赤 々 と 白 い 雪 が 染 ま っ - Jimdo

三
「お帰りなさいませっ」
玄関で鼻を赤くした夏蓮が出迎える。
が染まって美しい。
「吉さん、無事ではつまらなそうだな。腕の一本もくれてや
「やはり御無事でしたな」
一同が顔を揃えた。
「終わったぞ、菊。多分、今頃は、お前の家督相続は取りや
れば良かったかね」
降り続いた雪は止んでいる。夕暮れの雪道。赤々と白い雪
めとなり弟の名前にするよう下命が出たことだろう。
ははは、
「ははは、その代わり水戸様御家中が幾人あの世に逝ったで
しょうなあ。無事だったのは水戸様の方で」
これが武家の習わしよ。面白いなあ」
この剽悍な師の来し方には何があったのだろう。仏に遭っ
「遠山さんっ」
おそ
ては仏を討ち、神に遭っては神を弑す。それを何の懼れもな
「菊っ」
しい
くしのけてしまう。菊乃介は、この師の後を継ぐ者は、いや
待ちわびた八人が声をかける。
「どうじゃった。師は何をした」
継げる者はいるのだろうかと思った。
帰り道、亨は何も話さなかった。何かを思案するように、
座になって菊乃介を囲んだ。
亨の一言で我に返った九錬者はどやどやと道場に入り、車
「おいおい、ここじゃ寒くていかん。中へ入れ」
こだま
玄関先に賑やかな声が 谺 する。
つぶや
ぶつぶつと独り 呟 きながら歩いた。菊乃介も後ろに従い問
いかけることもせず道場に向かった。
道場には誰一人帰宅する者はなく、揃って師弟の帰りを待
っていた。
299
「あらあら、お帰りになった途端、これですか」
美薗が台所から姿を見せる。
「押しかけさん、酒はありましたか」
酒番田直之の問いに、
「はいはい、ありますとも。田さん、取りにいらっしゃいな」
直之が台所から大徳利と籠に入った茶碗を持ってきた。
あぐら
亨と吉田師範は車座の外に胡坐をかいた。
いっこん
「まず先生から一献どうぞ」
わず吹き出しそうになりました」
一同に大爆笑が起こる。
そして、威風を見た水戸家家老中山信守の様子と水戸家中
うな
の失禁に、今度は唸った。
「菊、ちょっと立て」
それまで笑いながら話を聞いていた亨が思い立ったよう
に菊乃介を促した。
「はいっ」
「お前が独創した雪華だが、構えてみろ」
こうなると技に没頭する亨。
直之の酌で濁り酒が注がれた。
「皆にも注げ」
道場の酔いは一気に醒める。
菊乃介が豊後行平を抜き、青眼から下段へ鋩子を下ろすと
さ
「先生、菊、無事の御帰還、祝着至極に存じまするう」
歌舞伎好きの一番襟山本剛兵衛が芝居がかった口上を述
天真伝兵法風花を揮う。緩やかな弧を描いた刃は左上段から
かざばな
べると一斉に茶碗を上げた。
おっしゃ
「うーん、赫機が足らぬと云ったが、双手突きではなく片手
の び
は刃を上に駿速の突きに変化した。
へんげ
直線に姿を変え振り下ろされる。床上二寸で止められた行平
つ
もろて
「ささ、菊、どうしたのじゃ」
と
催促に負けた菊乃介が事の顛末を話し始める。
こんぱく
「先生が私の魂魄が捕り憑いていると 仰 られた刻には思
300
突きではどうかな」
帰り道の亨の呟きは、雪華を昇華させる方法を考えていた
「うむ、成し遂げたなら天真伝兵法奥義に加えよう」
「おおっ」
九錬者から歓声が上がる。弟子の考案した技を亨が認めれ
ば奥義に加えられる。だが、そう易々と得られるものではな
のである。
「但し、左だけでは鋩子が定まらぬ。明日から左腕に素振り
これまでに認められた技は吉田師範の山水ただ一つだけであ
い。血の滲む鍛錬を重ねても消えていった技は数限りない。
古青江貞次が抜かれる。
る。菊乃介の雪華が果たして奥義になるのかならぬのか、九
