たんだけど⋮量は結構飲んだかも﹂
﹁ふーん⋮そう﹂
あれ、なんか拗ねてるっぽい? 飲み会なら自分も誘えってか? でも、名目は反省会だったしなぁ。
﹁七海、朝まだなら一緒に行こうよ﹂
﹁⋮そうね、行ってあげてもいいわよ﹂
付き合いだしたというのにそっけない七海。
やたら急変しても恐いしいいんだけどさ。
七海と一緒に食堂に向かう。
朝からシャワー浴びたりしていて時間がズレているから、人はずい
1261
ぶん少ない。
実は部屋に戻ってシャワーを浴びてから荷造りをしていた。だから
紗里奈たちもいないくらい遅い。
この時間に七海がいたのは意外だけどラッキーだ。
﹁七海はなに食べる?﹂
﹁私はいいわ。もうすんでるから。席についておくわね﹂
﹁え⋮﹂
七海はさっさと窓際の席に行ってしまった。
俺はやや慌てて、黄身を固焼きにするか半熟にするか悩んでから半
熟の目玉焼きを選び、デミグラスハンバーグ、ご飯、うさぎさん林
檎、あと冷たいお茶を二つお盆にのせて七海の後を追った。
﹁相変わらずあなた、朝から健啖家ね﹂
﹁え、けんた? なにそれ?﹂
向かい合って座ると七海は俺のお盆を見て少し笑った。
軽い会話のネタだったんだろうが意味がわからず、お茶を一つ渡し
ながら首を傾げると、笑いながら呆れられた。
﹁ありがと。健啖、沢山食べることよ。要はあなた、朝から大食い
ねと言ったのよ﹂
﹁あー。はは、まぁな。いただきまっす﹂
﹁⋮⋮まぁ、いいけれど。あなた、まったく覚える気がないわね﹂
手をあわせて食事を始めると七海はついに笑顔じゃなくて完全に呆
れ顔になった。
うーん。他の人と食べる時はタイミングを合わせようとするから手
をあわせてればよかったし、最後の文句以外全く覚えてない。
1262
﹁郷に入っては郷に従えって言葉⋮⋮さ、さすがに知ってるわよね
?﹂
﹁知ってるよ! いくらなんでも馬鹿にしすぎだろ﹂
途中から気遣うような表情になったのが逆に傷つくわ。俺そんなに
馬鹿に思われてるの? 健啖か? 健啖のせいなのか?
ハンバーグをお箸で細かく切ってご飯と一緒に食べながら七海を半
目で見る。七海は目をそらした。
﹁え、いやだって⋮ねぇ? 人間、一度出来たイメージは中々変わ
らないものよ﹂
﹁第一印象の馬鹿野郎っ﹂
﹁第一じゃないわ。馬鹿って思ったのはあなたの普段の態度や成績
からだもの﹂
﹁普通に馬鹿だと思われてたのか⋮﹂
﹁い、今は違うわよ? 頑張り屋だって知ってるもの﹂
﹁⋮それ、馬鹿を否定してないよな?﹂
﹁⋮⋮﹂
顔ごと反らされた。
え、なんで? なんでそんなに馬鹿だと思われてんの?
⋮⋮⋮⋮否定できない。七海に回収されたラブレターなんて下書き
だし。下書き渡すなんてありえないよねー。
﹁⋮⋮﹂
もしゃもしゃごくん。
日本人ならお米だよね。半熟卵には醤油をかけて、白身を小さくち
ぎって黄身を割ってすくって食べる。
1263
くー、もほんとご飯と卵は相性バッチリだな。肉もうまいけど、卵
は言葉で現せない美味しさがある。うまいうまい。
﹁⋮ん? え、なに? なんだよ?﹂
ふと顔をあげればいつの間にかこっちを向いた七海がにこにこ笑顔
でいた。
何か不作法なことでもしたかっ思い返すが、ご飯にのせてないし、
猫背にもなってないし、お箸の持ち方とか使い方も大丈夫だったは
ずだ。
﹁ううん、何でもないわよ﹂
﹁そうか? 変なとことか、なかったか?﹂
﹁ないわよ。あなただいぶ上品になったと思うわ﹂
﹁⋮えへー、ありがとー﹂
やっぱり七海に褒められるとかなり嬉しいな。他の人の比じゃない。
﹁そういえば七海、ご飯食べたのになんで来たの?﹂
﹁⋮⋮鈍いわね。あなたと一緒にいたかったのよ﹂
照れながらも俺を真っすぐ見て言った七海は、凄く綺麗で、惚れす
ぎて頭おかしくなってるんじゃないかってくらい美しく見えた。
﹁⋮あはは⋮なんか、照れるな﹂
﹁嬉しくて光栄と言いなさいよ﹂
﹁⋮光栄だよ。お前の彼女になれた俺は、三国一の幸せ者だ﹂
﹁⋮わかればいいのよ。ご飯粒、ついてるわよ﹂
﹁あ、ありがとう﹂
1264
とてもさりげなく七海は俺の頬からご飯粒をとって食べた。
﹁⋮⋮ふふ﹂
七海は無意識らしく食べてからはっとして、それからはにかんだ。
﹁へへ、ありがとう。林檎、七海も食べる?﹂
﹁いただくわ﹂
二つあるうさぎさん林檎のうち一つに、テーブルに備え付けの調味
並びの爪楊枝で刺して七海に渡した。もうひとつは素手で食べる。
﹁⋮ん、美味しいわね﹂
﹁うん。ごちそうさま、と﹂
﹁⋮あなた、皮まで食べたわね。お腹壊すわよ﹂
﹁え⋮そんな、うさぎさんの頭部だけ残すなんて残酷な⋮﹂
﹁ええぇ⋮そう言ってしまえばまぁ、耳の皮と付け根を頭部と言え
なくないけれど⋮﹂
食べるか食べまいか迷うように皿に置こうとした耳を凝視する七海。
﹁いや、冗談だよ。こういうの好き嫌いあるし﹂
みかんも中のうす皮を食べる派と残す派といるし。
七海はむっとして爪楊枝ごとお皿に戻した。
﹁もう、前から時々思ってたけど、あなたって結構意地悪よね﹂
﹁えー、心外だな。しかも前からなんて。自分が親切とは思わない
けど、意地悪か?﹂
﹁だって⋮まぁ⋮でも、うん、やっぱり意地悪よ﹂
1265
﹁はいはい、じゃあ意地悪でいいよ﹂
﹁投げやりね﹂
﹁だって自分じゃわかんないし﹂
背もたれにもたれてのんびりした気分でお茶を一口飲んだ。
﹁にしても今年ももう終わりだよ。早いな﹂
﹁そう? 私は、長かったわ。あなたと会ってから色々、本当に色
々あって、長かったわ﹂
﹁色々あったのは同意だけど、だからこそ早かったよ﹂
﹁意見があわないわね﹂
﹁七海は進路、どうするの? お医者さんになるの?﹂
﹁ならないわ。私、教師になろうかと思ってるの﹂
﹁⋮教師?﹂
﹁ええ﹂
﹁⋮⋮な、なんで?﹂
なんで教師? 意外過ぎるだろ。
﹁あなたに教えていて教育の喜びに目覚めたのよ﹂
﹁⋮嘘だろ?﹂
﹁半分嘘よ﹂
﹁半分も本当なのかよ⋮。正直、お前真面目過ぎて教育には向いて
ないと思う﹂
﹁一人くらいは堅物のお固い真面目教師がいないと学校はなりたた
ないわ。憎まれ役は必要よ﹂
﹁⋮なんで初めからその微妙なポジション狙いなんだよ﹂
というか、本当に意外だ。てか
1266
﹁小? 中? 高?﹂
﹁高よ。私に生意気ざかり子供の相手ができると思うの?﹂
﹁⋮⋮いや、言いたいことはわからないでもないけど﹂
小中はちょうど第二反抗期だしね。でも大人から見たら高校生も十
分生意気だと思うんだけど。高校デビューでぐれたりとか⋮そもそ
も七海が勤めるならいいとこの学校だろうし、大丈夫か。
というか胸をはって言うな。生意気とか言うな。教師になりたいや
つの台詞じゃねぇよ。
﹁皐月は? 進路どうするの?﹂
﹁え? ⋮⋮か、考えてない﹂
﹁あら、まだ考えてないの? 進路希望はどうしてるの?﹂
﹁一応、進学ってしてるけど⋮﹂
﹁なりたい職業はないの?﹂
﹁うーん⋮昔はケーキ屋さんとか考えてたけど⋮とにかく働ければ
いいかなと思ってたし﹂
﹁あら、パティシェになりたいの。素敵じゃない﹂
﹁いや、毎日ケーキ食べられるかなって﹂
﹁⋮あなた、特別な時に食べるものって言ってなかった?﹂
﹁特別な立場なら仕方ない。味見とか﹂
﹁⋮⋮いや、まあ、好きであることは大事だとは思うけれどね? 他にないの?﹂
﹁うーん⋮﹂
職業か⋮頭悪いとは思いたくないけど頭つかうのは苦手なんだよな。
だから先生とかはありえないとして⋮やっぱり接客業とか? あ、
そういえば一時期飛行機の運転士になりたいと思ったことあるな。
﹁あ⋮でも、そうね、皐月は無理に働かなくてもいいわね﹂
1267
﹁え、なんで。あ、まぁお金はあるかも知れないけど、ニートにな
る気はないよ﹂
﹁あなた、私を好きでしょう﹂
﹁え、あ、うん﹂
な、なに? 流れ的におかしいけどとりあえず頷く。
人が少なく離れてるとはいえ、こんなとこでなにを言ってんだ。
﹁あなた、私と死ぬまで一緒にいたいでしょ?﹂
﹁う、うん﹂
﹁はっきり言いなさい﹂
﹁し、死ぬまで一緒に、いたいです﹂
﹁ならよし。いなさい。私が働いて皐月は家事しなさい。それなら
無理に働かなくてもいいわ﹂
﹁⋮そ⋮それってもしかして、プロポーズ?﹂
﹁なに言ってるのよ。決まりきった未来の予定を言っただけよ。結
婚するのは当たり前なんだから、今更申し込んだりしないわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
い、今更とか、付き合いだした次の日にいう台詞か。てゆーかすで
に決定なのかよ。
いや、いや、まぁそりゃ、う、嬉しいですよ?
﹁皐月、ものすごく顔が赤いけどどうかした?﹂
﹁ど、どうかしたっていうか⋮⋮﹂
なんでこいつ普通なんだよ。うーもー、恥ずかしい。
﹁まぁ、来年いっぱい考えなさい。あなたにはまだ時間があるんだ
から。なりたいものがあるなら応援するわ﹂
1268
﹁う⋮うん。ありがとう﹂
七海はお茶を飲み干してから時計を見てさて、と立ち上がった。
﹁そろそろ私、行くわね。﹂
﹁あ、うん。また連絡するよ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮な、なに?﹂
立ったままやたら凝視される。聞いても10秒くらいさらに見てか
らゆっくり七海は首をふる。
﹁いえ。よいお年を﹂
﹁あ、うん、よいお年を﹂
七海はコップだけさげてさっさと食堂をでていった。
なんだったんだろ? 今年見納めだからかな?
そろそろ9時か。10時に迎えが来る予定だし、まだ少し時間があ
る。
七海が出ていくのを見送ってから立ち上がり、食器をさげて部屋に
戻ることにした。
○
1269
1270
よいお年を︵後書き︶
付き合いたてのお別れなのに手さえ触れてませんが冷めてるわけで
はないです
1271
もう駄目かも⋮そんなことはなかった
﹁爺ちゃん、それとって﹂
﹁ああ⋮皐月、ほれ﹂
﹁あーん﹂
﹁よしよし﹂
口をあけたら爺ちゃんは仕方ないなぁって風に笑って、チョコレー
トをひとつほおりこんでくれた。
どういう仕組みかわからないけど、今はいってる炬燵は机部分に熱
が伝わらないからチョコレートはとけてない。
﹁皐月ちゃん、怠けないの﹂
隣の母さんから注意された。爺ちゃんがまぁまぁとなだめにかかる。
﹁たまの休みじゃ、ゆっくりしたらええじゃないか。皐月も頑張っ
とるんじゃから﹂
﹁お父様は甘やかしすぎなの﹂
﹁優希に言われたくないわい﹂
﹁あら、私はあーんなんてしないわ﹂
言いながら母さんは俺の前に剥かれたみかんを置いた。
冬はやっぱり炬燵でみかんだよね。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
お茶を一口飲んでからみかんをひとつ口にいれた。ちなみに薄皮は
1272
食べたり食べなかったりする派。
どうも、帰ってから二人がやたらと優しい。元々優しいけどこう、
甘やかそうとする。
今日に限って言えば少しばかり体調が悪いというのも二人が優しい
理由にはなるけど、帰ってからずっとだからな。
やっぱりこないだのあれのせいなのかなぁとか思ったり。でも、俺
としてはふっきれたしもう全然平気なんだけどな。
﹁あ、そうだ。俺、七海と付き合うことになったから﹂
﹁⋮何じゃと!?﹂
﹁⋮⋮皐月ちゃん、二股はいけないと思うの﹂
﹁え⋮や! 違う! 弘美は単に本人が見合いさせられるの嫌だっ
ていうから偽装! 偽装なの!﹂
﹁あら、そうだったかしら﹂
﹁⋮言っとったろう。しかしそうかぁ⋮皐月にもいい人がのぅ。ど
この七海さんじゃ?﹂
﹁ほら、こないだ会ったじゃん。ひとつ先輩の榊原七海だよ﹂
﹁ほう、榊原病院の娘さんか﹂
﹁あの金髪美人ちゃんね。皐月ちゃんったら私に似て面食いねぇ﹂
﹁そ、そうかな﹂
確かに美人だし俺は面食いかもだけど、母さんが面食いだと認める
と父さんにクリソツな自分を自画自賛することになるから肯定しに
くいな。
﹁まぁ、美人さんなんは認めるがのぉ。とりあえず⋮今度連れてき
なさい﹂
﹁え!?﹂
﹁なにを驚いとるんじゃ。前は偽装でただの友人というから許可し
1273
たが、さすがに本気の相手なら顔合わせくらいさせんか﹂
﹁あ、あー、まぁ﹂
付き合いたてで気が早いと突っ込みたいけど、一応七海も⋮俺も、
その、ずっと一緒にいるつもりだ。だから言いたいことはわかるけ
ど⋮なぁ。
﹁後で聞いてみるよ﹂
﹁うむ﹂
ま、まぁ⋮電話するいいきっかけかな。
あれから普通に別れて七海連絡くれないし⋮や、ま、三日しかたっ
てないんだけどね。
受験生だしこっちから用もなく連絡したら迷惑かなとか、話すこと
ないからとか思ったら連絡しずらくてできなかったし。
﹁どうせならお泊りしてもらったら? 皐月ちゃんもわかってるだ
ろうけどほら、寝室はちゃんと防音だからね﹂
﹁優希、あまり下世話な真似をするな﹂
﹁あらお父様、これくらい普通の気遣いよ﹂
﹁そうか⋮若い者にはついていけんのぉ。とにかく皐月、お前はお
前が思うようにするといい。後はワシがなんとかしてやるからな﹂
﹁う、うん﹂
なんだろ。なんかあったっけ?
まぁいいや。
﹁ん⋮?﹂
﹁? どうかした?﹂
﹁いや⋮﹂
1274
何だか今、きゅってお腹が痛くなった。そういえば朝から少しお腹
が痛い、というかだるい。
なので朝食も昼食もそこそこでこうして間食をしてるわけだが、今
のはちょっと痛かった。
﹁ちょっとトイレ行ってくる﹂
﹁あんまりお腹痛いなら病院行く?﹂
﹁や、それほどじゃない﹂
食べ過ぎとはなんか違う感じだし⋮便秘かなぁ? 昨日も普通に出
たけど他にわかんないし。
とりあえず部屋を出てトイレに向かう。
明日になっても変な痛みがあったら、病院に行くのも止むなしかな
ぁ。こないだ行ったし、病院って苦手だから当分嫌なんだけどなぁ。
お腹をさすりながらトイレに入り、ズボンを脱ぐと後ろポケットに
いれっぱなしだった携帯電話が床に落ちた。
危ない危ない。芳香剤の隣に拾っと置いた。
さてパンツを⋮
﹁⋮え゛?﹂
パンツの下半分が真っ赤だった。
いや、ちょっと待って意味がわからない。
恐る恐るパンツをさげると股から赤い糸がひいていた。パンツの股
1275
部分は真っ赤だ。
なにこのどろどろの血液。そんなに肉ばっか食べてないよ。野菜だ
って食べてるのに。
よくわからないけど血尿だよな? なんでこんなどろってんの。尿
がまざってこの粘力なら体の中流れてる血なんて固まりじゃね?
てかなんで血尿? あれってどうやってなるんだっけ? これもし
かして病気?
やばいどうしようなんか泣けてきた。俺死ぬかもしれない。
力が抜けて便座に座る。中を覗くとだらーと血の固まりみたいなの
が落ちた。
﹁⋮⋮う、⋮ぅう﹂
なんか急にめちゃくちゃお腹痛くなってきた。
どうしよう。えっと、そうだ。電話で助けを呼ぼう。
トゥルルルとコールするとすぐに相手が出た。
﹃も、もしもし皐月?﹄
﹁ぅぐ⋮ううぅ、七海ぃ﹂
﹃え? なに? ⋮な、泣いているの?﹄
﹁あ、あのね、俺、もう駄目かもしれない﹂
﹃え!? 何があったの!?﹄
﹁なんか、お腹痛くて、すごいどろどろの血尿が⋮﹂
﹃腹痛と血尿? ⋮⋮それって、生理じゃなくて?﹄
﹁え?﹂
﹃え?﹄
﹁⋮⋮え? 生理?﹂
1276
涙をとめて考える。
︽生理︾子宮から周期的に数日間持続して出血する現象。
﹃え、いや、違うわよね。生理ぐらいで電話しないだろうし⋮とに
かく、落ち着いて医者を−﹄
﹁生理かっ! それか、なるほどなー﹂
七海が何か言っていたがとりあえずふーと安堵の息をつく。
病気じゃなくてよかったよかった。
﹃⋮⋮あなたもしかして、初めてなの?﹄
﹁初めて﹂
﹃⋮おめでとう﹄
﹁ありがとう。とりあえずまた後で電話するなー﹂
﹃え、ちょ−﹄
なんか七海は言いたげだったがいつまでもトイレにいるのもあれだ
し電話を切って、今度は母さんにかける。
﹁あ、もしもし母さん、ちょっとトイレ来て欲しいんだけど⋮その、
生理きた﹂
爺ちゃんに言うのはなんかすごい、恥ずかしいから母さんを呼ぶこ
とにした。
○
1277
﹁めでたいのぉ﹂
﹁おめでとう、皐月ちゃん﹂
﹁⋮なにこの公開羞恥プレイ。俺を辱めてなにが目的だっ﹂
﹁やぁだ、皐月ちゃん。ずいぶん難しい言葉が言えるようになった
のね﹂
﹁さらに馬鹿にされた!?﹂
母さんから生理の対処法について教わったりしてる間に、何故か赤
飯を炊いて屋敷中の人に俺の初潮が知られ、生暖かい目を向けられ
た。
普段はめっちゃ遠巻きで仕事以外関わらないくせになんだこの扱い
っ。
てかいつの間にかみんなに女って知られてる?
﹁ん? ああ、安心せぇ。ちゃんと男装が趣味なだけの女の子で今
までのは冗談だから突っ込むなと言い含めてある﹂
﹁なにひとつ安心する要素がない! なに勝手なことしてんの!?﹂
﹁えー、でももう女の子でもいいかなーって思ってるでしょ?﹂
﹁う⋮ま、まぁ、前みたいにこだわりはないけどさぁ﹂
﹁ならいいじゃない﹂
﹁うー⋮納得いかない。ちょっと爺ちゃん、なんで勝手にしたのさ
ー﹂
﹁そりゃ、皐月を見て前より女らしくなっとったからな﹂
﹁はい?﹂
女らしい? 一人称﹃俺﹄で口悪いのに?
1278
爺ちゃんを凝視するとなんでわからないのかわからないみたいな顔
で俺の無言の問いに答える。
﹁そりゃ、最初より口調はずいぶん柔らかくなっとるし、髪も伸び
とるし、自然にスカートはいとりゃそう思うぞ?﹂
﹁⋮⋮﹂
そういえば、最近は私服でもスカートが何着か⋮。でも口調は前が
無理矢理男らしくしてたの面倒になってやめたからだし、髪はカツ
ラが面倒だからで別に女の子らしくなったわけじゃ⋮ないよな?
だいたい前と比べてってことだし普通に今の俺を見たら女の子らし
いとは言わないだろ。
あー、納得いかない。いかないけど、言った以上今更男だって屋敷
中に言い触らすのもおかしな話だ。
だからまあいいか。生理まできたらごまかせないしな。
﹁ったく、今回はいいけど、そういう大事なことはちゃんと言っと
いてくれよな﹂
﹁すまんすまん﹂
﹁なんかノリ軽くない? 爺ちゃん性格変わってね?﹂
﹁ま、ま、それは置いといてぇ、とにかく晩御飯にしましょう﹂
﹁うーん、あんまりお腹減ってないんだけどなぁ﹂
それにしんどいし。お腹痛い。なんかこう、胃の下あたりが痛い。
﹁わかっておる。軽く食べて今日は早く寝たらええ﹂
﹁うん。じゃあいただきます﹂
﹁いただきまーす﹂
﹁いただきます﹂
1279
お赤飯には胡麻塩をかけて食べる。美味しい。
うむうむ。
﹁皐月ちゃん﹂
﹁ん? なに?﹂
﹁おめでとう。あと七海ちゃんと仲良くね﹂
﹁⋮うん。ありがとう﹂
えへへ⋮なんというか、二人とも寛容すぎると思う。でも、嬉しい
な。
○
1280
お宅訪問
はっきり言って、気分はよくない。
先日、想いが通じて恋人ができたのは嬉しい。素直に表現するなら
小躍りしたいくらいだ。
だけど、果して相手も同じくらい自分を思ってくれているのだろう
か。
告白されてキスもしたけど、どうにも不安になる。
私はすぐにだって抱きしめてキスをしたいのに、皐月はそうでもな
いみたいだ。
最後の日だって、私は皐月に会いたくて探してたのに平気な風にお
酒臭い体で現れた。
手もつないでくれないし、向かいに座っていつもと同じみたいに皐
月は振る舞った。
一応確認したら、私のことが好きだってちゃんと言ったからまさか
告白は夢だった、なんてことはない。
なのに全然、メールも電話もくれない。
まだ三日だし、私から連絡するのは負けた気がしてできない。
そうだ。皐月から私に告白してきたのだから、もっと積極的に連絡
をとって好き好きアピールをしてくれないとおかしい。
どうして私だけこんなに悩まないといけないのよ⋮⋮は! もしか
して、皐月も連絡しようか迷ってるとか⋮は、ないわね。
あの子図太いし、思い立ったら猪突猛進みたいな感じだし。
1281
ならば尚更、何故、連絡がないのだろう。
プルルル
﹁あっ⋮﹂
携帯電話が鳴り、慌てて開くと皐月からだった。瞬間的に嬉しくな
りつつも、浮かれてると思われないように注意して電話に出た。
﹁も、もしもし皐月?﹂
どもってしまった!と思うより先に電話口から聞こえた皐月のうめ
くような声に、私は慌てて意味がないとわかっているけど姿勢を正
して尋ねた。
話を聞くと、どうも生理らしい。
電話をくれたのは嬉しいけど、生理で死ぬとかそれをわざわざ電話
で言うのはちょっと意味がわからない。
﹃初めて﹄
﹁⋮おめでとう﹂
と思ったら初潮らしい。
あれよあれよという間に電話は切れた。
な、何なのよ。
携帯電話は睨んでも通話時間しか表示しない。無性にいらいらして
きて私は携帯電話を投げつけた。
がっ−ガチャチャッ−どっ
1282
壁にぶつかった携帯電話は反射してドレッサーの上を滑って小物を
ぶちまけけ床に落ちた。
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮私、なにしてるのかしら。
﹁はぁぁ﹂
片付けするのも面倒くさい。
というか、なにが問題かと言って⋮⋮皐月を気にしていたら勉強が
手につかない。受験生なのにこのままじゃ駄目だわ。
よしっ⋮⋮⋮仮試験して目標達成したら皐月に電話するわ。
○
プルルル
﹁はっ!﹂
電話がなった。今⋮もうこんな時間。
集中すると決めると意外とできるものだ。電話は⋮皐月だ。ううん、
1283
ちょっと緊張してきたわ。
﹁もしもし?﹂
﹃あ、もしもし。さっきはごめんな。ありがとう﹄
﹁いえ、いいのよ﹂
﹃ちょっとパニクっちゃってさ。勉強の邪魔じゃなかった? あ、
てか今大丈夫?﹄
﹁大丈夫よ﹂
そういえば、さっきの、困っていの一番に私を頼ってくれたという
ことよね。母親でもなく、私に。
⋮うん、私の勉強を気遣ってたんでしょうし連絡がなかったことは
許しましょう。
﹃あ、あのさ、受験勉強はどんな感じ?﹄
﹁あら、心配してくれるの?﹂
﹃んー、いや、七海なら大丈夫なのはわかってるし、心配はしてな
いよ﹄
﹁そ。まぁお察しの通り順調よ。別に私は有名大学を目指してるわ
けでもないから、今からだって合格するわよ﹂
﹃わ、すごい自信だな﹄
﹁あなたが知らないだけで夏からちゃんとしてたのよ。今、過去問
で二回受かったわ﹂
﹃ふーん。じゃあ余裕だな﹄
﹁もちろん、あなたと話すくらいなんでもないわよ﹂
﹃んー⋮とさ。実は、七海と付き合うって言ったら、爺ちゃんが顔
見たいって言うんだけど、冬休みに時間つくれる? あ、初詣はみ
んなで一緒に行こうな﹄
え⋮い、いきなり保護者に挨拶? ⋮⋮いえ、そうね、早いことに
1284
問題なんてないわ。
初詣も⋮⋮問題ないわね。皐月にはああ言ったけどまだまだ受験勉
強の手を抜くつもりはない。でも初詣なら元より行くつもりだった。
それに冬休みと言えど起きてから寝るまで勉強の予定はない。せい
ぜい数時間で、数日分まとめてやれば一日や二日の余裕は楽につく
れる。
﹁そうね⋮あなたがどうしてもって言うなら構わないわよ﹂
﹃どうしても⋮って言ったら、会えるの?﹄
﹁⋮私に会いたい?﹂
﹃会いたいよ。決まってるだろ。いちいち確かめようとすんなよ。
わかるだろ?﹄
皐月の声が少し不機嫌になる。電話越しだと照れてるのか怒ってい
るのか判別に困る。
怒らせたいわけじゃない。ただ少しだけ、不安だから皐月の言葉を
聞きたいだけだ。
でも素直にそう言うのははばかられた。何より私ばかりが好きみた
いで嫌だ。
﹁⋮別に、言わせたいわけじゃないわよ?﹂
﹃意地が悪いと思ったら⋮単に言わせたいだけか﹄
﹁だっ、だから違うわよ。ただ言いたいなら言えと言っているだけ
よ﹂
﹃⋮はいはい。じゃあ⋮会いたいから来てください﹄
流された。そのわかってる的な態度は癪に障るけど、会えるのは素
直に嬉しい。
﹁じゃ、明日行くわね﹂
1285
﹃明日!? え、急だな﹄
戸惑う声にまた不安になる。
私は今すぐにだって、会いたいのに。
﹁明日では都合が悪い?﹂
﹃ああいや、そうじゃない。なら待ってる﹄
﹁そう。じゃあ明日の⋮10時ごろに﹂
﹃早いな、あ、いいよ。こっちはいつでも大丈夫だから。言ってお
くから﹄
﹁ええ⋮じゃあ、また明日ね﹂
﹃おう﹄
電話を切った。
胸が熱くてぼーっとする。携帯電話ごと手を膝に落とす。
ディスプレイは相変わらず素っ気ない。それをぼんやり見ていると
ぱっと画面は消えた。
それでもまだ何かする気にならなくて見る。
また、画面がつくような気がして。
﹁⋮⋮﹂
と、いつまでも見ているわけにもいかない。
第一、明日と言って切ってすぐまたかかってくるはずがない。
とりあえず明日の用意⋮いやいや、まず明日の分の課題を⋮⋮いや、
先に晩御飯からだ。
早く食べて明日に備えよう。
立ち上がって息をつく。
1286
早く、会いたいわ。
○
﹁あ⋮﹂
﹁こんにちは﹂
家の前で待ってると、時間5分前ちょうどに車が止まり七海が降り
てきた。
﹁普通のタクシーなんだ﹂
﹁あら、悪い?﹂
七海が降りるとすぐにタクシーは走り去った。にんまりと笑う七海
は俺に近づきながらおどけて言った。
﹁いや、親近感沸く﹂
﹁言っておくけど私の家はお金はあるけど普通よ。あなたみたいな、
こんな豪邸じゃないわ﹂
﹁あー⋮心はまだ庶民なんだ﹂
﹁その言い方がすでに﹃庶民﹄じゃないわ﹂
確かに⋮庶民なんてあんま言わないか。
1287
家を見て呆れ気味の七海に苦笑する。家がやたらデカイのには慣れ
たから意識しなかったが、言われても仕方ない大きさではある。
﹁あはは⋮とりあえず、いらっしゃい。母さんが中で待ってるから﹂
﹁ええ﹂
門は大きいので横の通用口を開けて促す。七海が通ったので閉めて
並んで歩いて10メートル奥の玄関に向かう。
﹁⋮⋮﹂
な、なんだかちょっとドキドキするな。ついこないだぶりなのに、
益々綺麗になった気がする。そりゃ短期間で変わりようもないし気
のせいなのはわかってるけど、どうにも俺の目には七海は輝いて見
えてしょうがない。ひいき目をなしにしたって美人なんだから、こ
れはもう仕方ないことだ。
玄関にはすぐにたどり着く。さっきと同じようにして七海を家の中
へ入れる。
スリッパにはきかえていると七海が話かけてきた。
﹁そういえば皐月、お腹は大丈夫なの?﹂
﹁え、ああ、うん。ちょっとだるい感じだけど、昨日よりずっと楽﹂
﹁そう﹂
安心したように笑う七海に緊張がとけたので母さんの元に向かいな
がら今度は俺から話かける。
﹁七海、その⋮私服も可愛いな﹂
﹁⋮なに言ってるのよ、普段だって半分は私服じゃない﹂
1288
﹁や、まあそうなんだけどさ。今日はいつもより可愛いっていうか、
とにかく似合ってるよ。見ない服だけど新しいの?﹂
﹁⋮当然でしょ。保護者の方に挨拶するのに、普段着じゃ恥ずかし
いわ﹂
﹁え、ああ⋮そういえば、そうだな。じゃあ今度俺が行く時もいい
服着なきゃだな﹂
言われて見ればフォーマルと言える服装だ。普段から派手な服でも
ないし似たような感じなので気づかなかった。というか、七海は普
段からフォーマルと言っていい服が多いからな。
﹁やぁね、あなたはいいわよ。言ったでしょ。うちは普通だから畏
まる必要ないわよ﹂
﹁いや、でもその、お、お嬢さんをくださいとか、言いに行かない
と、な?﹂
﹁ふふ⋮まぁ、あなたはそのうち、ね﹂
﹁ん? あ、うん。年末年始は忙しいもんな﹂
お医者さんはお正月も忙しいもんな。おもちを喉につまらせた人が
いたりするだろうし。
というか七海、普通だなー。ドキドキしてるの俺だけ? なんだか
なぁ。
話しているとすぐに母さんが待ついつもの部屋に着いた。
﹁お帰りなさい、皐月ちゃん。いらっしゃい、七海ちゃん。よく来
たわね﹂
﹁お久しぶりです﹂
﹁まーま、緊張しなくていいわよー。ささ、こっちに来てお話しま
1289
しょ﹂
七海はちょっと動きが固い。何度か会ってるのに、やっぱり緊張す
るらしい。
﹁七⋮あー、七海、座ろう﹂
手を握りそうになってごまかしながら促す。
母さんとはいえ人前だし照れ臭い。七海もストイックタイプっぽい
からやめておこう。
﹁え、ええ﹂
部屋の片隅を陣取る8畳の和室部の炬燵に入る。冬に集まるとこれ
にはいるのがいつもだ。
母さんと直角の部分に二人ではいる。
家全体に暖房は入ってるけど炬燵はいい。あったかい。
﹁ねぇねぇ七海ちゃん、皐月ちゃんとはいつ結婚するの?﹂
﹁え? えっと、結婚と言っても形の話で、私たちは女同士ですか
ら。学園を出て都合が会えば、その⋮一緒に住みたいと思っていま
す﹂
母さんがにこにこして問うと七海は照れと緊張でか視線を動かして
から母さんを見て言った。それに母さんはよりにこにこしだす。
﹁あら、皐月ちゃんは男の子の戸籍があるから結婚できるわよ?﹂
﹁ああ、それはまぁ、そうですね。でも私、戸籍にはこだわらなく
てもいいと思うんです。男の子のは本当の戸籍とは違うわけですし。
皐月⋮皐月さんと一緒にいられれば、私は幸せですから﹂
1290
﹁⋮七海ちゃんはいい子ね。でも戸籍、本物よ。今の皐月ちゃんは
性別は違うけど崎山皐月が本当だから。滝口も残してるから本当だ
けどぉ、旧姓?みたいなものだから﹂
﹁え⋮あ⋮そ、そうなんですか。あー⋮えっと﹂
﹁まぁ確かにぃ、偽物っちゃ偽物よね。とりあえず私的には式をあ
げれば戸籍はどうでもいいから好きにしてー﹂
困った顔の七海に母さんはなんでもないみたいに会話を締め、炬燵
の真ん中にある蜜柑の山から蜜柑をとってむきだした。
散々語らせといて放り投げた母さんに七海はすごい微妙な顔をした。
真剣に考えてくれてるみたいで嬉しいけど、俺は来年のことすら全
く考えてないからちょっと情けないな。
﹁あの⋮優希さん﹂
﹁なぁに? この蜜柑なら好きに食べていいわよ﹂
﹁あ、いえ、そうではなくて。その⋮散々話して今更ではあるんで
すが﹂
そう言ってから七海はきりっと真面目な顔になって、炬燵の下の俺
の手を握った。
驚いたけど、なにか大事なことを言おうとしてるみたいだし母さん
には見えないのでしっかりと握り返す。
﹁皐月さんを、私にください。絶対に幸せにします﹂
﹁はい、どうぞ﹂
﹁⋮軽すぎますよ﹂
あっさりした母さんの答えに、七海は俺の手を握る力をゆるめて肩
の力を抜き、くすりと笑う。母さんもくすくす笑う。
1291
﹁だぁって、嬉しいんだもの﹂
﹁答えになってませんよ﹂
二人が笑う。真面目な話で照れ臭いし話に入りづらい。
でも二人が嬉しそうだから何となく俺も嬉しくて、少し笑った。
○
1292
お宅訪問︵後書き︶
この次の話は15禁予定です。
主人公は生理なのでパンツは脱がない程度ですが、駄目な人は気を
つけてください。
1293
押し倒す︵前書き︶
この話は性的な要素を含みます。同時投稿した次の話とセットでエ
ロくなっています。
この話を想定し15禁にしておりました。
露骨な単語はさけて15禁にしたつもりですが、アウトな場合はカ
ットしますのでどなたかお知らせ下さい。
不安なのでこれは大丈夫、余裕でセーフという場合もお願いします。
お知らせいただければ今後書く小説の目安にしたいと思います。
1294
押し倒す
優希さんはともかく、皐月の御祖父様に会うのは緊張したけれど、
特に問題もなく夕食を共にした。
問題⋮まぁ、問題はなかった、と⋮思う。
少し、御祖父様が皐月をよろしくと何度も繰り返し念を押したのが
気になるが、一応認められたのだろう。
同性愛や若さに寛容というよりは、皐月が決めたならそれでいいと
いう雰囲気だった。
考えてみて皐月にとても甘いというか、皐月はとても信用されてい
るのだと思った。
とにかく顔合わせの夕食もすみ、私は皐月の部屋へ来てようやく二
人きりになり緊張をといた。
﹁ふう⋮﹂
ベッドに座ってため息をついた私に苦笑しながら皐月はテレビの前
にあるソファに座った。
﹁疲れた? 七海珍しく緊張しっぱなしだったもんな﹂
﹁まぁ、ね﹂
今思えばそう緊張する必要もなかったが、事前情報から厳しい方と
思い込んでいたのだから仕方ない。
皐月の部屋はさっきの部屋に比べると小さいけど、私の部屋や寮に
対して大きい。だからソファは位置関係はベッドの隣だけど距離が
ある。
1295
むむぅ。どうも距離が⋮というか前より距離を感じるわ。
﹁あまり物がない部屋ね﹂
﹁ん、そうかな。まぁ、基本さっきの部屋で自室は寝に帰るくらい
だから﹂
端に勉強机、真ん中に部屋の大半を占めるベッド、ベッドの向かい
は一面箪笥と棚で真ん中にテレビ、ベッドとテレビの間には小さな
丸テーブルと二人用ソファが向かい合うようにある。
書棚部分なんかは何もない。どうも全体的に寂しい感じだ。きっと、
本当に寝る以外には使わないのだろう。
﹁このテレビも、つけるの夏ぶりだ﹂
言いながら皐月がテレビをつける。バラエティー番組がついた。特
に見たいものがないのか、皐月はチャンネルを一周して戻ってから
リモコンを置いた。
﹁ねぇ皐月﹂
﹁んー⋮七海、その前にちょっと、隣いい?﹂
﹁え、⋮あなたの部屋なんだから、どこにだって好きに座ればいい
じゃない﹂
﹁う、うん。座るっ﹂
皐月は立ち上がって勢いよく私の右隣に座った。勢いよすぎて私と
肩がぶつかる。
﹁と、わるい﹂
﹁大丈夫よ﹂
1296
大丈夫、とは言ったけれど大丈夫じゃない。だって、足からずっと
肩まで皐月とくっついているし、ドキドキする。
﹁あのさ﹂
﹁な⋮なによ﹂
﹁手、いい?﹂
﹁⋮好きにしたら﹂
﹁うん⋮﹂
右手がそっと握られた。
さっき握った時はすぐに離されたけど、それは家族の前だからだろ
う。うん、許すわ。
﹁⋮⋮﹂
ぎゅ、と握られた。握り返す。
﹁⋮⋮七海﹂
にぎにぎしながら照れ顔の皐月が私の顔を覗き込んでくる。
﹁なによ﹂
﹁すっごい、好き﹂
にこっと笑った皐月、すごく可愛い。
心臓がドキドキを通りこしてバクバクと脈を打ち出す。
﹁私も⋮好きよ﹂
1297
皐月のおでこにキスする。手を握り直して、指と指をからめる。
皐月はちらとその手を見て指を動かしながら、はにかむように笑う。
﹁⋮えへへ、照れるな﹂
﹁、⋮皐月﹂
﹁なーに?﹂
答えずにキスをする。頬にこすりつけるように何度も唇をあてて、
唇にも何度もぶつける。
﹁ん、くすぐっ、ん、ぅ﹂
体をひこうとする皐月に、私はお尻をあげて覆いかぶさるみたいに
して、何度も何度も唇を皐月の口元にくっつけた。
﹁⋮はぁ、はぁ﹂
唇を離す。気づかないうちに息があがっていた。
いつの間にか皐月はベッドに倒れ込んでいて私も膝でベッドに乗り
あがり、上から殆ど押し倒すような形になっていた。
﹁はぅ⋮﹂
至近距離で見つめあうのに照れたのか皐月は目をそらした。
﹁うなっ﹂
鼻の頭にキスしたら皐月は変な声をあげて、空いてる右手で鼻を隠
した。
なんだかおかしくなる。鼻は隠しても、皐月の左手は私の右手と繋
1298
がったままで、拒否しているのではないとわかる。
﹁ぅぅ⋮七海、キス魔だ﹂
そんなことはない。私はただ皐月が好きで、その気持ちがあふれて
しまってキスで表しているだけだ。
﹁好きだからよ。皐月は私とキスしたくないの?﹂
﹁ぅ⋮七海のいじわる﹂
﹁そんなことないわよ﹂
﹁あるよ⋮⋮ん﹂
皐月が顔をあげて私と唇をあわせる。
ゆっくりとキスをして、頭を降ろして離した。
﹁七海、ドキドキしてる?﹂
﹁心臓が爆発しそうだわ﹂
﹁あは⋮俺はもう、爆発してるよ﹂
さっきからずっと心臓がうるさくて、テレビの音も聞こえない。く
っついているから私と皐月の心音がまざって聞こえてどれがどれだ
かわからない。
﹁あー⋮なんかもう、死にそう﹂
﹁死んだら駄目よ﹂
﹁わかってる。七海﹂
﹁ん?﹂
﹁その、どう⋮するの?﹂
﹁なにが?﹂
1299
皐月がなにを言いたいかはわかっていた。でもあえて聞き返す。
﹁えっと⋮⋮とりあえず、起きない?﹂
﹁いや﹂
﹁⋮⋮でも、このままっていうのも、しんどいだろ?﹂
﹁このままじゃ、嫌?﹂
﹁⋮⋮嫌って言うか⋮﹂
もごもごと口の中で呟いてるけど、聞こえない。というか、聞いた
って大した内容じゃないだろう。
だから私ははっきり言うことにした。
﹁皐月、私は今あなたを性的に抱きたいと思っているわ。どう思う
?﹂
﹁⋮⋮⋮お前、男前すぎるだろ⋮﹂
﹁私だって恥ずかしいわ。でも私素直だから、伝えずにはいられな
いの﹂
﹁嘘つけ、意地っ張り﹂
﹁黙りなさい﹂
﹁いや、おま−むぅ﹂
反論があるようなのでキスをして実力行使で黙らせた。
﹁⋮反則だろ﹂
﹁馬鹿なことを言わないの。私がルールよ﹂
﹁なら聞く必要ないだろ﹂
﹁私はあなたに言わせたいのではないわ。確認をしたいだけよ﹂
﹁言わせたいのかよ。悪趣味だぞ﹂
﹁失礼ね。で? 嫌なの?﹂
1300
確かに言わせたいというのはある。恥ずかしがってる皐月が真っ赤
な顔で性的な単語を口にすることを思うとぞくぞくする。
でもそうでなくとも皐月が嫌がることはしたくないから確認の意味
は大きい。皐月にはトラウマがあったのもあるし、普段と変わらな
いくらい軽いようだが生理だから。
﹁⋮⋮い⋮いぃ、よ﹂
﹁どっちのいいよ﹂
﹁だからっ⋮嫌じゃ、ない。いいよ﹂
﹁本当に? とりあえず皐月は生理だからショーツは脱がない方が
いいけど、私今、結構興奮してるから途中で脱がす可能性もあるわ
よ﹂
﹁いいよ。血は出てるけど痛さとかないし⋮その、七海なら、全然、
大丈夫だから﹂
全然の使い方についてツッコミをいれようかと思ったがやめた。
真っ赤になって顔を横に向けながら私をちらちら見てくる皐月が可
愛いのでもうそれでいいわ。
NoProblem。全然大丈夫だわ。
﹁皐月、好きよ﹂
キスをしてあわせた唇。このままでもやわらかくて暖かくて心地好
いけどそれじゃ足りない。
﹁んっ!?﹂
唇をあわせたまま隙間から舌をだして皐月の唇に触れるとびくっと
皐月の体が震えた。
中断し顔を離す。
1301
﹁大丈夫?﹂
﹁ぅ、ん。ちょっとびっくりしただけ。前みたいに恐くは⋮ない、
かな。トラウマ、やっぱ克服できてたみたい﹂
﹁あら、違うわよ﹂
﹁え、なにが?﹂
﹁恐くないのはあなたが私を好きだからよ﹂
﹁⋮⋮そっか、なるほど﹂
皐月はぽかんとした表情になったけどすぐににこっと笑った。
テキトーに言ったのだけど納得してくれたようだ。とてもいい具合
に私を好きらしい。
﹁じゃあ、キスするわよ﹂
﹁う、うん﹂
改めて宣言すると皐月はきゅっと目を閉じた。力が入りすぎて眉間
にシワがよっている。
﹁くすっ﹂
おかしいし、愛しい。
眉間にキスをした。
﹁! ⋮⋮な、なんだよ﹂
﹁したいからしただけよ﹂
指で眉間を押さえた皐月に笑いながら今度こそ唇にキスをする。
舌でそっと皐月の唇を押し、割って歯を嘗めた。
ちょっとしょっぱい。
1302
皐月がぷるぷる震えてるのがおかしくて、ちゅぅぅって皐月の唇を
吸う。
﹁っ⋮﹂
またぴくって反応した。ずっと握っている手がさらに強く握られた。
私も握り直す。
暖房は低め設定なのに体がほてって手が汗ばんできた。
皐月の歯がひらいたので舌を差し込むと舌にあたった。
舌は思ってたよりぬるぬるして熱い。一瞬ひっこめそうになったけ
ど、ゆっくりいれた。
﹁ぅ、ん⋮﹂
皐月と押し合うようにして舌をからめる。
さっきからとまらない涎がたまって、ついに舌をつたって皐月に流
れこむ。
ぴちゅと湿った音がして唇から唾液の固まりが落ちた。
顔を少しだけあげて目を開くと私と皐月に糸がひいていた。
﹁⋮皐月、飲んで?﹂
﹁ん、んく⋮⋮口にあるのは大丈夫だけど、飲むのは、変な感じ﹂
喉をならして飲み込んだ皐月は熱に浮されたような顔をしていた。
私もこんな顔をしているのだろうか。
じゅぅ、と私の局部から熱いものがもれたのを感じた。
熱い。体が熱い。
1303
皐月ともっとエッチなことがしたいと、発情しきった私の体が訴え
る。
だからここまできて何を馬鹿なと思われるかも知れないけど、皐月
に言わなきゃいけない。
﹁皐月﹂
﹁うん⋮﹂
﹁ここから、どうするか、あなた知っていて?﹂
皐月を押し倒しておいて今更ではあるが、エッチって何をどうすれ
ばいいのか、実はよく知らない。
﹁⋮⋮え?﹂
ぱちぱちと瞬きをしながらも色気を撒き散らす皐月に、急に恥ずか
しくなった。
○
﹁ここから、どうするか、あなた知っていて?﹂
一瞬言われた意味が理解できなかった。
どうするかって⋮つ、続きを? ⋮言われても、男女ならともかく
女同士はいれるものないし⋮⋮69とか?
1304
﹁⋮えー、と、知らないの?﹂
﹁⋮あんまり﹂
﹁⋮⋮﹂
七海はよく知らないまま抱きたいとか言って俺にキスしまくってい
たらしい。
最初から顔は赤かったが、今度は無知を恥じらってるのか、さっき
までの余裕はどこへやら、沈黙しだした。
それを見て興奮はおさまらないけど少しだけ冷静になる。一応、知
識としてなくはないけど。俺、自分でしたこともないし。
﹁あ、そうだ⋮七海は、その、自分でしたり、する?﹂
女の子もするって沙理奈が言ってたし聞いてみた。
﹁しっ⋮⋮しな⋮し、したこと⋮ある、わ﹂
あ、あるんだ。
七海は視線を泳がせながら否定しようとしてやっぱり肯定した。
﹁じゃあ、そんな感じで?﹂
﹁⋮⋮そう言われても⋮﹂
﹁とりあえず、脱ぐ?﹂
﹁⋮ん﹂
七海は急に大人しくなって頷き、手をといて起き上がって座り直す。
さっきなら俺を剥きそうな勢いだったが、急に我に返ったのか。
まぁこの方がじっくり七海を見れるからいいけど。
1305
俺も起き上がり座り直す。
繋ぎっぱなしだった手は冬だっていうのにかなり汗ばんでいた。
服で軽く手を拭いてから脱ぐ。
脱ぐのは恥ずかしい。恥ずかしいけど、体が熱くて、とまらない。
ゴソゴソときぬ擦れの音が、自分も発してるのに何故かなまめかし
く聞こえる。
とりあえず下着姿になる。七海もそこでとめて、見つめあう。
抱き着く度に思ってたし、一緒にお風呂に入った時にもひそかに感
心してたけど⋮改めてデカイな。
﹁⋮⋮⋮ぬ、脱がせようか?﹂
﹁⋮そうね、お願いするわ﹂
七海は少し余裕を取り戻したのか落ち着いた声音で答えて胸を張り
気味にして俺に向いた。
逆に俺はちょっと単調になりかけた心臓がまた高鳴りだした。
震えそうになる手を動かして正面から抱きしめるように手を七海の
背中にまわす。
﹁ん、あれ?﹂
ブラのあたりをなぞるけど、ホックに当たらない。気持ちが焦って
くる。
﹁ちょっと、く、くすぐったいわよ﹂
1306
﹁あ、ごめん。ちょっとわかんない﹂
﹁馬鹿ね、見てわからない?﹂
﹁え?﹂
﹁これホック、前よ﹂
言われて胸の谷間、じゃなくてブラの前を見るとリボンの下に金具
があった。
こんなところに。気づかなかった。
俺は手を戻してホックに⋮⋮どうしても胸に手があたる。
﹁⋮⋮﹂
七海は視線ははずしてるけど何も言わないから触っても大丈夫なん
だろうけど、ブラごしでもぷにぷにして気持ち良くて緊張する。
しゅ、集中するんだ。顔をよせて胸が目にはいらないようにして手
を動かす。
﹁っ⋮うわぁ﹂
なんとかホックをはずすとぷるると七海の胸が震えた。
デカイ。なにこれ。近くで見たら大迫力すぎ。これが3Dか。
﹁やっぱ、おっきいなぁ⋮﹂
下からそっとそれぞれ持ち上げる。重い。巨乳は肩が凝りやすいと
いうのはきっと事実だ。
めちゃくちゃ柔らかい。
指を動かすとちょっとくいこむし上側まで動きがすごい伝わる。
1307
﹁⋮じっと見ないで。恥ずかしいわ﹂
﹁う、うん﹂
そうだ。見てないで⋮えっと、とりあえず舐めよう。
左胸を痛くない程度につかんで固定し、ぺろっと固くなっている先
を舐めた。
﹁ひきゅっ⋮やぁ、ん﹂
七海の高い声が耳の奥をついた瞬間、なんだかたまらない気持ちに
なって先を口に含んだ。
﹁ん⋮ふ、ぅん﹂
先を舌でころがす。七海の息が熱をおびる。
自制がきかなくて俺は涎をぬりつけるように舐めたおす。
ぴちゃぴちゃという水音が異様に卑猥に感じられる。
空いてる左手で七海の右胸をつかんだ。むにゅうと面白いように形
がかわる。
﹁ぁ⋮ー、っー﹂
舐めてる間七海はずっと声にならないようなか細い矯正をあげてい
る。普段は聞けない高く甘ったるい音がさっきから頭の中で反響し
てリピート再生されまくって、もう七海の体のこと以外考えられな
い。
七海の肩を抱いてキスをして、今度は俺が押し倒す。
1308
ぽすっとベッドに倒れたまま七海の顔面を舐めた。
もう自分でも興奮しすぎて何をやっているのかよくわからない。
唇も鼻も頬もまぶたも耳も舐めて涎でべたべたにした。
七海は黙ってるけど時折ぴくぴくと身もだえるように反応する。
﹁あんっ、⋮ばか﹂
耳の穴に舌をつっこんだら驚いたのか大きな声をあげて慌てて自分
で口をふさいで、ちょっと睨んできた。
﹁可愛いよ、七海﹂
﹁もう⋮﹂
七海はもじもじしてる。続きをするべきかな。それとも⋮下に手を
かける? よくわからないけど舐めればいいかな。舌なら最悪傷つ
かないし。
﹁七海、お尻あげて﹂
﹁⋮⋮﹂
ショーツのふちに手をかけて言うと七海は顔をそらしながら膝を立
ててお尻を少しあげた。
俺はお尻からずらしてから七海の足元に移動し、閉じられた膝のま
まそっとショーツを脱がせた。
臭くはないけど強めの臭いがふんと鼻をくすぐった。けしていい臭
いじゃなく生々しい、嗅いでるだけでむずむずする臭いだった。
脱がしたショーツのクロッチ部分は光を反射するほどぬめぬめした
1309
ものがたまっていた。
﹁すごい、濡れてる﹂
﹁ばっ⋮なんでも言えばいいってものじゃないわよっ。黙りなさい﹂
﹁ご、ごめん。とりあえず、開くな﹂
ショーツは置いて膝に手をかけ、左右に開いた。
生まれて初めて真正面から見た女性器は−
﹁グロいな﹂
てかてかしてぴくぴくして内蔵っぽい色をしていてグロい。そして
めちゃめちゃエロい。
﹁こ−べぼばっ!?﹂
素直に言葉が出て一拍後、七海に思いきり顔面を蹴られた。ひっく
り返る勢いでベッドから落ちた。
﹁ばかっ! ばかばかっ、皐月の馬鹿!!﹂
混乱して現状を把握できないまま何かが勢いよく降ってきた。
掴むと枕だった。顔をあげると七海は服を着だしていた。
﹁あ、や、七海、今のは⋮﹂
﹁黙りなさい。もう知らないっ﹂
七海は服を着るとソファに置いてた鞄をとった。
1310
﹁え、ちょっ、どこ−﹂
﹁お風呂借りるわよ!﹂
﹁⋮はい﹂
七海は俺の声を遮り怒鳴ると部屋をでていった。俺が返事をする時
にはドアは閉まったから多分聞こえなかっただろう。
﹁⋮あーー⋮しくった﹂
一人になった部屋で頭を掻きながら立ち上がる。
今のは俺が悪かったなぁ。でも、あんなに怒らなくてもいいのに。
ベッドは乱れに乱れてさっきまでの痴情の余韻を残していた。そこ
に座ると、七海の姿が否応なしに思い浮かぶ。
じわじわと何かがもれる。経血だろうけどそれだけじゃない。
﹁⋮ん﹂
むずむずして下着の上から指をはわせた。ナプキンをしているので
強く指で押すようにして刺激する。
﹁⋮ー﹂
あ、これなんか、気持ちいいかも。
○
1311
1312
リベンジ︵前書き︶
前話と合わせ連続投稿です。
こちらは当然ですが前話の続きであり、性的な描写が存在します。
むしろ本番です。
前書きが前話と重複しますが、もう一度お願いします。
アウトな場合はカットしますのでどなたかお知らせ下さい。不安な
のでこれは大丈夫、余裕でセーフという場合もお願いします。
今後書く小説の目安にします。
1313
リベンジ
シャーー
頭の先からシャワーを浴びて、どのくらいたったか、体のほてりは
すっかり取れた。
取れたが、恥ずかしさと悲しさと悔しさと腹立たしさが胸の中でぐ
つぐつ煮だっていてなんだかむしょうに叫びたくなる。
考えて見れば、私は一応洗ってはいたが、しっかり見たことはなか
った。
髪も体毛は全て手入れ、処理をするのにこの⋮陰毛だけは特に手を
加えていない。
よく考えれば私の股間部分はとても酷いことになっているのではな
いだろうか。
女だってたとえば脇毛は生えるし処理をしないと見苦しい。ならば
下の毛も処理しないと見苦しいにきまっている。
なにも手を加えないなんていう、いわば無法地帯を皐月に思いっき
り見せてしまった。
も、もしもの話だ。私には見えないが、お尻の方まで毛が生えてい
たとしたら? 確実に幻滅される。
あああああああっ、もう消えてしまいたい! 私本当なにしてるの
よ!
