『 登 山 状 』 そ れ 流 浪 三 界 の う ち 、 い づ れ の さ か ひ に お も む き

『登 山 状 』
それ流浪三界のうち、いづれのさかひにおもむきてか釋尊の出世にあは
ざりし。輪廻四生(ししょう)のあひだ、いづれの生を受けてか如来の説
法をきかざりし。華厳開講のむしろにもまじはらず、般若演説の座にも連
ならず、鷲峰(じゅぶ)説法の庭にものぞまず、鶴林涅槃のみぎりにもい
たらず。われ舎衛の三億の家にややどりけん。しらず地獄八熱(はちねつ)
の底にやすみけん。はづべし、はづべし。かなしむべし、かなしむべし。
まさにいま、多生曠劫(こうごう)をへてもうまれがたき人界(にんが
い)にうまれ、無量億劫(おくごう)をおくりても会いがたき佛教にあへ
り。釋尊の在世にあはざる事はかなしみなりといへども、教法流布の世に
あふことを得たるはこれよろこびなり。たとへば、目しゐたるかめの、う
き 木 の あ なに あ へ る が ご と し 。
わが朝に佛法の流布せし事も、欽明天皇、あめのしたをしろしめて十三
年、みづのえさるのとし冬十月一日(いちじつ )、初めて佛法わたり給ひ
し。それよりさきには如来の教法も流布せざりしかば、菩提の覚路いまだ
きかず。ここにわれら、いかなる宿縁にこたへ、いかなる善業によりてか。
佛法流布の時にうまれて、生死解脱のみちをきく事をえたる。
しかるをいまあひがたくしてあう事を得たり。いたづらにあかし、くら
くしてやみなんこそかなしけれ。或いは金谷(きんこく)の花をもてあそ
びて、遅々たる春の日をむなしくくらし、或いは南楼(なんろう)に月を
あざけりて、漫々たる秋の夜をいたづらにあかす。 或いは千里の雲には
せて、山のかせぎをとりて歳ををくり、或いは萬里のなみにうかびて、う
みのいろくずをとりて日をかさね、或いは嚴寒(げんかん)にこほりをし
のぎて世路(せろ)をわたり、或いは炎天にあせをのごひて利養(りよう)
を も と め 、 或い は 妻 子 眷 属 に 纏 わ れ て 、 恩 愛 の き づ な き り が た し 。 或 い は
執敵怨類(しゅうてきおんるい)にあひて、瞋恚(しんに)のほむら、や
むことなし。總じてかくのごとくして、晝夜朝暮(ちゅうやちょうぼ)行
住坐臥、時としてやむ事なし。ただほしきままにあくまで、三途八難(は
ちなん)の業をかさぬ。しかれば、ある文(もん)には、一人一日中(い
ちにんいちにちじゅう)八億四千念(しせんねん)、念々中、所作皆是三
途業(しょさかいぜさんづごう)といへり。かくのごとくして昨日(きの
う)もいたづらにくれぬ、今日もまたむなしくあけぬ。いまいくたびかく
らし、いくたびかあかさんとする。
それあしたにひらくる栄花はゆふべの風にちりやすく、ゆふべにむすぶ
命露(めいろ)はあしたの日にきえやすし。これをしらずしてつねにさか
えんことをおもひ、これをさとらずして久しくあらん事をおもふ。しかる
あひだ、無常の風ひとたびふきて、有為のつゆ、ながくきえぬれば、これ
を曠野(こうや)にすて、これをとほき山におくる。かばねはつひにこけ
のしたにうずもれ、たましひは獨りたびのそらにまよふ。妻子眷属は家に
あれどもともなはず、七珍萬寶(しっちんばんぽう)はくらにみてれども
益もなし。ただ身にしたがふものは後悔の涙也。つひに閻魔の廳(ちょう)
に至りぬれば、罪の浅深(せんじん)をさだめ、業の軽重をかんがへらる。
法王罪人に問うていはく、なんぢ、佛法流布の世にうまれて、なんぞ修行