をくれてやれ。どうれ、おれがやってみよう」
菊乃介の喉がごくりと鳴った。
錬者の期待は膨らむ。
貞次が敵の喉元に吸い込まれるのを見た。
名もなき技じゃが、お前には負けぬぞ。先生の肝を抜いてや
「よいよい菊よ、おれもな、新しい突きを考えている。まだ
「はい、承知しております。山本さん、御免蒙ります」
二番襟土井虎次がいう。
「菊、突きは山本さんの十八番だ。それを忘れるな」
お は こ
天真伝兵法奥義威風を編み出した亨の左腕の太さは尋常
ではない。
なぞ
風花を倣り振り下ろされた古青江貞次が、くんっと撥ね上
まさ
「どうじゃ、やはり片手突きがいいなあ」
ろうと思っておるからな」
がり左片手突きが見えぬ敵に伸びた。九錬者の眼には正しく
「先生、有り難い御指導にございます。私ももう一工夫要る
「山本さん、これから考えても遅いですよ」
五番襟沓嶋道太郎の言葉に笑いが起きる。
と思っておりましたが、片手突きは非力な私には及ばぬ考え
にございました。明日から鍛え上げます」
301
「莫迦者、何を云うかっ。もう直ぐ出来上がるぞ」
「そう云うところを見ると、まだまだですね」
「はっはっはっ、実はその通りじゃ」
四
この年もいよいよ晦日を迎えた。
からかわれた剛兵衛だが、皆、その実力を知って尊敬して
に身を包み威儀を正した十二人が月明かりの中、麻礼猩助を
上野御徒町から日本橋本石町を目指す一団があった。羽織袴
師走の寒風が雪を舞い上げる。まだ覚めやらぬ大晦日の朝、
いる。一番襟は伊達ではない。剛兵衛は書院番という将軍直
先頭に雪駄を駆った。凡そ半刻足らずで目的の大店の前に着
またより大きな笑いが道場を包んだ。
属の戦闘集団である。その剣技優れる精鋭も、ここ白井道場
四番襟田直之との対戦が待ている。終わる頃には立っている
く一番襟山本剛兵衛、二番襟土井虎次、三番襟遠山菊乃介、
代える白井道場独特の組打ちが一刻続いた。息を継ぐ間もな
た。沓嶋と鈴木、水沢と東が立会いを開始し、次々と相手を
一日目、師範吉田有恒の号令と共に四人の組打ちが始まっ
之助の天真一刀流皆伝の審査が行われたのである。
沓嶋道太郎、六番襟水沢志埜、七番襟鈴木勇実、八番襟東数
この三日間、道場にはいつもと違う緊張があった。五番襟
にあっては気心の知れた同朋たちと一緒に笑うことができる。 いた。
「では飲み直しましょう」
「直之、お前はそればかりだなあ」
遠山菊乃介の一件は何事もなかったかのように終わった。
弟子の苦境を見逃すことのない稀代の剣術家は、また一つ奥
義が加わる予感を楽しんでいた。
台所では美薗が道場から聞こえてくる声に笑みを隠さず、
い
「あの子もここに居られたら良いのに・・・」
母の心からの願いであった。
302
ことも叶わぬ四人であった。
二日目、亨相手に天真一刀流序、律、展、散をもって挑む。
よし
亨から「了」の声がかかるまで続けられた。東は二刻も緊張
よし
したため了の声と同時に気絶した。
三日目、仏間の隠し部屋に仕舞われていた名刀が四振り、
あ わ た ぐ ち らんとう し ろ う
沓嶋の眼の前を白刃の光が縦横に疾り、額から肩頸胸腰腕
まさ
脚を斬り裂いてゆく。正しく斬り裂いてゆく。
(幾度死ぬのだろう)
おさま
そう沓嶋が思った刻、光がすーっと収束った。
血は一滴も流れていない。
「有難うございました」
つ だ す け ひろ
それぞれ
陽の目を見た。沓嶋に津田助広、水沢には粟田口乱籐四郎、
さ が み すけざね
「うむ、十分に死ねたか」
えっちゅうのりしげ
ないか。そんな思いに囚われていた。
とら
の戦力足り得るか、己がいることで兄弟子たちが困るのでは