﹁あ゛ーー⋮﹂
欝だ。
1314
﹁あららー、死にかけのセミみたいな声ねぇ﹂
﹁っ⋮ゆ、優希さん﹂
﹁そんなに驚かないでー? 場所教えたの私じゃない。二人といわ
ず10人くらいはいれる大きさだしぃ﹂
﹁そ、そうですけど⋮﹂
声とともに戸が開きにこにこした優希さんが入ってきて、なんでも
ないみたいに私の隣のシャワーをとりひねった。
﹁はー。七海ちゃんは、先に体洗う派? 中で温まってから洗う派
?﹂
﹁えー、と、決めてないですけど、今は先、です。﹂
﹁そうよねぇ。先に洗わないとお湯汚くなっちゃうもんねぇ﹂
﹁え⋮はぁ﹂
それは考えてなかった。
お湯が汚れたならまた新しくすればいい話で学園のは常に入れ替え
式だし、家では私しか使わないから。
でもそういう考えもあるのね。言われてみれば掛け湯だけじゃ綺麗
になるには足りない。
優希さんがシャワーをとめて体を洗いだしたので、とりあえず私も
シャワーをとめて体を洗うことにした。
﹁ね、七海ちゃん﹂
﹁はい、なんですか?﹂
﹁七海ちゃんっておっぱいおっきいわよねぇ。触ってもいい?﹂
﹁ぶっ⋮は、はい?﹂
﹁えいっ﹂
﹁あ、ちょっ﹂
1315
優希さんは突拍子もない言葉に思わず吹き出し聞き返す私に頓着せ
ず、私の胸を持ち上げだした。
﹁おー﹂
﹁いや、いや、待って下さい。優希さんの方が大きいじゃないです
かっ﹂
﹁自分のと人のは別よ﹂
﹁⋮⋮わかりますけど﹂
﹁あ、触る?﹂
﹁結構ですっ﹂
な、なにこのノリ。ていうか本当にこの人若いわね。
優希さんはざーんねん、と全く残念でなさそうな笑みのまままた体
を洗う。
何だか疲れつつ私も体洗いを再開する。
﹁で?﹂
﹁え?﹂
﹁皐月ちゃんとなにがあったの?﹂
手はとめないで顔も見ないままさりげなく聞かれた。
でもさすがに、言えることと言えないことがある。
﹁⋮別に、なにもありません﹂
﹁うっそだー。なにもないなら皐月ちゃんは七海ちゃんと一緒にお
風呂はいるわ。絶対よぉ﹂
﹁⋮⋮﹂
1316
答えづらすぎるので無言でごしごしと体を洗っていると、優希さん
もふぅと一息ついてから無言になった。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
な、何だか、凄く気まずい。
優希さんをちらっと見ると相変わらず笑顔だった。そういえば私は
優希さんの笑顔以外見ていない気がする。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮♪﹂
﹁!﹂
は、鼻歌! めちゃくちゃ普通だわ⋮。私だけが気まずいの?
⋮⋮⋮よく考えたら、私だけが気まずいわ。
﹁ねぇ﹂
﹁はっ、はい﹂
﹁もう体流していー? たぶんそっちにも水飛ぶけど﹂
﹁ど、どうぞ﹂
離れればいいと思います、とは言えなかった。
私もちょうど体が終わったのでシャワーをだして流す。
次に髪だ。
髪を洗っている時にも優希さんは鼻歌を歌っていて、私はひたすら
気まずかった。
1317
﹁じゃ、お先に湯舟いただくわね﹂
﹁はい﹂
優希さんが先に髪を洗い終わり、浴槽に向かった。
私は少しほっとしながら髪を洗い続けた。
﹁♪﹂
﹁⋮⋮﹂
さて、髪を洗った。お湯にはいらないようにまとめた。
あとは浴槽につかるだけだが⋮ど、どこに入ろう。露骨に離れては
不自然だし、やっぱり隣、よね。
私は意を決して優希さんと間一人分あけて隣に入った。
﹁あ、いらっ、しゃーい﹂
﹁⋮どうも﹂
何故か独特のイントネーションで歓迎された。
﹁はぁ﹂
ゆっくり手足を伸ばすと思わず声がでた。
﹁ねーねー、七海ちゃん﹂
﹁なんですか?﹂
﹁皐月ちゃんと寝た?﹂
﹁っ⋮⋮な、なに言ってるんですか?﹂
﹁うーん、声裏返ってるしぃ、さしずめ途中で気まずくなったとか
?﹂
﹁⋮⋮﹂
1318
﹁私の最初もねー、大変だったのよ。私ほら若かったし。あ、皐月
ちゃんから聞いてる?﹂
﹁ええ⋮優希さん、ずいぶん若いですものね﹂
彼女は少し信じられないくらい若い。逆算して当時の年齢を考える
とよく子供を産む気になったと驚くくらいだ。
﹁そうなのよぉ。あの人は年上だからそれなりに経験もあったみた
いだけど、私小学生だしねぇ。気遣いしあうこともなんだかちぐは
ぐになっちゃって、皐月ちゃんには内緒だけど最初は結構白けた雰
囲気だったのよねぇ﹂
﹁⋮はぁ﹂
内緒というか、普通は子供に言わないし普通は子供の恋人にも言わ
ないと思う。
﹁だからまー、ちょっとくらい気まずくても気にしないで、何事も
なかったみたいにすればうまくいくわよぉ﹂
﹁そ⋮そうですかね﹂
﹁そうよぉ﹂
確かに、このままスルーすれば皐月もきっと合わせてくれるだろう。
出ていく瞬間も気まずそうな顔をしていたから失言をしたと思って
いるのだろうし。
でも⋮だからって私は⋮
﹁⋮⋮優希さん﹂
﹁なぁに?﹂
﹁お願いがあります﹂
1319
顔をあげ真正面から真顔で言うと、優希さんは笑顔のまま首を傾げ
た。
﹁ぇへへへ、未来のお母さんに、言ってごらーん?﹂
もしかして⋮酔ってるのかしら?
○
﹁うーあー⋮﹂
人生初の自慰行為をしてしまった。しかも初エロ中に失言で怒らせ
てすぐとか、反省してねーな。
あー、やばいわ。てか俺に性欲があったことにびっくりしてるわ。
生理きたりするしなんか、いっきにキャラ変わってね? これがト
ラウマ解消効果なのか? それとも単に、恋したから変わったのか?
﹁⋮うあーっ﹂
なに言ってんだ俺っ。いや口にだしてないけど!? けども! ハ
ズい! ハズすぎるわ!
ベッドの上で枕を顔に押し付けながらゴロゴロと自己嫌悪する。
1320
なにやってんだよー。あー、絶対嫌われたー。もう無理ー。
コンコン
ドアがノックされた。びっくりして思わず飛び上がって正座した。
テンパりながら声をあげる。
﹁だっ、誰っ!?﹂
﹁⋮−−よ﹂
防音ではないけどドアが分厚いのでくぐもった声しか聞こえない。
でも何となく七海だとわかった。
ベッドからジャンプして降りて駆けるように急いでドアを開けた。
﹁あ、あの⋮おかえり﹂
﹁⋮ふふ、ただいま﹂
不機嫌そうに眉をよせてた七海だけど思い切って挨拶するとくすっ
と笑って返してくれた。
ちょっとだけ、新婚さんみたいかも、なんて、乙女みたいなこと思
ったりして自分で照れくさくて頭をかいた。
﹁その枕は?﹂
﹁え、あ、な、何でもないよ?﹂
指摘されて持ちっぱなしだった枕はさっとベッドに投げた。
﹁埃がたつからやめなさい﹂
﹁ご、ごめん⋮えっと、テレビでも見ようか?﹂
ずっと電源がはいったままのテレビを指しながら、俺は恐る恐る七
1321
海をソファの方に促す。
どうやら怒りは冷めたらしいが再びトライするほど俺はKYじゃな
い。
ベッドは避けてできるだけ話を逸らそう。最悪ベッドで寝ない。
﹁えっと、紅茶、持ってこようか?﹂
﹁いいわよ、テレビ消して﹂
﹁え⋮﹂
ソファに座った俺を無視して七海は部屋に入ってドアを閉めるとま
っすぐにベッドに座った。
なんでもないみたいな態度に思わず呆気にとられて七海を見る。
﹁鞄はここでいい?﹂
﹁あ、ああ﹂
腰をあげて鞄を机に置いてからまた座ると七海は俺を怪訝そうに見
遣る。
﹁何してるのよ、ほら﹂
ぽんぽん、と自分の隣を叩いて俺を促した。
﹁あ、うん﹂
慌ててテレビを消して七海の隣に行った。座るのにちょっと間をあ
けた。
といっても人一人分もない友人として有り得る距離感だ。特におか
しくはないだろう。
1322
﹁遠いわよ﹂
﹁え⋮そんなこと、ないだろ?﹂
なのに七海が微笑むでもなくどこかむすっとした顔のままぐっと寄
ってきて、どう反応すればいいかわからなくて戸惑ってしまう。
﹁⋮皐月、私のこと好き?﹂
﹁え⋮も、もちろん。というか、何回確認するんだよ﹂
﹁何回だっていいでしょう。好きなら好きと言いなさいよ﹂
﹁す、好きです﹂
﹁そう⋮﹂
真顔からほっと安堵したように少しだけ微笑んだ七海に何とか笑み
を返すけど、多分めちゃめちゃ情けない顔だ。
﹁皐月﹂
﹁は、はい﹂
﹁その⋮さっきのあれは忘れなさい﹂
あ、あれ⋮あれってのは多分、蹴ったこと、だよな。そんなの気に
してないのに。
﹁わかった。てか気にしないで。俺が悪かった﹂
﹁いえ。とにかく⋮さっきのは忘れて、今から見せるのを、上書き
させなさい﹂
﹁? なにを見せるって?﹂
﹁その⋮だから⋮⋮、そこでじっとして動かないで﹂
七海は一度視線をはずしてからすっと強い目つきになって立ち上が
った。
1323
﹁な⋮なに?﹂
﹁いいから、動かないのっ﹂
﹁あ、うん⋮﹂
七海は睨むようなキツい顔つきで俺の真正面にたつと、スカートの
裾を両手で握った。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
な、なんだ⋮?
珍しく子供みたいな、拗ねてたり怒ってる時の格好だけど、理由が
皆目検討もつかない。
﹁っ⋮い、いくわよ?﹂
﹁う、うん、どんとこい?﹂
怒られる? 叩かれるかも?
とちょっとびくびく。
﹁っ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
ばっ、と七海は手を胸まであげた。
当然スカートはまくれあがり、でもパンツは見えない。
つまり、ノーパン。そして何故か、毛がなくなってた。
﹁な、あれ? 毛は?﹂
1324
﹁これなら、見苦しくないでしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
別に、元々見苦しくはなかったけど。てか、全剃り?
七海がスカートをまくってることもノーパンのことも何もかも非現
実すぎて混乱する。七海、こんなキャラだった?
﹁お、思い切ったね﹂
﹁⋮さっき、優希さんにあって、ね? お願いしたの﹂
﹁え、うええ!?﹂
もしかして母さんにやらせたの? え、なに? なに人の母親にや
らせてんの? あまりに非常識すぎる!
﹁なんでやらせたの!?﹂
﹁だって、見えないから怖いじゃない?﹂
﹁そ⋮そうかも知れないけどさぁ﹂
﹁それよりもういい? 上書きしたわね?﹂
﹁あ、ああ﹂
﹁ふぅ﹂
頷くと七海はようやくスカートを降ろした。
驚きすぎて固まったままスカートの上からも見ていると手で隠され
た。
視線をあげるとなんか怒ってた。眉を逆ハの字にしてる。
﹁⋮皐月のえっち﹂
﹁いや、なんかもう⋮どこから突っ込めばいいかわからん﹂
﹁まぁ、皐月がどうしてもっていうなら、さっきの続き⋮してあげ
なくないわよ﹂
1325
したいらしい。
そっぽを向きつつの照れ顔とセリフにドキドキしてきたけど、さっ
き自慰したからちょっと冷静だ。
俺に対して高ぶってるのはそれだけ好きってことだし嬉しいとは思
うけど、さっきトイレでナプキン変えたのにも現実に戻されたしあ
んまりそう言う気分じゃない。
﹁あー、とりあえず⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮スカートめくって﹂
手をひき七海をベッドにあがらせながら言う。
とりあえず七海も一回イッたら落ち着くだろ。
﹁⋮、ばか⋮直球すぎよ﹂
言いながらも七海はスカートをまためくった。
なにこいつ可愛い。
素直な七海に、何だかまた興奮してきた。
﹁とりあえず、見ていい?﹂
﹁⋮好きになさい﹂
﹁じゃ、膝立ちして足開いてー﹂
﹁ぇ⋮い、いいわよ﹂
とても素直すぎて何だか悪戯心がわいて来た。
膝立ちになった七海のまたぐらに、寝転がって仰向けのまま頭を突
っ込んだ。
1326
多少影になってるけど七海がスカートをあげてくれているのでよく
見えた。
﹁⋮ちょっと、これは、さすがに、恥ずか−ひゃっ﹂
皆まで言わせず、スカートの下に手をいれて片手で太ももを撫でな
がらもう片方でぺち、と七海のお尻を叩いた。
そのまま撫でる。お風呂上がりの七海の体は温かくて、お尻もまた
柔らかくて触り心地がとてもいい。
﹁こうやって見ると、二つの穴って結構近いんだね﹂
見られて興奮してるのか、それともこれからのことを思ってか湿っ
ている。
俺は何故かこんな生々しいところを見て、七海がとても愛おしいと
思った。
﹁⋮⋮ひどい下ネタだわ﹂
﹁あー、単なる感想だから気にしないで﹂
﹁っ⋮ちょっと、何かするならするって言いなさいよ﹂
顔の横にある太ももを舐めたら足で頭を挟んで怒られた。元々挟ま
ってたくらいなので味に痛い。
﹁ごめんー﹂
触れてる髪の動きでわかりそうなものだけどなぁと思いつつ謝罪す
ると力が緩んだ。これ幸いと脱出する。
スカートがおろされて七海は腰をおろす。
1327
うーん、七海お風呂あがりだしあんまり汚さないでいようと思った
けど舐めてしまった。
どうも自分の中にとりあえず舐めとけって感じがある。
﹁七海﹂
﹁なによ﹂
﹁さっきみたいなキス、しようよ﹂
﹁⋮馬鹿、おねだりの下手な子ね。そういう時は、こうして⋮﹂
七海は言いながら俺の首に腕をまわして顔を近づける。
﹁黙って先に目を閉じなさい﹂
そう言って七海が目を閉じた。手本だからと言って七海が誘ってど
うする、と思わないでもないけどこれは確かに効果的だ。
少なくとも自分からキスをしたくなる程度には。
﹁ん⋮﹂
唇を合わせると急かすように七海は舌を突き出してきた。
それを受け入れて、よだれが口の端から溢れるまで舌をからめあう。
ぐぴゅ−変な空気の抜ける音をたてながらよだれがもれる。変な音
なのに、興奮した。
このぬるぬるした感じが興奮させるんだろうか。水音がやたらえっ
ちに感じる。
﹁ちゅ、ん⋮はぁ﹂
﹁んぷ、はぁ、はぁ﹂
唇を離すと鼻で呼吸していたはずなのに二人とも息があがっていた。
1328
途中から興奮しすぎて忘れてたみたいだ。
﹁ふふ⋮さっきより上手よ﹂
七海は腕を解いて後ろに手をついて微笑んだ。
まだ二回目なのに何を基準にしてるんだ。俺はこのキスをすると必
死すぎて気持ちよすぎて訳わかんないのに何だか余裕の七海はずる
い。
﹁ねぇ皐月、ここ、舐めたい?﹂
さっきからずっと真っ赤な顔なのに悠々とした態度で七海はスカー
トを片手で持ち上げて妖艶に言う。
七海だって俺と同じくらい興奮してるのは明白なのに、どうして七
海はこんなに余裕なんだ。
俺なんか、意味もなく酸欠になりそうだっていうのに。
焦りのような気持ちがわく。
でも七海の言葉に反抗しようなんて思わない。俺はこくこくと頷い
た。
﹁ふふ、いいわよ。好きにして﹂
言われてやや戸惑いながら身をかがめた。
スカートの裾に後頭部が触れるのがぴりぴりするくらい俺を緊張さ
せた。
頭をあげ舌を突き出して、そっと肌に触れる。
1329
﹁んっ、ふぅっん﹂
少しだけあがっておへそにふれると嬌声をあげた。
﹁ん、ふーっ、っ、ちょっと、それ⋮あっ﹂
中にいれて動かすとしょっぱい。くすぐったいのか腹筋をぴくぴく
させながら身をよじりだしたのでやめる。
﹁はぁ、もう。くすぐったいから、そういうのは駄目よ。禁止﹂
﹁ん﹂
スカートの上から頭を叩かれた。そのままスカートは俺にかかり、
七海は両手を俺の頭にそえた。
頭をさげ舌ですでに湿っている割れ目に触れた。七海は覚悟をして
たのか声は出さなかったけど、予想以上の衝撃だったのかがっと体
ごと俺の顔に押し付けてきた。
苦しくなったしどこがどうかなんてわからないけどとにかく舌を動
かした。
ぐいぐいと顔を押されるのに頭にある七海の手は逆にベッドに押し
付けるように下に押すから、俺は呼吸ができないくらいだ。
﹁っ−−−−んっ﹂
息も絶え絶えにしばらく舌を動かすと七海は突如びくびくっと震え
てより強く俺を挟みこんだ。
﹁⋮はっ、あ⋮はぁ﹂
1330
一拍後、息も荒いまま七海はようやく力を抜いた。
俺は頭を抜いて起き上がり、はあぁと大きく息を吸った。軽く死ぬ
かと思った。
ぱた、と七海はベッドに倒れた。反動で足があがり膝が立つ。閉じ
られた膝の頭は子供みたいに綺麗なものだった。
﹁ふぅ⋮⋮満足した?﹂
七海の隣に寝転がって尋ねる。七海は俺に顔を向け微笑んだ。
﹁ええ。次は皐月にする?﹂
﹁や、俺生理だしいいよ﹂
﹁あら、私は舐めれるわよ﹂
﹁やめてください。俺も満足したから大丈夫だよ﹂
﹁そう? ならいいけど﹂
確かにさっきは再び体は熱くなってたけど、疲れたし七海が満足し
たみたいなので別に俺はイかなくても気持ちが満足で落ち着いてる。
﹁と⋮俺風呂入ってくる。先に寝てていいから﹂
﹁駄目よ、待ってるから﹂
﹁ん、了解﹂
お風呂に行って戻ると、七海はさっきと位置が違うけどベッドで寝
ていた。
隣で鞄が空いている。スカートをめくるとパンツが途中まではかれ
ていた。
どういうタイミングで寝てるんだ。確認する俺も俺だが。
とりあえずきちんとパンツをはかせ、鞄はどけて電気を消して寝た。
1331
夢は見なかった。
○
1332
リベンジ︵後書き︶
いかがだったでしょう。
露骨なエロ単語は避け、ぼかした表現かつ下半身は簡単に流したの
で15禁ではないと思います。
どなたか判断をお願いします。
1333
このマザコンがっ︵前書き︶
前話については特になかったようなので、つまり﹃指摘するまでも
なく明らかにセーフ﹄ということだと解釈しました。
1334
このマザコンがっ
目を開けた。
﹁おはよう﹂
﹁⋮⋮﹂
何か金にまみれた生き物が微笑んでた。
﹁? 寝ぼけてるの?﹂
﹁⋮⋮あ?﹂
なんで七海⋮あ。
﹁⋮あー、おはよう﹂
思い出した。思い出した。あー⋮⋮思い出した。
﹁おはよう﹂
﹁うん⋮おはよう。⋮⋮﹂
﹁なに顔を赤くしてるのよ﹂
﹁う、そんなこと言われても⋮だって⋮⋮照れる﹂
顔が熱いから自覚してるけど、指摘しなくてもいいのに。
七海はにやにやしだした。さすが七海、性格悪い。
﹁そうかしら? 思い返すと私ばかり露出してたしやられっぱなし
だったじゃない。生理だから下は仕方ないけど、上は脱がせばよか
ったわ﹂
1335
﹁ちょっ⋮⋮ま、また、今度、な﹂
﹁ふふん、言ったわね。次は私がするからね﹂
﹁う、うう⋮﹂
な、なんで朝からこんな恥ずかしいこと言わなきゃいけないんだ。
素面で言わせるとか拷問すぎ。
﹁とにかく、起きるぞ。てかいま何時?﹂
﹁8時ね﹂
﹁ふぅん、思ったより早く起きたな﹂
﹁そうなの? お寝坊さんね、冬休みでも私はいつも7時に起きて
るわよ﹂
﹁今日も?﹂
﹁もちろん﹂
﹁⋮もしかしてずっと俺の顔見てたとか?﹂
﹁まさか﹂
くすくす笑われてばつが悪くなって頭をかいた。
自意識過剰だったか。いやでも目が覚めた時見つめ合ってたしさぁ。
昨日ああだったし、勘違いしちゃうだろ。
﹁ただ見てるだけなわけないじゃない﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁詳細は省くけどごちそうさまと言わせてもらうわ﹂
﹁な、なにしてんだよ﹂
﹁仕方ないじゃない。好きなんだもの﹂
﹁あー⋮なんか、お前ずるい﹂
七海ばっか余裕すぎ。態度見たら俺ばっか好きみたいなのに、普通
に七海も俺のこと好きだから文句も言えないし、なんか悔しい。
1336
﹁ずるくないわよ。早起きは三文⋮いえ、今日に限っては三万くら
い得したわね﹂
﹁高いな﹂
﹁もちろん、ドルよ﹂
﹁なに得意げに言ってんの!?﹂
﹁ふふふふ﹂
﹁テンションおかしくない?﹂
﹁おかしくないわよ。ただ、あなたが好きすぎてちょっと浮かれて
るのはあるかも知れないわ。うーん⋮若さ故のとかで後悔したくな
いし、やっぱり抑えた方がいいかしら﹂
﹁や、あー、まぁ、そういうことなら、いいんじゃない? てか、
俺だって、七海といたらテンションあがるし﹂
﹁本当かしら。皐月って妙にさめてる気がするけど﹂
﹁いやいや、ないない﹂
そりゃ他に人いたらともかく、二人っきりだとかなりドキドキする
って。今だって七海が恋人とか夢みたいに嬉しいし。
﹁そう? ま、いいわ。とにかく着替えなさい。顔を洗って⋮朝ご
はんはどうなってるのかしら?﹂
﹁だいたい9時か半くらいに母さんと食べてるな﹂
﹁そう。じゃあちょうどいいくらいね﹂
﹁うん﹂
﹁はい、じゃあ着替えさせてあげるわね﹂
﹁⋮え、い、いいよ﹂
﹁オッケーなんて嬉しいわ。服はこれでいい? さっき用意してお
いたの﹂
断ってるのに七海はさっと立ち上がって机の上から服をとった。な
1337
に勝手に箪笥まで⋮いいんだけど、いいんだけど下着類まで見られ
たと思うと複雑だ。
﹁服はありがたいけど、着替えはいらないないって。自分の着替⋮
あれ、もう着替えてる?﹂
﹁ええ。歯も磨いたわよ。あ、そうだわ。今日は皐月の歯、磨いて
あげるわね﹂
﹁ええぇ?﹂
﹁はい、とりあえずぬぎぬぎしましょうねー﹂
﹁やめろって﹂
﹁⋮嫌?﹂
﹁⋮⋮﹂
着替えさせられた。
ブラジャーを一から人につけられるとか、やたら恥ずかしいんです
が。腕ぐらい自分で通せるっつーの。
で、感想を言おう。
歯磨きは自分でするのがいいと実感した。それに尽きる。
子供のころは母親にやってもらってたとは思えないくらい、人に歯
を磨かれるのは違和感で変な感じがする。口の中を覗き込まれるの
も恥ずかしい。
﹁はい、タオル﹂
うがいした俺ににこにこ楽しそうにタオルを渡す七海に力なく笑い
返しながら、きっとねだられたらまたやらせちゃうんだろうなーと
思った。
1338
○
﹁⋮⋮﹂
﹁? どうかしたか?﹂
夕方まで遊んでから別れるというのには全く賛成で、優希さんと3
人で出かけたのはいい。
だけど皐月の家から車で適当な駅近くで行き、ウインドウショッピ
ングながらにぶらぶらして昼食を済ませて、最初はいいかと思った
ことも何だか段々腹がたってきた。
﹁もしかしてー、お昼からハンバーグって重かった?﹂
﹁あ、いえ⋮美味しかったです﹂
優希さんの気遣いは嬉しいし優希さんが悪いわけではない。昼食は
美味しかった。
でも、なんというか、とても言いづらいし家族内のことに口だしし
たくはないのだが、やっぱり不満だ。
﹁なにかあるならハッキリ言えよ。俺に問題があるとかなら反省す
るからさ﹂
﹁⋮じゃあ、ハッキリ言うわ﹂
立ち止まって軽く皐月を見ると皐月はクエスチョンを浮かべながら
1339
立ち止まって、優希さんも立ち止まって私を見る。
﹁それ、なんなの?﹂
﹁? なにって、手だけど?﹂
﹁違うわよっ。私は、いつまで二人手を繋いでいるのか聞いている
のよ、このマザコン﹂
﹁親子で手を繋ぐのは当然でマザコンじゃないだろ﹂
絶対に離さないでという程ではないけど並んで歩いてる時は殆ど皐
月と優希さんは手を繋いでいるので指摘したが、なにがおかしいと
言わんばかりの真顔を返された。
わかってる。皐月がマザコンなことは最初からわかってた。そんな
ことは、別に、皐月を疎む理由になんて決してなりはしない。
でも、なんで、と思うのはおかしくない。だって手は二本あるのに、
優希さんと繋ぎながらでもいいのに、どうして私と手を繋ごうとし
ないの。
﹁はーはーん、わかったわ﹂
﹁え? どうしたの?﹂
﹁七海ちゃん、手ぇ繋ぎたかったんでしょ﹂
そう! まさにそれ!
とまでは言えないが素直に頷く。恥ずかしいから少し控えめな動き
ではあったが通じたようで優希さんはにっこり笑って頷き返してく
れた。
﹁じゃ、行きましょっ﹂
﹁え﹂
何故か優希さんに手を繋がれた。
1340
そして何故か皐月優希さん私と周りに迷惑そうな並びで歩きだした。
﹁? どーかした?﹂
﹁⋮いえ﹂
﹁なんだ、そーゆーことか。七海は淋しがり屋さんだなー﹂
﹁⋮ウフフ、ソウカシラ﹂
違う。何もかも違う。どうして私と優希さんが手を繋ぐんですか。
意味がわからないし、別に繋ぎたくありません。
なんて言えるわけがない。そうは全く見えないし感じないがこの人
は私の姑だ。どうしてそんな暴言が言えよう。
とにかく結論は、皐月が気をつかいなさいよってこと。
﹁? ⋮なんか不機嫌増してない?﹂
﹁自分の胸に手をあてて考えなさい﹂
○
七海が不機嫌だ。
うーん、あーん? なんだかなー。理由わかんねー。
﹁なー⋮七海、なんで不機嫌なんだ?﹂
﹁⋮⋮別に、不機嫌じゃないわよ﹂
1341
絶対嘘だー。
家に帰ろうってなって、七海を家まで送るために母さんと別れてか
ら急に不機嫌丸出しになった。
途中からはしゃぎだしたのはヤケクソだったのか。
しばらく様子を伺っていたが、それでも七海は態度を変えないし表
通りではなくなって人影も減ったので踏み込んで聞いてみることに
した。
﹁なぁ、正直に言えよ﹂
﹁⋮ん﹂
﹁ん?﹂
七海は無言で俺を睨みながら、手の平を突き出してきた。
﹁なに?﹂
﹁⋮もういいわよ﹂
﹁?﹂
手をおろしてぷいっと顔をそらして早足になる七海に、俺は慌てて
並ぶ。
﹁なんだよ。口で言えって﹂
﹁⋮⋮ふん﹂
﹁⋮おい﹂
すっかり拗ねていらっしゃる。子供すぎる。
全く、昨日から急にキャラ変えまくるな。まぁ⋮それだけ心許して
るって自惚れておくか。
﹁七海﹂
1342
﹁っ⋮﹂
回りを見て、人がいないのを確認して思い切って手を繋いでみたら
わかりやすぐ肩を揺らして反応した。
﹁ほら、機嫌直してさ、話してよ﹂
手を振って顔を覗き込みながら促す。七海は顔を赤くしながら罰が
悪そうに眉尻を下げた。
﹁⋮手﹂
﹁繋ぐの嫌?﹂
ぶんぶんと首を横にふって否定する七海。なにこの幼児返り。可愛
い。
﹁手⋮繋ぎたかったの﹂
﹁え⋮⋮⋮、ご、ごめんな、気づかなくて﹂
﹁⋮いいわ。今、繋いでるから。年上なのに、私こそ、ごめんなさ
いね﹂
はにかむように笑う七海を見て、申し訳胸ないことをしたなと胸が
苦しくなった。
本当は、もしかして俺と手を繋ぎたいのかなって一度思った。でも
言わなかった。
だって家族や友達と手を繋ぐのはいいけど、往来で恋人と手を繋ぐ
なんてなんだか気恥ずかしかったから。
誰がってわけじゃないけど、誰かに見られたら恥ずかしい。
1343
﹁七海はそのままでいいよ。ただ、俺がガキなんだ。ごめん。外だ
とどうしても、七海と手を繋ぐの恥ずかしかったんだ﹂
﹁え? ⋮あっ、あなたまさか気づいてたの!?﹂
﹁何となく﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そ、そう恐い顔しないで。綺麗な顔が台なしだよ﹂
﹁お世辞は結構よ﹂
﹁本気で美人だと思ってるって﹂
﹁⋮そ、そんなことでごまかされないわよっ﹂
一瞬普通に嬉しそうになった七海だがすぐに恐い顔に戻った。
七海の怒り顔は本気で迫力があるから冗談じゃなく恐い。お説教を
ライフワークにしてるだけある。
でも、怒ってるけど繋いだ手は離れないしそれほどじゃないと思う。
七海の言動は素直じゃないけど、態度は素直だ。
﹁全く⋮罰として、今日はあなたが泊まりなさいよ﹂
﹁え? 七海ん家に?﹂
﹁そうよ﹂
﹁うーん⋮⋮まぁいいけど。着替えとか借りていいなら﹂
﹁いいわよ﹂
﹁そう。じゃあ⋮泊まるよ﹂
七海の家ってそういえば行ったことない。
連日で七海の勉強を邪魔してないかが心配と言えば心配だけど、七
海が恋にうつつを抜かして成績落とすなんて想像できないしありえ
ないか。
七海の家へ向かいながら母さんに電話して泊まると伝えた。
その間も繋いでる手に七海が力をいれてきて、もしかして、母さん
1344
に嫉妬してるのかなと思った。
でもそれはいくらなんでもありえないから、口には出さなかった。
﹁⋮⋮﹂
﹁七海?﹂
電話中に俯き気味になった七海は黙って指をにぎにぎしてきた。
それが可愛いからキスしたくなった。
あぶない。いくらなんでも外で何考えてるんだ俺は。
﹁⋮別に。それより晩御飯にリクエストはあるかしら﹂
﹁もしかして七海がつくるの?﹂
﹁ええ、そうよ﹂
﹁やったぁ、嬉しいな。⋮⋮ちなみに腕前は?﹂
﹁普通だと思うわよ。実家でしか作らないから、そんなに期待され
ても困るけれど﹂
﹁七海、家では結構自分で作ってるの?﹂
﹁というか家ではいつもよ。うちは普通なの。コックさんなんてい
ないわよ﹂
﹁そうなんだ﹂
シェフがいなくても、母親とか⋮。まぁ、単に母親が料理下手なの
かも知れないし変に突っ込むのはやめよう。
○
1345
1346
嘘はつかない
﹁さ、入って﹂
﹁お、お邪魔しまーす﹂
七海の家は二階建てのどこにでもある一軒家だった。
﹁⋮家の人は?﹂
﹁言わなかったかしら。仕事よ﹂
手を離し玄関で靴を脱ぎながらおっかなびっくり尋ねると、ドアに
鍵をかけた七海はさらりと答えた。
言われて見れば今日は平日。夕食にも早い時間だしまだに決まって
いる。
ダイニング兼用のキッチンに案内され促されるままテーブルについ
た。
七海は冷蔵庫を開けて中をチェックしていた。
﹁んー⋮と、うん、ちゃんと合挽があったわね。覚え違いはないし、
ハンバーグで大丈夫よ。量が少ないから豆腐で増やしてもいいかし
ら﹂
﹁七海がいいようでいいよ。いきなりだけどちゃんと俺の分あるの
? 買い出し行かなくて大丈夫?﹂
﹁数日分をまとめ買いしてるから量は大丈夫よ﹂
﹁メニューを決めてから買い物するわけじゃないんだ?﹂
﹁一応、買う時にいくつか考えて合わせた材料を買ってるけど、結
構気分で変えるわね﹂
﹁そしたら変な組み合わせで残ったりしないの?﹂
1347
﹁また買って改めて組み合わせるわよ﹂
﹁ふーん﹂
前、母さんと二人だった時は毎日買い物してたけど、七海はまとめ
買い派か。特売商品にこだわる必要とかないしそんなものか。
七海はチェックが終わるとお茶をいれ、俺の隣についた。
﹁ありがと﹂
﹁どういたしまして。まだ夕食には少し早いし、話でもしましょう
か﹂
﹁ん、そういや、ご両親は何時に?﹂
﹁ああ、今日は帰ってこないわよ﹂
﹁え、そうなの?﹂
﹁ええ。⋮最も、今日﹃も﹄と言った方が正確だけど。二人とも忙
しくて、殆ど病院から帰らないから﹂
﹁⋮え? そ、そうなの? それ、大丈夫なの?﹂
﹁大丈夫よ。普通に一人暮らしなだけだし、基本寮だから﹂
﹁まぁ、そうだけど⋮寂しくない?﹂
七海があんまりさらっと言うから思わず聞いてから、しまった、と
後悔した。
一人が寂しいかなんて聞くまでもない。寂しくないわけがない。
﹁⋮それは、昔は寂しかったわ。でも今は平気よ﹂
﹁⋮ごめん﹂
﹁? どうして謝るのよ、馬鹿ね﹂
平気だと言う七海は、本気で言ってるのか、よくわからない。
でも寂しそうに見えた。押し付けかも知れないけど、放っておけな
1348
い。
﹁七海﹂
﹁なに?﹂
手を握ると微笑んだ七海をじっと見つめる。
﹁寂しい時は俺がずっと傍にいるからな﹂
七海はきょとんとしてから、堪えられないと言った風に俯いてふふ
っとおかしそうに笑った。真面目に言った分恥ずかしくなって俺は
唇を尖らす。
﹁笑うなよ﹂
﹁ご、ごめんなさい、ふふ⋮。だって⋮嬉しかったから﹂
﹁理由になってない﹂
﹁なってるわよ。ありがとう﹂
七海が俺にキスをした。
それだけでもういいかってごまかされる単純な自分に呆れるけど、
それもどうでもよくなる。
﹁七海はずるいなぁ﹂
﹁どうせ、そんな私も好きなんでしょう?﹂
﹁⋮ほんっと、敵わないな﹂
﹁当たり前でしょ﹂
笑った七海は綺麗なのに何故かその笑顔は俺を切なくさせた。
ぽつり、七海は涙をこぼした。
やっぱりなぁ、と俺は変に冷静に七海からしたたる雫を指で拭った。
1349
○
﹁寂しい時は俺はずっと傍にいるからな﹂
勘違いも甚だしい。私はもう訳も知らずに寂しがるほど子供じゃな
い。
真面目に格好つけた顔をした皐月に何故か泣きたくなって、下を向
いてごまかすために笑った。
むくれた皐月にキスをするとすぐに機嫌よくなってだらし無く頬を
緩めた。
なんて単純で可愛いのだろう。こんなに素直な子が私を好いている
ことが誇らしくさえ感じた。
﹁七海はずるいなぁ﹂
﹁どうせ、そんな私も好きなんでしょう?﹂
﹁⋮ほんっと、敵わないな﹂
とろけるような優しさに満ちた笑顔の皐月に、ますます泣きそうに
なった。理由はわからない。
﹁当たり前でしょ﹂
1350
口をつく軽口をどこか遠くに感じた。
私はもう子供じゃないから、寂しくなんかない。
ない、ない。
ない。
寂しく、ない。
ずっとそう思っていたしそれが真実なのに、どうしてかしら。
私は気がついたら泣いていた。
﹁七海﹂
皐月が私の左手を強く握りながら、空いていた右手で私の頬を撫で
た。
﹁なに泣いてんだよ。唐突すぎだろ﹂
寂しくなんかない。だけど皐月の言葉は優しすぎて、胸が震えた。
これは私が泣いているんじゃない。心のどこかでくすぶっていた昔
の私が、今になって泣いているんだ。
﹁⋮な、なんでも、ないわよ﹂
﹁そっか⋮そうだな。七海は俺より年上だから、寂しくなんかない
よな﹂
﹁そう、よ⋮決まってるでしょ﹂
﹁うん。そうだな﹂
拭ってもキリがないほど流れだす私の涙に、皐月は生意気にも私の
髪をすくように頭を撫でて抱き寄せた。
皐月の肩に頬がふれ、頭から背中まで撫でられて、感じる皐月の体
1351
温に私は恥ずかしくなって、目元を押し付けるようにして皐月の肩
で涙を拭いた。
涙はすぐにとまる。だってもう、私は一人になんかならないから。
寂しかったのなんてずっと昔の話だから、泣くのは終わり。
﹁じゃあ、俺が寂しいから、俺を隣においてもいいかなって気分に
なったらいつでも言ってよ。すぐに隣にいさせてもらいに行くから
さ﹂
何を言ってるのよ。そんなの、格好つけてるつもりなの。そんなに
へりくだって、私の隣にいたいなんて言って⋮
﹁⋮嘘つき﹂
﹁へ? え⋮な、なにが?﹂
﹁あなた、嘘つきだわ﹂
いつでもとか、すぐとか、凄く、泣きたいくらいに嬉しいけど、そ
んなの嘘だ。
だって皐月は、私より優希さんの方が好きだから。
比べるようなものじゃないって、わかってる。
家族と恋人に上下をつけるなんて最低だ。家族愛と恋愛感情は全く
ベクトルの違うものだって、わかってる。
でも嫌だ。私が一番じゃなきゃ嫌だ。
皐月が母親を何より大切にしてることなんて、最初から知っていた。
その上で好きになったのに。
前よりずっと、昨日よりもっと、皐月を好きになってしまった今の
私は相手が家族でもなんでも私が一番じゃなきゃ嫌だと思ってしま
1352
う。どうして私はこんなに狭量なってしまったのかしら。
﹁嘘って⋮何がだよ﹂
﹁⋮わかってるけど、嫌なの。⋮ごめんなさい。わがままを言った
わ。今の、忘れて﹂
﹁っ、だからっ。何だよ! ハッキリ言ってよ! 俺は⋮お前のこ
とで知らないことがあるなんて嫌だ﹂
顔をあげて体を離して瞳を伏せて謝罪し、つまらない嫉妬は心にし
まおうとした。
なのに皐月は私の手をぎゅうとより強く握り、私の背にあった手で
私の肩を掴んで怒ったように、どこか辛そうに言った。
私はその言葉に胸の奥が震えた。
私の全てを知りたいと、プライベートも境界も許さないとばかりに
全て赤裸々に曝して欲しいと、そう彼女は言った。
なんて傲慢で、情熱的なんだろう。私はそれだけ彼女に想われて、
求められている。
だから、私は口を開いた。つまらないことだけど、皐月につまらな
いことだと笑い飛ばして欲しいから。
﹁あなた⋮私と優希さん、どちらの方が好き?﹂
﹁⋮え? ⋮⋮もしかして、それで拗ねたの?﹂
﹁拗ねてないわよ。だいたい、あなたが私を泣かすから悪いんじゃ
ない。先生に言うわよ。明日の学級会議で吊るし上げをくうわよ﹂
﹁小学生か﹂
皐月は嘆息し、私の頭を撫でた。皐月の癖に生意気な。皐月だし特
別に許してあげるけど。
1353
﹁七海﹂
﹁なによ﹂
﹁俺は、七海が好きだよ﹂
﹁⋮優希さ−﹂
﹁もし二人が同時に倒れたら、悩むかも知れないけど、俺は絶対に
七海を選ぶよ﹂
﹁え⋮ほん、とうに?﹂
自分で尋ねたことだけど、まさかそんな答えが返ってくるなんて思
わなかった。
もちろん嫌な答えじゃなく望んだ答えそのものなんだけど、そんな
はずないって諦めていた予想外な答えで、すぐには信じられなかっ
た。
﹁てか、そのくらいに好きじゃなきゃ、恋をしてるとは言えないだ
ろ﹂
確認する私に、皐月は照れ笑いをしながらそう言った。
今度こそ、信じた。だって本当は私は最初から知ってる。皐月は絶
対に私にこんな嘘はつかないって。大事なことを偽らないって、知
ってる。
﹁な⋮なによ、馬鹿﹂
﹁え、ちょっと、なんでまた泣くんだよ﹂
﹁馬鹿⋮言うのが、遅いのよぉ﹂
馬鹿みたいじゃない。私一人、もやもやして、馬鹿みたいじゃない。
家族に嫉妬したりして、馬鹿じゃない。二番目でも優希さんなら仕
方ないって考えようとして、私、完全に馬鹿じゃない。
1354
だって皐月の中では、付き合いだした時にはもう私が一番だったん
だから。
﹁あー、いや、だってそんな気にしてると思わなかったし。わざわ
ざ母さんより好きだよ、なんて普通言わないだろ﹂
私は涙を拭って、ふんっと鼻をならす。もう絶対泣いてやらない。
﹁あなたは普通じゃなくてマザコンなんだから、言いなさいよ﹂
﹁マザコンの人権をさりげなく踏みにじられた﹂
﹁安心しなさい、マザコンでも好きでいてあげるからね﹂
﹁⋮⋮いいけどね﹂
む、その顔は嫉妬してた癖にとか思っているわね。その通りだけど、
私の顔をたてなさいよ。
○
﹁私と優希さん、どちらの方が好き?﹂
聞かれた意味が一瞬わからないくらいぼけっとしてしまった。あま
りにテンプレじみた、およそ七海が口にするとは思えないフレーズ
だったからビックリしてしまった。
1355
拗ねた七海の頭を撫でると上目遣いに睨まれた。でもやめろとは言
わないから、きっと単なる照れ隠しで睨んでるんだろう。
﹁もし二人が同時に倒れたら、悩むかも知れないけど、俺は絶対に
七海を選ぶよ﹂
撫でながら、七海が聞いてきたことに答える。
俺は母さんが大好きだし、なにかあったらどこにいたって駆け付け
るくらいに大切に思ってる。
でももし、七海と一緒にいて七海に何かあって同時に母さんが大変
だって連絡があっても俺は七海を離れられないだろうし。逆に母さ
んと一緒にいて急に入院することになった時に七海が入院したって
連絡されたら七海の方に行くと思う。
それはもちろん悩むし、七海が風邪で母さんが危篤とかなら母さん
を選ぶけど。二人が同じくらいの大変さなら、七海を選ぶと。
母さんには少し申し訳ないけど、母さんだってきっとそれを望むと
思う。
﹁え⋮ほん、とうに?﹂
﹁てか、そのくらいに好きじゃなきゃ、恋をしてるとは言えないだ
ろ﹂
そこまで考えて恋をしたわけではないけど、でもきっと俺はもうと
っくに七海を選んでた。
そう言うと、七海はまたぽろぽろと涙をこぼした。七海が泣くとす
ごく困る。泣かないで欲しい。
﹁馬鹿⋮言うのが、遅いのよぉ﹂
1356
言われても、困る。だって一番好きだから告白をするわけだし。
七海は涙を拭って、ふんっと鼻をならしてきりっと表情を正した。
そして俺をマザコンと罵倒してくすりと余裕な笑みを浮かべた。
﹁安心しなさい、マザコンでも好きでいてあげるからね﹂
さっきまでどっちが好きかと言っていたくせに、七海が好きと言え
ばマザコンでも構わないというなんて単純だなぁ。
まぁ、そんな七海が、大好きなんだけどね。
○
1357
嘘はつかない︵後書き︶
マザコンだからこその問題をいれようとしたけど軽く終わってしま
いました。
ああは言ってますがそれでも皐月が基本マザコンなのはわかりませ
ん。
1358
いちゃいちゃしたい
前編
それから七海がご飯をつくる後ろ姿を眺めて、ハンバーグを食べた。
美味しかった。
﹁⋮⋮﹂
七海はどうしてか言葉少なで、俺が美味しいって言ってもはにかん
でありがとうと言うだけだった。
泣いたのがまだ照れくさいんだろうか。
口を閉じて微笑んでればめちゃくちゃ可憐なお嬢様そのままで可愛
いから存分に眺めておく。
性格がキツめなのは織り込みずみで好きなわけだけど、それとこれ
とは別だ。
﹁ん、ごちそうさま﹂
﹁お粗末さま。じゃあお皿洗っちゃうわね。そうだ、お風呂にお湯
いれてきてくれる? 廊下でてすぐ、ルームプレートついてるから
すぐわかるから﹂
﹁わかった﹂
廊下でて右は玄関なので左に曲がる。一つ目きはTOILETとあ
った。その隣にはBATHROOM。
ドアを開けると洗面台があり左手に棚と洗濯機と乾燥機、右側の磨
りガラスの戸を開ける。普通の湯舟だ。
見事なまでに普通の家だ。別荘の方が大きくて整備のためにつかわ
ない時もお手伝いさんが掃除してるのに、自宅では全部自分でやっ
てるとか。
1359
何の疑問もないんだから七海って変わってるよな。
とりあえずお風呂に詮をし、蓋をしめてパネルを操作する。温度設
定は38度と低めだから42にしといた。寒い時には熱いお湯だろ。
お風呂場を出て、探究心が出てきたので廊下をさらに奥に向かう。
TAKUMA&AIKOとあった。ここはご両親の部屋かな。ドア
はあと一つ。ルームプレートがなかったので思い切って開けて見る
と物置だった。
さすがに2階に押しかけるのはダイニング前を横切らないといけな
いしはばかられるからやめてトイレによった。
﹁お⋮﹂
何も考えずに入ったけど、茶色でちょっとしかでなくなった。もう
大分終わってきてるみたいだな。三日で終わるのって早いのかなぁ。
でも初日はめちゃくちゃ苦しくてすごい量だったしこんなものか。
ナプキンは少し汚れてるくらいだったからそのままはくことにした。
勝手に人の家のトイレの戸を開けるのには抵抗がある。
七海のいるダイニングに戻った。
﹁ただいま﹂
﹁おかえりなさい。遅かったけどすぐにわからなかったの?﹂
﹁トイレだよ﹂
﹁そう﹂
七海の隣に立って手元を覗くと全部の食器は泡だらけであとは流す
だけだった。
1360
視線をあげると七海とぶつかった。くすりと笑って
﹁大人しくしてるのよ﹂
と言って水を出して泡を流しては脇の食器乾燥機にいれていく。そ
ういえば食器洗浄機はないんだなーと思いながらなんとなく、七海
の頬にキスした。
﹁や⋮もう、なに?﹂
﹁なんでもないよ﹂
仕方ないとばかりに微笑む七海の頬ににもう一度キスをして、後ろ
から抱き着いた。
あったかくてすごく柔らかい。
腰に回した手でぎゅうと抱きしめて、耳におでこをおしつけるよう
にして七海の髪に顔をうずめた。
髪から少しだけハンバーグの臭いがしたのがなんとなくおかしかっ
た。
﹁もう⋮﹂
﹁大人しくしてるよー﹂
甘えるように七海に頭をこすりつけると七海の体が少し震えて、声
にださなくても笑ったのがわかった。
しばらくそうして七海の動きを邪魔しない程度の力で抱き着いてい
ると、がちゃんと音がして顔をあげた。
乾燥機の蓋が閉められていた。七海の手がスイッチを押して、振り
向いた。
当たり前なんだけど顔が近かったから唇を軽く合わせた。
それに少し照れたようにはにかんでから、七海はなんにもないみた
いにスルーして俺の手をとって体から離した。
1361
﹁終わったわよ﹂
﹁ん。じゃあどうする? 先にお風呂? それとも勉強するの?﹂
﹁⋮え? 勉強?﹂
抱き着くのはやめて言う俺にきょとんとした反応をする七海は、勉
強のことなんて忘れたみたいで、逆にびっくりする。
﹁いや、だって昨日から俺に付き合って勉強してないでしょ?﹂
﹁⋮ああ、⋮そうね。じゃあ⋮今から2時間くらい勉強するから、
あなたは適当にお風呂にはいってテレビでも見ておいて﹂
﹁わかった﹂
﹁服は?﹂
﹁今から用意するわ。私の部屋に行きましょう﹂
七海について2階にあがる。右側にNANAMI、その向かいにG
UESTROOMとあった。
七海の部屋に入った。当然これが初めてだが、寮の部屋には散々入
っているので特に目新しいものはない。あえて言うなら寮より本が
多い。
﹁背丈そんなに変わらないから大丈夫よね﹂
箪笥を開けて、パジャマを渡された。言葉からおそらく七海のだろ
う。特に変哲のないチェック柄のパジャマだ。
﹁ありがと﹂
﹁あとこれ、新品だから﹂
﹁⋮あ、あありがと﹂
1362
パンツを渡された。持ってないから当然だし新品だとわかってるけ
ど何故かドギマギした。
﹁じゃあごめんなさい、集中したいから2時間一人にしてね﹂
﹁わかった。気にしないでいいよ。勉強頑張ってな﹂
﹁ええ、それじゃ⋮あと、ナプキンはトイレの棚にあるのを好きに
使えばいいから、忘れずにね。じゃ、後で﹂
﹁はいはーい﹂
とりあえず一階に降りてお風呂がわくまでテレビを見ることにした。
○
ご覧のスポンサーの提供で、と流れたところでテレビを切った。
テレビをつけると何回か見たことのある再放送がやってたので見た。
久しぶりに見ると、結構面白かったな。昔はクソダルいって思っち
ゃった。
﹁そろそろ行くかぁ﹂
今からお風呂入ったらちょうどいい時間だ。
先にトイレに行ってー、ナプキン外してー⋮はっ
﹁⋮どうしよう﹂
1363
ナプキンを外してパンツをはくわけにはいかない。でもお風呂のた
めにわざわざ外したのにつけたら意味がない。
家だと脱衣所にもトイレがあるからノーパンだけど⋮⋮まぁ、隣だ
し、七海しかいないし、七海勉強中だしいいかな。
﹁え⋮﹂
トイレから出たら階段下りて来たらしい七海とちょうど目があった。
﹁おわっ﹂
慌ててトイレに戻ってドアを閉めた。
ノーパンどころか下半身丸出しだった。やべーちょーはずいんです
けど。
﹁な、なにしてるの?﹂
とととっと足音がしてドアの外に七海が来た気配を察する。
﹁なんでもないですー、ちょっと君勉強はどうしたんすか﹂
﹁もう終わったから⋮じゃなくて。なんなのあなた、もしかしてそ
ういう趣味?﹂
﹁ち、違うよ。ただ、ほら、生理だからお風呂行く前にパンツ脱い
だだけだって﹂
﹁⋮なんでトイレで脱いでるのよ。あなた馬鹿じゃないの﹂
﹁え、そういうものじゃないの?﹂
﹁違うわよ。そりゃあ、一般的にどうしてるかは知らないけど私は
違うわよ﹂
﹁じゃあ七海はどうしてるの?﹂
1364
﹁私はスカートをはくようにしてるわ﹂
﹁⋮⋮って七海もノーパンなんじゃねぇか!﹂
﹁あなたみたいな露出狂と一緒にしないでくれる?﹂
﹁ちょおいっ! なに言ってんの! そんな性癖ないから!﹂
﹁わかってるわよ。ちょうどいいわ。一緒にお風呂入りましょ。さ、
早く出なさい﹂
﹁え、あー⋮恥ずかしいから先に行ってて﹂
﹁⋮仕方ないわね﹂
とんとんと足音がしてから隣のドアが開閉した音がしたので俺はほ
っと息をついてからドアを開けた。
﹁⋮なんでいるんだよぉ﹂
﹁そんなに嫌がられると、ねえ?﹂
ドアを開け閉めしてフェイントかけてまで俺の間抜けな姿が見たか
ったのかこいつは。
俺は肩を落としながらもう開き直って普通に出た。
﹁間の抜けた格好ね﹂
﹁うるさいなぁ﹂
脱衣所に入って服を脱ぐ。二人だと狭い。
﹁このお風呂、二人で入れるの?﹂
﹁私が子供のころは親と一緒に入ったことがあるし、大丈夫よ﹂
それ、大丈夫なの? いいけどさ。てか、何度も思うけど七海って
本当に胸大きいな。
1365
﹁ちょっと、そんなにじろじろ見ないで。いやらしいわね﹂
胸を隠しながら言われて視線をそらす。むしろ隠すポーズの方がエ
ロティックな感じがする。
﹁いや、だって⋮なぁ﹂
﹁⋮あなた、女同士だからってそうゆう目で今までに色んな人を見
てたりしないでしょうね﹂
﹁しねぇよ! 俺が⋮こう、変に意識するのは、お前だけだって﹂
﹁じゃあ今まで私とお風呂の時、いやらしい目で見ていたのね﹂
﹁み、み見てねぇよ!﹂
﹁⋮怪しいわね﹂
見てない。見てないけどちょっと見とれたことはあったかも知れな
い。でもその時は決してエロい気持ちじゃなくて胸大きいなって感
心してるとかそういうのだったはずだ。だからそんな、だいたい俺、
女だから好きってわけじゃないし。だから、別に。なあ。
﹁まあ、さっきのちょっと嬉しかったから許してあげるわ﹂
﹁え、あ、うん﹂
さっきなんかあったっけ? 怒ってないならいいけど。
とりあえずお風呂場に入り、蓋を開けて椅子に座ってお湯を頭から
被った。
﹁七海、お湯かけるからここ座れ﹂
﹁⋮ふん﹂
七海は何故かツンとした態度で俺の前に座った。床のタイルに直接
座るのが嫌だったんだろうか。
1366
﹁目ぇ潰れー﹂
﹁ん⋮あっっつ!﹂
﹁え?﹂
七海が飛び上がった。驚いてると設定パネルに手をかけて怒鳴りだ
した。
﹁あっ、熱いわよっ。ちょっと、温度高っ。あなた勝手に設定いじ
ったわね!﹂
﹁え、うん。そんな熱いか?﹂
﹁冬場は温めでないと痛いくらいなんだから。ったく、二度といじ
るんじゃないわよ﹂
言いながら設定を戻し、蛇口を捻って七海は湯舟に水をいれだした。
七海って熱いの苦手だったのか?
﹁わ、わかったよ﹂
お湯を混ぜて、水温が下がったので再び七海にかける。二杯、三杯
とお湯をかぶってようやく落ち着いたらしく水をとめた。
﹁もういいかな。七海が先に体洗う?﹂
尋ねると七海は立ち上がってシャンプーとかのボトルの横にある複
数の髪ゴムで髪をくくりあげて、頭の上におだんごみたいにした。
﹁そうするわ。椅子かして。背中、流してくれる?﹂
﹁わかったよ﹂
1367
椅子を七海にゆずり、七海が座ってタオルを泡立ててる間に体が冷
えないようにお湯をもう一度かぶった。
﹁はい、洗って﹂
﹁ん﹂
タオルを受け取り、七海の肩からこすっていく。
﹁気持ちいい?﹂
﹁ええ、いい感じよ﹂
肩に手をかけ、背中を上から下へと擦っていく。
ふに
﹁!﹂
腰から上がったところで指先が下乳に触れた。反射的に手をさげて
腰に戻る。
﹁⋮⋮﹂
反応はない。どうやら気づかなかったみたいだ。
しかし、そうなると悪戯心がでてくる。俺は背中から腰を洗うよう
にみせかけて七海の胸に指先だけ触れる。
柔らかいなー。俺もこんなのあったら⋮重そうだしいいか。
﹁皐月﹂
﹁ん? なに?﹂
﹁あのね⋮触りたいならそう言いなさい。痴漢みたいなことしない
の﹂
1368
﹁⋮えへ。ばれた?﹂
﹁ばれないと思った訳を知りたいわね﹂
えへへへと照れ隠しに笑って今度こそ七海の体をキチンと洗う。
﹁だいたい付き合ってるって言うのにこそこそして、そういうの気
にいらないわね﹂
﹁んー⋮や、なんてーか、こそこそしてるわけじゃないんだけどね。
なんとなく。腕貸して﹂
﹁そう?﹂
七海の腕をとって洗う。特に止めろと言われなかったのでお腹と胸
と足も洗った。膨らんだ胸を洗うのはどうしたら言いかわからなか
ったので揉みまくったが、堂々としてたからか七海は顔を赤くしな
がらも特に怒らなかった。
さすがに股間は避けた。七海は何もいわずタオルを俺からとって自
分で洗った。さすがに、さすがに人の股間は気まずくて洗えない。
﹁んじゃ、お湯かけるね﹂
﹁ちょっと待ちなさい。流す前に皐月を洗うわ。座りなさい﹂
﹁え、ああ⋮お、お手柔らかに﹂
﹁もちろん。あなたと同じくらい優しくしてあげる﹂
しまった! さっきから好きに洗わせたのはこのための伏線か!
立ち上がって振り向いた七海はとても楽しそうな顔をしていて、俺
は頬をひきつらせた。
1369
○
1370
いちゃいちゃしたい
前編︵後書き︶
題名をつけるのが難しいので今回は前後編ということにしました。
いちゃいちゃしてるだけの話を書くのは楽しくて好きですが、話が
進まないしあんまり引っ張るとくどくなるので、控えめにしてます。
1371
おやすみなさい
酷い目にあった⋮。
七海は俺の背中と言わず胸も全部素手で洗いやがった。ていうか完
全に洗うってレベルじゃなくて性的悪戯として訴えられるくらいだ
った。
こんな風に何十倍になってやり返されるとわかってたら七海の胸に
セクハラとかしなかったのに!