せずして、いたづらに歸りきたるや、と。その時には、われらいかがこた
えんとする。すみやかに出要(しゅつえう)をもとめて、むなしく三途に
歸ることなかれ。
(勅傳第三十二)
『登山状』
それ流浪三界のうち、いづれのさかひにおもむきてか釈尊の出世にあは
ざりし。輪廻四生(ししょう)のあひだ、いづれの生を受けてか如来の説
法を聞かざりし。華厳開講のむしろにも交わらず、般若演説の座にも連な
らず、鷲峰(じゅぶ)説法の庭にも臨まず、鶴林涅槃のみぎりにも至らず。
われ舎衛の三億の家にややどりけん。しらず地獄八熱(はちねつ)の底に
休みけん。恥ずべし、恥ずべし。悲しむべし、悲しむべし。
まさに今、多生曠劫(こうごう)をへても生まれがたき人界(にんがい)
に生まれ、無量億劫(おくごう)をおくりても会いがたき仏教に会えり。
釈尊の在世に会わざることは悲しみなりといへども、教法流布の世に会う
ことを得たるはこれ喜びなり。例えば、目しゐたる亀の浮き木のあなに会
え る が如 し 。
我が朝に仏法の流布せしことも、欽明天皇、雨の下をしろしめて十三年、
みづのえさるの年冬十月一日(いちじつ)、初めて仏法わたり給ひし。そ
れより先には如来の教法も流布せざりしかば、菩提の覚路いまだきかず。
ここにわれら、いかなる宿縁にこたえ、いかなる善業によりてか。仏法流
布の時に生まれて、生死解脱のみちをきく事をえたる。
しかるを今会いがたくして会うことを得たり。いたづらにあかし、暗く
してやみなんこそ悲しけれ。或いは金谷(きんこく)の花をもて遊びて、
遅々たる春の日を空しく暮らし、或いは南楼(なんろう)に月をあざけり
て、漫々たる秋の夜をいたづらにあかす。或いは千里の雲にはせて、山の
かせぎをとりて歳を送り、或いは萬里の波に浮かびて、海のいろくずを取
りて日を重ね、或いは嚴寒(げんかん)に氷をしのぎて世路(せろ)を渡
り、或いは炎天に汗をのごひて利養(りよう)を求め、或いは妻子眷属に
纏われて、恩愛の絆切りがたし。或いは執敵怨類(しゅうてきおんるい)
に会いて、瞋恚(しんに)のほむら、やむことなし。総じてかくの如くし
て、晝夜朝暮(ちゅうやちょうぼ)行住坐臥、時としてやむことなし。た
だ欲しきままにあくまで、三途八難(はちなん)の業を重ぬ。しかれば、
ある文(もん)には、一人一日中(いちにんいちにちじゅう)八億四千念
(しせんねん )、念々中、所作皆是三途業(しょさかいぜさんづごう)と
いへり。かくの如くして昨日(きのう)もいたづらに暮れぬ、今日もまた
空しくあけぬ。いまいくたびか暮らし、いくたびか明かさんとする。
それ明日に開くる栄花は夕べの風に散りやすく、夕べに結ぶ命露(めい
ろ)は明日の日に消えやすし。これを知らずして常に栄えんことを思い、
これを悟らずして久しくあらん事を思ふ。しかる間(あいだ)、無常の風
ひとたび吹きて、有為の露、長く消えぬれば、これを曠野(こうや)に捨
て、これを遠き山におくる。屍は遂に苔の下にうずもれ、魂は獨り旅の空
に迷ふ。妻子眷属は家にあれども伴わず、七珍萬寶(しっちんばんぽう)
は蔵にみてれども益もなし。ただ身に従うものは後悔の涙なり。ついに閻
魔の廳(ちょう)に至りぬれば、罪の浅深(せんじん)を定め、業の軽重
を考えらる。法王罪人に問うていわく、汝、仏法流布の世に生まれて、な
んぞ修行せずして、いたづらに帰りきたるや、と。その時には、われらい
かが答えんとする。速やかに出要(しゅっよう)を求めて、空しく三途に
帰 る こ と な かれ 。
(勅伝第三十二)