得できるほど生易しい技ではない。ただ己の未熟がこの戦闘
なまやさ
で学んではいない。寺田宗有が開いた流派である。三年で会
夏蓮だけは九番襟を貰ったものの、まだ天真一刀流を芯ま
正式な弟子となったのである。
こうして四人は天真一刀流免許皆伝を得て天真伝兵法の
最後に四人を立たせた亨は奥義威風を揮った。
「はいっ」
鈴木には 越 中 則重、東には相模助真と夫々の技量剣技に合
った名刀が渡された。
名刀を譲られた以上、命の刃境に立ち向かわなければなら
ない。
亨が古青江貞次を静かに抜く。
「よし、参れ」
道場は空機に満ち溢れている。
「はいっ」
沓嶋が津田助広を青眼にぴたりと構える。
「うむ」
303
「おい、夏蓮。何という顔をしている。何年おれの悲岸を見
てきたのだ。案ずるな。お前が江戸の、否、この国の剣術界
に打って出る日は必ずくる。誰もがそう思っている。ただ、
今はまだなのじゃ。お前の剣が敗れることはない」
亨が高らかに告げた。
五
はっと上げた夏蓮の顔に朝の日が差した。
「着いたな」
出で下さいました。ささ、奥へ参りましょう。主も待ちかね
ておいでです」
一同は三和土から薬種の匂い漂う広い薬庫を通り奥へと
続く廊下に出た。奉公人の姿は見えない。
めまい
幅一間(一 八・メートル)長さ十五間(二十七メートル)ほ
どの長廊下を歩く。亨と吉田、猩助以外は深い眩暈を起こし
た。廊下と天井が平行に造られていない。奥へ進むほど天井
とら
からだ
が低くなっており、見た目より遠い感覚に囚われた。しかも
さん
廊下自体にかすかな傾斜が前後左右にあり 躰 が傾くのであ
者たちでもくらくらする頭を戻すには刻が要った。
い
る。窓の桟は天井とは逆に奥が広がっている。九錬者ほどの
亨が鉄扉を小柄で二度叩く。
「これは何という造作でしょう」
の場になることを 予 め想うてな。われらはこれに慣れぬと
あらかじ
な。九代源右衛門殿がお考えになったそうじゃ。ここが闘争
「わしも初めて来た刻には驚いた。頭がおかしくなったかと
とき
夏蓮が師範に訊ねる。
たず
合図が知れたか通用口がごうっと開く。
十二人は暖かい空気を吸い込み人心地ついた。
かたじけな
「竜衛殿、此度はお招き 忝 い」
亨が貫禄を見せる番頭に謝辞を述べた。
「白井先生、御門弟の方々、夜半にも拘わりませず、ようお
304
いかん」
とも
頭を振り振り灯の燈る奥座敷へ続いた。
二十畳と十畳が開け放たれ、十一の膳と向かい合わせの上
しつら
その武家は上座中央に座した。
「御老中筆頭青山下野守忠裕様にございます」
源右衛門の声が厳かに告げた。
九錬者たちの頭が畳みにつかんばかりに下げられる。
「白井先生、吉田有恒師範、門弟の面々、本日は大儀である」
座に五つの膳が 設 えられていた。
竜衛が亨と師範吉田有恒を上座に案内する。そうして亨が
名家名門は数あれど、徳川が松平と名乗っていた遥か昔よ
おもて
り続く青山家は別格といえた。
襟番の順に廊下側から座るように促した。一番奥には猩助が
座った。
上座の三つと下座一つが空いた。
誰が座るのだろう。
別間の襖が開き十一代長崎屋源右衛門が深々と頭を下げ、
みなぎ
「 面 を上げい」
一同に緊張が 漲 る。
「此度のこと、
そなたらを不条理な戦いに巻き込んでしまい、
口上を述べる。
「本日はようこそ長崎屋にお越し戴きました。私、当代主源
この忠裕申し訳なく思う。したが、この難事に立ち向かい家
とき
右衛門にございます。これから迎える死生の刻を前に、こう
治様御無念を御晴らしし、天下泰平と国土の安寧、民の命を
しせい
して皆様とお会いできることは源右衛門、望外の喜びでござ