そのあと髪の毛をお互いに洗う時は普通だったけど、たぶん七海も
体洗うだけで疲れたからだと思う。
﹁ところで皐月﹂
﹁な、なんでしょう?﹂
﹁なにをびくびくしているのよ﹂
びくびくもすると思う。半泣きで嫌がったのに股間までなでくりま
わしやがって。
俺は向かいで湯舟につかっている七海を睨みつける。
基本一人用の湯舟なので向かいあう形に座って、体育座りみたいに
曲げた足の間にそれぞれ足をいれて無理矢理湯舟につかってる状態
だ。
﹁あなたって、体毛薄い方?﹂
﹁んー? そうかな。そういえば腕毛の処理はしたことないな。脇
と顔は剃ってるけど﹂
﹁え!? 本当に? ちょっと腕見せて﹂
手を出すとまじまじと見てきた。手とはいえなんだか気恥ずかしい
な。
1372
﹁よく見なきゃ気にならないくらい薄いわね。てっきり小まめに処
理をしてるかと思ったわ。じゃああなた指毛なんて全く生えないの
?﹂
﹁うん? 女に指毛は生えないだろ﹂
﹁殴るわよ﹂
笑顔で言われた。恐い。てか、怒るってことはもしかして七海は指
毛が⋮
﹁⋮生えるの?﹂
﹁二回殴るわよ﹂
﹁⋮ごめんなさい﹂
謝った。薮蛇だったか。母さんも指毛とかないし、普通にみんなの
手にないから生えないものかと思ってた。
﹁でもなんで急にそんなこと言い出したの?﹂
﹁普段は気にしないから気づかなかったけど、あなたって下の毛薄
いじゃない? だからよ﹂
﹁え⋮⋮そうなの?﹂
前からだけじゃそんなに意識しないし、七海は金で黒ほど目立たな
いから気にしなかった。
﹁そうよ。まぁ私も、今まで人のを見て比べたりしなかったし、気
づかなくても仕方ないけれど﹂
﹁そういや七海、いつもケアはちゃんとしてるとか言ってるけど、
そこの毛もなんかしてたの?﹂
﹁私の中では今まであって当然の髪の毛的な感覚だったから剃るこ
1373
とは考えられなかったし、人に見せることは考えてなかったから正
直放っていたわね﹂
﹁へぇ。七海でも手を抜くことあるんだ﹂
﹁人聞き悪いわね。手を抜くとかじゃなくて手入れをするものだっ
て知らなかっただけよ﹂
﹁ふーん﹂
まぁ、俺も気にしなかったしなぁ。でもそうか、あの七海が手入れ
をしない箇所があったのか。
⋮⋮⋮そう考えるとよけいにエロかった気がするなぁ。綺麗に整え
られてるのも悪くないけど、濡れてた毛にまみれた感じとか、所々
白く濁ってたとことか、スッゴいグロエロかった。思い出してもあ
れはかなり衝撃的だったなぁ。
﹁⋮なぁに考えているのよ?﹂
﹁え⋮な、なんで?﹂
何故かふしだらなことを考えてると見透かしたようなジト目で見ら
れて、若干慌てふためきつつ問い返す。
﹁鼻の下がのびてるわ﹂
﹁えー、またまた、そんな漫画みたいなことあるわけ⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮まじで?﹂
﹁まじ、よ﹂
は、鼻の下ってのびんの? 見たことないんだけど。
﹁お、お前のこと考えてただけだから。なっ﹂
﹁ふーん? 何か怪しいわね﹂
1374
事実なのに怪しまれた。だからってさすがに素直に話しても怒られ
るだろうから言わないけど。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふん、いいわ。そろそろ上がりましょうか﹂
﹁あー。そだな。じゃあ先にあがって。二人だと狭いし﹂
﹁あなたに言われるとイラッとするけどいいわ。そうしましょう﹂
七海が湯舟から上がる時、特に意図しなかったけど股間の割れ目が
見えた。ちょっとどきどき。
気づかれなかったようで七海は風呂場を出て戸を閉めた。
二人から七海が出たのでお湯が減ったのでお尻をずらして肩までつ
かりなおし、足をややのばす。
それでも体育座りだけど、これくらいなら普通だ。やっぱりこれ、
どう見ても一人用だ。
前からお風呂は大きめなのに慣れてたから、足がのばせないお風呂
は少し新鮮だ。
﹁もういいわよ。先に行ってるわね﹂
﹁はーい﹂
○
1375
﹁ふぅ﹂
冷たいお茶が喉を通り過ぎ、息をつく。
少しはしゃぎすぎた。軽くのぼせた気がする。これも皐月が悪い。
あんな涙目の可愛い顔をされて、はいやめたなんてできるわけがな
い。
それにしても⋮皐月の反応は面白かった。昨日は自分がしたくせに
私が舐めたらナメクジみたいで気持ち悪いとか言って嫌がった時は、
どうしてやろうかと思ったけれど。
でもあの声の大きさは予想外だった。慣れない感覚なのはわかるけ
れど、あれじゃまるで私が襲っているみたいじゃない。後半は嬌声
になったからいいものの、声の大きさは後で注意しよう。
﹁七海ー、洗濯機はまわすの?﹂
﹁まわす? ⋮今から使うかってこと?﹂
リビングに着た皐月は当然渡したパジャマを身につけていた。普通
のパジャマなので普通に似合っている。少し裾があまっているけど
許容範囲だろう。
皐月の言葉にちょっと考えてから尋ねる。変な言い方だ。
﹁そうだけど、まわすっていわない?﹂
﹁私はいわないわね。洗濯機を使う、じゃダメなの?﹂
﹁ダメじゃないけど今までそう言ってたから。で、使うの?﹂
﹁ええ。ちょっとやってくるから、お茶でも飲んでおいて﹂
﹁うん﹂
皐月に空になったグラスを渡し、私はお風呂場に向かった。
1376
蓋をしめ窓が開けられ電気が消えて、タオルはすでに洗濯機に入っ
ていた。
中々気が聞くじゃない。
私は足元のマットを洗濯機横に干し、バスタオルと洗面のためのタ
オルと洗剤を洗濯機に入れ、電源をいれていつもより多いので設定
を変え、スタートさせた。
﹁皐月ー、歯磨きするから来なさい﹂
﹁はーい﹂
洗面台の鏡部分が三つの棚になっている。一番左を開けて5つスト
ックしている新品の歯ブラシのうち一つを出し、一番右から⋮私の
歯ブラシがない。
⋮そういえば、昨日泊まる時に持って行って、鞄にいれっぱなし?
⋮鞄にいれた覚えがないわね。仕方ない。
私は右を閉めて左からもうひとつ出した。
﹁歯ブラシは?﹂
﹁白と黄色、どっちがいい?﹂
﹁んー、じゃあ白﹂
﹁はい﹂
渡して、私は黄色の歯ブラシをプラスチックと紙の包みから出し、
隅にある小さなごみ箱に捨てた。
そういえば今日、排水溝の髪をとってない。今からするのは気が重
いけれど、明日よりマシだ。
﹁そういやさぁ、洗濯機まわすの早かったなー﹂
歯ブラシを口にいれたシャコシャコという音をたてながら皐月は妙
1377
なことを言った。私はマットをもう一度引きながらんー?と疑問符
を浮かべた。
﹁どうして? 時間のかかるものじゃないでしょ﹂
裾をまくってお風呂場の電気をつける。
あら? 髪の毛たまってないわね。
﹁ん? 湯舟のお湯、洗濯機に使わないの?﹂
﹁使わないわよ。あ、じゃあお湯残してるの? やぁね、抜いてよ﹂
﹁ごめんごめん。あ、排水溝の髪の毛はさっきのごみ箱にいれたけ
どいいよな﹂
﹁あ、そうなの。ありがと﹂
なるほど。私はお風呂の蓋をあけて詮を抜き、また蓋をして脱衣所
兼洗面所へ戻って足の裏を拭いた。
それから歯磨きをしまたマットを干して、電気を消して二人で私の
部屋に向かう。途中リビングの電気を消した。
﹁ちょっ、ちょっと七海?﹂
﹁なによ?﹂
﹁いや、なにじゃなくて廊下の電気つけてくれよ﹂
﹁見えるでしょ。いちいち面倒じゃない﹂
﹁お前は自宅だからだろっ。俺はどこに何があるかわかんないのっ﹂
そういえばそうだ。うっかりしていた。私は隣にいるだろう皐月の
腕を掴−
﹁おわっ。な、なに?﹂
1378
掴もうとして逆に掴まれた。少し痛いが、何だか懐かしい。以前に
何度かやられたがあの事件からはなかった。
普段に気を抜いているだけで、別に反射神経が鈍くなったわけでは
ないのだから当たり前なのだけど、まだこういうことできたのね。
﹁案内するわ﹂
﹁あ、ああ、そう。手、大丈夫? 思わず掴んじゃったけど﹂
﹁痛いわ﹂
﹁ご、ごめん。でも一言言ってくれれば⋮﹂
﹁一言もなにも私しかいないでしょ﹂
﹁そーだけど、相手がわかってたら無意識にしないんだけど暗いと
わかんないんだって﹂
﹁怪しいわね﹂
﹁なにが!?﹂
見えないところから弘美が投げて攻撃した時は誰かわからないはず
なのに避けてなかったし、ちょっーと気に入らないわ。
気に入らないけど、無意識のことまでケチつけてたらさすがに私の
心が狭いかのような錯覚を与えてしまうから言わないでおくわ。
﹁さ、行くわよ﹂
﹁おー、わだっっ﹂
﹁きゃっ﹂
改めて手を引いて歩きだすと逆に引かれ、体勢を崩しかけた。
﹁ちょっとなにやってるのよ﹂
﹁だっーあー⋮っ。おまえ、ちゃんと誘導しろよ! 小指を角にぶ
つけただろ!﹂
1379
﹁知らないわよ。その無駄に俊敏な感覚で避けなさいよ﹂
﹁無駄って⋮なんか機嫌悪い?﹂
﹁悪くないわよ﹂
﹁⋮納得いかない﹂
ぶつぶつ文句を言いながら慎重になった皐月を連れてゆっくり部屋
に戻る。部屋の電気をつけると大仰に皐月は息をついた。
﹁大袈裟ね﹂
﹁大袈裟なもんか。疲れた。さっさと寝よう﹂
﹁そうね。私も今日は少し疲れたわ﹂
ベッドを整え、昨日してなかったので忘れずに携帯電話を充電機に
繋げる。
﹁電気消すから入って﹂
﹁このベッド、二人で大丈夫か?﹂
﹁大丈夫よ﹂
皐月がベッドに入りながら聞いてくるのに苦笑しながら答える。
確かに寮と比べても小さく正しく一人用のベッドだけど、知らない
人ならともかく皐月なんだから寄り添えば問題ない。寝相が悪くな
いのもわかっているし。
私は壁のスイッチで暖房を切って電気を消し、皐月の隣に潜り込む。
﹁暖房消したの? 朝寒くない?﹂
﹁その方が目が覚めるじゃない﹂
﹁ま⋮いいけど。寒いの得意だし。おやすみなさい﹂
﹁おやすみなさい﹂
1380
目を閉じた。
○
1381
おやすみなさい︵後書き︶
この話の裏では皐月が七海のお尻を撫で回したり、七海がお風呂場
で暴走する話がありましたが没になりました。
1382
いちゃいちゃしたい
後編︵前書き︶
いちゃいちゃします。キスと下ネタなので15禁です。
1383
いちゃいちゃしたい
後編
おやすみなさい、と言って目を閉じた七海。七海は上を向いている
ので横顔が見える。
﹁⋮⋮﹂
綺麗な顔してるなーと思う。なんでこんな綺麗なのが自分の彼女な
のか、冷静に七海を見る度に不思議になる。見る度に、美人だなっ
て思う。
そういえば、お休みのキスをしてないな。
しようなんて言ってないし、そもそも挨拶がわりに七海にキスした
ことなんてないんだけど、したくなった。
もう寝ちゃったかな? ﹁⋮⋮﹂
寝てるみたいだ。⋮まぁ、別に付き合ってるんだし寝ててもキスく
らいいいか。
軽く上体を上げて右肘を七海の向こうに置いて体重をかけ、七海に
覆いかぶさる。
﹁⋮⋮なに?﹂
ちょうど覆いかぶさった瞬間に七海が目を開けた。起きてやがった。
﹁⋮なに見てんだよ﹂
1384
恥ずかしくて舌打ちしたいような気分になって思わず柄が悪くなる。
﹁なに逆ギレしてるのよ﹂
﹁別にキレてねーよ。てか⋮﹂
なんでもないかのようにスルーされて、何だか自分が馬鹿みたいだ。
﹁目、閉じろよ﹂
﹁あなたが閉じなさい﹂
﹁うぇ⋮⋮⋮う、うん﹂
ちょっとドキドキしながら目を閉じた。予想通り柔らかい感触が口
に押し付けられる。
離れたので目を開ける。
﹁⋮⋮﹂
七海が笑いながら声を出さずに口を開けて動かした。
ばーか、と動いたように感じた。微笑む七海に、たまらなくてキス
を落とした。七海はおかしそうにくすくす笑いだす。
﹁皐月、生意気なことを言っても無駄よ。あなたが馬鹿で間抜けで
ヘタレな小心者だって、私はよぉくわかってるんだから﹂
﹁⋮⋮そこまで言わなくても﹂
﹁まあ、虚勢を張った生意気なところも可愛いのだけど﹂
﹁⋮⋮﹂
もう、なにを言っても敵わない。完全に手の平で転がされてる気が
する。でも敵わなくてもいい気になってきた。
1385
﹁あー、えっと⋮俺より七海の方が⋮か、可愛いよ﹂
﹁うふふー﹂
うふふーて⋮くそ、似合うな。てゆーかホントにもう、恥ずかしい。
覆いかぶさるのをやめて、元の様に寝転がると横から七海が抱き着
いてきた。腕をぎゅうと握られる。
胸があたってるのが普通に気持ちいい。てか胸じゃなくてもなんか
七海ってどこもかしこも柔らかくていい匂いがして気持ちいい。
あー、なんていうか⋮
﹁拗ねないの﹂
頬にキスされた。
あー⋮なんていうかホントに、幸せだなぁ。
﹁拗ねてない。七海、好きだよ﹂
﹁知っているわよ﹂
今度は唇にされた。額も頬もくっつけてじゃれるようにしてふふっ
と七海は笑い声をもらす。
﹁好きよ﹂
﹁うん、知ってる﹂
﹁生意気ね﹂
またキスされた。色んな意味でくすぐったくてくすくすと笑いあう。
﹁ねぇ﹂
﹁なーに?﹂
1386
﹁キスしてもいい?﹂
キスしたくなったけど、勝手にして怒られたら嫌だから聞いてみた。
でもこの台詞、ばっちり目が合ってるからかなり恥ずかしくて視線
をちらちら反らしながらになってしまった。
﹁⋮可愛いから、許可してあげるわ﹂
言いながらまた頬にキスしてきた。
むむむ。七海の上からすぎる目線の言葉も全然嫌じゃなくて、むし
ろ許されて嬉しいと思うのはそうとうあれな気がする。
でもキスされて嬉しいし、大手を振ってキスできるのもいいことだ
からやっぱり喜んでおこう。
﹁うんっ﹂
そっと唇をあわせる。
頭をあげなきゃいけないかと思ったけど、やや横向きになって片目
を閉じて鼻や頬をくっつけてほお擦りの延長みたいにすると、首に
負担をかけずにキスができた。
キスしたまま、七海が手を伸ばして逆側にある俺の手をひいた。そ
のまま手を七海の腰に回し、横向きになって七海を正面から抱き寄
せる形になる。この方がキスしやすい。
﹁ん﹂
そっと舌で七海の唇を舐める。ほのかに歯磨き粉の味がする。
﹁んん、ちょっと、お風呂に入ったんだから、駄目よ?﹂
1387
唇を離してめっと俺の唇に人差し指を押し付けてきた。ぺろ、と舐
めるとこら、と鼻を押して豚鼻にされた。小さく首を振ってやめさ
せる。
﹁わかってる。キスだけだから、いいだろ?﹂
﹁⋮いいけど、あんまりエッチなのは、駄目よ。その⋮我慢できな
くなったら、駄目でしょう?﹂
駄目駄目と言う七海は頬が熱くて、むしろ誘ってるかのような艶の
ある表情をしてるのが薄暗い中に浮かんで見えた。
﹁キスだけ、ね?﹂
﹁⋮特別に、許可してあげるわ﹂
恥ずかしそうにはにかみながら弧を描いた唇に、たまらなくなって
むしゃぶりつくように舌を伸ばして柔らかな唇をなめ回す。
ぐちゅ−と唾が七海の唇とぶつかって音をたてる。何度も七海の唇
をなぞるように舌を動かす。ぺちゃぺちゃと犬が水を飲むような音
がするのが俺を興奮させる。音ってどうしてかとてもエッチに感じ
る。
両手で七海の腰を抱きしめて強く力をいれる。七海の大きな胸が俺
の胸で潰れる。
痛いくらいに抱きしめてると思うけど、七海は文句を言わないし俺
はむしろもっとくっつきたくてぎゅうぎゅう抱きしめながら、たま
った唾液を押し込むように七海の唇をこじ開けて舌をいれた。
﹁っ﹂
1388
突然入ってきた俺の舌と舌がぶつかった七海は肩をぴくりと震わせ
てから、ぎゅっと俺の首に腕を回して抱き着き返してきた。
﹁んっ⋮、ふー、ふー﹂
﹁ふ、すー、すーっ﹂
息が苦しくなってきて、舌をとめて鼻で強く息をする。七海も呼吸
をあわせてきて、ぶつかり合う鼻息もまた熱かった。
ぬるぬるする口の中は熱くて、火傷しそうだ。体温もかなりあがっ
てるのか汗ばんできた。
駄目だ。我慢しないと。またお風呂に入るのは面倒だしお湯がもっ
たいない。
﹁ふー﹂
俺は大きく息を吸う。肺が膨らんで七海の胸がますます圧迫され、
苦しいのか七海が身をよじったので俺は力を緩め、でも舌は抜かな
い。
七海も腕を回したまま離れようとしないのでいいだろう。
俺は舌を動かした。
ぬるりとした七海の舌の存在を確かめるように、舌を舐める。お互
いに舐めあうみたいになる。
柔らかくて、表面は少しざわついてる。舌の粒々を感じているとい
うのが新鮮だ。
﹁ん、んくっ﹂
押し合うように舌を味わっていると突然変化が起こった。七海が喉
1389
をならしてたまった唾液を飲み込んだのだ。
それと同時に七海はぴくっと身を震わせる。それを合図みたいに俺
はようやく唇を離した。つつうと落ちて唇同士をつなげた唾をすす
る。
ちゅると飲み込む。味はよくわからなかった。
はー、と深くゆっくり息をする。
﹁⋮⋮は、ふぅ﹂
⋮疲れた。もう寝るか。
俺は七海から手を離し、動いたことで乱れ気味になってた掛け布団
と毛布を整える。
﹁じゃ、お休み﹂
﹁え?﹂
○
皐月のどろどろとした熱い唾液を飲み込むときゅうと下腹部が反応
した。
子宮が疼くその感触に身震いする。一瞬だけ目の前が白くなり、じ
わりと下着へ液体をもらしたのを感じて思わず太ももをすり合わせ
た。
1390
生理の時とは違う子宮が震えるような感覚に私は叫びだしたいよう
な気持ちになる。
私の体が、皐月を求めていた。
女同士でどうしたって子供はできないけれど、私の子宮は皐月に反
応する。
私は皐月に恋している。どうしようもないくらい好きなんだと、心
より体が訴えてくる。
皐月は唇を離し、唇にかかった橋を吸い上げた。
もう他のことはどうでもよかった。昨日覚えたばかりの快楽を求め
ていた。私はとっくに発情しきっていた。
﹁じゃ、お休み﹂
なのにひとつ息をついた皐月はそう言ったきり体勢を整えて寝息を
たてはじめた。
信じられなくて呆然とそれを見つめ、怒りがわいてきた。
なにこの子。自分からキスしておいて先に寝るなんて信じられない。
ただのキスならともかく、あんな⋮キスしたくせに。なに普通に寝
てるのよ。
私なんか絶対眠れないし、というかどうしろって言うのよ。なんな
のこれ。本当に腹がたってきた。
私は皐月の鼻をつまんだ。
1391
﹁っ⋮⋮⋮⋮すー、ふー﹂
しばらく息を止めたかと思うとすぐに口呼吸を始めた。器用な。
口を微かに開閉する間抜け顔を見ていると、怒っているのが馬鹿ら
しくなって私は手を離した。
﹁んん⋮⋮﹂
鼻呼吸に戻った。
仕方ない。皐月は馬鹿だから仕方ない。そう自分を宥める。
とは言え、恥ずかしい話なのだけど、むずむずして子宮が熱い。
﹁⋮⋮、﹂
﹁んー﹂
首を伸ばして頬にキスをする。皐月はむにゃむにゃとなにか声を出
したけど相変わらず寝ている。
ちゅ、ちゅとキスをする。吐息が熱くなるのを自覚しながら、私は
皐月の頬に何度もキスをする。
何も考えてなかった。馬鹿みたいに、気持ち良くなりたいという欲
求だけが私を支配していた。
私は苦しいくらいにキスをしながら、自分のショーツに手をかけた。
○
1392
﹁⋮⋮⋮﹂
消えてしまいたい。恥ずかしくてたまらない。穴があったら落ちて
しまいたい。
皐月が起きずに寝続けていることだけが救いだ。
私なにやっているのかしら。馬鹿だわ。恋人の隣で⋮じ、自慰する
なんて⋮なんて情けない。
しかも3回も。本当に私馬鹿じゃないの。というか猿じゃない。下
着びしょびしょになっちゃったし。
自分がこんなに理性のない人間だと思わなかった。
﹁⋮⋮はぁ﹂
取りあえず下着を変えてもう寝よう。
私はそっとベッドから抜け出した。
○
1393
1394
いちゃいちゃしたい
後編︵後書き︶
長いですよね。お泊りだけで何話つかうんだって話ですよね。
やめどころが難しい。
1395
年越した、朝
﹁じゃ、また来年に﹂
手を振って、迎えの車を出発させた。
にこにこ笑顔で見送ってくれた七海はちょっと頬が赤かった。
七海、可愛いなぁ。
今朝もキスしてしまった。なんだか、ふたりきりだとつい調子に乗
ってしまう。
にやにやしそうなのをなんとか我慢する。家の車で運転手もいつも
同じ人だから見られるわけにはいかない。
見られたとしてもタクシーじゃないし声をかけてきたりは絶対にな
いんだけど、恥ずかしいし。
﹁ただいまー﹂
﹁おお、皐月、帰ったか﹂
爺ちゃんが俺を笑顔で迎えた。それが俺は嬉しかった。
でも同時に、七海は今も家で一人なんだよなって思った。
さすがに年越す時は両親もいるだろうけど。どれくらい一緒にいる
んだろう。なんだか心配だなぁ。
﹁? どうかしたか?﹂
﹁ん、いや。母さんは?﹂
﹁お節料理をつくっとるよ﹂
﹁おお。忘れてた。手伝ってくる﹂
1396
﹁そうかそうか。楽しみにしとるからの﹂
﹁うん﹂
母さんいるキッチンへ向かう。
﹁ただいまー﹂
﹁あら、おかえりなさーい。昨夜は七海ちゃんと、お楽しみだった
?﹂
﹁⋮⋮ごめん、うまい返しが思い付かない﹂
﹁まーまー、お手伝いにきてくれたんでしょ? こっちにきて、煮
干し炒ってくれる?﹂
﹁うん。わかった﹂
母さんがやってた作業と交代し、お箸で煮干しが焦げ付かないよう
に混ぜる。
母さんは隣で卵を割り出した。
﹁ね、ね。正直なとこ七海ちゃんとどこまでいったのー?﹂
﹁⋮⋮、え、てか、なにそのテンション。若干うざいんだけど﹂
﹁え!? 皐月ちゃんにうざがられるなんて⋮ママさんちょーショ
ック﹂
﹁あーごめんね。でもほら、あんまりそういうのは、ね﹂
﹁⋮皐月ちゃん、大人になったわねぇ﹂
ふざけたノリから急に変わってしみじみと言われた。
な、なんだろう。⋮⋮もしかして恋人できて冷たくなったとか思わ
れてる? それで巣立ち的な?
⋮う、うーん。まあ、母さんより七海を選ぶって言っちゃったしな
1397
あ。覆す気も⋮ないな。母さんには悪いけど、いや母さん自身批難
してるわけじゃないしいいのか。
﹁まあ⋮うん、ちょっとは、大人になったかも。でも母さんのこと
大好きで愛してるのはかわらないよ。それは覚えておいてね﹂
﹁⋮うん。七海ちゃんの次に、愛してくれたら嬉しいわ﹂
﹁うん。ごめんね。愛してるよ﹂
思わず言った言葉に母さんはくすくす笑って、優しい昔と変わらな
い笑みを俺に向ける。
﹁やぁね、謝ることなんてないわ。皐月ちゃんが大人になることは
⋮少しだけ寂しいけど、とっても嬉しいことだもの﹂
﹁⋮うん。ありがとう﹂
俺は変わった。何より大切だった母さんだけど、それよりも大切な
人ができた。
それは少しの罪悪感と、どことなく寂しいような気持ちを俺にもた
らした。
だけど母さんがあんまりに優しく、嬉しそうに微笑むから、俺は変
わったことが誇らしいことのように思えた。
○
1398
﹁あけましておめでとうございます﹂
﹁あーっけおめぇ。おせちは?﹂
﹁ちゃんといつものを注文してあるわ。それより顔を洗ってきて﹂
﹁いーっす﹂
ぼさぼさ頭の母親は敬礼をしてダイニングを出た。
相変わらず、公私の差が激しい人だ。あれで父より優秀な医者とい
うのだから驚きだ。
﹁あー、まーくんおはおはー﹂
お母さんの声が響く。お父さんの返事は小さくて聞こえない。お爺
様は声の大きな方なのに、少し不思議だ。
﹁おはよう。あけましておめでとう、七海﹂
﹁あけましておめでとうございます、お父さん﹂
二人とも帰って来たのは例年通り遅かったのに、お母さんの格好は
ともかく二人とも眠気を見せないのはさすがだ。
お父さんが席につくのに合わせて私はお茶をいれる。
そしておせちの重箱をくずして並べていく。お母さんのリクエスト
で大きな伊勢海老が入っていて邪魔だ。
﹁七海、お年玉だが﹂
﹁いつも言っているけど、いいわよ。元々好きにさせてもらってい
るし﹂
苦笑しながらかけられた言葉を遮る。
私は好きに使えとカードを渡されている。だけどなんでも自由だか
1399
らこそ、特に無駄遣いをしたりしたことはない。
﹁うむ、そういうと思って今回はプレゼントにした﹂
﹁え? でも、クリスマスももらったばかりなのに﹂
クリスマスと誕生日には、私がリクエストしたりお母さんが思い付
かない限りは毎年ネックレスなどの装飾品がやってくる。
嬉しいことは嬉しいが必要ないので箱にしまったまま放置している
し、二人もそれを知ってるのに、いざとなったらお金にできるから
とプレゼントはとまらない。
ちなみにお母さんが選んでいるらしく、私よりお母さんの方が似合
いそうなデザインだ。
﹁ああ、なんだかんだでいつもお母さんからのプレゼントばかりだ
ろう? それに、恋人ができたお祝いだよ﹂
﹁え⋮あ、うん⋮ありがとう﹂
恋人ができた、と報告したのは母にメールで行い、母から祝いメー
ルがきたが父からは何もなかったのでスルーされたのかと思ったけ
れど、プレゼントなんて用意していてくれていたなんて。意外だ。
﹁えっと⋮あれ。ないな。愛子さん、プレゼント知らない?﹂
廊下に向かって、父が普段話すよりは大きいけどとても聞こえると
は思えない声量で声をかけるお父さん。
﹁はいはーい、私が持ってるよん﹂
大きな声でとぉっと掛け声をあげながら再び登場した母。母いわく
いっくんの声なら離れていても聞こえまくり、らしい。
1400
ちなみに二人は互いに﹃まーくん﹄﹃愛子さん﹄と呼び合ってるけ
ど私に対してはお父さんお母さんと言う。そして私は二人をお母さ
んお父さんと呼び、他の親族は様づけで呼ぶ。少し変わっているが
すでに習慣づいているので今更変える気はない。
﹁はい、プレゼント。受験に受かってからつかってね﹂
﹁ありがとう﹂
普通の封筒だ。開けると旅行券が入っていた。数えると10万円分
あった。
﹁⋮嬉しいけど、普通親は旅行なんて駄目って言うものじゃない?﹂
﹁普通ならそうだけど、七海ちゃんなら大丈夫でしょ。しっかりさ
んだもの﹂
﹁そうだな。七海は自分でちゃんと考えているから大丈夫だ﹂
信頼されているのだろう。愛されている自覚は一応ある。
だけど、年に数回しか会えないことはやっぱり寂しいのかも知れな
い。わざわざ母に報告したのも今思えば気を引きたかったのかも知
れない。あまりに子供じみている。
幼稚だとわかっているけど、二人の全幅の信頼を表す笑顔に少し胸
が痛くなった。
こんな風に思うのは皐月のせいだ。前なら二人がいなくたってなん
だって何でももないことにできたのに。次に会ったらいじめてやる。
﹁ありがとう﹂
とはいえ、それを口に出すには私は成長しすぎている。わざわざ言
って二人を困らせたりすることはない。今更だ。
それに本当に昔ほど寂しがったりしてるわけじゃない。少しだけ感
1401
傷にひたっているだけだ。
﹁あ、でも、もちろん七海ちゃんならわかってると思うけど、避妊
はちゃんとしてね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁愛子さん、そんなストレートな﹂
そういえば、皐月という名前で年下で優しい人とだけ説明して性別
を言っていなかった。
特に追求されなかったから名字も言っていないけれど、普通恋人と
いえば異性であることを失念していた。
言わないと、いけないわよね。
﹁そういえば、七海ももうすぐ卒業だね。進学先は?﹂
口を開きかけてされた父からの質問に、私はあー⋮と意味のない音
を出してごまかす。
それにしても他人事のような聞き方だ。私の決定を尊重するという
ことだろうけど。進学という決定を伝えてからも何も言われなかっ
たし、本当に話題の一つとして話しているんだろう。
無関心というわけではないと思うけど、忙しさにかまけて私との交
流を疎かにしすぎではないだろうか。と私もまた他人事のように考
えた。
ふっきって、かつて寂しかったのだと認めたからこそ客観的に見ら
れるのだと思うと変な感じだ。
頭を切り替えて私は大学名を告げる。
﹁高校教師になろうと思ってるの﹂
﹁ほう。いいんじゃないか。でも、七海ならもっと上の大学を狙え
1402
るだろう?﹂
﹁あ! まーくん、そういうこと言っちゃ悪いわよー。七海ちゃん
には皐月君って恋人がいるんだから﹂
﹁あ、ああ⋮いや、でも、七海が恋人のために進路を曲げるとは思
えないんだが⋮﹂
﹁曲げてません。まあ、それがないとは言わないけど。どこの学校
でも資格は資格だし、別に行きたい学校はないもの﹂
﹁そうか⋮まぁ、七海がそれでいいならいいんじゃないか﹂
﹁そうだねー。あ、でも、一度でいいから﹃お母さんみたいなお医
者さんになるー﹄とか言って欲しかったな﹂
それはない。
そんなことを言いそうな幼児期には、二人を呼ぶ病院が嫌いて医者
なんて最悪な職業だと思っていた、と言ったらとんでもないことに
なりそうだ。
医者をやめるとは言わないだろうけど、反省して今から幼児期をや
りなおさんばかりに私に構いそうだ。それはごめんだ。
⋮なんだか、さっきから少し両親にいじわるだ。
寂しかったんだと自覚してしまったからかも知れない。子供か。今
更いいとか考えながら、こんな反抗的なことを考えるなんて矛盾し
てる。
﹁あの、それで⋮二人に、言っておかないといけないことがあるの﹂
﹁ん? なんだい?﹂
﹁なになに? 改まって﹂
﹁⋮私の恋人の皐月って⋮女の子なの﹂
﹁え?﹂
﹁学校の後輩なの。その⋮だから、子供はできないわ﹂
﹁どっひゃー﹂
1403
なにその反応。父は真顔なのに何故か母は半笑いでふざけてるよう
にしか見えない。
﹁七海﹂
﹁は、はい﹂
固い父の声に私はたたずまいを直す。
そういえば、私は父のこんな声音を向けられたのは初めてじゃない
か。いつも、二人とも私に優しかった。
﹁その意味が、わかってる? 社会的に認められず世間的に奇異な
目を向けられるよ﹂
﹁⋮わかってる、わ。それでも私、あの子が好きなの﹂
﹁⋮そうか。なら、好きにしなさい﹂
﹁⋮え、いいの?﹂
やめろ、と怒られるのかと思った。
私はきょとんとして二人を見る。二人とも、怒っている顔ではなく
苦笑している。
﹁いいも悪いも、僕らが七海の決めたことに反対したことなんてあ
ったかい?﹂
﹁ない⋮けど﹂
﹁それに私たち職業柄色んな人と会うのよ? 同性愛者もいるし、
海外では認められてたりするじゃない。まあ驚いたけどー﹂
﹁でも日本ではまだ風当たりが強いことを忘れないで欲しい。海外
に行きたいなら相談してくれ。ツテはある﹂
拍子抜けの感はあるが、考えれば二人とも若いころは海外にいて今
1404
も日本人以外の知人が多い。それに何より、医者として公平公正人
類皆平等、なんてことを恥ずかしげもなく言ってしまう二人だ。
この反応はおかしくなくて妥当だ。どうして怒られると思ったのか、
むしろ、怒られたかったのか。これが最後の甘える機会だから。
﹁⋮⋮うん、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ﹂
皐月が私を選んだように、私も皐月を選んだ。
だから両親に特別に思うことはなにもない。ただ、感謝してる。
育ててくれてありがとうなんて言うと、一年で一ヶ月も会わない私
では皮肉にしかならないけれど。それでも感謝してる。
きっと二人がどうだって私は今の自分勝手な私に育っただろう。私
は二人がこうだから、好き勝手で気ままな生活を送れたのだから。
﹁その⋮⋮何と言うか、ありがとうね。私はこれからも自分で決め
て、ちゃんと幸せになるわ。だから、見ていてね﹂
改まってお礼を言うなんて照れ臭いけれど、ちゃんと目を見て言え
た。
お母さんとお父さんはきょとんとしてから二人で顔を見合わせ、に
っこりと笑顔を私に向けた。
﹁もっちろん。ずっとずっと、死ぬまで見守ってくからね﹂
﹁ああ。七海なら、間違わないだろうからね。安心して見ているよ﹂
その言葉を聞いて私は、もう大丈夫だ、と訳もなく思った。
1405
○
1406
お参り
﹁皐月、久しぶり﹂
﹁お、二人とも久しぶり。元気だった?﹂
声をかけられ顔をあげると小枝子と紗里奈がいた。
﹁はい。あけましておめでとうございます﹂
﹁ああ、忘れてた。あけましておめでとう﹂
﹁あけおめー﹂
軽く挨拶を交わす。今日は1月6日。三が日もとっくに過ぎた平日
で、人はかなり少ない。
明日から学園が始まるので、ついでだからお参りに行って一緒に寮
に戻ろうという話になって、神社近くの駅の改札前で待ち合わせだ。
なんで駅の中かというと外だと寒いから。改札向かいにはベンチも
あるし。
そして一緒に来たらしい二人が時間ぴったりにやってきた。
それにしても、県が違う小枝子と紗里奈が間に合って近くの二人が
まだとか。
ちなみに弘美は遅れると連絡があった。まぁ弘美はすでに寮らしい
から面倒になったりするのは仕方ないっちゃ仕方ないけど。
﹁あ、会長、あけおめでーす﹂
5分ほど雑談しているとさっと紗里奈が手をあげて俺の後ろに向か
って声をあげた。七海が来たらしい。
1407
﹁遅かっ⋮⋮﹂
振り向きながら遅かったなと言おうとして途中で息をのんだ。
﹁あけましておめでとう。連絡もなしに遅れて悪かったわね。弘美
は?﹂
﹁おめでとうございます。弘美さんは遅れるそうです﹂
﹁なんだ、そうなの﹂
七海は振袖をきていた。白を基調にした淡い桃色で桜模様の着物は
すごく似合っていて、驚きすぎて言葉がでない。
﹁やー、にしても会長、気合い入ってますねー。似合ってますよ﹂
﹁とってもお綺麗です。見とれちゃいました﹂
﹁ありがとう。実は両親からのプレゼントに以前に頂いていたのだ
けど、今日初めて着たのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月? ぼーっとしてないで褒めないの? いつもみたいにギザ
モエスとか言っていいんだよ?﹂
﹁なによそれ。皐月? ⋮⋮あ、さては私のあまりの美しさに見と
れてるわね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月さん?﹂
﹁はっ﹂
小枝子が眼前前で手をふってようやく俺は七海を凝視していたこと
に気づく。
﹁大丈夫ですか?﹂
﹁あ、ああ⋮あけましておめでとう。いや、びっくりしたー﹂
1408
﹁なにが?﹂
﹁いやだって、意外じゃない? 七海に着物似合ってるし﹂
﹁なっ、失礼ね。私が着物似合っちゃいけないっていうの?﹂
﹁いけないとかじゃないけど、七海って金髪で胸でかいし﹂
日本人らしい人のが似合うらしいのに、七海は今まで見たどんな人
より似合って見える。
だから不思議だと伝えたのに何故か七海は笑みを引き攣らせ、二人
も固まった。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮怒ってもいいわよね?﹂
﹁同意します﹂
﹁右に同じ﹂
三人で頷きあうと七海がいきなり鼻を引っ張ってきた。
﹁⋮地味に痛い﹂
﹁反省しなさい﹂
﹁なんなんだよ、ったく。鼻が高くなったらどうする﹂
﹁感謝しなさい﹂
﹁ん?﹂
﹁なによ﹂
﹁⋮いや、言い方が悪かったけどそれはないわ。てか、何で怒った
の?﹂
﹁怒られないと思う理由を言ってみなさい﹂
えー? 普通にわかんない。
俺はうーん、と首を捻り考えながら口を開く。
1409
﹁だって、日本人ぽくないのにめちゃくちゃ似合っててすごい綺麗
でなんか色っぽさまで感じるなんて驚かない?﹂
﹁⋮⋮殴ってもいいかしら﹂
﹁なんで!?﹂
意味がわからない!?
俺は二人に視線で助けを求める。
﹁皐月さんって不器用ですよね﹂
﹁てか空気読まないよねー﹂
﹁素直なんですけど⋮﹂
﹁馬鹿正直っていうか﹂
二人は呆れたようにそう言って俺に向かってにこっと笑い
﹁素直に怒られてください﹂
﹁大丈夫、ただの照れ隠しだから﹂
助けを放棄した。
褒めてるのにまた鼻を引っ張られた。さっきより強くてホントに痛
い。
﹁うー。いじめだ。DVだ﹂
﹁ちなみにDVってなんの略?﹂
﹁でぃ⋮でんじゃらす?﹂
﹁惜しいです﹂
﹁惜しくないわよ﹂
﹁皐月は馬鹿だなぁ﹂
﹁なら紗里奈が答えてみなよ﹂
1410
﹁ん? いいよ。どめすてぃっくばいおれっとだよ。ね?﹂
﹁違います﹂
﹁え﹂
﹁馬鹿ね、家庭内スミレって何よ。ドメスティックバイオレンスで
家庭内暴力よ﹂
﹁自信満々で間違うとか恥ずかしいやつ﹂
﹁どんまいです﹂
﹁⋮ミステイックっ!﹂
﹁やかましい﹂
﹁女三人寄ればやましいものさ﹂
﹁え、4人ですよ?﹂
﹁小枝子、今のは姦しいの諺からきてるのよ﹂
﹁ああ、なるほど﹂
﹁ちょっと会長、解説は勘弁してくださいよ。そして小枝子は鈍い
! 普通女三人寄ればでわかるでしょ﹂
﹁ていうかなんで﹃やましい﹄んだよ。そこは﹃やかましい﹄だろ﹂
﹁やましい方がなんとなく色っぽくない?﹂
﹁むしろやらしいわ﹂
﹁女三人寄ればやらしいとか⋮最高だねっ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮えっと、わー、面白ーい、です﹂
﹁⋮ありがとう。優しさが身に染みて苦しいから棒読みはホントに
やめてください﹂
﹁駄目ですか﹂
﹁駄目です﹂
そんな感じで馬鹿話をしているとしばらくして弘美がやってきた。
あれ、最初の話題ってなんだっけ? ⋮まぁいいや。
﹁やほ、あけましておめでとうございます﹂
1411
﹁おおっ。おめでとう。弘美も振袖か﹂
﹁おめでとうございます。とても可愛らしくてよくお似合いですよ﹂
﹁いいねぇいいねぇ﹂
﹁可愛いわね﹂
確かによく似合っている。グラデーションがかった赤に白の蝶とか
の模様があってけして幼いデザインではない。でもどうしてか七五
三を連想してしまう。
いくら弘美が小柄でもさすがに年齢一桁に見えるわけがないのに不
思議だ。
﹁似合ってるな。可愛いよ﹂
﹁ふふん、当然ですよ。七海様も綺麗ですよ﹂
﹁ありがとう﹂
﹁いやー、でもヒロは会長とは違った良さがあるっていうか。家に
持って帰りたいね﹂
﹁そうですよね。ガラスケースに入れて部屋に飾りたいくらい可愛
らしいですよね﹂
﹁弘美は可愛いけど同意できない﹂
﹁小枝子ってたまに危ないわよね﹂
﹁ヒロ逃げてー﹂
﹁半径1m以内に近寄らないで犯罪者﹂
﹁え、ええ? な、なんでですか?﹂
距離をとる弘美に小枝子は困惑するが普通に俺らも心持ち離れる。
ガラスケースとかリアルっぽくて普通にひく。素っぽいのがまたひ
く。
が、天然で言ってるだけで悪意とか0だろうからフォローにまわる
ことにする。
1412
﹁あー、床の間によく飾ってあるお人形さんみたいに可愛いってこ
とだよ。そういうことだよな?﹂
﹁はい、そうですけど?﹂
俺のフォローに不思議そうにする小枝子に、紗里奈は額の汗を拭く
真似をする。
﹁ふう⋮驚かせないでよ。てっきり小枝子がペドで剥製マニアなの
かと思ったよ﹂
﹁そ⋮え。あなたの考えの方がひくわ。年始から気持ち悪いわね﹂
普通にスルーしかけたが、紗里奈のとんでも発言に全員で思いっき
り距離をとる。
﹁紗里奈様の気持ち悪さにはもう慣れましたけど⋮﹂
﹁剥製とかお前どういう頭してんだ﹂
﹁紗里奈さん⋮﹂
﹁うぇえ!? 一気にあたしが悪いやつに⋮もう! いいから早く
お参りしましょうよ! いい加減寒くって仕方がないっ﹂
﹁そうだな。馬鹿話してないで行くか﹂
一応屋内とはいえ暖房はきいてないのでじっとしていると寒くなっ
てくる。
﹁そうね。早く行きましょう﹂
歩きだし並んで駅を出る。
俺は行ったことないけど、弘美が知ってるので弘美が先頭だ。弘美
の隣に小枝子と七海が追いつき着物について話しかけてる。
1413
﹁さーつき、ちゃん﹂
﹁ぅええ? な、なに?﹂
突然気持ち悪い呼び方をされた。にやにや笑ってる紗里奈にとっさ
に警戒する。
﹁皐月さぁ、年末どうだった? 楽しかった?﹂
﹁え、まあ⋮楽しかったけど?﹂
﹁だよねー。いーなぁ。あたしもお泊りしたかったなぁ﹂
﹁え⋮なんで知ってるの?﹂
﹁電話したら会長に自慢された﹂
﹁⋮⋮うわぁ。なんか、ごめん﹂
﹁君に謝られるとむっかつくー♪﹂
﹁キモい﹂
﹁ふへへ。さてさて、では前の人に聞こえないように詳細を話して
もらおうか﹂
﹁なんで。断固拒否する﹂
﹁拒否却下﹂
﹁東京特許許可局局長特許許可却下﹂
﹁東京特許許可ちょくちょく長特許ちょかちゃっか﹂
﹁ドヤ顔すんな。言えてないから﹂
﹁マジで。自信あったのに。それはいいから詳細話せ﹂
﹁ちっ。ごまかせなかったか﹂
﹁あえてノッてあげたあたしに感謝して話せ﹂
﹁詳細つって言ってもなー。会話の一語一句まで話すとか無理だし。
あ、七海ん家では七海が豆腐ハンバーグつくってくれた﹂
﹁馬鹿か君は。そんなのどうでもいい。話すのはエロいことだけで
いいんだよっ﹂
﹁テンションあげるな﹂
﹁淡々と猥談するのもありだけどどうしてもテンションあがっちゃ
1414
うよね﹂
﹁話すことなんてない﹂
﹁またまた。君ん家はともかく会長んトコでは二人きりでイチャイ
チャしてたんだろ。夜に何もなかったとは、言わせねぇよ? ネタ
はあがってんだ。さあ吐け!﹂
﹁もはやお前なにキャラだよ﹂
﹁まぁまぁ、あたしもほら、ようやく親友と猥談できることにテン
ションあがってるんだよ﹂
﹁お前は猥談なら誰でもいいんだろ。さっきからテンション高すぎ
でうざい﹂
﹁まさか。ホモの猥談なんて聞いたら耳が腐るよ﹂
﹁極端すぎる﹂
﹁あたしは女の子が大好きだー!﹂
﹁黙りなさい!﹂
﹁ぐわっ﹂
突然振り向いた七海が着物なのにするっとした素早い動きで紗里奈
の頭をひっぱたいた。大振りな動きを着物でやって全然着崩れない
のはさすがだ。
頭を抑える紗里奈に七海は寒さでなく赤い顔で怒る。
﹁さっきから聞いてれば、本当にもう、気持ち悪いわねっ﹂
﹁さすがに傷つくんですが﹂
﹁うるさいわよ。皐月、変なこと話したら怒るから。いいわね﹂
﹁わ、わかった﹂
ぷいっと俺から顔を背け再び歩きだす七海。
ていうかさっきからもしかしなくてもまる聞こえだったのか。小枝
子は苦笑し弘美はが馬鹿を見る目で俺らを見てから七海に続いた。
1415
﹁⋮行くか﹂
﹁⋮うん﹂
しょんぼりと肩を落とす紗里奈に少し同情する。紗里奈なりに普段
通りにしてくれたのかも知れない。いくら知っていても、好きな相
手からのろけられていい気はしないだろうし。
﹁紗里奈、猥談はまた今度七海以外でな﹂
﹁⋮らじゃっ﹂
俺の小声の言葉に意外そうにしてから紗里奈はにこっと笑って小声
で頷いた。
○
1416
お参り︵後書き︶
少したまったので明日も更新します。
1417
おみくじ
﹁ねぇ、皐月はなにお願いした?﹂
﹁ん? 頭がよくなりますように﹂
﹁なにそれ、つまんないわね﹂
紗里奈の質問に答えると弘美に鼻で笑われ、ちょっとむっとする。
弘美にはわからないだろうけど、俺にとっては切実な願いだ。爺ち
ゃんが大学進学をすすめてくれるのに進学できるとこがなかったら
恥ずかしいし。
﹁じゃあ弘美はなんなんだよ﹂
﹁世界平和﹂
﹁お前は聖人君子か。小枝子は?﹂
﹁素敵な恋人ができますように、です﹂
なんて可愛らしいお願いだ。フッた身として素直に小枝子の幸せを
願おう。
が、またまた弘美は鼻で笑う。
﹁さすが小枝子様、馬鹿っぽいわね﹂
﹁⋮酷いです。弘美さんなんて小学生が書いた短冊のくせに﹂
﹁意味わかんない。世界平和のなにが悪いのよ﹂
﹁わ、悪くはないですけど⋮﹂
﹁まぁ嘘だけど﹂
﹁え!?﹂
﹁なに驚いてるのよ。世界平和なんて願うわけないじゃん。そんな
の信じるのは小枝子様と皐月様くらいよ﹂
﹁俺は信じてないから!﹂
1418
さすがに信じない。ネタの短冊ならともかく、信じてるとかじゃな
く頭の中では普通にお願いしてるだろ。
﹁そんな⋮仲間になってくださいよぉ﹂
﹁一度設定したら変えられない仕様なんだ﹂
﹁改竄してください﹂
﹁不正アクセスと判断しました。拒否します﹂
﹁はいはい、馬鹿話はそれまで。そんなことよりあたしのお願いを
聞いてよー﹂
﹁ん、なんだ。そのためのネタフリだったのか﹂
﹁そうそう。あたしのお願いは、小枝子と付き合えますように﹂
﹁は?﹂
﹁え?﹂
﹁えええ!?﹂
時間が止まる。まさかの告白。
ていうか七海は? 俺がさっきちょっと罪悪感持っりしたのはなん
だったの?
﹁⋮⋮え、ちょっと待ていつから?﹂
﹁いつってか、夏ごろからあたし女遊びやめたんだよ。会長に告白
したからね。それから特に誰もいないし、小枝子ってかなりいい子
だし﹂
﹁⋮⋮えーっと、ごめんなさい?﹂
﹁いやいや、よく考えてよ。フラれ同士ちょうどいいじゃん﹂
﹁謹んで、お断りします﹂
きっぱりと、声に力をいれて笑顔で断る小枝子。
まあそうだろうな。いくらなんでも紗里奈相手に冗談で付き合えな
1419
い。色んな意味で。
﹁あー⋮駄目か。結構真面目に言ったんだけどなぁ﹂
﹁そ、そうなんですか?﹂
﹁うん。恋じゃないけど、普通に好きだし。可愛いし。世話好きだ
からずぼらなあたしとあうと思うんだよね。それに結構あたしら気
ぃあうじゃん?﹂
﹁まぁ、それは私も思いますけど。お友達じゃ駄目なんですか?﹂
﹁だって一人じゃ寂しいし。お試しでいいから付き合ってみない?
なんとお試し中は手を繋ぐだけで我慢しちゃうよ﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
顔は笑ってるが真面目なのを感じとったらしく小枝子は神妙な顔で
再度断る。
﹁恋人は欲しいです。でもそれは、恋した上でなるものだと思うの
で。二人とも想いあってないのに付き合うのはちょっと違うと思い
ます﹂
﹁そだね。まぁ、そう言うだろうねぇ。じゃああたしが本気になっ
て小枝子に特定の相手がいなかったら付き合ってくれるんだよね?﹂
﹁その時はまた考えます﹂
﹁ふーん⋮ま、考えるよ。もしかしたら本気になるかも知れないし﹂
﹁なんでいきなり立場逆転した﹂
マジな雰囲気なので口を挟まなかったが何故か紗里奈が告白された
かのような台詞に思わずツッこんだ。
﹁およ。ほんとだ。不思議不思議﹂
﹁不思議ていうか紗里奈様がアホな提案するから変になったんでし
ょう﹂
1420
﹁なんだとぅ﹂
﹁本当のことです﹂
﹁むむ。別にあたしは弘美に告白してもよかったんだぜぃ﹂
﹁それが本気の発言なら私は紗里奈さんをどうにかしなければなり
ません﹂
﹁ど⋮どうにかってなに? ていうか急にキレるね君﹂
真顔で恐い発言をする小枝子に紗里奈がビビリ腰になる。それを見
てふむ、と七海は一つ頷く。
﹁私が思うに小枝子と弘美が付き合ったりしそうだわ﹂
﹁え、あたしは?﹂
﹁正直あなたはない﹂
﹁⋮⋮﹂
膝に手をついて落ち込んだ。なんと言おうか考えあぐねていると見
かねた小枝子がフォローする。
﹁え、えっと、紗里奈さんにもいいところいっぱいありますよ?﹂
﹁それは知ってるわよ。でも恋人はないわ。みんなもそう思うわよ
ね?﹂
﹁⋮⋮ヒロはノーコメントでお願いします﹂
﹁⋮⋮私も﹂
﹁⋮⋮皐月、あたし泣いていいよね?﹂
﹁そ、そう落ち込むなよ。ノーコメントってあれだよ。ありって言
うのが恥ずかしいから濁してるんだよ。な?﹂
﹁皐月様ふらないで。ヒロ、そういう嘘ってつきたくないの﹂
﹁⋮⋮の、ノーコメントで﹂
前向きに解釈したのに二人して顔をそらした。ていうか殆ど言って
1421
るも同じだった。
さっきの告白で小枝子が本気なら考えると言ったのはもしかして単
に断るのを言葉よく言っただけなのか。
﹁⋮⋮くっ。まさかみんなの中でこんなにあたしの株価が低かった
とは﹂
﹁そういうわけじゃないけど⋮紗里奈様って浮気しそうだしエロそ
うだし変態そうだし口軽そうだし、いちいちなんかあったらみんな
に知られてそうだし﹂
﹁⋮⋮⋮なんか凄い今までの行動を反省したくなってきた﹂
可哀相になったのか弘美が評価が低いわけではない、と言いながら
続けた言葉の数々に打たれた紗里奈はついにしゃがみこんだ。
もはや哀れな域だ。でもどうフォローすればいいのか全然わからな
い。そのうちいい人できるよ、とかテキトーすぎだし。
﹁そんなことよりみんな、これあげるわ﹂
﹁そんなことって、え? お守り? いつの間に買ったの?﹂
話の始まりのくせに突然遮ってお守りを配り出した七海に問い掛け
ると七海はキョトンとする。
﹁気づかなかったの? 今よ﹂
﹁具体的には?﹂
﹁ノーコメントに紗里奈が落ち込んだ時よ﹂
﹁なにしてんの﹂
自分で落ち込ませて放置とかこいつ鬼か。俺こいつと付き合ってて
大丈夫なんだろうか。
1422
﹁はい、特別に紗里奈には二つあげるわ﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
﹁学業成就ねぇ⋮まあ、ダサいお守りですけど貰っておきます。あ
りがとうございます﹂
﹁弘美は一言多いわね。それしか売ってないんだから仕方ないじゃ
ない﹂
俺のも学業成就だ。どうやらみんな同じやつみたいだ。
﹁んじゃ、そろそろ学校行くか。寒いし﹂
﹁あ、ちょっと待って。ヒロあれしたい﹂
﹁あれ?﹂
﹁あの⋮こう、くじびき?﹂
﹁言われても⋮もう出店ないしなぁ﹂
﹁弘美、諦めなさい。また春にはお祭りがあるわよ﹂
﹁そうじゃありません。あの、ほら! 紙を木に結ぶやつです﹂
﹁ああ⋮おみくじですね﹂
﹁あ、それそれ。今名前でなかったわ。それ、やりましょうよ﹂
弘美の提案は特に不満がでるわけもなく、皆でおみくじをひくこと
になった。
八角形の筒をふって出てきた棒にある番号を巫子さんに告げながら
お金を払い、隣にいた紗里奈に渡す。
﹁お、大吉だ﹂
﹁⋮ヒロびみょー。末吉﹂
二つあるので同時にやって紙を渡された弘美は渋い顔をしている。
苦笑しながら内容を黙読。
ふむ、大吉なのはいいけど、そこまでだな。恋愛運はいいけど学業
1423
が要努力か、旅も駄目だ。失せ物はでてくる。全体的にはオッケー
かな。
﹁皐月さんはなんでした? 私は中吉です﹂
﹁ん、大吉﹂
﹁あ、お揃いだ。いぇい!﹂
小枝子への答えに覗き込んできた紗里奈のハイタッチに付き合って
から覗き返す。
﹁どれ、あ、てか同じやつじゃん﹂
﹁え。それって当たり前じゃないの?﹂
﹁同じ大吉でもいっぱいあるだろ。なんのためにあれだけ引き出し
あると思ってんだ﹂
﹁ふいんきづくり﹂
﹁雰囲気﹂
﹁ふっ、陰気のためさ﹂
﹁意味わからん。七海は?﹂
最後におみくじを手にして無言で見ている七海の背中に問い掛ける。
﹁⋮⋮凶﹂
﹁⋮え? 凶!? マジで!?﹂
振り返らずに言われた単語に思わず近寄って背中から覗き込む。
おお、本当に凶だ。本当にあったんだ。見たことなかった。初凶だ
初凶。
﹁すげー、レアだ。よかったな、七海﹂
﹁いいわけないでしょう。私、滅多にやらないからか凶をあてたの
1424
は初めてだわ﹂
﹁あてたって、会長は何だか妙な言い方しますね。ひくじゃないん
ですか?﹂
﹁だって自分の意思じゃないもの﹂
﹁子供かよ﹂
﹁皐月様、ちょっと皐月様の見せて﹂
むくれぎみの七海に笑っていると弘美が袖をひいて催促してきた。
﹁ん? いいぞ﹂
渡すとむむむ、と俺のおみくじを見つめ
﹁交換して。はい、皐月様が末吉ね﹂
と俺に自分のを押し付けてきた。仕方ないから受け取りながらも呆
れる。
﹁おいおい。そういうもんじゃないだろ﹂
﹁どうせ気分の問題でしょ。それに待ち人来たるだからこっちがい
い﹂
言われてみると弘美のは待ち人来ずになっていた。恋愛まぁまぁ旅
は時期を待てとかそれなりな内容だった。
まぁ、学業が俺のよりほんのりよさ気だし、気分の問題には違いな
いしいいか。
﹁わかった。そのかわり学業は頑張れよ﹂
﹁ヒロには必要のない項目ね﹂
1425
自信家な発言だ。成績的にその通りではあるが。
﹁よし、じゃあ結ぶか﹂
木の前に行き、適当なところで結−びりっ−⋮⋮破れた。
﹁不器用すぎでしょ。貸して。ヒロので挟んで結んであげるわ﹂
﹁お、サンキュ﹂
﹁そのかわり抱いて﹂
﹁⋮え!?﹂
﹁なに驚いてるのよ。ほら早く。あの枝がいいわ﹂
弘美はそう言って他のおみくじ群より上の高い枝先を指差した。
⋮ああ! なるほど。高いとこにつけたかったのか。それで抱き上
げろ、と。⋮⋮子供か!