という役職にある躬にとってある意味忠義、ある意味不忠の
み
つわもの
います」
護ることのできる 兵 は、そなたちをおいて他にない。老中
立ち上がると後ろに武家が姿を見せた。
戦いとなる」
九錬者はこの初老の殿様が放つ剣気を受け止めていた。そ
亨と吉田は座布団を下り平伏して迎えた。
なら
九錬者は誰かと思いながらも師に倣う。
305
たと
れもそのはずである。鬼に喩えられた稀代の兵法家寺田宗有
こくしんでん
により参上仕りました」
しわ が
若者とばかり思っていた夏蓮は、その皺涸れ声に驚いた。
(老人だったのか)
が東軍流に平常無敵流谷神傳を塗り込んだ小太刀を教え皆
伝を授けた剣士がここにいる。
「これ帆南、遊んでいる場合か莫迦者」
ば か も の
「そして、そなたらにいま一つ詫びねばならぬことは、わが
「これは兄上、丹波七化け麻礼に正体などございますまい」
この遣り取りから猩助と帆南は兄弟であることが分かっ
や
「それが遊びだと申しておるのだ」
と今度は若者らしい張りのある声が発せられた。
た ん ば なな ば
家中より一兵も出せぬことじゃ。その代わりわが青山家の
せきちゅう
脊 柱 を参戦させる。猩助」
「はっ」
猩助が後ろの襖を開けると、そこには忠裕が脊柱と称した
た。だが遊びとなると何を意味するか分からない。
しのびしょうぞく
濃い 深 緑 色 の 忍 装 束 を纏った丹波忍が正座していた。
「皆様、お見苦しい醜態をお見せしてしまいました。末妹の
ふかみどりいろ
「麻礼一族精鋭十一名にございます」
かった。
気づいたのは亨と吉田だけで九人の錬者は誰も分からな
(女か)
「・・・」
うで、殿、誠に申し訳ございません」
帆南にございます。初めての江戸に舞い上がってしまったよ
うつむ
「おおっ」
振り向いた九人が歓声を上げる。
はんな
「帆南、ご挨拶を」
はんな
総髪を束ね乳白色の肌をもつ帆南と呼ばれた若者が 俯 き
かげん
加減に口を開く。
「わが麻礼一族を束ねます帆南と申します。御当主様御下命
306
へんげ
(遊びとはこの変化を云ったのか。この緊張の場面に遊びが
できる。男にもできぬ胆力)
そう感心してしまった九人であった。
丹波忍は変相変化を得意とする。諜報が主たる役目であり
も御紹介したい者たちがおります。竜衛さん、お願いします
よ」
「はい旦那様。おーい、来なさい」
廊下に物音も立てず精悍な男衆が居並んだ。
「 侃 彊 術 三代天真流を会得致しました手代衆十五名揃い
かんきょうじゅつ
跳力走力は抜きん出ていた。しかし、実際の戦闘能力は誰も
ましてございます」
安らぐ。よいよい、帆南は大きくなっても帆南じゃ」
「ははは、幼き頃から帆南は 剽 軽 者 ゆえ、みなの気持ちも
源右衛門が人体の点穴脈流を研究し、より効果的な技を編み
る合気を身につけ、数々の関節技に打撃蹴り技を加え、三代
出され独自の体術を学ぶ仕来りであった。自然の気と合わせ
長崎屋の男衆は十二歳になると天草龍ケ峰の一族部落へ
見た者はなく未知数とされた。だが戦国時代から生き延びて
あかし
きた事実は、相当の戦闘集団であった 証 といえる。
忠裕はこの娘を幼き頃から知っているようだ。
出した。これを三代流と呼ぶ。その三代流に寺田宗有が武士
ひょうきんもの
恐縮する猩助。にこにこ笑う帆南。よく見れば確かに身体
ひとえ
との戦いに備え自ら天真一刀流を応用した技を教えた。これ
にょしょう
に際し天真伝兵法が不殺の禁を破ることを決めたように当代
という初代の教えは脈々と受け継がれてきたが、この戦闘
「薬種問屋が人を殺めてはならぬ」
を三代天真流と名づけた。