﹁わかったわかった、はい、腕あげてー﹂
﹁最初からそうすりゃいいのよ。全く、なにに驚い⋮⋮! はっ、
ちょっ! ヒロに変なことしたらぶっ殺すわよ!﹂
腕をあげてからはっと表情を一変させて弘美は自分で自分を抱きし
めた。
ご、誤解だ! いや誤解ではないけど誤解だ!! 最初は一瞬そん
なニュアンスに感じたけど断じてよこしまな感情を抱いたりしてな
い!!
﹁誤解だ! 俺は清廉潔白だ!﹂
﹁ふん⋮さっさとしなさい﹂
再び腕をあげた弘美にからかわれたのかと脱力しながら、俺はおみ
1426
くじを渡して脇の下に手を入れて抱き上げた。
﹁ほーら、高い高ーいでっ。悪かったよ﹂
無言で蹴られたから素直に謝っておく。前にもこんなことがあった
気がする。
結び終わったので下ろす。すると今度は紗里奈がおみくじ片手にや
ってきた。
まだ結んでないのか。
﹁皐月皐月、あたしも上がいい。抱っこしてよ﹂
﹁はぁ? 子供かよ。ていうか、体格が近いと疲れるから嫌だ﹂
﹁できないとは言わないんだ﹂
﹁できなくはないと思うけど、持ち上げ続けると多分腕がぷるぷる
する﹂
ただ単に抱っこするならともかく、腕の力だけで上に持ち上げるの
ってそうとう力がいるんだよな。
﹁むぅ、仕方ない。諦めよう﹂
﹁そうしてくれ﹂
﹁じゃあ肩車して﹂
﹁はあ!?﹂
﹁あたしならズボンだからオッケーでしょ﹂
﹁いやできるけど⋮お前子供かよ。恥ずかしいしやだ﹂
肩車なんて親が子供にするならともかく端から見たら変すぎるだろ。
抱っこだって弘美だからセーフみたいなものだ。
﹁えー﹂
1427
﹁帰ったらやってやるから我慢しろ﹂
﹁意味ないし。ちぇー﹂
唇を尖らせながら紗里奈がおみくじを結んだ。
﹁さて、寒いしさっさと学校行くか﹂
○
1428
七海の部屋で
﹁ふー、疲れた﹂
﹁全く全く。誰ー、せっかくだし歩こうとか言ったの﹂
﹁紗里奈様でしょ﹂
﹁てへっ﹂
紗里奈が車じゃなく歩きで、と提案したので学園近くのバス停から
歩くはめになった。距離はそこまでではないが坂道なので疲れた。
﹁あ、弘美さん、明日のことで確認したいことがあるんですけどい
いですか?﹂
﹁ん? わかった。なら着替えたら行くわ﹂
﹁え、私が行きますよ?﹂
﹁⋮着替えに時間がかかるから。途中でこられたら焦るし。小枝子
様はお茶の用意でもして待ってて﹂
﹁あ、すみません。わかりました﹂
﹁明日? なーんであたしに言わないし﹂
﹁ん? 俺も聞いたほうがいい?﹂
﹁いえ、そんな大したことじゃないから大丈夫です。単に弘美さん
が一番話がスムーズだと思うので﹂
俺は指示される側だし、紗里奈は能力高いけどすぐふざけるもんな。
その点、弘美は実は今の淑女会で一番仕事ができる。七海がいなく
なった今主力だし。
﹁⋮否定できないけど、ちょっと悲しいね﹂
﹁あー、まあ俺ってほら、機動力要因だし﹂
﹁その方向でいくとあたしはおいろけ要因か⋮なら仕方ないか!﹂
1429
﹁仕方なくねーよ。お前も仕事しろ﹂
﹁さーて、早く部屋に戻るかっ﹂
﹁ん。あ、七海、後で遊び行っていい?﹂
﹁ん? ああ、ええ、構わないわよ﹂
ぼんやりしていた七海は少し驚いたように反応した。
疑問に思わないでもないが、とりあえず荷物を置きに行こうと解散
した。
○
﹁七海、いい?﹂
﹁いいわよ﹂
弘美の言葉を覚えていたので時間を空けて訪ねたらすんなり返事が
きた。
ちょうどいいくらいかな、と内心頷きながら入室した。
あ、ちなみに部屋はすでに掃除されてるから。
﹁って、あれ?﹂
﹁なによ﹂
﹁いや⋮?﹂
ベッドに座って俺を見る七海は何故かまだ着物だった。
1430
﹁なんでまだ着替えてないの?﹂
俺なんてすでに部屋用のくたびれたトレーナーだ。
隣に座りながら聞くと七海は戸惑ったように視線を泳がせる。
﹁え⋮⋮ん、今日、脱いだら家に送ってまた当分着ないから⋮名残
惜しんでいたのよ﹂
﹁ふーん﹂
何故ごまかすのかはわからないけど、話したくないならどうでもい
いし触れないでおく。
改めて七海を見る。
﹁七海、綺麗だよ﹂
﹁な⋮なによ、突然﹂
﹁そう? 最初に言わなかった? 似合ってるし綺麗だよ。髪をア
ップにしてるのも色っぽいし﹂
言いながら、少しドキドキしてきた。見た目には慣れたとはいえ二
人きりで隣にいるにはやはり、新鮮で眩しいくらいだ。
七海は赤くなる。普段は見えない首筋までほんのり赤らんでいるの
がよくわかっるのがまた、ドキドキする。
少し距離をつめる。友達の距離から、恋人の距離に。
﹁なんか、いい匂いするね。匂い袋?﹂
﹁そうよ。今は巾着ごと机だけど今日一日持ってたから匂いが移っ
たのね。今まで気づかなかったの?﹂
﹁うん。外だからかな。寒かったし﹂
1431
﹁あなた寒いと鼻がきかなくなるの?﹂
﹁ならない? ソースの匂いとかは別だけど。細かい匂いってわか
んなくなる﹂
﹁私、元々そんなに鼻がよくないもの﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁そうよ。だから香水とかは強すぎないように気をつかってるのよ﹂
﹁香水って普段あんまりつけてない、よな?﹂
﹁つけてるわよ。といっても学園だからね。ほんのりうすーくだけ
ど。わからなかった?﹂
﹁うーん。じゃあ体臭だと思ってたいい匂いがそうなのかな﹂
あれ、七海がさらに赤くなった。どうしたんだろ。
﹁⋮⋮﹂
﹁七海?﹂
﹁⋮なに?﹂
﹁なに照れてんの?﹂
﹁て、照れてないわよ﹂
﹁嘘だぁ。耳まで赤いじゃん﹂
からかうと七海は両手で耳をおおった。
たまにする幼い動作が、たまらなく愛くるしいって自覚してないん
だろうな。
﹁赤くないわよ。変なこと言わないで﹂
﹁変なことではないと思うけど?﹂
﹁⋮⋮﹂
黙ってしまった。
可愛いなって思う。口に出すと生意気だと怒られるかも知れないけ
1432
ど。子供みたいに振る舞う七海は近寄りがたいくらいに綺麗なのか
ら一転して、すごく可愛くなる。
そういうとこ、好きだ。もっと見せてほしい。我が儘を言って構わ
ない。俺にだけ、甘えてほしい。
俺が子供でつい甘えてしまうのはとりあえず棚上げして、そう思う。
﹁七海﹂
名前を呼びながら、無防備な唇にキスをした。
本当はずっと、今日会った時からしたかった。
抱きしめたかったし、手を繋ぎたかった。着物が似合いすぎるその
姿を誰にも見せないようにしたかった。
でもそんな独占欲は格好悪いし、人前でベタベタするのは恥ずかし
いから我慢した。
今年一番のキスは、死ぬほど気持ち良かった。
○
ああ、もう私は終わった人間なのよね。と小枝子が弘美に話しかけ
た時に思った。
去年に会長を辞しているので当たり前なのだけれど、少し寂しいよ
うな、親心に似た感傷が心で渦巻いた。
1433
﹁ん。あ、七海、後で遊び行っていい?﹂
だけど皐月にそう言われ、返事を返す時にはもうそんな感傷は吹き
飛んでいた。
今年初めて皐月に会うから気合いをいれておめかししたのに、皐月
は褒めてはくれたし嬉しかったけど、反応が薄かったから気にして
いた。
それに流れ的に仕方ないとはいえ弘美とおみくじを交換したのもち
ょっと嫌だった。
みんな知っているのだから、手ぐらい繋いで欲しかった。
そんな子供みたいなこと、とてもじゃないけど人前で言えない。私
から言うのも、悔しくて恥ずかしい。察して欲しかったのに皐月っ
たら全く気づかない。
でもだから、部屋に行きたいと言う言葉は嬉しかった。
皐月もやっぱり私と一緒にいたいんじゃないって笑みがこぼれそう
になったのを我慢した。
﹁七海、いい?﹂
とノックされたのは私が部屋についてから25分を過ぎてからだっ
た。遅いと言いそうになるのを抑えて返事をする。
部屋に入ってきた皐月は私の隣に、ごく普通の距離感で腰掛ける。
もっと近く、いやいっそ抱きしめてほしいのに。不満が募る。
私はさっきから、最初から、ずっと、皐月を待ち焦がれているのに。
﹁なんでまだ着替えてないの?﹂
1434
﹁え﹂
聞かれた意味がわからない。だって、皐月に喜んでもらおうと思っ
ていたのに。
だけど雰囲気から察するに遅かったのも着替えを想定したからだろ
う。私は苦しい言い訳をする。
﹁ふーん﹂
気のない返事に興味がないなら聞かないでと怒鳴りたくなった。そ
うしなかったかわりに泣きそうになった。
私は、その⋮てっきり、また、いろいろ⋮するのかと、思っていた。
だから、さっき色っぽいと言ったこの格好で待っていたのに。
﹁七海、綺麗だよ﹂
﹁な⋮なによ、突然﹂
じっと見つめてきた皐月に戸惑っていると、また、色っぽいと私を
褒めた。
ただ綺麗だと言われるより何故か嬉しかった。
皐月は自然に私に近寄ってきた。触れ合いそうな距離に、どきっと
した。何度だって触れているはずなのに。何度もドキドキする。
﹁いい匂いするね。匂い袋?﹂
言われ慣れない言葉は嬉しいけど、それより触れて欲しいと思った。
近くにある皐月の顔が私にだけ向いている。それだけで、私は彼女
にキスしたくなる。
皐月を存分に見つめながらぼんやりと会話をしていると、ふいに皐
月がさらに距離をつめてすんと鼻を小さくならす。
1435
﹁うーん。じゃあ体臭だと思ってたいい匂いがそうなのかな﹂
匂いを嗅がれたのだと気づいて、体が熱くなる。
あからさまに、私の体の匂いを嗅がれた。そんなに近寄ると匂い袋
以外の匂いが混じって変な匂いになってはいないか。
それに、普段からいい匂いと言われた。普段から匂いを嗅がれてい
たのか。当たり前のようでいて急に恥ずかしくなった。香料でなく
本当の体臭も嗅がれていたかと思うと体温が上昇するのがとめられ
ない。
﹁⋮⋮﹂
﹁七海?﹂
﹁⋮なに?﹂
﹁なに照れてんの?﹂
﹁て、照れてないわよ﹂
﹁嘘だぁ。耳まで赤いじゃん﹂
指摘されて耳を隠す。って、これじゃ照れていると白状しているよ
うなものだ。
でも自覚するとますます耳まで熱を持ち、私は手を下ろせない。
﹁赤くないわよ。変なこと言わないで﹂
﹁変なことではないと思うけど?﹂
ついキツイ言い方になってしまう。でも皐月は平気で笑いながら言
い返してくる。
自分がひどく子供になってしまったような感覚になる。情けない。
言葉がでない。
でも仕方ないじゃない。それだけ皐月が好きなんだから。
1436
﹁七海﹂
と、キスされた。
優しく、柔らかく、温かいキスだった。今年最初のキスだ。
﹁⋮へへ、キスしちゃった﹂
唇を離してはにかむ皐月に、好きだという気持ちが爆発しそうだっ
た。
﹁七−﹂
皐月の肩をつかんで唇を合わせる間もないくらいに舌を押し込む。
ぬるぬると熱い舌にぶつけて、唾を流し込む。
﹁っ⋮んくっ、﹂
飲み込んだ皐月はいきなりで驚いたのか、苦しかったのか、わずか
に瞳が潤んでいた。
﹁皐月、いいわよね﹂
﹁⋮ぅん﹂
小さく赤い顔で頷いた皐月はわずかに微笑んでいても目が光ってい
て、皐月も私に欲情しているのだとよくわかった。きっと私も、似
たような顔をしているのだろう。
1437
○
1438
猥談
﹁こっちを見たら怒るわよ﹂
﹁んー﹂
服を着直しながら言われた通り、七海から顔をそらしてベッドに腰
掛けなおす。
と、床に放り出されてる布きれが目に入った。
﹁!﹂
拾った瞬間、それがなんだったか思いだした。
七海のパンツだ。ショーツと言おうか。時間がたってるけどまだか
なりぐっしょりしてる。何もしないうちからびしょびしょで、七海
がすぐに脱いで放ったやつだ。
つん、と強い、さっきまで嗅いだり舐めたりしてた匂いがする。最
初に見た時は興奮したけど今はそうでもない。
冷静に見ると、キスしかしてないのにこんなにぬれるなんて何とな
く笑えるような気持ちになる。
微笑ましいというか、にやつきそうというか。なんて言えばいいの
か。嬉しい、かな。
それだけ俺のこと好きなのか、単に七海がスケベなやつなのか。ど
っちにしてもにやつくけど。
﹁よいしょ、っと。お待⋮⋮っ!?﹂
﹁わっ!﹂
猛烈な勢いで背後から伸びてきた手にパンツを奪われた。
1439
﹁なななななっ、ななに!? なに持ってるのよ!?﹂
﹁パンツ﹂
﹁ぱっ⋮、馬鹿!!﹂
真っ赤な顔で混乱してるのか自分のパンツをくちゃくちゃに丸める
七海。
着替えた時にまさかパンツがないことに気づかないことはないだろ
うに。それにさっき普通に見たのに。いくらなんでもオーバーな反
応だ。
﹁あなたってっ、あなたって人は! ほんっとにデリカシーがない
わね!﹂
めちゃくちゃ怒ってる。返す言葉に困って頭をかく。
﹁デリカシーってなに?﹂
﹁⋮⋮本気で知らないの?﹂
﹁わかるけど、具体的にどういうことかわかんない﹂
﹁デリカシーっていうのは⋮⋮⋮細やかな感受性というか繊細とい
うか⋮ようするに、女心のわからない方ねと私は言いたいのよ﹂
﹁まあ⋮わかんないよ﹂
﹁当たり前みたいに言わないの。あなたも女なんだから﹂
﹁そうだけどさぁ﹂
昔より女らしく、なっているとは、思う。口調もだし、座る時にス
カート押さえる癖がズボンの時にでた時とか。丸くなったというと
前にとんがってたみたいでなんか違うけど。
﹁あんまりお説教みたいなことを言いたくないけれど。あなたは女
1440
心に限らずあまり心の機敏がわからない子よね。気遣いをする優し
さはあっても半分くらい検討違いで空回りしているし﹂
﹁そ、そうなの?﹂
﹁そうよ﹂
呆れたようにして七海はパンツを片付けて俺の隣に私服で座りなが
らダメ出しする。
えー。それちょっと初耳でショックなんですけど。
﹁だいたいあなた、私がしてほしいと思ったことも全然察してくれ
ないじゃない。今日だって⋮手くらい、繋いで欲しかったわ﹂
﹁え⋮やぁ、そりゃ俺だって手ぇ繋ぎたかったよ。でも⋮他の人に
見られるの恥ずかしいし。ていうか察してとか言われてもなぁ。口
で言ってよ﹂
﹁⋮そのくらい察するのが恋人の仕事でしょ﹂
無茶苦茶だ。でも拗ねて唇を尖らせる七海が可愛いから頷くことに
する。
﹁わかった、察せれるよう努力するよ。でもさ、いちゃいちゃする
のは二人きりの時だけでいいだろ?﹂
﹁⋮⋮わかったわよ。我慢するわ﹂
不満そうにしながら渋々同意してくれた七海。
手を繋ぎたいと言ってくれて、同じ気持ちなのはすごく嬉しい。で
も恥ずかしい。少なくとも知ってる人の前では絶対無理。
﹁ごめんね。そのかわり、二人の時はずっと手を繋ごう? 俺も七
海とできるだけ繋がっていたいから﹂
1441
そっと手を握りながら言うと、きゅっと握りかえされた。
﹁ごめんな。何て言うか、見栄っ張りで﹂
﹁あなたのは恥ずかしがり屋っていうのよ﹂
﹁そっか。見栄っ張りは七海だったな﹂
﹁黙りなさい﹂
﹁じゃあ、七海が塞いでよ﹂
﹁⋮馬鹿﹂
目を閉じると七海がキスしてくる。
くすぐったくてただ触れるだけなのに気持ちいい。
﹁七海、好き﹂
﹁皐⋮⋮ダメっ﹂
キスを仕返して、さらにもう一度キスをしようとしたら七海が急に
はっとしたようになって、肩を押された。
﹁な、なに?﹂
﹁もう7時だわ﹂
﹁え、ああ⋮そだね。ご飯行く?﹂
﹁⋮皐月、ちょっと真面目な話をするわね﹂
﹁ん? う、うん﹂
真面目な顔の七海に俺は背筋を伸ばす。七海は少し言いづらそうに
しつつも口を開く。
﹁私たち、付き合ってから会う度にこういうことしてるじゃない?
こういうの⋮ダメだと思うの﹂
﹁えっ?﹂
1442
えー、いや、まぁ、確かに? そうとも言える。でも付き合いたて
で休みを挟んでるからちょっとくらい仕方ないと思うんだけど。
﹁あの、別にね? 私も、嫌ってわけではないの。むしろ⋮という
か、ね? わかるでしょ?﹂
﹁う、うん﹂
七海が嫌がってないことはよく知ってる。というか好きなんじゃな
いかと思う。言わないけど。
﹁ただ、学校が始まるし⋮二人きりになる度にこんなことじゃいけ
ないわ﹂
﹁じゃあ当分なしにする?﹂
﹁え、いやっ、あの⋮とりあえず、平日は二人きりでも、しないこ
とにしましょう﹂
﹁わかった。手を繋いだりキスするのはいい?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮き、キスはダメ﹂
物凄く悩んで視線を泳がせて禁止する七海。どうみても揺れてる。
今週はちょっと短いとは言え、手を繋ぐだけじゃちょっと寂しいの
であと一押ししてみる。
﹁えー、ほっぺたでも? 挨拶のキスくらいいいじゃん﹂
﹁⋮あ、挨拶⋮挨拶なら、うん、いいわ﹂
迷いながらも頷いた七海。
そんなに悩むくらいなら、別にわざわざ禁止しなくてもいいと思う
んだけどなぁ。人前でいちゃつかない程度になら二人とも普通に我
慢できるし、まさか毎日こうはならないだろうし。
1443
まあ、七海がそうしたいならそうするか。休みはいちゃいちゃでき
るって方が楽しみにもなるし。
﹁じゃ、ご飯食べに行こっか﹂
﹁あ⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮今日はお休みだから。キスしたいなら、してもいいわよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
俺は七海にキスをしながら抱きしめた。
○
一時間くらいいちゃいちゃしてから晩御飯を食べ、七海と別れて自
室に戻ってお風呂入ったりしてたら早くも10時。
寝るには少し早いけど、部屋にテレビはない。理由もなく誰かを訪
ねるには遅い時間だ。
誰かにメールでもしようか、とベッドに寝転んで携帯電話を開いた。
﹁ん、と﹂
ちょうど、メール受信画面だった。タイミングがいい。
1444
紗里奈からだ。今良かったら話さないかとのお誘いだったので電話
をかけた。
﹁もしもし﹂
﹃もっしもっし、かっめよー﹄
﹁テンション高いな﹂
﹃んー、まあね。明日から授業だし憂鬱っちゃ憂鬱なんだけどね。
課題やった?﹄
﹁やったよ。てか今さらだな﹂
﹃まね。つか今日さ、あれからずっといちゃいちゃしてたわけ?﹄
﹁ん。んーまあ﹂
﹃はー。変われば変わるもんだ。てかぶっちゃけどこまでやってん
の﹄
﹁⋮言わなきゃダメか?﹂
﹃話してくれんじゃないの?﹄
﹁そうだけど⋮なんか恥ずかしいし﹂
﹃直より電話の方が話しやすいかなって思ったんだけどなー﹄
﹁んー⋮そうかも知れないけど。直の方が恥ずかしくてもマシかも。
反応わかんないとキツイ﹂
﹃あー⋮わかった。今から行く﹄
﹁え、い−﹂
電話がきられた。
今から来るのか。確かに2時間くらいなら大丈夫だけど、遅いのに。
30分か1時間くらい時間潰して寝ようと思っただけなんだけど。
⋮まあいいか。
しばらくしてノックもなくドアが静かに開いて、こそっと入ってき
た紗里奈が小声をあげる。
1445
﹁お待たー﹂
﹁なんで小声?﹂
﹁や、凄い静かだし。普段から声があるようなないようなくらいだ
けど、今日はほんっとに静かだよ﹂
﹁明日から始まるからだろ。てか⋮なに持ってきてんだよ﹂
﹁見てわかんない? 日本酒だけど﹂
普通の声に戻ってさらりと答えながらベッドにあがりこんだ紗里奈
に、俺は怒りそうなところを眉間を揉んで鎮めた。
﹁⋮⋮意味がわからない。明日から授業だぞ﹂
﹁大丈夫大丈夫。午前は式だし。それにアルコール入ってた方が話
しやすいでしょ﹂
はい、とコップを渡され受け取ると並々と注がれて思わず口をつけ
る。熱い。
﹁うーん、俺、日本酒はあんま好きじゃないんだよな﹂
﹁お子様なんだよ﹂
﹁お前がおっさんなんだよ﹂
﹁ま、失礼な。あたしは単にアルコールなら基本何でも好きなだけ
だよ。会長なんて⋮ああ、そういや、会長は小枝子だった。今日結
構会長呼びしちゃった﹂
そういえば、普通に会長と呼んでたな。でも誰も言わなかったから、
みんなわかっててもまだ自覚ないよな。
﹁とにかく七海様⋮個性がないな。いっそ前会長。ぜんかいちょう
⋮前長。⋮ううん、前会長でいいか﹂
﹁そんな無理矢理な﹂
1446
﹁だって今更名前でなんて、気恥ずかしいったらないよ﹂
﹁⋮お前って実はそういうシャイなとこあるよな﹂
﹁よせやい、照れるぜ﹂
﹁照れるな照れるな﹂
﹁⋮なんの話だっけ﹂
﹁ん? 七海の呼び方だろ﹂
﹁その前なんだけど。んー、まあいいや。飲め飲め﹂
﹁ん﹂
味は苦手なので一気に飲む。くらりと一瞬視界が揺れ、じわじわと
力が抜ける。
﹁っはー。うまいっ﹂
同じく一気飲みした紗里奈に笑う。いい気持ちになってきた。これ
度数高くない?
﹁でー? 会長とどこまでやったんだ? あーん?﹂
﹁うんー。今日、指いれた﹂
﹁ほうほう。てことは去年はそこまでじゃないと?﹂
﹁うーんー。舐めあったくらいかなー﹂
特に視界が回ったりぶれたりはしないけど、何故か目の前の紗里奈
に焦点があわない。
でも気にならないくらいに何だか楽しい気分だ。
﹁気持ち良かった?﹂
﹁んー。キスしたり触るのは気持ちいいけど、舐められるのはなん
かぞくぞくしすぎて気持ち悪い感じもする﹂
﹁気持ち悪いの?﹂
1447
﹁んー⋮。なんか、最初特に気持ち悪かった。なめくじみたいで﹂
﹁でも気持ちいいんでしょ?﹂
﹁⋮⋮ちょっとだけ。気持ち悪いのに気持ちいいって、変かなぁ﹂
﹁変じゃないよ。てか多分君は気持ちよすぎて気持ち悪いって勘違
いしてるだけだよ。キスが一番気持ちいいと思うのがそのショーコ
だよ﹂
﹁ふーん? でも自分でした時は普通に気持ちいいって思ったよ?﹂
﹁きました! きたきたきた! そういうの聞きたかった! 盛り
上がってまいりました! ささ、飲んで飲んで﹂
﹁ん﹂
調子に乗って話しすぎたかも知れない。恥ずかしさで熱くなるのを
ごまかすため、もう一度一気飲みした。
こうなったらとことん話そう。実はいまだにどうすればいいかよく
わからないし。七海には喜んで欲しいから。
なに、紗里奈なら言い触らしたりしないしばれないだろ。
○
1448
猥談とか二度としない
皐月が一気飲みした瞬間、勝った!と内心ガッツポーズした。
このお酒は秘蔵っ子虎の子愛の子な、高度数かつ非常に気分がよく
なって舌がよくまわるようになるものだ。
あたしもよく知らないけど昔は自白とかにつかわれてた成分が入っ
てるらしい。別に違法なものじゃないけど非常に怪しい。前に好奇
心で買って2年ほど眠らせてたけどついに日の目を見ることになっ
た。
と、あたしも飲まなきゃ。嫌がらせじゃなくあくまで楽しく素直に
猥談するためのものだからね。
﹁っはー。うまいっ﹂
一気飲みした。反射的にうまいっと言ったけどそーでもない?
いやそうかも? てゆうか、度数高いとかじゃなくて、なんか、気
持ちいい?
﹁でー? 会長とどこまでやったんだ? あーん?﹂
﹁うんー。今日、指いれた﹂
くらくらして何だか笑いだしたくなる気分のまま尋ねるとにへらと
だらしなく笑いながら皐月が答えた。
まー、なんて素直なんでしょー。
﹁ほうほう。てことは去年はそこまでじゃないと?﹂
﹁うーんー。舐めあったくらいかなー﹂
1449
皐月の顔を見てちゃんと見えてるのに見てないような、遠近感が狂
ってるのかな。でも楽しくなっちゃってるからいいお酒だな、うん。
﹁⋮⋮ちょっとだけ。気持ち悪いのに気持ちいいって、変かなぁ﹂
顎を引いて上目遣いになる皐月は可愛いなー、キスしたい。気持ち
いいかもよくわかんないなんてホントに子供だにー。
﹁でも自分でした時は普通に気持ちいいって思ったよ?﹂
おおっと! ここでオナニー宣言きた! うひゃおー! テンショ
ンあ・がっ・て・き・た!!
皐月とお互いもういっぱいずつ飲む。
うまうま。うん、うまい。さらにもういっぱい。
﹁いつぅ、オナニーしたの?﹂
﹁まえ、七海と最初にエッチなことした時に途中でとめた時ぃ﹂
﹁くわしく!﹂
話を聞くに、皐月はどうも中があんまり感じないらしい。まだ慣れ
てないだけとも言えるけど。逆に今日のことで前会長は中も感じる
らしいとわかった。
あー! 真面目な人が実はエロい人とかありがちだけど超興奮する
ー!
﹁皐月はいーなー。あんな美人といいことできてー﹂
失恋した以上まだ好きだとか言わないけど、それ抜きにしてもあの
レベルの容姿とはエロいことしたい。ちょーしたい。
1450
﹁んー、まあ、まあなー。七海美人だよなー。なんで俺と恋人なの
か不思議ぃ﹂
﹁そ? それは別に不思議じゃないよー﹂
皐月もそれなりの容姿だし、それに素直でヘタレなとこは結構ペッ
ト的可愛さがあると思う。ていうか、性格だ。
﹁そうかぁ?﹂
﹁うん。それに、男まさりな君が涙目で懇願する姿とか想像しただ
けで抜けるね﹂
﹁きっもー、お前一回死んでー﹂
あははははと声をあげて笑う皐月に、あたしも声をあげる。
﹁いやまじまじー。ねぇねぇ、キスしようよ、キス﹂
﹁えー? やだー。七海一筋だもーん﹂
﹁いーじゃん。ほっぺたなら挨拶じゃんじゃーん﹂
﹁んー、よしきたー﹂
ちゅ、とあたしのほっぺたにキスした皐月はうきゃー、と照れたふ
りして笑う。
﹁かわいいなー﹂
﹁あはは、紗里奈もかーわいーよー﹂
首に手をまわして抱き着いてきた皐月を抱きしめてほっぺたにちゅ
ーした。
﹁えへへへへぇ。なんか楽しいね﹂
1451
﹁うーん、あたしのお酒のおかげだぞー。飲め飲めー﹂
﹁わーい、やったー﹂
﹁いぇーい﹂
お酒を口に含んで皐月に口移しで飲ませる。
﹁うう、うえー。なにすんだー。このエロスー﹂
﹁なに言ってんのー。ほっぺたも口もおんなじ、顔の皮膚じゃーん﹂
﹁⋮おお! ほんとだ! なーんだ、問題ないじゃん﹂
﹁じゃんじゃーん﹂
﹁じゃじゃじゃじゃーん﹂
﹁飲もう飲もう﹂
﹁おー。次俺が飲ませちゃる! ちょーだい﹂
渡すと今度は皐月が口に含んで飲ませてくれた。ちょっとこぼれた
から。れろれろれろと皐月の頬を舐める。
あれー。なんか皐月美味しいなー。
﹁あうー﹂
﹁皐月ぃ、ちょっとえっちぃことしない?﹂
﹁しねーよおよ、なんれらーよ﹂
﹁あ、酔ってるなー﹂
﹁酔ってゆよー﹂
﹁かわいー﹂
皐月の口を舐めた。なんかホントに美味しいなぁ。
﹁やーめーれー。おみゃ、犬かー﹂
﹁わんこじゃなくて、にゃんこだー﹂
﹁にゃー﹂
1452
﹁うにゃー﹂
ごろごろぐるぐる転がって、いつしかあたしは眠りについた。
○
﹁⋮⋮うぁー、あっ、たま痛ぇ﹂
目を覚ますと頭を押さえる皐月がいた。
あー⋮ちょーやべぇ。やっちまった。最後の一線は越えてないけど
セクハラしまくってしまった。
﹁⋮あ゛? 紗里奈⋮あー⋮うっわ、思い出した⋮やべぇ。お前と
口移しするとか最悪なんだけど﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁ん? 忘れたのか?﹂
口移しが、最後の記憶? てことは⋮⋮セーーーフ!! セーフ!
! よかったー!
べろちゅーとか胸触ったりしたことはなかったことになってる! よかったー。
⋮⋮逆に言えばあたし半分寝てる人間に悪戯してしまった。最悪だ
ー。
1453
﹁⋮⋮いや、覚えてるよ。まあまあ、要は単なるキスじゃん。挨拶
挨拶。キスくらいいいじゃまいか﹂
﹁うー⋮はあ、もう済んだことだし仕方ないけどー。けどなー、罪
悪感⋮﹂
流された。いや流してオッケー! 昨日なんてなかったんだ!
﹁友達なんだからキスくらい大丈夫だって!﹂
落ち込んでる皐月の肩を叩く。じろりとじと目で見られた。
﹁⋮⋮もう二度と、お前と猥談なんてしないからな﹂
﹁えー﹂
﹁えーじゃねぇよ。俺は七海一筋になる。頬でもぜってぇキスしな
い﹂
﹁つれないなぁ﹂
﹁お前、もしかして最初があれが目的で猥談を?﹂
﹁え、違うよー。いやー、あたしもまさかああなるとは。昨日はや
けに皐月が可愛く見えちゃってさ﹂
﹁俺も昨日はやたら気持ち良くてふわふわしてた⋮⋮あのお酒、や
ばいものじゃないだろうな﹂
﹁⋮やばくないよ﹂
﹁おい、何で目をそらす﹂
﹁⋮⋮ちょっと、怪しいかな﹂
﹁何処で買った?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮こ、骨董品屋﹂
﹁せめて食料品店で買えよ! 骨董品とか明らかに飲めないだろ!﹂
﹁ですよねー﹂
でも保存状態はよかったし、店主も飲めるって言ってたしー。
1454
笑ってごまかすと皐月は全く、と呆れたようにため息をつく。
﹁しょうがない。とりあえず、昨日のことは忘れよう﹂
﹁うん。そうしよう﹂
いやー、でも皐月には絶対言わないけど、あたしが記憶ハッキリし
てるタイプでラッキーだなぁ。
○
﹁おはよう﹂
﹁⋮あんた、臭いわよ﹂
﹁弘美、先に挨拶だろ﹂
﹁お酒臭い﹂
﹁完全に頭痛い﹂
﹁ばーか﹂
朝っぱらから酷いけど、確かに初日から二日酔いはありえないよな。
頭をかきあげると、ちょうど七海が食堂に入ってきた。
﹁おはよう、皐月﹂
﹁お、おはよう﹂
何となく少しだけ気まずい。あれは事故みたいなものなんだって!
1455
﹁? なに慌ててるのよ﹂
﹁あ、慌ててない﹂
﹁! あなた、お酒くさいわよ﹂
﹁ちょ、ちょっとな。それより早くご飯食べよう﹂
七海の指摘に口を隠してごまかし、3人でトレーを手に席につく。
小枝子と紗里奈は見当たらなかったから3人だけど、それでも結構
見られてる。
見られるのに慣れたけど、今はやめて欲しい。ますます罪悪感が止
まらない。
﹁あ、そうそう。皐月様、今日の放課後も淑女会あるから忘れちゃ
駄目よ﹂
﹁ん? わかってるよ﹂
﹁年始は去年から遅れてきたものが中心だろうから、あなたは書類
整理とかだと思うわ﹂
﹁あれ、地味に面倒なんだよなー。なんで最初に片付ける時にナン
バリングしてないんだよ﹂
﹁昔は数が少なかったからでしょ。ヒロはデータ化した方いいと思
うけどね﹂
﹁ええ? 入力のが面倒だろ﹂
﹁スキャナでいいじゃん。そしたら日付タイトルにしてタイトル順
したら勝手に並ぶし﹂
﹁昔のは年抜けてたりするじゃん﹂
﹁そんなの捨てちゃえ﹂
﹁弘美、駄目よ。残されたものはいずれも重要な書類なんだから﹂
﹁えー、ぶっちゃけ5年分もあればオッケーじゃないですか?﹂
﹁駄目よ。皐月、弘美が処分しないように見張ってなさいよ﹂
﹁無駄ですよ。なんせ来年はヒロの天下ですから﹂
1456
﹁⋮⋮急に心配になってきたわ。ちょっと皐月、留年してくれない
かしら﹂
﹁お前がしろ﹂
罪悪感どころじゃない。なにこいつ。なに真顔で留年しろとか言っ
てんの。
﹁駄目よ。私の経歴に傷がつくじゃない﹂
﹁俺の経歴は!?﹂
﹁いいじゃない。あなたは最悪私が面倒見るんだから﹂
﹁⋮⋮うわー、なにこいつ﹂
本当に本気なのはわかるけど素で、素でとかマジ照れるから。てい
うかなんで俺が嫁ポジションなの。
﹁なに、七海様が旦那なの? 普段俺俺言ってるくせに皐月様が女
側とか予想外すぎるんですけど﹂
﹁それは俺もだ﹂
﹁旦那とかじゃなくて、皐月はヘタレなのだから、私が世話をする
のは当然でしょう﹂
﹁⋮⋮まあ、よかったね、皐月様。少なくともお金に困る未来は有
り得ないわ﹂
﹁⋮ああ﹂
七海なら確かに、多少抜けてたりミスったりしても人生失敗しない
よな。どんなことになってもなんとかしそう。
﹁例え皐月様がニートの駄目人間になっても七海様なら見捨てない
だろうし﹂
﹁人格的に有り得るけどその例えはやめろ﹂
1457
七海なら俺がどん底に落ちて好きじゃなくなっても責任感とかで見
捨てないだろうけどやめろ。今のままでもヒモになりそうなんだか
らな。
そんな、それだけ情に厚くて優しい七海だからこそ絶対七海を裏切
りたくない。すでにかなり心苦しい。
もう絶対紗里奈の持ってきたお酒は飲まない。もう絶対絶対浮気と
かしない。てゆーかしたつもりもないけどとにかくしない。
﹁なに言ってるのよ。皐月が駄目になんてなるわけないでしょ﹂
﹁うっわ、うぜ。えー、なんでそんな風に思うんですかー?﹂
﹁私が見込んだのよ? 当然じゃない﹂
﹁⋮あー、はいはい。ごちそうさまです﹂
﹁デザートが残ってるわよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
ややうんざりしたように弘美がデザートに用意した林檎ヨーグルト
を食べた。
俺がいうのもなんだけど、無自覚にのろけんな。そして自信過剰。
照れるべきか呆れるべきか迷う。
﹁さて、ごちそうさま﹂
﹁ん。ごちそーさま﹂
﹁改めてごちそうさまです﹂
﹁じゃあそろそろ戻りましょうか。二人とも、しっかりね﹂
﹁はーい﹂
﹁わかりました﹂
1458
○
1459
猥談とか二度としない︵後書き︶
どうしてこうなった。
どこに向かっているのかわからなくなってきました。
あと終わり方が真面目にわかりません。このままでは何のオチもな
く終わりそうです。
やべーよ。
とりあえず、読んでくれてありがとうございます。
1460
書き初め
﹁今日さ、書き初めしようよ!﹂
﹁うわ、くっさ。紗里奈様、さては皐月様と昨日飲んでましたね﹂
﹁うん﹂
﹁通りで、やけに口数が少なくて大人しいと思いました﹂
﹁ひどーい﹂
始業式が終わり昼休みに集まると紗里奈が提案したが、弘美は眉を
潜めて全くスルーした。
﹁で、小枝子様さぁ、今日挨拶で噛んだよね﹂
﹁き、気づいてました?﹂
﹁みんな気づいてるから。あんた滑舌悪いの?﹂
﹁ふ、普通だと思いますけど。緊張してしまって。今日が最初です
し﹂
﹁年末にも壇上に立ったくせに﹂
﹁そうですけどぉ﹂
﹁ってこらこらー! あたしを無視するんじゃない!﹂
﹁はあ? 書き初めとか、冬休みにやっといて下さいよ﹂
﹁みんなでやりたいのー﹂
﹁⋮⋮ちっ﹂
駄々をこねる紗里奈に弘美は露骨にうざそうに舌打ちした。七海が
いなくなったから態度が悪くなった、とは言わないがストッパーと
して頑張ってるからか態度がよりフランクになった。ツッコミをす
るには敬語徹底じゃ弱いから仕方ない。
﹁紗里奈さん、放課後はお仕事がありますから書き初めは無理です
1461
よ﹂
﹁今日くらいサボってもいいじゃん﹂
﹁駄目です。道具もありませんし﹂
﹁ちぇー。前会長がやめて遊べると思ったのになー。ねぇ、皐月﹂
﹁思わない。てか俺にふるな。俺は真面目キャラなんだから﹂
﹁それはない﹂
﹁あんた図々しいわよ﹂
﹁さ、皐月さん的には真面目なんですよ。多分﹂
﹁ああ、つまり皐月様の中では真面目なのね。皐月様の中ではね﹂
﹁おいやめろ﹂
別に冗談じゃなくて、本気で言ったんだけど。パシリとかだって文
句言ったりしても全部言われたことやってるし。
﹁なんか皐月様って、自分のこと真面目って思い込んでる節がある
わよね﹂
﹁だよね。不真面目なのに﹂
﹁皐月さんはやる気になったらとことんやりますし、言われたこと
はやるんですけどね﹂
﹁少なくとも普段授業寝てる人が真面目とか言っちゃても笑えるだ
けだよねー﹂
﹁最近は真面目じゃん。うたたねくらいで﹂
﹁ちなみに小枝子様、授業中に一瞬でも寝たことは?﹂
﹁⋮い、一度くらいはありますよ﹂
﹁で? 皐月様は? ちなみに日数じゃなくて回数ね﹂
﹁⋮⋮ひゃ、百くらいかな﹂
﹁えー、皐月は1日の授業の半分くらいそれぞれ居眠りしてるから、
1日3⋮いや、うつらうつらしてるのを少なく見積もって1日9回﹂
﹁えっと、この学園に来てから少なく見積もって半年で、週5で、
20×6で120日ですね﹂
1462
﹁9×120日で1080回ね。なに10分の1にしてんのよ﹂
﹁うぐぐ⋮﹂
リアルな数にされた。なにその無駄なチームワーク。そして相変わ
らず暗算早いな。
﹁わかったよ、どうせ俺は不真面目だよ。放課後は書き初めしちゃ
うもんね!﹂
﹁好きにしたら?﹂
﹁え⋮あたしと反応違う﹂
﹁皐月様は元々大した仕事ないし。七海様が朝言ってたでしょ﹂
⋮自由でいいって言われたのにめっちゃ複雑。
﹁あたしは?﹂
﹁紗里奈様はふざけてても貴重な戦力です﹂
﹁俺は真面目にやっても駄目だと?﹂
﹁⋮あんたは、力仕事。それでいいじゃない﹂
ついに同情されてしまった。ちょっと待って。その対応は泣きたく
なる。
﹁⋮放課後は書類整理でもしてます﹂
﹁あ、それはいいですね。よろしくお願いします﹂
小枝子がぱん、と小さく手を叩いて同意した。こいつ、実は俺の使
いどころに悩んでたな。
くそっ、こうなったら絶対業務を手伝えるようになってやる!
1463
○
﹁とゆーわけで、ご教授のほどよろしくお願いします! 何卒! 何卒!﹂
﹁いきなりとゆーわけとか言われても﹂
﹁説明面倒だししたことにしといてよ﹂
﹁無理よ﹂
﹁かくかくしかじかで一つ﹂
﹁ふざけないの﹂
漫画ならこれで通じるのに、ノリの悪いやつだ。
夕食後、俺は七海の部屋を訪ねていた。七海ほど事務処理ができる
やつは他にいない。よく考えたら教師より普通の会社の事務職につ
いた方が出世しそうだ。本人の自由だしどうでもいいけど。
﹁⋮ふむ、つまり淑女会の一員として仕事の本筋に関わりたいと﹂
﹁そういうことになるな﹂
ちょっと違うけど。単にあいつらを見返したいだけだし。普通に説
明したのにいいように理解された。都合がいいから指摘しないでお
く。
﹁その心意気やよし、よ。私でよければあなたを一人前にしてあげ
る﹂
1464
一人前じゃなかったんだー⋮。雑用ばっかだけど、雑用だって必要
な仕事だし分業をしてるんであって普通に一人前だと思ってた。
落ち込みつつ、七海の指導を受けることになった。
待ってろよ! 度肝を抜いてやる!
○
﹁今日こそ書き初めるよ!﹂
ドンッと紗里奈が机に習字道具を置いた。
どんだけやりたいんだよ。
﹁紗里奈様、もう一人でやって下さい。許しますから﹂
﹁やだやだーっ﹂
弘美が眉をしかめるのを見て小枝子はそうだ、と笑みをつくる。
﹁みなさんで一斉に行うのは難しいので、一人ずつやりましょう。
他三人はお仕事ということで﹂
﹁さすが小枝子! 話がわかる!﹂
﹁小枝子様、いいわけ?﹂
﹁大丈夫です。むしろさっさとやってしまった方がスムーズにいき
ますよ﹂
1465
満面の笑顔から固まった紗里奈に、弘美はやれやれとでも言いたげ
に肩をすくめた。
﹁ヒロ思うんだけど、小枝子様がいなかったら大変なことになるわ。
ヒロと紗里奈様の二人とか最悪だし。そういう意味で本当に、皐月
様はよくやったわ﹂
﹁⋮そりゃどうも﹂
素で言ってるもんなぁ。冗談じゃないからツッこめないし冗談にも
できないし。柔軟に真面目だし、案外本気で向いてるかもな。
﹁さ、まず紗里奈さんからどうぞ﹂
小枝子が平然と書類仕事を始めながら紗里奈を促す。さらに
﹁⋮う、うん。よーしっ、頑張っちゃうぞー﹂
こうして作業の片手間に何故か書き初め大会が始まった。
俺は昨日の続きで書類整理を始める。
しゅりしゅりと懐かしい音と、臭いがする。墨の臭いってこんなん
だったなぁ。そういえば、中3のお正月以来だ。中学では書き初め
が宿題だったんだよなぁ。
ん? これは⋮何年だ?
﹁な⋮あー、小枝子﹂
顔をあげて会長席を見ながら七海、と言いかけて言い直す。
1466
﹁あんた、七海様がいないからって寂しがってんじゃないわよ。子
供か﹂
﹁さ、寂しくなんかねーよっ﹂
﹁じゃあ今、なんで会長席見たのよ﹂
﹁それは⋮まだ七海がいないのに慣れてなくてつい﹂
﹁それを寂しがってるって言うのよ﹂
﹁言う?﹂
﹁言うの﹂
言い切られた。いやでもホントに間違っただけなんだけどなぁ。
﹁だって小枝子がこっちにいるからつい去年と同じノリになっちゃ
うんだって﹂
小枝子は会長になったくせに今まで通り、こちら側で仕事をしてる。
﹁う⋮私だけあっちって、寂しいじゃないですか。新しい人が入っ
たらちゃんとあの席使いますよ﹂
寂しいって⋮言っても普通に会話できるし、机と机も1mしか離れ
てないぞ。そりゃ、今隣あってるのに比べれば疎外感があるかも知
れないけど。いや、別にどこ座ってもいいんだけどさ。
﹁座るのはいいけど、間違うのは仕方ないよな?﹂
﹁⋮⋮まだ、二日目ですしね﹂
おおっと、さりげなく否定されてる?
﹁で? なんか小枝子様に質問あんじゃないの?﹂
﹁あ、そうそう。これなんだけど﹂
1467
﹁それは⋮92年ですね。年が見づらいですけど、会長の名前でわ
かります﹂
こいつ歴代会長の名前を全員覚えてるっ!? な、なんという会長
ぱわー。輝いて見える。
﹁っ、できたー!﹂
静かだった紗里奈が顔をあげながら歓声をあげた。書き初めを書け
たらしい。集中力すごいな。
﹁どれ⋮⋮まぁ、字はうまいんじゃない?﹂
﹁⋮あー、紗里奈様って結構習字うまいんですねー﹂
﹁お二人ともスルーしようとしないで下さい! 私はツッコミます
からね!﹂
面倒なので内容に触れずにいたが小枝子がいやいや!とばかりに力
をいれて立ち上がって俺と弘美にツッコミをいれた。
﹁んじゃ、どうぞ﹂
﹁こほん⋮なんで私の名前なんですかー!!﹂
﹁えへ﹂
促すと絶叫するように小枝子は紗里奈にツッコミをいれた。何故か
紗里奈は照れたように頭をかく。
﹁いやぁ、つい﹂
﹁嘘つけ。どうせ書き初めを言いだした時から温めてたネタなんだ
ろ﹂
﹁うん、実は﹂
1468
﹁てゆーか、もしそれが小枝子様への好意を表すためのものなら引
きます﹂
﹁え、駄目?﹂
﹁そんな⋮⋮ごめんなさい、気持ち悪いです﹂
一瞬否定しようとした小枝子だが、目があって紗里奈がにっこり笑
った瞬間真顔で答えた。が、紗里奈はそう傷ついたふうでもなく不
満そうな顔をして半紙を持ち上げぴらぴらさせた。
﹁えー? マジかぁ。あたしなら嬉しいんだけどなぁ﹂
﹁というかなんでお前はそんな押せ押せなんだよ。別に小枝子を好
きなわけでもないのに﹂
﹁んー。なんとなくだけど?﹂
﹁なんとなくでこんなのに付き纏われるとか、さすがに小枝子様に
同情するわ﹂
﹁ちょ、今先輩をこんなのとか言った!? ヒロちゃん最近お口悪
いっすよ!?﹂
﹁キモいです﹂
﹁⋮あの、さすがにへこむんだけど﹂
﹁キモいです﹂
﹁へこむことさえ許されない!?﹂
弘美の屈託のない意見にさすがに肩を落としだす紗里奈。それを見
た小枝子はわたわたと手を動かしながらフォローしようと口を開く。
﹁えと、あのっ、でも字、綺麗なので。せっかくですし、いただこ
うかな、なんて﹂
﹁えー、欲しいの?﹂
﹁えええー?﹂
1469
小枝子の名前なので普通、小枝子へあげるくらいしかないだろう。
気をきかした小枝子なのに何故か紗里奈が拒否る。
と、にっこーと紗里奈が笑って冗談冗談と言いながら小枝子に半紙
を渡す。
﹁も、もう知りません!﹂
怒りながら律儀に受け取る小枝子。
﹁部屋にでも飾ってよ﹂
﹁飾りません! 机に挟んでおきます!﹂
ちゃんと保管するんだ⋮。
同じことを思ったらしく弘美が呆れた目を小枝子に向け、紗里奈は
予定通りとばかりに微笑んだ。
﹁さ、次誰するー?﹂
○
1470
ちょっと寂しい
それから、何だかんだと言いながら全員で互いの名前を書きあって
誰が一番上手いか、という話になった。
小枝子は普段の字は綺麗だけど習字はそれほどでもなかった。だか
ら小枝子の名前は結局紗里奈が一番だった。
弘美は自分の名前だからと言って難無く綺麗な字を書いたきり、紗
里奈の名前だけ書いて上手さをアピールしてやめた。なので弘美と
紗里奈の名前は弘美が一番だ。
紗里奈は小枝子の名前に力を使いきったらしく、他3人分は普通の
字だった。
俺は自慢じゃないが、字には自信がない。というのも癖でついつい
走り書きになってしまうのだ。普段やらない習字も例外じゃなく、
なれてないので小学生が書いたみたいになってしまった。
しかし、意外なことに弘美が俺の字を見て表情を変えた。
﹁へぇ? ずいぶん味のある字を書くのね。意外な特技だわ﹂
﹁そ、そうか?﹂
一瞬喜びかけたけど小枝子と紗里奈は弘美の言葉に首を傾げたので、
多分弘美は字を汚い人間を見たことがないだけだろう。
弘美の周りにいるのは弘美も含めお嬢様ばかりで、みんな小学生の
時から字がうまかったんだろう。逆に珍しい。
でも、その理論でいくと紗里奈はお嬢様でなくなるが⋮まあ紗里奈
だしなぁ。
﹁さて、一通りやったし仕事に戻るか﹂
1471
気づけば一時間弱も遊んでいた。
﹁結構時間つかったわね﹂
﹁そうですね。じゃあ、気持ちを切替えて頑張りましょう﹂
﹁おーう、と。皐月、紅茶の葉がきれた。買ってきて。ついでにペ
ットボトルも﹂
﹁了解﹂
部屋をでて、ふと思った。一応、来年度になって下が入ったら俺も
先輩になるんだしパシリはなくなるよな。
てことはますます、頑張って書類仕事できるようにならないとー。
というか、よくよく考えたら、本来なら弘美の役目のはずなんだよ
な。最初から普通にパシらされてたけどさ。
茶葉といつもの商品⋮って、あちゃ。5本買っちゃった。うーん、
まあ、いいか。ついでだし8本にしてストックにしとこ。
﹁皐月、買い出し?﹂
﹁お、七海。見ての通りだよ﹂
声をかけられ振り向く。ついでに七海に一本渡し、もう一本買う。
﹁ありがとう。どう? 仕事は順調?﹂
﹁あ、ああ⋮まあ、順調かな﹂
﹁⋮⋮あなたってホントに嘘がつけないわね﹂
﹁ぁはは﹂
笑ってごまかしておく。嘘をついたわけではないんだけどね、ちょ
っとどう言うか迷っただけで。
1472
﹁大丈夫? 皐月なんて、私がいなくって寂しいんじゃない?﹂
﹁大丈夫、平気だよ。ちゃんとお仕事してるって﹂
からかうようにしながらも心配なのかさらに聞いてきた。
心配性だなぁと内心苦笑しながらしっかりと答えた。少し違和感が
あって戸惑いはするけど、いつまでも七海に心配をかけるわけには
いかない。
﹁そう、ならいいわ。ところでまた、ずいぶん買ったのね﹂
﹁うん、ストックにな﹂
﹁ふーん? まぁいいわ。じゃあまたあとでね﹂
﹁うん、勉強頑張ってね﹂
﹁ありがとう﹂
七海と別れて、淑女室に戻る。戻るために七海と別れるという何気
ないことが少しだけ寂しかった。
いや、ホント、気合いいれて頑張らないといけないね。
﹁ただいまー﹂
﹁おかえりー⋮閉店セールでもしてたの?﹂
﹁まさか。ストックだよ。これくらいなら冷蔵庫に入るよね?﹂
﹁まあ、今飲むのを除いたらね﹂
﹁あんた馬鹿? 6本しか入らないんだから、飲んでる途中のやつ
冷やせないじゃん﹂
﹁あ⋮あー、そっか。だから今までストックしてなかったんだ﹂
﹁まぁまぁ、中段も少し空いてましたよね。そこにいれればいいじ
ゃないですか﹂
﹁朝にプリン補充したから空きはないわ﹂
中段を開けるとプリンが一面並べられていた。積め、と言いたいが
1473
瓶タイプだったりサイズ違いが多いからそう簡単にもいかないか。
﹁んー、まぁよく考えたらストック分は今のが無くなってから冷や
せばいいんじゃね? 常温保管でも大丈夫だって﹂
﹁それでいいでしょ。なにも箱ごと買ってきたわけじゃないんだか
ら、ね﹂
﹁ま、別にヒロはいいですけど。味にうるさい小枝子様がなんて言
うか﹂
﹁う、うるさくないです。むしろ私より七海様⋮⋮は、いないんで
したね﹂
﹁ていうか、味関係ないしね﹂
﹁確かに七海ならずぼらだから駄目とかいいそうだけど。いないし
オッケーだろ﹂
﹁うん。にしても皐月さ、これ、本当は前会長の分を間違って買っ
たんでしょ﹂
﹁え⋮﹂
さりげなく指摘されたことにびっくりした。ぱちぱちと瞬きしなが
ら紗里奈を凝視するとにいぃと唇を吊り上げた。
﹁図星か﹂
﹁まった皐月様ったら、寂しんぼか﹂
﹁⋮⋮さっき間違った私も寂しいことになるんでしょうか﹂
﹁なるわ﹂
﹁⋮⋮﹂
ならないだろ、とツッコミたい。でも間違えた立場では言えないし、
段々本当に寂しがってる気になってきたからツッコむのはやめてお
く。
1474
﹁と、とにかく、お仕事再開するぞっ﹂
﹁へーい﹂
﹁はいっ﹂
﹁なんで皐月様が仕切るのよ。でしゃばらないで。小枝子様の役目
でしょ﹂
﹁⋮すみません﹂
﹁え、えっと、再開しましょう!﹂
﹁いいわよ﹂
⋮なんで弘美が一番偉そうなんだ。やっぱり七海がいないからやり
たい放題してるのか?