つき物腰は 女 性 のものと知れる。切れ長一重の瞳は黒く青
い光を放って美しい。
帆南の「遊び」は殺伐とする奥座敷に一服の春風のようで
あった。
「さてさて麻礼家の方々の御紹介も終わりましたな。私から
307
源右衛門も、その禁を破ることを伝えた。手加減などできる
相手ではない。生死を賭けなければならないのだ。そのため
か手代衆には緊張を隠せない者が多数いた。
じんいちろう
「壬一郎様、御挨拶を」
竜衛に促された一人が平伏し口上を述べる。
「私、十二代源右衛門を継ぎます壬一郎にございます。曽祖
たつと
ごすけ
父九代源右衛門が遺せし秘事を護るため侃彊術三代天真流を
とらまる
学んでまいりました。差配は一番寅丸、二番辰人、三番午介
こうべ
その苦難に自ずと 頭 を垂れた。
六
「うむ。もう一方、御紹介致そうかな」
忠裕が次の間に声をかけた。
「どうぞ、お入り下され」
襖が開き白井一門にも見知った顔が現れた。
「おおっ、多聞様」
三年ぶりに見る多聞に九錬者が声を高めた。
が相務めます。わが侃彊術が剣に通じた御侍方に通用するか
まだ分かりません。ですがこの長崎屋の総力を挙げて皆様の
多聞は口元に笑みを浮かべ会釈すると、
「殿」
かずさの すけ なりまさ
お役に立ちたいと思います。どうかお仲間にお加え下さい」
「おおっ」
と一言、後に向かって投げた。
かんせい
若き次期総帥が面を見せると、小さく喊声があがった。
その顔を見てさすがの亨も驚いた。
であった。
現れたのは備前岡山藩第六代藩主池田上総守齋政その人
長崎屋は四代五十年に亘って徳川家最大の秘事を護って
来たのである。手代衆も代を重ねて来たのであった。この永
き日々を思うと容易ならざる尋常ならざる歳月である。
一同、
308
なら
亨が平伏し、夏蓮も倣った。
たのじゃ。それを最期まで見たい見たいと申しておった」
一心斎は九年前の文政二年(一八一九)
、五十九歳の生涯
を閉じていた。松平定信が行なった寛政の改革を
「白井先生、無沙汰であった。そなたが夏蓮じゃな、会えて
嬉しいぞ」
「質素倹約など民が暗くなるような策など何になる」
「殿、初めて御意を得ます竹内夏蓮、改め弓月夏蓮にござい
しまいました。一心斎様に叱られますな」
「何の。先生から戴いた弔辞の文はわしの手文庫に仕舞われ
んでした。
御葬儀参列が叶いませず誠に申し訳なく存じます」
「一心斎様の御厚情、この白井亨、忘るることはございませ
な父親であった。
と一蹴し、豪奢な大名行列を組んで齋政に参勤させた剛毅
ごうしゃ
「齋政様、私こそ永のご無沙汰申し訳なく存じます。一昨年
かよう
の参勤交代の折に御目にかかって以来でございます。斯様な
いささ
ます。私の不始末に御厚情を賜り御礼申し上げまする。多聞
ておる。天真伝兵法という日の本一の流派を立てた白井先生
席でまさか御目にかかれるとは思いもよらず、 些 か慌てて
様、お久しゅう存じます」
の若かりし頃を知っていることが、わしの自慢じゃ。此度の
よし
源右衛門に促され忠裕の隣に座った齋政。多聞は吉田に座
「ささ御殿様、お席にお着き下さい」
飯坂多聞が頷いた。
では屁の役にも立たぬ。そこで多聞を連れてきた」
不条理を聞くに及び、わしの血が騒いでな。かと云ってわし
「うむ、了」
齋政と亨が合わせる視線の先には、遠い岡山時代が浮かん
でいた。二十余年の歳月が一気に凝縮され、まるで昨日のこ
よみがえ
とのように思い出が 甦 る。
「方々、わが父一心斎も白井先生をわが子のように慈しみま
してな。先生が江戸帰参の際、披露してくれた技に名を付け
309
を譲られ亨と列した。
なりてる