﹁⋮なによその目。言っとくけどヒロがいなかったら確実に変な方
向に脱線するから。主に紗里奈様のおかげで﹂
﹁やだなー、ヒロ。そんな褒めないでっ﹂
俺の視線に気づいた弘美が唇を尖らせながら言った言葉に、何故か
紗里奈は嬉しそうな顔になる。
さすがにもう、弘美を責めることはできない。てゆーかむしろ頑張
ってくれ。小枝子は何だかんだ言って流されやすいし、お前だけが
屋台骨だ。
○
1475
﹁お邪魔します﹂
ノックをしてから部屋に入る。机に向かっていた七海が振り向いた。
﹁こら、返事がまだでしょ。やり直し﹂
﹁う⋮﹂
細かいな。外に出て再びノック。
﹁七海様、いらっしゃいますか?﹂
﹁開いているから入って﹂
﹁失礼します﹂
中に入る。
ふう、なにこの三文芝居ホントに必要? 七海の気がすむならいい
けど。
﹁あと少しだから、座って待っていてくれる?﹂
﹁うん。てか、忙しいなら今日は遠慮するけど?﹂
﹁大丈夫よ﹂
受験生に頼みごとをするのは心苦しくはあるけど他に頼める人はい
ないし、本人がオッケーしたんだから問題ないだろう。七海はでき
ないことを安請け合いしたりはしない。
ベッドに座ってまた机に向かってペンを走らせる七海を見る。後頭
部よりやや後ろで七海こ耳と頬がちらっと見える。
七海が勉強してる、なんでもない姿なのに、何だか寂しい。別に相
1476
手をしてくれないから、なんてことじゃない。
ただいつも、七海の集中する顔は前か横から見てた。それを後ろか
ら、なにもせずに見ているのが無性に寂しく感じる。
⋮⋮やっぱり、淑女室に七海がいないのも寂しいな。他に人がいる
からそこまで感じなかったのに。こうして一人で七海の後ろ姿を見
ていると、急にあれもこれもと思い出して寂しかったんだと思えて
くる。
まだたった二日しかたってないのに。休みの間は二日以上平気で会
えなかったのに。なんで、一緒に仕事しないくらいで寂しく思うん
だろう。不思議だなぁ。
そっと七海に近づいて後ろから覗き込む。振り向いた七海に首を降
って気にするな、と示すと七海はまた手を動かしだす。
英語か⋮⋮つか、こういうテストは専門用語使いすぎだよな。政治
の話とか災害の話とかさ。日常滅多に使わないのに。
どれどれ文法とかから察するに、何かの動物について話してる、の
かな? わからない単語が多いな。
えーっと、海の生き物でー、赤に変わる⋮⋮なにそれ。質問は⋮質
問文も英語とか鬼畜。
えー、多分正しい文章を選ぶから、本文と同じ単語⋮って、ページ
めくられた。
あー、ホントに文字ばっかで頭痛くなってきそう。
頭をあげて首を回す。あー、無駄に頭つかった。あと一年たったら
俺も余裕で解けるようになるのかな。
邪魔しないように七海の左側に回って、しゃがんで頭だけ七海にぶ
つける。椅子はしゃがんで顎のあたりだからちょうど、七海の太も
1477
もにあたる。
机の柱が体の真ん前で危ないから間違ってぶつからないように手を
添える。
そうしてじっとしてたら頭を撫でられた。
えへへへ、嬉しい。
目を閉じてちょっとだけ頭を七海の体に押し付ける。
わしゃわしゃって、髪の毛を掻き混ぜるみたいに頭を撫でられる。
﹁うひっ⋮!﹂
突然耳に指を突っ込まれて思わず声が出た。慌てて両手を口にあて
る。
耳の穴をくすぐられ、同時に耳たぶをなぞられてくすぐったくて堪
らない。
﹁っ、⋮、﹂
邪魔するわけにはいかないから口はキツク閉じて、おでこを七海に
こすりつけるように首を振って拒否をする。
でもやめてくれない。それどころか小指を耳の穴にいれて首筋まで
触ってくるからくすぐったくて、笑いだしたくて仕方ない。ぴくぴ
くと腹筋が震える。
﹁髪、のびたわね﹂
﹁くっ、あは、あはははははっ﹂
ふいに言われた言葉がなんだがおかしくて、俺はついに声をだして
笑った。
首を引っ込めるようにしながら七海の手を掴んで、目を開けて七海
1478
を見上げると七海もこっちを見ていた。
﹁もう、もうっ、ちゃんと、勉強しろぉ﹂
﹁もう終わったもの﹂
すました顔で答え、反対の手までつかって頭を撫でてきた。
﹁はー、苦しかった。てか、終わったならそう言えよー﹂
﹁ごめんなさい。じゃれるあなたがあんまりに可愛いものだから、
つい﹂
﹁ついじゃない。いじめだ﹂
﹁愛でてるのよ﹂
﹁⋮うー、納得いかない﹂
笑いながら愛でてるとか言われて、ちょっと嬉しいけど、でも絶対
ごまかされてる気がしてちょっと七海を睨む。
﹁拗ねないの。そんな顔も、可愛いわよ﹂
鼻をつままれた。
うむぅ。⋮照れる。
﹁さ、あなたの勉強を始めるわよ﹂
○
1479
1480
ちょっと寂しい︵後書き︶
せっかく今までは時間まで揃えてたのに今回忘れてた⋮orz
1481
猥談、再び
ぴぴぴぴっ
携帯電話のアラームが鳴り、素早く手を伸ばしてサイドのボタンを
押してとめた。
﹁⋮ふーっ﹂
そうしてようやく大きく息をつき、俺は肩を回した。ジャスト一時
間みっちり教わった。
あー、疲れた。なんでこんなことしてるんだろう。冷静に考えたら
別にパシリのままでいいような気がしてきた。⋮いや、冷静じゃな
いな。疲れてるから面倒になってるだけだ。
﹁お疲れ様、今紅茶をいれるわね﹂
﹁ん﹂
にこにこしながら立ち上がり、電子ポットの電源をいれる七海。
なにがそんなに楽しいんだろう。ちょっと聞いてみた。
﹁ん? 楽しいというより、嬉しいのよ。だってあの皐月が、学業
と関係ないとはいえ自分から学びたいと言ったのよ? 嬉しくない
わけないじゃない﹂
あー、そゆこと。てか、そんなに不真面目かな? 去年だってダン
スとかちゃんと習ったし、あー⋮まあ、完全に自主的なのはそうか、
初めてかも。少なくとも七海の前では。
﹁ま、あんまり駄目なとこ見せたくないしねー﹂
1482
﹁⋮誰によ﹂
﹁なに睨んでんの。七海しかいないでしょ﹂
﹁⋮馬鹿ね、その私に頼むなんて、本末転倒だわ﹂
言いながらちょっと嬉しそうな七海。さっきの睨み顔は正直びびり
そうなくらい恐かったけど、いちいち嫉妬するなんて可愛いなー。
ぴぴっと早くもお湯が沸き、七海は手早く紅茶をいれて机に置いて
また俺の隣に座った。
一口飲む。ふぅ⋮あったかくて美味しい。
﹁七海、そろそろいい時間だし飲んだら一緒にお風呂行く?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁七海?﹂
﹁⋮⋮だ、駄目よ﹂
﹁え、共同浴場の方だよ? 別に変なことしないって﹂
下心なく誘ったのにそんなに考えて断らなくても。
﹁わ、わかってるわよ。それでも⋮あなたが私の裸を見ていけない
気分になったら駄目でしょう?﹂
﹁普通にしてればならないって﹂
どれだけ信頼されてないんだ。そりゃ見るけどね。約束したから何
にもしないって。そこまで獣じゃありません。
﹁⋮わ、私はなるのっ。⋮だから、駄目なの﹂
﹁⋮⋮﹂
ごめん、ちょっとひく。どんだけエロい頭してんだ。いや、俺もそ
1483
の気の時はより盛り上がったりするけど、普通の時にそんなこと言
われても反応に困る。
﹁わかった。お風呂はやめよう﹂
﹁そうしましょう⋮⋮ひいた?﹂
﹁⋮ちょっとだけ﹂
﹁⋮き、嫌ったら駄目だからね﹂
伺うように言われて苦笑する。珍しく子供っぽい口調でいて、七海
らしい言い方だ。
﹁嫌わないよ、なにがあっても絶対﹂
﹁﹃嫌い﹄にはならなくても、﹃好き﹄が減っても駄目よ。常に1
00%私を好きでいなさいよ﹂
なにその言い方。本当おかしくて可愛い。それでも命令形なのが七
海らしくて、愛おしくって抱きしめたくなるけど我慢して答える。
﹁それは無理だよ﹂
﹁え⋮﹂
﹁だって俺、七海のことはいつだって120%好きだもん。限界突
破、みたいな感じで﹂
﹁⋮馬鹿ね、それなら私なんか200%好きよ﹂
﹁なら1000%﹂
﹁子供﹂
くすっと笑って、聞くだけで蕩けるような優しい声で俺の額をつつ
く七海。
あんまりに優しい声だから、俺はお前から子供っぽいことしたくせ
に、とは言わずにえへへと笑って紅茶を飲み干した。
1484
﹁さて、じゃあそろそろ部屋に戻るよ。ありがとな﹂
立ち上がりながらお礼を言うと七海はにこっと微笑む。
﹁ええ、おやすみなさい﹂
﹁おやすみ﹂
言いながら頬にキスをした。挨拶だからいいはず。七海はちょっと
照れたようにはにかみながら、またおやすみなさいと繰り返した。
○
私は後悔をしない人間だ。もちろん今まで全てにおいて成功を収め
ていたわけではなく、失敗したことも多々ある。
あの時の私は馬鹿だったと反省したり、どうしてあんなことをした
のかしらと疑問に思うことはある。でも今後に生かすために活用は
すれど、後悔をしたことはない。
そんな私が、人生初の後悔をしている。
﹁なんで、あんなこと言ったのかしら⋮﹂
思わず言葉になって口から零れた。形は疑問に似ているけれど込め
られる気持ちが違う。
1485
後悔している、という感情を本当に知ったのは今かも知れない。
どうして、どうして私は。
キスしちゃ駄目なんて言ってしまったのだろう。
さっき、皐月が頬にキスしてくれて嬉しかったけれど、唇にしてく
れるものだと期待していた。自分で禁止していたのに、あの瞬間に
すっかり忘れてしまっていた。
禁止しなければよかった。
キスがしたかった。
キスをしてほしかった。
抱きしめたかった。
抱きしめてほしかった。
自分がこんなに簡単に色狂いになってしまうなんて思ってもみなか
った。集中して勉強している時以外、私は殆ど皐月のことばかり考
えてしまう。
皐月の伸びた癖のある髪、耳たぶの柔らかさ、くすぐったさが我慢
して身をよじる姿、頭を押し付けてくる愛らしさ、全てが私を魅了
した。
本当は、皐月がしゃがんで頭をくっつけて来た瞬間から勉強のこと
は頭から吹き飛んだ。だからあと1ページ、最初に決めたノルマが
残っている。
それをしないといけないのに、やる気がでない。私は勉強をするの
にやる気が必要だなんて思わなかった。
やらないといけないことで、やるべきことだから今まで当たり前に
やっていた。勉強をやる気にならない、なんて、皐月に会うまで知
らなかった。
1486
はにかんだ皐月は可愛かった。皐月に教えている間もずっと、キス
をしたいと思ってた。
さっき触った首筋を無防備に晒す皐月に、何度悪戯をしたくなった
か、皐月は知らないのだろう。
首をなぞって、舌を這わせて、皐月が喘いで顔を真っ赤にする。簡
単に想像できる。簡単過ぎて、実際にしたくなる。
想像するだけで私は皐月が欲しくなる。皐月が泣くまで私は皐月を
舐めよう。全身くまなく舐めて、撫でて、そして最後に皐月の涙を
舐めて味わう。それはどんなものより私を歓喜させる甘露だろう、
と夢想する。
皐月を思うと、目眩がする。
ああ、こんなにも、好き。
好きで、好きで、たまらない。食べてしまいたいくらい好き。
好きすぎて、自分が異常性欲なのかと疑ってしまいそうになる。も
っともっともっと、と皐月を求めてしまう。
そんな自分を戒めるために、平日は破廉恥なことはしないと声にだ
して決めた。なのに早くも私は屈しそうになっている。というか、
屈してる。
あんなこと言わなければよかった。後悔してる。前言撤回したくて
たまらない。
ほんの僅かな理性がこれでいいのだと叫ぶけれど、私の大部分がも
う嫌だと訴える。殆ど気持ち的にはやめたいと後悔している。
なのにそうは皐月に言わない。それは理性が勝っているわけでも、
自分を律しているからでもない。
単に、自分で言いだしたことを撤回するのが恥ずかしくて言えない
だけだ。
﹁はぁ⋮﹂
1487
私の弱さに、ため息がでた。
今更、私は自分がどれだけ格好つけの見栄っ張りなのかわかった。
それを皐月にばらしたところで嫌われるなんて思わない。だって私
と同じように皐月もまた私に心底惚れているから。
それでも、私は彼女の前では格好つけてしまう。
いつでも颯爽と格好よく頭がよくて美しくて完璧な私でいたいと、
そう望んで振る舞ってしまう。
さっき、ほんの少しは素直に慣れたけれど。それでもつい命令口調
になってしまってちっとも可愛くない。
皐月が付き合ってくれたから余裕を持って笑えたけど、そうじゃな
かったらと思うとどんな不樣を晒したか、考えただけで嫌になる。
﹁⋮皐月﹂
皐月が私を好きなのはわかってる。それでも不安になる。私ばかり
が皐月を求めているような気になる。
さっきだって平気な顔をして部屋をでていった。
ああ、やっぱりお風呂に入ればよかった。そうすれば我慢できない
理由にできたのに。
私はさらに、後悔した。
○
1488
﹁ふぅ⋮﹂
お風呂をあがり、部屋に戻ってベッドに腰掛けると思わず息がでた。
疲れた。お風呂で体が解れたからか、ベッドに座った瞬間どっと疲
れが沸いてきて、俺はベッドに上体を倒した。
髪がまだ乾いてないので掛け布団のシーツが濡れてしまう、とは思
ったけどどうでもいいかと目を閉じた。
ただの水だし、後で乾くだろう。
﹁ふあ、あ﹂
欠伸が出た。口を押さえた手を降ろしながら、どうして女だと欠伸
を隠さなきゃいけないのか疑問に思った。
もう癖になっているからいいけど、男の時はしなくてよかったのに、
不思議だ。マナーだとは七海は言ってたけど。
ブブブブ−
机の上に置いておいた携帯電話が大きな振動音をたてる。仕方ない
から立ち上がって取ってまちベッドに座る。
﹁ん? また紗里奈か﹂
若干嫌な予感がしつつも、電話に出た。
1489
﹁もしもし?﹂
﹃あ、もしもし。今から行っていい?﹄
﹁んー、嫌だ﹂
﹃えー、なんでさ? あたし何かした?﹄
﹁した﹂
﹃あー、ま、ま。まあ気にすんな。今日はお酒持ってかないから。
いいでしょ? ね? 皐月ちゃんお願い!﹄
﹁⋮いいけど、何の用だよ﹂
﹃あ、いい? よかった。じゃあ今から行くから待ってな!﹄
切れた。
なんなんだ。今日疲れてんだけどなぁ。
しばらくすると紗里奈がやってきた。
﹁よっ﹂
﹁おう﹂
﹁や!﹂
﹁?﹂
﹁ゆぅぅっ﹂
﹁⋮なんなんだお前は﹂
挨拶から流れるように奇声をあげた紗里奈に呆れた視線を向けると
てへっと舌をだして笑って、ベッドに座った。
﹁ゴメンゴメン。テンションあがっちゃって﹂
﹁ベッドに入るな、お前はソファ﹂
﹁⋮⋮そんなに警戒しなくても﹂
なにもしないのに、と言いながらソファに移動する紗里奈。
1490
少し言いすぎたかも。あの時は俺も紗里奈も酔ってたし、紗里奈だ
ってああなるように企んでたわけじゃないし。一概に紗里奈が悪い
とは言えないかな。
﹁で? なんの用?﹂
自分もソファに移動して向かい合い、質問すると紗里奈は何故かき
ょとんとする。
﹁ああ⋮忘れてたんだったね﹂
﹁? なにが?﹂
﹁うん、また猥談をしに−﹂
﹁帰れ﹂
﹁いや、話を聞いてよ。そうじゃなくて、皐月は覚えてないかも知
れないけど。こないだ、あたしがエッチをレクチャーしてやんよっ、
って流れになったんだよ﹂
﹁酒の席でのことを持ち越すなよ﹂
思わずため息が出た。
そういえば教えてもらおう、的な思考になった覚えがある。それに
関して会話をしたことは覚えてないけど。
でもそんなこと素面で言えないし、二人の時は禁酒と決めてるから
無理だ。
﹁でもさぁ、あんまり知識ないのに無茶やっちゃ駄目でしょ﹂
﹁人並みに知識くらいあります﹂
﹁女同士の知識、あるの?﹂
﹁⋮ないけど。でもそんなかわんないだろ﹂
﹁変わるよー。女同士しかできないこといっぱいあるよー。あと道
具とか﹂
1491
﹁ど、道具?﹂
﹁うん。一応消毒してるから貸せるよ?﹂
﹁⋮⋮いや、中にいれたりしてるやつだろ? 気持ち悪いし、いら
ねーよ﹂
ちょっとだけ興味がないでもないけど。中にいれるのって痛そうだ
し、無理に使う必要性を感じない。
﹁いれないのもあるよー。あと、装着して男女がするみたいにやる
のもあるよ﹂
﹁は? そんなのなんのためにあるんだよ﹂
﹁いや、別に男になりたい願望なくてもレズプレイに使うと気持ち
いいよ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
れずぷれい、とかなんか生々しいな。いや確かにそういう生々しい
ことをしてはいるけれど。
﹁ピンクローターくらいなら初心者でもオススメだよ﹂
﹁とりあえず断固として拒否する﹂
どういうものか知れないが断った。俺には高度すぎてついて行けま
せん。
﹁なんだよなんだよ、それじゃ話が進まないじゃん﹂
﹁進ませるつもりはない﹂
﹁ちぇ。仕方ない。ならば技巧について説明しよう! 前会長を悦
ばせたいんだろう?﹂
ぐへへ、と引くくらいいやらしい笑顔になる紗里奈に、だけど否定
1492
はできないので視線をそらして肯定する。
﹁まあ、聞くだけ聞いてやってもいいけどさ﹂
﹁ツンデレかっ。まぁいいや。なにから話そうかな﹂
○
1493
猥談、再び︵後書き︶
あけましておめでとうございます
1494
慌ただしい朝
﹁⋮⋮おはよう﹂
目を開けるとぼけーっとした紗里奈と目があい挨拶され、重たい頭
をかきながら体を起こす。
﹁⋮ああ、寝てたか⋮今、何時?﹂
どうも、話の途中で二人とも寝てしまったみたいだ。
風邪の心配はないけど、暖房がつけっぱなしだったので少し暑いく
らいで、喉がからからだ。あと、ソファで寝たから体が痛い。
﹁6時半。ちなみに皐月、どこから記憶ない?﹂
﹁あー⋮コーヒー、3杯あたりかな﹂
3杯目をいれたのは覚えてる。最初は紅茶を飲んでたけど眠気覚ま
しにブラックコーヒーに変えて⋮あれは何時だったかな。
﹁まじか。じゃあ皐月寝てからも30分くらいあたし語ってたかも﹂
﹁つか、お前半分寝てただろ﹂
紗里奈は大分支離滅裂なことを言ってた。自覚はないけど多分俺も。
﹁うん。半分寝てたし、皐月も半分寝てるのかよくわかんないから
とりあえず話してた。その後気づいたら寝てた﹂
﹁たしか、3時くらいピークだったよな﹂
コーヒーに切り替えたのはテンションが一段落した4時近くで、眠
1495
いけどここまで来たら完徹しようってなって⋮⋮全然テンション落
ち着いてないな。冷静にテンション高かったのか。
﹁多分ねー。てか、徹夜って難しいね﹂
﹁まあ、俺ら何気に規則正しい生活だしな﹂
寮だとどうしても消灯時間以降は騒げないし、みんな基本真面目だ
しなぁ。
﹁あたしらってこの学園では不真面目な部類だけど、一般的には結
構真面目だよねー﹂
﹁そうだよなー。みんなが真面目すぎるんだよなー﹂
﹁特に小枝子とかねー﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ねっむい﹂
﹁ああ⋮そだな﹂
軽く笑って話していたが、会話が途切れると意識が飛びそうになる。
二人で半目になって不細工な顔を睨みあう。
駄目だ。力を抜くと瞼が落ちてくる。
﹁ああ⋮もう、あめ。あたひ、ひょう、ひゃひゅふ﹂
欠伸まじりに何かを言いながらベッドに行こうとする紗里奈の腕を
掴む。
﹁待て⋮⋮顔、洗いに行くぞ﹂
﹁えー、勘弁してよ﹂
﹁駄目。サボる気だろ﹂
﹁今日サボるって今言ったじゃん。いいじゃん。つか、まじ、限界﹂
1496
頭が揺れて足元が覚束なくて目が開けてられないみたいだが、それ
は俺も同じだ。
全く力がはいらないがそれは紗里奈も同じで抵抗する力がないらし
く、ただ引いてるだけだが素直についてくる。
洗面所に移動して、水で顔を洗う。
﹁つめたっ⋮うう。あー⋮ちょっと目ぇ覚めた﹂
﹁俺も。つか、冷たー。う、酷い顔だな﹂
﹁隈が⋮⋮あたし、やっぱサボる﹂
﹁おい﹂
隈、確かにちょっとあるし気になるけど。休むのは駄目だろ。猥談
で休むとか。てか昨日、後半全く猥談関係なく馬鹿話してただけだ
し。
﹁ほら、歯磨いて着替えるぞ﹂
﹁やーだー。せめてあと30分寝るっ﹂
﹁駄目﹂
﹁なんでっ?﹂
﹁絶対起きれない﹂
﹁⋮あー﹂
さっきはこの時間に体が慣れてるから起きれたけど、二度寝したら
無理。
﹁じゃ、あたし部屋に戻って着替えるわ﹂
﹁ん⋮じゃあ、また後で﹂
﹁ふわぁ⋮﹂
1497
欠伸まじりに紗里奈がでていったので歯を磨き、うがいを念入りに
してから制服に着替え、寝癖を整える。
うん、起きた起きた。さて、教科書の用意して⋮⋮⋮⋮なんで制服
に着替えたんだ?
あー⋮やっぱちょっと、寝ぼけてる?
﹁⋮⋮⋮⋮、ああ﹂
やばいわー。寝てた。立ったまま寝るとか、俺ちょー器用ー⋮⋮⋮
うわ、なんかテンション変なんですけど。
﹁やばいなぁ﹂
独り言を言わないとホントに寝そうなレベルだ。
あー、ホント眠い。
﹁あーー⋮ねみぃ⋮うーあー﹂
寝そうだし、とりあえず立ち上がって部屋をでる。そうだ、紗里奈
の様子を見ておこう。寝てたら起こしてやる。少なくとも動いてた
ら寝ないし。
﹁おはようございます﹂
﹁⋮⋮⋮あ、うん、はい。おはようございます﹂
﹁?﹂
通りすがりに挨拶されたのにめっちゃゆっくり挨拶を返したので凄
い変な顔された。やばいくらい頭回らない。
とりあえずに敬語にしよう。
1498
﹁さーりーなーさーん﹂
ノックをしても返事がない。よし、入ろう。
﹁おじゃましまーす﹂
寝てるだろうから小声で言って入ってそっとドアを閉めた。
案の定ベッドがこんもりふくれている。近寄ると紗里奈がすやすや
寝ているので耳元に口を寄せる。
﹁もしもーし、朝ですよー﹂
﹁⋮⋮むにゃ﹂
返事がない寝ているようだ。わかってるけどなー。
とりあえず携帯電話を動画モードにして紗里奈の願いを撮影。
﹁おはよーございまーす、寝起きドッキリでーす﹂
小声で改めて言いながらドアップで撮影。鼻の穴を撮ると奥に鼻糞
が見えた。最近の携帯電話の性能ハンパないな。
口の中を映してから瞼をこじ開けて撮影。
﹁う⋮ま、ぶ? え? 何!?﹂
一瞬寝ぼけてから紗里奈は俺の手を振り払って飛び起きた。
さすがに眼球に直接ライトあてたら起きるか。
﹁う、わ⋮目ぇ、ちょーチカチカする。なに? なんなの⋮⋮なに
そのケータイ﹂
1499
﹁寝起きドッキリ﹂
﹁なっ、お、やめっ! やめんか! なにしとりますか!?﹂
録画してるとわかってすぐに強奪しようとしてきたので避ける。
ははっ、寝起きの動きなど止まって見えるわー!
うろたえようまでしっかり録画して、保存した。
﹁消せよー。なんだよー。朝からなんて日だ⋮もう寝る!﹂
﹁寝るな﹂
布団を頭から被る紗里奈。当然阻止するために引っ張るが、力強い
な。ちょっと寝た分紗里奈が有利か。
﹁おーいー。起きろよー。一緒にご飯食べようよー﹂
﹁や! あんな酷い顔が流出したらもう学校行けないから今日は休
む!﹂
﹁いや、そんなことしないから﹂
﹁じゃあ録られた精神的ショックが大きいから休む﹂
﹁じゃあって何だよ﹂
﹁いいから休むー﹂
ううむ。強情なやつだな。
手を離すとすぐに紗里奈は寝息をたてだした。狸寝入りか知らない
けど気持ち良さそうだ。
時計を見る。
⋮⋮⋮⋮⋮よし、あと15分あるし俺も寝よう。
アラームかけて⋮⋮起きれなかった時のために保険かけとくか。よ
1500
し。
﹁お休みー﹂
﹁ん、もう、あんら﹂
布団に潜り込むと紗里奈がむにゃむにゃ言いながら隣を空けてくれ
た。
あー、あったかーい。⋮ぐう。
○
﹁でっ!? ぐあっ!﹂
いきなり痛い、と思ったらさらに何かに押し潰された。
﹁う、うあ?﹂
起き上がると紗里奈が唸りながら転がった。どうもベッドから落ち
てさらに上に紗里奈が落ちてきたらしい。
﹁おはよう﹂
声に顔をあげるとにっこり笑った七海がいた。
1501
﹁あー⋮おはよう。やっぱ寝坊したかぁ。起こしてくれてありがと
う﹂
﹁な、なんで会長⋮あー、前会長が?﹂
実は寝坊した時に備えて、メールで7時半になったら紗里奈の部屋
に行くよう頼んでおいたのだ。眠かったし細かい事情なんて何も書
いてないけど七海なら絶対起こしてくれると思った。
と、いう完璧な計画を紗里奈に教えた。紗里奈はどうも俺の膝にお
でこをぶつけたらしく涙目でなるほどね、と納得した。
﹁どうやってもサボらせないつもりか。さすがに目も覚めたし。て
いうかこぶになってない?﹂
﹁赤いけどまだわからん﹂
﹁前会長ー、もっと優しく起こしてくださいよー﹂
﹁で?﹂
紗里奈の文句に何故か七海は笑顔のまま一文字で返した。
いや、意味がわからない。てゆーか今気づいたけどなんか怒ってる
笑顔じゃない?
﹁え? で?って意味が⋮﹂
﹁なんで二人で同じベッドで寝てたのかしら?﹂
﹁あ、や、別に深い意味はなくて⋮ってなんであたしが弁解してん
の!? 皐月!﹂
紗里奈が俺の後ろに回ると七海とバッチリ目が合う。
にっこり笑ってるのに眉がぴくぴくしてて、いつもより足を開いて
仁王立ちしててなんか凄い恐い。嫉妬されてるくらい好かれてると
か前向きになれないレベル。
1502
﹁あの、いや、女同士だし、なんもないよ?﹂
﹁私たちの性別から鑑みて、女同士であることは何の慰めにもなら
ないって、わかるわよね?﹂
言い訳しようとしたら笑みをやめて睨んでくる七海。
うっわ、なにこいつ。怒ってる顔も恐い! 当たり前だけど!
﹁えー⋮と、ごめんなさい。軽率でした﹂
素直に謝ることにした。頭を下げて真剣に謝ってからちらっと七海
の顔を見る。
﹁⋮本当に、反省してる?﹂
﹁してます﹂
﹁⋮じゃあ、今回は何もなかったってわかってるし、信じるわ。で
も次に私以外の人と同じ部屋で寝たら⋮わかるわよね﹂
どうなるんですか。ていうか部屋。部屋から禁止かよ。まだちょっ
と怒ってる感じの真顔だし。
﹁まあといっても私も鬼ではないわ。雑魚寝みたいに大人数なら許
すわ。あと極力密室でふたりきりは避けること。いいわね﹂
さらっと言ってるけど、そうとうアレだろ。独占欲強すぎだろ。ツ
ンデレかと思ってた時期もあったけど実はヤンデレか。
﹁返事は?﹂
﹁はいっ﹂
1503
いや、まあ﹃はい﹄以外答えはないけどね。
なんでこの人に惚れてるんだろう。よく考えたらかなり自分基準で
押し付けてくるよね。自分に厳しいけど人にも厳しいし⋮⋮⋮⋮や
ばいな、俺そこが好きだ。
えーと、あとちょっとナルシストだけど⋮こいつの場合妥当な評価
だからなぁ。世界一綺麗とか言いだしたらさすがにアレだけど、一
般的に見て美人だし。自信満々なとこも好きだし。てゆーか⋮⋮⋮
なにこいつ、欠点ないわ。
あえていうなら運動苦手なくらいだけどそこも可愛く見えるレベル
だしむしろ長所じゃん。なんなの完璧超人。
﹁皐月、今私の悪口を考えてるでしょう﹂
﹁え? なんで?﹂
唐突に言われてキョトンとしてしまった。七海は唇を尖らせる。
﹁考えごとをしてる顔だわ﹂
﹁悪口なんて考えてない﹂
﹁嘘、何を考えていたか素直におっしゃい﹂
﹁いや⋮七海って欠点ないよなーって思って﹂
﹁⋮は? いや、そんなわけないでしょ﹂
﹁え? ないだろ?﹂
七海はぽかんとした珍しい顔をした。それに俺は首を傾げる。
仮にあったとして七海なら﹃ない﹄と即答しそうなものなのに。
﹁⋮もういいわ。とにかく時間もぎりぎりよ。早くご飯食べてきな
さい。私ももう戻るから﹂
﹁はーい﹂
1504
七海はため息をついてから部屋を出て行った。言われて時間を見る
ともう7時40分。
﹁やべ。急ぐぞ紗里奈﹂
と、振り向いたら何故か背後にいたはずの紗里奈がいない。
﹁よし、行こうっ﹂
制服に着替えて鞄も持った紗里奈がベッドの陰から出てきた。
いつの間にそっち側に行ってしかも着替えてんだ。
時間もないので俺も途中で自室に寄って鞄を持って食堂へ行き、直
で学校行くことになった。
いつもより着替えたり往復する手間がないからか普通に間に合った。
○
1505
ひざ枕と
﹁はぁ⋮疲れた﹂
昼、いつものように淑女会室に集まってご飯を食べはじめようか、
となっていただきますをするとすぐに紗里奈がため息をついた。
﹁まだ昼なのになに言ってんだ﹂
﹁⋮君、午前中完全に寝てたでしょ﹂
じと目で言われ、なに言ってるんだ。そんなの当たり前だろ、と言
おうとしたが紗里奈の態度に俺ははっとして思わず紗里奈を凝視し
た。
﹁お前、もしかして寝てないの?﹂
﹁あのねぇ⋮そりゃ睡魔にまけたこともあるよ? あるけど君みた
いに授業中に積極的に寝たりしません。極力頑張ります﹂
﹁マジか﹂
﹁なに、また二人で夜更かしですか?﹂
ちょっと自分の不真面目さに落ち込んでると弘美が馬鹿にしたよう
に言った。
もはや俺が寝てたことに触れられないとか⋮これからは、心を入れ
替えよう。うん、よし。来年度からは真・皐月として頑張ろう。
﹁うん。まあ、途中から眠くて、アルコールないのにテンションあ
がっちゃって、完徹しようぜ!ってなって今死にそう﹂
﹁あー、だから皐月さんもいつになく熟睡だったんですね。どんな
にしても起きないのでちょっと面白かったですけど、寝ちゃ駄目で
1506
すよ﹂
﹁うん、今反省してる⋮って、寝てる間に何した﹂
﹁起こそうとしただけですよ﹂
﹁異議あり! 被告は嘘をついています! 裁判長! 証言させて
ください!﹂
﹁はいはい、どうぞ﹂
何故か一気にテンションをあげて弘美に向かって挙手をする紗里奈
に、弘美は面倒そうに促す。
﹁私は見た! 彼女が皐月にシャーペンを突き刺しているところを
!﹂
さらに何故かどや顔で弘美に視線で合図を送る紗里奈に、弘美はう
ざそうに口を曲げてため息をついた。
﹁こっち見ないでください。被告人、本当ですか?﹂
何だかんだでノる弘美はマジいい子。
﹁本当ですよ? 肩を叩いても起きないのでシャーペンで突いて、
それでも起きないので頬を抓りました。それでも皐月さんは起きな
かったんですけど﹂
思わず頬に手をあてた。なにそれ恐い。俺、もしかして恨まれてる?
﹁⋮あんた、皐月様に日頃の文句とか溜まってんの?﹂
同じことを思ったらしい弘美が俺の代わりに尋ねてくれたが、小枝
子はきょとんとしてる。
1507
﹁え? どうしてですか? 普通に起こしてるだけですよね?﹂
﹁⋮被告人は無罪放免とします﹂
﹁横暴だ!﹂
﹁場を混乱させた証言者は有罪です﹂
﹁失礼な! あたしは弁護士だ!﹂
﹁⋮あなたの弁護士資格は剥奪します﹂
﹁おいいぃ!﹂
﹁ていうか、そのテンションいい加減うざいんですけど﹂
﹁ねみーんだよ!﹂
突如叫んで机を叩く紗里奈に思わず三人ともひく。
こいつ完全におかしくなってる。睡眠って大事だなーと実感する。
テンション高すぎて気持ち悪い。
何だか知らないが罪悪感がわいて来るし、とりあえず宥めよう。
﹁紗里奈、もう午後は早退して寝ろよ。午後は俺がノートとってや
るからさ﹂
﹁やだね。ここまで来たら最後まで起きてるんだい!﹂
駄々をこねながらダルいのか昼食のスパゲティーを脇へ退けて机に
頭をのせた。
自分で選んだくせに食欲もないのか。どうするか、こいつ。
困って小枝子を見ると弘美も小枝子に視線をやってたようで、二人
分の視線にちょっと慌てて小枝子は口を開いた。
﹁えっと、じゃあ⋮今日の放課後は淑女会はなしにしますのででき
るだけ早く休んでください﹂
﹁えー、だからサボらないよ﹂
﹁サボりじゃありません。みんななしです﹂
1508
﹁あんたそんな適当でいいわけ?﹂
小枝子の決定に、何とかするように促したくせに弘美が呆れて聞く。
小枝子は少し眉尻を下げながら微笑む。
﹁まあ、特に急ぐものもありませんし、明日は休みですからのんび
りしましょう﹂
﹁ま、あんたがいいならいいけど﹂
﹁はい。ほら紗里奈さん、そういうことですから、しゃんとしてく
ださい。お昼ちゃんと食べないと力が出ませんよ﹂
﹁うー⋮一口食べる力が出ない⋮小枝子ぉ、食べさせてー﹂
小枝子に向けて口を開ける紗里奈。それに小枝子はちょっとだけ怒
ったようでわざとらしい膨れっ面になって
﹁もう、甘えないでくださいっ﹂
と言いながら紗里奈のフォークでくるくるとスパゲティーを一口分
巻き取り、前屈みになって片手で髪をかきあげてから紗里奈の顔を
覗き込むようにフォークを差し出す。
﹁一口だけですからねっ﹂
﹁それが甘やかしてて、だから紗里奈様が調子にのってるって気づ
かないかなぁ﹂
ぼそっと弘美が小さな声で呟く。隣に座っているので俺には聞こえ
たが黙っておくことにした。
それにしても、やっと週末か。
一日少ないから短いと思ってたけど、案外長かった気がする。やっ
ぱり、久しぶりの勉強に加えて夜も勉強してたからかな。
1509
別に、変な意味じゃないけど、休みは嬉しいな。七海といちゃいち
ゃしようとしてもできないのは目の前にいるだけに距離感感じるし。
変な意味じゃなくて。
﹁皐月様、なににやけてんの?﹂
﹁え? そ、そんなことはないぞ?﹂
慌てて取り繕ったが、どうにも弘美にはバレバレらしい。ため息を
つかれた。
うむむ。いかんぞ。いかん。完全に舐められてる。どうにかして、
いつか弘美をぎゃふんと言わせたいなー。
○
﹁と、いうわけなんだけど、なんかいい案ない?﹂
勉強が終わったので七海の部屋でごろごろしながら尋ねると、隣に
座ってる七海は本に目を落としたまま答えた。
﹁いい案、と言われてもねぇ。﹃ぎゃふん﹄と言うようにお願いし
たら? あなたからなら言ってくれるわよ﹂
﹁意味ねぇな﹂
1510
﹁ねぇ、とか言わないの﹂
片手で頭を小突かれた。とりあえず七海の隣から一回転して手が届
かないとこまで逃げておく。
﹁はーい﹂
﹁最近の話し方、可愛くてとてもいいから、無理に悪ぶらなくてい
いのよ﹂
﹁⋮ん? え? 俺、話し方変わってた?﹂
思わず逆回転してまた七海の隣に頭を寄せた。すると七海は片手で
本を開いたまま膝に置き、微笑んでさっきと同じ手で俺の頭を撫で
てきた。
﹁そこまでじゃないけど、多少は。というか雰囲気かしら。今もツ
ッコミは変わらないみたいだし﹂
﹁う、うーん。自覚なかったんだけどなぁ。そうなんだ?﹂
﹁そうよ。今のだって前なら﹃そうなのか?﹄とか言っていたのじ
ゃないかしら﹂
﹁そ、そうかな。⋮ていうか、なんの話だっけ?﹂
﹁ぎゃふん、でしょ﹂
﹁それそれ。なーんか弘美に尊敬される方法ないかなー﹂
﹁そうねぇ﹂
わしわしとちょっと乱暴に撫でられるのがなんとなく気持ちよくて、
ぐてーと手足を伸ばして七海に向けて頭を倒す。
﹁七海七海、ひざ枕してよ﹂
﹁ん? ⋮もう、仕方ないわね﹂
1511
ふと思い付いてねだると七海は苦笑しながら本をどけて、ベッドに
深く座りなおした。俺はベッドの端と平行に寝転がって七海の太も
もの上に頭を置いた。
柔らかくてあったかくて、それとほんのりいい臭いがする。左手を
そっと七海の膝に被せる。
そっと、今度は優しく丁寧に頭を撫でられる。これはこれで、いい。
﹁んー、なんかすごい気持ちいーよ﹂
﹁そう? ありがとう﹂
﹁お礼いうとこ?﹂
﹁違う気もするけど、別にいいじゃない﹂
﹁そだねー﹂
あー、なんか、眠くなってきた。
﹁なにもしなくたって大丈夫よ﹂
﹁んぁ?﹂
なにが?
閉じそうになった目を数度瞬きしてこらえながら首を捻って七海の
顔を見上げる。上を向くと七海は俺の額を撫であげてくすりと笑っ
た。
﹁なにもしなくたって、きっと弘美はあなたを尊敬してるわよ﹂
﹁えー? それはないでしょー﹂
﹁あるわよ。私も、馬鹿なあなたのこと、尊敬してるもの﹂
すごく穏やかで優しい笑みだから、いい意味で言ってるのはわかる。
わかるけど、馬鹿なとこ尊敬するってどういうことさ。
1512
﹁尊敬してるからあなたがたとえ私の恋人でなくてもあなたの応援
をするし、あなたの前にどうしようもない壁が現れたなら全部なん
とかするわ。それくらいにはあなたには魅力があるのよ﹂
うわー⋮なんだかなぁ。本心から言ってるんだろうけど、さすがに
鵜呑みにするほど俺も馬鹿じゃない。それだけ愛されてると思うこ
とにしよう。
﹁んー、ま、あれだ。俺も、そう思ってるよ﹂
﹁調子のいい子ね﹂
﹁ぅあー﹂
ほっぺた軽くひっぱってふにふにされた。
うにー。頭まわんなくなってきた。そろそろ起き上がらないとー。
でも、七海のひざすごいきもちいーしなー。そういえば、ひざまく
らだけどべつにひざじゃないなー。
﹁眠い? 寝てもいいわよ﹂
﹁んー⋮でも、せっかくだし﹂
﹁せっかく?﹂
﹁んー⋮ふたりきり?﹂
﹁⋮⋮いいから、寝なさい﹂
ほっぺた離されて頭撫でられた。
﹁ぅー、じゃあ、ちっとだけ﹂
瞼から力を抜くと同時にすっと意識は落ちていった。
1513
○
生返事をしながら頭を撫でると目を細めて皐月は咽をならす猫みた
いな顔をした。すごく可愛い。
とか思っていたら膝枕をねだられた。本当にもう敵わない。可愛す
ぎる。
座りなおして促すと皐月はごろごろと緩慢な動きで頭を私の太もも
にのせた。無意識にかこすりつけるような動きをしてから私な膝を
なでる。
頭の落ち着く位置を探したのはわかっているけど、どうしても恥ず
かしい、というか、性的なものを連想してしまう。
﹁すごい気持ちいー﹂
とか言いながらさらに頭を揺らす皐月に動揺を隠しながら会話を続
けるけれど、どうも、やはり、我ながらどうかと思うけれど、こう
⋮ムラムラしてちぐはぐな受け答えになってしまった。
私が戸惑っていると皐月はうとうとと半分目を閉じたまま瞬きを繰
り返しだした。
眠いらしい。連日の勉強で疲れているのもあるだろうけど、単純す
ぎて微笑ましくなる。
なる、けれどそれは別に私の性欲を抑える要因にはならない。むし
ろ皐月の幼げな緩んだ表情は可愛すぎてキスをしたくて堪らない。
1514
﹁なにもしなくたって大丈夫よ﹂
﹁んぁ?﹂
きっとキスをすれば自分を止められなくなるから、私はごまかすた
めにさっきの会話を続けた。
首をひねって私を見上げてくる皐月は眠い目を無理矢理開けている
からかものすごく不機嫌みたいな顔になっていた。
でもそれも私にはキュートすぎて顔中撫で回して口づけたなる。我
慢、我慢我慢。明日になったら、いくらでもキスできるんだから。
会話を続ける。
﹁なにもしなくたって、きっと弘美はあなたを尊敬してるわよ﹂
﹁えー? それはないでしょー﹂
﹁あるわよ。私も、馬鹿なあなたのこと、尊敬してるもの﹂
ぽかんとしてる皐月が可愛くて言わなくてもいいことまで言ってい
る気がするけど魅力溢れすぎと思っているけど今私なに言ってるの
かしら。
﹁んー、ま、あれだ。俺も、そう思ってるよ﹂
照れた。あああああ本当にこの子可愛い。
何だかわからないけど俺も、とか言ってる皐月の頬をひっぱる。柔
らかい。
﹁ぅあー﹂
唸った。可愛い。これもう可愛すぎてやばい。もう皐月って人間じ
ゃなくて皐月っていう名前の新しい生き物なんじゃないかってくら
い可愛い。
1515
また目をぱちぱちしだす皐月。これ以上可愛い顔をされると私も本
気で我慢できなくなるので寝るように促すと、せっかくふたりきり
だからとか眠そうに言われた。
この子はもう私のために生まれてきたんじゃないかと思う。
﹁⋮⋮いいから、寝なさい﹂
とりあえず頭を撫でてごまかす。今顔を見られたら多分変な顔して
て死ぬ。
﹁ぅー、じゃあ、ちっとだけ﹂
目を閉じるとすぐに寝息をたてだした。早い。そこも可愛い。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮。﹂
今、気づいたのだけれど、膝の上で無防備に皐月が寝ているのに何
もできないなんてそれどう考えても拷問すぎる。
なんで私あんなこと言ったのかしら。ああ、あと4時間で、キスで
きる。というかそれ以上も⋮。
﹁⋮⋮むにゃ﹂
4時間長い。長すぎまだ1分しかたってない。神よっ、ここだけ時
間の流れを変えて下さい!と真剣に願った。
いっそ起こして帰そうかと思ったけれどそれも惜しい。一分一秒で
も早くキスしたいから、我慢、我慢。
1516
﹁んぅ⋮﹂
⋮死にそう。
1517
週末の夜
﹁うぃ⋮﹂
起きたら、七海が俺の鼻をつまんでた。口呼吸してるからか喉かわ
いた。いつからつままれてるか知らないけど。
﹁あら、起きた?﹂
﹁ん、起きた、起きた。ああ⋮ちょっと、顔洗ってくぐっ!﹂
起き上がろうとしてベッドから落ちた。肘をぶつけたのが地味に痛
い。
﹁だ、大丈夫?﹂
﹁大、丈夫﹂
立ち上がりちょっとふらつきながら洗面台へ向かう。
うー、痛いよぉ。
うがい喉うがいして顔洗う。ん、すっきりした。戻ると七海はまだ
ベッドに座ってたから隣に座る。
﹁おはよう﹂
﹁はやくないわよ﹂
くすくす笑われた。なんだかご機嫌だ。時計を見ると一時間くらい
寝てたみたいだ。
﹁あー、ごめん、足痺れた?﹂
﹁大丈夫よ。あなたの顔をじっくり見れたので帳消しにしてあげる
1518
から﹂
﹁⋮だから、もー、恥ずかしいやつだな﹂
﹁恥ずかしくなんてないわよ。あなたの顔を見ることが私には価値
があると言っただけじゃない﹂
いやだから、さらっと、そういうことを。照れるんだけど。俺だっ
て七海の顔見るのは好きだけどさ。
﹁もう9時すぎか。んーなんだか疲れたし、戻ろうかな。お風呂入
りたいし﹂
﹁え⋮戻るの?﹂
﹁う? うん? ⋮えっと、もうちょっと、一緒にいる?﹂
立ち上がろうと前屈みになったのを戻して七海の顔を覗きこむと、
七海は少し俯いて小さく口を開いて、唇を噛むように閉じた。
﹁⋮⋮﹂
﹁七海?﹂
﹁なんでもないわよ。別に、戻りたいなら戻ればいいじゃない﹂
突き放すような言葉を言う癖に、寂しそうな顔で、子供みたいな拗
ねたような調子の七海。そんな七海をはいそうですかと放っておく
ことなんてできない。
そっと被せるように七海の手を握る。
﹁七海、やっぱり今日は、もっと一緒にいたいな。泊まってもいい
?﹂
﹁⋮す、好きに、したら?﹂
上擦ったような声と紅潮気味の頬は、俯きながら眉をしかめてもご
1519
まかせないくらいに喜んでることを俺に伝えてくる。
選択は間違ってなかったようでほっとする。俺のお姫様ときたら、
全くいじっぱりで素直じゃないにもほどがある。
そこがたまらなく可愛い、と思うのはかなりやられてるんだろうな
ぁ。
﹁ありがとう。好きにするよ﹂
手をちょっと強く握りなおす。七海はゆっくりと少しだけ顔をあげ
てはにかんだ。
付き合いだしてからはこのはにかみをよく見るようになったけど、
やっぱり可愛いなー。普段ツンツンした七海が、ちょっと弱気な感
じの照れ顔で恥ずかしそうに笑うとかめちゃくちゃ可愛い。
﹁その⋮本当は、一緒にいたかったの﹂
﹁うん、わかってるよ﹂
﹁⋮ばか﹂
七海の﹃ばか﹄は嫌じゃなくて、むしろなんだか好きだ。照れ隠し
だってわかってるからかな。
﹁じゃあとりあえず、お風呂だけ入ってくるから。行くね﹂
﹁ええ。私は自室で済ますわね﹂
﹁ん﹂
一度だけ手を強く握ってから離し、俺は七海の部屋を出た。
1520
○
戻る、と当たり前のように言う皐月に私はショックだった。
てっきり一緒にいてくれるものだと思っていた。私だけが期待して
待ち望んでいた。その事実に恥ずかしくてたまらなくなって皐月の
顔が見れなくなった。
﹁七海?﹂
それでも私の態度から察したらしく、柔らかい声音で私の名前を呼
んでくる。
悔しい。皐月に見透かされて悔しい。それに恥ずかしい。裸でいる
よりもっと、もっと全部さらけ出してるような気持ちだ。
私はだから、つい突き放すようなことを言ってしまう。全く、ちっ
とも本心じゃないのに。本当は素直になりたいのに。でも、素直に
伝えたいのと同時に、言いたくない。
そんなに全てを丸裸にしてしまえば、私が私でなくなってしまうよ
うな気がして、少し恐くもあった。
﹁七海、やっぱり今日は、もっと一緒にいたいな。泊まってもいい
?﹂
それなのに、何も言ってないのに、皐月は私の望む言葉を言った。
私の手を握って、そう言った。
嬉しかった。とても嬉しくて、何だか急に泣きそうになった。なの
1521
に私はさらに憎まれ口をきいた。
皐月は笑って、さらに強く私の手を握った。
好きにしたら、なんてひねた私の物言いに皐月はお礼まで言う。何
だかこのままじゃ、私が皐月の優しさに甘えてるみたいで癪にさわ
る。
﹁その⋮本当は、一緒にいたかったの﹂
﹁うん、わかってるよ﹂
だから勇気を出して顔をあげて皐月を見つめてちゃんと言ったのに、
皐月ときたらあっさりと、わかってるなんて簡単に私の心を読んで
たと言う。
言いようのない感情が胸の中に溢れて、それを全部まとめて私はま
た憎まれ口にして口からだした。
﹁⋮ばか﹂
皐月はさらに笑顔になった。
それだけで、私の複雑な胸の中は全て喜びに書き換えられた。単純
な自分に呆れる。
それから一旦別れてお風呂に入った。
日付が変わるまでまだ時間があるので、むやみに皐月に欲情しない
ようにと一度お風呂場で達した。これで大丈夫。
⋮嘘です、ごめんなさい。本当は我慢できなくなっただけだし、む
しろよけいにムラムラします。私の馬鹿ッ!!
ああ⋮こんなの私のキャラじゃないわ。
1522
お風呂を上がり、お湯を抜いて洗濯物を纏めて籠に入れ、お風呂場
の電気を消して髪を拭きながら戻ると、ちょうどノックされた。
﹁はい、どなた?﹂
﹁皐月です﹂
わかってはいたが一応尋ねると皐月だった。ドアを開けて迎え入れ
る。
﹁あれ、まだ髪乾かしてないの?﹂
﹁え、ええ。私はほら、髪が長いから﹂
﹁そっか﹂
ともあれ、ドアを閉める。皐月はベッドに座り、私はドレッサーに
腰かけてドライヤーのコンセントをさした。
﹁あ、それやりたい!﹂
﹁え? それって⋮ああ、髪?﹂
﹁うん。ドライヤーかける﹂
﹁そうね⋮じゃあ、おねがいするわ﹂
﹁うん﹂
乱暴にしないか少し心配だったけれど、思いの外丁寧でむしろ慣れ
た風でもあった。
﹁上手いわね﹂
﹁ありがと。母さんの髪はよく梳かしてたからね﹂
﹁ああ、なるほど﹂
それなら長い髪の扱いになれているのも納得だ。
1523
﹁よし。こんなもんかな﹂
﹁そうね。ありがとう﹂
私はお風呂上がりの習慣で化粧水と乳液をつけ、クリームを手足に
馴染ませる。何やら見てきたので皐月にもやってあげた。
それから何だかんだでじゃれながら寝支度を整えて、時計を見ると
10時半だった。
会話がちょうど途切れたので何気なくサイドテーブルに置きっぱな
しになっているリモコンでテレビをつけた。
﹁あ、そういえば今日からか﹂
﹁ん? これ?﹂
﹁新しいドラマだよ。CMでやってた、学園物﹂
﹁学園物ねぇ。私、あまりドラマは見ないのよね﹂
﹁普段何見てんの? ていうか、普段見てんの?﹂
﹁朝のニュースくらいは。パソコンでテレビが見れるのって、何だ
かズルイ気がしない?﹂
﹁んー。まあ、半々?﹂
本当は、寮の自室にはテレビは持ち込み禁止だ。音楽プレーヤーは
いいがラジオも禁止だ。
なので寮には談話室や食堂にある共有のテレビしか存在しない、と
いうことにはなっているが、携帯電話でもテレビが見れる今となっ
てはもはや意味のない禁止規則だ。パソコンも禁止されていないし、
ラジオ単体は駄目だけどラジオ機能のある音楽プレーヤーはよい。
だいたいよほど大音量でない限り音は室外へ出ないので、普通にテ
レビを持っている子も実はいる。
規則は恐らくテレビが高価だったり教育に不適切とされてた一昔前
1524
の名残だろう。シスターの古株にも何人かテレビ嫌いがいるので規
則自体はまだ当分なくならないだろうけど、すでに殆ど意味のない
ものだ。
と、あまり意味のない裏設定を垂れ流しながらチャンネルを一周さ
せたが特に目新しい番組はない。
﹁皐月、見たい番組はある?﹂
﹁んー⋮俺、暇つぶしにしか見ないから、どんな番組があるかはチ
ェックしないんだよなぁ﹂
﹁そ﹂
生返事を返しながら、微妙に皐月の口調がさっきと違うことに気づ
いた。戻ってる。本人が気づいていなかった、つまり無意識なのだ
から無意識に戻ってもおかしくはない。
変化と言っても大きなものじゃなくて、いい雰囲気になると特に可
愛らしい素直な言い方になるのが目立つくらいで挨拶とかは変わっ
てな⋮⋮つまり、もしかしてそのままの意味で、皐月は私と二人き
りの時には甘えて無意識に口調が可愛くなっているということだろ
うか。
それだとあまり意味がないし、可愛い話し方と言ってもそれは皐月
がするからで、一般的に普通の話し方なので普段から統一した方が
いい。
﹁七海?﹂
﹁え? なに?﹂
﹁いや⋮七海ゴルフ見んの?﹂
﹁あー⋮少しぼーっとしてたわ。好きに回していいわよ﹂
声をかけられてゴルフ番組をつけたままだったことに気づき、皐月
1525
にリモコンを渡した。
﹁別に、見たいのないけどなー﹂
皐月は後ろに手をついて足を前に伸ばしながらリモコンでチャンネ
ルを一周させる。
というかやはり、先とは口調が違う。今までは雰囲気的に私も興奮
していたりして気づかなかったようだ。
﹁やっぱないや﹂
私は仮説を確かめるため、皐月の手に私の手を重ねた。驚いたよう
に勢いよく私を見た皐月だけど、私が微笑むと照れたように笑った。
﹁なに? どうしたの?﹂
﹁なんでもないわ。手を繋ぎたくなっただけよ﹂
﹁⋮そ、そっか﹂
皐月は笑って後ろにもたれ気味になってたのをやめて、私の手をと
って手を膝の上に持ってきた。
﹁七海の手って綺麗だよねぇ。爪も丸くてピンクだし﹂
まじまじと見ながら褒められた。顔の造りより努力が出るところな
ので嬉しい半面、照れる。
と、それよりやはり、さっきと今では口調が柔らかくなっている。
単純な言い回しではなく言う調子が、何となくではあるけど皐月の
言葉の変化自体ははっきりわかる。
ずっとこんな緩やかな話し方なら、皐月も少しは今よりお嬢様に見
1526
れるのに。だけど言うのはやめておいた。
皐月は公私で使い分けていて、わざわざ口煩く指摘するほどではな
いし、なにより私だけが聞ける話し方だと思うとついはしたなくも
にやけそうになる。口調もあるけれどよりいっそう、皐月が可愛く
見える。
﹁? どうしたの? 七海?﹂
﹁え、や、なんでもないわよ?﹂
﹁そう? 何だか⋮ちょっとエロそうな顔してたけど⋮﹂
﹁⋮⋮してないわよ﹂
﹁いいけどさ、別に。七海って本当、見かけによらずエロエロだよ
ねー﹂
明るく指摘されてしまった。皐月だってと言い返すには、今までの
行為が邪魔をする。
思い返して、皐月はすぐに満足するがだいたい私はそうでもない。
前回も最後あたりはは嫌がってはいないが呆れていた気がしないこ
ともない。
﹁⋮七海? 怒った?﹂
﹁お、怒ってなんかいないわ﹂
﹁じゃあ拗ねたんだ?﹂
﹁拗ねてません﹂
﹁七海は可愛いなー。エロエロな七海も好きだから気にしないでい
いよ。七海が喜ぶなら俺も嬉しいしー﹂
⋮今のはちょっと、嬉しかった。嬉しかったけど、何だか私が駄目
な人な気がしてきた。
﹁ふあぁ⋮んー。ちょっと早いけどもう寝よっか﹂
1527
﹁え、そう?﹂
﹁うん。そうだ、朝起きたら、休みだからキスしてもいいよね?﹂
眠そうに目を細めたまま照れつつ笑う皐月に、さすがの私もキスを
我慢するのに骨が折れた。
というか気持ちが折れそうだった。結局私は早く明日になるように、
寝ることに同意した。
○
1528
只今深夜0時前
眠れない。
歯磨きをして二人でベッドに入ったまではいいけれど、眠れない。
一応私も一日分の疲れはあるのに、眠れない。
隣で皐月が眠っている。憎らしいくらいのあどけない顔で。いや、
今の言い方は正しくない。正確に言うと、襲いたくなるくらいの可
愛い顔で、だ。
ベッドの中から首を伸ばして針が光る壁掛け時計を見ると、まだ1
1時。
寝てしまえばすぐに朝で、何もしなくても皐月がキスしてくれる。
それはわかっているけど、わかっているだけに落ち着いて眠りにつ
くことができない。
﹁⋮⋮﹂
視線をとなりにやると相変わらず皐月はぐっすりと、気持ち良さそ
うに寝ている。
ふと、キスくらいならしてもいいんじゃないか、それくらいなら破
ったことにはならないし、なにより皐月は気づかないだろうという
よこしまな考えが浮かんだ。
慌ててその考えを打ち消す。
そんなせこいことはできない。なによりあんまりに情けなくみみっ
ちく惨めな行為だ。私に相応しくない。
とにかく皐月から意識をそらすため、先程の時計に視線を戻す。
1529
すると、突然どこからかチックタックという機械音が耳に響きだし
た。壁にあるのはアナログ時計なので当然それが音源だが、こんな
に大きい音であることに驚いた。
そういえば前にも一度だけこんな風になったことがある。寝よう寝
ようとして神経が過敏になっているのだろうが、あまり気持ちのよ
いものではない。
仕方ないこととは言え、一度気になると嫌に耳につく。
﹁∼∼﹂
時計から視線をはずして強く目を閉じるが、音はとまらない。最も、
本当にとまっても困るが。とりあえずあの時計は今度音がでないも
のに変えよう。
﹁⋮ふぅ﹂
諦めて目を開ける。ぼんやりと、浮かび上がるようにして皐月の横
顔が見える。だいぶ暗闇にも慣れ、もう普通と変わらないくらいだ。
⋮やっぱりキスしようかしら。⋮キスくらいなら、うん、いいわよ
ね。恋人にキスするなんて、情けないことはないわよね。
皐月をじっと見ているとついに我慢できなくなった。
腕に力をいれて起き上がると背中が空気に触れる。まだ空気は外よ
り暖かいはずだが布団の中で温まっていた肌には冷たくて私は小さ
く身震いをした。
布団を自分の肩にかけ直して体重をかけないように気をつけながら
皐月の左半身にもたれかかり、そっと口づけた。
とたんに全身にふわふわとした幸福感が満ち、頭の中は皐月でいっ
1530
ぱいになり他になにも考えられなくなる。
とっくに私の中から時計は消え、皐月の寝顔を前にして皐月しか見
えなくなる。他は目に入らず、今が夜か朝か昼かここがどこで私が
誰かなんてこともわからないくらいどうでもよくて、ただ皐月を抱
きたいという欲求だけが私を支配していた。
﹁⋮ん⋮﹂
そっと皐月の胸に触れる。少し寝言を口にしたが起きる気配はない。
仰向けなのでただでさえ小さな皐月の胸は平坦になっていた。
指先だけを動かすようにしても殆ど脂肪がない。あれだけ食べるの
に、いったいどこへ消えているのだろう。
ふにふにとくすぐるように探るように撫でていると、ツンと胸先の
蕾が硬くなった。摘む。
﹁ん、んん﹂
皐月は唸りながら寝返りをうった。私は反射的に腕ごとあげて起き
上がり距離をとったので、皐月の動きに巻き込まれずにすんだ。皐
月は私を向いて横向きにすやすや寝ている。
そっと右手を皐月の背中に手を回して抱きしめて、左手を枕との間
に差し込み皐月の頬に手をあてて支え、またキスをする。
唇をくっつけているだけなのに目の前がぱちぱちと点滅しているか
のように錯覚するほど興奮する。
背中を撫で、そのままお尻に手をあて、そっと揉む。やはり脂肪は
少ないが、それでも胸よりずっと揉みがいがある。
ふにふにと柔らかいお尻を撫でていると徐々にエスカレートし、段
々とこすりつけているかのようになる。
1531
﹁ん、ふぅっ﹂
皐月が甘い声をあげた。
鼻先で少し眉をよせた皐月の顔から漏れた声のいやらしさに、私は
起きるかも、なんて考えられなかった。
それどころかその喘ぎ声に理性は崩壊し、私はキスをしてすぐに舌
を割り込ませる。それと同時に右手を皐月の前に回し、寝巻きの上
から足の付け根に指を素早く這わせた。
﹁んっ﹂
閉じた太ももの間に指をいれ、少し乱暴にぐにぐにと皐月の性器の
ある場所を押すように擦る。
﹁んあ、う? ん?﹂
悩ましげな高い声をあげる皐月にキスをする。左手で皐月の頭を少
し持ち上げてキスを何度も何度もする。
ぐいぐいと強く、生地越しでも柔らかいとわかるそこを刺激する。
﹁ん、んぁんっ﹂
びくりと、唐突に皐月が寝言まじりでなく大きな声をあげて太もも
で私の手を強く挟んだ。
驚いて顔を離す瞬間に小さく震える皐月に、イったのだと悟って我
に返った私は右手を引っこ抜いて寝たふりをした。
﹁ん、んー⋮ん? 夢、か?﹂
皐月が起きたようだ。ぎりぎりセーフ、のはずだ。私は自然な動作
1532
で右手で心臓を押さえた。
○
﹁んぁんっ﹂
自分の声ではっとして目を開けると真っ暗だった。
え? なに? え?
﹁ん、んー⋮ん?﹂
瞬きをしながら目をこらすと徐々に暗闇に目が慣れてきた。
七海のドアップが目の前にありちょっと驚きつつ、何故か右肩に七
海の手があるのにさらに気づいて驚いた。どうやってこんな狭い隙
間に手が入るんだ。胸の前にもあるし体勢的にはおかしくないけど、
突っ込まれたら気づけ俺。
﹁夢、か?﹂
とりあえず向き合って至近距離で寝ているのをいいことに一度キス
しておく。役得役得。
うーん、しかし、何だかエッチな夢を見ていた気がする。気持ち良
かったけど⋮どんなのだっけか。
1533
﹁⋮⋮﹂
七海はすやすや眠っている。その顔を見てると何だかムラムラして
きた。
欲求不満なのかなーとちょっと落ち込みつつ、落ち着くためにとり
あえずトイレに行くことにした。
布団から出ると寒かった。暖房をいれて上着を着て廊下に出た。
部屋は七海が自主的に切ってるけど廊下は最低限の温度は保つよう
になっているので、今は暖かいくらいだった。ま、慣れたら寒くな
るんだけど。
トイレに入るとパッと電気がつく。眩しくて目を細める。廊下は非
常灯のやわい光だから大丈夫だけど、トイレまじ眩しい。
ついでにうがいをしてから個室に入り、下を脱いで便座に座−。
﹁んっ!?﹂
冷たくて慌ててお尻をあげ、中腰で振り向くと蓋をあげるのを忘れ
てたのに気づく。あげて座り直す。
あー、完全に目ぇ冷めたわ。
ちょらちょろとおしっこしてふとパンツを見るとちょー濡れてた。
﹁⋮⋮うわぁ﹂
欲求不満すぎだろ。
1534
情けない気持ちになりながらトイレットペーパーで拭き取り、おし
っこも終わったから新しい紙で拭く。見て確認すると明らかに尿以
外の液体もついてた。
﹁⋮⋮﹂
あー⋮七海にエロエロとか言って、人のこと言えないなー。⋮ま、
いいか。
流して穿きなおす。ちょっと冷たい。手を洗って早足に部屋に戻っ
た。
室温はいい具合になっていて温かくてほっと息をつく。暖房のお休
みタイマーをつけてそそくさとベッドに潜り込む。
七海は相変わらずこっちを向いたままだ。とりあえずキスをする。
じっと見てるとよりハッキリ七海の顔が見えるようになってきた。
そういえば、今、何時だろ。
頭をあげて時計を見ると針が光るタイプだったからよく見えた。新
発見になんとなく嬉しくなりながら、まだ11時半なことにがっか
りした。
もう朝方だと思ってたのにまだ全然夜じゃん。
頭をおろしてまた七海を見る。
﹁ぶっ⋮くく﹂
七海を見ると針の残像が残って額に時間が表示されていて、吹き出
しそうになるのを手をあてて我慢する。
いかん、残像は当たり前なのに笑える。夜だからか沸点下がってる
1535
かも。
﹁くくっ⋮ふう﹂
小さく笑い、満足したので息をつく。危うく起こすとこだった。危
ない危ない。
にしても、居眠りもしたからか変に目が冷めたのか、ちっとも眠く
ないのは困ったものだ。
布団に肩まで入って大人しく七海を見つめてると、再びエロい気分
になってきた。
とりあえず七海の手をそれぞれ握って、全身ぎゅうぎゅうくっつい
た。暖かい。
せっかく寝ているのだし、普段できないことをしよう。
とりあえず、七海の胸に顔をうずめる。
やわやわだ。
初めてやるわけではないけど、落ち着いてやったことはないから改
めて柔らかさを実感する。
体重をかけないようにしてるから首が少し疲れるが、それを鑑みて
もやめられない魅力がある。ふにふにと顔を擦りつけてその感触を
楽しむ。
握ってる手がぴくっと反応する。
起きるかな? まあ、起きても笑ってごまかせば大丈夫だろ。
手を握る力を強くしたり緩くしたりしてにぎにぎする。七海は手も
柔らかくてすべすべで触ってて気持ち良い。というか、全身くまな
く気持ち良いんだけど。
1536
ちょっとだけ顔をあげて七海の右手を目の前に持ってくる。
何となく舐めてみた。びくっと七海の指が反応するのが面白いので、
人差し指を第二関節までくわえて爪の間まで舐める。
軽く甘噛みしたりすったりしてから、関節の皺を伸ばすように丹念
になぞるように舐め−
﹁ぅりぇ﹂
舐めていると急に七海の指が力強く曲がり、驚いて思わず声をあげ
て動きをとめる。それでも七海人差し指はとまらずに俺の歯をなぞ
ってきた。
人差し指を口にいれたまま胸から頭をあげて七海の顔を見ると、笑
いを堪えるようににやけている七海と目があった。
﹁⋮⋮﹂
﹁ひふ、ん⋮いつから起きてたの?﹂
﹁あなたが私にキスした時にはとっくに起きていたわよ﹂
溜まった唾液を飲み込んで七海の指を離して聞くと、七海はなんで
もないように唾液がしたたる指を舐めながら答えた。
最初からかよ、とツッコミをいれる余裕は七海の動作を見てなくな
った。
ベッドに唾が落ちないようにすすったんだろうけど、今のはちょっ
と、かなり、エロかった。見てるだけでドキドキした。
﹁七海﹂
抱きしめてキスをするのを七海は拒みはしなかったけど、唇を離す
とこら、と可愛い声で怒りながら俺に頭突きをした。
1537
﹁まだ日付、変わってないわよ﹂
おでこをくっつけたままそんなことを言う七海にまたキスをしなが
ら俺は答える。
﹁そんなの知らないよ。俺は今、七海とエッチなことがしたいの。
ねぇ? いいでしょ?﹂
甘えるように頬や鼻に何度もキスをすると七海は苦笑してから、俺
の唇にキスを返した。
○
1538
朝になる
﹁そんなの知らないよ。俺は今、七海とエッチなことがしたいの。
ねぇ? いいでしょ?﹂
皐月の甘えた声と仕草にくらくらする。至近距離にある瞳は暗いの
にキラキラ光って見えて私を誘惑してやまない。
皐月はなんて罪つくりなのかしら。
私があんなに悩んで悶えて我慢してこそこそしていたのに、皐月は
簡単に私の葛藤を越えてしまう。
ねぇ、と言われてお願いされて、断れるはずもなく、断る気なんて
さらさらない。
私は皐月がその気になれば簡単に理性が飛んでしまうらしい。決め
たこととか全てどうでもよくなって、私は皐月の誘いにのった。
皐月はどこから知識を仕入れたのか、前回より大胆に私を攻めた。
すごく気持ち良かった。
ぎこちなさはあるが舌と同時に繰り出される指使いは今まで単に上
下に動いていたのとは比べものにならない。
我慢しようとしても声がとまらなくて、いつもの倍くらい何度も達
してしまった。
暖房が切れて部屋の温度がさがっても全く気にならなくて、それど
ころか凄く熱い夜だった。
そして、朝、と言えないくらいの昼近くになって私は起床した。
1539
﹁⋮⋮∼﹂
寝ぼけた頭で隣の皐月を見て、全て思い出して頭を抱える。
昨夜の自分が信じられない。
恥ずかしい。今までずっと、できるだけ声を出ないようにしていた
のに。
あんなに声がでて⋮しかも、皐月におねだりまでしてしまった。
あああああ⋮⋮⋮しかも、殆ど皐月にいいようにされてしまった。
さらに、自分でもそれを望んでしまったー⋮あああああああああ⋮
⋮⋮死にたい。
嘘だけども。少なくとも皐月の昨夜の記憶は消したい。私は忘れた
くないしあんな経験は忘れられないだろうけど。
今殴ったら、記憶飛ばないかしら。
隣を見ると皐月はすやすや眠っている。
皐月の体が丈夫なのはわかっているので、思い切って衝撃を与えて
みることにした。
殴ってもあまり痛くないだろうから、目覚まし時計を30cmくら
い上から落とした。
﹁ん⋮﹂
﹁ん!? っ⋮う﹂
弾かれて落としたのとは逆の手に直撃した。昨夜は全然起きないし
反抗もしなかったのに時々思い出したように警戒レベルをあげて前
みたいな鋭い反応をする。眠りの深さの問題なのか。
私は腕を押さえながら皐月を睨むが、当然反応はない。
1540
ちょっとむかつく。私といて警戒するというのも不快だ。昨日の八
つ当たりも込めてキツめに起こしてやろう。
皐月の顔にに手を伸ばすとはしっと片手で掴まれた。
﹁⋮むにゃ﹂
そのままじっとしてると皐月は手を離したので改めて、勢いよく皐
月の耳を引っ張りながら起こす。
﹁起きなさい!﹂
﹁いっ⋮うー⋮な、なにぃ﹂
寝ぼけ眼をこすりながら起き上がる皐月は非難の目を向けてくる。
﹁朝よ﹂
﹁えー? 休みだし寝かせてよー﹂
﹁もう11時よ。ほら起きた﹂
﹁うー⋮⋮わかったよ﹂
布団を被りなおそうとするのを引っ張って阻止していると諦めたの
か渋々布団から手を離した。
﹁最初から素直にそうすればいいのよ﹂
私も手を離す。
﹁スキあり! お休み﹂
と、手を離した瞬間に素早く布団を頭まで被っている。子供じみて
1541
て怒るよりも呆れてしまう。
﹁全く⋮しょうがないわね﹂
どうせ今起きても昼には半端だ。皐月を起こすのはもう少し後でも
いいだろう。
布団をかけ直してやると皐月は目を閉じたまま笑ってありがとう、
と言った。
それにどういたしましてと返しながら、八つたりなんてして申し訳
ないと反省した。それに目覚ましも。
皐月なんだから、私の全部を見ていい。むしろ見て欲しいと思う。
なのに素直になれなくて真逆の行動をしてしまう私は、皐月よりよ
ほど子供なのかしら。
○
起きた。
完全に目が覚めた。
﹁さ、早く顔を洗ってらっしゃい。﹂
﹁う、うん﹂
促されるまま洗面所に行き顔を洗う。
1542
﹁⋮⋮﹂
⋮う、わーーーー⋮⋮。なんで、あんなこと言っちゃった、てかや
っちゃったんだー。
だいたい初っ端から約束も守れないとか猿かー。あー、なんで昨日
あんなに発情したのか本当自分でもわかんない。淫夢でも見たのか、
なんで内容覚えてないんだ。
あー⋮⋮⋮まあ、いいか。
やっちまったものは仕方ない。今も特になにも言われてないし。後
で追求されても開き直っちゃえ。
よし、切替完了。
俺はもう一度顔を洗ってから部屋に戻る。
﹁遅かったわね。まだ眠い?﹂
﹁や、大丈夫﹂
﹁そう。じゃあお昼に行きましょう﹂
﹁うん、あ、着替えるから俺の部屋寄って。ついでに歯も磨くから﹂
﹁わかってるわよ﹂
わかってらしたらしい。というか、部屋を出た瞬間に気づいたけど
こんな時間に寝巻きで人の部屋から出るのってちょっとあれじゃな
い?
昼まで寝てたと思われるのはいいとして、泊まったのモロバレじゃ
ない? だって自室なら着替えてから出るし。今日は特にパジャマ
で寝巻きっぷり全開だし。
クソ、ぬかった! ちょっとぶりのお泊りだからって新しいパジャ
マをおろしてる場合じゃなかった! 七海気づかなかったし!
1543
幸いというべきか、別に泊まったとして親しい間柄なら普通だしす
れ違う生徒も皆普通の反応だった。自意識過剰だった。ちょっと、
恥ずかしい。
部屋で着替える時はやたら見られたのでデコピンしておいた。
本人はなんらやましいことのないむしろアーティストのごとき目で
見ていたとか意味のわからないことを言ってたが、どんな意図で相
手が誰だろうとじっと見られたら恥ずかしいわ。
で、食堂。
お腹が減ったのでメニューは、カツ丼、豚汁、フライドポテト、サ
ラダ、デザートにプリンだ。ちなみに全部大盛りで、プリンはぷっ
ちんの大きいあれ。たまに食べたくなる。
﹁⋮あなた、寝起きから大盛り大盛りで、本当にいつか太るわよ﹂
﹁大丈夫だって。俺、太らない体質だから﹂
﹁今はそうでも、歳をとったら新陳代謝率とか変わっていくんだか
ら﹂
﹁おいおい、いくら俺だって歳とってよぼよぼになったらこんなに
食べられないって﹂
﹁そんなお年寄りの話ではなくてよ? ⋮まあ、いいわ。太ったら
私が痩せさせてあげるから、気をつけなさい﹂
﹁気をつけるの? 安心して太れではなく?﹂
﹁私、ダイエットはしたことがないからとりあえず闇雲に厳しくす
るわよ?﹂
﹁⋮気をつけます﹂
こいつが自分で厳しいっていうレベルは想像できなくて恐い。一応、
肉食べた分は野菜食べるってバランスは考えてるんだけどなー。
1544
○
ご飯を食べ終わるとどっちが言うでもなく別れず、また七海の部屋
に戻った。
﹁ふう、お腹いっぱいだ﹂
﹁あれで腹八分目だったら、さすがにあなたの胃を疑うわ。胃下垂
的な意味で﹂
ベッドに座りながらお腹をさすると隣に座った七海が呆れ顔になっ
た。
﹁食べても食べても胃下垂は太らないってやつ? でも胃下垂って
満腹感感じすぎて少食になったりするらしいよ﹂
﹁へぇ? そうなの。知らなかったわ﹂
﹁俺もよく知らないけど。そういう症状もあるんだって。あと痩せ
てる人がなりやすいとか﹂
﹁へえ⋮⋮まあ、どうでもいいけど﹂
﹁⋮すっぱり切るなー﹂
﹁思ったことを言っただけよ﹂
﹁この素直さんめ﹂
手を握ってにへーと笑うと笑いながら握り返してきた。
1545
まさに至福っ。あー⋮毎日こんな風にだらだらいちゃいちゃして暮
らしたい。
﹁皐月﹂
﹁なに?﹂
﹁私、思ったのだけど。やっぱり平日禁止令は取りやめにするわ﹂
﹁へ? いいけど⋮なんで? 俺が初っ端から破ったから?﹂
﹁それもあるわ。皐月の意思で簡単に破られる約束なら意味がない
し﹂
﹁う⋮﹂
七海は微笑んだままで責めてはいないが簡単に破ってしまった手前
罪悪感が⋮。
﹁でもね、それは私、嬉しかったからいいの。怒ってはいないわ。
それに一番の理由は別にあるわ﹂
﹁そうなんだ。なに?﹂
約束を破ったのが嬉しいというのはいまいちピンとこない。夜中に
突然起こして襲うようにしたのに全く苦情がないとか、ちょっと性
に関して寛容すぎる気もする。都合がいいからいいんだけど。
﹁それは⋮だって、我慢するのは体に悪いもの﹂
﹁まあ、そうだね﹂
俺は我慢しようなんて全く思わずに行動に移したわけだけど、七海
が我慢していただろうとは思うので相槌をうつ。
でもちょっと言葉を濁した風なのはなにか他にも理由があるのかな
とも思ったけど突っ込まないでおく。言いたくなったら七海なら自
分から言うしね。
1546
﹁じゃあ、まあ、毎日とは言わずにテキトーに、気が向いたらって
ことで﹂
﹁そうね。強制ではないけど回数は控えることにしましょう﹂
﹁うん。そうだね。あと嫌な時はちゃんと嫌って言ってね。拒否ら
れても嫌いにはならないからさ﹂
﹁それはあなたもよ﹂
﹁俺は⋮七海に迫られるの、結構嫌いじゃないし﹂
﹁可愛いことを言うわね﹂
わしわしと頭を撫でられた。えへへ。
﹁ところで皐月﹂
﹁んー?﹂
﹁あれ、どこから仕入れたの?﹂
﹁なにがぁ?﹂
﹁だから、え、えっちの仕方よ﹂
﹁⋮え、や、別に浮気とかじゃないよ?﹂
﹁疑がってないわよ﹂
慌てて弁明すると笑いながらぽんとおでこを叩いて七海は手をおろ
した。
﹁あなたの不貞を疑うわけないでしょ。単純に聞いただけよ。で?
どこから?﹂
﹁紗里奈から﹂
﹁⋮⋮紗里奈? ⋮⋮⋮ごめんなさい、一度だけ聞くわ。何もなか
ったのよね?﹂
﹁ねぇよ! なんでちょっと意味深な聞き方なの!?﹂
1547
台詞の撤回早過ぎだろ。紗里奈の信用がマイナス過ぎるのか、実は
俺の信用が低いのか。
急に真顔になった七海に引きながら答えるが、依然七海は不審そう
だ。
﹁だって紗里奈とそういう話をするなんて⋮﹂
﹁ないないない! あーりーまーせーん。ちゃんとテーブル挟んで
話してました﹂
前回のみちょーっと後ろめたいのでしっかり否定しておいた。特に
怪しまれなかったらしくそう、と七海は安心したように笑って、頬
を染めた。
﹁ならいいわ。その⋮よかったから、許してあげるわ﹂
あーーもう、恥ずかしいなら言わなきゃいいのになー。可愛いなー。
赤い頬を隠すように顎を引きながらはにかんで上目遣いで俺を見る
七海は拍手喝采くらいに可愛くて、見てるだけでにやけそうになる。
﹁もう、なによ、にやにやして。なんとか言いなさい﹂
﹁なんとか﹂
﹁⋮ばかね﹂
頬にキスされた。
てへへ。何回唇にキスしてても、何だか嬉しいし照れる。
﹁さて、じゃあそろそろ、勉強しましょうか﹂
﹁⋮え?﹂
﹁え、じゃないわよ。一日一回は勉強するものよ。先にあなたのを
見てあげるわ﹂
1548
﹁⋮マジすか﹂
今日は一日らぶらぶするものだと思ってました。
﹁マジよ﹂
﹁⋮わかったわかった。わかりましたよ﹂
まあ、仕方ない。これが七海なんだから。真面目すぎて嫌んなりそ
うだけど、不思議とならないんだよなぁ。
○
1549
入試が終わって
七海の教えのおかげで徐々に仕事ができるようになってきたある日
の放課後、一息ついて休憩に入ってすぐに紗里奈が特に繋がりなく
話題を切り出した。
﹁そういえばさ、最近皐月、ちょっと変わったよね﹂
﹁え? そうですか?﹂
﹁小枝子様気づいてなかったの? 最近は質問頻度も減ったし、仕
事を自分からやるようになってるじゃない。ですよね?﹂
﹁そうそう、さすがヒロ、よく気がつくね﹂
﹁小枝子様が鈍いんですよ﹂
﹁う⋮﹂
小枝子が落ち込み気味にカップに口をつけるが、わりとポーズなの
はわかってるのでみんなスルーする。
﹁いい変化だし突っ込まなかったけど、なんか心変わりでもあった
わけ?﹂
﹁あたしは今気づいたとこだけど、気になるから教えれ﹂
二人に問われ、俺ははぁとため息をついた。気づくのはいいけど、
原因はお前らだからな。
﹁心変わりってか、お前らがあんまりに俺を役立たず扱いするから
だろーが。だから一念勃起して修業してんだよ﹂
﹁あー⋮それって役に立ちたいから頑張ってるってこと? あんた、
意外と真面目ね﹂
﹁てか今時修業とか。まあ、その健気さはかうけどね﹂
1550
﹁皐月さん、立派です﹂
正直に答えると小枝子は褒めてくれたが二人は反応が微妙だ。褒め
ろとは言わないが、何故呆れてるんだ?
﹁ただ皐月さん﹂
﹁なに?﹂
﹁一念発起です﹂
﹁⋮⋮ん? え? 俺今なんて言った?﹂
﹁ぼっき、と。正解はほっきですよ﹂
﹁勃起とか皐月エんロー﹂
﹁あんた馬鹿すぎ﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮⋮完全に間違えた。うわ、恥ずかしい。漢字的にも恥ずかしい。
なに俺。だから呆れられたのか。
そして小枝子の何でもない指摘が一番恥ずかしい。二人みたいに笑
ってくれた方が⋮いや弘美の心底馬鹿にした嘲り笑いはむかつくが。
とにかく笑ってくれた方がマシだ。
﹁まぁま、あたしも昔は間違って覚えてて密かに興奮してたからさ。
気にすんなよ﹂
﹁一緒にするな!﹂
﹁慰めたのにー﹂
﹁どこが? てゆーか興奮すんな変態!﹂
﹁ひどーい﹂
ケラケラ笑う紗里奈を殴りたいのを我慢し、俺はため息をつく。
﹁どーせ馬鹿だよ﹂
1551
﹁まぁまぁ。やってることは本当、立派ですよ。私も皐月さんを見
習わなきゃです﹂
﹁小枝子⋮﹂
﹁そうね。大分遅いけど淑女会員らしくなってきたと思うわよ﹂
﹁弘美⋮お前ら大好きだっ﹂
﹁はいはい﹂
﹁えー、あたしは?﹂
﹁お前なんか知るかっ﹂
﹁ひでぇ﹂
﹁変化といえば、紗里奈様は皐月様の影響受けて口悪くなってませ
ん?﹂
﹁え? マジで?﹂
﹁マジっす﹂
﹁⋮君も人のこと言えないよね﹂
﹁否定はしません﹂
何故か一瞬にして俺が悪者になってしまったらしく二人からジト目
を受ける。
影響を受けるのは勝手だろ。横暴だー。と言いたいけど言わない。
紗里奈に口で勝てるとは思えないし。
﹁でも皆さん、別に使おうとすればいくらでも丁寧にできるんです
から大丈夫じゃないですか﹂
﹁⋮ま、そうだけどさ。でもその言い方⋮フォローになってなくな
い?﹂
﹁え、そうですか?﹂
﹁そうです﹂
﹁小枝子様だし、仕方ないですけどね﹂
﹁う⋮最近、弘美さんの私の扱いが頓に酷い気がします﹂
﹁気のせいよ﹂
1552
﹁気のせいではないと思うけど、妥当じゃね﹂
﹁さ、紗里奈さんまで⋮﹂
がっくりと小枝子が肩を落とす。
弘美の変化は要は弘美がツッコミになったということだが、その分
小枝子のボケ具合が増えた気がする。正直どこまでマジなのかボケ
てるのかわからん。
﹁そういえば話変わるけどさぁ、七海様の試験っていつだっけ?﹂
﹁今日だよ﹂
﹁え、マジ?﹂
﹁マジ﹂
﹁うわ、ヒロ、朝会ったのに普通にスルーしてた。知ってたら応援
していたのに﹂
﹁あたしは知ってたよー。ちゃんと連名でメールしといたから安心
しな﹂
﹁あ、ありがとうございます。でもなんだか今年入ってからぐんと
会話量減っちゃいましたよねぇ﹂
﹁そうですね。私も皐月さんといなきゃ危うく流しちゃうところで
したし﹂
朝は小枝子とご飯を食べていて、帰りがけに七海と会ったのでちゃ
んと応援はしておいた。七海なら言ってもプレッシャーにはならな
いだろうから気軽に応援できる。
﹁はー、七海様大丈夫ですかねー﹂
﹁試験が終わったら久しぶりにこっちに顔を出すそうですよ。もう
戻ってくる時間だと思うので、そろそろじゃないですか﹂
﹁マジ? へぇ、じゃあ久しぶりだしお菓子買っておこうかな。皐
月様、行ってきて。お釣りはあげるから﹂
1553
﹁子供のお使いか﹂
﹁あ、あたしも出すよ。テキトーにお願い﹂
﹁では私は。飲物代ということで﹂
﹁はいはい﹂
ツッコミはいれつつもいつものことなのでお金を預かって淑女室を
出た。
さて、弘美からも指定はなかったしテキトーに七海が好きそうなの
買っておくか。
○
﹁あ、七海﹂
﹁あら﹂
両手にお菓子をさげて階段をあがると七海が部屋の前に立っていて、
声をかけながら駆け足に近寄った。
ちょうどドアを開けるとこだったらしい。両手がふさがっているの
でドアを開けてもらい入る。
﹁おかえ⋮あ、七海様? こんにちはっす﹂
﹁こんにちわ﹂
﹁試験、お疲れ様です﹂
﹁お疲れ様です。皐月様とは途中で会ったんですか?﹂
1554
﹁そこでな。さ、七海も座れよ﹂
﹁ええ。こうして集まるのは久しぶりね。今大丈夫だったかしら﹂
﹁七海様なら大丈夫じゃなくても空けますよ。テストどうでした?﹂
小枝子がニコニコしながら、促されるまま俺と弘美の間に座った七
海に尋ねる。
﹁ああ、もちろん、バッチリよ。そうそう、紗里奈、メールありが
とうね﹂
﹁どういたしまして﹂
七海なら体調を崩すとかじゃない限り大丈夫だろうし特に心配はし
てなかったけど、本人の手応えとしてバッチリと聞くとやはりほっ
とした。
﹁何よ皐月、笑って。もしかしてあなた、私の実力を疑ってないで
しょうね﹂
﹁疑ってないよ﹂
﹁そう。ならいいけれど。ところで皐月、このお菓子の山は何?﹂
袋にいれたまま机に置いたお菓子に呆れながら聞いてくる七海に、
どうもサボってお菓子ばかり食べてると疑われてる気がしたので否
定しておく。
﹁サボってるんじゃないぞ。お前が久しぶりに来るからみんなで買
ったんだ﹂
﹁あら、そうなの。悪いわね﹂
﹁ま、久しぶりですし﹂
﹁ありがと、弘美。でも、今はいいけど年度が変わって新しい子が
入ったら気をつけるのよ﹂
1555
﹁? 何をですか?﹂
﹁あらわからない? 皐月をパシリにすることよ。パシリは一番下
っ端の仕事だもの﹂
そういえば当たり前のようにやってるが、新人が入ったらその子の
仕事になるのか。⋮ん? 今のだと現状一番下っ端が俺と言うこと
に⋮⋮⋮ひ、否定はしないけどなんか酷くない?
﹁ああ、まあ、そうなんだけど。でも新しく入るかわからな⋮や、
考えたら誰か、二人くらいいないとヤバいですね﹂
﹁ああ、再来年度のことですか? ヒロのことなら気にしないで大
丈夫ですよ。有能ですから、新人とだけでも﹂
﹁駄目よ。来年度には一人はいないと、仕事を知ってるのが貴方だ
けじゃ、貴方が休んだだけで大変なことになるじゃない﹂
﹁それはそうですけど⋮﹂
﹁私だって一人で何もかもやっていたわけじゃないわ﹂
﹁⋮はあ、わかりましたよ。でもヒロ、このメンバーで気に入って
るから気が進まないんですよね﹂
﹁まあ、弘美は人見知りするからな﹂
﹁⋮は?﹂
弘美は何言ってんだと言わんばかりに小馬鹿にしたような顔を俺に
向ける。七海に向けてた素直な態度とは大違いすぎて泣ける。これ
が尊敬されてるか否かの差か。
にしても人見知り↓素をだせない↓猫被るになって普段猫被ってる
んじゃないのか? で猫被るのが嫌だから新しく入れたくないって
ことだと思ったんだけど⋮。
﹁ここで猫被るのが嫌ってことじゃないのか?﹂
﹁知らないやつでも一員になったなら猫なんか被らないわよ。猫被
1556
るのは普通の生徒の理想を壊さないためだし。ま、受けがいいとか
相手すんの面倒ってのもあるけど﹂
﹁ああ⋮そういやそうか﹂
そういえば俺の時も初対面で盛大に皮脱いでたな。嫌がらせこみか
とも思ってたけど単に素を出しただけだよな。
﹁単に今は人数足りてるしいらないってだけ。まあ、次は三人一気
にいなくなるし? 仕方ないのはわかってるけど﹂
﹁別に席が足りないわけじゃないしいいじゃん。何をそう嫌がるの
かわかんないなー﹂
わかってると言いながら嫌そうな弘美に思わずそう言うと、じろり
と呆れ半分なじと目で見られた。
﹁皐月様がダブれば一番いいんだけどね﹂
﹁何でだよ!﹂
﹁力仕事要員とか滅多にいないからよ﹂
﹁あー⋮いや、でも探せば一人くらいいるだろ? どうなの?﹂
﹁皐月レベルはそういないし、いても普通スポーツ系の部活に入っ
てるからウチには来ないよ﹂
人脈広そうな紗里奈に尋ねるが否定された。
そう言われてみれば、部活入ってないのに体を鍛えるなんて滅多に
いないのか。それにソフトとかの球技や陸上はあっても柔道とか単
純に力強そうな部活はないし。
﹁なるほど⋮﹂
﹁ま、理屈はわかってんだし。困るのはヒロだからね。ヒロが決め
たらいいよ﹂
1557
﹁んー⋮とりあえず春になってから決めます。それじゃ駄目ですか
?﹂
﹁構わないわよ。というか⋮本来引退した私が口を突っ込むことで
はないもの﹂
弘美が珍しく眉をハの字にして七海にお伺いをたてると逆に七海が
ばつが悪そうな顔をした。
﹁じゃあ話もまとまったところで、七海様お疲れ様パーティを簡単
にですがしましょうか。皐月さん、お皿とグラス、お願いします。
さ、皆さん机を片付けて⋮ああ、七海様はゲストなんですから大人
しく座っていて下さい﹂
﹁わ、わかったわ﹂
小枝子の仕切りに手を出そうとしていた七海は慌てて手を引き、感
心したような驚きを小枝子に向けた。
言われた通りにしてさっさと用意をして全員で腰を落ち着けてから
七海は口を開いた。
﹁驚いたわ。しばらく会わない内に会長らしくなったわね﹂
七海は知らないが小枝子は何かと弘美に仕切るように言われている
ので最近は積極的に仕切るようになっている。
俺たちはもう慣れたというより様になってきた、くらいだったが七
海には驚きだったらしい。
﹁ありがとうございます﹂
﹁ま、ヒロの調教のお陰ですけどね﹂
﹁本当にそうです、弘美大先生、ありがとうございますっ﹂
1558
﹁やめい。ほら、始めて﹂
﹁はい。では改めまして、七海様の入試が無事終了したことを祝し
て、乾杯﹂
カチャーンと小気味よい音をたててみんなでグラスを合わせてから、
七海が苦笑する。
﹁まるで弘美が親玉みたいね﹂
﹁えー、人聞きの悪い。黒幕と言ってください﹂
﹁それ、より悪いイメージだろ﹂
﹁親玉って男みたいじゃない?﹂
﹁というかヒロ、否定はしないんだ?﹂
﹁現在の淑女会でヒロが一番偉いのは事実です﹂
笑いながら紗里奈がツッコミをいれると弘美はツンと僅かに顎を上
げてにやりと笑って答えた。
﹁うーわ、年上のあたしらを差し置いてなーんてこと言うのかしら
このカワイコちゃんはー﹂
﹁紗里奈様、キモいです﹂
﹁まあ紗里奈さんは置いておいて、弘美さんは黒幕というよりマス
コットの方がいいと思います﹂
﹁置いておくんだ⋮﹂
小枝子のスルーにぼそっと呟く紗里奈はマジでショックを受けたよ
うな顔をする。だが確実に聞こえたはずの小枝子はそれもスルーし
た。
﹁じゃあ表向きはマスコットで実は黒幕にするわ﹂
﹁素敵です﹂
1559
﹁しかも完全にスルー⋮先生! あたしの扱いが酷すぎると思いま
す!﹂
﹁はいはい。小枝子、弱い者いじめしないの﹂
﹁はーい﹂
﹁あたし弱者!?﹂
﹁あ、皐月様、これなに。新しい﹂
﹁ああ、それ期間限定の新商品。抹茶ラテ風マロンクリーム味だっ
て﹂
﹁またスルーか! まあいいけど。ヒロ、あたしにもちょーだい﹂
﹁面白そうね。⋮あら、結構美味しい﹂
﹁え、私にも下さい﹂
﹁はい、手ぇ出しなさい﹂
プチ祝いはお菓子を食べながらだいたいいつもの感じで過ぎていっ
た。
○
1560
入試が終わって︵後書き︶
後少しで完結します。本当です。
1561
バレンタインに
明日はバレンタインデーだ。と、いう訳で今日は皆でチョコをつく
ることにした。ちなみに発案は俺だぜぃ。
バレンタインチョコをつくるのは初めてだから超気合いいれてます。
むふふ。喜んでくれるかなー。
﹁これでいい?﹂
﹁はい、いいですよ。テキトーにチョコチップをのせて、150度
で20分焼いてください﹂
﹁うん﹂
つくっているのはチョコクッキーだ。何となく作り方はわかっては
いたけど、お菓子作りは母さんの専売特許なので今まで作ったこと
はない。だから小枝子が見てくれて安心してつくれる。
チョコチップをのせて、オーブンを開け−
﹁あちっ﹂
オーブンの中ちょう熱い。いつでも焼けるように温めておいたの忘
れてた。
﹁まだ20分もかかんのー?﹂
﹁小枝子様のはまだー?﹂
﹁うるさいなー。もうお前らどっか行けよ。出来たら呼ぶから﹂
背後からの野次に振り返らずに言い返す。
皆で、と言ったが現状は俺が小枝子に教わってて後の二人はだらだ
らしてる。最初は一緒にやろうって言ったのに面倒だからって断り
1562
ながら味見要員だと着いてきた。図々しいやつらだ。
﹁あんたの指示は受けないわ﹂
﹁ヒロカッケー﹂
﹁カッコよくないし、単に俺様なだけだろ﹂
﹁訂正しなさい。弘美様よ﹂
﹁⋮ここまで来るとヒロカッケーと言いたくなるな﹂
﹁でしょ﹂
﹁私は弘美さんは可愛いと思いますよ?﹂
﹁カッコイイと言いなさいよ﹂
﹁じゃあカッコイイです。弘美さん素敵!﹂
﹁ふふん﹂
何そのドヤ顔。言われて嬉しいんだ。ていうか小枝子素直だな。
﹁弘美さん可愛カッコイー。無敵っ﹂
﹁ふっ⋮まあまあ、その辺りにしておきなさい﹂
自分で言わせてなに言ってんだこいつ。てか、無敵って褒め言葉か
? なんでもいいけど。
肩を竦めてから改めてオーブンにいれてセット。後は待つだけだ。
﹁よし﹂
﹁出来上がりが楽しみですね﹂
﹁うん。ありがとう。お礼に小枝子に一番に味見させてあげるね﹂
﹁光栄です﹂
﹁まずかったら毒味になっちゃうけどねー﹂
﹁紗里奈にはぜってぇあげない﹂
﹁ひでぇ﹂
﹁どっちがだよ﹂
1563
まあ紗里奈は置いといて、クッキー、美味しくできるといいな。
○
﹁んー⋮まあまあね﹂
﹁厳しくない? 結構美味しいと思うけど﹂
﹁そうですよ。初めてとは思えないです﹂
弘美の言葉に落ち込みかけたが、二人のフォローに胸を撫で下ろす。
そして自分でも机においたお皿から一つとって食べる。
﹁お、我ながらそこそこ美味しいんじゃね﹂
﹁自画自賛してんじゃないわよ。まー⋮素人だしこんなものなのか
しら?﹂
﹁そだよ。あたしが前つくった時はなんかぱさぱさして微妙だった
し。ちゃんと計ればわりと美味しいのできるんだね﹂
﹁それはまあ、私たち素人ですからプロのようにはいきませんけど。
もしかして弘美さん、あまり手作りのものって食べないんですか?﹂
﹁食べたことな⋮あれ? ない、ことも⋮あれ? でもそんなわけ
ないし⋮んー、ないわ﹂
手作りを食べなくて単純に味だけみたのなら弘美の採点が厳しいの
もわかる。わかるけど、なんでそんなに記憶が曖昧なんだよ。
1564
﹁なにその意味深な言い方。もしかしてヒロ、子供の時の記憶がな
くて実はもらわれっ子なの?﹂
﹁なんでですか。漫画の読みすぎです。ちょっと夢とごっちゃにな
っただけです。や、まあ夢に見るってことは願望があるってことで
すから、釈然としませんが﹂
﹁夢と現実がごっちゃになるとか、夢遊病かよ﹂
﹁夢遊病は関係ないわよ﹂
﹁あの、夢と現実ってよくごっちゃになりません?﹂
﹁え?﹂
﹁え?﹂
﹁やー⋮ないわー。小枝子、マジで言ってる? 少なくともあたし、
ごっちゃになったことないよ。皐月は?﹂
﹁夢の中では区別つかなくても起きたら普通つくだろ﹂
﹁小枝子様、夢遊病者だっんだ⋮﹂
﹁え、いや、違いますよ!? いや、なんというか、日常っぽい夢
だと過去の記憶とごっちゃになるじゃないですか。弘美さんもそう
いうことでしょう!?﹂
﹁よくはならないわ⋮⋮小枝子様、可哀相︵頭が︶﹂
﹁今! 今何かとても酷いことを言われた気がします!﹂
弘美が哀れむような視線を向けると勢いか弘美に手を向けながら小
枝子が抗議する。弘美はふ、と息をつくと即真顔になる。
﹁気のせいよ﹂
﹁しれっと嘘を言わないでください。だいたい可哀相って面と向か
って中々言われないですよね!?﹂
﹁はいはい、クッキー食べて落ち着きなさいよ﹂
差し出された俺のクッキーを受けとって食べながら小枝子はよよよ
1565
と泣きまねをする。
﹁うー⋮弘美さんの意見に同意したのに虐げられるなんて⋮は! これは陰謀です!﹂
﹁人類は滅亡する!﹂
﹁何でだよ!!!﹂
突然立ち上がって阿呆なことを言い出す小枝子に呆れる間もなく、
追い掛けるように立ち上がって意味不明なことを言う紗里奈に俺は
全力で突っ込んだ。
﹁ノストラダムス!﹂
﹁それです!﹂
﹁どれだよ!﹂
さらに意味不明な紗里奈に何故か小枝子が同意し、二人は俺の突っ
込みを無視して顔を見合わせて握手してから再び着席した。
﹁なに、なんなの二人のそのドヤ顔は。言っとくけどお前ら何にも
やりとげてないからな!﹂
﹁皐月様は元気ねぇ﹂
﹁一人だけ外野でのんびりするんじゃねぇ!﹂
﹁ジュースなくなったし、その有り余る元気で買ってきて﹂
﹁有り余ってはねぇよ。同じの?﹂
﹁うん﹂
﹁わかった﹂
﹁5分でお願い﹂
﹁なにその前フリ! 意味なく時間制限つけんな!﹂
﹁皐月様ならできるでしょ﹂
﹁したくねーよ。いいから待ってろ﹂
1566
七海に見つからないよう家庭科室での作業なので普通にしたら15
分はかかる。走ったらできなくないが、走らなきゃならない理由が
ないから却下だ。
○
﹁お待たせ﹂
﹁お帰りー。で、すぐで悪いけどあたしのもないからお願い﹂
﹁そうだろうと思って買ってきてるよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁お、さすが皐月! 気がきくぅ﹂
﹁さすが皐月様、パシリの鏡ね﹂
﹁パシリ言うな!﹂
確かにやってることはパシリだけど。単に体力あるからって割り切
ってやってんのにわざわざムカつく言い方するなっての。
﹁ったくよう⋮って、え!?﹂
机に全員分を並べてから席につき、クッキーに手を伸ばすと空っぽ
だった。驚愕に思わず立ち上がる。
﹁あ、ごめーん。もう全部食べて今小枝子のチョコプリン食べてる
1567
とこ﹂
﹁どうぞ、皐月さんの分です﹂
﹁あ、ありがとう﹂
チョコプリンがスプーンと共にやってきたので座る。一口ぱくり。
﹁ん口。チョコが濃厚で美味し口﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁いやこれ、本当美味し⋮ってオラァ! こんなんでごまかされる
か! 喧嘩うってんのか!?﹂
﹁え? え?﹂
﹁はぁ? あんたなにキレてんの?﹂
﹁ていうか、食べながら怒るのやめなよ﹂
﹁むむ。ちょっと待て﹂
あまりに美味しいので食べるのは止めたくないので食べながら怒っ
たが、どうも不評のようなので先に食べることにした。
うん、美味しい。
思わず目を細めて口をもにょもにょさせる。そして最後の一口を口
にいれる。
﹁口口、んー。美味しかった﹂
ついにこにこしながらスプーンを置くと何故か三人とも呆れたよう
な視線を向けてきていた。
﹁あんたって、甘いものは気持ち悪いくらい美味しそうに食べるわ
よね﹂
﹁き、気持ち悪いってなんだよ﹂
1568
﹁褒めてんのよ﹂
絶対嘘だ。
﹁で? なにさっきキレてたのよ?﹂
﹁君のマジギレって珍しいよね﹂
﹁ああ、そうそう。これ、プレゼントするのに何全部食べてんだよ。
本気でキレるっつの﹂
﹁え、最初に分けておかなかったんですか?﹂
﹁つか本気でキレてプリン食べながらとか、どういうことよ﹂
﹁そのせいで口が悪いだけでそれほどでもなかったし﹂
小枝子は反省?というか驚きながら申し訳なさそうだが後の二人、
俺の怒り方駄目だしとか何様だよ。
﹁お前らなぁ。反省しろ。小枝子を見習え﹂
﹁はいはい。悪かったわよ。てか、普通最初にわけとくでしょ﹂
﹁ごめんよー。あたしも別にとってあるんだとばっかり﹂
﹁食べたものは仕方ないし、明日だからまた作ればいいけどさぁ﹂
﹁⋮反省してるわよ。じゃあお詫びにヒロもあんたにチョコあげる
わよ。何がいい?﹂
﹁むむ、それならまあ⋮﹂
ため息をつきながら愚痴ると唇を尖らせながらも弘美が提案したの
でとりあえず頷く。
さっきは勢いでキレたけどもう怒ってないし、反省してるのにぐち
ぐち言うのは好みじゃない。
﹁あ、あたしもあたしも。お金出すよ﹂
﹁では私も⋮﹂
1569
﹁や、小枝子はプリンくれたからもういいよ。じゃあ、二人には同
じでクッキーでもつくってもらおうかな﹂
﹁え? メンド⋮﹂
﹁だからやらせるんだよ﹂
﹁皐月様、性格悪ー﹂
﹁お金で解決しようとするお前に言われたくないわ!﹂
﹁まあまあ、落ち着きなよ。弘美だって本気じゃないよ。やるって。
ね?﹂
﹁はいはい、わかってますって﹂
﹁全く⋮﹂
﹁じゃあ、そろそろ今日はお開きにしましょうか。片付けましょう﹂
﹁はーい﹂
小枝子の言葉にさっさと片付けをすることにした。明日の分、また
材料用意しないとな。
○
昨日に引き続き家庭科室で俺たちはクッキーをつくっていた。仕事
がないわけでもないのに二日連続で部活を休みにしていいのだろう
かと発案者だが心配してみる。
﹁大丈夫ですよ。最近は皐月さんの活躍で楽になりましたし、急ぎ
の最低限は私が自室でやっておきましたから﹂
1570
小枝子、真面目な会長の鏡だな。真剣に尊敬するわ。
﹁ん? でもそういえば小枝子の部屋、まだ鍵ついてないよな。大
事な書類もあるから会長になったらつくんじゃないの?﹂
﹁嫌ですね、自室につくんじゃなくて会長の部屋を受け継いでいっ
てるんですよ。なので卒業されるまでは今のままです﹂
﹁あ、そうなんだ﹂
﹁はい。なので本当は1口3月は自室に書類を持ち帰ってはいけな
いんですけど、盗るような人はいないので大丈夫ですよ﹂
﹁でも万が一盗られたら大問題だよね?﹂
﹁一応鍵付きの引き出しにいれてますから大丈夫です﹂
﹁まあ、そりゃそうか﹂
なるほど。どうでもいいっちゃいいけどこれでまた疑問が一つ解決
した。
﹁皐月はまだたまーに物知らずなとこあるよね﹂
﹁生活に必要ないからな﹂
﹁また当たり前のように⋮淑女会員なんだから一回くらい規則にも
目を通しておきなよ﹂
﹁うぇ。勘弁しろよ﹂
﹁よし、できた。小枝子様、これでいい?﹂
﹁はい、いいですよ﹂
とか言ってる間に弘美はささっと小枝子にオーケーをもらってオー
ブンに入れた。早。
﹁皐月、勝負しようぜ。一番遅い人が後片付けだ﹂
﹁って言いながら手を早めるな。フライングだ﹂
1571
﹁え? フライパン? なんのこと?﹂
﹁その聞き間違いは有り得ないだろ!﹂
急いだが紗里奈は何度もつくったことがあったらしく、昨日もやっ
たのに負けてしまった。くそ、地味に悔しい。
﹁んじゃ一つずつ味見しあってラッピングしよう﹂
﹁ヒロ、別に紗里奈様のはいりませんけど﹂
﹁え、酷くない?﹂
﹁昨日自分でぱさぱさって言ってたじゃないですか﹂
﹁いいから口を開くんだ。ほれほれ﹂
﹁むぎゅ⋮うぐぐ﹂
﹁紗里奈さん、あまり無理強いしちゃ駄目ですよ﹂
紗里奈が弘美の口に無理矢理押し付けると意地になってるのか弘美
は口を閉じて抵抗してる。小枝子は過保護な親よろしく心配そうだ。
押し付けあってる間に俺は二人のクッキーを一つずつ食べる。
﹁んー、まぁまぁかな。弘美のは結構うまい。上手にできたな﹂
﹁何であんた上から目線なうごっ、ん、ごほっ。ちょと紗里奈様!
セクハラで訴えますよ!﹂
俺への文句に開いた口に紗里奈がクッキーを放り込んだ。弘美はむ
せながら涙目で怒鳴る。
﹁ごめんよー。で? 美味しい?﹂
﹁死ぬほどまずいです﹂
﹁こぉいつー﹂
﹁ちょ、痛、痛い痛い痛い﹂
1572
さらっとけなされたのが気に触ったのか爽やかな笑顔で紗里奈は弘
美にアイアンクローをかける。弘美は小顔なのでしっかりきまって
るらしく涙声になった。
﹁い、いじめ。いじめー﹂
﹁ありゃ、やりすぎた。ごめんごめん﹂
ちょっとマジ泣きしそうな弘美に手を離した紗里奈が慌てて弘美の
頭を撫でる。
﹁紗里奈さん! なんてことするんですか! 弘美さん、大丈夫で
すか? 痛いの痛いのとんでけー﹂
﹁痛いけど、それよりあんたはヒロのこといくつだと思ってんのよ﹂
紗里奈に怒って慌てて弘美の眉間を撫でる小枝子のされるままにな
りながら、弘美は涙目のままじと目になって小枝子に不満を言う。
﹁もう、いいわよ。マシになったから﹂
﹁本当ですか? よかった。もう、紗里奈さんっ、今後暴力は禁止
ですからね!﹂
﹁ごめんごめん。反省してるよ﹂
﹁ったく。貸し1ですからね﹂
﹁肝に銘じておくよ﹂
どうやら解決したらしい。全く、なにやってんだか。
﹁さて、んじゃ俺できたから渡してくるわ﹂
﹁うわ、ヒロが弱ってる間に平然とラッピング作業してたわけ? 皐月様の鬼っ﹂
﹁変ないちゃもんつけるなよ﹂
1573
じゃれてただけだろ。その間にラッピングして何が悪い。
俺は袋にいれてリボンで飾ったクッキーを手に立ち上がる。
﹁んじゃあたしらの謝罪分は後で君に渡すよ﹂
﹁ん。わかった。じゃあ後でな﹂
○
1574
謝らないからな
メールして部屋にいることがわかったので、早速訪ねることにした。
ノックをする。
﹁はい、どなた?﹂
﹁皐月です﹂
﹁開いているわ﹂
行くと言ってからなのに、毎回誰か聞かれるのは何でなんだろう。
そんなに普段来客が多い⋮わけでもない。一緒にいて誰か来たこと
なんて数えるほどしかないし。
﹁七海、俺だってわかってるだろ? 何でいちいち聞くの?﹂
部屋に入ってドアを閉めながら聞くと、七海はベッドで本を読んで
いたようで顔をあげた。
﹁そりゃあ勿論、あなただろうと検討はついているわよ? でも一
応よ。もし皐月と違う子に皐月のような対応をしたらマズイじゃな
い﹂
﹁んー、まあそうか﹂
七海は他の生徒には丁寧な接し方でドアを開けてちゃんと迎える。
けど室内にいれることは滅多にない。誰でも入れてたら鍵付きの意
味がないし、当たり前なんだけどさ。
でも前に会ったことある七海の数少ない友達でも淑女会員じゃない
からって部屋に入れないし。公私の区別がつきすぎと言うか、線引
きが強力で極端なんだよな。その時は七海に友達がいたことに驚い
1575
て突っ込まなかったけど。まあ、本人は友達じゃないって言い張っ
てたけどそれはどうでもいい。
﹁七海、はい﹂
﹁? 何よ、これ﹂
チョコクッキーを渡すと七海は本を閉じて脇に起きながら不思議そ
うな顔をする。隣に座りながらバレンタインデーということを忘れ
てるっぽい七海に説明する。
﹁何って、今日はバレンタインデーだからね。プレゼントだよ﹂
﹁⋮は? 私たち、もう付き合ってるじゃない﹂
﹁んん? いや⋮意味がわからないけど?﹂
﹁日本のバレンタインデーは、意中の相手に思いを伝えるための行
事でしょう?﹂
﹁⋮いや、海外は知らないけど少なくとも日本のはそういうんじゃ
ないけど﹂
友チョコとかあるし。七海って変なとこで妙な思い込みというか、
間違った価値観があるよな。
﹁そうなの?﹂
﹁うん。友達や家族にあげてもいいし、恋人にはあげるのはデフォ﹂
﹁そうなの? ⋮⋮ごめんなさい。私、用意していないわ﹂
﹁いいの。俺がやりたくってやってるだけなんだから﹂
﹁⋮そう。じゃあ、来年から期待していなさい﹂
﹁うん、期待するよ﹂
普通ならホワイトデーじゃないかな、とも思ったけど言わないでお
く。七海と俺では価値観があまりに違う。でもその上で七海が好き
1576
なんだから、やたらと俺の価値観を押し付けるものじゃない。
それに、一年後もそのあともって、当たり前のように未来の約束を
してくれるのは嬉しいから。
﹁さっきつくったとこなんだ。食べて食べて﹂
﹁ええ⋮ああ、チョコレートのクッキーなのね﹂
﹁うん﹂
﹁ん⋮⋮うん、美味しいわよ﹂
急かすも七海はいつも通りの上品、というかゆったりした動きでリ
ボンを解いて一つ食べた。にっこり笑って望み通りの言葉をくれた
のが嬉しくて照れながら頭をかく。
﹁えへへ、本当?﹂
﹁勿論。私が嘘をつくとでも? 今まで食べたなにより美味しいわ﹂
﹁え⋮いや、さすがにそれは、言いすぎだよ﹂
嬉しいけど。思いっきり矛盾しすぎ。
﹁本音よ。私は本気でそう思うから言ってるだけよ。まあ⋮あなた
へ好きな気持ちで麻痺してるのかも知れないけれど﹂
うーん。まあ、恋は盲目、としてフィルターかかっちゃうのはわか
るけど。でも今までで一番とか言うくらいフィルターかかってると
か照れる。どれだけ俺のこと好きなんですか。俺も好きだけど。
﹁ありがとう。来年、何が食べたい? 今から練習して最高のもの
を食べさせてあげるから言いなさい﹂
﹁七海がつくってくれるなら、何だっていいよ﹂
﹁ダメ。どうせならより、喜んで欲しいもの﹂
1577
﹁七海は完璧主義者だなぁ﹂
﹁当然でしょう。外ならぬ、皐月のことなのだから﹂
﹁⋮⋮照れます﹂
﹁可愛いから、存分に照れてちょうだい﹂
優しげな笑顔から少し悪戯っぽく七海は笑った。にっこりと、完璧
すぎる綺麗な笑みを間近で見せられて頭がくらくらしそうだ。
好きだ。好きで、好き過ぎて、頭が変になってしまう。
﹁⋮もう、そんなこと言って⋮益々好きになっちゃうじゃんかぁ﹂
﹁あら、私はあなたが何もしなくたって刻一刻とより好きになって
いるわよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
なんかもう、七海が好き過ぎて鼻血出そう。他に誰もいなくても、
これだけ好き好き言われるとめちゃくちゃ照れ臭い。でも嬉しいし
幸せだし、あー⋮夢じゃないかと疑いそうなくらい幸せだ。現実最
高。
﹁ふふ、可愛いわよ﹂
照れていると頭を撫でられた。俯いて撫でやすいように下げる。
﹁いい子いい子。クッキーの残りは大切に少しずつ食べるわね﹂
﹁うん。あ、そういえば七海の入試、いつ結果わかるの?﹂
どうせ合格だろうし、結果わかる日には合格祝いの用意しなきゃ。
﹁ああ、発表なら10日だったわよ。勿論、合格よ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
1578
撫でるのを止めながら言われた意味がわからなくて、顔をあげてま
じまじと七海の顔を見る。
﹁あら、聞こえなかった? 合格だったわよ。というか、合格以外
の可能性を少しでも考えていたのなら心外だわ﹂
﹁い、いや⋮合格は疑ってないよ。ないけど⋮え? 10日に結果
わかってたの?﹂
﹁ええ﹂
﹁え? 俺、七海と付き合ってるよな?﹂
﹁はあ? 当たり前じゃない。あなた何を言ってるのよ﹂
七海は怪訝な不快そうな顔をするが、何を言ってるのかわからない
のはこっちだ。
意味がわからない。なんでそんな大事なことを言わないの? 事前
に日付を言うのを忘れてたとしても、普通わかったらすぐに言って
くれるものだろ。
友達でも言うだろうに、まして俺は恋人なのに、何で言ってくれな
いんだよ。親がいるから一番にとまでは言わないけど、二番目には
言って欲しいって思うの、おかしくないよな ﹁な⋮なんで、言ってくれなかったの?﹂
﹁? あなた聞かなかったじゃない﹂
﹁聞か⋮え? いや、え? い、い意味が、わからない?﹂
聞かれなかったとか、そういう問題じゃない、よな? え? 俺が
おかしいの?