で他界。齋輝の長子本之丞も五歳で身罷る。ならばと甥の齋
なり
「源右衛門殿もお人が悪い。齋政様がお出でになると一言お
成を養子に迎えたのだが、これも当主になる前、十八で他界
ほんのじょう
に見舞われていた。七代を継ぐはずだった嫡男齋輝が二十三
伝え戴ければ」
していた。
これを知った将軍家齋は己の子女を養子として岡山藩に
しげ
「はい、そうも思いましたが、何事にも動じることのない神
たま
入れようとした。それを齋政は拒んだ。外様の大藩の意地で
技を揮う白井先生でございます。偶には人にお戻りになるの
も一興かと」
もあった。池田家反骨の血は脈々と受け継がれていたのであ
おそ
「いや 畏 れ入りました。して齋政様、比度の江戸参府は
る。文政十年に薩摩藩第十代藩主島津斎興の次男久寧を養嗣
ひさやす
如何様なことでございますか」
子に迎え池田為政を名乗らせた。文政十二年、第九代藩主に
し ま づ なりおき
「白井先生、わしも引退じゃ。後継を連れて上様に御目通り
就き齋政の一字を受け齋敏と称することになる。亨も多聞と
い か よ う
を願ってな」
の文のやりとりで凡その様子を承知していたが新たな養嗣子
ためまさ
「左様でございましたか。齋政様の御苦衷を察しもせず汗顔
のことは知らなかった。
席が総て埋まった。
なりとし
の至りにございます」
「いやいや、
白井先生。
人生は多くの山と谷で出来ておって、
青山忠裕が口を開く。
総勢三十九名か。生きて名誉なく、死にゆきて路傍となる覚
ろぼう
「精鋭たちよ、よう集うてくれた。忠裕、心から嬉しく思う。
つど
その谷に出会っただけのことよ。門弟の前で謝ってばかりで
は面目を失する。もうこの話はなしじゃ。はっはっは」
豪快に笑った齋政であったが、実はこの刻、岡山藩は不幸
310
つわもの
てんが
悟が三十九名。これほどの 兵 を擁する武家は天下におるま
誠に有り難い事でございます。ここに居りますわが娘は御老
中青山様養女となり間宮壱蔵様に嫁ぎました美薗と一子
つまび
い。上総守殿には此度のこと 詳 らかにお伝えした。幕閣に
一征めにございます。できますれば、この一征もお仲間にお
かずまさ
おいて胡乱な噂が飛び交っておるが、どれも噂の域を出ず雀
加え戴きとう存じます」
間宮壱蔵の忘れ形見一征は満十五歳を迎えていた。壱蔵と
うろん
の如きじゃ。尾張様はすでに疑いが晴れ、向後、秘事には関
わらぬ約定をなされた。だが上様を始め、田安様と水戸様は
美薗の血を色濃く継いだ美男はしかし、その前髪とは異なる
かずまさ
諦めてはおらぬ。もうひと方は松平左近衛権少将様。われら
強固な意志と剣気を醸し出していた。
(厚い修行を重ねたようじゃ)
その気にも臆せず少年は静かに端座している。
山本剛兵衛が気を発した。
そんな空気が流れた。
(この剣気は尋常ならざる少年)
九錬者もそれを看破した。
も心して備えねばならない刻を迎えた」
きょうく
この死を恐れぬ勇者たちに武家社会が驚懼するのは、これ
より少し後である。
「はい御免を蒙りますよ」
そう云って奥座敷に顔を見せた老人が一人。
「おお親父殿」
隠居して唐秋と名乗る十代源右衛門であった。
いつもの伝法な様子とはうって変わった美薗は慈しみ溢
剛兵衛が気を納めた。
「私、先代源右衛門にございまする。御老中様お久しゅうご
れた顔で一征を見つめ座敷端から忠裕に優しい笑みを向けた。
その後ろに美薗と美しい少年が続いた。
ざいます。御一統様におかれましては、かように御参集戴き
311
え ど づま
黒地に竜胆を配した江戸褄には青山家家紋銭紋が染め抜か
れていた。
下座に一征が座し、総ての座が埋まった。
312