﹁? なんなの?﹂
﹁や、だって、すぐ、言ってよ﹂
1579
﹁どうして? 合格するのはわかりきってることじゃない。話のタ
ネにはなるけど、受けた時から決まってたことなのに、わざわざ報
告みたいに言う必要はないじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
意味がわからない。
決まってるっていうか決まってまあ決まって? 確かに確かに、確
かに、決まってるようなものだってのはわかる。うんわかる。でも
決まってないよね? 決まってるようなものでも結果でるまでは決
まってないよね?
だったら普通言うだろ。何で言わないのが当たり前みたいな反応な
のか意味がわからないし絶対俺の方が正しいはずだし正しくなくて
もこっちが絶対正解だって。だってなんなの。なんかもう意味わか
らない。なに。これも、価値観の違い?
わかってる。俺と七海が違うなんてわかってるしそれも好きだし互
いにすり合わせて生きていけば何も問題ないしむしろそれって楽し
いことだと思ってた。なのになんか違う。
七海がなに言ってるかわからないし日本語じゃないみたいに理解で
きないししたくない。価値観の違いとか、軽く見てた。
違いすぎる。
なにこれ、気持ち悪い。
﹁皐月?﹂
黙り込んだ俺に不思議そうに七海が首を傾げる。
いつも通りすごく可愛いのに、何故か恐く感じる。やだ、なにこの
感じ。七海はいつもと変わらないのに。
﹁意味が、わからないよ。七海⋮頼むから、日本語で話してくれよ﹂
﹁は? 何訳がわからないこと言ってるのよ。私の言葉のどこをど
1580
う聞けば日本語以外に聞こえるのよ﹂
日本語じゃなかったら、むしろよかった気さえする。理解できなく
て当たり前の意味不明な言語ならよかったのに。
なんで、二人で日本語を話してて、俺はこんなに意味がわからなく
て気持ち悪い思いをしなきゃならないんだ。
﹁⋮⋮っ、七海の馬鹿っ﹂
﹁はぁ? なんなのよ?﹂
﹁もう知らないっ﹂
俺の突然の暴言に眉を逆立てた七海を置いて部屋を出た。
自分でもどうしてここまで反応してるのかよくわからないけど、何
故か怖かった。
○
﹁およ、皐月じゃん。もう渡したの?﹂
﹁ん⋮あ、ああ。渡した﹂
﹁皐月様? ⋮顔色悪いわよ?﹂
﹁ああ⋮⋮そう、かな﹂
階段を下りたところで弘美と紗里奈に遭遇した。
1581
﹁今、クッキー渡しに来たんだけど⋮ついでにちょっと話でもしよ
うか﹂
﹁⋮皐月様﹂
何だかよくわからないけど弘美が俺の手を握ってきた。
﹁う、うん⋮﹂
話と言われても、まだ混乱してて何を言えばいいのかわからない。
手を引かれるまま、俺は自室に戻った。
﹁とりあえずあたしらのクッキーは机に置いとくね﹂
﹁うん﹂
﹁⋮皐月様、七海様と何があったの?﹂
﹁うん⋮別に、何かあったってわけじゃないんだけど。ただ、七海
と俺ってあまりに違いすぎて、困ってるだけ﹂
﹁それじゃ、わかんないわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
そう言われても困る。だって何がこんなにショックだったのか自分
でもよくわからないから。
﹁えっと、あたし、前会長の方から話聞いてくるよ。ヒロ、皐月を
よろしく﹂
﹁はい⋮﹂
紗里奈が部屋を出て行った。弘美はぐるりと紗里奈から俺に向き、
握ったままだった手をさらに強く握った。
﹁皐月様、何があったのか、ちゃんと説明して﹂
1582
﹁ぅ、んー﹂
気が進まない。話して﹃馬鹿じゃないの﹄とかって理解されなかっ
たら嫌だけど、上手く説明する自信がない。
﹁皐月様。事実だけでいいから、順を追って話して﹂
﹁わ、わかったよ﹂
心を読んだように促され、俺は渋々さっきのことを話した。
﹁ふぅん⋮つまり、あんたは大事なことを話してくれなかったのが
ショックだったのね﹂
﹁まぁ⋮そうかな﹂
﹁でもまあ、七海様が言葉足らずなのはいつものことじゃない? 言えば次からはちゃんと言ってくれるわよ。そう怒らなくてもいい
じゃない﹂
﹁別に⋮怒っちゃいないよ。ただ、何だか、わかんないけど。なん
か、七海と俺って恐いくらい違いすぎて⋮﹂
﹁今更になって? あんたって本当に鈍いわね﹂
﹁そ⋮そうだけど。違うよ。わかんないけど⋮⋮﹂
﹁あんたって⋮本当に変なことばかり気にするのね。馬鹿のくせに﹂
呆れられた。
仕方ない。わかってる。違うことはわかってた。なのに今更それを
気にするなんてって、自分でも思う。
﹁なんてゆーか⋮⋮俺ばっか、大変な気がする﹂
﹁被害妄想よ。違う相手と付き合うんだから、七海様にだって色々
あるわよ﹂
﹁⋮そんなこと、わかってるよ。はーぁ、俺と七海って、あわない
1583
のかなぁ﹂
﹁またいー感じに弱ってるわねぇ﹂
﹁んー⋮よし、決めた。七海が謝るまで、俺は七海には謝らないぞ﹂
﹁はぁ⋮まあ、好きにしたら﹂
﹁うん。そうする﹂
もし、七海が謝らなかったら、それはつまり何が悪いかわからない
ということだ。俺は凄くショックだったのに、全く理解できないと
いうことだ。
勿論、七海なら言えばわかってくれる。次、何か試験とか受けたら
必ず言ってくれるだろう。
でも、それじゃ意味がない。
価値観が違うというのは一つ一つのことじゃない。もっと大元が違
うことだ。今はこれで済んでも、もっと違うショックな、それこそ
泣いてしまうくらいの差がでてくるかも知れない。
七海のことは好きだけど、いつか堪えられなくなるかも知れない。
こんなに好きだから、堪えられないかも知れない。
七海だって、当たり前だと思ってるならいちいち突っ込まれて変え
させられるのは嫌だろうし。
だから、もし七海が自分から謝るくらいに俺に歩みよろうとしない
なら、これ以上は無理だ。
考えたら俺から折れる方がずっと多かった。先に告白したというの
もあるけど、これじゃ駄目だ。
だから⋮だから、少しだけ、七海と距離をおこう。
﹁お、顔色戻ったわね。元気でた?﹂
﹁まあ、暗いのは俺らしくないもんな﹂
1584
﹁そうね。ヒロも、あんたは笑ってる方が好きよ﹂
﹁ん。相談にのってくれてありがとうな﹂
﹁どういたしまして。話聞いただけだけどね﹂
にこっと笑う弘美に、握られっぱなしだった手を握りかえしてなん
とか笑みを返した。
七海、俺は、謝らないからな。
○
1585
謝らないからな︵後書き︶
うまく説明できない⋮
ちょっと無茶ぶりだったかも知れません
1586
喧嘩を続行します
﹁はー、なるほど﹂
﹁なるほど、って、あなた、皐月の行動の意味がわかったの?﹂
皐月が出て行ってすぐにやってきた訳知り顔の紗里奈に説明をする
と苦笑している。
﹁まあ、つまり皐月は合格したことをすぐに言って欲しかったんで
すよ﹂
﹁そんなことはわかってるわよ。問題は、どうして言って欲しかっ
たのか、よ﹂
﹁⋮はぁ、わかんないかなぁ﹂
私が鈍いかのような、自分の方が皐月をわかってるかのような態度
に私はイライラする。
そんな私の感情がわかっているだろうに紗里奈はやれやれとため息
ながらに肩をすくめる。
﹁恋人だから、嬉しいことも悲しいことも共有したかったんですよ﹂
﹁それは私も同じよ。でも、今回のはどちらにもあてはまらない、
どうでもいいことじゃない﹂
﹁前会長にとっては⋮そうですね、100%の降水確率で実際に雨
がふるみたいに当たり前のことなんでしょう。100%なのに雨が
降らなかったらびっくりしてすぐに言うけど、降るなら当たり前だ
からわざわざ口にしないんでしょう。で、聞かれたから話の一つと
して答えた、と﹂
﹁ええ、そうよ﹂
1587
中々面白い例えだ。確かに私にとって合否はそのようなものだ。合
格が当たり前の100%で、そうじゃないのが異常なのだ。
﹁普通は、そうじゃありません。自信があっても合格って決定する
まで安心できないし、合格通知を受けたら嬉しいものです﹂
﹁え⋮え? 私の合格を皐月が疑っていたという意味、じゃないわ
よね?﹂
﹁疑うとか、そういう次元じゃありません。てゆーか、わかりませ
ん? 考え方が全く違うんです。そうですね、前会長は4と6を2
つ違いと思いますね﹂
﹁当たり前でしょう﹂
﹁でも皐月は四捨五入して0と10と見たとしたらどうです? 前
会長にはちょっとしか違わないのに皐月は全然違うと言うんです。
理解できませんよね?﹂
﹁できないわ﹂
﹁それと同じです。根本的に二人は考え方が違うんです﹂
﹁そんなの⋮わかってるわ。誰だって全く同じ考えなんてありえな
いわ﹂
違うのなんて当たり前だ。
あと、どうでもいいけど今度の例えはちょっとわかりにくい。
﹁そりゃあそうです。皐月だって考え方が違うなんてわかってます。
そこまで馬鹿じゃない。でも、全く思いもよらない、絶対に変えら
れない、皆同じと思ってた部分が違ったらどうですか? それが自
分にとって大事なことだったら? ショックじゃないですか? 皐
月にはきっと、今回のがそうなんですよ。今の説明でわかりました
?﹂
理解をする前に、嫉妬した。どうして紗里奈にはわかるのか。
1588
私は全くわからなくて、皐月の態度に苛立ったくらいなのに。私の
方が皐月が好きで、私こそただ一人皐月の恋人なのに、どうして紗
里奈が理解してしまうのか。
頭ではわかっている。紗里奈が人の機微を読むのに長けていて、私
が鈍いのだ。立場が違うからこそ見えることだってある。でも悔し
いものは悔しいし、妬ましい。
そう思ってしまう自分が、とても嫌だ。
﹁一応、わかったわ。次に皐月が来たら謝るわ﹂
﹁いや、来たらとか呑気なこと言ってないでさっさと行って下さい。
だいたい価値観の違いってこじれると別れる原因になりやすいんで
すから﹂
﹁だ、大丈夫よ。皐月なら落ち着いたらさっきの態度を謝りに来る
わよ﹂
﹁⋮⋮そう言うなら、それでいいですけど﹂
何かとても不服そうな紗里奈に私は思わず不満を顔に出してしまう。
﹁なによ、その顔は﹂
まるで私が間違いを言ってるような、皐月に関して自分が絶対に正
しいと確信しているような、そんな表情に見えて私のイライラはど
んどん高まってくる。
﹁はあ⋮いいですよ。好きにして下さい。でも最後にもう一回言っ
ておきます﹂
﹁なによ﹂
1589
紗里奈は立ち上がって冷めた目で私を見下ろす。初めて見る冷たい
表情に私ははっとする。
﹁あなたが思うより、価値観の違いって大きいですよ。血が繋がっ
ていても価値観が違えば決別することもある﹂
﹁え⋮﹂
﹁誰でもあなたみたいに、一人で何でもできて自信に溢れてるわけ
じゃありません﹂
﹁紗里奈⋮?﹂
﹁じゃあ、失礼しました﹂
紗里奈は礼をして部屋を出て言った。呆然と見送らざるを得なかっ
た。
あんな紗里奈、初めてだ。それだけ皐月を大切に思っている、のは
勿論あるだろうけれど。
今の、決別、というのはもしかして彼女の体験談だろうか。
そういえば、彼女のことを私はよく知らない。そんなことに、今更
気づいた。
○
朝ご飯を食べようとするとちょうど小枝子と紗里奈がいたので席に
つく。
1590
変に突っ込まれたくないからご飯を食べながら説明をしておく。
﹁だから、しばらく変なことになると思うけどごめんな﹂
﹁それは構いませんけど⋮でもできるだけ早く仲直りした方がいい
ですよ﹂
﹁小枝子は優しいねぇ。でもあたしはそうは思わないよ。気が済む
まで喧嘩する方がいいよ。喧嘩してわかることもあるよ﹂
﹁えー? そうですか?﹂
﹁ありがとな、紗里奈。うん、頑張るよ﹂
﹁もう⋮ほどほどにしてくださいよ﹂
紗里奈には七海をあんまり困らせるなーとか窘められるかと思って
たけどまさかの応援された。
逆に穏健派な小枝子に窘められたが、それはどうでもいい。
﹁さて、今日ですけど、二日休んだのでちょーっと忙しいですよ﹂
﹁はーい﹂
﹁あ、そうそう。二人さ、週末一緒に映画見ない? 返却期限迫っ
てるけどまだ見てないんだ﹂
﹁返却? ビデオでも借りたんですか?﹂
﹁DVDだよ。ビデオじゃパソコンで見れないじゃん﹂
﹁⋮それはわかってます。というか、まとめてビデオって言っちゃ
いません?﹂
﹁言わないよ﹂
﹁俺は⋮ビデオ自体身近じゃなかったし。テレビは見るけどDVD
とか録画してあるのは全然見ないや﹂
録画してまで見たいのもないし。昔はデッキなんてなかったしなー。
﹁シロクロの時代じゃあるまいし。んじゃ映画も全然見ないの?﹂
1591
﹁金曜ロードショーはたまに見る﹂
﹁私、耳をすませばが好きです﹂
﹁ならあたしは⋮ラピュタかな。内容はよく覚えてないけど﹂
﹁何で覚えてないのに選ぶんだよ﹂
﹁セリフが結構覚えてるし﹂
﹁セリフかよ。それなら俺はもののけ姫。でっかいワンコっていい
よな﹂
﹁え、狼じゃなかったでしたっけ?﹂
﹁狼も犬も似たようなもんだって﹂
﹁まあ哺乳類だしね﹂
﹁そこまで言ってない﹂
くくりが大きすぎるだろ。哺乳類でひとくくりにするとか聞いたこ
とないわ。
ツッコミをいれてから軽く肩をすくめる。紗里奈の提案は気分転換
にはちょうどいい。
﹁ま、いいよ。特にやることないし﹂
﹁何借りたんですか?﹂
﹁コナンの映画シリーズを5本﹂
﹁5⋮結構あるな。てかアニメかよ﹂
﹁二日あれば見れるよ。あたしコナンの映画って全然見てないんだ
よね﹂
﹁昔は欠かさず見てました。懐かしいなぁ﹂
﹁俺、今も時々見てる。弘美も後で誘うか﹂
﹁ヒロってアニメ見るかな。見た目はバッチリ見てそうなんだけど﹂
﹁きっと見てます。いえ、見てるに違いありません﹂
﹁何でお前が断言するんだよ﹂
最近、小枝子は弘美をどうしたいのかわからなくなってきた。小枝
1592
子はかなり天然だからなぁ。聞いたら聞いたで素でとんちんかんな
返答しそうだし放置しておく。
﹁おはよう、隣、いいかしら﹂
﹁!﹂
﹁あ、七海様。おはようございます。どうぞ﹂
﹁おはようございます﹂
突然七海が現れて俺はびくっと背筋を伸ばした。七海はそれを気に
せずすっと小枝子の隣、俺の向かいに座った。
﹁⋮⋮﹂
﹁皐月も、おはよう﹂
﹁⋮おはようございます﹂
挨拶を無視するのはさすがにはばかられたので返す。冷たくしよう
とは決めたが、具体的にどう対応するかは決めてなかった。
﹁?﹂
七海は不思議そうに首を傾げた。
まるで昨日なんてなかったみたいに。大したことなんてなくて、謝
ることもないみたいに。
﹁っ﹂
泣きそうになったのをごまかすために俺は朝食をかきこむように食
べる。
﹁そんな食べ方したら喉につまるわよ﹂
1593
注意されたけど無視する。ががっと他三人が呆気にとられてる間に
食べきり、俺は席を立った。
﹁ごちそうさま。じゃ、後で﹂
﹁え﹂
七海と一緒にいて話なんかしてうやむやにされたら堪らない。
俺は七海を避けることにした。
○
﹁な、なによ⋮﹂
昨日あれから来なかったし、それとなく話かけて機を見て謝ろうと
思った。なのに皐月と来たら私の顔を見るなり立ち去った。私はま
だ口上すら述べていないのに。
﹁ほら、だから早く謝った方がいーって言ったじゃないですか﹂
けらけらと笑いながら言う紗里奈の言葉に思わず舌打ちをしそうに
なるのを堪える。
ああ、イライラする。
1594
﹁七海様﹂
﹁なによ﹂
﹁あ⋮えっと、その⋮﹂
話しかけてきたので尋ねると小枝子は何故か控えめな態度で口ごも
っている。
何なのだ。ただでさえイライラしているのに、煮え切らない態度を
されてよけい苛立つ。
﹁はっきり言いなさい﹂
﹁う⋮あの⋮。七海様が怒るのはわかります。でも怒らないで下さ
い﹂
﹁⋮どうして?﹂
﹁私も⋮よくは知りません。けど皐月さん⋮辛そうでした﹂
小枝子に何がわかるのか。怒鳴りたくなった。お箸を握りしめて堪
えた。
﹁あなたに⋮関係ないでしょ。私と皐月の問題だわ﹂
﹁⋮⋮﹂
傷ついたように、いや、傷ついてる。酷いことを言った自覚はある。
だけど悲しそうな小枝子に素直に謝るのも業腹で、できなかった。
﹁前会長、会長をイジメないでくださいよー﹂
﹁イジメてないわよ。人聞きが悪いわね﹂
﹁あれ? そうですか? あたしには八つ当たりしてるように見え
ますけど?﹂
﹁⋮うるさいわね﹂
1595
自覚があるだけに私は子供じみた口調になってしまって、気まずく
て視線をそらした。
紗里奈がため息をつくのが気配でわかった。
﹁あたしは二人に関しては中立を貫くつもりなんでどーこー言いま
せんけど、今の前会長はらしくないですよ﹂
﹁何よ。私らしいって⋮何よ﹂
﹁自分で考えて下さい﹂
それだけ言うと紗里奈は口を閉じた。小枝子は気まずそうに私と紗
里奈を見てから紗里奈に習って食事を再開する。
それに何も言えなくなって、私もただ黙って食事をした。いつにな
く味気ない食事に感じた。
○
1596
七海はどう思ってるんだろう
喧嘩をしてから丸一日以上経過した。昨日は朝に会ってから七海は
音沙汰なしだった。
一日会わないことは珍しくないけど、その時は挨拶だけでも携帯電
話でしてた。それにいつだって会いたいと思えば会えた。
でも今は会えない。会わないのではなく、会えない。会いたくて堪
らないのに会えないという状況は、普通以上に俺を寂しくさせた。
俺はこんなに寂しいのに七海は平気なんだと思うと泣きそうだった。
七海のことを考えないように昨日は真面目に授業をうけ、必要以上
に仕事に励んだ。だけど集中してる間はいいけどそうではない、例
えば今鏡を見てふと我に返った時、どうしても七海のことを考えて
しまう。
俺は頭を切り替えるためもう一度顔を洗って素早く歯を磨いて洗面
台から離れた。
そして朝食をとり、校舎へ向かい、授業を受ける。
一連の流れとして機械的に俺は一日をこなして、気がつけば放課後
になっていた。
思わずはっとして時計を二度見する。
﹁どしたの皐月? 狐につままれたみたいな顔して﹂
荷物をまとめて机の周りにいる二人と時計から放課後だと気づいた。
やばい。今日俺何してたっけ?
1597
﹁あ、いや⋮今日の俺、どうだった?﹂
﹁やたら暗かった。あと昨日に続いて授業中起きてるから睡眠時間
が大丈夫か心配だよ﹂
﹁元から授業中のは睡眠時間にカウントしてないから。夜にちゃん
と寝てるから﹂
﹁マジで? 寝過ぎでしょ﹂
毎日最低7時間プラス昼寝は寝過ぎか? ⋮いや、寝る子は育つっ
ていうし。
﹁皐月さん? どうかしたんですか? 今日は一日無口でしたけど
いつも通⋮⋮りではないですけど、別に変なところはないですよ﹂
﹁いや、真面目なのは変でしょ。暗いのも無口なのも予想の範囲だ
けどまさかこんなに真面目ちゃんになるなんて思わなかったね﹂
真面目なのはほっとけ!
とは言え、思い出してきた。確か、昼にはオムライスを食べたんだ
った。会話や授業内容は全く思いだしてないがそういえばあのオム
ライス、中がケチャップライスじゃなくてマヨライスの新メニュー
だったからよく覚えてる。
うん、ちょっとマヨが強い気もしたけどわりと美味しかった。
﹁ちょっと待ってなー﹂
ノートを引っ張り出して開くとちゃんと今日の分が書いてある。字
もしっかりしてるから寝ながら書いたわけじゃなさそうだ。
﹁んー、どうもぼーっとしてたみたいだな﹂
集中のあまり記憶できないレベルとか、全く意味がないけど逆にち
1598
ょっと俺凄い気がしてきた。
﹁大丈夫ですか?﹂
﹁大丈夫大丈夫。体調になんかあるわけじゃないんだからさ。さ、
行こう﹂
﹁無理しないでよ。あたし、気絶した君を淑女室から寮に運べるほ
ど力ないからね﹂
﹁どこまで心配してんだよ。大袈裟だな﹂
﹁人間、あんがい脆いもんだよ。精神的には特にさ﹂
精神的、ね。
そりゃあ辛くないと言ったら大嘘だ。七海に謝ればきっと元通りに
なるのはわかってる。そうしてしまいたい衝動は少なからずある。
無意識に七海の携帯電話にコールしそうになって、電話機能にロッ
クをかけたくらいだ。
でも倒れたりなんかしないさ。だって、自分で決めたことだから。
自分で選んだんだから。寂しいけど、そこまで参ってる訳じゃない。
○
﹁皐月様っ﹂
﹁えっ⋮、な、何だよ弘美。急に大声だして﹂
﹁急じゃないわよ。さっきから話しかけてました。あんた、昨日か
らずっと上の空じゃない﹂
1599
まぁ仕事をしてることは評価するけど、と言いながら心配そうに弘
美が俺を見上げている。
軽く頭を振って、俺は安心させるため小さく笑う。
﹁悪いな。でも大丈夫だよ。ちょっとぼーっとしてただけだから﹂
﹁ったく。なら、気分転換にパシってきて。何でもいいからコーヒ
ー、ティーパックのね﹂
﹁? 珍しいな。わかった﹂
コーヒー、というのもだが何でもいいのもまた、紅茶の銘柄にこだ
わる弘美には珍しい。まあ午後ティーもたまに飲んでるしそこまで
こだわってないのか。
﹁あと⋮ついでに10分くらい散歩して外の空気でも吸ってきなさ
い﹂
立ち上がると追加された要望に思わず笑みが出る。弘美の心遣いが
いつになく胸に染みる。
﹁⋮ありがとな。愛してるよ﹂
﹁うっさい。わざわざクサイこと言うんじゃないわよ。言うまでも
ないことを﹂
﹁ん。じゃ、行ってくる﹂
部屋を出て特に人目もないのでうん、と伸びをしながら階段を降り
た。
窓は閉めてあっても肌寒い廊下の空気に肺がツンとした。
まず、言われた通りに購買に行ってコーヒーを入手する。5つ1パ
1600
ックしかなかったのでそれで。
今までも視界の隅には入っていたガラス越しの景色から、曇りから
晴れに変わっていたのに今気づいた。
﹁⋮⋮﹂
せっかくの好意だ。中庭をぐるりと回ってから帰ろう。上着は淑女
室に置きっぱなしだし廊下より寒いだろうけど、頭が冷えてちょう
どいいだろう。
﹁っ﹂
建物から出ると予想以上に寒い。寮と校舎はそれほど離れてないか
ら普段からそんなに防寒対策はしていないけど、やっぱり制服だけ
だと寒い。多分上着よりマフラーと手袋がないのが致命的なんだと
思う。一回それだけで登校した時はわりと平気だったし。
やめようかな、とも思ったけど身震い一つしたらマシになったので
歩きだした。息をはくと鼻がぴりぴりする。
今思ったんだけど鼻息が白いのって、端から見たら鼻息が凄い荒く
見える気がする。どうなんだろ。みんな鼻息も白くなるはずだけど
気にしたことないしわからん。
﹁はぁ⋮﹂
寒い。
中庭を半周したあたりで馬鹿らしくなった。なんでこのクソ寒いの
に外歩いてるんだろう。
一応気分転換にはなったし、さっさと戻ろう。
1601
﹁皐月っ﹂
﹁!? なっ⋮﹂
声をかけられすぐに七海だとわかった。振り向きながら名前を呼び
そうになって、慌てて口を抑えた。
七海は見かけた俺を走って来て呼び止めたらしく、息を荒くしてそ
こにいた。
﹁⋮七海様、何か私にご用ですか?﹂
七海、と呼んでしまうと不満や不安をぶちまけてしまいそうで、俺
は他人行儀に返事をした。
七海ははっとしたような顔をしてから何故か眉をひそめて俺を睨ん
できた。
七海はよく本音と裏腹な顔をする。最近はそれがわかるようになっ
たと思っていた。なのに今、七海が何を考えているのかわからない。
もしかして今までわかったつもりになっていただけだったのか。理
解したなんて思い込みだったのだ。ただ自惚れて、いいように解釈
していただけなのか。
俺は年末からこっちで、七海をわかってあげられたと、心が近づい
たと、そう思ってたのは幻想だった。
だって今、まるで七海が遠い。知らない人みたいだ。
﹁何よその話し方は﹂
﹁⋮⋮あっ!﹂
七海の後ろを指差して思いっきり目を見開いた。
1602
﹁え⋮?﹂
七海は驚いて振り向く。
よしきた! この単純馬鹿め!
内心歓声をあげながら俺は静かに踵を返して、全力で走り出した。
﹁? 何よ、何も、ってああ! こら皐月!!﹂
七海の怒声を無視して走り回り、視界のいい中庭を抜けて植え込み
に隠れた。
﹁⋮⋮﹂
すたたたとフォームと足音は華麗だがてんで遅い七海が通りすぎて
行くのを音で確認し、しばらくたってから立ち上がる。
﹁よし⋮﹂
戻るか。全く、無駄な時間を使ってしまった。
それにしても⋮ホントに、簡単にひっかかったな。頭に血が上って
たのもあるだろうけど、そういうところ凄く可愛い。
﹁はぁ﹂
そんなわけないって、ちょっと前まで信じられた。でも今は、俺ば
かりが七海を好きで、俺ばかり辛いと思ってしまう。こんなの被害
妄想なのに。
1603
○
﹁ただいまー﹂
﹁お帰り⋮何か疲れてない? あんた大丈夫?﹂
﹁ああ、大丈夫。ほら、買ってきたぞ﹂
﹁ん。寄越せ﹂
﹁ほら﹂
袋ごと渡して定位置に座ると立ち代わりで弘美が立ち上がって珈琲
をいれだした。
自分でやるとは珍しい。紅茶も最初からまずいまずい言いながら俺
にいれさせてたのに。
﹁ほれ﹂
﹁⋮ん? 俺?﹂
﹁ヒロ、コーヒーそんな好きじゃないし。ブラックで飲んだら目も
覚めるでしょ﹂
﹁そっか⋮ありがとな﹂
完全に気をつかわせてしまったみたいだ。七海に会って走って疲れ
ていたのが少し癒された。
俺はそっとコーヒーを口に運んだ。
﹁⋮⋮﹂
苦い。それに改めて味わうと、舌がぴりぴりしてちょっと酸味?
1604
﹁⋮⋮。よし、ミルクとって﹂
もう一口飲んでから、美味しくないからやっぱりミルクをいれるこ
とにした。ブラックは無理。
﹁なによ、ブラックも飲めないの?﹂
﹁勘弁してください﹂
言いながら弘美がミルクをいれてついでに砂糖もいれてくれた。再
び一口。
うん、美味しい。
﹁ありがとう﹂
﹁別に。目ぇ覚めたんなら、さっさと仕事しなさい﹂
苦笑すると同じく苦笑してる紗里奈と目があったので肩をすくめた。
小枝子は微笑ましそうに弘美を見てから、俺に向かって微笑んだ。
﹁皐月さん、ゆっくりでいいですからね﹂
﹁はーい﹂
カップを置いて、置きっぱなしにしていた書類を手にとった。と、
ノックがして皆で顔をあげた。
﹁失礼するわ﹂
反応するより早くドアが開いて、七海が姿を表した。室内に入ると
挨拶もする前に紗里奈を詰めさせて俺の向かいに座った。
避けてる罪悪感もあるので気まずくて目をそらした。
1605
﹁七海様? 今日はどういったご用でしょうか?﹂
﹁何よ小枝子、用がなきゃ来てはいけないと言うの?﹂
﹁いえ、そういうわけではありません。遊びにこられたとして大歓
迎です。けど、その様に恐い顔でいられては雰囲気が悪くなって仕
事がはかどらなくなるので迷惑です﹂
﹁⋮は、はっきり言うわね﹂
﹁なので皐月さんに話なら外でお願いします﹂
庇ってくれるのかと思いきや普通に売られた。そういえば小枝子は
仲直りさせたがってた。二人でとことん話せと言いたいのか。
⋮話をするのはいいけど。ていうか俺だって仲直りしたいけどさ。
でも、七海が何ていうのか少し恐い。
﹁そ、そうね。じゃあ皐月、話があるからちょっと、いいかしら?﹂
﹁⋮いえ、コーヒーが冷めると困るので。ここでお願いします。ご
めん、みんな。ちょっと、二人はまだ⋮﹂
﹁まだって何よ﹂
﹁皐月さんがそう言うなら構いませんよ﹂
﹁ありがと﹂
﹁ちょっと、何を人のこと無視しているのよ﹂
イライラしたような七海の声に、悲しくなるより俺もイライラした。
何でさっきからこいつ喧嘩腰なんだよ。
﹁で? 話ってなんですか?﹂
﹁まずその敬語をやめなさい。不愉快だわ﹂
﹁⋮話ってなんだよ﹂
以前は散々敬語をつかえって言ってたくせに、なんで不愉快とまで
1606
言われなきゃならないんだ。だいたい敬語を使うのは下手に怒鳴っ
たりしないようにで気をつかってつかってんだよ。
イライライライラ、イライラがつのるが我慢する。
﹁なにじゃないわ。急に私のことを避けてどういうつもり? 何か
言いたいことがあるなら言いなさいよ。だいたい、私が何をしたっ
て言うのよ。一方的にもほどがあるわ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんとか言いなさいよ﹂
﹁なんとか﹂
びきっと七海の目の端に線が走って顔が引き攣った。怒っているん
だろう。顔を赤くして一度息をしてからまた口を開いた。
﹁⋮馬鹿にしてるの?﹂
声は少しばかり震えていて、そうとう怒ってるなと思う。確かに今、
反射的に余計なことを言った自覚はある。あるけど七海が怒ってい
ることが俺の怒りに繋がる。
﹁あなたね、いい加減にしなさい。子供じゃないんだから癇癪起こ
さないの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁聞いていて? 聞いているなら返事をしなさいといつもいつも言
っているじゃない。あなたはどうしてそうなの。いくらお説教をし
ても終わったらすぐに忘れて。犬だって返事くらいできるわよ﹂
﹁っ⋮﹂
我慢できなくてカップを一気呑みして思いっきり机に置いた。
ダンッと思ったより大きな音がしてカップから持ち手がとれてぼき、
1607
と間抜けな音がした。脆いカップに舌打ちしたくなる。
俺は七海を睨みつけて、叫びだしたい怒りを我慢しながら口を開く。
﹁黙れ﹂
考えていたより低い声がでた。
○
1608
七海はどう思ってるんだろう︵後書き︶
最後まで書けたので毎日更新します。
1609
皐月の思い
突然逃げるという皐月の暴挙に私は慌てて後を追ったけれどすぐに
見失ってしまった。
せっかく皐月を見つけたから、校則違反を犯して走って階段を飛ば
して会いに行ったのに。話がしたかったのに。
どうして、と思うとイライラした。お腹の中がむかむかして気持ち
悪い。皐月が他人行儀な態度をして悲しかった分、腹が立つ。
いや、少し違う。怒らなければ、腹をたてなければ、悲しくて泣い
てしまいそうなのだ。
寂しいのに会いに来てくれないことが苦しくて、思い切って私から
会いに行ったのに。皐月が悪い。皐月が全部悪い。
なら⋮お説教をしなければならない。だから、もう一度、会わない
と。皐月にお説教をしなきゃならないのだから、今度は私が寂しい
からじゃない。会いに行くのは変じゃない。
だから、淑女室までわざわざ皐月に会いに行ってもいいはずだ。
私はそう結論づけて、息を調えながらゆっくりと淑女室に向かって
歩きだす。
こんな風に言い訳しないと自分から会いに行けない自分は情けない
とわかっている。
自分で言い訳だと自覚していて、寂しいと認めるくせに、どうして
私は素直に行動にうつせないのだろう。
と、着いた。
いざ皐月に会う、となったら本当に腹がたってきた。
1610
私はノックの返事を待たずにドアを開けた。こんなことはいけない
と、わかっているのに何故か自分が制御できない。
小枝子の辛辣な言葉に少し冷静になったが、二人になりたくないと
いい相変わらず敬語を使う皐月にさらにヒートアップしてしまった。
﹁話ってなんだよ?﹂
不機嫌そうな皐月に、泣きそうになるのを吹き飛ばすために私はよ
り不機嫌になる。
口を開くと、やはりと言うか予定通りと言うか、私はお説教を口に
していた。
そのつもりだったけどそれは言い訳で、本当にお説教をしたいわけ
ではなかった。謝りたいくらいだった。
なのに私は皐月に自分勝手なことを言ってしまう。自覚しているの
に、皐月に関して私はブレーキが効かない。
﹁なんとか言いなさいよ﹂
﹁なんとか﹂
⋮頭の中で何かがキレた。私が半ば無理矢理お説教をしてるのはわ
かっているけれど、殴りそうになった。それを我慢するかわりに、
私の口はさらに毒を吐く。
駄目だ。こんなこと、言いたくないのに。
﹁あなたはどうしてそうなの。いくらお説教をしても終わったらす
ぐに忘れて。犬だって返事くらいできるわよ﹂
﹁っ﹂
皐月はカップを一息に飲み干して強く机に叩きつけた。衝撃で持ち
1611
手が割れてとれた。皐月はそれに気づいてないみたいに私を睨んで
いる。
﹁黙れ﹂
呼吸をするのを、一瞬忘れた。
見開いた目は強く私に向けられていて動けなくなる。犬歯が見えそ
うなくらい唇が吊り上がってるのに笑っているとは全く見えない。
まるで獣のようだ。人間が怒りをこんなにも表情だけで表現できる
ことを知らなかった。知りたくなかった。
こんな顔をさせたのが私なのだということは明白なのに、理解でき
なかった。こんなに怒っている意味がわからない。
﹁だったら犬を恋人にしろよ﹂
﹁な⋮い、今のは、物の例えよ﹂
﹁そうかよ。でももう無理だ。おしまいだ﹂
﹁え?﹂
﹁合わないよ。少なくとも七海は合わせる気がない。俺ばっかり合
わせるのは、疲れる﹂
﹁⋮え? ま、待って? 何を言ってるの?﹂
﹁だから、別れようって言ってるんだよ﹂
﹁そんなの嫌よっ!!﹂
脳みそが意味を理解する前に叫んでいた。
別れるだって? 意味がわからない。ほんの少し仲違いしたからと
言って、皐月は極端すぎる。
落ち着け。皐月はどうせ、勢いで言っただけだ。何も考えてないだ
けだ。
1612
﹁⋮言わなかったのは、悪かったと思ってるわ。でも大事なことだ
と思わなかったの。ごめんなさい。次から気をつけるから、こんな
ことで別れるなんて軽々しく言わないの﹂
大きく息を一つしてから、冷静に自分の意見を述べた。
今回は、まあ、皐月の態度は腹がたつけれどキッカケは私だったの
だ。ここは私から折れて話し合おう。
﹁どうして?﹂
だと言うのに皐月は眉を逆立てたまま、口角を下げて弱々しいよう
な震える声で私に尋ねた。
質問の意味がわからないが、何より皐月の反応が予想外で心当たり
もなくて狼狽する。
﹁え? な、何がよ?﹂
﹁どうして、それを最初に言ってくれなかったの?﹂
﹁は?﹂
﹁どうして、今まで言わなかったの? 俺はずっと待ってたんだよ﹂
﹁だから、今言ったじゃない﹂
﹁遅いよ。遅すぎる。俺がずっとどういう思いだったて思ってるん
だよ﹂
どういう思いって⋮⋮まあ、ずっと気にしていたのなら、ずっと私
を待っていたというなら、私を思いそわそわやきもきして落ち着か
ない思い⋮だったのだろうか? さかしどうにも、違うような気も
する。
私が黙っていると皐月は強く唇を引いて、真一文字に結んでから立
ち上がった。
1613
﹁さ、皐月様?﹂
﹁コーヒー、もう一杯もらうな﹂
﹁あ、ああ⋮どうぞ﹂
皐月は何故か弘美の許可をとると新しいカップに新たにコーヒーを
いれ、私に紅茶をいれた。
﹁あ、ありがとう﹂
﹁いや⋮。お前らもそう変な顔すんな。望み通り話し合うから、喉
を潤すためにいれただけだろ﹂
カップを置き席に着きながら皐月は三人に向かって苦笑したのか、
眉を下ろして僅かに唇を歪めた。
﹁そ⋮そう。まあ話し合うのはいいことだよ、うん﹂
﹁そう、ですね﹂
﹁⋮⋮ぬるい﹂
慌てたように小枝子と紗里奈は顔を見合わせて困った顔をし、弘美
は我関せずとばかりに紅茶を飲んで小さく呟いた。
﹁皐月様、ヒロ、こういう気まずい空気苦手だし帰っていい?﹂
呟いた、と思ったら凄いことを言った。弘美が空気を読めないわけ
がないので、完全にわざとだ。
皐月は驚いたように目を見開き、それから気まずそうな顔になって
頭を掻いた。
﹁⋮や、付き合わせて悪いと思うけどさ。あー⋮⋮、じゃあ今から
1614
場所変えるわ。もうキレる場面もないだろうし、多分大丈夫だから﹂
え、今から場所変えるの? さっき嫌がったのあなたなのに?
﹁えぇー⋮、何か、時々皐月凄いよね﹂
﹁ん? 何で? ま、いいけど。という訳だから小枝子、ちょっと
抜けるな﹂
﹁あ、はい⋮⋮あの﹂
﹁なに?﹂
﹁⋮いえ、なんでもありません。こちらのことはお気になさらず、
存分にどうぞ﹂
小枝子は何か言いたそうにしていたが、被りをふってからにっこり
笑ってそう言った。
ここで笑えるなんて、強いなと思った。ふいに、本当は誰が強いの
かしら、と疑問が浮かんだがすぐに打ち消した。
どうでもいいことだ。それより皐月の別れる発言を取り消させるた
めにどう説得して言いくるめるか、それが問題だ。
﹁七海、悪いけど移動、いいよな? 隣でいい?﹂
﹁ええ﹂
答えてカップを手に席を立った。
○
1615
淑女室の隣は倉庫と物置変わりになってる空き教室だ。倉庫には鍵
がかかっているので教室に入り、積んである机を一つ下ろして椅子
を二つ引っ張りだして埃を払った。
月に一度しか掃除されないので埃が舞ったが、気にせず腰を下ろし
た。
﹁さて、何の話だっけ?﹂
﹁白々しいわね﹂
﹁そう? 答えてくれないから忘れたのかと思ったよ﹂
にこりともせずに言われた言葉に返事が出来ない。
﹁⋮厭味な人ね﹂
何とか返した言葉は我ながら嫌な言い方だった。答えられなかった
のは事実なだけに、私の台詞は表面をなぞるだけになってしまう。
皐月はそう、とつまらなさそうに相槌をうってからやや俯き気味に
私を見つめた。
﹁七海さ、俺のことあんまり好きじゃない?﹂
﹁そ、そんなことないわ! ⋮少なくとも、あなたより私の好きの
方が絶対多いわ﹂
﹁そう⋮じゃあ、やっぱり無理だな。別れよう﹂
﹁⋮どうしてよ﹂
﹁辛い﹂
端的に、だけど本当に辛そうに、泣きそうに皐月が答えるから、私
は動揺してどうしていいのかわからなくなる。
1616
皐月を怒らせることはあっても、苦しめることがあるなんて想像も
していなかった。何がそんなに皐月を傷つけたのか、わからない。
﹁な⋮何が、悪かったの? 私、治すわ。全部あなたに合わせるわ。
だからそんなこと、軽々しく言わないでちょうだい﹂
はっきりと思いを伝えた。謝罪するのに戸惑うことがあっても、私
は好意を伝えることには躊躇しない。
私は皐月のためなら、いくらだって自分を変える。皐月がして欲し
いというなら自慢の髪をバッサリ切ったっていい。皐月が望むなら、
私が何だってする。
皐月は顔をあげて、ため息をついた。
﹁わからないんだろ? だからだよ。七海は俺が言えばいくらでも
合わせてくれる。けど言わなきゃわからない﹂
﹁⋮⋮そんなの、当たり前でしょう?﹂
﹁当たり前だよ。人間は言葉にしなきゃ相手のことを理解できない。
当たり前だ。﹂
皐月が何を言いたいのか、さっぱりわからない。
わからないけれど、皐月が本気で別れようと言っているのだけはわ
かって、胸が痛くなった。
﹁当たり前だ。だけど、わからないから知ろうとして欲しかった。
歩みよって欲しかった﹂
﹁何言ってるのよ、私はいくらだってあなたに合わせるわよ﹂
﹁そうじゃないんだ⋮うまく言えないけど。俺が嫌だって言う前に
もしかしてそう思ってるんじゃないかって考えて欲しかったんだ。
正解しなくてもいいから、俺がどう思うかをもっと積極的に考えて
1617
欲しかったんだ﹂
考えて、いなかっただろうか? 考えていた、つもりだ。でも少な
くとも皐月には考えていないように見えたんだろう。
﹁わからなくったって、俺が七海を避けるなんてよっぽどなにかあ
ったのかって考えなかった? 言わないなら大丈夫だと思った? せめて最初に聞いてくれたならよかったのに、七海は怒ったね。俺
に尋ねる形をとっても答える間なんてないくらいに怒ったね﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
それは私の落ち度だ。正直に言って甘えていた。皐月なら何をして
も、何を言っても、許してくれると思った。
私が怒れば、機嫌が悪いのを止めて私のご機嫌とりをしてくれると
思った。そうすれば自然と仲直りできると思った。
皐月が私の謝罪を求めていたなんて思わなかった。思い詰めていた
なんて思わなかった。
⋮駄目だ。こんなのは言い訳だ。しかも最低な部類の。気づかなか
ったなんて、皐月の気持ちを考えなかったと言っているようなもの
だ。
﹁謝らないでよ。悲しくなる。謝ってほしいわけじゃなくて⋮いや、
謝って欲しかったのかな。自分でもわからなくなってきた﹂
自嘲するように小さく笑って皐月は手にしていたコーヒーを飲んだ。
私も紅茶を飲む。少し、渋い。
﹁まあ、とにかくさぁ⋮別れよう。決めた﹂
﹁そんっ、そんな⋮っ﹂
1618
簡単に、とは言えなかった。決別を口にした皐月自身が泣きそうな
顔をしていて、心がずきずき痛んだ。
今すぐ抱きしめてあげたいのに、手を触れたら皐月が壊れてしまい
そうに感じて、私は目を閉じてもう一口紅茶を飲んだ。
﹁⋮私は、別れたくないわ。あなたが好きだもの﹂
﹁⋮⋮俺も、七海が好きだよ。だから辛い。だから、別れる。ごめ
んね﹂
﹁っ⋮あ、謝らない、でよ⋮。ばか。私は、絶対⋮諦めないわよ﹂
﹁止めてくれよ。⋮しんどい﹂
﹁⋮⋮っ⋮⋮ああそう、わかったわよ! あなたの言いたいことは
わかったわよ! でもだからって、嫌いになんかなってあげないん
だからねっ!! 覚悟しておきなさいよ!!﹂
しんどい、と言われてカッとなった。
私は泣いてしまいそうで、堪らなく苦しくて部屋を飛び出した。
○
1619
押して駄目なら押し倒せ
﹁まあ、とにかくさぁ⋮別れよう。決めた﹂
﹁そんっ、そんな⋮っ﹂
反論しようとしてか腰を浮かしかけた七海だけど、唇をきゅっと閉
じて姿勢を正すと目を閉じてまた一口紅茶を口にした。
相変わらず、こうしていると絵画のように様になる人だ。
﹁⋮私は、別れたくないわ。あなたが好きだもの﹂
胸が高鳴る。嬉しくて泣きそうだ。こんなにも七海が好きなのにど
うして別れなきゃならないのか、言い出した癖に被害者みたいな気
分になる。
﹁⋮⋮俺も、七海が好きだよ。だから辛い。だから、別れる。ごめ
んね﹂
﹁っ⋮あ、謝らない、でよ⋮。ばか。私は、絶対⋮諦めないわよ﹂
﹁止めてくれよ。⋮しんどい﹂
七海が好きだから、そんな健気に好意を示されると前言撤回したく
て堪らなくなる。ただでさえ別れるは俺だって辛いのに、我慢する
のがより辛くなる。
﹁⋮⋮っ⋮⋮ああそう、わかったわよ! あなたの言いたいことは
わかったわよ! でもだからって、嫌いになんかなってあげないん
だからねっ!! 覚悟しておきなさいよ!!﹂
七海は立ち上がってカップを置いて部屋を出ていった。後半は声が
1620
震えて涙声になっていて、見間違えでなければ部屋を出る瞬間に七
海は涙を流したように見えた。
﹁っ⋮﹂
七海を泣かしてしまって、その原因が自分の意思で、そんな資格な
いって言うのに泣けてきた。
﹁くそっ⋮﹂
なにやってるんだろう。こんなことしたいわけじゃない。辛い思い
をしたくなくて、七海にもして欲しくなくて、別れようと言ったの
に。
どうすればよかったんだろう。
ただ我慢して付き合っていくという選択肢は、どうしても選べなか
った。
話し合いでちゃんとわかってもらえる自信もなかった。自分でもよ
くわからないから。説明なんてできやしない。
ああ、でも、やっぱり七海と別れたくなんてないよ。
今更で、傷つけたことはもう取り返しがつかないのに。俺は女々し
く七海のことを考えてしまう。
苦しい。死ぬほど好きだった七海を苦しめているという事実は、死
にたくなるくらいに俺を責める。
でも、それでも、またこんなことがあるかも知れない。また喧嘩を
するかも知れない。今度は俺が気づかないうちに七海を傷つけるか
も知れない。
それならいっそ、このままでいい。俺と付き合うことで七海が傷つ
1621
くなら、別れたままでいい。
俺だって傷つきたくなんかない。七海だって傷つけたくない。なら、
これでいいんだ。間違ってなんか、ない。
﹁っ⋮ぅ、うぅっ﹂
だけど、どうしても涙は止まらなかった。
○
﹁ただいま﹂
﹁あっ⋮お、お帰りなさい。ど、どうでした?﹂
カップを持って淑女室に戻ると慌てたように小枝子が聞いてきて、
二人もじっと見てくる。
泣いたから目が赤くなってるかも知れないので顔をそらして、さり
げなくカップを水場へ持っていくことで背を向けてばれないように
しながら答える。
﹁どうっていうか、別れたよ。言ってただろ﹂
﹁え⋮ええっ!?﹂
﹁あぁー⋮そうかぁ﹂
﹁ふーん﹂
﹁ちょっ、と、お二人反応冷たいですよ!? な、何でですか!?
1622
七海様のこと嫌いになっちゃったんですか!?﹂
慌ててるのか意味もなく立ち上がって小枝子は二人の顔を見てから
俺に向いた。
そのやや過剰なまでの反応に少し苦笑して、胸の痛みをないことに
して平然と振り向いて席についた。
﹁いいや、七海のこと⋮好きだよ。大好きだ﹂
﹁だったら!﹂
﹁やめなさいよ。二人の問題でしょ﹂
﹁そ⋮それは、そう、ですけどっ﹂
﹁ありがとうな、弘美。小枝子、正直に言って自分でもよくわから
ないし後悔してないって言ったら嘘だよ。でも⋮もう、別れたんだ。
決まったことだ﹂
﹁そんな⋮﹂
﹁ああ、念のために言っておくけど、七海には俺が後悔してるとか
言うなよ。別れようって言ったこと、撤回する気はないから﹂
﹁⋮わかりました﹂
﹁言わないわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
口止めをすると小枝子は渋々、弘美は興味なさそうに頷いてくれた
が、紗里奈は先程から何か考えこむような表情のまま黙っている。
﹁紗里奈?﹂
﹁⋮ん、や、わかった。君が後悔してるとは言わないよ。むしろ撤
回する気がないと伝えておくよ﹂
名前を呼ぶとはっとした顔に一瞬なってから曖昧に頷いて立ち上が
るので、逆にこっちが驚く。
1623
まさかわざわざ言いに行くつもりか。
﹁いや、別に追い撃ちをかける必要はないぞ?﹂
﹁ああ、そうじゃないよ。ただ君が戻る前に前会長から呼び出しメ
ールが来てたんだ。相談があるって。十中十二、君のことだろうさ﹂
﹁なんで十二﹂
﹁120パーセントってこと。てな訳であたしは一抜けするから、
あとよろしく﹂
﹁わかりました﹂
紗里奈はコートを羽織ると鞄を手に、いつもの薄い笑みを浮かべた
まま出て行った。
相談、か。何を相談するつもりだろう。別れを納得するように話を
進めると悲し⋮嬉しい。
あー⋮七海早く卒業しないかな。そうしたら離れるのが当たり前だ
って思えるし、少しはこの胸の痛みが和らぐだろうに。
﹁皐月様﹂
﹁ん? なに?﹂
﹁あんた、今週末実家帰りなさい﹂
﹁え?﹂
﹁な、何でですか?﹂
﹁紗里奈様が相談にのったら、絶対こう言うはずよ。﹃押して駄目
ならもっと押せ﹄ってね。実際今の皐月様押しきったら何とかなる
し﹂
断言された。一応確固とした意思で決めたんだが⋮⋮まあ、七海が
来たら揺れるってのは否定できないけどさ。
﹁そ、そんなに二人を離そうとしないでも。いいじゃないですか。
1624
皐月さん、押し倒されて下さい!﹂
﹁押し倒されねぇよ!﹂
間髪入れずに言い返すと小枝子は不満そうに頬を膨らませた。
そこのニュアンスは変えるんじゃない。だいたいそんな簡単に仲直
りなんかできるわけないだろ。可愛い顔しても駄目なものは駄目だ
からなっ。
ヒロはふぅとため息をついてから呆れ顔のまま続ける。
﹁とりあえず、外泊許可はヒロがとっといてやるから早く行きなさ
いよ。あの二人は遅くても夜まで気づかないわ。そうなってからじ
ゃよっぽどの理由がなきゃ外出許可もおりないから、一日は持つわ﹂
﹁な、なるほど。策士だな﹂
﹁誰でも思いつくわよ。その間に七海様に押し切られないくらい意
思を固めるか、無理なら仲直りするか決めなさい﹂
﹁う、うむぅ⋮⋮わかった。気持ちを整理して、ちゃんとしてくる﹂
正直、別れた方がいいと結論を出しはしたけどまだ未練たらたらな
のは事実だ。しっかりしないと押し切られるというのも否定できな
い。
この際だ。母さんにも言って、後戻りできないところまでいってし
まおう。そうすればいくら俺が優柔不断でも、覆せないはずだ。
﹁じゃあ⋮悪いけど後は任せた﹂
﹁はぁ⋮しょうがないですねぇ。もうわかりました。私は口を出し
ません。好きにしてください﹂
﹁小枝子⋮ありがとうな﹂
﹁仕事もあんたがいなくったって大丈夫よ﹂
1625
﹁それはそれで悲しいけど⋮とにかくありがとう。じゃあ、また来
週に﹂
部屋を出た。これで本当にやり直しはできない。そう思うと足は重
かったけど、俺は足を止めはしなかった。
○
学園長に電話をしてあっさりと許可をとった弘美さんは何でもない
ように仕事を始めてしまった。
﹁弘美さん⋮﹂
﹁何よ。早く仕事しなさいよ﹂
﹁あ、はい﹂
とりあえず目を通して判を押す作業に戻りながらもちらっちらっと
弘美さんを見る。
﹁⋮何よ。ハッキリ言いなさい﹂
じれたように顔をあげた弘美さんに私は判を置いて尋ねた。
﹁あの⋮本当にこれでよかったんでしょうか。余計なお世話だって
言うのは、わかってますけど⋮﹂
1626
﹁いいのよ﹂
﹁そんな⋮﹂
弘美さんは一見酷いことを言ってもいつも優しいのに、しかも皐月
さんのことなのに、どうしてそんなに冷たいのか、理由がわからな
くて肩を落とす。
﹁だってどうなろうとあの二人なら仲直りするし﹂
﹁⋮え?﹂
﹁だから、別にしたいようにさせればいいじゃない。今は意地にな
ってるけど、好きに話し合って距離置いて冷静になったら、またう
まくいくわよ﹂
﹁⋮は、初めからそのつもりだったんですか?﹂
﹁そうだけど? まあ落ち込んでたり傷ついてるのは事実だし慰め
るくらいするけど、喧嘩自体はほっとけばいいのよ。犬も食べない
わ﹂
⋮恥ずかしい。冷たいだなんて考えたことが申し訳ない。
何てことはない。弘美さんは興味がなかったのでも放置していたの
でもなんでもなく、単に信じていたのだ。二人なら大丈夫だと、信
じているだけなのだ。
﹁⋮ごめんなさい。弘美さん、冷たいとか思っちゃいました﹂
﹁あんたの、そーゆー馬鹿正直なとこ、結構好きよ﹂
﹁え⋮?﹂
﹁だから、許すって言ってんの﹂
照れたのか視線をそらしながら許された。やっぱり弘美さんはとて
もいい人だ。可愛くて、優しい人だ。
1627
﹁⋮ありがとうございます。私も弘美さんが大好きですよ﹂
﹁何を﹃も﹄とか言ってんの。調子のんな。あんたのこと大好きじ
ゃないし﹂
﹁じゃあ大好きになって下さい﹂
﹁んなの、自分で何とかしなさい﹂
﹁はい。では頑張ることにしますね﹂
嫌い、と言われないだけわりと好かれてる自信はある。何よりいち
いち否定するところも何だか可愛らしくて、私は弘美さんにはいつ
もだけど優しい気持ちになる。
﹁ふん。紅茶、いれて﹂
﹁はい﹂
○
﹁わざわざ来てもらって悪いわね﹂
﹁いいっすよ。相談相手に選ばれるなんて光栄です﹂
おちゃらけて言う紗里奈はいつも通りで何だか頼もしくさえ見えた。
﹁皐月のことですよね﹂
﹁ええ。⋮正直、混乱してる、いえ⋮途方に暮れていると言った方
がいいのかしら。どうしたらいいのかわからないの。こんなこと、
1628
初めてで⋮﹂
﹁前会長は正解不正解はともかく、いつだって自力で回答だしちゃ
うタイプですからねぇ﹂
机を挟んで向かいにいる紗里奈はそう言って苦笑のように笑った。
﹁と言っても、あたしも経験値高いわけじゃないんですけどね﹂
﹁あら、そうなの?﹂
﹁はい。一応恋人候補は何人かいましたけど⋮喧嘩したら向こうか
ら謝ってくるか、なければそのまま別れましたから﹂
﹁⋮⋮酷い人ね﹂
﹁昔の話ですよ﹂
そう昔ではないだろう。まだ半年⋮たっているかいないか。まあと
にかく、こと恋愛事に関しては紗里奈以上の適任はいないと思った
のだが当てが外れてしまったか。
﹁そんな困った顔しないでください。皐月が相手なんだから仲直り
の方法は簡単ですよ﹂
﹁え、なに?﹂
﹁昔からよく言うじゃないですか。﹃押して駄目なら押し倒せ﹄っ
て﹂
﹁言わないわよ﹂
﹁とにかくともかく問答無用。皐月はまだ前会長のこと大大大好き
なんですから、フラれたって問題にはなりません。いっそ改めて告
白してください﹂
﹁ふ、フラれ⋮﹂
﹁いや、そこでダメージを受けられても﹂
いや、頭ではわかっている。何だかよくわからないまま仲たがいし
1629
てしまってついていけない部分はあるが、要は私はフラれたのだ。
わかっているが⋮⋮⋮⋮はぁぁ。そう現実を突き付けられると、泣
きそうだ。
﹁大丈夫ですよ。皐月、会長との話し合いの後泣いてましたもん。
自分で言い出して傷ついてりゃ世話ないと思いますけど、とにかく
本心では別れたくないって考えてますよ﹂
﹁ほ、本当に?﹂
﹁ええ。本人隠してるつもりか俯き気味でしたけど、完全に泣きた
てですよ。あからさますぎてツッコめなかったですもん﹂
﹁そ、そう⋮﹂
そんなに、悲しんでくれたのか。正直、それならどうして別れたの
かわからない。好きだから別れるというのが理解できない。
だけどそれなら、可能性がある。まだ諦めない。
﹁じゃあ、早速告白してくるわ﹂
﹁早っ。ちょ、ちょっとは間を空けるとか⋮﹂
﹁何を言っているのよ。物事は先手必勝よ。押せと言ったのはあな
たじゃない﹂
﹁いやいや。皐月が落ち着くまでは、ねぇ? タイミングを外して
意固地になられると困るでしょ。ていうか、今まさに意固地になっ
てたんですから﹂
﹁⋮わかったわよ。なら夜まで待ちましょう﹂
﹁あー⋮まあ、そうですね。ご飯食べたら皐月も落ち着くでしょう﹂
紗里奈の言うことも一理ある。それに、告白の文句も考えなければ
ならない。
1630
﹁紗里奈、効果的な告白文句ってあるかしら﹂
﹁知ってたら使ってますよ。でも⋮そうですね、皐月は単純ですか
らプレゼントでも渡したらどうですか? 薔薇の花束とか地味にイ
ンパクトありますし、これくらいたくさん好きとか言えばわかりや
すいですし﹂
﹁何言ってるのよ。私の気持ちを薔薇の量で表そうとするなら世界
を薔薇で溢れさせても足りないわ﹂
﹁⋮そーですか﹂
呆れたようにため息をつかれた。
しかしそんな反応は置いておいて、プレゼントはいいかも知れない。
インパクトは大事だ。⋮よし。
﹁紗里奈、私出かけてくるわ﹂
﹁え? 何処へ?﹂
﹁もちろん、プレゼントを買いによ。あなたも来る?﹂
﹁そうですね⋮乗り掛かった船です。ご一緒しますよ﹂
○
1631
実家に帰ってます
﹁皐月﹂
ノックをして声をかける。
﹁⋮⋮﹂
しかし返事がない。普段ならまだご飯か、それともお風呂かと出直
すところだが、今は居留守を使って私を避けている可能性もある。
﹁入るわよ﹂
なので入った。
が、皐月の部屋は無人だった。では仕方ない。待たせてもらうとし
よう。うん、おかしくない。不自然じゃない⋮はずだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮き、緊張してきた。私は今までやると決めたことはすぐに実行
してきたから、こんな風に想定外の間が空くことはなかった。
そのせいか、さっきまで平気だったのに急に緊張してきた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮⋮⋮何だか、遅くないかしら?
時計を見ると、驚くことに5分しかたっていなかった。
﹁⋮⋮ああっ、もう﹂
1632
遅い。5分とか関係なくとにかく遅い。
今何をしているのか。
今⋮何を考えているのか。
私のことだといい。だけど私のことなら、今も皐月は悲しんでいる
のだろう。もし、私以外のことを考えているなら⋮私が悲しい。
﹁⋮皐月﹂
ぽつりと口から思い人の名前が零れた。
かぁっ、と顔が熱をもつ。誰もいない皐月の部屋で一人で彼女の名
前を呼ぶなんて、なんて恥ずかしい。どれだけ好きなんだ。好きだ
けども。
それに名前を呼ぶだけで、ただそれだけなのに胸が熱くなってしま
う。皐月の笑顔を思い浮かべて幸せな気分になってしまう。
こんなにも、自分でも信じられないくらいに、言葉では言い尽くせ
ないくらいに、皐月が好きだ。
恋をして、私は馬鹿になってしまったようだ。
前は私はやればできないことなんてないと信じていた。私は自分を
特別だと思っていたし、そのために努力を欠かさなかった。私は一
般より賢くて優れていて万能な人間だと信じていた。
だけど今の私は、とても自分が優秀とは思えない。何でもできると
信じていたあの全能感はもはや微塵もない。
彼女が考えてることはちっともわからなくて、自分の行動に対する
自信もなくて、無力で幼い子供になってしまったみたいだ。
自分は賢明な人間であったはずなのに愚図で愚鈍な赤子になってし
まったようだ。
だけど、どうしてかしら。
1633
私は愚かになったことが、ちっとも嫌ではない。むしろ愛故に私が
愚かになるならば、彼女への思いが私を愚かにするならば、私は世
界一の愚か者になったっていい。皐月を愛することが私を特別とい
う高みから落とすのならば、私は底辺をはいずる虫けらになっても
構わない。
そんな風に思う私は、やはりどうしようもなくすでに、手遅れなほ
どに愚かなのだろう。
﹁はぁ⋮﹂
暇だ。待ち遠しくて、落ち着かない。
私は意味もなく立ち上がり、意味もなく皐月の部屋をうろうろし出
す。
﹁⋮ん?﹂
皐月の机は、割と普段から散らかっているので気に止めなかったが、
何か大きな字を書いた紙が置いてある。
まるで誰かに見せることを目的にしてるみたいで、私は机に近寄っ
てそれを見た。
﹃実家に帰らせていただきます By皐月﹄
冗談みたいだった。
まだ結婚していないとか。別れたのに書き置きするって変だとか。
ここは別に二人の家でもないとか。﹃By﹄って完全にふざけてる
んじゃないかとか。そもそも私が来ること前提なのかとか。
ツッコみたいことは沢山あったけど、言葉として体をなさなかった。
1634
ただ皐月がここにいなくて、待っていても戻らないことだけが理解
できた。
﹁⋮⋮﹂
私は部屋を出た。
○
お風呂をあがって部屋に戻る途中、玄関でブーツを履いてる七海様
に出くわした。
もう夜だ。教室に忘れ物でもしたのだろうか。
﹁七海様? こんな夜分にコートまで着てどうしたんですか?﹂
﹁ああ、ちょっとね。実家にいる皐月を迎えに行くのよ﹂
時間が惜しいとばかりにさらっと説明する七海様に、一瞬意味が理
解できなかった。
﹁え⋮え? 今からじゃ外出許可も外泊許可も出ないですよ?﹂
﹁知っているわ。でも規則を守るより皐月の方が大事だもの。それ
に特別な用事なら禁止する規則は適応されないわ﹂
﹁⋮⋮﹂
1635
当然だと、考慮する価値もないと、当たり前に規則を破ると言われ
たのだとようやく気づく。
絶句する。ヒロの読みは全く検討外れもいいところだった。
﹁⋮⋮わかりました。許可はヒロが何とかしておきます﹂
﹁あらそう? 悪いわね、弘美。じゃあ行ってくるわ﹂
﹁行ってらっしゃい﹂
振り返らずにカツカツと足音高く七海様は出て行った。
そういえば、今更だけど、私が七海様を嫌いになれないのはこうい
う人だからだった。
七海様はルールを守る人だ。実直に誠実に頑なにルールを守る。で
もそれは決められたルール、校則やモラルのことではない。
七海様が守るルールは、自分が決めたルールだ。自分の中で正しい
と思うことを守っているのだ。
だから走るという校則違反を犯した人を捕まえるのに自分が走るの
に矛盾は起きないし、自分基準で特例と判断したら自分のために規
則を犯すことは許される。
そんな自分勝手で自己中心的とも言える七海様の人間らしいところ
が、ヒロが嫌いになれない理由だった。
﹁全く⋮﹂
しょうがない。こっちは何とかしてあげよう。
予定より早いけど、思ったよりも早く仲直りするだけの話だろう。
七海様が本気になったら、皐月様ごときではどうにもならない。
七海様はヒロが唯一尊敬できる人だ。まあ、尊敬﹃できる﹄ってだ
けで別に尊敬してないけど。一目は置いてる。
1636
そういえば、七海様はいつからかヒロをあだ名で呼ばなくなった。
これも何か彼女なりの理由があるのだろうか。まあ、どうでもいい
ことだ。
ヒロは携帯電話を取り出した。
皐月様と一緒に七海様からも外泊許可申請が出ていたことを伝え忘
れたと、謝るために。
○
﹁おかえりなさい﹂
そっと玄関、ではなく館右端にあるゴミ出し用の裏口を開けると何
故か母さんに迎えられてしまった。
連絡したし話あるとは言ったけど、待ち構えられると腰がひけてし
まう。いやだって、色んな意味で言いづらいし。まして母さん相手
だし。母さん相手じゃないと意味ないけどさ。
⋮いや、それより何で裏口からって分かったの。玄関門脇の通用口
が電子式だしカメラあるから帰ってきたのはわかるとして。
﹁た、ただいま。寒いから待っててくれなくてもよかったのに﹂
﹁突然の帰省だから何かやましいことがあると思うじゃない? だ
から裏口かなって。やだ、お母さんったら名探偵みたいね﹂
﹁心の声には答えないでいいです﹂
1637
﹁で? 話ってなぁに?﹂
﹁⋮その前にどうして普通に家にいるのか聞いていい?﹂
﹁? どういうこと?﹂
居間に向かいながら促されても言いづらいからちょっと話題を変え
てみたが、まるっきりなんのこととでも言いたげに首を傾げられた。
﹁いや⋮去年、母さん家にいなかったじゃん?﹂
﹁ああ、そんな設定もあったわねぇ﹂
﹁設定だったの!?﹂
﹁ウソウソ。ジョーダンよ。ジョーダン﹂
﹁何で微妙に人名っぽい発音なのさ﹂
﹁実はぁ、去年のうちに用事は終わって帰ってたのよ﹂
﹁そうなの? 言ってくれたらよかったのに﹂
﹁中々言う機会がなかったし、今も別のことしてて忙しいから。皐
月ちゃんに帰ってこられても困るもの﹂
﹁そんなホームシックな時期はとっくに過ぎてます。単に言うの忘
れてたでしょ﹂
﹁あらバレた。皐月ちゃんったら名探偵ね﹂
というか、ホームシック対策に母さんが家を出ていたなら俺にあら
かじめ言っておくだろ。単に母さんもやることあったってだけでし
ょ。まあ言われたからどうって訳じゃないけど。
でもそういえば夏は居なかったけで冬は普通に家にいたもんな。半
年くらいで帰ってきてたのかな。
﹁で? どこで何してたの?﹂
﹁うふふ。なーいしょ﹂
﹁くそ、相変わらず可愛いな﹂
﹁もう、皐月ちゃんは淑女を目指してるんだから汚い言葉を使わな
1638
いの﹂
﹁はいはい﹂
﹁せめて﹃糞﹄じゃなくて﹃うんち﹄とか﹃大便﹄って言いなさい﹂
﹁意味かわる! ってか意味わからなくなるから!﹂
﹃大便、可愛いな﹄とか言ったら完全に頭おかしい人だろ。
ていうかシリアス展開で帰ってきたのに何て会話してるんだ。
﹁まあつもる話もあるでしょうけど、とりあえずご飯にしましょ﹂
﹁⋮うん。ありがとう﹂
今は6時半だから普段にしたらちょっと早いから、きっと俺に合わ
せて作ってくれたんだろう。
昔は1時間以上の距離をとても遠く感じたけど、慣れてみればなん
てことないあっという間の近さで、今更だけど本当にその気になれ
ば毎週だって帰れる距離だったんだなって実感した。
その近さはそのまま心の近さみたいで、突然連絡して帰っても当た
り前みたいに料理もつくってくれて、七海がいなくなっても俺には
母さんがちゃんといるんだと思えて少し安心した。
色々と言いたいことはあったけど、とりあえず万感の思いを込めて
母さんの手を握っておいた。
にっこり微笑んだ母さんは七海ほどじゃないけどやっぱり綺麗で、
泣きつきたくなるくらい優しい笑顔だった。
○
1639
﹁で? 何があったの?﹂
﹁そんなに焦らずとも⋮明日明後日もいるのじゃろ?﹂
﹁う、うん。そのつもりだよ﹂
夕食が終わって一段落つくとすぐに母さんが尋ねてきたけど、何故
か爺ちゃんが慌てたように遮った。
﹁お父様⋮皐月ちゃんに頼られて嬉しいのはわかりますけどむやみ
と引き延ばそうとしないで下さい﹂
﹁な、そ⋮そんなことはないぞ。わしはただ⋮な?﹂
﹁な、じゃありません﹂
﹁⋮何で優希は敬語を使いますか?﹂
﹁壁壁壁壁壁﹂
﹁壁をつくられとる!?﹂
この二人いつの間にか仲いいなー。そして母さん、爺ちゃんとだと
キャラ違うんだ。当たり前だけど。
﹁おふざけはともかく、皐月ちゃんって勢いのままいかないとすぐ
にヘタレちゃうもの﹂
﹁むう⋮そうじゃのぉ﹂
納得されてしまった。俺ってヘタレだったのか? ⋮⋮いや、心当
たりがないな。これがいわゆる見解の相違ってやつだな。
﹁で? 急にどうして帰ってきたの?﹂
1640
﹁まぁ、端的に言うと、七海と別れた。それの報告と七海と距離置
くために帰ってきたんだよ﹂
﹁⋮な、なんじゃと⋮⋮幼子と婚約したかと思えば年上と付き合い
だし、かと思えばもう離反じゃと? ⋮⋮皐月、やるのぉ﹂
﹁感心しないで! 確かにそう聞くとまるで酷い女たらしみたいだ
けど。弘美のことはちゃんと説明したでしょ﹂
﹁冗談じゃ。しかしまた恋愛絡みとはのぉ。情けない話じゃが、こ
の年になっても女心には疎くての。悪いがいいアドバイスはできそ
うにないわい﹂
﹁気持ちだけでいいよ、ありがとう。ていうか相談じゃなくて報告
だし﹂
﹁じゃあ皐月ちゃん﹂
﹁ん? なに?﹂
﹁詳しい話は部屋で聞かせてもらうわね。お父様、ごめんなさい、
後は女同士の話だから﹂
﹁む、むむ⋮わ、わかっておる。わしでは力になれんことは⋮くっ、
自分がふがいないわ﹂
⋮何で爺ちゃんさっきからちょいちょいシリアスぶってんの? 確
かに真面目な話してるけど大袈裟じゃない?
あと⋮
﹁さ、場所は皐月ちゃんの部屋でいいわよね﹂
あの、ちょっと⋮手、そんなに強く握られると痛いんですけど? え? 何で母さん怒って、る?
1641
○
1642
愛してると伝えよう
﹁ふぅん⋮そういうことなの﹂
俺の部屋で詳しい話をした。
といってもうまく出来たか自信はない。口下手なのに加えて自分で
も気持ちの整理がついてないから当たり前なんだけど。
﹁つまり皐月ちゃんたら、逃げちゃったのね﹂
﹁⋮え、や、そんな⋮言い方、しなくても⋮﹂
﹁だってそうでしょう? 傷つきたくないから別れるなんて、自分
可愛さに逃げたのよ﹂
見たことないような冷たい目を向けられて背筋が凍りついた。それ
でも口元が微笑んでいるのがまた、恐い。
母さんがこんな風に厳しいキツイ言い方をするなんて初めてだ。怒
ったり俺を窘める時だっていつも柔らかい口調だったのに。
﹁こ、今回は俺だけど、次は七海が傷つくかも知れないから﹂
﹁皐月ちゃん、あなたは間違っているわ﹂
﹁な⋮何がだよ。何だよっ。俺だって、俺だって別れたくないよ!
でもいっぱいいっぱい考えて⋮その方がいいって、決めたんだ﹂
完全に正面から否定されて泣きそうだった。
母さんなんて俺がどんな気持ちで言ったかも知らないくせに! 俺
がどんなに七海を好きで、どんなに傷ついたか知らないくせに!
﹁間違ってなんかないっ!﹂
1643
パンッと乾いた音がして、左の頬がひりひりした。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮え⋮⋮?﹂
叩かれたのだと気づいて、そっと頬を押さえる。ちょっとだけ熱い。
﹁いい加減にしなさい﹂
﹁な⋮﹂
じわ、と涙が出て流れた。
﹁泣かないの。あなたよりも七海ちゃんの方が辛いわ﹂
﹁だ、って⋮だって、それでも別れれば、もうこれ以上辛くはなら
ないじゃんか﹂
ぼろぼろと漫画みたいに涙が零れてとまらなくなった。
また付き合ってまた別れたらまた傷つく。それでも多分俺はまだ七
海のことを好きでいつづける。そしたらまた付き合うの?
こんなに苦しいのに、どんなに泣いてもすっきりしないし辛いまま
なくらいなのに、どうして何度も繰り返さなきゃならないんだ。
別れた方がいいに、決まってる。
﹁皐月ちゃんは、本当に馬鹿ね﹂
涙を拭われた。
声がいつものトーンに戻っていた。当たり前だけど母さんに嫌われ
たわけじゃないと言われたみたいで嬉しくなった。
﹁叩いて、ごめんなさいね。強く叩いたつもりはなかったんだけど。
痛かった?﹂
1644
﹁ん、ううん。へっちゃらだよ。俺⋮強いんだから﹂
実際母さんの平手は泣くほど強いどころか、七海が戯れに鼻や頬を
引っ張るより弱いくらいで音ばかりの代物だった。
ただ額をこずくとかでなくはっきりと手をあげられたのは記憶にあ
る限り初めて、めちゃくちゃびっくりして、母さんが俺のことを嫌
いになってしまったように感じて泣いてしまっただけなのだ。
﹁弱いわよ。皐月ちゃんは弱いわ﹂
﹁え⋮?﹂
﹁弱くて泣き虫で、優しいわ。みんな、そんな皐月ちゃんが大好き
なのよ﹂
﹁⋮強いもん﹂
泣き虫なのは、まぁ、否定しないけど。まだまだ母さんくらいなら
二人はおぶれるよ。
﹁じゃあ強くて弱い皐月ちゃん﹂
﹁弱くないってば﹂
﹁はいはい。では皐月ちゃん。ここで質問です。一番辛いことって
何?﹂
﹁え?﹂
﹁ちゃんと考えて答えてね﹂
一番辛いこと? ⋮⋮今も十分辛い。けど一番、最悪なこと⋮。
﹁みんな、死んじゃうこと?﹂
﹁そうね。それはとても辛いわね。でも皐月ちゃん、死んで別れる
のが辛いからって誰かに恋したり誰かと友達になるのをやめるなん
て考えないわよね﹂
1645
﹁そりゃ⋮普通にしてたら死なないし﹂
﹁そうかしら。事故、災害、いくら気をつけたって死ぬ時は死ぬわ﹂
﹁⋮それは、そうかも知れないけど⋮﹂
﹁人は別れることを、傷つくことを恐れてては誰とも出会えないわ。
なのに皐月ちゃんは次に傷つくことが恐いからって七海ちゃんと別
れるなんて、変な話よ﹂
﹁それは⋮でも、なんか、問題をすり替えてる気がする﹂
﹁そう? じゃあ別の方法で説得しましょう﹂
説得されてしまいそうだったけど、あっさりと引いてくれてこっそ
りほっとする。
言われてみれば俺が七海と別れると言った理由は母さんの言う通り
未来を心配して、ということだから変なことになってしまう。
確かに間違いなくこれしかないと思っていたはずなのに、母さんに
言われて疑心暗鬼になってしまう。
﹁じゃあこんなのはどうかしら。私はね、死ぬことが一番辛いとは
思わないわ﹂
﹁え? ⋮死ぬより辛いことなんてあるの?﹂
﹁もちろん人によるかも知れないけど、少なくとも私には違うわ。
一番辛いのは、永遠にお別れすることよ﹂
﹁⋮つまり死ぬことでしょ?﹂
何がいいたいのかわからずに首を傾げた。母さんは一つ息を吸うと
いつものように微かに微笑みながらも真面目な顔で言う。
﹁違うわ。生きているのに会えない方が辛いと思わない? 物理的
に会えないことは悲しいけど諦めるしかないわ。でも生きてたら?
会えるかも知れない。でも会えない。大切なのに会えない。会え
るのに会えない。お互いに会いたいと思うのに会えないなんて、と
1646
ても悲しいことじゃないかしら。死んでしまったなら、少なくとも
相手はもう会いたいとか考えられないわ﹂
﹁それは⋮でも、また会えるかも知れないという希望があるよ﹂
﹁そうよ。でも希望があることっていいことかしら﹂
﹁⋮どういうこと?﹂
﹁相手が生きている限り会えるかも知れない、何とかなるかも知れ
ない。それはつまり諦められないということで、ずっと辛い思いを
忘れずに持ち続けるということよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もちろん、時間が辛さや悲しさや恋しさをなくしてくれることも
あるわ。時間が解決してくれることはあるわ。でも皐月ちゃんは、
時間がたったら七海ちゃんへの恋心をなかったことにできる? 思
い出にできる?﹂
﹁⋮⋮やってみなきゃわからないよ﹂
﹁そうね。仮に忘れられるとしましょう。でも辛いのは事実よね。
特に七海ちゃんは今回、大好きなあなたに拒否されて会いたいのに
会えないのだから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それが一年か、または環境がかわって忘れるとして二ヶ月? た
ったそれだけでも、最高に辛い最悪の仕打ちで二ヶ月も傷つけ続け
るというのをあなたは選ぶの? ハッキリ言って最低な選択よ﹂
﹁でも⋮それは一度で済む﹂
﹁そのたった一度が、今後起こりうる喧嘩より傷が浅いってどうし
て言えるの?﹂
答えることができない。さっきの説得よりなおキツイ。
今俺は、別れ方が無理矢理とか不自然とかそんなのじゃなく、単純
にこの選択こそ二人を傷つけるものだと言われてる。最も七海に対
して酷い仕打ちをしているのだと、ただただ間違っているのだとと
突き付けられる。
1647
何か反論しなきゃいけない。未来のことだから証拠なんて必要なく
てただ正しいと思っていたことを、説明しなきゃいけない。
﹁⋮⋮﹂
そう思っても、言葉が出なかった。
何が正しいと思っていたのか、何をしたかったのか、何故こうなっ
てしまったのか、何もかもわからなくなってしまった。
﹁泣かないで、皐月ちゃん。今からもっと、キツイことを言うから﹂
また流れてしまった俺の涙を拭いながら母さんは困ったみたいに弱
った声で言う。
﹁皐月ちゃんは七海ちゃんのためなんて言ったけど、それは嘘よ。
ただ自分が傷つきたくないから別れを切り出したの。自分のためだ
けに七海ちゃんを傷つけてるの﹂
﹁! おっ⋮俺はっ﹂
﹁でもね皐月ちゃん。七海ちゃんの傷は時間が癒してくれて、それ
で終わったとして、皐月ちゃんの苦しみはなくならないわ﹂
﹁えっ、なっ!?﹂
﹁もし別れたままだと、皐月ちゃんはどれだけたっても今と同じだ
け七海ちゃんが好きなままで、別れたことを死ぬまで後悔して、苦
しいまま生きなきゃいけないのよ﹂
自分のためだけと言うのに反論するより先に、もっと衝撃的なこと
を言われて息がつまる。
﹁な、なんで、そんなこと、わかるんだよ。勝手に未来、決めない
1648
でよ﹂
﹁わかるわよ。だって、皐月ちゃんは私にそっくりだもの﹂
くすりと笑って仕方ないなぁとばかりに俺の頭を撫でてくる母さん
に、何を言えばいいのかわからなくなる。
そっくりって、それはつまり⋮俺は姿も顔も声も覚えてないってく
らいに昔に死んでるのに、今も変わらずに昔と同じくらい、苦しい
くらいに父さんを愛しているということ?
﹁私の家系には初めて本気になった人を永遠に思い続ける一途な血
が流れてるのよ﹂
﹁母さん⋮﹂
﹁ちなみにママのママもママママのママもママママママのママもみ
んな初恋の相手と結ばれてるのよ﹂
﹁なんで急にママって言い出すんだよ﹂
わかりにくい。最初のママは一人称だろうから、つまりひいひい婆
ちゃんってこと? マジで? 初耳なんですが。
﹁変に固定観念できたら困るから初恋相手と結ばれるまでは言わな
いようにしてるのよ﹂
﹁へぇ⋮﹂
何かびっくりして涙ひいた。あと、凄いナチュラルに心読まれた。
﹁⋮て、今のタイミングでも駄目じゃない?﹂
﹁両想いだからいいの。ということだから、苦しみたくないなら諦
めて仲直りしなさい﹂
﹁う⋮か、仮にその通りだとしてもだよ? 未来の喧嘩は何回する
かわかんないし七海にしたら今別れた方が傷浅いんじゃない?﹂
1649
﹁ふぅ﹂
ため息をつかれた。何故に。
﹁あのね、皐月ちゃん。人間なんて単純で、苦しいことがある以上
に嬉しいことがあればそんなのなかったことになるのよ﹂
﹁嬉しいことって言われても⋮﹂
﹁七海ちゃんを傷つけたなら幸せにしてあげなさい。傷つけられた
なら幸せにしてもらいなさい。そうすれば皐月ちゃんは死ぬまで幸
せになれるわよ﹂
﹁簡単に言うなぁ﹂
﹁簡単よ。だって愛しているんでしょ? 喧嘩して傷ついて傷つけ
て泣いてるなら、手を繋ぎなさい。黙って隣にいれば全部解決する
わ﹂
にっこりと、なんでもない本当に簡単なことだと母さんは言った。
でもそれは意外と難しい気がする。喧嘩した時に手を繋いで離れる
なというのは、心情的に難しいと思う。でも確かに、単純だ。ただ
それだけでいいのかも知れない。一緒にいれば特別なことをしなく
ても上手く行くのかも知れない。
﹁七海ちゃんと仲直りして、また喧嘩して、何度も傷ついて泣けば
いいわ。そして仲直りして、笑いなさい。その度にお互いのことを
わかって、きっと今よりずっと七海ちゃんのこと大好きになってる
から﹂
﹁⋮うん、わかったよ﹂
母さんの言う通り、俺は七海を愛してる。一緒にいるだけで幸せだ
ってついこの間も思ってた。だから、それをずっと続ければよかっ
たんだ。
1650
母さんの言葉に、悩んでたのが本当に馬鹿らしくなった。
悲しくても苦しくても七海が信じられなくても、隣にいればよかっ
たんだ。
傷ついてもよかったんだ。悲しくてもよかったんだ。ぶつかって傷
つけ合えばよかったんだ。泣きながらでも七海を好きなまま隣にい
れば、それでよかったんだ。
それは何だかまるで馬鹿みたいだけど、それでいいや。どうせ馬鹿
馬鹿言われてるし、やっぱり今も七海が好きだし、愛してるし。
それに、死ぬまで苦しむなんて嫌だ。死ぬまで幸せでいれるという
なら、馬鹿でいいじゃん。
うん、やっぱり俺、自分可愛さで言ってたのかな。あんまり認めた
くないけど、七海もとかってのはやっぱり後付けだった。
あー、俺、本当最低だな。
﹁でも、七海、仲直りしてくれるかな﹂
﹁わかってる癖に聞かないの。そーゆーの惚気って言うのよ﹂
﹁⋮うん、ごめん﹂
七海もまだ俺を好きってわかってる。それだけは信じれる。だから、
絶対仲直りできる。でもやっぱりちょっと不安だけどね。振り回し
てって怒られるだろうなぁ。
まあ、そのくらい覚悟するか。実際振り回して、傷つけたんだから。
ちゃんと謝って、七海を幸せにしよう。
﹁ありがとう、母さん。愛してるよ﹂
﹁お母さんより先に、恋人に言ってあげなさい﹂
1651
﹁うんっ﹂
明日は朝一番に戻って、ちゃんと謝って、愛してるって伝えよう。
○
1652
幸せ
﹁ねぇ母さん、今日は久しぶりに一緒に寝てもいい?﹂
﹁ま、甘えん坊ね﹂
﹁母さん相手だしいーんだもん﹂
よしよしと頭を撫でられた。えへへ。
今日は一ヶ月ちょいぶりに母さんの背中も流した。
七海と仲直りしてこれからもやっていこうって思えるようになれた
のは母さんのおかげだし、一緒に寝るのも親孝行の一環だよね。
﹁皐月様﹂
﹁ん? なんですか?﹂
家には当たり前だけど家族だけじゃなくて使用人がいっぱいいる。
けどちょっと苦手だった名残で距離置いてるし、向こうも仕事だか
ら必要以上には声をかけてこない。
でも当然用があれば話すくらいする。だから滅多に家にいない俺で
も、いい加減名前も知らない人が家にいるのにも慣れて普通に接せ
られるようになった。
﹁お客様がいらっしゃっていますが、どうしますか?﹂
﹁え? こんな時間に? しかも俺に?﹂
﹁はい。以前にもいらっしゃった榊原様です﹂
﹁さか⋮って、七海かっ! え、何で?﹂
榊原って一瞬誰かわからなかったけど七海だ。でも、どうしてここ
に? どうやって。ていうか、もう10時も過ぎてるのに。
1653
﹁いえ、理由までは。とりあえず客間にお通ししましたが、いかが
いたしましょう﹂
﹁う、うーん﹂
﹁何を悩んでるのよ。皐月ちゃんの部屋に通しておいて。あとお茶
もお願いね﹂
﹁はい、わかりました﹂
いや、いいけど。それでいいんだけど何故母さんが言ってしかもそ
れで通っちゃうわけ。
﹁うー﹂
﹁ほーら、早く行ってあげて。気持ちを伝えるんでしょ?﹂
﹁こ、心の準備が⋮﹂
﹁皐月ちゃん? さっきの決意はどこに行ったのよ。もう⋮いい加
減にしないと、七海ちゃんにありえないことやないことを言うわよ﹂
﹁ありえない嘘とかやめて。母さんこそさっきは凄い応援してくれ
てたのに﹂
﹁あら、そんなことあった? お母さんわかんなーい﹂
﹁可愛いなチクショウ﹂
﹁わんわん。畜生じゃないわん﹂
﹁⋮⋮本気で可愛いからやめて﹂
﹁いいからさっさと行くわん、このノロマっ﹂
﹁急にキャラ変えないで。わかってるよ。一緒に寝るのはまた今後
にしよう﹂
﹁はいはーい、お休み、皐月ちゃん﹂
﹁お休み﹂
母さんと別れて自分の部屋に向かう。
ちょっと会わない間に忘れそうになるけど、母さんって放っておく
とすぐにテンションあがるから困る。
1654
あー、なんかちょっと緊張する。
七海、会って何言われるんだろう。⋮言われる前にこっちから迎え
撃つか。よし、とりあえず今回のことは全面的に俺が悪い。話しの
前にとにかく謝ろう。
﹁七海?﹂
﹁開いてるわ﹂
念のためノックをするとまるで部屋の主みたいな返事が来た。
﹁あ、ああ、入るよ﹂
七海が一体どういう気持ちで来たのかわからなくなってきた。少な
くとも返事の声はいつも通りだったけど。
部屋に入ると七海はベッドに座っていて立ち上がった。隣に行こう
としたら先に七海から近寄って来た。
お、おお? 顔がちょっと強張ってるみたいだしちょっと怒ってる
? とにかく謝ろう。
﹁七、いてっ。な、なに?﹂
名前を呼ぼうとした瞬間両肩を捕まれ、かと思ったら押されてすぐ
後ろのドアにぶつかってさらに押されて動けなくなる。
め、めちゃくちゃ怒ってる!?
﹁あの、七海、ご−んっ!?﹂
1655
﹁ん、ふぅっん、ちゅ、ぅん﹂
きすされた。でーぷなやつ。
﹁ん⋮ふぅ﹂
﹁はぁっ、はぅ⋮⋮何、何なの?﹂
﹁ごめんなさい、つい﹂
﹁つい!?﹂
つい、で出会い頭にキスされたの!? いきなりだし驚きすぎて窒
息するかと思ったわ!
﹁七海、あのさ﹂
﹁待って、言いたいことはあるだろうけど先に私に言わせて。そし
てはいかいいえで返事をして欲しいの﹂
﹁え、あ、はい。じゃあ⋮聞きます﹂
こほん、と咳ばらいをした七海は俺の肩から手を下げて、普通に会
話できる程度に少し距離を空けた。
﹁皐月。私はあなたが好きです。別れてしまったけど、改めてもう
一度、私と恋人になってください﹂
﹁っ⋮な−﹂
﹁待って! まだ続きはあるわ﹂
﹁あっ⋮ああ、わかった﹂
感極まって抱きしめようとした瞬間遮られ、一瞬離れた背中をまた
ドアにもたれさせる。
七海は頬を染めてちょっと眉の角度をキツくして、知らない人が見
たら怒ってるみたいな顔だけど、俺から見たら照れと緊張が混じっ
1656
てる顔だってわかった。
何を言われるのか、ドキドキした。悪い言葉じゃないのは確信でき
るから期待だけが高まって顔が熱くなる。
七海はポケットから小さな箱を取り出して俺に差し出すように向け
て開けた。
﹁これ、仮に初任給を20万と想定して買った安物だけど⋮一応三
ヶ月分よ﹂
﹁にじゅ⋮﹂
箱の中には大粒の宝石を一つと小さな宝石をちりばめられた指輪が
鎮座していた。
20万って⋮そんなにもらえるものなの? 確か母さんは17くら
いだったと思うんだけど。長く勤めてそれなのに⋮⋮⋮って今ツッ
コむとこそこじゃないよね!? つまりこれ、60万の婚約指輪!
!?
﹁これからも私はあなたに無神経なことをしたりゎ甘えて傷つけた
りするかも知れないわ。でもあなたのこと考えてるのは嘘じゃない
わ。あなたのことばかり考えてるわ。あなたがいなきゃ生きていけ
ないくらい好きなの﹂
驚く俺を尻目に七海はそう言いながら指輪を取り出して、俺を真っ
すぐに見つめる。
﹁絶対に幸せにするから、今よりもっと努力するから、私と、結婚
を前提に付き合ってください﹂
1657
七海の目はきらきら光っていて、息を飲むほど綺麗だった。
嬉しくて涙が出そうだった。あまりに現実味がなくて、幸せすぎて、
夢みたいだった
﹁返事は?﹂
﹁⋮は、はい﹂
緊張で舌がもつれそうだった。たった二文字だけなのに声が震えた。
彼女となら一生を共にしたいと心から思えた。ちっぽけなことで悩
んでいたと申し訳ないくらいだ。
七海はにやーと唇を吊り上げてふふっと嬉しそうに、悪戯が成功し
た悪ガキみたいに悪そうに笑った。
﹁言ったわね? 左手を出して﹂
言われるまま手を出す。七海は俺の手を取ると、一転して年より幼
い少女みたいにはにかみながらそっと指輪を薬指に嵌めてくれた。
指輪はちょうどサイズもピッタリで、ぴかぴかして綺麗だ。嬉しく
て、でも照れ臭くてそっと指輪ごと自分の手を握って七海を見つめ
る。
﹁ふふ⋮これで今度こそ、あなたは私のものよ。ずっと離さないか
ら、覚悟なさい﹂
熱に浮されたみたいに瞳を光らせながら赤い頬で七海はそう言って
俺にキスをした。
今度は触れるだけのものだったけど、さっきよりずっと照れた。き
っと今耳まで真っ赤になってる。
1658
﹁七海﹂
﹁なに?﹂
﹁その⋮色々ごめん。自分勝手なこと言って傷つけた﹂
﹁いいのよ。私が甘えていたの﹂
﹁酷いこと言ったのに⋮プロポーズなんて⋮凄く嬉しい。ありがと
う﹂
まさか謝るより先に、こんなに優しくて幸せな言葉を言ってもらえ
るとは思わなかった。
口では一生とか結婚とか言っていたけど、こんな風に改めて言われ
たのは初めてだ。こんなプレゼントをもらうのも、初めてだ。
初めてのプレゼントが婚約指輪だなんて、凄く素敵だ。
﹁七海、愛してる。死ぬまで愛してる。だから死ぬまで、俺の傍に
いて﹂
﹁もちろん、喜んで﹂
たまらず七海を抱きしめた。
ぎゅうって力をこめて抱きしめると七海も負けないくらい強く抱き
しめ返してくれた。
暖かくて柔らかくていい匂いがして、喧嘩をしたのはついこの間の
話なのに、懐かしくさえあった。
母さんの言った通りだ。
あれだけ辛いと思ったはずなのに、今は辛いという意味さえわから
ないくらい忘れて、どう辛かったか思いだせない。ただ幸せで、幸
せなことしかわからない。
1659
○
それから俺と七海は手を繋いでベッドに座り、寄り添って沢山のこ
とを話した。
七海はいいと言ってくれたけどそれでも謝った。申し訳なくて謝ら
ずにはいられなかった。
それからもう一度ありがとうと伝えた。
あれから何を考えたか、どう思ったか、七海は何一つ隠さずに教え
てくれた。
だから俺も、母さんと話し合ったことも全部話した。
﹁ねぇ皐月﹂
﹁なに?﹂
﹁あなたが心配したように、私たちはいつか喧嘩して傷つけあった
りするかも知れない。別れたいと思ったり、嫌うことになるかも知
れないわ﹂
﹁⋮⋮それでもいいよ。今が幸せだから﹂
俺は未来を憂いて今の幸せを放棄してしまうところだった。でもそ
れは間違いだ。
難しいことなんて考える必要はない。今が幸せなんだから、それで
いい。思うままに行動すればいい。
泣いても悲しくても、それ以上に大好きなら、それだけでよかった
1660
んだ。
﹁ええ。私もよ。でも私は今だけじゃなくて、未来も幸せでいたい
の。だから、約束してくれないかしら﹂
﹁わかった。約束する﹂
﹁⋮って、まだ内容を言ってないわよ﹂
﹁七海が嫌なことを言うはずないもん。だから聞かなくったって答
えは決まってるよ﹂
﹁もう⋮お馬鹿ね﹂
肩を押し付けあうくらい密着してた七海は、微笑んだままちょっと
だけ頭をさげて俺の頭に頭突きする。こつ、と当たったままで七海
がくすくす笑いだすから息がぶつかってくすぐったくて、俺も笑う。
﹁皐月﹂
しばらく笑ってから七海は顔をあげた。
﹁私のことを嫌いになって、疎ましくなって、離れたいと思っても
私から離れないでね。嫌いなら嫌いと言っていいの。何でも言って
私を傷つけていいのよ。あなたがそうなると言うことは言われる私
以上にあなたが傷ついてるということだから﹂
﹁わかった。思ったことは今以上にはっきり言うよ。﹂
﹁ん。それで、次が大事よ﹂
﹁なに?﹂
﹁私から離れたいと思っても⋮逃げないで。私はあなたの手を離さ
ないから、手を振りほどかないで。例えあなたが私を嫌いでも、私
がきっとまた私に惚れさせて幸せにしてみせるわ。だから嫌いにな
っても傍にいて、チャンスをちょうだい。約束して﹂
﹁⋮うん、約束する。もし七海から逃げたくなっても、逃げない。
1661
もう絶対七海から離れない﹂
泣いていても、苦しくても、七海が信じられなくても、自分も信じ
られなくても、何をしていいかわからなくても、恐くて震えても、
七海を憎く思ったとしても、絶対に七海から離れない。
それはとても大変なことだと思う。
俺は感情的なタイプだし、臆病で傷つくのが嫌いだし、嫌いな相手
とは離れたいと思うだろう。
でも、約束するよ。何があっても離れないって。
ありえないけど、もし七海を嫌いになっても、絶対にまた好きにな
る。七海しか好きになれない。
だから七海しか、俺を幸せにはできない。
﹁七海も俺から離れないでね。俺を惚れさせて、幸せにしてくれる
のは、世界で七海しかいないんだから﹂
﹁ええ。私も約束するわ。私は何度だってあなたを私に惚れさせて、
ずっと幸せにするって。だって私はずっとあなたに惚れたままだか
ら。私を幸せにできるのも、あなただけなのだから﹂
﹁うん。幸せになろうね﹂
﹁ええ、絶対に﹂
七海にキスをして、囁くように、思いをこめて告げる。
﹁愛してるよ﹂
﹁私も愛してるわ﹂
微笑んだ七海に、俺は幸せを噛み締めた。
1662
○
1663
幸せ︵後書き︶
明日の更新を最後にこの物語は完結します。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
1664
母さん、愛してる
一晩たって学園に戻るとあまりに仲良くなったためか三人は呆れた
ようにして、祝ってくれた。
それからしばらくして卒業式の日、卒業生代表は七海、在校生代表
は会長である小枝子が行った。
俺は恥ずかしながら泣きまくってたからあまり役に立たなかった。
沢山泣いて、七海とはどんなに忙しくても毎日挨拶程度でも連絡と
ることと、一時間だけでもいいから週に一度は会うことを約束をし
た。
それが二日前。
完全寮制なので卒業したからと行って即追い出されるわけではない。
考えられないくらい荷物が多い生徒もいるので一週間は猶予がある
のだ。
七海はもう全ての荷物を実家に送り、退寮手続きも済ませている。
その気になれば一週間はいられるのに、とは思うが七海なのだから
仕方ない。
それより問題なのは、何故今、俺が花嫁衣装を着ているかというこ
とだ。
﹁あら、もしかして和装の方がよかった?﹂
﹁いややっぱり定番はウエディングドレスだよね⋮じゃなくてね﹂
七海と婚約をしたと言っても、あくまで口約束だ。親を交えて紙に
認めた婚約者は、弘美の進路によるがまだ数年は弘美のままだ。
七海だって式をあげたり籍を入れるのは社会人になってからと言っ
て、それを認めてくれてる。
1665
なのに何故こうなった。
﹁いいじゃない。写真くらい。大学に入ると今までよりは会えなく
なるのだから記念に取っておきたかったの。黙ってたのはサプライ
ズよ﹂
七海を見送るという名目で学園を出てきたのに、何故か今、俺は写
真スタジオにいる。やたら高そうな衣装がたくさんあってスタジオ
も広いのを貸し切ってある。
指輪もそうだけど、七海は普段質素な癖にこういうのには惜し気も
なくお金を使うよな。
ちなみに今もつけてる婚約指輪は全て七海の貯金かららしいが、そ
れは親からのお金同然なのでそのうち働きだしたら改めてくれるら
しい。
俺は何もあげれてないしプレッシャーすぎて考えたらお腹痛くなり
そうだから考えないことにした。ていうか深く考えたらこんな高い
指輪つけてるのも恐くてできないし。
それはともかく、そんな訳で俺は七海と二人で写真をとることにな
った。しかも結婚式ばりの格好で。
﹁記念はいいけど、なにこの格好﹂
﹁いいじゃない。いずれ来る時に向けての予行練習よ﹂
﹁⋮何で俺がドレスで、七海がタキシードなのさ﹂
突然だったけど写真をとるのは嫌じゃない。普段はあんまり写真を
とらないし、いいと思う。
⋮女役が嫌ってわけじゃないし、七海のタキシード姿似合ってるけ
ど、俺が女役で七海が男役って複雑な気分なんですが。
1666
﹁あら、タキシードが着たいの? 順番よ、後でね﹂
﹁う⋮わかったよ﹂
順番に交代するならまあ、仕方ない。
それに⋮まあ、七海、格好いいし。俺がドレス着るのはちょっと恥
ずかしいけど。うーむ。綺麗で可愛くて格好いいとはこれ如何に。
﹁そろそろいいですか? 撮りますから並んでください﹂
﹁はい。皐月、可愛く笑うのよ﹂
﹁無茶ぶりだよ﹂
﹁大丈夫よ。普通にしてれば可愛いから﹂
﹁⋮⋮ぇへへ﹂
七海の方が可愛いよ、と返すにはカメラマンとかお化粧とかしてく
れる人が近くにいて恥ずかしいから笑っておいた。
何枚か何十枚か撮り衣装チェンジ。
七海がウエディングドレスになった! やったね、超似合う! 素
敵!
﹁似合うよ﹂
﹁あなたも似合うわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
七海がドレスなのはいいけど、何で俺はまたドレスなんですか。白
のフリルもあれだけど、ピンクのリボンリボンとか流石に似合わな
いと思うんですが。
﹁⋮本当に似合ってる?﹂
﹁ええ、愛らしさが5倍は増すわ。普段は活動的な服装が多いから
1667
尚更ね﹂
﹁そ、そう⋮⋮まあ、それじゃ、いいけど﹂
﹁さ、写真、いくわよ﹂
﹁う、うん⋮あの、俺のタキシードは?﹂
﹁え? ああ⋮あなたもタキシード着たいの?﹂
﹁着たいです﹂
﹁ふむ⋮仕方ないわね。後でね﹂
﹁何で渋々なの﹂
﹁だってあなたにはドレスしか用意してないもの﹂
﹁何で!?﹂
﹁似合うから﹂
﹁⋮⋮﹂
もう、何言うかわかんないよ。まあいい。これで一回は俺にもタキ
シードが回ってくるんだし。
﹁さ、まだドレスは10着はあるんだからちゃっちゃと撮影するわ
よ﹂
﹁はーい﹂
○
﹁ふーむ⋮⋮この水色のドレスが一番似合ってるわね﹂
﹁そう? うーん、まあ⋮これならいいか﹂
1668
タキシードが似合ってるほうが個人的には嬉しいんだけど、このド
レスならわりとリボンないしフリル少なめでシンプルだ。多少肩や
背中は出てるけど、布を重ねるようなデザインも中々好きだったし。
﹁それにしても七海ちゃんは本当、ドレスも似合うけど男装も様に
なってるわねぇ﹂
﹁そうだよねぇ。本当の美人ってもはや性別とか関係ないよね﹂
﹁皐月ちゃんってば、とんだ美人殺しね﹂
﹁何故そうなる﹂
﹁だってあのロリ子ちゃんも、将来そうとう美人になるわよ。小枝
子ちゃんも言わずもがなだし﹂
﹁ろっ、ロリ子ちゃん!?﹂
母さんの口からとんでもない単語が飛び出してしまった。これはも
はやからかってるとかそういうのじゃなくて、悪口の域だ。
なんてこった。母さんがこんなことを言うなんて。一体誰の影響だ
!? ⋮⋮とは言え、口が悪いと注意できる立場ではないことはわ
かってる。
くそ⋮原因を見つけたらとっちめてやる。
﹁ん、んんっ。えー、こほん。まぁ美人殺し云々は置いといて﹂
﹁置いといて?﹂
﹁そういう呼び方はどうかと思います。ちゃんと名前を呼びましょ
う﹂
﹁えー﹂
﹁えーじゃありません。どこからロリとか仕入れたのさ﹂
﹁え? 皐月ちゃんから﹂
﹁⋮⋮⋮えーっと⋮細かいことはいいんだよ。罪を憎んで人を憎ま
ず。済んだことは水に流すのが吉﹂
1669
﹁? そうね、人生楽あれば苦ありだもの﹂
﹁何かが違う﹂
撮影されたデータは全部ディスクに入れて貰ったので、春休みに入
って帰省した俺は今、母さんと一緒に鑑賞しているところだ。
﹁あ、皐月ちゃん。これくしゃみしてるー﹂
﹁うわ、そんなのも入ってるの? ミスでしょミス。消却消却⋮あ、
できない﹂
﹁わーい、印刷しちゃお﹂
﹁何で!?﹂
﹁だってぇ、くしゃみの写真って珍しくない? レアよレア、みで
ぃあむ﹂
﹁何故ミディアム﹂
﹁今のはボケたのよ﹂
﹁あ、俺が悪かった。解説はしなくていいから⋮⋮ってマジで印刷
してるっ﹂
﹁あら、私はいつも真面目よ﹂
﹁そーだねっ﹂
﹁そーよっ﹂
﹁別にテンション高く答えなくていいよ﹂
ぶぃーんと音がしてパソコンと繋がってるプリンターが紙を吐き出
す。
﹁どれどれ⋮うん、バッチリね﹂
﹁しかもA4で印刷してる!﹂
とりあえず全部の写真を見てからパソコンの電源を消した。
にしても母さん、パソコンなんて使えたんだ。俺は授業で習ったけ
1670
ど、母さんの時代はなかっただろうし、前の家にもなかったのに。
﹁皐月ちゃんも七海ちゃんもとっても可愛かったわ。本番が楽しみ
ね﹂
﹁いや、ははは⋮﹂
今更だけどちょっと照れる。本番て。本番⋮ううむ。⋮⋮⋮はぅ。
﹁皐月ちゃん?﹂
﹁ん? う、うん。何でもないよ﹂
﹁本当? 七海ちゃんとの結婚生活でも妄想していたんじゃないの
?﹂
﹁ち⋮ち違います﹂
﹁とりあえず、ママが死ぬより先に孫の顔は見せてね﹂
﹁あーー⋮はい、わかりました。孫でもひ孫でも見せてあげるよ。
だから精々長生きしてよね﹂
もう女同士とかは言うのやめておこう。愛しあえば同性でもできる
って本当に信じてたら可哀相だし、親戚でも孤児でも引き取ればい
い話だ。それに俺も家族が増えるのは嬉しいことだし。
﹁もちろん。少なく見ても150歳まで生きるわよ﹂
﹁魔女かっ。いや、長生きしてくれるのは嬉しいけどね﹂
﹁うふふー、皐月ちゃん大好きよ﹂
﹁何、突然⋮え、何? そんな顔して﹂
母さんはやたらといつにも増して柔らかい、まるで子犬でも見るみ
たいな顔をしてる。そんな慈しむみたいな顔されて嬉しいけどなん
かむず痒い。
1671
﹁んーん。ただ、大きくなったなぁって思って﹂
﹁この間もそんなこと言ってなかった? ここ2年はそんなに身長
も伸びてないよ﹂
﹁2年て言うかぁ⋮生まれて腕に抱いたのがついこの間なのに、も
う恋をして将来を考える年だって思ったら、ね。私も年をとるはず
だわ﹂
﹁母さん⋮﹂
まだ29歳だし今から結婚だってできるくらいなのに、とは思った
けど再婚なんてされたくないから黙っておく。
﹁皐月ちゃん、勇人さんの分まで幸せになってね。たくさんたくさ
ん、幸せになってね﹂
﹁⋮うん。大丈夫。俺はちゃんと、幸せになるよ﹂
﹁うん﹂
母さんは嬉しそうににっこりと微笑んだ。その優しい笑顔に、心が
ほっこりした。
この人の子供に生まれて、本当によかった。
﹁母さん、母さんもちゃんと幸せにならなきゃ駄目なんだからね。
それが母さんの幸せだと言うなら⋮⋮再婚も、やむなしだよ﹂
﹁そんな嫌そうな顔して⋮どれだけ私に再婚して欲しくないのよ﹂
﹁うー⋮だって﹂
﹁大丈夫よ、再婚しなくたってお母さんは幸せだから。知らなかっ
たの? 皐月ちゃんのお母さんは、皐月ちゃんが幸せなら幸せなの
よ﹂
﹁⋮うんっ。母さん、その⋮こういうこと改まって言うのはちょっ
と気恥ずかしいけど﹂
﹁ん?﹂
1672
﹁生んでくれてありがとう。愛してるよ﹂
結婚の話が出たからかも知れないけど、何だか急に言いたくなった。
﹁⋮うん。皐月ちゃん、生まれてきてくれてありがとう。愛してる
わ﹂
﹁うん﹂
まるで今日明日にでも結婚するみたいな雰囲気になってしまった。
ちょっと照れる。
﹁さて、何だか湿っぽくなっちゃったわね。そろそろ約束の時間で
しょ。行きなさい﹂
﹁ん? もうそんな時間?﹂
時計を見ると11時過ぎだ。12時から七海と会う約束をしている。
﹁ええ。さ、未来の奥さんを待たせちゃ悪いわ。用意しなさい﹂
﹁うん、じゃあ行ってきます。夕飯までには帰るから﹂
﹁あら、泊まりでもいいのよ?﹂
﹁⋮行ってきます﹂
母さんの部屋を出て自室に行って支度をし、家を出た。
40分ほど電車に揺られ、約束の場所に10分前にたどり着くとす
でに七海の姿はあった。
﹁七海っ﹂
﹁遅いわよ﹂
﹁いやいや。まだ余裕だし﹂
1673
﹁私より遅いじゃない﹂
﹁いつ来たのさ﹂
﹁⋮30分くらい前かしら﹂
﹁早っ。早すぎだって﹂
﹁⋮だって、仕方ないじゃない。早く、会いたかったんだもの﹂
あーもう、この人は。本当に、可愛いんだから。
自覚しててもどうしようもないくらい頬が緩む。
﹁お昼何食べる?﹂
﹁そうね⋮待ってる間に色々考えたのだけど﹂
﹁うん﹂
﹁歩きながら考えましょ。その方が楽しいわ﹂
﹁りょーかい﹂
﹁ん﹂
七海は黙って俺に手を出す。俺はそれを握る。七海はにっこり笑う。
﹁ふふ、わかった?﹂
﹁わかった﹂
というか、手まで出されてわからない訳ないけど。
七海と手を繋いで、笑ってる。
それだけで、幸せだ。
だからきっとこの先も、俺は幸せだ。
﹁じゃ、行きましょう﹂
﹁うん﹂
1674
七海と一歩、踏み出した。
おしまい。
1675
母さん、愛してる︵後書き︶
最後なのでタイトルにかけてみました。
最後まで読んでくれて本当にありがとうございました。
ラストは駆け足気味でしたが一応書きたいことは書けたので満足で
す。最後の喧嘩で一番変わったのは皐月の覚悟で、七海は少し素直
になったくらいです。
本当は弘美や紗里奈の家庭事情も考えていたのですが、挟むのが難
しくなったので断念しました。
新しい小説もいくつか書き始めていますが、とりあえず連載が止ま
ってる別作品の更新をしたいと思います。よければそちらもどうぞ。
最後にもう一度、読んでくれて本当にありがとう!
あと、感想や誤字発見があればお願いします。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6759c/
あい・らぶ・まみぃ!
2013年9月21日23時02分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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